それはひょっとしたら、”最初の冒険”であったのかもしれない。
 子供だけで絶対に入ってはいけないと言われている場所に入るのはもちろん初めてのことで、それどころか大人の言いつけを破ること自体初めてであったかもしれない。
 高鳴る鼓動はもちろん不安によるものであったが、決してそれだけというわけでもない。大人の言いつけを破っての、ささやかな冒険の誘い。それは抗いがたい誘惑と、新たな世界への期待に満ち、やってはいけないことだと分かっているのにどうしても断り切れなかった。
 草をかき分け、前へ前へと進む姉の後ろ姿がなんと頼もしく見えたことか。姉の方も、この冒険に少なからず興奮しているのだろう。しっかりと握られた手のひら越しに高鳴る鼓動まで伝わってくるかの様だった。昼間ですら薄暗く、時折鳥とも獣ともつかない鳴き声が響き渡る森の中でも泣かずにこうして歩き続けられるのは、ひとえに姉が側に居て手を握ってくれているからに他ならない。
 時折休憩を挟みながらも、さらに森の奥へ、奥へと入っていく。休憩の都度、姉はどこからともなくヘビイチゴやら桑の実やらを取ってきて食べさせてくれた。決して腹が膨れるというほどの量ではなかったが、それでも甘酸っぱい味が空きっ腹に染み渡り、これ以上ない美味に感じられたものだ。夢中になって木の実を食べている間、やさしく頭を撫でてくれるのがまた心地よく、木の実をかじりながら眠気を催してそのまま眠ってしまったのも、一度や二度では無かった。それでも、ただの一度も途中で強引に起こされたという記憶はないから、毎回自然と目を覚ますまで待っていてくれたのだろう。
 そう、”秘密の冒険”は一度だけでは終わらなかった。二度、三度と大人の目を盗んでは森の中へと入って遊んだ。ある時などは途中で雨に降られ、岩陰に二人身を寄せ合うようにして雨宿りした。濡れた体を背後から包み込むように抱きしめられると、それだけで心臓が高鳴り、体が熱くなった。まだ”異性”を意識するような年齢でもなかった筈だが、それでも背中に姉の胸元が触れている時は安堵や安心といったもの以外の――腹の底からむらむらとこみ上げてくるものを感じていたのは誰にも言えない秘密の一つだ。

 そう、それは幼い日の秘密の冒険の記憶。
 甘い毒のように全身を満たしていたそれは徐々に、瞼越しに感じる痛みにも似た光によって霧散し、やがて月彦は意識を覚醒させた。

 

 

 

 

 

 

 


 

 ”ハイになっている”ということがどういう状態なのか。まるでその見本のような状態だった。
「いやぁ、良い朝だなぁ。ここ数年で一番すがすがしい朝だ」
 カーテンを開きながらそう言う父親に倣って真央もベッドから身を起こして外を見てみたが、どんより曇り模様の空はどう見ても”すがすがしい”という表現とはほど遠かった。
 が。
「まーおっ」
「きゃあっ!? と、父さま!?」
 くるりと振り返るなり獲物に飛びかかるケダモノのような動きでベッドへと戻って来た月彦に背後から抱きすくめられ、そのままもっぎゅもっぎゅと両胸をこね回される。
「起きなきゃいけない時間までまだ少しあるし、一回だけするか?」
「えっ、えっ? で、でも……あんっ……」
 耳の裏に当たる優しい吐息。それとは対照的に乱暴な手つきに、心の動揺とは裏腹に体の方が反応してしまう。自分の背中と月彦の背中とに挟まれた尻尾がざわざわと蠢き、くすぐったさに月彦が小さく笑い声を上げる。
「なんてな。いくらなんでも十分ちょっとじゃたいした事出来ないし、そんなのは真央だって嫌だろ?」
 が、真央の方がその気になったのを見計らうようについと、両手が胸から離れてしまう。代わりに腹部に回された手で、ぎゅうと強く抱きしめられる。
「――その代わり、帰ったら……今日はめちゃくちゃにしてやるからな。期待して待ってろよ、真央?」
「ぇっ……ぇっ…………そんな……父さま、そんなこと、言われたら…………」
 月彦の言う”めちゃくちゃにする”というのが一体どんな内容なのか想像してしまう。”帰ってから”なんて待てないとばかりに体が熱く火照り、疼き出してしまう。
 もちろん娘の体が”そうなってしまう”ことなど月彦もお見通しで、うずうずと太ももを擦り合わせている様を嘲笑うように、耳の後ろで冷たい笑みを零される。
「ちゃんと今日一日、学校から帰ってくるまで我慢するんだぞ、真央。一人でシたりしたら絶対ダメだからな?」
 疼きに疼く体を堪えて、飢えさせておけと言われている――月彦の言葉を、真央はそう理解した。ただ我慢するのではなく、妄想をたっぷり膨らませておけと。飢えて、飢えて、男が欲しくて堪らない状態になっているのを抱きたいと言われている――それが真央には嬉しい。
 何故なら、その”飢え”に見合うだけの快楽を与えてやると言われているも同義だからだ。
「……うん、わかった。絶対、一人でシたりしない」
 ふう、ふうと肩で息をしながら真央は頷く。月彦に”火”をつけられた体は文字通り熱く火照り、触れて欲しくて抱いて欲しくて堪らない状態であるにもかかわらず、さらに半日近く焦らされるのだ。
 ――それが堪らない、と感じる。……感じる体に、変えられてしまったのだ。
「……くす。いい子だな、真央は。…………さて、起きるか」
 頭を軽く撫でてから、月彦が一足先にベッドから出ていってしまう。一人残された真央は焦れ疼く体を抱きしめながら、はたと思う。
 昨夜まで平常運転であった月彦が何故朝起きるなりああもハイになってしまったのか。そういえば以前にも――今回ほど極端ではなかったが――似たようなことがあったことを真央は思い出した。
(その時は、確か……)
 とても良い夢を見た――後に月彦がそう零していた筈だ。ならば、今回も同様に夢の影響なのだろうか。それも、”とても良い夢”を遙かに超えるものだったに違いない。
「……………………。」
 胸の内側で黒く熱を帯びたものが膨れ上がるのを感じる。何故なら夢に登場しただけでああも月彦を舞い上がらせてしまう相手は真央の知る限り”二人”しか居ないのだから。
 そしてその中に自分は入っていない――真央の目が自然と、勉強机の側の窓へと向かう。そこにはやはり、鍵などかけられてはいない。
 月彦が見たのは、一体”どちら”の夢だろうか。どちらにせよ、あまり愉快な話ではないと首を振り、ぺちんと頬を叩いてから、真央もまた月彦の後を追った。


 
 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第六十四話  

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 






 まるで世界の全てが虹色に輝いて見えるようだった。起き抜けに見た夢一つでここまで世界の感じ方が変わるというのが月彦にとって衝撃であり、また同時に自分はどうしてあのような幸せな記憶を忘れてしまっていたのだろうと不思議にも思った。
(……なんか、無性に姉ちゃんの顔が見たくなっちまったな)
 真央には帰ったらめちゃくちゃにしてやるから我慢しろと言った手前、放課後すぐにでも帰宅すべきなのだろうが、霧亜の見舞いは長くても一時間はかからないだろう。そのくらいならば真央には良い”焦らし”となるかもしれない。
(……てことは、今一番気をつけなければいけないのは――)
 ちらりと、月彦の目がつい前方へと向く。確率を考えれば決して高いとは言えない筈なのに、移動教室の際にはかなりの確率で遭遇してしまうのは相手の方がこちらの移動教室のタイミングに併せて廊下を移動しているとしか思えない。
 とはいえ、一応部活の顧問ではあるし、廊下ですれ違うからには挨拶の一つもせねばならないだろうと月彦が軽く会釈をしようとした刹那。
「あっ」
 という声と共に、雪乃が手にしていた書類の束を滑らせ、それらがまたたくまに廊下一面に飛散する。
「手伝います」
 反射的に月彦も膝をかがめ、散らばった書類の束を拾い集める。意外とおっちょこちょいな一面もあるのかな等と苦笑しながら書類を拾い集めていた月彦は、ふっと手を止めて雪乃の方を見るなりぎょっと身をすくませた。
 そこには、恥ずかしい所を見られちゃったという照れも、ばつの悪さも何も無い。腰を屈めたまましかし手は一切動かさず。ただただ何かを観察する科学者のような冷徹な目があったからだ。
 が、その目も、月彦と目が合うなりすぐさまハッと正気のそれへと戻る。そして自身も慌てて書類を拾い集め「ありがとう」と他人行儀な言葉を残して雪乃は足早に去っていった。
(……今のは)
 雪乃の目を思い出して、ぞっとする。そう、あれはまさしく”観察”だ。それも、雪乃の目の動きを思い出すに、右腕の動きにばかり注視していたように思えてならない。
(怪我の治り具合を……観察されてた?)
 思えば、最近は随分と雪乃が大人しいように思える。それもこれも、ひとえに自分が怪我をさせてしまったという負い目があったからではないか。
(……ってことは、怪我が治ったら……どうする気なんだ?)
 溜まりに溜まった性欲に爆発寸前になった雪乃に詰め寄られる未来を想像し、月彦は興奮よりもむしろ寒気を覚えた。あのイチャイチャ好きの雪乃が、自責の念から接触を自粛していたのだ。”その縛り”が消えた時、限界まで引かれたバリスタの矢のような勢いと質量でぶつかってくる雪乃を受け止めきる自信などとても無いからだ。
(……いっそもう一回怪我したほうがいいかもしれないな)
 考えて、首を振る。見た目にもはっきりと解る程の怪我など、余程の覚悟が無ければ自発的に出来るわけがない。さすがにその覚悟に比べたらまだイチャイチャ飢餓状態の雪乃に甘えられる方がマシであるし、何よりも今の月彦には一刻も早く右手の怪我を治さなくてはならない理由があった。
(あの妙子が……”怪我が治ったら”って言ってくれたんだ。…………治さないとな)
 本来なら、"真央の薬"を使ってでも手っ取り早く治してしまいたいところではあった。が、副作用が怖かったというのと、もう一つはあまりに早く治しすぎて妙子に不信感を抱かれるわけにもいかない。
 やはりここは自然治癒しかない――だから、下手に雪乃と接触して”あの怪力”で治りかけの腕をうっかりポキリとやられるようなことは絶対避けなくてはならないのだ。
(……どのみち、今日は姉ちゃんの見舞いに行く予定だったし……治るまで先生が大人しくしてくれてるなら、今はその気持ちに甘えておこう)
 そして機会を見て、そこはかとなく宥めていこう――”それ”が可能かどうかはさておき、月彦はそそくさと逃げるように廊下を後にするのだった。

 放課後、月彦はHRが終わるなり教室を飛び出し、姉の病室へと走った。矢も楯もたまらず、というよりは限界まで引かれたバリスタのような勢いで、しかし赤信号はきちんとまもりつつ病室へと急いだ。
 途中、何か土産を持って行った方が良いかと迷い、しかし用意している時間が惜しいとばかりに疼き出す足を堪えかねるようにして月彦は病室の前までたどり着き、すぐさま開けようとして――ちゃんとノックをしなおして――開けた。
「姉ちゃん! 元気か!」
 考えて見れば、怪我をして入院している相手に対して「元気か?」などと失礼なことこの上ないが、そこを声高に叫ばせてしまうのが今のテンションのなせる技だった。
 霧亜は、病室に居た。いつものようにベッドの上で上半身だけを起こし、相変わらず弟の存在を全否定するかのように一瞥すらせず、手元の単行本を読みふけっていた。
 そんな霧亜の態度すらも懐かしいという気持ちにしかならず、月彦は思わずにやけそうになる顔を必死に引き締めながら、ベッドの側へと歩み寄る。
 姉は決して優しい言葉こそかけてくれないが、かといって無視もしない。……余程機嫌が悪いとき以外は、だが。
(……良かった。今日は機嫌がいいみたいだ)
 そう月彦が判断したのは、ベッドへと近寄るなり霧亜が本を閉じたからだ。相手をしてくれるのだと、わくわくしながら姉の言葉を待っていた月彦は姉の第一声に文字通り戦慄した。
「…………愛奈に手紙を出したそうね」



 体の動きだけではない。心臓の動きまでもが、比喩ではなく一時停止した。
「えっ……」
 そんな間の抜けた声と共に見た霧亜の顔はどこまでも冷め切っていて、なおかつあきれ果てていて、もはやどんな言い訳も見苦しいだけだと月彦は悟った。
「て、手紙っていうか……ただの伝言みたいなものだけど――」
「………………。」
「ていうか……なんで姉ちゃんが知って――」
「一昨日だったかしら。”愛奈の妹”が、わざわざ来て、頼みもしないのに喋っていったわ」
「あ、ンのッ……――ッ!」
 まさかすぎる”情報源”に、月彦は思わず絶句する。霧亜の前でなければ、間違いなく逆上しているところだった。
(っっ…………助けるんじゃなかったぜ)
 恩知らずという言葉がこれほど似合う女が果たして他に居るだろうか。このままじゃ愛奈に酷い目に遭わされるから、一言でいいからお願い――そう涙ながらに懇願されてしぶしぶ書いてやった”お返し”がこれかと。
(………………いや、”そういう連中”だって分かってたはずなのに、騙された俺が悪かったのか)
 この世界には、本当の意味で助ける価値の無い人間が居るのだということを、今度という今度は思い知った。まさか人助けをしたことでこれほどに嫌な気分を味わうことになるなんて。
(……本当に、姉ちゃんの言う通りだった。優巳姉がただの被害者だなんて、勘違いも甚だしかった)
 ガチクズという言葉は、あの女にこそふさわしいのではないか。
「……って! 大丈夫だったのか!? 優巳姉が来たって、何もされなかったのか!?」
「”その話”だけよ。愛奈、小躍りして喜んでたらしいわよ、よかったわね」
 笑顔。彗星よりも日食よりもレアな霧亜の笑顔だというのに、全身から冷や汗が止まらない。心臓が変なリズムで脈打ち、あまりの息苦しさに月彦は思わず胸元をかきむしる。
「喜ぶって……俺は何も――……」
 ただ、優巳姉を叱らないでくれと一言書いただけだ。およそ、小躍りして喜ぶような内容ではない。喜んでいたというのは恐らく――否、間違いなく優巳の誇張だろう。そう言えば、霧亜がきっと嫌がるだろうと見越して、わざわざ伝えに来たに違いないのだ。
「まさかとは思うけど」
 息苦しさに俯き、必死に思案していた月彦は霧亜の言葉に再び顔を上げる。
「………………愛奈に、会いたいの?」
 僅かな溜めの後、姉が口にした言葉にはどこか戸惑いの響きがあった。否、戸惑いどころか”不安げ”にすら見える。それだけで、姉が今回の一見を――愚かな弟の何倍にも――重大事と捉えていることが伝わってくる。
「何いってんだよ! 名前を聞いただけで吐き気がするくらい嫌いなのに、会いたいなんて思うわけないだろ!?」
 だったら、何故手紙なんか出した――僅かに顰めた顔は言葉以上にそう物語っていた。
(違う……違うんだ、姉ちゃん! 愛姉とコンタクトをとりたかったわけじゃなくて、優巳姉に懇願されて仕方なくなんだ……)
 しかしそれを説明したところで、ただただ愚かな弟だと再認識されるだけだ。月彦はぐっと拳を握り、俯くことしか出来ない。
「月彦」
 霧亜の声に、再び顔を上げる。ちょいちょいと、指先でもっと側に寄るように促される。月彦は逆らわず、霧亜の手が届く範囲にまで近寄り、ぐっと歯を食いしばった。
 が、予想したような衝撃は来なかった。
「え……?」
 霧亜の手が、後頭部へと回る。丁度後ろ髪を撫でるような手つきで宛がわれたそれがただただ心地よく、瞼が自然と下がってくる。
「…………忘れてるようだから、しっかりと思い出しなさい。あいつらに、何をされたのか」
 かりっ……後頭部にかすかに爪を立てられる。霧亜の言葉のままに、月彦は”悪魔の双子”から受けた仕打ちを一つ一つ思い出していく。それらは月彦にとっても決して愉快な記憶ではなかったが、これ以上逆らって姉を失望させるわけにはいかない。後ろ髪を撫でる姉の手の感触が無ければ、とても出来ない事だった。
 脳裏に蘇るのは、おぞましい悪魔と化した双子の影。目を瞑れば、怪鳥の鳴き声のように甲高い笑い声すら聞こえてくるかの様。月彦は歯を食いしばり、霧亜の手の感触に集中する。霧亜の言う通り、今の自分には双子に対する憎悪と恐怖が足りていないのだ。画質の荒い、白黒の無声映画のように風化した記憶を蘇らせることで、あいつらは敵であると己に再認識させなくてはならない。
「……愛奈は正真正銘の怪物よ。それこそ”妹”なんかとは比べものにもならないわ。今のあの子からはもう、私でも守ってやれないかもしれない。顔を合わせてしまったらそれでもう終わり、そのことを肝に銘じなさい」
 そう、肝に銘じなければならない。姉の言う通りなのだ。後頭部を優しくなでつけられる度に、記憶の底に沈んでいた記憶までもが浮かび上がり、月彦の心に恐怖を刻みつける。さながら、姉の手から直接恐怖の記憶を注ぎ込まれているのではと錯覚しそうになるほどに、霧亜の手の動きと記憶の復活は連動していた。
「……っ……」
 次々に蘇る、文字通り苦い記憶に強烈な吐き気がこみ上げてくる。が、姉の目の前で嘔吐するわけにはいかない。月彦は歯を食いしばり脂汗を流しながら”悪夢”に耐える。
 どれほどの間そうして耐え続けていただろうか。不意に霧亜の手が離れ、あれほど克明に瞼の裏で上映されていた”悪夢映画”すらも急激に色褪せた。肺に溜まった息を吐きながらゆっくりと瞼を上げると、無理な姿勢が負担となったのか。霧亜もまた憔悴しきった様子でベッドに身を横たえていた。
「姉ちゃん……?」
「……なんだか疲れたわ」
 眠るからさっさと出て行け――そう聞こえた。いつもなら1も2も無く回れ右をするところではあった。
「……月彦?」
 いつもならさっさと出て行く弟が女々しく残って居るのが不愉快――そんな声だった。それでも月彦は動かなかった。
「………………。」
 霧亜が迷惑がっているのは重々承知だ。それが分かっていて尚、この場を動きたくないと感じる。”双子の記憶”のせいではない。単純に、純粋に、霧亜の側に居たいと感じるが故の”居残り”だった。
 ふう、と。霧亜が小さく溜息をつく。やれやれとでも言いたげな、しかしどういうわけか怒ってはいないらしい。そんな息使い。
「用があるならさっさと済ませて。眠りたいの」
 痺れを切らしたような姉の言葉に思わず「あっ」と声が出る。
「え……っと……ごめん、姉ちゃん。一つ、どうしても気になったことがあってさ」
 この場に居続けるために咄嗟についた嘘だったが、口にしたからにはもう後には引けない。
「ほ、ほら……昔さ、”冒険に行こう”って、姉ちゃんに誘われて……森だか山だかに行ったことあっただろ?」
 ぴくりと霧亜が片眉を揺らし、むくりと上体を起こす。
「今朝久々に夢に見てさ、あれって何処に行った時のことか姉ちゃん覚えてないかと思って」
「覚えてないわ」
 ばっさり、一刀両断。キャッチボールをしようと投げたボールをひょいと避けられたような気分だった。
「そ……っか。姉ちゃんも覚えてない、か」
 そんな筈は無い――そう感じる。恐らく、愚かな弟と手を繋いだままどこそこに出かけたという忌まわしい記憶を封じておきたいから、覚えていないと言っているに違いないと。
 いつもであれば、そんな姉の気持ちを慮り、大人しく身を引くところだが。
「で、でもさ……だいたいどこら辺とかだけでも覚えてないかな? ほら、一度途中で雨が降った時とか、大岩のくぼみに隠れて雨宿りしただろ? あの岩の場所だけでも分かれば……」
「覚えてない」
 先の言葉とは違う。強い拒絶の意思が込められた声だった。さすがにこれ以上は食い下がれないと感じた。
「そ……か。覚えてないなら、仕方ないな……。じゃあ、俺は帰るから……」
 みゃーこさんによろしく――最後にそう付け加えてから、踵を返す。肩を落とし、とぼとぼと病室のドアまで歩いたところで。
「赤橋神社の裏手の山よ」
 姉の澄んだ声に、ハッと月彦は振り返った。が、霧亜はベッドに身を横たえたまま瞼を閉じており、月彦は心の中で礼を言ってから、音を立てぬ様静かにドアを開けて退室した。



 人はパンのみにて生きるにあらずとは言うが、パン以外に必要なものがあるとしたらそれはきっと家族とのつながりではないか。霧亜との思い出の地を早速確かめに行こうと思い、ホクホク気分で病院を後にした月彦だったが。
(……赤橋神社ってどこだ?)
 神社の名前を聞いただけで場所が特定できたような気分になっていたが、そもそもそんな名前の神社など知らないということに気がつく。さすがに病室に戻り、寝ている姉を起こしてその神社は何処にあるのか等と尋ねることは出来ない。
(……母さんなら知ってるかな)
 霧亜と日常的に遊んでいた場所なら、葛葉も知っている可能性は高い。今日の所は大人しく帰り、葛葉に場所を聞いた上で明日改めて行ってみれば良い。
(そうだな、ついでだから真央も誘うか)
 姉に食べさせてもらった様々な実の味を――今の季節に実っているかどうかはわからないが――真央にも味わわせてやりたい。そんなほっこりした気分で帰宅した月彦だったが。

「……ぁ、お帰りなさい、父さま」
「お、おう……ただいま、真央」
 玄関のドアを開けるなり、玄関マットに腰を下ろしてずっと待っていたらしい真央がぴょこんと立ち上がるのを見て、月彦は己がとんでもないことを失念していたことを知った。
(しまった……そういや、今朝――)
 帰ったらメチャクチャにしてやるから期待して待っていろ――朝、確かにそう口にした。姉と遊んだ森の件でうかれるあまりすっかり忘れてしまっていたが、言われた真央の方はずっと妄想を膨らませ続けていたのだろう。
「ま、真央……?」
 靴を脱ごうとする月彦の隣に早くもぴったりと寄り添い、すすすと尻尾の先で背中を撫でつけてくるその様。露出の多いピンクのキャミソールにホットパンツという出で立ちは明らかに今の時期には寒すぎるように見えるのに、その体は熱く火照り、むしろ滾っていると言って良いほどに熱を帯びている。
(うぎぐ……しまった……今、真央の相手をするのは……)
 ここまで高ぶってしまっている真央の相手をするには、相応の準備が――覚悟と言い換えてもいい――必要だ。それこそ、自身も放課後に向けて気分を高め、ああしてやろうこうしてやろうと綿密にシミュレートした上で望まねば、逆に真央に気圧される結果となってしまうだろう。
 ……それはそれで、たまにはそういうのもいいんじゃないかという考えがチラリと首をもたげるが、そこはそこ。仮にも父親として、娘に押されっぱなしでおしまいというのは、やはり避けたい。
「どうした? 真央。そんな格好で寒くないのか?」
 すっとぼけた声を出しながら、軽く真央の髪を撫でつける。それだけで、敏感な愛娘は小さく声を上げ、くすぐったそうに身をよじる。
「だい、じょうぶ……ねえ、父さま?」
 制服の袖を掴み、くいくい。早くお部屋に行こうと、見上げる真央の目が如実に語る。ふふと、月彦はあえて軽く笑い飛ばす。
「なんだ、すっかり出来上がってるみたいだな。………………もう1日我慢させたらどうなるかな?」
「えっ……」
 真央の目が失望と――そして期待に濡れる。くつくつと、笑いが自然とこみ上げてくる。
「そん、な……父さま……もう一日なんて……」
「待てない、か? 俺の命令でもか?」
 ぁっ、と。真央が小さく呻き、そして生唾を飲み込む。
「”おあずけ”だ。真央……明日まで我慢できるな?」
「っっ……ぅ……とう、さま…………」
 はあはあ。
 ふうふう。
 じっとりと濡れた目で見上げる愛娘の色気に、思わずゾクリとする。むしろこっちが明日まで待てないと、今にも押し倒したくなるのをぐっと堪え、平生を装う。
「ちゃんと我慢するんだぞ、真央。……勝手に一人でシたりしたら――……わかってるな?」
「う、うん…………我慢、する…………」
 側に立つだけで熱気が伝わってくるほどに体を火照らせている真央を見れば、目を離した途端自慰を始めるのでは無いかとすら思える。が、それ以上に”明日まできちんと我慢した場合のごほうび”目当てに身悶えしながらも我慢し続けるのが真央だと、月彦は知っている。
「よし、いい子だ」
 髪を撫でながら、なんとか巧くごまかせたと内心安堵する。――実際は巧くごまかせたどころではなく、ただ白紙の小切手を切って問題を先送りにしただけだという認識は、もちろん月彦には無かった。



