しばらくして月彦がだいぶ落ち着きを取り戻した頃、春菜はお茶でも如何ですかと提案してきた。水分の悉くを冷や汗で使い切ってしまったのか、喉が焼けるように渇いていた月彦には嬉しい申し出だった。
月彦が肯定の意を示すと、春菜は先導するように静かに屋敷に向かって歩き出した。一拍遅れて、月彦もその後に続く。
途中までは春菜の足下にはぞろぞろと大量の猫がついてまわっていたが、屋敷にある程度近づくとまるで何かを恐れるように皆が皆、春菜の周りから離れてしまった。様々な模様の猫たちが一様に、見えない壁に阻まれるようにずらりと並んだまま、物欲しそうな顔をして春菜と月彦を見送る様は異様の一言だった。
屋敷に戻るなり、月彦は縁側で待たされることになった。どうやらそこが“お茶”の場所らしかった。確かに縁側に腰掛けての庭の眺めは良かった。良かったからこそ、月彦も散歩前はここでこうしてぼんやりとしていたのだ。
程なく春菜は盆を手に戻ってきた。盆の上には急須と湯飲みが二つ、そして皿に盛られた草団子がのっていた。草団子はどれも深緑色で、3つずつ串に刺さっていた。月彦はそれを見て昔に流行った歌を思い出した。
「人間の方のお口に合えばいいのですけど」
と、春菜はやや困ったように微笑みながら、そっと湯飲みを月彦の方に差し出した。月彦はさも神妙な手つきで湯飲みを受け取るや、すぐに口を付けていた。とにかく口の中がカラカラに渇いていて、呼吸をするだけで喉に焼け付くような痛みが走るのだ。
正直、茶の味など全く分からなかった、が、ぬるめのそれは容易に飲み干せ、口腔に潤いを取り戻すには十分だった。
「ふぅ……」
安堵の息を漏らし、肩を落として脱力する。と、それを確認したように、春菜がふふと笑みを漏らす。
「お代わり、いかがですか?」
そっと、急須を差し出され、月彦はどうも、とようやく言葉を口にしながら茶を受けた。
急須から注がれる茶は湯気が立つほど熱い、先ほどの茶はやはり意図的にぬるくいれられたものだったのだろう。
月彦は茶の注がれた湯飲みを両手で持ち、まるでその手触りを楽しむように、膝の上でさすりながら回した。すぐには口を付けられぬ程熱かったのだ。
春菜は月彦と盆を挟んで縁側に腰掛けたまま、庭の方を眺めるように目を細めていた。その横顔は些か儚げではあるものの、慈愛の笑みに満ちていた。威厳や迫力といったものはかけらもない、それこそ菩薩のような横顔だった。
小娘、というわけではない。得体の知れぬ貫禄があり、人でいう20代後半から30代くらいの、“奥さん”や“女将さん”という表現が似合う女性だ。髪は短くまとめ、その上には桔梗と同じ、そして真狐や真央とはやや形の違う猫耳があり、左目の下には泣き黒子があった。
そのように春菜を観察すれば観察するほど、月彦は首を捻りたくなった。彼女のどこにも、彼が先ほど感じたようなプレッシャーを与えるような要因が見あたらないのだ。こうして対峙している限りでは、人の良い若奥さん、という印象しか受けない。一体、さっきのアレは何だったのだろう―――。
―――カコォーン。
鹿威しの音が響き渡る。それが合図だったかのように、春菜が口を開いた。
「……なにぶん急なことでしたから、驚かれたでしょう?」
春菜は湯飲みを膝の上でさわりながら、ゆったりとした口調で話を始めた。月彦は一瞬、先ほどの庭での遭遇のことかと思ったが、すぐに違うと頭の中で否定した。
「はあ……ちょっと、というか……かなり、ですけど」
当たり障りのない言葉を呟きながら、ふと思い出したように懐の方に視線を落とした。懐の真央が、さも訝しそうに、片目だけで春菜をジッと睨んでいた。
ほんと、朝から驚きっぱなしだ―――ふうと小さくため息をつきながら、湯飲みに少し口を付け、そして湯飲みを手の中でクルクルと回した。それは丁度月彦の心中と同じ動きだった。多くの疑問はある、が、それらが腹の底でグルグルと回るだけで決して口から出ていこうとしないのだ。
無意識の萎縮―――そのようなものなのだろうか、月彦には分からない。
「だいたいのことは、桔梗から聞いていると思いますけど」
