はて、自分は一体何をしているのだろう。
 折角の休日の夜だというのに、男とデートをするでもなく、大して仲が良くもない妹の家で、妹の愚痴を聞きながら酒を飲むなどという不毛の極みの最中。まるでふとした拍子に正気に戻ったかのように、矢紗美はそんなことを思う。
「確かに、怪我させちゃったのは私の落ち度だし、そこは猛省するべきだと思うの。だけどさ、いくらなんでもちょっと冷たすぎると思わない?」
 コップが軋む程に握り締めながら愚痴を零す妹に、溜息交じりにそうねと返してやる。今夜だけでこのやりとりを十回はやっただろうか。さすがにいい加減うんざりもするというものだ。
(……にしても、今夜はいつになく酷いわね)
 大して仲が良いわけでもない妹が飲みに誘ってくる理由は愚痴が半分相談が半分、そして愚痴であっても相談であってもつまるところ初めての正式な彼氏でである紺崎月彦に関することに決まっている。が、今夜の雪乃はいつになくテンションが低く、壊れた音楽プレイヤーの様に同じ内容の愚痴を繰り返すから堪らない。矢紗美が覚えている中でも、ワースト三位には入る酷さだ。
「あれから全然連絡もくれないし、部室にも来てくれないし、学校で会ってもなんかよそよそしいし……ねえお姉ちゃん、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるわよ」
「お姉ちゃん、彼氏たくさん居て”経験豊富”なんでしょ? どうすればいいと思う?」
「さあ。私は彼氏に骨折とかさせたことないから」
「骨折じゃなくて、ヒビなの! それも多分もう治ってる筈なの!」
「体の怪我が治ったからって、心の傷まで治ったとは限らないわ」
 うぅ、と雪乃が唸り、ぐにゃりと力なくテーブルに伏せる。そのままぐしぐしと嗚咽を上げ始め、矢紗美は小さく溜息をつく。
(”泣き”が入るなんて、ずいぶん参ってるみたいね)
 泣き上戸というわけでもない妹が、酒を飲んで泣きが入るというのは、相当なことだと解る。いつもならここで意地悪話の一つでもして、さらに泣かせて遊ぶところなのだが、どういうわけかそういう気にならない。
「……ねえ、お姉ちゃん…………私と紺崎くんって、もうダメなのかなぁ?」
 辛うじて顔は上げたが、顎はテーブルに乗せたまま。そして相変わらず酒の入ったコップは握りしめたまま。縋るような目を向けてくる雪乃に対して、矢紗美は言葉に詰まった。
 その沈黙が、どうやら雪乃には肯定の返事に聞こえたらしい。ふえぇ、とたちまち顔をくしゃくしゃにして泣き始める。
「やだよぉ……別れたくないよぉ……」
 まるで、子どもの駄々のように。酒が飛び散るのも構わずテーブルにガンガンとコップを叩きつける。酒がかからないように、矢紗美はついと上体を引く。
(ま、大丈夫だと思うけど……それをわざわざ教えてやる義理もないのよね)
 普段であれば、ここまでの醜態を見せられればさすがに同情の念が湧き、励ましの言葉の一つくらいはかけてやったかもしれない。しかし、矢紗美の心は雪国の湖のように凍り付き、感情が波立つということは無かった。
(”女”としての完成度なら、絶対私の方が上なのに)
 普通の男であれば、雪乃か自分の二択であれば絶対に自分を選ぶはずなのに。矢紗美の脳裏に苦い記憶が――紺崎月彦が、雛森矢紗美ではなく雪乃を選択した時の屈辱が蘇る。
(身長とか、胸とか、そんなのを理由に雪乃を選ばれたら、どうしようもないじゃない)
 さすがに月彦を雪乃から奪うために、整形を受けようとは思わない。何より、矢紗美の価値観からすれば今の自分こそが完璧な状態だからだ。……もちろん、もう少し――せめて妹と同じくらい身長は欲しかったというのは本音ではあるが。
(この娘は知らないのよね。紺崎クンが、どれだけあんたの”体”にハマってるか)
 そう、月彦が雪乃を選んだのは内面ではなく、”体”が理由だ。その証拠に、雪乃の性格は面倒くさいと月彦も言っていた。その面倒くささを補って余りあるほどに――付け足すなら、そこに自分からのアプローチを加えて尚――雪乃を選ばざるをえない程に、その体の虜になっているのであれば。そんな怪我をさせたとかさせられたとかいう些細なやりとりで、月彦が雪乃から離れられるわけがないのだ。
(……もったいないなぁ)
 性格が嫌でも、他の女がどれだけ誘惑をしても離れられないくらい強力なカードを持っているのに、雪乃自身にだけそのカードが見えていないのだ。もし仮に自分が同じ状況であればそれこそ、月彦を身も心も虜にしてやるのに。
(それとも、アレかしら。口では苦手とか言いながら、その実……雪乃みたいな面倒くさい女が好きなだけなのかしら)
 目が離せない女が好き――そういう男は、確かに居る。月彦はその手の男には見えなかったが、だとすれば雪乃と付き合っているのも納得はいく。言い換えれば、雛森矢紗美が妹よりもだらしがない、目が離せない女にさえなれば、ひょっとしたら寝取る事も可能かもしれない。
 が、実際にそれをやるかといえば、答えは否だ。既に月彦に対しては随分と”投資”をしてきた。その都度「やっぱり先生の方が……」等と辛酸を舐めさせられ続ければ、損切りもやむを得ないと思えてくる。
(……性格はクズで生意気だけど、”体”は捨てがたいのよね)
 苦笑。月彦が雪乃と離れられない理由が、そのまま自分が月彦を諦められない理由と同じなのはもう、皮肉としか言いようがない。月彦を諦めた瞬間、あの麻薬的に凶悪な快楽を得られる特濃セックスも金輪際味わえないと思うと、プライドを捨ててでも雪乃から寝取るべきか検討する価値はあるように思えてくる。
「はぁ……ホント、困ったわね」
 つい口に出してしまう。ひょっとしたら自分同様月彦も、本当は雪乃と別れたいのに”体”のせいで別れられなくて困っているのかもしれない。――そんな可能性を考えて、くすりと笑う。
 随分静かだと思ったら、いつの間にか雪乃は泣き疲れて寝てしまっていた。テーブルに突っ伏したままの体を絨毯の上に横たえ、酒でびしょびしょになった服を脱がせて毛布をかける。
 一通り掃除を済ませて時計を観ると、午前二時を過ぎたばかり。酒が入っているから帰るのは億劫だが、かといって酒の量が中途半端で寝るにはどうにも物足りない。
 やむなく一人で飲み直すことにしたが、適度な雑音が無いとどうにも味気ない。ダメ元で雪乃の飼い猫ノンの寝床――キャットタワーの上についている――を軽く覗いて見るが、起きてくる気配が無い。
 やむなく雪乃が録り溜めしている愚にも付かない茶番ドラマを適当に流しながらちびり、ちびりとウイスキーを煽る。
「……どうしたもんかしらね」
 溜息。雪乃のように醜態こそ晒さないが、もう終わり――潮時かもしれないのは自分の方だと、矢紗美は思っていた。月彦とのセックスは確かに、諦めるにはあまりに惜しすぎるが、ある意味”今”が一番穏便に終わらせられる時ではないかと。
(遊んだ……うん、十分遊んだわ)
 永遠に火遊びが続けられるわけではない。実の妹に命を狙われる程に恨まれる覚悟が無いのなら、ここで引くべきなのだ。
 少し前――それこそ、レミ達と共にスキーに行く前なら、到底考えられない選択肢だった。あの頃はまだ勝ち目がある――少なくとも今の様に、モチベが湧かなくなるというような事は無かった。
(雪乃と紺崎クンのセックスの現場に立ち会ったから? ううん、違う……もっと前から――)
 矢紗美自身、一体全体何が自分の心に作用しているのかを計りかねていた。何故、スキー旅行を境に月彦に対して消極的に考えるようになってしまったのか。
 自分の心なのに、自分でも原因が分からない。それがどうにも気持ち悪く、或いは妹の愚痴に付き合えば、妹へのむかつきに塗りつぶされて気分も一新できるかと思ったが、そういう事もない。
(……こういう時こそ気晴らしに男と寝るのが一番なんだけど)
 どういうわけか、キープしている他の男と会う気すら起きない。携帯を手に取って連絡をすることすら億劫に感じる。
 溜息。本当に自分はどうしてしまったというのか。まさかこれが世に言う更年期障害とやらかと苦笑する。
「困ったなぁ……私、本当はどうしたいんだろ」
 雪乃を真似た――わけではないが、ぐにゃりとテーブルの上に上体を寝かせ、頬をつける。テーブルの冷えた感触が火照った頬に心地よく、うつらうつらと意識が揺蕩うのを感じる。
 このまま寝たら風邪を引くと、矢紗美は最後の力を振り絞って立ち上がり、寝室へと向かう。化粧も落としてないが知ったことかとばかりにベッドに倒れ込み、そのままもぞり、もぞりと掛け布団の下へと入り込む。
(朝、起きて……それでも覚えてたら……久々にレミちゃんたちの顔でも見に行こうかしら。覚えてたらだけど……)

 何故、レミ達の顔を見に行こうと思ったのか。その理由に、矢紗美はまだ気づいていない。


 
 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第六十六話  

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 






 ”日常”が、戻って来た。少なくとも、表面上は。
 好きだった女の子が親友の子供を孕んでも朝になれば日は昇るし、既婚女性と中出しセックスをしても日が沈めば夜になる。
 むすーっとふくれ面をしていた愛娘も三日がかりにはなったが機嫌を直してくれたし、しほりのお店のほうも無事開店にこぎ着けた。様子を見に行ったら案の定満員御礼でとても忙しそうにしている二人の姿を窓越しに見て、しばらくは顔を出さない方が良いと判断した。
 結局、由梨子が白耀の子を孕んでいることは真央には伝えなかった。これは単純に由梨子に真央には自分から言うから言わないで欲しいと頼まれたからだ。代わりに、それとなく由梨子の事を覚えているかどうかだけを確認した。
 真央は覚えてはいた。覚えてはいたが、その反応はまるで月彦に由梨子の名を言われるまでは完全に忘れていたというように見えた。
 自分も、真央も揃って由梨子のことを失念していた――そんなことがあるだろうか?
 そこに腑に落ちないものを感じるが、それが誰かの仕業であると確信できるわけでもない。そもそも、そんな事をして得をする人物にも心当たりが無い。
「……そういや、久しく”アイツ”の顔も見てないな」
 学校からの帰り道、思案のついでにふとそんな事を思う。顔を見せないなら見せないで何か物足りない――等とは、毛ほども思わない。あんな女はそれこそ一生まみに追いかけ回されていれば良いとしか思わない。
(……でも、もしアイツが居たら)
 なんとなくだが、由梨子が白耀の子供を孕むような事はなかったのではないか――そんな気がしていた。理由は分からないが、どうも真狐は由梨子の事を人一倍気に掛けていたように見えた。であればもし、白耀と――それこそ、あまり喜ばしくない形で――結ばれようとしていたら、邪魔をするのではないかと。
(いや、違うな。それは俺の……そうであって欲しいという希望だ)
 望まぬ妊娠であって欲しい。宮本由梨子には、今尚紺崎月彦を想って居て欲しいという身勝手な妄想だ。たとえ由梨子の言動がそう認識するに足るものであったとしても、由梨子自身が幸せであると言うのであれば、それを信じて祝福してやるべきでは無いのか。
「………………っ……」
 足を止め、かぶりを振る。強引に思考を中断し、頭を空っぽにする。由梨子と白耀のことを考えるだけで胸の奥がザワつき、吐き気を伴った苦痛が全身に伝播する。この世に存在するあらゆるものが憎たらしくなり、手当たり次第に当たり散らしたくなる――”そうなる”前に、意図的に思考を中断するクセがついた。
 しかし、胸の奥にずしりと居座る黒い塊の感触だけは、どうしても無視することが出来ない。じわり、じわりと染み出た瘴気がまるで毒のように全身を回り、それは”倫理観”という名の痛覚を鈍麻させる。
 ある意味では、由梨子の相手が白耀でまだ良かったというべきかもしれない。これが行きずりの暴漢による暴行の結果だとしたら、きっと今頃自分は包丁を入れた手提げ袋を手に、夜な夜な件の暴漢を探して彷徨っていたことだろう。
 二人の事は祝福してやらなければならない。祝福してやるべきだ――解っていても、どうしてもそれが出来ない。
「あれ、ぶちょーさん?」
 不意に飛び込んできた声に、月彦はハッと顔を上げた。
「あっ……レミ……ちゃんと、矢紗美さん!?」
 自転車を押して歩いている制服姿のレミと、その隣を歩いている私服姿の矢紗美の姿に月彦は一瞬我が目を疑った。
「あら、紺崎クン。こんなところで会うなんて奇遇ね」
「あぁ……そうですね。ちょっと考え事をしながら歩いてたら家とは全然違う方角に来ちゃってました」
「本当はこっそり月島さんに会いに行くところだったんじゃないのかしら? 」
「いえ……そんなことは……」
 あまり強く否定するとレミに睨まれそうで、月彦はお茶を濁した。
「それより、矢紗美さんこそどうしたんですか? どうしてレミちゃんと?」
「今日は非番だし。久しぶりにレミちゃんの顔見たいなーって思ったから、夕飯に誘ったの。私は外食のつもりだったんだけど、レミちゃんが手料理の方がいいって言うから、近所のスーパーに一緒に買い出しに行くところだったのよ」
「なるほど……」
 そういえば、スキー旅行の時も矢紗美は随分とレミを気に入っているように見えた。それが自発的に夕食に誘うほどだということに月彦は少なからず驚いていた。
「そーだ! ねえぶちょーさん! 折角だし、ぶちょーさんも一緒に晩ご飯どうかな?」
「そうね。献立決めるのもこれからだったし、紺崎クン一人分くらい増えてもどうにでもなるし。レミちゃん達さえ良ければ、私も大歓迎よ?」
「えーと……どうしようかな」
 誘ってもらえるのは嬉しい――が、果たして行ってもいいものかどうか、月彦は大いに悩んだ。
(大歓迎って、口ではそう言ってるけど、邪魔になったりしないだろうか……)
 最初から一緒に夕飯を食べようと声をかけられていたわけではなく、飛び込みで行く以上イレギュラーである筈だ。ひょっとしたら、矢紗美は月島姉妹とだけ――へたをするとラビすら邪魔であるかもしれない――食事をしたい可能性を考えて、月彦は思案を続ける。
(いやでも、別に恋人とかそういうわけでもないんだし、レミちゃんと二人きりにならないと困る――なんてことは無い筈だよな)
 むしろ、酔った矢紗美に悪戯半分にレミが”食われる”可能性の方を考慮しないといけないのではないか。”あの時、誘いを断らなければ、事故は防げたのに”――そんな後悔をすることだけは避けなくてはならない。
「……すみません、ちょっと携帯を貸してもらえますか? 家では夕飯の準備をしてると思うんで、さすがに一報は入れておかないと」
 やったー!とレミが飛び跳ねる。そして月彦の気が変わらないうちにと言わんばかりに、ピンク色のガラケーを差し出してくる。
「ありがとう、レミちゃん。それじゃあ、ちょっとだけ借りるね」
 月彦は携帯電話を受け取り、二人から少し距離をとって自宅へと掛ける。呼び出し音を耳にしながら、振り返るようにしてレミと矢紗美の姿を見る。
(……なんだろう。こうして見ると、まるで――)
 母娘みたいだな――顔立ちも似ておらず、髪の色まで違うというのに。仲睦まじく談笑するレミと矢紗美の姿に、月彦はそんな印象を覚えた。


 



 台所から聞こえて来る、トントンと小気味の良い包丁の音と、ぐつぐつと煮える鍋の音。月島家の四畳半の居間で一人寛ぎながら、月彦は夕飯が出来上がるのを今か今かと待っていた。
 夕飯の献立は、矢紗美とレミと三人で話合った結果、カレーということになった。合宿の際に矢紗美と食べた魚介カレーの味が忘れられないというレミの強いプッシュがあり、レミがそう言うのであればと、月彦も矢紗美も反対をしなかった為だ。
 材料については矢紗美とレミが選び、月彦は主に運搬の際の力仕事という形で貢献した。といっても、レミが自前のママチャリ同伴であった為、手に持つ分はさほどのことは無かったのだが。
 買い物を終えて月島家に戻ると、玄関の前に制服姿のラビが泣きそうな顔で立っていた。どうやら朝出る際に家の鍵と携帯を忘れたらしく、レミに連絡を取ることも出来ずに待ち続けていたらしい。
 が、その泣きそうな顔も大量に買い込まれた夕飯の食材を見るなりたちまち笑顔になった。さらに献立がカレーと聞くや、鼻息荒くダンダンウーをするラビの姿に、月彦は思わず頬を緩ませた。
 そのまま4人で仲良く夕飯の支度――が出来れば良かったのだが、台所の狭さの都合上、どうやっても二人が限度ということで必然的に矢紗美とレミが立つことになった。ラビはラビで、その性能が許す限界まで米を詰め込まれた炊飯器(というより電気釜という見た目の)を見ながらカレーの妄想をするのに忙しいらしく、話しかけても返事らしい返事はない。
(……暇だ)
 月島家にはテレビはない。暇を持て余しても暇を潰すものが何も無い。矢紗美とレミが早いところ調理を終えて戻ってきてくれれば良いのだが、二人が作っているカレーは市販のカレールーを使わず自分たちでスパイスを調合するガチカレーである為、まだまだ時間がかかりそうな雰囲気だ。
(……しかも、あっちはえらく楽しそうな…………)
 婦警と女子中学生というよりは、それこそ仲の良い母娘。或いは先輩後輩のようなノリで冗談を飛ばし合っているのが聞こえて来て、それがまた疎外感をかき立てる。
 お呼ばれしたのは失敗だったかな……と、ちょっとだけ後悔していた月彦は不意に、視界の外からの視線に気がつき、ギョッと身を固めた。
「つ、月島さん?! どうしたの?」
 どうやらいつのまにか電気釜とのにらめっこを止めたらしいラビにジッと見つめられていた事に気がつき、慌てて向き直った。
「月彦、くん。暇?」
「暇……といえば暇だね」
「占い、する?」
「占い?」
 うんと頷き、ラビは通学鞄からカードケースを取り出すや、ちゃぶ台の上に中身のカードを並べる。
 うわ、と思ったのは、これまた随分と年期の入ったカードだったからだ。
(しかもこれ……トランプじゃなくて……タロットカード? でも、俺が知ってる絵柄が一つもないな)
 カードの表面は全カード共通の柄が描かれているというのはトランプと同じ。だがその裏面に描かれているのはトランプとは似ても似つかない、西洋の魔導書の挿絵のような画風の絵だ。絵にはタイトルらしきものが見た事もない言語で書かれていて、さらにその脇にはローマ数字のように見えなくも無いが明らかに違う数字のようなものが描かれている。
 ラビはちゃぶ台の上でその怪しいカードの束をバラバラに広げ、両手でかき混ぜるようにシャッフルし、再び束にまとめる。
「何、占う?」
 うきうき、わくわく。目をらんらんと輝かせるラビに促され、月彦は唸る。
(占い、か……)
 はて、何を占ってもらおうか――考えてみるも、特にこれといって思いつかない。
「じゃあ、”未来”で」
「月彦くんの、未来?」
「うん」
「誕生日、教えて」
「7月7日」
「好きな数字、は?」
「好きな数字?」
 うんとラビが頷く。
「あまり、考えないで。直感、で、答えて」
「直感か……」
 ふうむと、月彦は頭を巡らせる。何かを思い出すように、右手が無意識に動いた。
「102……かな」
「102、だね」
 ラビが頷き、カードのシャッフルを始める。ヒンドゥーシャッフルからリフルシャッフル、流れるようなその動きに、月彦はたちまち目を奪われた。
(えっ……!? あれ、月島さんって、不器用なんじゃ……)
 以前キャンプに行った時は、やれコンロを倒されたり天体望遠鏡を倒されたりと散々な目にあったものだ。しかし今月彦の前でカードを弄るラビの手つきはそれこそ熟練のマジシャンのそれのように煌びやかだ。
(あぁ、そうか……レミちゃんが言ってたな。”お姉ちゃんはステータスが極端”って)
 つまり、苦手なものはトコトン苦手だが、得意なものはトコトン得意ということなのだろう。
 うんうんと納得する月彦の前で、ラビがちゃぶ台の上に弧を描くようにカードを広げる。広がったカードの一端を軽く爪の先で弾くとカードがまるで自分の意思でそうしたかのように、二枚一組ずつ先端のみを合わせて立った。再びラビが手前のカードの一つを指で軽く弾くと、立っていたカードがドミノ倒しのようにパタパタと倒れていく。
 倒れたカードの中でただ一枚だけ、絵柄がある側を見せる形で倒れているものがあった。ラビはなんとも気取った手つきでその一枚を取り上げ、月彦の眼前へと差し出してくる。
 刹那、月彦の顔が酷く曇った。カードには、この世の終わりのような顔で嘆いている男性と、その男性の懐からサイフらしきものを口にくわえてかすめ取っている狐(したり顔)のような動物が描かれていたからだ。
「……これが、俺の未来?」
 こくりと、ラビが頷く。
「あんまり、良くない、かも」
 ラビはカードをちゃぶ台に置き、描かれている絵を指さす。
「大事な、もの、失う。盗られる。だま、される。そういう、カード」
「………………そうか。気をつけないとね」
 これはただの占い。遊びだ。だから必要以上に気にすることはない。そう自分に言い聞かせる。
「次、は、何占う?」
「うーん、そうだな……じゃあ――」
 月彦は思案する。出来るだけ当たり障りの無い、どんな結果が出ても心にダメージを負わないようなものはないだろうか。
「明日の天気とかどうかな?」
 途端に、ラビが表情を曇らせる。その顔色だけで、天気は占いの対象とはならないのだと解った。
「わ、解ったよ……じゃあ、そうだな――……前世とか、どうかな? 俺の前世はどんなだったかとか、そういうのは占える?」
 未来では無く過去なら。それも生まれる以前であれば、羽虫だろうが犯罪者だろうがどうでもいい。それこそ気に病む必要はないではないか。
 ラビは快く頷き、カードを切り始める。先ほどとは占い方が違うらしく、まるでラビの手の中にある時だけ液体に変わっているかのようにカードが滑らかに流れ、ちゃぶ台の上で丸呑みした獲物を吐き出すかのように波打った後、ぺいっ、と月彦の目の前に三枚のカードが絵柄を表にする向きで並んだ。
 たちまち、月彦は表情を曇らせた。
 一枚目は四つん這いになり、赤いドレス姿の女性に椅子代わりに腰掛けられ悔し涙を流している男のカード。
 二枚目は刃物を手にした複数の女性に全身をバラバラにされる男のカード。
 三枚目はウェディングドレス姿で幸せそうに微笑む女性と指輪交換をしながら、女性からは見えない角度で口元を歪めて笑うタキシード姿の男のカードだった。
「えーと……これって、どういう結果なのかな」
 ラビもまた解釈に困っているのか、三枚のカードを凝視してうーんと唸っている。
「恋人、が、多かった、のかも?」
「そっか……」
 これはただの前世占い。どんな結果が出ても、それが事実である証拠は何もない。月彦は自分にそう思い込ませるように、何度も何度も強く念じた。
「……じゃあ、そうだな……姉ちゃんがいつ頃退院できるか――」
 口に仕掛けて、ハッと止める。もし”最悪な結果”が出てしまった場合、自分はそれをただの占いだと笑い飛ばすことが出来るだろうか。
「ごめん、今のは無し。えーと……代わりに……そうだなぁ……」
 これはただの時間つぶしの遊びだ。それは解っている。解っているが、自分の中である突拍子も無い考えが浮かび、月彦は次第にその思いつきを無視出来なくなる。
「……ちょっと、知り合いの女の子が困っててさ。なんとかしてあげたいと思ってるんだけど、自分に何が出来るのか、どうすれば助けになるのかが解らないんだ。…………俺はどうするべきかとか、そういうのは占える?」
 口にしながら、つい半笑いになってしまったのは、これでは占いではなく相談だと吹き出しそうになってしまったからだ。
 ラビは一瞬きょとんとした後、しばらく考え込むように唸り、そして大きく頷いた。
「み、道しるべ、の、占いなら、知ってる。やってみる、ね」
「うん、お願いするよ」
「その子、の、誕生日は?」
「えーと……確か、8月31日だったと思う。さすがに好きな数字はわからないや」
 大丈夫だとラビが頷き、カードを切り始める。前の二回よりもさらにスピーディに、ラビの腕の中で生き物のように流れるカードは、それだけで既に芸として成り立っていた。ラビの右手に握られていたカードの束が見えない糸で引っ張られているかのような動きで腕の上を滑り、肩を回って気がついた時にはカードの束が左手に握られている。その左手を一度手の甲を上に向けて再び手の甲を下に向けた時にはカードの束が消えて右手に移っている。
 これはもう占いではなくイリュージョン――月彦はただただ高速移動するカードに目を奪われていた。ラビが両手を大きく前に伸ばし、その右手から左手へと、弾かれるように高速移動するカードが不意に明後日の方向に飛んだ。
 おや、ミスったのかな?――そう思ったのは、さらに立て続けに二枚同じようにカードがはじけ飛んだからだ。
「月彦、くん。その、三枚が、答え」
 ラビに言われて、月彦は慌てて部屋の中に散らばった三枚を拾い集める。
「これ……は……雷……かな?」
 一枚目のカードには、絵柄の部分に極太の稲妻のイラストが描かれていた。よくよく見れば、光の中に人影らしきものが見えることから、単純に解釈すれば「落雷に気をつけろ」とでも言われているように見える。
「二枚目は……お墓、かな」
 二枚目のカードに描かれているのは、どう見ても墓碑だった。一枚目のカードと単純に合わせて解釈すれば、落雷によって命を落とす、というような意味にとれる。

