なんとも清々しい目覚めだった。目覚めるべき時間の1秒前までしっかりと眠り、そしてピシリと起きたような。さながらパズルのピースがピタリと填まったような爽快感と共に月彦は目を覚ました。
「すばらしい朝だ。今日は良いことがありそうな気がする」
 思わず呟く。隣ではまだ真央がすやすやと寝息を立てていた。
 
 月曜の朝というのはただでさえ気怠いものだが、最高の目覚めのおかげで通学の足も軽やかだった。体中に力という力が満ち、勉強だろうが体育の授業だろうがどんとこいという気分で教室に到着。疼く体を抑えるような心持ちで受けたHRで、月彦は今日から雪乃が復帰することを告げられた。
(先生、元気になったのか)
 心底心配していた――というとさすがに嘘になるが――ずっと気にかかってはいた。もちろん矢紗美を通じて無事を確認していなければもっと本気で心配はしただろうが、それでも快方の知らせが嬉しくないわけがなかった。
 良い予感はきっと雪乃の復帰を知らせていたのだろうと納得し、一時限目が終わるなり月彦は早速とばかりに職員室を訪ねた。
 廊下からそっと中を覗くと、雪乃が留守中の代役を務めていた英語教師に頭を頭を下げている所だった。
「雛森先生!」
 話の切れ目を待って声をかける。雪乃が月彦の方を振り返り、そして戸惑うような笑顔を見せた。病み上がりの為か、少し痩せた様に月彦には見えた。
「良かった、元気になったんですね。心配したんですよ?」
「長いこと休んじゃってごめんね。ちょっとタチの悪い風邪を引いちゃって、ずっとベッドから出られなかったの」
「そうだったんですね。お見舞いに行っても出てくれないから、心配して矢紗美さんに電話しちゃいましたよ」
「本当にごめんなさい。だけど、もう大丈夫だから」
 大丈夫、と雪乃は笑顔を見せるが、まだ無理をしているのだろう。普段の雪乃の笑顔とは程遠いものに、月彦には見えた。
「そうそう、丁度良かったわ。ちょっと二人だけで話したいことがあるから、お昼休みに部室に来てくれないかしら?」
「二人だけで……ですか?」
「うん、とても大事な話よ。絶対に紺崎くん一人で来てね、月島さんを連れてきたりしちゃダメよ?」
「そりゃあ、大事な話なら俺一人で行きますけど……」
 何故ここでラビの名前が出てくるのだろうかと、月彦は首を捻りながら職員室を後にした。

 二限目、三限目、四限目が終わり、月彦は用事がある旨を和樹に伝え、弁当包みを手に部室へと向かった。鍵を開けて中に入るが、まだ雪乃は来ていなかった。弁当を食べながら待つか、雪乃の大事な話とやらが終わってから食べるかを悩み、結果食べずに待つことにした。
(大事な話をするって言うのに、食べかけの弁当を前に聞くっていうのも、な……)
 さすがにヘソを曲げられたりはしないと思うが、良くは思われないだろう。テーブルの上に弁当包みを置き、むううと立ったまま唸っていると、幸い五分と待たずに雪乃も部室にやってきた。
「ごめんなさい、待たせちゃったかしら」
 申しわけ無さそうにしながらも、雪乃が後ろ手にかちゃりと鍵をかけるのを、月彦は見逃さなかった。
 もちろん大事な話を偶発的な闖入者に聞かれたり、邪魔をされるのを防ぐ為なのだろうが、月彦は別の可能性を考えていた。
(…………まさかとは思うけど、”大事な話”ってのはただの建前で……)
 実際はただいちゃつきたかったとか、そういうことではないだろうか――雪乃ならばありうることだと思いながらも、月彦は平生を保つ。
「いえ、俺も今来たばかりです。それで、大事な話って何ですか?」
「うん」
 頷きながら、雪乃がつかつかと月彦の前まで距離を詰めてくる。窓から入る光が丁度雪乃の半身に辺り、その表情に濃い影を作っていた。
「そんなに堅く構えないで。大事な話って言ったけど、ごくごく単純な確認をさせて欲しいってだけだから」
「単純な確認……?」
「うん。極めて単純で、簡単な確認。今から一つ質問をするから、考えたりせず、素直な気持ちで”即答”して欲しいの」
「よく……わかりませんけど……考えたりせず、思うままに答えればいいってことですか?」
「うん。とにかく即答して欲しいの。絶対に考えたり、口ごもったりはしないでね」
「わ、わかりました」
 考えたり口ごもったりするなという条件付けに、月彦は俄に緊張する。一体全体何を訊かれるのだろうと恐々とし、質問の予測を立てるよりも早く。雪乃の唇が動いた。
「ほら、私たちって休日に一緒に出かけたり、家に泊まったり、かなり親しい間柄じゃない?」
「ええ、そうですね」
 雪乃に言われた通り、月彦は”質問”に素直に答えた――つもりだった。自分が聞いたのが”質問”などではなく、ただの”前置き”に過ぎなかったと知ったのは、数秒後だった。
「もちろん私は紺崎くんとは”結婚を前提にしたお付き合い”をしてるつもりだけど、そこの認識は紺崎くんも同じかしら?」
「……へ? あっ――」
 しまったと、思った次の瞬間、雪乃が何事かを呟いた。はい、アウト――そう言ったように、月彦には聞こえた。
「えっ……」
 ドンッ。そんな衝撃と共に、腹部に鋭く、そして鈍い痛みが走った。思わず一歩、二歩と後じさる。見下ろしてみると、何かの刃物の柄が腹から生えているのが見えた。そして、それを力一杯握りしめる雪乃の手も。
「なんで――」
 疑問を言葉にするよりも早く、喉の奥から鉄錆味の液体が溢れ、口腔を満たした。全身から力が抜け、月彦は膝から崩れ落ちる。その目が最後に見たのは、血まみれの包丁を鬼女の如き形相で振りかぶる、英語教師の姿だった。


