一匹の獣が夜道を悠々と歩いていた。
 月明かりの少ない夜。住宅街の人気のない道の真ん中を我が物顔で歩くその獣の足取りは実に軽い。
 人であれば鼻歌でも歌っているような顔つきで長い尻尾をふりふり、街灯の明かりを避けるように蛇行をしていく。
 獣は犬のような出で立ちをしていた。だが犬ではない。黄金色とも取れるきつね色の体毛、すらりとした体に犬よりも細く尖った顔。黒い手足。
 獣は狐だった。
 行く先にあてなどは無く、ただ漠然と気の向いたままにトコトコと体を揺らして歩く、そんな感じにも見える。
 空には曲刀のように欠けた月が静かに輝いていた。見つめていると今にも頭上に銀色の刃が振り下ろされそうだった。狐も夜空を見上げて同じことを思ったのだろうか、急に鼻先を下げて走り出した。
 風のような走りだった。否、風を切る音もたてずにその体は夜闇を切り裂き、黒い光となって物陰から物陰へと飛ぶように消える。
 縮地という術だった。読んで字の如く、地を縮める術、高速移動用の妖術である。どれだけ”縮められるか”は当然の事ながら術者の能力に依存する。狐は一瞬で半里は移動していた。これが狐の全力かどうかは狐自身にしか解らない。
 やがて狐は閑散とした空き地へと到達し、その足を止めた。息は切れていない、がその目は鋭くつり上がり、周囲を睨みながらピリピリと毛を逆立てていた。
 空き地は何かの廃工場の裏にあり、天まで届けと言わんばかりに古タイヤが高く、高く積み上げられていた。狐はいくつかあるタイヤの山の一番高く積み上げられているものの上に腰をおちつけ、辺りを見下ろした。ゴムと鉄さびの匂いが酷く鼻につく。
 一瞬、狐がため息をつくような素振りをする。次の瞬間にはその体は霧とも靄ともつかぬものに包まれていた。ぐにゃりと歪む空間、刹那のうちにその体は若い女のものになっていた。
 長い髪の、胸元が大きく空いた着物を着た女だった。名は、真狐。
「何の用? あたしそろそろ寝たいんだけど」
 ドーナツ状のタイヤの中心部に大きな尻を埋めるようにして、真狐は腰を下ろす。白く長い足を組んで不機嫌そうに声を出すと、周囲にゆらりと黒い影が幾筋、立ち上がるのが見えた。
「にーさんしー…六匹、ね。用件はだいたい想像つくけどさぁ…もういい加減ほっといてくんない?」
 真狐は組んだ足の上に頬杖を尽き顎を載せ、ふうとため息をつく。周りを取り囲んでいる連中のことは容易に想像がついた。脱獄の一件か、そのあとの妖狐の里一つの機能をまるまる潰してしまった件のどちらかで差し向けられた追っ手だろう。
 これじゃあまるで人間じゃない―――真狐はこうして追っ手と対面するたびに、煩わしさとは別のある種の悲しみに捕らわれる。
 本来、狐とは群れない種族だ。遙か昔、先祖が妖力の獲得に至る以前から狐はその卓越した知恵のために同族同士ですら疑心暗鬼に陥り、群れることができなかったのだ。
 そしてそれは妖力を得た狐達―――すなわち妖狐という存在が現れてからも長らく変わることはなかった。組織などというものは皆無、それぞれが勝手気ままに人間を化かし、騙し、気に入った人間がいれば化けて誘惑する、あるいは犯す―――それが狐らしい生き方だと真狐は思っていた。
 だが今は違う。妖狐の一族も人間社会のように里をまとめる長が居て、さらに里長をまとめる郡長が、そしてその上に立つ首領が居る。
 金毛白面九尾の狐を親に持つ銀狐、五つの尾をもつ最強の大妖狐ツクヨミ。それが現在の妖狐一族の首領だった。
 真狐はその話を聞く都度、腹を抱えて笑い転げたくなるのを堪えねばならなかった。ツクヨミが、”あの”ツクヨミが最強、それだけでも腹筋がよじれそうであるのにあろう事か九尾の狐の子孫と吹聴しているとなれば涙がかれるまで笑っても笑いきれないほどおかしい話だった。
