とても充実した休日だった。寝覚めも良く、食事を食べ過ぎるということもなく、買い物にも行ったから適度に運動も出来ている。勉強も、深夜ラジオ用のネタ出しも順調だった。特にネタ出しの方はアイディアが溢れて止まらず、応募用の葉書の在庫が無くなる程だった。
時計を見ると、午後九時を過ぎている。入浴も既に終え、あとは歯を磨いて寝るだけだ。本当に、一分の隙も無いくらい充実した休日であったと自覚する。
なのに。
「…………………………。」
満ち足りない――そう感じるのは何故か。何かが足りていないとは感じるが、それが何かが分からない。そんなもどかしさに、妙子は勉強机に向かいペンを回しながら思案する。
深夜ラジオ用のネタに不満があるのだろうか。束になるほど書きためた葉書をもう一度チェックする。
……大丈夫、面白い。思わずにやけてしまいそうなくらいに絶好調だ。今から次の放送が楽しみでならない。
やはり葉書は大丈夫だ。では何が原因なのだろうか。
考える。
……奇妙な疼きを感じる。手が思わず葉書に伸びてしまうが、やはり内容に問題はない。
やがて妙子は気づいた。書いたネタに問題があるのではない。単純に、書いた量が物足りないのだと。
既に普段の倍以上ものネタ葉書を書いているというのに、アイディアが溢れて止まらない。こんなことは初めてのことだった。やむなく妙子はメモ帳にネタを書き留めておくことにする。ネタというものは簡単に出ることもあれば、一週間悩み続けても一つも出ないこともあるのだと、身をもって知っているからだ。
溢れる。止めどなく溢れてくるネタをメモ帳に書き留めながら、妙子はそれでも満足出来ない自分に気づいていた。
――否。
実のところ、本当の原因について心当たりはあるのだ。ただ、それを認めるわけにはいかず、代償行為としてネタ出しで鬱憤晴らししているに過ぎない。
本当に、煩わしい男だと思いながら、妙子のネタ出しは深夜まで続いた。
翌朝、欠伸を噛み殺しながら登校した妙子は教室前の人だかりに思わずげんなりした。人混みそのものに、ではない。その人垣の向こうにあるものにげんなりしたのだ。
そういえば、そろそろ発表の時期だったと肩を落としながら自分の席に荷物を置き、廊下に出る。見たくはないが、見ないわけにはいかない。何故なら廊下に張り出されているのは、先日行われた実力テストの順位表なのだから。
正直、わざわざ張り出さなくても、とは思う。せめて校内ネットワーク上での公開にするとか、通知系のツールで個人に通知するとか、いろいろやりようはある筈だ。それでもこうしてわざわざ大々的に張り出すのは、前時代的ながらもやはり一番効果的なのだろう。
実際、自分が何点を取り何位だったのかを他クラスの生徒にまで見られるというのはかなりのプレッシャーだ。ましてや、妙子は特進クラスだ。他クラスの生徒に負ければ、それだけで陰口をたたかれる要因にすらなる。
心臓が高鳴る。テストの出来は悪くなかったが、良くもなかった。運が悪ければ、悲惨な順位もあり得ると思うと、進んで見ようとは思わない。しかし、自分が頑張った結果を知りたいという思いはもっと強い。
人垣を押しのけるようにして、妙子は順位表が見える位置まで前に出る。順位表はは縦書きで、順位、名前、点数の順で書かれる。順位は右が一位左が最下位。せめてもの学校側の配慮か、張り出されるのは百五十位まで。全クラスの生徒の合計が300人に満たない程だから、上位半分の名前だけが張り出されることになる。
妙子はいつも左端から順に名前を確認することにしている。特進クラスに在籍してはいるが、上位一桁になど入れたことが無い。過去一番順位が高かった時でも十番台の後半だ。上位から順番に「まだ無い……まだ無い」とヒヤヒヤしながら見ていくよりは、下位から順番に「まだ無い、まだ無い!」と期待を高めながら見ていく方が精神衛生上好ましい。……尤も、それで右端まで見ても名前が無く、上位百五十人にすら入れていなかったことが一度だけあり、とてつもないショックを受けたこともあるのだが。
「……三十二位、か」
ホッと胸をなで下ろす。とりあえず、上位四十位以内にさえ入っていれば、特進クラスなのにと後ろ指を指されることは無いだろう。
「英理は……三位か」
思わず溜息が出る。妙子の視点では、自分の半分も勉強してなさそうな英理が常に順位一桁をキープしていることが羨ましくもあり、どうやっても埋められない差に自嘲の笑みすら浮かぶ。仮に自分が食事と睡眠以外のあらゆる時間を全て勉強に費やしたとしても、英理の順位を超えることは出来ないだろうと思い知れば、張り合おうという気も無くなる。
「あれ……」
そこではたと、妙子は気づいた。左端から右端まで、上位150人の名前を順番に確認した筈なのに、”もう一人の秀才”の名前を見ていないことに。
見落としたかと思ってもう一度、今度は一位から順に左へと追っていく。
…………やはり、倉場佐由の名前が無い。
一体全体どういうことだろうか。佐由もまた英理に負けず劣らず上位の常連だが、その順位は英理以上に波がある。波があるが、一番低いときですら、特進クラスの人数40位より下回ったことは無かった。ついでに言えば、妙子より下であったことも一度も無かった筈の佐由の名前が、上位150人の中の何処にも無い。
テストは間違いなく受けていた。であれば、佐由の順位は百五十位以下であることになる。
……そんなことがあるだろうか?
妙子は佐由の姿を探した。もしかしたら、張り出された順位表を前にして絶望して立ち尽くしているかもしれない。しかしそんな心配はすぐに杞憂だと思い知った。
佐由は、居た。廊下ではなく教室に。その姿を見つけるなり、妙子は思わず眉を寄せた。
クラスメイトの大半が廊下へと出払い、教室内に残っている生徒もテストの結果について喧々諤々としている中、自分の席で手鏡を見ながら前髪を弄っているその様が、あまりにも浮いていたからだ。
浮いているという意味では、自分の席で陸に上がった軟体生物のようにとろけきっている英理も同じだが、こちらは単純にバイトの疲れによるものだろう。
そうだった、この二人はテストの順位が張り出されたからといって、朝一にハラハラしながら確認したりはしないのだ。皆が皆ひとしきり確認し終わって人が掃けた放課後の帰り際に「ああ、今回は2位か」と右の端をチラ見して、それで終わりなのだった。
そう。今まではそれで良かった――だが、今回は。
「佐由、佐由……ちょっといい?」
「ん? あぁ……おはよう、白石君。何か用かい?」
「……おはよう。ねえ佐由、あんたテストの結果見た?」
「テストの結果? あぁ……随分騒がしいと思ったら、そうか……もうそんな時期か。結果はまだ見てないよ」
「……見たほうが良いんじゃない?」
上位百五十人の中にあんたの名前が無い――とは、さすがに口に出来なかった。それは特進クラス在籍者として、人権を失いかねないほどの失態だ。……少なくとも、妙子自身はかつて漏れた際、呼吸をするのすら申し訳なく感じる程のプレッシャーに苛まれた経験があった。
「…………白石君がわざわざ言ってくるということは、余程良いか、悪いかだね。いや、一位を取ったからといって別に驚くようなことでもないから、悪い方確定か」
苦笑。しかし、佐由は席を立ちもしなかった。
「正直、今回のテストはさっぱりだったから、ある程度覚悟はしていたよ。心配をかけてしまったなら申し訳ない。次は挽回するさ」
「それなら……良いんだけど」
上位百五十位漏れのショックは”ある程度の覚悟”では足りないと思うが、佐由ならば意外と平気かもしれない。
「それより、白石君。どうかな……何か気づかないかい?」
「何かって……何が?」
「あぁ、いや……気づかないならいいんだ」
俄に消沈して、佐由が手鏡に視線を戻す。見れば、机の上にはファッション雑誌らしきものが広げられていた。
”あの佐由”が、手鏡を見ながらこんなものを読んでいるというのが、実際に目にして尚信じがたい。異様とも言える友人の露骨な変化が、妙子にはまるで何かの怪異にすら思える。
(……どうしたらいいのかしら)
友達として、何か悩み事があるなら相談しろと申し出るべきだろうか。しかし佐由を見る限り、何かに思い悩んでいる様子はない。ただ、妙子から見て明後日の方向に向かって邁進しているように見えるだけだ。
「ねえ、佐由……私で良かったら――」
「ああ、そうそう。話は変わるけど、白石君」
妙子が友達としての義務を果たそうと、なけなしの勇気を振り払って切り出した矢先。
「今度の土曜日は何か予定はあるかい?」
「予定って……」
てっきり勉強会でもやるつもりかと思った妙子は、佐由の言葉に文字通り絶句した。
「釣りにでもいかないかい? 私と、英理と、そして白石君とその幼なじみ三人で」
『キツネツキ』
第六十七話
「よぉ、月彦。例の件だけど、今週末でいいか?」
「例の件……?」
朝。学校で顔を合わせるなり謎の話を持ち出され、月彦は鞄を置きながらんんっと眉を寄せた。
「ほら、例のアレだよ。前に千夏が休み取れる日が決まったら釣りに行こうって言ってたじゃねーか」
「釣り……ああっ! あの件か!」
正直、すっかり忘れていた。和樹が言い出さなければ、永遠に忘れっぱなしだったかもしれない案件に、月彦は思わず声をうわずらせた。
「……お前、かんっぺきに忘れてたな?」
「悪い。正直言って忘れてた。今週末か……」
「何だ。何か予定でもあんのか?」
まだ予定として確立したわけではない。確立したわけではないが、そろそろなんやかんやで雪乃の家に泊まる事になるのではないかという、漠然とした予感めいたものがあった。
(”予定”では無い。予定では無いが……)
というのも、もし今日も雪乃が休みであれば、放課後見舞いに行く予定になっているからだ。なんだかんだでもう一週間以上、雪乃は体調不良で学校を休み続けている。電話で何度か連絡は取ろうとしたが繋がらない為、痺れを切らした月彦は直接雪乃のマンションに行ってみることにしたのだった。
(……でも、今までの経験上…………多分、そういう事になるんだよなぁ)
今日そのまま泊まるとか、そういう事にはさすがにならないだろう。明日も学校だからと言えば、雪乃も無理に止めはすまい。しかしそれなら週末に、という流れには絶対なる筈なのだ。
そう、月彦はまだ雪乃の体調不良の原因は、悪質な風邪のような何かという程度にしか考えておらず、学校を休んでいるのも見舞いに来させる為の大げさな演出の一つくらいにしか考えていなかった。
(……でも、それで学校まで休むのはさすがにちょっとやり過ぎだよな。先生を甘やかさない意味でも、そこは”先約がある”って、しっかり断った方がいいか?)
仮にも社会人として、見舞いに来て欲しいから仕事を何日も休むというのは褒められたものではない。戒めの為にも、そこは頑として断るべきかもしれない。
週末の誘いは断る――その決意の為にも、月彦は先に予定を埋めることにした。
「…………いや、大丈夫だ。今週末、四人で釣り、だな。OK、今度こそ頭の中のスケジュール表にメモっとく」
「いや6人だ」
「へ?」
「倉場さんからは、俺とお前と倉場さん、あと千夏の四人でって言われたんだけが、千夏が妙子も一緒じゃなきゃ行きたくないって言い出してな。ならいっそもう一人の小曽根さんって人も誘って、6人でって事になった」
「成る程……妙子も来るのか」
「なんだなんだ。”また”喧嘩したのか?」
また、を強調して、和樹がニヤケ顔になる。
「…………いや、そういうわけじゃないんだけどな。ちょっと妙子とは距離おいたほうがいいかなーって思ってた所なんだが…………やっぱ俺だけ不参加ってのは無理だよな?」
「どうしてもってんなら、俺は別にかまわねーけど、倉場さん辺りは悲しむんじゃねーか? 昨日連絡とった時、ブレドラクリアしたからお前に報告したいって言ってたし」
そこまで言って「あっ」と和樹が声を上げた。
「いっけね、これ秘密だった。悪ぃ、倉場さんと話するとき初耳ってリアクションで頼む」
「お前……まぁでも、やっぱ参加するしかないか」
釣りイベに妙子が参加することになっても、極力妙子との接触を回避すればいいだけの話だ。それこそ、佐由と二人ブレドラの話で盛り上がっていれば、妙子もあえて近づいてはこないだろう。
「その方が俺も助かる。何かあって妙子がガチギレしたとき、お前がいると矛先回避しやすいしな」
「人を避雷針みたいに扱うな。お前が妙子をキレさせなきゃ済む話だろうが」
「まぁ、そうなんだけどな」
丁度予鈴が鳴り、和樹が自分の席へと戻っていく。程なくHRが始まった。
やはりというべきか、雪乃は今日も休みで英語の授業は他の英語教師が代行した。当初の予定通り、月彦は放課後家に帰らず、直で雪乃のマンションへと向かうことにした。いざ行こうとして、ひょっとしたら雪乃が見舞いを待ちかね過ぎてへそを曲げている可能性を考慮して、ちょっとお高いショートケーキも購入した。ついでにホームセンターに寄って、ノン用の猫缶と”ちょ〜る”も用意した。おかげでなけなしの小遣いは使い果たしてしまったが、最近雪乃にあまり構えなかったことを詫びる意味でも、必要な出費なのだと自分に言い聞かせながら、雪乃のマンションへと向かう。
マンションはオートロックであるが、幸い月彦は合鍵を貰っている。ここは一つ驚かせる意味でもマンション入り口のインターホンで呼び出さず、直接部屋まで行くことにした。
驚かせるのであれば合鍵でこっそり入るのもアリかと思ったが、ひょっとしたらガチで寝込んでいるかもしれない人間の家に悪戯目的でこっそり侵入というのはタチが悪すぎると思い直す。ここは奇をてらわず、正々堂々正面から見舞うべきだと、月彦は部屋の前に着くなり呼び鈴を鳴らした。
が、反応が無い。もう一度呼び鈴を鳴らす――が、やはり反応が無い。やむなく合鍵を使おうとして――月彦は愕然とした。
「あれ……? あれ?」
鍵が入らない。そんな馬鹿な。もしや鍵を間違えたのか――月彦は自分が使おうとした鍵を掌の上で矯めつ眇めつする。……やはりどう見ても雪乃に貰った鍵だ。他の鍵と間違えたりしないように、油性マジックで”Y”と書いてあるのがその証拠だ。
鍵は合っている。ならば部屋を間違えたか。月彦は表札を確認する。雛森と書かれている。部屋も合っている。しかし鍵が合わない。
これは一体どういうことだろうか。
「……………………。」
ことここに至って漸く、月彦は自分が事態を楽観視しすぎていた事に気付いた。見舞い待ちなどではなく、下手をすると事件に巻き込まれているかもしれない可能性すらあることにだ。
電話しても連絡がつかず、家に尋ねても会えないどころか、鍵まで変わっているというのはさすがに異常だ。或いは強盗が入り、運悪く帰宅した雪乃と遭遇。立てこもり強盗となりそのまま部屋に居座ったまま、雪乃を脅して仕事を休むように言わせている可能性だってある。
(……いや待て。だとしても鍵までわざわざ変えるか?)
変えるにしても自力では無理だ。必ず業者を呼ぶだろう。そこで助けを求めることは出来なかったのだろうか。
なんとなく、立てこもり強盗の説は成り立たないような気がする。しかしただ事で無い何かが起きているのは間違いなく思える。
「先生! 俺です! 居るなら開けてくれませんか!?」
ドアを強めに叩き、声を荒げる。しばらく待ってみるが、やはり反応はない。これ以上やると近隣住人から通報されるかもしれないと思い、月彦はやむなくマンションを後にした。
が、何もしないわけにもいかない。まずは矢紗美に相談しようと、月彦は近場の公衆電話ボックスへと入り、なけなしの小銭を投入する。
『……もしもし、紺崎クン?』
名乗る前から名前を呼ばれ、月彦は軽く驚いた。
「よく分かりましたね。俺です」
『やっぱり。今時公衆電話からかけてくるのなんて紺崎クンくらいだからすぐ分かるわ。どうしたの?』
「それがですね……」
かくかくしかじかと、月彦は現状を説明する。
「……というわけで、ひょっとして先生が何か事件に巻き込まれてるんじゃないかと思って……」
『ふぅーん。本命の雪乃に連絡がとれないから、二号の私になんとか橋渡しをしろって、そういう残酷な頼み事するんだ?』
「ち、違いますよ! 俺はただ、純粋に先生が心配で……」
『あはは、分かってるわよ。ちょっとからかっただけ。……でも、確かにちょっと変ね。他の相手からの連絡なら兎も角、紺崎クンが家まで行っても出ないなんて。本当に事件かも』
「矢紗美さんもそう思いますか? 俺、どうしたらいいでしょうか?」
『とりあえず、私からも連絡とれないか試してみるわ。それでダメだったら、署に言って様子見に行ってもらうから、紺崎クンは一端家に帰ってて。後で私から連絡するわ』
「ありがとうございます。自宅の番号は――」
『知ってるから大丈夫。家族の人が出たら、うまいこと言って紺崎クンに代わってもらうようにするから心配しないで』
「はい……ありがとうございます。ところでさっきからなんか風の音が凄いんですけど、矢紗美さん今一体何処に――」
そこで唐突に通話が切られてしまう。矢紗美が切ったのではない、投入した小銭分の通話時間が終了したのだ。
「……まぁ、いいか。用件はちゃんと伝えたし、あとは矢紗美さんからの連絡を待とう」
事件じゃありませんように――祈りながら電話ボックスを出る。見舞いに買ったケーキの行き場がなくなってしまったが、かといって玄関先に置いていくわけにもいかない。
(……仕方ない。友達にもらったってことにして、真央と二人で食べるか)
ちょーるの方は鞄に入れておいて、次に菖蒲に会った時にでもあげよう。雪乃のことは心配だが、現状出来ることは無く打てる手は打った。些か後ろ髪を引かれながらも、月彦は帰路についた。
が、丁度自宅の門扉にさしかかったところで、月彦は思いも寄らぬ相手とかち合った。
「月彦……?」
「た、妙子!?」
紺崎家の門扉から出てきた制服姿の妙子と出会い頭にニアミスし、月彦は驚きのあまりケーキの箱を落としてしまった。
「何よ、あんた今帰り?」
「お、おう……妙子こそ、一体どうしたんだ?」
「…………あんたに話があって家に寄ったのよ。部屋の灯りはついてるから家に居ると思ったのに、葛葉さんがまだ帰ってないって言うから……」
ハッとして自宅の――自室の方へと目をやる。既に日が落ちかけている中、カーテンの隙間から確かに部屋の灯りが漏れている。ということは真央は既に帰っているこの状況で、妙子が玄関の中まで入り葛葉と会話したということになる。
真央に、妙子の声を聞かれたかもしれない――その想像に、月彦は怖気にも似たものを感じた。
「あ、あぁ……そっか……朝、消し忘れたんだな。悪い、今日はちょっと寄るところがあって今帰ったんだ」
「そう。別にこっちも約束してたわけじゃないし、留守なら留守でも全然構わなかったんだけど………………それ、落として大丈夫だったの?」
「ま、まぁ……大丈夫だ。それより、俺に話って?」
つい小声になる。既に手遅れかもしれないが、手遅れではない可能性もゼロではない。万が一話し声を聞かれて、窓から顔でも出されたら面倒な話に発展しかねないからだ。
「……そんなに大した話じゃないんだけど、ここじゃなんだし。とりあえずあんたの部屋に上がらせてよ」
「えっ……?」
月彦は固まった。固まったまま、頭を高速回転させていた。
妙子の要求は、幼なじみとしてごく普通かつ当たり前のものだ。話があって家を訪ねてきたのだから、部屋に上げて聞くというのは至極当然だ。実際、月彦が用事があって妙子のアパートを訪ねた時も、当たり前のように部屋に上がっているのだから、妙子の言うように部屋に上げてから話を聞くのがごくごく普通の成り行きというものだ。
が、なんとかそれは回避したいという方向で、月彦は必死に智恵を搾っていた。
(こんなに簡単に、”平和な時間”は終わるのか)
ほんの数秒前まで、間違いなく日常の中に居た筈であるのに、突然目の前に拳銃でも突きつけられたような気分だった。妙子を部屋に上げてしまったら、一体全体どういうことになるのか想像することすら恐ろしい。
(いや待て。意外と倉場さんの時みたいに巧くいったりは――しないか?)
否。あの時は真央の方が父親を避けるようなムーブをしていたから、その真央を焚きつける為に呼んだというスタンスであったから許されたのだ。いやまて。そもそも真央に許されるか許されないかで判断する基準がおかしいのではないか? 妙子を部屋に上げるのは別にやましい目的ではない。幼なじみをただ部屋に上げて、話をするだけの健全極まりない目的と行動だ。誰の避難を浴びるだろうか。真央にも妙子にもお互いを自己紹介させて、それで終わりではないのか。
(待て待て待て、真央の方はそれで良くても妙子がなんて思う? どう見ても同年代にしか見えない”従姉妹”と同居してるなんて話、前置きも無しでいきなりぶち込んで本当に大丈夫か!?)
真央の交友範囲を広げるためにも、友人達にその存在を明かしたほうがいいのは間違いない。だがそれは少なくとも今するべきことでは無い――と思える。理由を論理的に説明することは出来ない。単純に問題を先送りにしているだけのような気がしなくもないが、とにかく今妙子を部屋に上げて、ノーブラ+ローレグに男物のTシャツ一枚というような格好でベッドでゴロゴロしている真央と会わせるわけにはいかない。
「わ――」
妙子を部屋には上げられない。その為には、手段を選んではいられない。
「悪い、今……ちょっと部屋が散らかっててさ」
「別に良いわよ、いつもの事じゃない」
「ああ、違う! 全然ちょっとじゃなかった! 半年くらいずっと部屋の片付けサボってて、食事の後とかそのまま放置してるからカビとか生えてて匂いとかもーほんとヤバいんだ! そこら中ゴキブリやらハエだらけでとても人を上げられる状態じゃないんだ!」
「……はいはい。どうしても部屋には上げたくないのね、わかったわよ。どーせいかがわしい本でも出しっぱにしてるんでしょ」
どーせって何だ!――そう反論しかけて、黙る。たとえいわれの無い誤解を受けても、妙子がそれで部屋に上がるのを諦めてくれるのであれば御の字だ。
「ま、まぁ……そんなトコだ。悪いな、次から来る時はあらかじめアポとっといてくれ」
「そうね。次からは千夏と一緒に葛葉さんに頼み込んで、留守中でも部屋に上がらせてもらうことにするわ。あんたが帰ってくるまで出しっぱなしのいかがわしい本でも読みながら、のんびり待たせて貰うわね」
「ば、バカ野郎! 客を想定していない時の俺の部屋の汚さを舐めるなよ!? お前が想像してるのの何百倍も汚いんだからな!?」
「それはもういいから。とにかくどこでも良いから場所を移すわよ。部屋にさえ上がらなきゃ、話をするのは別にいいんでしょ?」
「まぁ、そうだな……」
「じゃあ、さっさと移動するわよ。葛葉さん夕飯の用意してたし、あんまり遅くなったらあんたも困るでしょ」
「ちょ、ちょっとだけ待ってくれ! どうせだから荷物だけ玄関に置いてくる!」
さっさと歩き出そうとする妙子を引き留め、月彦は大急ぎで玄関に鞄とケーキの箱を置いて戻ってくる。が、妙子は既に歩き出しており、月彦は慌ててその後を追おうとして――はたと。
背後からの視線を感じて、振り返った。
「うっ――」
背後には、誰も居ない。が、そのまま視線を上へとずらしていくと、自室のカーテンの隙間から覗く愛娘と目が合った。そして気づいた。先ほどの妙子との言い争いは、お世辞にも小声とは言えない音量だったと。
どうして良いかわからず、月彦は辛うじて笑顔を返した。途端、真央はカーテンの向こうに隠れるように消えてしまった。
(……これは、帰ってからが大変だ)
月彦は覚悟を決め、そして既に豆粒のように小さくなっている妙子の後を慌てて追った。
ファミレスか、喫茶店でもと思っていたが、妙子が選んだのは駅前のファーストフード店だった。それぞれ手持ちのトレイに注文の品を載せて二階のフードコートへと移動し、窓際の二人がけの席へと着席する。
「……何よ」
「いや……意外とがっつり食うんだなと思って」
妙子のトレイにはバーガーが三つにLサイズのポテトが一つ。さらにMサイズのシェイクまでついていた。
一方月彦の方はドリンクのみ。ちなみに会計の段になってケーキとちゅーるで小遣いを使い果たしていたことに気づき慌てた所を、溜息交じりに妙子に奢ってもらったという情けない経緯のあるドリンクだったりする。
「私はあんたと違って、家に帰っても夕食が用意されてるわけじゃないの。これが、正真正銘今日の夕食なの」
そうだとしてもちょっと多いんじゃないか?――それを口にすると喧嘩になる気がして、月彦はぐっと言葉を飲み込んだ。一応ながらも飲み物を奢って貰っている者として、そのくらいの心遣いは代金のうちだと思っていた。
「……それで、俺に話って?」
正直なところ、妙子とは少し距離を置こうと思っていた。それが妙子の為であると、佐由にアドバイスされたからだ。だからといって、話をしたいとわざわざ訪ねて来た妙子を素っ気なく追い返すようなことは、さすがに出来ない。距離を置くと決めたのも、あくまでその方が妙子の為になるのならと渋々ながらだ。妙子の方から話をしたいと言ってくる分には、こちらから避ける必要はないと月彦は思っていた。
「あんたさ……手は大丈夫なの?」
「手?」
何の話だと思って、いつぞやのスキー旅行での負傷の件だと思い至る。
「あぁ、右手のことか。まぁ……そうだな、完治と言えるかは怪しいけど、まあ大丈夫だ」
「そう。手、治ったんだ」
「……?」
何やら意味深な呟きを残して、妙子が黙り込む。2個目のバーガーの包みを開けて、あむぐとかぶりつく。なかなか美味そうな食いっぷりだ。月彦は思わず生唾を飲む。
「そ、そういや……妙子の方は、調子はどうだ?」
「調子って?」
「ほら、体調とか、勉強とか、深夜ラジオとか……」
「体調はまぁ、普通ね。勉強は可も無く不可も無し。深夜ラジオの方は……そうね、言っちゃなんだけど、絶好調よ」
「おーっ、絶好調か。そりゃあ、良かった」
うんうんと、まるで幼い孫の拙い話し言葉に耳を傾ける好々爺のように月彦が頷く。たちまち、妙子が不快と嫌悪を全面に押し出した顔をする。
「……ちょっと、なんでそんなに嬉しそうなの? あんた、まさか……こっそりエアチェックしてたりしないわよね?」
「エアチェック? って、何だっけ?」
「ラジオを聴くことよ! まさか、佐由達から私のラジオネーム聞いて、しれっと放送聞いてたりしないわよね!?」
「し、してないって!」
大体深夜ラジオの時間帯は”真央の相手”でラジオどころではないと、心の中だけで言い訳する。
「……それなら良いんだけど。言っとくけど、ラジオのネタなんて本人の品性とか、趣味嗜好とは全く別物ってことは覚えておいてね。ミステリー小説の作者は残虐な人間の殺し方とか、完全犯罪の方法とかを考えてるけど、作者自身は一般常識も良識もある立派な人だったりするでしょ? 創作物の方向性と作者の内面とは何も関係が無いんだからね?」
「お、おう……そうか」
としか、月彦には言えなかった。
「……うん? 話ってのは、右手のことか?」
「そんなわけないじゃない。それはただの世間話。本題は別」
「なら早いところその本題とやらを聞かせてくれ、ハンバーガー食ってるところ見てたら俺もめちゃくちゃ腹が減ってきたんだ」
むぅ、と妙子が渋い顔をする。ここに来て漸く、月彦は気づいた。話がある、と訪ねて来た割には、妙子がその”本題”とやらを話すのを躊躇していることに。
(何だ、そんなに言いにくいことなのか……?)
幼なじみのこの挙動には月彦も覚えがある。そう、あれは小学校の頃に幼なじみ4人で電車に乗って隣町に新しく出来た映画館に行った時だ。駅で電車を待っている時の妙子は明らかに様子がおかしかった。顔は青ざめ、冬場だというのに冷や汗をびっしょりとかき「大丈夫」と答えるその声も僅かに震えていた。
結果から言えば、妙子は極度の腹痛を堪えていたのだった。だが、幼なじみとはいえ男子二人の前でトイレに行きたいと言い出せず、口では大丈夫と言いつつも全身から察してオーラを放っていたのだ。妙子にとって幸運だったのは、そんな妙子のことを一から十まで理解している親友がすぐ側に居たことだった。
『あかん、うち始まったかも』
千夏が突然下腹部を押さえながら、そんな事を言い出した。さらにナプキンを忘れたから貸してほしいと、妙子の手を引いて小走りに駅のトイレへと消えていった。当時は突然の事にぽかんとしたものだが、後にして思えばあれは腹痛を堪えていた妙子に千夏が助け船を出していたのだと気づく。
「……今週末」
ぽつりと、耳を澄ましていなければ周囲の客の雑談にかき消されそうな声で、妙子が呟いた。
「釣りに行こうって、和樹に誘われたの。正確には和樹から佐由経由で誘われたんだけど」
「ああ、それか。俺も誘われた――っていうか、元を正せば俺が言い出しっぺみたいなものだから、最初から行くのは確定だけどな」
「お前か!」
ばんっ! 妙子が両手でトレイごとテーブルを叩いて立ち上がる。周囲の雑談が一瞬止まり、客全員の視線が妙子に集中する。……程なく、周囲が再びガヤガヤとした雑音に満ち、妙子は耳を赤くしながら静かに着席する。
「あ、あんたが……余計なことを言い出したから!」
「ま、待て、待て。妙子おちつけ、確かに皆で釣りに行こうって言ったのは俺だけど、別にいいだろ?」
むしろ何がダメなんだ?――という顔を妙子に向ける。妙子は何かを言おうと口を開いて、でも言ったところでコイツには絶対伝わらないだろうなと思い直したらしき諦めの顔で、はあと大きく溜息をついた。
「さんざん言ったことだけど、私は、あいつらとあんたたちを極力絡めたくないの! まあ、もう手遅れみたいなものだけど……」
佐由と和樹に面識があり連絡先交換も済んでいる時点でそうだろうなと、月彦も頷く。
「それを脇に置いたとしても、釣りなんて行きたくもないし、私としては気が進まないわけ。だから出来れば断りたいんだけど……」
「でも、行ってみたら楽しいかもしれないだろ? 折角皆で行こうって事になってるんだから、出来れば行きたくないくらいくらいの理由なら行った方がいいんじゃないか?」
妙子の”こういうところ”が面倒くさくもあり、可愛くもあると。月彦はついニヤけそうになりながらも説得する。
――が。
「……あんたにとっては、本当にそれが一番大事なことなの?」
「……………………へ?」
妙子の発言の意味が理解出来ず、月彦は間の抜けた返事しか出来なかった。
「……だから!」
妙子が言葉を続けようとして、口を噤む。しばらく黙った後、再度口を開きかけて、閉じる。そんな事を二度、三度と繰り返した後。
「……手、治ったんでしょ?」
月彦は頷く。
「だったら……」
「だったら……?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっっ!」
幼なじみの顔に、苦渋と怒りが満ちる。今にも破裂しそうな風船にも似たその緊迫感に、月彦は肝を冷やしながら必死に妙子が言わんとすることを推測する。
「っ……あんた、どんだけバカなの? それとも忘れっぽいの? こないだあんたに助けてもらった時、お礼に一緒に出かけてもいいって言ったのは覚えてる?」
「あっ……あぁ、それは覚えてる、けど……」
「その時、今は右手を怪我してるから、怪我が治ってからって、そういう話になったでしょ?」
確かに、そうだったと、月彦は頷く。
「……どんだけ、待たせるのよ」
まるで、聞こえないなら聞こえなくても構わないとでも言うかのような、弱々しい呟きだった。
「え……ぁ…………つ、つまり……」
「っっ……だから、私としては……早く”それ”を済ませて、あんたとの間の貸し借りを精算したいの。そこまではOK?」
「お、おーけー、です」
お前の精神面ケアを考えて、あえて接触を控えていたのにという言葉はぐっと飲み込む。今下手な言い訳をすれば、取り返しの付かないほどに激昂させてしまうことを、月彦は経験から知っているからだ。
「そういうわけだから、今回もしあんたも釣りに乗り気じゃなかったら二人で辞退すれば、きっと話も流れるだろうし、”それ”も済ませることが出来て一石二鳥と思ってたのよ」
「な……なるほど、分かった。今度こそ分かったぞ、うん。さすが妙子だ」
拍手までしては、神経を逆なでしかねない。月彦は感心と賞賛の言葉のみに止めた。
「………………それで、どうするのよ」
「ど、どうって……釣りに行くか、断るか……だよな?」
既に和樹に参加すると答えている。そもそも、最初に佐由から話を受けて和樹に了解をとったのは自分という経緯もある。殆ど発案者のようなものであるから、参加するのは義務でないかとすら思っている。
思っているが。
(……なんか、友達付き合いをとるか妙子を取るか選択しろみたいな空気になってないかこれ)
難しい決断であるのは間違いない。そもそも、既にかわした約束を反故にしなければならない時点で、和樹の誘いを断るというのは道義的には論外だ。
しかし。
その見返りが妙子とのお出かけ――すなわちデートであるのならば、検討の余地は十二分にある。
(……しかもこれは、ある意味では”実績”にもなるんじゃないか?)
俺は、友人との約束よりも"お前との時間"を優先すると。逆に釣りの方を優先させることは、妙子の中での紺崎月彦の信頼度を著しく損ねるような気がしてならない。
(…………倉場さん、さすがにこれは……引かなくてもいい、よな?)