 そして三枚目は――
「……んん? 月島さん、これってどういう結果なの?」
 月彦は判断に迷い、三枚のカードをラビに見せる。
「おまったせー! レミと矢紗美おねーちゃんの特製スペシャルカレーの完成だよー!」
 突然居間に響いたレミの声に、ハッと月彦はラビと体を離す。
 あっ、と。レミが鍋掴みで大鍋を抱えたまま、にへらと笑う。
「ひょっとして、邪魔しちゃった?」
「いや、全然大丈夫だよ。ね、月島さん」
 ラビに同意を求めるが、ラビは月彦から渡された三枚のカードを凝視したまま、完全に固まっていた。が、やがてレミの持つカレー鍋から漂う芳香がその鼻先を擽るなり――
「ふぇあ!? カレー! 出来た、の?」
「お姉ちゃん、反応遅れすぎ。ちゃーんとお姉ちゃんでも食べられるように、お肉無しの魚介カレーにしたんだから感謝してよね?」
 トウモロコシとにんじんもマシマシにしたんだからと、レミは大きく胸を張る。
「はーい、それじゃあご飯よそうわよー? 大盛りがいい人ー!」
 真っ先に、最も元気よく答えたのはラビだった。そのあまりの元気の良さに矢紗美は一瞬目を丸くし、そして吹き出すように笑った。
「随分お腹空かせてたのね。じゃあ、月島さんのは特別大盛りにしてあげるわね」
「あぁ!」
 と、レミが大声を上げたのはその時だった。
「ごめんなさい……そういえば、カレー用の大皿、三人分しか無いの……」
 レミ以外の三人が一斉に顔を見合わせる。
「あぁ、それなら俺の分を何か適当な皿にしてくれないかな。どんぶりでも、茶碗でも、なんなら鍋の蓋を裏返したやつでもいいからさ」
「だったら私が小さいお皿でもいいわよ? ダイエット中だから丁度良いわ」
「いえ、ここは俺が……」
「レミ、あのお皿、は?」
 ごはんを山盛りよそわれたカレー皿を受け取りながら、ラビが食器棚の隅の方を指さす。
 あっ、とレミが声を上げるが、すぐに表情を曇らせる。
「……そういえば、一枚だけ……カレー用に使えなくもないのが…………」
「あぁ、使える皿があるならそれでいいよ。自分でとってくるから、レミちゃんたちはさきにご飯よそってて」
「あっでも……!」
 膝立ちになるレミを、いいからいいからと止めて、月彦は食器棚を漁る。
(おおぅ……これはまた随分と年季の入った……)
 と、声に出さずに済んだのは、レミの申し訳無さそうな顔を見ていたおかげだった。ラビが言った”あのお皿”は皿自体はそれなりに大きいが、プラスチック製で区切りがある、いわゆる”お子様用”の皿だった。
 とはいえ、ラビが言うように大きな平皿として使えないこともない。月彦は皿を手に居間へと戻り、矢紗美にご飯をよそってもらった後、にっこにこ顔のラビに皿からあふれんばかりにカレーをかけてもらった。
「さて、それじゃあ……いただきまーす」
「いただきます」
「いただきまーす!」
「いただき、ます!」
 スプーンを手に、早速とばかりに一口頬張るなり。
(うおっ……コレは!)
 口いっぱいに広がる、香辛料とココナッツミルクの芳醇な香り。そこに海の幸からたっぷり抽出されたダシと、野菜の甘みが混ざり合ったそれは、かつて月彦が口にしたどのカレーとも似て非なる美味だった。
「おいしー! 矢紗美おねーさんのカレー、すっごく美味しい! ねっ、おねーちゃん!」
 はぐはぐと凄まじい勢いでカレーを書き込みながら、ラビは鼻息荒く何度も頷く。
「喜んでもらえて良かったわ。久しぶりに作ったけど、我ながら会心の出来ね。過去一番かもしれないわ」
「確かに、めちゃくちゃ美味しいですよ、コレ。一体どういう味付けしたんですか?」
「意外に思うかもしれないけど、基本は塩なのよ。あとはココナッツミルクにターメリック、オレガノに気分で赤パプリカとかその日の気分でいろいろ混ぜて出来上がり。ちゃんとしたレシピなんて無いわ、塩味の調節だけして、あとは適当にするのがコツよ」
「適当に作って、この味……ですか」
「ていうより、”適当にしか作れない”のよね。私、料理本とか見て作ろうとしても、絶対どこかでアレンジしちゃうのよね」
「でも、アレンジした方が美味しい、と」
「もちろん失敗した事もあるけど、そこも含めて料理の楽しさじゃないのかしら。逆に雪乃はほら、変に真面目だからあの子は完璧にレシピ通り作るタイプなのよね。だから二人で一緒に料理とかすると喧嘩ばかりしてたわ」
 成る程と、月彦は奇妙な納得をしていた。たまに雪乃に振る舞われる料理は確かにどれも美味しいのだが、どこか型にはまった味というか、万人向けに配慮を配慮を重ねられて一定のレベルには達しているものの尖ったところが何も無いような、そんな印象を受けるのだ。
「いーなぁ、レミもそんな風に自由に料理出来るようになりたいなぁ……」
「ふふ。レミちゃんさえ良ければ、細かいコツも含めて私が知ってる事全部教えてあげてもいいわよ?」
「お、お、おか、わり! ください!」
 突然、話の流れをぶったぎるように、ラビが空になった皿を掲げた。
「えっ、月島さんもう食べたの!?」
 月彦は思わず、まだ半分ほど残っている自身の皿を見直してしまう。
「だって、このカレー、美味しい! すっごく! いくら、でも、入っちゃう!」
「そんなに気に入ってもらえて嬉しいわ。…………ご飯足りるかしら」
 矢紗美の心配に、月彦も同意した。
(……実際すごく美味しい……けど、おかわりは控えめにしとくか)
 ラビの様子だと、もう二回くらいはおかわりをしそうだ。その分を残す為に自分はおかわりをしない方がいいのだろうが、一回もしないというのは今度は矢紗美に対して失礼な気もする。
「……レミも、おかわり欲しいなぁ」
「二人とも育ち盛りなんだから、好きなだけ食べていいのよ? もちろん、紺崎クンもね?」
「はは、ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて俺も……」
 矢紗美はおかわりをせず、月彦とレミは1回ずつ。そしてラビは一人だけ5回もおかわりをし、炊飯器の中身とカレー鍋の中身をすべて食べ尽くした。



 

「そういえば、レミちゃん達のお父さんって、画家なのよね?」
 夕飯の後片付けを終え、四人でトランプ(大富豪)に興じていた所で、ぽつりと矢紗美が思い出したように呟いた。
「うん……。一応、かな」
 レミが些かばつが悪そうに同意する。
「”自称”かも」
 そして苦笑いをしながら、そう付け加えた。
「でも、その割には絵も画材もどこにも無いなぁ、って思って。ひょっとして、アトリエが別にあったりするのかしら」
「それも……”一応”かなぁ。アトリエって言うよりは、殆ど倉庫みたいなものだけど」
「在るんだ……」
 むしろ、一応ながらも”在る”ことに、少なからず月彦は驚いた。
「裏庭の方に、プレハブの倉庫があるの。一応そこが、おとーさんの仕事部屋兼画材置き場になってるの。でも、年に1,2回しか帰ってこないから、仕事部屋っていうより殆ど倉庫なの」
「……レミちゃん達って、確か……お母さんは亡くなってるのよね? それなのにお父さんも年に1,2回しか家に帰ってこないの?」
 さすがにそれは人としてどうなのか――矢紗美の怪訝そうな声には、非難のニュアンスが含まれていた。
「……いいの。だって、おとーさんには好きに生きて欲しいっていうのが、おかーさんの遺言だったみたいだから」
「でも……」
「私たちが生活出来てるのも、おとーさんが画家で稼いでるからじゃなくて、おかーさんが残してくれたお金があるからなの。あっ、おとーさんの入金もまったくゼロじゃないんだけど……それだけじゃとても……」
「レミちゃんたちがそれで納得してるなら、他人の私が口を出すようなことじゃないと思うけど……」
 ちらりと、矢紗美の視線を感じる。紺崎クンはどう思う?――そういう目だ。
「……俺も、いくら奥さんの遺言があるからって、好き勝手にしていいとは思わないかなぁ……」
「でも、おとーさん絵以外何をやらせてもダメダメだから、普通に働くのなんて絶対無理だし……好きな絵を描いてすこしでもお金になるなら、それが一番いいのかも……」
 どこか引きつった笑顔を浮かべるレミ。姉の世話だけでも大変なのに、ここにさらにろくに家事も出来ない父親が戻ってきても面倒はみきれないと言外に語る苦々しい笑みだった。
「……私、は、おとーさんの絵、好き! いっぱい、描いて、ほしい!」
「そういえば、この前行った旅館に一枚だけ飾ってあったわね。私、絵の事とか全然わからないし、今まで一枚たりとも欲しいなんて思ったことは無かったけど……でも、あの絵だけはちょっと足とめて見入っちゃったのよねぇ」
「本当!? 矢紗美おねーさんもおとーさんの絵好きなの!?」
「そうね、好きな方だと思うわ」
 でも、人間としては好きにはなれない――が、あえてそこまでは口にしない。そんな言葉の切り方だったが、幸いレミとラビには伝わらなかった。
「じゃあじゃあ、おとーさんの他の絵とかも見てみる? 倉庫……じゃなくって、アトリエの方なら、いーっぱいあるよ!」
 目をキラキラさせてちゃぶ台に身を乗り出してくるレミに、月彦も、そして矢紗美も面食らうように目を丸くしていた。
 そう、父親の絵が好きなのはラビに限った話ではない。レミもまた大好きで、そして同じく父親の絵の良さが解ってくれる第三者を渇望していたのだろう。
「レミちゃんがそこまでお勧めするなら、ちょっとだけ覗いてみようかしら」
「そうですね。折角ですし、俺も――」
 矢紗美に同意しかけて、ハッと。脳裏に、一枚の油絵がフラッシュバックする。
「ぶちょーさん? どうかしたの?」
「あぁ、いや……なんでもないよ、レミちゃん。もちろん、俺も行くよ」
 今は絵なんか見たくない――そんな己の本音を押し殺して、月彦は笑顔で同意した。


 ラビ、レミの父親――月島公星のアトリエは成る程、レミの言う通り外観は完全にプレハブの倉庫だった。入り口には数字式の南京錠がかかっており、レミが一足先に鍵を開けて中へと入る。月彦も後に続いて中へと入った瞬間、画溶液の噎せ返るような匂いが鼻腔をつく。
 レミがスイッチを操作し、明かりをつける。アトリエの中は大量のキャンバスに画板、恐らく染料らしき瓶が無数に並んだ棚。積み上げられたスケッチブックに仮眠用のベッドと毛布。それらすべてが大量の埃にコーティングされており、清潔や整頓という言葉に真正面から喧嘩を売るような状態になっていた。
「これは……ちょっと、お掃除が必要みたいね」
 矢紗美も声をうわずらせ、出来れば中には入りたくないというように入り口で二の足を踏んでいた。
「おとーさんが帰ってくる度に、一緒に掃除はしてるんだけど……もう十ヶ月くらい帰って来てないから……。おねーちゃん、ちょっとタオル持って来て」
 レミに言われて、ラビがタオルを――というより、手ぬぐいにしか見えないが――を手に戻ってくる。レミはそれを口元に巻き、えいやとばかりにアトリエの中に入り、棚にしまわれている何十冊というスケッチブックの中から適当に5冊ほど抜き取ってくる。
「はい。キャンバスは重いし、たくさん見るならスケッチブックの方がいいと思うの」
「そ、そうね……ありがとう、レミちゃん」
 矢紗美はスケッチブックを受け取り、軽く埃を払ってから中を開く。
「はい、ぶちょーさんも」
「ありがとう、レミちゃん」
 月彦も受け取り、中を開く。真っ先に飛び込んできたのは花の絵だった。恐らくは鉛筆か何かで、道ばたの花を手早くスケッチしたのだろう。なかなかの出来ばえだった。
 ページをめくる。次に出てきたのは野良猫だった。大きく口を開けて欠伸をしている。どんなに早く書いても、野良猫が口を開けている間に描ききることは出来ない筈だが、歯の一本一本までもがリアルに描かれている。
(一瞬で記憶に焼き付けて、その記憶を頼りに描いてるのかな?)
 さらにページをめくる。小高い丘から見下ろした町の絵。公園の絵。特にこれといったテーマは無く、目に止まったものを片っ端から描き止めているようだった。
「あら」
 不意に、矢紗美がそんな声を上げる。その声が妙に楽しげで、実際口元もニヤついていた。
「紺崎クン、見て見て、ほら」
 ちょいちょいと手招きをされ、月彦は誘われるままにスケッチブックをのぞき込む。
「わっ」
 と声が出てしまったのは、描かれていたのが上半身裸の女性だったからだ。顔立ちからして、恐らく外国人なのだろう。髪は肩ほどで短いが、金髪であることが黒一色の絵からも読み取れる。
 半裸の女性は小首を傾げて微笑んでいた。どこか愛情すら感じさせるその表情に、月彦は完全に見入ってしまった。
「Jinny…………ジニー、って書いてあるわ。ひょっとしてこれ、レミちゃん達のお母さん?」
「ジニー……?」
 レミの顔はおよそ、母親の名を聞いた娘のそれではなかった。
「おかーさんの名前は初花だよ」
「はつか……さん? あれ、でもお父さんも公星さんで多分日本の人だよね? あれ?」
 月彦は改めてスケッチブックに書かれている”Jinny”を見る。金髪のショートカット、描かれているのは腰から上だけで、衣類は一切纏っていない。しかしその顔立ちはどこか、レミやラビに似ているようにも見える。
(……ていうか、結構胸あるな、うん)
 描かれているのは女性の裸体ではあるが、これはただの芸術作品だ。いかに描かれているおっぱいの曲線が雅でたわわな質感を如実に表していて、先端のピンク色まで容易く脳内に再構成できそうな程に見事に表現できていたとしても、それを欲情の対象として見てしまった時点で人間失格だ。
(しかし、いいおっぱいだ……画家ってなかなか魅力的な職業じゃないか)
 自分は画家だと名乗れば、見ず知らずの女性であってもおっぱいを描かせてくれるのだろうか。だとすれば、今からでも画力を身につけるべきだろうか――少し考えて、月彦は小さく首を振った。
 或いは、由梨子の絵の件が無ければ、もう少し長く検討はしたかもしれないが、少なくとも今はとてもそんな気持ちにはなれなかった。
「……あれ、ちょっと待って。私、この人知ってるかも……」
「えっ?」
「なんか見た事ある気がするの……うん、絶対見たことある……」
 スケッチされた女性を見ながら、うーんうーんと矢紗美が唸る。そんな矢紗美に触発されるように、レミがのぞき込んでくる。
「どう? レミちゃん。やっぱりお母さんじゃない?」
「…………私、おかーさんの顔、知らないの」
 あっ、と。月彦は思わず己の口を覆った。
「おとーさんが、写真一枚も残さなくって……お葬式も、まだ私が赤ちゃんの時だったから……あっ、でもおねーちゃんなら解るかも」
「あれ、そういえば月島さんは……?」
 タオルを取ってきてから、ラビの姿が見えない。月彦は辺りを見回し、アトリエの中で一枚のキャンバスを引っ張り出そうとしているラビの姿を見つけた。
「ああ、居た。月島さん、ちょっとこっち来てくれるかな?」
 呼ぶや、まるで子犬のようにラビはぱたぱたと小走りに駆けてきた。
「な、何? 月彦、くん」
「この絵の人なんだけど……誰か解らないかな?」
 どれどれと、ラビがスケッチブックをのぞき込むや、ギョッと身を固くした。
「お」
「お?」
「おかー……さん」
 えっ、と。掠れた声を出したのはレミだ。
「あれ、でもさっき……名前は初花って……」
「思い出した! 帰化したから名前が変わったのよ!」
「矢紗美さん?!」
「顔に見覚えがある筈よ! だってこの人、私が子供の頃好きだった映画のヒロインやってた人だもん!」
「「「ええええええええええええっ!?」」」



 なんと、ラビとレミの母であるジニーさんは女優であった。本来の名はヴァージニア、愛称はジニー。そして帰化して”月島初花”となったらしい。
「すっごいすごいすごい! こんな偶然ってある!? 確かに、月島さんとレミちゃんを初めて見たときから、何か心に引っかかるものがあったけど、でもでもまさか”ジニー”の忘れ形見だったなんて!」
 こんなに鼻息荒く、興奮気味に話す矢紗美を見るのは初めてのことだった。月島家の居間へと戻ってはきたが、見ればラビもレミも、矢紗美のテンションの高さに些か引き気味の様だった。
「ああんもう、三人とも、これがどんなにスゴいことか解ってないって顔してるけど、本当の本当にスゴいことなんだからね? 例えるなら、徳川埋蔵金を見つけるのと同じくらいスゴいんだから!」
「はぁ……埋蔵金ですか」
 そういえば、子供の頃そんな番組やってたなぁ――月彦は軽く記憶を巡らせるが、残念ながら矢紗美の言う”大変な事”の実感は湧かなかった。
「そうよねぇ、私が子供の頃の女優だから、紺崎クンも月島さんも、ましてやレミちゃんじゃ全然ピンと来ないわよね。下手すると雪乃でも知らないかも知れないわ…………でもね、レミちゃん、月島さん。あなたたちのお母さんは、すっごい映画俳優だったんだからね?」
 まるで、自分が一番のファンだとでも言わんばかりに、矢紗美は雄弁に語り出す。
「凄い映画俳優と言ったばかりだけど、実は出演作はそんなに多くないの。デビュー作のコメディ映画”アンラッキー・パラダイス”ではいきなり主役だったけど、興行的にはそこまででもなかったわ。その後の”嘘とため息”と”第13独立戦隊”はチョイ役で、これもそこまで売れたわけじゃなかった。彼女の名が一気に売れたのは、出演四作目の”レイニー・レイン”で再び主役に返り咲いてからよ! ”あのレイニー・レイン”よ! すごいでしょう?」
 鼻息荒く主張する矢紗美であったが、悲しいかな。月彦には”あの”に該当するものについて心当たりが無かった。
「えっ、まさか……みんな知らないの? さすがに嘘でしょ?」
「すみません……映画は好きなものもあるんですが、あまり詳しくはなくて……」
「詳しくなくても……ほら、今でもたまにテレビでやったりするし……ねえ、レミちゃん達は知ってるでしょ?」
「うち……テレビ無いから……」
 あぁ……と。矢紗美が納得とも落胆ともつかない息を吐く。
「そっかぁ……すっごくいい映画なんだけど……考えてみたら紺崎クン達が生まれる前の映画だもんね。そりゃあ見た事ないか……」
 私だって、自分が生まれる前に作られた映画なんか殆ど知らないと、矢紗美は一人ごちる。
「……とにかく、主役をやった”レイニー・レイン”が大ヒットして、当時まだ17才だったっていうこともあって、とんでもない天才女優が居るって世界中が湧いたのよ! さらにその生い立ちが謎めいていたのも、マスコミが騒いだ理由の一つよ!」
「生い立ちが謎めいてる……?」
「そう、そうなのよ! ヴァージニア……ジニーはね、実は仮の名前なの。本名は誰も知らない。彼女は記憶喪失状態で行き倒れてて、たまたま映画の撮影に来てた監督に拾われたの。拾われたのがアメリカのヴァージニア州だったから、ヴァージニアと名付けられて、その映画監督の仕事を手伝ったりしてるうちに、だんだんと演技の才能があることが解って、デビュー作の”アンラッキー・パラダイス”が制作されることになるの!」
「……なんていうか、生い立ちが既に映画みたいですね」
「でしょう? 他にも私生活が謎めいてたり、とにかく話題に事欠かなかったのよ。ある場所でファンに写真を撮られた数分後に、何百キロも離れた場所で全く同じ服装の写真を別のファンに撮られてたりとか、車で移動中のジニーをパパラッチが尾行してたら、突然ジニーの乗った車が目映い光に包まれてかき消えて、後には炎の轍だけが残ってたとか、そういう胡散臭い話がとにかく多くて、当時はすごい騒ぎだったんだから」
「……ジニーには狐みたいな尻尾があったとか、そんな話はありませんでしたか?」
「尻尾? さすがにそんな話は聞いたことないけど、もしかしたらあったかもしれないわ。当時ですら、ジニーは宇宙人なんじゃないかってメディアが騒ぎっぱなしだったもの」
 月彦は改めてスケッチブックに描かれた”ジニー”に視線を落とす。もしや、ジニーの正体は”あの女”ではないだろうか。いや、本人でなくともその眷属――何らかの妖怪変化である可能性は十分にあるのではないか。
(でも、月島さんやレミちゃんを見る限り……耳も尻尾もない、よなぁ……)
 或いは、尻尾や耳が遺伝しないケースもあるのだろうか。
「まぁ、そんなこんなで一躍時の人って感じだったんだけど、さすがに嫌気がさしたのかしらね。突然引退宣言して、雲隠れしちゃったの。当時、相当な数の人間がジニーの足取りを追った筈だけど、推測レベルの域を超えるものは無かったわ。結構な額のお金を持ってた筈だから、それをそのまま”口止め”に使ったんじゃないかとも言われてたけど……」
 まさか日本に居て、しかもこっそり画家と結婚していて、二人も娘を産んで、おまけに亡くなってたなんて――驚きを通り越してどうリアクションすれば良いかわからないと、矢紗美は溜息交じりに漏らす。
 そして、おもむろにスマホを取り出し、しばらく操作をした後、「見て」とテーブルの上に置いた。
「えっ、これマジですか?」
 テーブルの上に置かれた矢紗美のスマホには、スケッチブックの”ジニー”と同一人物と思われる外国人女性の写真と、居場所についての有力な手がかりの提供者には一千万ドル支払うという旨の英文が書かれていた。
「告知を出してるのは”レイニー・レイン”の監督だもの。告知が出されたのは二十年近く前だけど、前にテレビで自分が死ぬまで捜索を諦める気はないって宣言してたから、まだ有効だと思うわ」
 ラビとレミの母親は女優だった――矢紗美の言葉でそれを知っても、どこか絵空事のように感じていた。しかしこうして写真を目の当たりにすることで実在した人物であると認識し、さらに映画にさほど詳しくない月彦ですらも名前を知っている有名監督が、賞金を掛けてまで探している事実を目の当たりにし、遅ればせながらに矢紗美の言葉が現実味を帯びてくる。
「……仮に、ですけど……この監督に月島さんやレミちゃんの事を教えたら……」
「控えめに言って、一生お金には困らない生活が出来ると思うわよ? なんといっても、この監督さんはレミちゃんたちのお母さんと作った映画が大ヒットして、一流監督の仲間入りをしたようなものだし。本人が故人でも、その娘には何不自由ない暮らしをさせてあげたいって思うんじゃないかしら。レミちゃんたちが望むなら、きっと映画にだって出してくれると思うわよ?」
「……だってさ、レミちゃん。どうする?」
「えっ……そんなの……急に言われても……」
 どうしよう、おねーちゃん――レミの目が、ラビを見る。その時、月彦は思わず目を見張った。
 ラビが、かつて見たことのない顔をしていたからだ。
「…………やざみ、さん」
「なぁに? 月島さん」
「ぜ、ぜったいに……内緒に、して、ください。おねがい、します」
 矢紗美が目を丸くする。
「……内緒にしたままでいいの? 何不自由ない暮らしは大げさかもしれないけど、間違いなく今よりは楽な暮らしが出来る様になると思うけど……」
「嫌、です!」
 ばんっ!ラビが両手をちゃぶ台に叩きつけるようにして膝立ちになる。そのあまりの剣幕に、月彦も、レミも、思わず仰け反る。
「……お、おおきな声、だして、ごめん、なさい」
 ハッとしたように、ラビが腰を落とし、俯いてしまった。
 しばしの沈黙。最初に動いたのは月彦だった。テーブルの上のスケッチブックを閉じて、小脇に抱える。
「それじゃあ、今日のことはこの四人だけの秘密ってことにしとこうか。大丈夫、俺も絶対、誰にも言わないからさ」
「……そうね。ちょっともったいない気もするけど、考えてみたら月島さん達があのジニーの娘だって知ってるのは私だけだって思うと、それはそれですっごい事だしね」
「いえ、あの……矢紗美さん、俺も知ってるんですけど……」
「紺崎クンは生きてるジニーを見てないんだから、私と同じ土俵に立ってるとは認めないわ」
「まぁ、そりゃあ……」
「そーだ! ねえレミちゃん、月島さん! 今日ご馳走して貰ったお礼に、今度は私の家の夕食に招待するわ! ついでに、レミちゃん達のお母さんが出演してる映画の鑑賞会しない?」
「えっ……おかーさんの、映画……?」
「うん。レミちゃんも見てみたくない?」
 レミは戸惑い、戸惑い、たっぷり時間をかけて悩んだ後、小さく頷いた。
「良かった。私ね、ジニーの映画は初版はもちろんリマスター版も全部持ってるの! あ、良かったら紺崎クンも一緒にいかが?」
「ものっ凄いついで感のあるお誘いですけど……そうですね、そんなに面白い映画なら俺も興味ありますし、ちょっとしたパーティみたいで楽しそうですし、行っても良いなら行きたいです」
「じゃあ決まりね! あっ、一応言っとくけど、雪乃には内緒ね? 私たちがあの子の知らないところでこっそり会ってることとか変に勘ぐられても面倒だし。それに下手に一緒に映画見たりすると、”ジニー”とレミちゃん達の関係に感づくかもしれないしね」
「それは……確かに可能性はありますね」
 もちろん雪乃が気づいてもちゃんと説得すれば口止めは可能だろう。が、喋る気がなくてもうっかり口を滑らせるということはありうる。
 秘密を知る人間は、少ないに越したことはないのだ。



 八時を回る前に、月彦は矢紗美に送ってもらう形で月島家を後にした。
「今日はなんかスゴかったわねー。レミちゃん達と夕飯食べるなんて、ただの思いつきだったけど、まさかのまさかで本当にビックリしちゃった」
「レミちゃんたちもビックリしてましたね。もしかすると、お父さんが写真を残さなかったのは、母親が女優だったことを隠す為だったのかもですね」
 或いは、月島家にテレビが無いのもひょっとしたら経済的な理由では無く、意図的だったのかもしれない。
「あり得るかもしれないわ。自分たちが”ジニー”の娘だって知って、何かの拍子にそれが世間にバレたら、とても今みたいに普通には暮らせなかったと思うわ」
「確かに……一千万ドルですもんね」
 それは間違いなく、”今までの生活”が消し飛ぶ額だ。そして悪く言えば、誰かを不幸にしてでも手に入れたいと思う人間も少なくない額でもある。
「……矢紗美さん。実はちょっと惜しいとか思ってたりしませんか?」
「全く無い――って言うと嘘になっちゃう、って程度にはね。でも、正直今の生活に満足してるし、お金なんて欲しくなったらその分頑張って稼げばいいだけだし。レミちゃんたちの生活を壊してまで手に入れたいとは思わないわ」
「同感です。……まぁ、働いてすらいない身では、お金の本当の価値なんてわからないとは思うんですが……」
「ダメよ? 紺崎クン。将来お金に困ったら月島さんを誑かして賞金ゲットすればいいやーなんて考えちゃ。いくら紺崎クンが凶悪な麻薬チンポの持ち主で、最初は多少無理矢理でも最終的にはメロメロにしていくらでも言いなりにさせられるんだとしても、そんなコト人として絶対やっちゃダメだからね?」
「釘を刺されるまでもなくやりませんし、そんなこと出来ませんし、やろうとも思いません!」
「本当かしら? さすがにレミちゃんは守備範囲外としても、月島さんには結構クラクラ〜って来るコトはあるんじゃない? 温泉の時だって、月島さんのおっぱいガン見してたしぃ?」
「し、してませんよ! 人聞きの悪いこと言わないで下さい!」
「まぁ、でもそっか。紺崎クンには雪乃がいるもんね。あんなモデルみたいなスタイルの英語教師にエロいお願い何でも聞いてもらえるんだから、ちょっとおっぱいが大きくてハーフな同級生くらいじゃさすがに太刀打ちできないか」
 いや、そんなことはない――うっかりそう口にしかけて、慌てて口を噤む。雪乃は雪乃で、その魅力的な外見を損なってあまりある厄介さがあるなどと、少なくとも肉親相手に言うべきではない。
「でもでも、月島さんだって将来性抜群なのよね。なんてったって、あのジニーの娘なんだから。紺崎クンだって見たでしょ? 月島さんだって将来ああなるかも知れないのよ?」
 矢紗美に言われて、月彦は思い出す。スケッチブックに書かれたジニーと、写真のジニー。前者はどちらかといえば日常の中から切り取ったような自然な笑みで、後者はメイクをばっちり決めたまさしく”女優”という一枚だった。どちらも同じ”ジニー”には違いないが、とびきりの美人であることは違いが無かった。
(でも、美人は美人でも月島さんとはタイプが違うんだよな……)
 どちらかといえばおっとりとしていて、そして挙動不審さが目立つラビに対し、今日見たジニーの印象はどちらかといえば性格がキツそうなつり目美人だ。矢紗美はラビもレミも面影があると言っていたが、”ジニー”を写真とスケッチでしか知らない月彦としては、そんなに似てるかな?という程度にしか共感できなかった。
(いやでも、月島さんはともかく、レミちゃんは似た感じになるかも?)
 レミがもっと成長し、キリッとしたキャリアウーマンにでもなれば、きっと母そっくりになるのではないだろうか。
「……ひょっとして、本気で検討してる?」
「なわけないじゃないですか!」
 ”想像”はしたが”検討”はしていない。月彦は胸を張って否定した。

