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 目覚めた時に見慣れた天井がそこに在るということが一体どれほど重要なことなのか、これまで考えたこともなかった。
 瞼の向こう側にあったものは見慣れたうす灰色の天井と蛍光灯ではなかった。眼に飛び込んできた天井は板張りで、自室のそれよりも遙かに高い位置にあった。
「目が覚めたか」
 聞き慣れぬ声が唐突に耳に入る。やや苛立ったような発音に月彦は反射的に飛び起きた。
「……ッ痛っつ……」
 途端、後頭部がズキリと痛む。そっと右手で痛む辺りを触ってみるがコブは出来ていないようだった。
「あれ…………俺…………」
 混乱しながら、月彦は周囲を見回した。そこは自室ではなく、見慣れない和風の、畳敷きの六畳ほどの小部屋だった。寝ていたのもベッドではなく布団であり、何故か服装まで寝間着代わりにしている着慣れたTシャツではなく、白地に青の模様が入った浴衣になっていた。月彦は一瞬ハッとしたが、どうやら股間の感触からしてトランクスは脱がされていないようだった。
 右手側が障子になっていて、障子紙越しに僅かな光が室内に差しこんでいた。その障子の前に人影があった。凛々しい顔つきの美青年といった面体、長い髪を後ろで一本に束ねている。小間使いのような格好で、びしっと背筋を伸ばして正座をしていた。顔には微塵の見覚えもなかった。ただ、黒髪からにょきにょきとせり出している黒い獣耳にはどこか親近感を憶えた。
「……桔梗、だ。貴様の世話を任されている」
 月彦が訪ねる前に、美少年―――声は女性か?―――は名乗りを上げた。そういえば着ている着物も桔梗のような鮮やかな色をしている。
「えーと……」
 まず何から聞こう、と月彦は首を傾げた。一体全体何故自分がこんな所で寝ていたのかがさっぱり思い出せないのだ。後頭部の痛み然り、この目の前の人物然りわからないことだらけだった。
「ここは一体……っ―――わぁっっ!!」
 言葉の途中で月彦は素っ頓狂な声を上げて背を反らせた。なにやら懐の辺りでもぞもぞと蠢く感触があったのだ。月彦は襟を開き、懐に視線を落とした。浴衣の内側、腰帯の上のあたりになにか黒いものが居るのが分かった。小動物のようだった。
「な、なんだ……?」
 むんずと捕まえて引っ張り出してみる―――子犬のような動物だった。子犬のようではあるが、どこか違うような気がする。顔は犬よりももっとスリムに鼻が尖っていて、手足の先の方が黒く、尻尾が大きい。全身の殆どの体毛はきつね色をしていた。
「ああ、狐……子狐、か」
 月彦は納得したような声を出して、とりあえず子狐を布団の上に置いた。子狐は月彦の懐で眠っていたらしく、突然掴み出されて些か不機嫌そうに目をしょぼしょぼさせながら、再び丸くなって目を閉じた。
 そんな月彦と子狐のやりとりを見て、桔梗は傍らでくつくつと含み笑いを漏らす。
「……何がおかしいんだよ」
 その笑い方が少し人を小馬鹿にしたような笑いであり、月彦は少し怒気を含めたような声を出した。桔梗は軽く咳払いをして、すぐに笑いを止めた。
「いや、失敬した。……少し見た目が変わっただけで自分の娘も解らぬとは人間も不便なものだと思ってな」
「娘……?」
 ハッとして月彦は布団の上で丸くなっている子狐を見た。だが、そこには見慣れた“娘”の面影は微塵もない。
「勘違いするな、私が貴様等の世話を仰せつかった時には既に娘はその姿だった。何らかの力で妖力を封じられているということ以外は、私も説明を受けていない」
 月彦の心中を察したように、桔梗は先に言葉を出した。嘘を言っているようには聞こえない……と月彦は思った。
「世話を仰せつかった……って……誰にだよ」
「この館の主、春菜様だ」
 桔梗は凛とした口調で言い放つ―――が、月彦はいまいちピンとしない顔で首を傾げただけだった。聞いたことのない名だから当然といえば当然だ。
「貴様はこれからしばらく我々妖猫族の監視下に置かれる事になったのだ。……人質として、な」




 遠い山の端は濃い霧が掛かっていて、一体何処までが山でどこからが空なのかその境界が全く解らなかった。ひょっとすると霧に見える白いものは全部雲なのかも知れない、それだけ標高が高い場所にこの屋敷があると考えれば、真夏だというのにこの薄ら寒い気温にも納得できた。