むしろ妙子もさっさと済ませて貸し借り無しの状態にしたいと言っているのだから、そうしてやるのが妙子の為だろう。
よしと、月彦は覚悟を決めた。
「…………分かった。急な用事で釣りには行けなくなったと、明日和樹に説明する」
「そ、そう。じゃあ、仕方ないから私も明日、佐由にその日は予定があるって無理って断るわ」
「いや、そこはさすがにちょっと時間差つけた方が良いんじゃないか?」
「そ――れもそうね。じゃあ、私は今夜のうちに連絡しておくわ」
その程度ではあまり意味が無いような気もしたが、かといってあんまり遅らせてはドタキャンになってしまいかえって迷惑をかけることになる。妙子が提案した程度の時間差で我慢し、あとは気づかないことを祈るしかないかもしれない。
「あとはどこに行くかだけど、これはもうあんたに任せるわ。常識の範囲なら文句は言わないけど、ノープランだけは絶対止めて。ある程度決まったら、時間と場所だけは前日までに連絡してね」
「わ、わかった」
いつの間にか食べ終えていたらしい妙子が話は終わったとばかりに席を立つ。慌てて月彦もジュースの残りを飲み干して席を立った。
ファーストフード店の前で月彦と別れ、妙子はそのまま帰路についた。アパートの前まで送って行こうかとは言われたが、近くだからと断った。しばらく歩いて角を曲がるなり、ふうと大きく溜息をついて肩の力を抜く。
一仕事終えたような疲労感。察しの悪い男の相手は本当に疲れると心の中で愚痴る。
(……なんで私の方が、ここまで水を向けてやらないといけないのよ)
いつもいつも、お前のことが好きだと聞いていて恥ずかしくなるくらい熱烈アピールをしてくるクセに、いざデートしてやってもいいと許可を出してみれば、待てど暮らせど連絡をしてこないのだから、本当に腹が立つ。もしや、これが噂に聞く恋愛の駆け引きというやつなのかとも思ったが、そもそもあの男とは付き合っているわけではないのだから駆け引きも何も無いのだ。
もちろん妙子としては、先日の借りを返す為に少しくらい飴をやってもいいかくらいの感覚であるから、月彦の方が別に望まないのであればデートをする気も無かった。が、あの男に助けてもらったという借りだけをいつまでも抱えているのが思いのほか負担であったのも事実。さっさと片付けて楽になりたいから、今回のことはこれで良かったのだと。まるで自分の心に言い訳でもするように反芻しながら帰路についた妙子は、自宅アパートの前で不審な人影を見て俄に警戒を強めた。
(……何? 誰か……立ってる)
既に日は落ち、辺りは夜の帳が降りている。街灯の明かりはあるから誰かが立っているということは分かるが、顔にまでは光が届いておらず判別がつかない。それでも、体格から男であると言う事は分かる。それも、かなり大柄な。
「………………。」
警戒しながら、慎重に近づく。杞憂かもしれない。だが、何かあった時はすぐに対処できるように準備だけはしておく。強がらず、月彦に送って貰えば良かったと、己の決断を少しだけ後悔しながら、そろりそろりとアパートへと歩み寄る。そんな妙子の耳に、突如。その緊張を嘲笑うかのような親しげな声が飛び込んできた。
「よお、妙子。随分遅かったな」
「か、和樹!? あんた、こんなところで何やってんのよ! 不審者かと思ったじゃない!」
「何って、お前が帰ってくるのを待ってたんだよ。つーか携帯見ろよ、随分かけたんだぞ?」
えっ、と妙子は改めて携帯を見る。確かに和樹の言う通り、和樹からの着信七件が履歴として残っていた。
「ご、ごめん……ちょっと、携帯見てなくって」
「まあ、別にいいけどな。あと、不審者だと思ったらそもそも近づくなよ。こんな夜道で危ねーだろ」
「近づくなって、家の前に立たれてたら近づかないと帰れないじゃない」
和樹がそれもそうか、という顔をする。
「まぁいいや。とにかくお前に大事な話があるんだ。とりあえず部屋に上げてくれよ」
ファースト店の前で妙子と別れた後、るんるん気分で帰路についた月彦だが、その軽い足取りは長くは続かなかった。
(……そういや、出がけに真央に見られてたんだった)
帰ったら間違いなく詰問を受け、釈明を行わなければならなくなるだろう。とはいえ、今回の事に限れば、ただ幼なじみに話があると言われてファーストフード店へ行っただけであるから、真実を伝えれば何の問題も無い。
(……見られたのが、妙子で良かった)
そう思う。奇妙な縁ではあるが、そもそも真央との関係が始まった切っ掛けも妙子が原因と言えなくもない。真央とて、妙子ならある程度は仕方ないと思ってくれるのではないだろうか。
「ただい、ま」
玄関で靴を脱ぐ。出迎えは無し。ただ玄関先に置いた鞄とケーキが片付けられていた。ぱたぱたと、葛葉のスリッパの音が聞こえた。
「お帰りなさい。随分遅かったわね。もう少しで夕飯出来るから、先にお風呂入っちゃいなさい」
「うん。……母さん、ここに置いておいた鞄ともらいもののケーキは?」
「冷蔵庫に入れたわ。鞄は真央ちゃんが二階に持って上がったみたい」
「そ、そっか……。真央が……母さん、ケーキの事なんだけど」
「二人分しか無いんでしょ? 真央ちゃんと二人で食べなさい」
あまりキッチンから離れられない料理をしているのだろう。口早に言って、葛葉が戻っていく。月彦もまた制服を脱ぐため二階へと上がる。
「ただいま、真央」
ドアノブを握り、えいやと開ける。ベッドに寝転んで雑誌を見ていた真央が遅れて振り返り、
「お帰りなさい、父さま」
いつもより若干素っ気ない声でそれだけ言うと、すぐに雑誌に視線を戻した。
「月彦ーっ! 電話よーっ」
上着を脱いで掛けながら、早速釈明をしようとする月彦の耳に、葛葉の声が飛び込んできた。急いで階下へ降り、葛葉から受話器を受け取る。
「誰から?」
「部活の副顧問の先生だそうよ」
「副顧問……ああっ!」
OK、分かったと頷いて、保留音を切る。
「もしもし?」
『もしもーし、月彦くんですかー? 副顧問で愛人の矢紗美でーす』
ふざけたような矢紗美の声に、月彦は軽く吹き出しそうになる。
「はい、俺です。連絡くれたってことは、先生のこと何か分かったんですか?」
『うん。てゆーか、普通に連絡取れたわよ?』
「へ……?」
『ただ、熱が酷くてベッドからは出られないし、電話も出来れば出たくないんだってさ。鍵は自分の鍵落としちゃって、危ないから大家さんに連絡して交換してもらったみたい』
「そう、だったんですか……。それ、本当に先生でした?」
『私が妹の声聞き間違えるわけ無いでしょ? とにかく、そういうことだから。私もいろいろと忙しいし、事件とかじゃないって安心できたなら、もう切るわねー』
「は、はい……確認ありがとうございます。ていうか相変わらず風の音がスゴいんですけど、矢紗美さん一体何処に――」
ぶつんと、通話が切られる。
「……まぁ、いっか。とにかく先生が無事なら……っ……!?」
受話器を置くが早いか、再び呼び出し音が鳴り響く。もしや、矢紗美が何か伝え忘れたのかと、月彦は再び受話器を取った。
「もしもし、矢紗美さん?」
『月彦?』
受話器から聞こえた幼なじみの声に、しまったと月彦は小さく舌打ちをする。
「た、妙子か!? 悪い、てっきり――」
『ねえ、”ヤザミサン”って誰?』
「誰……って、ほら、覚えてるか? 前に一度、お前の部屋の前で警察呼ばれたことあっただろ? あの時来た婦警さんだよ」
『……権蔵先生のお姉さん?』
権蔵先生?――聞き覚えのない名前にはてなと首を傾げる。しばらく記憶を振り返って、自分がついたつまらない嘘の事を漸くに思い出した。
「そうそう! その権蔵先生のお姉さんとついさっきまで話してたんだ」
『なんで?』
そんな事別にどうでもいいだろうと言いたいのをぐっと堪えて、月彦は説明のための言葉を脳内で必死に組み立てる。
「それは……話すと長くなるけど、権蔵先生が一週間くらい学校休んでてな。それでさすがに心配になって、今日の夕方見舞いに行ったんだけど会えなくて、仕方ないから先生の安否を姉の矢紗美さんに聞いてみたんだ。その折り返しの電話が、さっきかかってきたってわけだ」
『ふーん、その先生の見舞いに行ってたから、今日は帰りが遅かったのね』
「そういうことだ」
とりあえず納得はしてもらえたようだと、月彦は額に浮かんだ汗を拭う。
『じゃあ、ケーキの箱は?』
「えっ……?」
『学校の帰り、先生のお見舞いに行った。でも会えなくて、仕方ないからその先生のお姉さんに連絡して安否確認してもらった。そこまでは分かったけど、ケーキの箱はどうしたの?』
それを今更聞くのかと、月彦は内心絶句していた。頭をフル回転させ、妙子を説得するに足る言い訳を組み立てる。
「……あのケーキは、同じ部活の女子が用意してくれたものなんだ。自分は用事で見舞いに行けないから、代わりに先生に持って行って欲しいってな」
『同じ部活の女子って誰? 初耳なんだけど』
だあああああああああああああっ!――そんな心の叫びを上げながら、月彦は地団駄を踏みたい気分だった。
「つ……月島さんって女子だ。千夏と同じクラスだから、千夏に聞けば知ってると思うぞ」
『ということは、あんた先生の見舞い用にって持たされたケーキを本人に渡しもせず、くれた女子に返しもせず持って帰ってきてたってコト?』
「し、仕方ないだろ!? 生ものだし、家の前に置いて帰るわけにもいかないし、返そうにも俺は月島さんの家は知らないんだから」
嘘が嘘を産むとはこのことだ。頼むからもう掘り下げるのは止めてくれと、月彦は受話器を握りながら祈っていた。
『ふぅーん……。とりあえず、その女子にはケーキ代を返しておいたほうがいいんじゃない?』
「……あぁ、そうするよ」
どうにか追求はかわしきったが、またしても無駄に紺崎月彦の人物評を下げてしまったように覚えてならない。その上嘘が嘘を産み、権蔵先生は部活の女子から見舞いにケーキを貰うほど慕われているという無駄設定まで追加してしまった。
後日、千夏に事実のすりあわせでも行われようものならとんでもない事になると、受話器を握る手に冷や汗が滲む。
「そ、それよりどうしたんだ? 電話なんて、何か言い忘れたことでもあったのか?」
『……そうよ。あんたがいきなり変なコト言うから、話が完全に逸れちゃったじゃない』
それは申しわけなかったと、月彦は心中で謝る。
『…………えーと、今日さ……釣りの件は断って、二人だけで出かけるって話をしたじゃない?』
「うむ」
『あれさ、やっぱり今週末じゃなくて今度また改めて、ってことにしたいんだけど……』
「えっ……? だ、だって……お前が――」
『……そうよ。そうしない?って提案したのは確かに私なんだけど……だけどちょっと、事情が変わったっていうか、釣りの方に参加しないといけない理由が出来ちゃったの』
「……マジか。まあ、そういうことなら仕方ない。お前が行くなら、俺も行くよ。まだ和樹に行かないって返事する前だし、何の問題も無い」
『……理由、訊かないの?』
「大事な理由なんだろ。それだけ分かってればいい」
話したくないことを根堀葉堀訊かれるきつさはたった今味わったばかりだ。同じ辛さを惚れた女子相手に味わわせるのは心苦しいというものだ。
『そう。あんたのいい加減なところって、たまに助かることもあるから、これからはあんまり責められないわね』
「そうだぞ? どんなことにも二面性があるんだ。役に立たないってことが役に立つってこともあるんだぞ?」
『はいはい。能書きはいいから。とにかく、”例の件”はナシになったわけじゃなくて、あくまで延期だからね?』
「分かってる。そのことはまた改めて、だな」
『…………今度はあんまり待たせるんじゃないわよ?』
「えっ、なんて言ったんだ?」
『”おやすみ、バイバイ”って言ったのよ!』
ぶつんと、通話が切られた。やれやれと溜息交じりに受話器を置き、さあ風呂に行くかと向き直ろうとした矢先。
「どわっ!? ま、真央っ!? いつからそこに居た!?」
「………………父さま、さっき会ってたあの人と喋ってたの?」
背後、ほんの数センチの場所に立っていた真央に驚き、月彦は思わず壁に張り付いた。が、父親のリアクションなど意にも介さず、真央はまるで自縛霊か何かのようなねっとりとした口調で、前髪の陰から覗き込むように上目遣いを向けてくる。
「待て、待て、真央。勘違いするな。そこで聞いてたなら分かるよな? 今週末幼なじみの和樹と千夏と妙子と、あと妙子の友達二人と一緒に釣りに行こうって話になっててな? んで一度は妙子に釣りは嫌だから断りたいけど、一人だけだと言いにくいから俺からも行きたくないって言って欲しいって頼まれたんだ。これが、さっきの、夕方会ってた時にした話だ。で、今電話がかかってきたのは、やっぱりみんなに悪いから行くことにしたって俺に言う為だ。それだけだ」
「……………………。」
真央は何も言わず、ただじぃと前髪の陰から月彦の両目を覗き込んでくる。嘘を見抜こうとしているのか、それとも既に見抜いていて、本当のことを言えと圧をかけているのか。およそ血の繋がった娘から向けられる――それどころか、実年齢せいぜい五歳そこそこの幼子から向けられる――とは思えない圧力に、月彦は冷や汗が止まらない。
不意に、真央が一歩踏み出す。咄嗟に避けようとしてしまったのは、以前真央に刃物で斬りつけられたことがあるからだ。だが、今度は素手だった。右手が真央の両手にとられ、ぎゅっと握りしめられる。
「ねえ、父さま……エッチしたい」
「えっ……きゅ、急にどうした?」
「いますぐしたいの。お部屋、行こ?」
「ま、待て、真央! 今すぐって……せめて風呂と夕飯を済ませてから……」
「やだ。そんなに待てない」
「ま、待てないって……」
ぐいぐいと階段の方へ引っ張ろうとする真央に抵抗している月彦の耳に、台所から夕飯が出来た旨を告げる葛葉の声が飛び込んできた。
「ほ、ほら母さんも夕飯出来たってさ。食べないと、部屋まで様子見にくるかもしれないぞ?」
「……じゃあ、ご飯だけ、食べる。だけど、お風呂はダメ」
「わかった。わかった。それでいい、真央の言う通りにする」
今の真央に逆らってはいけない。本能がそう告げていた。そして月彦の予感通り、その夜はいつになく激しく且つ濃密なコミュニケーションを求められるのだった。
「お前、大丈夫か? そんなんで週末釣りなんて行けんのか?」
「何言ってんだ。和樹は大げさだな」
はははと月彦は軽やかに笑い、屋上のいつもの場所に陣取ると弁当包みを開ける。和樹の言わんとすることはもちろん解っていた。”昨夜”はいつになく激しかった。体力精力を限界を超えて搾り取られ、或いは寿命まで奪われたのではないかという程に激しかった。その余波は外見にまで及び、朝鏡を見た時などは自分ではなく死神かなにかが映っているのかと思ったものだ。
(とはいえ、アレはアレでなかなか…………)
妙子に嫉妬した分を、全てぶつけてくるような激しさは普段の営みでは味わえないモノではあった。まるで”父さまは私のモノなの!”と全身で主張するかのような愛娘の貪欲さに舌を巻く一方、そこまで求められるなら父親としても応えてやらざるを得ないと。月彦の方もついつい頑張りすぎてしまった。
「そういや釣りの件だけど、場所は決まってるのか?」
一口に釣りと言っても、海釣り川釣りいろいろあるものだ。そして過去和樹に誘われて釣りに行ったときも、特にその辺は決まってはおらず、当日になって今日は知り合いの漁船に乗せて貰って沖合での釣りだと言われたこともあった。
「それなんだよな。いくつか候補を絞っちゃいるが、まだ決まってねーんだ」
「おいおい……前の時みたいに当日、待ち合わせの場所についた後に漁船に乗るぞなんて言うのは勘弁してくれよ。そんな事したら妙子なんて間違いなくブチ切れて帰っちまうぞ」
前回の”漁船”の時は何の備えも出来ず、おかげで酷く船酔いをした妙子は何度も吐く羽目になり、青い顔をしながらもう二度と和樹の誘いには乗らないと呪詛のように呟いていた。
「あー、あったなそんなこと。まあ大丈夫だ、今度は漁船には乗らねえよ」
「漁船じゃなくても、だ。とにかくどこに行くかくらいは事前に決めて、準備するものくらいは連絡したほうがいいぞ。今度は気心が知れた俺達だけじゃなくて、倉場さん達も来るんだからな。あんまり変な真似すると俺達だけじゃなくて妙子まで変な目で見られちまうぞ」
あいつらとあんたたちを極力絡めたくない――昨夜聞いた妙子の言葉を、月彦は自分なりに重く受け止めていた。自分たちが幼なじみだからこそ許されてきたようなノリで悪ふざけをすれば、それは佐由達には奇異な行動として映り、結果妙子までもが同類と見られる。そういったことは控えなければと思ったのだ。
「そうだなぁ。俺も色々考えてんだけど、海釣りはちょっと危ない気がするんだよな。六人だろ? 一カ所にまとまった全員で同じ場所で釣るってのも微妙だし、ある程度ばらけると波に浚われたりしてもすぐ気付けないかもしれないしな。川か湖で、2:2:2で別れてのんびり、ってのがいいと思うんだが、どうだ?」
「いいんじゃないか? あとは遠さだな。電車とバスで片道5時間かかる、みたいなのは勘弁してくれ」
「そうだな。兄貴の車使えりゃ移動は大分楽なんだが、どう頑張っても運転手+六人は窮屈だからなぁ」
「何なら釣り堀とかでもいいんじゃないか? 釣りがどういうもんかを体験するだけなら釣り堀でもいいだろ? 安全だし、あんまり離れなくてもいいだろ」
「…………まぁ、釣り堀は最終手段だな。俺としては、出来るだけちゃんとした形で釣りの魅力を伝えたいんだ」
「気持ちは分かるが、それで全員一日釣り糸垂らしてただけで釣果ゼロなんてことになったら、それこそつまんねー休日だったにならないか?」
「まぁ、そうだよな。初めてなら尚更だよな」
うむと頷きながら、月彦は食べ終わった弁当箱を閉じ、包みに仕舞う。
「あれ、そういや千夏は? 今日は来てたろ?」
「あー、なんか昼休みは教室で寝るんだってよ。最近バイトが忙しくて睡眠時間がヤバいらしい」
「そんなに睡眠時間足りてないなら、週末も寝てた方がいいんじゃないか? 無理して今週行くこともないだろ」
「予定が無いなら無いでバイトに来てくれってせがまれるから、むしろ助かったみたいなこと言ってたけどな。まあ大丈夫だろ、本当に体調ヤバいならアイツは無理せず正直に言うよ。そういう所は、千夏はしっかりしてるからな」
確かに、と月彦は大きく頷く。4人の幼なじみの中で、そういった危険予知や危機管理能力は千夏がダントツに高いのだ。
「…………ん?」
と。事ここに至って月彦は奇妙な違和感を抱いた。昼休み、いつものように和樹と一緒に屋上へと上がり、雑談まじりに昼食を摂った。千夏は教室で寝ていて参加していないが、それを除けばいつも通りの筈なのに、何かがおかしい。その違和感の正体を探り、月彦は気がついた。昼食用にと買った惣菜パンに、和樹が一切手をつけていないのだ。
「和樹、食わねーのか?」
「ん? あぁ……そうだな。食うつもりで買ったんだが……なんか食う気にならねーんだ」
「は?」
和樹の言葉に、月彦は天地が逆転したかのような衝撃を受けた。この男が。食欲の化身のような男が。隙を見せれば人の昼食だろうがかっさらう事もあるこの男が、昼飯時に食べ物を目の前にして食べる気にならない等とほざいている。
目の前に居るのは、本当に静間和樹なのだろうか?――月彦はまずそこから疑うことにした。だが、どう見ても眼前の男は幼なじみの和樹に見える。では和樹が屋上の柵に結んでいるビニール袋の中身は本当に食べ物であるのか?――食べ物に見える。少なくとも、いつも購買で買っている惣菜パンにうり二つだ。
「月彦、要るならやるぞ」
「いや……和樹。お前保健室行った方がいいんじゃないか? 多分熱があるぞ。そういや顔色も悪いぞ」
「熱はねーし、顔色はお前のほうが余程悪ぃだろ。まあ、俺にもなんとなく飯食う気にならねー日くらいあんだよ」
「マジかよ……」
少なくとも、和樹との長い付き合いの中で一度も記憶に無い事だった。これは大事だぞと思う反面、和樹とて人間であるならそういうこともあるかもしれないと納得もする。
同時に、きゅう、と腹が鳴った。真央との営みで消耗しすぎた体が、たかが弁当一個ではまるでカロリーが足りないと訴えるかのように。
「……まぁ、お前が大丈夫って言うんなら」
そういうことにしてやろう。そしてパンも貰ってやろう。月彦はとりあえず納得することにした。
和樹の食欲不振は、恐らく普段まるで使っていない頭を無理に使って、佐由らを含む6人での釣りイベントの計画を練ったことによる弊害であると、月彦は思うことにした。というのも、和樹という男にしては珍しく真剣に、それこそ休み時間には当日のスケジュール表らしきものまで新品のノートに書きながらああでもないこうでもないと悩んでいたからだ。
正直な所、和樹がここまで真面目に考えていることに、月彦は少なからず驚いていた。静間和樹といえば物事を深く考えない男であることは周知の事実で、月彦を含む幼なじみ3人も和樹のその特性に一度ならず振り回されたからだ。
さらに付け加えれば、今回の言い出しっぺは正確には和樹ではなく月彦だ。道具は貸すし、釣りのことは教えるけど予定自体はお前が組め――普段の和樹であればそうなるのが当然だと思っていただけに、和樹が乗り気であることが意外過ぎる程に意外だったのだ。
とはいえ、折角本人が全ての調整を買って出ている所に俺にやらせろと出しゃばるほど暇でも、週末のイベントにやる気が満ち満ちているわけでもない月彦は、和樹の謎のやる気を奨励こそすれ冷ますようなことは避けたかった。
よって月彦はアドバイザーのような立場に徹し、和樹を陰からサポートするに止めた。結果、土曜日のスケジュールは徐々にではあるがしっかりと組み上がり、無事三日前には集合場所と時間を全員に連絡することに成功した。
土曜日の朝。月彦は寝ている葛葉を起こさぬように静かに準備をして、朝の五時に家を出た。夜明け前の、最も冷え込む時間帯だ。上着をしっかり着込んではいるが、ぶるりと震えが来るほどに寒い。玄関を出て振り返って見上げると、自室のカーテンの隙間から真央が寂しさと悲しさの混じったような目で覗いていた。月彦は苦笑交じりに軽く手を振ると、後ろ髪を引かれるような思いで歩き出した。
「あっ、そーだ……財布……よし、ちゃんとあるな」
ハッとして思わず確認したのは、財布にちゃんと金が入っているかだった。緊急時以外は使うまいと、大事にとっておいたバイトの給料(おっぱい揉み代)だが、友人達との釣りイベという健全目的であれば無駄使いには当たらないだろう。
待ち合わせは、五時半に駅前のロータリーだ。十分前に着くつもりで家を出たが、既に千夏と和樹、そして妙子の三人が待っていた。
「おっす。三人とも早ぇな」
「おう、お前が最後だぞ月彦」
「おはようさん。今日の一番はカズやで。うちも驚いたわ」
「おはよう。誰も遅れないなんて珍しいこともあるわね」
ふぁーあ、と妙子が大あくびをする。
「そうだな、妙子と千夏は解るけど、和樹が来てるのには驚いたぞ」
「まぁ、釣りだしな。俺が遅れちゃーダメだろ」
「そのセリフ、高一と中三と中一の頃のカズに聞かせてやりたいわ」
「そうそう。待ち合わせ時間に和樹が来ないからって家に電話したら、”悪ぃ悪ぃ、寝坊しちまってさ。今から着替えて家出るから、もうちょっとだけ待っててくれ!”って、言われるんだよな。それも、待ち合わせ時間を四十五分くらい過ぎた頃に」
「その後三十分待ってもカズが来んからもっぺん電話したら、二度寝してたこともあったなぁ」
「あったあった」
「それ、私知らないわ。そんなことあった?」
「妙ちゃんはカズが十五分遅れた時点で怒って帰ったやん」
「ああ、どーりで」
「まぁ、過ぎた事なんてどうでもいいじゃねーか。早く行かねーと電車が行っちまうぞ」
「……どうでもいいで、お前に待たされた累計数時間を片付けられたくないんだけどな。って、あれ、倉場さんたちは? 待たないのか?」
「佐由達は最寄り駅が違うのよ。途中で合流するってメールに書いてあったでしょ」
「……俺は待ち合わせ場所も時間も和樹から口頭で聞いただけなんだよ」
どうやら自分以外の全員は文章で事細かに集合の連絡を受けたらしいと知って、月彦は軽くショックを受ける。尤も携帯もパソコンも持っていないから、受け取りようがないのだが。
「あれ、言ってなかったっけか? まぁ別にいいだろ。つーかお前だけ携帯で連絡できねーからめんどくせーんだよ」
「ヒコは奇行種やからな。そのめんどくさいのが好きなんやろ?」
きひひと、千夏が意味深に笑う。
「お前がめんどくさいのが好きなのは構わねーが、そのせいで俺達が人知れず努力してるのは解ってもらわねーとな?」
「解った、解った。その点については苦労かけてる。いつもありがとうの気持ちでいっぱいだ。これでいいか? つか急がねーと電車が行っちまうんじゃなかったのか?」
「おう、そうだった。急がねーと倉場さんたちと合流できなくなっちまうぜ」
和樹が小走りに駅の構内へと移動する。月彦も後を追い、千夏も追おうとしてはたと。棒立ちの妙子に気付いて声をかける。
「妙ちゃん?」
「あぁ、うん。ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
「なんだ、寝不足か? 眠いなら電車で寝てていいぞ、起こしてやるから」
「大丈夫よ。考え事してただけだから」
「……? そうか?」
どことなく妙子の様子に違和感を覚えつつ、早足に駅の構内へと消えていくのを見てから、月彦も後に続いた。
休日ということもあり、始発電車は始発駅でもないのにガラガラだった。月彦たちは事前の打ち合わせ通りに先頭車両へと乗り込み、途中で乗り込んできた佐由達と合流した。
「やあ、おはよう白石君、静間君、紺崎君。そして君が……天川君だね、初めまして。倉場佐由です」
「おはようさん、千夏でええで。いつもうちの妙ちゃんがお世話になってます」
千夏はわざわざ座席を立ち、深々と頭を下げる。
「いえいえ、こちらこそ白石君のアレやコレにはいつも楽しませて貰ってますから」
「へぇ……詳しく聞きたいなぁ。妙ちゃんのアレやコレって一体何やろなぁ」
「あーもう! ”そうなる”から会わせたくなかったの! いいからとっとと座る! 電車動き出すわよ! ほら、英理も!……英理?」
「えっ……あ、うん。小曽根……英理、です。よろしく」
「「は?」」
「へ?」
妙子と佐由、そして月彦の三人分の疑問符が重なった。そんな中、英理は無言で大人しく佐由の隣へと座る。和樹、月彦、千夏、妙子、佐由、英理の六人が丁度一列横並びに座ったところで、電車が動き出した。その慣性に誤魔化すような形で、千夏がこっそり月彦に「濃いなー」と耳打ちしてきた。月彦が視線を向けると、千夏はチラリと目配せするように佐由の方に視線をやった。
キャラが濃いという意味なのか、それとも化粧が濃いという意味なのか。いつになく煌びやかな、それこそ釣りではなく舞踏会にでも行くかのようにしっかりメイクしてきている佐由の様子から、恐らく後者の意味だろうなと月彦は推測した。
(……服の方はトレッキングスタイルではあるが……いや、逆にアリなのか?)
妙子、千夏ともに動きやすい――さらに言えば汚れても良い――ウインドブレーカーにトレッキングパンツという組み合わせだ。英理もはっきりとは見えなかったが、似たり寄ったりな格好の中、佐由だけが妙に値の張りそうなマウンテンパーカーにキュロットスカート+レギンスという出で立ちとばっちりのメイクで完全に浮いてしまっている。
ちなみに和樹の格好はお気に入りのシャツとジーンズの上からフィッシングベストをつけただけで、その姿は趣味の釣りに出かける休日のお父さん以外の何ものでもない。
「おい、そういや和樹。今気付いたんだが……足りなくないか?」
「足りないって、何がだ?」
「いやほら、道具がだよ。お前が用意するって言ってたから、俺も何も持って来てねーぞ?」
和樹の所持品はリュックと、それと釣り竿ケースが二つだ。そして月彦を含め、和樹以外の誰一人、釣り竿を持参している者は居ない。しいて言えば、佐由だけが不自然に大きなリュックを持ってきているが、その中に釣り竿が入っているとも思えない。
「ああ、竿の事か。大丈夫だ。出先で借りられるんだよ」
「そういうことか。なのにお前だけマイ竿持って来たのか」
「まあ、そこはほら、一応、な」
「男子だけで内緒話かい?」
不意に飛び込んできた声に、月彦が顔を上げる。丁度月彦の前のつり革に捕まる形で、佐由が興味深そうに覗き込んで来ていた。
「や、やぁ倉場さん。今日も綺麗だね」
「ありがとう、紺崎君に褒めてもらえると本当に嬉しいよ。静間君も、今日は誘ってくれてありがとう。釣りをするのは初めてだから、本当に楽しみだよ」
「うッス。釣れなかったらすんません」
緊張しているのか、和樹の声はややうわずっていた。
「大丈夫、釣れる日があれば釣れない日があることも、釣りの醍醐味だってことくらい解ってるつもりだよ。”それ”も含めて、今日は楽しめればと思ってる所さ」
「おお、良かったな! 倉場さんなら妙子みたいに、一匹も釣れないからってむくれて八つ当たりすることも無さそうだぞ!」
「なんでそこで引き合いに私を出すのよ!」
「そうだね。いくら白石君でも、魚が釣れないくらいでむくれたりはしないだろう」
「あんたたちねぇ……人の気も知らないで……」
ふんと鼻息荒く、妙子がそっぽを向いてしまう。間に挟まれた千夏だけが、くつくつと笑いを堪えるように肩を揺らす。
「それはさておき、実は紺崎君に重大発表があって来たんだ」
「重大発表? 何だろう?」
佐由が得意満面な顔をしているが、実のところ月彦にはその発表内容に察しがついている。というより、隣の男から既にネタバラシされている。が、佐由の為にあえて知らないフリをする必要があった。
「ふふ、期待してくれていいよ。この場では何だから、後で二人だけになった時にじっくり語り合いたいものだね」
「へ、へぇ……楽しみだなぁ。期待してるよ、倉場さん」
おい、カズ。こんなに気まずい思いをするのはお前のせいだぞと言わんばかりに、月彦は肘で和樹の脇腹を小突く。
「それはそうと倉場さん。ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
月彦は声のトーンを落とし、口元を手で覆うようにして前のめりになる。佐由も察して、さらに前屈みになって耳を近づけてくる。
「……小曽根さん、元気無いみたいだけど何かあったの?」
「いや? さっき電車に乗るまでは普通だったんだ。釣りも楽しみにしていた。釣った魚は食べられるのかとか、主に食事絡みだったから、食欲が無いということも無いはずだよ」
「でも……変、だったよね」
「確かに。でも私にも原因が分からないんだ」
ちらりと、佐由が英理の方を見たので、月彦も釣られて見た。丁度英理の方も月彦の方を見ていた為、視線がかち合い、慌てて三者ともに視線を逸らす。
(何だ何だ? 小曽根さん俺を見てた? いや、それとも倉場さんを? 或いは千夏?)
がたんごとんと、電車は快調な音を立てて順調に目的地へと進む。だが、電車に乗っている自分たちの方は、順調とはいかないかもしれない。
なんとなく、過去の経験から月彦はそのような予感を抱いていた。
電車に揺られて小一時間。月彦一行は漸くにして目的の駅へと到着した。改札口を抜けると駅前のロータリー沿いにいくつかの飲食店と、まばらな人の行き来。空気が美味しく感じられるのは、景色に緑が多いからだろうか。
「んー! いい朝だ。晴れそうだし、今日は釣れそうだな!」
群青色に染まった朝焼けの空がなんとも清々しい。この景色だけでも早起きして来て良かったと、月彦は大きく伸びをする。
「本当に清々しい朝だね。空気も美味しい。たしかここからはバスだったね」
「その前に朝食でしょ?」
「せやな」
「………………。」
そうだった、そうだったと同意する自分以外のメンバーに、月彦は強い疎外感を感じる。今更ながらに”旅行のしおり”を自分だけ持っていないことの不便さと異質さが身に染みる。
「今度はちゃんとやってるとええなぁ、カズ?」
千夏がジト目をするのには理由があった。過去、和樹に誘われていった”おすすめの店”というのが、7割を超える確率で閉店或いは休業日だったからだ。
「大丈夫だって。念のため昨日電話して、今日営業してることを確認したんだぜ?」
「「「は?」」」
妙子を含む、幼なじみ三人の疑問の声が重なった。
(和樹が……店がやってるが事前に電話で確認した……だと?)