 後で悔いると書いて後悔。文字通り後になって考えれば、大人しく昨夜のうちに真央の相手をしておいたほうが後々悔いることにはならないことは明々白々であるのだが、不思議なことにその瞬間だけは自分の判断が最良のように思えるのだから困ったものだった。
 とはいえ、今更「あの時はなんとなくそういう気分じゃなかったから適当に誤魔化しただけなんだ」――などとは、口が裂けても言えない。そのくせ、やはり霧亜との思い出の場所も確かめたくて――赤橋神社の場所は、葛葉に聞けばすぐに分かった――放課後昇降口で真央と待ち合わせをし、その足で”赤橋神社の裏手の森”へ行くという欲張りセットを組んでしまった。
(……それにまぁ、あの場所が記憶の通り残っているのなら、久々に”外”で真央とするのも……)
 姉との思い出の場所をそういう形で上書きしてしまうのは正直不本意ではあるが、霧亜に負けじと真央の事も愛しくはある。期待させたからにはやはり、それに応える義務があるだろうし、自室でただするよりも人気の無い神社の裏でというシチュエーションの方が真央もさぞかし興奮するだろう。もちろんそんな場所で遠慮無くがっつり――というわけにはいかないであろうから、軽く楽しんだ後は自室に戻って続きをという流れになるだろうが。

 昨日同様、どこかソワソワと浮ついた心で午後の授業をやり過ごした月彦はHRが終わるなり教室から飛び出した。
「あっ、おいこら月彦!」
 背後で何やら和樹の呼ぶ声が聞こえたが、あえて聞こえないふりをした。この期に及んでやれゲーセンに寄ろうだの帰りになにか食いに行こうなどという誘いを断る時間すらも惜しく感じた。もちろん不義理な行いについては心の中でそっと詫びながら、月彦は急いで昇降口へと向かい、真央を待った。
 数分後、不意に鼻先を擽った無味無臭――だが、不思議な程に股間に訴えかけてくるフェロモンがふわりと漂ってきたことで、月彦は愛娘がすぐ側まで来ていることを察した。
「……父さま、おまたせ」
 フェロモンに遅れること一分弱。合流した真央は見た目こそ平素そのものだった。が、その薄皮一枚下にはマグマのように熱く滾る血に全身を火照らせているであろうことがはっきりと解る程に、すっかり出来上がってしまっていた。
(……どんだけだ)
 まだ姿を見せないうちから、”匂い”で近くまで来ていることが分かり、しかもそれが股間を刺激して止まない発情フェロモンというのは、父親としてなんとも判断に困る問題だった。朝はここまで酷くは無かったはずだが、もし教室でも同じ状態であったとすれば、クラスメイト達はさぞかし迷惑を被ったことだろう。
「お、おう……じゃあ、真央……行くか?」
「うん……。どこに行くの?」
「あぁ、まだ言ってなかったか」
 そういえば朝の時点では、放課後ちょっと寄り道しようと誘っただけで何処に行くのかについては詳しく説明はしなかった。もちろんその方がより真央が妄想を膨らませ、身悶えするだろうと察しての配慮だったのだが。
「赤橋神社ってところの裏だ」
「赤橋神社…………遠いの?」
 真央の声が湿っぽく、いつも以上に艶があるように感じる。見れば、既にしっとりと瞳を潤ませ、今し方短距離走でも終えてきたかのように息を弾ませている。こころなしか合流してからますますフェロモンが強まったような気が――というより、広範囲に無差別に垂れ流されていたそれが、”近くに居る牡”に集中的に向けられているような気がするのだが、それは恐らく気のせいなどではないのだろう。
「少し遠いな。普通に歩けば三十分くらいはかかる」
「三十分……」
 そう呟き、ごくりと生唾を飲む真央の姿に、どういうわけかぞくりと背筋が冷える。思わず「神社に行くのはあくまで他の用事の為で、神社に到着=すぐ襲うわけじゃないんだぞ?」と念を押しそうになるが、そんなことを言えばそれこそ強引に袖を引かれ物陰へと連れ込まれる気がして口に出来ない。
(……やっべ……並んで歩いてるだけで、めちゃくちゃムラムラしてくる……)
 濾過装置のかわりに濃厚な媚薬を詰められたガスマスクでもつけられているかの様。呼吸の度に特濃のフェロモンを嗅がされ、目眩すら覚える。そんな状態にもかかわらずかろうじて当初の予定を見失わずにいられるのは、ひとえに姉との思い出の場所をもう一度訪れたいという強い思い故だ。
(……あれでも、変だな……母さんに言われた通りの場所に向かってる筈なのに……)
 はてなと、思わず首を傾げそうになるのは、赤橋神社への道にまったく見覚えが無いからだ。もちろん、家から向かう道と学校から向かう道では景色が一致しないのは当然だし、何より随分と月日も経っている。ただ、そのことを鑑みて尚、辺りの風景があまりにも違うように感じるのだ。
(もっとこう……”山!”って感じの場所だったような……)
 或いは、赤橋神社の周囲だけ山のように木々が生い茂っているのだろうか。そんなことを考えながら――隣に並んでいた筈の真央がいつの間にかやや遅れ、背後からふうふうと手負いの獣のような息使いでついてきていることにいささか恐々としながら――歩いていると、月彦の危惧を嘲笑うかのように小さめの鳥居と、腰の高さほどの小さな石碑が見えてきた。
「えっ……ここ……か?」
 小高い丘の斜面を切り開いて作られたであろう住宅地――その頂上の片隅に設けられた小さな石碑にはなるほど、確かに赤橋神社と書かれていて、鳥居の奥には本殿らしき建物もある。周囲は木々に覆われ、裏手は未開発の斜面が雑木林という体で残されていたが、せいぜい学校のグラウンド十面分ほどのそれは、月彦の記憶とは合致しないなんとも小規模なものだった。
「父さま……?」
 きょろきょろと周囲を見渡しながら、ここならもう誰も見てないよ?とばかりに袖を引いてくる真央に待ったをかけながら、月彦は考える。考えながら、なんとか記憶と合致する部分を探そうと神社の周囲を散策した。
 が、雨宿りをしたはずの岩肌も、一緒に綺麗な石を探した河原も何も無い。最初は周囲を宅地に変えられたせいでもともとあった大岩や河原が潰されてしまったのかと思った。が、たとえその丘全体がすべて雑木林であったとしても、それでも記憶の中にある森よりも遙かに小規模であることに気づく。
 もちろん、三歳か四歳――下手をすると二歳前後であったかもしれない昔に感じた森の広さと、今の体格で感じる広さとではまったく違うだろう。ただ、”その差”を考慮にいれてもあまりに低すぎる雑木の高さや地形の違いが、”思い出の場所はここでは無いのではないか?”という警鐘を鳴らし続けるのだった。
「ねえ、父さま……」
 もうまちきれないとばかりに、真央が両手を肩に乗せ、ぎゅうとしがみついてくる。
「すまん、真央。もうちょっとだけ確かめさせてくれ」
 どう、どうと真央を宥めながら、月彦は矢も盾もたまらず雑木林の中へと足を踏み入れる。
(そんなバカな……だって、姉ちゃんはここだって……)
 まさか、霧亜が記憶違いをしているのか――そんな筈は無いと思いながらも、調べれば調べるほどにやはりここではないという思いばかりが強くなる。
「ねえ、父さま……何を探しているの?」
 怒ったような、少し苛立ったような真央の尖った声に思わずハッとする。慌てて振り返り、月彦は取り繕うように笑った。
「あぁ、いや……悪い。ちょっとヘビイチゴを探しててな」
「ヘビイチゴ?」
 むっとしたような顔で、真央が眉を寄せる。
「あぁ。実はこの辺は昔姉ちゃんとよく遊んだ場所でな。その時、姉ちゃんが採ってきてくれたヘビイチゴやら桑の実やらがめちゃくちゃ美味しかったんだ」
 真央が露骨に「だから何?」という顔をする。愛娘のそんな反応に、月彦は慌てて取り繕うように言葉を付け加えた。
「ほ、本当に美味しいヘビイチゴだったんだ。だから是非真央にも食べさせてやりたいって思ってな、もうちょっとだけ探させ――」
「父さま、ヘビイチゴは美味しくないよ」
 媚びるような声はしかし、冷め切った――それでいて拗ねたような声に上書きされた。
「そ、そんなことはないぞ? 現に姉ちゃんが採ってくれたやつはめっちゃくちゃ甘くて……っていうか、甘酸っぱくて、まるで本物のイチゴみたいに美味かったんだから」
「ヘビイチゴは味なんかしないよ」
 いつになく尖った真央の声に、月彦もいつになく慌てた。
「っと……わ、悪い……真央。そうだよな、今は……ヘビイチゴなんてどうでもいいよな」
 あわわ、あわわと必死に取り繕おうとするも、陳腐な言葉しか出てこない。今更ながらに、月彦は己がもはや取り返しがつかないほどにやらかしてしまったことに要約気がついた。
(しまった……いくらなんでも真央の気持ちを蔑ろにしすぎた……)
 めちゃくちゃにしてやるから期待しろと言って散々に期待させておいて、最後の最後でここに来たのはヘビイチゴを食べさせてやりたかったから、ではいくらなんでも酷すぎる。
 とはいえ、今更「悪かった、真央。ヘビイチゴの代わりにお前を食べてやる」等と態度を変えて抱き寄せる――などという気取った事も出来ない。なにより、そんな事をしようとすれば伸ばした手を打ち払われかねない怒気を、真央の全身から感じた。
「ヘビイチゴは美味しくないから食べたくなんてないし、それにもっと暖かくならないと実は成らないよ、父さま」
 そんなことも知らないのかとでも言いたげな真央の言い草に、今度は月彦の方がかちんとくる。お前は姉ちゃんが採ってきてくれたヘビイチゴを食べたことが無いくせにと声を荒げかけて、悪いのは自分だと思い直す。
「そ――うだな。多分、真央の言うことが正しいんだろうな。姉ちゃんが採ってきてくれたから、特別美味しいような気がしてただけで、実際には味なんかしなかったんだろうな、うん」
 もちろん実際にははっきりと味があったし、目を瞑って記憶を辿ればあの甘酸っぱい味までもが口の中に蘇ってくる。が、それを言ったところで真央は納得しないだろうし、こじれるだけだろう。
(いや、待てよ――)
 ヘビイチゴは味なんかしない――そんな真央の言葉が呼び水となったのか、不意に脳裏に”声”が蘇る。
(”ヘビイチゴはね、このまま食べても全然美味しくないんだよ?”――って、確か、姉ちゃんもそう言ってたな)
 だから、美味しくなるおまじないをする――そう言って霧亜は赤い実を潰さぬ様、優しく両手で包み込むように握った。そうしてしばらく目を瞑った後に差し出された赤い実は本当に甘酸っぱくて美味しかったのだ。
「そ、そーだ、思い出した! 真央の言う通り、ヘビイチゴは味が無くてまずいって姉ちゃんも言ってたんだ。でもな? 姉ちゃんが”おまじない”をしてだな――」
「おまじない……?」
「そう、こうやって両手でヘビイチゴを包み込んで、おいしくなぁれ――って……」
 やはり、記憶は間違っていなかった――霧亜の言葉と、実際の場所との齟齬ばかりの中で半ば混乱を来していた月彦は、”真実と思い出との合致”に思わず声を荒げて語った。
 が、次の瞬間。真央はかつて見たことがない程に困惑した表情を浮かべた。
「おいしくなぁれ、って…………………………姉さまが?」
 



「えっ…………」
 ぐらりと、視界が揺れた。世界から色が消え、音までもが消えた。
「な――」
 何が言いたい――その言葉は掠れて、声にならなかった。同時に、先ほどまであれほどに鮮明に思い出すことが出来た姉との思い出が、墨で塗られたように黒ずくめになり、声までもがノイズがかったように誰のものか判別出来なくなる。
「…………私、帰る」
 ぷいと背を向けた真央を引き留めようと手を伸ばした――つもりだった。だが実際に体は微動だにせず、声を上げることも出来なかった。
 雑木林に一人残された月彦は立ち尽くしたまま、吐き気を催すような目眩の中でそれでも考えずにはいられなかった。
 幼かった頃の、姉との甘美な思い出――の筈だ。少なくとも、真央に一石を投じられるまでは微塵もそうだと疑わなかった。
 姉さまが?――真央の言葉の意味は、月彦にももちろんわかる。”あの霧亜”が、まだ年端もいかない頃とはいえ、木の実を手に持って「おいしくなぁれ」など口にするとは思えないと真央は言いたかったのだ。
 もちろん霧亜とて、生まれた瞬間から完全無欠のクールビューティ――であると、少なくとも月彦は思い込んでいる――であったわけではないだろう。だが、月彦が覚えている限りでは姉は昔から口数が少なく、あまり笑顔を見せない子供だった筈だ。その延長線上が今の霧亜であると思えるほどに、幼い頃の性格も今とはそう変わらなかった筈なのだ。
 ”その霧亜”が、「おいしくなぁれ」などと言うだろうか?――答えは否。否としか、月彦には思えない。
 では記憶が間違っているのか。霧亜はまじないなどせず、ただたんに採ってきた木の実をくれただけなのか――それも否としか思えない。”おまじない”は確かに在ったことだ。真央の言葉で墨色に塗られた記憶の中でも、その光景だけは暈けたりせずに鮮明に残ったままだ。
 ”おまじない”は在った。だとすれば、木の実をくれたのは霧亜ではなかったのか。それもおかしいと感じる。記憶の中の自分は、手を引く姉に全幅の信頼を寄せていた。昼間でも薄暗い森の中でも、鳥とも獣とも知れない不気味な鳴き声が聞こえても、手を握ってもらえてるだけで不安は消え、だからこそ大人に隠れて冒険をしているのだという興奮に胸を高鳴らせることができたのだ。
 ”そんな相手”が果たして霧亜以外に居るだろうか?――答えは否。そう思おうとした瞬間、視界がぐらりと大きく揺れた。
「ぐぶっ……」
 唐突に襲ってくる吐き気を堪えきれず、月彦は目眩に膝を突きながらその場に嘔吐した。



 どうやら少し気を失っていたらしい。盛大なくしゃみで自我を取り戻した月彦は驚く程に冷え切った自分の体を抱きしめるように身を縮め、震えながら現状を確認する。
 辺りは闇一色の雑木林。ああそういえば神社の裏手の森へとやってきて、真央が怒って先に帰った後目眩と吐き気に襲われてそのまま倒れてしまったのだと、漸くにして思い出す。
 己の嘔吐物を践まぬよう辛くも立ち上がり――まだ頭がふらついたが、転ばぬ様に雑木を支えにして――裏手の森から脱出する。神社には明かりは灯っていたが人の気配は無く、申し訳程度に設置された石段を降りて帰路につく。
 軽い頭痛と、軽い目眩。とてもいつものようには歩けず、ほとんど足を引きずるようにしながら時折道沿いの塀にもたれかかって休みながら、それでも月彦は考えずにはいられなかった。
 ”これ”は一体全体どういうことなのか。真央に疑いの一石を投じられるまで、記憶の中の人物は霧亜であると信じて微塵も疑わなかった。が、一度疑念が沸けば、真央が言うように霧亜ではありえないように思える。冷静に考えれば、記憶の中の姉――否、もはや少女と呼ぶべきか――は逆光がかかったように顔が確認出来ず、自分はただ頼れる年上の女の子というだけで姉であると認識していたのだと気がつく。
 だが、そんな相手には全く心当たりが無い。それでも無理に心当たりを探そうとすればたちまち頭痛と吐き気が襲ってきて中断せざるを得なくなる。まるで”不整合”を正すことを体の方が拒否しているかのようだった。
 これ以上体調を悪化させれば、歩くことすら出来なくなってしまいかねない。やむなく月彦は考えるのを止め、その甲斐あってか体調も徐々に回復し、家にたどり着いた頃には頭痛も吐き気もほぼ消えていた。

「ただいま……」
 どこか恐々とした手つきで玄関のドアを開けたのは、真央とのことでばつが悪かったからだが、もちろん昨日のように真央が玄関先で待っているなどということはなかった。
「あら、随分遅かったのね。神社の場所がわかりにくかったのかしら」
 靴を脱いでいると、葛葉が出迎えてくれた。にも関わらず台所の方で物音がしているのは、恐らく真央が作業を手伝っているからだろう。
「神社にはまっすぐ行けたよ。だけどちょっと寄り道しちゃって」
「そう、それなら良かったわ。……すぐごはんにするから荷物置いてらっしゃい」
「うん。……あぁ、母さん?」
「なぁに?」
 台所へと踵を返しかけた葛葉を呼び止めた後で、月彦は小さく首を振った。
「……ごめん、なんでもない」
 葛葉は小首を傾げて「変な子ね」と呟き、そのまま台所へと戻っていく。部屋に荷物を置いて上着をかけ、洗面所に手を洗いに行くと、鏡の向こうにずいぶんと酷い顔をした男が立っていた。なるほど、さっき葛葉が一瞬物言いたげな顔をしたのはこのせいかと納得しつつ、顔を洗ってうがいをする。
 台所へ行くと、すでに配膳まで終わっていた。葛葉も席についていて、その隣に――いつもなら月彦の隣が指定席の――真央がちゃっかり座っているのを見て、思わず苦笑してしまいそうになる。葛葉もそれとなく察してはいるのだろうがあえて話題にする気はないようだった。
(……これは”しばらく義母さまと一緒に寝る”パターンかな)
 わりとガチで怒らせてしまったらしい――胸の奥にちくちくとした痛みを覚えつつも、どこかそれがありがたいと感じる。少なくとも、真央とどうやって仲直りをするかと考えるうちは、頭痛も吐き気も感じずに済むからだ。


 同じ家の中で、しかも似たような時間帯に学校に行く準備をしていて、これほどまでに顔を合わせずに済ませられるのかと驚く程に、月彦は朝起きてからただの一度も真央の顔を見ることなく登校するはめになった。さながら、忍者かなにかとでも生活しているかのようで、真央の意外な才能(?)に月彦はもう苦笑しか出なかった。
(……さて、どうやって機嫌を直してもらったものかな)
 一般的な方法としては、ほとぼりが冷めた頃を見計らって無理矢理押し倒し、嫌がる真央の体に快楽を思い出させてやるのが一番であるが、今回のケースも同じ手法でいけるかどうかは正直怪しいと月彦は思っていた。もちろん今回の事に関しては完全にこちらに非があるし、何らかの償いはしなければならないだろう。それがいつものパターンというのではいささかヒネリがなさ過ぎるのではないか。
(真央が喜ぶこと、か……)
 心当たりが多すぎて逆に絞れず、また苦笑が漏れそうになる。人目を気にするように口元を抑えながらいつもよりやや遅く教室に到着し、荷物を置いたところで。
「おいこら」
 ごつんと。背後から頭を小突かれた。
「痛って……何す……なんだ、カズか」
「何だじゃねえ。人を無視してさっさと帰りやがって。おかげで倉場さんに無駄足踏ませちまったじゃねーか」
 へ?――和樹の言葉が理解できなくて、ついそんな言葉が漏れる。
「なんかゲームのことでどうしても訊きたいことがあるって、昨日近くまで来てたんだよ。仕方ないから用事があるって一足先に帰っちまったって伝えたけどな」
「いや、ちょっと待て。ゲームの件は確かに心当たりがあるが……何で倉場さんがお前に伝言を頼むんだ?」
「そりゃあ、お前が携帯持ってねーからだろ」
 言ってから、うん?と和樹は小首を傾げて、それから言葉を付け加えた。
「あぁ、こないだフリマに参加した時に連絡先交換したんだよ」
 なるほどと、月彦は漸くに納得する。
「で、今日はどうかって倉場さんに訊かれてんだけど、なんて返せばいいんだ?」
「あぁ……そうだな」
 月彦は考える。真央のあの様子では、すぐすぐ何かアクションを起こしたところで冷たくあしらわれるだけだろう。
「今日の放課後なら大丈夫だと伝えてくれ」
「わかった」
「悪かったな、カズ」
 和樹は自分の席へと戻りながら、右手を軽く振る。改めて昨日の不義理が申し訳なく思えた。和樹にも、佐由にも何らかの詫びが必要だろう。
(……でも、何だろうな、訊きたいことって……。この糞ゲーの何処が面白いと感じたの?とかじゃなければいいけど)
 期待と、不安。十中八九佐由にも受け入れられないだろうとは予想しつつも、それでももしやという期待を捨てられない。
(あぁ、でも……もし倉場さんが気に入ってくれたなら……)
 こんなに嬉しいことはない。むしろこっちから出向いて一晩中でも語り明かしたいものだ――まるで、”考えたくないこと”から目を反らす絶好の材料が飛び込んできたとばかりに、月彦は佐由の用事とやらの推測に没頭するのだった。


 放課後、和樹経由で伝えられた待ち合わせ場所――いつぞや一緒にコーヒーを飲んだ公園になった――で待っていると、聞き覚えのある原付のエンジン音が近づいてきた。もしやと思って公園の入り口へと移動すると、丁度原付に跨がった佐由がスピードを落としながら接近してくる所だった。
「やっ、倉場さん」
「やぁ、紺崎君」
 すぐ側まで来たところで佐由は原付のエンジンを切って降り、スタンドを立てた。
「早速で悪いんだけど、場所を移動してもいいかな」
 話をするにはここは少々寒すぎると、佐由は苦笑交じりに言いながらシートの下からもう一つのヘルメットを取り出し、手渡してくる。
「確かに、今日はちょっと風もあるしね」
「悲しいかな、原付に跨がっていると風の冷たさも倍以上さ。……さっ、後ろに」
 うんと頷き、原付の後ろに跨がる。
「もっとくっついてくれて構わないよ」
「そ、そう……?」
 じゃあ遠慮無く――とはさすがに行かないが、佐由のお腹にしっかりと手を回してしがみつくような姿勢になるや、原付はけたたましい音を立てながら急発進する。向かい風に煽られた佐由の髪から、ふわりとした芳香が鼻先を擽り、思わずハッとする。
(……へえ、倉場さん……香水とかつけるのか)
 佐由と、その友達の英理とは何度か共に遊んだが、その時には全く気がつかなかった。或いは、最近つけ始めたのかもしれない。
 十五分ほど走って到着したのは、一度だけ来た事がある佐由の自宅だった。行き先については説明されなかったが、佐由の用事とやらを鑑みれば、驚くほどの事でも無い。
「今更かもしれないけど」
 佐由は乗用車二台分のスペースがあるガレージの奥に原付を止め、さらに奥の壁に貼り付けるようにして隅に寄せる。
「今日は本当に付き合って貰って大丈夫だったのかい? 何か予定があるのなら……」
「大丈夫だよ。昨日は確かに用事があったけど、今日はヒマだったから」
 家まで連れてきておいて、確かに今更だと月彦が苦笑すると、合わせる様に佐由も笑った。苦笑というよりは自分の不明を恥じるような――否、”恥じらう”ような笑みを。
「そうか……うん。それなら、良かった」
 こほん、と咳払いを一つ。
「じゃあ、行こうか」
 どこかうわずった声で言い、ガレージから出て行く佐由の後ろに続く。手入れの行き届いた芝生の庭を横切り、玄関へと到着した。
 佐由が鍵を開け、ドアノブをひねる。
「ただいま……と言っても、今日は誰も居ないんだけどね」
 苦笑交じりに半身だけ振り返って、佐由が中へと入る。おじゃまします、と口にしながら月彦も続いた。



