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 “銀狐”というものが、自然界でごく希に産まれることがある。名前の通り、産まれながらにして体毛が銀色をしており、その知能は従来の狐に比べて数段高いと言われている。そうでなければ、目立つ体毛のハンデを背負って自然界で生きていくことは出来ないからだ。
 ツクヨミは、まさにその“銀狐”だった。それも、“妖狐の銀狐”である。それは、同時に途方もない潜在能力を持ち合わせていることを示していた。
 世に産まれ、およそ千年。修行を積んだ結果、尾は五つに増え、その妖力は銀色の毛並みに恥じぬ程に凄まじく、“現役”の妖狐の中には既に並ぶ者は居ないとさえ言われている。
 そのツクヨミにとっての最大の秘密――泣き所と言い換えても良い――それが“出自の問題”だった。

「……違うって言ったら、アンタは信じるの?」
 ツクヨミの言葉を受けて、真狐はまるで挑発するように鼻で笑う。
 ビキッ……とひびが入り、割れたのはツクヨミの足下の瓦だった。不可視の力が、ツクヨミの周囲に満ちつつあった。
「戯言をッ……母上、貴方はいつもそうだ。誤魔化し、謀り、嘲笑う…………千年前から何も変わってはいない……!」
「そういうアンタはずいぶん変わったじゃない? 見違えたわ」
 くすくすくす……。真狐が着物の袖で口元を隠して笑う。―――ギリッ、とツクヨミの歯が鳴った。
「……言えッ、皆に何をした!」
「別に、大したことじゃないわ。ちょっと“呪い”をかけてやっただけよ」
 と、真狐は右手に握っている短刀を持ち上げる。青白い光を放つそれは明らかに尋常の代物ではない――何らかの特性を持つ妖刀の類に、ツクヨミには見えた。
「アンタだって、自分たちの足の下に埋まってるモノくらい知ってんでしょ?」
 にやにやと、真狐が意地悪な笑みを浮かべる。ツクヨミはしばし黙った後、ハッと口を開いた。
「まさかっ、四宝剣を―――ッ!」
「そういう事。あんた達が普段口にしている水の殆どは埋められた水の宝剣から滲み出る地下水、それを媒介にして“呪い”をかけてやったのよ」
 四宝剣―――さる大妖狐が作り出したと言われる火、水、土、風の四振りの宝剣を総じてそう呼ぶ。そのうち、水の宝剣は過去に御那城山に埋められ、それ以降恵みをもたらし続けている。――御那城山の名の由来にもなったその故事を、妖狐で知らぬ者は居ない。
「さすがに“五本狐サマ”には効かなかったみたいだけど、他は全滅みたいね」
「―――……母上、貴方はっっ……!」
 くつくつと楽しそうに笑う真狐を、ツクヨミは射殺さんばかりに睨み付ける。
 そう、文字通り真狐は呪いをかけたのだ。何らかの手段で宝剣そのものに働きかけ、そこから湧き出る水を飲んだ者、もしくは今まで飲み続けた者のが心身を害するような呪いを。
 さすがの妖狐も、己の体内の水分を媒介に呪いをかけられてはたまらない。自分の体の中に突然大量の毒物が発生するようなものだ。だがそれは毒ではない、あくまで呪いなのだ。毒であれば、解毒の術でモモも救えた筈なのだ。
「そんなに焦らなくても、まだみんな生きてるわよ。……もっとも、このまま呪いをかけつづければ死ぬのは確実だけど」
 ツクヨミに見せつけるように、蒼く光る刃を紅色の舌でなぞる。その短刀が地下の宝剣に呪いを伝達させる触媒になっていることは明白だった。そして、それを握る真狐自身に触媒へと妖力を送るのを止める意志が無い事も。
「…………―――っ……!」