ありえない――そんな思いから、月彦は目眩を感じて膝をつきそうになる。千夏も似たようなリアクションをし、妙子だけが驚きに目を丸くした程度で済んでいた。
「……お前ら、失礼過ぎだろ。俺を何だと思ってんだ」
「いやいや、俺達は静間和樹という人間を正しく認識してるんだよ。間違ってるのはお前の方だ」
「ヒコの発言もトチ狂ってるけど、うちは支持するで」
「まぁまぁ、良いじゃない二人とも、珍しく和樹が頑張ったんだから。……で、あんたお勧めのお店ってのはどこにあるの?」
「ああ、別に遠かねーよ。すぐそこの、ほら。牛丼屋がやってるだろ? あそこだ」
月彦が和樹が指さす方向へと目をやる。なるほど、確かにまだ朝も早い時間であるというのに、牛丼屋の扉の前には大きく営業中と書かれたプラカードが下げられていた。
「待て和樹。お前朝っぱらから俺達に牛丼食えっていうのか? いや、俺は食えるけどな? 食えるけどお前……」
「……まー、カズならしゃーない」
「待て待て。あそこは牛丼屋だけど、牛丼は別に美味くねーんだ。その代わり牛すじ煮込みカレーがマジでうめーんだ! 騙されたと思って食ってみろって!」
「「余計重いわ!」」
月彦と千夏の声が重なった。
「あのなぁ、和樹。今回は俺達だけじゃなくて倉場さんたちもいるって解ってるか? 二人とも普通の女子高生なんだぞ、百歩譲ってここはコンビニかファミレスだろ」
「おおっと、ヒコはうちらの敵か? 敵なんやな?」
「別に私は構わないよ。美味しそうだしね。英理だって、朝からカレーくらいぺろりさ。なあ、英理?」
「え? ぁ……う、うん。そう、だね」
誰?――月彦は思わずそう呟きそうになる。記憶の中にある小曽根英理と、眼前の小曽根英理の落差に戸惑い周りを見回すと、同じく佐由と妙子も怪訝そうに眉を寄せていた。
「ま、まぁ……いいじゃない。起きてから時間も経ってるし、きっと入るわよ、うん」
「妙子……さてはお前、牛すじカレーが食いたいだけだろ?」
「あーのーねえ」
「まーええか。他によさげな店もなさそうやし、バスの時間もあんねやろ?」
いつまでも揉めててもしょうがないと、千夏がさっさと歩き出す。
「おう、この辺はバスの本数少ないからな。06:55のバス逃したら次は10時台しかねーぞ」
「ば、バカ野郎! あと30分もねーじゃねーか!」
「時間ねーからさっさと食って出発したかったのに、お前と千夏がゴネてたんだろーが」
「ぐぬ……」
「とりあえず、急いだほうが良さそうだね」
苦笑交じりの佐由が千夏に続いて、さらに和樹、妙子も続く。やれやれと溜息交じりに月彦も続いた。
目的地へと向かうバスの中は、朝食の牛すじカレーの話題で持ちきりだった。
「な? 言った通り美味かっただろ?」
「悔しいが、認める。確かに美味かった」
月彦、和樹。千夏、妙子。佐由、英理の順で通路の右側に二列縦隊で座っているが、バスに乗る前に座席割りについてもっとよく検討すべきであったと、月彦は密かに後悔していた。
和樹の隣はガタイのせいで狭いのだ。
「せやなー。まあうちは半分しか食ってへんけど」
「その半分を押しつけられたのは私だけど、美味しかったってことに関しては同意するわ。あの味が出せるなら、牛丼屋なんて辞めてカレー屋にすればいいのに」
「私も同意だ。次は是非とも時間に余裕があるときに、じっくりと味わいたいね。……英理?」
「えっ? う、うん……美味しかった、です」
借りてきた猫のようとは、今の英理の為にある言葉だろう。その豹変ぶりが、月彦は気になって仕方が無く、妙子、佐由も同じく気になっているのだろう。ちらちらと様子を窺っては、小首を傾げるということを続けていた。
「で、和樹。目的地の沼ってのは遠いのか?」
「沼じゃねーよ、湖だ。沼じゃ魚は釣れねーだろ」
「確か四十分くらいじゃなかったかな? ……大分山道になってきたね」
「丁度山の中腹くらいにある穴場なんスよ。近くに釣具屋もあって、静かでいいところス」
「静かなのは良いな。前河原で釣りした時なんて、近くで家族連れがバーベキューやっててめちゃくちゃ五月蠅かったからなぁ」
「ああ、あったな。しかたねーから場所変えようとしたら大雨になって、踏んだり蹴ったりだった」
うんうんと頷いていると、背後の座席から千夏の声が聞こえた。
「妙ちゃん、酔ったん? 顔色悪いで」
「……慌ててたから酔い止めの薬飲み忘れちゃって。バスに乗ってすぐ飲んだんだけど、これ効くまで時間がかかるのよね」
「白石君、大丈夫かい? これを噛むといい。ミント味だから、幾分スッキリするよ」
「ありがとう、佐由」
「おっ、ガムええなー。倉場さん、うちにも一枚ぷりーず」
「いいですとも」
「んー、ええ香りや。お返しはどっちがええ?」
ガムを頬張りながら、千夏が両手を差し出してくる。片方はキャラメル、片方は黒飴だった。
「では黒飴を」
「ええな。気が合いそうや」
やいのやいのと騒ぐ女子四人(実質2人)の黄色い声を背中に受けながら、がさごそと和樹がリュックをまさぐりる。
「月彦、せんべい食うか?」
「……いや、今はいらない。俺達、さっき朝飯食ったよな?」
和樹はまだ解るとして、千夏などは食べきれないと半分妙子に食べさせてたではないか。それから三十分と経っていないのに、お菓子で盛り上がる女子達も、平然とせんべいを食べ始める和樹にも、月彦は共感を抱けなかった。
「おい千夏、せんべい居るか?」
「あー、ガム終わったら貰うわ」
「倉場さんは?」
「一枚だけもらおうか。英理はどうする?」
「えっ? ええと……」
「じゃあ、とりあえず三枚ほど」
「うっス。割れも欠けも無い上物をどうぞ」
和樹がせんべいの中から特に形の良いものの一つを佐由に、同じく形の良いもの三つを英理に渡す。
「妙子、大丈夫か?」
「……ごめん、話しかけないで。口開くと吐きそうなの」
それはいかんと、月彦は黙る。無言で自分のリュックの中からビニール袋を取り出し、妙子に渡す。意味を察した妙子は僅かに笑顔を零すと、ビニール袋を握りしめたまま俯いた。千夏がそっとバスの窓を開ける。暖房の効いた車内に山の寒気が吹き込み、他の客の何人かは嫌な顔をしたが、車酔いであると解ると納得したようにおのおの前を向いた。
(…………釣りっぽい格好してる人、多くないか? 人気スポットなのか?)
和樹の言によれば、バスの便は少なく2時間に一本あるかどうからしい。それほど不人気な路線の筈なのに、バスの座席は八割近く埋まっており、しかもその大半が釣り人ルックなのだ。
今から行く場所は本当に静かな穴場なのだろうか。千夏に背中をさすられている妙子の姿を見ながら、一抹の不安を覚える月彦だった。
バスが目的の停留所に着くまで妙子は耐えきった。しかし、バスを降りたら劇的に体調が回復するというわけでもなく、歩いたほうが紛れるという和樹の言に従って6人、妙子のペースに合わせる形で移動する。
「倉場さん、それ俺持つッスよ」
六人の中で、佐由だけが場違いに大仰な荷物を持っている。見かねたように和樹が声をかけるが、佐由は小さく首を振った。
「心遣いは嬉しいけど、大丈夫だよ。見た目ほど重くはないし、それに静間君だって結構な荷物じゃないか」
「いや、俺はほら、このガタイッスから」
「倉場さん、何なら俺が持とうか?」
「ありがとう、紺崎君。だけど大丈夫。私より白石君に肩を貸してあげてくれ
「なんで私に振るのよ……。佐由も別に荷物くらい持たせれば良いじゃない。和樹はそれしか取り柄が無いんだから」
「おや? それは紺崎君には持たせるな、という意味かい?」
「あーもう、車酔いでただでさえ気分悪いんだから、くだらないことで体力使わせないでよ。二人とも、佐由が自分で大丈夫って言ってるんだから、もういいでしょ?」
顔色の悪い妙子にそこまで言われてはと、月彦も和樹も渋々食い下がり、一行は再び歩き出す。
舗装されていない、ただ土と草を踏み固めただけの轍跡を歩くこと約二十分。漸く妙子の顔色が戻ってきた頃、木々の合間から商店らしき建物が見えてきた。
「おー、着いた着いた。おーい、じっちゃーん!」
店の前で商品の整理をしているらしい白髪頭の男に向かって、和樹が手を振りながら声を上げる。
「おう、カズかぁ! なんだ、今日は随分大所帯だな」
白髪頭だが、がっしりとした体格に日焼けした肌。山の寒気の中にあって上着も着ずランニングシャツ一枚で隆々とした筋骨を見せているその姿に、釣具屋というより漁師という印象が強い。
「学校の友達だ。あー、2人は違う学校の友達だ。いや、3人か」
「おい、和樹。お前の爺ちゃんか?」
「違ぇよ。ただの釣り友だ。なあじっちゃん」
「正確には和樹の爺さんの知り合いだな。ひいふうみい、なんだ。デートじゃねえのか?」
男二人に女四人という組み合わせを見て、男が怪訝な顔をする。
「ただ遊びに来ただけだよ。俺以外は素人で、うち二人は完全な初心者だ。じっちゃん、竿見繕ってくれねーか?」
「それはいいけどよ、金はとるぞ? こっちも商売だかんな?」
「……そういえば爺ちゃんがそろそろお迎えが来そうだから”シズマスペシャル”のレシピを誰かに伝授したいっつってたなぁ」
ぽつりと、和樹が”独り言”を呟くや、男の目の色が変わる。
「まだ誰にするかは決めてねーって言ってたから、もし俺が誰かを推薦したらその人物に決まる可能性が劇的に高まるだろーけど、借りがある人なんて居ねーしなぁ」
「この野郎! 素人用の竿一式五つでいいんだな?」
「あとついでにバケツとか、ボートも貸してくれよ。どーせ客少ねーんだろ?」
「足下見やがって……さすがにボートまでは貸せねえよ。生憎全部出払ってんだ」
「はぁ? 十艘全部か?」
「おう。十艘全部だ」
ありえない、という顔をした和樹が荷物をその場に置き、商店のさらに向こう側へと走り出す。完全において行かれた状態の月彦達がしばし呆然と立ち尽くしていると、和樹はすぐに戻ってきた。
「おいおいおいじっちゃん! 今日はなんでこんなに多いんだよ! いつもガラッガラだろ!?」
「ああ、お前が言う通りたしかにいつもはガラッガラだ。だが先月辺りからギンダチ狙いの客がじわじわ増えててな。今はこの有様だ」
「ギンダチって……ありゃ岩慈守川の方に居る奴だろ? なんでここで釣れるんだ?」
「多分、去年の大雨で増水した時に紛れ込んだんだろう。ここは養殖とかもやってっからな。ギンダチが入り込んだせいでもうムチャクチャだ。そこで――」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください! おい和樹、俺達も話に混ぜろ! 一体全体何がどうなってんだ?」
「あー、月彦。つまり、かいつまんで説明するとだな――」
和樹と釣り具屋店長の説明を、漸くするとこうだ。
眼前の湖――苔古津湖は大きく、釣りの穴場であるが同時に淡水魚の養殖も行われている。しかしそこへ近くの大きな川から大雨の増水を切っ掛けに駆除対象の魚が紛れ込んだ。すこぶるタチの悪いその魚は湖の生態系を荒らし、養殖の魚にまで被害を与えている。
そこで困った業者が紛れ込んだ駆除対象の魚に懸賞金をかけ、懸賞金狙いの釣り人が急増したのだそうだ。
「成る程。ちなみにその懸賞金って幾らなんですか?」
「死体なら一万。生け捕りなら十万円だ」
店長の説明に月彦は思わず吹きだした。想像していた額よりも遙かに高額だったからだ。
「じゅ、十万円って……魚、ですよね?」
「ギンダチはなー、釣るのが難しい魚なんだよ。罠とかにも全然かからねーし、そのくせ大食いでタフで長寿でな。まあ繁殖力はそんなでもないってのが救いだが……」
「珍しい魚だから、欲しがるコレクターも多い。生け捕りなら十万ってのも、そういうことなんだろ? じっちゃん」
「まぁ、そうだな。とにかくそういうわけだから、ボートは貸せねえ」
「わかったよ、じっちゃん。じゃあ普通に竿とバケツと、あと念のためライフジャケットも貸してくれ。万が一があると怖ぇからな」
「合羽はいいのか?」
「合羽かぁ……岸まで来るか?」
「あり得なくは無いって感じだな。俺だったら用心する」
一体何の話をしているのだろうか。またしても置いてけぼりにされた月彦は思わず天を仰ぐ。雲が多く晴れ間は少ないが、雨が降るようにも見えない。しかし山の天気は変わりやすいという。合羽が居るというのは、雨が降りそうということなのだろうか。
「じゃあ、一応合羽も貸してくれ」
「悪いが合羽は買い取りだ。こっちも商売でやってんだ。何でもかんでもタダとはいかねえ」
「……わかった。その分はつけといてくれ。竿とバケツ、あとライフジャケットと、合羽を人数分だ」
「エサはいいのか?」
「シズマスペシャルがある」
和樹がリュックから白いタッパーを取り出し、蓋を取って見せる。たちまち店長が黄金の塊でも見たかのように破顔する。
「それ半分くれたら、合羽はタダでいいぞ」
「ダメだ。金はちゃんと払うから、とにかくすぐ用意してくれ」
和樹がタッパーをしまい、店長はしぶしぶといった感じで店の中へと戻っていく。
「おい和樹。それってお前がいつも使ってる練りエサだよな?」
「ああ。今日は六人分だからいつもより多めに持って来た」
月彦は思い出す。和樹は釣りの際、いつも自前の練りエサを持って来ていた。思い返せば、確かに和樹が持って来た練りエサは実に魚の食いつきが良かったような気がする。
(……”シズマスペシャル”とか言ってたな。もしかして、その界隈の人には垂涎の一品だったりするのか?)
和樹も別段もったいぶるでもなく振る舞っていたから、貴重品だとは夢にも思わなかった。程なく店長が竿とライフジャケットとバケツ、そして小さく折りたたんで密封された新品のビニールの合羽を人数分持って来た。
「じゃあな、カズ。爺さんにはよろしく言っといてくれよ!」
「まかしとけ」
和樹は店長から竿とバケツ、ライフジャケットと合羽を受け取り、全員に渡す。
「ああ、それから釣りを始める前に――……じっちゃん、なんだっけ? 例のアレ」
「”マコサマバンザイ”」
んん?――店長のやけくそ気味の返事に、月彦は大きく眉を寄せた。
「そうそう、マコサマバンザイだ。釣りを始める前に――てか、湖に近づく前に、最低でも十回マコサマバンザイって唱えてくれ」
「待て、待て。和樹、そりゃなんのまじないだ?」
「まあいいじゃねーか。俺だって別に信じてるわけじゃねーけど、念には念だ」
「いや、だから何のまじないなんだ?」
「ギンダチ避けのまじないだよ。言い伝えじゃ百回唱えろって言われてんだけど、さすがに百回はな」
言い伝え?――ずずいと、身を乗り出してきたのは佐由だ。
「すまない、静間君。その言い伝えとやらを詳しく教えてくれないかい?」
ああ、また始まった――という顔をしたのは、妙子と、そして英理だ。
「佐由、あんたほんとその手の話好きね」
「いいじゃないか。……頼む、静間君、聞いての通り、私はそういう話が大好きなんだ」
「あ……あぁ、俺も爺さんに教えてもらったくらいで、詳しく知ってるわけじゃねーけど」
佐由の迫力に気圧されているのか、和樹が照れるように頭を掻いて、続ける。
「昔この辺にとんでもない性悪狐が居て、そこら中の村で悪さをして回ってたらしいんだ」
性悪狐――月彦は大きく反応しかけて、慌てて平生を装った。
「で、ある時村に立ち寄ったえらい坊さんがその性悪狐を懲らしめて追い払ったんだけど、坊さんが居なくなった後にまた戻ってきて、報復にタチの悪い害魚をそこら中の川に放したんだと。で、その魚ってのがギンダチだって言われてんだ」
「成る程……そんなに迷惑な魚なのかい?」
「釣れない、罠にもかからない。なんとか捕まえてもまずくて食えない、他の魚は食うし、釣り糸は食いちぎるし罠も壊す。おまけに人を見ると臭い汁を飛ばして威嚇してくるんだ。この汁がまた臭くてな…………昔爺ちゃんが食らって家に帰ってきたときは家族総出で戸締まりして頑として家に入れなかった。それくらい臭かった」
「だから合羽か……………………さっきのおまじないは?」
「ギンダチにほとほと参った村人は性悪狐に頭を下げて、ギンダチをなんとかしてくれるように頼んだらしいんだ。んで、その時教えてもらったギンダチ避けの呪文が”マコサマバンザイ”。これを百回唱えると、ギンダチが寄りつかなくなる……らしい」
「成る程ね。ちなみに静間君はその魚を見たことはあるかい?」
「いや、ないな……チラッとそれっぽい魚影を見たことはあるけど。そもそも積極的に釣ろうともしなかったからな」
「カーズー、聞いてた話と随分違てきてるんやけど。もうこれ、今日は釣り止めて他の事したほうがええんちゃう?」
「まぁまぁ、そう言うなって。ギンダチが出るとは言ってるけど、そうそう遭遇できるもんじゃねーって。ほら、見てみろよ。あんなに大勢ギンダチ釣ろうとしてるけど、全然釣れてねーんだぜ?」
ほら、と和樹が指し示す先には、様々な格好の釣り人達が見える範囲だけでザッと五十人は居る。合羽の着用率は半々と言ったところだ。
「な?」
「な、って言われてもなー」
「私は構わないよ。運が良ければ一攫千金、面白そうじゃないか。なぁ、英理?」
佐由に振られて、英理は戸惑いながらも頷く。
「妙ちゃんも賛成なん?」
「えーと…………とりあえず、和樹も大丈夫って言ってるんだし、続行で良いんじゃない?」
妙子の返事に、千夏が目を丸くする。
「ヒコはー……って、またえらい渋い顔やなー」
事実、月彦は渋面だった。現在の複雑な心境を顔には出すまいと必死に平生を装った結果の渋面だった。
(……あの女は昔っからこんなバカな事やってたのか)
話を聞けば聞くほどに、ギンダチをばらまいた性悪狐はあの女であると思えてならない。情けないやら恥ずかしいやら、申し訳ないやら腹立たしいやらで、月彦の心中は甚だ複雑だった。
「…………渋面にもなる。とにかく、そんな不届きな魚は俺が釣り上げてやる」
「おっ、やる気だな月彦。まあ釣れたらラッキーくらいでいいんじゃねーか? あの臭さと賞金の十万円が釣り合ってるかは微妙だと俺は思うけどな」
「しゃーないな。うちは止めたで?」
千夏が溜息交じりにやれやれと首を振った。
「んじゃ、予定通り2:2:2で別れるか。釣り初心者の倉場さんと俺、同じく初心者の小曽根さんと月彦。んで千夏と妙子でいいよな?」
「そのことだけど、静間君。済まないが私は紺崎君と組ませてもらえないかな?」
「あっ、例のアレッスね」
「そう、例のアレだ」
「んじゃ俺と月彦入れ替えで、月彦と倉場さん。俺と小曽根さん。千夏と妙子はそのままで――」
その瞬間、月彦は聞いた事のない動物の鳴き声を聞いた。それは正確には動物の声ではなく英理が発した悲鳴(?)だった。
「英理?」
「あんた朝から変よ。具合でも悪いの?」
詰め寄る佐由と妙子に、英理は高速で顔を横に振る。
「ぜ、全然変じゃない! すごく元気!」
裏返りそうな程に高い声で返事しながら、上腕二頭筋をアピールするかのように伸び縮みを繰り返す英理に、その場の全員が困惑を深めた。
「ま、まぁ……元気なら良いんじゃないかな、うん」
「そーね、元気なら……」
英理の痛々しいまでの元気アピールから五人が視線を逸らした時だった。
「おーい、カズ! ボートが一艘戻ってきたから、乗るなら貸してやるぞ」
「おっ、じっちゃんナイスタイミングだ。二人だけボートに乗れるが、誰か乗りたい奴居るか?」
「カズ、ギンダチって岸辺で釣るのとボートで釣るの、どっちが釣れるか分かるか?」
「そりゃボート一択だ。浅瀬にゃあんまり居ねぇ魚だからな。……お前、本気で狙う気なのか?」
「もちろんだ」
別にあの女の保護者でも何でも無いのだが、関係者として責任を取らなければならないような気がしている。なんとも曖昧な使命感に突き動かされ、月彦は大きく頷いた。
「いいね、面白そうだ。私も協力するよ」
「あー……倉場さんはマジで止めておいたほうが…………釣れたとしても、ほんと臭ぇッスよ?」
「大丈夫。こう見えて私は匂いフェチなんだ」
冗談交じりに言う佐由に、和樹と千夏が苦笑する。月彦と妙子と英理は視線を逸らした。
「まぁ、どうせ釣れねーからいいか。……そんじゃ、竿とエサ配るぞ。エサのタッパーは一つずつ持って行ってくれ。もちろんライフジャケットと、一応合羽もな」
それから、と和樹が軽く咳払いをする。
「折角の釣りだ。この中で一番でかい魚釣った奴には俺が個人的に賞品を出す。賞品が何かは秘密だ。もちろん俺が一番なら、俺がもらうからな」
茶化した様子で、千夏が挙手する。
「しつもーん、それは食べ物ですかー?」
「黙秘する。それなりにいいものだとだけ言っておく」
「今回だけ気合入りすぎだろ……。釣りに誘う時毎回それやってくれよ」
「今回は人数も多いからな。ちょっとしたお祭り気分で楽しんでもらいたいという俺の好意だ。ついでに釣り仲間が増えてくれたらなーという下心も混じってるぞ」
成る程と、月彦は納得した。
「ま、いいじゃない。行きましょ、千夏」
「せやな。ヒコ、釣れるとええなー?」
何が、とは言わず。千夏は一足先に歩き出した妙子の後に続く。
「じゃあ、俺達も行こうか、倉場さん」
「そうだね。……あぁ、そうだ。静間君、どこか荷物を置いておけるような所は無いかな?」
「それなら、じっちゃんに頼めば大丈夫スよ」
「さっきのおじさんだね。すまない紺崎君、ちょっとだけ待っててくれるかい?」
「じゃあ、俺が先にボートに荷物だけ積んどくよ」
月彦は佐由を見送り、和樹から二人分の竿とライフジャケット、エサ入りのタッパーと合羽を受け取る。
「そういや、ギンダチってどんな形してるんだ?」
「形か……まぁ、見りゃ解る、としか言えねーな。初見じゃ魚に見えねーよ、あれは」
「魚に見えない?」
「お待たせ、行こう紺崎君」
「おっと、倉場さん早いね。じゃあカズ、行ってくるぜ」
「おう。まじないは兎も角、ライフジャケットは必ずつけろ。ふざけてボートから乗り出したりすんなよ。今日は寒みーから、落水したら最悪心臓麻痺だぞ」
「わかってる。倉場さんも一緒だし、無理はしない」
和樹と別れ、月彦は佐由と共に桟橋へと向かった。
佐由と二人、ボートに乗り込み、桟橋を離れる。山の中腹にある割には随分と大きい
湖で、桟橋から十分距離を取った筈であるのに対岸は霞んで見えない。水の透明度はお世辞にも良いとは言えず、水面を覗き込んでも殆ど何も見えなかった。
「思ってたよりも揺れないんだね。実は、ボートに乗るのは初めてなんだ」
「湖は波がないからね。漁船に乗った時はヤバかったよ。妙子がめちゃくちゃ船酔いしてね」
「漁船か……いいね。漁船も楽しそうだ」
そう言う佐由は実際とても楽しそうだった。舳先側に座り、微風に髪をそよがせながら興味深そうに竿を弄っている。大分岸から離れたということもあり、月彦もオールから手を離し、竿の準備を始める。
「これを丸めて、針先につけて垂らせばいいのかな?」
「そうそう。量は本当に少しでいいんだよ。これくらいかな」
月彦は練りエサを摘まんで丸め、針先に刺してみせる。佐由もそれに倣い、左舷右舷でそれぞれ糸を垂らす。
「少しドキドキするね。もし魚がかかったら、これを巻けばいいのかい?」
「最初ビビビって来たら軽く竿を引いて、あとは様子を見ながら少しずつ巻けば大丈夫だよ。海釣りじゃないから極端な大物がかかったりもしないだろうし、糸が切られるとか竿が折れるとかも大丈夫だろうしね。湖に落ちないようにだけ注意しよう」
「そうだね。ちょっと触ってみたけど、水はかなり冷たそうだ。何故魚は凍えないのか甚だ疑問に思うよ」
「それは俺も同感だ」
二人ともライフジャケットはつけているが、だから落ちても問題無いとはならない。特に舟に不慣れな佐由の動きには気をつけた方が良いだろう。
「おっ、これがアタリというやつかな。びびびびっと来たよ」
「おおっ!? 早いね、さすがカズキスペシャル……じゃない、シズマスペシャルか」
「あれ、でも随分軽いよ。これは……エサだけ取られたかな」
佐由がリールを巻いていくと、エサの無くなった釣り糸だけが水面から現れた。
「まぁ、よくあるやつだよ。エサはたっぷりあるから」
「そうだね。リトライだ」
佐由が再度エサをつけ、釣り糸を垂らす。
「そういえば、倉場さん。何か重大発表があるって言ってなかった?」
「ああっ、そうだったね。危うく忘れるところだったよ。………………ついに、クリアしたんだ」
「おおっ! どうだった?」
事前に和樹にネタバレされていたことなどおくびにも出さず、月彦はさもたった今聞いたとばかりに声を上げた。
「そうだね。面白かったのは当然として、過去一番心に来る作品だったよ」
「そっかぁ、気に入ってもらえたなら俺も凄く嬉しいよ。ちなみにどのエンディングだった?」
「アリアEND……ということになるのかな。最後、記憶を失ってたようだったけど」
「あー、それはマイ姉ちゃんのノーマルルートENDだね。マイ姉ちゃんとアリア姉ちゃんが決闘して、マイ姉ちゃんが勝つけど、妹のリュミに殺されるルートだよね?」
「そうそう。あれはマイENDなんだね。というか、リュミが実はマイの妹だというのはなんとなく想像はついてたけど、まさか殺すとはね。あれは予想出来なかったよ」
「実際マイ姉ちゃんも完全に虚を突かれてたしね。……まぁ、竜の力を持ってるマイ姉ちゃんが、ちょっとナイフで刺されただけで殺されちゃうってのは、正直ありえないとは思うけど……」
「それは私も思った」
佐由が苦笑する。
「だけど、私が一番好きなキャラもリュミだね。一番人間くさいというか、リアリティを感じるキャラだったよ」
「へえ……凄く意外だ。俺はどっちかっていうと嫌いなキャラだったな。簡単に裏切るし、そのくせ自分がピンチになると見苦しいくらい命乞いしてきたりして、最終的に本当は良い子なんだけど育った環境が悪かったんです、みたいな風にされるから」
「確かに一般受けはしなそうなキャラだったね。だけどそういう格好悪さがなんか好きでね。それにリュミが醜いからこそ、姉のマイの高潔さや一途さが際立つという意味でも、良い脇役だと思えるんだ」
「なるほど、確かに倉場さんの言う通りかもしれない。リュミがどんだけやらかしても、最後にはマイ姉ちゃんが許してくれるから、マイ姉ちゃんの優しさが際立つってのはあるね」
「マイはマイで、自分が何をしているかの自覚があるからその反動と罪悪感で際限なく他者を許さざるを得なかった……というのもあったんじゃないかな。ただ、そんなマイでもアリアだけはどうしても許せなかったというのが皮肉な話だね」
「俺が言うのもアレなんだけど、あそこだけはちょっと納得いかないんだよね。なんであの二人があそこまでいがみ合うのか……まぁ、あの二人が和解しちゃったらそもそもブレドラの話が終わっちゃうから仕方ないんだろうけど」
不意に視線を感じて、月彦は佐由の方を振り返った。まるで信じがたい言葉でも聞いたかのように、佐由が目を丸くしていた。
「紺崎君は、何故二人が対立していたのかが解らなかったのかい?」
「いや、なんとなく想像はつくんだよ。マイ姉ちゃんにとって主人公は実の弟にしたいくらい可愛い男の子で、その主人公を自分のモノとして好き勝手にするアリア姉ちゃんが許せないとか、アリア姉ちゃんは赤の他人が弟に必要以上に干渉してくるのが許せないとか、そういう事情は分かるんだけど……それにしては二人とも余裕がなさ過ぎというか、譲らなすぎだと思うんだよな」
「…………私は、一歩も譲れないっていう二人の気持ちは痛い程伝わってきたし、共感も出来たけど、その辺の感覚は人それぞれなのかもしれないね」
「もしかしたら、男と女の考え方の違い方なのかもしれないね」
言いながら、月彦はリールを巻く。アタリは無かった筈だが、釣り糸の先からはいつのまにかエサが消えていた。
「やっぱりか。倉場さんもあんまり長いことアタリが無い様だったら一度針先を確かめた方がいいよ。人知れずエサだけ消えてるってことが結構あるからさ」
「…………見てみたら、こっちもエサだけとられてたよ。なかなか難しいね」
「まぁ、まだまだ始まったばかりだよ。さっきアタリは来たんだから、今日はきっと釣れるよ」
「うん。出来ればギンダチとやらを釣って一攫千金を狙いたいところだね」
「…………そうだね」
確かに佐由の言う通り、釣れるものなら釣りたいというのが心情ではある。が、冷静になって考えてみれば十万円の賞金がかかるほど釣れない魚なのだ。和樹のようにそれなりに心得がある者なら兎も角、自分のような素人においそれと釣れるものではないと思えてくる。
(いや、逆にビギナーズラック的なもので釣れたりは……しないか?)
釣れるのではないかという期待と、釣れるわけがないという諦観が秤の両側で互いの重さを競い合っていた矢先。
月彦の竿を、激しい振動が襲った。
「おおおっ!? デカイの来た!」
「紺崎君!? ええと、私も手伝ったほうが良いかい?」
「いや、大丈夫だ。倉場さんはちゃんと自分の竿を握ってて……うおおおっ、すっげぇ引きだ」
竿の先が大きく撓り、グイグイと糸が引かれる。ともすればボートごと引っ張られるのではないかという凄まじい引きに、月彦は久しく忘れていた釣りの興奮を思い出していた。
「この引き……でかいコイか何かかも……くぬおっ……!」
先ほど佐由にはこの場所では糸を切られるような事はないと言ったが、ありうるかもしれないと月彦は思っていた。それほどの引きなのだ。竿の撓り具合を見定めて、時折ドラグを緩めながら、月彦は”長期戦”にて魚の体力の消耗を狙う。
かれこれ十分近くもそうして引いては引っ張られを繰り返していると、漸く魚の方も体力が尽きてきたらしい。既に佐由は自分の釣り糸を引き上げ、月彦の動向を見守っていた。
「そろそろ、水面近くまで来てる筈だ。ほら、見えてきた!」
濁った水面に、白っぽい影がうっすら見えてきた。
「倉場さん、焦らなくていいから、あんまり乗り出さないようにして。落水も怖いけど、片側に寄りすぎると転覆するかもしれない」
水面近くまで引き寄せ次第、手網ですくい取ろうと構えていた佐由が、慌てて上体を戻す。
「すまない、すこし気が急いていたようだ」
「気持ちは分かるよ。俺も、いつ竿が折れるかって不安で堪らない」
焦らず、少しずつ、少しずつ引き寄せる。白い影は疲れ切っているのかぐったりとしていたかと思えば、時折思い出したように暴れ出し、その都度糸を切られそうになる。前もってドラグを緩めてなければとうに切られて逃げられていたかもしれない。久しぶりの釣り、それも大物の手応えに月彦は思わず舌なめずりをする。
(これは60cm……いや、70はいくか? 見た事ない魚みたいだけど、大物には違いない)
ギンダチであれば良し。ギンダチでなくとも、大物であれば和樹の言っていた自称豪華景品が狙えるかもしれない。
「よし、そろそろだ……倉場さん、俺が手網使うから、竿の方しっかり握っててもらえるかな?」
「わ、わかった……絶対離さないよ」
「いや、そこまで気張らなくていいよ。むしろ危ないと思ったらすぐ離してくれていいからさ」
別に釣りに命をかける釣り○○(釣りが著しく好きな人の意)ではないと、月彦は苦笑交じりにバランスに気をつけながらボートから身を乗り出し、白い影を手網ですくい取る。
「おおっと、けっこう重いな……倉場さん、針外すから、今度は手網の方持っててくれる?」
「これを持てばいいんだね? うっ……」
「重いだろうけど、ちょっとだけ我慢してて」
月彦は針外しで手早く魚の口から針を外し、佐由から手網を受け取るとそのままボート船尾に備え付けられている生け簀に放流する。
「成る程、このためにそのグローブがあるんだね」
「あぁ、これ? 前に魚から針外す時にヒレで怪我したことがあってね。それから和樹にもらったお古のやつをつけることにしてるんだ。無いなら無いでもなんとかなるんだけど、一応、ね」
「魚を釣り上げられるくらいしっかりと釣り針が飲み込まれてるんだから、釣った後は外す作業が必要になるのか。これは盲点だったよ。ただ釣れば良いというものじゃないんだね」
「まあ、今日の所は一緒に居る俺が倉場さんの魚の分も外すからそこは安心してくれていいよ」
「私や静間君が一緒に居る英理はそれでいいとして、白石君達は大丈夫なのかな? あの白石君が魚の口に指を突っ込んで針を外す様子なんて想像出来ないんだが……」
「そこらへんは慣れ、かな。妙子も千夏も最低限の所は出来るよ。ただ積極的にはやりたがらないから、俺か和樹が一緒に居るときは、基本俺達任せだね」
「へぇ……。白石君の意外な一面だね。それとも、幼い頃から男の子と遊んでいるとそれくらいは平気で出来るようになるのかな」
「そこら辺は個人差がありそうだけど……にしても、結構な大物だな。目測でも70cm近くはありそうだ」
「本当だね。ちなみになんていう魚なんだい?」
「いや……それが俺も解らなくって。倉場さんも解らない?」
「私の知識は酷く偏ってて、淡水魚の種類についてはへたをすると一般人以下だよ。それこそ、見て解るのはメダカとかフナとかアユくらいさ」
「そっか……。…………これ、ひょっとしてギンダチじゃないかな?」
「まさか……いやでも、銀色に見えなくもない気はするね」
ギンダチのギンというのは銀色のギンから来ているのだとすれば、目の前の魚がギンダチである可能性は低くないように思える。
(いや待て。その前に、これって本当に魚なのか?)
