そういえば、去年もこんな天気だったと。一面灰色の雲に覆われた空を見上げながら、白石妙子はそんなことを思う。
 曇天。そのくせ妙に風が強く、身を切られるように冷たい。体育用のジャージを着ているとはいえ、気休めにしかならない。
 そんな日にかぎって体育は苦手なマラソンで、したたかな女子の一部が“体調不良”を理由に体育を休むのをほんの少しだけ羨ましく思いながらも、妙子は走っていた。校外のコースを一周して戻ればそれで終わりなのだが、長距離走が苦手な妙子は真面目に走っても時間ぎりぎりまでかかってしまう。いかにもありがちな「最後まで一緒に走ろうね!」というノリは妙子と級友二人の間には存在せず、佐由は遙か先、そして英理は遙か後方。恐らく今回も、最後に回ってくる体育教師のバンに回収されることだろう。
 息が苦しい。足はもとより、脇腹も痛い。首回りは言わずもがな。これはもうハンデ戦だと妙子は思っているが、だからといって体育教師も成績に手心など加えてはくれない。妙子だけ走る距離が短くなったりもしない。……短くすると言われても、絶対に断るが。
(ちぎって、棄てたい)
 この忌々しい二つの塊をもぎとってしまいたい。長距離走のたびに――最近では、佐由に付き合って長い長い石段を登った際にも――妙子はそう思ってきた。
(お母さんは、普通、だったのに)
 遺伝というのならば、まだ諦めもつく。しかし写真でのみ残されている母の姿は、むしろ控え目と言っていい程だ。父方にも、妙子ほどに自己主張の激しい胸元の持ち主は一人も居ない。
 だからこそ、なぜ自分だけがと思ってしまう。
(こんなものさえ、無かったら)
 体育の授業でこんなにも苦しむことは無かった。仰向けに寝ただけで、息苦しさから悪夢に魘される事も無いだろうし、なによりも“あの男”に絡まれることも無かったはずだ。
 まさにハンディキャップだ。かつては何度も千夏にそう零し、その度に視線を外しながらの舌打ちをされたものだが、妙子は今でも自分の価値観は間違ってはいないと確信していた。
 ……少し坂が続く。
 歩けばたいした事のない勾配が、今はゴルゴダの丘のように辛い。ふくらはぎがパンパンに張り、肺がキリキリと痛む。
(あと、少し……)
 走っているというよりは、殆ど歩いているような足取りだが、それでも今出せる最大の速度だ。既に学校の外縁に到達しているから、後は正門まで回って、グランドに戻れば終わりだ。
(そう、いえば……)
 ふと思う。顔を見るだけで苛立ちの募る、なんとも憎たらしいこと極まりないあの男と、随分と顔を合わせてないなと。
(……道理で)
 最近はなんとも心穏やかに過ごせている筈だ。もちろんこの平穏が永遠に続くなどとは毛ほども思っていないが、もしそうであればどんなに良いか。せめて、今日までは続いてほしいと、妙子は切に願う。

 ようやくのことでグラウンドへと帰り着き、両膝に手をついて呼吸を整えていると待っていたとばかりに佐由が駆け寄ってきた。
「白石君、タコパをやらないか?」
「……はぁ?」
 いきなり何を言い出すのか。ぜえぜえと呼吸を整えながらも、妙子は突然の提案に首を傾げた。
「なんだ、白石君。タコパを知らないのかい?」
「たこ焼き、で、パーティー、する、ことじゃ、ない、の」
「なんだ、知っているなら話は早い。いやほら、今日は寒いだろう? こんな日は炬燵で暖を取りつつタコパもアリなんじゃないかと思ったわけだ」
 ぜえ、ぜえ。
 はぁはぁはぁ……。
 ふぅ……ふぅ……ふぅ……。
 漸くにして呼吸が整ってきた妙子は、やっとのことで反論を口にした。
「あんたと、英理が二人でやる分には止めないし、好きにしたらいいと思うけど、もし私の家でやりたいっていう意味なら、今日は無理。用事があるの」
「なんだ、用事があるのか。そういうことなら仕方がないね。またの機会を楽しみにしているよ」
 じゃ、と。あまりにもあっさりと引き下がられて、思わず妙子の方が後を追った。
「……何の用事か訊かないの?」
「大事な用なのだろう? それだけ解っていれば十分さ」
 半身だけ振り返って笑い、佐由は小走りにグランドへと戻ってきた体育教師のバンに駆け寄っていく。
「…………何よ、いつもしつこいくらい何の用事だって訊いてくるくせに」
 何故、大事な用だと解ったのだろう。こういう気遣いをされる度に、妙子は何かに負けたような気分にさせられる。

 そう、一年前の今日も曇りで、そのくせ風の冷たい日だった。当時まだ日本に居た父と共に、母の墓参りをした。
 今年は、一人で行かなければならない。


 


 
 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第五十七話

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 




「……だからさ、あの時の俺は俺じゃなくって、俺に化けた真狐だったんだ。俺もなんとか由梨ちゃんとの約束は守ろうとしたんだけど……」
「大丈夫です、真央さんからもちゃんと説明してもらいましたから。不可抗力だったって解ってます」
 不可抗力だと解っていると言いながらも、由梨子はつーんと、まるでそっぽでも向くように体ごと明後日の方角に向けて座っている。テーブルを挟んで座っている月彦は、乾いた笑みを浮かべながらも、弁明を続けることしか出来ない。
 由梨子もまだ部屋に帰ってきたばかりなのだろう。上着だけを脱いだ、ブラウスに制服のスカートという出で立ち。そして黒のストッキングだが、今日ばかりはあまりジロジロ見るわけにはいかない。
「いや、解ってるって言ってるけど………………由梨ちゃん、怒ってるよね?」
「別に怒ってませんけど」
 いや怒ってる。絶対に怒っている。じゃなければこんな、二人きりの密室で露骨に背を向けたりするわけがない。
「由梨ちゃん、信じてくれ。俺は本当に、なんとかして由梨ちゃんとの約束を守ろうとしたんだ!」
「別に疑ってないですよ。先輩はいつも優しくて、約束をすっぽかしたりしない誠実な人ですから、疑うわけないじゃないですか」
「うぐ……」
「それに、真狐さんに監禁されてたのを真央さんに助けてもらって、学校に来るようになってからもう結構経ってますよね。その間、一度謝りに来てくれただけで、あとはずーっと真央さんとイチャイチャしっぱなしで、私なんて全然目にも入らないって感じでしたけど、大丈夫、ちゃんと解ってますから。“そんな”でも、私の事をちゃんと考えてくれてたんですよね?」
「い、いや……アレは真央が……」
 言葉に詰まる。由梨子にはさすがに「真狐のやつに監禁されたのは二日弱で、後はむしろ真央に監禁されていた」とは説明できず、ずっと真狐にされていたことになっている。つまり、真央に一服盛られた件も、その副作用(?)で真央中毒のような状態になってしまったことも説明出来ていない。
 結果、無事学校へと通えるようになった後もしばらく由梨子にまともに謝ることすら出来なかったわけで――。
「……ごめん、由梨ちゃん。ごめん、としか言えない」
「だから謝らなくていいですよ。早く帰って真央さんとイチャイチャすればいいじゃないですか」
 由梨子はもはや言葉のとげを隠そうともしていない。とはいえ、このまま帰るわけにはいかない。帰れば、本当に由梨子を失望させてしまう。
「えっと…………どうしたら、許してくれる、かな」
 肩を縮めながら恐る恐る切り出すと、由梨子の背が僅かに揺れた。が、反応はそれだけだった。
「別に怒ってませんから、許すも許さないもないです」
 そう、多分本当に由梨子は怒ってはいないのだろう。怒ってはいないが、拗ねてはいるのだ。だから、こんな露骨な態度を取っているのだ。
(…………って、本当に拗ねてるだけなのか? 拗ねてるように見えて、実はブチ切れてるって可能性は無くないか?)
 怒っているのならば謝罪を続けねばならないし、償いもしなければならないだろう。だがもし拗ねているだけであるのなら「しょうがないなコイツぅ」とばかりに抱きしめてやれば、それで案外巧くいったりするのではないか。だがこれは、本当に怒っていた場合は地雷を踏むことになりかねない。
 ううむと月彦が困り果てていると、由梨子が僅かに顔半分だけ振り返り、ぽつりと呟いた。
「…………先輩。私、本当に怒って“は”いませんから」
 は、の部分を妙に強調して言い、またぷいと由梨子はそっぽを向いてしまう。どうやら今のは由梨子からのヒントだったらしい。
 これで漸く、月彦の動きは決まった。そっと、二人の間を隔てているテーブルを迂回するように四つ足に移動し、その体を背後からぎゅーっと抱きしめる。
「……何するんですか。止めてください」
 およそ由梨子の口から出たとは思えない程に、冷たく、無機質な声だった。
(…………いや、むしろなんか懐かしいな。会ったばかりの頃の由梨ちゃんを思い出す)
 そう、世の中の男なんて全部死んでしまえとでも言いたげな冷たい目をしていた後輩の姿を思い出して、月彦は思わず噴き出しそうになってしまう。
「…………何がおかしいんですか?」
「いや、ごめん。…………何か、懐かしくって」
 月彦の言葉で、由梨子も何故月彦が噴き出しそうになったのかを察したらしい。たちまちその顔が、耳まで赤くなる。
「や、止めて下さい! 昔は昔……です」
「いや、俺は別に何も…………でも、なんかいいな。そんな風にツンツンしてる由梨ちゃんも可愛い」
「…………からかわないでください」
「からかってない。本気で可愛いと思ってる」
 両手に力を込め、ぎゅうと抱きしめる。ん、と由梨子が僅かに苦しげに呻き、力を緩めようとすると、まるで止めないでとでも言うかのように、由梨子の右手が。その指が甘えるように月彦の腕を掴んできた。
 そのまま、まるで時が止まったかのように。二人の息使いと、そして微かな風の音だけが室内を満たした。曇っているくせに妙に寒い日だが、室内でこうして身を寄せ合っていれば、それだけで暖かかった。
「……先輩」
「うん?」
「…………私、本当に心配したんですから」
「……ごめん」
「真狐さんも酷いです。なにも私の部屋に来る日にそんなことしなくたって……」
「いや、いついかなる時だろうと監禁なんて許される事じゃ無いと思うけど」
 由梨子の言い方が、まるでデートや密会の予定の無い時であれば別に構わないとでも言いたげで、月彦は再度吹きそうになる。もちろん由梨子も本気ではなく、冗談で言ったのだろう。
 漸くにして、ふふふと僅かに口元に笑みが浮かんだからだ。
「………………あの、先輩?」
「うん」
「すみません、私、少し嘘ついてました」
「どんな嘘?」
「本当は、少し……少しだけ、怒ってます」
「少し、か」
 由梨ちゃんは優しいなぁと、胸の中で噛み締めるように思う。
「だから、その……先輩も、少しだけ……私の我が儘聞いて欲しいです」
「いいよ。どんな我が儘?」
 矢紗美や雪乃相手では、とてもそんな白紙の小切手は恐ろしくて切れない。しかし可愛い後輩の頼みとあれば話は別だ。
「あの……せめて、日が落ちるまででいいですから、一緒に居たい……です」
 おやおやと、月彦は思わず苦笑してしまいそうになる。
(……いくらなんでも、控えめ過ぎだ)
 由梨子らしいと言えばそれまでだが、今日ばかりはそれではダメだ。何故なら、由梨子に償いをする為に、由梨子のバイトが休みの日を狙って、さらに全ての予定をキャンセルして学校が終わるなり部屋を尋ねたのだから。
「そんなのは我が儘のうちに入らないよ。もっとこう、がつーんと来て欲しい。思わず“えぇ!?”って言いたくなるくらいのをさ」
「いえ……別に、そんな…………」
 月彦の腕の中で、由梨子はふるふると首を振る。
「こうしてるだけで、本当に幸せ、ですから」
 でも、と口にしかけて、止める。由梨子の性格上、やはり我が儘を言えと詰め寄って本当の希望を聞き出すのは難しいと判断したからだ。
 だったら――。
「あっ」
 そのまま絨毯に倒れ込むようにして由梨子を仰向けに押し倒す。驚く程簡単に事が運んだのは、やはり由梨子自身もそうされることを望んでいたのだろう。
「だ、ダメです……先輩……今日、は……」
「今日は?」
「……えと………………すみません。……言ってみただけ、です……」
 かぁぁと、またしても赤面しながら、由梨子が恥ずかしそうに目を伏せる。
「……全然、ダメじゃないです………………続けて、下さい」
「うん」
 頷き、体を重ねようとすると「あっ」と、由梨子が素っ頓狂な声を上げた。
「で、でも……明日も学校、ですから……あの……あんまり“濃い”のは…………普通で、おねがいします…………」
「わかった。“普通”でいいんだね? ………………本当に?」
「あの、やっぱり……“あっさり”で……ンッ……!」
 最後まで喋らせず、唇を奪う。意外にも由梨子は抵抗を示し、まるで体を押しのけようとするかのように肩へと宛がわれた左手に、自分の右手を合わせる。そのまま指を絡めるように握り合い、絨毯の上へと押し倒すと、やがて由梨子は抵抗を止めた。