 ツクヨミが、下唇を噛む。一つだけ、今すぐに“呪い”を止める方法がある。それを、ツクヨミはすぐに実行した。
 その背後から一気に“赫”が溢れ出し、世界を染め上げていく。塗り替えられていく。
 幻界の発動。
 二人が立っている場所は既に城の頂上ではない。赤茶けた荒野の真ん中だった。真狐が感心するようにヒュウ、と口笛を鳴らした。
「随分と殺風景な所ねぇ……。今までいろーんな奴の“幻界”を見てきたけど、アンタのが一番センス無いわ」
 真狐の右手の宝剣から光が失われていく。それは他ならぬ真狐自身が妖力の供給を止めたからだった。幻界へと隔離された今、実質的に御那城山には真狐とツクヨミは存在しない。そう、ツクヨミが幻界に居て真狐の侵入を感知できなかったように、幻界に居る今は触媒を使って宝剣に働きかけ、呪いを発動することはできない。
 そう判断したから、ツクヨミは幻界を発動させた。……勿論、“理由”はそれだけではないが。
「…………母上、貴方は何故……ここに来た」
 それが、ツクヨミには理解できなかった。
 確かに、ツクヨミは配下の者達に真狐を捕まえるように指示を出した。だが、まさか向こうから乗り込んでくるとは正直予想していなかった。
 ツクヨミを含めた御那城山の全妖狐の戦力を考えれば、正気の沙汰とは思えない行動なのだ。仮に今のように、ツクヨミを除く全妖狐が戦闘不能に陥ったとしても、五本狐の自分が一本狐の真狐に負けるはずがない。
 不可解だった。
「そんなの決まってるじゃない」
 だが、乗り込んできた張本人はそれこそ何でもないように、けろりと言い放った。
「実の母親に手を挙げる不良娘に仕置きをしに来たのよ」
「……っ……! 何を今更っ、元はといえば母上、貴方がっ―――」
「言い訳はいいわ。今度のことでアンタが本気であたしを殺したがっているってことはよーーく分かったから」
 ツクヨミの言葉を遮り、真狐が強い口調で言い放つ。機嫌が悪いのか、少し怒気の入った声だった。……反射的に、ツクヨミは唇の動きを止めてしまう。
「だいたい、あたしに文句があるんなら初めからアンタが来りゃいいのよ。それをちょこちょこと雑魚の使いばっかりよこして……。面倒だからあたしの方から出向いてやったってわけ」
 にぃっ、と笑みを浮かべる真狐。その意味深な笑みがツクヨミには不快でたまらなかった。相変わらずの人を食ったような口ぶりも然り、まるで“アンタなんか敵じゃないのよ”とでも言いたげな態度も、何もかもがツクヨミを苛立たせた。
 ギリギリと歯が鳴る。
「……アンタもバカよね。あたしを怒らせさえしなきゃ、もうしばらくはお山の大将で居られたのに」
 そして、蔑むような目。今度は冷や汗が出た。
「なっ……をっ………!」
 言い返そうとした。罵声の一つも浴びせてやろうとした。だが、舌の根が乾いて巧く回らない。言葉が口から飛び出さない。真狐の怒気を含んだ声を聞いてから、全身が凍り付いたように動きが鈍い。
 ギリギリと、また歯が鳴る。噛みしめる。一度奥歯を離してしまえば、そのままがちがちと震えだしてしまいそうだった。それを無理矢理、ツクヨミは噛みしめていた。
 こめかみを汗が一筋、伝う。
 馬鹿な……違う。こんな筈ではない。千年前とは違うのだ―――何とか自分を奮い立たせる。
 そう、昔とは違う。何をやっても敵わなかった昔。騙され、嘲られ、泣かされ続けたあの頃とは違うのだ。
 千年修行をした。妖力は言うに及ばず、百を超える術を覚え千の妖狐を従える大妖狐。それが自分なのだ。
 何故、たった一匹の妖狐、それも一本狐に怖れを感じる必要があるというのか―――!