 目の前には趣のある……如何にも金のかかっていそうな純和風の日本庭園が広がっていた。広い、とにかく広いのだ。見えているだけで月彦の家が数個は入りそうだった。その他にも凝った作りの石灯籠や巨石、枯山水の模様も見事の一言でそういう方面には全く興味のない月彦でも思わず見とれてしまうほどの出来映えだった。
 寝間着のまま縁側に腰を下ろして、子狐―――真央を膝に抱いて撫でながらぼんやりと鹿威しの音なんかを聞いていると、まるで一晩で50も60も年を取ってしまったような錯覚に陥ってしまう。
 ぼんやりとしているのは理由があった。先ほどの桔梗とのやりとりの内容があまりに衝撃的で現実味が湧かないのだ。
 桔梗の話によると、今居る屋敷は春菜という人物の屋敷らしい。桔梗はその春菜に仕える使用人兼庭師であり、春菜の留守中の屋敷の管理も任されているのだそうだ。肝心の春菜という人物については殆ど説明を受けていないが、妖猫族のお偉いさんだということは桔梗の口ぶりから容易に想像できた。
 だが、何故自分と真央がそんなところに居るのかについてはなんとも曖昧な答えしか返ってこなかった。はぐらかされた、とも言える。これについては春菜という人物に直接聞くしかないようだった。
 しかし、件の人物は今は留守らしく、戻るのは夕方以降であろうという話だった。それまでは彼女風に言えば『せいぜい人質らしく神妙にしているが良い』という事だった。人質だと言ったわりには特に行動の制限もされないというのも変な話だ。お陰でこうして昼間っから縁側でのんびりしていられるのだが、だいたい何の人質なのか、月彦には心当たりが全く無かった。
 それより何より気に掛かるのは真央のこの姿だった。桔梗の言葉によれば“何らかの力で妖力を封じられた状態”らしいが、詳しいことは何も教えてもらえなかった。自分たちの仕業ではない、連れてこられた時は既にその状態だった―――というのが、彼女の言い分だった。
「…………わっかんねぇなぁ……」
 夏休みの朝、いつものように目を覚ましたら全く見覚えのない部屋にいて、さらには横柄な使用人が居て、娘はただの狐になっていて、おまけに人質扱いをされているのだ。しかもろくに説明もないときたものだ。
 ただ、一つだけ解ることがあった。それは、桔梗を含む妖猫族とやらが自分たちに対して明確な害意をもっているわけではないということだ。拘束もされていなければ、特に何か苦痛を与えられたわけでもない。それどころかまるで逃げたければいつでも逃げるがいいといわんばかりの放し飼いだ。もっとも、そのような扱いであるから逆に、月彦は慎重に行動し、迂闊なことはしないように努めているのだが。
「真央、分かるか?」
 膝の上の子狐を撫でながら問いかけるが、きゅぅーっ、と鳴くだけで返事らしい返事はしない。妖力を封じられたことでただの狐に戻ってしまっているのか、それとも……本当にただの狐なのか、今の状況ではその可能性も捨てきれなかった。
 ただ、何となく、この子狐の懐き具合と“雰囲気”のようなものから恐らくは本物の真央なんじゃないかと月彦は思っていた。
「……ひょっとして、また化かされてんのかな〜……」
 その可能性も当然考えてみた。そういうことをやりそうな相手に心当たりがあったからだ。そういえばリベンジを思わせる落書きをされたこともあったなと月彦は思い出していた。

 ―――カコォーン。

 庭のどこかから聞こえる鹿威しの音。和む、この上なく和んでしまう。このわけが分からない状況でもこの風景とこの音を聞いていると怒りすら湧いてこない。
 ……ひょっとして、そう思わせることが目的の幻覚じゃないか、とさえ思ってしまうのは過去に化かされたことがあるからなのかも知れなかった。
 遊園地の幻覚、時折“ゆらぎ”を感じながらも肌身に感じるそれは確かに現実の感触そのものだった。
 本物の妖狐が化かしにかかったらただの人間に過ぎない自分には見抜くことは不可能だというのが月彦の考えだった。現に真狐と久々に再会したときなどはものの見事に化かされてしまった。化かされていると分かっていてもどうしようもなかった。