 いつになく、月彦は入念に前戯を行おうと心に決めていた。それでいて、由梨子が満足したと判断すれば、仮に射精寸前であろうとも歯を食いしばって耐える覚悟も決めていた。間違っても、由梨子が翌日学校を休む羽目になるような真似はするまいと。
「ンッ……んっ、んっ……んハッ……せん、ぱっ……ンッ……ちゅっ……ンッ……!」
 互いの唇を舐め合い、舌を吸い合うようなキス。由梨子に主導権を握らせれば、思わず腰砕けになるほど巧いキスをされるのは解っているが、押し倒されているという位置関係故か、由梨子は受けに徹しているようだった。
 ならばと。月彦は優しく、啄むようにキスの雨を降らせながら、その体を優しく愛撫していく。
(……真央みたいに、体つきに興奮させられるって事はないんだが)
 逆をいえば、年相応に少女らしい体つきの由梨子の体は、それはそれで魅力的だ。控えめなおっぱいもまだまだ成長は見込めるし、何より感度がいい。ブラウスのボタンをいくつか外し、手を差し込んでブラの上から触ると、由梨子は次第に鼻にかかった声を上げ始める。
「あんっ……だめですよ、先輩。もっともっとキスしてくれなきゃ、おっぱいは触らせてあげません」
 しかし、“めっ”とばかりに手が撥ね除けられる。代わりにキスをねだられ、苦笑混じりに月彦は応じる。
(前の時みたいに、シたいオーラ全開の由梨ちゃんもエロいけど……やっぱり普段の控えめな由梨ちゃんもいいなぁ)
 尤も、あの時は念願の一人暮らしということで、由梨子もテンションが高かったのだろう。
(………………まぁ、それも優巳姉に台無しにされちまったわけだが)
 考えてみれば不憫な話だ。一人暮らしの記念すべき一日目、水入らずで楽しい夜を過ごせると思っていたら邪魔が入り、そのお詫びも兼ねて改めて約束をすれば、真狐に邪魔をされてしまったのだから。
(…………正直、由梨ちゃんはよく辛抱してると思う。だからこそ……)
 こうして一緒に居られる時間は、極力由梨子を楽しませてやりたいと思う。
「あ、んっ……先輩っ……そこ、くすぐったいです」
 まるで猫同士がじゃれ合うように互いの体を、髪を撫で合いながら。月彦は由梨子の耳へとキスをし、れろり、れろりと舌を這わせる。黄色い声を上げながら暴れる由梨子を抱きしめながら、今度は唇を奪う。
「んっ……!」
 たっぷりと舌を絡ませながら、再度ブラウスの隙間へと手を忍ばせる。今度は“めっ”はされなかった。おかげでたっぷりと、ブラの上から由梨子の胸元をまさぐることが出来た。
「先輩」
 キスを中断して由梨子が呟き、なにやら目配せをする。それだけで月彦は由梨子の言わんとするところを理解した。ブラウスのボタンを全て外し、前をはだけさせるや、由梨子は自ら背を浮かせる。すかさず手をいれ、金具を外し、ブラを上方へずらす。
(あぁ……なんて可愛いおっぱいだ)
 大きいものは、もちろん素晴らしい。が、小ぶりで形のよい由梨子のおっぱいも、同時にすばらしい。月彦は感激のあまり頬を擦りつけ、早くも堅く尖った先端の感触を頬肉全体で感じ取る。
「んぅ……もぉ……先輩っ、おっぱい好きすぎです」
 苦笑混じりに言い、由梨子は両手で胸に顔をすりつけている月彦の体を抱きしめてくる。
「……でも、そんな先輩が大好きです。私のおっぱい、先輩の好きにしちゃって下さい」
 言われるまでもないことだった。が、由梨子が許しを出したせいで、月彦は尚のこと荒ぶり、欲望のままにおっぱいを揉み、舐め、しゃぶり、吸った。
「あああぁぁぁ………………!」
 白い乳肉も、ピンク色の先端も、全ててらてらとした唾液の光沢に包まれるほどに舐め回され、由梨子は喜悦の声を上げる。そんな由梨子がますます可愛く思えて、月彦は堪らずに三度唇を奪う。
(…………ヤバい。由梨ちゃんはあっさり目がいいって言ってたけど……)
 この可愛い後輩をヨガり狂わせたくて堪らない。もう無理、お願いだから止めて下さいと泣き叫ぶ由梨子を何度も何度もイかせ、絶頂が癖になって止まらなくなるくらい可愛がってやりたいと、全身が疼き出す。
(って、ダメだダメだ! 前にも由梨ちゃんに言われただろ! 由梨ちゃんは“普通”なんだから、そんなことは望んでないんだ!)
 真央とは違うんだと、月彦は下半身から突き上げてくる煮えたぎるマグマのような黒い衝動を抑えつける。
(あぁぁ……でも、おっぱいが……由梨ちゃんの、おっぱい……)
 わさわさと、両手がそれぞれ別個の意思を持っているかのようにざわめき、由梨子の胸元へと這い回る。
「あっ」
 手つきは、あくまで優しく。
「ンッ……ぁっ」
 円を描くように。
「やッ……ンっ……ぁっ……ふぅ……」
 ピンピンに尖った先端を指で擦って。
「あっ、あぁぁぁぁ」
 摘んで。
「あンッ」
 そのまま、親指と人差し指でくりくりと転がすように。
「あっ、あぁぁぁ〜〜〜〜〜っっっ!!」
 真央も巨乳の割りには感度抜群だが、由梨子はさらに上だ。胸を弄られる度に身をよじり、或いは背を逸らし。体を跳ねさせながら悶えるその様に、月彦は思わず愛撫を中断して由梨子を抱きしめてしまう。
「せ、せん……ぱい?」
「ごめん、おっぱいで感じてる由梨ちゃんがあんまりに可愛くって」
「ぁぅ……だ、だって……自分で触るのと、全然違っ……ンンッ…………ンッッ!」
 そして今度はその唇が愛しくて、奪わずには居られない。れろり、れろりと舌を絡め合いながら、由梨子の髪を撫で頬を撫で首を撫で。
「ンンンッ……ぁっ……せんぱっ……ンンンッ!!」
 体をバタつかせながら喉奥で噎ぶ由梨子が可愛くて、ますますキスをしたくなる。こぶりなおっぱいも掌に心地よく、尖った先端を時折指で弾くように弄びながら、唇以外の場所へとキスの雨を降らせていく。
「由梨ちゃん、そろそろベッドに上がろうか」
 肩で息をしながら、ぐったりと脱力している由梨子の体を抱え上げ、月彦はベッドへと腰掛け、自分の足の間に由梨子を座らせるような形で抱きしめる。
「ふ、ぁ……せんぱ……? ンンッ……!」
 由梨子の顎先を捕らえ、自分の方を向かせてのキス。今まで出来なかった分を取り戻すかのような、キス、キス、キスの嵐。
 同時に。
「ぁっ、やっ……待っ……せん、ぱ……ンンッ……」
「解ってる。もう“ドロドロ”になっちゃってるんだろ?」
 暴れる由梨子を抱きしめながら、唇を奪いながら、そのまま右手をスカートの下へと忍ばせる。ストッキングの下、下着のさらに下へと。
「やンッ……んっ……ンはっ……んんっ……ンンッ!」
 指先から伝わってくるのは、凄まじい湿度と熱気。ちゅく、ちゅくと指先で秘裂を愛でると、さらにどろりと凄まじい量の愛液が溢れてくる。
「うわっ」
 と、わざとおどけた声で言うと、由梨子はたちまち目尻に涙をにじませながらうぅぅと唸りだした。
「ごめん、由梨ちゃん。でも、恥ずかしがってる由梨ちゃん、めちゃくちゃ可愛いよ」
「…………ほ、ホントに……気に、してるんですから………………そ、それに、もう……十分……ぁ、やンッ!」
「十分に……何?」
「じゅ、十分に……ぬ、濡れ……ぁっ、ダメ……せん、ぱっ……指、曲げなっ……ァァァァぁぁぁ!」
「でも、こうするととぷとぷって、スゴい量溢れてくる」
「ダメ、ダメ……だめ、だめ……おね、が……指、止めてくださっっ……だめ、だめっ……やっ、で、出るっ……出ちゃう……!」
 イヤイヤをしながら由梨子は両手で月彦の右手を掴み、制止を懇願する。が、逆にその動きは速まり、部屋中に水音が響くほどに激しくなる。
「やっ……ぁ……ッッッッ……………………ぁぁぁぁアアアアッッッ!!!!」
 すんでの所で、隣人への配慮を思い出したのか、由梨子が掠れた声を上げながらその身を痙攣させる。同時に、ビュビュビュと凄まじい量の秘蜜が迸り、下着だけでは到底受け止めきれないそれがストッキングへとにじみ、さらにシーツへと漏れ出してくる。
「…………め、って………………だ、め……って、言った、のに…………先輩、ヒドいです……」
 ぜえぜえと肩で息をしながら、由梨子がわりと本気っぽい抗議の涙目で睨んでくる。
「ご、ごめん……いや、えと……なんていうか…………」
 つい、いつものノリで潮を吹かせてしまったが、そういえば今日は由梨子が少しでも嫌がるような事は一切やるまいと誓っていたことを、月彦は今更ながらに思い出した。
(いや、でも……今のはYESっていう意味のNOだった、はず……)
 むしろ、本当に止めてたら、由梨子は怒っていたに違いない。うんうんと頷いていると、うーっ、と唸る由梨子に鋭く睨まれ、月彦は改めて謝罪をしなければならなかった。
「……本当にごめん。ここからは、本当に、ちゃんと優しくするから」
 ガラスのように脆い決心を抱きながら、月彦は優しく由梨子の体をベッドへと横たえるのだった。




 翌日も学校があることだし、由梨子の言う通り、足腰立たなくなるまで攻めるのは少々良識の欠けた行為であると言わざるを得ない。
 一回、そう、一回だけ。その変わり一回に全身全霊を賭ける。出来れば、由梨子に「あの、やっぱりもう一回だけ……」と言われるくらい極上のセックスを味わってもらうべく、月彦は奮闘した。

「せんっ、ぱっ……ンッ、ぁっ…………ぁああッ!」
 ストッキングは破かず、下着と共に泣く泣く脱がし、挿入する。由梨子の中は狭く、窮屈に感じる。が、それ故にグイグイと押し広げながらの挿入感がなんとも堪らない。
(あぁ……この窮屈で、しかもギューーーーって抱きついてくるような感じが……)
 中の具合を確かめるように小刻みに動かしながら被さり、唇を重ねる。ぴんぴんに先端を尖らせたおっぱいに触りたいのを我慢して、優しく髪を撫でながらたっぷりと舌を絡め合う。
(うん、やっぱり……由梨ちゃんはキス好きだよな)
 裏を返せば、好きだからこそキスが巧くなったのかもしれない。浅い出し入れを繰り返しながらキスを続けると、次第に由梨子が喉の奥で喘ぎ出す。
「ぁっ、んっ……せん、ぱっ……ンッ…………んふっ……んんっ…………!」
 或いは、由梨子にはこれくらいの抽送が一番気持ちいいのかもしれない。
「あっ…………あッ!」
 抽送を繰り返しながら、徐々に深くまで挿入する。由梨子が身を強ばらせ、しがみつくように手を回してくる。
「せんっ……ぱっ……ンッ……! はぁはぁはぁ…………先輩っ……はぁはぁ……」
 由梨子の息使いに合わせて腰を使う。喘ぎの合間に唇を重ね、時折申し訳程度に胸元へと触れ、先端を吸う。
「あっ、あっ、…………あっ……!」
 由梨子の声に切なさが混じり始めたところで、月彦は体を起こす。由梨子の片足を抱え上げ交差位の形に移行するや、見る見るうちに由梨子の反応が変わる。
「あッ……やっ、先輩っ……あァァァ……!!」
「由梨ちゃん、やっぱり好きだね。さっきより絡みついてくる」
「この、姿勢、だと……先輩の、が……奥まで…………ッ……ンぁっ!」
 ベッドシーツを掻き毟るように握りしめながら、由梨子はかぶりをふり、声を上げる。
「あァッ! あァァッ! あァァッッッ!!」
 突き上げる度に由梨子は腰回りを痙攣させながらよがり、剛直を締め上げてくる。そんな由梨子の反応に満足しながら、月彦もまた徐々に絶頂へと上り詰めていく。
(でも、まだまだ。これくらいで終わらせるのはもったいない)
 このまま互いに達するまでこの姿勢を続けるのは容易い。が、今日は一回しかしないと決めた以上、その1回をできる限り濃密なものにするべきだ。月彦はさらに抱えていた足を潜るようにして下ろし、由梨子を四つん這いにさせるや、今度は背後から激しく攻め立てる。
「やっ、んっ! あんっ! あぁんっ! あんっ!」
 今までの比較的ゆっくりとした攻めから一転、ケダモノの様に由梨子を求める。結合部から溢れた恥蜜が飛沫となってシーツを濡らし、さらに揮発したそれらが月彦の興奮をさらに高めていく。
「せんっ、ぱっ……やっ……激しッッ……あんっ! あぁっ!」
 逃げるように前へと這おうとする由梨子の腰をしっかりと掴み、突き上げる。
「あッ! あッ! あッ! あッ! あぁぁぁぁぁぁッ!!!」
 イヤイヤをするようにかぶりを振る由梨子を、攻め殺す勢いで、何ども。何度も何度も突き上げる。
「やっ、もっ……ゆる、し……も、もう……無理っ……許し、てッ……」
 溢れた愛液が太ももを伝い、膝周りに染みを作るほどに突き上げて漸く、月彦は再び由梨子の片足を抱え上げ、交差位へと戻す。同時に、抽送のペースを落とし、労るように優しく突き上げる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ…………せん、ぱい…………はぁはぁ…………ンンッ…………」
 目尻に涙を浮かべながら、安堵の笑みを浮かべる由梨子の唇を奪う。
「ンンッ……んふっ……ンンッ……」
 何かを求めるように差し出された由梨子の右手に、己の左手を重ねる。しっかりと指を絡めて握りしめながら、徐々に、徐々に抽送のペースを上げていく。
「あァッ……あんっ! あぁっ……先輩っ…………先輩っ…………はぁはぁ…………」
「っ……由梨ちゃん……!」
 見つめ合うだけで、互いにイきそうだと理解する。こくりと、由梨子が頷く。
「だい、じょうぶ、です……この、まま……ンッ……一緒っ…………一緒っ、にっ……はぁはぁ…………」
 一緒に――由梨子の望み通りにするべく、月彦は呼吸のペースすら、由梨子に合わせるように、快感を高め合っていく。
「あっ、あっ、あンッ……! あぁっっ、あぁぁぁっ……先輩っ……先輩っ……先輩ッ! はぁはぁ……もうっ……はぁはぁはぁ…………イ、イクッ…………ンンッッ…………ッ!」
「はぁっ……はぁっ……ゆり、ちゃっ……ッ……!」
 由梨子の絶頂に合わせて唇を重ね、剛直を押し込む。痙攣するように収縮を繰り返す由梨子の中へと子種を注ぎ込みながら、絶頂の余韻を楽しむようにキスを重ね、何度も、何度も。
 愛しげに由梨子の髪を撫で続けた。

「…………全然“あっさり”じゃないです」
 呼吸を整えながら、たっぷり十五分以上抱きしめ合ってキスをし合った後で、由梨子は拗ねるような口調で言った。
「先輩は、もうちょっと……手加減を覚えるべきだと、思います」
 怒っているわけではない。そう示すかのように、由梨子は鼻先を月彦の胸元に埋めるようにしながら、言葉を続ける。
「真央さんがもっと、もっとって求めてくるから、世の中の女の子がみんなそうだって、先輩は勘違いしてるだけです。真央さんを基準にしないでください」
「ご、ごめん……努力、するよ」
「………………罰として、私にもさせて下さい」
「え?」
 由梨子の言っている意味が分からず、月彦は大きく首を傾げた。
「…………私だって、先輩をいっぱい気持ちよくさせてあげたいって思ってるんですから」
「いやでも……」
「それに、いつも言ってるじゃないですか。………………私、口でするの、好きなんです」
「ちょっ、由梨ちゃっ…………そんなことされたらまたしたくなっっ――……うぁっ…………」



 結局、そのまま由梨子に口でヌかれ、さらに一緒にシャワーを浴びるついでに浴室でもシてしまった。若干疲労困憊気味ながらも、せめて夕飯までは一緒にと食い下がる由梨子の誘いを丁寧に断り、月彦は帰路につく。
(晩ご飯までご馳走になったら、絶対“お泊まり”になっちまう)
 明日が休みであれば全然構わないのだが、さすがに平日お泊まりは気が引ける。腕時計に目をやると、既に七時を回っている。家では葛葉が晩ご飯の支度を済ませているだろう。月彦はすっかり日の落ちてしまった夜道を早足に急ぐ。
「あっ」
 と、足が止まったのは丁度駅前の辺りにさしかかった頃。行き交う人々の群れの中に見知った顔を見つけて、月彦は声をかけようと手を上げかけて、咄嗟に止めた。
(…………いや、今日は止めておくか)
 今日は、確か母親の命日の筈だ。こんな時間に、しかも通学に使っているバスではなく駅から出て来たということは、間違いなく墓参りの帰りだろう。顔を合わせれば間違いなく舌打ちをされ、ただでさえナーバスな気分なのにと吐き捨てられるのは目に見えている。
 月彦はそのまま、気づかぬフリをして雑踏に紛れ、家路を急ごうとした。が、その手が不意に掴まれた。
「ちょっと、どういうつもり?」
「え……? あ、あぁ……よう、妙子。なんだ、お前も今帰りか?」
 まさかの、相手の方からの接触に心底驚きながら、月彦は愛想笑いを浮かべる。が、掴んだ手を乱暴に離しながら、妙子はいつになく険のある目線を向けてくる。
「さっき一瞬私の方見たでしょ。気づいてたくせに」
「うっ………………いや…………だってお前、今日アレだろ? おばさんの墓参り行ってきた帰りだろ?」
「……………………ちょっと待って。なんであんたがそのこと知ってるの?」
 絶句するほど驚いたらしい妙子の返答は随分と遅かった。知ってるもなにも、と。月彦は当たり前のように言葉を返す。
「だって今日はおばさんの命日で、毎年おじさんと一緒に墓参りしてたろ? 小学校の頃とか、遊ぼうぜーつっても、今日はお墓参り行くからって一人断ってたじゃないか」
「確かに、お墓参りに行ってたけど……」
「だから、今日はそっとしといたほうがいいかな、って声を掛けなかったんだよ。それが気に障ったのなら悪かった。別に悪気があって無視したわけじゃないんだから、もういいだろ?」
 妙子としても、自分が無視された理由に納得がいったのだろう。が、代わりに別の疑問でも湧いたのか、相変わらず「納得がいかない」とでも言いたげな目を向けてくるから困ったものだった。
「何だ、まだ何か言いたいことがあるのか?」
「…………別に、私個人としては、あんたに用なんか無いんだけど」
「ん?」
「本当はこれから、あんたの家に行く予定だったの。だからここで逢えて良かったわ、少しだけ時間と手間の節約になったから」
「ちょっと待て。うちに来る予定だったってどういうことだ」
「いいから、あんたに会いたいって人を連れて来たのよ。…………おかげで私もあんたにいろいろと訊きたいことが出来たわ“月彦先生”?」
「はぁ? 妙子、お前何言って――」
 そこまで口にした時、妙子は徐に背後を振り返り、手招きをした。同時に、行き交う人々の遙か後方、まるで人混みを避けるように電柱の影に身を寄せて隠れていた人影が、どこかばつが悪そうに近づいてくる。
「んなっ……」
 見覚えのある顔――というよりも、忘れられないほどにたわわなその胸元に、月彦は完全に絶句の表情のまま固まった。頭の中に浮かぶのは何故の嵐。
(なんで……よりにもよって……妙子と……)
 ゴロゴロと車輪つきのキャリーバッグを引いた、ケープコート姿の女性は、妙子のやや斜め後方の辺りまで来るや、丁寧にお辞儀をする。恐る恐るといった具合に上げられた顔には、照れるような、恐縮しているような、しかしそれらを遙かに上回る歓びに満ちた笑顔。
「こんばんは、先生。…………どうしてもお会いしたくて、来てしまいました」
 こんばんは、しほりさん。でもどうして――月彦の返事は、声にはならなかった。