「それじゃあ、またね。紺崎クン。週末の件忘れないでよ?」
「わかってます。金曜日の六時に月島さんちですね」
 自宅から少し離れた場所で降ろしてもらい、そのまま軽く手を振って遠ざかる車のテールライトを眺める。
「………………。」
 週末は、矢紗美の家でラビ、レミ姉妹と共に映画パーティ。思わぬ予定ではあるが、”いつもの不健全な予定”に比べればなんと高校生らしい週末であろうか。
(可能なら、真央も一緒に連れて行ってやりたいところだけど……)
 従姉妹だと説明して参加させることは出来ないだろうか?――帰路につきながらシミュレートしてみる。が、矢紗美達に真央のことを上手く説明することも、真央に矢紗美達との関係を上手く説明することもどちらも不可能であることに気がつき、断念した。
「ただいまー……っと、真央。湯上がりか?」
 玄関に入るや、丁度湯から上がったばかりの真央と鉢合わせした。真央が髪をタオルで拭きながら、ぴょんと飛ぶように駆け寄って来る。
「父さま、お帰りなさい。……カレー、食べたの?」
「あ、あぁ……わかるか? 母さんには言ったんだけど、夕飯は友達の家で食べてきたんだ」
 正確には”女”友達の家だが、言葉が足りないのは偽りではない。
「カレー……美味しかった?」
「ああ、母さんの手前大きな声じゃ言えないけど、うちのカレーより美味しかったかもしれない」
 小声で、狐耳の中に囁く様に言うと、真央はきゃっ、と嬌声を上げた。そのなんとも媚びた声に、むらむらとこみ上げてくるものを感じる。
「…………父さま?」
 湯上がりとはいえ、この時期に部屋着がキャミソールにホットパンツのみとはいかがなものか。自宅とはいえ、男を誘っているとしか思えない格好の愛娘に怒りにも似た感情が湧いてくる。無論、”怒りに似ている”だけで、怒りそのものではない。
「…………。」
 月島姉妹、そしてその母親であるジニーを見てきたからだろうか。不意に、愛娘も意外と金髪が似合うのではないか――そんな考えが湧く。
「……そういえば、真央は……化けられるんだよな?」
「えっ……う、うん……でも……」
「それって、部分的にも出来るのか? 例えば……髪の色だけ変えるとか」
「髪の色だけ? それなら簡単だけど……」
 言うが早いか、真央の髪の色がゆっくりと変化し、栗色から黒に、黒から茶へと変化する。
「……金髪は?」
「こう?」
 ものの数秒で、目の前には金髪狐耳娘が誕生していた。
「……へぇ、似合うじゃないか、真央」
「えへへ……本当? 父さま、こういうの好きなんだ」
 真央がつま先立ちのままくるりと一回転し、金髪をなびかせる。まだ水気を含んだ髪が風に舞い、まるでそれ自体が発光するようにキラキラと輝く。
「もしかして目の色を変えたりも出来るのか?」
「目の色……」
 真央は少し考える様な仕草をした後、一度目を瞑り、そして瞼を開けた。
「おお、凄いな。青い目になってる」
 ごくりと、思わず生唾を飲む。金髪碧眼、そして透き通るような白い肌。愛娘の”月島姉妹風アレンジ”に、下半身が疼き出す。
 ”父親”の雰囲気が明らかに変わったのが、真央にも伝わったらしい。その青い目がちらりと”下”を覘き見て、そして僅かに頬を染める。
「……真央、今夜はそのままで居ろ。いいな?」
「…………うん」
 こくりと頷く真央はもう、微かに息を弾ませていた。月彦は通学鞄を真央に預け、その足で浴室へと駆け込み、手早く入浴を済ませた。
 愛娘との”夜の遊戯”がいつになくハッスルしたのは、言うまでもない。


 雛森雪乃は憂鬱だった。
 思い返せば、少し距離を置いた方がいいと判断したこと自体、大きな間違いだった。
 自分の過失で怪我をさせてしまったのだから、それこそ普段よりもより密に声をかけ、必要であれば看護をするべきだった――そう思えてならない。
 しかし当時は「怪我をさせてしまったことを反省している」という気持ちを示すためにも大人しくしていた方が良いと判断した。実のところ、そうやって大人しくしていれば、じきに月彦の方から「そんなに気にしなくていいんですよ?」という具合にフォローがもらえるのではないかという、我ながら小ずるい打算があったのも事実だ。
 が、そんな雪乃の甘すぎる目論見は見事に裏目に出た。月彦の側からフォローが来るどころか、まるでこれまでの甘い蜜月など存在しなかったかのように、学校での月彦の態度は”教師と生徒”そのものだった。
 一度だけ、我慢出来ずに月彦に話しかけようとしたが、それも結局失敗した。辛うじて月彦の手の怪我がほぼ治っているということだけは解ったが、だからといって罪自体が消えたわけではない。目が合うなり、思わずその場から逃げ出してしまった。
 或いは、それがいけなかったのかもしれない。以降月彦の態度は僅かだが警戒を孕んだものになり、それは明らかに関係の悪化を示唆していた。それも、ここ一週間ほどはさらに顕著だ。露骨に避けられているような気さえして、思わず姉に弱音まで漏らした。が、あの姉はフォローどころか有効なアドバイス一つ寄越さなかった。
「そんなのはよくあること」「あんたは気にしすぎ」――交際経験豊富な姉ならば、てっきりそんな言葉をかけてくれるのではと期待していた雪乃は、またしても自分の目論見が甘かったことを悟った。
 まさか、本当にこのまま”終わる”のではないか。そんな黒い不安が日ごとに大きくなり、眠れない夜が続いている。最近は酒の力を借りてもなかなか寝付けず、明け方近くになって漸く寝付けたと思えばすぐさま目覚ましのアラームで起こされる毎日だ。毎夜のように、明日こそは改めて月彦に謝罪し、関係を修復しようと決意するも、いざ学校で月彦の姿を見かけると足が竦み、声をかけることが出来ない。そして夜には後悔し、明日こそはと決意し直す――その繰り返しだ。
 声をかけることが出来ないのは、もちろん”終わり”が怖いからだ。決定的な宣告をされなければ、希望を抱いていられるからだ。そう、月彦の態度がどう見ても自分に好意的ではないと解ってはいても、その実月彦の方も声をかけるタイミングが掴めなくて不安な毎日を送っているだけ――そんな甘い希望に縋っていられるからだ。
 しかし、長引けば長引くほど状況が悪化するのは間違いないということも解っている。夜ごと大きくなる不安に削られていく甘い希望の綱――それが千切れてしまう前に行動に移さなくてはならない。
(……明日こそは、絶対の絶対の絶対に!)
 木曜日の夜、雪乃は通算何度目か解らない”決意”を固めた。金曜日の放課後、月彦に合って、怪我をさせたことと、今まで声をかけられなかったことを謝罪する。そして――月彦の様子をよく観察して――可能であれば夕食に誘い、これまた可能であれば”お泊まり”に招待する。
 巧くいけば、関係の修復と溜まりに溜まった不安分たっぷり甘えることが出来る――自分にそう言い聞かせる。この際セックスは二の次だが、”喧嘩の後のセックスは燃える”という俗説も、少なからず雪乃の背中を後押ししていた。

 待ち遠しくもあり、覚悟を決める為に出来るだけ遅く来て貰いたくもある――そんな気持ちで迎えた放課後。別クラスでの六限目の授業を終えた雪乃は職員室には戻らず、その足で月彦のクラスへ向かった。
「あ、あの……」
 そんな声が背後から聞こえたが、聞こえないフリをして急ぐ。自分に声をかけているように聞こえたが、きっと気のせいだろう。仮に授業後の質問だったとしても、今日ばかりは応対している暇はない、何しろこっちは自分の人生に関わる問題なのだから。
 びゅんっ、と。金色の影が目の前に飛び出して来たのはその時だった。
「ひ、雛森、せんせい!」
 まるで通せんぼでもするように飛び出して来たラビに、雪乃は危うく舌打ちをしそうになる。
「ごめんなさい、月島さん。ちょっと今日は急いでるの」
 舌打ちを噛み殺して”申しわけ無さそうな笑顔”を浮かべ、その脇を早足に通り抜ける。
「ま、待っ――て、ください!」
 刹那、右手を強く掴まれて雪乃は危うくバランスを崩して転びそうになる。左手に持っていた教材がこぼれ落ち、廊下に音を立てて広がった。
「ご、ごめん、なさい!」
 ラビが悲鳴を上げてしゃがみ込み、教材を拾い集める。そんなラビの姿に、雪乃は苛立ちを隠せなかった。
(……何なの、この子は)
 思い返せば、月彦とイチャつく為に作った天文部が二人きりの場にならなかったのもラビが出しゃばってきたせいだ。ラビさえ居なければ、それこそ今の何倍も月彦と二人きりの時間が過ごせた筈なのに。
 月彦との関係が危ぶまれる不安と、焦り。積もりに積もった鬱憤から、かつて無いほどにラビが鬱陶しく感じる。衆目が無ければ、或いは今の状況は全部お前のせいだと当たり散らしていたかもしれない。
「ごめんなさい、月島さん。今日は本当に急いでるの。質問なら、後で職員室に来てね」
 我ながら、よく自制できたと褒め称えたい気分だった。散らばったテキストを拾い集めて、再び足早にその場を離れる。今度はラビは追って来なかった。
 余計な時間を食ってしまったが、致命的ではない筈だ。少なくとも、HRが終わるまでは月彦も教室から出たりはしない筈だ。
(……深呼吸、深呼吸よ、雪乃……落ち着いて)
 月彦と話をしなければならない。だが、廊下で会って、その場でというわけにもいかない。まずは一端人気の無い場所に、出来れば邪魔の入らない二人きりになれる場所に連れ出す必要がある。
 落ち着いて、冷静に。あくまで、天文部顧問が天文部員に用があるという体を装わなければならない。
「えっ……」
 月彦の教室の前まで来た雪乃は、予想外の光景に思わず声が出た。教室の戸が開き、まばらながらも生徒が廊下に出ているのだ。
 初めは、担任教師がまだ教室に来ておらず、HRそのものが始まっていないのだと思った。が、廊下に出ている生徒達が通学鞄をかけていることが、その可能性を否定させた。
(……そうか、六限目は――!)
 雪乃は思い出した。月彦のクラスの六限目は、担任が受け持っている科目であったことを。恐らく、六限目が終わるなり、そのまま手早くHRも終わらせでもしたのではないか。
 いや、まだ大丈夫だ。HRが終わっても、月彦が帰る前なら何の問題もない。雪乃は小走りに教室に駆け寄り、今度は丁度教室を出ようとしていた女子生徒とぶつかってしまった。
「ご、ごめんなさい。大丈夫?」
 今度はテキストは落とさなかったが、小柄な女子生徒は悲鳴とともに教室の床に尻餅をついていた。ああもうなんでこんな時にと、歯がゆさに地団駄を踏みたい気分だったが、今度ばかりは完全に自分の過失だ。雪乃はひきつった笑顔を浮かべながら女子生徒に手を差し伸べ、謝罪する。
(紺崎くんは……!?)
 怪訝そうな目の女子生徒にもう一度だけ謝ってから視線を切り、そのまま教室の中を見回す。既に半分ほどしかのこっていない生徒達は一様に教室の入り口――すなわち、”女子生徒を突き飛ばしていきなり教室に飛び込んできた英語教師”を見ており、その中に紺崎月彦は居なかった。
「……っっっっっ!!!!」
 思わず金切り声を上げたくなるのを、雪乃は懸命に堪えた。何故”こう”なるのか。或いは、ラビに足止めを食らわなければ間に合っていたかもしれないと思うと、あの金髪娘への苛立ちがさらに募った。
(ううん、それでも紺崎くんが帰ってそんなに時間が経ってるとは思えないわ。追いかければ、まだ――!)
 巧くいけば、昇降口辺りで追いつける筈――そう思い、雪乃は教室を後にして昇降口へと向かう。本音を言えば全力疾走したいところだが、下校時で生徒が溢れている校内でそんなことは出来ない。アメフトのタックルよろしく片っ端から全員跳ね飛ばして一直線に昇降口へと向かいたい衝動を堪えながら、雪乃は人波を縫うように昇降口へと降り立ち、
「居た! 紺崎く――」
 思わず声をかけようとして、口を覆う。まだ結構な距離がある、ここで呼べばそれこそ下校中の生徒全員の注目を集めることになる。さすがにそれは避けたかった。
(でも……!)
 既に月彦は靴箱から自分の靴を取り出そうとしている所だった。早く声をかけなければ校舎の外まで追う羽目になる。雪乃はなんとか穏便に呼び止められる距離まで近づこうとするが、その努力も虚しく月彦はさっさと昇降口の外へと出てしまった。
(追わなきゃ……ああもう! 私はあっちじゃない!)
 教員用の昇降口は、校舎の丁度真逆側だ。一瞬、このまま外に飛び出して月彦を呼び止めようかと思ったが、教師が内履きのまま校舎の外まで生徒を追いかけて行けば、それこそ何事かと注目を浴びるのは必至だ。
 雪乃は泣きたい気持ちを堪えながら、教員用の昇降口へと急いだ。堪えはしたが、目尻にうっすら涙が溜まっていた。また月曜日に出直せばいい――そんな気持ちがもたげそうになるのを必死に押さえつけながら、月彦の後を追った。



 一つ一つは小さなミスだが、積み重なれば取り返しのつかない致命的なものになる。紺崎家の前で月彦を待ちながら、雪乃はそのことを痛感していた。
 教員用の昇降口で外履きに履き替え、月彦を追う――筈だった。しかし運悪く昇降口で教頭に遭遇した。ただそれだけなら、何事も無かった。「ちょっと車に忘れ物をしちゃって――」そんな感じで軽く挨拶して、そのまま月彦を追えただろう。
 問題は、雪乃がその手に教材を抱えていたことだ。授業を終えたばかりのその足で、明らかに慌てた様子で外に出て行こうとする姿が余程不審を買ったのだろう。呼び止められた雪乃は、自分でも苦しすぎると思う言い訳を重ねに重ねて余計な時間を食った挙げ句、一度職員室に教材を置きに戻るという致命的すぎるタイムロスを食らう事となった。
 それだけならば、まだ挽回は可能だった。しかし冷静さを欠いていた雪乃はそのまま徒歩で月彦を追ってしまった。結果、雪乃が月彦の背中を視界に捕らえたのは自宅にたどり着く直前で、声を掛ける前に月彦は玄関のドアの向こうに消えてしまった。徒歩で追わず、車で追ってれば途中で追いつけた可能性に気づいたのは、門扉の前で五分ほど自失した後だった。
 自失していたのは、自宅の中にまで入られては声をかける為の難易度が格段に跳ね上がるからだ。呼び鈴を鳴らして、月彦が出てくれるのならまだ良い。問題は家族が出た場合だ。一体なんと言って月彦を呼んで貰えばいいのだろうか。もちろん天文部顧問として通達事項を漏らしていた――そう誤魔化すことは出来るが、電話ではなく直接家に来るほどの重要事項とは一体何かと勘ぐられれば、誤魔化すのも難しくなる。
 では電話で呼び出すか?――これも難易度が高い。ただでさえ月彦に疎まれているかもしれないというのに、さらに電話で呼び出す? それこそ鬱陶しい女だと思われること必然だ。面と向かって直接誠意を伝えればまだなんとかなったかもしれないのに、電話を使ったばかりに「いい加減にしてください」と一蹴されて終わったのでは死んでも死にきれない。
 とはいえ、自宅に入られる前に声をかけられなかった以上今日はもう諦めるしかないことも事実だった。仲直りをして、あわよくば夜通しイチャイチャするという目論見も、甘い甘い仲直りックスも、全て。
 固い決意も、その先の未来も全て絶望色に塗られた雪乃は諦めて帰るしかないと解っていても、なかなかその場から動けなかった。それでもいつまでも立ち尽くすわけにはいかないと思って、踵を返したその矢先。
 耳が、玄関のドアノブが回る音を拾った。
「っ!? 紺崎くッ――」
 振り向きざま、開いたドアの隙間の向こうに月彦の顔を見るなり声を掛けようとした雪乃は慌てて口を噤んで門扉の影に隠れた。そのまま、玄関を出て家の前の道を歩いて行く月彦の視界から隠れるように路地に身を潜め、慎重にその背へと視線を向ける。
(えっ……えっ? どういうこと……?)
 雪乃自身、声をかけようとして何故自分が隠れてしまったのかを理解していなかった。自分がとった行動が自分で理解出来ず、混乱していた。
 否、正確には隠れた理由は分かりきっていた。月彦の格好が、ただその辺を散歩するような格好ではなく”異性を意識したもの”だったからだ。もちろん、ただの気のせいという可能性もある。が、こうして時間をかけてじっくり後方から観察する限り、やはり最初に見た時に感じた直感は正しいと思わざるを得ない。
 格好だけではない。その軽やかな足取りは明らかに”楽しい予定”へと向かうそれだ。格好についても然り。恋人として、その辺りの真贋には自信があった。
「…………どういうこと?」
 今度は、思わず呟きが出た。”異性との楽しい予定”へと向かう月彦。しかし、恋人である筈の自分は月彦が何処に向かうのかを知らない。そんな事がありうるのだろうか?
 雪乃は息を潜め、月彦に気取られないようにその後を追う。既に、謝罪して関係を修復するという当初の目的は頭から消えていた。月彦がこんな楽しげに、それこそ鼻歌でも歌いそうな程に軽やかな足取りで、一体何処に向かうのかを確かめなければと、その一心に塗りつぶされていた。
 途中、月彦はコンビニに入り、買い物袋を下げて出てきた。中身はどうやら飲み物とお菓子類の用だった。明らかに誰かへのお土産だ。
 まさか、と思う。まさか、これは月彦のサプライズなのではと。たまたま月彦も日を同じくして是が非でも関係を修復したいと思っていて、サプライズで部屋を訪ねてきて驚かせるつもりだったのではないかと。
 そんな、甘すぎる雪乃の目論見は、眼前の月彦の行動によってあっさりと裏切られた。
「あっ……」
 ふっと、目の前で月彦の姿が消えた。消えたように見えたのは、家の敷地に入ったからだ。その表札を見るなり、雪乃はなるほどと納得した。
「そういう、こと」
 ストンと、これ以上無く腑に落ちた。
 何故、月彦がよそよそしかったのか。
 何故、帰り際にラビが話しかけてきたのか。
 雪乃は全てを理解し、その場を後にした。



「あれ? ぶちょーさん、集合は六時じゃなかったの?」
「やっ、レミちゃん。ちょっと早すぎたかな」
 腕時計に視線を落とす。まだ時計の針は五時を過ぎたばかりだ。確かにちょっと早すぎたかもしれない。
「とりあえず、上がる? 狭いけど」
「ありがとう。あっ、飲み物は買ってきたからおかまいなく」
 レミに促されて居間へと上がる。どうやらレミもついさっき帰って来たばかりらしく、まだ制服姿で通学鞄も置きっぱなしだ。
「月島さんもまだ帰ってないんだ」
「おねーちゃんはねー、いつも遅いんだよねー。さすがに六時までには帰って来ると思うけど……あっ、ぶちょーさん。着替えるからからこっち見ないでね?」
「うん。……月島さん、帰り遅いの?」
「遅いよ。だいたいいつもご飯直前まで帰ってこないから」
 すぐ近くで着替えているのだろう。ぱさり、ぱさりと衣擦れの音がいやでも耳に入る。
「そうか……」
 もしかすると、ラビの方は律儀に毎日部室に通っているのかもしれない。そう考えると、なんだか申し訳なく思えてくる。
(……そういえば、最近先生とも全然喋ってないな)
 スキー旅行以降、手の怪我のことを雪乃が気にしている様だったから、しばらく距離を置いた方がいいかと思い、部室へ行くのも避けていた。そうこうしているうちに声を掛けるタイミングを見失ってしまい、雪乃の鬱憤が相当溜まっていることが解ってからは尚更こちらから声を掛けづらくなってしまった。
(……いっそこのままフェードアウト出来れば……いやでも――)
 なんだかんだで”惜しい”と感じる。多少面倒くさくはあっても、あのモデルのようなスタイルと、何より現役の英語教師というシチュエーションが捨てるには惜しすぎると感じる。
 ”生徒と教師の禁断の関係”に興奮するようなことは、自分に限ってはありえない――そう思っていた時期もあった。否、最初は間違いなくそうだった筈だ。もしその属性があるとしたら、それは後天的に雪乃に付与されたものだ。
 特に、英語の担当が雪乃に変わってからは授業中に嫌でも目に入るその後ろ姿に無駄にムラムラさせられることも少なくない。それこそ雪乃との関係が無ければ、タイトミニを弾けんばかりにぱつんぱつんにさせている肉付きの良い尻が瞼に焼き付いて離れず、眠れぬ夜を過ごす羽目になっていたかもしれない。
「……ただい、ま」
 玄関の方から聞こえて来た声に、月彦はハッと現実に引き戻された。
「あっ、おかえり月島さ――」
「きゃあああ! ぶちょーさん! まだこっち見ちゃダメ!」
「うわあああああ! レミちゃんごめん!」
 前が開いたブラウスに下は下着のみ――そんなレミの姿が振り返り様に飛び込んできて月彦は慌てて向き直る。
「つき、ひこ、くん?」
「や、やぁ……おじゃまして、ます」
 ラビの声に、月彦はやむなく背を向けたまま応える。
「ほら、今日は矢紗美さんちに遊びに行く日だろ? 楽しみで、ちょっと早く来すぎちゃって」
「ぶちょーさん、もう大丈夫だよ」
「りょーかい。レミちゃん本当にゴメンね」
 謝りながら向き直る。紺のスウェットに黒のスキニー姿のレミが頬を露骨に膨らませていた。
「もー。ぶちょーさん罰として、おねーちゃんの着替え一から十までガン見の刑ね?」
 それはラビへの罰になるのではないかと、苦笑する。
「……月島さん?」
 そこではたと気がつく。玄関で立ち尽くすラビの明らかに消沈した顔。少なくとも、これから楽しい予定があるという女学生のそれではなかった。
「ほら、おねーちゃん早く上がって着替えないと。ただでさえおねーちゃん着替えるの遅いんだから、矢紗美さん来ちゃうよ?」
 レミに手を引かれるようにして家に上がるラビの浮かない顔が気になるも、ラビが着替えるのであれば今度こそ覗くわけにはいかない。レミも本気でラビの着替えを見せるつもりはないのだろう、今度は着替えとラビを隣の寝室へと押し込め、襖を閉じてしまった。
「レミちゃん、レミちゃん」
「うん? なーに、ぶちょーさん」
「月島さん、なんか元気ないみたいだけど……レミちゃん何か知らない?」
「……おねーちゃんね、今日の事……雛森先生に言わなくていいのかなぁ、ってずっと気にしてたの。多分、そのことをまだ引きずってるんじゃないのかなぁ」
「それは……」
 どうなのだろう。月彦は考える。
(先生の性格を考えれば、今日のことを教えたら……間違いなくぶち壊しになるだろうし……)
 何より、レミとラビの母親の件を内密にする意味でも、雪乃には秘密にしておいたほうがいい。その点、月彦の意見は矢紗美と同じだった。が、そのことに関してラビにはっきりと同意を得たわけではない。もしかしたらラビはラビなりに考え、今回の事がまるで雪乃だけ仲間はずれにするように感じられるのかもしれない。
「でもレミちゃん。矢紗美さんも言ってたけど、レミちゃんたちのお母さんのことを秘密にする意味でも、やっぱり先生には教えない方がいいと思うんだ」
「レミもそう思うんだけど……でも、おねーちゃんは雛森先生なら大丈夫だって……。おねーちゃん、変に頑固なところあるから……」
「……確かに、先生なら秘密を漏らしたりはしないだろうけど………………」
 少なくとも、意図的に漏らしはしないだろうが、矢紗美ほどしっかりしている印象のない雪乃だ。”ついうっかり口を滑らせる”くらいの事は十分考えられる。
(……ていうか、月島さんって妙に先生に懐いてるよな)
 雪乃のラビへの態度が控えめに見てもぞんざいな為、月彦には余計にそれが不可解に思えるのだった。
「あっ、そーだ。ぶちょーさん、今日ってお泊まりになるのかな?」
「お泊まり……いや、そんなに遅くは……多分……」
 はて、レミに言われるまで月彦自身その可能性を全く考えていなかった。というのも、矢紗美も泊まりの用意をしておけとは一言も言わなかったからだ。
「でも、今日は映画鑑賞会なんでしょ? 六時にうちに集まって、そのあと矢紗美おねーさんちに行って、仮に七時から見始めたとして、映画四つ全部見たら大分遅くなっちゃうよ?」
「確かに……でも、鑑賞会って言ってもレミちゃん達のお母さんが出てる映画四つ全部一気に見るとは限らないんじゃないかな。いくらお母さんが出てるとはいっても、そんなに一気に見たら疲れるし、絶対途中で寝ちゃうんじゃないかなぁ」
 そう、普通ならそんなことはしない――そう思うが、相手は矢紗美だ。というより、”あの雪乃の姉”だ。こと、自分が好きなモノに関しては暴走機関車の様になってしまう雪乃と似たところが矢紗美にもあることを、月彦は前回知ってしまった。
「ま、まぁ……あんまり遅くなるようなら、俺から矢紗美さんに言うよ。今日はもう遅いから、続きはまた今度にしましょう、ってさ。だから”お泊まり”の準備はいらないよ」
「そっかー、そうだよね。ぶちょーさんも居るんだし、下手すると4Pになっちゃうもんね。お泊まりは無しかー、ちょっと残念かも」
「レミちゃん……」
 恐らくレミは冗談で言ってるのだろうが、相手が矢紗美ではその未来が実現する可能性は決してゼロではないのだ。
(……矢紗美さんがお酒を飲もうとしてたら、止めておこう)
 前回のスキー旅行の時も、酔った矢紗美にレミは随分と絡まれていた。レミ自身忘れてはいない筈にもかかわらず警戒の様子がないということは、少なくとも”怖い経験”では無かったということだろうか。
 スッ、と。殆ど音を立てずに襖が開いたのはその時だ。白のパーカーと、下はレミと同じ黒のスキニー姿のラビが、ちょこんと。月彦とレミの間に割り込むようにして座る。
「やぁ、月島さん。改めておかえり、そしてお邪魔してます」
「……ただ、いま」
 やはり、ラビは元気がない。月彦は一瞬レミへと視線を向けると、レミはふいとそっぽを向いてしまった。
「……月島さん、もしかして……今日のこと、先生に相談したの?」
 或いは、相談した際に雪乃から思わぬ罵声でも浴びてこんなにヘコんでいるのでは――そんな危惧は、迷い無くラビが首を振ったことで霧散した。
「ひ、雛森、先生……忙しい、って……」
「そ……っか。まあ、先生もきっといろいろあるだろうし、しょうがないよ」
 ラビに同情する反面、安堵もする。仮にラビの相談が成功していた場合、とんでもなくややこしいことになったのは間違いない。
「矢紗美さんも言ってたけど、月島さん達のお母さんの事は出来るだけ秘密にしてたほうがいいと思うし……それにほら、スキーの時もそうだったけど、先生と矢紗美さんって張り合って無茶したりするから……」
「……うん」
 やはり、ラビの顔は晴れない。これはもう、言葉では何を言ってもダメかもしれないと、月彦は引き下がることにした。
「ね、ね、ぶちょーさん。これってもしかして映画用のお菓子?」
「あぁ、うん。多分矢紗美さんが用意してそうとは思ったけどさ」
 なんとなく、おまけ的な形でお呼ばれした手前、お土産くらいは持って行った方がいいかなと思っての事だった。
「レミなんにも考えてなかった……何か用意したほうがいいかなぁ……」
「いや、レミちゃんたちはそんな気を遣わなくていいと思うよ。なんたって、今日の主賓みたいなものだし」
「うーん……じゃあレミ、お料理の手伝い頑張る! きっとお料理もするよね!」
「うんうん、それでいいと思うよ。っと、レミちゃん、携帯鳴ってない?」
「あっ、矢紗美おねーさんだ! もしもし?」
 レミが携帯を手に立ち上がり、台所の方へと距離を取る。
「うん、うん。ぶちょーさんももう来てるよ。うん、わかった、外に出てるね! 矢紗美おねーさん、もうすぐ着くってー!」
「りょーかい。月島さん、外に出てようか」
「……うん」