春菜は一旦言葉を止めて、草団子の串を手に取るとそっと月彦に差し出した。どうもと言って月彦は串を手に取り、団子を一つ口に含んだ。如何にも苦そうな外見とは裏腹に、噛んだ瞬間口の中いっぱいに芳醇な香りと甘味が広がり、瞬く間に三つとも食べ終えてしまった。食い足りない……とばかりに、月彦は次の串に手を伸ばす。
「ここに居れば、ツクヨミも手出しはできませんから、安心してくつろいでくださいな」
「……ツクヨミ?」
その単語に、ぴたりと月彦は制止した。頬は団子の頬張りすぎでリスのように膨れている。月彦の食べっぷりに真央も食指を動かされたのか、先ほどから顔だけを懐から覗かせて、ふんふんとしきりに鼻を鳴らしていた。
「ええ、桔梗から聞いてませんか?」
春菜はさも意外そうに首を傾げて、団子の串を一つ手に取るとそっと真央の方へと伸ばした。―――が、真央は露骨にぷいとそっぽを向いて顔を引っ込めてしまった。
「“貴様は人質だ”…………ということは聞きましたけど」
月彦は少しだけ強ばった口調で答えた。桔梗に言われた言葉をそのまま、口調までまねたように。
「あら……」
春菜は俄に微笑みを曇らせて、少し思案を巡らせるように唇を触った。
「あの娘ったら、またそんな嘘を」
「……違うんですか?」
訪ねながら、月彦は草団子の一つだけを手にとって、真央の方に持っていった。今度は一も二もなく飛びついて、器用に前足で掴んでむしゃむしゃと食べ始めた。
「違うも何も……」
春菜は困ったような笑みを浮かべて、そっと湯飲みに唇を当てた。飲むためというよりは唇を濡らすため、気を落ち着けるためといった仕草だった。
「私はただ、古い知人からしばらく月彦さんたちを匿うように頼まれただけなんですよ? 人質なんて、でたらめも良いところです」
「古い友人……ですか?」
「ええ。妖狐の……今はなんと名乗っていたかしら。確か……ま、……ま……」
春菜は湯飲みを触りながら、うーんと考えるような素振りをした。
「ひょっとして……真狐……ですか?」
焦れて、月彦は咄嗟に心当たりがある名前を口にした。途端、春菜が肯定するように微笑を浮かべた。
「彼女から、月彦さんと、娘の―――真央ちゃんだったかしら。二人をしばらくツクヨミの手から匿って欲しいと。それで月彦さん達を私の屋敷にお招きしたんですよ」
「ツクヨミから匿うって……一体どういう……」
月彦の言葉を遮るように、カコォーン、と鹿威しが鳴り響く。一息ついて、春菜が口を開いた。
「月彦さんは、彼女に追っ手がかかっているのはご存じですか?」
「……いや、初耳ですけど、想像はできます」
月彦が知っているだけでも、脱獄に妖狐の里の一つを壊滅させるということをやっているのだ。妖狐の中にも規律というものが存在するのならば、追っ手の一つや二つかかっていてもおかしくはない。
「それで……追っ手を何度か退けられて、業を煮やしたツクヨミの一味が次にとった手というのが、彼女の“弱み”を掴むことだったんです」
「弱み……ですか」
「はい。……彼女の子供達の中で一番若くて弱々しい―――」
す……と春菜は視線を泳がせて、月彦の懐を見た。
「貴方と彼女の娘に、呪いをかけたんです」
「呪い……」
月彦はオウム返しにその言葉を呟いた。『呪い』―――如何にも迷信的な言葉だが、呪いをかけたのが妖狐連中となれば、迷信の一言で片づけられるわけもない。
そんな月彦の不安をぬぐい去るように、そっと春菜が笑みを浮かべた。
「そんなに深刻に考えないでくださいな。真央ちゃんをこんな姿に変えたのが何かの術なのか薬なのか、それが分からないから……“呪い”という言葉をつかっただけですから」
「……てことは、それさえ分かれば―――」
「はい。術であれば解呪を、薬であれば解毒すれば真央ちゃんは元に戻れますよ」
月彦の疑問は春菜との茶会によって殆ど氷塊したといってよかった。春菜は月彦の質問に逐一丁寧に答え、そのどれもが嘘偽りのない正論のように聞こえた。
春菜の話を整理するとこうなる。まず事の発端は真狐がやらかした脱獄や里の壊滅等々の罪状、そのことで彼女に差し向けられた追っ手、だがその悉くが退けられたという。そんなに強そうには見えないが……と月彦は首を傾げたが、どうやら事実らしい。
そしてツクヨミ一味が次にとった手というのが、真狐の弱み―――だと、連中は思ったようだ―――である真央を攫うという手段だった。だがこれは連れ去る段階で失敗に終わったらしい。