 学校が終わるなり、妙子は直接バスで母の遺骨の眠る霊園へと向かった。管理人に挨拶をし、墓周りの掃除を済ませ、持参した線香をあげながら手を合わせ、一年間の出来事を報告した。
(お父さんは仕事が忙しくてどうしても来れないって。ごめんね)
 父の分まで墓参りをして、霊園を出た時にはもう日が暮れようとしていた。ただでさえ冷たい風が、さらに冷えたように感じる。マフラーを巻き直しながら、妙子はバスに乗車する。直接自宅付近へと向かえるバスではないから、一度駅まで移動し、そこからさらに電車で最寄り駅まで戻る――そのつもりだった。
 途中、バスの中で携帯を確認すると、千夏からの着信とメールが届いていた。着信の方は一時間ほど前のことで、墓の掃除中鞄の中にいれっぱなしだったから気がつかなかったのだろう。メールはさらにそこから三十分ほど後に着信していて、今日はバイトが休みになったからたこ焼きをお土産に遊びに行ったのに、留守だから仕方なく家に帰って一人で食べたという内容だった。
(………………これ、地味に危機一髪だったんじゃないかしら)
 もし今日が墓参りの日ではなく、佐由と英理のノリに流される形でタコパを開いていたら、そこに千夏が乱入するという大惨事に発展していたのではないか。
(…………きっと、お母さんが守ってくれたんだわ)
 うんうんと、頷きながら妙子は安堵していた。佐由らも千夏も、それぞれ片方ずつ付き合うなら何の問題も無い相手だが、三人を会わせてはいけないという直感が、断固として妙子の中にあるのだった。
 千夏には、今日は学校の後墓参りに行っていたと謝罪文を付け加えて返しておいた。返信を打ち終わったところで丁度バスが駅前につき、妙子は小銭を払ってバスを降りる。七時前ということもあり、駅前は人でごった返していた。人混みが苦手な妙子は半ばうんざりしながらその中へと切り込もうとした――その時だった。
「えっ……」
 心臓が止まった。比喩ではなく、間違いなく一瞬、白石妙子の心臓は止まった。そう確信できるほどの衝撃だった。
 行き交う人々の群。恐らくは、一生口すらも効かない者達ばかりであろうその中の一人に、妙子の目は釘付けにされた。
 そんな、まさか、ありえない――そんな思いを遙かに凌駕する、抑えがたい衝動に、妙子は走り出す。周囲の奇異の視線など全く気にならなかった。
「お――」
 声が、震える。矢も盾も堪らずに、妙子は叫んでいた。
「お母さん!」


 冷静に考えてみれば、そんな筈は無かったのだ。母は故人であるし、仮に生きていたとしても、遺影の姿とは随分と変わっているだろう。しかし、あのときはもう、叫ばずにはいられなかった。
「…………すみません、後ろ姿があまりに似てたものですから」
 一端駅前から離れ、人通りの少ない路地裏の入り口にまで移動してから、妙子は改めて謝罪した。幸い、公衆の面前で恥をかかされたという意識は薄いのか――どちらかといえば、妙子の方が恥をかいたことになるのだが――相手の女性は、終始菩薩のような笑顔を浮かべていた。付け加えるなら、若干困り顔の菩薩ではあるが。
「いえ……そんな……謝って頂くようなことでは……」
 妙子は顔を上げて、相手が不審に思わない程度に困り顔の女性を観察する。なんとも柔和な、そして母性溢れる顔立ちの女性だった。目尻の下がった目も、優しそうな顔立ちに一役かっている。髪は一本結いにしたものを右肩から前へと垂らしていて、それを見る限りでも、自分が何故母と見まがったのか妙子は分からなくなる。
(……全然似てないのに)
 少なくとも、母がこのような髪型をしている写真は見た事がない。服装についても言わずもがな。
(後ろ姿だけ、似ていたのかしら……)
 たった今迷惑をかけたばかりの相手に、さすがに「ちょっと向こうを向いてもらえませんか?」とは言えない。
(…………それに、お母さんはこんなに……)
 凝視しては悪いとは分かってはいても、どうしてもそこに目がいってしまう。ケープコートの上からでもはっきりと解る。たゆゆんとした、なんとも豊満な膨らみがそこにあるからだ。
(…………あのバカだったら、鼻血出しながら踊り出しそうね)
 大きさという意味では、妙子のそれよりも明らかに大きい。さぞかし苦労をしてきたのだろうと、それだけで妙子は女性を見る目に憐憫の情を込める。
 一方、女性の方も始めこそ困惑の表情をしていたが、妙子の胸元を見るなりどこか安堵したようだった。
「あの……違ったらすみません。……ひょっとして同族の方でしょうか?」
「同族……?」
「あっ、いえ! すみません……忘れて下さい。…………でも、お若いのに随分立派なものをお持ちみたいで……」
「………………ありがとうございます」
 きっと、悪気はないのだろう。だから、妙子は反射的に胸を守るように腕を宛がいながら、精一杯の愛想笑いでそう返した。
「もしよろしかったら……お名前を伺ってもいいでしょうか?」
 えっ、と。妙子は一瞬躊躇った。迷惑をかけてしまったとはいえ、見ず知らずの相手に名前を教えるのは、後々面倒な事になるかもしれないからだ。
(そもそも、どうして名前なんて……)
 謝罪して、別れて、それで終わりではないのか。しかし迷惑をかけてしまった手前、教えて欲しいというのなら名前くらい教えるのが筋のように思える。
「白石……妙子、です」
「妙子さん、ですね。私は芭道しほりと申します。……実は“郷里の田舎”から出て来て、今日こちらに着いたばかりで……」
 しほりは困惑したような顔で、左右を見回す。
「知人を訪ねて来たんですけど……記憶を頼りに近くまでは来れた筈なんですが……正直、この先どうしたら良いかわからなくなってしまって……」
「その人に連絡はとれないんですか?」
「連絡……ですか? すみません、どのようにとればいいんでしょうか?」
「どのように、って……相手の携帯の番号とか分からないんですか?」
「ケイタイノバンゴウ……ですか? すみません、あの……私、故郷から殆ど出たことがなくて、よく分からないんです」
 どうやら郷里の田舎という場所は、本当の意味で田舎らしい。しほりはからかっているわけではなく、本当に携帯電話というものを知らない様だった。
(……いくら田舎っていったって、今時そんな所あるのかしら)
 ひょっとしたら、田舎というのは海外なのかもしれない――そんなことを考えながら、妙子は質問を変えた。
「えっと……じゃあ、携帯じゃなくて家のほうの電話番号とかは……」
 しほりは困り切った顔で、首を振る。
「家の住所とかも分からないんですか?」
 頷く。妙子はなにやら目眩を覚えるも、しかし迷惑そうな顔をするのはさすがに控え、殆ど諦め気味に最後の質問を口にした。
「じゃあせめて、相手の名前とかは……」
 さすがにこれも分からないのであれば、仮に交番まで連れて行ってもどうにもならないだろうなと。そんなことを考えながらの質問に、しほりは曇の晴れ間のように笑顔を輝かせた。
「それならわかります! “コンザキツキヒコ”さんです!」
「コンザキツキヒコさん、ですね。だったら交番で――」
 ん?
 しほりを駅前の交番に誘おうと歩き出した足が、唐突に止まる。
「コンザキ ツキヒコさん?」
「はい」
「紺色の紺に、みさきの崎に、天体の月に彦一とんち話の彦って書く、紺崎月彦じゃないですよねまさか」
「あの……どういう字を書くのかはわからないんですけど…………ひょっとして、月彦さんのお知り合いの方なんですか?」
「…………一応、私の知り合いにも紺崎月彦は居ますけど……多分……えっと、芭道さんの捜してる人とは別人だと思います」
「そうなんですか? あの、男性で……年は妙子さんと同じくらいで………………その…………お、おっぱいに……すごく詳しい方、なんですけど……」
「………………………………。」
 妙子は目頭を押さえ、しばし沈黙した。この辺に住んでいて、しかも同い年で、おっぱいに詳しくて、しかも名前の読みがコンザキツキヒコという条件の最小公倍数が一人以外の答えになるとは、とても思えなかったからだ。
「………………失礼ですけど……アイツと一体どういう関係なんですか?」
「私と月彦さんの関係……ですか? ………………そうですね……患者と先生……だと思います」
「芭道さんが先生ですよね?」
「いいえ……その、私が、患者……です。…………月彦さんには……以前おっぱいの悩みを解決して頂いた事があって……」
「へぇえ……」
 ピクピクと、眉尻が痙攣するのは、怒りの為ではない。呆れ故だ。
(アイツ……私の知らないところで何やってんのよ!)
 ろくでもない男だとは思っていたが、こんな人の良さそうな人妻――に見える――を騙して胸を触るようなクズだとは思わなかった。
「………………芭道さん。もし良かったら、今から月彦の所に案内しましょうか?」
「えぇっ!? いいんですか? 妙子さんのご予定とかは……」
「私も、用が出来ましたから。今からアイツの家に行きますから、良かったら一緒にどうぞ」
「ありがとうございます! すごく助かります! …………あぁ、私はなんて運が良いんでしょう! まさか月彦さんの知り合いの方に偶然出会えるなんて!」
 感激し、涙すら流しそうな様子のしほりとは裏腹に、妙子は完全に怒りのバロメーターを振り切っていた。
(アイツ……事と次第によっちゃブン殴ってやる)
 グッと右拳を握りしめながら、妙子はしほりを伴い、駅の中へと入っていった。


 駅前での、まさかの邂逅から十五分後。月彦は駅前からやや歩いた所にあるファミレスの四人がけ席に座っていた。これ以上ないという程に両肩を縮こまらせるその様子は「今から叱られることを覚悟している子供」もしくは「もう弁明のしようもない程に、浮気がバレてしまっていることを自覚している夫」のそれだった。
 テーブルを挟んで座っているのは白石妙子と芭道しほりの二人だ。この組み合わせを見る度に、月彦は異世界にでも紛れ込んだかのような錯覚を覚える。理解しようとしても頭の方が痺れてしまって、一体全体何がどうなってこうなってしまったのか全く分からなかった。
(何故だ何故だ何故だ……一体どうして妙子のやつがしほりさんを連れてくるんだ……)
 まさか、親族だったとでもいうのか。だとすれば、妙子の発育具合にも納得なのだが、さすがにそんなはずは無いとかぶりをふる。
「……えと、とりあえず……ちょっと帰りが遅くなるって家に電話いれてくる」
 場の空気に耐えかね、月彦は席を立ってレストルーム入り口横のピンク電話の前まできて、ほっと息を吐く。着席していた間、殆ど息が吸えてなかったのではないかというほどに呼吸が楽になるのを感じる。
 十円玉を投入し自宅へと電話をかけながらちらりと席の方を盗み見るや、月彦はまたしても震え上がった。
(ううっ……妙子のやつ、こっち睨んでやがる……)
 恐らく――否間違いなく。しほりとの関係について知っているのだろう。敵意どころか殺意すら感じさせるその視線は不可視の光線となって肉体を通過し、月彦の心臓に鋭い痛みを発生させる。
「あ、もしもし……母さん? ごめん……ちょっと今日は帰り遅くなるかもしれない。うん、うん……晩ご飯は一応とっておいてほしい……ごめん」
 手短に電話を済ませ、席へと戻る。妙子は相変わらず憮然とした顔で両手を組んでおり、しほりはといえば興味深そうにファミレスのメニューをテーブルの上に広げて注視していた。
(あっ……やべっ……)
 と思ったのは、しほりが見ているのがステーキの欄だったからだ。使われているのは当然牛肉であり、同族のしほりにとってそれはショッキングなものの筈だ。
「あっ、しほりさん! それは――」
「大丈夫です。月彦さん達の食文化については、きちんと知っていますし、割り切れてますから」
 しかし、どうやら月彦の心配は杞憂だったらしい。或いは、平気ではないが平気だと言ってくれたのかもしれない。しほりは月彦が席へと戻るなり、メニューを元の場所へと戻した。
 ほどなく、席に案内されてすぐに注文した飲み物が届いた。妙子はホットコーヒー、しほりは緑茶、月彦はアイスティーだったが、口をつける気にはならなかった。
「……えーと……ひ、ひさしぶり……ですね、しほりさん」
「………………はい」
 しほりは緑茶のコップを両手で弄りながら、照れ気味に小さく頷いた。その間も、月彦はちらちらと、しほりの隣の席の妙子の機嫌を伺うように盗み見るが、妙子はまるで我関せずとでもいうかのように、店の外を眺めながらコーヒーに口をつけている。
「いやぁ、でもほんとびっくりしましたよ。しほりさんが訪ねて来たってだけでもびっくりなのに、まさか妙子と一緒に現れるなんて……はは、こうして見てるとなんだか二人母娘みたいですね」
「はぁ!? どういう意味よ!」
「す、すまん……別に深い意味はないんだ……」
 突然、テーブルにコーヒーカップを叩きつけるようにして会話に割り込んで来た妙子に月彦は震え上がりながらも弁明した。我関せずという態度をとってはいたが、隙あらば切り込んで来るのだと思えば、緊張に手まで震えだした。
「……こちらに不慣れな私が道に迷っているところを、偶然妙子さんが通りかかって助けて頂いたんです。私も最初はてっきり同族の方かと思ったんですけど……」
「な、なるほど……」
 摩訶不思議な二人の邂逅の秘密が漸く解けた気がした。道に迷って心細かったしほりは、恐らく妙子の胸を見て同族かもしれないと声をかけたのだろう。もちろん白石妙子は人間だが、そのまま困っている人間を――正確にはしほりは牛さんだが――見過ごせるはずも無い。しほりが捜している相手の情報を尋ねるうちにそれが紺崎月彦であると突き止め、聞き捨てならぬとばかりにやってきたのだろう。
(……問題は、どこまでしほりさんから聞いてるかなんだが……)
 妙子は先ほど“月彦先生”と呼んだ。ということはしほりとの関係についてまで知ってしまっているのかもしれない。だとすれば、そこには大いなる誤解があるであろうことも容易に想像がつく。
(違う……違うんだ、妙子。俺はお前が思ってるように、欲望に任せてしほりさんのおっぱいを揉みまくったわけじゃない!)
 事、しほりに関しては胸を張って言える。やましい気持ちなど一切無く、百%治療の為の行為しか行っていないと。もちろん、しほりの色香に惑わされて何度も何度も何度も何度も足を踏み外しそうにはなったが、踏み外しかけただけでまだしっかりと立っている。責められるようないわれは何もないのだ。
(……ただ、妙子には口止めはしとかないといけないな。俺じゃなく、しほりさんの名誉の為に)
 間違っても、和樹や千夏らに漏らされるわけにはいかない。あの二人のことだ、弱みを握ったが最後、ことあるごとに先生、先生とからかってくるに違いない。そんな事態を避けるためにも、妙子とは腹を割って説明しなければならない。
(しほりさんもしほりさんだ……せめて来るって事前に連絡するとか、前の時みたいに真狐を仲介にすりゃーこんなことにはならなかったのに)
 というより、そもそもしほりはもう二度と会うことはないとは言っていなかったか。なのに何故――今度はそっとしほりの方を盗み見ると、しほりも月彦の視線の意味を察したのか、ややばつが悪そうに視線を伏せながら、両手でコップを持ち、緑茶に口をつけていた。
「えーと…………」
 双方に尋ねたい事、言いたい事はあるのだが、そのどちらを行うにももう一人の存在が邪魔になるという閉塞状況を、何とかしなければならない。となれば、どちらを先に行い、退席願うべきかは、考えなくても分かる。
「妙子、ちょっといいか?」
「何よ」
「ちょっと、こっち来てくれ」
 席を立ち、手招きをして先ほど電話かけたレストルーム脇へと移動する。固定電話の前からさらにレストルーム側へと移動すれば、個室というわけにはいかないがしほりの位置からは死角になるし、小声で話せば声も届かないだろう。
「あのな、妙子。先に言っとくけど、お前は誤解してる」
「ふーん。どんな誤解かしら」
 眼鏡の奥にある妙子の目はもう、凍てつく波動を伴う完全に性犯罪者を見るそれになっていた。幼なじみの、しかも初恋相手からそのような視線を向けられ、月彦は軽くメンタルブレイクしかかるも、何とか耐える。
「どうせお前は俺が人の良さそうなしほりさんを言葉巧みに騙して、おっぱいを触りまくったとか、そんな風に思ってるんだろ?」
「違うっていうの?」
「まったく違う! いいか、しほりさんはな……なんていうか、その……母乳が出なくて悩んでたんだ。それを知り合いに相談して、そいつがたまたま俺の知り合いで、んで俺が頼まれてそれを治した。それだけの話なんだ」
「なんで母乳が出ないからって、あんたがその治療を頼まれるのよ。医者でもないのに」
「そ、それは……そいつが、お前が揉めば治るって太鼓判押してくれたんだよ!」
「ふーーーーーん」
 変質者を見る妙子の目に、侮蔑と、呆れがさらに追加される。ああ、これはひょっとしてやぶ蛇ではないのかと、月彦は己の説明のまずさに絶望した。
(本当の、事なのに……)
 真実を脚色せず、ありのままに話したというのに、何故そこに説得力が付随しないのだろう。この時ばかりは、月彦は己に嘘の才能が無いことを嘆いた。
「ま、待て……妙子。しほりさんはな、既婚者なんだぞ。だからなんつーか、俺は本当に治療に専念したっていうか……やましいことなんか何もしてないんだ!」
「でも、揉んだんでしょ?」
「そりゃあ……揉まなきゃ治らないんだから、揉むしかないだろ」
 言い終わると同時に、月彦の目の前に火花が散った。ばちこーん!と凄まじい張り手を食らったのだと気づいた時には体が吹っ飛び、危うく女性用のレストルームの扉に突っ込みそうになって辛くも踏みとどまる。
「最ッ低……」
 吐き捨てるように、妙子が言う。
「やっぱりあんたって男は、おっぱいが大きけりゃ相手が誰でも構わないクズ野郎だったのね」
「痛ッ……つ……だから、なんでそうなるんだよ! 言っとくけどな、俺は下心とかじゃなくて、純粋に困ってるしほりさんを助けたくて――」
 ばちこーん! 今度は逆の頬を張られ、またしても視界に火花が散る。
「この期に及んでまだ言い訳する気!? 俺が揉みたいのはお前のおっぱいだけだーとか言ってたクセに、影でそんなことしてたなんて心底見下げ果てたわ」
「た、頼む……信じてくれ! 俺は嘘なんかついてな」
「触らないで!」
 縋り付こうとした手を払われ、さらに渾身の右が左頬にめり込む。さすがに堪えきれず、月彦はファミレスの絨毯の上に背中から転がった。
「金輪際、二度と話しかけないで。もしまた性懲りもなく家に来たりしたら、本気で警察呼ぶから」
「ま、待ってくれ妙子……せ、せめて……千夏達には言わないでおいてくれ……俺だけの問題じゃないんだ。しほりさんの名誉の為にも……」
 妙子は鋭く睨み付けるや、短く舌を鳴らし、そのままファミレスから出ていこうとして、何かを思いだしたように月彦の前に戻って来た。
「私の分の会計」
 そう言って、五百円玉を投げつけ、今度こそと店から出て行ってしまう。
「……うぅ……最悪だ……最悪の結果、だ……」
 やはり、信じてはもらえなかった。月彦はがっくりと肩を落とし、妙子が投げつけた五百円玉を握りしめ、テーブル席へと戻るのだった。