「だ、黙れッ……!」
 他者を威圧するためというよりは、己を奮い立たせようとするかのような大声だった。ツクヨミは肩を怒らせ、再び睨み付ける。
「母上、貴方如きが今の妾《わたし》に勝てると思っているのか!」
 罵声。ツクヨミは顎を引き、見上げるようにして真狐を睨み付ける。
「……たかだか千歳そこそこのガキが、ちょっとばかし力つけた位でいい気になってんじゃないわよ」
 真狐はフンと鼻を鳴らし、ツクヨミの視線に対抗するように睨み、見下ろす。その目は、些か怒気―――否、殺気に満ちている。
「これが最後通告よ。今すぐ土下座して謝れば今回のことは水に流してあげる。……でも、アンタがあくまであたしと戦る気だっていうなら―――」
 真狐はそこで間を開け、僅かに顎を引く。そして小声で、呟く。“―――死ぬより辛い目に遭うことになるわよ”と。
「誰がッ……! 詫びを入れるのは母上、貴方の方だ!」
 スッ……と、ツクヨミの周囲に微かに土埃が立つ。程なくその両足が地から離れ、浮く。同時に、蛇の様な炎が五つ、ゴウと音を立ててツクヨミの周囲を旋回し始める。
「……どーやら、アンタは肝心なことが分かってないよーね」
 真狐はさもめんどくさそうにため息をつき、髪を雑にかき上げ、ツクヨミを見上げる。
「ツクヨミ、教えてあげるわ。妖力の差が必ずしも戦力の決定的差にならないって事をね―――!」



 


 

 五本狐の妖力は強大である。
 その総量は一本狐のおよそ万倍。だがそれもあくまで一般論に過ぎない。一本狐の妖力も個人差があるように、五本狐の妖力もまた個人差があるからである。
 ツクヨミは妖力量という点においては五本狐の中でも飛び抜けていた。銀狐というのはそれほどに凄まじいものなのだ。
 そのツクヨミが、まともに術を行使し、戦えばどうなるかは想像に難くない。下手をすれば御那城山の居城はおろかそこで昏倒している無数の民までが巻き添えになってしまう。
 ツクヨミが幻界を作り出し、“そこ”で敵と戦う一番の理由はそれだった。全力を出しても誰も巻き添えが出ない、妖力で作り出された密閉空間。そして、それは同時に“敵”は絶対に逃亡できないという事でもある。
 幻界に入ったが最後、いかなる敵も釈迦の手の上の孫悟空と同じ。ツクヨミを倒すか、ツクヨミ自身が幻界を終局させない限りは決して出ることは出来ない。

 ゴウと音を立てて、ツクヨミの周囲を五つの炎が旋回する。赤い、よく見れば巨大な蛇のように見える炎である。炎蛇、と呼ばれるものだ。炎に、召喚した蛇の霊を融合させたもので、標的の妖気を察知し、自動的に追尾をして巻き付き、その体を燃やし尽くすのが特徴である。―――が、それもツクヨミが使えば、標的に巻き付いて燃やすなどという生半可なことでは済まない。度を超した燃焼はそれ即ち……“爆発”である。
 ツクヨミが大仰な仕草で右手を振りかざし、指先を全て真狐の方へと向ける。と、同時に五つの蛇は空中を這うように蛇行し、互いに絡み付くようにうねりながら、真狐の方へと突進していく。
 真狐がそれを避けようと、微かに腰を屈めた時だった。
「“動くなッ!”」
 ツクヨミが、凛とした口調で言い放った。それは、音波とは違う、指向性の妖気の波動となり、蛇を追い越して真狐へと向かう。
 言霊、といわれる現象である。それ自身が膨大な妖力の塊であるツクヨミは、ただジッと佇んでいるだけでも、周囲の物質に影響を及ぼしてしまう。ましてや、言葉を発するとなればその影響力は格段に跳ね上がる。
 普段、妖力の放出を抑えて日常生活を送る上では大した問題はない。が、しかし戦闘時、妖力の抑制を外した状態で叫べば、その言葉自体がある種の“術”と化してしまう。
 発声する言葉そのものが、ちょっとした妖力の塊なのだ。そしてそれは、聞く者に対して強い暗示性を示す。
 催眠状態にある人間が、『これは焼きゴテだ』と言われてただの棒を押し当てられるだけで火傷をしてしまうのと同じように、ツクヨミの言葉はツクヨミに対して“恐怖”を抱いている者に特に良く作用する。
 綱牙のケースがまさにそれであった。勇ましく荒ぶっている最初は良い。だが、一度恐怖に囚われれば後はもうツクヨミの思うつぼである。足が木の根になると言えばなり、腕が爛れると言えば爛れる。妖気を含んでいる分、ツクヨミの言葉は生半可な催眠術よりもたちが悪い。
 五匹の蛇が、先を争うようにして真狐の居た地点へと殺到する。ドォッと轟音を響かせ土煙が派手に上がり、しがない一本狐などはその一撃で死ぬ―――筈だった。
「な……に……っ……」
 土煙が晴れた後、炎蛇が食らいついたその場所はちょっとしたクレーター状に抉られていた。その傍らで真狐は事も無げに薄ら笑みを浮かべ、ツクヨミを見上げていたのだ。