だがその際、何らかの術か、薬で真央は今のような姿に変えられてしまい、今後の事を考えた真狐は古い知己である春菜の所に月彦と真央を預けたのだという。
言われてみれば……と月彦が思い出したのは、昨夜の漠然とした記憶だった。真央と二人で寝ていて、夜中に誰かが部屋に忍び入ってきて、後頭部に一撃を食らって伸びたような“気がする”という程度の、だ。今思うとそれは夢でも気のせいでもなく、ツクヨミの手の者が忍び入ってきた時のことだったのだ。
「ツクヨミは極力人間に関わらないのを一族の不文律としていますから、きっと目的は真央ちゃんだけだったんでしょうね」
ひょっとしたら誘拐というのもただのフェイクでしかなく、本来の目的は真央をこのような姿に変えることで、真狐にプレッシャーを与えるということだったのかもしれない、と春菜は付け加えた。
「……彼女、ああ見えて割と娘想いなんですよ」
春菜は湯飲みを唇にあてながら、ふふふと……まるで何かを思い出すように笑みを零した。その笑みの中に、一瞬だけ妖しさのようなものが光る―――が、それは月彦が不審に感じる前にすぐに消えた。
「……真狐のこと、詳しいんですか?」
これは単純な好奇心からの質問だった。考えてみれば、真狐に関することは真央の母親であるということ、アレがかなり好きであることくらいしか知らないのだ。
「……さぁ……どうでしょうか。つき合いは長いのですけど」
春菜はそこで言葉を切って、苦笑するように口元を緩ませた。
「二、三度命のやり取りをしたことがあるくらいで、そんなに親しい仲というわけではないんですよ」
「え……?」
聞き捨てならない言葉を聞いた気がして、月彦は咄嗟に尋ね返した。一方春菜は月彦のリアクションを楽しむように、またふふふと笑みを漏らす。
「……冗談です。本気になさらないでくださいな」
「ぁ……冗談、だったんですか」
ははは、と空笑いをしながら、急かされるように月彦は湯飲みに唇をつけていた。いつの間にか、また口の中がカラカラに渇いていたのだ。そしてそれとは逆に、全身からは冷や汗が噴き出していた。
この人は―――……と、月彦は頭の中に浮かんだ言葉を打ち消した。『この人は……』の後に続く言葉が思いつかない……否、言葉を続かせることを本能が恐怖しているようだった。
月彦が黙り込んでしまった為、場には静寂が訪れた。カコォーン、という鹿威しの音がだけが鳴り響く。
それが十数度繰り返された後、突然ザッ……と砂を擦り合わせたような音がした。
咄嗟に月彦は音がした方を見た―――朝起きて、一番に見た顔がそこにあった。
「春菜様、……いつお帰りに…………」
桔梗は肩を激しく上下させながら、息も絶え絶えに、春菜を見つめていた。月彦に向けたそれとは明らかに違う、尊敬と畏怖のスパイスがたっぷりと利いた言葉だった。
「……貴方こそ、お客様を放って何処で何をしていたのかしら」
湯飲みを置き、すっと衣擦れの音を立てて、春菜が腰を上げる。そういう一つ一つの動作が妙に様になっていて、貫禄がある―――と月彦は思った。
「さ、菜園の方に……行って、ました……」
桔梗は春菜が立ち上がった瞬間、ビクッ!と身震いをして、上ずった声を上げる。それはまるで、サボタージュの現場を上官に見られた、一般兵のような対応だった。
「何か、問題でも?」
す……と春菜の右手が、桔梗の左頬に添えられた。我が子を慈しむようなその仕草とは裏腹に、桔梗の方は両耳を伏せ、ガタガタと全身を震わせて、視線は春菜を避けるように右斜め下に釘付けになっていた。見るとその背後にちらりと見えている尻尾もぴんと直立し、毛が逆立ったままぶるぶると震えていた。
「ら、来期の……区画分けのことで……な、棗様と……か、会議、を……」
「……そうだったの、それじゃあ仕方ないわね」
ぎゅっと着物の布地を握りしめたまま、震えた声で桔梗が言う。その理由に納得したのか、春菜は先ほどまでの問いつめるような口調とは違う、咎人の懺悔を聞き終えた時の神父のような慈愛に満ちた声をかけながら、優しく桔梗に微笑みかけた。
「はるな、……さま」
緊張の糸が緩んだのか、強ばりッぱなしだった桔梗の顔に僅かな笑みが戻った。