「あれ、月彦さん……お顔が……それに妙子さんは……」
「ああ、妙子は用事があるとかで先に帰りました。顔は気にしないで下さい、ちょっとトイレの前で変なのに絡まれちゃっただけです。よくあることですから大丈夫です。…………それよりも、しほりさん」
「は、はい!」
「あ、いえ……そんな、畏まられるほどの事じゃないんですけど…………」
 言葉に詰まる。尋ねたいことは山ほどあるが、それよりもなによりもやはり、“あの夜”のことを先に謝るべきだろうか。
(……一応、待ちぼうけさせちゃったわけだしなぁ…………)
 しかし、ひょっとしたらしほりにとって忘れたい過去であるのかもしれない。その辺の塩梅を掴みかね、月彦は次に口にするべき言葉を見つけられない。
「あぁ、そうだ。真狐のやつから貰ったミルク、すっごく美味しかったですよ。もう、市販の一番高い牛乳なんかでも比べものにならないっていうくらい美味しかったです」
「ぁ……ありがとう、ございます」
 ぽっ、としほりは顔を赤くしながらも、まんざらでもなさげに俯いてしまう。
「……月彦さんに、どうしても私のおちちを飲んで欲しくて……それで真狐さんにお願いしたんです」
「……………………てことは、やっぱりあれはしほりさんの……」
 ごくりっ。
 思わず生唾を飲んでしまう。薄々解ってはいたが、いざ当人を前にして言われると、ばつが悪いやら奇妙な興奮を覚えるやらで月彦は軽い混乱に陥った。
 慌てて、月彦は話題を変えた。
「そ、そういや……今日は真狐のやつには道案内は頼まなかったんですか?」
 鼻持ちならない女だが、しほりがきちんと真狐経由で訪ねてきてくれていれば、少なくとも妙子と修羅場ることは無かったはずなのだが。とはいえ、そんなこちらの都合を知るわけがないを責めるわけにはいかない。
「……………………あの、実は……今回はお忍びなんです」
「お忍び……ですか」
 はい、と。しほりは消え入りそうな声で頷く。
「その、月彦さんにどうしても相談したいことがあって……」
「俺に相談したいこと、ですか?」
「実はその……また、おちちが出なくなってしまって…………」
「えぇえ!? で、出なくなった……んですか?」
 はい――しほりはなんともばつが悪そうに、頷く。
「桜舜院さんに相談してもダメで……そういえば、月彦さんが何かあったらいつでも言ってくださいって、仰ってくれてたのを思い出して……それで…………」
「た、確かに……言いましたけど……」
「またおちちが出なくなってしまったとバレてしまったら、里の中で面目を無くしてしまうんです。だから、お忍びで……」
「な、なるほど……そういう事情だったんですね」
 月彦はてっきり観光か何かのつもりで来たものだとばかり思っていた。何故なら、久しぶりに顔を合わせたしほりはまるで満願叶ったかのような屈託の無い笑顔を零していたし、とてもそんな深刻な問題を抱えているようには見えなかったからだ。
(……やっぱり、妖牛族っていうくらいだから、おちちが出ないと困る……んだろうなぁ)
 おちちが出なくなってしまった原因は見当もつかないが、可能性として考えられるのは己の力量不足故の不完全な乳腺解放しかない。月彦は目を瞑り、己の未熟さを恥じ入った。
(なんてこった……俺が未熟なせいで、しほりさんに無用の恥と不安を与えてしまったのか)
 まだまだ精進が足りないと痛感する。かくなる上はすぐにでもアフターケアを行わなければと思った瞬間、まるで闇の中の稲光のように、怒った妙子の顔が脳裏をよぎった。
「………………ええと、すみません、しほりさん。ちょっと返事は考えさせてもらってもいいですか?」
「…………ふえ?」
 しほりからの返答は、なんとも間の抜けたものだった。言葉というよりは、全く想定外の出来事につい口から空気が漏れてしまったかのようだった。
「いえ、その……前の時に、俺は俺なりの全力で治療に当たったつもりです。もしそれでダメだったのなら、俺ではもう力不足かもしれないですから」
「そんな……そんなことありません! 月彦さんなら絶対に治せると思います!」
「……そこまで信じて頂けてるなんて、恐縮です。でも、やっぱり大事なことですから、一晩考える時間が欲しいんです」
「でも……」
 しほりは納得がいかないのか、うつむき気味にもごもごと唇を動かし続ける。
「それよりしほりさん、宿の手配とかはもう済ませたんですか? 今日はもう遅いですから、まだだったら急いだ方がいいと思います」
「宿……すみません、まだ何も…………私ったら、月彦さんにお会いすることしか考えてなくて……」
「そういうことなら急ぎましょう。俺も一緒に捜しますから」
 とりあえずは、前回しほりが宿泊したビジネスホテルをあたってみよう――そんなことを考えながら、月彦はしほりを伴って席を立ち、会計を済ませる。
(…………さすがに、うちに泊めるのは、な……)
 葛葉はともかく、真央がいい顔はしないだろう。もし良い宿が見つからなければ、最悪白耀に頼み込むしかないかもしれない。
(…………どうしたもんかな)
 しほりの期待には応えたい。しかし――月彦はしほりに気づかれぬ様、小さくため息をつきながら夜道を歩くのだった。



  翌日。いつも通り登校はしたものの、月彦は、悩んでいた。言わずもがな、目の前に用意された二つの道についてだ。
 左の道は、しほりの期待に応え、責任をもってアフターケアに望む道。但しその道は険しく、最悪妙子との絶縁を覚悟しなければならないかもしれない。
 右の道は、しほりに自分には無理だと伝え、他をあたってもらう道。甚だ無責任で、しほりを落胆させてしまうこと間違いないが、ひょっとしたら妙子との仲を回復できる唯一無二の道かもしれない。
 どちらも一長一短――否、一長三短くらいの厳しい選択肢だ。返す返すも、なぜしほりは真狐経由で来てくれなかったのかと嘆きたくなる。
(…………そういや、昨日別れ際に言ってたな。真狐さんには内緒にしててください、って……)
 しほりの言い分に、初めて違和感を感じた瞬間でもあった。しほりは、真狐の正体を知らない。あくまで春菜の親切な知り合いくらいにしか思っていない筈だ。であるのに、何故自分の来訪を隠そうとしているのか。
(…………あいつの事だから、隠そうとしても既に察知されてる可能性は高いが…………)
 幸い、昨夜のうちに無事宿はとれた。前回と同じビジネスホテルであり、今日学校が終わり次第訪ねていく約束にはなっている。それまでにどうするかを決めなくてはならない。
(先に妙子のところに行って弁明……いや、昨日の今日じゃ絶対話なんて聞いてもらえないな)
 昨夜のブチ切れ度合いから察するに、最低二週間は空けてからじゃないと話をすることすら不可能だろう。不幸中の幸いは、最後の嘆願通り千夏や和樹らにはしほりのことは黙っていてくれていることだった。もし伝わっていたら、今日は休み時間の間中つるし上げになっていたに違いない。
(…………断りたくない…………でも、もし、妙子がそれを許さないって言うんなら……)
 惚れた弱み――そんな簡単な言葉で片付けたくはないが、白石妙子に嫌われてまでやらなければならないことかと。自問する声があるのも事実。片や、一度は引き受けた仕事なのだから、最後までやり通すべきだという声もある。
 板挟み――そう、まさに板挟みだ。授業中、幾度となく月彦は呻きともつかない声と共に頭を抱え、その都度周囲の奇異の視線を集めた。


 結局答えが出ぬままに授業が終わりHRが終わってしまった。雪乃やラビに見つからないようにこっそり学校を抜け出し、そのままその足でしほりが泊まっているビジネスホテルへと向かう。
(…………よし、断ろう!)
 ビジネスホテルまでの道程の2/3程まで来たところで漸く、月彦は決心した。わざわざ訪ねて来てくれたしほりには心底悪いとは思うが、おっぱいの問題も春菜や真狐に任せておけばきっと解決するだろう。そもそも下手に手を出して悪化でもさせてしまったら元も子もないではないか。
(しほりさんには断って、その足で妙子の所に行って事情を説明する! 妙子の頭が冷えるまでなんて待ってられるか! 毎日通い詰めてでも誤解だって分かってもらう!)
 これがベストな選択肢だ。うっしと気合いを入れ、月彦はしほりが宿泊している部屋を訪ね、ノックをする。
「はい!」
 ノックをするや否やすさまじい勢いでドアが開かれ、月彦は危うく手の甲を強打するところだった。
「お待ちしてました、月彦さん! どうぞ!」
「どうも……おじゃま、します」
 おじゃましますというのも変な話だと思いながら、月彦は部屋の中へと招かれる。入ってしまった後で、いっそ部屋に入る前にきっぱりと断ってしまったほうが楽だったかもしれないと思ったが、後の祭りだった。
 そのまましほりに促されるままに月彦はベッドへと腰掛け、その隣へとしほりが座る。ふわりと、なにやら高級そうな石鹸の香りが鼻を擽った。
「あれ……ひょっとして、お風呂に入られたんですか?」
 学校が終わるなりすぐ訪ねたから、時刻はまだ四時前後の筈だ。入浴には少々早すぎるように思える。
「はい。月彦さんが夕方いらっしゃると仰ってたので……その前に……ええと……お風呂ではなくて、あれはシャワー……というのでしょうか。シャワーを浴びて、お待ちしてました」
「な、なるほど……」
 もじもじと、顔を赤らめながら指を絡ませているしほりに、思わずゾクリと寒気にも似たものを感じてしまう。恐怖から来るものではない。しほりから匂い立つすさまじいばかりの色香に、だ。
(ていうか……ちょっと、近いんだけど……)
 話をするにしても、適切な距離というものは存在する。にも関わらず、お互いの足と肩が触れあうほどにぴったりと身を寄せられ、月彦はなんとも居心地の悪いものを感じていた。
(真狐とかとは違って、露出なんて皆無の格好なのに……)
 しほりは相変わらずのロングスカートに、タートルネック姿だ。さすがに胸元の質量はセーターの上からでも圧巻だが、それよりなにより、しほりのささいな仕草の一つ一つが、ぞくりとするほどの色気を感じさせるのだ。
(もちろん、狙ってやってるんじゃないんだろうけど…………この、簡単に押し倒せそうな感じ……ヤバいんだよなぁ)
 普段から何かと誘惑に耐える機会の多い自分だから耐えられているが、並の男であれば理性を保つことなど出来ないだろう――そんなことを考えながらも、月彦はちらちらとしほりの胸元を盗み見ることを止められない。
(ううむ……凄い。Iカップ……いや、ひょっとしたらJくらい……)
 これでこそ牛さんのおっぱいと言える質量に、月彦は感無量だった。仮にしほりがおっぱいの不調を訴えて来なくても、定期検診だとかいって定期的に揉みまくりたい程に、その質量質感弾力全てにおいてSSSクラスの最上級おっぱいを前に、月彦はもう何度生唾を飲んだかしれない。
(…………だが、俺はそのおっぱいを諦める! ひとえに妙子、お前の為にだ!)
 この決意と熱意ははたして妙子に伝わるだろうか。例えるならそれは、生涯をかけてブリキ製のおもちゃを集め続けた男が、妻への愛の証の為に、血の涙を流しながら秘蔵のコレクションを灰燼と帰すが如き行為だ。
(……いやまぁ、別に妙子は妻じゃないし、そもそも恋人ですらないんだが……)
 たとえというものはそういうものだと、一人で突っ込みながら、月彦はしほりへの切り出し方を考えていた。なるべく、しほりを傷つけないように、オブラートに包んだ言い方をしなければならない。
(うーん、何かきっかけはないかな……)
 きょろきょろと、室内を見回してみる――が、どうにも使えそうなものがない。
「月彦さん?」
「いや……ええとですね…………」
 しほりも、恐らくは“返事”を待っているのだろう。その目は期待と、そして不安に彩られている。しほりの目を直視できなくて、月彦は思わず視線を逸らした。その視線の先に、思いも寄らぬものを見つけた。
「あれ……? しほりさん、その指輪は……」
「……? これですか?」
「ええ……それ、前はつけてなかったですよね?」
 しほりの左手の薬指には、銀色に輝くエンゲージリングが嵌められていた。しほりは既婚者であるから、むしろつけていて自然とも言えるのだが、月彦の記憶が正しければ前回会った時には指輪などつけていなかった筈なのだ。
「…………実はその……これは桜舜院さんに……」
「春菜さんに?」
「おちちのことを相談した時に、もし月彦さんに会いに行くのなら、絶対につけておいたほうがいいと言われて……」
「………………。」
 さて、これはどういう事だろうか。月彦は考える。
(春菜さんのことだから、左手の薬指の指輪がどういう意味を持っているか知らないってことはないだろう。その上で、あえてつけるようにしほりさんにアドバイスしたってことは……)
 普通に考えれば、人妻だから手を出さないように、と釘をさしてきたということになる。そう、普通に考えれば――だが。
「…………桜舜院さんは、これをつけておいたほうが、月彦さんが喜んでくれるって仰ってたんですけど……あの、もしお嫌でしたら……」
「……いえ、大丈夫です。それに、“こちら”では、結婚してる人は左手の薬指に指輪をつけることになってますから」
 春菜のアドバイスは間違っていない――そう説明すると、しほりは安堵の息をついた。
(…………俺が喜ぶって言い方がひっかかるけど、まぁ……道を踏み外さないようにしてくれたと、好意的に解釈することにしよう)
 これがあの性悪狐のアドバイスであれば、より“人妻に手を出してる感”が出て興奮できるだろうとか、そういった意味を勘ぐってしまうところなのだが。
「…………それで、その……月彦さん……昨日仰ってたこと、なんですけど」
 うぐ、と。月彦は言葉を詰まらせる。とうとういい切り出し方が思いつかないまま、しほりの方から尋ねられてしまった。
「そ、そのことなんですけど……しほりさん。申し訳ないんですが、やっぱりこの話は――」
「……待ってください! 私、もう……本当に月彦さんしか頼れる方が居なくて………………もし、月彦さんに断られたら……」
「いやでも、俺なんかより、春菜さんの方が絶対……そ、それに春菜さんが無理でも、春菜さんの知り合いなら……ほら、すごく顔が広そうですし……」
「そんなの、絶対に嫌です。いくら桜舜院さんの知り合いの方でも、月彦さん以外の方におっぱいを見られたり、触られたりするなんて、私……耐えられません」
 あっ、と。月彦は自分が大切なことを失念していたことに気がついた。
(そ……っか。しほりさん達にとって、おっぱいを見られたり、触られたりするってことは……)
 ある意味、強姦されるよりも辛いことなのだと。しほりたちの感覚からすれば、いくらおっぱいの悩みであるからといって、容易く“主治医”を変えたりは出来ないのだ。
(…………俺も最初、直接触らせてもらえなくて苦労したんだよな……ちょっとずつ、信頼関係を築いて、やっと……)
 しほりにしてみれば、見ず知らずの他人とまた同じプロセスを経るのが苦痛であるに違いない。だからこそ、遠路はるばる異界の地へとやってきたのだ。
「…………私には月彦さんしか居ないんです。もし月彦さんの治療でダメでも、絶対に文句を言ったりしません。お代も、きちんとお支払いしますから」
「いえ、そんな……お代なんて要りません。元々、俺の力不足のせいでこんなことになっちゃったんですから。………………ただ、やっぱりしほりさん達にとって、おっぱいが出ないってのは大問題だと思いますから、ここは俺なんかより、より詳しい人に頼んだ方が……」
「月彦さんが、いいんです」
 ずいと、しほりが体を押しつけながら、両目でまっすぐに見つめてくる。あまりの迫力に月彦はやや体を引いてしまい、結果さらにしほりが前に乗り出してきて、殆ど押し倒されるような形になってしまう。
「いや、でも……」
 俺には、妙子が――とは、言えない。尚も逡巡する月彦に焦れるように、しほりは月彦の手を取るや、自らの胸へと押しつける。
「うぁ……」
 むぎゅっ。その感触のなんと柔らかなことか。どうやらしほりはセーターの下には何もつけていないらしい。毛糸の生地越しに極上おっぱいの弾力を鋭敏に感じ取ってしまい、月彦はただそれだけで腰砕けになってしまう。
「月彦さん、伝わりますか? おっぱいが、月彦さんに触って欲しいって疼いてるんです。月彦さんに触ってもらえたら、きっとおちちも出るようになると思うんです」
「ううぅ……お、俺だって……出来ることなら……」
 しほりに言われるまでもなく、触りたい。嫌だと言われても、無理矢理にでも触りたい。もみくちゃにして、舐めて、吸いまくりたい。そんなのは紺崎月彦に限らず、全世界の男共通の夢だ。
(ぐぬぬ……た、妙子……俺に力をくれ…………このままじゃ……)
 おっぱいの魅力に負けてしまう。月彦はもうほとんどしほりに押し倒され、馬乗りになられるような形で、右手をおっぱいへと押しつけられながらも、辛うじて踏ん張っていた。おっぱい耐性が目も当てられないほどに低い月彦にとって、ここまでされてまだ耐えられている事自体奇蹟だった。
「し、しほりさん……ちょ、もう……止めてください。退いて、退いてください……こんなの、絶対良くないですから」
「…………月彦さんが引き受けてくれるまで、絶対に退きません」
 むしろ、馬乗りになっている足に力を込め、しほりは退かないぞと意思表示を露わにする。力任せに撥ね除けられればいいのだが、自分でも驚く程に体に力が入らないのだ。
(ひょっとしたら――)
 この期に及んで、月彦ははたと、雪乃のことを思い出していた。中出しはダメ、中はダメと言いながら、抵抗らしい抵抗をしない雪乃も、ひょっとしたら同じ状態だったのではないかと。頭ではダメだと分かっているのに、体が言う事を利かない。その状況をまさに、月彦は身をもって体感していた。
(……すまん、妙子……精一杯抵抗はしたんだが……)
 牛さんおっぱいには勝てなかったよ――こうして月彦は、おっぱいのアフターケアを引き受ける事となったのだった。