「ちょっと遅くなっちゃった。待たせちゃってごめんね」
「いえ、全然です。あっ、これ参加料です」
「あら、お菓子に飲み物? そんなの全部用意してあるのに」
「そうじゃないかなーとは思ったんですけど」
「こんばんはー! 今日はおねーちゃん共々おじゃましまーす!」
「あらレミちゃん、今日はまた一段と可愛いわね。月島さんも、今日はいっぱい料理準備したから、好きなだけ食べてね」
「準備って……これからみんなでじゃないんですか?」
「折角レミちゃんたちが遊びに来るんだもの。今日は有給とって、朝から掃除頑張ってたら、なんかテンション上がっちゃって、料理もやっちゃえー!って。そんなわけで、もう全部準備できちゃってるの」
「……そこまで気合いれなくても」
 どうも、月島姉妹に対する矢紗美の入れ込みようは少々度を超しているような気がしてくる。或いはこれが”雛森家の女”の性のようなものなのだろうか。
「あ、あのっ……!」
「あら、月島さん今日はレミちゃんとおそろい?」
 矢紗美がレミとラビを見比べるように交互に見る。
「うん、二人ともすっごく似合ってるわ。なんていうか”姉妹!”って感じでちょっと憧れちゃう」
「何言ってるんですか。矢紗美さんだって三姉妹じゃないですか」
「うちはほら……妹が”アレ”だし、瑤子とは年離れてたからねー。”こういうの”は全然なのよ。そもそも雪乃には小学生の時点で身長抜かれてたし」
 なるほどと、月彦は頷く。矢紗美がレミを気に入っているのは、矢紗美が欲しかった”典型的妹”であるからなのかもしれない。


 矢紗美の軽自動車に三人乗り込み、シートベルトを締めるや程なく発進する。なんとなく助手席はレミに譲った方がいい気がして、月彦はラビと共に後部座席に乗った。
「料理たくさんあるんだって、良かったね、月島さん」
 少しでもラビが元気を出してくれればと思って話しかけるも、ラビは明らかに愛想笑いと解る微笑を返してくれただけだった。
(……ヤバいな。このままじゃ、矢紗美さんも気にするぞ)
 今日は四人で楽しく映画パーティの予定が、一人明らかに乗り気でないことで大失敗となるのは避けたい。矢紗美の家に着くまでになんとしても、ラビに元気を出してもらう必要があると、月彦は必死に考えを巡らせる。
(月島さんが食いつきそうな話……なんかないか?)
 ラビはにんじんとトウモロコシが好きだという。ならば、それらにまつわる豆知識などはどうだろうか?
「そ、そういえば……月島さん。ウサギって、何で目が赤いか知ってる?」
 ラビは微かに首を傾げ、そして小さく振った。
「あれはね、実はにんじんを食べてるかららしいよ」
「……?」
 ラビが困った様に小首を傾げる。だから何だと言われているようで、月彦は俄に顔を引きつらせた。
(ダメだ、裏目だ。何か他にいい手は――)
 つまらない話をした詫びに、両胸をマッサージしてあげるというのはどうだろうか?――そんな駄案を即刻却下しながら、月彦は唸る。
「そうそう、お菓子と飲み物は用意してるけど、もし他に何か欲しいものや食べたいものがあったら、遠慮無く言ってね。途中のスーパーに寄って買って来るから」
「ありがとうございます。俺は大丈夫です」
「レミも大丈夫でーす」
「月島さんは……大丈夫?」
 ラビはこくりと頷く。
「月島さんも大丈夫みたいです」
「そう。月島さん、緊張してるのかも知れないけど、本当に遠慮なんてしなくていいからね?」
 緊張している――確かに、ラビは身を固くしているようにも見える。やはり、なんとか緊張を解く必要がある――月彦は記憶を巡らせ、絶好の話題があることを思い出した。
「そ、そーだ! 月島さん、ずっと聞きそびれてたけど……」
「な、に?」
「ほら、こないだ占って貰っただろ? あの時の、最後のカードの意味。あれの意味が分からなくってさ」
 ラビが少し考え、そしてハッと。思い出したように目を丸くした。そして次の瞬間、明らかに表情を曇らせた。
「あの、カードは――」
 ラビが言いかけた瞬間、俄に車が停止した。そして、ゆっくりとバックし、再度止まった。
「はい、到着。みんな、忘れ物が無いようにしてね」
「はーい!」
 レミが元気よく真っ先に降り、矢紗美も降りる。
「あっ……俺たちも降りようか」
 ラビが頷く。月彦が先に降り、ラビが降りるのを確認して矢紗美が鍵を掛ける。
「あっ、レミちゃんその先まっすぐ行ったらエレベータがあるから、先に行って呼んでおいてもらえる?」
「りょーかい! 行こう、おねーちゃん」
 レミがラビの手を握って、元気よく小走りに行ってしまう。それを確認してから、ずいと矢紗美が身を寄せてきた。
「ねえ、紺崎クン。月島さんが妙にテンション低いけど、何かあったの?」
「ああ、いえ……ちょっと……気にかかることがあるみたいで」
「気にかかること?」
「ええと……月島さん、先生を仲間はずれにしてるみたいで、それがどうも抵抗があるみたいなんです」
「あー……。そういうコトね」
 こんっ、と。矢紗美は自分の頭を小突く。
「月島さんがそんな風に考えてるとは思ってなかったわ。私のミスね」
「いえ、矢紗美さんのせいじゃ……俺も今回の事は仕方ないって説得はしたんですけど」
「うーん……ひょっとして、レミちゃんも同じ考えだったりする?」
「いえ、レミちゃんは少なくとも……今回のコトに関しては先生に声をかけられないのは仕方ないってことで、納得してると思います」
「そっかー。月島さんは部活で雪乃と会ってるから、尚更申し訳なさが勝っちゃうのかもしれないわね」
「そうですね。……とはいえ、レミちゃんだけ誘って月島さんは留守番っていうのも……」
「そうよねぇ……。うーん、仕方ない! 月島さんのフォローは紺崎クンに任せちゃっていいかしら?」
「そう……ですね。出来るだけ頑張ってみます」
「うんうん、厄介事押しつけるみたいでごめんね。その分、レミちゃんの方は任せといて!」
「それは良いですけど、今夜はお酒は無しでお願いします」
「あら、どうして?」
「前のスキーの時、酔って散々レミちゃんに絡んでたじゃないですか。ああいうのは良くないと思います!」
「ああ、アレは酔ったフリして絡んでただけ。頭の中ははっきりしてたから大丈夫」
「余計にタチ悪いです!」
「そう? まぁ、確かにシラフじゃちょっとやりにくいしね。それに今夜はレミちゃんたち送っていかないといけないから、どのみちお酒は飲まないつもりよ」
 ならば、一安心だと月彦は旨をなで下ろす。
「それより、早く後を追わないとレミちゃんたちが心配しちゃうんじゃない?」
「そうですね、急ぎましょう」



「わぁー! すっごい! パーティみたい!」
「でしょお? 記念に写メ撮ってくれもいいのよ?」
「確かにこれは……矢紗美さん、どんだけ頑張ったんですか」
 玄関ドアを開けリビングへと入るなり、そこに待ち受けていたのはさながら立食パーティのような料理の数々だった。テーブルの上には三つの大皿とボウルが並び、それぞれにまったく違う料理が並べられていた。ある皿には一口サイズのクラッカーが並べられ、その上にはキャビアや生ハムメロン、魚介やチーズ等が飾り付けられ、綺麗なグラデーションを描いている。隣の皿にはいやに海老の比率の高いエビチリが。別の皿には中心部に見事に赤身を残したローストビーフが。最後のボウルには色とりどりの生野菜が幾重にも層を成した見事なサラダが盛られていた。
 それだけでも圧倒されるというのに、テーブルの上には別途出前寿司の桶まで置かれていた。さらにさらにその隣にはピザ屋の箱までもが。
「って、矢紗美さん! いくらなんでも多過ぎですよ! どんだけですか!」
「あはは……冷静になってみると確かにちょっと準備しすぎたかなーって……あっ、ちなみにピザとお寿司は出前なの。ピザはともかくお寿司はさすがに自分で作る自信が無くって」
「そんなのは見れば解りますって……それより、どうするんですかこんなにたくさん……とても4人じゃ……」
「それなんだけど、紺崎クン……実はね、もう一つあるの」
「はぁ!?」
 ややばつが悪そうに、しかしどこか自慢げに矢紗美は両手にミトンをはめ、オーブンから大皿を取り出す。その皿に盛られた料理を見るなり、月彦は呆れを通り越して絶句した。
「わぁー! わぁー! すっごぉい! ローストチキンだ! こんなの映画の中でしか見た事ないよ! ね、おねーちゃん!」
 そう、矢紗美がオーブンから取り出してきたのは、丸々一匹分のローストチキンだ。見事にきつね色に焼き上げられたそれは、月彦の見る限り完璧な焼き加減のものだった。普段であれば月彦もレミ同様、矢紗美の料理の腕前に驚嘆していたことだろう。
 そう、Lサイズのピザ二枚と、寿司桶三枚。そして大皿三つ分の料理さえ無ければ。
「矢紗美さん……」
「いやほら、紺崎クンってすっごく食べるじゃない? それにこないだ月島さんもびっくりするくらい食べてたから、たくさん用意しなきゃって思って準備してたんだけど、そういえば月島さんお肉ダメだって途中で気づいて、海鮮系の料理を足してたら……」
 こうなってしまった、と。矢紗美は大して悪びれるでもなくてへぺろをする。
「それでも……これは……」
「まぁまぁ、別に今夜全部食べないといけないってわけじゃないし。余った分はお土産に包んであげるからだいじょーぶだって!」
「…………矢紗美さんがいいなら、いいんですけど」
 手間はもとより、費用も相当かかったのではないだろうか。やはり、月島姉妹への矢紗美の入れ込み様は度を超して――否、些か常軌を逸していると言わざるを得ない。
「ええと、夕飯をここで食べてから、向こうの居間で映画を見るんですか? それともここで立食しながら、遠巻きに居間の方で上映する映画を見る感じになるんですか?」
「それ。それなのよ! 私としては料理を摘まみながらわいわい映画を見るのを想定してたんだけど、これ全部居間のほうに持って行くのは無理だし、かといって食べたい料理だけ皿に取って居間に移動して映画見るのも、補充の時にいちいち映画止めないといけなくなるからテンポ悪くなるし……」
 うーんと、矢紗美は困り果てたとばかりに頬に手を当てる。
「ねえ、紺崎クン。どうすればいいと思う?」
「知りませんよ!」

 結局、居間のテーブルに折りたたみ式のテーブルを付け足し、面積を確保してから出来るだけ料理を居間の方に運ぶという形になった。さすがにローストチキンをそのまま持って行くのは場所をとるという意味でも映画との相性も悪いということで、矢紗美が先に切り分け、各自の皿に(もちろんラビを除く)に数切れずつ盛っておくという形になった。
 寿司桶はテーブルの上に置いたがピザの箱はやむなく絨毯の上に展開し、あとは各自自前の皿に好きな料理を取って好きに食べながらの映画鑑賞というスタイルに落ち着いた。
「さーて、飲み物も行き渡ったわね? それじゃあかんぱーい! の前に、何から見るかだけど……一応訊いておくわね。三人とも、どの映画から見たいっていう希望はある?」
「確か、全部で四つですよね。俺は映画の内容とかも全然知りませんし、矢紗美さんお勧めの順番でいいですよ。あっ、出来ればグロいシーンが無いのでお願いします。一応、食事中ですから」
「レミも、血とか出るシーンがあるのは食べ終わってからがいいなぁ。あとあと、一番面白いのは最後に見たい、かも」
「うんうん。……月島さんは? 何か希望ある?」
 ラビは少し答えに詰まり、そして小さく首を振った。
「そっか。じゃあ、三人の希望からお勧めの順番を言うと、最初はやっぱりデビュー作の”アンラッキー・パラダイス”ね。コメディでとっつきやすいし、グロいシーンもないから見やすいと思うわ。何より、主役だから最初から最後まで殆どずっと出っぱなしだしね。”第十三独立戦隊”は結構血が流れる映画だし、主役の一人ではあるけどそこまで光ってるってわけでもないから、これは後回しね。”嘘と溜息”はちょっとシリアスな大人向けで話も難しいのよね。ちゃんと見れば絶対面白いからお勧めではあるけど、遅い時間に見ると眠くなっちゃうかもね。そして、最後の”レイニー・レイン”だけど、一番面白い映画は文句無くコレだから、これを一番最後に持ってくるとなると――」
「矢紗美さん、ひょっとして今日、四本全部見るんですか?」
 月彦は壁掛け時計に視線をやる。矢紗美が迎えに来たのが午後六時。そこから矢紗美の家への移動と、テーブルのセッティングや料理の移動など、諸々の準備で現在午後七時過ぎだ。
 ここから映画を四本見るとなると、休憩なしのぶっ通しでも午前三時くらいになるのではないだろうか。
「そこなのよねぇ……。私としては、ジニーの映画なら四本立てどころか十本立てでも全然見れるくらいなんだけど……やっぱり二本くらいにしといたほうがいいかしら?」
「そうですね……四連続となると、俺も最後まで眠らずに見てられる自信はないですし……」
「ええと……レミはね、どっちでもいいよ? おかーさんの映画だもん……だけど、今日はお泊まりの準備はしてきてないから……」
「うーん、じゃあ、紺崎クンの言う通り、今日の所は二本だけにしておいたほうが良さそうね。一番面白いのは最後に見たいっていうレミちゃんの希望には添えないけど、”第十三独立戦隊”と”嘘と溜息”は次の機会ってことにして、今日はデビュー作の”アンラッキー・パラダイス”と”レイニー・レイン”を観よっか」
「次の機会にそのなんとかレインを回すんじゃダメなんですか? 一番面白いならやっぱり最後の楽しみにしたほうがいいんじゃないかと思うんですけど」
「そうしたい所だけど、ちょっとね。こればかりは譲れないの。本当はいの一番に見せたいくらいなんだから」
「そ、そうなんですか?」
「主催者特権として、これだけは譲れないわ。なんといってもジニーの良さが全部詰まってる名作だもの。レミちゃんにも月島さんにも、今日これだけは観て帰ってもらいたいの」
 成る程、主催者特権と言われては、月彦としては従わざるを得なかった。なんといっても、矢紗美にはこれだけの料理を用意する手間と、費用を負担させてしまったのだ。せめてその労力に見合う分くらいは、譲歩しなければならない。
「レミもその2つでおっけーだよ、矢紗美おねーさん」
「ありがとう、レミちゃん。……月島さんもいいかしら?」
 ラビはハッとしたように矢紗美の方を向くと、戸惑うように視線を揺蕩わせた後、注意していないと気づかないくらい小さく、顎を上下させた。
 よし、と矢紗美は大きく頷いてから、”アンラッキー・パラダイス”のパッケージを開き、ディスクをプレーヤーにセットする。
「さぁ、お待たせしました。それじゃあ第一回ヴァージニア杯 映画祭りを開催しまーす! かんぱーい!」
「「かんぱーい!」」
 ヴァージニア杯って何だ――そんなヤボなツッコミを小脇において、月彦はスパークリングマスカットジュースを一気に煽る。ちなみにグラスに注ぐ前のボトルには、過剰なまでに大きなフォントで”ノンアルコール”と明記されていた。
「そしていっただっきまーす! ねえねえ、矢紗美おねーさん! これってキャビアでしょ? 食べてもいーい?」
「もちろん。遠慮なんかしないでどんどん食べて」
「わぁい! レミね、キャビア食べるの初めてなの! ずっと食べてみたくて、どんな味がするんだろうって、ずーっとずーっと気になってたの!」
「そうだったの? だったら言ってくれれば、レミちゃんの為に洗面器1杯分くらいキャビアを用意してあげたのに」
 矢紗美のレミへの入れ込み様だと、本当に用意しそうだと思いながら、月彦もチーズと黒胡椒が乗ったクラッカーを摘まみ、口へと放る。
「おっ、しょっぱ……けど美味っ! これはお酒……じゃなかった。ジュースが進みますね」
 クラッカーの塩味をチーズの脂肪分が口の中で混ざり合い、その濃厚な味をしつこすぎない程度に黒胡椒の風味が抑えてくれる。たった一口分の料理なのにこの中で見事なまでに調和がとれている――などと、料理評論家じみたことを考えながら月彦は葡萄ジュースを煽り、次のクラッカーへと手を伸ばす。
「……しょっぱい……。でも、すっごく美味しいよ! ありがとう、矢紗美おねーさん!」
「レミちゃん、チーズのやつも美味かったからお勧めだよ」
「ほらほら二人とも、もう映画が始まるからそっちもちゃんと観てね?」
「そうでした。……ていうか、これ料理はあんまり凝らないほうが良かったかもですね。それこそ映画に集中出来る様に、市販のポップコーンとかで……」
「まさしく、紺崎クンの言う通りだわ。大事な事って、いつも後になって気がつくものなのよね……」
 とはいえ、腹が減っているのも事実。映画は観たいが食べる手も止めたくない。そんな中、月彦はいつもならいの一番に料理をがっついていそうなラビが全く料理に手をつけていないことに気がついた。
「月島さん……?」
 ラビは料理が盛られた皿へと視線を落としたまま、微動だにしない。その顔はどこか世界の終わりを危惧しているかのようでもあり、少なくとも今から楽しい映画鑑賞会に参加する者の顔ではなかった。そんなラビの様子に気がついていない矢紗美が、プレーヤーのリモコンを手に、再生ボタンを押そうとした刹那。
「ま、待って! くだ、さいっ!」
 弾かれたように、ラビが大声を出した。
「お、お姉ちゃん……?」
「月島さん? どうしたの?」
「ごめん、なさい……やっぱり、映画、観たくない、です」
 えっ、という声が、矢紗美とレミ二人分重なった。事前にラビの様子に気がついていた月彦は、辛うじて声には出さずに済んだ。
「……お母さんに、会いたく、なっちゃう」
 絞り出すようなラビの声に、その場の誰も異を唱える事は出来なかった。



 結局ラビの一声で映画鑑賞会は中止となり、その重く沈んだ空気では「じゃあ代わりに何かパーティゲームでも」ともならず、ラビとレミは殆どとんぼ返りに近い形で自宅へと送られることになった。

「………………二人とも、今日はごめんね。私、一人で舞い上がっちゃって……」
「ううん、レミ達こそごめんなさい。こんなにいっぱいお料理用意してくれたのに………………お姉ちゃんがもうちょっと早く言ってくれたら」
 じろり、と睨む様に、レミが後部座席で申しわけ無さそうに俯いているラビを見る。ちなみにレミの膝の上には、矢紗美が用意した料理のうち、”お土産”に出来たものを可能な限り詰め込んだ重箱入りの紙袋が乗せられている。
「いや、そこは気づいてあげられなかった俺たちが悪いよ」
 思い返せば、映画のことが決まってからラビはいつも何かを言いたげだった。もしかしたら、雪乃に話そうとしていたのも、雪乃なら止めてくれるかもという思いからだったのかもしれない。
(……そうだよな。先生ならもしかしたら……)
 悔しいことに、月彦自身どこかラビとレミの母親が女優であったという事実からの半ばお祭り騒ぎのような空気に飲まれていた。あの場に居なかった雪乃であれば、冷静な第三者の目線として、亡くなったお母さんが出てる映画の鑑賞会なんて無神経過ぎるとアドバイスをくれた可能性は決して低くはないように思える。矢紗美のすることに、ただでさえ否定的な見方をする雪乃であれば尚更だ。
 重い空気は時間の流れにも作用するのかもしれない。距離も、かかった時間も、往路と復路でほぼ同じ筈であるのに、月島家に到着するまでが月彦にはまるで十倍にも長く感じられた。
「……鑑賞会は中止になっちゃったけど、今度改めて四人で遊びに行きましょ。それこそ、キャンプでもスキーでも、なんならカラオケもいいわね」
「そうですね。絶対行きましょう」
「うんうん、レミも絶対行きたい! おねーちゃんもそれならいいでしょ?」
 ラビはしばらく俯いていたが、やがて小さく頷いた。
「もー、おねーちゃんったら。矢紗美おねーさん、次はもうおねーちゃん置いていってもいいから、絶対遊ぼうね!」
 矢紗美が苦笑する。程なく車が月島家へと到着し、レミとラビが”大量のおみやげ”と共に車から降りた。
「じゃあ、レミちゃん、月島さん。またね」
「うん! 矢紗美おねーさんも気をつけてね! ぶちょーさんも!」
 恐らくだが、努めてレミは明るく振る舞ってるのだろう。ばんと、ラビの背中を強く叩く。
「ほら、おねーちゃんも!」
「あっ………………の、今日は、ごめん、なさい」
「こっちこそ本当にごめんなさい。今日の事は気にしないで、次は思い切り遊んで楽しみましょ」
 手を振ってお別れをした後、矢紗美が車を発進させる。そして曲がり角を回るや、
「はぁ〜〜〜〜っ…………………………やっちゃった」
 車を路肩に停め、がっくりとハンドルに手を引っかけるようにして伏せてしまった。
「……やっちゃいましたね。すみません、俺も気づけませんでした」
「月島さん、元気無いなぁとは思ってたのよね。映画があんまり好きじゃないのかなぁとは思ったけど、お母さんが出てる映画ならきっと観れば楽しくなると思ったのよ。……あぁー……私がこんなミスするなんて」
 "私が”というのが、暗に雪乃なら解るけどと言ってるようで、月彦はつい苦笑してしまう。
「きっと俺たちがあまりにも楽しそうに鑑賞会の予定話してたから、ずっと言い出せなかったのかもですね」
「そうねえ……思い返せば、最初に鑑賞会やろうって話を出した時も、月島さんには了解とってなかったような気がするのよねえ……」
「そういえば……そうだったような……」
「月島さんって、あんまり自分の意見言ってくれなそうなところがあるから、無意識にレミちゃんの了解さえとればいいって思い込んでたのかも。良くないなぁ……」
 確かに、矢紗美はレミに執着するあまりどこかラビをその付属物と思っているきらいがあるようにも思える。
「ま、まぁ……次気をつければいいんですよ。それにレミちゃんの方は別に映画観てもいいって感じでしたし、何なら今度はレミちゃんだけ招待して一緒に観るのもいいんじゃないですか?」
「そーねぇ…………確かに、レミちゃんは結構乗り気だったわよね。何故かしら」
「………………生きてるときのお母さんを覚えているかどうか、の差じゃないですか?」
 レミとラビの年の差は確か2か3だった筈だ。ということは、ラビは幼い頃の記憶として、生存時の母のことを覚えている可能性は高い。だからこそ余計に、生きている時の母の姿を見るのが耐えがたく辛く感じたのかもしれない。
「…………月島さんには本当に悪いことしちゃったわね。今度、何かフォローしないと」
「……そんなに深く考えなくても大丈夫だと思いますよ。月島さんとはそんなに長い付き合いじゃないですけど、すごくいい子だってことは解ってますから。今回のことで矢紗美さんのことを恨んだり、悪く思ったりなんて絶対ないと思います」
「だと良いんだけど………………………………?」
「……? どうかしたんですか?」
「いやね、私なんでこんなにレミちゃんたちのことばっかり気に掛けてるのかなって、ふと不思議に思っただけ」
 今頃?と月彦は吹き出しそうになる。
「それ、キャンプの時くらいからずっと思ってましたけど……」
「そう? ほんとなんでかしら…………やっぱりレミちゃんが可愛いから?」
「俺に聞かれても……それこそ”ジニーに似てるから”じゃないんですか?」
「もちろんそれもあったんだろうけど…………なんていうのかしらね。レミちゃんたちを見ているとこう……むずむずするの。胸の奥のこの辺が。何かしてあげたくて堪らなくなるの」
 ただの金髪ハーフフェチとは違うのだろうか。
「もしかして……”これ”が母性本能ってやつなのかしら」
「ぼ、母性……ですか」
 矢紗美のイメージとあまりにかけ離れたそれに、月彦は再度吹き出しそうになった。
「レミちゃん見て母性本能擽られるって……矢紗美さん――」
 何歳でしたっけ?――うっかり口にしかけて、噤む。
「今年で二十七よ、紺崎クンと丁度十違いね」
「そんなに上だったんですね。てっきり二十三くらいかと」
「ありがとう。一応お世辞として受け取っておくわね。ちなみに雪乃は二十五よ」
 何がちなみになのか。年の話になった途端、謎の緊迫感が車内に満ちるのを感じて、月彦は慌てて話題を変えることにした。
「そ、そーだ、矢紗美さん。折角映画の準備したんですし、良かったらこの後二人だけで鑑賞会しませんか?」
「……紺崎クンと二人だけで?」
「はい。実は俺も映画結構楽しみにしてて……それに料理もまだ結構残ってましたよね。あれを矢紗美さんが一人で食べきるのは無理なんじゃないかなーと……」
「そうねえ……最悪捨てるしかないかなと思ってたんだけど……紺崎クンが一緒に食べてくれればなんとかなるかもしれないわね」
 うんと、矢紗美が頷く。
「そうね、いつまでもくよくよ悔やんでても仕方ないし。月島さんへのフォローは後々考えるとして、今日の所は二人だけの映画鑑賞会で楽しんじゃおっか」
「そうしましょう」
 言うが早いか、矢紗美が車を発進させる。はて、いつもの矢紗美であればここで「映画の後はもちろん〜」的な事を言う筈なのだが、それがないということはやはりラビのことで気落ちしているからなのだろうか。
(……まぁ、そならそれで)
 随分と馳走も用意してもらっていることであるし、気落ちしている矢紗美を慰める意味でも、今夜はサービス精神多めで頑張れば良いかと、そんなことを思う月彦だった。