 避けた―――ということだろうか。いや、そんなはずはない。避けるどころか、動くことすら出来なかった筈なのだ。聞いた者がそうなる言霊を、ツクヨミは発したのだから。
「なぁに、もう終わり? 五本狐って言っても全然大したこと無いのね」
 真狐はさもつまらなそうに呟きながら、欠伸までしている。
「ぐっ……何故、だ……。動けない、筈―――」
「バカねぇ、アンタ、言霊の仕組みもしらないの? いくら妖力差があろうと―――」
 キッ……と真狐が、ツクヨミを睨む。ゆったりとした着物がにわかに浮き、その体から妖力が沸き立ち、紅い光となって立ち上る。
「そんなもの、“アンタなんかに負けるワケがない”って思ってりゃいくらでも跳ね返せるのよッ」
 紅い光が、たちまち炎に変わる。それは、ツクヨミの方へと向けられた真狐の右腕を奔り、指先から離れた瞬間、カタパルトにでも撃ち出されたように速度を増し、みるみるうちにツクヨミの方へと迫る。
 先ほどのツクヨミの攻撃が蛇だとすれば、これはさながら炎の槍だった。速度だけを比べれば、ツクヨミの蛇の五倍は早い。
「くっ……!」
 ツクヨミは咄嗟のことで、回避が遅れた。だが、真狐の炎は結局ツクヨミの元へと届かず、代わりに何か透明な壁にでも当たったかのように派手な音を立てて弾け、消えた。
「ふ、く、はははっはっ……っ……母上、それが貴方の全力かッ!」
 両手を交差させるようにしてガードの体勢をとっていたツクヨミが、炎が届かなかったと知るや否やぎこちない笑みを浮かべる。
「その程度の炎、妾の障壁の前には全くの無意味ッ、避けるまでもないッ!」
 不可視の障壁。戦闘時に妖狐が防御用に纏う一種の結界である。敵の攻撃全般を緩和する為の障壁もあれば、物理攻撃の緩衝のみを目的とし、それに特化した障壁、もしくはその逆、妖力を用いた攻撃の拡散に特化したもの等々。優れた妖狐ほど戦況に応じてそれらを駆使し、あるいは複数同時に用いて戦う。
 先ほど真狐の炎を弾いたのは妖力拡散に特化した障壁だった。妖狐対妖狐の戦いの場合はこの障壁の強弱が勝敗を分けると言っても過言ではない。
「避けるまでもないんじゃなくて、ビビって避けられなかったんでしょ?」
 言葉は正しく使いなさいよね―――そう呟きながら、真狐は自分の攻撃が弾かれた事など気にもしていないとでもいうように挑発する。さっきのはただの挨拶代わりだと言わんばかりの余裕である。
「ッ……減らず口をッ……―――これを見てもまだ叩けるかッ……!!!!」
 ツクヨミが叫ぶ―――と、同時にその周囲に先ほどと同じ蛇が現れる。だが、その数が凄まじい。先ほどのざっと十倍、五十匹相当もの炎蛇がツクヨミの周囲で渦を巻く。
「……ったく、数増やしゃいいってもんじゃないのよ。後で避ける方の身にもなれって―――」
 うんざりしたように呟くその口が、途中で止まった。ツクヨミから迸る妖力の波動がさらに増したのだ。みるみるうちに周囲を跳ぶ炎蛇の数が増えていく。五十が百に、百が二百に、二百が四百に、四百が―――
「ば、バカッ……ツクヨミ、あんたっ……なんて事っっっ……!」
 ツクヨミと対峙して始めて、真狐は驚きの声を上げた。赤く尾を引く炎の蛇がツクヨミの周囲から溢れに溢れ、空も狭しとのたうっていた。
「避けられるものなら避けてみろ、防げるものなら防ぐがいい! 母上、貴方が力尽きるまで十万匹でも百万匹でも召喚してやるッ!」
 ツクヨミが両手を振りかざすと、同時に無数の蛇が真狐目掛けて空を這う。
「……ッ……―――くッ……!」
 刹那、真狐の姿が消えた。否、正確には消えたように見える程のスピードで逃げたのだ。その、刹那秒前まで真狐が居た場所に無数の蛇が殺到しては砂塵をまき散らして爆発する。
「……縮地ッ、相も変わらず……そんな黴の生えた移動妖術をッ……!」
 ツクヨミの唇に微かに、愉悦の笑みが浮かぶ。同時に、ツクヨミを含む無数の炎蛇の姿がフッとかき消える。
 瞬間移動―――即ち転移の術。
 空間を跳躍し、現れたその先は―――
「ちぃッ……!」
 真狐の逃げる先の上空へと現れたツクヨミはその進行方向目がけて数百という炎蛇の群れをたたき込む。
 ――が。
「……少しはやるようになったじゃない、でも―――!」
 しゅたんっ、と真狐は逃げる方向を瞬時に九十度変える。その足跡を追うようにして、炎蛇が地面に突き刺さっては爆発を起こしていく。
 そもそも炎蛇の術というのは自立した追尾性能に重点をおいた術であり、弾速そのものは大したことはない。その為――当然狙ってやっているのだろうが――真狐にこうも直線的に逃げられると、その追尾が間に合わない。
 だが。
「逃さんッ!」
 逃げるその背を、クヨミが追う。転移の術ではなく、浮揚―――否、既に飛行と呼べるくらいの速度で。恐らく全力で逃げているであろう真狐の頭の上を瞬く間に追い越し、
「食らえ―――!」
 ィィィィィイッ!!!