 佐由に導かれるままに階段を上がり、廊下の突き当たりの左側の部屋へと案内された。
「すぐに飲み物を取ってくるから少しだけ待っていてもらえるかい?」
「あっ、倉場さん!」
 お構いなく――と言うヒマもなく、佐由はリモコンを操作して暖房を入れるなり部屋から出て行ってしまった。一人残された月彦はやむなく部屋の内装へと目をやった。
 まず一番に目につくのが壁に張り付くようにして折りたたまれているベッドだ。もちろん就寝時にはこれを展開して眠るのだろう。次に目につくのが勉強机と、その隣の“カーテン”だ。部屋の一面を覆うようにあつらえられたカーテンは最近設置されたものだろうか。窓用のそれに比べて明らかに新しかった。
(……なんだろう。何か……違和感を感じる)
 勉強机の棚に並んだ参考書類。その一角にちょこんと座っている熊のぬいぐるみしかり。ややキツめの匂いを放つ芳香剤しかり。小物入れの上に並んだファンシーな人形類しかり。これまた買い換えられたばかりらしい桃色の絨毯しかり。
 まるで”大急ぎで女の子らしい部屋にしました”とでも言わんばかりの――
「やあ、待たせたね。紅茶で良かったかな?」
「なんでもいいよ。ありがとう、倉場さん」
 これまた随分と高そうなティーカップを盆にのせた佐由が戻って来て、月彦は慌てて本棚と本棚の間にしまわれていた折りたたみテーブルを展開させる。
「ありがとう。ついでに茶菓子も漁ってみたよ。お中元の残りだけど、賞味期限は確認済みだから安心してほしい」
「そんな……気なんて遣わなくていいのに」
 テーブルの上にティーカップと、そしてクッキーの盛られた皿が置かれる。お中元の残り、と佐由は言ったが、中央部にジャムが埋め込まれたクッキーはなんとも香ばしそうで、とてもそんなに日数が経過しているようには見えない。
「……ちょっと、暑いね。寒くなければ暖房を切ろうと思うけど…………」
「俺なら平気だよ」
 佐由は頷き、暖房を止める。それでも暑いのか、制服のブレザーを脱いでハンガーへとかけ、さらにブラウスのボタンを二つ外して軽く首元を仰ぐような仕草をした。
(倉場さんって暑がりなのかな? 人は見かけによらないもんだな)
 本音を言えば、暑いどころかやや肌寒く感じる室温であったが、我慢出来ないほどでもない。佐由が暑いというのであれば、佐由に合わせたほうがいいだろう。
「ええと……薄々用件は察してるとは思うけど…………例のゲームでちょっと詰まっていてね。紺崎君の力を借りたいんだ」
「和樹から聞いてすぐ、そうだろうなって思ったよ。あのゲーム、序盤は特に難所の目白押しだからね。……ちなみに、何章まで行ったの?」
「四章まではあまり詰まらずに進められたんだけどね。”ノースマウンドトップの戦い”がどうしてもクリア出来なくて……」
 力なく溜息まじりに首を振る佐由に、一瞬遅れて月彦は思わず身を乗り出した。
「四章!? もうそんなところまで!? 」
「もう……ということは、それなりに早いペースではあったのかな」
「それなりどころじゃないよ! まさか倉場さん、攻略本とか見ながらプレイしてたりする?」
 だとしたら、失望を禁じ得ない――そんな月彦の危惧を嘲笑うかのように、佐由は笑みを浮かべた。
「まさか。一度クリアした後ならともかく、初見プレイでそんなものに手を出すほど愚か者じゃないよ」
「だとしたらいくらなんでも早すぎるような…………」
「……それはきっと、私とこのゲームの相性が良かったからじゃないかな。自分でも驚くくらいプレイに集中してしまってね、気がつくと夜の三時を回っていたということも一度や二度では無かったよ」
 そう言う佐由の顔はなるほど確かに若干寝不足気味のようだった。
「……そんなに? お世辞じゃ無くて、本当にこのゲームを面白いと思ってプレイしたってこと?」
「もちろん。ほら、このプレイ時間がその証拠だよ」
 と、佐由がテレビ画面を指し示す。並んだセーブデータ項目の横に表示されたプレイ時間は確かに、攻略本を使用したにしてはあまりに多すぎるプレイ時間だった。
(いや、ていうか既に100時間越えてるって……どんだけだ)
 プレイに熱中するあまり夜の三時になっていたこともあると佐由は言っていたが、ひょっとしたらそのまま2,3回寝落ちでもしたのだろうか。
「確かに最初はいろいろと面食らうことも多かったよ。序盤はそれこそ”死んで覚える系”かと思えるくらい難易度が高かったかと思えば一気にヌルゲー化したり、主人公が世界の平和よりも姉のおつかいを優先したりする部分も、共感できる人は少ないだろう」
 うんと、佐由は大きく頷き、言葉を続ける。
「でも、そこがいいと私は思う。逆を言えば、登場キャラが皆自己犠牲と使命感に満ちた善人で、丁寧に次に行く場所を指示されて特に詰まることも無く、そこに到達するころにはレベルも適度に上がってお金も貯まっていて装備も一新できて、安直にラスボスまで行けてしまうゲームだったら逆に何の魅力も感じなかっただろう」
 もちろんそういうゲームの方が面白い、という人の方が大半ではあるだろうがと佐由は苦笑交じりに補足する。
「それに何が一番大事かなんて、人それぞれ違うものだしね。この主人公にとっては世界の平和よりも姉の意向に従うことが大事なのだと分かれば、彼の行動は支離滅裂でも何でもないし、むしろ一貫していると言える。そしてそんな主人公の価値観に一石を投じるもう一人の”姉”の存在がいい意味でのアクセントとなっているね」
「そう! そうなんだよ! すごいよ倉場さん! そこ分かってくれるんだ……嬉しいなぁ」
「とはいえ、やはり万人向けではないのは間違いないね。ストーリーは確かに光るものはあるけど、イベントの難易度がちょっとね」
「それも分かる。そこだけもうちょっとなんとかしてくれればなぁって何度思ったか……」
「……まあでも、おかげでこうして紺崎君を家に呼ぶきっかけになったことだし。そういう意味ではこのゲームに感謝なんだけどね」
「うん?」
 小声で、しかも早口で呟かれた言葉は、その半分以上が月彦の耳には届かなかった。「何でも無い」と笑い、佐由がコントローラを差し出してくる。
「それじゃあ、早速で済まないがお手並みを拝見させてもらえないかな」
「了解。……っていっても、攻略法が分かっても2回に1回はゲームオーバーになるイベントだから、あまり期待はしないでね」
 苦笑交じりに、月彦はコントローラを握った。


「ということはつまり、正攻法ではどう頑張っても”撃破”は無理ということかい?」
「絶対に無理ってわけじゃないよ。ただ、こっちはあらかじめ装備もステータスも決まっているNPC兵士しか使えないし、同じNPC兵士でも敵の鋼鉄兵の方が明らかにステータスが上だから……」
「周辺部隊の援護射撃と連続戦闘によるHP最大値の減少を利用して時間切れを狙うしかないってことか……」
「一応敵の配置を巧く操れば敵の大将の部隊を撤退不可に追い込んで勝利は出来るけど……運が絡むし、おすすめは出来ないかな。”勝利”でも”時間切れ”でもシナリオは変わらないし、そもそも”時間切れ”も、運が悪いと最善を尽くしても達成できなかったりするからね」
「私も、最初は強制敗北イベントかと思ったよ」
「俺も俺も! ほんと、難易度がめちゃくちゃなんだよな。せめて1キャラでもいいから、パーティの誰かを入れさせてくれれば、事前にレベル上げしたりして対策ができるのに」
「それは私も思ったけど……ただ、シナリオ的にここに主人公勢の誰かが混じるというのはやっぱり難しいね」
「そうなんだよなー。それならそれで、もうちょっとこっちの兵士を強くしてくれればいいのに」
「しかしよくこんな戦い方を思いついたね。前衛の一人だけを防御させて盾役にして、後衛三人だけ攻撃なんて。このイベントの時にしか役に立たない戦い方じゃないかな?」
「えーと……それは――」
 佐由に問われて、思い出す。そういえば何故自分は”攻略法”を知っているのだろうか。
(あっ……そうだ。姉ちゃんに教えてもらったんだ)
 どうしてもイベントがクリア出来ず、しかし攻略本は絶対見たくないと維持を張って何週間も詰っていた。いい加減気持ちが挫けかけていたところに唐突にふらりと霧亜が部屋を訪れ、何も言わずにプレイを一通り見続けた後、いくつかのアドバイスをくれたのだ。
「俺じゃなくて姉ちゃんが思いついたんだ」
「ほう?」
 気のせいか、佐由の眼鏡がきらりと光った気がした。
「例の”霧亜さん”かい?」
「例の……かどうかはわからないけどね」
 つい苦笑が漏れる。
「白石君や、静間君からも噂は聞いているよ。眉目秀麗成績優秀絵に描いたような完璧なお姉さんだとか」
「和樹達が?」
 はてなと、月彦は首を傾げる。佐由の言葉は確かに真実ではあるが、それを和樹達が口にしたと言われると違和感が残る。
「カズ達にはよく”怖い”とは言われてたけど、本当にそんなこと言ってた?」
「あぁ、いや……すまない。ちょっと言葉が大げさだったようだ。私が聞いたのは”美人の姉がいる”という話だったかもしれない」
「別に大げさでもなんでもないけど……」
 気のせいか、佐由の困惑が増したように見えた。
「え……っと、そ、そういえば今お姉さんは入院してるんだったね」
 月彦は頷く。
「紺崎君はよくお見舞いにいったりするのかい?」
「出来れば毎日でも行きたいところだけどね。あんまり頻繁に通うと姉ちゃんがゆっくり休めないだろうから……たまに行くくらいだよ」
「その……もし良かったら……」
「うん?」
「次に紺崎君がお見舞いに行くときに、私も同行させてもらえないかな?」
「倉場さんを?」
「出来れば、で構わないんだ。ただ、純粋に……紺崎君のお姉さんがどういう人なのか、会ってみたいだけだから」
「うーん…………」
 月彦は考える。霧亜への見舞いに、佐由を同行させる――果たして、どういう結果を生むか。
(普通に挨拶して終わり、ならいいけど……)
 万が一、佐由だけを病室に残して散歩でもしてこいと言われた場合、連れてこなければよかったと後悔することになるのではないか。
(…………折角出会えた”仲間”なのに)
 霧亜に”食われ”た場合、恐らく今のような関係で居続けることは不可能だろう。最悪、妙子や英理からも恨まれるかもしれない。
「……ごめん、姉ちゃんも入院してるところあんま人に見られたくないと思うからさ。会うのは退院してからってことでいいかな?」
「そうか……残念だけど仕方ないね。すまない、無理を言って……お姉さん、早く良くなる様に祈らせてもらうよ」
「うん、ありがとう、倉場さん」


「今日はありがとう。おかげで今夜から先に進めることが出来るよ」
「あそこを越えれば四章は他に詰まるところはないと思う。ああでも――」
「ストップ。言わないでくれ、行き詰まることも含めてゲームの面白さだと思っているから」
「っと、了解。そうだよね、初回プレイが一番面白いし、俺は聞かれた時にだけ答えるようにしないとね」
「ありがとう。……本当に助かるよ」
 あっ、と。佐由が素っ頓狂な声を上げたのはその時だった。
「しまった……すっかり忘れていた」
「うん?」
「あぁ、いや……実はゲームのこととは別にもう一つ、白石君のことで相談しようと思ってたことがあったんだった。すまない、すっかり忘れていたよ」
「妙子のことで?」
「……今日はさすがに時間が遅いな。そろそろ母も帰ってくる頃だし……」
 言われて、月彦は腕時計に目を落とす。七時前――確かに相談を始めるするには遅い時間だ。
「……そういうことなら仕方ないね。急ぎじゃないなら、また次倉場さんの都合がいい時にでも――」
「……明日では、ダメかな?」
「明日?」
 うん?と、月彦は小首を傾げる。
「ひょっとして、かなりヤバい相談事?」
「あぁ、いや……そういうわけでは……ただ、紺崎君にとって大事な彼女である白石君に関することだし、なるべく早く伝えた方がいいかと思ってね」
「えっと……別に彼女ってわけじゃないんだけど……」
 といいつつも、佐由がそういう認識であることが少なからず嬉しく、ついつい顔がにやけてしまう。
「でも、そうだね。あんまり後回しにしない方がいいなら、いったん帰った後電話しようか?」
「電話……か」
 どうやらあまり気は進まないらしい。
「えーと……じゃ、じゃあ……明日改めて会って相談……でいいのかな?」
「すまない、我が儘を言って。何か予定とかがあるなら別の日でも――」
「とんでもない。妙子についての話ならいつでも大歓迎だよ、たとえ予定があっても空けるから大丈夫!」
「そうか……本当に、白石君の事が好きなんだね」
 茶化すでもなく、まるで子供を見守る母親のような笑みだった。つられて月彦も照れ笑いを浮かべてしまう。
「えっと……じゃあとりあえず明日……また例の公園で待ち合わせでいいのかな?」
「そうだね。もし都合が悪くなった時は携帯に一報入れてくれるかな」
「その時はカズに頼んで連絡してもらうよ。……ごめん、俺が携帯もってたら不便な思いさせないで済むんだろうけど」
「周りがそうだからといって、必ずしも合わせないといけないということはないさ」
「ありがとう、倉場さん。じゃあ、今日の所は帰るよ」
「うん。……また明日」
 手を振って、倉場邸を後にする。敷地を出て数歩歩いた所で――恐らく佐由の母だろう――白の乗用車が駐車場に入っていくのが見えた。


 



 翌日、同じ時間同じ場所で佐由と待ち合わせた月彦は、当然のような流れで佐由の部屋へと案内された。
(てっきり、今日は喫茶店かどこかで話するのかと思ってたけど……)
 佐由とは既に顔見知り――共通の友達を持つ間柄とはいえ、一応は男子と女子だ。気軽に部屋に上がり込めるような関係ではないという認識だった月彦は、佐由の気安さに少々面くらった。が、かといって何か困ることがあるかと言われれば、何も無いことに気づく。
(……でも、さすがにちょっと気まずいな)
 昨日はゲームが先に進められなくて困っている佐由を助けるという大義名分があったからなんとも思わなかったが、いざ一日たって冷静になってみれば、友達の友達とはいえ同年代の女子の部屋に上がり込むというのは緊張するものだ。
 ましてや、昨日に引き続き家族が誰も居ないというのなら尚更った。
「え…………と…………そ、外の方が良かった、かな?」
 どうやら、その緊張が佐由の方にも伝わったらしい。昨日同様暑いからと上着を脱いだ佐由が顔を赤くしながらそんなことを聞いて来た。
「えーと……い、今更だと思うし……それより、妙子の話ってのを聞かせてくれないかな」
「あ、あぁ……そうだね」
 佐由は言葉を切り、表情を曇らせた。
「…………ひょっとしたら、紺崎君にとってあまり愉快な話にはならないかもしれないということを先に断っておくよ」
「えっ……?」
「でも、黙って居ても事態が悪化する一方だと思ったから、相談することにしたんだ」
「ちょ、ちょっと待って倉場さん。愉快な話じゃないって……どういうこと? もしかして……妙子に何か――」
「……順を追って話すよ。白石君が幼い頃から深夜ラジオに没頭しているのは、紺崎君も知っての通りだけど、最近どうもね…………調子が悪いらしいんだ」
「調子が悪い……っていうと? ラジオの調子が?」
 佐由が吹き出すように笑った。どうやらとんちんかんな質問だったらしい。
「ラジオというのは――まぁ、これは人によって楽しみ方はそれぞれだとは思うけど、私や白石君、そして英理は主にファックスや葉書、場合によってはスマホからネタを送って、それを読まれるかどうかを楽しんでいるんだ。もちろんたくさん読まれれば嬉しいし、全く読まれないとかなり凹むことになるんだけど、調子が悪いというのはその読まれる頻度の話さ」
「成る程……妙子が送ったネタがあまり読まれなくなったということか」
「それもかつて無いほどに、だ。絶不調……スランプと言ってもいいね。そしてどうやら白石君はその原因が紺崎君にあると思っているようだ」
「お、俺に!?」
「紺崎君にしてみれば身に覚えのないことだと思うよ。もちろん私も英理も、そして白石君も君が悪意があって邪魔をしているだなんて毛ほども思ってはいないさ」
 でもね――佐由はアイスティで唇を濡らし、続けた。
「こう考えてみたらどうだろうか。白石君はネタを考えたい、或いは考えようと思っていた矢先、紺崎君の来訪を受ける。当然白石君は君の相手をしなければならないし、その間ネタを考えることは出来なくなる」
「あっ……」
「或いは、紺崎君にとってはほんの軽いスキンシップのつもりで、白石君の胸を触るが、白石君のほうは実は心底嫌がっているのだとしたら? 幼なじみだから、親ぐるみの付き合いがあるから、大事にならないように耐えているだけで、実際はかなりのストレスを与えているかもしれない可能性を、少しでも考えたことはあるかい?」
 佐由の言葉が、鋭利な刃物となって胸に突き刺さる。なるほど、確かにこれは、愉快な話ではない――。
「そういうことが積もり積もって、今のスランプに繋がっている可能性は十分にある。もちろん今まで本気で問題を解決しようとしてこなかった白石君にも問題はあるとは思う。もっと早くに切り出していれば、紺崎君だって接触は控えただろう?」
「そりゃあ……で、でも――」
「大丈夫、わかっているよ。紺崎君はもちろん白石君を困らせるつもりはなかったし、そんなに頻繁に白石君に会っていた自覚も無かった――そうだろう?」
「う、うん……そう、だけど……」
「誤解しないで欲しいのは、白石君も決して紺崎君の事が嫌いというわけではないということだ。嫌いなら、それこそ問答無用で拒絶すればいいのだからね。それができないから、白石君も困っているのだと思う」
「…………。」
「………………ラジオのネタ作りというのは、本当に厄介でね。一週間悩み続けても気に入るネタが一つも出てこないことがあるかと思えば、ほんの十分の間にとびきりのネタが立て続けに複数出来上がるということもある。かけた時間=質とはならないのが歯がゆいところさ。ま、そこが醍醐味でもあるんだけどね」
「…………あの、さ。倉場さん」
「何だい?」
「実は……その、俺……少し前まで、利き腕を怪我してたんだけど」
「うん、白石君と静間君から聞いたよ。でも、今はもう大分よさそうじゃないか」
「まあね。まだ少し痛みは残ってるけど、もう2,3日もすれば痛みも完全に消えるとは思う。そしたら、妙子をデートに誘おうかな、って思ってたんだけど――」
「止めた方がいいんじゃないかな」
 即答だった。
「で、でも……今回のは、妙子の方が――」
「白石君の方から水を向けられた、と言いたいのかな?」
 月彦は頷く。
「それは本当に、白石君の意思によるものだったのかな」
「えっ……?」
「よく考えてみて欲しい。白石君は本当に、心底デートに誘われることを望んでいるように見えたのかい?」
「それは……」
「何かの交換条件だったり、はたまた負い目を感じるようなことがあって、渋々承諾したわけではなく、純粋な自分の意思として誘われたがっているように見えたというのなら、誘うといい。だとしたら、白石君もついに深夜ラジオを捨てて君を選択することに決めたのだと思うから」
 言われて、月彦は思い出す。確かに佐由の言う通り、あの時の妙子はこれ以上無いという程に引け目を感じていた筈だと。さらに言うならば正常な判断力を持っていたかどうかすらも怪しいとすら。
「……どうやら、心当たりがあるようだね。だとしたら、デートは止めておくのが賢明だと思うよ。白石君のことが本当に大事なら尚更だ」
「……うん」
 確かに佐由の言う通りだ。負い目で承諾して貰ったデートなど、何の意味もない。そんなもの、弱みを握ってレイプするのと同じではないか。
「倉場さん、俺は――」
「うん。白石君とは、しばらく距離を置いたほうがいいと思う。仮に白石君の方から何らかの誘いがあっても、断った方がいいかもしれないね」
「妙子から誘われても?」
「白石君は今、極度のストレスで正常な判断が下せない状況だと思うんだ。そんなときに紺崎君と会って、関係が良い方向に向かうとは思えない。むしろ悪化するんじゃないかな」
「そっか……妙子のやつ、そんなに……」
 距離が縮まったと感じたのは、或いはただの錯覚だったのかもしれない。少なくとも佐由が言う通り、妙子がスランプに陥り正常な判断が下せない状況に陥っているのだとすれば、確かにいったん距離を置いて回復させるのが一番の方法だろう。
「………………分かった、倉場さんの言う通り、妙子とはしばらく距離をとるよ。その代わり――」
「大丈夫、白石君のことは常にウォッチして、何か変化が在ればすぐに知らせるよ。もちろん、悪い虫がつかないように見張ってもおくさ」
「ありがとう、何から何まで。…………倉場さんも、何か困ったことがあったらいつでも言ってよ! 俺に出来ることなら何でもするからさ!」
「えっ……」
 という形に口を開いたまま、佐由が唐突に固まってしまった。「ん?」と、一拍遅れて月彦の方が小首を傾げる。
「あっ……ご、ごめん。何でもとは言ったけど、出来ることならって意味でさ」
「あぁ、うん……もちろん、それは分かっているけど………………そっか………………そういうことなら――」
「そういうことなら?」
「な、なななななんでもない! こ、紺崎君にはほら! 私の方もゲームのことを教えてもらったりしてるだろう? だから、お返しとか、そういうのは、考えなくて、いい、から……」
「それは俺が好きでやってることだから」
「それを言うなら、私だってそうだよ。紺崎君と白石君には巧くいって欲しいから、手伝いをしてるだけさ」
「倉場さん……」
「……………………ただ、その…………もし、紺崎君がどうしても何かしたいというのなら…………一つだけ頼みたい、ことが、その……無きにしもというか…………」
「なんだ、頼み事があるなら遠慮せず言ってよ」
「……っ……じ、実は……私は、初めてなんだ!」
「初めて?」
 あっ、と。佐由が顔を真っ赤にし、さらにメガネがずれた。
「ち、違っ……初めては初めてだが、そういう卑猥な意味じゃ無く、だ、男子を自分の部屋に上げるのが初めてという意味で!」
「そ、そうなんだ……と、とりあえずいったん落ち着こう倉場さん」
「うん……ありがとう。すう、はあ……すう、はあ………………話を戻そう。その、何だ……私は、白石君のように幼い頃から男子と縁があったわけではないから、部屋に男子を上げたのは紺崎君が初めてなわけで……」
「うんうん」
「だから当然、男子の部屋にも行ったことがないわけで……」
「うん」
「も、もし良かったら…………紺崎君の部屋に……い、行ってみたい……な、と……いうのが……も、もちろんただの興味本位で! ただ単純に男子の部屋を見てみたいというだけで! 別に何かを企んでいるとかそういうことはないから!」
 後半早口でまくし立てた後、佐由はぜえぜえと肩で呼吸を整える。
「えーと、つまり……同い年の男子の部屋に入ったことがないから一度入ってみたい――と」
「ひ、平たく言えば……そういうことになるかな。……何度も言うけど、本当に他意はないんだ。ただ、男子の部屋に入ってみたいというだけで……」
「わかった、他ならぬ倉場さんの頼みだ。一肌脱ぐよ」
「ほ、本当かい?」
「うん、それくらいお安いご用だって。いつがいい?」
「それは……紺崎君が都合が良い時で構わないよ」
「そっか。じゃあ明日どうだろう?」
「あ、明日!?」
「急すぎるかな。だったら他の日でも――」
「いや、明日で構わない。問題無いよ! 是非!」
「く、倉場さん?!」
「あぁ、いや……す、すまない……ちょっと、興奮してしまって……」
「そ、そうなんだ……」
 余程男子の部屋に入ってみたかったのだろう。冷静沈着、パーティの全員がカッカと頭に血を上らせていても、一人クールに戦況を分析している魔法使いのようなイメージの佐由の意外な一面に、少なからず月彦は面食らった。
(いや、俺が勝手にそういうイメージを持ってるだけで、意外と……)
 ”男子の前”だから礼儀正しくしてるだけで、実際はもっと激しい――もとい、陽気な性格なのかもしれない。
「あっ、そういえば倉場さん。ブレドラはあれから進んだ?」
「ブレドラ……あぁ、うん。昨日四章は終わって、今五章の頭だよ。いきなり数年後に話が飛んで、しかもパーティメンバーの半分が死んだことになってたのには少々面食らったけどね」
「あぁ……そっちのルートかぁ。てことはマイ姉ちゃんよりの選択肢を選んできたってことかな」
「そ――うだね。私個人としても、アリアよりマイの方に思い入れは強いね」
「でもまだまだ分岐のチャンスはあるからね。初回だし、好きな選択肢を選んでいっていいと思うよ。まだ時間あるし、少しでも進める?」
「あぁ……で、でもほら、RPGだと私しかプレイできないし、その間紺崎君は退屈だろう? 折角だし、何か他の……二人でプレイできるゲームの方が――」
「うん、それも悪く無いと思うよ。だけど今日はブレドラを進めよう」
「でも、ほら……これとか、ネットでかなり評判がいいボードゲームで、どうせなら一緒に――」
「ブレドラのプレイを見てる方が俺は何倍も楽しめるからさ。先に進めよう」
「あぁ……うん、そう、だね」
 


 七時前、佐由の母親が帰ってくる時間ギリギリまでブレドラを進めてから、月彦は部屋を辞した。
「……すまないね。母に見つかると、面倒なことになるかもしれないから」
「仕方ないよ。今日はありがとう。妙子の話も聞けて良かったよ」
 佐由は玄関まで見送ってくれ、さらにドアを閉めかけたところで。
「……そうだ。もし良かったら、送らせてくれないかい?」
「うーん……いや、やめとくよ」
 確かに原付で送ってもらえば帰りは早い――が、その後は佐由が一人出夜道を帰ることになる。徒歩と二輪の違いがあるとはいえ、やはり女子を夜道に一人で帰らせるのは避けたい。
「そうか……じゃあ、せめて門の前まで送るよ」
 さすがにそれも断るわけにはいかなかった。佐由と共に門扉の前まで来たところで、あっ、と。
 思い出したように佐由が口を開いた。
「紺崎君。念を押すようで申し訳ないけど……」
「部屋の件? 大丈夫、忘れてないよ。待ち合わせは今日と同じ場所でいいかな?」
「ぁっ……うん、そのことなんだけど……ごめん、自分から言い出したことなのに、明日はちょっと用事があるんだ。先に用事を済ませて行くから、1時間くらい遅れる、と思う」
「用事があるの? だったら別の日でも――」
「大丈夫だよ、用事自体はすぐに終わるから。ただ、一度帰らないといけなくてね」
「わかった、とにかく今日より一時間遅れて行けばいいんだね」
「無理を言ってすまないね。……じゃあ、紺崎君、気をつけて」
「うん、ありがとう、倉場さん」
 門の前で佐由と別れ、そのまま帰路につく。丁度倉場邸の前から五十メートルほど離れたところで白い乗用車とすれ違い、何の気なしに振り返ると、倉場邸の車庫へと入っていくのが見えた。
(お母さん……かな?)
 運転席の様子は見えなかったが、佐由の言葉から恐らく帰宅したのは母親だろう。見つかると面倒という話も本当であれば、帰るタイミングとしてはギリギリだったのかもしれない。
(……ついブレドラに夢中になって遅くまで居ちゃったけど、次はもう少し早く帰ったほうがいいかもしれないな……)
 尤も、”次”があるかどうかは佐由次第な部分が大きいのだが。
(……楽しんでくれてる、と思いたい、けど)
 こうして振り返ってみれば――実際のプレイ中はそれこそブレドラに夢中すぎて気づかなかったが――どうも佐由の様子がおかしかったように思えてならない。
(倉場さんの目が、ブレドラをやってるときの真央の目に似てた……気がする)
 ひょっとして、気を遣って面白くもないものを面白いと装っているだけなのではないか――そんな疑念に、帰路を辿る足も重くなる。
 そこへさらに、妙子の件が加わると、もはや歩き続ける事すら容易ではなくなる。
(まさか……とは思いたいけど)
 なんといっても、あの佐由がわざわざ家に呼んでまで知らせてくれた情報だ。つまりは、それほどまでに――それこそ、端から見ている佐由たちにも伝わる程に――自分という存在が妙子にとってストレスになっていたのだと思ったところで、月彦はとうとう足を止めてしまった。
(…………冷静に考えれば、当たり前のことなのかもしれない)
 思い返せば、妙子の側に居て苛立たせることはあっても、楽しませたり喜ばせたりすることはほぼ皆無であったように思えてならない。妙子から初めての”お誘い”に関しても、佐由の言うとおり首輪の件が負い目となっただけで、距離が詰まったわけではなかったのだろう。
(…………倉場さんの言う通り、しばらく距離を置いたほうがいいのかもしれない)
 妙子に会えなくなるのは残念ではあるが、その気持ちは妙子の健康を害してでも成し遂げたいという類いのものではない。側に居ることが妙子の負担になるのならば、我慢くらいいくらでもしようというものだ。
 もちろん、折角の情報を伝えてくれた佐由への恩義を忘れるわけにはいかない。
(まぁ、部屋の件については、和樹のやつに頼めば大丈夫だろう)
 本来ならば自宅へと呼び、佐由の心ゆくまで”男子生徒の部屋”を見学させてやりたいところだが、さすがにそういうわけにもいかない。真央と冷戦中ともなれば尚更だ。それこそ、真央の拗ね期が月単位で伸びることになりかねない。
(…………真央との”仲直り”についても、考えておかないとな)
 こちらに非がある以上、やはりなにがしかの償いはしなければならないだろう。さて、どうやって真央を喜ばせてやったものか――思案がまとまるよりもさきに、月彦は自宅へと帰り着いてしまった。