 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第六十八話  

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 






「わあああああああああああああああああああっっ!?」
 叫び声を上げながら、月彦はバネ仕掛けの人形のように飛び起きた。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ…………ゆ、夢…………夢、だったのか」
 恐る恐る腹部を触る。大丈夫、穴も空いていなければ包丁の柄も生えていない。良かった、夢だったのだと安堵の息を吐くその横で真央が寝ぼけ眼を擦りながら身を起こした。
「……父さま?」
「悪い、真央。起こしたか……ちょっと嫌な夢を見てな…………」
 大丈夫だからもう少し寝ていろと、頭を優しく撫でてやる。真央はしばらく心地よさそうに微笑んだ後、すやすやと寝息を立て始めた。
 月彦は出来る限り音を立てないようにベッドから這い出、階下へと降りる。カラカラの喉を水道水で潤し、全身にべっとりと張り付いた脂汗をシャワーで洗い流した。
 さっきのはただの夢――それは分かりきっているのに、体の震えが止まらなかった。目を瞑れば、あらん限りの殺意に満ちた雪乃の凄まじい形相が浮かんできそうで、ろくに瞼を閉じることも出来なかった。

 シャワーを終えて脱衣所を出る。壁掛け時計は朝の四時過ぎを指していた。
 ……きつい一日になりそうだ――月彦は溜息交じりにそんなことを思った。

 最悪の寝覚めというのは人生における気運にも関係するのだろうか。通学中鞄に鳥の糞が直撃するわ、赤信号ではやたら止められる上、やっと青信号に切り替わったと急ぎ気味に渡ろうとすると今度は信号無視のトラックに撥ねられそうになった。その上、学校に着くまでに七回も黒猫に前を横切られる始末だ。
「……大丈夫、黒猫が横切ると縁起が悪いというのは日本だけの話だ」
 海外ではむしろ吉兆なのだと、自分に言い聞かせる。でもここは日本だという心の声の反論に耳を塞ぎながら教室に到着。奇妙な違和感を感じて周囲を見回すと、いつも教室につくなり胴間声で声をかけてくる和樹が、珍しく自分の席で読書に勤しんでいた。
(………………なんだ、釣り雑誌でも読んでるのか?)
 釣り雑誌を読むこと自体は珍しくないが、教室でというのが月彦が覚えている限りでは記憶に無い事だった。普段であれば何の雑誌を読んでいるのか確認しにいく所だが、今日に限ってはあまりに寝覚めが悪く体調が優れない為、月彦は自席でHRまで呆けるという最善の治療を受けることにした。
 ぼーっと心の中を無にしていると、やがて担任教師が入って来てHRが始まった。出席が取られ、お決まりの伝達事項。半分眠りながら担任の声を聞いていた月彦は、唐突に稲妻に打たれたが如き衝撃に襲われた。
「……えー、それから本日より英語の雛森先生が復帰されます」
 雛森先生が復帰されます……されます…………されます――痺れる脳の中で、担任のその一言だけがゆわんゆわんと反響する。反射的に腹部を触るが、幸い”柄”は生えていなかった。