月彦は自分が釣った魚のフォルムをよくよく確認する。頭部は丁度弾丸のように先端部が丸く、胴体部にかけて丸みを帯びたまま徐々に太くなり、大きめの頭部に比べて胴体から尾にかけては細く長く、見ようによっては魚というより蛇のように見える。辛うじてヒレやエラらしきものが確認出来るから恐らく魚ではあるのだろうが、突然変異で手足が無くなったサンショウウオの幼体であると言われればそうとも見えるような、独特の形をしていた。
「よし、ここは静間君に判定してもらおう」
そう言って、佐由は携帯のカメラを白い魚に向けてぱしゃりと撮影すると、チャットツールで和樹宛にぺたりと写真を添付した。
程なく、佐由の携帯から着信音が鳴り響いた。
「もしもし? うん。私じゃなくて紺崎君が釣ったんだ。うんうん、すごい引きだったよ! 隣で見てただけだけど、興奮で胸が高鳴りっぱなしさ」
和樹の声は月彦には聞こえない。しかし佐由の声の調子から落胆の色が全く見えないことから、これはひょっとするとひょっとするのではと密かに胸を高鳴らせていた。
「うん、わかったよ。じゃあ、また後でね、静間君も気をつけて」
「どうだった? 何かわかった?」
「…………残念ながら、この魚はギンダチではないそうだよ。ハンダチといって、ギンダチの近縁種なんだそうだ」
「くあーっ、違ったかー!」
「まあでも、かなりの大物であるのは違いないそうだよ。静間君も”本気出す理由が出来た”って喜んでたよ」
「てことは、あいつもまだ大物は釣れてないんだな。あいつが言う景品が何かはわからないけど、これで結構望みが出てきたかもしれない」
「そうだね。ああ、あともう一つ。ギンダチの見た目なんだけど、ハンダチに近いらしいよ。ただ色は黒っぽいというか、赤黒い感じで、威嚇で凄まじく臭い液体を飛ばしてくるから絶対浴びないように、だそうだ」
和樹がより具体的なアドバイスをくれたのは、ハンダチを釣ったことにより”釣れるわけがない”から”ひょっとしたら釣るかも”に変わったからなのだろう。
「そういや、折角渡された合羽、まだ封も開けてなかったな。…………いちおう着ておこうか、倉場さん」
「そうだね。似た魚が釣れたんだ。ギンダチ自体が釣れる可能性も決して低くはないように思えるし、ここは着ておこうか」
佐由と二人、白い半透明のビニール製の合羽を着込む。フードまでしっかり被ると、たちまち佐由が「まるで釣りガチ勢カップルみたいだね」といって笑った。
「確かに」
月彦も苦笑する。そんな月彦の隣に、佐由が身を寄せるようにして座ってくる。
「く、倉場さん!?」
ちょっと、いくらなんでも近いのではないか――そんな接近アラートを心臓が奏で出し、月彦は反射的に飛び退きそうになる。が、慌ててボートの上だということを思いだし、急な挙動は事故の元だと、佐由に密着されるがままになる。
「ふふっ、今日は本当に楽しいね。こんなに楽しいことを幼い頃から当たり前のようにやっていたなんて、白石君には心底嫉妬するよ」
「そ、そんなに喜んでもらえて俺も嬉しいよ、倉場さん。それはいいんだけど、さすがにちょっと離れた方がいいんじゃないかな? ほら、湖の上に居るとはいっても、こっちから岸辺に居る人が見えるわけで、てことは逆もまた然りってことで」
「そうだね。ひょっとしたら、私たちがいちゃついているように、白石君達には見えるかもしれないね」
分かってるなら離れて欲しいと月彦は思ったが、口には出せない。だが、その態度から佐由も察したらしい。
「……いや、すまない。少し羽目を外しすぎたね」
「ははは……まぁ、今日の所は純粋に釣りを楽しもうよ、うん」
「そうだね。そうしよう」
佐由が離れ、先ほどまで同様ボートの左舷右舷に釣り糸を垂らす形で腰を下ろした。
午前中の釣果は二人合わせて五匹。一番の大物は月彦が釣ったハンダチだが、佐由も自力でヘラブナを二匹釣り上げていた。
はてな、と月彦が思ったのは昼食はどうするのかということだった。
(そういや、そろそろ昼だけど……今日は昼飯はどうするんだ?)
和樹を含め誰一人昼食の事に触れていなかった為、月彦も自身が空腹を覚えるまですっかり失念していたのだった。
「そういえば、倉場さん。今日って、昼食はどうするか決まってたりするの?」
月彦が思ったのは、”旅行のしおり”には書かれているのではないかということだった。
佐由が些か目を丸くした。
「……そうか、紺崎君は知らないのか。昼食の心配なら要らないよ。六人分、しっかり用意してあるからね」
「用意してある……って、もしかして、倉場さんが?」
「うん」
佐由が誇らしげに頷く。
「ほら、ボートに乗る前に荷物を預けたろう? あれがお弁当だよ」
「し、知らなかった……それじゃあ、やっぱり相当重かったんじゃ?」
何故バスから降りた時、自分たちに持たせなかったのだと。月彦はつい責めるような口調になる。
「ただのつまらない、ちょっとした意地だよ。”女子だから”という理由で楽をさせてもらったり、相手に損をさせるのが嫌いなタチなんだ」
「いや、でも……そもそもなんで倉場さんが全員分の弁当を? まさか和樹が頼んだ?」
「違うよ、私が頼んだんだ。是非作らせて欲しいとね。元を正せば、私が釣りをやってみたいと言ったのが発端だ。お昼のお弁当を私が用意するくらいはするべきだろう?」
「それは……うーん……でも……」
誰かに強いられたのであれば問題だが、自ら進んでやったのであればとやかく言うことではないのかもしれない――そう思える。
(だけど、ちょっと待て。今朝は五時半に待ち合わせだったぞ)
佐由達は別の駅から乗ってきたが、集合時間に大した違いは無いだろう。六人分の弁当を用意してその時間に家を出るためには、一体何時に起きなければならないのか――。
(……いつにもましてメイクが濃いように感じたのは、ひょっとしたら寝不足を隠すためだった……?)
三時起き二時起き、ひょっとしたら徹夜したのかもしれない。自分たちとの遊びの予定にそこまでの意気込みを込めてくれたのだということが、嬉しさを通り越して軽く感激さえする。
「心配しなくても、”元”は十分過ぎるくらいとれてるよ? もう三年早く年頃の男子と遊ぶのがこんなに楽しいって知ってたら、私も紺崎君達と同じ高校に進学してたかもしれないね」
暗に、何故妙子は恵まれた境遇を捨てるように一人別の高校を選んだのか――そう言っているように、月彦には聞こえた。
ボートを桟橋に戻して、和樹達と合流する。ちなみに和樹・英理の釣果は五匹だが全て小ぶりのギンブナ、うち四匹は和樹ではなく英理が釣っていた。千夏・妙子の釣果はコイが一匹と、ミシシッピアカミミガメが一匹(放流済み)だった。
「和樹は一匹か、随分不調だな」
「きっと英理にいろいろ教えていて時間が無かったんじゃないかな?」
「いや、完全に実力スよ。小曽根さんも飲み込み早いし、この分なら午後は大物も狙えそうス」
「大物の基準は長さやろ? 重さやったらさっきの亀がええ案配やったけどなー」
「仮に重さ勝負でも、亀はノーカンじゃないの。多分」
「亀は亀でもスッポンとかなら持って帰って食えたけどな」
「泥抜きめんどいから、そんときはヒコにやるわ。てゆーかヒコのそれキッショい魚やなー」
「ホント、白……っていうか、肌色っぽいし、なんだか気味が悪い魚ね。結構大きいから、今のところあんたのが一番大物ね」
妙子や千夏がボートの生け簀を覗き込んでは、さんざんにこき下ろしてくる。苦労して釣り上げたという欲目で見ていたから気にしていなかったが、言われてみれば確かに気味が悪い魚(?)だった。
「まあ、そのくらいにして飯にしようぜ。倉場さんの弁当めっちゃ楽しみにしてたんだよ、俺」
「嬉しいね。期待に添えるといいんだけど」
預けていたリュックを受け取り、六人が車座になれる場所を探してビニールシートを敷く。その中央にリュックを置き、四段重ねの特大重箱弁当を取り出す。
「でっか! いやでも、六人分ならこんなもんか」
「また随分頑張ったわねー。フリマの時のより大きいじゃない」
「何せ六人分だからね。しかもうち二人は男子だ。ひょっとしたら足りないかもしれないと内心ヒヤヒヤだよ」
佐由がおしぼりを配り、重箱を展開させる。一段目はおにぎり、二段目はゆかりやわかめ、ふりかけなどがまぶされた味つきのおにぎり。三段目はからあげ、アスパラガスのベーコン巻き、焼きウインナー、ミニハンバーグ、卵焼きとそれらの下敷きになっているレタス。あと何故か大量のきんぴらで構成されていた。四段目はりんご、ぶどう、オレンジ等のくだものの詰め合わせだった。
「悪いけど、栄養のバランスはあまり考えてないというか、目を瞑ってくれ」
「いやいやいや、倉場さん! こーゆーのでいいんだよ、こーゆーので!」
「俺も和樹に同意だ。ある意味百点満点の弁当だよこれは」
丁度佐由の隣に座っていた月彦は佐由から割り箸と紙皿を受け取り、それを時計回りに回す。
「妙ちゃん良かったなー、お肉いっぱいやん?」
「朝牛すじカレーだったのに、そんなのお肉ばっかりがっつかないわよ。……佐由、今更だけどあんたにばっかり用意させて悪かったわね」
「好きでやってることだ。白石君は気にしないでくれ」
「あっ、こらカズ! まだ皿と箸配り終わってねーだろーが!」
「堅いこと言うなって。腹減って死にそうだったんだよ」
「それはいけない。静間君、遠慮せずどんどん食べてくれたまえ」
「倉場さんダメだって、そんなこと言ったらこいつ一人で半分くらい食いかねない」
「うんまー! 倉場さん料理めっちゃ上手やなー、うちをお嫁さんにしてぇー!」
「そこはお婿さんじゃないの……でも、本当に美味しいわ」
「ありがとう、女子力の違いを見せつけてしまったかな?」
えへんと佐由が胸を張ったあと、苦笑する。
「……まぁ、大半は母に手伝ってもらったんだけどね。だけど前回よりは、私が作った割合が多いんだよ? きんぴらとアスパラのベーコン巻きは完全に自作なんだ。おすすめだよ」
「マジっすか、早速頂きやす! んっ、うんめぇ! どっちも美味いっす!」
「あっ、こらカズ! だからお前取り過ぎだって!」
「ははっ、紺崎君も遠慮せず食べてくれ。早くしないと無くなってしまうよ?」
佐由は紙皿にきんぴら、ベーコン巻きをたっぷり取って月彦に渡してくる。
「あ、ありがとう、倉場さん。……これは、確かに美味しいね。おにぎりとめちゃ合うよ」
「そうだろう? どんどん食べてくれ。お茶もどうぞ」
さあこれも食べろあれも食べろと、佐由は紙皿におにぎりやらおかずやらを山盛り取っては渡してくる。
「ちょ、ちょっと倉場さん! そんなに持てない、っていうか多いって!」
「倉場さぁん、ヒコばっか贔屓せんで、うちにもよそってぇ?」
千夏が茶化すように甘い声を出し、空の紙皿を差し出してくる。佐由は苦笑しながら紙皿を受け取り、千夏の皿にもおかずとおにぎりを取って渡す。
「英理、さっきから全然食べてないけど大丈夫? 具合悪いとかなら正直に言いなさいよ?」
「だ、大丈夫……具合は、平気……」
英理はそう言って引きつったように笑うと、誤魔化すようにおにぎりをひとつ皿にとり、食べ始めた。
「倉場さんも、ほら、自分の分食べないと…………無くなるよ?」
月彦の言葉に釣られて重箱の残りを見た数人がギョッと目を丸くする。六人で食べきれるだろうかと危惧するほどの量あったはずのおにぎりとおかずが、早くも半分以下になっていたからだ。
うまいうまいと連呼しながらがっつく和樹に触発されるように、残りの全員が自分の分の確保に勤しむのだった。
「なーなー、倉場さん。折角集まったんやし、午後はもっかいシャッフルしてペア組み直さへん?」
「えっ……?」
突然の千夏の提案に、佐由が弁当箱を片付ける手を止める。
「せっかく他校の女子と一緒に遊びに来てるのに、ろくに話も出来ひんのも嫌やし。うち午後は倉場さんか小曽根さんと組みたいわ」
「あっ……そ、そうだね。 でも、それだと折角の大物釣り勝負が……」
「あれって、ペアでカウントじゃなくて個人でカウントじゃないの? 私はそうだと思ってたんだけど……」
ちらりと妙子が和樹を見ると、和樹も頷いた。
「個人カウントだな。だから別にシャッフルは全然問題無い。……ッス」
「そう……なのか。紺崎君はどう思う?」
なんとなく、縋るような目を向けられ、月彦は俄に返事に困った。恐らく佐由は反対してほしいという願いを込めているであろうことが伝わったからだ。
「あー……俺も折角だし、よく知ってる相手よりはあまり知らない相手と組んだ方がいいんじゃないかとは思う、かな」
「せやせや、うちもっと二人から普段の妙ちゃんの話聞きたいねん。倉場さんうちと組もー!」
「待て、千夏。それだと小曽根さんが俺と二連発か、妙子と組むことになっちまうぞ」
「何でだよ。小曽根さんが俺と組めばいいだろ?」
「それだと俺が妙子と一緒になっちまう。俺は妙子と二人きりだけは絶対嫌だ」
一瞬、和樹が妙子に何か目配せのようなものを送ったように月彦には見えた。
「私も、和樹と二人だけは嫌だわ。釣りの時の和樹って、やれああしろこうしろ、それはするなそれはやめろってうるさいんだもの」
「しゃーないな。なら、うちと小曽根さん、カズと倉場さんならええやろ?」
「それだと紺崎君と白石君が組むことになってしまうが……」
ちらりと、佐由がアイサインを送ってくる。それは止めた方が良い、という目だ。
「あー……えーと……」
「別に良いわよ、私は。このバカのお守りくらい。いつものことだから」
「……本当にいいのかい?」
佐由は妙子ではなく、月彦にだけ確認をとるように、しっかりと見据えてくる。
「………………ま、まぁ……妙子が良いって言うなら」
佐由から目を反らしながら、月彦は辛うじて答えた。
「よし。なら決まりだな! 俺と倉場さん、月彦と妙子、んで千夏と小曽根さんで、後半戦だ」
「あっ、カズ! ボートってどうするんだ? 俺が続けて使っていいのか?」
「ん? 俺は別にかまわねーけど、誰か他に乗りたい奴居るか?」
乗りたい、という声は上がらなかった。代わりに佐由が口を開いた。
「紺崎君はギンダチを狙ってるんだろう? 岸側にはあまり居ないって話だから、ボートは紺崎君が使うべきだとは思うけど、そうなると白石君の船酔いが正直心配だね」
「別に、ボートくらいじゃ酔ったりしないわよ」
「いや、午前中乗ったから分かるけど、思ったより揺れたよ。行きのバスより揺れたかもしれない」
はて、佐由は「思っていたよりも揺れない」とは言っていなかったか。記憶違いだろうか。
「平気よ。それにもし酔ったら、私だけでも先に降ろして貰うわ」
「しかし」
「倉場さん、妙子も平気だって言ってるし、多分大丈夫だよ。それにバスと違って、ボートなら具合悪くなったらすぐ桟橋に戻れるし」
これ以上やりとりが続くと口論に発展しかねないと、月彦が慌てて口を挟む。
「……わかった。そういうことなら、私も安心だ」
「妙ちゃん、普段どんだけ心配かけとるん? 同級生からコレってよっぽどやで?」
「佐由が勝手に心配してるだけよ! あとは面白半分に私を貶めてるだけ!」
「白石君は真面目で、無理しすぎるところがあるからね。どうしても心配してしまうよ」
「はいはい。どーせ私は一人っ子で真面目で意地っ張りで甘えんぼよ。月彦、ちゃんとお世話してね」
付き合ってらんないとばかりに妙子が一人で桟橋の方へと歩き出し、慌てて月彦も後に続く。その途中で、丁度桟橋から戻ってくる”じっちゃん”――釣り具屋店長とすれ違った。
「おっ、和樹のダチだな。惜しかったなー、ハンダチには懸賞金かかってねーんだ。わりかしよく釣れるからな」
「ははっ、午後は絶対ギンダチを釣ってみせますよ」
妙子の後を追わねばという思いから、つい早口に済ませ、そのまますれ違おうとして、はたと足を止める。
「…………そうだ、おじさん。油揚げって売ってますか?」
二人乗りのボート。湖上で妙子と二人きり――親密度を上げるという意味では絶好のシチュエーションなのかもしれないが、少なくとも月彦はそんな甘ったるい空気とは無縁の状態にあった。
(……何故だろう。倉場さんと二人だけの時の方が、よっぽど気安いというか、話しやすいんだよな)
幼なじみであるが、妙子と話す際は発言には気をつけねばという気持ちになる。普通の友達であれば軽く流してくれるような冗談でさえ、妙子相手では割と致命傷になりかねない。
それほどまでに気を張ってしまう相手であるというのに、好きだという気持ちを抑えきれないのは何故なのだろうか。はたと考えて目が行く先はもちろん、その胸元の質量であったりするが、はたしてそれだけなのだろうか。
「…………静かね」
「そうだな。岸の方は騒がしかったのか?」
「それなりね。結構混んでて、釣る場所を見つけるまで千夏と随分彷徨ったわ」
「そんなに混んでるのか。……まぁ、釣れれば十万だもんな、普段釣りしない人とかでも集まってくるのは無理ないかもな」
「何言ってんのよ。あんただってその一人でしょ。そんなにお金が欲しいの?」
そういえばこの前は飲み物買う金も持ってなかったなと、そんな目を向けられる。
「いや、正直お金はどうでも良い。ただ、その魚のせいで迷惑してる人がいるなら釣り上げたいと思っただけだ」
「ふーん?」
胡散臭いサギ師でも見るような目で見られるが、偽らざる本心だったりする。強いて言うなら、月彦としてもその魚とやらが土着の魚か、ただの外来種であれば別にそこまでする気にはならなかった。
”あの性悪狐が撒いた種”と思えばこそ、自分がなんとかしなければという気になったに過ぎない。
「ま、別にどっちでもいいけどね。どうせ釣れっこないんだし」
「まぁな。こんだけの人が釣り糸垂らしてて釣れないんだ。釣れたら奇跡だな」
といいつつ、月彦も妙子も合羽は着用していたりする。ギンダチとやらが万が一釣れた場合まき散らすという臭い汁とやらを浴びない為にだ。
「…………だいたい、油揚げなんかで魚が釣れるの?」
「……わからん。ものは試しだ」
妙子の怪訝な視線はもっともだ。午後の月彦はシズマスペシャルではなく、”じっちゃん”に貰った油揚げ――商品ではなく、朝ご飯の味噌汁用に買っておいたものを分けて貰った――を細かくちぎってエサにしていた。
何か明確な理由があってのことではない。ただの直感と言われればそれまでだが、ギンダチを釣る為にはただ釣り糸を垂れていてはダメなのではないかという気がしているのだ。
(俺の考えが正しければ……多分、これでいけるはずだ)
これだけの人数が釣ろうと頑張っているのに釣れないギンダチ。恐らく通常の魚が食べるような餌では食いつかないのではないだろうか。では何故油揚げなら釣れるのか?――”あの女”が絡んでいるからだ。狐が絡んでいるのなら、油揚げでなんとかなるのではないかという、直感めいた閃きだ。
「そういやさ」
「何?」
「最初ほら、二人で一緒にサボろうみたいな話してただろ?」
「……してたわね」
「だけどそのあと急にやっぱり行く、って言い出したから気になってたんだ。なんで気が変わったんだ?」
「………………別に、たいした事じゃないわよ。そういえば、和樹には借りがあったな、って思い出しただけ」
「あー……フリマの件か?」
「そ。だから一回くらい、和樹の用事にも付き合ってやるのが筋かなって思っただけよ」
「成る程な。まあでも来て良かったんじゃないか? たまにはこういう自然たっぷりのところで、のんびり釣り糸垂れて過ごすのも悪くないと思うぞ」
「そーね。欲を言えば釣りじゃなくてドッグランで遊びたかったけど。…………確かに、舟も悪くないわね」
妙子は合羽のフードから頭を出し、心地よさそうに横風に髪をたなびかせる。見慣れた筈の幼なじみの横顔が一瞬、ぞくりとするほどの色気が香って、月彦は思わず見とれてしまう。
「ねえ」
「な、何だ?」
「……? どうしたの?」
「いや、何でもない。気にしないでくれ。それより、どうした?」
まさか、横顔に見とれていたなどと言えるわけもなく。月彦はキョドりながらも竿の先を見つめる。
「……………………午前中、佐由と何の話してたの? 随分楽しそうに話してたけど」
まるで見てきたような言い方に、月彦はギョッと妙子の方へと向き直る。
「別に……ゲームの話してただけだぞ?」
「ゲームの話? 佐由と?」
「ああ。お前は知らないだろうけど、ブレドラってRPGを倉場さんがやっててな。俺が昔ハマったゲームだから、いろいろ聞かれた」
「…………ふぅん。それだけ?」
「あとは……雑談程度だな。なんでそんなに気にするんだ?」
「………………あの子さ、最近ちょっと変なのよ。あんたも変だって思わなかった?」
「変……か? 俺は別に……」
「前はさ、あんなに化粧まみれになったりする子じゃなかったじゃない。覚えてるでしょ?」
「あー……言われてみれば。カラオケの時とか、普通にすっぴんだったな」
「最近急に色気づいちゃって、学校でも休憩時間にファッション誌ばっかり読んでるし」
「言われてみれば、服とかも明らかに一人浮いてるよな」
「前は深夜ラジオか、わけの分からない雑学の話くらいしかしない子だったのに……変化が露骨過ぎて、ちょっと怖いくらいなのよ」
「あー……妙子、言っちゃなんだけど、それって実は逆ってことは考えられないか?」
「逆?」
「ああ。つまり、倉場さんみたいにおしゃれに興味があるのが実は正常な状態で、今までが異常な状態だったんじゃないか?」
妙子が虚を突かれたように目を丸くする。
「そ、それは」
反論が思いつかなかったのか、そこで一度言葉が途切れた。
「確かに、そうかもしれないけど……だけど、そんな、急に変わるかしら?」
「分からないぞ、人の心は。家を出るまではお気に入りのTシャツだったのに、外でふとショーウインドウのガラスに映ってる自分の姿見たら、びびるくらい似合ってないことに気付いて、途端に恥ずかしくなることだってあるしな」
「でも、あの子の場合それで成績までがた落ちなのよ。それでも”正常に戻っただけだから問題無し”って言える?」
「がた落ちって……そんなに落ちてるのか?」
「今まで学年順位一桁〜どんなに悪くても三十番くらいだったのが、上位百五十位から漏れるくらいにはね」
「…………そいつは、さすがにヤバいな。俺が話した時は別段そんなに変わったようには見えなかったけどな」
強いて言えば、以前よりも大分人当たりが良くなったようには感じる。どんな話をふってもとても興味深そうに食いついてくれるから、話をしていて楽しいのだ。確かにそれも、妙子が言うように変化と言われれば変化だが、月彦には悪い変化のようには思えないのだった。
「このまま成績悪い状態が続くと特進科から外されるかもしれないし、正直心配なのよ。だけど、私や英理がもっと勉強しろって言うのも変……っていうか、角が立ちそうだし。その点あんたなら、ある意味距離感が丁度いいんじゃないかしら?」
「俺からもっと勉強しろって言うのも変じゃないか?」
「そこはほら、巧いこと言い回しを考えて言えば……あんたそういうの得意でしょ?」
「いや、全然得意なんかじゃないぞ。……まあでも、確かにちょっと心配だな。ひょっとすると、倉場さん……誰か好きな男子でも出来たんじゃないか?」
「まさか。あの佐由が?」
「そう考えれば倉場さんが変わったのだってしっくり来るしな。学校で男子の方盗み見てたとか、誰かの話してたとかそういうのはないのか?」
「無い……と思うわ。そもそもうちって元女子校だから全体的に女子が多くて男子が少ないんだけど、だからこそ男子と接触しようとしたら目立つのよね。佐由が特定の男子と仲良くしてたとか、そういうことがあれば絶対気付くと思うわ」
「そうか。……様子が変って言えば、小曽根さんも変じゃないか? 昼飯も全然食べてなかっただろ?」
「確かに変……だけど、そっちは私もまったくわからないわ。学校ではいつも通りだったんだけど……」
「……倉場さんも電車に乗るまではいつも通りだったって言ってたんだよな。気になるけど、体調悪いってわけじゃなさそうだしな」
「…………気がかりなことが多すぎね。その点、あんたや千夏はいつも通りで安心するわ」
「それを言うなら和樹もだろ?」
「…………まぁ、そうね」
「……?」
妙子の意味深な言い方に小首を傾げた瞬間、どんっ、とボートの底から音が聞こえた。
「なんだ? 何か擦ったか?」
「座礁? でもここ湖の真ん中よ?」
「ここだけ浅くて石かなにか飛び出てるのかもな。穴は空いてないみたいだけど……ちょっと移動して探ってみるか」
月彦は竿をオールに持ち替え、少しだけボートを前進させ、注意深く湖面を探る。が、湖が浅くなっている場所も無ければ突き出た石も見つからなかった。
「……どういうこと?」
「わからん。デカい魚でもぶつかったのかな」
月彦の呟きに何か思うところがあったのか、妙子が合羽のフードを被り直す。
「ねえ、もし見えないところで浸水とかしてたら危ないから、もう少し岸の方に寄っておかない?」
「……そうだな。こんなど真ん中でボートが沈んだら助けてもらうのも時間かかりそうだしな」
妙子の案に賛同し、月彦は再びオールを握った。
もっと岸辺に近い方に移動しようと提案したのは妙子であったが、実際に移動してみるとこれはこれで問題があると思い始めていた。というのも、岸辺に近づいたせいで千夏や和樹らが視認出来る様になってしまったからだ。
向こうから見えるということは、当然こちらも見られているということだ。下手に月彦とくっついたりしようものなら後々囃し立てられるのは明白だ。振る舞いには十分気をつける必要があるだろう。
どんっ。と、ボートの底から衝撃が来たのはその時だった。
「まただわ。何の音かしら」
「魚……としか考えられないんだよなぁ」
最初に音がしてから既に十回以上、ボートの底から何かがぶつかるような音がしている。その都度、妙子は今度こそ穴でも空いたのではないかと気が気でなかった。が、同乗している月彦の方は「魚でもぶつかってるんだろう」程度にしか考えていないらしく、狼狽えるそぶりすら見せない。
尤もそのせいで妙子は気味が悪いから桟橋に戻ろうと言い出せず、内心びくびくしながらも平静を保たざるを得ないのだが。
(穴が空いて沈んだらどうしようとか考えないのかしら?)
或いはこの距離であれば沈む前に桟橋にたどり着く自信があるのか。はたまたライフジャケットがあれば落水しても大丈夫だと思っているのか。それとも単純に先の事など何も考えていないだけか。
妙子は後者の可能性が一番高いと思っていた。
「魚ならこっちにかかってくれりゃいいのにな。シズマスペシャルに戻したってのに何もかからねえ」
一時間全くアタリなしということで、月彦も油揚げ作戦はあきらめた様だった。
「そういえば、こっちもだわ。エサはついたままなのに」
ボートの底から変な音はする。魚は釣れない。釣れないのはどうでもいいが――そもそも和樹が言う”豪華景品”とやらにはまったく期待していない――音が怖いから帰りたがっているとは思われたくない。だから妙子としては、月彦の方から気味が悪いから岸に戻ろうと言い出して欲しかった。
「案外ボートの下にギンダチが陣取ってて、そのせいで他の魚が寄りつかなくなってたりしてな」
しかし、この紺崎月彦という男は自分の期待を裏切ることにかけては定評があるのだ。同乗している自分がこんなにも不安な気持ちを抱えているというのに気づきもせず、暢気に自分の妄想を口にしている辺り、本当に頼りにならない男だと思う。
(そんな変な魚のことなんて、どうでもいいじゃない)
ここで安全第一で動ける男であれば、見直すこともあるだろうに。妙子は大きく肩を落としながら、溜息をそれとは気付かれぬ様につく。そしてちらりと横目で岸辺の方へと目をやる。視線の先には和樹と佐由の二人が居る。それなりに話が弾んでいるようで、和樹が上機嫌そうに大げさに身振り手振りを添えて何かを話、佐由が何度も頷きながらそれを聞いているのが見えた。
どうやら巧くいっているらしい。妙子は安堵しながら、先日の和樹とのやりとりを思い出していた。
「急に来たのに悪ぃな。長居はしねーからよ」
「そう願うわ。飲み物くらいは出すけど、長居は本当にしないでね」
半分冗談、半分本気で言いながら和樹を先に居間へと通す。台所でコーヒーを淹れて戻ると、和樹は畏まった顔で正座して待っていた。
「何正座なんかしてんのよ、さっきのはただの冗談――」
「あのな、妙子。俺、倉場さんのこと好きかもしんねえ」
和樹の言葉に、妙子は手にしていた盆ごとコーヒーカップを落としかけた。
「ちょっ……えっ……ええええええ!?」
「そこまで驚かなくてもいいだろ。まあ座れよ」
何故客の和樹がそれを言うのか。普段であれば文句の一つもぶつける所だが、先ほどの爆弾発言が尾を引いて妙子は何も言えず言われるままに座り、テーブルの上に盆を置く。
「ど、どーしたのよ和樹、冗談ならいくらなんでもタチが悪すぎるんだけど」
「冗談じゃないぞ。俺なりに熟考に熟考を重ねて出した結論だ」
「本気、なのね」
妙子は震える手でコーヒーカップを握り、和樹の方へ一つ。自分の方へ一つ置く。あまりのことに口の中がカラカラに乾ききっていた。こんなことならホットコーヒーではなくアイスコーヒーにすれば良かったと、そんなことを思う。
「ええと……それで、なんでそれを私に言うの?」
「それも俺なりに熟考した結果だ。妙子は真面目だから誰にも言わないでくれって頼めば、絶対守ってくれるだろ?」
「そりゃあ……待って。もしかして、千夏にも月彦にも黙ってろってこと?」
「とりあえずは、な」
ずしりと。不可視の重石が両肩に乗っかるのを、妙子は感じた。
「待ってよ。口が堅いってことなら、千夏だって同じでしょ? 月彦だって、どうでも良いことなら喋るかもしれないけど、こういう大事なコトなら誰にも言わないと思うんだけど……」
何故自分だけがこんな秘密を、重荷を抱えねばならないのか。それも三人の幼なじみの中で最もソリが合わない和樹から、だ。
「おいおい妙子、言っただろ? 俺なりに熟考したって。あいつらに打ち明けたって何の意味もねーよ。妙子だから意味があるんじゃねーか」
「どういう意味……?」
「どうもこうも深い意味はねーよ。単純に、妙子に打ち明けて協力者にしないと、そもそも倉場さんが彼氏持ちなのかどうかすら知るコトができねーって思っただけだ」
「あぁ、そういうコト……」
すとんと、腑に落ちた。詰まるところ静間和樹は、倉場佐由という他校の女子の情報を得る為に、協力者を欲した。そこで白羽の矢を立てられたのが、佐由と友達の自分というわけなのだと。
「だけど和樹、私が言うのもなんだけど、どうして佐由なの?」
「バカ、それを言わせんなよ。……普通に、フリマの時の仕事の出来る所とか、すげぇなーって思わされたしな。気配りも凄くて、友達思いで、周りに居ねータイプの女子だったから、新鮮だったってのはあるかもな」
「悪かったわね、仕事が出来ないタイプの女子で。……一応言っとくけど、あの子かなり変わってるわよ? さらに言えば、あんたの前に居る時ってごってりメイクしてる時ばっかだから、素顔見たらガッカリするかもしれないわよ?」
「ガッカリはしねーよ。それに、化粧濃いのは嫌いじゃねーしな。顔が違う二人と同時に付き合うみたいに考えれば、お得感ねーか?」
成る程、そういう考え方もあるのかと妙子はうっかり納得してしまいそうになる。
「和樹……本気、なのね?」
「ああ、本気だ。まだ数える程しか会ってねーのに、寝ても覚めても倉場さんのコトが頭から離れねーんだ」
目をキラキラさせながら答える和樹に、妙子は少なからず胸を打たれた。本気の恋ならば、協力せざるを得ないと思う。
「……分かったわ。そういうことなら、私も出来るだけ協力はするし、サポートもしてあげる。とりあえず、私が知る限り佐由は今のところフリーよ。彼氏らしき男の影なんか微塵も無いわ」
「そりゃあ良かった。俺にも目はあるってことだな?」
「目があるかどうかはわからないけど、可能性はゼロではないんじゃない?」
「それを目があるって言うんだよ。よし妙子、さっき協力してくれるって言ったよな? 倉場さんのこと、出来るだけ細かく教えてくれ。好きなモノ嫌いなモノ、全部だ」
「いいけど、今日早速……っていうのはさすがに勘弁して。私にも予定はあるし、この後用事があるから長居されると本当に困るの」
「そっか。そういうことなら仕方ねーな。じゃあ明日以降土曜日前でお前が都合のいい時間帯でいいから教えてくれ」
「分かったわよ。時間のあるときに箇条書きにしてまとめて渡してあげる。……感謝しなさいよ?」
「マジかよ、ありがてぇ! 妙子は実はすげーいい女だって、月彦の奴にもアピールしといてやるからな」
「それは止めて。割と本気で」
程なく和樹はまだ熱いコーヒーを一息の飲み干し、躍るような足取りで帰っていった。
「………行くしかないか。土曜日」
サボるわけにはいかなくなってしまった。前言を撤回する為に、妙子は携帯電話を取り出し、紺崎邸へと電話をかけた。
和樹とのやりとりの中で、一点だけ迂闊だったと後悔するところがあった。尤も、当時はそんなことは全く念頭にも浮かんでおらず、もしやと疑い始めたのは先ほどの月彦とのやりとりからだから、どうしようもないコトではあるのだが。
(……佐由には彼氏は居ないって言ったけど、もし私が知らないところで男子と付き合ってたりしたら…………)
幼なじみを、必ず負ける戦いにけしかけてしまったことになる。たとえそうとは知らなかったとしても、妙子の価値観ではそれは十分に有罪判定を受ける過失だ。
(……別途佐由に確認する? だけどあの子、正直に言うかしら?)