 葛葉に帰りが遅くなったことを詫びて、食卓に残されていた夕飯――ドリアだった――を温め直そうと電子レンジの扉を開けた時。耳が足音を拾った。
「……真央?」
 我ながらよく足音だけで真央だと分かったと感心する一方、その足音すら聞くのは久々だと思いながら振り返る。既に風呂も済ませたのか、真央はパジャマ姿で、月彦の方を一瞥するや特に声もかけずに流し台の前に立つ。コップに水を汲み、手に持っていた錠剤を口に含むや水でごくりと流しこむ。
「…………何の薬だ?」
 再び、一瞥。まだ機嫌は直っていないのかなと、落胆しかけたその時。
「眠くなるお薬」
 ぽつりと、まるで独り言のように漏らした。
「最近眠れないから」
 ついでのように呟いて、真央は素っ気なく台所を後にする。
「………………ふむ」
 なるほどとばかりに月彦は頷く。薬を飲まねばならないほどに眠れないなんて、大丈夫なのか――などとは、もちろん考えない。
(……考えてみたら、喧嘩する前焦らしに焦らしてたんだから――)
 真央自身の意思はともかく、体の方は欲しくて欲しくて堪らない状態になっている筈だ。そりゃ不眠にもなるだろうと、むしろ月彦は納得した。
(でも、そんだけ飢えてて、そのせいで眠れなくても――)
 態度を軟化させる気はないということも、同時に思い知る。どうやら、思っていた以上に、真央の機嫌を損ねてしまったらしい。
(こりゃ、ただ襲ったり何かプレゼントしたりくらいじゃ、許してくれなそうだな)
 心中の苦慮とは裏腹に、ムスッとした真央も新鮮で可愛いなぁとほっこりしてしまう。同時に、そんなツンツンしている愛娘を無理矢理押し倒したくてウズウズしてくるのだから困ったものだった。
(いやでも、今回悪いのは100%俺だからなぁ。やっぱり、今までとは違う何かで喜ばせてやりたいが――)
 悲しいかな、その”何か”が思いつかない。電子レンジの蓋の取っ手を握ったまま唸る月彦を尻目に、真央は薬を飲み終わるとさっさとキッチンから出て行ってしまった。
(何か……何か……うーん……)
 ドリアを温める間、そして食べる間、風呂に浸かる間、ベッドに入って眠るまでの間月彦は考え続けたが、妙案は浮かばなかった。



 ”真央の喜ばせ方”を考えるのに夢中で、和樹に事前アポをとるのをすっかり忘れていたことに気づいたのは翌朝、それも学校につく直前だった。
「つーわけで、急な話で悪いが、倉場さんにお前の部屋を見せてやって欲しいんだ」
 やむなく教室で顔を合わせるなり頼み込むや、和樹は肩に鞄をかけたままきょとんと目を丸くしたまま固まってしまった。
「今日の放課後、倉場さんに、お前の部屋を見せてやってくれ」
 月彦はやむなく、より分かり易く言葉を換えて頼み込んだ。
「ま――……待て待て待て! なんだそりゃ、何で俺が他校の女子に自分の部屋見せなきゃならねーんだよ!」
「何だ、別に恥ずかしがるような部屋でもないだろ?」
 覚えている限りでは、和樹の部屋にあるものといえばテレビとゲーム機、オーディオ機器にあとはせいぜい釣り道具と釣り関連の雑誌くらいのものだ。少なくとも”男子の部屋”として佐由に紹介するには申し分無い。
「いや、だからなんでそんな話になってんだよ!」
「仕方ないだろ。お前の部屋を見て見たいという倉場さんの強い希望によるものだ。観念して見せてやってくれ。別に減るものじゃないだろ」
「倉場さんが……?」
 何故、という疑問が、ありありと和樹の顔に表れていた。
(…………仕方ない、最後の手段を使わざるを得ないか)
 出来ればこの手だけは使いたくなかったが――月彦は渋りながらも、制服の内ポケットからサイフを取り出す。
「引き受けてくれたら、昼は俺のオゴリで好きなだけ食っていいぞ」
「………………。」
 無反応な和樹に、今度は月彦の動きが止まった。
(即答しない……だと?!)
 そんな馬鹿なと。月彦は我が目を疑った。例えるなら、何の気なしにサイコロを振ってみたら、出る筈の無い七の目が出たような、そんな気分だった。
「あー……和樹、念のため聞くが……倉場さんとは面識あるんだよな?」
 面識があり、アドレスも交換している――つまり、まったく知らない仲ではないのだから、部屋を見せてやるくらい何でもないことだと。少なくとも月彦はそう思っていた。だからこそ、和樹に頼めば問題はないだろうと、軽く考えていたのだが。
「面識は、ある」
「そうか。なら問題ないよな? ……問題あるか?」
 小声で尋ねると、和樹は大きく肩を上下させて溜息をついた。
「部屋を見せることについては問題ねーよ。もちろんお前も一緒に来るんだろ?」
「いや……」
 そのつもりはない――そう答えかけて、はたと考える。ここで和樹に丸投げをするというのは、いくらなんでも無責任に過ぎないかと。
「……そうだな。さすがに一度会っただけの相手と二人きりってのは気まずいよな。俺も行こう」
 なんなら妙子も呼んだほうがいいかもしれないと思いかけて、再度思い直す。そもそも、妙子とは距離を置こうと決めたばかりではないか。
 予鈴が鳴り、教室のざわつきはそのままに、クラスメイト達がおのおの自分の席へと戻っていく。
「じゃあ、カズ。そういうことで、今日は頼むぜ」
「しゃーねーな。昼飯代はちゃんと出せよ?」

 昼飯代はちゃんと出せ、という言葉の割には、和樹の昼食は控えめだった。いつもであればそれこそ昼飯代を出す等といったが最後。これから断食でもするのかという程に食い漁るのが静間和樹という男の筈だ。が、月彦の祈りが神に通じでもしたのか、和樹が求めた代償はワンコイン分の菓子パンのみだった。

 放課後、さすがに少し部屋を片付けたいと和樹は一人先に帰った。佐由との待ち合わせの時間までまだ時間があるから少し部室にでも顔を出そうかと悩んで、出したが最後待ち合わせ場所へ行けなくなる可能性を鑑みて、結局コンビニで時間を潰すことに決めた。
 待ち合わせの時間の五分前に現着し、待つ事五分。さらに十分経ったところで、聞き慣れた原付の音ではなく、息せき切って走ってくる佐由らしき少女の姿が見えてきた。
「あれ……倉場さん?」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ…………す、すまない……遅れ…………はぁっ、はぁっ……」
「いや、それは別に構わないんだけど……原付は?」
「はぁっ、はぁっ……それが、ちょっと、調子悪くて、ね…………はぁはぁ…………」
 成る程、遅れたのはその為かと納得する。
(……にしても)
 女性というのは、服装でここまで印象が変わるのだろうか。あらかじめ佐由と待ち合わせをしていなければ、走ってくるのが佐由だと気づかなかったかもしれない。上は白のAラインコートを羽織り、下は黒のシースルーブラウス、モーブピンクのジャンパースカートという出で立ちはおよそ普段の佐由のイメージからはかけ離れている。
(髪型も……なんか昨日と大分違うような……)
 パーマでもかけたのだろうか、ゆるふわミディアムなそれもまたくせっ毛ストレートなイメージの佐由にそぐわない。何よりも、眼鏡をかけていないというのが別人に見える一番の理由では無いだろうか。
「あ、あぁ……今日はコンタクトにしたんだ。…………変、かな?」
「いや全然! 凄く良いと思うよ」
「そ、っか……あ、あまりジロジロ見ないでもらえると……その、ありがたいのだけれど……」
「ご、ごめん……っと、それじゃあ行こうか」
「うん……」
 佐由と並んで歩き出す。走って来た熱がとれたのか、歩きながら佐由がコートの前を止める。その確かな胸元に、むううと思わず唸りそうになる。
(……うーん、さすがに”ちょっと盛りすぎじゃない?”って言うのは失礼……だよなぁ)
 偽乳は悪――とまでは言わないが、おっぱいを神聖視する月彦としては神を冒涜されているような気分にさせられる。相手があまり親しくない女子であるから口にはしないが、佐由にもそういうところがあるのかと、僅かながらも幻滅せざるを得ない。
(ちっぱいにはちっぱいの良さがあると思うんだが……)
 尤も、佐由のそれは服の上から推測する限り年齢相応のボリュームであり、決して恥じるようなサイズではないはずだが、平均を満たしているということがイコール本人の満足度ではないということだろう。
 とはいえ、偽乳の件さえ気にしなければここまで見た目を変えられるものかと感心せざるを得ない。同年代の中では高めの身長と厚底のブーツ、大人びた化粧にすらりとした体躯も相まってまるでモデルのようだ。
(……素の姿を知ってないと、とても高校生だなんて信じられないな)
 女は怖いと、改めて思う。
「……ええと、今更、で申し訳ないのだけど」
 まるで、沈黙に耐えかねたとでもいうように、佐由が口を開いた。
「きょ、今日は急な話で……その、本当に良かったのかな? 部屋に、行っても……」
「あぁ、大丈夫だよ。ちゃんと話は通してあるから」
「そ、そうか……迷惑でないのなら――……ん?」
「ん?」
「すまない、紺崎君。”話は通してある”というのは……?」
「あぁ、和樹にだよ。倉場さんに部屋を見学させてやって欲しいって言ったら、問題無いって言ってたよ」
 不意に、佐由が足を止めたため、月彦も足を止めた。
「……すまない。ちょっと、どういうことなのかよく分からなくて…………」
「あれ……? 男子の部屋を見てみたいって話じゃなかったっけ…………」
 はて、ひょっとして聞き違えたのだろうか――不安の種が芽吹きそうになった矢先、佐由が得心がいったように声を出した。
「……そういうことか。すまない、確かに昨日……そう言ったね」
「だ、だよね……良かった、俺の勘違いかと思ったよ」
「すまないね。どうやら早とちりをしてたみたいだ……てっきり、紺崎君の部屋を見せてもらえるものだとばかり……」
「まぁ、俺の部屋も和樹の部屋も大して変わらないから大丈夫だよ」
 少なくとも、男子の部屋を見てみたいという佐由の知的好奇心は満足させられる筈だ。「………………。」
「倉場さん?」
「あぁ、いや…………前回に引き続き静間君には迷惑をかけてしまうと思うと、いささか気が引けてね…………」
「大丈夫、和樹はそんなこと気にする奴じゃないって」
「そうか……そうだといいね」
 笑顔。しかし力が無い。気心の知れた和樹の部屋であれば何の問題も無いと思っていたが、思いのほか佐由は義理堅く、そして遠慮がちな性格なのかもしれない。
(うーん、俺の部屋を見せてやれれば何の問題も無かったんだろうけど……)
 ちょこちょこ置いてある真央の私物に関しては押し入れ等に片付けることで一応解決はするものの、真央本人をどう説得するかが問題だ。平常時ですら女子を連れてくるなどと言おうものならヘソを曲げた挙げ句さんざんに勘ぐってくることは容易に予想出来るというのに、冷戦状態の今そんなことをしようものなら修復不可能なまでに関係が悪化してしまうかもしれない。
(……ここは俺が間に立って、和樹とギクシャクしないようにするしかないな)
 和樹は和樹で、佐由がここまで美人に化けているとキョドってしまうかもしれない。あの男は昔からこういうキリッとした美人に弱いのだ。


 待ち構えていたのだろう。静間邸のインターホンを鳴らすと、殆ど間が無く和樹の野太い声が聞こえた。
「和樹か? 連れてきたぞ」
『おう、入れ』
 鍵は開いている――そう言って、インターホンは切れた。なるほど、確かに玄関の引き戸には鍵はかかっていなかった。お邪魔しますと一言添えて家へと上がり、佐由もそれに倣う。玄関を入ってすぐの所にある階段を上がり、そのまま廊下を進んだ尽き当たりの右側が和樹の部屋だ。
「すまん、ちょっと遅れた――……って、何だ、模様替えでもしたのか」
「冬前くらいにな。そういやお前はその後来たことなかったか」
 年期の入ったカーペットにはいくつもの原因不明のシミが付着しており、それがよく手入れのされた芝生のように鮮やかな色の新品へと変えられていた。
「いつもの炬燵は?」
「エアコンを新調するかわりにって、爺ちゃんに取られた」
「確かにいつになく暖房が効いてるな」
 音ばかり大きく、冷房も暖房もただ送風しているだけなのではというほどに効きが悪かった茶色びたエアコンが、スマートな新品のそれに変わっている。
(道理で和樹の部屋なのに……寒くない)
 部屋の隅に置かれているテレビとオーディオ機器はそのままだが、以前はただスポーツ選手のポスターが貼られていただけの壁のポスターが剥がされ、代わりにとばかりに釣り竿が四本飾られている。また、本棚を買うのが面倒くさいとばかりにただ床の上に積まれていた雑誌類も今はカラーボックス式の本棚へと収まり、月号順に並べられている。
(……こいつ、いつのまにかちゃんとした部屋にしてやがった)
 和樹の雑然とした部屋を見せ、男子高校生の部屋なんてこんなもんだよ、と佐由に説明する筈がすっかり当てが外れてしまった。
「……っと、倉場さん。そんなところに立ってないで入りなよ。ちょっと変な匂いがするかもしれないけど我慢してね」
「おいこら月彦! デタラメ言うな!」
「ははっ、それじゃ改めてお邪魔するよ。……やぁ、静間君、久しぶりだね」
「……ッス。人に見せるようなモンじゃないスけど……くつろいでください」
「何だよ和樹、照れてるのか?」
「っせーな! まだそんな慣れてねーんだよ!」
「大丈夫だよ。肩の力を抜いて、こないだ白石君と一緒に話した時みたいにくだけてくれれば、私も話しやすい」
「なんだ、そんなに打ち解けてたのか。妙子と三人でどんな話したんだ?」
「悪いな、それは俺たち三人だけの秘密だ。な、倉場さん」
「ふふ、そうだね。特に、紺崎君にだけは絶対に漏らせないね」
「ちょっと待て、俺に関係してるのか?」
 和樹と佐由がまるで示し合わせたように意味深な笑みを浮かべる。
「まあ、立ってないで座りなよ、倉場さん。座布団が足りねーから月彦はそのままな」
「何言ってんだ。そのくたびれたやつは俺が使うから、倉場さんには一番上等なクッション出してやれよ。あの青のやつ」
「探したんだけど見つかねーんだよ」
「あー、そうか。思い出した、俺が隠したんだった」
「は?」
 呆気にとられる和樹をよそに、月彦は押し入れの戸を開けて、内側の鴨居に引っかけていたおいたクッションを取り出す。
「いやほら、前に部屋に来た時に千夏にとられたせいで直座りする羽目になったからな。今度は俺が使えるようにと思って先に確保しといたんだ」
「お前……道理で見つからねーと……人の物を何だとおもってんだ」
「言っとくけど、このクッションはもともと俺が買ったもんだからな!?」
「買ったのはお前でも、誕プレだーつってくれた物だろうが」
「お前の家に置いとけば、遊びに行った時に便利だと思ったからな」
「聞いたか、倉場さん。月彦ってやつはこういう男なんだ」
「もとはといえば、来客用の座布団くらい揃えてない和樹が悪い」
 佐由はしばし目を丸くしたかと思えば、綻びが解けるように笑みを零した。
「……いいね。白石君と和樹君の時も思ったけど、まさに幼なじみという感じでほっこりするよ」
「まあ、確かに付き合いだけは長いな」
「俺もそれには同意だ。……飲み物と菓子とってくるから適当にくつろいでてくれ」
「だ、そうだから、倉場さん座りなよ」
「静間君の家に置いてあるけど、紺崎君が買ったクッションに、だね」

 


「成る程、ということは紺崎君たちは幼なじみでありながら、それぞれ好きなものが全員バラバラなのか」
「まぁ、そうだなぁ」
「たまに集まってゲームくらいはするけど、同じ趣味ってのはホント無いな」
「妙子は犬と深夜ラジオ、千夏は食い歩きと薄い本。こいつはこいつでエロとおっぱいの権化だしな」
「おい、おっぱいは認めるがエロの権化ってのは取り消せ。いや待て、そもそもおっぱいも趣味じゃないぞ」
「となるとお前は無趣味ってことになるが」
「バカ野郎、俺には手品という崇高な趣味があるんだ」
「ありゃ一過性で覚えたただの特技だろ。継続的にやってないことは趣味とは認めねえ」
「そういう和樹君の趣味は、もしやとは思うが……釣りかい?」
「あぁ、川釣り海釣り、夜釣りでも船釣りでもなんでもやるぜ」
「ほう? やはり面白いのかい?」
「俺はそう思う、が――」
「まぁ、俺はたまにやるくらいなら、って感じかな。何度か一緒には行ったことあるけど、待ってる時間がヒマだし、下手すりゃ一日ただぼけっと待ってるだけで終わったりするしな」
「千夏もジッと待ってるタイプじゃねーしなぁ。かといって妙子はエサつけるときと釣った時に手が汚れるのが嫌だーつって、釣り竿見ただけでむくれツラするしな」
「いやいや、妙子は最初はそんな釣り嫌いじゃなかっただろ。あいつが決定的に嫌いになったのはお前が釣った魚を勝手に妙子の犬に食わせたからだよ」
「魚を妙子の犬に? そんなことやったっけか?」
「……和樹本人が覚えてないってひっでぇな。アレは妙子はもちろん、周りで見てた俺や千夏にしてみりゃ立派な大事件だってのに」
「待て待て、だんだん思い出してきたぞ……妙子のキレた顔を……うっ、頭が……――ッ!」
 ガチか演技か、和樹が頭を抱えるようにして蹲る。演技ではないのだとしたら、忘れていたのではなく意図的に記憶を封印していたのかもしれない。
「何やらとても興味深い話だね。詳しく聞かせてくれないかい?」
「まぁ、そんなに畏まって話すほどのことでもないんだけどね。和樹が釣った魚を妙子の飼い犬に食べさせてたってだけの話だよ。もちろん妙子には無断で、ね」
「あぁ……だんだん思い出してきた。よっぽど腹減らしてんのか、面白いくらいバクバク食うから、普段は逃がす雑魚とかもわざわざ持って帰って食わせてたら妙子にバレて、シャレにならないくらいブチ切れられたんだ」
「そうそう。生魚は寄生虫がーってな。ガチで半年以上和樹と口きかなかったから、そうとう怒ったんだと思うぞ」
「白石君にしてみれば、愛犬を死なせることになるかもしれなかったわけだから、気持ちは分からなくも無い……といったところだね」
「そうだね。でもあの時は本当に大変だったよ。俺も千夏も、なんとか妙子の気持ちを萎えさせようって頑張ったけど、妙子ってば本当に頑固でなぁ……」
「……宿題とか全然見せてくれなくなって、四人で喋ってても全く目を合わせてくんねーし、妙子のキレた顔がトラウマになったのはあの時からだ」
 思い出しただけで冷や汗が出てきたと、和樹は顔を青くする。
「懐かしいなぁ。あの頃からだよな、お前が口癖みたいに”妙子みたいな怖ぇ女とだけは付き合いたくねぇ”って、言い出したのは」
「そうだった、そうだった。……倉場さん?」
 佐由は含み笑い――というより、吹き出しそうなのを必死に堪えるかのように、口元を抑えている。
「……いや、すまない。ふふっ、これは役得だね。”前回の話”を聞いているから、私には尚更興味深い話に聞こえるよ」
「何だ何だ、一体どんな話をしたんだ?」
「あー……まぁ、そのアレだ。平たく言うとだな……妙子はひどくめんどくさいってことだ」
「ふふ、そうだね。まさしく静間君の言うとおりだ」
「何だよ、二人とも教えてくれないのか?」
「どうしても気になるなら妙子に訊けばいいじゃねーか。まぁ、あいつのことだから素直に教えてくれるとは思わねーけど」
「まあでも――」
 和樹が言い終わると同時に、佐由がつなげる。
「私も人のコトは言えないんだけどね。自分で言うのもなんだけど、白石君に負けず劣らず、さ」
「めんどくさいって話がか? そんな風には見えないけどな」
「和樹に同意だ。倉場さんは全然面倒くさくないよ」
「いやいや、それはネコを被ってるだけさ。……下手をすると私という人間の面倒くささは白石君を遙かに凌駕するかも知れないよ」
「倉場さん、そういうことは冗談でも言わない方がいいぜ。…………”だれかさん”はそういうの凄く好きみたいだからな」
「何で俺の方を見ながら言うんだ」
「俺に訊くより自分の行動を振り返った方が簡単に答えが出るぞ」
「とんだ誤解だ。言っとくけど、俺はめんどくさいのなんて全く好きじゃないからな?」
 単純に、そして純粋におっぱいが好きなだけなのだと。月彦は一人納得するように頷いて見せる。
「……私が思うに、紺崎君は”面倒くさい女子”が好きなんじゃなく、”目が離せない女子”が好きなんじゃないのかな?」
「目が離せない女子……ううん、どうだろう」
 たゆゆんと揺れる巨乳に視線が吸い寄せられるという意味では、あながち間違いでも無いかもしれない。
「倉場さん、それはこいつを買いかぶりすぎだ。こいつはぶっちゃけ胸さえあれば相手が人間じゃなくてもいいっていうド変態なんだ」
 咄嗟に反論しようとして――結果、言葉が出てこなくて、月彦は唸ることしか出来なかった。
(……一度、周りにどう思われているのかしっかり調べたほうがいいかもしれないな)
 ひょっとしたら、自分に正直に生きるあまり、とんでもない評判が立っているかもしれない。