 矢紗美の部屋へと戻り、月島姉妹へのお土産の残りを居間のテーブルへと移しての、改めて映画鑑賞会が始まった。
「確か、コメディでしたっけ」
「うん。CGとかあってないような頃だから、今見ると安っぽく見えちゃうかもしれないけど、その辺はご愛敬ってことで」
「面白ければ何でもいいです、コメディ大好きなんで楽しみです」
「それならきっと気に入ると思うわよ?」
 矢紗美がリモコンの再生ボタンを押と、程なくタイトル画面が表示された。
「一応聞くけど、吹き替えの方が好きだったりする?」
「あー……いえ、ここはあえて吹き替え無しの字幕でお願いします」
 本音を言えば、コメディ映画は吹き替えで楽しみたい派ではあった。が、今回に限って字幕を選んだのは、ラビ達の母親の肉声を聞いてみたいからだった。
「じゃあ、設定はこのままでいいわね」
 矢紗美がリモコンを操作し、本編を開始させる。画面が暗転し、やがてなんともコメディ臭たっぷりの安っぽい音楽が液晶テレビ両脇の別売りスピーカーから流れ出した。
「あれ……矢紗美さん。あのスピーカーって……前は無かったような……」
「あっ、気づいた? レミちゃん達に少しでもいい音質で楽しんでもらおうと思って、スピーカー買っちゃったの」
 さすがにテレビの新調は予算的にちょっと、と矢紗美がてへぺろする。
「……ま、まぁ……今度改めて、何か別の映画の鑑賞会でもやりましょう。もちろんレミちゃん達を招待して」
 こういうところ、先生と同じ血が流れてるなと、月彦は思わざるを得なかった。

 

 

 

 

 


 ”アンラッキー・パラダイス”はジニー演じる少女キャサリンことキャシーの生い立ちの紹介から始まった。裕福な家庭に生まれ、見た目も可愛い彼女は当然のように両親から愛されていた。性格も穏やかで優しく、夜空の流星に「私の周りの人達が、みんな幸せに暮らせますように」と願うような、純真な女の子だった。
 が、そんなキャシーの純真を嘲笑うかのように、並々ならぬ不運が彼女を襲う。両親がやっていた事業の倒産に始まり、さらに両親は二人とも事故死。払われる筈の保険金はタチの悪い親戚に全てかすめ取られてしまう。さらにさらに、不運は彼女自身持って生まれた業のように絶え間なくキャシーを苦しめ続け、いつしか不運に巻き込まれることを恐れて、彼女には誰も近づかなくなってしまう。
 ついたあだ名は”ハードラック・キャシー”。いつもひとりぼっちの彼女の話し相手はスラム街の外れに屯する浮浪者達だけだった。
 成長し18歳になったキャシーは新入りの浮浪者の一人の死を看取る。今際の際の親切に感動した浮浪者は、かつて自分がとびきり不運な者だけがたどり着けるという伝説の島”アンリアル”の住人であったことを明かし、事切れる。
 日常に見切りをつけていたキャシーは浮浪者の遺言と所持品をヒントに、”アンリアル”を見つけるべく旅に出る。そしてキャシーは紆余曲折を経てアンリアル行きの船に乗ることが出来たが、船は後悔半ばで巨大嵐に巻き込まれて難破してしまった。――が、目覚めた彼女が流れ着いたその場所こそが、伝説の不運島――アンリアルだった。

 

 

 

 

 


「……入島の条件が、船が難破するくらいの大嵐に見舞われることって、酷い設定ですね。一体何人死んだんだ……」
「さらに言えば、救命胴衣に穴が開いて浮けなくなって、思い切り潮に流されないとたどり着けないって設定らしいわ」
「そういえば海流に流されて途中海底トンネルらしきものをくぐってましたね」
「コメディなんだから、細かいこと気にしたってしょーがないの。頭空っぽにして観なきゃ」
 確かに矢紗美の言う通り、この映画は頭を空っぽにして観るのが正解のようだ。アドバイス通り、月彦は料理をつまみつまみ、頭を空っぽにしてテレビ画面へと向き直った。

 

 

 

 

 


 アンリアルにたどり着いたキャシーは、その外観を見て驚愕する。伝説の島は、どこからどう見てもリゾート地そのものだったからだ。
 空はいくつものヘリが飛び交い、砂浜にはサーファーが溢れ、トップレスで甲羅干しをしている美女まで居る。
 唖然としている彼女の元に、黒スーツの男が現れ、IDカードを渡す。キャシーはIDカードを受け取りながら、異様すぎる光景についての質問を投げかけた。
 男は答えた。この島には不運な人間が集まる。一般社会では極度の不運であっても、この島の中では相対的に幸運となる者も居る。その中には富裕層の人間も少なからず混じっている。そして彼らは自分が幸運であると感じさせてくれるこの島を維持する為に、多額の投資を行っているのだと。
 なるほどと納得するキャシー。不運に見初められた者だけが集まった島であれば、自分よりも不運な者もたくさん居るはずだ。ここでなら普通の生活が送れるかもしれないと夢見る彼女だったが、そうは問屋が卸さなかった。
 IDカードはこの島における身分証明書だ。店頭でカードを見せれば、飲食は全てタダ、ホテルも泊まり放題だという。空きっ腹を抱えていたキャシーは早速とばかりにレストランに入り、最初に出された水で食あたりしてしまう。さらに担ぎ込まれた病院で点滴薬を間違えられていきなり死の淵を彷徨う羽目になる。
 なんとか意識を取り戻し、退院した彼女は静養するために無料ホテルに泊まるも、シャワーを浴びている間に着陸をミスったヘリが壁を突き破って突っ込んでくる。さらにヘリの燃料に引火し、室内は大炎上。
 キャシーは素っ裸で部屋の外に逃げ出すも、折悪しく突入しようとした消防隊の放水と鉢合わせし、その鉄砲水のような水圧に吹っ飛ばされて今度は川に落ちてしまった。
 しかも不運島の川には何故か巨大ザメがうようよ居た。絶叫しながら必死に逃げ惑うキャシーの元へ、一機のヘリが駆けつけ救いのロープを垂らした。間一髪ロープにつかまり、サメがいる川から脱出するキャシー。
 全裸でロープにしがみつくキャシーが見上げた先には、最初にIDカードを持ってきた黒スーツの男が居た。

 

 

 

 

 

「ひどい、ひどすぎる! ピタゴラどころじゃない!」
 予想のナナメ上を行くドタバタっぷりに、月彦は腹を抱えて笑っていた。
「良い意味でひどすぎるでしょ? セットとかいろいろチャチくて、粗を探そうと思えばいくらでも出てくるけど、そんなのどうでもいいくらい馬鹿馬鹿しくて面白いでしょ?」
 まさしく矢紗美の言う通りだった。それこそ、つじつまの合わないところを見つけようとすれば10や20は軽く出てくるだろう。だが、そんな事がどうでもいいと思わされるほどに面白いのだ。
「ていうかこれ、主人公がすごいですね。すっごく生き生きしてて、リアクションや絶叫のテンポとかが凄くて、この映画がコメディとして成り立ってるのは9割方女優の魅力のような気がします」
「そう! そうなのよ! 紺崎クンわかってるじゃない! そうなのよ! この映画って、主役がジニーじゃなかったら絶対ただのクソ映画になってた筈なのよ!」
「全面的に同意します。ていうかさっきのサメが居る川に落ちて”ノォーーーーーッ!”って叫ぶシーンとかヤバすぎじゃないですか? 完全に腹筋壊されましたよ」
「私も映画館で初めて見た時は笑いすぎて死ぬかと思ったわ」
 うんうんと頷く矢紗美。
 やがて映画はクライマックスを迎える。

 

 

 

 

 

 不運島アンリアルに君臨するのは”不運王”ジョン・スミス。誰も彼の不運には敵わず、富裕層に愛されたジョンは暴君として島に君臨していた。黒スーツの男はジョンを倒すべく、彼以上の不運の持ち主を探していたのだ。ジョンと戦うことを最初は拒むキャシーだったが、自分が看取った浮浪者がジョンとの戦いに敗れて島を追い出された黒スーツの男の兄だと知り、敵討ちを手伝う決意をする。
 しかし、キャシーが思っていた以上にジョンは強敵だった。黒スーツの男と共にジョンの屋敷に忍び込んだキャシーだったが、道半ばで男とはぐれ、一人きりになってしまう。
 辛うじてジョンの寝室へとたどり着いたキャシーは、寝ているジョンのこめかみに拳銃を突きつけ、思い切り引き金を引いた。
 が、不発。弾詰まりだった。こんなこともあろうかと銃を二丁持って来ていたキャシーはすぐさま持ち替えて引き金を引くが、また不発。弾詰まりを起こした銃二丁を放り投げ、ナイフをジョンの胸元へと突き立てようとした矢先、放り投げた銃が今頃になって火を噴き、キャシーの手からナイフを弾き飛ばしてしまった。
 轟音に目を覚ましたジョンが呼んだ警備員によって、キャシーは捕らえられてしまった。
 一夜明けて、罪人の様に縄を打たれ広場へと引き出されたキャシーはそこで、同じく囚われた黒スーツの男と再会する。生きて再会出来たことを喜ぶキャシーは、男の無事に涙している自分に気がつく。そう、自分でも気づかぬうちに、キャシーは男を愛していたのだった。
 不運王に逆らった罰は死刑。広場の中央の絞首台へと連れて行かれる最中、キャシーは叫んだ。
「私はハードラック・キャシー! 誰よりも不運な女! それはお前が一番よく解っている筈よ、不運王ジョン・スミス!」
 キャシーの叫びに、ジョンは不敵な笑みを浮かべ右手を挙げた。それを合図にキャシーを絞首台へと引きずっていた部下達の動きが止まる。
「面白い。ならば勝負だ。お前が勝てば、お前とその男の命は助けてやる」
 場面は一転、煌びやかなカジノへと移る。キャシーとジョン、二人の前にあるのは巨大なスロットマシン。不運王ジョンは言う。先に”当たり”を引いた方が負けであると。
 キャシーは勝利を確信していた。スロットに限らず”当たり”が存在するモノをやってただの一度も大当たりを引いた事など無いからだ。
 ジョンとキャシーが同時にスロットレバーを握り、振り下ろす。たちまち派手な音を立ててキャシーのスロットマシンで7が並んだ。
 そんな馬鹿な。膝から崩れ落ちるキャシーを嘲笑うように、スロットマシンからは黄金色のメダルが降り注ぐ。自信満々からの一発KOに観客はこぞって沸き、キャシーを嘲笑した。
「おいおい、ここで一発で引くかぁ? なんて運の悪りぃ女だ!」
 何気なく放たれた筈の観客のヤジに、会場が水を打ったように静まりかえった。ヤジを飛ばした男自身、己が口にした言葉の意味を遅れて理解して青ざめる。
 静まりかえった会場内で、黒スーツの男が一歩歩み出し、声を張り上げ言った。
「不運とは何か。スロットマシンで当たりを引けないことか? 否! 不運とは、全力を尽くして尚、自らの力の及ばざる形で、結果として不利益を被ることだ! であれば、二人のどちらかが不運なのか、火を見るより明らかではないか!」
 男の言葉に、会場の観衆達がハッと息を呑む。カメラは観衆達の困惑する顔をなめ回すように写した後、最後に不運王ジョン・スミスの苦々しい顔をアップにする。
 その顔から、フッと笑みが零れた。
「確かにその通りだ。当たりを引けば死ぬこの状況で、真っ先に当たりを引くこの女こそ、不運島の王にはふさわしい」
 ジョンは自ら王冠をとり、キャシーの頭へと移す。そして謎の大歓声。困惑するキャシーの顔を写しながら、映画はエピローグへと突入する。
 不運王は敗れた。だが、キャシーが新たな不運王となることは無かった。自らの不運を嘆き世をすねていた暴虐の王は死に、良き王に生まれ変わったからだ。
 後に、キャシーは言った。
「不運がステータスになるこの島ですら、王様になり損ねちゃった。私って、どこまで不運なのかしら」

 彼女の名はキャサリン。別名”ハードラック・キャシー”。彼女は今も、自らの不運で誰かを幸せにしている……。

 

 

 

 

 

 

 

 


「……矢紗美さん、おかしいです。コメディの筈なのに、なんか目から水が出てきます……」
「あら、紺崎クンはその口? 私は初めて見た時”なんで最後ちょっといい話っぽくまとめようとしてんのよ!”ってゲラゲラ笑っちゃったけど」
「いや、俺は普通にいい話だと思いましたよ……そりゃあ、途中はバカバカしくて大笑いしましたけど……なんていうか、不運ってなんぞや?って考えさせられる映画ですね」
「そうねえ、ていうかジョンが本当に不運な男なら、そもそもクーデターが失敗するわけないのよね。そういう意味で設定がガバガバなんだけど、正直気にしたら負けって思うのよね」
「そうですね。この映画の本当の魅力ってそこじゃないと思いますし……実際見てみて、この映画をレミちゃんたちに見せたいって矢紗美さんの気持ち、よく解りました」
「でしょでしょ? スターのオーラ迸ってるでしょ?」
「今までいろんな映画見てきましたけど、正直俳優の巧い下手ってよく解らないっていうか、特定の俳優さんが好きになって追いかけるっていうのがよく解らなかったんですけど……俺、一発でファンになりました」
「うんうん、わかるわかる。私も小学生の頃観て、初めて好きになった女優だもん。やっぱり光ってるわよねー」
 矢紗美の言葉に、月彦は全面的に同意し、頷く。たしかに”これ”は矢紗美が惚れ込むのも解ると。
「多分、ジニーより美人の女優さんや、演技が巧い人なんていくらでも居るんでしょうけど、”そういうの”じゃないですよね。巧く言えないですけど、それこそ矢紗美さんが言うようにスターのオーラが迸ってるとしか言えないですね、これは」
「……ひょっとしたら、レミちゃんたちから目が離せないのもジニーのそういうところが遺伝してるのかしら」
「それは……どうでしょうか」
 ジニーについての感想は概ね矢紗美に同意だが、同じようにラビとレミに惹きつけられるかと言われれば、快く頷くことは出来ない。もちろん、美人金髪姉妹としての魅力は感じているのだが、ジニーのように目を引きつけられるかと言われればそこまでではない、と言わざるを得ない。
「ともあれ、残りの三作がすごく楽しみになってきました。このまま二本目行っちゃいませんか?」
「あら、紺崎クンさえ良ければ、私は全然構わないわよ? なんなら四本立てコースで行っちゃう?」
「いいですね。いっちゃいましょうか」



 ”第十三独立戦隊”はいわゆるSFものだった。何百年と続く宇宙戦争の最中、兵士不足による劣勢を強いられている銀河連合軍は、惑星一つがまるごと監獄となっている囚人星からとびきりの凶悪犯を選りすぐり、特攻隊を結成しようと試みる。『敵の戦艦を百隻撃沈したら自由』を条件に集められた27人の凶悪犯の中の一人が、ジニー演じるレイチェルだった。
 矢紗美が言う通り、今回の配役は主人公ではなくさらに言えばヒロインですらなく。あくまで登場人物の一人というだけで”アンラッキー・パラダイス”のように出ずっぱりを期待していた月彦としては些か肩すかしを食らう形となった。そのレイチェルも物語終盤に戦死して退場してしまい、あとはお決まりの無実の罪で投獄されていた主人公と、監督官として同行していたヒロインだけが無事生き延びて、遠い辺境の地で余生を送る形で締めくくられた。
「なるほど……悪くはないですが、俺は”アンパラ”の方が断然好きですね」
「同感。悪くはないんだけど、やっぱり出番が少ないわよね」
「役自体は凄く良かったと思います。キャシーとは全く違う、気の強いナイフ使いってのも巧くハマってたと思います。途中のナイフのジャグリングシーンとか凄かったですし」
「ああ、アレね。あれCGでも特撮でもなくて、めちゃくちゃ練習して出来るようになったらしいわよ」
「あれ本当にやってたんですか!? ナイフを腕の上で転がすシーンなんて、糸で吊ってるとしか思えないような動きしてましたけど……。お手玉みたいに放り投げるシーンだって、十本くらい同時に投げてましたよね」
「実際には七本らしいわ。それでも凄すぎだけどね」
「逆に言えば、この映画の見所ってそこくらいですよね。あとはなんていうか……こうなるんだろうな、っていう予想通りの結末って感じで」
「古い映画だし、その辺はしょうがないわね。次の”嘘と溜息”はもうちょっと出番は多いわよ? なんてったってヒロインだし」
「それは楽しみです。じゃあ、このまま三作目観ましょう」
「私は構わないけど、大丈夫? 眠かったりしない?」
「今のところ大丈夫です。あ、でもちょっとだけ休憩入れていいですか? ピザの空箱とか、いまのうちに片付けとこうかなって」
「そうね、なんだかんだでちょいちょい摘まんで、料理も大分減ったし……ちょっと休憩入れて、片付けよっか」

 どうせ休憩をいれるならということで、ついでに風呂も済ませることになった。先に矢紗美が入っている間、月彦がピザの空き箱等を片付け、矢紗美と入れ替わる形で湯船に浸かる。気持ち早めに上がると、寝間着の赤ジャージ姿に着替えた矢紗美が台所でシャカシャカとシェイカーを振っていた。
(……あれ、珍しいな。矢紗美さんがジャージ着てる)
 矢紗美が寝間着としてジャージを持っていることは知っていたが、着ている所をあまり見た事は無かった。奇妙な真新しさを感じたが、その興味はすぐに矢紗美が手に持っているシェイカーへと移った。
「矢紗美さん、何やってるんですか?」
「映画用の飲み物作ってるんだけど、紺崎クンもいかが?」
「もしかしてお酒ですか?」
「もちろん。未成年だけど、ちょっとくらいならいいでしょ?」
「うーん……止めておきます。結構遅いですし、ひょっとしたら眠くなっちゃうかもしれませんから」
「じゃあ、紺崎クンのはアルコール抜きにしてあげる。それなら良いでしょ?」
 特に断る理由も無く、月彦は承諾した。居間で待っていると、矢紗美がカクテルグラスを二つ、盆に載せて戻って着た。グラスにはどちらも、薄い青色の液体が注がれていた。
「はい、紺崎クンの分。お酒抜きよ」
「ありがとうございます。綺麗な色のカクテルですね」
「ブルームーンっていうのよ。名前くらいは聞いたことあるんじゃないかしら」
「いえ……お酒には疎くて。へぇ、いい香りですね……花っぽいというか、柑橘っぽいというか……」
 グラスに口をつけてみる。液体の色からなんとなくミント系の味を想像していた月彦だったが、口に含んだ液体は意外に甘かった。
「へえ、けっこう甘いんですね」
「ジンの代わりに炭酸水とシロップを入れたからね。”本物”はそこまで甘くないわよ? 一口だけ試してみる?」
「興味はありますけど……」
 月彦は丁重に辞した。気心が知れた仲とはいえ、さすがに現役婦警の前で堂々と飲酒をするのは気が引けた。
「ていうか、矢紗美さんは飲まないんですか? 折角作ったのに」
「飲むわよ? ただし、今じゃないけど」
「…………?」

 

 

 


 

 

 ジニーが出演した映画三作目”嘘と溜息”は夜の街を舞台とした映画だった。主人公は若くして成功し、三十代半ばにして富と名声を手に入れた男、ジム。しかし彼には大きな悩みがあった。それは今までどんな女性と付き合っても、一週間もすれば気持ちが冷め、関係が破局してしまうというものだった。女性というものに絶望しきっていたジムは、毎夜のように夜の街に繰り出しては、はした金で体を売る女達との一夜限りの関係で憂さを晴らしていた。
 ある日、ジムがいつものように場末のバーで手頃な相手を物色していると、一人の女が声を掛けてきた。酒を一杯奢ってくれるなら、今夜の相手をしてもいいと言うその女はいかにも安酒場の娼婦という出で立ちだった。
 たまにはこんな女の相手をするのも面白いかもしれない――刺激に飢えていたジムは、女の申し出を受けることにした。女は名をヴァネッサといった。
 早速酒を奢ろうとするジムに、ヴァネッサが口を挟んだ。奢る酒を指定したいと言って、ヴァネッサは勝手にブルームーンを注文した。
 やがてヴァネッサの前に青色の液体に満ちたグラスが運ばれて来るが、彼女は口をつけない。グラスを持ちはするが、口はつけず、ただ眺めるばかり。その様子を不思議そうに見るジム。
 やがてグラスを置いたヴァネッサに手を引かれる形でジムは彼女の安宿のベッドへと連れ込まれ、体を重ねる。ひとしきり汗をかいた後、ジムは心中の疑問を口にした。何故ブルームーンを注文して、それを飲まなかったのか?
 ヴァネッサは答えなかった。代わりにベッド脇のチェストからスケッチブックと鉛筆を取り出した。怪訝そうな顔をするジムを尻目に、ヴァネッサがスケッチブックに鉛筆を走らせ始める。まさかと思ってジムがスケッチブックを覗き込むと、描かれていたのは彼の顔だった。
 ギョッとして、スケッチブックを取り上げるジム。ヴァネッサは言った。”寝た男”の顔は記念にスケッチすることにしているのだという。なるほど、スケッチブックにはジムの他にも様々な人種の男達の顔があった。さらに驚くことに、何人かは明らかに女性の顔もあった。
 妙な娼婦も居るものだとは思ったが、所詮は一夜限りの相手。それ以上の興味は抱かず、ジムは思いの他楽しめた礼として百ドル札を数枚、チップとして渡してヴァネッサの部屋を後にした。

 その後も、ジムの”渇き”は癒える事は無く。彼は夜な夜な一夜限りの相手を求めて場末のバーを放浪していた。そんな中、ジムは街で娼婦を狙った連続殺人が起きていることを知る。ジムが真っ先に危惧したのは、数週間前に一度会ったきりであるヴァネッサの事だった。彼女は大丈夫だろうか、無事ならばせめて一言忠告をと、ジムはその夜からヴァネッサを探して夜の街を練り歩いた。
 三日後、ジムは無事ヴァネッサと再会する事が出来た。彼女もジムの事を覚えていた。前回同様酒を一杯奢れば一夜の相手をすると言う彼女に、ジムは苦笑交じりにブルームーンを注文する。ヴァネッサは前回と同じく、グラスを手に取って眺めるだけで決して口はつけなかった。
 ヴァネッサのベッドで体を重ねた後、ジムは用意していた小切手をヴァネッサに渡した。小切手に描かれている額は、贅沢さえしなければゆうに2,3年は暮らせるほどの額だ。ジムは今この街で娼婦をするのは危ない、出来ればよその街に行くか、難しければ犯人が捕まるまで街を離れるように警告する。
 小切手に描かれている金額に驚き、戸惑っていたヴァネッサだったが、やがてジムが冗談などではなく、本気で身を案じているのだと理解した。忠告通りにすると約束し、前回同様にジムの顔をスケッチブックに描いた。
「そういえば、君は何故ブルームーンを注文して、そして飲まないんだい?」
 スケッチをするヴァネッサに問う――が、前回同様にヴァネッサは意味深な笑みを浮かべただけで答えなかった。
 しかし、ジムが部屋を去ろうとした時。ヴァネッサは言った。
「もう一度私を買いに来て。そしたら、あなたにも理由が解る」
 今度はジムが苦笑した。
「約束は出来ない。だが、努力しよう」

 二ヶ月後、ジムはさる大企業の令嬢と結婚した。恋愛の末ではない、彼の会社を今以上のものに発展させるために必要な手続きであったからだ。
 そして彼は新聞で巷を騒がせていた殺人鬼がとうとう捕まったことを知った。そして不意にヴァネッサに会いたくなった彼は、久方ぶりに夜の街へと繰り出し、彼女の消息を尋ね歩いた。
 ヴァネッサは死んでいた。殺人鬼に殺されたのではない。薬物の過剰摂取によるものだった。ジムは事情を調べる過程で、自分が渡した大金で買った薬物であることを知った。 
 場末のバーにジムが入ってくる。彼がヴァネッサと初めて会ったバーだ。彼はカウンター席につくや、ブルームーンを注文した。そしてヴァネッサがそうしていたように、グラスに口をつけず、代わりに矯めつ眇めつグラスの液体を覗き込むように見た。
「……成る程、そういうことか」

 ジムの呟きを最後に映画は暗転。静かな音楽と共にスタッフロールが流れ始めた……。

 

 

 

 

 


 

 

 

 