次の瞬間、月彦は雷鳴を聞いた。いや、正確にはそれは雷鳴ではなく、“雷鳴のような音”だった。
「―――ッ……ぐ……ぅ…………!」
次の瞬間には桔梗の両足は地面から離れ、まるで交通事故にでも遭ったかのように、吹っ飛び、美しい模様を描いていた玉砂利の上へと転がった。 二人の成り行きを興味津々と、瞬きも惜しいとばかりに見ていた月彦だったが、桔梗が吹っ飛んだ後も数秒間は一体何が起きたのか理解できなかった。
春菜の姿勢とその左手を見て漸く、桔梗は頬を叩かれたのだと認識できた。その時の音がパァン、というような平手を打ったような生やさしい音ではなく、雷鳴と聞き違えるほどの凄まじい音であったから、月彦もまさか頬を張られた音だとは思わなかったのだ。
「う……っ……」
桔梗は呻くような声を上げて、ゆっくりと立ち上がった。その右頬は痛々しく晴れ上がり、口の中も切れたのか、赤い筋が唇の端から伸びていた。
「桔梗。今日の貴方の仕事は何だったかしら」
左手を降ろしながら、春菜は揚々とした声で尋ねる。問いつめるような声ではなく、さも主婦が井戸端会議をするときのような、明るい声だった。
「……お、……お客、様、の…………お世話、……です」
桔梗は右頬を抑えながら、辿々しく答えた。春菜は一度頷いてから、
「貴方が私の留守中に、度々屋敷を抜け出して棗の所に“遊び”に行っているのは先刻承知です。貴方もまだ若いんですから、それくらいの事はと思って黙認していました」
“遊び”の所を特に強いアクセントで春菜は言った。図星だったのか、桔梗はびくりと肩を震わせて、そしてまたガタガタと震え始めた。
「――でも、大切なお客様達に食事もお出ししないで私用のために出かけ、あまつさえお客様を“貴様”呼ばわりし、徒に不安たらしめたことは許し難い事……解るわね?」
「……はい」
桔梗は今にも消え入りそうな声で返事をし、そしてより一層身を縮こまらせた。そのまま体を縮ませてただの猫に戻ってしまいそうな程に、その佇まいは神妙としていた。
す……と春菜が静かに左手を挙げると、桔梗はまたびくりと体を震わせた。恐らくはまた叩かれると思ったのだろう。……だが違った。
「これを冷水に浸して、宛っておきなさい。腫れが引いたら、すぐにお客様と、みんなの食事の用意をなさい。……いいわね?」
春菜は桃色のハンカチのようなものを桔梗に手渡すと、そっと慈しむように、桔梗の腫れ上がってる頬を、彼女が宛ってる手の甲の上から撫でた。
桔梗は目尻に涙を滲ませながらハンカチを受け取り、深々と頭を下げた後、謝罪の言葉を残して走り去った。月彦の勝手な見解だが、最後に見せた涙は頬の痛みだけで促されたではないもののように見えた。
月彦がそんなことを考えていると、春菜はくるりと振り返って、今度は月彦に「お見苦しいところを……」と頭を下げた。
「いえ……そんな……、俺は全然気にしてないですから」
慌てて月彦も立ち上がり、頭を下げられるいわれはないとばかりに手足をばたばたと動かした。正直、桔梗の物言いには少なからず気分を害していたが、先ほどのやりとりを見せられて尚怒り収まらぬ程彼女を恨んでいたわけでもなかった。
それよりむしろ、月彦が気になったのは桔梗のことより春菜のことだった。彼女と桔梗のやりとりを見た後では、先ほど一瞬“思いつきかけた”事はやはり気のせいだったのかと思ってしまう。
月彦が先ほど思いつきかけたこと、それは春菜の言葉は全て虚言で、桔梗が言った通り本当は自分も真央も人質なのではないかという事だった。だが、月彦の中でその説はほぼ完全に否定された。
こんなに真摯に人を叱る人が嘘を言う筈がない―――月彦はそう、勝手に信じ込んでいた。
縁側でまた少し春菜と話をしてから、屋敷の中を少し案内してもらうことになった。これは月彦が頼んだことではなく、春菜の方から申し出られたことだった。
月彦はいざ席を立とうという段階になって、ふと懐が軽いことに気がついた。見ると、そこに居た筈の真央は盆の上で腹を膨らませたまま大の字になり、すーすーと昼寝の真っ最中だった。頭の側にまだ食いかけの草団子が残っていて、どうやら食べている途中で満腹になって、そして眠ってしまったらしい。