「今日はありがとう、静間君。おかげでいい思い出になったよ」
「俺も楽しかったスよ、またいつでも来てください。月彦、ちゃんと送っていけよ?」
「あぁ、まかしとけ」
 思いのほか話が弾み、静間邸を出た時にはもうすっかり日が暮れていた。
「随分長居をしてしまったけど、迷惑じゃなかったかな」
「大丈夫だよ、和樹はああ見えて嫌いな相手にはトコトン素っ気ないから。倉場さんのことはかなり気に入ってるんだと思うよ」
「そうか……だといいけど……」
 夜道を歩きながら、佐由はしばらく黙り込む。
「いや、やっぱり迷惑だったんじゃないかな。いきなり部屋を見せてほしいなんてお願い、少なくとも私だったら――大して親しくも無い男子に言われても絶対に断るよ」
「大丈夫だって。意外と心配性だね、倉場さん」
「そうだね。私は常に何かの心配をしていないと安心できない性格なんだ」
 なるほど、だから思慮深く見えるのかと頷く月彦に、「そこは笑う所だよ」と佐由が苦笑する。
「それにしても……静間君の趣味が釣りとはね。フリマの時も、釣りの道具を売ったことがあると言っていたから、もしやとは思ったんだが」
「まー趣味っていっても、ほんと趣味だよ。好きなことだから極めたいとかじゃなくて、余暇の楽しい過ごし方の一つとして釣りがある、的な感じかな」
「それはとてもいい趣味との付き合い方だと思うよ。”趣味”にのめり込みすぎている私や英理には些か耳が痛い話さ」
「良いんじゃないかな? 他の人に迷惑をかけたりしない分には、のめり込むのもアリだと俺は思うよ」
「そういえば、さっき――」
「うん?」
「紺崎君は無趣味、というような話が出たと思うけど、本当なのかい?」
「無趣味……うーん……そう言われれば、という感じだけど」
 強いて言うなら、ここ半年ほどの間はそれこそ”趣味”どころではなかった。が、真央が家にやってくる前であったとしても、自分は何か趣味らしい趣味があっただろうか。
「うーん……俺も何か見つけたほうがいいのかな」
「ふふ、焦る必要はないと思うよ。趣味なんて、作ろうと思って作るものでもないしね」
 それに――と、佐由はやや声のトーンを落として続ける。
「逆に、一生の趣味だと思っていたものが、ふとしたきっかけでどうでもよくなったりする……なんてこともあるしね」
 まるで自分が経験したような言い方だった。掘り下げるべきか悩んでいるうちに、まるで追求を遮るように佐由が言葉を被せてきた。
「ごめん、ちょっと話を戻すけど」
「うん?」
「その、実は私も……ラジオ以外の趣味を持とうかな、と思っていてね。なんというか……女で深夜ラジオに傾倒しているというのはあまり良い印象を持たれない気がしてね」
「そんなことはないと思うよ。倉場さんって知的な感じだし、俺は全然アリだと思うけど」
「だ、だとしても……その、もう少しアクティブな趣味を持ちたいと考えてるんだ。だから今は、いろんな事にトライしてみようと思っててね」
 成る程、こういうところが自分と佐由の違いなのかもしれないと、月彦は感心しながら聴いていた。
(今の自分に満足せずに、常に新しいものを求める姿勢は俺も学ぶべきかもしれない)
 考えてみれば、佐由は自分の好奇心に非常に素直であると言える。同じ年頃の男子の部屋を見て見たいと思えばすぐさま実行に移し、そして今度は新しい趣味を求めて自ら動こうとしている。
 この姿勢は自分も学ぶべきであると、感じる。
「それで、もし良かったら……釣りというのも経験してみたいと思ったんだ。……ただその、静間君に直接というのは頼みにくくてね。出来れば――……」
「大丈夫、釣りの誘いなら和樹は二つ返事でOKしてくれるよ。和樹と二人きりってのが間が持たないなら、俺が一緒に行ってもいいし」
「ほ、本当かい!? 紺崎君が一緒に来てくれるなら心強いよ」
「そうだ、折角だし小曽根さんや妙子も誘うのはどうかな? ついでに千夏も誘ってさ、6人でわいわいやればきっといい思い出になると思うんだ」
 そうだね、それはいいアイディアだ!――佐由ならば、てっきりそう返してくれると期待していた。が、予想に反して佐由の反応は鈍かった。
「……あぁ、うん……そう、だね。ただ、英理はどうだろう……確か魚は見るのも食べるのも嫌いだったような気がするし、白石君に至っては愛犬を殺されかけた思い出から、心から楽しむというわけにはいかないんじゃないかな?」
「そ……っか。小曽根さんは魚が嫌いなのか……それなら、釣りには誘わないほうがいいかもしれないね」
 妙子に関しては恐らく大丈夫ではないかという見込みはあるが――尤も、確信があるわけではなく、恐らく妙子もさすがにあの時のことは水に流しているだろうという楽観しかないのだが――佐由が言う様に、釣りと聞いただけでぶうたれる可能性は十二分にある。
「うん、折角の誘いで申し訳ないけど、今回は三人だけで行くのが良いんじゃないかな。……あぁ、もちろんその千夏君が来たいというのなら、私は全然構わないよ。一度顔合わせはしたいと思ってるしね」
「千夏も釣りは好きじゃないけど、集まって遊びに行くのは好きだから、きっと誘えば乗って来ると思うよ。ただ俺や和樹と違ってバイトしてるから、シフトの無い日を選ぶ必要が出てくるけど……」
「土日祝日なら、私は基本的にいつでも構わないよ」
「そっか。じゃあ千夏と和樹に話をして、日取りが決まったら連絡するよ」
「うん、楽しみに待ってるよ。本当に」
 実際、楽しみなのだろう。最後に添えられた”本当に”には強い想いが込められているように感じた。
「…………」
「…………」
 会話が途切れ、しばし無言のまま夜道を歩く。ブレドラの話でも振ってみようかと月彦が口を開きかけた時、
「……そ、そういえば」
 まるで、殻の内側に溜めていたものを堪えきれなくなったような、そんな破裂するような勢いで佐由が口を開いた。
「きょ、今日っ、は……その、コンタクトだけじゃなくて……服も……イメージチェンジというか、普段なら絶対に着ないようなものにしてみたのだけれど……へ、変ではなかったかな?」
「うん? 全然変なんかじゃないよ、むしろ凄く似合ってると思う」
 ホッと。佐由は強ばっていた顔を僅かに緩める。
(むしろ、似合ってるとかじゃなくて、もはや”化けてる”ってレベルだけど……)
 そこは佐由にとって褒め言葉になるかどうかは微妙なラインだ。口に出さない方が良いだろう。
 ましてや、胸のつめものについての批評などは絶対に望まれてはいないだろう。
「いつものボーイッシュな格好もいいけど、スカートもすごくよく似合ってるよ。倉場さんって細身で結構身長もあるし、今日待ち合わせしてた時なんて、モデルさんが走ってきてるのかと思ったよ」
「ぁ……」
 佐由は夜道でもそれと解る程に顔を赤くし、何かを言おうとして口を開くも言葉が出ないらしく、ついにはぷいと顔を背けてしまった。
「いやほんと、冗談抜きで似合ってるって。俺も今だから言えるけど、最初見た時はうわ、綺麗な人だなぁ、って一瞬ドキッとしてついつい凝視しちゃったし。今だって、倉場さんだって分かってるからこうして話せてるけど、もし全然知らない人だったら目も合わせられないと思うよ」
 綺麗過ぎて――と。まるで独り言のように続けると、そっぽを向いたままの佐由が耳まで顔を赤くしているのが分かった。
(なんだなんだ、倉場さんも可愛いところあるじゃないか)
 綺麗だと思ったのは本当だが、後半は佐由の反応が面白くて若干盛ってしまった。が、決して嘘では無いし、仮に嘘だったとしても人を傷つける嘘ではないから問題は無いだろう。
「そ――」
 恐る恐る、というように、佐由が振り返る。
「そんなに、似合っている、かな……」
 顔はまだ赤い。羞恥の滲んだ顔に、もっと照れさせてみたくなる。
「すごく似合ってるよ。このままお持ち帰りして襲っちゃいたいくらいだ」
 ギョッとしたように、佐由が目を見開いた瞬間、月彦は己が冗談で済まされる一線を越えてしまったことに気づいた。
「あぁっ、いや……ごめん、いまの無し! ほんとゴメン!」
 つい、真央や雪乃を相手にしているようなノリで口を滑らせてしまった。佐由はあくまでも”友達”だ。ましてや、まだ知り合ってそう間もない、いわゆる”友達の友達”とも言える相手に口にして言い類いの冗談ではなかった。
「ふふっ、紺崎君もそういう冗談を言うんだね」
「そ、そう! 冗談だったんだ。ごめん」
 が、思いのほか佐由は気にはしていないらしい。むしろ、限界を超えた羞恥にガチガチに全身を固めていたところから余計な力が抜けたような、そんな印象さえ受ける。
「冗談――か」
 ふっと、佐由が口元に笑みを浮かべた刹那、ぞわりと。月彦は背筋につめたいものが走るのを感じた。
(……あれ? ていうか、肩の力が抜けたどころか……)
第六感――というには、過去に覚えのありすぎる流れ。ふっ、と。佐由が口元を僅かに歪めたように感じた。
「本当に冗談かどうか、確かめる必要がありそうだね」



「は……え? 倉場さん?」
「うん? どうかしたのかい?」
 紺崎君――そう言う佐由は、先ほどまでの、耳まで顔を真っ赤にしたおしゃれに不慣れな女友達――ではなかった。獲物を射程に収めた狩人のような――否、それよりももっと静かで冷たい。さながら、完璧な勝ち筋を見いだした棋士のようなまなざしで見られ、月彦は肝の温度をさらに下げた。
「どうかもなにも……あぁ、倉場さんも冗談を――」
「私のは冗談ではないよ」
 しゃべり終わる前に被せられた。
「紺崎君が言ったことが本当に冗談なのかどうか、純粋に興味があるだけさ」
「ご、ごめん……気を悪くしたのなら謝るよ……」
「勘違いしないでくれ。私は別に怒ってるわけでも、気を悪くしたわけでもない。……本当にただ、興味があるだけなんだ」
 そう言って、佐由はずいと距離を詰めてくる。
「く、倉場さん!?」
「紺崎君が言うように、本当に”モデルみたいに綺麗”なのか。”ドキッとして、ついつい凝視しちゃう”の部分までが冗談なのかを、確かめたいだけなんだ」
「そ、そこの部分は――」
 盛りはしたが冗談というわけではない――それを口にして、果たして事態は好転するだろうか。微妙なラインだと、月彦は口を噤む。
「さあ、どこか二人きりになれる場所に行こうか、紺崎君」
「えっ、えっ!?」
 手首を掴まれ、ぐいと引かれる。そのまま佐由が歩き出そうとして――ふっと、佐由の手が離れた。
「…………なんてね。あまり人をからかって遊ぶものではないよ、紺崎君」
「ぇ……ぁ…………」
 くるりと振り返った佐由はいつもの――若干照れくささが残ってはいるが――佐由に戻っていた。事ここに至って漸く、月彦は自分が”からかい返された”ことに気づいた。
(しまった……悪ノリしてたこともバレてたのか……)
 考えてもみれば、佐由も妙子と同じく如水学院に通う秀才だ。しかも、妙子から聞いた話しでは妙子よりも遙かに勉強が出来るのだという。そんな佐由にレベルの低い世辞をぶつけたところですぐにバレるに決まっているではないか。
「ご、ごめん……でも、本当に全部が冗談だったわけじゃ……」
「ふふっ、そうだと信じたいところだね。もちろん、紺崎君に悪気が無かったことも分かってはいたよ?」
 ただ――と、佐由は真面目な顔をする。
「さすがに”襲う”発言は行き過ぎだね。並の女子ならドン引きしてるところだよ」
「だ、だよね……本当にゴメン……」
「……一応、今のは”私は並の女子ではないから大丈夫だよ”っていう、フォローのつもりだったのだけれど……」
 あっ、と。月彦がホッと胸をなで下ろすのもつかの間。一拍遅れて、佐由が慌てたように付け足した。
「ええと、今のはあくまで普通の女子よりも下ネタに耐性があるという意味で……」
「下ネタ――……あぁ、そういえば」
「すとっぷ! 頼むからそれ以上は思い出さないでくれ!」
「わ、分かったよ……でも、俺は別にいいと思うよ。下ネタくらい。大丈夫、全然変じゃないよ!」
「…………あからさまなフォローを入れて貰って申し訳ないのだけれど、この際白状すると私は別に下ネタが好きなわけではないんだ」
 あっ、耐性があるのは本当だよ?――そう小声で佐由は付け加えてから、続けた。
「あれはただのキャラ付け……言うなら、”霊感少女”のようなものさ」
「霊感少女……?」
「紺崎君のクラスには居なかったかい? クラスメイトの注目を集めたいが為に、自分には霊感があると言い出すような女子が」
「いや…………ガチで霊感がある女子なら居たけど」
「…………ええと、話を戻すね。つまるところ、私はただ”下ネタも平気で笑える女子”を演じていただけなんだよ。まぁ、見ての通り昔から背も高くてね、よく男子とも間違えられていたから、その流れでなんとなく、ね」
「成る程……もしかして、”足の臭いが好き”っていうのもその流れで?」
 ひゅっ――そんな変な音が、佐由の喉の奥から聞こえた。たちまち顔が青ざめ、同時に赤く、紫色になる。
「ああああああああれは嘘! 今だから言うが全部嘘なんだ! 英理と二人で考えた作り話なんだ!」
「そうだったんだ……作り話……」
 佐由の大げさな反応を見るに、話した事を今の今まで忘れていたのだろう。
(そして多分――)
 嘘というのは嘘――だが、ここは気づかないフリをするのが優しさというものだろう。月彦は話題を戻すことにした。
「待てよ。てことは、倉場さんって結構昔から男子と一緒に遊んでたりしたんじゃないの? 下ネタも平気な女子って、それだけで男子にも受けが良さそうだけど」
「……どうだろうね。我ながら、今思うとあの頃の自分は痛々しさの象徴だったように感じるよ。男みたいな体格の女子が望まれもしない下品なギャグを会話のそこかしこに織り交ぜて来るのだから、周りもさぞ扱いに困ったと思うよ」
「うーん、今の倉場さんからは想像も出来ない話だね」
「今も似たり寄ったりさ。本質的には何も変わってないのだから……白石君の事をコミュ障だなんて言えない立場なんだよ、私は」
 そうだろうかと、月彦は内心首を捻る。少なくとも月彦の目には――人付き合いの力という意味では――妙子よりは随分とマシに思える。
「あの……」
 と、不意に佐由が足を止めた為、月彦も釣られて足を止めた。
「家の前を通り過ぎてしまうよ」
「あぁ! ごめん!」
 言われて、気がつく。いつの間にか佐由の家の前まで来てしまっていて、しかも玄関を二十メートルばかりも行きすぎていた。
「つい話に夢中になっちゃって……」
「ふふ、そうだね。私も雰囲気につられて、つい要らないことまで喋ってしまったよ。夜道というのは、ある種特別な力があるのかもしれないね」
 明日の朝には恥ずかしさに悶えそうだと、佐由は照れるように笑う。
「あるあるだね。大丈夫、今日聞いた事はちゃんと秘密にしておくからさ」
「そうしてもらえるとありがたい」
「まかしといて。ああそうそう、釣りの件はある程度日程が絞れたら、改めて連絡するよ」
「うん……今日は送ってくれてありがとう。ちょっとしたデートみたいで楽しかったよ」
「俺も楽しかったよ。今度妙子に会った時にでも自慢しようかな、モデルみたいな美人と一緒に夜道デートしたって」
「…………そういう冗談はおすすめできないよ。白石君は真面目だから」
 佐由は少し間を開けて、照れ笑い混じりに言った。たしかにと月彦も納得する。
(……でも、妙子がもし妬いてくれるなら……それはそれでちょっと見て見たいかも…………)
 しかし実際にはあきれ顔に溜息を添えて「じゃあその美人のモデルにおっぱいも触らせてもらえば?」と冷たく突き放されるのが関の山だろう。
 現実は厳しいのだ。
「それもそうだね。じゃあ、今日の事は二人だけの秘密ってことで」
「そうしよう。白石君には絶対に内緒だよ?」
 ふざけて笑い合い、軽く手を振って別れる。やっぱり、佐由とは男友達同士のようなノリになるのだなと――見た目とのギャップに苦笑しながら――月彦は夜道を歩く。
(妬く――か)
 丁度、曲がり角にさしかかったところで、はたと。
 月彦は”天啓”を得た。
「倉場さん!」
 刹那、月彦は弾かれたように振り返った。驚いた事に、まだ佐由は門扉の前に立っていた。驚いたように目を丸くしている佐由のところに、月彦は大急ぎで戻った。
「ひょっとして、何か忘れ物かい?」
「ああ、いや……そうじゃなくて、もし倉場さんの都合が合えばでいいんだけど」
「うん?」
「もし良かったら、明日うちに遊びに来ない?」



 ”その日”真央はいつものように月彦とは顔を合わせない様に起き、月彦と顔を合わせないように朝食をとり、当然月彦と顔を合わせないように家を出た。当初のそれは怒っているということを暗に月彦に示す為であったが、もはやその理由も変わりつつあった。
 体が熱い――ぼうっと熱に浮かされたように全身が火照り、水分を摂っただけでは決して癒えない”渇き”はただでさえ耐えがたいのに、月彦と顔を合わせることでその苦痛が十倍にも百倍にもなるからだ。
 否。”それ”を苦痛と呼んでよいものか、真央にはもはや分からない。何故なら耐えがたい程の疼きと渇きに耐えれば耐える程に、”その後”への期待が高まるのを感じるからだ。
 甘美な妄想は止めどなく、それこそ四六時中と言っても差し支えない。学校に居る間も、家に居る間も。食事中も就寝中も常に、月彦に力ずくで犯される妄想にばかり支配され、興奮を抑えかねて自慰を始めてしまったが最後。どれほどイこうとも決して満足することは出来ず、精魂尽き果てるか、心に虚無が満ちるまで止めることすら出来ない。
 もちろん表面上は”そう”であることなど微塵も悟られぬ様、少なくとも真央自身は完璧に平生を装っているつもりだった。が、どんな我慢も永遠に続けることなどは出来ない。疼く体は無駄に五感を冴え渡らせ、ことさら”牡”の臭いには過敏に反応する。
 例えば、教室の隣の席の男子が休み時間の度に席を外し、どこかしらで――おそらくはトイレで――自慰を済ませているであろうことなどが、知りたくなくてもその微かな”残り香”で分かってしまう。級友達に「最近腹の調子が悪くて……」などとげっそりとした顔で誤魔化している姿を見る度に、真央は申し訳なく思ったものだ。何故ならそれは――幾度となく月彦にも指摘されたことだが――自分が”欲しい”時に漏れ出てしまうフェロモンのようなものの作用に違いなく、そのせいで日に日に痩せ細っていくクラスメイトに対して罪の意識を感じるのは”人”として当然のことではないだろうか。
 が、同時に。自分には”ケモノ”の部分もあるのだということを、真央は自覚し始めていた。それは妖狐である母、真狐から受け継いだであろう、ケモノとしての――否、それはもっと下劣な、ケダモノとしての部分。
 男を――”オス”を、魅了し堕落させて悦に入る。そんな”愉しみ方”も、自分になら可能であると、頭の片隅で気づいてしまった。たとえばそう、こうして隣に座っているだけで1時間毎に吐精せずにはいられないほどに発情させてしまうのなら、試しに話しかけたらどうなるだろう? もっと近づいて、直にフェロモンを嗅がせたら? 直接触れてみたら?――”その先”を想像しかけて、肝が冷えるような思いと共に慌てて妄想を打ち切ったのも、一度や二度ではない。
 真央は感じていた。”体”が、月彦以外の”牡”を探し始めていると。真央自身はもちろん月彦以外の相手に体を許すつもりなど無いが、現在進行形で飢え続けている体の方は”構ってもらえないのなら他を探す”と言わんばかりに、最近ことさらに周囲の男達に目が吸い寄せられるのだ。
 危険な兆候だと、真央は感じていた。だからこそ一刻も早く月彦に襲われたいと感じる一方、この火のついたロープを綱渡りしているような、ゾクゾクするほどスリリングな現状をもう少しだけ愉しみたいという、相反する思いに挟まれ、真央は真央なりに現状を愉しんではいた。
 が、それもこの日の夕方までだった。

 いつものように学校から帰った真央は、火照りと疼きを我慢し続けた結果でもある、汗をたっぷりと吸った下着を真っ先に脱ぎ捨て、シャワーを浴びていた。いつ月彦に押し倒されても良い様にと全身を丁寧に洗い清め、そして火照った肌を撫でる指を乳房や秘裂へと近づけたくなる誘惑を振り切り、脱衣所へと戻った。
「…………は?」
 バスタオルを取ろうとした真央の口から、不意にそんな声が漏れたのは、その大きな耳が常識的に考えてあり得ないものを拾ったからだ。
 最初は空耳かと思った。といよりも、”空耳に違いないと思いたかった”が正しい。何故なら真央は最初に耳にしたその声を、既に空耳でも無ければ聞き違いでもないと判断し、口の端を引きつらせていたからだ。
 真央はすぐさま体を拭き、部屋着に着替えて抜き足差し足、まずは玄関に向かった。そして見慣れた父親の靴のすぐ側に、自分のものではないローファーがきちんと揃えられているのを見た瞬間、まるで鈍器で頭を殴られでもしたように視界に火花が散った。
 まさかという思いと共に、今度は二階へと急ぐ。足音は無論押し殺し、階段の軋む音すらも立てないように苦慮して父親の部屋の前まで行く。
 途端、部屋の中から男女二人分の黄色い笑い声が沸き起こった。
「やるなぁ、倉場さんってホント物知りなんだね」
「無駄な雑学が多いだけさ。でも、雑学だけならちょっとしたものだと自負してるよ」
 えへん、と胸を反らせているのが見えるかのような、得意げな声。
(知らない女が父さまと部屋に居る!)
 怒りのあまり、全身の血が沸騰したかの様。ぎりぎりと奥歯を鳴らす真央の脳裏に沸いたのは当然の疑問だった。
(でも……誰?)
 ふうふうと肩を怒らせ扉に爪を立てその大きな耳をぴったりとくっつけて一言一句衣擦れの音一つ聞き逃すものかとばかりに張り付きながら、真央はそんな事を思う。先ほど聞こえたのは間違いなく女の声だが、しかし全く聞き覚えのない声だったのだ。
(年は父さまと同じくらい、人間)
 クラスメイトだろうか。しかし学校指定のローファーとはデザインが違った。私物かもしれないが、他校の女子の可能性もある。
(化粧品の匂い)
 くんくんと鼻を鳴らして、思わず噎せそうになって慌てて両手で口を覆った。同年代にしては匂いが強すぎる。真央の頭の中に、顔中に化粧品を塗りたくったゴテゴテの化粧オバケのような女の顔が――もちろん、若干どころではない悪意が混じっている――構成される。
 その化粧オバケが月彦に色目を使いながら、いちゃいちゃべたべたと肩をつっつきあったり一つのコップを使ってジュースを回しのみをしたり、お菓子を口でバトンパスしたりしている様を想像して――

 ドンッ!

 思わず廊下に拳を叩きつけてしまった。
「ん? 何の音だろ……何か落ちたのかな」
 ちょっと見てくる――そんな月彦の言葉に、真央は慌てて階下へと逃げ帰る。。
「ついでに何か飲み物でも取ってくるよ。倉場さんは何がいい?」
 階段を降りる際、そんな月彦の言葉が聞こえて、真央はさらに慌てた。大急ぎで脱衣所へと戻り、まだ濡れている髪をバスタオルで拭きながら――
「あれ、なんだ真央。帰ってたのか」
「うん。ただいま、父さま」
 さも今シャワーを浴びてきたばかりという体で、キッチンへと降りてきた月彦の脇をすり抜け、冷蔵庫から牛乳パックを取り出す。コップに牛乳を注ぎながらも、真央は横目でつぶさに観察していた。月彦に動揺はあるか。後ろ暗さはあるか――しかし、真央の見たところ、そのどちらも月彦には無い様だった。
「ああ、真央。ついでだからちょっと来客用のお菓子探すの手伝ってくれないか? ほら、前にお中元で貰ったあの高そうなクッキー」
「…………どうして?」
 つい、刺々しい声になってしまった。
「いや、さ。今、友達が来てるんだ」
 だから?――そんな言葉が出そうになって、真央は口を噤む。ただの友達であれば、そんな大事な客用のお菓子を出さなくていいではないか。
 つまり、”大事な友達”であると月彦は暗に示しているのだ。反射的に奥歯を噛みしめそうになるも、そこは常日頃から鍛えている”平生を装う”スキルで堪えた。
「ふーん、別にいいけど」
 さも興味がなさそうに呟き、戸棚を漁る。月彦はその間やかんに水を入れて沸かし始め、さらに紅茶のパックを用意していた。鼻歌交じりなのが、ことさら真央の心を苛立たせる。
「…………友達って、誰?」
 堪忍袋の緒を緩めた際に漏れ出た空気のような、抑えに抑えはしたがそれでも混じってしまった感情によって震えたような声で、真央は訊いた。
「倉場さん。幼なじみの妙子の友達なんだけど、真央は面識無かったよな」
 倉場さん――どうやらそれが”敵”の名前らしい。なんでそんな”友達の友達”を部屋に上げて、黄色い声を上げながらゲームをしているのかも問いただしたかったが、真央はぐっと言葉を飲み込んだ。
 同時に、気づいた。”他の女”を連れ込んだにしては、父親の態度はあまりに堂々としすぎていることに。
(……そうか。父さま……私に折れさせようとしてるんだ)
 怒りに我を忘れかけていた真央はすんでのところで月彦の思惑に気づき、冷静さを取り戻した。
 急に見知らぬ女子を家に呼んだのも、その友達がさも”友達以上”かのように振る舞っているのも、全てはいつまでも拗ねている娘に「ごめんなさい父さま、真央には父さましか居ないの。これからは良い子になるから許して」と言わせる為なのだ。
 ”そう”だと分かれば、”巣”に侵入した”外敵”についても、そこまで腹を立てるほどの事でも無いと思える。
(……父さま、勘違いしないで。悪いのは父さまの方なんだからね?)
 ”そこ”だけは譲れないと真央は思っていた。散々焦らして、期待させておいて”アレ”かと。今思い出しても腹が立つ。もちろん”アレ”がただのノープランのデートであれば、父親のおっちょこちょいさもこれはこれで可愛いなと、溜息交じりに許す気も起きたのだが。
(父さま……私のこと全然考えてなかったよね?)
 月彦のあの行動は姉の事で頭がいっぱいになった結果の事であると真央は察していた。大方突発的に姉との思い出の場所を巡りたくなり、そのことばかりに注力するあまり娘との約束のことをすっかり忘れてしまっていたのだろうと。
 それはそれで構わないと真央は思う。月彦がどれだけ姉霧亜のことを大事に思っているかは、真央も十分分かっている。とはいえ無条件に許すというわけにもいかない。真央としても、今後同じ事を繰り返されては堪らないからだ。
(私のコトも大事なんだって、ちゃんとわからせて?)
 だからこそ月彦に対してつれない態度もとったし、時にはわざと怒らせるような言動もしてみせた。全ては「悪い子だな、真央は。…………お仕置きだ」という流れに持って行きやすくするためだ。
 それが、真央の考える”落としどころ”というものだった。
「はい、お菓子あったよ」
「おお、サンキュな。……あー、真央ももしよかったら一緒に遊ぶか?」
「いい。その人香水くさくて、ここまで匂ってくるもん。鼻がおかしくなっちゃう」
「そうか……まぁ確かに、ちょっと……な。でも鼻が慣れれば気にならなくなるもんだぞ」
 月彦は菓子盆を受け取り、淹れ立ての紅茶と共に二階へと戻っていく。
「……父さまのバカ」
 一人残された台所で真央は呟く。月彦の”作戦”になど乗るものかと思うも、再度二階から笑い声が聞こえて来るや居ても立ってもいられず、再び部屋の扉に張り付くのだった。

