第三章 聖魔の鼓動


  二、闇に翻る黒


 街並みの、家が途切れた辺りに、何人もの見張りが並んでいた。地元の警備兵らしき姿もあるが、ほとんどは、フィアリニアの紋章をつけた神官兵である。
 人の壁の前まで進み出ると、ザンベルは見上げた。
「これが、結界……なのか?」
 彼が目をやる方向には、単なる空が、草原が、遠くの山並みが広がっている。
 何もない。彼とナシェルには、そう見えた。
「疑うなら、魔法で放り込んであげようか?」
「いや、オレは慎み深いからな。先鋒は、シリスかナシェルに譲ってやるよ」
「いらないよ、それは」
 ロイエの意地悪なことばへの返事で、ザンベルが周囲を巻き込むのを、シリスが、何か言いかけた少年騎士を制して受け流した。
 魔法を使う三人には、巨大な魔力の網が建ちあがっているのが感じ取れた。
 一通り観察し、フィアリニア軍の顔ぶれも見渡して、ロイエは、溜め息を洩らす。
「ここに居ても仕方がないね。結界を壊す方法を、フィアリニアの連中も探そうとしてるんだろう」
「フィアリニアの研究者も知らない、破壊方法があれば、試してみたいところだけど」
 リンファが、チラリとシリスを見た。
 吟遊詩人は、少し考えた後、首を振る。
「ただ破壊するんじゃなくて、町にできるだけ影響を与えないように破壊しないと……破壊力が上がれば、周囲を巻き込む可能性も高くなるしね」
「なかの街や村にも、悪影響を与えないように頼みますよ~」
 さすがに故郷のことは気になるのか、ナシェルも付け加える。
 安全に、結界を破壊する方法。それには、やはり地道な調査が必要かも知れない。
「フィアリニアの学者さんに任せたらどうだ? でもまあ、それだと退屈になるな。いっそ、強行突破をためすか?」
「やっぱり、放り込まれたいの?」
「そうしたら、どうなるんだ?」
 ザンベルの問いに、ロイエはあきれたように肩をすくめる。
「黒焦げになって終わりに決まってるじゃない。そんなこともわからないで言ってたの? ほんっと、頭の中まで筋肉なんだね」
「なにをっ!」
 つかみかかろうとする大きな手の追求をするりとかわし、少年魔術師は、町の中へ足を向ける。
「早くしないと、源竜魂を使われてしまうよ。ぼくは、フィアリニアの頭でっかちな学者たちに少しは速い仕事をしてもらうように言いに行くよ」
 彼の目的は、あくまで師匠からの使命の遂行である。同行者がどうあれ、常に使命のためにできることをやるというのが、行動方針なのだ。
 シリスたちとしても、ここにじっとしているわけにもいかない。ザンベルは文句を言いながらだが、少年の後に続く。
「結界がなければ、瞬間移動の魔法である程度移動できるんだけど……今は、歩くしかないね」
 ロイエが、ついてくる一行を振り返った、そのときだった。
 何か、黒い気配が、建物同士の隙間に生まれる。ザンベルとナシェルは剣の柄に手をかけ、シリスとリンファも、気配の方向に鋭い視線を投げかける。
 ただ一人、ロイエだけは、小さく肩をすくめただけだった。
「そんなところにいたの、リーン。ヒマな人だね」
 リーン。そう呼ばれた者が、音もなく歩み出る。
 艶やかな黒髪に、黒目。さらに、まとった服も、上から下まで黒だった。暗殺者と呼ばれる人種の服装を思わせる若い女が、不敵な笑みを浮かべていた。
「見つけるの、苦労したんだよ。しばらく、わたしも知らないような場所に行っていたようだけど、無事に戻ってきたんだね、なによりだ」
「あんまり嬉しくもなさそうだけどね」
 胡散臭そうに言って、ロイエは適当に、まだ警戒を解くべきか迷っているシリスたちとリーンを、お互いに適当に紹介する。
「こっちは、古代神ヌーサの手下、リーン。あんまり近づかないほうが安全のためだよ」
 ヌーサは、メヌエやアートゥレーサの姉であり、ユリアの妹の一人だ。アートゥレーサにとってのロイエの立場が、ヌーサにとってのリーンなのだろう。
「で? なにしに来たの?」
 冷たいことばに、リーンは苦笑する。
「冷たいなあ。せっかく、迎えに来てあげたのに。フィアリニアに行くんだろう? 司祭長専用の魔法強化馬車が門の前で待ってるよ。トロイゼンじゃ、アートゥレーサさまもお待ちだ」
 司祭長専用馬車と聞いて、シリスたちは驚くが、ロイエは何も言わず、街の外目ざして歩き出す。
 その背中を追いかけようとして、シリスは、リーンが腕を組み、見送る体勢でいることに気づく。
「リーン、あなたは来ないのかい?」
 女は、小さく笑った。
「わたしは、もう少しエーリャ公国についての調査を進めてから追いかけるよ。なに、すぐに追いつくさ」
「それじゃあ、気をつけて」
 律儀に言って、先を行く同行者たちのもとへ早足で去って行く吟遊詩人を、黒衣の女は、苦笑と、何かを見極めようとするかのような目で見送った。