可愛らしいといえばそれまでだが、お世辞にも行儀が良いといえる光景ではなく、月彦は春菜の手前、些か顔を赤くしながら真央をそっと日陰の畳の上に寝かせ直して、それから春菜の案内に応じた。
春菜の屋敷は、庭も広かったが屋敷自体もそれに負けじと広かった。
月彦は春菜に屋敷の中を案内されながらも、自分一人だったらトイレにも行けないなと痛感していた。それほどまでに入り組んでいて、部屋の数も多かったのだ。
屋敷の作りは木造の古い日本家屋といった感じで、二階はなく、方々に蜘蛛の足のように離れへと通じる渡り廊下があり、余程背の高い人物が過去に住んでいたのか、どの部屋も不自然なまでに天井が高かった。
春菜に屋敷を案内されながら、月彦はいくつか疑問に思うことがあった。一つはこれだけ広い屋敷であるのに、殆ど人の――妖猫のと言うべきか――気配がしないということだ。殆ど……というよりは、側にいる春菜以外の気配がしない、そして月彦はこの屋敷で目を覚ましてから彼女と桔梗以外の人物に会ってないのだ。
その代わり……というように、屋敷の中には所々に猫がいた。ただ、こちらは庭で月彦が出会った猫たちとは違う点が多々あった。
それは皆が皆、どこかしらに古傷があるということだ。片目の無い者、前足が片方無い者、体に大きな疵痕があり、その部分だけ毛が生えていない者―――虐待を受けた猫たちなのだろうか、と月彦が首を捻っていると、唐突に春菜が口を開いた。
「……昔、大きな戦があったんですよ」
足を止めて、そっと振り返った彼女の顔には静かな笑みが浮かんでいた。だが、何処か陰りのある笑み、まるで今にも降り出しそうな、鈍重な雨雲を彷彿とさせるような、張りつめたものを月彦は感じ取った。
「皆、妖猫族の古兵達です。激戦につぐ激戦で、傷つき倒れていった者達、その僅かな生き残りです」
「…………戦、ですか……」
妖狐や妖猫……そういった妖怪達の間にも人間で言う戦争のようなものがあったのだろうか、と月彦は推測した。というより、推測するしかなかった。好奇心はある、が決してそれは、赤の他人が気安く訪ねたり、探ったりしてはいけないことのような気がした。
「ええ、主人の虎鉄も……その戦で……」
春菜は微かに掠れた声で呟き、全てを喋り終える前に口を閉ざした。 その言葉を聞いた瞬間、月彦の脳裏に一瞬、フラッシュの様に映像が浮かんだ。大男で、まさに猛虎と形容できるような出で立ちの、荒々しい男の顔だった。それが恐らく、虎鉄という、春菜の主人だった男なのだろう。無論月彦は会ったことも、見たこともない筈だった。春菜の想いがあまりに強く、何らかの波長となって月彦にまで届いたのだろうか。
月彦にはそれを確かめる術は無かった。亡き主人を想う春菜の後ろ姿は、月彦から言葉を奪うには十分過ぎるほど悲しみに満ちていた。
古傷を携えた老猫たちに見守られながら、月彦が案内されたのは屋敷の裏といえる場所だった。そこは一面がもうもうと立ちこめる白い霧で覆われた場所で、しかもよく見るとそれは霧ではなく湯気だと解った。その霧のなかに微かに灰色の巨岩が所々浮かび上がっていた。
「うっ……わ……」
人工というにはあまりに雄大なその光景に、月彦は思わず呻いた。温泉だった、それも、三百人は同時に入れそうな規模の、だ。
「夕食までまだ時間がありますから、先にいかがですか?」
春菜はにっこりと“女将さん笑み”を月彦に向ける。
「……凄い……これ全部、温泉……ですか」
表の庭の池も広かったが、裏庭の温泉もそれに負けじと広かった。露天の岩風呂なのであろう、垣根のようなものは一切なく、地面は石敷きになっていて、そして温泉の中からも巨岩が顔を覗かせていた。
月彦は元来広い風呂というものが大好きだった。故にこの露天風呂にはひどく惹かれるものを感じた。春菜もそれが解ったのであろう、すぐに彼女は月彦を脱衣所に案内した。
脱衣所は広い作りではあったが、男女別れてはいなかった。混浴なのだろうかと月彦は思ってすぐ、ここは温泉宿でもなんでもなく、春菜の自宅なのだということを思い出した。当然、番台などはない。
春菜はといえば、月彦を脱衣場に案内してすぐに「私も夕食の準備がありますから」と言い残して母屋の方に戻っていった。この分だと夕食もさぞ豪勢なものが出そうだと、月彦は微かに期待しながら、衣類を脱ぎ捨て、衣装棚の籠の中に放り込んだ。