 


 父親の思惑は分かりきっている。分かりきってはいるが、だから無視出来るかと言えばそんなことは無かった。
 再び扉に張り付くようにして中の様子を窺っていた真央が味わったのは、それこそ生き地獄と言っても差し支えないものだった。
 あからさまに地の声を変化させた、背中が痒くなるような媚びきった女の声が聞こえる度に、真央は部屋の中に飛び込んで首を絞めたくなる衝動と戦わねばならなかった。
(私の、父さまなのに)
 自分が知らない他の女と父親が部屋に二人きり、楽しげに遊んでいるというだけでこれほどまでに神経に障るというのが、真央自身驚いていた。そう、”これ”に比べたら、母真狐や由梨子と二人きりでイチャイチャしている様子などは笑顔で――若干ひきつるかもしれないが――許せる程に、狂おしいと感じる。
(…………?)
 そこではたと、真央は小首を傾げる。何のけなしに”まだ耐えられる例”として二人の名を上げたが、何故”由梨子”という名を母の隣に並べたのか、自分でも分からなかったからだ。
(ううん、違う……”由梨ちゃん”は――)
 真央が心に生まれた疑念の種を探ろうとした矢先。室内からどっと沸いた笑い声が、さながら砂浜に書かれちゃ文字を波が浚うようにかき消した。真央の意識はたちまち”室内”へと向き直る。
「……ッ……!」
 思わず廊下に拳を叩きつけそうになって、辛くも止める。ふうふうと息を荒げそうになるのを口元を抑えて押し殺すも、奥歯を噛みしめることまでは止められない。
(いっそ――……)
 父親の”作戦”ごとムチャクチャにしてやろうかとすら思う。この女が、ただの当てつけの為だけに呼ばれたのは明白だ。ならば、その相手と図らずも一線を越えてしまうのはきっと想定外に違いない。そう、例えば副作用がどうなるかが読めなすぎて使用を躊躇っていた”あのお香”を扉の隙間から流し込んでやれば、月彦の方にその気が無くとも女の方はたちまち正気を失って――
 ハッとしたように、真央は大きく首を振る。自分は、一体何を考えていたのか。まるで母のように口元を歪めて、一体何を考えていたのか――そもそも、部屋で一緒に遊んでいるだけでここまで心をかき乱されているというのに、”それ以上”のことを促して一体何の得があるというのか。
(……それに――)
 真央は思う。この倉場という女の媚びきった声。男に良く思われたくて精一杯演技していますという声を聴く限り、きっと月彦に対して好意以上のものを抱いているに違いない。そんな女に一線を越えるきっかけを与えたりしたら、それこそ彼女面をして入り浸り始めるのではないか。
(…………どんな人なんだろう)
 ふと、倉場という女について興味が沸く。恐らく月彦と同年代くらいであろうことは想像できるが、身長や顔、何より胸の大きさが気になって仕方が無かった。”あの父親”が連れ込んだからにはきっとそれなりのものの持ち主であるに違いないと思う反面、間違っても襲ったりしないようにあえて全く興味が抱けないサイズを選んだという可能性もある。
 そう、胸のサイズだけでも分かれば、月彦の方に多少なりとも”その気”があるのかどうかが推し量れるに違いないのだ。
「………………。」
 真央の中に、少しだけ中を覗いてみようかという気持ちが生まれる。透視の術は使ったことがないが、恐らく遠眼の術を応用して近場にピントを合わせれば、きっと中の様子を”視る”ことは可能だろう。
(でも――)
 それは月彦に禁じられていることであるし、何よりも声を聴くだけでここまで神経を逆なでされているのだ。直に”視”たりしたら、それこそ怒りを抑えられなくなるかもしれない。
 真央は悩んで、結局術は使わずに”耳”だけで計ることに決めた。目を閉じ、部屋の中から聞こえて来る声だけに集中する。発せられた声は音の波となり、当然ながら部屋の中にあるものに反射する。さながら、野生の狐が雪の下を這うネズミを音だけで場所を特定して狩るように、真央もまた音だけで、室内の”輪郭”を探る。
 最初に、”人の輪郭”が”視”えてくる。ただ漠然と人の形であったそれが、徐々に徐々に修正され一本の線が浮かび上がる。当然大きい方が月彦のそれであるから、真央は”小さい方”へとさらに意識を集中する。
 ”小さい方”とは言ったが、女性にしては身長は高めであると分かる。だが、体重の方はむしろ平均かそれ以下かもしれない。服の下の”肌の線”までの判別は困難ではあったが、それでも真央は集中する。
「……ふっ」
 そして”肝心の胸元”の輪郭を露わにしようとした矢先、思わず鼻から空気が抜けるのを、真央は感じた。同時に安堵もした。次の瞬間には哀れみすら感じていた。そんな薄い胸元では到底月彦の興味の対象とはなり得ないことは明らかであり、涙ぐましくも厚手のパットを三枚も重ねて胸元に仕込んでいることまで解ってしまったからだ。
 どうやら”倉場さん”は是が非でも月彦の気を引きたくて堪らないらしいということが、これで明白となった。が、あの父親のことだ。たとえ見た目上は豊かに見えていても、それがただの偽乳に過ぎないことなど一瞥して解っているだろう。
 この女は敵ではない――心の警戒レベルを引き下げると共に、真央は”集中”を解いた。胸のサイズが明らかになった以上、後は顔がどれだけ良かろうが胸以外の肉付きがどれだけ月彦の好みであろうが関係はない。ましてや性格や人間性なども言うに及ばずだ。
 真央自身不思議だった。あれほど心をかき乱され、首を絞めてやりたくなるほどに苛立ったというのに、胸のサイズを確認しただけでこれほどまでに心穏やかになるのだから。それはきっと、どれだけ敵意をむき出しにされても、相手が赤子同然では微笑ましいという気持ちが沸きこそすれ張り合おうという気にはならないのと同じことなのだろう。

 もう扉の前に座り込み、張り付いている理由などないとばかりに、真央が腰を上げようとした、その時だった。
「……そういえば倉場さん。昨日話した”釣り”の件だけど」
 月彦の言葉に、真央は耳を震わせて全身の動きを止めた。
「和樹からはOKを貰ったよ。千夏も参加行きたいとは言ってたけど、バイトが今人が抜けたばかりで土日休むのは難しいらしい」
 一体全体何の話が始まったのか。真央は再び腰を落ち着け、耳を室内へと向ける。
「そうか……静間君のOKがもらえたのは嬉しいけど、そのちな――天川さん、だったかな」
「”千夏”でいいよ。あいつ名字で呼ばれるの好きじゃないから」
「解った。千夏君が来れないというのは寂しいね」
「一応土日で休める日が解ったらすぐ教えるとは言ってたけど、あんまり待たせるのも悪いから、自分は気にせず行ってくれてもいいってさ」
「バイトとはいえ土日がずっと休めないというのは大変だね。私としては千夏君とは是非とも一度会ってみたいから、待つのは吝かではないところだけど……」
「土日休めないとはいっても、一日フルで空けることが出来ないってだけだから、いざとなったら午前中だけバイトして、午後から合流ってことも出来るけだろうけど――」
「それはさすがに申し訳ないし、千夏君も大変だろう」
 苦笑するような声。真央は状況の把握に苦慮していたが、漸くにして話が飲み込めてきた。
 千夏というのは、月彦がたまに口にする幼なじみの一人の名だ。同時に、あの霧亜をして「千夏ちゃんは良い子」と一度ならず口にさせる得体の知れない女の名だ。静間和樹という名も幼なじみの男子ということは知っている。そしてどうやらそこに月彦を含めての四人で釣りに出かけるという話が出ているらしい。
(……私の父さまなのに)
 自分の知らないところで、自分を含めない”おでかけ”の話が持ち上がっているというのは、正直不愉快ではあった。不愉快ではあったが、それが”友達との予定”であれば、愉快ではないもののそれは我慢しなければならないことだと解る。
 が、”友達との予定”にかこつけた、一人の女の”将を射んと欲すればまず馬を射よ”作戦に過ぎないのであれば、聞き捨てることなど出来ない。
「まあ確かに……だから、倉場さんさえ良ければ、この話は千夏の休みが取れてからってことにしようかと思うけど、どうかな?」
「うん。私はそれで構わないよ。千夏君には、私はいつまででも待つから、無理して休みを取ったりしなくても良いと伝えてくれるかい?」
 この女、どこまで媚びる気だと、真央は思わず爪を噛みそうになる。本当はその”千夏君”とやらと会うことなどどうでも良いくせに。ただ月彦の前で”良い女”ぶりたいが為に、寛容さを示しているだけのくせに。
「ありがとう、倉場さん。千夏もきっと喜ぶよ。……っと、もうこんな時間か。そろそろ送って行くよ」
「えっ……こんな時間って、まだ六時前だけど……」
「ごめん、今夜は俺が夕飯の当番だからさ。倉場さんを送って行く時間から逆さんすると、そろそろヤバいんだ」
 月彦の言葉に、真央は思わずニヤけそうになる。紺崎家にそのようなルールなど無いことは、百も承知だからだ。
「そ、そうなのかい? ごめん……そうとは知らなくて……」
 それなら、歩きではなく原付で来ればよかったと、掠れるような呟きが聞こえた。
「ごめん、俺も先に言っておけばよかったね」
 退室を促すような月彦の言葉だが、二人がなかなか部屋から出てこないのは倉場という女の方が立つことを渋っているのだろうと真央は推測した。どこまでも図々しい女だと思う反面、その気持ちは自分にも解ると――あまり好ましくはないが――共感を禁じ得ない。
「倉場さん?」
「あぁ……うん、そうだね。帰らないとだね」
 衣擦れの音、真央はそそくさと隣の霧亜の部屋に退避する。やがて二人分の足音が階下へと消えていき、玄関のドアが閉まる音が聞こえた。
 真央は即座に月彦の部屋へと入り、全ての窓を全開にする。室内には予想通り化粧品やら香水やらの残り香が充満していて不快だったが、それ以上に知らない女がここに居たという痕跡が、真央には不快で堪らなかった。
 倉場という女子が使ったであろうコップなど窓から投げ捨ててやりたかったし、恐らく座っていたであろうクッションなどは焼却処分してやりたかった。まさかベッドには座ったりしていないだろうなと、真央は鼻を擦りつけるようにして”匂い”を確認し、さすがにそこまで厚かましくはなかったかと安堵する。
「………………。」
 そこまでして、はたと真央は気づく。そういえば、月彦の部屋に入ることなど何日ぶりだろうか。喧嘩別れのような形でこの部屋に近づかなくなってからというもの、私物は全て霧亜の部屋に移して極力近づかないようにしていた。それだけに今こうして月彦の部屋に居る自分が不思議に思えてならず、同時に懐かしさすら感じる。
「………………。」
 このベッドで、幾度となく月彦に抱かれた。目を瞑るだけで月彦の息使い、汗の臭いが蘇るかの様。このベッドで月彦に処女を奪われたあの日から夜な夜な抱かれ続け、もはや体中で月彦が触れたことのない場所などは皆無。極太の肉槍が脈打ち、こってり特濃の白濁汁が注ぎ込まれるあの感覚を覚え込まされたら、他の何をもってしても満足することなど出来ない。それは真央自身が一番良く理解している。
 開け放たれた窓から冬の澄んだ空気が流れ込み、室内が浄化されていく。だが、それだけではまだ足りないと感じる。”他の女”に汚されたこの場所を、自分の匂いで染め直さなくてはと。
 自分のテリトリーに他の女の痕跡があることが狂おしい程に耐えがたく感じるのは、きっとケモノとしての本能なのだろう。もしや、自分がそう感じることまで見越して、月彦はあの女を連れ込んだのだろうか。
「………………っ……」
 父親の目論見通りになるのは癪だとは思うも、その何倍も巣を汚された不快感のほうが強い。さらに言えば、真央としてもそろそろ仲直りをしてイチャイチャしたいという個人的欲求も後押しするとなれば、今回のことは良いきっかけだと言えなくもない。
 しかしそれでも。完全に自分の側から歩み寄るというのは癪であると感じる。だから真央は、最後の意地を張ることにした。


 ひょっとして、自分はとんでもない間違いを犯したのではないだろうか――佐由を送った帰り、月彦は幾度となくそんな事を考えては、自宅に帰り着いた後のことを考えて恐怖に震えた。
(……やり過ぎだったかもしれない)
 真央をちょっぴりだけ嫉妬させて、それをスパイス代わりに新鮮な仲直りエッチへと持ち込む予定――だった。しかしよくよく考えてみれば、自室に堂々と女子を招くというのは”ちょっぴり嫉妬”では済まないのではないかと思えてきたのだ。
 むしろ「あぁ、父さまがそう来るなら」とばかりに、真央の方もこれ幸いとばかりに男漁りを始めてしまうのではないだろうか。あの良い子の真央がそんな真似をするわけがないと思う反面、真央にも”あの女”の血が流れているのならあり得るとも思える。
 あとは、当て馬にする形になってしまった佐由に対しても申し訳なく思っていた。特に今日は真央に対してよりやきもきさせる為に、あえてブレドラではなくパーティーゲームに興じた手前、ひょっとして佐由は一刻も早くブレドラを進めたかったのではないかという懸念を捨てきれなかった。
(一応楽しんでくれてる……ようには見えたけど……)
 もしブレドラを進めたいのに、我慢をしてパーティーゲームに付き合ってくれたのだとすれば申し訳ないことこの上ない。次に会った時にでも埋め合わせをしなければと考えているうちに、月彦の足は自宅へと帰り着いてしまった。
(さて、鬼が出るか蛇が出るか……)
 出来れば鬼も蛇も出ないで欲しいと祈りながら玄関のドアを開ける。
「ただいま……」
 恐る恐る中をのぞき込むが、人影は無い。どうやら刃物を手に待ち伏せをしていた真央に有無を言わさず刺されるということはなさそうだと安堵の溜息をつき、靴を脱ぐ。
「ただいま、母さん。ちゃんと送ってきたよ」
「おかえりなさい。すぐ夕飯だから手を洗ってらっしゃい」
 キッチンに顔を出すと、丁度支度が終わったらしい葛葉がエプロンを外しているところだった。その隣では真央が食卓に皿を並べるのを手伝っていたが、その様子を見るに別段普段と変わりはなさそうだった。
(……意外に普通そうだな)
 安堵と、ちょっぴりの落胆。嫉妬させすぎも怖いが、あまりに無反応というのもそれはそれでスパイスの意味が無いことになる。ひょっとして、真央は自分が考えている以上に怒っているのだろうかと、月彦は内心ビクつきながら手を洗い、キッチンへと戻った。

 やはりというべきか。夕飯自体はいつも通りつつがなく終了した。真央が葛葉の隣に座るのも昨日までと同じ。会話も当たり障りの無いものばかりで、たとえ今日佐由を部屋に呼んでいてもいなくても、恐らく何も変化は無かったのではないかと思えるほどに。
(ハズした……かな?)
 夕飯の後、後片付けを手伝っているといつの間にか真央の姿が消えていた。多分先に風呂に入ったのだろうなと予想はついたが、もちろん乱入するような勇気はない。きっちり真央が上がるまで待ってから浴室へと行き、
「………………。」
 真っ先に浴室の換気扇を回して、五分ほど待つ。真央は平気そうな顔をしているが、その体からは男を狂わせるフェロモンがだだ漏れであり、特に密室に籠もったそれを吸い続けることは危険極まりないからだ。
(いや、いっそムラムラ全開で押し倒してしまえば……)
 元鞘にはならないだろうか。幾度となく思い悩み、しかし実行には移せなかった解決策を今更実行に移す気にはなれず、月彦はかぶりを振って浴室へと入り、湯を浴びる。体を洗い、泡を落とし、そして十五分ほどじっくり湯船で考えた末、月彦は一つの結論を出した。
(……よし。真央に土下座して謝ろう)
 もはや関係を修復するにはそれしかない――というより、そうするべきだというのが、月彦の出した結論だった。元を正せば悪いのは明らかに自分の方であるし、そこを誤魔化すようにエッチで無理矢理関係修復というのもさすがに人としてどうかと思うし、何より真央を嫉妬させてムキーッ!となったところを襲って元鞘大作戦というのも、これまた人として最低の関係修復法であると気がついたからだ。
 そうと決まれば、長湯などしている場合ではない。善は急げとばかりに月彦は風呂から上がり、真央の姿を探した。
 ――が、見つからない。居間のソファにも、トイレにも、キッチンにも、葛葉の部屋にも、そして霧亜の部屋にも真央の姿は無かった。
 まさか、そんな筈はないはずだが――そんな思いと共に、月彦は唯一探していない自室のドアを開け、そっと中をのぞき込んだ。


 


 
 


 真央は、居た。居たが、それ故に月彦は混乱した。
「んん……?」
 首を捻る。一体全体これはどういうことなのだろうかと。月彦は状況の把握に苦慮し、しばし部屋の入り口に立ち尽くした。
 真央は部屋着のタンクトップにホットパンツ姿のまま、ベッドに横になっていた。この寒い時期に部屋着がそれということ自体は、もはや驚くには値しない。が、ベッドの上で掛け布団も被らずその上に横になっているというのはさすがに風邪を引くのではないか。
 そもそも、何故この部屋なのか。しばらくは義母さまの部屋で寝る発言からというもの、いつも葛葉と一緒に寝ていたではないか。
 極めつけは、勉強机の上に残された意味ありげな小瓶だった。瓶の側面には小さな紙が貼られており、そこには母譲りの癖の強い字体で”ぜったい朝まで目が覚めないおくすり”と書かれている。瓶の蓋のコルクを抜いて中を確かめてみると、見事に空になっていることから真央がこれを服用してから横になったのは明白だった。
(そういや……何日か前に最近眠れないからって、薬を飲んでたな……)
 ということはこれは睡眠薬のようなものだろうか。となれば、真央がそれを服用して眠ったこと自体は何の問題もない。問題があるとすれば、”この部屋”で眠っていることだ。
「……うーん?」
 冷戦状態であることをうっかり忘れて、ついうっかりこの部屋で薬を飲み、うっかりそのまま眠ってしまった――ということも無くは無い。が、順当に考えれば、真央はあえて父親の部屋で寝ることを選んだ、ということにはならないか。それも、絶対に朝までは目が覚めないという薬を服用した上で、だ。
「………………。」
 なるほど、と。状況に、理解が漸く追いつき始める。なるほど、なるほどと月彦は頷きながらドアを後ろ手で閉め、ベッドですやすやと眠る愛娘の顔をのぞき込む。
 こうしてみると、真央は母親似であるとはっきりと解る。天使の様なその寝顔はしかし、僅かに熱を帯び、首回りなどは微かに汗すら滲んでいる。余程体が火照っているのだろう、暖房をつけていない室内であるというのに、丸まるどころか手足を投げ出すようにして寝ているのがその証拠だ。
 しっとりと濡れた唇は苦しげな、しかし色っぽい寝息を立てていて、見ようによっては高熱に魘されているかの様にも見える。だが、もちろん月彦には真央の体調不良の原因が病気などではないことなど百も承知だ。
 なるほどと、月彦は大きく頷く。つまるところ、”これ”が真央の考えた折衷案なのだなと。真央は真央で、いつまでも手を出してこない父親に焦れに焦れていたということなのだろう。
 そして、そんな真央の背を押し踏み切らせたのが、佐由の来訪――といったところか。
(……となると、問題は――)
 真央のこの折衷案に対してどうするか。まさか真央も、朝まで添い寝をされて「おはよう、真央。今更だけど俺が悪かった、許してくれるか?」などと謝ってもらうことを期待して、こんなことをしたわけではないだろう。
(そうだな……ここはやはり、父親としてがつんと叱ってやらないと)
 こんな露出の多い服で。”男の部屋”で睡眠薬など飲んで寝たら、一体どういう目に遭わされるのかをしっかり教えてやらねばと。間違っても真央がよそでこんな真似をしたりしないように、きっちり教育をしてやらねばと。
 それが男親としての務めというものではないだろうか。
「……まったく。俺はきちんと謝って、真央に許して貰うつもりだったんだぞ?」
 やはり、”いつもの方法”になってしまうのか――そのことに苦笑し、そして頭の正常な部分では間違っていると解っていても、興じずにはいられない。
 つまるところそれが紺崎月彦という男の性なのだった。