ならばこっそり後をつけるか? それとも、英理を抱き込んで二人で探るか?
(いっそ、佐由の方も和樹を気に入ってて、和樹に取り入るために見た目を気にしだした――とかなら、丸く収まるんだけど)
そうだったらいいのになと、妙子は咄嗟の思いつきである自分の考えを記憶と照らし合わせながら検証する。が、どう考えても時系列的に整合性がとれないように思える。佐由がメイクに手を出し始めたのは、フリマで和樹と会わせる前からだからだ。
(でも、あの時は佐由が自分でメイクしたわけじゃなくて、なんとかっていう先輩にしてもらったのよね…………なら、あの時に佐由の方も和樹を、という可能性もゼロじゃないかしら?)
いっそ佐由に和樹をどう思っているのか訊いてみるべきだろうか。しかし聡い佐由のこと、下手にそんなことを言えばピンと来て今後の和樹のがんばりが全て無駄になったりはしないだろうか。
「……ダメだな、本当にさっぱり釣れなくなった。エサすら取られないってのはさすがに初めてだ」
思案をする妙子の背後で、月彦が独り言を呟きながら針先の練り餌を新しいものに換えている。
(…………確かに、コイツに相談したところで、佐由と付き合える確立なんて1%も上がらないわね。和樹って意外と見る目あるんじゃないかしら)
脳みそまで筋肉で出来ているのではないかと思うことは多いが、使い方を知らなかっただけでしっかりと使えば月彦よりよっぽど頭が良いのではないか。
佐由のことが好きだと告げる和樹の姿があまりに男気に溢れていたこともあり、妙子の中での和樹の株は急上昇。かたや、自分がこんなにも不安になり且つ幼なじみの為に思案を重ねているのに釣りのことしか頭にないらしい月彦の株は急下落していた。
溜息交じりに、妙子もリールを巻き竿を湖面から上げてみる。月彦同様、その針先にはエサがついたままになっていた。
「ねえ、もう戻らない? ここでこうしてても、釣れるとは思えないわ」
「………………それもそうだな。仕方ない、戻るか」
月彦が竿を置き、オールを握ってこぎ始めた、その瞬間。どごんと、今までに無い程の衝撃がボートを襲い、妙子は危うくボートの中で転げそうになった。
「な、何だ!? 今度こそ何かに擦ったか!?」
月彦が辺りを見回し、妙子も周囲を見る。その時、湖面近くで何かがキラリと光ったように見えた。
「あっ、何か……」
「何だ。杭でも出てたか?」
「そうじゃなくて、何か光ったわ」
妙子が恐る恐るボートから身を乗り出すようにして、何かが光った辺りへと目を懲らす。濁った水面しか見えないその場所で、再度。何かが光ったと思ったその刹那。大きな黒い影が凄まじい勢いで水面から飛び出し、妙子の方へと飛びかかって来た。
突然背後で、妙子が悲鳴を上げた。月彦が振り返ると、半狂乱になった妙子がボートの中で転げ回りながら胸元をかきむしっていた。
「た、妙子!?」
「月彦っ、こいつを取って! 早く!」
「こいつって……」
一体全体どいつのことかと思って、ハッとする。妙子が暴れて衣服をかきむしるせいで、合羽の前ボタンは外れてしまっている。その下に着ているライフジャケットが不自然に蠢いているのだ。
「さっき何かが水面から飛び出して来て、服の中に飛び込んできたの!」
「んなっ……わかった。ちょっと服を脱がせるぞ、いいか?」
「いいから! 早く! 破っても良いから取って!」
妙子は完全にパニック状態に見えた。このまま暴れ続ければ最悪ボートは転覆、それでなくても落水しかねない。月彦は大急ぎでライフジャケットのジッパーを外して前を開け、その下に着ていたセーターを引きちぎらんばかりの勢いでまくし上げる。。
「うっ」
途端、凄まじい匂いが鼻を突いた。生臭い、どこかで嗅いだことがある類いの匂いだったが、今はそれよりも妙子を助けなければと破れたセーターの下へと視線を戻す。どうやら魚はセーターのさらに下、インナーにまで潜り込んでいるらしかった。しかもどうやら、何らかの粘液のようなものまで分泌しているらしく、セーターもインナーもとろろ汁でもぶちまけたようにヌルヌルだった。
「居た! こいつか! 妙子、頼むから暴れないでくれ、すぐに俺が捕まえてやるから」
インナーの下、さらにブラの下にまで潜り込んだその魚は、赤黒い、ウナギのような形をしていた。が、大きくえらの張ったその頭は明らかにウナギではなく、強いて言えば勃起した男性器を彷彿とさせるフォルムをしていた。しかもブラの下――丁度胸の谷間の辺りまで潜り込んだその魚はまるでその乳圧を楽しんでいるように前後に蠢いては、先端からぶびゅるぶびゅると汚らしい音を立てて白く濁った汁をぶちまけていた。
「こ、んの野郎! 誰のおっぱいを汚してるか分かってんのか!」
月彦は妙子の胸元へと手を突っ込むや、辛うじて覗いていたその頭部をしっかりと掴み、引っこ抜くと同時に放り投げる。
「妙子、魚は取っ払ったぞ、大丈夫か!?」
妙子の方を見て、うわっ、と。月彦は慌てて顔を背ける。衣類はすっかり乱れ、たっぷりの白濁汁によって髪の毛から腹部、デニムズボンの半ばまでドロッドロに汚されたその様は、見ようによっては複数人に乱暴を受けた直後の被害者の様であったからだ。
「…………全然、大丈夫じゃないわよ……何だったのよ、一体……」
妙子が辛うじて体を起こし、ライフジャケットの前を閉じようとする――が、全身をヌルヌルのドロドロで染め上げられた為、ジッパーを上げることすらままならない。
「俺だってチンプンカンプンだ。ちょっと背を向けてた間に一体何があったんだ?」
「水面が光って、何かと思って見たら黒い魚が飛び出して来て服の中に入ってきたのよ……ひどい匂い」
くんくんと、妙子が自分の匂いを嗅いでうげえと舌を出す。かくいう月彦も、先ほど謎の魚を掴んだ際右手にドロドロが付着しており、その強烈な匂いに辟易していた。
「と、とにかくそのドロドロを落とさないとな。あの釣具屋なら、もしかしたらシャワーとかあるかもしれない。妙子、すぐに桟橋まで戻るから、あと少しだけ我慢してくれ!」
月彦は汚れた右手を水面に突っ込み、かき回すようにしてドロドロを拭うやオールを握り、一目散に桟橋へと向かう。そこで初めて、月彦は桟橋の方が何やら騒がしいことに気がついた。人が集まり、押し合いへし合いしながら、皆が皆、月彦らが乗っているボートを指さして何かを叫んでいる。
「ギンダチだ! ギンダチが揚がったぞ!」
男が指さす先を見て、月彦は先ほど放り投げた魚が偶然にもボートの生け簀に入っていたことに気付いたのだった。
「いやー、まさか本当に釣るとはな。さっすがカズの連れだな!」
「いえ……釣ったのは俺じゃないし、何もかも偶然です。あと、シャワー貸して頂いてありがとうございます」
「なぁに、気にすんなって! なんなら嬢ちゃんだけじゃなく、あんちゃんも浴びてったらどうだ? 着替えはねーけどな!」
ガッハッハと、黒光りする筋肉を上下させながら釣具屋の店長が大笑いする。
「いえ、俺はいいです。手だけ洗わせてもらえれば……」
「そうかい。まぁ、あんちゃんはグローブ越しに掴んだだけだから、念入りに洗えばそうひどいコトにはならんだろうな。………………あっちの嬢ちゃんは気の毒だが、あんだけ浴びたらどんだけ洗っても三日は匂いがとれんだろうな」
「………………。」
鼻を摘まみ、ぱたぱたと仰ぐようなジェスチャーをする店長に、月彦はがっくりと両肩を落とす。ある意味では、妙子があんなにも悲惨な目に遭ったのは、自分のせいだとも言えるからだ。
(…………ギンダチって魚が、臭い汁をまき散らす魚だってことをもっと良く検討するべきだった)
安易に合羽さえ着ていれば大丈夫であると思い込んだ為に、妙子をあんな目に遭わせてしまった。店長の好意でシャワーを借りれたとはいえ、着替えまで借りれるわけではない。かといってあんなに臭い汁まみれにされた服を再度着るわけにもいかず、かといって一度や二度洗った程度では絶対に匂いはとれないと店長に断言された為、妙子が着ていた衣類一式は全て廃棄することが決まっていた。
至極、妙子はシャワーを浴びても着る服が無いということになり、月彦と妙子を除く四人が今、手分けして着替えの調達に東奔西走していた。といっても釣り具屋の周りは民家すら無い山の中、もちろん服屋など在るわけが無い。四人は着替え持ちの釣り客を探しては、その着替えを譲ってもらえないか交渉するという難易度の高いミッションを実行中だった。
本来ならば月彦も倣って東奔西走したい所だったが、それは和樹に止められた。
「あんな目に遭って一番ショック受けてるのは妙子だ。お前は側から離れるな」
いつになくイケメン顔でそう言われては、逆らうことも出来なかった。強いて言えば、まるで月彦に対してではなく何処かに設置されたカメラに対して言っているかのような決め顔が気にはなったが、言っていることに間違いは無い為、月彦は妙子のシャワー中番犬のように脱衣所から動かなかった。
お湯を浴びて、髪を洗って体を洗って、お湯を浴びて、しばらく無音が続いて、また体を洗って――そんな事を3,4回繰り返して、漸く。
「……月彦、居る?」
脱衣所と浴室とを隔てる曇りガラス越しに、月彦は話しかけられた。
「居る。体、洗い終わったのか?」
「……これ以上洗うと”ヒリヒリする”が”痛い”になりそうだから、洗えないわ。…………着替え、見つかった?」
「……いや。和樹達からは連絡無いな」
幸い、妙子のスマホは無事だった為、月彦が預かって和樹らからの連絡待ち係をしていた。
「そう。……みんなには随分と迷惑かけちゃったわね」
「妙子が気にすることじゃない。…………悪いのは全部、俺だ」
力なくうなだれる月彦の耳に、突如何かのメロディが流れこんできた。
「葛葉さんからの着信だわ」
「母さんから!?」
スマホの画面を見ると、確かに画面には”葛葉さん”と表示されていた。恐らく相手ごとに曲を設定していて、今流れている曲は葛葉の曲なのだろう。
「代わりに出て。スピーカーモードにしてあるから」
「わかった」
月彦はスマホを操作し、通話状態にする。
『もしもし、月彦?』
「もしもし。俺だよ。どうしたの?」
『今日、帰りは何時頃になりそう?』
葛葉の問いに、月彦はしばし考える。
「あーっ……七時くらいまでには帰るつもりだったけど、ちょっと遅くなるかも……。友達が湖に落ちちゃって……」
ギンダチの臭い汁を浴びて着替えを探しているから帰りが遅くなると言っても通じるとは思えず、月彦は方便を使うことにした。
『あら、それは大変ね。もし着替えが必要なら部屋着のジャージをリュックに入れておいたから、それを貸してあげなさい』
「……へ?」
『それから、帰りが遅くなるなら母さん達も買い物ついでに夕飯は外で食べてくるわね。月彦も夕飯は食べてから帰りなさい』
「ま、待ってくれ母さん! 着替えって――」
通話が、一方的に切られる。まさかと思い、脱衣所の隅に置いていた自前のリュックを漁ると、底にビニール袋に包まれた部屋着のジャージが上下一式入っていた。
「……マジかよ。母さん、いつの間に入れたんだ………………」
荷物の準備をしたのは昨夜寝る前。そして朝起きた時にはまだ葛葉は寝ていた筈だ。寝ている間に葛葉がこっそり着替えを忍ばせたのだろうか。俄には信じられない話だが、兎にも角にも喉から手が出るほど欲しかった着替えが手に入ったことには変わりない。
「妙子! 着替えがあったぞ!」
曇りガラス越しに浴室に居る妙子に声をかける――が、返事がない。距離的に聞こえていない筈は無いから、もしかすると意図的に無視されたのだろうか。
「ねえ、今あんた……なんとも思わなかったの?」
「ん? 着替えのことか? 悪い、リュックの底に母さんが勝手に入れてたみたいでさ、気付かなかったんだ」
「そうじゃなくて」
てっきり何故今まで着替えを持って来ていることに気付かなかったのかと、責められているのだとばかり思っていた。しかし妙子が気がかりなのはまったく別のことだった。
「なんで、葛葉さんは電話に出たのがあんただって分かったの?」
「うん……?」
月彦は小首を傾げる。
「分かってないと思うぞ? 最初に”月彦?”って訊いてきたし」
「それがそもそもおかしいと思うんだけど……私が気にしすぎなのかしら」
「とにかく、着替えと携帯ここに置くからな? 着替えたらすぐ和樹達にも連絡してやってくれ」
「……そうね。着替えありがとう、月彦。助かったわ」
着替えとスマホをその場に残して、月彦は自分のリュックを手に、脱衣所を後にした。
妙子からの連絡を受けて程なく四人が戻ってきた。
「ヒーコー? 着替えもっとるならさっさと出さんかい! うちら散々走り回ったんやで?」
「わ、悪い……俺も持って来てるって知らなくてさ」
「ともあれ、着替えがあって良かったよ。うん、なかなか似合ってるじゃないか」
佐由は丈の合わないジャージを無理矢理着た上から月彦の上着を羽織っている妙子を見て、うんうんと頷く。
「釣れたのが午前中だったら、私がこうなってたわけか。そう考えると感慨深いものがあるね」
「何なら今からでも代わってあげるわよ?」
妙子がジッと佐由を睨み付ける。――本当に睨んでいるのではなく、眼鏡がギンダチの汁に汚染されて匂いがとれず、掛けられない為だ。
「冗談だろう? 紺崎君のジャージなら私は着れるだろうけど、白石君は私の服は着れないよ。サイズが違いすぎる」
「悪ぃな、妙子。俺もまさか本当に釣れるとは思ってなくてよ。合羽くらいじゃ全然ダメだったな」
「和樹のせいじゃないわ。私がツイてなかっただけよ、多分」
「ツイてた、の間違いじゃないのかい? だって、結果的にギンダチが生け捕りに出来たわけだろう?」
あっ、と数人分の声が重なった瞬間、測ったようなタイミングで釣具屋の店主が茶封筒を手にやってきた。
「おー、嬢ちゃん良かったな、着替えあったんか。ほれ、例のブツだ」
「じっちゃん、それ……」
「おう。約束の十万だ。まさか本当に釣れるとは思ってなくてよ、茶封筒で勘弁してくれ」
「えっ……? いや、俺じゃないです。捕まえたのは……」
「最後に掴んで生け簀に放り込んだのはあんたでしょ。……貰っておけば?」
「月彦、いらねーなら俺が代わりにもらってやってもいいぞ?」
「その賞金で妙ちゃんの服弁償したったらええやん? 余ったらうちらにも還元してーなー?」
確かに、千夏の言う通り妙子の服を一式ダメにしてしまった分は弁償しなくてはならない。その為には確かに目の前の賞金はありがたい。
「……でも、本当に良いんですか? こんな大金……」
「なーに、気にすんな! …………ここだけの話だけどな、生きてるギンダチは高く売れんだよ。賞金の十万払っても全然痛くねーくらいな!」
「あー、あのくっせー汁が何かの原料になるんだっけか? まぁ、そーゆーことなら賞金は遠慮無くもらっとけよ」
「そ――うだな。そういうことなら…………頂きます」
月彦は茶封筒を受け取り、リュックに仕舞う。
「よっしゃ。んじゃ早速業者に連絡しねーとな。カズ、貸した道具は適当に店の前に置いといてくれ、どうせ今日はもうお開きだろ?」
「そうだなぁ……どうする?」
「ウチはどっちでもええけど、日が落ちる前に帰ったがええんちゃう? 妙ちゃんジャージと上着だけやろ?」
「そうだね。眼鏡もかけられない状態じゃあ、外出は危険だ。早いところ下山してちゃんとした服を買ってあげたほうがいいんじゃないかな?」
「私なら平気よ。家に帰ればスペアの眼鏡も服もあるし。弁償はまた今度でいいわ」
「今からすぐに次のバスに乗れば、五時前には駅前に着くだろう。その時間なら服屋くらいいくらでも開いてるし、わざわざ日を改めることも無いだろう?」
「私は日を改めたいの。何より今日は色々あって疲れたから、帰ってすぐ休みたいのよ」
あと――そう言って、妙子は躊躇うように、続ける。
「…………たっぷりシャワー浴びて、体も洗ったけど、まだ完全には臭いがとれてない気がするの。出来ればあまり人前には出たくないわ」
「本当かい?」
そう言って佐由が近寄ろうとすると、妙子が大げさにバックステップする。
「止めて、本当に臭うから」
「ギンダチの汁は本当にくっせーからなぁ。まあ、すぐシャワー浴びれただけマシだぞ。アレ一度乾くとマジで取れなくなるからな。ちょっとした災害だぜ、ありゃあ」
「言われてみればボートの残り香も凄かったね。あれは洗うのも大変そうだ」
佐由の言葉に、一同が苦笑する。
「よし。とりあえず、釣りはお開きにすっか。俺は捕まえた魚逃がしてくるから、帰り支度頼むぜ」
「俺も手伝おうか?」
「いや、一人で十分だ。…………そうそう、これも渡しとかないとな」
そう言って、和樹はポケットからチケットを二枚取り出し、手渡してくる。
「なんだこりゃ」
「何って、賞品だよ。俺の方の」
ああ、と。月彦は思わず声に出した。すっかり忘れていたのだ。
「そういや、お前も豪華賞品がどうとか言ってたな」
「ひっでぇな。もうちょっと期待しろよ。いいモンだろ?」
言われて、チケットを見る。どうやらケーキバイキングで有名な店のタダ券らしかった。
「………………てっきりファミレスのドリンクバー半額券とかだと思ってたが、お前にしちゃ豪華だな」
「だろう? まっ、2枚あるし、妙子と服を買いに行く時にでも二人で楽しんでくれ」
和樹がバケツを手に、湖の方へと歩いて行く。和樹が何故ケーキバイキングのタダ券なぞ持っていたのか、月彦はそちらの方が気になったが、帰り支度が終わる頃にはどうでも良くなっていた。
帰りのバスでは、月彦はまたしても和樹の隣に座る羽目になった。というのも、英理と千夏、佐由と妙子がいち早く先に並んで座ってしまった為だ。
どうやら英理と千夏は釣りでペアを組んだ際に食べ物の話ですっかり意気投合したらしい。バスの中でも互いの行きつけの店の話で盛り上がっていた。一方妙子と佐由の方は、恐らくショックを受けてるであろう妙子を気遣ってか、しきりに佐由が話しかけているようだった。
「そういや、月彦。お前、午前中倉場さんと組んだ時、何の話してたんだ?」
「ん? あぁ、ゲームの話だ。ほら、前にお前に貸したら時給が発生しそうなくらいプレイが苦痛って酷評されたブレドラだ」
「ああ、クリアしたって言ってたやつか」
「そうそう。運良く倉場さんもドハマリしたみたいでな、今二週目やってるらしいぞ」
こんなクソゲーをありがたがるのは精神異常者だけだと、そんなニュアンスの酷評を受け続けた月彦は恐れ入ったかとばかりに得意げになる。
「へー、そんなにおもしれーなら、俺ももう一度やってみるかな」
「はぁ!? 何言ってんだ。やらねーと家族の命が危ないって状況でもコントローラ握るのを躊躇うとか、ボロクソに言ってただろ」
「まあ、そうなんだけどな。正直最初の10分くらいで投げちまったからな。もう少し続けてたら面白いと思うかもしれねーだろ?」
「………………当時の俺がせめて一章の最後までプレイしてから判断してくれってどんだけ頼んでもダメだったのに、今更かよ」
「その辺はほら、積み上げた人徳の差ってことだ。倉場さんみたいなしっかりした女子が面白いと感じるってことは、本当に面白いかもしれねーだろ?」
「掌くるっくる過ぎるだろ……。そこまで言うなら、倉場さんから返して貰ったら貸してやるよ」
「そうか、お前に貸して貰おうと思ったら、倉場さんに貸してるんだったな。……しゃーねえ、中古屋回ってみるか」
「どんだけやりたくなってんだよ……」
クソゲー過ぎて買い取り拒否されて市場から消えた結果無駄にプレミア価格になってることを伝えたものか月彦は悩み、結局黙っていることにした。和樹の戯れ言を、一時の気の迷いであると判断したからだ。
駅前まで戻ってきた時にはもうすっかり日が落ち、夕飯時になっていた。
「折角だし、ファミレスにでも行かないか? 賞金もあるし」
葛葉との通話で、家に帰っても夕飯が無い事が確定している。さらに言えば、自分だけ大金を――正確には、妙子が貰ったものを預かっているような形だが――手に入れた手前、少しは周りに還元しなければという思いもあった。
が。
「私はパス。こんな格好だし、一秒でも早く家に帰って着替えたいわ」
真っ先に妙子に反対された。尤も、月彦が貸した部屋着のジャージと上着の下が全裸であることを考えれば、ある意味当然の回答ではあった。
「あー、それなら先に着替えを買いに……」
「それは日を改めてって話になったやろ? ええから賞金は妙ちゃんとのデートまでとっとき。…………”お泊まり”に使ってもええんやで?」
最後の一言は、ぼそりと囁く様に付け加えられ、月彦は思わず目を丸くした。
「…………私は、紺崎君の意見に賛成かな。今日はアクシデントはあったけど楽しかったし、まだまだ語り足りないという気分だよ。もちろん、白石君が一足先に帰りたいというのなら、残念だけど仕方ないと思ってるよ」
「そッスね。俺もここで解散ってのは物足りないかなーって感じッス。飯でも良いし、ボウリングでもカラオケでも、なんならバッセンでも何でも付き合うッスよ」
「いいね! カラオケやボウリングは兎も角、バッティングセンターというのも馴染みがない場所だから、是非行ってみたいね。英理はどうする?」
「えっ……えーと…………佐由……さんが、行くなら……」
佐由さん?――英理の言葉に、月彦を含めた数人が眉を寄せた。
「あんたたち元気ねえ、羨ましいわ。じゃあ、私は帰るから。…………月彦、服は明日には返すわね」
妙子は素っ気なく手を振って、いち抜けたとばかりに歩き出す。
「あっ、倉場さん。荷物俺が持ちますよ」
「大丈夫、中身は空の弁当箱だけだから、別に重くないよ。静間君だって釣り竿やら色々持ってるじゃないか」
「俺はほら、このガタイッスから。筋肉がもう少し仕事させろって五月蠅いんスよ」
「それはなんとも頼もしい限りだね。そういうことなら、少しだけお言葉に甘えようかな」
そんな二人のやりとりを見ていた月彦だが、唐突にばんと背中を叩かれた。
「何しとん。はよ妙ちゃん追い」
「えっ……!? いや、だって――」
「ヒコ、そーゆーとこやで? 妙ちゃん平気そうにしとったけど、内心そーとーヘコんでる筈やから、しっかりケアして来ぃ」
何より、裸眼でろくに周りが見えない状態で一人で出歩かせるなと。千夏は睨むような目で促してくる。
「そうだぞ、月彦。倉場さんたちの方は俺に任せて、お前はちゃんと妙子を送ってやれ」
「……和樹、千夏」
確かに、二人の言う通りであると思える。二人きりであれば、他人の目をして言えなかったことも言えるだろう。恨み言を二つ三つ言われながらブン殴られるくらいのことはやらかしているのだから、責任は取るべきだ。
「紺崎君!」
踵を返して妙子を追おうとした月彦の背に、佐由の叫びにも似た声が被さった。
「…………紺崎君は、来ないのかい?」
まるで、幼子が自分を一人家に置いて出かけようとする両親に向けるような目だった。恐らくは、自分が抜けることによって佐由らにとっては面識の薄い和樹と千夏だけが残る形に不安を感じているのかもしれない。
「ごめん、倉場さん。和樹達の言う通り、妙子にちゃんと謝ってくるよ」
佐由の顔を直視できず、月彦は目を伏せるようにして向き直る。既に駅前の雑踏に紛れどこに居るかも分からなくなってしまった幼なじみを追いかけて、走り出した。
駅前から走り出すことほんの2,3分で、思いのほかあっさりと月彦は妙子に追いついた。
「おーい、妙子ー!」
「月彦……?」
振り返り、足を止めた妙子の元へと駆けつけ、呼吸を整えながら隣を歩く。
「なんであんたまで抜けてきてるのよ」
自分のことは棚に上げて、まるで責めるような口調で言われた為、月彦は少しだけムッとした顔で返した。
「夜道は物騒だからな。目もろくに見えてないだろうし、誰かが送ってやらないとダメだろ」
「だからこうして、念のため塀に沿ってゆっくり歩いてたんじゃない。私は一人で平気だから、戻って五人でご飯食べて来なさいよ」
「俺も99%大丈夫だろうとは思うけど、それでも何かあったときに後悔したくないしな。………………まぁ、送るってのはぶっちゃけ建前で、本当は妙子と二人だけで、もう少しちゃんと話したかった、ってのが本音ではある」
「ふーん。どーせ千夏あたりに、私を送ってポイント稼いでこいとか焚きつけられただけなんでしょ」
当たらずとも遠からず。月彦は否定することが出来なかった為、妙子に「ほらね」という顔をされた。
「ま、まぁ……アレだ。それはともかく、服のこと……ちゃんと謝ってなかったと思ってな。………………本当に悪かった」
月彦は足を止め、深々と頭を下げる。
「……そんなに改めて謝らなくてもいいわよ。別にあんたが釣った魚のせいでこんなことになったわけじゃないんだし」
「……魚の方から、飛び込んできた……んだっけか?」
「そう……だと思うわ。水面を覗き込んでたら、いきなりよ。最初噛みつかれるかと思ったわ」
水面を覗き込んでいたら、魚が勝手に服の中に飛び込んでくる――そんな事があるのだろうか。
(……確か、ダツって魚は光ってるものめがけて突進するから、腕時計やネックレスをつけてると危ないってのは聞いた事あるけど)
妙子はそのどちらも身につけていない。たまたま魚が水面に飛び出した時に、たまたま居合わせた――そんな究極的に運が悪い目に遭っただけなのだろうか。
「……でも、服がぐちゃぐちゃになって捨てるしかなかったのは間違いないし、魚が捕まえられて賞金が出たのなら、弁償くらいはしてもらいたいとは思ってるわ」
「それはもちろん……そもそもこのお金は全額妙子の好きにしてくれていいんだぞ? 俺はギンダチを釣ろうとはしてたけど、別にそれは賞金とは関係無い理由だからな?」
「強がるんじゃないわよ、お小遣いかつかつなんでしょ。………………どーせ今度はあんたと二人だけで出かける予定なんだから、その時にみっともない真似しなくて済むようにしっかり取っておきなさい」
服もその時に弁償して貰うと付け加えて、妙子が再び歩き出す。月彦も慌てて後を追い、並んで歩く。
駅前から妙子のアパートはそう遠くは無い。時折思い出したように話題を振っては、ぎこちないキャッチボールのように続いたり続かなかったりしているうちに、程なく到着した。
てっきり月彦は「着替えてくるからちょっとだけ待ってて」と、貸した着替えを回収してそのまま帰宅のパターンだとばかり思っていた。
だから。
「すぐ着替えるから、上がって待ってて」
と言われた時には少しだけ戸惑った。
「あ、上がっていいのか?」
「……? 寒い外に突っ立ってるのが好きっていうんなら、無理にとは言わないけど」
「い、いや……そんなことはない。寒いのは、苦手だ、うん」
ぎこちなく上がり、居間へと通される。炬燵の前に腰を下ろし、しばらく待っているとスペアの眼鏡をかけ 部屋着のトレーナーとレギパン姿に着替えた妙子が戻ってきた。
「………………ごめん、月彦。もしかするとだけど、臭い、移っちゃったかもしれないわ」
「ん? あぁ、気にするなって。2,3回洗濯機で洗えば多分落ちるだろ」
申しわけ無さそうに立ち尽くす妙子から、脱ぎたての部屋着を受け取る。さすがに地肌に直に着ていたものを本人の目の前で嗅いでチェックなどは出来ない。
(……てゆーか、上がってからなんか今日は臭うなと思ってたら……これギンダチの残り香か!)
言われて見れば、あの汁の臭いを一万倍くらいに希釈すれば、こんな臭いになるかもしれない。
「…………やっぱり、臭う?」
「いや? 気にしすぎじゃないか?」
実際は、栗の花のような臭いが強烈に室内中に立ちこめている状態だった。自分の部屋であれば、問答無用で換気している所だが、さすがにそんなことをしては妙子もショックを隠しきれないだろう。
(外に居た時はほとんど気にならなかったけど…………あんだけシャワーあびてこんだけ臭いが残るって、本当にヤバい魚だな)
脱衣所で待っていた月彦は、妙子がどれだけ念入りにシャワーを浴びて体を洗い続けたかを知っている。それでも匂いが落としきれなかったという事実に、単純に驚いていた。
(ていうか、この匂いって……もろに”アレ”の匂いなんだよな)
一人暮らしの女子高生の甘酸っぱい芳香で満たされた筈の空間が今、完全に思春期の男子中学生のそれになってしまっている。男である月彦としては多少ながらも耐性のある匂いではあるが、妙子は嗅ぎ慣れていないのかしきりに自分の腕や手を嗅いでは不審そうに眉を寄せている。
「やっぱり、残ってる気がするわ…………本当に臭ってない?」
「大丈夫だって。そんなに気になるなら、もっかいシャワー浴びてきたらどうだ?」
「……そうね、そうするわ。先に飲み物用意するけど、何か希望はある?」
「あー、そうだな……じゃあ、ホットのココアで」
「わかったわ」
程なく妙子が湯を沸かし、淹れ立てのコーヒーとココアを運んで来た。
「シャワー浴びてくるから、適当に寛いでて」
「わかった」
居間と台所とを繋ぐ引き戸を妙子が締め、しばらくして微かにシャワーの水音が聞こえて来た。
(………………中学生の頃の俺だったら、迷わず覗きに行ったんだろうが)
俺も丸くなった――いや、大人になったもんだと。優雅に月彦はココアを啜るのだった。
ゆっくり、優雅に飲んでいたココアが無くなり、やがて対面席に用意された妙子のコーヒーも湯気を立てるのを止めた。暇を持て余し、何か時間を潰せるものはないかと辺りを見回して最初に目に入ったのは数学の教科書だった。仕方なしに手にとりぱらぱらとめくってみるが、やれ楕円曲線だの位相だのとさっぱり意味が分からず、すぐに投げてしまった。
(……腹減ったな)
暇で空腹、妙子はシャワーから戻って来ない。仕方ないから何か食べ物でも買いに行くかと、月彦は腰を上げ脱衣所の扉を軽く叩く。
「妙子! 聞こえるか? 食い物買ってくるけど何か希望はあるか?」
少し大きめの声で言うと、シャワーの水音が止まった。
「なーに? 何か言った?」
「晩飯買ってくるけど、何か食いたいものはあるか?」
妙子の返事まで、たっぷり三十秒はかかった。
「サンドイッチで美味しそうなのがあったらお願い」
「サンドイッチだな、了解。鍵借りるぞ?」
最寄りのコンビニは徒歩でも五分。買い物を終えて帰ってくるのに十五分以上二十分未満。だが、月彦が戻ってきた時、脱衣所のドア越しにまだシャワーの音が聞こえていた。
(まーだ浴びてるのか。……俺は気にしないって言ってるのに)
確かに妙子の言う通り、匂いは消えてない。が、別に耐えがたいほどの悪臭というわけでもない。そんなに気にしなくてもいいのにとは思うが、”あの”白石妙子も一応は女子という事なのだろうか。
(いや、そもそも俺が居るから気にしてるのか? さっさと帰れば妙子も……)
なまじ上がり込んでしまったから、妙子も匂いを気にしてしまったのではないか。そもそも上がらず、さっさと帰っていれば妙子も疲れた体に鞭打ってシャワーを浴び続けることも無かったのではないか。
(……食い物置いてさっさと帰るか? いやでもなぁ…………)
折角妙子の方から上がって寛いでいろと言われた手前、勝手に帰るというのも気が引ける。それでなくとも、幼なじみ二人からしっかりケアをしろと言われているのだ。シャワーが長いから帰りました、では後日和樹にブン殴られるかもしれない。
結局妙子が居間に戻ってきたのはコーヒーを置いて出てからたっぷり四十分が経ってからだった。
「ごめん、随分待たせちゃったわね」
「まあな。さすがに暇だったぞ」
苦笑する。
「……コーヒーも完全に冷めちゃったわ。いっそアイスにしようかしら」
「レンチンでいいんじゃないか? そうそう、頼まれてたブツだ」
月彦はコンビニの袋を卓上に出し、三種類のサンドウィッチセットを妙子の方に向けて並べる。
「三つも買ってきたの!? 一つで良かったのに」
「いやあ、どれも美味そうに見えてな」
一つは四角く切られた一口サイズのサンドウィッチが二列縦隊でたっぷり入っているもの。もう一つはオーソドックスな二等辺三角形型のサンドウィッチがハムとレタス、タマゴ、マヨチキの三種入っているもの。最後の一つは同じく二等辺三角形型だが、生クリームとフルーツが入っているものだ。
「……確かに、美味しそうね。お腹は減ってるから、多分食べきれちゃうけど……カロリー的にヤバいかしら」
「別にこれくらいいいんじゃないか? 今日は随分歩いたしな」
言いながら、月彦は少なからず驚いていた。実は三つ買ってきたのは、夕飯はもちろんの事余った分は朝飯にと見越しての事だった。しかし妙子は夕食だけのつもりでいるらしい。
「コーヒー温め直してから頂くわ。代金はちゃんと払うからレシート見せて」
「いいって、別にこれくらい。賞金から前払いしたことにでもしといてくれ」
「……あんたがそれでいいっていうなら、私はいいんだけど…………。…………そういえばあんたは食べないの?」
「俺はカップ麺にした。待ってる間暇だったから先に食っちまった」
お湯だけ貰ったぞ、と付け加えると、妙子はゴミ箱に入ってた空のカップ麺を見て、何かを思案するように黙り込んだ。
「……ラーメンも美味しそうね。私もそっちにすれば良かったわ」
「お前がサンドイッチ食いたいって言ったんだぞ?」
「分かってるわよ。人が食べてるのを見ると食べたくなることってあるでしょ?」
「別に食いたいなら、今からもっぺん行って買ってきてもいいぞ?」
「……今日の所はサンドイッチで十分よ。ありがとう」
妙子が席を立ち、台所でコーヒーを温めてから戻ってくる。遅めの夕飯を食べる幼なじみを見ながら、どうやら食欲はあるらしいと月彦は一安心する。
(でも、やっぱりちょっと元気が無いみたいなんだよな……疲れか?)