 なら、深く考えるだけ無駄ではないのか―――と、月彦は思う。化かされているにせよ夢にせよ現実にせよどうすることも出来ないのだから、あがくだけ無駄ではないか。
 庭をぶらぶらと見て回ろうと思ったのはそういう理由からだった。ジッとして考えに耽っていても仕方がない、折角だから散歩でもしようと思ったのだ。月彦が立ち上がるような素振りを見せると真央は慌ててその懐に潜り込んできた。そのまま腰帯の上あたりで 丸くなる。
 縁側に置きっぱなしになっていた草履を履き、砂紋を踏まぬように石から石へ移動しながら、景石やら松の木やらを眺めてゆっくりと回る。が、さすがに現役高校生の月彦としてはそういったもののワビだのサビだのは到底理解できず、何となくすごそうな眺めだなと思いながらぶらぶらと散歩をするだけだ。それも割とすぐに飽きた。
 その代わりに月彦の興味を引いたのはちょくちょく視界を横切る猫たちだった。三毛猫、チャトラ猫、黒縞模様猫……どれもこれも日本中どの街にもごろごろ居そうな猫たちだった。人間を見ても特に逃げるような素振りを見せないのは野良猫ではなく、この屋敷で飼われている飼い猫だからなのだろう。
「……ほんっと、猫の多い屋敷だなぁ」
 割と猫が好きな月彦としては不快感はしない。ただしかし、場所が場所だけに、全部が全部ただの猫だと思うのは軽率だと思った。それでも側の巨石の上とかに肥満気味の猫がうたた寝をしているのを見かけると、ついつい手を伸ばしてみたりもする。
 肥満気味の日本猫は背を撫でられてゴロゴロと喉を鳴らし、今度はこっちを撫でてといわんばかりにごろりと仰向けになった。月彦は苦笑しながら白い腹を撫でてやった。
 ぐるる……となにやら唸るような声が聞こえてきたのはその時だった。しかもその音―――声が聞こえてくるのは懐だった。
「真央……どうした?」
 キリキリと不機嫌そうな声を出す真央の体を撫でてやると、今度は一転心地よさそうな声を出して月彦の手に擦りついてきた。
「まさか…………」
 月彦がそーっと、件の猫の方に手を伸ばそうとするとまた懐から唸り声が聞こえ始める。……はあ、と月彦は軽くため息をついた。よくみると巨岩の上で仰向けになっているのはメス猫だった。
「分かった、見るだけだ。それなら良いだろ?」
 間違いない、これは真央だ―――と月彦は苦笑しながら独り言(?)を呟き、またぶらぶらと庭を見て回った。

 猫の数は本当に多かった。ざっと見た所二百は下らないのではないかと思えた。皆似たりよったりの模様だったからひょっとすると同じ猫ばかりが歩く先々に先回りしてたのかもしれないが。
 さらにしばらく歩いていると今度は池に出くわした。これまただだっ広い、学校の二十五メートルプールがまるまる入りそうな池だった。
 周りはぐるりと石で固めてあり、小島のようなものがいくつかあって、それぞれアーチ型の橋で岸や小島同士つながっていた。
 岸辺の石の上に乗って水中を見下ろすと、深さも結構あるのか、水が微かに緑がかって見えた。その水底をこれまた巨大な錦鯉が数匹、悠々と泳いでいた。どれもこれも綺麗な色をしていて如何にも値が張りそうだった。
「……金持ちの屋敷……だなぁ」
 月彦は橋の上から水底を、小島を、そして今まで自分が歩いてきた庭園を見ながら感心するように呟く。これだけの屋敷の主と言うだけで並大抵の人物ではないと容易に予想できる。
「……おい、真央、落ちるぞ」
 真央が懐から顔を覗かせ、物珍しそうに水底の鯉を眺めていた。その様子が如何にも危なげで今にも落ちてしまいそうだったから、月彦は咄嗟に懐を抑えた。
 見ると、錦鯉に見とれているのは真央だけではなかった。橋の上や岸辺の石の上から何匹もの猫が物欲しそうな顔で水底の錦鯉を眺めていた。
「……錦鯉って美味いのかな」
 月彦も猫たちに並んで見下ろしてみる。しかし眼下を悠然と泳ぐその様を見ているととても美味そうとは思えなかった。

 しばらく、そんな感じでぶらぶらと過ごした。池の鯉を見たり、小島への橋を渡ったりとしていたらいつの間にか日も傾こうとしていた。
 小腹が空いたな……と月彦が思ったのはそんな頃合いだった。目が覚めたのが昼前頃といっても、まだ朝食も食べていないのだ。