 


 治療に入るのは明日から――何の解決にもならないのだが、月彦に出来るのはそんな先延ばしをして半ば強引に帰路につくことだけだった。しほりも渋々ながらも了承したが、今回は“お忍び”であるから、あまり長くはいられないとも言っていた。
「…………いっそ、母乳が出る薬を真央に作らせてみるか……いや、危ないな」
 記憶が正しければ、あの薬は材料が希少でかつ、真央には難しいと真狐が零していた。失敗して自分が迷惑を被るだけならともかく、しほりにまで迷惑がかかってしまうのは避けたい。
(…………第一、真央の薬で副作用が出たしほりさんから逃げ切れる気がしない)
 むしろ今でさえ抗いがたいと言っていい。もし仮に、しほりが本気で誘惑してきたら理性を保つ自信は全くといっていいほどにない。
(……ていうか、前より色気が増したんじゃないか)
 以前も、確かに耐えがたい色気を感じた。あぁ、世の中には人妻モノのAVやら成年誌やらが絶えないわけだと納得するほどに。しかし今、しほりを前にして感じるそれは、以前よりもさらに凄まじく感じるのだ。
(胸が大きくなったから……だけじゃない気がする。)
 どちらかといえば、その仕草。髪を撫でたり、肩を抱いたり。眉の角度一つにすら、思わずぞくりとする程の色気を感じてしまい、たじたじにならざるを得ない。狙ってやっているのだとすれば大したものだが、間違いなくしほりは無自覚だろう。
(なんつーか……“待ってます”オーラが出てるっていうか……)
 手を出されるのを心待ちにしている――真央が時折出す“襲ってぇ”オーラとはまた別種のそれに、自分の中の牡の部分がうっかり反応してしまいそうになるのだ。もちろん既婚者であるしほりがそんなオーラを出すわけがないから、これは邪推というか、しほりの色香に狂いかけている己が生み出した錯覚に他ならないのだが。
(………………“前回の事”は、しほりさんだって自分は血迷ってたって、ちゃんと手紙で反省してたし……)
 悩みに悩んでいたおっぱいの問題を解決してもらった事で、一時的に気が緩んで体を任せてしまいそうになっただけ――そんなところだろう。ひとたび冷静になってしまえば、夫の居る身でなんと愚かなことをと背筋を冷やしたに違いない。
 そんなつつましやかなしほりが、手を出されることを望んでいるわけがない。そう、そのように感じるのは、しほりを抱きたいと感じている自分の心が作り出したただの幻影だ。
(だから、俺は絶対に手を出さない。前回同様、治療以上のことは、絶対にしない)
 本当は断るつもりだった。が、断れなかった以上、そこを最終防衛ラインとして守り抜くしかない。エンゲージリングの件も、春菜からのエールだと思えば頼もしい限りだ。仮に道を踏み外しかけたとしても、しほりの左手を見ればきっと頭も冷えることだろう。
 治療の件も、仮に巧くいかなくても怨みはしないと言ってくれた。ならばせめて、しほりの望み通り、精一杯努力はしてみよう――月彦は木枯らしに吹かれながら、家路を辿る。
 が、まるでしほりの要求を断れなかったことを責めるかのように。普段であればそうそう遭遇などするはずもないのに。
 道の向こうから、買い物袋を下げた白のダウンジャケット姿の接近に気がついて、月彦はあちゃあと、心の中で天を仰いだ。
 もちろん、こちらが気づいたのだから妙子の方も気づいているのだろう。が、だからといって道を変えたり、それどころか月彦を避けるような進路を取ること自体恥とでも思っているかのように、一直線に歩いてくる。その表情の険しさからして、まだまだ話が通じる状態じゃないなと察した月彦は、今日は自分が譲ろうとそっと脇道に逸れた。
「ねえ」
 しかし、脇道に逸れるや否や、背中から声をかけられた。恐る恐る振り返ると、脇道への入り口で、妙子が足を止めていた。
「昨日のあの人……一体なんの用事であんたに会いに来てたの」
「それは……」
 逡巡する。しほりの悩みを、はたして妙子に漏らしてもいいものかどうか。
「…………言えない。しほりさんのプライベートに関することだから」
「あんたまさか、この後に及んでまだセクハラするつもりじゃないでしょうね」
 すさまじい怒気と共に、妙子の背から寒風が脇道へと吹き込んでくる。街灯の明かりで逆行気味の妙子の両目だけが、眼鏡の奥から鋭く睨み付けてきて、月彦は危うく反射的に謝りそうになってしまう。
「せ、セクハラなんかしてねえよ! 揉まなきゃ治せないんだから、そうするしかなかったんだよ!」
「嘘ばっかり。大きな胸に触れるなら、理由なんてどうでもよかったんでしょ。何よ、揉めば治るって。バッカじゃないの」
「実際に治したし、しほりさんからは感謝もされたんだ。それに、発育不全で悩んでたしほりさんのおっぱいを揉んで大きくしたのも本当だぞ!」
「…………っ……………………仮に、あんたが何か……特別な技能の持ち主で、あんたが言うように、本当に揉んで大きくできたんだとしても、あんたが大嘘つきっていう事実は微塵も変わらないわ」
「な、なんだよ……大嘘つきって…………」
 心臓が不自然に跳ねる。冷や汗が止まらず、つい妙子から視線を逸らしてしまう。
「………………ま、でも良かったじゃない。これからは、どうしてもおっぱいに触りたくなったらあの人に頼めば触らせてくれるんでしょ?」
「ま、待て妙子……だからなんでそうなるんだ」
「昨日も言った通り、二度と私には近づかないでね。あーよかった、これでもうあんたのセクハラに悩まされないで済むかと思うとせいせいするわ。あの人に感謝しなきゃ」
「待てって! 俺の話を――」
 一人でさっさと歩き出してしまった妙子の背に追いすがろうとした瞬間、振り向きざまに閃光のような右ストレートを受け、月彦は一撃でKOされてしまった。
「近づくなって言ったでしょ」
 ふんと鼻を鳴らして、妙子はそのまま去って行く。その背にさらに追いすがることが出来ず、月彦は体を起こし、道路に座り込んだまま、ゆっくりと遠ざかる白のダウンジャケットを見送ることしか出来なかった。


 “これ”は悪い流れだ。例えるなら、幅が数キロはあろうかという川の真ん中で、濁流に流されるままになっているかのようだった。しほりの頼みを断ろうとするも失敗し、挙げ句妙子との関係修復も失敗に終わった。
(……ひょっとして、このまま行き着くところまで行ってしまうんじゃないか)
 濁流の先に待ち受けるのは急転直下の滝に他ならない。飲まれれば間違いなく終わる――だが、月彦には自分がどうあがいてもこの流れから脱せる気がしない。
(いっそ、すっぽかしちまうか……?)
 しほりと顔を合わせてしまえば、結局流れに身を任せてしまうことになるのではないか。ならばいっそすっぽかすというのもアリなのかもしれない。
(…………って、実際にそれが出来ればどんなに楽か)
 月彦という人間にとって、むしろそれは顔を合わせて断りを入れるよりも難易度の高いことだった。ましてや、しほりのような人の良い若妻を悲しませるようなこととなれば尚更だ。
(…………道を踏み外しそうになったら、妙子に殴られた時の痛みを思い出そう)
 そういう意味では、むしろ殴ってくれて良かった。ありがたいとすら思いながら、月彦は学校が終わるなり、約束通りしほりの部屋を尋ねた。

「じゃあ……とりあえず、何が問題なのか調べてみようと思います」
「はい。……よろしくお願いします、先生」
 “先生”は止めて欲しい――そう口にしかけて、自分が気にしなければ別に問題はないかと思い直す。
「ええと……それじゃあどうしましょうか。とりあえず、しほりさんはベッドに座ってもらって、俺は椅子に……」
 言われるままにしほりはベッドへと腰掛け、月彦が部屋に備え付けの椅子へと腰掛け、向き合う形になる。
「……あの、私……脱いだほうがいいですか?」
 セーターの裾を握りながら、しほりが顎を引いて言う。やはり、幾分慣れたとはいえ、異性におっぱいを晒すのは恥ずかしいのだろう。その顔は早くも紅潮していた。
「そう……ですね。ただ、無理に脱がなくても、まくし上げてもらえれば、それで大丈夫です」
「わかりました。…………んっ……これで、いいですか?」
 しほりがゆっくりとセーターの裾をまくしあげていく。徐々にその姿が露わになる色白おっぱいに、うおおおおお!と。月彦は思わず声を上げそうになるのを堪えねばならなかった。
 代わりに、ゴクリと生唾を飲む。
「…………あ、あいかわず……綺麗なおっぱいですね」
「ぁ…………ありがとう、ございます。全部、先生のおかげ、です……」
 人妻が、自ら衣服をたくし上げ、おっぱいを見せる図というのはかくも理性を揺るがすものなのだろうか。月彦は早くも極上の酒にでも酔ったような気分だった。
(ぅぅ……極上のおっぱいなんて、今まで何度も見てきた筈なのに……)
 手を出してはいけない相手というだけで、同じおっぱいでもこうも眩しく映るものなのか。何度も、何度も生唾を飲み込みながら、月彦は飛びかかりそうになる己の気持ちを抑えつけねばならなかった。
「じゃ、じゃあ……触り、ますね」
「はい」
 恐る恐る手を出し、しほりの胸に触れる。
「ん」
 指先に感じる、極上の餅のような感触。しっとりとしていて、それでいてきめ細かな肌と、その奥に隠された弾力を掌いっぱいに感じながら、月彦は嘆息を禁じ得ない。
(うぉ……さ、触れば触るほど……最高のおっぱいだ。なんでこれで母乳が出ないんだ)
 前回触った際に感じた違和感など、カケラも残ってはいない。しほりのおっぱいは問題なく外見年齢相応に成長し、その機能にも何ら問題はないように思える。
「んっ、ふ……ど、どう……ですか? 先生ぇ…………何か……んっ……」
 月彦はやんわりと触診しているだけだが、しほりにとってはそれすらも声を抑えがたいものらしい。或いは妖牛族にとって、他種族異常におっぱいは敏感なのかもしれない。
「うーん……問題ない……ように思えます。もう少し詳しく探ってみますね」
「はい…………ァッ!」
 ひょっとしたら、乳首に問題があるのかも――そう思って軽く摘んだ瞬間、しほりが稲妻にでも打たれたように仰け反り、セーターを掴んでいた手を放してしまう。
「す、すみません……先生……あの、やっぱり、脱いだ方が……」
「そ――う、ですね……しほりさんがそうしたほうがいいと言うんでしたら……」
 むしろ、しほりは脱ぎたがっているようにも見える。月彦が判断を委ねると、しほりはあっさりとセーターを脱ぎ捨ててしまった。
「……あ、汗をかいてしまいそう、でしたから」
 脱いだ後で恥ずかしくなったのか、しほりは顔を赤くしながらそのように言い訳をした。事実、しほりの肌は随分と上気しているように見える。汗をかきそうだからという理由も、嘘というわけではないのかもしれない。
「……えと、じゃあ……続けますね」
 再度、先端を摘む。やはり、かなり敏感な場所らしい。軽く指先で摘み、転がしたり堅さを確かめたりするだけで、しほりは甘い声を漏らし続ける。
(……っ……声を出さないでくれ、って……言うのも変な話なわけで……)
 ただでさえ、半裸の人妻を前にしているというヤバい状況に加え、色気たっぷりに喘がれては本当に理性が壊れかねない。
(思い出せ……妙子のパンチを……あの痛みを思い出すんだ)
 もはや素数など何の役にも立たない。実際に経験した痛みの記憶だけが、月彦の支えだった。
「…………うーーーーーーーん…………やっぱり、異常は感じられないですね」
 たっぷり三十分ほど、強めに揉んでみたり、指で突いてみたり、下からたぷたぷと揺らしてみたりと様々なことを試した結果、月彦はそのような結論に達した。
「しほりさんのおっぱいはきちんと成長してますし、機能にも問題はないように思えます」
「で、でも……」
 やはり、晒したままというのは恥ずかしいのだろう。しほりは触診が終わるなり、両手で胸元を隠すようにしながら、言葉を続ける。
「実際に、おちちが出なくて困ってるんです」
「確かに出ないみたいですが……うーん…………」
 腕を組み、考える。おっぱいには問題はない。少なくとも、触って分かるような異常は見当たらない。となれば、他に考えられるのは精神的なものだろうか。
(それか、俺なんかのレベルじゃ分からないくらい、深刻で分かりにくい病気なのか……)
 おっぱいの悩みであるのに、自分にはその原因すら分からない――その事実に、月彦は自分が考えていた以上にショックを覚えていた。
「………………すみません、しほりさん。もうちょっとだけ、触診を続けてもいいですか?」
「はい! お願いします、先生っ!」
 しほりも、なんとか原因を見つけて欲しいのだろう。威勢の良い返事に後押しされる形で、月彦はさらに入念に、巨乳人妻のおっぱいをモミモミするのだった。



「んっ……ふっ…………ぁふっ……んふっ…………んっ………………」
 耳がとろけるような、しほりの甘い声すらも右から左に、月彦は全身全霊を指先に集中し、僅かな異常すらも探知しようと揉み続けていた。一時間、二時間……その集中は途切れることなく、摘んだり突いたり持ち上げたり揺さぶったりと。何も知らないものが見ればおっぱいを弄んでいるようにしか見えないような触診をひたすらに続けていた。
「せ、せんせぇ…………わた、し…………わたし、もう…………もぅ……あぁぁぁ……!」
 しほりが泣くような声を上げ、同時にくたぁ、とベッドに倒れてしまう。そこで漸く、月彦は超集中状態から覚め、ハッと意識を取り戻した。
「……しほりさん、大丈夫ですか?」
「は……はいぃ…………大丈夫、です……」
 大丈夫、とは言うが、しほりは肌が光沢を放つほどにびっしょりと汗をかき、肩で息をしていた。月彦は時計へと目をやり、自分が約三時間もの間触診を続けていたことを知った。
「す、すみません……つい、夢中になってしまって…………」
 今更ながらに、両腕の筋肉に凄まじい疲労を感じる。特に握力を司る部分がパンパンに腫れ上がり、激痛すら感じる程だ。
「……くッ………………でも、安心してください。辛うじて原因のようなものは掴めました」
「本当ですか!?」
 しほりが体を起こし、ずずいと身を乗り出しながら月彦の手を握りしめてくる。
「微かに、ですが。おっぱいの働きを阻害しているものの痕跡のようなものを感じました。ただ、それが一体どういうもので、どうすれば治るのかはまだ……」
「………………原因が分かっただけで十分です。先生なら、きっと治せます」
「……だといいんですけど………………あ、今日はもうこれまでにしておきましょうか。しほりさんもシャワーを浴びたいでしょうし」
「ぁ……私は、大丈夫です…………先生さえ良ければ……」
「いや、実は俺も……両手がかなりヤバくて…………すみません。明日までには、なんとか握力を戻しておきますから」
「そういうことでしたら…………あの、先生?」
「はい……?」
「私……今日、先生の診察を受けて……改めて、先生じゃないとダメだって思いました。…………私、もう……本当に………………先生じゃないと………………」
「はは……そこまで信頼してもらえると俺も嬉しいです。……と、もう大分遅いですから、これで失礼しますね」
「………………はい。先生、また明日……お待ちしてますから」
 上半身裸のままでは、さすがに部屋の入り口までの見送りは出来ない。ベッドの脇に立ったままのしほりに見送られながら、月彦は静かに部屋を後にした。