内心早く一人になって休みたいと思われていたらどうしよう――そんなことを考えて、月彦はフォローを続行するべきか大人しく帰るべきかで悩んでいた。
「…………ねえ、もしかして贖罪かなにかのつもり?」
サンドウィッチを食べ終えた妙子が、不意に口を開いた。
「ん? 何のことだ?」
「夕飯買ってきてくれたりとか、もう一度買い物に行ってもいいとか。いつもより優しいじゃない」
「そうか? 俺はいつも優しいぞ」
「昼間のことなら、本当に気にしないで。さっきも言ったけど、あんたのせいだなんて思ってないから」
「いやでも、俺が釣ろうとしてなきゃあんなことにはならなかっただろうし……」
「あの魚をあんたが釣り上げて、それが私に飛びかかってきたとかならあんたのせいと言えなくもないんだろうけど。あんたとは全く関係ないところで私に飛びかかってきたんだから、あんたのせいじゃないわ」
どこか気怠げに、しかし言っていることは本音であると分かる口調で、妙子が断言する。
「…………でも、そうね。ちょっとヘコんでるかもしれないわ。でもそれはあんたに対してじゃなくて、自分自身に対して、ね。正直あんなに取り乱すなんて思ってなかったわ」
妙子が目頭を押さえ、肩を大きく上下させて溜息をつく。
「もっと物事に動じない方だと思ってたんだけど、うん。正直、ショックだったわ」
「いや、それはしょうがないんじゃないか? あんなデカい蛇みたいな魚がいきなり服の中に飛び込んできたら、俺だってパニックになるぞ」
「…………それだけじゃないのよね」
「どういうことだ?」
「…………………………あんまり言いたくないんだけど、ほら。ボートに乗ってる時、どんっ、どんって音がしてたじゃない?」
「ああ、してたな。アレ結局何だったんだろうな」
「あの時くらいから、ボートに穴が空いたらどうしよう。転覆したらどうしようって、そのことばかり頭をよぎっちゃって、本当は岸に戻りたくて仕方なかったの」
「そ――う、だったのか」
「そうだったのよ」
妙子は自嘲するように笑う。
「もうちょっと度胸あるかと思ってたんだけど、私って案外ビビリみたい」
「いや、それは――……普通の感性ってやつじゃないか? 俺だってあの時は怖くて仕方なかったけど、妙子の前だから平気なフリしてただけだしな。俺一人だったらビビってとっくに岸に戻ってたと思うぞ?」
「そうは見えなかったけど、本当にそうならあんたの虚勢は大したものだわ」
妙子はしばらく黙り、何かを思い出すように目を中空に泳がせる。
「…………不測の事態が起きた時、あんたは慌てたりはするだろうけど、なんだかんだで適切に対処しそうなのよね。普段は頼りないくせに、ここぞという時は肝が据わって間違いを犯さない気がするわ」
「いや……」
そんなことはないぞと、実例を挙げて口に出そうとして押し黙る。幼なじみといえど、口にして良いことと悪いことはあるのだ。
「ねえ、ぶっちゃけた話……あんたは今日、楽しかった?」
「普通に楽しかったけど…………楽しめなかったのか?」
「半々かしらね。楽しいって思うこともあったけど、同じくらい早く帰りたいって思うこともあったわ。言っておくけど、魚の件は別にして、よ。私やっぱり、人が多すぎるのってダメみたい。佐由も英理も、三人で居る分には全然負担にならないし、居心地も悪くないんだけど……今日はなんだか凄く疲れたわ」
「慣れもあるんじゃないか? あとは今日は早朝出発で移動時間も長かったし、疲れたって意味なら俺も結構疲れたぞ?」
「体力的なものより、精神的なものなのよね。気疲れって言えばいいのかしら」
空になったカップに口をつけようとして、ハッとしたように妙子が席を立つ。
「コーヒーのおかわり作ってくるわ。あんたも飲む?」
「あー…………俺はいいや」
「いいのよ、別に。一人分も二人分も手間は大して変わらないんだし」
「そうか……。なら、俺もコーヒーをもらおうかな」
月彦が危惧したのは、おかわりをもらわずにさっさと帰ったほうがいいのではないかということだった。しかし肝心の妙子がもっと話を続けたいと思っていなければ、飲み物を勧めたりはしないだろう。
妙子がコーヒーを淹れて戻ってくる。アツアツに淹れられたコーヒーはすぐには口をつけられず、しばしテーブルで冷ますことにした。
「ねえ、覚えてる? 中学の頃、あんたが急に英語を教えて欲しいって言ってきた事あったじゃない?」
「覚えてる。覚えてるぞ……あの時お前に大嘘を教えられたせいでヒデー目に遭ったからな!」
「何言ってんのよ。あんな馬鹿な文章を英訳しようとしてるあんたが悪いんでしょ?」
コーヒーカップ片手に、妙子がくつくつと意地の悪い笑みを浮かべる。
「何が”よろしければ、おっぱいをお揉みしましょうか?”よ。一体どんなシチュエーションで使うつもりだったのよ」
「そ、それはだな……あの日の朝、たまたま道に迷ってる外国人を見かけてだな……」
幸い道案内は出来た。だが、その外国人女性のたわわな胸元を見た時、不意に頭をよぎったのだ。今回は拙い英語力でもなんとか助けることが出来た。だがもし、道に迷っているのではなく胸を揉んでくれる人を探している外国人女性であったならば、自分は助けることが出来ただろうかと。
「私、あのときあんたが見せてきた英文思い出して、今だに吹き出すのよ。”Shall I help you OPPAI momimomi?”って、いくら英語が苦手でももうちょっと何とかなったでしょ」
「いや、俺もこのままじゃ外国人には通じないってのはわかってたんだよ。だからお前に相談したのに嘘教えるんだもんな。何だっけか……あの時お前に教えて貰った英文……必死で覚えたのに、どうしても思い出せねえ」
幸か不幸か、二週間後月彦は登校途中に同じ外国人女性と再会した。向こうも月彦のことを覚えていたのだろう。親しげに話しかけてきた女性に、月彦は覚えたての英文を口にした――瞬間、金切り声を上げた女性に思い切り頬をひっぱたかれたのだった。
「…………スラングよ。どんな文章だったかは、私も忘れたわ」
「スラングにしても、いきなり悲鳴上げられてひっぱたかれるって余程だぞ。そんなやべースラングよく知ってたな」
「それは、まぁ……ラジオ知識よ」
「百歩譲って知ってるのはいいとして、なんでそれを嘘ついてまで俺に教えるんだよ!」
「見ず知らずの外国人のおっぱい揉もうとしてたあんたには丁度良い罰だと思ったのよ。その時は」
ふふふと笑いながら、妙子がコーヒーカップに口をつける。このやろう、と苦笑しながらも、月彦はちらりと壁掛け時計に目をやる。
十一時を回っていた。
(……話してる間に随分遅くなっちまったな)
さすがにそろそろ帰るか――話の切れ目の度に何度そう思ったか。だがその都度、”英訳の話”のように妙子が新たな話題を提供してくる為、月彦は席を立つ機を逃し続けているのだった。
(そもそも、今日は疲れたから帰って寝たいみたいなこと言ってなかったか?)
だが月彦の見る限り帰宅直後こそ怠そうにしていたが、昔話に花を咲かせているうちにすっかり元気が出たらしい。楽しげに話す妙子と話すのが月彦も楽しく、ついつい長居をしてしまったが、さすがにそろそろ引き上げたほうが良いだろう。
「……おっ、もう十一時か」
「あっ、もうそんな時間?」
「いやー、すっかり話しこんじまったな。二人だけでこんなに長く話したのって初めてじゃないか?」
「そうね、私も今日はなんだか楽しかったわ」
立ち上がると、合わせるように妙子も立った。見送りのためだろう。月彦は部屋着のジャージをリュックの中へと仕舞い、肩にかけて玄関へと向かう。
「あっ……」
という声が背後から聞こえて振り返る。妙子がどこか所在なげな顔をしていた。
「どうかしたか?」
「ん……ちょっと、ね」
もごもごと歯切れ悪く、妙子はまるで独り言のように続ける。
「なんか、話し足りないな、って。思っただけ」
「あー……それは、俺もちょっと思ったけど」
妙子とこんなにも話が弾んだのは初めての事ではないだろうか。名残惜しいと感じるのは月彦も同じだったが、今日はさすがに時間が遅い。
「まぁ、続きはまた日を改めて、だな」
靴を履き、ドアノブへと手を伸ばしたところで「ねえ」と声をかけられる。
「あんた、明日……何か用事でもあるの?」
「明日? いや……別に無いけど」
「じゃあ、別に急いで帰らなくてもいいんじゃない? なんなら……別に、泊まってもいいし」
えっ、と。妙子の言葉に、月彦は思わず耳を疑った。
「いや、泊まる……って、さすがにそれはダメだろう」
「なんで? 明日は日曜で予定も無いんでしょ?」
「よ、予定は無いけどほら……さすがに泊まるってのは……」
「千夏はしょっちゅう泊まっていってるし、知らない仲でもないんだし。別に問題は無いんじゃない?」
「ち、千夏は女同士だろ!? 俺はほら、一応男だから……」
「バカ。そういう意味での”泊まり”じゃないのよ。……あくまで、友達として、もうちょっと遊んでいけば?って言ってるだけ」
「いや、そうだとしてもだな…………」
「それとも何? 友達としてなら泊まっていって良いっていう私の信頼を裏切るような真似を、あんたはする気なの?」
「それは……無い」
ような気がすると、心の中で付け足しておく。
「なら、良いじゃない。もうちょっと付き合いなさいよ。千夏達からもフォローしてこいって言われてるんでしょ?」
「……まぁ、そこまで言うなら」
他ならぬ妙子自身が泊まっていけというのならばと、月彦は履きかけていた靴を脱ぎ、踵を返す。
(…………これはもう、仮に”事故”が起きたとしても、俺のせいだけじゃないよな、うん)
ごくりと、妙子に悟られぬ様に生唾を飲み込みながら、二人きりのお泊まりイベントに胸を高鳴らせる月彦だった。
シャワーを浴びながら、月彦は考えていた。”これ”は一体どう解釈すればいいのだろうか。
”あの妙子”が自分から泊まっていけと促してくることは異常ではあるが、そもそも”あの妙子”と話が弾むということ自体がそもそも奇々怪々極まりない事ではないのかと。
(何だろう……もしかして俺、化かされているんじゃないのか?)
あり得なすぎるシチュエーションに自らの認識を疑い、頬を抓ってみる。が、夢でもなければ世界の歪みが見つかるわけもない。
(或いは……)
妙子が浴びたあの”汁”が原因ではないのだろうか。なにせあの性欲の塊のようなエロ狐がばらまいた害魚だ。あの汁には発情を促すような成分が混じっていて、匂いを嗅いでいるだけでエロい気持ちになるとかそういう特性があるのではないだろうか。
しかしそういった理由無く、単純に妙子と奇跡的に話がかみ合い、純粋にもうちょっと長く一緒に居たいと思われたのであれば、男としては冥利極まりないことだ。そしてどのケースが正しいかによって、今夜月彦が取る行動は大きく変わることになる。
(……いや待て。仮にあの魚の汁に発情成分があったとしても、俺も妙子もそのことを知らないのならそれは何が起きても避けようがない事だったということにはならないか?)
いや、そうじゃないと月彦は首を振る。思考が、どうしても妙子とヤる方向へと傾いてしまう。何せ、今夜の妙子はガードが激緩だ。それこそ、ちょっと強引に迫れば簡単にヤれてしまうのではないかと錯覚してしまう程に。
(違う、妙子はちゃんと言っていたぞ。”友達として泊める”と。そこで強引に迫るような事をすれば、妙子は二度と俺を信用しないぞ)
そう、強引に迫るようなことはしない。しないが、もし妙子の方から誘うようなそぶりをされた時、果たして自分は止まることが出来るだろうか。妙子本人にそのつもりがなくとも、そう誤解してもやむなしと思ってしまった時、この内なる獣を御することが出来るだろうか。
(…………ミスった、かもしれない)
止まれる筈が無い――今までの経験から、月彦はそう確信する。妙子との関係を健全に進めたいのであれば、今夜のお泊まりは是が非でも断るべきだったのだ。
そう、断るべきだったのに、受けてしまった。受けたことを後悔しつつも、仮に今超常的な存在によって時間が巻き戻りあの瞬間に戻れたとしても、やっぱり自分は妙子の申し出を受けてしまうだろうとも思っている。
間違った選択肢であると分かっていても受けざるを得ない――妙子と一線を越えられる”かもしれない”というシチュエーションは、決して抗う事の出来ない誘惑だからだ。
いつもより気持ち入念に体を洗い、ユニットバス内で体を拭いているとノックの音が聞こえた。
「月彦、歯ブラシなんだけど……千夏が泊まりの時使ってるやつならあるんだけど、さすがに嫌よね?」
「…………まあ、ちゃんと清潔にしてあるんだろうし、俺は別に良いけど俺の後に千夏が使うのが嫌なんじゃないか?」
「やっぱり、他人のって抵抗あるわよね。……私、ちょっと買って来るわ」
「って、おい妙子! 別に一晩だけだし、わざわざ買わなくても――」
慌てて声を荒げる月彦だったが、妙子は返事を待たずに飛び出していってしまったらしい。妙子からの返事は無く、体を拭いてさあ着替えようとしたところではたと。部屋着のジャージはあっても下着の替えが無いことに気付く。
下着無しでジャージを着るか、一日着た下着をもう一度身につけるかで月彦が悩んでいると、程なく玄関のドアの開閉音がした。
「妙子か?」
「ただいま。歯ブラシとあと、下着の替え買ってきたわ」
「し、下着まで買ってきたのか!?」
「さすがに一日履いた下着をまた履くなんて嫌でしょ。サイズはフリーだから多分大丈夫な筈よ」
「わ、悪いな妙子……金は後でちゃんと払うから」
「いいわよ、別に。泊まっていけば?って言ったのは私だし、それくらいの”おもてなし”はするわ」
下着はここに置いておくと言って、妙子は居間の方に引っ込んでしまった。既に買ってきたものならば、ここで固持しても妙子の手元に使う宛の無い男物の下着が残るだけだ。
月彦はありがたく厚意に甘えることにした。
居間に戻ると、妙子が炬燵テーブルを縦にして端に寄せ、布団を敷いている所だった。
「なんだ、もう寝るのか?」
「すぐじゃないけど、布団だけは敷いとこうと思って。なんだかんだでもう十二時前だし」
いよいよ眠くなってから、炬燵を片付けて布団を敷くのは嫌だということなのだろう。妙子が言わんとすることは月彦にも分かるのだが。
(……やべえ、なんかドキドキしてきた)
もちろん布団は二組――というより、布団は恐らく妙子が使う方だけで、月彦が寝る方は”泊まり客用”のマットのようなものだが――で同じ布団で寝るわけではないと分かってはいるが、それでも心がザワつくのを止められない。
(……むしろ、妙子は平気なのか?)
だとすれば、自分は男だと認識されていないのではないか。しかし妙子を見る限り、普段通りにしか見えない。少なくとも、紺崎月彦を”男”として意識しているようには感じられない。
「……何よ。人のことじーっと見て」
「ああ、いや……手伝おうか?」
「もう終わるわ。あんたの掛け布団、毛布と炬燵布団だけだけど寒いかしら?」
「大丈夫だと思う。……懐かしいな、この毛布……アレだよな?」
「覚えてたの。そう、アレよ」
捨てていなかったのかと、軽い驚きを覚えると同時に苦い思い出が蘇ってくる。そう、高熱で雨の中彷徨った挙げ句行き倒れてしまい、妙子に拾われたあの日の事を。
「ちゃんと洗ってあるから、衛生的には何の問題もない筈よ」
「分かってる。……今更だけど、あの時は本当に悪かった」
「…………まぁ、体調悪くて悪夢(?)に魘されての事だろうし、仕方なかったんじゃない?」
優しい。本当に目の前に居るのは白石妙子かと疑いたくなるくらい、今日の妙子は応対が柔らかだ。
「あっ」
と、不意に妙子が思い出したような声を上げる。
「どうした?」
「ごめん、すっかり忘れてたけど……あんたが泊まるって、葛葉さんに連絡しなきゃいけなかったんじゃない?」
「あー……確かに、したほうがよかったんだろうけど……この時間だと母さん間違いなく寝てると思う。明日朝から電話して謝るから大丈夫だ」
「そう……ごめん。その時は私も一緒に謝るわ。私が引き留めたって」
じーんと、月彦は不思議な感動を覚えていた。
「……妙子、今日は本当にどうしたんだ?」
つい、そんな言葉を口にしてしまう。
「どうしたって……別にどうもしないわよ。なんでそんなこと聞くの?」
「だってほら、いつもだったらさっさと帰れとか、俺が変なこと言ったら容赦なく鉄拳制裁とか、そんなだろ?」
「それは……今までがやり過ぎだって思ってるから……」
妙子なりに自分の応対を見つめ直し、改善を心がけているという事だろうか。それはそれで喜ばしいことではあるのだが。
(……ちょっぴり物足りない気がしなくもないんだよな。いや、贅沢だってのは分かってるんだけど)
自分はMではない。けっしてMではないが、以前の妙子が纏っていたあのピリピリとした緊張感が薄れてしまったがのがどうにも惜しく感じられる。何故ならヒリつくようなあの緊張感の中において、妙子が不意に零す笑顔や優しさの価値が薄れてしまったように思えるからだ。
とはいえ、今更以前のように雑に扱ってくれと頼むのも変な話だ。月彦は素直に妙子の変化を受け入れることにした。
「…………。」
「…………なんだ、俺の顔に何かついてるか?」
洗面台の前で二人並び、シャコシャコと歯を磨いてる最中。不意に妙子が視線を向けてくる。
「別に……あんた、以外と背、あるわよね。いくつだっけ?」
「180cmちょっとくらいだな」
「私が160cmだから、二十センチも差があるのね」
「今更過ぎるだろ……」
「悪かったわね。あんたの頭の位置なんて気にもしてなかったのよ」
手早く口を濯ぐや、妙子はぷいと怒ったようにに背を向け、居間へと戻ってしまう。一人残された月彦も口を濯ぎ、妙子を追うように居間へと戻る。
「何やってんだ?」
「……別に、何でもないわ」
妙子は一人机に向かい、ラジオらしきものを操作していた。
「あー、もしかしてラジオの録音の準備か? もし聞きたいなら俺に構わず聞いてていいぞ?」
「一人だったら聞くけど、さすがにあんたを無視してってのはね。録音しておけば平気だから」
「でも、そういうのってリアルタイムで聞きたいもんなんじゃないのか?」
「いいのよ。自分から泊まるように促しておいて友達そっちのけでラジオとかありえないじゃない」
なるほど、確かに妙子の言う通りだと月彦は納得する。納得はするが、それでも月彦としては妙子が聞きたいのなら我慢などしなくていいのにとも思っていた。
「そっか、なら俺も一緒に聞くってのはどうだ? 前々から一度聞いてみたいとは思ってたんだよな。良い機会だし――」
「絶・対・ダメ!」
くわっ、と。鬼のような形相で断言されて、月彦は二の句が継げなかった。
「そ、そうか……残念だ」
やがて録音のためのセッティングが終わったらしい妙子が逃げる様に布団に潜り込む。月彦も倣って布団に潜ると、妙子が電灯のリモコンを操作し、常夜灯に変える。
「おー、いいな、この感じ。”友達の家に泊まってる”感ぱねーな!」
「やっぱり幼なじみねー。千夏もうちに泊まるときしょっちゅうそれ言ってるわ」
「ちなみに千夏はどれくらいの頻度で泊まってるんだ?」
「そんなに多くはないわ。月に一回、多いときは二回くらいね」
「なんだ、そんなもんか」
「単純に遊びに来るだけなら、多いときは週に2,3回はあるけどね」
「それはそれで多いな。俺と和樹ですらそんな頻繁には家に行かないぞ」
「和樹かあんたが一人暮らしだったら、そこも変わるんじゃない?」
確かにそれはありそうだと、月彦は納得する。考えて見たら、妙子と千夏の場合は両方とも両親と別れての一人暮らしだ。千夏にしてみれば、別荘感覚でのお泊まりなのかもしれない。
「てことは、お前も千夏の部屋に泊まったりしてるのか?」
「…………そういえば、千夏の部屋に泊まったことって無いわね」
言われてその事実に気付いたと言わんばかりの声だった。
「普通の話なら携帯で十分だし、込み入った話とかでも次に千夏が来た時にすればいいって思って、自分から千夏の家に行くことって殆ど無いわ」
「…………まぁ、黙ってても結構な頻度で千夏が顔を出すなら、自分から尋ねることは無いか」
「でも、前の家に住んでた頃はそこまでの頻度じゃなかったのよね。だからやっぱり一人暮らしだと尋ねやすいっていうのはあると思うわ」
妙子の言う事は間違いではないだろうが、100%正解というわけでもないだろう。恐らく、千夏は千夏で一人暮らしの妙子が寂しがらないように気を遣っているのではないだろうか。
「でも、そうね。たまには千夏の部屋に泊まるのも面白そうね。今度千夏に頼んでみるわ」
千夏の性格からしてダメとは言わないだろう。尤も、妙子の部屋に泊まっても千夏の部屋に泊まっても、やることに大差はない気はするが。
「二人だけじゃなくて四人で泊まるのも面白そうだよな。和樹なんて、まだ一度もここに来た事ないんじゃないか?」
「……そ、うね。多分無いんじゃないかしら」
「何でそんなに自信なさげなんだよ。……まぁあいつ昔から妙子のこと苦手っていうか、一歩引いてるようなところがあるからな。千夏や俺と一緒なら兎も角、一人で妙子の部屋なんて絶対来ないだろうな」
「…………確かに、いつもあんたか千夏と一緒にいる印象だわ。私も別に、和樹のこと嫌いなわけじゃないんだけど」
「一応言っとくと、和樹もお前のこと嫌いなわけじゃないと思うぞ。いや、思うぞ……じゃないな。嫌ってはないぞ、うん。そこは断言する」
どちらかと言えば、和樹が妙子と距離を置いているのは紺崎月彦との仲を応援するスタンスだからという意味合いが強いのではないかと月彦は思っている。その結果妙子が「和樹に嫌われているんじゃ……」と誤解をしてしまうのは和樹に対してあまりに申しわけがなさ過ぎる。
「そうね、私も嫌われてるとは思ってないんだけど…………和樹に対しての認識も改めなきゃなって、最近思ってるところ」
「へえ……意外だな。ああっ! だから今日は和樹に対してもちょっと優しかったのか!」
合点がいったとばかりに、月彦は大きく頷いた。
「……私、そんな風に見えた?」
「見えた見えた。いつもなら和樹に文句言うところで、お前が逆に和樹をフォローするようなこと言うから、俺も千夏も唖然としたもんだ」
「それは……あんたの時と一緒で、和樹にももうちょっと優しくしないとって……」
「うんうん。俺が言うのもなんだけど、それは凄く良い試みだと思うぞ。……和樹はあんな性格だからアイツ自信は妙子が変わろうとしてることになかなか気付かないかもしれないけど、俺はちゃんと分かってるからな」
事実、妙子がフォローをしても和樹は気付くどころか驚きもしなかった。あの鈍感筋肉男と将来付き合う女性はよほど懐が広くないと神経が持たないだろう。
「でも、一度だけヒヤッとした時があったんだよな。ほら、午後のペア決めの時。和樹もお前も、お互い一緒になるのは絶対嫌だって言ってただろ?」
「あ、あれは……」
「いや、本気で言ってたわけじゃないのは俺も分かってるんだ。和樹はあんなこと実際は思ってても絶対口にはしない奴だし、逆に言えば口にしたってことはそれは他の意味があるってことだからな」
これも、本当の所は月彦も想像がついている。恐らく和樹はああして妙子と組みたくないと言い張ることで、必然的に自分と妙子がペアになるように誘導してくれたのだ。
(そして、多分妙子も――)
同じ理由で和樹とは嫌だと固持したというのは、自分を高く見積もりすぎだろうか。或いは今日の妙子ならはっきりそうだと口にしてはくれないだろうかと期待を高める月彦だったが、待てど暮らせど妙子の口から希望の答えが出てくることは無かった。
会話が途切れてから、小一時間ほどは経っただろうか。
もぞりと、月彦は寝返りを打ち、妙子の方を見る。妙子は月彦に背を向けるようにして横になっている様だった。その髪が結ばれたままの後頭部を見て、月彦ははたと思った。
(寝るときも髪、解かないのか)
あれでは仰向けで寝ることができないのではないか。何かこだわりがあるのか、ただの解き忘れか。気にはなるが、今月彦が直面している問題に比べればささやかすぎる疑問だった。
(……ヤバい。ムラムラして全然眠れない)
真央とのただれた生活ですっかり体が覚えてしまった生活サイクル的に、最もハッスルする時間帯に。よりにもよって意中の幼なじみと密室に二人きりなのだ。耳を澄ませばその寝息すら聞こえてきそうな距離に、無防備なうなじを晒されてはもう、ごくりと生唾を飲むしかないではないか。
(いやでも、ダメだ。さすがに)
妙子は”友達として泊める”と言っていた。事実話は深夜まで弾み、和やかな空気のまま就寝を迎えた。このまま何事も無く朝を迎え、友達として別れるというのが最善手であるのは間違いない。
間違いないのは分かりきっているのに、月彦はもう、妙子に襲いかかりたくて堪らなくなっていた。
「……妙子、起きてるか?」
「ん……」
返事があった。
「なに、眠れないの?」
気怠そうな声。それだけで訊かずとも「私も」と伝わって来る声だった。
「……眠れない。妙子もか」
「んー……うん」
もぞりと妙子が寝返りを打ち、うつ伏せになる。枕元の目覚まし時計で時間を確認し、再びもぞりと寝返りを打つ。
「今日は大分歩いたし、疲れてるから体は眠りたがってるのに、頭の奥だけが妙に冴えてて寝付けない感じ」
少し間を空けて、続ける。
「………………そういえば、前にもあったわ。死ぬほど眠いのに、頭だけ妙に冴えて全然眠れなかったの」
「そういうの、良くあるのか?」
「ううん、普段は全然無いわ。目を瞑って横になってれば、いつもはすぐ朝なのよ。……あんたは、寝付き悪い方なの?」
「……いや、俺は――」
なんと説明すればいいのか。言葉は慎重に選ぶ必要がある。
「なんか、昂ぶってて」
「昂ぶってる???」
「………………ありていにいえば、エロいことしたいって思ってる」
妙子の顔を見なくても、絶句しているのが分かった。
「な」
裏返りそうになる声を、必死に止めているような、そんな声だった。
「何、言って……。そういうの、ナシだって! 泊めるのはあくまで友達としてだって、そう言ったでしょ!?」
「確かに、俺もそのつもりだった。でも、なんていうか……シチュエーション的にこう、こみ上げてくるものがあるというか……」
「そんなの、知らないわよ……私に、言われても…………」
「お前に言わないで誰に言うんだ」
「ちょっと、あんまりこっちに来ないでよ!」
言われて、気がつく。既に自分が寝ていたマットの境界ギリギリに居た。妙子の敷き布団とは隙間があるが、妙子は身構えるような姿勢で自らの布団の端へと寄ってしまっている。
「分かった。俺だって、無理矢理は嫌だ。妙子がどうしても嫌だっていうなら、この話はここで終わりだ」
さすがに妙子の信頼をゼロどころかマイナスに振り切らせてまで欲望を満たしたいとは思わない。月彦は襲う気はないことをアピールするように両手のひらを見せたまま、じりじりと下がる――その時だった。
「………………胸だけ、なら」
ぽつりと。妙子の唇から呟かれたその言葉に、月彦は動きを止めた。
「胸だけ? 胸だけならいいのか? 胸になら何してもいいって、そういう意味か?」
「ち、違っ……そういう意味じゃなくて! あ、あんたが……どうしてもしたくて眠れないっていうんなら……ちょっとくらいなら触らせてあげなくもないって事!」
「ほう……」
「言っとくけど、ちょっとだけ、よ? いつかみたいにあんたが満足するまで好きなだけとか、そういうんじゃないから……」
警戒するような幼なじみの言葉を聞きながら、月彦は思っていた。”ちょっとだけ”などと言う具体性のカケラも無いリミットは、”好きなだけ”と同義なのにと。
「そうか、分かった。ちょっとだけだな?」
「そう、ちょっとだけよ。私がおしまいって言ったら、そこでおしまい」
「分かった、その条件でいい」
言うが早いか、月彦は妙子の布団の方に移動しようとするも、たちまち金切り声を上げられる。
「ちょっと、近いってば!」
「近づかないと揉めないだろ。それとも、俺の手が届くところまでお前が来るか?」
俺はどっちでもいいと月彦が腕を組んでいると、妙子は観念したように掛け布団にくるまり、月彦に背を向けるように横になった。妙子の行動に全てを察した月彦はもぞりと、布団の中に潜り込む。
「やだっ、ちょっ、どこに手入れて……!」
「どこって、胸触っていいんだろ?」
「服の上からに決まってるでしょ!」
「そんな話は聞いてない」
月彦は半ば強引に両手を妙子の部屋着の下へと忍ばせると、あっさりとブラのホックを外してしまう。
「ちょっ…………ンッ……!」
そして戒めから解放されたたわわなおっぱいを優しく包み込むようにゆっくりと捏ねる。そう、さながらブラでぎゅうぎゅうに締め付けられていた柔肉を労るように。
「……妙子、ブラのサイズもうちょっと考えた方がいいんじゃないか? これじゃつけてて苦しいだろ」
「……そんなこと、言われたって…………きつめのにしとかないと、どんどん大きくなるんだから……仕方ないじゃない」
一体何を言ってるんだろうと、月彦は本気で首を傾げた。
(……好きなだけ大きく育ててやればいいのに、何が問題なんだ?)
おおよしよしと、労りながら月彦は徐々に、揉む手に力を込めていく。
「……ぁっ……んっ……!」
月彦の両腕の中で、妙子が微かに声を漏らす。何かを堪えるように体をくの字に曲げるのをしっかりと抱きかかえながら、指先をさわさわと蠢かせる。もちろん妙子が弱い場所をいきなり責めたりはしない。そんなことをすれば、たちまち”おしまい”宣言をされるだろう。
「……っ……ぅっ…………ね、ねえ……あんた、指に何かつけてたりしないわよね?」
「…………? どういう意味だ?」
「なんか……あんたに触られたところが熱い気がするの……」
「それは気のせいだ。正真正銘、ただの指だし、刺激物なんか塗り込んでないぞ」
心外なと、月彦は憤慨する。この俺が、神聖なるおっぱいにそんな真似をする筈が無いだろうと。
「ほ、本当に? これ、気のせいとは、思えないんだけど…………っ……〜〜〜〜っ……!」
「気のせい……の筈なんだが」
はてなと。月彦が再び首を傾げたのは、事実腕の中の妙子の体が妙に発熱しているように感じたからだ。布団を被ったままでは汗びっしょりになってしまうかもしれないと、月彦は断腸の思いで片手を抜くと、掛け布団を撥ね除ける。
「んっ……ふっ、ぅ……ふぅっ…………ふぅっ………………」
再び服の中に手を忍ばせ、揉み、捏ねる。妙子は微かに息を弾ませながら、されるがままだ。”そうなる”様に揉んでいるつもりの月彦は、自分の愛撫の仕上がりに大満足だった。
(…………もっと触って、って。懇願するように仕上げてやる)
妙子が自ら紺崎月彦の手を取り、自らの胸元に押しつけてくるくらい、虜にしてやると。”その瞬間”を夢見ながら、月彦は徐々に徐々に、蠢く指先を妙子が最も弱い場所へと近づけていく。
「ふぅ……ふぅ……ンッ…………やだっ…………そ、そこ……だめっっ…………ンッ……!」
ダメ、とはいいつつ抵抗はしない。ただの、口だけの拒絶だ。指先で円を描くようにして、”頂の縁”を撫でると、妙子はたちまち声を震わせて鳴く。
「ぁぁ、ぁ……アア………………ッ!」
先ほどからしゃりしゃりと、布地が擦れるような音が聞こえるのは妙子が下半身をひっきりなしに動かしているからだ。そんなに”良い”ならもっと良くしてやらなければと、月彦はじわじわと、”頂”の近くへと指を寄せていく。
「やぁっ……だめっ、だめっ…………そこ、弱いぃ…………」
堪りかねた様に、妙子が右手で月彦の右手首を掴んでくる。ふうふうと肩で息をしながら掴むその手は確かに力強いが、動きを抑制するというよりはジェットコースターの手すりでも掴んでいるかのようだった。
(……そもそも”ちょっとだけ”じゃなかったのか?)