 腹が減っているのはどうやら猫たちも同じのようだった。皆が皆、食い物をねだるように月彦の足にすり寄ってきたり、後ろ足で立ちながら前足でアタックして自分をアピールしてきたりした。
 そんな猫たちが唐突に月彦へのアピールをやめて、ぴたりと動きをとめた。そして一斉に、犬笛ならぬ猫笛で呼ばれたようにだだーっと走り出した。
 あまりにその掌返しの様子が露骨であったから、さすがに月彦も首を傾げた。
「……なんだ?」
 つられるように月彦も小走りに、猫たちが行く方向へと急いだ。庭に植えられている松だか楓だかの木の合間をくぐり巨岩の合間を縫うようにして月彦は猫たちのあとをつけた。
 やがて月彦は左右に細長く伸びた石畳の道に出た。左手、その遠くに屋敷が霞んで見え、右手の方は途中で道がカーブしていて、道の両脇に植えられている大小様々な木々と巨大な岩に邪魔されて先に何があるのかは解らない。恐らくは、屋敷と、屋敷の門―――があるかどうかは、確認してないから解らないが―――とを繋ぐ道ではないかと、月彦は推測した。
 その、カーブして先が見えないほうから、なにやらにゃーにゃーという猫たちの合唱が、徐々に近づいてくる。月彦は注意深く、耳を傾けた。
「あらあら……皆こんなにお腹を空かせて……桔梗は何をしているのかしら」
 さも優しそうな、おっとりとした声が聞こえた。月彦は反射的に、側の巨岩の影に隠れていた。そしてそっと顔を半分ほど覗かせて、近づいてくるものを観察した。
 猫たちが群がっているのは和服姿の一人の女性だった。背は女性にしては少し高めで、淡い桜色の着物を着、足下をがっしりと猫たちに固められて、歩くのも一苦労とばかりに困ったような笑みを浮かべていた。彼女にも、桔梗と同じような猫耳と、尻尾があった。
「あら……」
 と、女性が唐突に月彦の方を向いた。月彦はギクリと身を強ばらせて慌てて顔をひっこめたが内心ではバレバレだと自覚していた。ほんの二,三秒ほど考えてから、月彦は巨岩の影から出た。そもそも隠れる必要など無いのだ、と自分に言い聞かせた。
 巨岩の影から出てきた月彦を見て、女性はふふ……と口元に笑みを浮かべた。嘲笑するような笑いではなく、優しく微笑みかけるような笑みだ。
「紺崎、月彦さん……ですね?」
 形の良い、ふっくらとした唇を艶めかしく踊らせて、女性が呟いた。高すぎず、低すぎず、調律したばかりの琴のように美しい声だった。美しいが、どこか圧倒的なものを含んでもいた。まるで、彼女が名前を呟いた瞬間から、たとえそれが全然別の名前であったとしても、自分の名前はそれだと決定づけられるような、そういった響きがあった。
 女性は茶色い瞳を細めて、月彦を見た。科学者がモルモットを見るような目でもあり、雀を狙う猫のような目でもあった。その瞳の奥で、一瞬だけ紫色の妖しい光が迸る。
 その光を見た瞬間、唐突に月彦は体の自由が利かなくなるのを感じた。竦んだ、と言っていい。まるで地雷でも踏んでしまい、足の下からのかちりとした音を聞いて途端に体の動きを止めたときのような、そんな不自然な硬直だった。
 次に、体が震えだした。高圧電流でも流されたようにぶるぶると震えが来て、歯ががちがちと鳴った。凄まじい悪寒が、全身を駆けめぐる。目隠しをされて、氷のように冷たい無数の手に全身を愛撫されているような気分だった。
 こいつがボス猫だ―――月彦は即座に思った。
「初めまして、春菜と申します」
 眼前のボス猫―――春菜が恭しく辞儀をして、微笑みかけてくる。と、その時唐突に、春菜の瞳の奥の光が消えた。同時に、月彦を襲っていたプレッシャーも消え、透明な重油のようだった空気が一気に晴れ渡り、呼吸が楽になった。筋肉の強ばりがとれて、思わず倒れ込みそうになるのを、月彦は両足で踏ん張って堪えた。全身からどっと冷や汗が噴き出す、が、口の中はそれとは対照的にカラカラに渇いていた。
 春菜はといえば、対峙した者がそういった状態に陥ることに慣れているのか、月彦を見て別段不審がることもなく、『貴方が落ち着くまで待ちますよ』という優しい笑みを浮かべていた。




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