 三時間にも及ぶ触診で掴んだ、微かな違和感。それが間違いなく母乳を止めている原因なのだろうが、どれほど考えても、月彦には解決策が分からなかった。
(…………今回ばかりは、揉んで解決するような問題じゃない……気がする)
 それこそ、薬物療法や最悪、外科的な手段でなければ治せないのではないだろうか。
(ちゃんとした病院に行って見て貰ったほうがいいんだろうけど……)
 はたしてしほりが聞いてくれるかどうか。そもそも、しほりを人間の病院に連れて行っても大丈夫なのだろうか。
(……くそッ……こんな時、真狐の奴がいりゃあ……)
 鼻持ちならない女だが、こういう時ばかりは頼りになるのがまた腹立たしい。真央に頼めば、或いは連絡がとれるのかもしれないが、月彦は可能な限りあの女には頼るまいと決めていた。
(しほりさんも、真狐には内緒にしててくれって言ったけど……)
 それがなくとも、月彦は内緒にするつもりだった。何より、今あの女を手助けを借りれば、先だっての井戸監禁事件の怨みと相殺されてしまうからだ。
(あいつには、あの時の怨みをたっぷりと返してやりたい。ヒィヒィ言わせながら、尻をぶっ叩いてやりたいんだ)
 だから、しほりの件で借りを作るわけにはいかない。とはいえ、いよいよ自分の手に負えないとなれば、最終的には頼らざるをえなくなる可能性はある。
(…………そんときは仕方ない。俺のプライドより、しほりさんの笑顔の方が大事だ)
 それにどうせ今も影からこっそり覘き見ながら、ニヤニヤしているに違いないのだ。それでも手も口も出してこないのは、しほりの病状(?)が深刻なものではないか、揉むことによって少なくとも悪化はしないということの証左ではないだろうか。
(…………って考えるのは、さすがにアイツを信頼しすぎなのかな)
 実際、本当に覗き見しているのかどうかも怪しい。あまり信頼しすぎるのはやはり危険なのかもしれない。
(…………とにかく、やるだけやってみよう。それしかない)
 最善を尽くして尚ダメであれば、しほりも納得して他を当たってくれることだろう。但しそれまでは、自分の力で治すつもりで頑張ろう。
 意気込みこそ立派だが、その実。月彦はホテルからの帰り道、今度こそ妙子とうっかり遭遇したりしない様、ありえない程に遠回りをして帰るその様は、到底男らしさのかけらもないものだった。



 翌日、月彦は昼休み学校の図書室を訪ねた。が、予想に反しておっぱいの疾患についての本は見つからなかった。それもそのはず、市営や県営のそれならばともかく、学校の図書室にそもそも専門的な医学書などあるはずがないからだ。
 やむなく手にとった本は保健体育の教科書の延長線上にあるような本であり、女性の体の仕組みや第二次性徴について詳しく書かれてはいたものの、やはり望んだ知識は得られなかった。
(…………学校が終わってから、図書館に行ってみるか……?)
 スマホを使って、ネットで調べ物をする――という発想は、携帯を所持していない月彦には無かった。結局、自分が医学書など読んだところで何の役にも立たないだろうという結論に達し、月彦は前日同様しほりの部屋へと直接向かうことにした。

「あの、月彦さん。もしよかったら今晩、一緒に食事でもいかがですか?」
「へ……? しょ、食事……ですか?」
 しほりに出迎えられて室内へと入るなり、月彦はまさかのお誘いに耳を疑った。
「ええと……待ってください。しほりさん達って確か……」
 月彦は思い出す。そう、あれは前回しほりに誘われて、共に観光をした時のこと。昼飯時になり、休憩がてらにどこかお店でもと、しほりと共に飲食店に入った後、月彦は驚愕の光景を目にしたのだった。
 しほりが使っているハンドバッグは、見た目こそ普通のバッグだが、恐らくは真狐が持っているひょうたんと同じ仕組みのものを“こちら用”に外観を変えたものなのだろう。メニューを眺める月彦を尻目に、席についたしほりはバッグの中から、まるでおにぎりでも取り出すかのような手つきで丸のままのキャベツを取り出し、むしゃむしゃと囓りだしたのだ。
 幸い、店主が話の分かる人で、月彦の方がちゃんと注文をするのならと苦笑しながら持ち込みをOKしてくれたのだが、月彦が注文したスパゲッティを食べる間、しほりは生野菜をむしゃむしゃと美味しそうに食べ続けた。なるほど、同じ人外でも真狐や菖蒲らとはやは食べ物が違うのだなと、その時は納得したものだ。
「え……っと………………今日は、月彦さんと同じものを食べてみたいんです」
 しほりも、自分達と人間の食文化が違うことは百も承知なのだろう。それを踏まえたうえでチャレンジしてみたいということらしい。
「そういうことなら俺は別に構わないですけど……だけど、なんでまた急に?」
「と、特に深い意味は……折角ですから、いろんな経験をしてみたいんです」
 一体何が恥ずかしいのか、しほりは顔を赤くして俯いてしまった。
「わかりました。じゃあ、とりあえず治療を試してみて、日が落ちたら一緒に食事できるお店を探してみましょうか」
「はい! よろしくおねがいします」
 恐らく、肉を出すような店はNGだろう。麺類であれば、元が小麦――植物であるから、しほりでも大丈夫かもしれない。
「……っと、それじゃ……えーと、今日はどうしましょうか」
 治療、とは言ったものの、はたしてしほりの悩みが揉むだけで解決するかどうか分からない。前回は、揉めば治ると確信があったからこそ迷い無く治療を続けられたのだが。
「…………私は、月彦さんに触って頂くのが、一番だと思います」
 しかし、悩む月彦を後押しするように、しほりは続ける。
「少しずつですけど、症状が改善されているように感じるんです」
「本当……ですか? それなら、昨日に引き続いていろいろ刺激をしてみましょうか」
「はい!…………あっ……」
「なんですか?」
「できればその……昨日みたいに、正面を向いてよりは……以前みたいに、背後から触ってもらったほうがいいと思うんです」
「あ……すみません、やっぱり恥ずかしい……ですか?」
 しほりは黙って首を振る。
「その……ああいう風に月彦さんに包み込まれるみたいにされると、すごく安心するんです」
「な、なるほど……リラックスできるってことですかね……しほりさんがその方がいいなら、俺も異論はないですよ」
 とはいえ、正面を向いて揉むより遙かに密着度が上がるのは確か。
(…………大丈夫だよな。もってくれよ、俺の理性!)
 制服の上着を脱いでハンガーへとかけながら、うっしと気合いを入れる月彦だった。



 やはり、以前に比べて色香が増している――そう感じる。
「んっ、ぁ……先生ぇ…………あんっ……」
 ベッドに深めに腰掛けた月彦の前に、さらに座る形でしほりは両胸を揉みしだかれ、甘い声を上げ続ける。
(やっぱり、治療中は“先生”なんだな……)
 何なのだろう。しほりの中で、なにがしかのルールでもあるのだろうか。むずがゆいものを感じながらも、月彦はモミモミを続ける。
「あぁん、あんっ」
 濡れた唇から漏れる声が男としての琴線を刺激する。うずうずと股間が疼くのを奥歯を噛み締めて堪えながら、月彦は指先に神経を集中する。
「あぁっ……あぁぁぁ! 先生ぇ……あんっ……あふっ……」
 やはり、効いているのだろうか。しほりは何度も身もだえするように体を震わせ、肩で呼吸をしながら、しっとりと全身に汗を滲ませる。
「いい、です……すごく……あぁっ……!」
 喘ぎながら、しほりがしなだれかかってくる。首の辺りに、しほりの湿った息を感じて、月彦は慌てて愛撫の手を止めた。
「し、しほりさん? あの……大丈夫、ですか?」
「んっ……はい……大丈夫、です……続けて、ください」
 はぁ、はぁ。
 ふぅ、ふぅ。
 相変わらず体を月彦に預けたまま、しほりは小さく頷いた。
「もっと……もっと触ってもらえたら、きっと治りますから……だから、もっと……」
「わ、わかりました……ええと、どんな風にしたときにより効いた感じがするとか、そういうのが分かればもっとやりやすくなるんですが」
「それは……」
 やはり、しほりにも具体的には分からないのか、口を噤んだまま考え込んでしまう。
「あの……ぎゅうって、強くされたり………たぷたぷって揺らされたり、先端をキュってされると……効く感じが、します」
 やがて口を開いたしほりは、消え入りそうな声で言った。
「な、なるほど……じゃあ、とりあえずそういう風にしてみます」
「はい……おねがいしまっ……ああぁぁ〜〜〜〜〜〜っっっ!」
 言われた通り、むっぎゅむぎゅと強めに捏ねると、たちまちしほりは声を荒げ、仰け反るようにしながら体を震わせる。
「あぁんっ……せんせぇ…………素敵、です……もっと、もっとお願いします…………もっと……」
「わ、わかりました……」
 しほりの迫力に気圧されながら、月彦は言われるままにしほりの胸を愛撫する。
「あっ、あっ、あっ……! あっ、あふっ……んふっ……あぁぁぁ…………あぁぁぁぁぁぁ!」
 おっぱいの下側に手を宛がい、たっぷたっぷと揺らした後、先端を刺激する。堪りかねたようにしほりは声を荒げ、そのまま思い切り体重をかけてくる。
「うぁっ……ちょっ……しほりさん!?」
 背を向けたままのしほりに押し倒されるような形になり、月彦は慌ててしほりの体を押し返そうとした。が、それよりも早く、しほりがくるりと。寝返りをうつように向き直る。
「せん、せぇ……」
 とろんと蕩けた目で、月彦を見下ろす。濡れた唇から湿った吐息が漏らしながら、月彦の体の上を這うようにのしかかってくる。
「し、しほりさん!? ちょ、ダメですって――」
 しほりの両手が、頭を抱き込むように絡みついてきたと思った時にはもう、月彦は人妻の甘い口づけで唇を塞がれていた。



 

 すっかり日が暮れた住宅街を、月彦はしほりを伴って歩いていた。
「小さいけど、美味しいうどんを出すお店があるんですよ。うどんなら、元は小麦ですから、しほりさんでも大丈夫ですよね?」
「…………はい」
 しかし、しほりからの返事は蚊の泣くような小ささだった。ホテルを出てからずっとこんな調子で、月彦は苦笑混じりに頭を掻く。もちろんしほりが恐縮しきってしまっている理由は分かっている。先ほどのキスの件だ。
(幸い、しほりさんがすぐに正気に戻ってくれたからよかったけど……)
 半裸の女性に、生乳をすり当てられながらさらに濃密なキスを続けられた日には、例え相手が人妻であったとしても理性を保ち続けるのは難しい。というより、現実的には不可能だろう。
「…………本当にごめんなさい、月彦さん。私、どうしてあんなことを…………」
「だ、大丈夫ですよ! 俺は全然気にしてませんから! なんとなく、気分が高まっちゃって自分でもワケわかんないことしちゃうってのは俺たちでも良くことですから、あんまり気にしないほうがいいですよ!」
 しほりをはげまそうと、あえて大声でフォローを入れる――が、しほりははいと小さく返事をしただけで、やはり黙り込んでしまう。
「ま、まぁ……さっきのは事故みたいなものですから、おいしいご飯を食べて早く忘れちゃったほうがいいですよ! ……うどんがしほりさん達にとって美味しいかどうかは俺には保証できないですけど…………」
「………………そう、ですね。すみません、私の方からお食事にお誘いしたのに……」
 いつまでも悩んでふさぎ込んでいては、食事を共にする相手に失礼だと思ったのだろう。しほりが漸く笑顔を見せた。
「もうすぐ着きますから。あっ、お金は気にしないで下さい。しほりさんのうどん初体験ってことで、俺が出しますから」
「そんな……私がお誘いしたんですから、月彦さんの分も私に出させてください。お金は、きちんと持って来てますから」
「“こっち”じゃ、女性と一緒に食事をするときは男が代金を払うのが普通なんです。むしろ、女性に出させるのは恥ずかしいことなんですよ。だから俺に出させて下さい」
「ぁ……そう、なんですね…………すみません、そういうことでしたら……ごちそうになります」
 本当は“出来ればそうしたほうがいい”くらいのもので、必ずしも男が出さねばならないというものでもないのだが――小さく頭を下げるしほりの姿に少しだけばつが悪いものを感じながら歩き続け、程なく目当てのうどん屋へと到着した。

 が、食文化の壁は思いの外厚いということを、月彦は思い知らされた。
「……大丈夫ですか? どうしても無理そうなら、俺が代わりに食べますから残しちゃっていいですよ」
「いえ……そんな……大丈夫です。すごく美味しいです」
 そうは言うが、しほりの顔はどこか青ざめ、そして箸も全く進んでいなかった。箸、と言ったが、実際にしほりが使っているのはフォークであり、箸を使ったことがないしほりの為に、店員に頼んで用意してもらったものだった。
 しほりの為に注文したのは、いわゆるかけうどん。余計なものが入っていないほうがしほりも食べやすいだろうと思ったのだが、それでもしほりの口には合わなかったらしい。
(……俺のはきつねうどんだけど、あげが入ってりゃ食べられるってもんでもなさそうだしな……)
 しほりはフォークにうどんを絡め、口元へと運ぶが、口に入れる直前でまずうっ、と躊躇いが入る。さながら、食べ物ではない何かを誤って口にいれかけた時のような反応だった。それでも意を決して口の中へいれるも、やはり美味しそうとはお世辞にも言えない顔長すぎる咀嚼の末に、ごくりと飲み干して安堵の息。
「……やっぱり無理ですよ、しほりさん。俺が食べますから」
「いえ、大丈夫ですから」
 手を止めていると、美味しく食べているようには見えない――とでも思ったのか、しほりが慌ててフォークを動かし、絡め取ったうどんを一息に口に含む。……やいなや、一気に顔を青ざめさせ、がたりと立ち上がった。
「あわわっ、す、すみません! あの、トイレ貸してください!」
 一瞬でしほりの状態を悟った月彦は、しほりの背に手を回すようにしてトイレへと急行した。



「………………ごめんなさい、月彦さん」
 会計を済ませ、店を出るなり、しほりは泣きそうな声と共に腰を折った。
「気にすることないですよ。俺だって、普段食べ慣れないものを食べたらどうなるかわかんないですし……」
 しほりが食べていたような生野菜を、そのまま丸かじりにする等、食べられないではないにしろやはり美味しく食べるなど不可能だろう。それだけ味覚が違えば、しほりが戻してしまったのも、無理からぬことだ。
「あの! …………私、努力します、から」
「え……? 努力って……」
「すぐには無理ですけど……でも、必ず……月彦さんと同じものを食べられるようになりますから」
「いや、そんな……しほりさん、そんなこと無理してするようなことじゃないですよ。美味しいと思うものを食べるのが一番です」
 が、しほりは大きく首を振る。
「……月彦さんが美味しいと思うものを、私も美味しいって思えるようになりたいんです」
「いや、それは……」
 しほりとは、あくまで患者と医者の(ような)関係に過ぎない。そこに、食べ物の好みまで合わせる必要など皆無ではないか。しほりと婚約するわけでも、ましてや恋人同士というわけでもないのだから。
「だから……私が、きちんと食べられるようになったら、その時は……また、一緒に食事をして頂けますか?」
 じっ。上目遣いに、縋るように見つめられてはもう、首を横に振ることなど出来はしない。
「それは……構わないんですけど……」
 果たして大丈夫なのだろうか。こうしてしほりと会っているのは、治療の為だ。浮気や不倫では断じてない。しかし、人妻のしほりと食事の約束をするのは、広義の不倫に含まれるのではないだろうか――そんな不安から、月彦は当たり障りのない答えしか返せなかった。