「えっ…………これで終わりですか!?」
「これで終わりなのよ」
「えっ……だって、ええええ!?」
 困惑する月彦を尻目に、矢紗美はニヤニヤしながら、今だ口をつけてないカクテルグラスを矯めつ眇めつする。
「てっきり、ヴァネッサが連続殺人鬼に殺されて、スケッチブックに描かれてる顔がヒントになってジムが殺人鬼に復讐するか、ジムが実は殺人鬼ってオチだとばかり思ってたんですけど……」
「そうねえ。私も初めて観たときは絶対そうだろ、って思ったわ」
「なんていうか……ものすごい肩すかしっていうか……何も起きてないし、何も解決してなくないですか!?」
「殺人事件が起きてるし、ちゃんと解決してるわ」
「それはそうですけど……これでいいんですか!? 第一、どの辺が”嘘と溜息”なんですか!?」
「ヴァネッサが嘘ついてたじゃない。最後、ジムが溜息ついてたし」
「そうですけど!」
「ふふふっ、やっぱり”そう”なるわよね−。わかるわかる、私も随分モヤモヤしたわ」
「あと! ブルームーンを飲まなかったのって何でですか!?」
「えっ」
 と、矢紗美が目を丸くする。
「紺崎クン、わかんなかった?」
「全然。もしかしてお酒に詳しくないと解らない系ですか?」
「ううん、全く。むしろ、そういう知識何も無い方が気づきやすいんじゃないかしら?」
「ええ……全然解らないんですけど……矢紗美さんは解ってるんですか?」
「もちろん。だからわざわざこうして、自分でカクテル作って余韻に浸ってるんじゃない」
 矢紗美はカクテルグラスを蛍光灯にかざした後、一息にあおる。
「……まあ、シナリオは微妙だけど、ヴァネッサの演技は良かったでしょ?」
「そう、ですね。キャシーともレイチェルとも違う、いかにも”人生の荒波に疲れた女”感がよく出てて巧かったと思います。あと……」
「あと?」
「……ベッドシーンがなかなか強烈というか、色気の出し方も凄かったですね」
「へぇ、そこに食いついちゃうんだ?」
「”娼婦っぽさ”を演出してるんでしょうけど、流し目の使い方一つとってもスゴいなと……ある意味これは月島さん達に見せてはいけない映画なんじゃないんですかね……」
 ラビ達にしてみれば、母親が”他の男”と寝ている所を見せられるようなものだろう。映画だと解ってはいても、その心中は複雑なのではないか。
「確かに紺崎クンの言う通りかもしれないわね。私は正直ベッドシーンについてはそこまででもなかったんだけど……ジムも別にタイプじゃないし」
「俺もジムはどうでもよかったんですが……騎乗位のシーンとかおっぱいの揺れ方ヤバくなかったですか? 下手なAVよりエロいと思ったんですけど」
「あらあら、紺崎クンったらジニーに欲情しちゃったの? どんなに綺麗でおっぱいが大きくても今は既婚者でしかもレミちゃんたちのお母さんなのよ? 不倫はよくないとお姉さんは思うなぁ」
「欲情は言い過ぎですし、さらに言うなら亡くなってますから不倫なんてしようがないですね」
「……そういえば、ジニーには娘が居るのよねえ。しかも二人、タイプの違う可愛い娘が」
「母親がダメなら娘を、なんてどこのクズの考え方ですか!」
「”妹”だけじゃ満足できなくて”姉”にまで手を出した紺崎クンならあり得るかなーって」
「……まるで俺が能動的に矢紗美さんを襲ったような言い方をしないでください」
 溜息が出る――が、同時に察してもいた。”これ”はいつもの矢紗美の手口だ。こうして煽って、”いつもの流れ”に持ち込もうとしているのだと。
(……まあ、それはそれで)
 と、月彦自身内心半ば諦めもついている。そもそも、月島姉妹を帰して一人矢紗美のマンションに戻ると決めた時から、恐らくこうなるだろうとは思っていた。さらに言えば、スキー旅行の際に矢紗美の申し出を断ったことを気に病んでもいたし、先ほどの件で恐らく消沈しているであろう矢紗美を元気づけてやりたいとも思っていた。
(……それに、久しぶりに矢紗美さんとも……)
 性格に問題があろうとも、矢紗美が――それこそ、月島姉妹のように――雪乃とは違うタイプの美人であることは違いが無い。こうして二人きりの夜を満喫していてムラムラしないわけがない。ましてや、濃厚なラブシーンのある映画を観た後であれば尚更だ。
「そうね、紺崎クンはいつも私に誘われて仕方なく、だったんだもんね。本当は嫌なのに、いつもいつも無理矢理相手させちゃってごめんね」
「いえ……それほど嫌だったわけじゃ……」
 つい、小声になる。矢紗美に聞こえたかは怪しかった。
「ところで、もう二時回っちゃってるけど、どうする? 最後の一本まで観ちゃう?」
「もうそんな時間ですか……」
 正直悩ましかった。先ほどジニーのラブシーンを見たこともあって、心が完全にエロい方に傾いてしまっている。矢紗美が勧める映画がどれほどの名作であったとしても、今の自分が正当に評価できるとは思えなかった。
(それよりも……)
 矢紗美とシたい。その思いが刻一刻と大きくなる。矢紗美を慰めてやりたいとか、前回ヤりそびれたからとか、そういった理由を押しのけて、純粋な己の欲望として矢紗美の体が欲しくなる。
「……三本も立て続けに観てさすがに疲れましたし、今見ても純粋に楽しめない気がします。一端ここまでにしておいて、明日観るのはどうですか?」
「そうね、確かに……私も今日は朝早かったし、好きな映画を欠伸噛み殺しながら観るのも、ね。じゃあ、今日の所はこれでお開きにしよっか」
 んーっ、と矢紗美が大きく伸びをする。
「私、炬燵でもベッドでもどっちでもいいけど、紺崎クンはどっち使う?」
「えっ? 俺も……どっちでも良いですけど……」
「そう。じゃあ、私はベッドで寝るわ。もし寒かったら暖房はつけっぱでもいいから」
 そう言い残して、矢紗美は寝る前の歯磨きをしに洗面台の方へと行ってしまう。月彦がぽかんとしていると、矢紗美が歯磨きから戻ってきた。
「んじゃおやすみ、紺崎クン」
「は、はい……おやすみなさい、矢紗美さん」
 そのまま、矢紗美は寝室へと消えてしまい、月彦は居間に残された。
「……あれ?」
 全く想定していなかった展開に、月彦は呆然と固まった。



 かれこれ三十分ほど呆然とし続けていただろうか。結果、月彦が出した結論は矢紗美の”仕返し”であるというものだった。
(そうか、”前回”の仕返しをされてるのか)
 スキー旅行の際、矢紗美の申し出を蹴った事を根に持たれていて、今その仕返しをされているのだと。恐らく、紺崎月彦がムラムラとやる気に満ちているのを察して、ならばその気が無いフリでしらばっくれてやれと思ったに違いないと。
(……なるほど、今なら解る。”これ”は確かに……辛い)
 これが、やる気になっているのにスルーされる辛さなのかと、月彦は身に染みていた。さらに矢紗美にしてみれば、月彦のようにただ待っていただけでなく自らアピールをしての拒絶だ。そのショックたるや、想像するのも恐ろしい。
(……仕方ない、自分で蒔いた種だ。ここは素直に謝ろう)
 この期に及んで、矢紗美がそういうつもりなら――などと開き直るつもりもない。第一、既に矢紗美とのヤりたい度は”必要なら土下座をしてでも”というレベルにまで達していた。過去の自分の仕打ちについて素直に謝罪するくらい何でもなかった。
「……矢紗美さん、起きてますか?」
 月彦は寝室のドアの前に立ち、控えめにノックしてみた。しばし返事を待つ――が、無い。
「矢紗美さん?」
 念のためもう一度声をかけてノックをするが、やはり返事はない。やむなく月彦はドアを開け、寝室へと入る。
(あれ……?)
 と思ったのは、寝息が聞こえたからだ。てっきり、矢紗美は寝たふりをしながら内心ニヤついているものばかりだと思っていた。もちろん寝息も寝たふりの一種であるかもしれないが、それにしては巧すぎる息使いだった。
「矢紗美さん?」
 ベッドの側に歩み寄りながらさらに声をかける。さらに顔を覗き込む――どう見てもガチ寝にしか見えなかった。
 まさか、仕返しでも何でも無く、単純に、純粋に”早起きして本当に眠かったから寝た”のか。
「…………………………。」
 月彦は考える。矢紗美が意地悪でも仕返しでもなく、単純に眠かったからガチ寝していた場合、どうするべきかを。
(……どうもこうもない。きっと早起きして部屋の掃除とかして疲れてたんだ。寝かせておくべきだ)
 というのが最良であるのは間違いないし、それが一般的な良識ある人間の判断であるとも思う。ただ問題は、今夜は矢紗美とヤれると思ってこれ以上無いほどに高まった性欲だった。
「……矢紗美さん、本当に寝ちゃったんですか?」
 或いは、寝たふりである可能性に賭けて、月彦は枕元で囁いてみる。が、矢紗美は目を開けない。
「……………………。」
 月彦は再度固まった。矢紗美を気遣う、このまま寝かせてやりたいという気持ちと、己の欲望を満たしたいという欲求がせめぎ合い、拮抗しているのだった。そう、一見その二つは拮抗しているように見えた。
 だが――
「………………。」
 さっさと回れ右をして、寝室を出ない時点で拮抗が長く続かないであろうことは明らかだった。とはいえ、さすがに乱暴に起こすというのは気が引けた。やむなく、月彦は布団の中に手を忍ばせ、もぞもぞと胸元をまさぐるという、なんとも消極的な方法をとらざるを得なかった。
「んんぅ……なぁに? 誰……?」
「すみません、俺です」
「……紺崎クン?」
 矢紗美は寝ぼけ眼を擦り擦り、月彦を見上げてくる。
「何? どうしたの?」
「はい、それが……その、眠れなくて」
 矢紗美が、俄に不機嫌を露わにする。眠れないからといって人を起こすなと言いたげな顔だった。
「す、すみません……ただ、その……良かったらもうちょっと起きて、相手をしてくれないかなーと思いまして……」
 さすがに、露骨にエロいことしよう、とは癒えず、はぐらかすような言い方になってしまった。が、それでも言わんとするところが伝わったのか、「ああっ」と矢紗美が納得の顔をした。
「そういうこと。紺崎クン、エッチしたかったんだ?」
「………………ま、まぁ……有り体に言えば、そういうことになるかもしれません」
「ふぅーん、いつも私がシようって言っても拒否るクセに」
「そ、それは……矢紗美さんがシようって言ってくるタイミングが悪いというか、断らざるを得ない時ばかりだからで……俺だって、出来るコトなら矢紗美さんの誘いを断ったりなんてしたくないですよ」
「ふぅーん? つまり、”今”はタイミングが悪くないからシたいって、そういうコト?」
「……いえ、タイミングじゃなくて……今は純粋に、矢紗美さんとシたいって思ってます。というか、矢紗美さんちで二人だけで映画を観るって話になった時から、少なからず期待していたというのが本音でして……」
 ここは下手に出た方が良いと、月彦は正直に”本音”を漏らした。自分がどれほど矢紗美とシたいのか、その本気度を伝えると共に、恐らく傷ついているであろう矢紗美の自尊心も回復させてやりたいと。
「調子良いこと言っちゃって。今だって、もし隣の部屋で雪乃が寝てたら、雪乃の方に行ってるんでしょう?」
「そんなことないです! 今日は本当に、矢紗美さんとシたいなぁって――」
「”今日は”ねぇ……?」
 ジト目を向けられ、月彦は今更ながらに自分がどれほど最低な申し出をしているかを悟った。
「…………まぁ、別に私も紺崎クンを恋人にしたいわけじゃないし? ていうか紺崎クンみたいなセックスしか能が無いダメクズ男なんてセフレ以外の関係なんてお断りだし? そういう意味じゃエッチしたい〜〜〜っっていう申し出は私としても断る理由はないんだけど」
 ふふんと、矢紗美は不敵に笑う。
「だけど、ごめんね。今日はそういう気になれないの」
「えっ……と、それってどういう――」
「あぁ、いちおう言っとくと、生理中とかそういうのじゃないの。ぶっちゃけると、なんか気持ちが冷めちゃったのね」
「えっ……」
「紺崎クンと一緒に居てもムラムラしないっていうか、エッチしたい〜〜〜っっていう気分にならないの」
 絶句する月彦に、矢紗美はフォローするように言葉を続ける。
「別に、紺崎クンのこと嫌いになったとかじゃないのよ? そりゃあ、紺崎クンには何度も辛酸舐めさせられて屈辱も味わわされたけど、それを補って余りある位セックスはタフだし、楽しませてももらえるしね。だからなんで気持ちが冷めちゃったのか、自分でも解らないっていうのが正直な所」
 嫌いになったわけではない――矢紗美のフォローがありがたくもあり、同時に新たな疑問を生んだ。”それなら、何故”――だ。
「まあほら、私もなんだかんだでいい年だし? いつまでも遊んでらんないからいい潮かなって。……紺崎クンとのことだって、いまのうちに終わらせておかないと、それこそ雪乃にバレたら本当に刺されかねないしね」
「……ということは、つまり――」
「うん。紺崎クンとはもうエッチしないってコト」



 ぐらりと、目眩がした。天地が逆になったかの様なそれに転ばずに済んだのは、膝立ちであったことと両手でベッドに捕まっていた為だ。
「別に良いでしょ? そもそも紺崎クンには雪乃が居るんだし」
 矢紗美の言葉は聞こえていたが、何も反応を返せなかった。矢紗美の言葉が、恐らく矢紗美自身が思っている以上に、月彦の内面に衝撃を与えていたからだ。
(……あれ、俺って……)
 自分で思っていたよりも、矢紗美のことが好きだったのかもしれない――矢紗美から関係の終了を告げられて初めて、その思いの強さを自覚するというのも皮肉な話だった。
「……紺崎クン?」
「あ、いえ……すみません。ちょっと、ショックで……」
「あら」
 どこか嬉しげな声を上げて、矢紗美が続ける。
「ショックなんて、大げさね。別に金輪際会わないようにしようとかじゃないのよ? ただ、今までみたいに遊びで寝るのは止めようってだけよ?」
「それは……解ってるんですけど……。矢紗美さんとはもう出来なくなると思うと……」
「あら、ちょっと意外。紺崎クン、私とエッチするの、そんなに好きだったの?」
「そりゃあ……ああ、いえ……エッチがじゃなくて、純粋に矢紗美さんのコトが好きという意味ですけど」
「嘘ばっかり。エッチするのだけ止めようって言ってショックなんだから、好きなのは私じゃなくて私とのエッチなんでしょ?」
「う……」
 反論出来ず、月彦は言葉に詰まる。
「そして、私よりも雪乃とする方が好きなんでしょ? だったら、ちゃんと選ばなきゃね」
「それは……」
 やはり、矢紗美は先日の件を根に持っているのではないか――そんな考えが湧く。だが、例え一時の意地悪であったとしても、矢紗美が言っていることは真理ではあるのだ。
 そう、いつまでも続けていれば、いつかは雪乃にバレ、取り返しがつかなくなるという点においては、全くもって矢紗美の言う通りなのだ。
 しかし。
 しかしそれでも。
「……矢紗美さん、一つだけ答えて下さい」
「なぁに?」
「さっき、気持ちが冷めたって言ってましたよね。でも、嫌いになったわけじゃないとも……てことは、もしかして……他に気になる男が見つかったとか、そういうことですか?」
「他に気になる男……うーん……悪いけど心当たりは無いわね。むしろそんな相手が居れば、それこそ紺崎クンにも”ごめーん、他に好きな男出来ちゃった♪”ってはっきり言えるんだけどね」
「そう、ですか」
 矢紗美の気持ちが、”他の男”に向いたわけではなかった――月彦はホッと安堵する。
 のも、つかの間。
「あー……あー…………うん、そうね。気になる男……一人だけ居るかも」
「えっ……?」
「しかも私、その人と結婚するかも」
「……………………………………………………え?」


 ざわりと。
 全身が総毛立つのを、感じた。
「矢紗美さん、どういうことですか?」
「どう、って言われても……今答えたまんまよ。紺崎クンが言う通り、一人だけ……今すっごく気になっている男の人が居るの。紺崎クンに訊かれるまで全然自覚してなかったんだけど、言われてみればって感じ?」
「そんなあやふやな相手と、結婚を考えてるんですか?」
「やだ、どうしたの? 紺崎クン……怖い声出して。別に”考える”くらい良いでしょ?」
 悪戯っぽく矢紗美が笑う――が、月彦は笑わなかった。
 ”それ”はダメだ。”それ”は許せないと。
 気持ちが冷めたから、寝るのを止めたいというのであれば仕方が無いと思った。しかしその気持ちが他の男に向きつつあるというのであれば話は別だ。
 それだけはダメだ。絶対に許容出来ない。
 もう二度と”あんな痛み”は味わいたくない――心の奥底から叫びにも似た声が聞こえる。
「ダメです」
 気がつくと、矢紗美の腕を掴んでいた。逃がさない――そう言わんばかりに。
「矢紗美さんを”他の男”になんて、渡したくありません」
「渡したくないって……紺崎クン、それはちょっと我が儘が過ぎるんじゃないかしら? 手、痛いんだけど、離してくれない?」
「嫌です」
「離して」
「嫌です」
 矢紗美が腕に力を込める。それ以上の力で握りしめる。矢紗美が、露骨に顔をしかめた。
「紺崎クン。言っとくけど、男に束縛されるのって私、大嫌いなの。我が儘もいい加減にしないと本気で怒るわよ?」
 これは矢紗美からの最後通告だ。それは、月彦にも解る。
 しかしそれでも。
「絶対に、嫌です」
 矢紗美が大きく溜息をつく。同時に布団を撥ね除け、くるりと前転するような動きで、いとも簡単に月彦の右手は外されてしまう。反射的に握り直そうと出した右手を今度は矢紗美に掴まれ、
「あっ」
 と思った時にはぐるりと視界が回転していた。
「少しは頭、冷えた?」
 柔道だか合気道だかの技だろうか。寝室の床に転がされた月彦の真上に、自分を見下ろす矢紗美の顔があった。そういえば、矢紗美は現役の婦警なのだということを、今更ながらに思い出す。
「いえ、全く」
 むしろ、滾る――月彦は獣のような俊敏さで跳ね起き、矢紗美と相対する。が、間髪入れず、立ち上がった所を矢紗美に胸ぐらを掴まれ、投げ飛ばされる。幸い、寝室はそれほど広くはない。投げ飛ばされた先はベッドの上だった。
 痛みは皆無。だが立ち上がろうとしたその一瞬の隙に矢紗美が背後に回り、絞め技に入られる。が、矢紗美が首へと手を回してきた際に、殆ど反射的に左手を巻き込ませて首をガードしたことで、即意識を落とされる事は無かった。
 矢紗美の反応は早かった。絞め技が失敗したと判断するやすぐに解き、再び右手を絡みとられる。が、これまた本格的に関節技に入られる前に、力任せに拘束を解く。
「ああもう!」
 矢紗美の、そんな苛立ったような声。矢紗美にしてみれば、どれだけ”技”を仕掛けても、獣じみた反射神経とただの力で無効化されるのが歯がゆかったのだろう。尤も、技の知識も自ら仕掛ける技量もどちらも無い月彦としては、それしか手段が無かったのだが。
 
 寝室での攻防はすぐには決着が着かず、しかし長引きもしなかった。悪徳婦警とはいえ矢紗美には良識があり、怪我が残る程に害しようと思っていたわけではないこと。とりあえず考えを改める気になる程度に痛めつけるか、力の差を思い知らせるくらいのつもりしかなかったこと。対する月彦も、暴力を振るってでも矢紗美の考えを変えさせようとは思っていなかったこと。矢紗美が何をしても、考えを曲げるつもりは無いことを示す為に、専守防衛に努めるつもりであったこと。
 それらの要素が絡み合い、どちらも基本的には相手を無力化しようと試みつつも、さりとて骨を折るとか意識を無くすまで殴りつけるといった手段は避ける事を暗黙の了解としたような攻防。矢紗美は月彦を投げ飛ばすことは出来るが、寝室の壁や家具に当てて”万が一”を起こさないためにはベッドの上へと落とさざるを得ず、体力の削り合いという観点から言えば甚だ不利だった。
 そう、このままでは体力の削り合いで負ける――その判断から、矢紗美が枕元の引き出しへと手を伸ばしたのが、この戦いの行方を決定づけることとなった。矢紗美が引き出しから取り出したのは”プレイ用”の金属製の手錠だった。あえて補足するなら、以前月彦に壊されたものよりも頑丈な、本格的な使用に耐えるものだった。
 そう、仮にその手錠で拘束されていた場合、月彦とて抗う術は無かった。ましてや、女の細腕では尚更だった。


「……危なかった。間一髪でしたね、矢紗美さん」
「っ……」
 唇を噛み強気に睨み付けてくる矢紗美を、月彦は勝利者の笑みで見下ろしていた。間一髪、まさしくその通りだった。矢紗美から手錠を取り上げることに失敗し、その逮捕術の餌食となっていれば今の位置関係は全く逆に――両手をベッドの左右の支柱にそれぞれ拘束され、無防備に広げさせられたまま、唇を噛みながら矢紗美を見上げる羽目になっていただろう。
「言っとくけど、手加減してあげたんだからね?」
「それは十分解ってます」
 矢紗美が本気を出せば、それこそ投げ飛ばす際に箪笥の角にでもぶつけるようにしていれば、怪我では済まなかっただろう。
 それは月彦も承知している。
「でも、それは俺も矢紗美さんに手加減しないといけない理由にはならないですよね?」
 矢紗美の顔に、僅かに怯えが奔る。敗者をいたぶれるのは勝者の特権だ。もちろん月彦も過度の非道を行うつもりはない。つもりはないが、酷い真似をしかねないと矢紗美に思わせ、恐怖を煽るくらいの意地悪はしてやりたかった。
「…………はいはい。解ったわよ。好きにすれば? 紺崎クンは私とシたかったのよね。この様じゃどうせ抵抗なんか出来ないし、好きに鬱憤晴らしすればいいじゃない」
 しかし、矢紗美は精神も強い。或いは”冷めている”というのは虚言でもなんでも無かったのかもしれない。いつものように演技を交えてセックスを盛り上げるでもなく、ただただ投げやりに”好きにしろ”とばかりに四肢を投げ出してしまった。
「……正直、そこまでやる気は無かったんですけど、矢紗美さんがそうしろって言うなら、仕方ないですね」
「何が”そこまでやる気はない”よ。さっきからもうギンギンじゃない」
「バレましたか」
 月彦はもう、寝間着ズボンの上からでもはっきりと解るほどに屹立しきっているそれを隠そうともしない。
「見ての通り、すぐにでもシたいのは山々なんですけど……ただ――」
「ただ……?」
「ちょっと、矢紗美さんのその無防備な姿を見てたら……すぐヤっちゃうのはもったいないかもって思うんですよね」
 先ほどよりも濃い恐怖が、矢紗美の表情を陰らせる。紺崎月彦の裏の顔を知っている者特有の反応だった。
「な……何、考えてるの? そ、そーだ! 私もなんだか紺崎クンとエッチしたくなってきちゃったの。これ解いていつもみたいに普通にシない?」
「へえ、この引き出し、他にも色々入ってますね」
 矢紗美の言葉を無視して、月彦は引き出しを漁る。中にはローターや羽根、ギャグボールといった夜のお供が目白押しだった。
「ちょっと! 勝手に見ないでよ!」
「あっ、これAVとかで見るやつですよね。これってやっぱり気持ちいいんですか?」
「それは……ただの電気マッサージ器よ! 肩こりに効くから使ってるだけ!」
「……のわりには、他のエログッズと同じ引き出しに入ってましたけど」
 今度は、矢紗美が黙る版だった。
「折角ですし、今日はこれを使ってみようかと思うんですけど、どうですか?」
 どうですかも何も、矢紗美がどう答えようと月彦は電マを使うつもりだった。その証拠に、矢紗美が答えるのを待たず電マを枕元のコンセントへと繋ぎ、準備は万端だ。
「ちょ、ちょっと待って……それ結構振動が強いタイプのやつだから、ちゃんと加減はしてね? もちろん敏感な場所に直接当てたりすると気持ちいいとか以前に痛いし、そんなことされたら私ふつーに泣き叫んじゃうからね?」
 もはや、使用されるのは避けようが無い。ならばせめて慈悲を――そんな矢紗美の引きつった顔にゾクゾクしながら、月彦は電マのスイッチを入れ、強弱の振動の強さを確かめる。そして成る程、矢紗美の言う通り、確かにこれを”強”で素肌に直接では痛いかもしれないと納得する。
「成る程。じゃあ、服の上からなら大丈夫ですよね?」
「まあ、それなら……」
 月彦は電マの先を矢紗美の寝間着――赤のジャージの上から宛がい、胸元を舐めるようになで回した後、おもむろにスイッチを入れる。
「んっ……」
 やはりそれなりに刺激があるのか、矢紗美がキュッと口を結ぶ。月彦は矢紗美の反応を窺いながら、電マの先を動かしていく。
「ちょ、ダメッ……そこは…………うひゃひゃひゃひゃひゃひゃっっ!!!」
 そして脇腹の辺りにさしかかった途端、矢紗美が大声で笑い出した。
「だめっ、だめだってば! 脇腹っ、弱っっ……ひひひひひっっ! うひっ、ひひひひひっ!!!」
「へえ、矢紗美さん脇、弱かったんですね。じゃあ”強”にしてみますね」
「だ、ダメっっ――……ぎゃはははははははははははははははっ!!!!!」
 ブルブル震える電マの先をぐりぐりと脇腹に押しつけるようにして刺激すると、矢紗美が両足をジタバタさせながら笑い転げる。当初想定した責め方とは違うが、これはこれで楽しいと、月彦は右の脇腹を責めた後は左の脇腹を、左の脇腹を責めた後は右の脇腹をと、矢紗美が慣れた頃を見計らって次から次に責める場所を変えていく。
「はあはあっ…………息、苦しっっ……紺崎クン、これ、もう止めにしない?」
「そうですね。……丁度良いモノも見つけましたし」
「え……い、良いモノって――きゃっ」
 言うが早いか、月彦は枕元で見つけたアイマスクを、矢紗美に装着する。
「さて、次はどこを責めようかな」
 そして、視覚を奪われた矢紗美に、聞こえよがしに一言。電マのスイッチを切り、一切の物音を立てないように静止する。
「えっ……えっ? ……やだ、ちょっ……怖いんだけど…………」
 矢紗美がなんとか拘束を逃れようと両手を引き、その都度鎖がカチャカチャと音を鳴らす。呼吸が荒いのは、先ほど散々に擽ったせいだけではないだろう。
「こ、紺崎クン……?」
 不安げな、縋るような、矢紗美の声。月彦は電マではなく、素手で、不意に矢紗美の頬に触れる。
「ひゃっ!? な、何……? 手?」
 視界を奪われているからだろう。ただ手で触られただけだというのに、矢紗美はまるで焼け火箸でも当てられたかのように大げさに反応をする。気を良くした月彦は、今度は電マを手にとり、矢紗美の耳元でスイッチを入れ、”音”だけを聞かせる。
「ひっ」
 ただ、音を聞かせるだけ。直接当てたりはしない。スイッチを入れたまま、遠ざけ、また近づけ。不意にスイッチを切り、かとおもえばスイッチを入れ、意識を耳に集中させたところで再びスイッチを切り。
「ひゃっ……ぎゃはははははははははははははっ!!!!!!」
 唐突に脇腹に押し当て、”強”の振動で思い切り擽る。矢紗美が両足をじたばたさせながら大声で笑う。
「うひっ……うひひひひひひっっだめっ、だめっ! そこっ、ダメだからぁあ! ひひひひひひひひひひひっ!!!」
 ぐりぐりと脇腹を刺激しながらたっぷり五分も笑わせると、さすがに笑い疲れたのか反応が鈍くなってきた。そこで今度は”弱”に切り替え、腹部から胸元へと、優しくマッサージする。
「はあっ……はあっ…………はあっ…………ね、ねえ……紺崎クン……もう、十分でしょ? いい加減、これ、解いてくれない? ね?」
 悪いがまだ責め足りない。矢紗美をこのように拘束する機会など滅多にあるものではない。月彦は電マを弱のままスライドさせ、足の付け根――股間部分へと宛がう。
「んぅっ……!」
 矢紗美が特に強く反応した場所で止め、服の上から押し当てるようにして”その場所”へと振動を伝える。
「や、やだ…………ちょっ……それ、ダメっっ…………っ…………」
 矢紗美が足を閉じようとするのを、間に体を割り入れて妨害する。身をよじって電マが当たる場所をズラそうとすれば執拗に追いかけ、必要ならば空いている方の手で矢紗美の体を押さえつけ、”刺激”を加え続ける。
 じっくり、たっぷり。
 矢紗美の反応を具に観察しながら。
「っっ……ちょっ……いつ、まで…………っ…………いい加減、に………………やっ………………イッ…………っっっ!」
 ビクンと、矢紗美が大きく体を震わせ、イく。だが、月彦は電マを押し当てる手を止めない。
「やだっ、イッた……もう、イッたってば! 止めて! イってすぐは敏感になってるからぁ!」
 暴れる矢紗美を背後から抱きすくめるようにして、執拗に電マを当て続ける。狂ったように暴れ出す矢紗美を抱くようにしっかり固定し、月彦は口元を歪めながら、電マを”強”に切り替える。
「ひぎいいいいいいいいいっ!!!!」
 たちまち、矢紗美が悲鳴を上げる。構わず、電マを宛がう。
「だめっ、止めてぇ! 刺激、強すぎっ……止めてっ、止めてってばぁ!」
 抱いている矢紗美の体を通して、振動が伝わってくる。藻掻くその体を押さえつけながら、電マの先で執拗に股間を狙い撃つ。
「やぁぁぁぁああああああっ! だめっ、だめっ、だめっ、だめっ、だめっ、あああああああああああああああああっっっ!!!」
 嬌声というよりも、悲鳴。矢紗美の体が再び跳ねる。
「イッ……いぅっ……! んんぅ!! もう無理! もう無理っ、本当に無理だからっ…………やっ、またっっイッ…………っっ〜〜〜〜〜っっっっ!!!!」
 絶え間なく襲ってくる振動に、二度、三度と――或いはそれ以上達しているのだろう。股間を中心にジャージの色がはっきりと解るほどに変わっている。
「ああああっ! あぁぁぁっ! こ、壊れるっ……こんなの、本当に壊れちゃうっっ! ねえ、お願いだからもう止めて! なんでも、なんでもするからもう許してぇええ!!!!」
「何でも?」
 ついと、月彦は電マを股間から外し、スイッチを切る。
「今、何でもするって言いましたか?」
「す、するっ……何でもする、から……! もう、さっきのはしないで…………」
「何でも、ですか。じゃあ――」
 月彦の脳裏に一瞬、白耀の腕に抱かれた由梨子の姿がフラッシュバックする。
「俺と結婚して……子供を産んでくれますか?」
「……えっ?」
「”何でもする”んですよね?」
「そ、それは……そういう、意味じゃ……それに、紺崎クンには雪乃が――」
「そうですね。でも、さっき責められてる時の矢紗美さんを見てたら……矢紗美さんと一緒になるのもアリかなって思っちゃったんですよね」
 電マを放り、矢紗美の体をまさぐるようになで回す。
「矢紗美さんって、普段は頼りになるお姉さんって感じなのに、責められてる時は年上とは思えないくらい可愛いですよね。正直、キュンと来ちゃって」
「嘘、ばっかり……」
「酷いですね。どうして嘘だと思うんですか?」
「嘘じゃなかったら、紺崎クンは”キュンと来るくらい可愛いと思う女”が”何でもするから許して”ってお願いするまでニヤニヤしながら責める人でなしってことになるけど?」
「酷い言われようですね。……それだけ言い返せるなら、もうちょっと責めても大丈夫そうですね」
 先ほど放り投げた電マを拾い、スイッチを入れる。ブィィィン、という音を聞いただけで、矢紗美がひっ、と声を上げて身を竦ませた。
「ま、待って……それ、本当にキツくて……ほ、ほら……私、クリ感じやすいから、紺崎クンが思ってるより何倍もキツいの……」
「……そういえば、そうでしたね。矢紗美さんはクリ弱いんでした」
 電マのスイッチを切り、再び放る。
「や、やだ……紺崎クン、また悪いこと考えてるでしょ?」
「心外です。どうしてそう思うんですか?」
「け、経験則よ! 紺崎クンがそうやってあっさり引き下がるときは――」
「ロクな目に遭わない、ですか? だとしたら、今回は初めて”経験則”に当てはまらないケースになると思いますよ」
 言いながら、月彦はあっさりと矢紗美のジャージズボンと、下着を脱がせてしまう。
「ちょっ……何をっ……や、止めて! 直接なんてされたら……」
「試してみたい気がしなくもないですけど、安心して下さい。俺はただ、矢紗美さんを労ってあげたいだけですから」
「い、労るって……」
「”キツ過ぎる責め”をしちゃったお詫びです。今度は矢紗美さんが大好きな”アレ”で労ってあげます」
「アレ、って、まさか――……ひぅっ」
 月彦は矢紗美の股間に潜り込むようにして寝そべり、両手で太ももを抱えるようにして固定し、足を閉じられないようにする。
「待って、待って! 確かに好きだけど、今じゃない! 今じゃないの! これ以上、クリ責められたらっっ……だめっ、だめっ、止めて! 止めてったら! だめっ、だめっ……だっ……っっっ〜〜〜〜〜〜っ!!!」
 もとより、月彦に矢紗美の懇願を聞く理由も、そのつもりもない。ただ、その悲鳴じみた嬌声を心地よく楽しみながら、充血してぷっくりと勃ったその突起を舌先で舐るのだった。