 ツクヨミの体から、凄まじい量の妖力が迸る。その両腕を薙ぐと、雹と呼ぶのも烏滸がましい、巨大な氷柱が真狐の“着地点”目掛けて雨霰と降り注ぐ。
 高速移動妖術の定番とも言える、縮地の術。それは文字通り、地を縮める術である。走る際に動かす足のテンポは同じでも、一歩一歩の移動距離が倍になれば、移動速度も倍になるというのが、この術の根幹なのである。
 即ち、より速く、より遠くへ移動しようとすればするほど、一歩でまたぐ距離は膨大なものになる。だがそれは同時に、“一歩踏み出せば、地に足をつくまでは決して進む方向を変えられない”という事でもある。その弱点を、ツクヨミは突いたのだった。
「……―――くぅぅううううっっっ…………!」
 進む先に降り注ぐ氷柱を目の当たりにし、真狐の歯がギリリと鳴る。瞬きをする間もなく、真狐は氷柱の雨のまっただ中へと突っ込んだ。
「これで終わりだ! 消えろッ、妾の汚点―――!」
 さらにツクヨミは両手を翳し、今だ空に漂う無数の炎蛇達を氷柱の山目掛けて奔らせる。
 怒号。
 凄まじい音を立てて、瞬く間に氷柱が蒸発、さらに炎蛇の熱と反応して水蒸気爆発を起こす。そこへまた幾千、幾万の蛇達が殺到し、爆発の規模が膨れあがっていく。
 砂塵がキノコ雲のように膨れあがり、偽りの空へと舞い上がっていく。
 ツクヨミは最後の爆発が起きたのを確認してから、突風を起こしてそれらを払った。眼下には、直径一キロはあろうかというクレーターがぽっかりと口を開けていた。
 そこには、真狐の姿はおろか、その着物の切れ端一枚見あたらない。その殺伐とした光景を見て、ツクヨミはくつくつと笑みを漏らす。
「く、ふふふっ……はははははっっ……妾の勝ちだ、母上! あははははははっ!」
 苦笑するような笑いから、哄笑へ。だが、どこか破綻した笑み。
「大人しく捕まれば殺しはしなかったものを、下手に抵抗するからこうなる! 力の差も弁えず、妾に無礼な口を利いた報いだ!」
 天を仰ぎ、笑う。
 その視線の先には、偽りの空、そして偽りの太陽が浮かんでいた。そこに、ついと“影”が走った。
「はっ…………」
 笑い声が止まる。太陽を横切った“影”は鳥の形をしていた。それが、徐々に大きくなる。
「隼……か、馬鹿な、幻界に鳥など―――」
 居る筈のない鳥を凝視する。そのツクヨミの目が徐々に開き、唇が動く。―――“まさか”と。
 隼の影は徐々に大きくなり、やがて太陽そのものを覆い隠してはツクヨミの顔に影を落とす。―――否、その影は既に隼の形をしていなかった。ひらひらと着物を風に靡かせながら降りてくるそれは、その形は―――
「誰がアンタの汚点だってぇッ!!?」
 凄まじい怒気を含んだ声に、ツクヨミは反射的に身を竦ませた。それは言霊でも何でもない、体に染みついた一種の“条件反射”だった。
 “影”が眼前に迫る。その右手がすっとツクヨミの方に向けられる。ツクヨミは反射的に対妖術用の障壁を作り出し、防御の態勢に入った。が、ツクヨミの予想とは裏腹に、“影”は寸前でくるんと宙返りをし―――
「がッ……!」
 ゴンッ、と右肩の辺りに鈍い衝撃が走った。わけも分からないうちに、ツクヨミの体は浮力を失い、みるみる落下していく。ようやくのことで妖術を使われたのではなく、その足で蹴落とされたのだと判断した瞬間、全身が赤い大地に強かに打ち付けられた。
「ぐっっ……ふ……!」
 妖狐の体は決して打たれ強くはない。ツクヨミは辛うじて体を起こすと、即座に治療の術を自分の体に行使した。体は傷ついても、妖力だけは掃いて捨てるほどある。みるみるうちに、体の傷が癒されていく。