 最強の大妖狐、という文句と記憶の中にある”ツクヨミ”の姿にあまりにギャップがあるのだ。チビで間抜けで、一体何度からかって泣かせてやったか解らない、そんなのが一族の首領に収まっているというだけで現代妖狐の弱体化が容易に伺える。そしてあろう事か人間のまねごとまで始めているのだ。
 だが、それはそれでいいと真狐は思っていた。ある意味ツクヨミは妖狐らしく、自分がやりたいようにやっているのだ。ただ真狐にとって迷惑なのはそのやりかたを自分にも押しつけられることだった。自分はそのような”人間ごっこ”を始めた妖狐一族の範疇に収まる気は毛頭無かった。いつだってやりたいようにやる、それが彼女の生き方だった。
 だから、今度のように、やれ妖狐の掟に反しただの人間に関わっただのということで追っ手を差し向けられるというのは迷惑千万な話だった。当然ながら、彼女は大人しくお縄についたりはしない。
「…へぇ、今夜は変わった趣向ね」
 くりんっ、と尻尾を一回まわして、真狐は態《わざ》とらしく関心したような声をだした。周りを囲む刺客達の異質さに気がついたからだ。
 それはいつものような、半端な実力しか持たない妖狐の刺客達ではなかった。いや、そもそも狐ですらなかった。
「捕まえられないならいっそ殺せってコト? ずいぶんあたしに拘るのね。ツクヨミは」
 真狐を取り囲んでいるのは全身黒装束に身を包んだ、異様な雰囲気を携えた者達だった。その独特の妖力の波長から真狐は連中が何者なのかはすぐに解った。
 人狼―――俗に犬狼族という種族に分類される、いわば狼の妖狐版の者達だ。彼らは妖力の殆どを身体能力の強化に使っているため、妖術は不得手だがその分体術や通常武具を用いての戦闘では他の種族の追従を許さない。
 六人の刺客は全員が犬狼族の者だった。恐らくは隙を見て同時、はたまた一波二波に別れての波状攻撃をかけてくるつもりだろう。皆が皆わかりやすいまでに殺気に満ちていた。
 真狐にしても、こと体術、通常戦闘において犬狼族の戦士達とまともにはりあう気はなかった。もともと妖狐という種族自体そういった戦闘は不得手でどちらかといえば妖術、妖具の類を用いた戦法を得意とするのだ。単純な肉体の反射神経一つをとっても人狼と妖狐では比較にならない差がある。
 だからといって、真狐には自分が危機に陥ったという自覚は毛頭なかった。むしろ『その程度の策しか思いつかないのか』という呆れさえも口元に浮かべてつまらなそうに足をぶらぶらさせていた。
 犬狼族の身体能力は確かに驚異。だがその分、彼らは妖術に弱い。単純な目くらましの幻覚ですら容易にかかってしまうこともあるのだ。
 真狐はそのことを知っていた、だから逆に不機嫌になったのだ。同じ妖狐の刺客が通用しないのならば犬狼族の傭兵を使う、そんな単純な策で自分が捕らえられる、あるいは始末できると思われていると思うだけで腹がたった。
「……来るならいつでもどうぞ」
 さも小馬鹿にしたような口調で、当の真狐は長い髪を弄ったり枝毛を探したりして刺客のことなどまるで眼中にないといった態度をとる。
 そんなあからさまな隙を目の当たりにしても、六匹の刺客達は微塵も動かなかった。彼らなりに警戒をしているのか、それとも何かを待っているのか。
 細い月が雲に隠れ、何度か犬の遠吠えが木霊した時、唐突に三人が動いた。音もなく跳躍して、真狐目掛けて黒い、油の塗られた刀を打ち下ろしてくる。その狙いには寸分の狂いもなかった。さらに時間差で残った三人も刃を携え斬りかかる。万が一初撃をかわされ逃げられた時もその三人が追撃してトドメをさす ―――そういう作戦だったのだろう。
「ふんっ…」
 始めに動いた三人が自分のすぐ側まで来るその一瞬さえ、真狐は特に身動きもしなかった。ただ鼻で笑い、尻尾でぺちんと古タイヤを叩いただけだ。
 だが余裕ぶったその顔は次の瞬間には驚きと、苦痛の入り交じったものに変わっていた。
 襲いかかってきた三人の刃は彼女の体を外れるどころか寸分の狂いもなく、彼女の白い皮膚を切り裂き、急所にめり込んでいた。
「がっ……」