 ”労る”と言ったのは、決して建前ではなかった。その証拠に、月彦は舌での愛撫も矢紗美の負担とならない様、やんわりとしたものに止めた。じっくりたっぷり二時間近くも続けられたその愛撫の間、矢紗美が一度も達さなかったことが、”労っている”ことの何よりの証左だった。
 そう、あくまで労るのが目的であるから、途中矢紗美がどれほど焦れてイかせて欲しいと懇願しても、聞くいわれは無かった。さもその願いを聞き入れ、イく寸前まで高ぶらせてついと愛撫を止め、イくにイけないもどかしさに矢紗美が歯ぎしりする様を見て楽しんでいたとしても、それはただの役得であり嘘でも約束を違えたわけでもない。
 やがて懇願は無駄と悟った矢紗美が声を上げることを諦め、ただただされるがままとなっても、それが労ることを止める理由にはならない。絶え間なく与えられる緩い快楽に全身が火照り、絶え間なくヒクつく秘裂からは発情した牝の匂いを立ち上らせる。だらしなく溢れさせた涎がシーツに広く広がり、月彦の腹の辺りまで達しようとしたところで漸く、舐る舌は動きを止めた。

 手枷が入っていた引き出しの中に入っていた鍵で、矢紗美の拘束を解き、アイマスクを外す。涙の跡が色濃く残るその目には紺崎月彦に対する敵意と、それを遙かに上回る快楽への飢えが色濃く滲んでいた。
「……欲しい、の…………っ……はや、く、………………挿れ、て……」
 ギリギリと、歯ぎしりをしながら漸く口にしたような、不本意極まりないという声。
「これ以上、焦らさないで…………もう……本気で、キレそうなんだから…………っ……!」
 下腹の奥が疼いて堪らない――そんな”疼き”まで伝わってきそうな、矢紗美の声。イかされ、焦らされ、散々玩具にされた屈辱は許しがたい。しかし、この”疼き”をどうにか出来るのも、眼前の憎たらしい男しかいない。そんな矢紗美の心中を慮って、月彦は成人女性としても小柄なその体を優しくベッドへと押し倒す。ギンギンにそそり立っている分身を矢紗美の秘部へと宛がい、先端部分を敏感な粘膜部分へと擦りつける。
「あっ……ンッ……」
 鼻にかかったような、矢紗美の吐息を聞きながら、ゆっくりと腰を前に出す。トロットロの媚肉をかき分け、ガチガチにそそり立った肉柱を膣内へと埋めていく度、まるでしがみつくように矢紗美が両手を回してくる。
「っっ…………はッ……あっ……堅っ……ンッ……ぁっ、ぁっ、ぁっ……!」
 ヒクヒクッ。
 ヒクヒクヒクッ。
 まるで肉柱を歓迎するように、矢紗美の中が小刻みに痙攣する。長く焦らした――入念に”準備”をした――せいか、いつになく矢紗美の中は熱く、そのくせ狭く感じた。まだ全てが埋没しきっていないというのに、先端部に抵抗を感じて、やむなく月彦は無理矢理押し込み、根元まで埋没させた。
「ァッ……ぁぁっ……! ぁぁぁっ……熱っ……くてぇ、おっきっ……ンッ……やっ、待って、それ以上、入らなっっ…………ンンンッ!!!」
「キツいですか? すみません……矢紗美さんの中、狭くなりました?」
 或いは、いつになく興奮しているのだろうか。さもありなんと、月彦は思う。
(だって――)
 敵意にギラつきながらも、そのくせ目尻に涙を貯めて必死に両手でしがみつくように抱きつきながら必死に歯を食いしばっている矢紗美の姿を見て、興奮するなというのが無理な話だった。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ…………息、吸えなっ…………でも、コレ……好きぃっ…………はぁはぁっ……ムカつくけど、紺崎クンのが……一番気持ちいいぃぃ……!」
「”のが”ですか。やっぱり矢紗美さんは矢紗美さんですね」
 紺崎月彦本人は腹立たしいが、体の一部分のみ好き――そんな矢紗美の気持ちにシンパシーを感じつつ、月彦はゆっくりと腰を前後させる。
「ぁああッ! もっと、ゆっくりぃっ……! コレっ、もっとじっくり味わわせて……! あぁぁっ! これっ……コレ好きぃぃ!」
 矢紗美の言う通り、月彦はさらに抽送のスピードを落とす。
(っ……なんか、いつもより、ナカが絡んで来てっっ……!)
 既に潤いすぎる程に潤っている筈であるのに、凄まじい”抵抗”を感じるのはそれだけ締め付けられているからだ。さながら、矢紗美の”コレが好き”を体現するかのような凄まじい締め付けに、月彦は余裕の笑みを保てなくなる。
「あぁぁああっ! ぁぁっ、ぁあっ! あた、ま……痺れて……きもちいぃ…………ぁあああっっ!」
「本当ですか? さっきは気持ちが冷めたみたいなこと言ってましたけど」
「やっ……いやっ、動き、止めないでぇ! 続けてっ、突いてぇ!」
 腰の動きを止めると、たちまち矢紗美がイヤイヤをしながら、催促するように腰をくねらせてくる。
「さて、どうしましょうか。矢紗美さんの中がめちゃくちゃうねってしゃぶるみたいに絡みついてくるから、正直こうしてジッとしてるだけでも俺は十分気持ちいいんですよね」
 事実ではあるが、強がりでもあった。矢紗美の中が思っていた以上に極上に仕上がっていて、動けばすぐに達してしまいそうだった。
「やぁっ、意地悪、しないでぇ……突いて、ね? 紺崎クンの太くて堅いので、ごちゅんってシてぇ……!」
 が、月彦以上に余裕の無い矢紗美には、動かないことの意図を察するまでは至らないらしかった。首に手を絡め、甘えるような声でねだってくる。
「……でも、”紺崎クンとはもうエッチしない”って言われちゃいましたし」
「そ、それは……」
「撤回しますか?」
 しなければ、ずっとこのままだと。月彦は静かな笑みで矢紗美を見下ろす。矢紗美が小さく、唇を噛むのが見えた。
「わ、か……った、わよ。今まで通り、紺崎クンとはするから……だから」
「”今まで通り”?」
 それは違うとばかりに、月彦は大きく動いて、突き上げる。
「あんっ……!」
「今まで通りじゃダメですね。だってそれじゃ、結局矢紗美さんは例の”気になる男”とくっつくってことですよね?」
 再び動きを止める。五秒と経たず、矢紗美が焦れてもがき出す。
「やっ……止めないでぇ! さっきみたいに……」
「他の男と付き合うなんてダメです。そして今まで通り、好きにヤらせてください。……でないと」
「ぁっ……ぁぁぁあぁああああっっ!!!!!!!」
 ”コレ”は味わえないぞと。先端でグリグリと最奥をほじるように刺激すると、矢紗美は腰をガクガクさせながら声を上げる。
「そん、な……そんな、条件……飲める、わけなっ……ひぅううううううッ!!!!」
 ゆっくりと腰を引き、角度をつけて矢紗美が特に弱い場所を抉るように突き上げる。
「そ、そこ……ダメッ……あひぃぃいいッ!!」
「くすっ。……矢紗美さんココ弱いですよね? 体ぶるぶる震わせて、そんなに気持ちいいんですか?」
 ぐりん、ぐりんと抉るように何度も突き、そして唐突に動きを止める。
「っ……やっ…………だからっ……もぉ〜〜〜〜っ………………!」
 ギリッ。矢紗美が歯ぎしりをしながら、首の後ろに爪を立ててくる。
「ほら、矢紗美さん?」
 動いて欲しいなら、言う事があるだろうと。矜持と焦燥の狭間で揺れ、歯を食いしばったまま涙目になっている矢紗美を見下ろす。
「っ……こンっの……ガチクズ男…………わ、かった、わよ。約束でも、なんでもする、からっ……だから、早くっ……」
「本当ですね? ”他の男とは付き合わない、俺がヤりたい時は好きにヤらせる”ですよ? ちゃんと守って下さいね?」
「守るっ……守るっ、からぁ! 早く、突い――ッッ……んぃっ!」
 矢紗美の言葉が終わるのを待たず、突き上げる。ゆっくりと腰を引き、そしてまた、突く。
「あはぁああっ! ぁぁああっ! これっ……コレぇええ! あぁぁぁぁっ、そこっ……グリグリってされるの好きぃぃっ……たまんないっっ……あぁん! あんっ! もっとっ、もっとぉ!」
「そんなに”良い”んですね。喜んでもらえて俺も嬉しいです」
「あぁっ、あぁぁあっ! 良いぃぃっ……紺崎クンはクズだけど、チンポだけは好きぃっ……! はぁはぁっ……こんなので釣られたら、なんでも言う事聞いちゃうぅ……麻薬チンポヤバ過ぎ……」
「ホント、”体の相性”だけなら先生より上かもですね」
 雪乃とシても、そこまでアヘらないぞと苦笑しながら、月彦は徐々にペースを上げていく。
「あンッ、あンッ、あンッ! あっ、ぁっ、あッ、あっあッあッ……! く、来るっ……おっきいの、来るっ……!」
「今度は焦らしは無しです。矢紗美さんがイくまでたっぷり突いてあげますから、好きなだけ気持ちよくなってください」
 ぎっしぎっしとベッドを軋ませながら、杭でも打ち込むような動きで抽送を続ける。
「ああぁっッッ! あぁぁーーッ!! きもちいっ…………気持ちいいっっ……はぁはぁっ……はぁはぁはぁっ……クズッ……なのにぃっっ……ガチクズ男の麻薬チンポでイくっ…………イくっッッ………………〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!」
「ッ……最後まで、それですか。それなら、お望み通り」
 その”ガチクズ男”の子種で孕ませてやると。月彦は悪意すら滲ませて、剛直を根元までねじ込み、肉欲の滾りをぶちまける。
「んぁっ……! ンッ! ……っ……合意も、無しに、無責任中出しとか、ほんっと
……クズッ……はぁはぁ……んぅっ……ちょっ……どんだけっ…………ンッ!」
 イきながらも、憎まれ口を止めない矢紗美に、びゅぐり、びゅぐりと特濃の子種を注いでいく。
(……いっそ、本当に孕ませてやろうか)
 大きくなった腹をかかえた矢紗美が、屈辱恥辱にまみれた顔で歯ぎしりをしている様を想像して、悪くない光景だと思ってしまう。
「はーっ…………はーっ…………ちょっ……まだ、出てっ……出し過ぎ……お腹……苦しっ…………」
「すみません。でも……これで俺がどれだけ矢紗美さんとシたかったか、解ってもらえましたか?」
 ぐりゅんっ。特濃の子種を、膣襞に塗りつけるように剛直をゆっくりと前後させる。
「もちろん、一回出したくらいじゃ全然物足りないんで。クズで申し訳ないですけど、約束通り……俺が満足するまで好きなだけヤらせて下さいね」


 


 正常位で、立て続けに二回。フェラ一回を挟んで後背位で二回、立ちバックで一回。フェラ一回を挟んで騎乗位で二回、対面座位で三回。
 もう一度後背位でシようとしたところで、矢紗美がとうとう根を上げた。
「も…………もー無理…………お願いだから……ちょっと、休ませて………………」
「休ませてと言われても」
 月彦は依然ギン立ちの股間を見せつけるように、突き出す。
「まだ俺、こんななんですけど」
「っっっ……紺崎クン、雪乃とちゃんとエッチしてるの? 溜めすぎじゃない?」
「いやぁ……」
 答えに窮して、月彦はお茶を濁した。確かに雪乃とは最近ご無沙汰だが、かといってセックス自体がご無沙汰なわけではないから、溜めすぎというのは当てはまらない。
(……強いて言うなら、矢紗美さんがエロ可愛いのが悪い)
 気高く気も強いくせに責められると弱かったり、かと思えば人が変わったようにアヘり出したり。背は低いのに出るところは出てる体もエロいし、体は快楽に屈しているくせに人をクズだなんだと煽ってくるから、こちらとしては意地でも孕ませてやりたくなる。結果、萎えずの剛直による”わからセックス”という体にならざるを得ない。
「とにかく、常人の私はもう限界だから…………ちょっと、一眠りさせて……」
 こてんと、ベッドに横になってそのまま寝てしまおうとする矢紗美の手を、月彦は特別の笑顔で掴んで、引く。
「ちょ、ちょっと……」
「俺がヤりたい時に好きにヤらせてくれるって、約束しましたよね?」
「した、けど……」
「最後に一回だけ。一回だけさせてください」
「……ほんとに、一回だけよ?」
 はあ、と。矢紗美が大きく溜息をつく。言質を取ったぞとばかりに、月彦が歪んだ笑みを浮かべる。
「じゃあ、矢紗美さん。……四つん這いになって下さい」
 しぶしぶとばかりに、矢紗美が四つん這いになり、月彦の方に尻を向ける形になる。
「……矢紗美さんって、”後ろ”でシたことありますか?」
「……へ?」
「アナルセックスです。矢紗美さんなら、もしかしたら経験あるかなって」
「あ、あるわけないじゃない。どうしてそんな――……ま、まさか」
「はい。…………矢紗美さんとシてみたいなぁって」
 言うが早いか、矢紗美が逃げようとするのを、一足先に両手で腰を掴んで、捕まえる。
「ま、待って……紺崎クン。確かに、好きにヤらせるとは言ったけど、それはあくまで通常のプレイの範囲内だけで……」
「でも、矢紗美さん……最初会った時……俺の”後ろ”を掘ろうとしてましたよね?」
 忘れてないぞとばかりに、矢紗美に被さり、囁く。
「あれは…………そんな、昔の、コト……」
「”撃っていいのは、撃たれる覚悟があるやつだけだ”って、何の言葉でしたっけ。まあ、それはさておき……経験が無いなら丁度良いです。矢紗美さんの”後ろ”の初めてを下さい」
「だ、ダメッ……絶対ダメ! 紺崎クンのなんて、絶対入らない……裂けちゃうから!」
「ああ、その辺は大丈夫です。巧くやるんで」
 ”後ろ”でするのは初めてではないし、コツも解っている。本当に裂けそうなら”調整”をすれば良い。が、その辺は説明することは出来ない。
「それに、絶対気持ちよくなんてないから! 普通にしたほうが絶対いいから、ね?」
「ああ、気持ちよさとかは別にいいんです。…………プライドの高い矢紗美さんを”後ろ”で犯すって凄く興奮できそうだなって思っただけなんで」
「なっ……」
「クズですみません。とにかく、そういうことなんで。……あっ、抵抗しても無駄ですよ。 第一もうまともに体を動かすことも出来ないんじゃないですか?」
「…………〜〜〜っ……」
 矢紗美が、渋々。本当に渋々、四つん這いの姿勢に戻る。観念の証と見て、月彦は十を超える中出しの跡へと手を這わせ、ドロドロの潤滑油を指先に絡め取ると、それを矢紗美の”後ろ”へと塗りつける。
「ひっ……」
「大丈夫です。ちゃんと優しくしますから」
 ピクピクと怯えるように震えている蕾を白濁汁を絡めた指で優しく愛撫する。嫌悪感に耐えているのか、矢紗美が全身を強ばらせているのが解る。ならば止めよう――とは、思わない。むしろ、ゾクゾクするほどの愉悦を覚えて、月彦はつぷりと、指先を蕾へと埋める。
「あッ……!」
 矢紗美が、さらに全身を硬くする。その緊張そのものをほぐすように、月彦はゆっくりと指を前後させる。
「〜〜〜〜〜〜っっっ…………!」
「矢紗美さん、どんな感じですか?」
 質問しながら、さらに指を前後させる。
「矢紗美さん?」
「っ……気持ち、悪い」
 押し殺した声。その響きの中に、押し隠した快楽の匂いを感じ取って、月彦は微かにほくそ笑む。
「じゃあ……もうちょっと丁寧にほぐしますね」
 じゃあ止める――という言葉を期待していたのだろう。もちろんそれを解った上で、月彦はその逆を行く。
 じっくりと。あくまで優しく、指の抜き差しを続けると、矢紗美が何かを我慢するように尻を振り出した。
「やだっ……やだっ…………紺崎クン、もう、止め…………」
「気持ちよくなってきましたか?」
「違う……本当に、気持ち悪いの…………」
 だったら、どうしてそんなに息を弾ませて……それを押し殺してるんですか?――口には出さず、ほくそ笑むに止める。
「指、二本でもいけそうですね」
「っっ……! ダメッ…………うっ…………ンッ……!」
 人差し指と、中指。二本埋めて、さらにほぐす。そういえば、由梨子の時もこうしてじっくり後ろを開発したなと、そんなことを思う。
(由梨……ちゃん…………)
 刹那、白耀に寄り添うように立つ――お腹の大きな由梨子の姿がフラッシュバックする。胸の奥に奔る鋭い痛みが、ひび割れの様に全身に伝播する。やがてそのひび割れから吹き出るように、めらめらと黒い炎が立ち上り、月彦の思考を……焼く。
「……これなら、いけそうですね。挿れます」
「……! 待って! それは、本当に無理だから!」
 ここぞとばかりに矢紗美が暴れる――が、弱い。月彦は容易く制圧し、組み伏せ――そして、いきり立った剛直を、濡れた蕾へと宛がう。
「やだっ……だめっ、止めてっ…………ほんとにやだってばぁ!」
「あの時、俺がそう言ったら矢紗美さんは止めてくれましたか?」
 絶対止めなかったですよね?――笑みすら浮かべて、月彦は嫌がる矢紗美に無理矢理剛直をつきたて、その尻穴を貫く。
「ひぎっ……ぁ、ぁぁぁ…………」
「ッ……さすがにキツいですね。目一杯広がって……乱暴に動いたら本当に裂けちゃいそうです」
 塗りつけた白濁汁を潤滑油代わりにして、月彦は剛直をさらに埋没させていく。摩擦による快楽よりも、矢紗美の尻穴を犯しているという状況そのものに脳が焼け付くような興奮を感じていた。
「矢紗美さん、どうですか? ”クズ男”に尻を犯される気分は」
 出来れば今、矢紗美がどんな顔をしているのか具に観察をしてやりたかった。屈辱に耐えている時、矢紗美は本当にいい顔をするからだ。だが、矢紗美は尻穴を犯されながら、上体をベッドに伏せるようにして耐えている為、月彦に顔を見る術は無い。さすがに、後ろ髪を掴んで無理矢理振り向かせるところまではしたくなかった。
「あぁ……俺の方は最高ですよ。思っていた以上に興奮します。矢紗美さんみたいに綺麗で、しかも年上の婦警さんを”後ろ”で犯すなんて。普通にやるより何倍も興奮します」
 ゆっくり、ゆっくり抽送を始める。裂けてしまっては、血でも見ようものならこの興奮も興ざめだ。矢紗美の矜持は踏みにじりたいが、暴力を振るいたいわけではないからだ。
「ちなみにですけど、先生ともアナルセックスはしたことがないんです。先生相手には、さすがにこんなこと出来ませんから」
 ”遊び相手”だからこそ好き勝手出来る――言外に臭わせながら、月彦は腰を振る。矢紗美が何の反応も返さないのが癪ではあったが、それならそれでこっちも好き勝手に楽しむだけだと。矢紗美の背中をなで回し、時折乳をこね回しながら、気高い婦警の尻穴陵辱を堪能する。
「あぁ、本当に最高です、矢紗美さん。……このまま中で、いいですか?」
 少しは反応が返ってくるかと思ったが、矢紗美は伏せたまま押し黙っていた。構わず、月彦は抽送を僅かに早め、限界まで突き入れるや思うままに射精を行う。
「……っ……ぅっ……」
 微かに、悲鳴めいた声を矢紗美が漏らした。静かな寝室だからこそ聞こえたその声が、押し殺そうとして尚漏れ出た声であることは明白だった。
 ゾクゾクと、身震いするほどの愉悦と、黒い炎の再燃。
 もっと、もっと陵辱したいと、内なる何かが叫ぶのを感じる。
「足りない……矢紗美さん、もう一回いいですか?」
 答えを待たず、月彦は再び動き出した。



 寝室の外から聞こえて来る水音で、月彦は目を覚ました。微睡みながらも瞼を開けるとベッドの中に矢紗美の姿は無く、寝室の入り口のドアも開けっぱなしになっていた。どうやらシャワーを浴びているらしいと当たりをつけて、月彦はそのまま微睡むままにまかせていた。
 程なくシャワーの音が止み、矢紗美が寝室へと戻ってきた。ジャージではなく、Tシャツと七分丈ズボン姿で、げんなりとした顔で腹部をさすっていた。
「……おはようございます、矢紗美さん。早いですね」
 声を掛けると、矢紗美は一瞬睨み付けるように視線を向けた後、大きく溜息をついた。
「ぅぅ……お尻痛いし、お腹もなんか調子悪いし、もう最悪……」
「お尻……ああっ」
 原因はアレだと、月彦にもすぐに解った。
「す、すみません……昨夜はちょっと……調子に乗っちゃったみたいで……」
「ちょっと?」
 針で刺すような鋭い目線だった。月彦は反射的に矢紗美から目を逸らす。はあ、と視界の外でまた大きな溜息が聞こえた。のそりとした動作で、矢紗美がベッドに戻ってくる。
「紺崎クンさー、何か嫌なことでもあった?」
「え……何でですか?」
「何でって、紺崎クンがエッチの時に豹変するのはいつものことだけど、昨夜はいつになくガチクズって感じだったから」
「うっ……」
「新鮮ではあったし、気持ちよかったけどね? 気持ちよかったけど、ぶっちゃけ私に当たられてもって感じなんだけど、そこのところ紺崎クンはどう思ってるの?」
「す、すみません……確かにちょっと、やりすぎたかもしれません…………」
「悪いことしたとは思ってるってこと?」
 矢紗美はそうとう気分を害しているのだろう。いつになくキツい口調で問い詰められる。
「もちろんです」
「本当に? 償いの気持ちはある?」
「はい」
「そう。……じゃあ、昨夜の”約束”は無しね」
 言質を取ったぞとばかりに、矢紗美がにぃと笑顔になる。
「えっ……や、約束って――」
「もちろん紺崎クンのモノになるとか、紺崎クンとしか寝ないとか、諸々全部」
「そ、それは――」
「なぁに? 償いたいんじゃないの?」
「うぅぅ…………はい。矢紗美さんの言う通りでいいです」
「よろしい」
 うむりと矢紗美が大きく頷く。
「もう、そんな顔しないの。確かに今までみたいに紺崎クンと気安く寝たりはしないけど、紺崎クンがどーしてもってお願いする時に気が向いたら、相手してあげなくもないから」
「…………それって、やっぱり”気になる男の人”が出来たからですか?」
「まあ、そういうことになるかしら」
 矢紗美自身、確証を持っていないような言い方だった。
「何せ、私もまだ”その人”に会ったことないのよね。だから、これからどう転ぶか自分でも全然わからなくって」
「ちょっと待ってください。会った事も無い人が気になってるって、一体どういうことですか?」
「あー、うん……正確には、”ある目的”を達成するために、その男の人に会う必要がありそうというか……ああもう、平たく言うとね」
 こほんと、矢紗美は軽く咳払いをする。
「月島さんとレミちゃんを引き取る為に、二人のお父さんに会って、必要なら結婚も辞さないってコト」