 躾けてやらねば、と思っていざ据え膳に手を出そうとした矢先、月彦は思わぬ方向からの横やりに体の動きを止めた。
(……待てよ。いくら躾ったって、薬飲んで寝てる娘に手を出すって、人としての一線を越えてないか……?)
 はたと冷静になる。そもそも娘に手を出す時点で一般的な一線などはキロ単位で越えてしまっているのだが、それでも越えてはいけない一線らしきものが月彦には見えているらしかった。
 手を止めたまま、しばし考える。
(いやいや、これはあくまで――)
 そういうプレイだから、と。自分を説得する。具合が悪くて薬を飲んで寝ている場合や、純粋に睡眠不足で眠れず薬を服用しているケースとは全く違うのだと。
 その証拠に、と。月彦は放り出されたままの真央の二の腕を掴んでみる。なんともみずみずしい若い肌は母譲りの白さが目立たないほどにほんのり赤く火照り、手のひらに熱すら感じる程だ。そのくせ、まるで男の肌そのものを欲するように吸い付いてくるのは、”それだけ飢えている”ことの証左だ。
 何よりも。
(……飢えているのは、真央だけじゃない)
 こうして無防備な姿を見下ろしているだけで、腹立たしさにも似たものがこみ上げてくる。無邪気な寝顔にはあまりに不釣り合いな二つの塊。母譲りのこれさえ無ければ、或いは真央との関係も健全なままであったかもしれない。それほどに男を狂わせる凶悪な代物を無防備に、薄布一枚被せただけの状態で晒しているこの状況に、腹立たしさを感じるのだ。
 そう、真央――と、胸の大きい世の女性全て――は巨乳というものが男に与える影響について、もっと考えるべきなのだ。もちろん考えた結果、男の目に止まらないように隠すといった暴挙だけは止めてほしいというのが本音ではあるが、無駄な流血を避けるためにもやはり隠すべき時は隠すべきであると月彦は思う。
 でなければ、このように――月彦は抑えかねるような動きで、むんずとタンクトップの上から真央の巨乳を鷲づかみにする。
「おおっ……」
 思わず声が出る。慣れ親しんだ弾力に、まるで手のひら全体が歓喜の声を上げているかの様。否、手のひらだけではない、腕の筋肉全体が喜びに打ち震えているのが解る。
「んっ……ふっ……」
 ぐに、ぐにと揉み捏ねると、真央が僅かに身じろぎし、艶やかな声を出す。起こしてしまったかと、月彦は反射的に手を離した――が、真央は瞼を閉じたまま再び寝息を立て始めた。
 あぁ、そういえば睡眠薬らしきものを服用していたのだと、月彦は思い出した。しかも、瓶に書かれていた文言が事実であれば、何をしようとも朝まで起きることはないほど強力なものを、だ。
(……何をされても絶対に朝まで目を覚まさない、か)
 なまじそのような煽り文句を聞かされては、本当にそうなのかを試したくなるのが紺崎月彦という男だった。とにもかくにも、月彦の中の心理的リミッターは、この瞬間外れたと言ってよかった。
 タンクトップの裾を持ち上げ、腹部を露出させ、そのまま胸元の上まで引き上げる。服のサイズ自体は適正であるのに、胸元だけがぱつんぱつんになってしまっているのはもはや見慣れた光景だ。
(よくもまぁ……)
 育ったものだと、思わざるを得ない。始めて目にした時のそれは見た目相応――よりは若干大きめだった気がするが――であったそれが、いつのまにやら規格外とも言うべきサイズにまで成長してしまった。もちろん、真狐のそれには敵うべくもないが、現段階で敵ってしまっていたらそれはむしろ育ちすぎであろう。
「んっ……ふっ……! っ……!」
 露出した乳房を両手で掴み、捏ねる。真央はさらに身じろぎし、甘い息を吐く――が、以前目は閉じたままだ。そういえば、いつぞや雪乃の寝込みを襲った時もこんな感じだったと思い出しながら、月彦は丁寧かつ熟練の手つきでこね続ける。
「んぁっ……ぁっ……とう、さまぁ……!」
 唐突に呼ばれて、月彦はどきりと心臓を跳ねさせながら動きを止め、真央の顔を見た。瞼は閉じられたままだが、その顔は若干紅潮しているように見える。ひょっとしたら眠ったまま、胸を触られる夢でも見ているのかもしれない。
(まあ、それならそれで)
 良い夢を見させてやろうと、月彦は手の動きを再開させる。むっぎゅむっぎゅと強くこね回しては、時折撫でるように優しく、堅くそそり立った先端を手のひらで転がし、指でつまんで擦る。動きを変える都度、真央の反応が変わるのを楽しみながら、月彦は数日ぶりの”真央乳”の感触に没頭する。
「はっ……!」
 と、次に月彦が捏ねる手を止めたのは、かれこれ二時間が経過したころだった。久方ぶりの愛娘の双乳の感触に両腕の筋肉は打ち震え表皮細胞は活性化し、もっともっとと夢中になってこね続けた結果だった。
(いかんいかん……こんなペースじゃ普通に朝が来ちまうぞ)
 改めて、自分が真央の体にどれほど飢えていたのかを痛感する。たまたま我に返ることが出来たから良かったものの、そうでなければ朝日が昇るまで揉み続けていたかもしれないからだ。
(それに、真央も……)
 じっくりたっぷり二時間ものあいだ丁寧に乳を捏ねられた愛娘はすっかり肌を上気させ、肩を上下させながら甘い吐息を漏らしている。その唇はしっとりと濡れ、切なげな喘ぎを伴うその息使いは明らかに「胸だけじゃ足りない」と言いたげだった。
 その証拠に、とばかりに――おそらくは無意識のうちに――男を迎えようとするかのように広げられた足の間からは、ホットパンツの生地越しに甘酸っぱいフェロモンが匂い立ち、鼻腔の粘膜を刺激して止まない。
 ごくりと、月彦は生唾を飲みながら乳を捏ねる手を止め、その指先を南下させる。きめの細かい白い肌の下に、ぐつぐつに煮えたぎったマグマのような肉欲――欲求不満とも言うべき――を感じながらホットパンツの生地の上から、秘裂を優しく上下に擦り上げる。
「ふゃっ……ぁぁぁぁぁっ!」
 軽く擦っただけであるというのに、真央は過敏すぎるほどに反応し、背をのけぞらせながら声を上げる。その声量がおよそ”寝言”の範疇を超えていた為、さすがに起こしたかと月彦は覚悟したが、しかし真央の瞼は依然閉じられたままだった。
(……もしかして、本当は寝てないとか?)
 まさか、最初から狸寝入りだったのでは――そんな疑念が沸く。が、すぐにどうでも良いことであると気づく。真央があくまで寝たふりをするつもりなら、いつまで寝たふりを続けられるかを確かめてやれば良いだけだ。
(まぁ、”フリ”ならどのみちそうそう長くは続けられないだろうけど、な)
 指が触れる前から、既に分厚いジーンズ生地のホットパンツはたっぷりと湿り気を含み、絞れそうな程だ。それほどまでに飢えた状態で、すまし顔で――実際には物欲しげに喘ぐような息使いになってしまっているが――居られるほど、自分の娘が我慢強くはないことを、月彦はよく解っている。
 つまり、驚くべきことであるが真央が飲んだ睡眠薬の効果は本物であり、かつこれほどまでに反応して尚、真央は眠り続けているということになる。
(じっくりと責めて、焦らしに焦らした結果どうなるのかを確かめるのも面白い、が――)
 それこそ真央の意識があれば、途中で命乞いにも似た懇願によって挿入をせがまれて断り切れず、最後には殆ど真央が馬乗りになる形で無理矢理挿入させられた過去のケースでは見れなかった”先”が見れるかもしれない。
 ――が、月彦は自らその案を却下した。
「何より、”俺”がもう我慢できん!」
 ホットパンツの留め具を外すや、開いていた足をまっすぐ伸ばし、ジュクジュクに湿った下着もろとも脱がしてしまう。たちまち、分厚い生地越しにしか漏れ出ることを許されなかった特濃フェロモンが鼻腔を突き、月彦の興奮はたちまち最高潮に達した。
「ふーっ……ふーっ…………ふーっ…………」
 伸ばした足を再度開かせ、依然意識のない真央に被さるようにして挿入――しようとするも、巧くいかない。何故巧くいかないのかを考えることすらできずに、ぐいぐいと無理矢理挿入をしようとして――。
「ぁっ……やっ……あぁぁぁぁっ!!」
 濡れそぼった秘裂をぐりぐりと刺激された真央が大きく喘ぎ、身じろぎをする。それを押さえつけて、強引に挿入しようとするも、やはり巧くいかない。
 何故だろうと、ケダモノ化した頭で漸く月彦は考えた。それはなんとも馬鹿馬鹿しい、単純明快極まりない答え。――自分の脱衣を済ませていないからだった。
 ええい、鬱陶しいとばかりに、半ば破り捨てるように衣類を投げ捨てるや、バチンと景気の良い音を立てて肉やりの先端が腹を打った。かつて無いほどの凄まじい漲り方に、眼下に見下ろす真央の肢体が最高の調理をされた極上の肉料理かなにかに見えたほどだ。
 月彦にまだ考える頭があれば、もっと時間をかけてほぐしてやらなければ裂けてしまうかもしれないと危惧するところだったが、もちろんそんなことを気に掛ける余裕は無かった。
 依然意識が無く、ベッドの上で四肢を投げ出したまま、ただただふぅふぅと荒い呼吸を繰り返す真央。意識は無い筈だが、その様はどこか期待に満ちあふれているように見える。
 月彦は再度真央に被さり、パンパンに張り詰めた海綿体を愛娘の秘裂へと鎮めていく。
「んゃっ……!」
 刹那、真央の体が電流でも流されたように跳ね、まるで月彦の体をどかそうとするかのようにその肩を掴んだ。意識が無くとも、秘裂へのアクセスを試みる肉槍の質量を感じ取った体の防衛本能のようなものかもしれない。
 無論月彦はそんなか弱い抵抗など気にもとめず、真央の両手首を掴んでベッドへと押しつけるようにして――
「あっ! あっ! あっ!」
 ぐいぐいと剛直を押し込んでいく。
「ああッッ! あッッ! あぁーッ!!!」
 本当に寝ているのかと疑いたくなるほどに、真央は大声を上げ、腰を跳ねさせ、暴れる。その都度、ねっとりとした粘膜がまるで吸盤でもついているかのように強烈に絡みついてきて――。
「うっ……ぁっ、ヤベッ……!」
 予想だにしなかった強烈な摩擦に、たちまち月彦は絶頂を迎える。最後の意地とばかりに一気に腰を沈め、
「あぁんっ!」
 ごちゅんと最奥を小突いた刹那、溜まりに溜まった特濃汁が堰を切ったような勢いで打ち出されるのを感じた。
「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッ!!!!!」
 耳元で真央がすさまじい声を上げていたようだが、月彦の耳には聞こえなかった。どぷどぷと打ち出される白濁液の奔流の反動とすさまじい快楽にそれどころではなかったからだ。
 気づいた時には真央を押さえつけていたはずの両手はその背へと周り、両腕でしっかりと真央の体を抱きしめていた。同じように真央の手も月彦の背へと回され、右手は爪を立てるようにして肩に食い込んでいた。
(くぁぁっ……し、搾り取られる………………!)
 終わらない射精に、下半身が甘い痺れに満ちていく。ぎちぎちと絡みついてくる粘膜はもっとよこせ、もっとよこせと言わんばかりに射精を促し、愛娘の”飢え”のすさまじさを物語っているかの様だった。
「はぁっ……はぁっ……真央っ、真央っ、真央っ……!」
 気づくと、月彦は真央の体を抱きしめたままその名を呼び、ぐりぐりと最奥を揉むように先端を擦りつけていた。擦りつけながら射精を続け、終わっても尚その動きを止めることが出来ない。
「はぁっ……はぁっ……真央っ……!」
 ぐりぐりと、特濃の白濁汁を絡みついてくる粘膜に塗り込むように月彦は腰をローリングさせ、ついにはそのまま二度目の射精まで行った。
「あッ……ぁッ……あうっ……あうッ……ッっっ!!!!!」
 二度目の射精の奔流を受けて、真央もまた声を上げる。両手は月彦の体を抱きしめたまま、剛直に絡みつく粘膜は無意識にしてはあまりに手練手管であり、まるで陰茎をどう刺激すれば射精を促せるかを知り尽くしているかの様。
 そんな肉襞の動きすらも洒落臭いとばかりに、月彦は強引に腰を動かし。何度も、何度も。ぐりぐりと極太の剛直で特濃の白濁汁を塗りつけて言外に宣言する。
 そう、「お前は俺のモノだ」と。
「はぁっ……はぁっ…………はぁっ…………はぁっ…………はぁっ…………」
 二度目の射精とマーキングを終えて漸く。物事を考える余地というものが生まれた月彦はぜえぜえと肩で息をしながら、ゆっくりと体を起こした。その頃には真央のほうはすっかり脱力しきっていて――マーキングに夢中になっていた月彦でも、真央が軽く二桁は達していることは理解できた――眠っていて意識が無いというよりは、さながら失神して意識が無い様に見えた。
「……まだ目は覚めてないのか。スゴい効き目じゃないか」
 こきりと首を鳴らす。射精に伴う虚脱感や脱力感はゼロではない。ゼロではないが、全身に漲る力に比べれば、小数点以下の誤差のようなものだった。
「漸く少しだけ調子が戻ってきた感じだな。…………悪いが真央、”リハビリ”に付き合ってもらうぞ?」
 まるで”女親”のように底意地の悪い笑みを口元に浮かべながら、月彦は依然意識の無い実の娘への蛮行を続行するのだった。


 真央は変な夢を見ていた。否、そもそもそれが本当に夢であるかも定かではなく、さらに言えば夢だとすればなんと面白みのない、それでいてままならないものなのだろうかと思える。
 それは棺のような狭い場所に閉じ込められ、棺から出たくても蓋が重すぎてでることが出来ない――そんな夢だった。さらに困った事に、真央は極度の空腹であり、どうやら棺の外には”ごちそう”が並んでいるであろうことが、漏れ入ってくる匂いで解ってしまうことだった。
 畢竟、真央はなんとか棺の蓋を開けてごちそうにありつきたいのだが、この蓋が本当に重くて持ち上がらない。空腹は刻一刻と耐えがたいものになり、それこそ真央は半狂乱になって暴れ、こうなったら棺の蓋を食い破ってでも外に出てごちそうを食べてやると、その隠された獣性をむき出しにしかけたところで――。


「おっ……とうとう目が覚めたか」
 そんな声が聞こえた。まだはっきりしていない意識でも、それが父親の声であるということは解った。真央は重たい棺の蓋を――瞼を懸命にこじ開け、自分に被さる影を見上げた。
 次の瞬間、まるで瞼を開けたことがトリガーであったかのように、猛烈な臭気が鼻腔をついた。むせかえるようなその強烈な牡臭は鼻腔を貫き、たちまち脳の裏側まで痺れさせる。一体全体何が起きているのかを真央が理解するよりも先に。
「あっ、ンッ!」
 ごちゅんと、その下腹の奥が小突かれ、全身に電撃のような快楽が迸った。
(えっ、えっ……? なん、で……わた、し……父さまに……?)
 理解が追いつかない。気を抜けば再びまどろみの底に沈んでしまいそうな意識を総動員させて、真央は状況の把握に努めねばならなかった。が、最初は懸命に意識を集中しなければならなかったその作業も、次第に。
(う、嘘っ……こ、れ……これって……こんな…………)
 辺りに立ちこめる牡臭に、意識の覚醒が急激に進む。月彦が動く度に敏感な粘膜に擦りつけられてくる特濃白濁汁の感触に、先ほどから背筋が震えっぱなしだ。
(私、父さまに…………!)
 眠気が、飛ぶ。望んで、望んで、渇望して止まなかったものが、ついに――!
「……ぁっ……」
 そして思い出す。昨夜、眠る前に自分が賭けに出たことを。睡眠薬を煽り、無防備に月彦の部屋で眠る――それが、真央の考えた”折衷案”だった。
(す、ごい……こんな、に……)
 ただ、寝ている間に犯され、中出しをされたというだけでは”こう”はならない。部屋中に立ちこめる噎せ返るほどの牡臭は、真央の全身にねっとりと絡みつく白濁汁から匂い立つものだ。恐らく懇々と眠り続ける娘にただ子種を注ぎ込むだけでは物足りず、その体全体を汚そうとしたのだろう。
 顔も、体も、髪も、指も、太ももも、足の指先に至るまで白く汚し尽くされた自分の体を見て、真央は歓喜に打ち震えた。一体どれほどに”玩具”にされれば、これほどに汚し尽くされるのか。その過程を想像し――
「ァッ……ゥンッ!」
 ”妄想”だけで、真央は容易く達してしまう。そしてそれは、剛直に絡みついている粘膜の痙攣を通じて、容易く月彦にも伝わったらしかった。
「……どうした、真央。そんなに嬉しかったのか?」
 なんとも冷たい、中世貴族が奴隷に投げかけるような声に、真央はゾクゾクが止まらない。思わず蕩けた顔をしそうになって――はたと、真央は表情を引き締める。
「……ッ……そんな、わけ………………父さまなんて、大ッ、嫌い……」
 唾棄するような真央の物言いに、月彦はほうと目を輝かせる。
(あぁぁっ……父さまッ……父さまのその眼、大好き……!)
 体が歓喜に震えるのを、真央は懸命に堪えた。そう、少なくとも”今”は我慢をしなくては。でなくては、剛直に密着している粘膜を通じて、全てが父親に伝わってしまう。
「こ、こんなッ……ね、寝ている、時に、襲う、なんて……さ、最低な、こと…………絶対、ゆ、許さッ――ンァァア!!!」
「悪いな、真央。てっきり俺を誘っているかと思ったんだ。……だってそうだろう? 男の部屋で、こんな男を誘うような格好で、睡眠薬を飲んで寝てるなんて」
 そんなのどう考えても「襲って下さい」ってコトだろう?――ニヤけ笑いを浮かべながら、月彦が腰を使い始める。真央は唇を噛んで喘ぎを堪えながらも、内心では月彦に同意していた。
「そんな、の……父さまが、勝手に……や、止めて! 私は、もうっ……父さまとは……!」
「俺とは……何だ?」
 本当に止めていいのか?――そう言外に含めるように、月彦が腰の動きを止めてしまう。たちまち体に火をつけられたような”焦れ”に襲われ、真央の心は早くも挫けそうになる。
 くすりと、月彦は微笑をひとつ零して腰の動きを再開させる。たちまち、焦れていた分倍加した快楽が電撃のように体を駆け巡り、真央は思わず声を上げそうになる。
「ほら、どうした真央。なんでそんなに体をビクビクさせてるんだ? 嫌なんだろ?」
「ッッ……フーッ…………フーッ…………フーッ…………!」
 真央は必死に唇を噛み、喘ぎを押し殺したまま月彦を睨むように見上げる。そう、さながら――気の強い女が、必死に快楽に抗い、せめてもの抵抗とばかりに睨み付けているかの様に。そうすることで、自分を貫く剛直がさらに堅くさらに大きく膨張するのを感じながら、真央は睨み続ける。
「フーッ……! フーッ……! フーッ…………ゥ……! ンッ……! ンンッ!!」
 月彦の方も、”そんな女”に声を上げさせるのが好きでたまらないとばかりに突き入れる角度に変化を付けたり、浅いところばかりを突いたかと思えば唐突に奥を強く小突いてきたり。
 はたまた――。
「ンンンッ!! ンンンッ、ンンンンッ!!!!!」
 突然、”弱いところ”をカリ首でひっかくようにゴリゴリ擦られ、真央は視界に火花を散らしながら腰を大きく跳ねさせる。
「ンンッ!!! ンッ! ンンーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!」
 そのまま、快楽を堪えきれずに、イく。イッている最中も擦られ続け、さらに二度、三度と真央はイカされ、その強すぎる絶頂の波に軽く意識をトばされるも、次の絶頂の波で強制的に覚醒させられる。
「イッたな。気持ちよかったか? 真央?」
 絶頂の後の余韻で、真央は喋ることが出来ず、ただただ首を横に振るのみ。それでも、形だけは拒絶を示すように、両手で月彦の肩を掴み、引き剥がしにかかる。そう、それは形だけ、ろくに力など籠もってもいないのに、呆れるほど容易く月彦は離れてしまった。
 えっ――思わずそう声を漏らしてしまいそうになったのは、剛直までもが引き抜かれたからだ。引き抜かれて始めて気づいたのは、剛直を引き抜かれて尚、下腹部の圧迫感が完全には消えないことだった。
「ぁっ、やっ……!」
 はてなと思った次の瞬間には、引き抜かれた剛直の後を追うように、特濃の白濁汁が汚らしい音を立てて溢れ出す。そのあまりの量にドン引きすると同時に、意識の無い間に一体何度注ぎ込まれたのだろうかと、興奮と妄想が止まらなくなる。
(こんなの……”普通”だったら、絶対妊娠しちゃう……)
 自分が子供を作れる体であれば。生理が来ていれば。こんな特濃白濁汁を腹が膨れるほどに注ぎ込まれたら即日妊娠してしまうのではないか。もちろんそれはただの仮定の話――生理が来てからの話――だが、真央は今まさに自分が孕まされたかのように錯覚し、ますます興奮する。
 だが、そんな”妄想”に呆けていられたのもほんの数秒。火照りきった体はたちまち焦れに襲われ、真央の両目は引き抜かれたばかりの剛直へとロックオンする。力強く天を仰いだまま屹立するその姿に思わず感嘆の声を漏らしてしまいそうになるが、もちろん実際に声には出さない。
 出さない――が。
「……もう、終わり……なの?」
 大したことないのね、とでも言いたげな挑発的な口調。もちろん真央自身、こんなに簡単には終わらないことなど百も承知であるが、一刻も早く再開して欲しいが故に、つい軽口を叩いてしまったのだ。
「まさか。……”躾の時間”はこれからだ」
 躾――この単語一つにこれほどドキドキするようになってしまったのは、間違いなく父、月彦のせいだ。つい反射的に正座をしてしまいそうになって――真央は慌てて足を崩す。
「ほら、真央。ベッドから降りろ」
 ああ、やっぱり――月彦の言葉に、真央は己の予想が当たっていたことを知った。”前”は当然として、意識を失っている間に恐らく”後ろ”すらも犯されていたであろうことはおぼろげな感覚として解ってはいたが、”口”だけは汚された形跡が一切無かったのだ。
 それは単純に、意識の無い状態で口の中に出すのは危険であると月彦が判断したためかもしれなかったが、それだけが理由では無いと真央は思っていた。
(……父さま、気づいてる……私が、父さまの舐めたくて舐めたくて仕方ないってコト……)
 そのくせ、やれ月彦のことを大嫌いだとか最低だとか罵った手前、積極的にむしゃぶりつくようなことも出来ないと察した上で。焦れる体に翻弄されながらも、さも仕方なさそうに、嫌々舐めさせられているかのように振る舞えと要求されている。
 そう、真央はさも仕方なさそうに、命令されて嫌々、という体でベッドから降りる。その後を追うようにベッドに腰掛けた月彦の足の間に膝立ちになり、そのまま吸い込まれるように剛直へと舌を這わせかけて、
「まーお?」
 月彦の言葉にハッと正気を取り戻し、キッと見上げるようにして睨み付ける。
「と……父さまのなんて、絶対……舐めたりなんか、しない、んだから…………」
 語尾に行くほどに声が小さくなってしまったのは、もちろん”本音”との相違による罪悪感がなせる技だった。
 背筋を走る”ゾクゾク”を示すように尻尾は先ほどから毛を逆立てたままくねりっぱなし。もちろんそのことは真央にも解っているが、だからといって自分の意思で止めることも出来ない。結果、嫌悪たっぷりの眼で月彦を睨み付けながらも、尾は期待に満ち満ちて振りっぱなしという矛盾する状況になってしまっているのだが――。
「やれやれ、素直なのは尻尾だけだな。……これはもう、無理矢理にでも咥えさせるしかないかな?」
 ゾクゾクゾクッ――月彦に鼻をつままれ、口を開けさせられ、咥えさせられる。喉の奥まで刺し貫かれ、まるでオナホールのように使われる”妄想”に興奮し、真央は危うくイきそうになるのを懸命に堪えた。
「いや、やはり無理矢理は良くないな」
 くつくつと冷笑が振ってきて、真央はたちまち赤面する。今のは、自分の反応を見るためだけの、ただの冗談だったのだと気づいたからだ。
(父さま、気づいてる……私が、想像しただけでイきそうになっちゃったコト……)
 しかも、想像しただけでイきそうになる程に魅力的な提案だと知ったうえで却下してくる――その冷酷さにゾクゾクが止まらない。ただでさえ焦れていた体はさらに火照り、じゅくじゅくと溢れた蜜が、まるで涎のように真央の太ももを濡らす。
(父さまの……舐めたくて堪らないのに、こっちにも欲しくなっちゃった……)
 下腹の疼きを堪えかねるように、真央は無意識に腹部を撫でつける。もちろん真央自身は無意識であったとしても、娘を観察している月彦にはバレバレであるのだが。
「ほら、真央。”舐めたい時”はどうするんだ?」
 顎をつままれ、ついと上を向かされる。
(舐め……たいとき、は……)
 真央は熱に浮かされた頭で、懸命に考える。
(おねだり……おねだり、しなきゃ……)
 頭の中が、”そのこと”で埋め尽くされる。しかしいざ口にしようとした瞬間、はたと、真央は我に返った。
「い、嫌っ……父さまなんて、大っ嫌い!」
 唾棄するように言って、ぷいと月彦から顔を背ける。そう、顔を背けているが故に真央には月彦がどんな顔をしているかは見えない。見えないが――きっとその口元には愉悦の笑みが浮かんでいることだろう。
「……まったく、本当に”悪い子”だな。真央は」
 冷たい声――しかし、微かに月彦の心の震えが伝わってくるかの様。月彦はベッドから立ち上がるや、真央の髪を鷲づかみにし――
「やっ……!」
 強引に正面を向かせ、さらに膝を立たせ、目の前に剛直を突きつける。――真央にしてみれば、さながらジェットコースターの最初の坂を登り切った瞬間のような心境だった。
「やっ、やめっ…………ぷふぁっ……!」
 ガチガチにそそり立った肉槍が唇を割り、舌を擦るようにして喉奥まで押し込まれる。口腔を強引に犯される興奮に、真央は殆ど白目を剥きながら、膝立ちのまま絶頂する。
「無理矢理咥えさせただけでイッたのか」
 真狐でも”そこまで”じゃないぞ?――そんな侮蔑の言葉に抗議するように真央は目だけで月彦を睨み付ける。
 ――が。
「んんっ、んっ! んんっ!!」
 唐突に腰を使われ、真央は危うく噎せそうになるのを懸命に堪えねばならなかった。それでも真央は涙交じりの目で、”抗議の目”で月彦を睨み付ける。否、それはもはや抗議目的ではない。
 ただ、”そういう目をした女”の方が月彦がより興奮するだろうと、父の性癖を慮っての行為だった。
「ンンッ! ンンッ! ンンンッ!!」
 犯されているのは口――喉奥をほじられるような苦しさに幾度となくえずきながら、その”苦しさ”に真央は興奮する。この剛直の堅さと大きさは、紛れもない月彦の欲情の証だ。”これほど”に自分に興奮し、欲情している――この苦しさはその証左であると。
 何よりも。
(もう、すぐ……もうすぐ、もうすぐ、”アレ”が来る……!)
 期待に震える。
 剛直に密着している舌から、真央は敏感に月彦の興奮と、快感の度合いを測っていた。何なら、殆ど誤差なくカウントダウンすら出来るほどに。
(もうすぐ、もうすぐ……”アレ”が……!)
 口腔を犯す剛直が動く度に、先端から漏れ出した汁と唾液がかき混ぜられ、ぐじゅぐじゅと汚らしい音を立てる。それらはカリ首によって掻き出され唇からしたたり落ちもすれば、至高の食前酒となって真央の興奮をさらに高めていく。
(ダメッ……こんな”薄いの”じゃ……)
 早く、早くと焦る余り、次第に自ら剛直に吸い付き始めていた。内心、ギリギリのところで月彦に”おあずけ”されるのではと不安になりながら、そんな未来にちょっぴり期待もしながら。
「ッ……真央、出す、ぞ……!」
 しかし、どうやら月彦の方が我慢が出来なかったらしい。両手で真央の頭を抱えるように固定し、根元まで剛直を咥えさせてから――。
「ンンンッ!!! ンンッ!!!!!」
 口腔内で剛直が脈打ち、先端から特濃の白濁汁が打ち出される。火傷するほどに濃いそれがたっぷりと、しかも喉に直接注ぎ込まれるのだから、噎せるなというのが無理な話だった。
「ンンッ! ンッ! ングッ!」
 慣れているから平気――とはいかなかった。真央は文字通り全身を痙攣させながら悶え、両目から涙を溢れさせながら苦しみ、その苦しさの中でイき続けた。
「ふーっ…………ふーっ…………悪い、真央……さすがに苦しかったか」
 ぬろりと剛直が引き抜かれるや、真央は堰を切ったように噎せ始める。げほげほと咳き込みながらも、それでも真央は満足していた。
 そう、”これ”が欲しかったのだと。このねっとりと濃い、あまりの濃さに喉に張り付いて飲み込むことすら容易ではない。火傷しそうな程に熱いその熱は、飲み込んで尚、体の内側から身を焼き続ける。極めつけは、喉奥から立ち上るその凄まじい牡臭だ。体の内側から立ち上るその臭気に、否が応にも自分が月彦のモノにされたのだと実感できる。
「……ぁ……っ……」
 満足――した。した筈だ。全身を汚し尽くされ、前も後ろも、口までも犯され、月彦の匂いに染められた。
 そう、満足した――筈だった。