 驚愕。言葉を発する前に、口腔から赤いものが溢れた。咄嗟にその掌に炎が奔る、あまりに弱々しく、遅すぎる反撃だった。炎は何をするでもなくすぐにかき消えた。
 彼女の疑問に答えるように刺客の一人が囁いた。
「得意の幻術が我々に効かなくて意外でしたか」
 漆黒の覆面の下で、刺客はさも余裕ぶった口調で唇を踊らせる。くぐもってはいるが、若い声だった。
「貴方達妖狐が思っているほど犬狼族も馬鹿ではありません。幻術にかからぬよう、薬で一時的に盲目になり標的を追跡、仕留めることなど造作もないこと。我々には、どの種族にも劣らぬ嗅覚があるのですから」
「くっ……!」
 苦痛に歪む口元、大きく噎ぶと喉奥から大量の赤い液体が口腔内に溢れ、胸元と着物を朱に染めた。
 ぎり…と赤く濡れた歯を鳴らして、食いしばる。その体に先ほどの火花のような炎とは違う、大炎が宿った。赤を超えて青白く燃えさかる炎が鋭い光を放ちながら、刺客達を捕らえ始める。断末魔―――。
「道連れ、ですか。冗談ではありません」
 刺客が口を開き、言葉を終えるよりも早く、女の…妖狐の首は胴から離れていた。その首は細い髪を周囲にまき散らし、手鞠のようにタイヤの斜面の上を弾みながら落ちていった。
 同時に、炎も空気に溶けるようにかき消された。あとに残ったのは。首のない女の死体だけ―――その筈だった。
 異変に気づいたのは全員、それもほとんど同時だった。刺客―――自分を含めた仲間の人数が五人に減っているのだ。
「…―――ッ!」
 次の瞬間、先ほど愉悦を浮かべて”冥土のみやげ”を残した人狼の男の方に他の四人が顔を向けた。
 あっ…と声を漏らす間もなく、今度はその男の首が飛んだ。三、四人目も同様に仲間の刃によって首が飛んだ。そして最後の二人は共に心臓を貫き合って絶命した。
 

「おバカさんねぇ。幻術は何も視覚だけじゃないのよ」
 真狐は離れた場所の別のタイヤの山の上で、六人の刺客達が同士討ちをするのを不機嫌そうに横目で見ていた。
 もちろんその体には傷一つ負ってはいないし、首もつながっている。刺客達は彼女に触れることすら出来ずに敗北したのだった。
 彼女がかけた幻術はごく単純なものだった。それは仲間の一人が標的―――つまり真狐に見えるというものだ。
 確かに刺客達は薬を飲み視力を一時的に失うことで視覚で惑わされることはなくなった、だからといってそれが完璧な防御だと思うのはあまりに浅はかな考えだった。
 幻術というものはもっと奥が深い。物理的な目くらましから視神経や脳に働きかけるものまで様々だ。盲目などという方法で防げるのは初歩の初歩、視覚的な幻術だけにすぎない。
 真狐が先程連中に施したのは嗅覚から作用する幻術だった。己のフェロモンに幻惑の妖気をたっぷりとのせて嗅がせる―――さすが犬狼族の鼻は自慢するだけあって効果はてきめんだったようだ。
 ただ―――と真狐は思う。もしこれが五百年、否…百年前の犬狼族の刺客相手であれば、このような子供だましは通用しなかったのではないか。犬狼族の自慢の鼻の自慢たる所以は微かな匂いも察知できる鋭敏さではない、そこから得られた情報の真偽を”かぎ分ける”ことができるかどうかでその真価が問われるのだ。そういう点で先ほどの連中は彼女にしてみれば下の下も良いところだった。
 さらに付け加えれば標的に対して口を開くとはどういうことなのだろう。自慢げに己等の策を披露して矮小な優越感に浸りたかったのか。捕縛ではなく暗殺が目的なのであれば姿など見せずに問答無用で斬りかかってくればいいのだ。尤も、ああもあからさまに周囲に殺気を放っていては野ウサギ一匹仕留められないのではないかと思う。
 真狐は犬狼族の男達は決して嫌いではなかった。種族揃って何処か不器用な実直さがあり、忠義というものを何より大事にしてそれに殉じて死ぬことを至上の悦びとする。人間で言う武士道にも似た風潮を持っているのが犬狼という種族だ。
 過去、何度か体を交えたこともある。