 ふたつの、物騒な人影が、暗闇の中を流れるように動いていた。
 空には、星ひとつない。もともと暗い空間だが、それが今、世界じゅうから生き物が息絶えたかのように静まり返り、冷たい闇が辺りを支配していた。
 不意に、空気がわずかに揺らぐ。
「チッ……なんでオレがこんなことを。人さらいなんてよ」
 面白くなさそうに言いながら、男は獣のように狂おしい光をたたえ爛々と輝く目を、墓場に向けた。
 その彼の後ろを、大柄な男が滑るように歩く。
「油断するな、ベルオブ。どこに危険が潜んでいるかわからんのだぞ」
「わかってるよ。ったく、ゴキスのおっさんは堅いな」
 背中を丸め、やはり獲物を狙う獣のような動きで、男はまったく手入れされていない墓の間を、ためらいなく歩く。
 墓の間の闇の中で、ふたつの目が輝いたことに、彼らは気づかなかった。その目は、彼らが墓に侵入してくる前から、そこで二人の男を見つめていたのだ。
 その目の持ち主は、そろそろ、退屈してきたらしかった。
「ここに何の用だい?」
 突然の、不意をつく声に、ベルオブとゴキスは立ちすくんだ。
 無理もない話だった。彼らには、相手の気配を感じ取ることがまったくできなかったのだ。今でさえも。
 しかし、動きを止めたのは一瞬である。すぐに、男たちの手に、それぞれの得物が握られる。
「誰だ? 普通の人間とは思えんな」
 ゴキスの問いには答えず、黒尽くめが墓の陰から進み出る。半ば闇に溶け込むような姿に、白い肌が目立った。顔には笑みすら浮かべ、近づいてくるにつれて、ゴキスは、言い知れない不安がこみ上げてくるのを感じた。
 この相手は、敵にしてはいけない、と。
 だが、一方のベルオブは、警戒を解く。
「へっ、いい女じゃねえか。おっさん、ちょっとは役得、ってヤツを得られそうだぜ」
「ベルオブ……ここはわたしに任せろ」
「へえ、おっさんの好みなのか?」
 ゴン、と、ベルオブの頭に拳が落ちた。
「馬鹿言え! 甘く見るな、ただ者ではないぞ。お前は我々の戦いを見て、勝てぬようなら逃げろ」
 真剣なゴキスに対して、ベルオブは後頭部をさすりながら、あり得ない、という風に笑う。しかし、一応ことばには従うつもりなのか、少し離れた所に身を引いた。
 ゴキスは、大きなメイスを握り、相手を見やった。
 女は、動かない。武器を持っているようにも見えない。
「〈ブラッディバンド〉!」
 ゴキスが動く。赤い三本の光線が相手に直進すると同時に、その横を走る。
 だが、光線がつらぬき、メイスが叩きつけられる空間に、相手の姿はない。
 メイスを振るう直前まで、確かに、相手は目の前にいたはずだ。それが、一瞬にして、背後に回っていた。そばで見ていたベルオブにも、何が起きたかわからない。
「どうなって……!?」
 言いながらも、反射的にメイスを後ろに振るう。だが、再びそれは空を切る。
「滑稽だね、諸君」
 楽しげな、女の声。
 いくら捜しても、姿にも気配にも辿り着けない。
「ベルオブ、行け!」
「おおっ……
 状況が異状なのは、ベルオブにもわかっていた。ゴキスの有無を言わさぬ気迫に押され、急いで夜空に飛び立つ。
 それを見上げる男は、背中が凍りつくのを感じた。
「つまらない。もう、死になよ」
 急速に興味を失ったその声が、彼に死を宣告した。

 目を覚ましたシリスは、何か温かくて柔らかいものに包まれているように感じて、周囲に視線をはしらせた。そして、すぐに自分がリンファに抱え起こされていることに気づく。
「大丈夫? うなされてたわよ」
「ああ……
 ようやく息苦しいのにも気づき、呼吸を整えるのに集中する。
 大きな馬車のなかで毛布に包まれた姿からして、他に目を覚ました者はないらしい。チラリと見える外は、朝方のようだった。魔法の込められた絹をかけられ、脚力も体力も強化された二頭のユニコーンに引かれた馬車は、二晩で、一行を北西の王国の首都の近くに運んでいた。
「最近、余り眠れてないように見えるの。トロイゼンに着いたら、しっかり休んだほうがいいわ」
「大丈夫だよ。毎日、夢を見るわけじゃないし……
 二人がことばを交わす間に、眠っている者たちが、密かに目を覚ます。
「それより、起こしたみたいで、すまないね」
「そんなことは……
「よお、おはようさん」
 と、ザンベルが起き上がるなり、頭を掻いて、明後日の方向を見る。
「あー、ここが馬車じゃなけりゃ、お邪魔虫はどっか行けるんだがな」
 シリスは、リンファに抱き寄せられたままだった。はたから見れば、抱き合う二人にも見えなくもない。
「え……あ、ちょっと、ザンベルこれは……っ!」
「相手がリンファなら、別に慌てることもないだろ」
「そうだけど……って、えぇっ! あああ……
 シリスがひたすら一人で困っていると、ザンベルのとなりで寝ていたロイエが、身体をごろりと後ろに向け、
「ザンベル、野暮なこと言うんじゃないよ。ほら、後ろ向いてるから、続きしていいよ」
「お前起きてたのか。それにしても、最近のガキは……
「つ、続きって……
 彼らの会話をよそに、ナシェルだけは延々と、幸せそうな寝言をつぶやきながら、トロイゼン到着まで眠り続けていた。