 その目の前に、すたんと真狐が降り立つ。ツクヨミは咄嗟に浮き上がり、距離を取る―――が、真狐からの追撃はそれ以上は無かった。
「何故だッ……!」
 血を吐きながら、ツクヨミは叫ぶ。ビル数階分の高さから蹴落とされたのだ、その治療は容易ではない。しかし、治癒の術も片手間にツクヨミは問いかけずにはいられなかった。
「何故ッ……生きている……!」
 見下ろす。真狐の姿は殆ど無傷と言ってもいい。そんなはずはないのだ。縮地の術の弱点を突き、足が止まったところを万を軽く超える炎蛇の爆発で包んだのだ。その一発々々が、一本狐など軽く爆死させられるほどの威力なのだ。耐えられる筈はない。仮に耐えたとしても、無傷な筈がない。
 事態の不可解さに、ツクヨミは震えた。体の傷が癒えるのと反比例して、眼下の妖狐に対しての怖れが増していく。戦力的には、圧倒的優位に立っているというのに、ツクヨミは怯え始めていた。
 そんなツクヨミを見上げて、真狐はまずため息を一つ。そして―――
「……ツクヨミ、あんた馬鹿でしょ」
 第一声がそれだった。
「着地するまで方向変えられないんだったら、そのまま飛んじゃえばいいのよ。そんな簡単なことも予想つかなかったの?」
 ふふんっ、と真狐は得意げに笑う。
「飛ぶ……だと?」
 ツクヨミはすぐに、真狐の言葉の意味を理解した。 縮地の術の途中、氷柱に激突する直前に隼に化け、そのまま上空に逃れたということなのだろう。とはいえ、それこそギリギリまで氷柱に近づき、激突したかのように見せかけなければ逃げたことがバレてしまう。目の前に迫る氷の壁に激突寸前まで接近し、さらに神業に近い刹那秒の変化を終えて離脱する―――真狐がやったことは、本人が言うほど簡単な事ではない。
「さっきの攻撃でハッキリしたわ。ツクヨミ、あんたには戦いに勝つ為に重要な要素が欠けているのよ。……それも、三つ」
 と、真狐は右手を差し出し、三本指を立てる。
「まず一つは“格上の相手”との実戦経験。今までどれだけ雑魚と戦ってきたのか知らないけど、そんなのは実戦の内には入らないわ。論外」
 真狐は指を一本折る。
「次に、冷静さ。すぐカッとなって周りが見えなくなるのは相変わらずね。千年経ってもちっとも治ってないわ」
 そして、指をまた折る。最後に残った人差し指を、ツクヨミの方に向ける。
「最後の一つ、何か分かる?」
 これが最も重要よ―――と、真狐はにやにやしながら呟く。ツクヨミは苦々しく唇を引きつらせながら、沈黙を守る。
「ほんっと馬鹿ね。こんなのも分からないからこれだけハンデつけてやっても勝てないのよ」
 はあ……と真狐はため息をつく。
「経験も足りない、冷静さも足りない。でも、何よりアンタには親のあたしを敬う心が足りないのよ。そこがもーダメ、ダメすぎて怒る気にもなれないわ」
 なっ……と、呆れるような声を出したのはツクヨミだった。わなわなと肩が震えている。
「何を馬鹿な……そんなことが戦いに何の関係があるッ……! 第一、貴様の様な淫婦の何処を敬えというのだ!」
 激情のあまり、“貴様”と口走ってしまう。だが、真狐は別段気にしない素振りで、それどころかますます余裕の笑みを浮かべる。
「あら、いくらでもあるじゃない。たとえば―――」
 と、両手を寄せ、ただでさえ目を引くその胸元を強調するように寄せる。
「この辺とか、ね」
「……っっっ……ッ!!」
 ツクヨミは怒りに顔を引きつらせ、さらに反射的に両胸を隠すような素振りをしてしまう。――くつくつと、真狐が笑う。
「何枚も重ね着して隠してるつもりなんだろうけど、ハッキリ言ってバレバレなのよ」
「………………っっ……それが、何の関係が―――」
「大ありよ。貧乳は巨乳には絶対勝てないの。これは自然の摂理なんだから」