「は?」
 ごぉーん。頭を木槌でぶったたかれたような気分だった。
「月島さんと、レミちゃんを引き取る……矢紗美さんがですか?」
「うん」
「引き取るって……養子として、ってことですか?」
「形式はどうでもいいの。ただ、他人じゃなくて家族として、二人の面倒を見てあげたいなぁ、って」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください! なんで、どうして矢紗美さんが!? 別に血縁者でも親戚でもなんでもないのに!」
「そうなのよ。それ、私もそこを教えて欲しいの! 自分でもなんでこんなにレミちゃんたちのことが気になるのか解らないの! それこそ、ジニーの娘だからなのかとも思ったんだけど、いくら好きな映画俳優の子供だからって、引き取って育てたいとは思わないわよね? 紺崎クン、どうしてだと思う?」
「俺に解るわけありませんよ! 矢紗美さん自身の事じゃ無いですか!」
「そうなのよねぇ……やっぱり、レミちゃんが可愛いからかしら」
「だからって……」
 確かに。確かに矢紗美の月島姉妹への――特にレミへの執着は並々ならぬものがある。甲斐甲斐しく世話を焼き時には衣類まで用意し、些か度を超していると月彦も思っていた。それがまさか、引き取って育てたいとまでなるとは。
「可愛いって言っても、レミちゃんももう中学生ですよ? 年端もいかない子供っていうなら兎も角……」
「うん、それも考えた。紺崎クンが今考えてるのの何倍も考えたけど、出た結論が”それでも欲しい”なの」
「レミちゃんが、ですか?」
「うん。ぶっちゃけると、そう」
 つまり、レミ目的でラビはおまけのようなもの、ということだろう。
「わたしさー、物でも男でも一度欲しくなるとどうしても手に入れないと気が済まないタチなのよね。さすがに女子中学生が欲しくなったのは初めてだけど」
 何故この人は婦警でいられるんだろう――月彦は純粋に疑問に思った。
「…………ちなみに、このこと……誰かに相談とかは……」
「しようかとも思ったけど、しても今の紺崎クンみたいに絶句されるだけで、意味は無いって思うのよね。それに、誰に相談したところで絶対賛成はされないだろうし、かといって反対されたら気が変わるかっていうとそんなことは絶対無いから、やっぱり意味は無いのよ」
「せめて、先生とかには……」
「あー、ダメ。雪乃なんて絶対ダメ。あの子に言ったら、それこそ父さん母さんにまで伝わって大事になっちゃうわ。最悪、レミちゃん達にまで迷惑かかるかもしれないから絶対ダメ。紺崎クンも言っちゃダメよ?」
「で、でも……」
「それに。これはあくまで私がそうしたいって思ってるだけであって、私が本当に二人を引き取れるかどうかはまったく別の話よ。月島さん達のお父さんだって、いきなり知らない女に娘二人くれって言われて、あっさりOKくれるとも思えないし」
「そりゃあ……そうですよ! OKなんてもらえるわけないです!」
 例えるなら、知りもしない女からいきなり「お宅の真央ちゃんを是非養子に」と言われて頷けるかということだ。そんな申し出、頷けるわけがないと、月彦は思った。
 が。
「だから、ね。必要なら、”月島矢紗美”になるのもアリかなって思ってるの」
「は?」
「二人を頂戴って言ってもダメなら、法的に母親になっちゃおうかなって」
 矢紗美が何を言ってるのか、月彦にはまるで理解出来なかった。
 娘が欲しいから、養子にしたいと申し出るというのは、解らなくは無い。可能か不可能かはさておき、ダメ元で試して見るというのは、まだ解る。
 だが、娘が欲しいから結婚するというのは、少なくとも月彦は聞いた事がない話だった。
「だ、ダメですよ! そんな理由で結婚なんて、絶対後悔しますよ!」
「あら、どうして? ひょっとしたら案外巧くいくかもしれないじゃない」
「そりゃあ、ゼロではないでしょうけど……」
「レミちゃんたちのお父さんって画家で、殆ど家に居ないんでしょ? だったらそもそも夫婦生活なんて無いに等しいし、無ければ破綻もしないんじゃないかしら?」
「待って下さい、矢紗美さん! 落ち着いて、冷静に考えてください。レミちゃんが可愛い、それは認めますし、解ります。でも、レミちゃんはもう中学生ですよ? 五年も経てば立派なレディです。”可愛い時期”なんて、すぐに終わるんですよ?」
「別にそれはそれでいいじゃない。今度は母親として、レミちゃんにふさわしい男を見つけてあげる楽しみが出来るし、レミちゃんが結婚したらその子供を可愛がる楽しみも出来るし」
 あぁ、ダメだ。これはもう、何を言ってもダメだ――月彦はそれを悟った。今、矢紗美にどれほど”デメリット”を告げても、無駄であると。
(……あとは、月島さん達のお父さんに期待、か……)
 質実剛健、俺は亡き妻以外に伴侶を娶る気など無い――そんな荒波にも負けずドシリと構える巌のごとき人物であれば或いは。――考えて、月彦は静かに首を振る。例えそうであっても、本気になった矢紗美が手練手管を駆使すればそう長くは持たないだろうな、という予感があった。
(……けど、俺には止められない)
 雛森家の女がこうと決めたら暴走機関車のごとく突っ走ってしまうのは、雪乃の例で嫌と言うほどに思い知っている。過去、雪乃を止めることが出来なかったように、矢紗美もまた止めることなど出来ないだろうと、月彦は悟ったのだった。



 月彦もシャワーを浴びて出ると、矢紗美が昨夜の余り物で朝食の用意をしてくれていた。見れば、時刻は九時を過ぎている。朝食と言うよりは昼食寄りの食事を摂りながら、月彦は考えていた。
(……ひょっとして、全部冗談という可能性は無いだろうか)
 幼子というなら兎も角、中学生と高校生の娘二人を引き取りたいから、最悪好きでもない男との結婚も辞さないというのはさすがにどうかと思うのだ。ひょっとして自分は矢紗美にからかわれたのではないかとすら思える。
 が、冗談にしてはあまりに荒唐無稽過ぎるとも思える。第一、そんな冗談を言う必要性が何処にもない。やはり、矢紗美は本気でレミたちの母親になろうとしているのだろうか。
 月彦には解らない。少なくとも、他人の娘可愛さに好きでもない異性とくっつくというその心は理解できない。理解出来ず、そして賛成もしてやれない。何故なら、それは月彦の常識で考えれば、十中八九不幸になる結婚であるからだ。
 だが、賛成出来ない理由はそれだけではない。矢紗美が既婚者となってしまえば、今までのように気軽に”遊ぶ”ことが出来なくなってしまう。それは惜しいと、内なる獣が不満を漏らすのだ。何のことはない、矢紗美と気軽にヤれなくなるのが惜しいというだけなのだが、思っていた以上に惜しいと感じていることに、月彦は驚いていた。

「……れで、どうするの?」
「あっ、すみません。ちょっと、ぼーっとしてました……」
「だから、どうするの? 帰りたいならタクシー代くらいはあげるし、私も夕方には出かける予定だから、その時で良ければ送っていくけど」
「夕方から、ですか?」
「そ。ちょっとヤボ用でね」
「解りました。じゃあ、その時についでに送ってもらえると助かります。あと……」
「あと?」
「できれば、四作目を観たいなと」
「ああっ! そう! そうよ! 紺崎クンにレイプまがいの陵辱を受けたせいですっかり忘れてたわ! レイニー・レインを観なきゃ!」
「……その節はすみませんでした」
 月彦は素直に謝罪した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 レイニー・レインは主人公のメアリーのモノローグから始まった。十七歳の内気な少女メアリーは他人と接することが大の苦手で、家族ともうまく喋ることが出来ず、友達が一人も居なかった。メアリーは喋る必要の無い植物が好きで、いつも自室の窓から物言わぬ庭木を眺めていた。
 ある日、メアリーはいつものように庭木を眺めていた。やがて降り出した雨粒が庭木の葉で弾かれ、メアリーはそれらの雨音をまるでオーケストラでも聴くかのごとく楽しんでいた。
 そんなメアリーの前に、一匹の黒猫が姿を見せる。黒猫は雨に濡れながらジッとメアリーの方を見つめ、そのままぷいと顔を背けて何処かへ行ってしまった。
 数日後、またしても雨の日に黒猫は現れた。そしてメアリーを一瞥して、すぐに去って行く。最初は黒猫を気にもしていなかったメアリーだが、雨の日にだけ現れる黒猫に次第に興味を持つようになる。メアリーは黒猫に”レイン”と名付け、観察を続けるうちに”彼”が”同じ雨の日”を繰り返しているということに気がつく……。
 ………………。
 …………。
 ……。


「本当にここでいいの?」
「はい。ちょっと買いたいものがあるんです」
「そう。じゃあ、またね、紺崎クン」
「はい、矢紗美さんも運転気をつけてくださいね」
 夕方、矢紗美に車で送って貰った月彦は、家の近くではなく駅前で降ろしてもらった。手を振って別れ、さてととばかりに駅に隣接している電気屋へと入店する。入ってすぐのエスカレーターで二階へと上がると、月彦は早速目当てのものを見つけた。
「…………無いな」
 眼前にあるのはDVDのワゴンセール。新旧和洋映画の名作駄作が玉石混淆となっているその中には、月彦が目当てとする”レイニー・レイン”は無かった。
「…………強がらないで、素直に矢紗美さんに貸してもらうべきだったか」
 ラビ達の母親が出演している映画四作の中での事実上最終出演作となる、”レイニー・レイン”。その面白さは、月彦の想像の遙か上を行った。ジニー本人の演技力もさることながら、練りに練られた脚本、絡み合う伏線、そしてラスト五分の大どんでん返し。全てが解った上で最初から見直すことで気付ける、最後の伏線と本当の真実。
 成る程、矢紗美がジニーに入れ込むわけだと、月彦は大いに納得した。そして同時に、この面白さを第三者と共有したくて堪らなくなっていた。これほど面白い映画であれば、中古でも出回っているだろうと思い、ワンチャン狙いでワゴンセールを確認してみたのだ。が、結果は空振り。
 やむなく、月彦は駅前から少し外れた所に在る馴染みの中古ゲーム屋へと足を運んだ。記憶では、確か棚一つ分くらいは中古DVDを取り扱っていた筈だ。そして記憶の通り、中古DVD用の棚はあったが、目当ての映画は見つからなかった。
「……むむむ」
 仕方がない。即時購入は諦め、今日の所はレンタルで我慢しよう――月彦は再度駅前へと戻り、馴染みのレンタルショップへと足を運んだ。が、レンタルショップは建物そのままに百円ショップへとクラスチェンジをしていた。
「……………………。」
 大丈夫、歩いて行ける範囲にもう一件ある――潰れてなければ。月彦は腕時計に視線を落とす。矢紗美と別れたのは夕方だったが、あちこち歩き回っているうちにすっかり日は暮れ、時計の針は七時にさしかかろうとしている。次のレンタルショップで見つからなければ今日の所は諦めよう――そんなことを考えながら、人気の無い夜道を歩いていた月彦は、唐突に、空気が裂ける音を聞いた。
「えっ」
 刹那、月彦の視界は白い闇に覆われた。



 衝撃。
 耳を劈いた轟音は、一体何の音だったか。
 真っ白い闇の中わけも分からず吹っ飛ばされ、受け身もろくにとれないままアスファルトの上を転がるように着地する。
 キーンと鳴り続ける耳。白一色の視界。目も耳も役に立たない中、オゾン臭だけが鼻をつく。一分……或いは数分して漸く、目と耳が機能を取り戻し始めた。
「いちち……」
 全身の痛みに耐えながら、辛くも立ち上がる。目は大分見えるようにはなっていたが、相変わらず視界は白一色だ。次第に、それは霧のようなものが立ちこめているからだと気づく。
 月彦は俄に記憶を辿る。轟音と、強烈なフラッシュのような白い闇の前には、もちろん霧など無かった。一体全体何が起きたのか、直近に雷でも落ちたのだろうか。注意深く辺りを観察する。そして数メートル前方に何か黒い塊があることに気がついた。
 恐る恐る距離を詰める。白い霧に隔てられていた黒い影が、徐々に露わになる。そして近づくにつれて、最初は黒だと認識したそれが黒でもなんでもない色――地面に倒れた人であると気づくや、月彦は考えるよりも先に駆け寄っていた。
「だ、大丈夫ですか!?」
 慌てて抱き起こそうとして――ハッとたじろぐ。倒れていたのは若い女性――しかも全裸だった。年は二十代前半――ひょっとしたらまだ十代かもしれない。白い霧の中にあって尚、輝くような金色の髪と、見覚えのある顔立ちに思わず声が出る。
「えっ……」
 まるで、月彦の声がキーであったかのように、女性が瞼を開けた。エメラルドグリーンの輝きをそのまま封じ込めたような淡い緑の瞳が、はっきりと月彦を捕らえた。
「ツキヒコ……?」
 震える唇から漏れた声にも、聞き覚えがある。しかし、どうしても眼前の女性と記憶領域に存在する名詞がリンクしない。戸惑い、硬直する月彦の目の前で、女性がバネ仕掛けのような動きで身を起こした。その淡緑の瞳に大粒の涙が滲む。
「ツキヒコ、生きていたの!?」
 わけもわからないうちに、しがみつくようにして抱きしめられる。困惑の中、何故俺は今服を着ているんだと。服越しに押しつけられる感触に、頭がバグりそうになる。
「そうだ、しっぽ女は!? 巧く撒けたの!?」
「し、しっぽ女!?」
 一体どの”しっぽ女”の事だろうか。片手では数えられない”しっぽ女達”が脳裏に浮かぶと同時に、今度はがっくがっくと肩を掴んで揺さぶられる。
「どうしたの? まさかまた記憶障害? あーもう! これならどう?!」
 女はええいとばかりに月彦の右手首を掴み、布一枚纏っていない自分の胸元へと押し当てる。
「思い出した?」
「えっ、あ……いや――」
 ピピピッ――右手の平から伝わってくる感触を、脳内でVlook検索をかけるも、答えは”該当なし”。月彦は女の剣幕に気圧されながらも、ゆっくり首を振る。
「そんな……これでもダメだなんて……………………」
 エメラルドグリーンの輝きが、俄に陰る。女性がそのまま黙り込み思案している最中も、月彦は据え膳食わぬは恥だとばかりにおっぱいの感触を楽しんでいた。
「まさか」
 そして恐らく、何かの結論に至ったのだろう。女性がハッとしたように、月彦の顔を覗き込んでくる。
「君にとっては”これが最初”なの?」
 モミモミ。
 既に検索は終わっているが、右手の動きは止まらない。なかなかの質量と手触りだ。
「……えーと、すみません。徹頭徹尾何のことか解らないし、多分別のツキヒコさんと勘違いしてるんじゃないかと思うんですけど……」
 モミモミモミ。
 再度検索をかけるも、やはり該当は無い。これほどの上質おっぱいであれば、一度揉めば絶対に忘れないから、初対面であるのは間違いない。
 間違いないのだが。
「貴方はひょっとして……ヴァージニア……ジニーさんですか?」
 どう見ても、眼前の女はほんの数時間前まで見ていた映画に出演していた女優と同じ顔をしている。にもかかわらず、疑問形になってしまうのは、その女優が既に故人であり、且つ眼前の人物の方が明らかに若く見えるからだ。
「……違うわ。人違いよ」
 眼前の女の目に、深い絶望の色が滲んだ。月彦はてっきり、自分が見当違いの質問をしたからだと思った。
「そういうことだったのね。どうして君が見ず知らずの私にいきなり接触してきたのか、ずっと疑問だったの。知人に似てたからだったのね」
「えーと……あの、とりあえず服を着た方が……」
 全裸を見かねて、上着を脱ごうとした月彦の眼前に、女が左腕を突きつけてくる。最初は、女は全裸だと思っていた。しかし厳密には違っていた。女は左手首に白い時計のようなものを巻いていた。ような、と表現したのは、時計にしては大仰で手首用のギブスのようにも見えたからだ。
「ごめんね。今から君の記憶を消すわ。私と出会った記憶と、…………念のために私に似ている誰かの記憶も」
「えっ、えっ? 記憶を消すって、ちょっと待――」
 次の瞬間、女の手首から目映い光が迸り、月彦の視界を再び白く染め上げた。
 白い闇の中で女の声が聞こえる。
「私に出会わなければ、私と関わらなければ、少なくとも”君”が過去を変えようとすることも、そのせいで死ぬことも無くなるわ」
 ちょっと待って、一体どういう意味――月彦は白い闇の中、喋ろうとした。しかし、全身の時間を止められたかのように身動き一つすることが出来なかった。
「君の記憶を消したら、私ももう一度あの瞬間に戻れないか試してみるわ。しっぽ女の狙いは私だから、私が先に殺されれば君は見逃してもらえるかもしれないしね。……そんな事は絶対あり得ないだろうけど、もし二人とも生き残ることが出来たなら、その時は……約束通り、一緒に”故郷”を探してね?」
 女の左腕から溢れる光が、輝きを増す。人間の目には目映すぎるその光は、やがて月彦の意識そのものを消し飛ばした。
 ………………。
 …………。
 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「ただいまー」
「父さま、お帰りなさい!」
「おおっと、真央どうした? 随分甘えるじゃないか」
 月彦は玄関先で靴を脱ぎながら、頭を擦りつけるようにして甘えてくる真央を撫でてやる。
「だって、寂しかったんだもん。………………父さま、”映画祭り”楽しかった?」
「ん? あぁ、楽しかったぞ。四本とも面白かったけど、特に最後の一本が面白かった。 あんまり面白かったから真央とも一緒に観ようと思って借りてきたんだ」
 レンタルショップの袋を真央に手渡す。真央には友達の家で映画祭りをやるから、もしかしたら泊まりになるかもと説明していた。もちろんその友達というのが矢紗美であることや、ラビやレミも一緒であるとまでは説明していない。
「えっ……これが、面白い映画?」
「ああ。レンタルショップを何軒も回ってやっと見つけたんだ」
「『メカゾンビ3 〜雑魚僧侶に回復魔法で瞬殺されたゾンビだけど異世界では最強のようです〜』…………お、面白そうなタイトルだね、父さま」
「だろう? 俺も今までいろんな映画観てきたけど、見終わって速攻もう一度頭から見直したくなった映画なんて初めてだ。期待してくれていいぞ」
「……わぁーい………………」
 明らかに気乗りしなそうな愛娘の声に、やれやれと月彦は溜息を鼻から逃がす。
「……解った。レンタル期間は二週間だし、映画は次の週末にでも観よう」
 ぴんっ、と。狐耳と尻尾が跳ね上がる。父親の言葉が何を意味するのか、真央には解り過ぎるほどに解ってしまうからだ。
「あんっ、父さま……」
 愛娘の、たわわな胸元へと右手を添える。そのまま、もみ、もみと感触を確かめるように捏ねて、はたと小首を傾げる。
「……父さま?」
「いや……なんでもない。とりあえず、風呂と……あとまだ残ってたら晩ご飯済ませてくる!」
 頭に浮かびかけた僅かな疑問を愛娘への愛情で塗りつぶして、月彦は小走りに脱衣所へと駆けるのだった。


 休み明けの月曜日というのは何故こうも憂鬱なのだろうか。土日が楽しければ尚更、その反動は凄まじい。
 月彦は重い足取りで学校へと赴き、そして教室前の廊下で意外な人物の待ち伏せを受けた。
「月彦、くん……」
「月島さん!?」
 待ち伏せをしていたのだから、ラビが何か話があるのは分かる。分かるが、今日は家を出るのが遅く教室前にたどり着いたのが始業時間ギリギリだった。
「ごめん、多分何か話したい事があるんだろうけど、もうチャイム鳴っちゃうから…………休み時間になったら俺が月島さんのクラスに行くから、その時でいいかな?」
 ラビは戸惑い、そして頷いた。ラビと別れて教室に入り、席に着くとほぼ同時にチャイムが鳴り、やがてHRが始まった。

 一時限目の英語は、担当の雪乃が体調不良で病欠の為自習になった。学校を休むほど体調が悪いのなら、さすがに見舞いくらいは行くべきだろうか。悩んでいるうちに一時限目が終わり、月彦はすぐにラビの教室へと向かった。
「あっ、居た居た。月島さーん!」
 幸い、ラビも廊下に出ていた。声をかけると、ぱっと笑顔を零して駆け寄ってきた。
「つ、月彦、くん! あの、ね――」
「ごめん、月島さん。ちょっとだけ場所を移そうか」
 何やら突き刺さる視線を感じて振り返ると、ニヤつきながら様子を窺っている千夏の姿が見えた。その視線から逃げるように、月彦はラビの手を引き、校舎の端まで移動する。
「ここならいいか。……何度も話を切っちゃってごめん。それで、何かな?」
「え……と……その……この前は、ごめんなさい!」
 ぶん!
 金色の残像が残る程凄まじい勢いで、ラビが頭を下げる。
「……”映画会”のこと?」
 頭を上げたラビが、申しわけ無さそうに頷く。
「台無し、に、しちゃって……ごめん、なさい」
「謝らないで、月島さん。あれは月島さんが悪いんじゃなくて、俺達の配慮が足りなかっただけだから…………こっちこそ、察してあげられなくてごめん」
「で、でも……やざみ、さん……あんなにいっぱい、準備、して、くれてたのに……」
「それは……でも、矢紗美さんも全然怒ってなかったよ。大丈夫」
「でも、でも……レミ、にも……もっと早く、言わなきゃって……」
 察するに、あの後相当レミに搾られたのだろう。確かに最初に映画会の話が持ち上がった時にすぐラビが反対していたら、少なくとも矢紗美の懐は痛まなかったかもしれない。
(……うん? そういえば、どうして月島さんは映画会嫌だって帰ったんだっけ……)
 何か、やむにやまれぬ事情があった――というのは覚えている。が、具体的にどうしてだったのかがどうしても思い出せない。
「ま、まぁ……とにかく大丈夫だから、そんなに落ち込まないで。……そうそう、実は俺も月島さんに訊かなきゃって思ってたことがあるんだよ。ほら、この間占ってもらったカードの、三枚目のやつ!」
 あっ、とばかりに、ラビが目と口を大きく開く。
「占い、の、こと! ちゃんと、言わなきゃって、思って、たっ!」
 どうやら、ラビの方も占いの内容を伝え切れていなかったことが気がかりであったらしい。スカートのポケットから出してきたのは、まさしく先日月彦が見た三枚のカードだった。
 一枚目は、雷の絵柄のカード。
 二枚目は、墓標の絵柄のカード。
 そして三枚目は――真っ白、絵柄が何も描かれていないカード。
「これこれ、この三枚目! どういう意味なの?」
「これ、は……無」
「無? 何も無いってこと?」
 ラビが頷く。
「これ、は、ワイルドカード。普通、は、回答不能の、占いの時、に、出る、カード」
「回答不能……」
「でも、変。回答不能の、時、は、このカードしか、出ない。月彦くん、の、占い……雷と、墓標のカード、も、出てた。ありえ、ない」
「出てた、って……出したのは月島さんじゃないの?」
 占ったのはラビだ。つまり三枚のカードはラビが選んで出したという認識だった。しかしラビは戸惑うように狼狽えた後、観念するように瞼を閉じた。
 再び瞼を開けた時、ラビの雰囲気ががらりと変わるのを、月彦は感じた。
「カードを選んだのは月彦くんの運命。私じゃない」
 ぞくりと、背筋が冷える。眼前に居るのは、間違いなく月島ラビの筈だ。しかし月彦にはまるで、目に見えない巨大な何かがラビの口を操ってそう喋らせているかの様に見えた。
「雷のカードは不可避の邂逅、予期せぬ災難の暗示。墓標のカードは死の警告、過去、死者の暗示。そしてワイルドカード。矛盾、起こりえぬ未来の暗示」
「起こりえぬ未来……」
 災難、死の警告――ラビに占ってもらったのは、由梨子を助ける為に何をするべきかであった筈だ。例えば、親身になって相談に乗った方がいいのか、それとも逆に関わらず、そっと見守る方がいいのか。そんなレベルの助言でももらえればと思っていた。しかし月彦の軽い気持ちを嘲笑うように、物騒な単語ばかりが列挙される。
「よく、わからないけど……その、知り合いを助けようとすると、大変な目に遭うってことでいいのかな?」
 この息苦しさは錯覚なのだろうか。まるで昼間の学校から一瞬にして海の底にでも引きずり混まれたかの様。他の生徒達の声すらも遠のき、月彦の耳にはもう、ラビの声しか聞こえない。
「雷のカードが出てる。月彦くんには選べない。月彦くんの意思に関係なく、始まる。始まる前に終わっている可能性もある」
「始まる前に終わってる可能性がある……?」
「ワイルドカードが出てる。矛盾が起きる。原因と結果が、過去と未来が逆転するかもしれない。墓標のカードが出てる。月彦くんは死ぬかもしれない。死んだ人間と出会うかもしれない」
 ラビの言葉に圧倒される。ただ話を聞いているだけなのに、まるで強烈な光でも浴びせられているかの様。たとえそれがどんなにあり得ない事であっても、今のラビに”あり得る”と言われれば、それが事実となる。ラビの言葉の後に続くように、世界が作られていく――そんな錯覚すら覚える程に。
 ラビの言葉は続く。それはいつのまにか日本語では――否、人間が理解出来る言語ではなくなっていた。それどころか、可聴域からも外れ月彦の耳にはただの耳鳴りとしか感じられないそれが――唐突に、終わった。

 次の瞬間、月彦の周囲には日常の雑音が戻っていた。
「月彦、くん……どう、したの?」
「えっ……? ぁ……」
 はっと気がつく。目の前に居るのは月島ラビ。いつものラビだ。月彦は掌に浮かんだ冷や汗を自覚しながら、そのことを何度も確認する。
「ご、ごめん……ちょっと、ぼーっとしてて……占いのこと教えてくれてありがとう。休み時間が終わっちゃうから、教室戻ろうか」
 言うが早いか、月彦はラビに背を向け、逃げるように歩き出した。冷や汗が止まらない。ただの人間が絶対に口を利いてはいけない何かと、口を利いてしまった――そんな禁忌を犯したという実感だけが確固として在る。
 
 逃げ帰るように教室に戻った後、月彦はラビに聞いた占いの内容を覚えていない自分に気がついた。しかし、もう一度ラビに尋ねる気には、どうしてもなれなかった。

ヒトコト感想フォーム

ご感想をひとことどうぞ。作者にメールで送られます。


ヒトコト

Information

現在の位置