脱衣場にあった手ぬぐいを手に、踊るような足取りで脱衣場の出口まで行き、そっと引き戸を開く。まさか先客は居ないとは思うが、さすがに素っ裸で露天風呂、しかも垣根無しとくれば多少は気恥ずかしさが伴うのも無理はない。
だが、引き戸を開けた途端、視界が真っ白になるほどの湯気の洗礼を受けて、これなら例え見ている者が居たとしてもまともに裸などは見られることもないだろうと思い直した。
「……やっぱり、洗ってから入るのがマナーだよな」
月彦は独り言を呟きながら、脱衣場の出口で少々立ちつくした。桶はある、が普段使っているようなボディソープもなければ、シャンプーもそこには無いのだ。少し考えた後、これだけ広いのだから、多少垢のついたまま入っても問題はないだろうという結論に達した。
「う……」
足先をちょこんと湯につける、湯の温度は想像以上に熱かった。思わず声が出る、が我慢してゆっくりと漬かり、腰を沈めていった。
「……ふぅう……ぅ」
息を吐きながら、月彦は肩まで漬かり、側にあった巨岩に背をもたれさせる。手ぬぐいを巨岩の上に置き、両手でざぶざぶと顔を洗う。それまでは湯気の白さに目を奪われて気がつかなかったが、よく見ると湯自体も白く濁っていた。濁っていて、僅かにとろみがある、変な湯だと思った。
「ぷはぁっ…………良い湯だぁ…………」
月彦は手ぬぐいを四角く織って、ぽんと自分の髪の上に載せ、ぐだぁ……と脱力した。
特に運動した覚えはないのだが、それでも全身の疲れ(のようなもの)が湯の成分に溶けて、体中から抜けて霧散していくような感覚が心地よかった。
湯に浸かりながら、月彦は真狐のことを考えた。ツクヨミと揉めているということは春菜から聞いた、その巻き添えにしないために、自分と真央を春菜の屋敷に預けたということも。
だがそこでふと、月彦は思った。それなら今、真狐自身はどうしているのだろう、と。彼女も同じく春菜の屋敷に匿われているのだろうか?―――そう考えてすぐ、月彦はその考えを打ち消した。もしそうであれば、既に自分たちの前に現れているだろう、と。
「……でもあいつ、意地悪いからなぁ」
ひょっとするとあえて姿を見せず、突然の事態に右往左往する月彦と真央を見て影でほくそ笑んでるのではないか―――そんな気もした。あいつならそれくらいのことはやりそうだ、と月彦は一人で頷く。
「………………。」
春菜と別れて、一人きりになったからだろうか。急に月彦の心に不安が湧いた。今まで気にならなかったことが、沼の底から沸く泡のように表に出始めたのだった。
まず浮かんだのは家のことだった。姉の霧亜はまあ、動じないだろうとして母、葛葉は突然自分と真央が居なくなったことで慌ててないだろうか?それともその辺のことは真狐がうまくやってくれているのだろうか?
(……でも母さん、楽天家だからなぁ)
二、三日であれば無断外泊をした所であの葛葉ならば気にもとめないかも知れない――何故だか月彦にはそんな気がした。
次に念頭に浮かんだのは、真央のことだ。あの子狐が本物の真央であるということは、理屈抜きに月彦は実感していた。だが、今のところはまだ元の姿に戻るという保証はどこにもないのだ。確かに姿は変われど真央には変わりはない、変わりはないが、やはり月彦は普段通りの、あの嫉妬深い娘の姿を取り戻したいと思う。
様々なことが順番に浮かんでは、月彦なりの結論をもって再び意識の底に沈んでいく。と同時に、温泉の熱をうけて顔中から汗が噴き出し、髪もグッショリと濡れた。どれほどそうやって浸かっていたのか、そろそろ出ないとのぼせるかな……と月彦が腰を上げたとき、なにやら小さな影が音を立てながら近づいてくるのが見えた。
「……真央?」
小さな影―――子狐真央はかつかつと爪で廊下を引っ掻きながら一直線に月彦の方に向かってきて、そのまま廊下から飛び出し、石敷きの上を走ってぽちゃりと湯に飛び込んだ―――いや、落ちたと言うべきか。
キィーッ!というような、悲鳴とも雄叫びともとれるような鳴き声を上げて、ぱちゃぱちゃと激しく水しぶきを上げながら月彦の方に近づいてくる。月彦はしばらく眺めていて、ようやくそれが犬でいう犬かきのようなものではなく、ただたんに真央が溺れているだけだと気がついた。