 けらけらとむちゃくちゃな論理を振りかざす真狐。対するツクヨミは、わなわなと肩を怒らせている。
「ほぉら、冷静さが足りないって言ってるそばから怒っちゃダメじゃない。…………また胸が縮むわよ?」
「―――ッッッ!……言いたいコトは…………それだけかッッ!!!!」
 傷は全快。同時に、妖力解放。それも、先の戦いの時の数倍、全力解放である。
「…………ふふ、続きは……アンタを負かして這い蹲らせてからにするわ」
 軽口を叩くも、妖力を全開にしたツクヨミから発せられるプレッシャーは相当なものである。微量の電気が肌を流れるような独特の感触に、真狐はぺろりと舌を出して唇を濡らす。その体に、紅い光が灯る―――が、それはツクヨミから溢れるものに比べてあまりに弱々しいものだった。



 


 くおぉぉぉーーーーんん!

 夜空に、子狐の叫びが響き渡る。屋根の上に登り、まるで犬のように遠吠えを繰り返すのは言わずもがな真央だった。
 月彦と真狐が旅立って(?)から既に二日。荒れ果てた庭の修繕も半ば終わり、春菜はのんびりと月見などをしていた。その隣には桔梗が居る。
「はぁ……」
 月を見て、ため息。先ほどからおちょこを口にするも、酒の量自体は全くと言っていいほど減っていない。
 また、真央の遠吠えが響く。その後に春菜のため息。それらが一種のサイクルとなって先ほどからずっと繰り返されていた。
「――以上が、菜園からの報告になります。……それから、蔵から消えた大量の酒についてですが、やはりあの女が盗んでいったと見て間違いなさそうです」
「……そう」
 なんとも気のない返事だった。主のあまりの落胆ぶりに、桔梗は胸に微かな痛みすら感じる。
「春菜様……」
 いい加減、人間の男のことなど忘れてください―――そう言おうとするも、喉で言葉が止まってしまう。春菜の落胆ぶりを見ていると迂闊な言葉はかえって逆効果に思えた。
 二日前、桔梗(+真央)が伝令から帰った時、荒れ果てた湯殿で春菜は呆然と立ちつくしていた。何があったのかはおおよそ想像がつく。
 真狐が旅だったのだ。それも、人間の男―――月彦を連れて。なぜそんなことをしたのかは桔梗には想像もつかない。この期に及んで何故大量の酒などを持ち去っていったのかも。
 ただ、分かったことはそのせいで自分の主人が落胆、消沈してしまったということ。そしてその娘である真央の挙動までがおかしくなってしまったことだ。
 真央は夜が来て月が出る都度、屋根に登っては一晩中遠吠えを繰り返した。止めろといっても決して止めない。無理矢理屋根から引きずり降ろしても、気がつくとまた登って吠えている。桔梗はもう放っておくことにした。
 所詮客人の娘。世話をする義理はあっても義務はない。それよりなによりも、自分にとって唯一無二の主人の事が気に掛かって仕方がなかった。
「大丈夫です、きっと……無事に戻ってきます」
 そういった気休めしか、桔梗には言えなかった。そう、まさに気休めである。他ならぬ桔梗自身も勝てるはずがないと思っていた。
 妖狐対妖狐の戦いは双方の得意技の性質上、どうしても妖術合戦の体を取らざるを得ない。となれば、ものを言うのは保有する術の数と完成度、そしてそれらを十分に行使するための妖力である。
 ツクヨミは五本狐、その妖力は言わずもがな広大無辺――底なしと言い換えても良い程だろう。使える術の数は百とも千とも囁かれ、どう考えてもまともな妖術合戦では勝ち目はないように思える。
 唯一、勝算があるとすれば、それは―――
「桔梗、」
 突然名を呼ばれ、桔梗は慌てて春菜の方を向いた。
「私にはね、どうしても分からないの」
「……春菜様?」