もうかれこれ軽く十分は揉み続けているが、妙子の口から”おしまい”の単語が出る気配すらない。無論妙子がそれを口にしないように仕向けているからというのもあるが、乗り気でなかった筈なのにすっかり愛撫の虜になりつつある幼なじみが、月彦は可愛くて仕方なかった。
「っ……なん、で……胸っ、こんな……ンッ…………あんたに、触られた時、だけ…………こんなにっ…………」
ぎりっ、と歯ぎしりの音が聞こえて来そうな声だった。
「秘訣は努力と真心、そして感謝の気持ちだ」
「うるさいバカ! もういいでしょ!? おしま――はゃン!」
キュッと。堅く尖った先端を指先で摘まむと、たちまち妙子は声を裏返らせながら慌てて両手で口を覆った。
「ンンンンッッ!!!」
くり、くりと摘まみながら弄ると、妙子は口元を覆ったままイヤイヤをするように首を振る。
「うん、うん。感度もいいし、大きさ、弾力も最高だ。大好きだぞ、妙子」
妙子が口を覆ったまま、親の敵のような目で睨んでくる。月彦は苦笑交じりに指先で胸の頂を弄び、反撃する。
「っっっ……ぅぅぅぅうっっ…………ふぅっ、ふぅっ、ふぅっ、ふぅっ…………!」
意地でも喘ぐかと、そんな気迫が伝わってくる様だった。しかし両手で口を覆っているということは防御も抵抗も出来ないということでもある。
「妙子。……”胸だけ”なんだよな?」
まずは確認。妙子は口元を覆ったまま、僅かに頷く。
「てことは、胸なら……吸ってもいいよな?」
一瞬、何を言っているのか分からなかったのだろう。妙子の反応は遅れた。その一瞬の遅れを見逃すほど、月彦は素人ではなかった。
「ちょっ……いいなんて一言も……やっ、……だ、だめだってば!」
体を起こした月彦は狼狽える妙子を仰向けに、眼下に組み敷く。部屋着のセーターをまくし上げ、たわわな極上巨乳を露わにするや、思わず感嘆の声を漏らしてしまう。カーテンの隙間から微かに月明かりが差し込むだけの室内だが、月彦の目にはスターライトスコープばりにはっきりと、輝かんばかりのおっぱいが見えていた。
「や、やめっ…………あふっ…………ぁっ、ぁぁァ…………」
両手で妙子の両手首を掴み、布団に押しつけながら、無防備な胸元へと唇を寄せる。先端部を優しくくわえ込むと、たちまち妙子の抵抗は弱まった。優しく吸いながら、舌先でやんわりと舐める。
「やっ、ぁっ……ちょっ、それっ……ホントにダメ…………ゾワゾワってして……や、ぁ…………ァ…………」
脱力。拘束を撥ね除けようとしていた妙子の両手から力が抜けていく。これはもう押さえつける必要は無いなと、月彦は妙子の両手を解放し、空いた両手でさらに揉み、捏ねる。
「あァァッ……! だめっ、だめっ…………もう、無理っ…………ね、ねぇっ……月彦っ……もう、終わりに……ァァァァァァッ…………!」
終わりにはさせない。堅く尖った先端部がふやけるほどになめ回した後は甘く噛み、クニクニと弄る。堪りかねたように妙子が背を反らし、後頭部を抱き込むようにして爪を立ててくる。
「あっ、あッ……だめっ、だめっ……歯、立てるのだめっっ……ちょっと、ホントにだめっ……止めて! 止めてって言ってるのにぃぃ……!」
誰が止めるかと、月彦は夢中になって吸い続ける。臥薪嘗胆――というと些か大げさだが――の思いで漸くたどり着いた桃源郷なのだ。愛しの幼なじみの極上おっぱいを吸うことが許されるこのボーナスタイム、そう容易く手放す気などなれない。
「あっ、ンっ……んっ、っ……んんっ…………やっ……ンっ! あんっ…………!」
もっぎゅもっぎゅと両手で丁寧に揉みながら、ねっとりとした舌使いで執拗に責め続ける。妙子の口から漏れる声も、静止を懇願する言葉から純粋な喘ぎの割合が増え始める。
「あんっ…………んんっ……んぅっ…………んっ……!」
舌の動きに、手の動きに合わせて、妙子が鼻にかかった声を出す。予想よりは大分かかったが、妙子も漸く快楽を受け入れたらしい。
月彦はさらに念には念を入れるべく、よりじっくりと胸を責め、妙子の精神を快楽という蜜にどっぷりと沈める。その肌がすっかり上気し、脱力し、濡れた目が快楽でトロトロにとろけきったところで、おもむろに体を起こす。
「つき……ひこ?」
見上げる妙子の瞳は、まるで夢の中にでも居るように焦点がぼやけていた。
「…………妙子、好きだ」
今夜、決める――決意を乗せて、月彦は唇を重ねた。
完全にとろけさせ、自我すらもあやふやになるくらいに快楽漬けにした筈だった。
であるのに。
「んっ……んんんっ!?」
唇を重ねた途端、まるで夢から覚めたように妙子が藻掻きだし、月彦はキスを中断せざるをえなかった。
「ちょっと! あんた、何、して……」
「いや……なんとなく、流れで」
「な、流れって……んんっ!?」
構わず、再び唇を奪う。驚き、身を強ばらせるのもつかの間、押しのけようとしてくる妙子の腕を。
「んはっ……やだっ……ンンッ…………んっ……!」
唇を重ねながらの愛撫で、封じる。”目が覚めた”のなら、再び快楽という沼にどっぷりと浸からせるまでだと。妙子が弱い先端部をねちっこく責めながら、啄むようにキスを続ける。
そして妙子の反応を窺いながら、少しずつ、少しずつ。指の動きとシンクロさせるように舌を動かすと、僅かずつではあるが妙子の方も応じるようになってくる。
「んっ……ぁっ……んっ……れろっ、はっ……んんっ…………ンンっ……」
鼻にかかった声を上げながら、妙子が体の力を抜き始める。円を描くように胸をこね回しながら、指先で先端部を擦るように刺激する。ぴちゃぴちゃと音を立てながら舌を絡ませ合いながら、月彦は次のステップに進む”機”を窺っていた。
(キスへの移行は思いのほか抵抗が強かった。想定よりもっと時間をかけた方がいいかもしれない)
ケダモノのように妙子の体を貪りながらも、頭の奥の部分では冷静に、どうすれば”最後”まで行けるかを計算する。キスを続けながら、胸元を弄りながらも、時折体を撫でるようにして腹部、足の付け根まわりまで手を這わせる。じっくりたっぷり、入念過ぎる程に時間をかけた愛撫によって、部屋着のズボン越しですら指先に湿り気を感じるほどになった時、月彦は”機”が訪れたと直感した。
「妙子」
キスを中断し、囁きかける。体を密着させ、胸元への愛撫だけは続行しながら、吐息で耳を舐めるように、続ける。
「最後までシたい、いいか?」
「さい、ご……?」
ぼんやりと。まるで夢の最中に居るような声。ぐっと、股間の熱い強ばりを誇張するように妙子の太ももに押しつけると、その潤んだ瞳に僅かに正気の光が戻った。
「ま、待って! だ、ダメよ、そんなの……」
何を言ってるんだ、すっかりその気の癖に――と。月彦は優しく妙子の股間部をズボンの上からなで回し、”妙子本人”に思い知らせる。
「う、ぁ……ち、違っ……それは、あんたが…………」
「違わない。大丈夫、無理はしない」
がっついたりはしないと、月彦はあくまで優しく、幼子でもあやすような手つきで愛撫を続ける。
「待って……本気、なの? ほ、本当に……?」
「本当に、本気だ」
これが冗談の目に見えるか?と。月彦はしっかりと、曇りの無い眼で妙子を見据える。
「ちょ、ちょっと待って! そんなの、急に……言われても……む、無理! お願い、止めて!」
「頼む、妙子。最後までシたい」
ごり押すように、先端部をキュッと摘まみ、くりくりと捻るように弄ると、妙子はか細い声で鳴いた。だが、さすがに”シてもいい”という言葉までは口にしない。ただただ体を強ばらせるだけだ。
(…………これはもう、多少強引に行くしかないかもしれない)
妙子の性格上、たとえ”OK”であってもはっきり口にはしないだろう。この現状において、殴られもせず突き飛ばされもせず、されるがままというのはそれはもう了承と同義であると見て、月彦は踏み切ることにした。
「えっ……ちょ、や、やだっっっ!」
妙子のズボンに手をかけ、下着ごと脱がしにかかる。妙子が慌てて逃げる様にうつ伏せになってしまったせいで、丁度おしりだけが露出するような形になる。月彦はさらに強引にズボンを下ろしにかかるが、妙子はさらに逃げ、まるで脱皮でもしたかのように月彦の手元にズボンと下着だけが残された。
「だめっ、待って! 無理、ホントに無理だから!」
この期に及んで、妙子は往生際が悪かった。下半身を隠すように被った掛け布団を、月彦は力任せに剥ぎ取り、キュッと閉じられたその両足を無理矢理開かせようと。妙子の両膝を掴んで力任せに開こうとしたところで。
「止めてって言ってるでしょ!」
かつて無いほどに強烈に横っ面を叩かれて、ハッと。月彦は正気を取り戻した。
「あっ…………」
肉欲に茹だっていた頭が、氷水を浴びせられたように冷静になる。妙子との付き合いは長い。だからこそ、今のは本気の”イヤッ!”であると即座に理解できた。
足を閉じ両手で肩を抱き、目尻に涙を滲ませ敵意の籠もった目で睨み付けてくる妙子の姿に、月彦は自分がとんでもないあやまちを犯したことを知った。
「…………ご、ごめん…………頭、冷やしてくる」
月彦に出来たのは、逃げる様に部屋を飛び出すことだけだった。
どこだ、自分は一体どこで間違った――寒空の下、あてもなく彷徨いながら、月彦は考えていた。考えてはいたが、本当は考えるまでもなく答えなど分かりきっていた。
妙子の部屋に泊まった――これがそもそもの間違いなのだ。間違いだと分かっていて尚泊まって、結果泊まったのはやっぱり間違いだったと後悔しているのだから、自己嫌悪どころの話ではなかった。
判断ミスもあった。なんとなく、過去の経験から「あそこまで持ち込めば、多少強引でも行ける!」と見切り発車してしまった。そこには妙子の気持ちへの配慮は微塵も無く、ただただ自分の欲望を満たすことだけを目的としていた。
「ああぁ……」
自分はなんと愚かだったのだろう。月彦は声を上げてその場にしゃがみ込んだ。己の情けなさにちょっとだけ涙も出てきた。
妙子には本当に申し訳ないことをしてしまったと思う。紺崎月彦という人間の評価を改めようと、無駄に暴力を振るうことを止めようとしていた矢先に、これだ。妙子にしてみれば二重にショックだろう。きっと紺崎月彦の評価は以前の位置より遙か下へと突き抜けていってしまったに違いない。
(…………もう、死のうか)
死をもってしか、今回の失敗は償えないのではないか。否、死など逃げだ。生きて恥知らずの誹りを受け一生をかけて償い続けるのが責任というものではないだろうか――。
冬の寒気が、容赦なく体の熱を奪い続けている。三十分も歩き回ってうだうだと愚にも付かないことを考え続けていると、いい加減凍えるようになってきた。このまま野垂れ死んだら野垂れ死んだで、妙子も寝覚めが悪いだろうと思い、月彦は重い足を引きずってとりあえず部屋に戻ることにした。
が、ことここに至って、月彦は自分が閉め出されている可能性もあることに気がついた。妙子にしてみれば、レイプ未遂をした挙げ句現場から逃げ去った男の為に、不用心に鍵を開け続けている道理など無いだろう。
(…………鍵をかけられていたら、その時は潔く死ぬことにしよう)
そんなことを考えながら、部屋の前へと戻る。緊張しながら恐る恐るドアノブを握り、回すと鍵はかかっていなかった。ホッと安堵する反面、妙子の優しさにますます心苦しくなる。
そっとドアを開けるなり、月彦はギョッと身を強ばらせた。入ってすぐ、玄関マットの上に上下スウェット姿に着替えた妙子が仁王立ちしていたからだ。
「おかえり。随分遅かったわね」
「た、ただい……ま?」
「頭は冷えたのよね? それなら、”問題”について話し合いましょうか」
そう言って、妙子が踵を返して居間の方に行く。ついてこいという意味だと察して、月彦も後に続いた。
「……まず最初に、これだけは言っておくわ。何もかも全部あんたが悪いとは思ってない。私にも非があった、それは間違いないわ」
勉強机用の椅子に腕組みをしたまま腰掛けた妙子に見下ろされながら、正座し肩を縮こまらせた月彦は恐々と聞いていた。
「エロいことしたいって言ってるあんたに、胸だけなら……なんて言った私にも、想像力が足りてなかった。ダメなことはダメだって、あの時にしっかり断らないといけなかった。そこは自分でも悪いところだったって思ってるわ」
「いや、それは――」
全然悪くないと思ったが、キッと妙子に睨み付けられて、月彦は口を噤んだ。
「あんたにも当然非はあるわよ。”胸だけ”って言ったのに、約束破って勝手にそれ以外のこともやろうとしたんだから」
「は、はい……仰る通りです」
「…………勝手に、キスまでしたわね?」
「はい……」
「勝手にそんなことされて、私がどう思うかとか考えなかった?」
「…………考えませんでした」
月彦は内臓を吐き出すような声で、しかし誠実に真実を答えた。
「あの時は、ただ妙子とそうしたいという己の欲求に従って、キスをしました。妙子の気持ちは全く考えていませんでした」
「そう。ただ、自分がしたいからした、そういうことね」
軽蔑も、落胆も込められていない。無感情な呟きだった。
「私が止めなかったら、あんたは最後までするつもりだった?」
「はい」
「そういうことをする責任については考えなかったの? 子供が出来たらどうしようとか」
「全く考えませんでした」
「…………………………。」
妙子が目を瞑り、何やら思案をするように黙り込む。月彦はただ、大人しく裁可を待った。
「……最低ね」
たっぷり五分ほど黙った後、妙子は溜息交じりに言った。
「この期に及んで下手な言い訳をしないのは、あんたの良いところだとは思うわ。だけど実際やったことは最低。そこはきちんと自覚して欲しいわ」
「はい」
言われずとも自覚していますと、月彦は心の中で頭を垂れる。
「今回みたいなことは二度としないで。もちろん私も気をつけるから。二度としないって約束してそれを守ってくれるなら、私も今日の事は不問にするわ」
月彦は思わず妙子の顔を見上げた。正直、絶縁されても仕方ないと思っていた。それだけのことをやったという自覚があったからだ。月彦にしてみれば、強盗に入った家での殺人、あまつさえ放火までしたというのに判決が執行猶予つきだった程の衝撃だった。
だが。
「…………それは、約束出来ない」
「はぁ?」
それは当然といえば当然すぎる「はぁ?」だった。白石裁判長にしれみれば、極刑となるべき罪人に条件付きで特別に執行猶予を与えたようなものなのに、その条件を拒否されたのだから。
「俺は、妙子が好きだ。おっぱいに触りたいし、触れる機会があれば絶対逃したくない。もちろん、”その先”だっていつかはと思ってる。だから二度とするなと言われても、たとえこの場で二度としないと誓っても、俺はいつか絶対その約束を破ってしまう。だから、約束出来ない」
「………………ちょっと語弊があったわ。絶対しないでって言ってるのは、お互いの合意も無しに、そういう行為に及ぼうとすること、よ。言っておくけど、さっきのは立派な強姦未遂なんだからね?」
「それは……………………いや、やっぱり…………約束できない」
「はぁ!? なんでよ! あんた、さっきのこと反省してるんじゃないの!?」
「してる。自己嫌悪もしてるし、めちゃくちゃ後悔してる。してるけど……」
「けど、何よ」
「………………同じような機会があったら、絶対またやる。俺は、そういう男だ」
「なっ…………」
「俺、妙子のことが好きだ。だから妙子には嫌われたくないし、嫌われるようなことはしたくなって思ってる。思ってるけど、妙子の側に居ると…………時々エロい気持ちを抑えきれなくなる」
「だ、だから……それを、我慢しろって……言ってるんだけど」
「我慢はする。でも、どんなときでも絶対出来るかっていうと、約束はできない。……妙子がそれを許容出来ないっていうなら、絶縁されても仕方ないと思ってる」
「絶縁なんて……そんなコト……出来るわけないじゃない」
はぁ、と妙子が大きく溜息をつく。
「……そうね、忘れてたわ。あんたはダメな男なんだって。普通の男子なら当たり前に守れる約束でも、あんたにはきっと難しいのね。……ううん、それとも男子全般、難しいことなのかしら」
多分俺だけ、の方だろうと月彦は思ったが、口には出さない。
「…………ねえ、月彦。私ね、最近……特に今日、あんたと一緒に居るの意外と楽しいって思い始めてる所なの。そうじゃなかったら、いくら幼なじみでも男子を家に泊めたりなんかしないわ。そんなあんたに襲われかけて、私がどれだけ怖かったか……ショックだったか、分かる?」
「……想像は出来る」
「でも、不思議ね。そんなに怖かったのに、私……あんたと絶縁して、二度と会えなくなる方が嫌だって思ってる。もちろん、幼なじみの中であんたとだけ会わないってコトは現実的に難しいだろうし、千夏や和樹ともギクシャクしそうっていうめんどくささ分を加味して、だけどね」
やれやれとでも言いたげに、妙子は腕組みを時、渋顔で眉間を揉む。
「簡単には許したくないけど、好きな相手とはそういうことをしたいっていう、あんたの気持ちも理解出来る気がするし。なんだかんだで最後の最後には止まってくれたし。私の事、最低限のところで大事にはしてくれてるんだろうなって思えなくもないし。……チョロい女だって思われたくないけど、仕方ないから今回のことは何か適当な罰で許すことにするわ」
「いや……待ってくれ妙子。こんなこと、俺が言うのもなんだけど、今回のことは簡単には許さないで欲しいんだが……」
「全然簡単に許したわけじゃないんだけど?」
さらりと。涼やかな笑顔のまま言われて、月彦はかえって怖気が走った。
「渋々も渋々。正直幼い頃からの付き合いじゃなければとっくに警察に突き出してるのに、って思いながら、それでも千夏や和樹にあんたに襲われかけたって説明したり、葛葉さんがどう思うだろうって気を揉んだりするのに比べたら、不問にする方がちょっとだけマシって思って、仕方なく許しただけなんだけど?」
「は、はい……ごめんなさい」
「だいたい、あんたが私が出した条件守れないって言うから、それならもうあんたにも出来るような簡単な罰で済ませてやろうって言ってるのに、それにも異を唱えるって――」
「わ、わかった! 妙子の言い分が正しい! どんな罰でも文句言わずにやるから、俺を罰してくれ!」
自分にはレイプ未遂という負い目があり、そもそも妙子の裁定に異を唱える権利などない。完全にやぶ蛇だったと、月彦は地に伏して何でも言う通りに致しますと懇願する。
「何言ってんの、罰は自分で考えるのよ」
「へ?」
「自分がやった行為に対して、どれくらいの代償が必要なのか。あんたがちゃんと反省できてるのかを判断する意味でも、罰の内容は自分で考えるの」
「………………。」
確かに、妙子の言うのももっともかもしれないと納得する。自分が犯した罪を、どれくらいの罪だと認識しているか。それを推し量るには、自分で罰を決めさせればいいというのは、理に適っているように思える。
(ふさわしい罰……か)
すぐに出てきたのは”去勢”だが、犯した罪に釣り合うとは思うが、さすがに避けたい罰だった。次に思いつくのが体罰系。10発妙子に殴ってもらう――というのは、あまりに単純過ぎて呆れられそうだ。何より殴る妙子の手も痛いだろう。なら、棒で殴るのはどうかと考えて、それはそれで痕も残るだろうし殴る妙子も嫌だろうと思う。
ならば、体罰系でも痛みではなく疲れる方ならどうだろうか。たとえば空気イス一時間とかであれば罰としてふさわしいかもしれない。だが、レイプの代償行為としてはいかがなものだろうか。
(償うわけだから、単純に俺がキツい目に遭うだけじゃなくて、妙子にも楽しい気持ちを提供しないとダメなんじゃないだろうか)
妙子を讃える歌を作り、熱唱する――ダメだ、馬鹿にされていると誤解される恐れがあるし、そもそも妙子は喜ばないだろう。ならば、犬の写真集でも買ってくるのはどうだろうか。しかし好きなジャンルであればこそこだわりも強いだろう。うっかり妙子が嫌いな犬種ばかりの写真集など買ってきた日にはお互い微妙な気持ちになるのではないだろうか。
(……妙子が満足するまで犬のフリをする…………いや、ダメだ。妙子にとって好ましくない記憶を呼び戻す恐れがある)
これも却下だと、月彦は唸る。様々なアイディアが浮かんではボツを食らって消えていく。
「まだなの?」
さすがに焦れた妙子に促されるが、妙案が浮かばない。とはいえ、一応は考えていたという痕跡を示す意味でも、月彦はとりあえずボツ案の一つを口にすることにした。
「いや、考えてはいるんだけど…………いいのが無くって。……朝飯を作ってご馳走するとか、さすがにダメだよな」
「………………あんたにとって、強姦未遂ってその程度のことで償えるような罪ってコト?」
さすがに気分を害したらしい。睨み付けるように言われて、月彦は己の軽口を恥じた。
「ぼ、ボツ案って言っただろ!? 他にもいろいろ考えたんだよ! 髪型を妙子に指示された通りの髪型に変えるとか、二人だけの時はずっと椅子の代わりになるとか! だけどどうしても決められないから、いっそこうしないか? 俺が思いついた罰をリストにするから、その中から妙子が一番ふさわしいと思うものを選んで実行する。これでどうだ?」
「…………仕方ないからそれでいいわ。じゃあ、リストを作って」
「わかった。紙と何か書くものを貸してくれ」
月彦は妙子にルーズリーフ一枚とシャープペンと机を借り、思いついた罰を書き込んでいく。メモ用紙でなくルーズリーフを渡されたということは、思いついた罰の数を試されているのだと判断し、1ページ分まるまる埋まるほどに書き込んだ。その中には”去勢”もあった。
書き上げた罰リストを妙子に献上する。一通り目を通した妙子は、意外な言葉を漏らした。
「……これ、さっきのが入ってないじゃない」
「さっきの?」
「朝食作るってやつ」
「いや、アレは……」
お前の罪の意識はその程度かと、露骨に気分を害された罰をそもそもリストに入れられるわけがない。
「どれもセンスないわね。何よ”去勢”って。出来もしない罰を入れて、これで反省のつもり?」
「……いや、妙子がもしそれを選ぶなら、泣く泣く実行しようかとは思ってる」
「選ばないわよ、そんなの。いくらなんでも後味悪すぎじゃない。………………罰はさっきのでいいわ」
「さっきのって、朝食作る、か?」
「そうよ。軽すぎるけど、他のは全部微妙だし、いい加減眠いしそれでいいわ」
罰リストを突き返しながら、妙子が大あくびをする。改めて自分が書いた罰リストを見ながら、月彦は釈然としないものを感じていた。
(……さては妙子、”意外とアリかも”とか思ってやがったな)
幼なじみだからこそ、相手の考えていることはよく分かる。軽口を叩きながらも、内心ちょっと気に入っていたのだろうと察する月彦だった。
妙子との”示談”が成立し、改めて布団に入る。欲求不満のままではあったが、さすがにここからエロいことへの派生は期待出来ないと”獣”も分かっていたのだろう。眠りはすぐに訪れた。
が、眠れたのは月彦だけで妙子の方はろくに眠れなかったということを、朝になって知った。
「大丈夫か、妙子」
顔がひどいことになっている――さすがに口には出来ないが、洗面台の前で並んで歯を磨いているのだから妙子自身、鏡でいくらでも自覚していることだろう。
「眠い……眠くて堪らないのよ。なのに……眠れなくて…………」
「無理せず寝てていいんだぞ。朝飯は俺が作るって約束だろ?」
「そうだけど……横になってても多分眠れないから」
他ならぬ妙子自身がそう言うならと、月彦も無理に寝ろとは言えない。何より、あまり寝るように強要すると、寝ている隙に悪戯する気なのではと変な勘ぐりを受ける可能性もある。
「えっと……とりあえず、朝食だけど、何か食いたいものあるか?」
「うーん、あんたに任せるわ」
「完全なお任せってのも困るんだよな。せめて和とか洋とかジャンルは絞ってくれ」
「じゃあ和」
「和だな。絶対入れて欲しい献立とかあるか?」
「特にないけど――」
「梅干しは無し、だよな?」
「覚えてたのね。他は何でもいいわ」
「分かった。んじゃちょっくら買い物済ませてくるから、鍵借りるぞ?」
「ごはんと味噌ならあるわよ?」
「…………さすがに朝飯作ろうってのに、ごはんと具無しの味噌汁じゃあんまりだろ。留守中、眠れそうなら寝てていいぞ。朝飯の用意は妙子が起きる時間に合わせるから」
「そう……今は頭働かないから、あんたの言う通りにしとくわ。本当に寝ちゃってたらごめんね」
「いいって。それじゃ行ってくる」
妙子から鍵を借り、部屋を出る。良い天気――とはお世辞にも言えない、どんよりとした曇り空。腕時計に視線を落とす。時刻は八時過ぎ。近くの二十四時間営業のスーパーまで献立を考えながら歩く。
(……これはこれで、なんかちょっと楽しいな)
ちょっと同棲みたいではないかと。昨夜自分がやったことも忘れて――もちろん本当に忘れたわけではないのだが――月彦はついニヤけそうになってしまう。
(……しまった。買い物に出る前に米は炊いておくべきだったな)
買い物をして、帰ってから米を炊くというのでは非効率極まりない。では今から引き返して米だけ炊いて出直すかと思うも、すでに目的のスーパーが視認出来るところまで来てしまっていて億劫だ。
(……まあいいか。先に買い物を済ませよう)
別に制限時間があるわけではないのだ。月彦はのんびりと”同棲気分”を楽しむことにした。
「……どうだ、味の方は」
「……………………意外に美味しいわ」
妙子の感想に月彦はホッと安堵の息を吐く。ちなみに朝食のこんだては炊きたてご飯(早炊き)、ほうれん草入りの卵焼き、わかめと豆腐と油揚げ、そしてタマネギ入りの味噌汁と焼き鮭だった。
「正直、かなり意外よ。てっきり葛葉さんに作ってもらってばっかりで自分では料理してないと思ってたのに」
「まあ、これくらいは、な」
正直人に誇れるレベルではないと月彦は自覚している。が、自分でも不思議な程に手際よく調理出来た。妙子の言う通り、家では基本葛葉に任せきりだし、真央と一緒に何度か自炊もしたことはあるが、その回数は決して多くは無い筈なのに。
(……なんだろう。料理しててちょっと懐かしかったんだよな)
”誰か”の為に料理を作るということが懐かしいと感じる自分に、月彦は驚いていた。しかもその誰かというのが目上の女性であったように思えてならないのだ。
(……ひょっとしたら、前世は女貴族に仕える執事かなにかだったのかもしれないな)
もちろん月彦がそんなことを考えながら作ったとはつゆ知らず、妙子は箸を動かしては無邪気に美味い、、美味いと連呼していた。
「お味噌汁は塩加減も丁度良いし、タマネギはちゃんと火が通っててしゃりしゃりしないし。焼き鮭はちょっとしょっぱいけどごはんが進む味だし。何より一番凄いと思うのは、卵焼きが外はちゃんと焼けてるのに中は半熟なことよ」
なのにほうれん草にはちゃんと火が通っていると、妙子はおかずの一品一品について事細かに批評してくる。
「……あんた、ひょっとして意外と家事得意だったりする?」
「得意じゃない――けど、人並みには出来ると思うぞ」
「ふぅん……」
何か考えているのか、妙子が食事の手を止めて黙り込む。とりあえず自分も食べようと、箸を手に取る。ちなみに妙子の家には、食器類はきっかり二人分だけ用意されていた。もちろん、千夏が泊まる時用に用意されたものだが、妙子が言うには千夏が泊まった時はただの一度も二人で料理などしたことはないらしい。
「多分……ていうか間違いなく、私……家事出来ないのよね。特に料理なんて無理。一人暮らしを始めたばかりの頃、自炊しようと思って炊飯器も買ったけど、全然続かなかったもの」
「そうか? たんに料理の経験が足りなくて何を作ればいいか分からなかっただけとかじゃないのか?」
「料理本とか見ながらやりはしたのよ。だけどレシピに書いてある通りの分量の材料を用意するのが面倒だったり、調理器具の大きさや常備してる調味料が違ったり、焼き加減が難しかったりで何度も失敗して、自分には向いてないって確信したわ」
妙子がお椀を手に取り、味噌汁をすする。
「……だけど、あんたがこういうの得意なら、意外とそういうのもアリなのかなって」
「…………? どういうことだ?」
「例えばほら、私が仕事をして、家事全般あんたに任せるとか――」
ハッとしたように、妙子は突然顔を強ばらせて言葉を切る。
「月彦、おかわり!」
「えっ、おかわりってまだごはん半分くらい残って――」
「いいから、山盛りよそって! お腹が減って堪らないの!」
「わ、わかった……」
月彦は妙子のおわんを受け取り、ごはんを山盛りにして返す。ついでに、月彦は自分のおわんへもご飯をよそった為、三合炊きの炊飯器はたちまち空になってしまった。
「妙子、悪いがおかわりはそれで打ち止めだ。もう炊飯器の中が空だ」
「空って、三合炊いたんでしょ?」
「ああ、三合きっちり炊いた。けどほら、空だ」
「……まぁ、あんた男で育ち盛りだし。二人で三合じゃちょっと足りなかったかもね」
月彦は反論しなかった。しなかったが、事実として知っていた。茶碗によそった米の量の合計は、お変わり分を含めれば妙子の方が多かった事を。
しばし、粛々と食事が進んだ。月彦もほぐした焼き鮭を箸先でつまみ、口の中で味わいながら我ながら改心の出来だと思っていた。或いは、妙子に美味いものを馳走してやりたいという思いがひょっとしたら実力以上のものを発揮させてくれたのかもしれない。
これは妙子がついついご飯を食べ過ぎてしまうのも頷けると思いながら食事を進めていると「そういえば――」と妙子が口を開いた。
「…………私たち、キス……したんだっけ」
どこか照れるような、独り言じみた言い方だった。
「……まぁ、そうなる、かな」
月彦としては、昨夜のことはあまり蒸し返したくはなかった。が、他ならぬ妙子に持ち出されては、しらばっくれるわけにもいかない。
「今更だけど、アレさ……無かったことにしない?」
「無かったことに?」
「うん。お互い忘れて、無かったことにするの」
「それは……」
何か意味があるのだろうか。そんな思いが顔に出ていたのだろう。妙子がたちまち不機嫌を隠さなくなる。
「…………一応”初めて”だったんですけど」
「……ごめんなさい」
謝りながらも、心の奥底でちょっぴり月彦は不満だった。というのも、幼なじみという関係上”初めてのキス”などという概念はあってないようなものではないかと思っているからだ。
(……いや、妙子の言いたいことはわかる。”物心つく前のキスはノーカン”ってことなんだろう?)