「真央っっ!!」
月彦は慌てて駆け寄り、真央をすくい上げた。真央は湯を少し飲んでしまったのか、しばらく咳き込み、それからぶるるっ、と体を震わせて毛皮から水気を飛ばし、恨むような目で月彦を見上げた。昼寝していた自分を置いていったことを非難しているような目だった。
「いや……な。気持ちよさそうに寝ていたから、起こすのも悪いと思ったんだ」
月彦は苦笑いを浮かべながら、ぷんすかと怒る愛娘に謝罪をした。真央も程なく月彦に悪気がないとわかったのか、心地よさそうに鳴きながら月彦の側の、巨岩の端、浅い部分で温泉に浸かる。
月彦ももう少しだけ真央につきあうかと湯に浸かり直した。
ひゅうと風が吹いて、にわかに立ちこめる湯気を吹き飛ばした。と同時に、月彦の目に遠い空を朱に染めながら稜線に沈む夕日が飛び込んできた。
「…………凄い眺めだな……。ほら、真央」
と、月彦は真央にも夕日を見るように促した。それほどに、その眺めは美しかった。あかね色に染め上げられた空と、早くも星々が鏤められた夜空のコントラスト、ゆっくりと、しかし確実に小さく消えていく夕日はまるで一つの命の終わりのように見える。
月彦と真央がその眺めに見とれていると、突然カラカラと引き戸が開く音がした。咄嗟に月彦は音がした脱衣所の方を見た、仏頂面の桔梗が丁度顔を覗かせた所だった。裸ではなく、普段着の袖などを紐でたすきがけに縛り、手足を大きく出していた。
「……上がれ、背中を流してやる」
月彦の顔を見るなり、開口一番がそれだった。そしてすぐに「春菜様の命令だ」と付け加えた。
「……上がれって言われても…………」
と月彦が躊躇したのは、やはり裸だからだった。いくらなんでも一糸まとわぬ姿で自分と同世代くらいに見える女の前に出るのは羞恥心が許さなかった。
が、桔梗の方は月彦のそんな都合は関係ないとばかりに風呂桶の一つをひっくり返して石敷きの上に置くと、さあ座れとばかりに月彦を急かした。
「……わーったよっ」
しょうがない、と月彦は腰を上げた。上がりながら、月彦はちらりと巨岩の所に居る真央を振り返った。無論真央ははあからさまな嫉妬の目を月彦に向けていた。
手を差し出せば即座に噛みつかれそうだったから、月彦は仕方なく真央を置いて湯から上がった。
「なっ……」
と、声を上げたのは桔梗の方だった。月彦の股間を直視した瞬間、桔梗はまるで化け物でも見たかのように眼を見開いた。同時に春菜に張られてまだ少し腫れの残る頬も真っ赤に染め上げて、ぷいと視線を逸らした。
「……見るんじゃねぇよ」
桔梗の過剰な反応で月彦も恥ずかしくなってしまい、咄嗟に手ぬぐいで前を隠した。そのままばつが悪そうに、桔梗の前の桶の上に腰を下ろす。程なく、ごしごしと背中が擦られ始めた。
しばらく、無言のまま、それが続いた。その静寂に耐えかねたように、月彦が口を開いた。
「…………っと、さっきはその……悪かったな」
月彦はそこでしばらく桔梗の反応を待った。桔梗はすぐには返事をしなかった。
「……何の話だ」
無表情な声、とでも言うべきか。先ほどの狼狽とはうってかわって、何の感情もこもっていない声だった。
「いや……なんか、告げ口したみたいになっちまったから」
そんなつもりは無かった……ということを月彦は辿々しく説明した。が、桔梗は黙々と月彦の背中を擦り、湯をかけ、何かの粉のようなものを髪にかけてはわしゃわしゃと髪を洗い、流すといった動作を続けた。
「……悪いのは私だ。貴様を恨むのは筋違いというものだろう」
月彦の頭に湯をかけながら、桔梗は凛とした声で答えた。その声を聞きながら、月彦は謝る必要は無かったなと後悔した。てっきり先ほどのことで落ち込んでいるかと思えば、また“貴様”扱いをするのだ。今度は本当に告げ口してやろうかと、月彦の中で意地悪い心が出てくる。
「……一応、紺崎月彦って名前があるんだけどな」
「だから何だ? 様でもつけて呼んで欲しいのか?」
桔梗は嫌味ったらしく答えた。背を向けているから見えないが、きっとその口元は意地悪く歪んでいるだろうと月彦は勝手に予想した。