 しなやかな体つきからは想像も出来ない鋼のような筋肉、熱く迸る体温、かさついた肌の手触り、荒々しい息づかい、微かに鼻腔をつく汗の匂い…五感の全てに訴えかけてくる魅力。包容は満足に呼吸もさせてもらえぬほど力強く、ただ抱きしめられているだけでいくらでも淫蕩とした蜜が溢れてきた。
 犬狼族の男達はそろって絶倫で、まぐわいが一昼夜を超えることなどは茶飯事だった。圧倒的な腕力、握力で無理矢理ねじ伏せられ、腰を掴まれ声が枯れるまで戦慄《わなな》かされる。固い肉に体の芯を串刺しにされ尻が腫れ上がるほど腰を打ち付けられ、強引に最奥まで突き上げられたかと思えば容赦なく子種をはき出され肉襞に執拗に塗りつけられた。交接の最中は殆ど忘我状態だった。意識を保ち続けるのはそれこそ快感という名の荒れ狂う波の中で小舟を転覆させまいとするようなものだ。理性の小舟が転覆したあとはただ、肉欲という海に溺れるだけ。全身を牡の体液でしっぽりと濡らされ。小指一本動かせないほどに犯しつくされる…それが犬狼族の男との交接だった。
 一人、人間で言う恋愛ごとのような関係になった男も居た。気が遠くなるほど昔のことだ、今となっては顔もろくに思い出せない。
 ただ、一つだけ強烈に憶えていることがあった。それは目だ。名刀のみが放つ冷たい輝きのような光に満ちた、至上の宝玉を思わせるギラギラとした蒼い眼。ある時は驚きに満ち、ある時は殺意に燃え、ある時は慈しみに満ちる。男のその目つきを思い出すだけで、体がとろけてしまいそうな程の快感が、そして皮膚を内側から食い破られるような苦痛が蘇ってくる。
 だが、件の男はもうこの世には居ない。全ては遠い記憶の中のことだ。それこそ、気の遠くなる程の昔―――。
「………ほんっと、ワン公族ってバカばっかりなんだから」
 ため息をつきながら、真狐はおもむろに人差し指を立てた。その指先には小さく光る、赤い塊があった。
「後ろに居る奴。あんたも死ぬ?」
 言うが早いか、真狐はぴっ、と指先だけの動きで赤い光を背後、十数メートル下の暗がりへと放っていた。
 光はゆらりと揺れながらまるで蛍か何かのように暗がりへと近づき、そして唐突に爆ぜた。
「―――ッ…!」
 うめき声のようなものが一瞬だけ聞こえた。と、同時に一つの影がその場所から飛び出していた。
「なーにビビッてんの、ただの目くらましよ」
 躍り出てきた影を見下ろしながら、真狐は相変わらず足をぶらぶらさせて頬杖をついていた。そして、空いている手の指でもう一度赤い光を作り出した。
「…でも、次は殺す」
 人影を見下ろしながら、ゆっくりと、赤い光を握り拳大にまで膨れさせる。それは炎というよりは凝縮された火球だった。彼女の双眸とは対照的に熱く滾り、眼下の影に無言の圧力をかけた。
 人影はしばし逡巡したように体を揺らして、そして程なく姿を消した。その去り際を見て逃げ足だけは半人前だと思った。ちなみに他の所はそれ以下だ。
「……………”あんたは強い。だが、皆があんたのように強いわけじゃない”」
 何かの台詞を棒読みでもするように、真狐は呟いた。先ほどの影が去る前に呟いた言葉だった。正確には声を聞いた訳ではない、覆面越しに唇を読んだのだった。
「あー…そういえば、弱いのが居たわねぇ。一匹…」
 真狐の脳裏に浮かんだのは、一番最近に産んだ娘の顔だった。すぐに目を細めるような仕草をした。遠視、別名千里眼の術と呼ばれるものだ。ちっ…と舌が鳴る。
「……あたしも人のこと言えないわね。……やられたわ、畜生」
 べちんっ、と尻尾が一度だけタイヤを叩いた。まるでそれが合図だったかのように隠れていた月が再び顔を覗かせた。
 月の光に再び照らされた空き地にはもう母狐の姿は無い。ただ、人の目には野犬の死体にしか見えない若い犬狼族の男達の躯が六つ、滑稽な体勢で横たわっているだけだった。 




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