 ひょっとしたら、自分はHR中居眠りをして夢の中で担任の言葉を聞いたのではないか――そんな思いから、月彦はHRが終わるなり隣の女子に確認を取った。間違いなく雛森先生は今日から復帰すると聞いたと、その女子は怪訝そうに答えた。
 月彦は尚も信じられず、一時限目が終わるなり職員室に赴いた。そっと中を覗くと、雪乃が留守中の授業を代行していた英語教師に頭を下げているという、何処かで見た光景が広がっていた。
 どくんっ――思わず心臓が跳ね、腹部に幻痛が走る。
 まさか。
 まさか、正夢だとでもいうのか。
 そんな馬鹿なと首を振ろうとして、思い出すだけで背筋が凍る雪乃の凄まじい形相がフラッシュバックし、思わず叫び声を上げそうになる。
(……そんな、だって…………なんで急に……)
 刺されねばならないのか。そこまで恨まれる筋合いはさすがに無い筈だと、月彦は必死に”心当たり”を探す。
 ……心当たりは、あった。あの優しい雪乃が刃物を握った鬼女へと慣れ果てるには十分な理由が。
(…………まさか、矢紗美さんとのことが……バレた?)
 普段からあれだけ矢紗美に対抗意識を燃やしている雪乃が、もし矢紗美との関係を知ったらどうなるか。それこそ、夢の内容の再現に他ならない。
(いや、待てよ……だったら……おかしくないか?)
 もし雪乃が矢紗美との関係に気付いて、紺崎月彦に対して殺意を抱くまでに憎悪を滾らせているのであれば、夢の中での”問い”はおかしいのではないか。
(”私に何か隠してることはない?”とか、そういう風に訊くんじゃないか?)
 もちろん、夢の内容に整合性を求めること自体馬鹿馬鹿しいという考え方もある。どれだけリアルに感じられても、やはり夢は夢なのだ。
「……うん、やっぱり気のせいだ。そうに違いない」
「何が気のせいなの?」
 背後から聞こえた声に、月彦はギョッと飛び上がりながら振り返った。
「せ、せせせせせせせ先生!?」
「ひさりぶりね、紺崎くん。元気してた?」
 小首を傾げながら、少し窶れたような笑みを浮かべる雪乃に、月彦は全身からどっと汗が噴き出すのを感じた。
「よ、良かったぁ…………HRで今日から復帰するって聞いて、慌てて駆けつけたんですよ。ははっ、先生も思ってたより元気そうで安心しました。し、心配してたんですよ?」
「お姉ちゃんから聞いたわ。お見舞いも来てくれてたんだって? 部屋には居たんだけど、紺崎くんだって分からなくって。出られなくてごめんね」
「いえ、そんな……」
 ”お姉ちゃんから聞いた”の言葉に、思わず震えそうになる。雪乃の言葉の裏に、言葉以上の意味が隠れていないか、月彦は必死に探るが、どうしても隠されている意味を察することが出来ない。
「そうだ、丁度良かったわ。紺崎くんに大事な話があったの」
「え――」
 雪乃の言葉に、思わず血の気が引いた。
「だ、大事な話……ですか」
「うん。…………どうしたの? 顔が真っ青よ? 大丈夫?」
 雪乃の手がゆっくりと伸びてきて、月彦は思わず悲鳴を上げながら払いのけていた。
「……紺崎くん?」
「あっ……すみません……大丈夫です、具合は、別に……」
「本当に大丈夫? もし、具合が悪いなら話は別の日でも……」
「………………いえ、大丈夫です。昼休みに部室で、どうですか?」
「うん、私もそう言おうと思ってたんだけど……本当に大丈夫?」
「大丈夫です。昼休み、部室に行きます」
 呻くように言って、踵を返す。そのまま足を引きずるようにして、その場を後にする。

 延期したいのは山々だった。しかし延期してしまえば、雪乃に殺意を抱かれているのではないかと恐々としながら過ごすことになる。そんなことになれば、刺されるより先に精神が参ってしまうのは確実だ。
(……大丈夫だ。正夢なんてあり得ない。大事な話だって、きっと天文部の今後の活動についてとか、そんなのに決まってる)
 常識的に考えて、質問に答え損なったから刺し殺すというのはあり得ない話だ。そもそもそこまで見境を無くしているのなら質問するまでもなく殺害に及ぶのが普通ではないのか。いや、異常な精神状態の相手に”普通”を求めるのもおかしな話ではないのか。
 そんなことを延々考えていたせいで、二限目三限目四限目の授業はまったく頭に入ってこなかった。さながら刑の執行を待つ死刑囚のような心持ちで四限目の終わりを迎えた月彦は夢と同じく和樹に断りを入れ、弁当包みを手に部室へと向かおうとして、はたと足を止めた。
「…………なあ、カズ。その雑誌、ちょっと貸してくれないか?」



 

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