と、同時に疑問が湧いた。春菜は、最初から月彦のことを“月彦さん”と呼んでいた。だから名乗りもしなかったのだが、何故彼女は自分の名を知っていたのだろうか。真狐が教えたのだろうか―――なんにせよ、大した問題ではないと月彦は首を振った。
ふんっ、と鼻で笑い飛ばしたような息づかいが、背後から聞こえた。
「私は貴様等人間が嫌いなんだ。春菜様が妖狐を嫌っているように、な」
「……何だって?」
聞き捨てならない、とばかりに月彦は振り向いた。桔梗の余裕めいた笑みが、すぐ側にあった。
「なんだ、知らなかったのか? つくづくおめでたい奴だ」
桔梗はくつくつとさも楽しそうに嗤い、もう一度月彦に湯をかけた。そのあと、月彦に屋敷の中にいる猫を見たかと聞いてきた。
見た、と月彦は答えた。そして思い浮かべた。春菜に案内されている途中に出会った、どこかしらに古傷を携えた猫たちを。今にして思えば、皆が皆独特の雰囲気を携えていたように思える。老兵特有の、戦場を憎みつつも、どこか懐かしむような、そういった英霊の残滓のようなものが。
「……数少ない、生き残りなんだろ」
「春菜様がそう言ったのか?」
月彦は答えず、小さく頷いた。目だけは、常に桔梗の顔を捕らえていた。もう彼女は笑ってはいない。
「正確には、違う」
桔梗はそこで言葉を切った。そして、微かに唇を噛みしめた。
「皆は戦って、妖力を使い果たして、あのような姿になったのではない。傷つき、倒れた所を妖狐の術であのような姿に変えられたんだ」
「妖狐に……」
「私も、詳しくは知らない」
その頃はまだ自分は生まれていなかった、ということを桔梗は言った。
「だが、私にその話をしたのは他ならぬ春菜様だ。そして、あの術はかけた術者にしか解けない、ということもな」
「術……」
月彦は何か引っかかるような、奇妙な感覚を憶えた。ある種の不快感、何かが思い出せそうで、思い出せないときの、あの独特の感覚だ。
「大戦が終わり、春菜様はあの者達を元に戻そうと妖狐の術者達を探した。が、その殆どは大戦中に命を落としていた。そして術者が死んで長い年月が経った今尚、彼らにかけられた呪いは解けていない」
桔梗の言葉を聞いた途端、月彦の頭の中で靄のように渦巻いていた不快なもやが一気に晴れた。桔梗が口にした“呪い”という言葉が、パズルの最後のピースのようにがっちりと月彦の思考に食い込んだのだ。
ひょっとして……妖猫族の戦士達にかけられた術と、真央にかけられた術というのは同じものなのではないかと、月彦は推測した。どちらも妖力を奪われ、何の変哲も無さそうな動物の姿に変わるという点で症状が酷似しているからだ。
となれば、と月彦は春菜の言葉に一つの疑念を抱かざるを得ない。彼女は言った、真央をこのような姿に変えているのが何かの術なのか薬なのか、それさえ解れば元に戻せる、と。だが、もし桔梗の話が本当なのであれば、春菜自身も真央がかけられたのは妖猫族にかけられたものであると同じだと気づいているのではないのか。だとすれば、何故そのことを黙っていたのか―――。
「外見はただの猫に変わっても、妖猫であることには変わりはない。春菜様は皆を自分の屋敷に引き取り、いつか元に戻ることを願いながら世話をしておられるのだ。……そんな春菜様が、何の打算もなしに妖狐の頼み事を聞き、妖狐の男とその娘を匿うと思うか?」
「……どういう、意味だ?」
月彦の問いに、桔梗は意地悪く口の端を歪ませると、「あとは自分で考えろ」と吐き捨てるように言った。
桔梗はもう一度、桶に湯を汲むと乱暴に、まるで消火活動でもするかのような手つきで月彦に背中から浴びせかけた。
「私は台所に戻る。夕餉の支度があるのでな」
桔梗は風呂桶を置くと、くるりと背を向けた。そのままひたひたと脱衣所の方に歩き出す―――が、月彦が立ち上がると、徐に立ち止まり、振り返った。
「な、なんだよっ……!」
「……一つだけ、聞いて良いか?」
こくり、と月彦が頷くと、途端に桔梗は不審そうに猫耳を伏せ、微かに頬を赤らめた。
「……歩くとき、邪魔にならないのか?」
何がだ―――そう言いかけて、月彦は桔梗の視線が自分の股間に向けられていると気がつき、慌てて手ぬぐいで隠した。
「ほっとけ!」
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