 桔梗が尋ね返すと、春菜はまたしても、はぁ……と深いため息をついた。
「貴方の目から見て、彼女は……ツクヨミに勝てそうだと思えて?」
 それは単純に、あの真狐なる妖狐から感じる妖力量や技量を客観的に判断せよと言うことなのだろうか。桔梗は軽く記憶を探ってから、
「いいえ、とても……」
 すぐに結論を出した。確かに、一本狐としてはなかなかの力量だとは思う。が、しかしそれは万対一以上の妖力差を跳ね返せるほど劇的なものでもなかった。
「でも、彼女はツクヨミの所に向かった。何故かしら?」
「……それは……恐らく、何らかの勝算があったからではないでしょうか」
 桔梗にはそうとしか思えない。だが、春菜はすかさず、
「勝算は無いわ」
 そう断言した。そしてふう……と小さくため息をつく。
「そんな……、全くのゼロということは……。たとえば―――」
「毒殺、暗殺――彼女の性格から考えて、そういう手段は絶対にありえないわ。……あり得るとすれば奇襲、夜襲の類だけれども……」
 春菜はあっさりと、桔梗が言わんとした事を先読みした。桔梗は言葉を飲まざるを得ない。
「確かに、全くの無警戒状態からツクヨミに渾身の一撃を入れられれば勝てるかも知れない。でもそれは障壁が無かったらの話。いくらツクヨミ本人が無警戒でも、突発的な襲撃に備えて最低限の防御障壁は展開している筈。でも、彼女の今の妖力ではその渾身の一撃ですら、ツクヨミの防御障壁を貫けないの」
 これがどういう事か分かる?―――春菜は寂しい笑みを浮かべながら小声で呟いた。
「全ての攻撃が効かない……ということ、ですか」
 呻くように、桔梗は言った。妖狐が展開する防御障壁。それは、他の種族に比べてどうしても肉体的に劣る妖狐が戦闘時に身に纏う妖力の鎧である。全身を包み込むように球状に展開するものから、体の一部分のみに収束させるもの等々、形も様々ならその特性も様々である。
 高位の妖狐になれば戦闘時でなくとも普段から警戒用の障壁を身に纏う。当然、戦闘時に比べてその防御力は劣るものの、本人が無警戒だろうと寝ていようと無意識に展開されるそれは暗殺者にとっては極めて厄介な代物である。
 そして当然の事ながら、その警戒用の防御障壁の防御力も妖狐の力量に左右される。春菜が言っているのは、真狐の渾身の一撃をもってしても“警戒用の防御障壁”すら貫けないという事なのだ。これが何を意味するか、桔梗が述べた通りである。
「しかも、ツクヨミの居る御那城山には少なく見積もっても千人以上の妖狐が居るわ。ツクヨミを敵に回すということはその全員を敵に回すと言うことなの。仮に、何らかの手段でツクヨミ以外の全員を行動不能にして、ツクヨミに奇襲を仕掛けたとしても彼女の攻撃はツクヨミには効かない」
 春菜はそこで言葉を切った。くぉぉーーんん!と、真央の遠吠えがまた響く。
「分からないわ。彼女なら、ツクヨミと同等――せめてツクヨミの1/3でも妖力を蓄えて行けば、互角以上の戦いが出来る筈なのに。どうしてわざわざ自分から死にに行くような真似をするのかしら」
「春菜様……」
 主の複雑な胸中を、桔梗は空気を通じて敏感に感じ取っていた。単純に“逃した獲物”の事や、悪友の身を案じているだけではない、もっと深い何かを春菜は思案している様だったが、桔梗にはそこまでは察する事は出来ない。
 だから。
「…………それとも、“母親”になれば、彼女の気持ちが分かるのかしら」
 最後に一言。どこか羨むような目で靜に呟いた春菜に、桔梗はもう何も言えなかった。
 


 


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