 ざわ――まるで、不可視の触手で全身の産毛でも撫でられたような感覚。目の前に居るのは紛れもない娘の真央。であるのに。
「父さま……」
 うわごとのような声と共に、真央が膝立ちのまま身を寄せてくる。
「ま、真央……?」
 娘の”変化”に戸惑った分、月彦の反応は遅れた。押されるままにベッドに尻餅をついた時には、真央は月彦の足の間にまで詰め寄っていて、そそり立つ剛直を両手で撫でつけながら頬ずりをしていた。
「まだ、出せるよね?」
 答えを口にする前に、真央は剛直に舌を絡めれろり、れろりと舐め始める。
「ま、真央っ……――ッ……」
 もう嫌がるフリは止めたのか?――その言葉は、声にならなかった。ほんの数分前まで、”父さまなんか大っ嫌い!”と全身に嫌悪を滲ませていた真央が、まるで中身だけが熟練の娼婦とでも入れ替わったかの様だった。
「濃いの……もっと、欲しいの……んふっ、んんっ……!」
 その母譲りの巨乳で剛直を挟み込み、唾液にまみれたそれをにゅりにゅりと上下に擦りあげながら先端を舐め、舌先をすぼめては精液を催促するように鈴口をえぐる。”それ”自体は真央がよくすることではあるのだが、不意打ちである分、月彦の抵抗は後手後手に回った。
「ちょっ、こら……真央っっ……」
 うわずった月彦の声に気を良くしたらしい真央は、ますます動きを激しくする。小癪なことに、父親のツボを心得ているらしい真央は乳で奉仕する際の”見え方の角度”まで計算しているらしい。
 より、月彦が興奮するような光景となるように位置取り。そしてそこまで配慮されることを小癪であると感じつつも、性癖ドストライクであるその光景から目を反らせない父親を嘲笑うように艶笑を浮かべながら。
 れろり、れろりと。
「ッ……なんつー……エロい顔をっ……さっきまで、あんなッ…………くっ……」
 淫魔――サキュバスのような存在がもし居るとしたら、きっとこんな顔をするという見本を見せられている気分だった。いつもの思慮深い――それでいてちょこっとだけエロいことに興味津々な――真央の知らない一面に、月彦は恐怖すら覚える。
「父さま、イきそうなの?」
 まるで、父親の矜持を奪うためだけにされたような質問だった。イきそうであることは乳肉の間で小刻みに痙攣を繰り返す剛直からいやでも伝わっているだろうに。
 あえて口から言わせようとしているのだ。
(くっ……そ……)
 小癪であると感じる。感じるが、それでもやはり可愛い真央には変わりない。同時に、今の真央がどこまでエロいかを確かめてみたいという好奇心も沸く。
 月彦は渋々――といった具合に、言葉ではなく頷きによって返す。たちまち、真央は気を良くしたように動きを早め、両手で巨乳を抱えるように抱きしめたまま、大きく上下に剛直を擦り始める。
「ッ……真央っ、それはっ、ダメ、だ……!」
 やはり、真央は知っている。紺崎月彦という男が、大きな胸が窮屈そうにしまわれていたり、何かに圧迫されて形を歪めている様にひどく興奮する男であると。
「あっ、来た来た…………あんっ!」
 射精の瞬間、真央は唇を離したかと思えば、先端を包むように乳肉で圧迫する。
 「ぁっ……はぁっ……すご、い……父さまの、熱いぃ……ンッ……ぁン……ッ!」
 びゅくびゅくと乳肉越しに射精の脈動を感じ、真央が甘い声を上げながら、ぶるりと体を震わせる。
「はぁっ……はぁっ……おっぱいで、イッちゃった…………ねえ、父さまは……真央のおっぱい、気持ちよかった?」
 にゅり、にゅりと精液まみれになった乳間で剛直をマッサージしながら問いかける。たとえ事実とは違っていても”YES”以外の解答は許さないというような催促に月彦は小さく頷いた。
「あはっ」
 真央は声を上げると同時にぴょんとベッドに上がり、密着するように身を寄せてくる。
「ねえ、父さま。”悪い子”の真央に、もっとオシオキして?」
「お……しおき?」
 立て続けの射精に、さすがの月彦も疲労の色を隠せなかった。まるで寝言のような声色でオウム返しに聞き返す。
「うん。今度はね、”後ろから”のオシオキがいいな」
 対して、真央の元気の良さはどういうことか。まさか、途中まで寝ていたから、まだまだ元気いっぱいだとでもいうのか。
 だとすれば、睡姦というのは仕手側が不利すぎるプレイではないか。
「父さま、”オシオキ”しないの?」
 ふーっ、と。甘い吐息を耳に吹き込むように囁き、月彦の返事を待たずして真央はベッドの上で四つん這いになり、さらに上体だけを伏せると代わりに尻尾を高々と上げる。
「ほら、父さま?」
「あ、あぁ……そう、だな」
 まるで”おいでおいで”でもしているかのように尻尾を揺らしながらのおねだり。まるで、見えない糸に引かれているかのように、月彦はゆっくりと体を起こす。
「ダーメ、父さま。オシオキなんだから、もっとカチカチにして?」
 度重なる射精に、さすがの肉槍も若干硬度が衰えていたらしい。月彦自身気づかなかったそれをめざとく見抜いた真央は月彦に尻を向けたまま、自らの指でくぱぁと。見せつけるように秘裂を開く。
「ほらぁ、真央のココ、父さまのをナメナメしてただけでこんなになっちゃってるの。ヒクッ、ヒクッって動いて、父さまに出してもらった分まで、涎みたいに垂らしちゃってるの見える?」
 くちゅり、くちゅ――月彦の視線を感じて、もう我慢できないとばかりに、真央は自らの指で秘裂をかき回し始める。
「……っ……」
 くらりと、目眩にも似たものを感じて、月彦は頭を抑える。興奮――しているのだろう、不自然なまでに心臓が激しく脈打ち、全身に力が漲る。
(”アレ”は……)
 考える力すらも失いかけた月彦が最後に目にしたのは、誘うように揺れる尾から散布されている、よく目をこらしていなければ気づくことすらない桃色の粒子だった。
(真狐、の――)
 態とか無意識の発動か。とにもかくにも、自分は娘の術中にハマったらしい――そんな諦めにも似た境地と共に、月彦は”ごちそう”へと飛びかかる。
 
 あとはただ、意識がなくなるまで娘の嬌声を聞き続けるだけだった。



 月彦は、己の認識の甘さを噛みしめていた。そう、”意識が無くなれば、そこで終わり”などと、一体どこの誰が保証してくれたというのだろうか。
「はぁっ……あんっ! あんっ……あんっ! あぁぁっ……いいイィ! 父さまぁっ……もっと、もっとぉ……!」
 一糸まとわぬ――それどころか、精液まみれの姿で――男に跨がり、腰を振り続ける娘の姿をアリーナ席で見せつけられながら、月彦は自分が一体どこで間違えたのかを考えていた。
 やはり、体力の大半を眠っている真央に浪費したことだろうか。しかし少なからず真央の体も反応していた。消耗という意味では真央の方も決してゼロではなかった筈だ。それに、”その分”を差し引いたとしても、あまりに真央が”底なし”過ぎるのだ。
(まるで……)
 ヤれなかった間に、本来搾り取る予定だった精液を、比喩ではなく物理的に回収しようとしているかの様。すくなくとも、その可能性を疑わせるほどに真央の豹変は凄まじかった。
「っ……く、ぁっ……真央っ……!」
 極上の肉襞は”萎えることなど許さない”とばかりに締め付け、吸い付き、それ自体が意思を持っているかのようにひっきりなしに責め立ててくる。例え精魂尽き果てて意識を失しても、”刺激”によって強引に現実へと引き戻され、強引に搾精されるのだから堪らない。
「ぁンっ……あぁァ! はぁはぁ……父さまァ……もっと……欲しいのぉ……もっと、もっと、もっと……!」
 ばちゅんっ! ばちゅんっ! ばちゅん!
 月彦がイきそうであると悟るや否や、真央は一層激しく腰をくねらせ、まるで鬱憤晴らしのように叩きつけてくる。
「……っっっ!」
 文字通り、精を搾られる。月彦は背を浮かせのけぞるようにして射精する。
「ァっ……はァァァァ…………父さまの、すごく美味しい…………」
 精を搾りながら、真央もまたイき、うっとりと目を細める。まるで精液の感触そのものを楽しむように、ぐっちゅにちゅと腰を回しながら瞳をトロけさせるその様はおよそ数時間前まで”父さまなんて大っ嫌い!”とツンケンしていた娘とは思えない。
(”美味しい”って……)
 真央にとっては、精液すらも飲食物――或いは栄養源だとでもいうのか。しかも、摂取するのは口ではなく――。
「ねえ、とうさま」
 ぎょっと、月彦は悲鳴を上げそうになる。ほんの数秒思案していた間に、鼻が触れそうなほどの距離に、真央に詰められていたからだ。
「今日連れてきたあのおんなの人、誰?」
「だ、誰――って……」
 真央が何を言っているのが読めず、混乱する。その質問には、昼間一度答えているではないか。
「答えて」
「はうっ」
 ぎゅぬっ、と剛直を締め上げられる。
「だ、誰って……昼間も説明、した、だろ。幼なじみの、妙子の、友達、で……くぁぁぁぁぁ……」
 ぎち……ぎちぎち、ぎちっ……。
 剛直を締め上げる力がどんどん強く、まるで歯のない生き物の口の中で食いちぎられようとしているかの様。
「その”友達の友達”をどうして連れてきたの?」
「どうして、って……」
「早くこたえて」
「はうっ……く、はぁっ……真央、それはっっ……」
 ギチギチに締め上げたまま、ゆっくりと真央が腰を使い始める。
「そ、それは……倉場さんが、だな……同い年くらいの、男子の部屋を、見てみたいって……」
「ふぅーん?」
 その”ふぅーん?”は一体どういう意味かと、月彦は問いたかった。
(言っとくが、俺は嘘なんかついてないからな?)
 だが、口を開けばたちまち喘ぎか悲鳴に変えられてしまいそうで、迂闊に声を出すことができない。
「そうやって、きっかけがあればすぐ部屋に連れ込んじゃうんだね」
「なっ……それは違――……ッッ!!」
「その”倉場さん”も、本当は食べちゃうつもりで連れ込んだんだよね?」
「ば、バカッ……何、言って……」
 くぁぁっ――思わずそんな声が漏れる。ただ、ギチギチに締め付けるだけだった肉襞が一転、むしゃぶりつくような動きに変わる。
「父さまもエッチしたくてしたくて我慢できなくて、だからそんな”どうでもいい相手”を連れてきたんだよね?」
 ”どうでもいい相手”という言い方に妙な強調と、悪意を感じた。
(昼間は、平気そうにしてたのに……)
 実は内心穏やかではなかったのだろう。ひょっとしたら、普段に比べてもあまりにしつこすぎるセックスも、”その時の鬱憤晴らし”をしたいからなのかもしれない。
「真央がちょっとでもエッチさせてあげないと、すぐ他の女の子のところにいっちゃうんだから。……いけない父さま」
 小悪魔のように笑って、かぷりと鎖骨の辺りに歯を立ててくる。仕置きのつもりか、マーキングのつもりか。
 とにもかくにも、”それ”が、月彦の中に反骨の心を生んだ。
「っ……調子に、乗るなッ」
「きゃッ」
 真央の両肩を掴み、押すようにして引き剥がしながら、月彦は上体を起こす。が、同時に月彦は気がついた。
 真央の「きゃッ」が、あまりに歓喜に満ちたものだったからだ。
「……真央、態とだな?」
 真央は答えず、騎乗位から座位へと変化した体位を喜ぶようにきゅっ、きゅっ、と締め付けながら、両手を月彦の背へと回してくる。
「ね、父さま。”悪い子”の真央の尻尾にもオシオキして?」
 徹頭徹尾、気持ちよくなることしか頭にないのか!――そう怒鳴りつけたい気分だった。その為には――ぐったりと腑抜けになっている父親を焚きつけるためには――毒舌娘のフリすらしてみせる真央に、ここはさすがに本気で叱りつけなければ、今度の教育に差し支えると。
 月彦は大きく息を吸い込み、
「いいか、真央――……あふんっ」
 れろりと、唐突に耳を舐められ、罵声は情けない喘ぎ声に書き換えられた。
「は・や・く。……ね?」
「〜〜〜〜〜っっっ!!!」
 言いたい事は山ほどあるが、それを言うべきは今ではない。まずは真央を正気に戻すことが先決だと、月彦は判断した。
「きゃっ! あンッ! あっ、あぁっ、あっ! あぁぁぁっ……そこっ、そこぉっ……! 尻尾、イイ……ゾゾゾッって……あぁあん!」
 こうか?こうされれば満足なのか?――そんな鬱憤をぶつけるように、月彦は真央の尾の付け根を擦りあげ、さらには。
「ぁっ……やっ、耳ダメッ……ぁぁぁぁぁぁああッッ!!」
 狐耳の中に生えている白く柔らかい毛を、れろりれろりとなめ回す。たちまち真央は甲高い声を上げて鳴き、両手でしがみついてくる。
 そこを。
「あっ、やっ……! あっ、あぁぁぁあああああッ!!!」
 ぎゅうっ、と肉襞がしがみつくように剛直に密着した瞬間を狙って、月彦は両手で真央の尻を持つや、激しく上下に揺さぶる。
「あーーーーッ!! あーーーーーッ!! あーーーーーッ!!!」
 真央がのけぞり、あっさりとイく。おそらくは、先ほどの”言葉責め(?)”の最中から、父親からの逆襲を想像して興奮を高めていたのだろう。
(どんだけ、だ……)
 性に対する貪欲さでは、既に真狐を抜いているのではないか――そんな疑念を振り払うように、月彦はぐりぐりと肉竿でえぐるように突き上げ、”弱い場所”をしつこく擦り上げる。
「だ、ダメッぇ! 父さまァァ……そこ、ばっかりぃぃっ……やっ、い、イくっ……また、っイク!!」
 三回擦ってはイき、二度擦ってはイき、三度擦っては二連続でイき。真央は半狂乱になってイき狂い、声を荒げる。
「はぁっ、はぁっ……やぁっ、い、イくの、止まらなっ……ぁン! やっ……もぉっ、イくのっ、やぁッ……! もぅ無理っ……父さま、ゆるひてぇえッ!!」
 ダメだ、許さない――言葉ではなく行動で、月彦は仕置きを続ける。イき続けて声に力がなくなると、今度は尾を強く擦り上げ、否が応にも叫ばせる。
 月彦にしてみれば、今回で”出し尽くす”つもりだった。恐らく次の射精で、自分は力尽きるだろう。だからこそ、ここで削れるだけ真央の体力を削り、その鬱憤を晴らしてやらなければならない。
 絶え間なくイき狂う真央の痙攣する肉襞に吸い付かれながら、それでも月彦が射精を我慢し続けられたのは、もちろん疲労困憊というのもあるが、それよりなにより紺崎月彦のアイデンティティとも言うべき信念によるものが大きかった。
 そう、”男を食い物としか見ていないような女に負けてたまるか”という心の柱だけは、折られるわけにはいかないのだ。
「はぁっ……はぁっ……と、さま……も、むり……し、死んじゃう…………」
 三十分もそうして叫ばせ続ければ、さすがの真央も声を上げる余裕はなくなったらしい。
「ご、ごめんなさい……良い子になる、から……だから、ゆるして……」
「……本当だな?」
 こくりと、真央は力なく頷き、そのまま月彦の肩に顎を乗せてくる。月彦はそれまでの、ただただ真央を一方的にイかせる為だけの動きではなく、相手を思いやった――互いの快感を高める為の動きに変える。
 それはすぐに、真央にも伝わった。ぐったりと肩に引っかけていた頭を持ち上げ、上目遣いに、ねだるような目を向けてくる。
「わかってる」
 月彦はそれだけ言って、唇を重ねる。そういえば、睡姦も含めて、今日初めてのキスだなと、そんなことを思う。
「んっ……んっ、んふぁっ……ンッ!」
 ゆっくりと、しかし着実に快感を高め合う。ただ快楽をむさぼるのではない、互いの心の隙間を埋め合うように。
「んっ、んっ! やっ……もっと……!」
 息継ぎがてら唇を離すや、たちまち真央に食らいつかれる。
「んふっ……ンンッ! ンンンッッ…………!」
 舌を絡め唾液を啜りながら、両手で尻をつかみ、優しく揺さぶる。
「ンッ! ンッ! ンッ……ンッ!」
 喉奥で噎ぶ真央の声が、次第に甲高いものに変化していく。月彦もまた、”それ”に合わせるように、信念の軛を外して快楽に殉じていく。
「ンぁ……ぷはっ……! とう、さま…………もうっ…………もうっっ……ッ!」
 感極まったような声で、奥歯をカチカチと鳴らしながら息も絶え絶えに言う真央の後ろ髪を撫でながら、月彦も最後のスパートをかける。
「真央っ……真央っ……真央っ……」
 強く抱きしめながら突き続け、頂に達するその瞬間、最後の力を振り絞るように。
「あッ――……!」
 最奥を小突き、出す。耳元で掠れたような声で真央が叫ぶが、そもそも声になっていないのか自分に聞くだけの余力が無いのか。月彦の耳には届かなかった。
「くっ……はぁ……」
 お世辞にも濃いとは言えないそれを打ち出しながら、月彦は全身の力が抜けていくのを感じた。絶頂の余韻に浸りながら、重力に引かれるままに後方に倒れ込む。
 ぜえぜえと呼吸を整えながら、月彦の意識は急速に微睡みの中に沈もうとしていた。さながら、余すところなく全力を出し尽くした結果、満面の笑みのまま戦場で息絶えた戦士の様。
「父さま……」
 恐らく真央も同じ気持ちなのだろう。微睡みに抗っているような半目のまま、月彦を見上げ、そして妖しい笑みを浮かべて、言った。
「お・か・わ・り♪」

 月彦は無言で、ベッドのマット下に隠してある即効性の精力剤入りの小瓶へと手を伸ばした。


 ――数日後。


「あれ、みゃーこさん来てたんだ」
「あっ! つっきー! ひさしぶりー!」
 学校の帰りに病室に入って顔を合わせるなり、都はまるで大好きな主人の足音を聞いた飼い猫のようにぴょんと立ち上がり、駆け寄って来る。
「都、病室では騒がない」
 めっ、と叱る霧亜がどことなく機嫌良さそうな仏頂面であるのは、きっと都が遊びに来ていたからなのだろう。
「みゃーこさん、いつもありがとう。姉ちゃん、これ母さんから」
「ありがとう。もう帰っていいわよ」
 着替えと、雑誌類の入った紙袋を渡すや、霧亜は一秒のディレイもなくそう言い放った。が、月彦はあえて聞かなかったことにして、都が出してくれた丸椅子へと腰掛ける。
 はぁ、と霧亜が大きく溜息をつくが、悪びれもせずにニコニコしている都が頼もしく、まるで百万の味方を得たような気分だった。
(俺一人だったら、帰れって怒鳴られながら松葉杖でひっぱたかれてるところだけど、やっぱりみゃーこさんが居ると優しいな)
 うんうんと頷きながらほっこりしている月彦は、あることに気がついた。
「あれ? 姉ちゃん、それ……」
 霧亜の前には食事の際に使う折りたたみ式のテーブルが降ろされ、さらには赤い、果実のようなものが盛られた皿が置かれていた。
「ヘビイチゴよ。私のために都が摘んできてくれたの」
「へぇ……これがヘビイチゴなのか。みゃーこさんありがとう」
 都の方を見ながら礼を言った途端、何故か都はばつが悪そうな顔をしてふいと顔を背けてしまった。
「みゃーこさん?」
「都、せっかく採ってきてくれて悪いけど、一人じゃこんなに食べられないわ。月彦にあげてもいいかしら?」
 霧亜の言葉に、ハッとしたように都は向き直り、目映いほどの笑顔を見せた。
「うん! つっきーも一緒に食べよう!」
「あ、あぁ……ありがとう、姉ちゃん、みゃーこさん」
 まさか、霧亜から勧められるとは思わず、月彦の反応は大きく遅れた。改めて、皿に盛られた――赤い棘ボールのようなそれを指先でつまみあげ、つぶさに観察する。
(そういえば、ヘビイチゴってこんなんだっけか……)
 人間の記憶というのは恐ろしいもので、ヘビイチゴという名前のせいで記憶の中に出てくるそれは赤い蛇の頭のような形のイチゴへと書き換えられていた。今こうして実物を目の当たりにして初めて「ああ、そういえばこんなだった」と納得する。
「あ、待ってつっきー! これね、このまま食べても美味しくないから、都がおまじないしてあげる!」
「おまじない……?」
 どきりと、心臓が跳ねる。
 まさか――そんな思いに固まる月彦の前で、都はヘビイチゴを2,3個手のひらにのせるや、もう片方の手を被せて。
「おいしくなーれ!」
 念じるように目を瞑る。その仕草は、月彦の記憶の中にある仕草とまさしく合致した。
(姉ちゃんじゃなくて、みゃーこさんだった、のか?)
 確かに、記憶の中に出てくる年上の少女の顔は逆光のようになっていて確認することが出来なかった。唯一覚えている”おまじない”に関するやりとりについても、霧亜がするとは思えないという結論に達した。
 しかし、都であれば。
「はい、つっきー!」
「あ、あぁ……うん。……いただきます」
 都の手のひらからヘビイチゴをつまみ、口に放り込む。
(……味が無い、っていうか、薄い…………)
 やはり、記憶の中で相当に美化されていたのだろうか。都のおまじないによって強化されて尚この味では、エンチャントされていない状態ではそれこそ反吐にも等しい味なのではないか。
 思案する月彦の前で、霧亜もまた皿から一粒つまみあげ、口に放り込む。
「薄味だけど、私には丁度良いわ。都、ありがとうね。時期でもないし、見つけるのは大変だったでしょう?」
「えへへ……南の方まで行ったから、ちょっとだけ疲れちゃった」
 あのつむじ風のように走る都が疲れるほど遠くまで行ったというのだから、”かなり南の方”であるのは間違いなさそうだ。
「な、なぁ……みゃーこさん! 俺、前にもこうしてみゃーこさんにヘビイチゴ食べさせてもらったことがあると思うんだけど、覚えてないかな?」
「えっ、えっ!? えっと……」
 都は困った様に、ちらりと横目で霧亜を見る。見られた霧亜は、何故自分に振るのかとでも言うように、睨むような――もちろん、普段月彦に向けるそれの何百分の一程度のものだが――目を向ける。
「あはは……ごめんね、つっきー。都、頭悪いから、昔のこと忘れちゃった」
「そ……うか。まぁいいや、ちょっと聞いてみただけだから、みゃーこさんも気にしないでね」
 都が夢の場所を覚えていなかったのは残念ではあるが、冒険の真相を思い出せただけでも十分過ぎるほどの収穫だ。
(姉ちゃんじゃなかったのは、ちょっとだけ残念だけど……)
 まったく身に覚えのない第三者だった、というオチよりは遙かにましだとも言える。
「都」
 不意に霧亜が手招きし、都に耳打ちをする。都は都で、月彦の方を見ながらうんうんと納得するように何度も頷く。
「つっきー! 都とごはん食べに行こう!」
「えっ!? これから!?」
「うん! お肉食べに行こう!」
 思い立ったが吉日――本人はそこまで考えているわけではなさそうだが、都には思い立ったことをすぐ実行しようとするところがある。が、今回ばかりは都だけの案ではなさそうだった。
「良いけど……行くなら夕飯いらないって母さんに連絡しないと」
「母さんには私から連絡しておくわ。早く行ってきなさい」
「えっ、えっ? なんでそんな」
「ほらほらつっきー! 早く行こ?」
 都にしてはずいぶんと強引に、ぐいぐいと背を押されるようにして半ば病室を追い出されるような形で退出させられる。
「ちょ、みゃーこさん強引過ぎだって、そんなにお腹空いてるの?」
「ちがうよ。つっきーがげっそりしてるから、ご飯食べさせなきゃって、きららも心配してたんだよ?」
「姉ちゃんが?」
「あっ」
 と、都が今更ながらに口を閉じ、チャックを閉じるようなジェスチャーをする。
(……そんなに、げっそりして見えるのか)
 言われてみれば、さっき受付の看護師に話しかけた時も真っ先に点滴を勧められた。てっきり流行の看護師ジョークかと思っていたが、ひょっとしたらガチで心配させてしまうほどにやつれて見えたのかもしれない。
(これでも、”翌朝”よりはずいぶんとマシになったんだけど……)
 それでも、あの霧亜をして食事の心配をさせるほどに窶れて見えるらしい。
「……わかったよ、みゃーこさん。姉ちゃんとみゃーこさんがそこまで言うなら、俺もトコトン付き合うよ」
「き、きららは何も言ってないよ? つっきーがね、痩せててお腹空いてそうだって都が思ったから、お肉に誘ったんだよ?」
「うんうん、大丈夫。姉ちゃんには何も言わないから、行くなら早く行こう。実は俺も、肉って聞いて、めちゃくちゃお腹が空いてきてるんだ」
「うん! 都もね、遠くまで走ってきたからもうお腹ぺこぺこだよ!」
 
 姉友である都と意気投合し、焼き肉屋へと向かう。二人とも腹一杯食べた後は、食休みがてら都の部屋に上がり込み、お腹いっぱいになってムラムラした都に当然のように自分も食べられてしまう、どこまでも懲りない月彦だった。


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