だが、月彦が覚えている限りでも妙子、そして千夏とままごとじみた遊びの中でキスをしたことが2,3度はある。それと同じとは言わないが、あえて意図的に記憶から消してまで”初めてのキスは未だ”と言い張りたいものだろうか。
「……わかった。妙子がそうしたいなら、俺もそれでいい」
「うん。いくらなんでもあんな……わけもわからないうちにされたのが”初めて”っていうのは嫌なの。だからアレは無し! 無かったことだから、以後絶対思い出させないでね」
まるで喉の小骨がとれたとばかりに、妙子は笑顔を零し、食事を再開した。一方月彦は釈然としない思いを抱えつつも、表面上は妙子に同意しつつ心の奥底では密かに「だけど俺と妙子はキスまでいった」と心に刻むのだった。
「…………あんたさ、変な才能あるわよね」
食事が終わり、二人並んで洗い物をしながら、妙子が悔しさの滲んだ声色で呟く。昨日からよく妙子に話しかけられるなと、苦笑交じりに月彦は皿を洗う。
「料理については才能でもなんでもないぞ。そつなく出来るってだけで、別に人並み外れて上手なわけでもないし」
「そうかしら。私から見たら十分才能なんだけど」
それにと。妙子は月彦が洗い終わった後の皿をふきんで丁寧に拭いてから食器棚へとしまう。
「……胸の触り方とかも、絶対普通じゃないと思うんだけど」
「そうか?」
「普段自分で触ったりしても別になんともないのに、あんたに触られた時だけ刺激物塗られたみたいに熱く感じたり、妙に焦れったく感じたり、それが後を引いたりとか、普通に考えてありえないじゃない」
「そうかな」
そしらぬ顔で洗い物をしながら、素っ気ない返事をする――とみせかけて、その実。月彦の脳内は「普段自分で触る時って、どういう時にだ???」という言葉に並々ならぬ妄想を膨らませていた。
「あんたに胸を触られてると、ゾワゾワが止まらなくて、言われるままなんでもOKしちゃいそうになって正直怖いのよね。ひょっとして催眠術とかの才能もあるんじゃない?」
「なんでもって、昨日ははっきり”嫌ッ! て突っぱねてただろ?」
「そうだけど……アレ、私じゃなかったら流されてたんじゃないかしら」
まるで自分が人一倍自制心が強い自負があるかのような妙子の言い方に、月彦は半分だけ同意する。最後の最後でつっぱねることが出来た妙子には確かに強い自制心があるのだろうが、そもそも妙子ほどにおっぱいで感じる事が出来るというのも希有な例であり、他人だったならという仮定は無意味だからだ。
「もし世の中に”おっぱい揉み屋”なんて職業があったら、あんた天下とれるんじゃない?…………まぁ、マッサージとか風俗とか、そっち方面ならもしかしたらあんたの無駄スキル活かせるのかもだけど」
「いやいや、妙子。それは違うぞ」
「何が違うのよ」
「俺にはそんな特別なスキルなんて無い。いや、仮にあったとしても、それが活かせるのはお前みたいな一流のおっぱいの持ち主だけだ。仮にそこらへんの一般女性の胸を揉んでも、せいぜいくすぐったいと思われるのが関の山だろう」
「……何よ、一流のおっぱいって。こんなただの脂肪の塊に、一流もなにもあるわけないでしょ」
そんなことは無い――のだが、こればかりはどれだけ説明しても分かってはもらえないだろうと月彦は思っていた。
(……妙子の前で、”普通の女性”の胸を揉んでみせれば証明できるか? ……いや、態と手を抜いたと指摘されるかもしれないし、そもそも自説の検証の為とはいえそんなことを許す筈が無い)
「あっ、そういえば――あんたまだ葛葉さんに連絡してないわよね?」
「そういや、そうだな。まぁ、母さんなら多分、なんとなく分かってるだろう」
「あんたねぇ……そういうことはちゃんとしなさいよ」
「大丈夫、洗い物終わったらすぐ帰るし、そのとき謝る」
ぴたりと、妙子が皿を拭く手を止めた。
「妙子?」
「ああ、うん……そうね。葛葉さんも心配してると思うし、早く帰って謝ったほうがいいわ」
実際、葛葉は恐らくそんなに心配はしていないだろうと思っていた。
(むしろ、真央が……)
勝手な朝帰りを許してくれるかどうかだ。帰りの足取りはなんとも重そうだと、溜息が出そうになる月彦だった。
「忘れ物はない?」
「ああ、大丈夫だ」
「無断外泊の件だけど、もし葛葉さんが怒ってたら私のせいにしていいからね? なんなら今からでも私が一報入れてあげてもいいわよ」
「いや、それはマジで止めてくれ。そんな大した話にはならないから大丈夫だ」
むしろ、妙子が電話をかけてそこで真央が出たりしたときの方が恐ろしい。止めてほしいという月彦の願いは真に迫っていた。
「そう。あんたがそう言うなら……じゃあ、またね。今日は……っていっても昨日からだけど、楽しかったわ」
「おう。俺も楽しかった。……またな」
強姦未遂の件には触れない方がよかろうと、あえて挨拶の内容からは省く。手を振って玄関から出ようとした矢先。
「あっ、月彦」
と、呼び止められた。
「っとと。なんだ、妙子」
「その……ええと」
呼び止めておいて用件を忘れたのか、妙子が口ごもる。
「あんたが作った朝ご飯、美味しかったわ。あんたさえ良ければ、罰とか関係なしに……また作ってくれない?」
「そうか、そんなに気に入ってくれたなら、朝飯くらいいくらでも作るぞ。なんなら昼飯でも、晩飯でもいいしな」
「ありがとう、楽しみにしてるわ」
「おう、それじゃあまたな!」
手を振って、玄関から出る。大きく伸びをして、さあ帰るかと一歩踏み出したところで、背後でドアの開閉音が聞こえた。
「妙子?」
「……そういえば、もう冷蔵庫の中が空だったなぁ、って。だから途中まで一緒に行くわ」
言われてみれば、朝食の用意を始める前に見た冷蔵庫は僅かな調味料と飲み物くらいしか入っていなかった。そこから朝食に必要な材料だけを買い、使い切ったのだから買い物が必要なのは道理だ。
「そうか、もうちょい他にも何かいろいろ買ってくりゃよかったな」
「仕方ないわ。私も気付かなかったし、あんただって普段私が何を食べてるかなんて知らないでしょ?」
それもそうだと思う。
「じゃあ、途中まで一緒にいくか」
「うん」
妙子を伴って、アパートを出る。妙子の行き先は朝月彦が食材を買いに行ったスーパーであろうから、月彦は帰り道をやや遠回りして、妙子と少しでも長く一緒に歩ける道を選ぶことにした。
「そういや妙子、自転車は捨てたのか? 前は持ってただろ?」
「あれは千夏にあげたわ。今は通学もバスだし、自転車は使わないって思ったのよね」
「でも買い物とか歩きだと不便じゃないか?」
「そうなのよね。だからつい近場のコンビニで済ませちゃうことが多くって」
「それは良くないな。第一、コンビニは高いだろ」
「そうね。あとは……」
「あとは?」
「…………ちょっと、運動不足なのよね。昔はほら、みんなの散歩してるだけでいい運動になってたんだけど」
「そういうことなら、多少無理してでも歩いてスーパーに通うべきだな」
「……一人暮らしだと自炊って本当に面倒くさいのよ? 炊事をサボっても注意する人も居ないから、どんどん楽な方に流されちゃうわ」
「何言ってんだ。妙子は真面目だから、ちゃんと気をつけようと思えば大丈夫だろ?」
「…………そう思ってた時期が、私にもあったわ」
はあ、と妙子が肩を落とす。
「私、本当に真面目なのかしら。真面目だって言われたから、真面目であろうとしてただけなのかもって、最近思うわ」
「それは……いいんだけど、妙子?」
「なに?」
「いや、ほら俺もつい言いそびれたけど、お前はあっちじゃないのか? 俺の家までついてくるのか?」
「あっ」
と、妙子が足を止める。目指すスーパーに行くためには、一つ手前の交差点で曲がる必要があったのだ。
「つい話に夢中になっちゃったわ。じゃあ、ここでお別れね」
「おう。気をつけてな」
手を振って妙子と別れる。さあ真央になんて言い訳しようと考えながら歩いていると、背後から走るような足音が急接近してきた。
「待って、月彦」
「た、妙子!? なんだ、忘れものか?」
「忘れ物……っていえば、そうだけど。あんたさ、携帯って持たないの?」
「携帯?」
何故今。走って追いかけてきてまで訊くことがそれなのかと。
「……持つ予定はない、な。うん」
「どうして? 何が嫌なの?」
「何が嫌って…………なんとなく、携帯を持つのが億劫だからだ」
「そりゃあ、持ってると面倒なことも多いけど、便利なことの方が多いと思うわよ?」
「……悪いけど、持たない。持つと、ロクなことにならない気がするんだ」
「そう……あんたの気持ちもわかるけど……それって、どうにもならないことなの?」
「どういう意味だ?」
「だから」
ぐっと。妙子は一瞬逡巡するように言葉を溜め、意を決した様に開いた。
「たとえば、普段あんたと連絡つかないのが嫌だから携帯持って欲しいって頼んでも、気持ちは変わらない?」
ぐっ、と。月彦は唸り、即答出来なかった。
「な、なんで急にそんな話するんだよ! 俺が携帯持ってなくたって、今まで別に困らなかっただろ?」
「あんた自身困ってなくても、周りの私たちは困りまくってるのよ! 全員に連絡する時だって、全員携帯持ってたらメールかチャットで伝えればすぐなのに、あんた一人にだけ電話か、直接伝えないといけないんだから」
「それは……申し訳ないとは思ってる」
「でも、それはこの際良いの。それとは別に、もうちょっと……あんたといろんな話がしたいって、思ったから提案してるの」
「そういうことなら、また次会った時にでも――」
「だから、そうじゃなくて!」
ああもうと、妙子は鼻息荒くがりがりと髪を掻きむしる。
「煩わしいのがそんなに嫌なら、あんたが携帯持ってるってことは誰にも言わない。もちろん和樹や、千夏にもね。四人で遊びに行ったりすることに関しての連絡は今まで通り。違いは、私とあんたの間でだけ、秘密の連絡手段が出来るってこと。これでもダメ?」
ううむと、月彦は唸る。妙子の提案はそれはそれでなかなか楽しそうではあるのだが、和樹達にすら携帯を持っていることを伏せるというのはさすがに申し訳なさが勝つ気がするのだ。
(…………妙子とこっそりやりとりするのは、正直かなり心惹かれる。惹かれる、が……)
”それ”を真央が許してくれるだろうか。家で過ごす時間の八割は一緒に居る真央の目を盗んで妙子と携帯でやりとりをするというのはどう考えても不可能だと、月彦には思えるのだった。
「……悪い、妙子。かなりそそられる提案だとは思うんだが……すぐには決められない」
「あんたも変なところで頑固ね。…………これ以上言うと喧嘩になっちゃいそうだから止めるけど、私のこと好きだって言うのなら、そこら辺もうちょっと考えてよね。言っておくけど、私はこの先誰と付き合うことになったとしても、まともに連絡も取れない彼氏なんて絶対嫌だからね」
「……わかった、覚えておく」
「それと、もう一つ。例の服の弁償の件もあんまり先延ばしにはしないでね。急かすつもりは無いけど、遅くなればなるほどあんたの私への想いってのはその程度なんだって思うことにするから」
「わ、わかった……」
「それから――……」
と口を開きかけて、妙子はハッとしたように口を噤み、首を振った。
「妙子?」
「……何でもない。とにかく、そういうわけだから!」
「あ、ああ……?」
半ば強引に妙子が踵を返し、足早に去って行く。その姿が曲がり角を曲がるまで見送ってから、月彦もまた帰路についた。
(…………”まともに連絡もつかないような彼氏は絶対嫌”か……)
去り際の妙子の一言が、ずしりと重くのしかかる。今以上の関係に進むのであれば、相応の覚悟を決める必要があるということだ。
(……これはもう、携帯を持つとか持たないとか、そういう次元の話じゃない、よな)
以前に比べれば、妙子との親密度は上がっている筈だ。であるのに気分は晴れず、まるで足首に鉄球つきの鎖でもつけられたかのように、踏み出す足は重い。
想い人と共に一夜を明かした男とは思えない程陰鬱とした足取りで、月彦は家路を辿るのだった。
一日ぶりに自宅に帰ってきた月彦は、玄関のドアノブを握ろうと伸ばした手を、勢いよく開かれたドアによって弾かれた。
「いッ――てぇ!」
「母さま!?……じゃない、父さま!?」
ドアを開けたのは真央だった。右手を強打した月彦は涙目になりながらも、掠れ声で「ただいま」と口にする。
「ご、ごめんなさい父さま……大丈夫?」
「だ、大丈夫だ……カウンター気味にドアに弾かれただけだし、別に折れたりとかはしてない、と思う」
それよりと、月彦はキッと顔を引き締める。
「俺と真狐を間違えるとはどういうことだ?」
「ぁっ……」
と、真央は途端に顔を曇らせ、周囲を見る。まるでそこに、母親の姿を期待するように。
「…………まぁいい、話は中で聞こう」
玄関前で長話はろくなコトに繋がらないと、月彦は真央の背を押すようにして屋内に入る。台所に居た葛葉に一言無断外泊を詫び――月彦が予想した通り、葛葉はさして心配をしていなかった――真央を伴って自室へと入る。
「……それで、なんで俺と真狐を間違えたんだ?」
「ごめんなさい。母さまのニオイがしたから……てっきり、母さまが帰ってきたのかな、って思ったの」
「真狐の……匂い?」
くんくんと、月彦は自分の体を嗅いでみる。そんな特殊な匂いがするとは思えなかった。
「ま――」
まさかと。その時月彦は、自らの発想に愕然とし、目眩すら覚えた。
そう、確かにおかしかった。妙子にしては優しすぎると思ったのだ。
(全部……真狐の奴に……化かされてた、ってのか……)
恐らく、駅で一瞬別れた時に入れ替わったのだろう。あの女は妙子に化け、いかにもそれっぽく振る舞いながらも、本物ではあり得ない優しさをチラ見せすることで紺崎月彦の反応を窺っては内心嗤っていたに違いない。
(…………そうじゃないかとは、思ってたんだ)
妙子にしては優しかった。胸を触り、強姦一歩手前までいってもほとんど笑って許してくれた。そんなこと、”本物”ではありえないではないか。
「あ、あのね……父さま?」
よよよと今にも泣き崩れそうになりながらも月彦は辛うじて踏みとどまり、愛娘の顔を見る。娘はこんなにも、それこそ天使のように可愛らしいのに、何故母親は悪魔なのかと。そんなことを思っていた月彦は、予想だにしないしなかった娘の言葉を聞いた。
「怒らないでね? 父さまからね、母さまがよく食べてたお魚のニオイがしたの。だから、母さまが帰ってきたのかなぁ、って」
「あいつが玄関から入ってくるわけないだろ……まて、あいつがよく食べてた魚の……匂い?」
「うん。ギンダチっていうんだけど……」
「ギンダチだと!? 真央、知ってるのか!?」
愚問だった。知っているからこそ名前を口にしたに違いないのに。第一、真央は真狐の娘だ。ギンダチを放ったのが真狐だとすれば、その存在を知っていても何ら不思議はないではないか。
「う、うん……父さま、もしかしてギンダチを捕まえたの?」
「……あぁ。経緯が複雑すぎるから割愛するが、ギンダチは捕まえた」
真央が目をぱちくりさせる。
「父さまスゴい! 母さまがね、言ってたの! ギンダチは絶対に釣れないし、男には捕まえられない。母さまにしか捕まえられないんだって!」
「待て待て待て、真央。今なんて言った? ギンダチは釣れないし、男には捕まえられないって?」
こくこくと、何度も頷く真央。嘘を言っているようには見えない。
ギンダチは釣れない。
男には捕まえられない。
真狐には捕まえられる。
「……どういうことだ」
しかし現に自分は捕まえた。真狐の言が正しいなら、紺崎月彦は男ではないということになる。
「いや、違う。……真央、真狐がどうやってギンダチを捕まえてたか知ってるか?」
「う、うん……ええとね、ギンダチが居る川の水面の近くに、こうやって――」
真央の仕草を見た時、月彦の中で全ての疑問が氷塊した。
真央が、真狐から聞かされた話によると、ギンダチは釣れない。竿にかかることはない。が、ある条件さえ整えてやれば、捕まえるのはそう難しくない魚ということだった。
その捕まえ方というのは。
「おっぱいをね、こうやって水面に近づけるの。そうするとギンダチは自分から飛び込んでくるから、そこを……」
キュッ、と。真央は自らの両胸を掴んで寄せるような仕草をする。
「こうやって”締め”れば、臭い汁も吐かれないんだって」
「………………マジかよ」
そんな生態の魚が居ることに対して目眩を覚えると共に、運悪くその魚をゲットする条件を満たしてしまう妙子にも同情してしまう。
「……ギンダチはなんで、胸の谷間に飛び込んでくるんだ?」
「わかんない。でもね、母さまくらい大きくないと飛び込んでこないんだって。ギンダチを捕まえられるのは、一流のおっぱいの持ち主だけなんだって、母さま言ってたよ」
「ぐぬ……」
それについては、月彦は納得せざるをえない。悔しいが、ギンダチとやらの選乳眼は正しい。妙子のおっぱいを見逃さなかったのがその証拠だ。
(……魚のくせに、おっぱい好きとはけしからん!)
一体全体、陸上にあるおっぱいをどうやって識別しているのだろうか。エコーロケーションでも使って、ある一定の周波数が返ってきたときだけ反応するとか、そういうことだろうか。興味はあるが、だからといってギンダチの研究を始めるほどでもない。
「だが待て、確かギンダチってくそ不味いんだろ? なのに真狐がよく食べてたのか?」
「うん。母さまもね、味はよくないって言ってたよ」
「なのに、食べてたのか」
なんでまた――そう思いかけて、月彦は思い当たる節があった。そう、あの女は、他人が嫌がることをする為には、どんな労力も惜しまない嫌な奴であるのだ。
「ギンダチを捕まえて串焼きにして、それを大通りとかヒト目のある場所を歩きながら食べるのが、最高に美味しい食べ方なんだって。胸の小さい女のヒトに睨まれながら、むしゃむしゃ食べるのが楽しくて、身が美味しくないこととか、骨が多いこととかどうでも良くなるんだって母さま言ってたよ」
「あ、んの女は……」
人の心が無いのかと言いかけて、そもそも狐であったと思い直す。
「よく、刺されなかったな」
大通りを練り歩きながら、串焼きにしたギンダチをむしゃむしゃと食べ、無い乳娘を見かける度ににじり寄ってはガン見しながらむしゃむしゃ。良かったら一口いかが?と勧めて要らないですと断られようものなら、こんなに美味しいのにどうして要らないなんて言うの? 不味いに決まってる? どうして? あんた食べたこと無いでしょ?――そう言って散々に絡んでいるあの女の姿が目に浮かぶようだった。
「母さま、逃げるの上手だから大丈夫だったみたい。それにね、母さまにも理由があったんだって」
「理由?」
「うん。好きだったお祭りを禁止されて、その腹いせにやってたんだって」
「……祭りを禁止されたって…………いったいどんな祭りだ?」
絶対にろくでもない祭りだろうと、月彦は決めつけていた。そして真央から話を聞いた月彦は、己がくだらない先入観から物事を決めつけてしまったことを強く恥じた。
「あのね……ギンパイ祭りって言って、誰が一番たくさんギンダチをおっぱいで捕まえられるかを競うお祭りで――」
何故なら真央から聞いた祭りの全容は、月彦の想定よりも数段低レベルなものだったからだ。
「母さまいつも一番で賞品貰ってたのに、”妖狐の偉いヒト”にそのお祭りを禁止されたとかで、ずっと根に持ってたの。そのヒトが、食べもしない魚を捕まえて悪戯に命を奪う祭りは禁止するって言ってたから、じゃあ捕まえたギンダチは全部食べてやるって……母さま意地になっちゃったみたい」
「…………”妖狐の偉いヒト”なぁ……」
きっと無駄に乱獲される魚の命に心を痛めるような、さぞかし徳の高い妖狐なのだろう。それ以外の解答などありえないと、月彦は感慨深く何度も頷く。
「なるほど、経緯はわかった。実はな、俺が昨日行った湖ってのが、ギンダチの被害に苦しめられてる所でな……」
父さまは人助けをしてきたんだと。月彦はちょっぴり脚色をして自慢話として真央に話した。
「……で、うっかり臭い汁を浴びちまって、このまま家には帰れないから、仕方なく友達の家に泊まって、一晩かけてニオイを落として帰ってきたってわけだ」
即興にしては、我ながらなんと辻褄のあった言い訳だろうかと、月彦は己の作り話に感心すらした。
「…………父さま、生きてるギンダチは素手じゃ絶対捕まえられないよ?」
真央からの、鋭いツッコミが返ってくるまでは。
「い、いや……それは真狐がそう言ってるだけだろ?」
「ううん、絶対無理なの」
「で、でも……実際捕まえたわけだし……」
「嘘だよね? 父さま。本当のことを教えて?」
月彦は気付いた。真央の目が、違う。先ほどまでの「母さまに聞いたの!」と話していた時の無邪気さのカケラもない、漆黒の闇がそこにあった。
誰のおっぱいで捕まえたの?――闇色の瞳は間違いなくそう問うていた。
「………………幼なじみの、妙子だ。言っとくけど、全ては偶然だ。妙子が水面を覗き込んだら、たまたまギンダチが近くに居たらしくてな」
「ふぅーん…………」
「それで、その……ギンダチの汁を浴びちまってだな。で、洗ったりなんだりしてるうちに遅くなって……でも、何もしてないぞ! 本当だ!」
もし真央に嘘発見器と変わらない精度の真偽を見破る直感があるのならば、父親の言っていることはまさしく真実であるとわかったことだろう。
何せ、本当に何もしていないのだから。
「…………………………。」
だが、真央の表情は晴れない。まだ疑っているのか、それとも別の懸念があるのか。月彦には判断がつかない。
「ねえ、父さま。その湖……まだ、ギンダチいるのかな?」
「さぁ……どうだろうな。元々は居ない魚で、大雨の時に紛れ込んだって聞いたけど…………」
「私にも、捕まえられるかな?」
真央が、むぎうと胸元を寄せる。
「捕まえられる。俺が保証する」
ぱっと、真央の瞳に光が戻る。だがと、月彦は言葉を付け足した。
「実際に捕まえるのはダメだ。俺も嗅いだから知ってるけど、ギンダチの汁はマジで臭いんだ。真央も捕まえる事はできるだろうが、真狐みたいに巧く処理が出来ないかも知れない。あの汁を浴びたら、一度や二度洗っただけじゃ絶対とれないぞ?」
そんなことになったら、しばらくは夜のニャンニャンも当分おあずけだと付け加える。どうやら真央には、”それ”が一番効いたらしかった。
「……わかった。あきらめる」
「それがいい。そんな魚で試さなくても、真央のおっぱいは一級品だ。俺が保証する」
気落ちしているのか、些か元気がない真央の髪を撫でてやる。が、いつもなら心地よさそうに鼻を鳴らして体を擦り付けてくる真央が、何の反応も返してこない。
「真央?」
そんなにギンダチで試したいのかと。月彦が口を開く前に、それを察したらしい真央が首を横に振った。
「……違うの。母さまに会いたいなぁって、思っちゃった」
むうと、月彦は唸らざるをえない。あの性悪狐がまみに見張られて顔を出さない現状は月彦にとっては天国だが、真央にとっては地獄とまではいかないまでも、それはそれで辛いのだろう。
(……真狐のバカ野郎め。まみさんの通せんぼくらい、自力で突破できないのか)
可愛い真央を悲しませるなんてけしからん奴だと。謎の憤慨をする月彦だった。
以下おまけ
「…………………………。」
勉強机に向かったまま、かれこれ何時間経っただろうか。月曜の授業の予習をしておこうと思って机に向かったのは良いもののどうにも集中出来なくて、それなら代わりにラジオの葉書ネタでもと切り替えるも、結局一枚も書けなかった。
ただ机に向かい、無意味にペン回しの回数だけが増えていくことに耐えられなくなって席を立つ。何か暖かい飲み物でも淹れて気分転換しようと思うも、湯を沸かしている途中でなんだか飲む気が失せてしまって、結局コンロの火を止めてしまった。
携帯を見る。グループチャットの着信がいくつかと、千夏からの着信が二件。返事をするのが億劫に思えて、着信があるということだけ確認して妙子はそっと携帯を伏せた。
気を抜くと、つい溜息をついてしまいそうになる。さすがに”これ”は、認めざるを得ないかもしれないと思う。
今朝、スーパーでの買い物を終えて部屋に戻って来た時に感じた、かつてない寒々とした空気。一人暮らしを始めた初日ですら、あそこまで孤独を実感したことは無かった。そう、一人で居ることを”寂しい”と感じること自体、今までは無かった筈なのに。
(……私、どうしちゃったのかしら)
妙子自身、自分の心境の変化に戸惑っていた。長い間、鬱陶しいとしか思っていなかった筈の男の顔が、こんなにも恋しいと感じるなんて。そしてその顔が見られないことが、こんなにも苦しいと感じるなんて。
(アイツと居て、そんなに楽しかった?)
自答するも、答えは出ない。確かに、夜更かしをしてのバカ話は楽しかったし、月彦が作った朝食も美味しかった。だからといって、こんなにも恋しいと感じるものだろうか。ひょっとして朝食に何か薬でも混ぜられていたのではとすら、妙子は疑った。
しかし結局の所、妙子の中で既に答えは出ているのだった。ただ”それ”を認めたくないという思いだけで何とか他の可能性を探っていたに過ぎない。そして答えが出ている以上、他の可能性などというものが見つかるはずも無く、妙子は渋々ながらも”事実”を受け入れざるを得ないのだった。
洗面台の前に立つと、否が応にも月彦との身長差を思い出した。幼い頃はむしろ自分の方が大きかったということを、妙子は覚えている。いつの間にかその差は逆転し、見上げなければならないほどになっていたことにすら、自分は気付いていなかった。
”男”――異性であるとすら、意識していなかったのかもしれない。否、頭では分かっていたが、本当の意味では分かっていなかった。自分と月彦は生物学的に対となる存在であるということが、それが何をするかまで分かってはいなかったのだ。
鏡の中の妙子が、指先で唇を触る。あれはノーカンであると口にしたのは自分だが、その実月彦の唇の感触は決して忘れられない強烈な衝撃となって妙子の中に残り続けていた。否、”唇だけ”ではない。組み敷かれた時の力強さ、頬に当たる荒々しい息使いまでもが、目を瞑るだけで蘇る様だった。
……僅かに、体が震える。”あの時の恐怖”まで、体が思い出したからだ。幼なじみと一線を越えかけた恐怖――しかし不思議とそれが、月彦に対する嫌悪にまで繋がらない。何故なら妙子が感じた恐怖の根源は、”初体験”についての知識不足から来るごくごく単純な未知への恐怖であったからだ。
むしろ月彦に対しては申し訳ないことをしてしまったという思いしか出てこないのが、妙子自身不思議でならなかった。結果的にそれが、あまあまな情状酌量措置へと繋がったのだが、本音から言えば妙子の方が土下座して謝罪をしたい気分だった。
そう、今の妙子はもう、以前の様には振る舞えない。強がることは出来ても、以前のような――それこそ月彦の好意を盾にした人非人でも扱うような傍若無人な態度はとれない。そんな事をして、もし月彦に愛想を尽かされでもしたらという恐怖が、妙子の心の奥でブレーキを掛けるからだ。
ちらりと、つい期待を込めて玄関のドアの方へと視線を向けてしまう。忘れ物でも何でも良い。もう一度戻ってきてはくれないものかと。月彦のことがかつてない程に恋しくなっている今なら、きっと望まれれば。”あの時”の続きすら、了承してしまうかもしれないのに。
しかし当然、そんな都合の良い事は起きない。ドアチャイムは鳴らないし、ドアがノックされることもない。妙子は自分勝手な己の”妄想”を自嘲気味に鼻で笑って、机の前まで戻った。
馬鹿なことを考えていないで、いい加減頭を切り替えろとばかりに頬をぴしゃりと叩き、シャープペンを握る。
握る――が、肝心の葉書のネタはひと文字も書けない。代わりに、今度はどんな料理を作ってもらおうかと妄想が始まる。いっそ、月彦と二人でやれば自分も料理を楽しめるかもしれないと思い直して、思わず顔がニヤけそうになって唐突にハッとする。慌てて周囲を見回し、誰の目も無かったことを確認したが、内心妙子は肝を冷やしていた。自室であったからまだ良かったが、もしこれが公衆の面前――例えば学校の教室であったならば。
「……集中、集中よ」
首を振って、再び意識を目の前に葉書に移す。否、葉書ネタではなく勉強の方が、頭をニュートラルに戻すという意味では適切かもしれないと、妙子は机の上に参考書とノートを広げ直す。
さあ予習の再開だ。これをやっておかないと月曜日に赤っ恥を掻く事になるぞと自分を焚きつけ、いざ問題文へと目を通す。――が。
「…………ふふっ」
問題の英文を見るなり、昨夜月彦と話した「よろしければおっぱいをお揉みしましょうか?」のやりとりを思い出して、つい吹き出してしまう。英語はダメだ、ここはより真面目な数学にしようと、妙子は数学の参考書とノートを机の上に広げる。
そういえば、月彦は英語だけじゃなく数学もよく酷い点数を取っていたなと、そんな事を思い出す。そのミスの原因が自分で書いた小文字のbを数字の6と間違えたとか、レベルの低いものばかりで、当時の自分はよく呆れていたなぁとニヤけかけて。
「って、違うでしょ!」
思わず勉強机に頭突きをする。ダメだ、何をしても月彦のことが頭から離れない。”これ”が、人を好きになるということなのかと、妙子は身をもって痛感していた。
(…………アイツ、ずっとこんな想いを抱えてたって言うの? 嘘でしょ?)
昨日今日自覚したばかりの”初心者”である自分ですら、耐えがたい程に胸が苦しいというのに、あの男がこんな想いを抱えたまま何年も過ごしてきたというのが、妙子には信じられなかった。
同時に、これほど苦しくなる想いを抱えながらアプローチをしてきていた相手に対し、自分がしてきたことを思い出して、なんとも申し訳ない気持ちになった。
(……”胸だけ”で我慢しろだなんて、生殺しみたいなものなのよね。きっと……)
長年、月彦の事を性欲の権化であるかのごとく扱ってきた。しかしここへ来て、妙子の中では見方が変わりつつあった。本来であれば、唾棄すべき――女の敵としか言いようが無い紺崎月彦のおっぱいへの執着とその行動が、ごくごく当たり前の自然な行為とすら思えてくるのだった。
(……あいつ、私が触っても良いって言ったら……いつもすっごく嬉しそうにしてたっけ……)
過去のやりとりすら、懐かしく脳裏に蘇る。そして尊いものでも愛でるかのようなその手つきを思い出すと、苦しくて堪らなかった胸の奥に暖かいものが満ちてくるのを感じた。
「……ンッ」
つい声が出てしまったのは、胸の先端が下着と擦れてしまったからだ。月彦に触れられた時の事を思い出しただけで胸の辺りが疼き出し、自分でも過敏になった様だった。
「や、やだ……ちょっと……これ、どうすればいいのよ……」
ブラの内側で、胸の先端が堅く尖ってしまっているのを感じる。僅かな身じろぎをしただけで電撃のようなものが背筋を駆け抜け、甘い声が出てしまいそうになる。
「勉強……勉強に、集中、すれば……」
ぎゅっとペンを握り、半ば無理矢理ノートに公式を書く。その僅かな振動、衣擦れですら全身にピリピリとした痺れが走り、妙子は思わずキュッと太ももを閉じた。
「…………っ…………」
唇を噛む。全身が熱を帯び、ムラムラとしたものがこみ上げるのを感じる。それでも尚勉強を続けようとしてペンを握り頭の中を数学の公式で満たすが、ピンク色の妄想がそれらをたちまち食い荒らす。
「……………………。」
誰も居ないに決まっているのに、つい辺りを見回してしまうのは、”これ”を鎮めるための行為を、妙子自身が恥じているからに他ならない。大丈夫、誰でも――女子であっても、あたりまえにすること。生物として正しい行いなのだと、自分に言い訳をしながらペンを置き、その指先をスウェットの下へと忍ばせようとした時――突然、携帯がうなり声を上げた。
「ひィッッッ!!………………な、何……?」
危うく心臓が止まりそうになりながら、妙子は携帯の画面を見る。携帯はさらに立て続けにムーッ、ムーッ、と唸っていた。どうやらチャットツールでのメッセージの着信があったらしい。なんだと安堵しかけた妙子は、画面に一瞬だけ表示された”助けて”という文面を見るなりギョッとした。
慌てて携帯のロックを解除し、詳細を確認する。メッセージの送り主は英理だった。そしてその内容は「たゆりん助けて」「苦しい」というものだった。
これはただ事ではないと、妙子はフリップ入力ももどかしいとばかりにすぐさま英理に電話をかけた。
間髪入れず、電話は繋がった。
「英理、大丈夫!?」
『たゆりん〜〜〜っ……』
半泣きのような声が受話器から聞こえて来たが、同時に妙子は安堵していた。ひょっとして、事故か何かにあって瀕死の重傷でも負っているのではと心配していたが、声の調子からどうやら怪我の類いは負っていないと分かったからだ。
「一体どうしたの、今どこ?」
『………………たゆりんの部屋の前』
「はぁ〜〜〜っ!?」
声を裏返らせながら妙子は席を立ち、玄関を開けると携帯を耳に当てた英理が文字通り半泣きで突っ立っていた。
「英理……一体どうし――」
「うえーん! たゆりんー!」
言葉を言い切る前に、英理にしがみつかれるように抱きつかれる。
「ひゃあっ! ちょ、ちょ、ちょっと……英理、離れて……!」
”今”はダメ――妙子は慌てて引き剥がそうとするが、英理の力は強く引き剥がすことが出来ない。
そのまま強引に部屋の中まで押し込まれ、英理の背中の向こうでドアが大きな音を立てて閉まった。
「ちょ、ちょっと、英理……お願いだから離れて!」
「ううぅ……ぐすん、ぐすっ」
英理は嗚咽を漏らしながらも、漸くにして妙子から離れた。
「それで、英理。一体何があったの?」
「ううぅ……うえぇええ〜〜〜っ! たゆりん……うち、どうしたら…………」
「どうしたらもなにも、ちゃんと話してくれないと分からないわ。英理、ちゃんと順序立てて、何があったのかを教えて」
ほら、あんたは私なんかより断然頭が良い女の子でしょ?――優しく諭すように涙を拭ってやり、さらに気を落ち着けるために暖かいココアを淹れてやってと、妙子が手を尽くし心を砕いて漸く。
「………………男子、好きになっちゃったにゃり」
英理は両手の指をつんつんさせ顔を真っ赤にしながら、”本題”を口にした。
「はぁ!? って、えぇえ!?」
「一目惚れにゃり。もうゾッコン、カズりんの事以外、何も考えられないにゃり」
「ちょっと待って、しかも”カズりん”って、まさか――」
「うん。……静間和樹くん…………」
ぐらりと。
妙子は自分の視界が色を失い、大きく傾くのを感じた。
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