 翌日、登校して教室に入るなり、月彦は思いも寄らぬ話を聞かされた。
「おい紺崎、昨日他校の女子がお前のこと捜してたぞ」
 と言ってきたのは、同じクラスではあるが普段はあまり話をしない男子だった。顔を合わせても、名字すら頭に浮かばない。
「ちょっと待て、場所を変えよう」
 が、それよりなにより会話の内容が不穏なものになる気配を感じて、月彦は男子の腕を掴み、教室の外へと連れ出した。
「別に教室でいいだろ……」
「全然よくない。…………で、どういうことなんだ?」
「どうもこうも、そのまんまだよ。昨日校庭で部活やってたら、他校の制服着た女子が来て、紺崎月彦を呼んで欲しいーって」
「………………どこの制服だ?」
「あれは確か……如水じゃねーかな。背は高めで、なんか頭良さそーな感じだったし」
「胸のサイズは!」
「胸ぇ?」
 クラスメイトは小馬鹿にしたように声を裏返らせるが、月彦はいたって真剣だった。如水学院の制服を着た女子が訪ねて来て、その女性が巨乳かどうかで、様々な事柄が大きく変化するのだ。
 名前を訊こうなどという発想は、念頭にも浮かばなかった。
「んー…………普通じゃね? 別に大きいとは思わなかったし」
「そうか……普通だったか」
 肩が落ちる。何となくそうだろうとは予想はしていたが、やっぱりそうだったのかと。
「つか何、彼女とかなのか? そういやお前って未だに携帯持ってないって本当なのか?」
「彼女じゃないし、携帯は確かに持ってない。……わざわざ教えてくれてありがとな。出来れば言いふらしたりとかはしないでくれ」
「まぁ、別に言いふらすような事でもねーけど……ただ、一緒に部活やってたやつらはみんな知ってるぜ?」
「出来ればそいつらにも口止めしててくれると助かる」
 如水の制服を着た女子が訪ねて来た――妙子でないとすれば、考えられるのは二人だが、背が高めで頭が良さそうな外見となれば、候補は一人だけだ。であれば、別に千夏や和樹の耳に入ったところで、妙子経由で知り合った友達だと言えば済む話だが――
(………………先生の耳にもし入ったら、絶対めんどくさいことになる)
 月彦は、それだけを警戒していた。
「あ、そうそう。今日の放課後また来るって言ってたぜ。出来れば学校に残って待ってて欲しいってよ」
「わかった、いろいろありがとな。昼休みにジュースでも奢るぜ」
「おぉっ、世渡り分かってんじゃねえか。…………とりあえず、いい加減携帯くらい買えよ、お前が平気でもお前と連絡とりたい奴が迷惑すんだから」
「………………気が向いたらな」
 同じ台詞を、何人に言われただろうか。手を振って、男子は教室へと戻っていく。この段階になっても相手の名字が思い出せずに月彦は首を傾げたが、普段は全くといっていいほどに交流のない相手だから、調べようという気にもならなかった。


 伝言通りに、月彦は放課後正門の脇で待ち続けた。待ち人が来たのは、かれこれ三十分ほど経った頃だった。
「やあ」
「やっぱり、倉場さんだ」
 目の前に停車し、手を振る佐由に月彦もまた手を振って応じる。
「あまり目立ちたくはないから、とりあえず場所を変えようか」
 佐由は一度原付から降りると、シートの下からヘルメットを取り出し、渡してくる。月彦は手早く装着し、佐由の後ろへと跨がる。
(うっ……殺気!?)
 刹那、背筋にゾクリとしたものを感じて月彦は慌てて背後を見る――が、下校中の生徒らの他には誰も居ない。
(き……気のせい、だよな?)
 気のせいではないとしても、気のせいだと信じたかった。佐由に促されて、両手を佐由の腹の前で組まされる。
「くれぐれも転げ落ちないようにね」
 あまり密着するのは失礼――そう考えているのが、佐由にも伝わっているのだろう。苦笑混じりにそう言われた瞬間、原付は予想外の馬力と共に急発進した。

「この辺でいいかな。私も来たことがない店だから、味の保証は出来ないが」
 15分ほど走らせた後、佐由が原付を止めたのはいかにもうらぶれた喫茶店の前だった。
「全然構わないよ。さすがに雨水や泥水は出て来ないだろうし」
 苦笑しながらヘルメットを佐由に返し、入店する。入り口のドアに備え付けられたベルが鳴るが、店内に店員の姿はない。数秒待って、佐由は奥の二人がけの席へと足を向け、月彦もそれに倣った。店内に他の客の姿はなく、席に座った後で漸く欠伸を噛み殺したような顔の男がおしぼりとお冷やを持って店の奥から表れた。男は月彦らを見るなり「なんでうちに高校生が?」と一瞬目を剥いていた。どうやら普段の客層にはそぐわない客だったらしい。
「ご注文は?」
 お冷やを置くなりぶっきらぼうに訪ねられて、月彦はメニューに目を通す。
「オレンジジュースで」
「私もそれを」
 壮年の店員――というより店主だろう――は返事もせずに戻っていった。
「代金は私が出すよ。君が断ると言っても」
「いやお――」
 れがだします、と言うよりも早く、早口に繋げられて月彦は苦笑しか出ない。自分がこう言えば、相手がこう返すだろうと見切っての発言だ。
「ごめん、ごちそうになります」
「誘ったのは私だしね。まずは、わざわざ残っててくれてありがとう。自宅の電話番号を調べて連絡というのも、なんだか野暮な気がしてね。伝言を頼むという方法しか思いつかなかったんだ」
「俺の方こそ申し訳ない。俺が携帯とか持ってりゃ倉場さんに手を煩わせることもなかった」
「放課後の気ままなドライブも嫌いじゃないし、他校の生徒と話すのもいい経験になるかもしれない。回り道が結果的に利益に繋がることもある、私は気にしてないよ」
 佐由が一息に喋った所で、店主がオレンジジュースを運んで来た。……氷すら入っていないのは、外が寒いからなのか。はたまた氷をケチっただけなのか。
「さて」
 そろそろ本題に入ろうか――佐由は注文したオレンジジュースには口をつけず、テーブルの上で軽く指を組む。
「最近、白石君のご機嫌が斜めだ。ケンカでもしたのかい?」
「…………やっぱり、妙子の件か」
 なんとも情けない笑みがこみ上げてくるのを感じる。
「その件は俺も困ってるんだ。誤解だって言っても分かってもらえなくて」
「誤解……なのかい?」
「誤解だ」
 月彦は自信を持って頷く。
「倉場さんは経験ないかな。正直に真実を話したのに、信じてもらえなかったこと……真実なのに、ちょっと常識では考えにくいことが起きたせいで、説明した自分自身嘘くさいと思ってしまうようなことは」
「……あるね」
 佐由はストローに口をつけながら、静かに頷いた。
「少しニュアンスは違うが、不幸な偶然のせいで大切なものを失ってしまったという経験なら、私にもある」
「大切なもの……?」
 隠すような話でもないしね――そう言ってから、佐由は静かに語り始めた。
「あれは小学校の三年の頃だったかな。当時親友だった――少なくとも、私は親友だと思っていたクラスメイトの女子と、些細な喧嘩をしたんだ。仲直り出来ないまま放課後を迎えて、翌日になってもきっかけが掴めなかった。いや、明らかに私は避けられていた。確かに喧嘩はしたが、そこまで毛嫌いされるようなものじゃなかった筈だった。無視をされ続けて一週間が経った頃、私は黙っていられなくて相手を問いただした」
 佐由は小さくため息をつく。
「私は、泥棒だと思われていた。最初の喧嘩をした翌日、親友が大事にしていたお守りが体育の授業の後無くなってたらしいんだ。お守りは元旦、私と一緒に神社で買った揃いのもので、第三者にしてみれば何の価値もないものだった。彼女にしてみれば、腹いせに私が盗んで棄てたに違いない……ということらしい。運のないことに、私は体調が悪くてその体育の時間保健室に行っていてアリバイも無かったから、彼女にしてみればむしろ犯人は私以外に考えられなかったんだろう」
 確かに、佐由の親友のような立場に自分がおかれたら、或いは疑うかもしれない――月彦は神妙に、話の続きを聞く。
「もちろん私が盗るわけがない。そう言ったが、信じてはもらえなかった。それきり話をしなくなって、小学校を卒業間近になった頃、数年ぶりに彼女に話しかけられた。突然お守りが見つかったと謝られたよ。なんでも、当時認知症を患っていた祖母の遺品の中に混じっていたらしい。…………何のことはない、ちょっと運が悪かっただけの話さ」
 お守りが無くなったのは体育の授業中ではなく、家を出る前だったと気づいていたら。そもそもそんなタイミングで体育の授業を休まなかったら。喧嘩などしなかったら――佐由は言葉を切り、もう一度ため息をつく。
「……つまらない話をして悪かったね。以上が私が真実を話したのに、信じてもらえなかった経験だよ」
「…………その親友とは、今は……?」
「彼女は英理ではないよ。それで答えになるかな」
 ということは、関係は修復出来なかったのだ。或いは、佐由が許さなかったのかもしれない。
「本当のことを話しているのに、信じてもらえないというのは本当に辛い。だけどそれは起こりうる。今でも時々考えるよ。あの時、私たちの間を仲立ちしてくれる友達が居たら、ひょっとしたら何もかもが変わっていたかもしれないとね」
 佐由は微笑を零した。
「……そういうわけだから、というのも変な話だけどね。仲の良い二人が、些細な喧嘩で離ればなれになってしまうのがとても心苦しいと感じるんだ。……あぁ、回りくどいのは私の悪い癖だな」
 佐由は小さく首を振り、短く言った。
「事情が聞きたい。力になるよ」



 月彦は悩んだ。佐由が味方になってくれるのならば、頼もしいことこの上ない。しかし、しほりの事を喋ってはたして大丈夫なのだろうか。
 悩んで、悩んで、悩んだ。結果、一部を伏せて佐由に話すことにした。そしてその内容は、妙子に説明したものと大差ないものだった。
 知り合いの知り合いの主婦が、母乳が出なくて困っていた。それを知り合いに頼まれて、揉んで治した。その相手がお礼を言いに訪ねて来たものの道に迷い、たまたま妙子に道を尋ねた――結果、妙子にはセクハラ目的で善良な主婦を騙していると誤解をされた。
「ぷっ……くく…………」
 説明を聞いた佐由は、口を手で覆ったまま肩を震わせていた。誰が見てもそれは、噴き出しそうになるのを必死に堪えているようにしか見えない。
「いや、失敬…………紺崎君にとっては笑い事ではないことは重々承知してるんだが…………」
「無理に我慢しなくてもいいよ、倉場さん。笑われても、俺は大丈夫だから」
 しかし佐由は笑わず――相変わらず肩を震わせて口元は引きつらせていたが――どうにかこうにか深呼吸を繰り返し、落ち着きを取り戻した様だった。
「…………てっきり私は、紺崎君が白石君の知らない女子と街で歩いているのを見たとか、そういうありきたりの事情を想像してたんだ。…………まさかそういう事情だったとはね。これは信じられなかった白石君を責められない。実のところ、私ですら半信半疑だ」
 笑いを堪えすぎて、肩周りの筋肉が強ばってしまった――そう言うかのように、佐由は軽く肩を回す。
「というよりも、“揉んで治した”というのは本当なのかい? そもそも、女性のバストを揉むだけで大きくしたという話も正直信じがたいのだが」
「俺は嘘は言ってないよ」
「………………疑っているわけではないのだが……いや、素直に信じられないということは、疑っているということなのだろうが……」
 ううむと、佐由はまたしても笑いを堪えるように口元を手で覆う。
「しかし、仮に紺崎君の話がすべて本当だとすれば、少なくとも白石君との仲が断絶するということだけは無さそうだから、そこは安心したよ」
「え……? いや、今まさに断絶しかかってるんだけど……」
「紺崎君、一つ尋ねるが……白石君はどうして怒っているんだと思う?」
「へ……?」
 問われて、月彦は考える。何故、妙子は怒っているのか。
(…………普通に考えたら、しほりさんのおっぱいを揉んだから……だよな?)
 善良な、しかも既婚者を口先三寸で騙して胸を触るなど不届き千万――恐らく妙子が考えているのはそんな所だろう。
「俺がその人を騙して、俺の欲望の為に胸を触ったと思い込んでるから、かな?」
「つまり、義憤だね。恐らく白石君自身も、そう思い込んでいるだろう」
「……? “思い込んでいる”……?」
 まるで、真実は違うとでも言いたげな、佐由の言い方が引っかかる。くすくすと、佐由はもう隠す気がないかのように、口元に小さく笑みを浮かべた。
「…………何のことはない。白石君は紺崎君が自分に夢中なものだと安心しきっていた所に、思わぬライバルが現れて内心焦っているだけだよ。ある意味、いい薬さ」
「ごめん……俺にはよく分からない。もうちょっと解り易く説明してもらえると嬉しいんだけど……」
「脈アリ、ってことだよ」
 佐由はさらりと言った。
「怒るということは、怒る理由を察してほしいということだ。君が私以外の女性の胸を触って私は怒っている。だから謝れと言いたいわけだね。ということは即ち、謝れば許すということでもある」
「いや……俺、何度も謝ったけど全然聞いてくれなくて……」
「ちょっとやそっと謝ったくらいじゃダメだろうね。白石君の不安が解消されないうちは、許してはもらえないだろう」
「不安……? 妙子が?」
「そう、白石君の怒りの根源は不安だ。恐らく白石君自身自覚はないだろうが、君が自分以外の女性に奔るんじゃないかと心配なんだ。だから怒って、自分への想いを確かめようとしている」
 そんな馬鹿なと口にしかけて、黙る。本当に佐由の言う通りであれば、どんなに嬉しいかという思いが、否定する言葉を口にさせない。
「だから、紺崎君が心底白石君の事が好きなんだって分からせてやれば、きっと許してくれるよ。むしろ、雨降って地固まるの例から言えば、以前より距離が縮まるかもしれないね」
「…………正直、どうすればいいのか見当もつかない」
 単純に好きだと言ったところで、今更動じるとも思えない。かといってプレゼントをしても、大好きな犬のキーホルダーでさえ顔を引きつらせてまともに受け取ってはもらえなかった経験から、やはり喜んでもらえるとは思えない。
「昔から、妙子が喜ぶことをするのは苦手なんだ。よかれと思ってやったことで、逆に怒らせたことなんて両手の指じゃ数え切れないくらいある。その度に今度こそ、って精一杯考えても、やっぱり失敗して怒らせてしまう」
 徹底的に相性が悪いのかもしれない――月彦は頭をかかえるように、テーブルに肘を突く。
「……こうすればきっと白石君は機嫌を直してくれるだろう、という案なら、いくつか心当たりがある」
 しばしそうして悩んでいた最中、暗闇に差し込む光明のように、佐由が零した。
「本当に!? 是非教えてくれ、倉場さん!」
「喜んで。…………と言いたいところだけど、気が変わった」
「へ……」
「私は紺崎君のことを応援したいと思っていたし、事実そうするために今日は来た。……けど何だろうね、このモヤモヤとした感情は。……恐らくこれが“妬ける”というものなのだろうが、実に不快だ」
「ご、ごめん……倉場さん……俺、何か気に障るようなこと言ったのかな」
 この期に及んで、佐由まで怒らせてしまっては味方が居なくなってしまう。月彦は慌てて佐由を宥めようとするが、佐由は静かに掌を差し出した。
「紺崎君は悪くないよ。これは私の問題なんだ。………………君たち二人を見て、羨ましいと感じているだけなんだ」
「羨ましい……?」
 一体どこが――そう言いたかった。或いは、佐由も妙子のように、自分には全くその気がないのに、躾のなっていない子犬のようにまとわりついてくる男子が欲しいという意味なのか。はたまた、簡単に尻に敷けそうな相手が欲しいということなのか。
「白石君は一体紺崎君のどこが不満なのだろうと常々思うよ。こんなにも想ってくれる相手がいるのに、強欲にも程がある」
「それは……まぁ…………いろいろと身に覚えがあるから、今みたいな扱いになるのも仕方ない……かな」
「…………いっそ、一度他の女性と付き合ってみるのはどうかな」
 ぶふーっ!
 たまたまストローに口をつけていた月彦は、思わず噴き出してしまい、大慌てでテーブルの上をおしぼりで拭かねばならなかった。
「な、何言ってんだよ倉場さん! もしそんなことしたら、一発でアウト……」
「いいや、私の予想では違う。恐らく白石君は慌てふためいて、最初こそ今回のように激しく怒るだろうが、それでは紺崎君が乗ってこないとみるや、その後は逆に媚びて、縋ってくると思うね。…………そんな白石君を見てみたいとは思わないかい?」
「媚びて、縋ってくる妙子を……?」
 見たくない、と言えば嘘になる。が、そもそもそんな姿は想像すら出来ない。
「紺崎君が試してみたいと言うのなら、私が協力してあげても構わないよ」
「そ、それって……俺と倉場さんが――」
「付き合うフリをするわけさ。もちろん、あくまでフリだけどね」
 次の瞬間、月彦は回路に異常を来した人型ロボットのように、高速で首を振った。
「ええええええ遠慮します! そんなこと、恐くて試せない!」
「うん。紺崎君ならきっとそう答えると思っていたよ。………………言ってみただけさ」
 佐由は静かに、そして寂しそうに笑った。



 可能な限り、フォローは入れる――佐由は去り際にそう約束してくれた。原付で家の近くまで送っていこうかとも言われたが、どのみちしほりの部屋を訪ねなければいけないからと断った。幸い佐由が選んだ喫茶店は偶然にも駅からさほどの距離ではなかったからだ。
(……倉場さん、巧くやってくれるといいけど)
 結局、佐由が思いついたという“いい案”は教えてはもらえなかった。とはいえ、それで佐由を恨むのも筋違いというものだろう。もともと佐由にしてみれば手助けをする義理もない。フォローを入れるという約束をしてくれただけでも、感謝するべきだ。
(妙子のことも問題だけど、しほりさんの件も厄介だ)
 本当に、今のままで大丈夫なのか。しほりは愛撫が効いている気がすると言うが、ひょっとしたら気を遣って言ってくれているだけなのかもしれない。何より、月彦自身の手応えとして、症状が改善している実感がないのが問題だった。
(前の時は、毎日少しずつ良い方に向かってるって実感があったんだが……)
 “それ”が無いというだけで、月彦はどうしようもない不安に駆られる。せめて、今の道で良いという指標があれば、安心して前に進めるのだが。
(…………クソッ。どうしてこんな時に、あんなやつの顔が出てくるんだ)
 “この道”で良いのかどうか、あの女に尋ねたがっているとでも言うのか。馬鹿馬鹿しい。夜道に迷ったからといって、詐欺師に道を尋ねる馬鹿が何処にいる。
 しかし、不安だ。このまま進めば何か取り返しのつかないことになってしまうのではないか――そんな思いを抱えながら、月彦は殆ど義務感から、しほりの部屋を訪ね、ノックをした。


「ぁ…………先生……今日もよろしくお願いします」
「どうも……しほりさん」
 顔を合わせるなり、つぼみが花開くようにまばゆい笑顔を見せるしほりを直視出来なくて、月彦はつい視線を外してしまう。
(…………だめだ、自信がない。俺は本当に治療の役に立ててるんだろうか)
 しほりに“先生”と呼ばれる資格はあるのだろうか――かぶりを振って回れ右をしたくなるのを堪えて、室内へと案内される。
「……あの、私……先生に言わなきゃいけないことがあります」
「俺に言わなきゃいけないこと……ですか?」
 いつものようにベッドに腰掛けるように促され、しほりがその隣へと座る。言わなければいけないことがある、と言ったくせに、しほりはそのまま黙り込んでしまう。
「あの」
 口にしかけて、また黙る。何かを思い出そうとしているかのように、指で唇を辿るように動かしながら、
「実は、その……昨日、先生と別れた後……ちょっとだけ、おちちが出たんです」
「えっ……ほ、本当ですか!?」
「はい。……本当、です…………嘘なんかじゃ……」
 消え入りそうな声で、しほりは頷く。
「ただ、今朝にはまた出なくなってしまっていて…………それで、私思い出したんです」
「何を思いだしたんですか? ヒントになるような事なら、何でも教えて下さい!」
 まさか、殆ど食べられなかったうどんが効いたとでもいうのだろうか。月彦は必死になって、話の続きを促した。
「…………あの、私の知り合いが、同じようにおちちが出なくなって、お医者さんにかかってもどうしても治らなくて困ってたんですけど……」
「ふむふむ?」
「…………き――…………キスを、したら…………治ったって言ってたんです」
「へ……き、キス……ですか?」
 はいと、しほりは小さく頷く。
「ちょっと待ってください。どうしてキスをしただけで、おちちが出るようになったんですか?」
「それは……私にも…………ただ、昨日……私も先生と………………ひょっとしたら、おちちが出たのはそのせいかも、って……」
「………………。」
 そんな馬鹿な、と口にしたくなるのを、手で覆ってグッと飲み込む。
(…………種族が違うんだ。そういうことも、ひょっとしたらあるのかもしれない)
 考えてみれば、相手が人間の女性であれば、いくら丹念におっぱいを揉んだところで、母乳を出させる事など出来ないだろう。それが出来るのも、ひとえにしほり達のおっぱいが人のそれとは仕組みが違うからだ。
 ならば、何がきっかけで母乳が止まり、何がきっかけで母乳が出るようになるのかも、人の常識では計れないことにはならないか。
「…………なるほど、しほりさん達には、そういうこともあるんですね。………………ということは、俺はもうお役御免ですね」
「えっ……?」
 ハッとしたように、しほりが顔を上げた。
「だって、キスで治るなら、後は旦那さんの所に帰ればばっちりじゃないですか」
「ぁ……ええと、あの、その…………ち、違うんです!」
「何が違うんですか?」
「ぇと…………その…………き、キスは…………夫とは違う人とじゃないと…………ダメなんです」
「んなっ…………ちょ、えええ!? な、なんでですか! どうしてそんな……変な縛りがあるんですか!」
「それは……私にも…………でも、現に夫と一緒にいた時には出なかったおちちが、月彦さんとのキスで出るようになったわけですから……」
「いやでも……」
 ひょっとして、嘘なのではないか――そんな疑念が首を擡げる。それほどまでに、しほりの言い分には説得力が欠けていた。否、欠けているように聞こえた。
(いやまてよ…………これって――)
 ちくりと、胸が痛む。つい最近、似たようなことが無かったか。本当のことを包み隠さず言っているのに、相手に信じてもらえない――その辛さは、誰よりも自分が知っているはずではなかったか。
(そうだよ…………第一、なんでしほりさんがそんな嘘をつかなきゃいけないんだ)
 既婚者であるしほりが、進んで夫以外の男と唇を重ねる理由などあるわけがない。ましてや、どこぞのアバズレ狐とは違い、しほりは身持ちもかなり堅い。それは直におっぱいを触らせてもらえるまで散々に苦労した月彦自身がよく知っていた。
「…………わ、わかり……ました。それで本当におちちが出るようになるなら…………協力させてもらいます」
 元はといえば、自分の力不足が招いた事態だ。この期に及んで「他の男に頼んで下さい」とは言えない。少なくともしほりにとって、そんなポッと出の他人の男に比べればまだ、紺崎月彦のほうが抵抗が少ないからこそ声をかけてくれたに違いないのだから。
「すみません、重ね重ね、月彦さんにはご迷惑を…………」
「いえ、迷惑だなんて…………これも、おちちを出す為に必要なことなら、仕方ないですよ」
 そう、これは浮気でも、不倫でも、ましてやセクハラではない。歴とした治療行為だ。
(でも、なんだろう……このモヤモヤとした感じは……)
 “この道”はやっぱり危ないんじゃないだろうか――漠然とした不安が、かなり現実味を帯び始めているのを噛み殺して、月彦は己が正しいと信じる道を突き進むのだった。


 しほりと、キスをした。人妻であるしほりと。事故ではなく、キスをしようと行動して、結果、唇を重ねた。
「……どう、ですか?」
 唇を離して、尋ねる。ただ唇が触れあうだけのキスだが、昨夜のそれも同じものだった。
「よく、わかりません」
 しほりはキスの感触を確かめるように、自分の唇を指で辿って呟いた。
「あの、もう一度お願いしてもいいですか?」
 そしてやや顎を引き、上目遣いに促される。やむなく、月彦はもう一度唇を重ねる。先ほどよりも、やや長めに。
「ン……」
 唇を離す際、しほりが微かに息を漏らした。
「今度はどうですか?」
「…………やっぱり、よくわかりません」
 それが当たり前――そう感じてしまうのは、やはりキスなどが効果があるわけがないという先入観があるからかもしれない。
(ていうか、ヤバい。なんかすっげぇ悪いことしてるような気が……)
 罪悪感というよりは、背徳感。夫の居るしほりと唇を重ねるだけでも気後れするというのに、その後しほりが左手で唇を触る際どうしても婚約指輪に目がいってしまい、月彦の中の背徳感はさらに倍加する。
(ダメだダメだダメだ、そんなもんに興奮するようになったら、人間終わりだぞ紺崎月彦!)
 俺は今、人妻に手を出している――そんな実感で興奮するのは、人として終わっている証拠だと。月彦はむらむらとしほりに欲情を覚えそうになる己の心を、懸命に押し殺す。
「あ、あのっ……ひょっとしたら……あのときみたいに……しないと、ダメなのかもしれません」
「あの時みたいに……?」
 はいと、しほりは頷く。
「先生と、もっと密着して……抱き合うみたいにしてすれば……効きそうな気がします」
「いや、ちょっとそれは……さすがに……」
 それに、確かに密着はしていたが、抱き合ってはいなかったような――気後れする月彦に、しほりはずいと身を寄せてくる。
「お願いします、先生。……私、どうしてもきちんとおちちが出る体に戻りたいんです」
「わ……わかり、ました…………しほりさんが、そこまで言うのなら……」
 不倫じゃない。不倫じゃない――自分に言い聞かせるように心の中で呟きながら、月彦はしほりの背中へと手を回し、抱きしめる。
「あんっ」
 思わずゾクリと背筋が震えるような、しほりの甘い声。しほりの体は思ったよりも華奢で、そのくせ両胸の辺りにはすさまじい圧迫感。
「……もう少し、強く………お願いします」
 しほりに言われて、月彦は少しだけ両手に力を込め、ぎゅうと抱きしめる。
「あぁ……ンッ」
 しほりもまた、月彦の背中へと手を回し、肩に指をかけてくる。
「先生ぇ……このまま……」
「えっと……横になって、キス……ですね」
 押し倒す、というよりは抱き合ったままベッドにこてんと倒れ込み、月彦は唇を重ねる。
(……っていうよりは、なんかしほりさんの方から――)
 食らいつかれたというのが正しい、そんなキス。
「んぁ……んっ……先生……先生ぇっ……!」
「ちょっ、しほりさ…………」
 ぎゅうとしがみつかれるように密着したまま、しほりがキスの雨を降らせてくる。それはもう、妖牛族のことには詳しくない月彦には、完全に恋人同士がするキスとしか思えなかった。
「はぁ、んっ……先生っ……れろっ……ちゅっ…………んっっ!」
 れろり、れろりと唇を舐められ、そのまま舌を入れられる。仕方なく月彦は応じるが、その動きは消極的だ。
(ちょっと、これは……やりすぎなんじゃ…………)
 或いは、こんなにも必死になるほど、しほりのおちちを出したいという願いは強いということなのか。
(や、ヤバい…………こんなの、勃っちまう…………)
 ただでさえ色香ムンムンの人妻と個室で抱き合い、キスまでしているのだから、むしろ堪えられているのが奇蹟と言うべきかもしれない。
「ンンッ……ンッ……ンンッ……ンッ……!」
 気がつくと、昨日同様しほりに押し倒されるような形で、完全に月彦は受けに回らされていた。いつ果てるともしれないしほりのキスの猛攻は三十分近くも続き、いい加減理性も限界に達しかけたところで、月彦はタップするようにしほりの背をぽんぽんと叩いた。
「ふあぁ…………?」
「し、しほりさん……ちょっと、あの……限界なんで……体を離してもらえませんか」
「ぇ…………ぁ…………す、すみません!」
 ハッとして、正気に戻った――そんな感じで、しほりが慌てて体を起こす。
「……あの、その……つい、夢中になってしまって…………ごめんなさい……苦しかったですか?」
「少し……でも、大丈夫です」
 限界だったのは、呼吸の方ではないのだが、さすがに口には出来ない。あと一歩体を離すのが遅れていたら、あなたをレイプしてしまっていたかも知れないなどと、常識ある人間が口にできる言葉ではない。
「……でも、先生……やっぱり、すごく効いているきがします」
 が、しほりは上半身こぞ離したが、相変わらず両足はがっちりと月彦の胴体を挟んだままで、肩で呼吸を整えながらじっとりと濡れた目で見下ろしてくる。
「もう少し……もう少しなんです。……最後の一押しが、必要なのかもしれません」
「さ、最後の一押し……ですか?」
 はいと、しほりは羞恥に顔を染めながら、頷く。
「今度は、その……おっぱいも…………触ってもらえませんか?」



 重い鈍器で頭をがつんと横殴りにでもされたような気分だった。
「ま、まって下さい……しほりさん……さすがにそれはマズいです!」
 キスをしながら、胸まで揉む。それはもう、ギリギリアウトなのではないか。それとも、妖牛族の判断基準では、そんなものは不倫にはならないということなのだろうか。
「…………でも、本当にあと少しなんです……お願いします、先生」
 が、しほりの顔を見るに、しほりもまた逡巡を禁じ得ないというわけではないようだった。悩みに悩んで、夫への気持ちに苦慮して、その末に導き出された結論なのだろう。
「……こんなこと、お願い出来るのは先生しか居ないんです。お願いします」
 息を弾ませた人妻に、お願いしますを連呼されて断れる男など居るのだろうか。ましてやその内容が、キスをしながらおっぱいも触って欲しいと言うような、本来ならば大金を積んででもこちらがお願いしたくなるような事柄であれば、選択肢はもう“はい”と“喜んで!”の二択だ。
「わ……かり、ました」
 はたして、俺は耐えることが出来るのだろうか――既に理性という壁には縦横無尽に亀裂が走り、凄まじい勢いで水が漏れだしているような状態。ここからさらに一歩踏み込んで、本当に大丈夫なのか。ブレーキはちゃんと効くのか。それはブレーキに良く似せて作られたアクセルではないのか。
 自問自答しながら、月彦はなんとも慣れた動作でしほりと己の位置を入れ替え、逆に押し倒す形になる。
「ぁっ……」
 ベッドに仰向けに横たわりながら、しほりは照れるように声を上げ、そして自分を見下ろしているのが夫ではない男だとハッと気づいて、慌てて視線を逸らす――そんな一連の動きに、月彦は僅かに冷や水を被せられた思いがした。
(そうだ、熱くなるな……これは、治療のためなんだから)
 心を冷やせ。しほりがどんなに色っぽくても、心を氷のように冷やしてしまえば関係ない。月彦は、己の心臓が氷漬けにされるイメージを抱きながら、淡々とした仕草でしほりのセーターをまくし上げる。
(ぐはっ……)
 しかし、たわわな、形の良い牛乳プリンおっぱいが露わになるや、氷漬けになった筈の心臓は周囲の氷をはじき飛ばす勢いで激しく脈打ち、興奮のあまり目眩すら覚える。
(きょ、凶悪過ぎ……だろ……)
 こんなおっぱいを目の前に晒されて、一体何をどう堪えろというのか。視界いっぱいに広がる山火事を前に、バケツに一杯の水だけでなんとかしろと言われているような気分だった。
「先生……あの……」
「わ、分かってます……」
 吸い寄せられるように、なんとも物欲しげに見えるしほりの唇へと食らいつく。
「あむっ……ぅんっ」
 そして、たわわな巨乳に右手を宛がい、揉む。
「ンンぅ!」
 しほりが、喉奥で噎ぶ。んはっ、と糸を引きながら、しほりが唇を離した。
「……もっと、もっとお願いします……もっと……ああぁ!」
 震える声でせがむしほりの胸を、さらに強く揉みしだく。
「あぁぁっ……あぁぁ! ぁはぁっ……ぁふんっ…………ンンッ…………ンンッ!!」
 揉みながら、唇を重ねる。しほりの手が動き、月彦の左手首を捕らえる。そのまま、手つかずの乳房へと誘われる。
「こっちも」
 はぁ、と耳元に湿った息を吹きかけられながら。
「おねがいします、せんせぇ」
 囁くしほりの声は、淫魔かと錯覚するほどに雅で、艶やかで、淫らだった。
「ぁぁぁぁぁぁッ!」
 揉む。
 たっぷりの乳肉をもてあますように、指の合間から膨らませながら。
「ぁぁッ、ぁっ…………ンンッ! ンンッ、ンンンッ!!」
 キスも、とせがむしほりに誘われるままに唇を重ね、舌を絡め合う。
「ンンッ! ンンンンッ!!」
 もっぎゅもぎゅとこね回すと、しほりは堪りかねるように身をくねらせながら喉奥で噎ぶ。シーツを引っ掻き、息継ぎをするようにキスから逃れるのを、今度は月彦が追う。
「ンンンッ!? んふっ…………んちゅっ、ちゅっ……ンンッ……!」
 まさかのキスの追撃に、しほりは目を一瞬目を白黒させるもすぐにとろんと瞳をとろけさせる。
「ちゅっ……ンッ…………ンンッ……ンンンッ……!」
 夢中になって、しほりの胸を揉みしだく。極上の質感、弾力、肌触り、どれひとつとっても特級品のおっぱいに、これまた一級揉み師を自称する月彦は完全に虜となっていた。不幸中の幸いは、おっぱいに夢中になりすぎるあまり“それ以上の行為”に及ぼうという発想に至らないことだった。
(すごいおっぱいだ……こんなおっぱいに触れて、俺はなんて幸せなんだ)
 体中の細胞が歓びに打ち震えているのを感じる。両手が金色のオーラ(のようなもの。現実には見えない)に包まれ、今ならどんな奇蹟すら起こせそうな万能感に酔いしれながら、月彦はもはや自分でも揉む手を止められない。
「あッ、あッ、あッ……ンッ……せんせぇ…………せんっ、せ……ンンッ!」
 キスも忘れない。しほりの喘ぐ声も素敵だが、これはしほりを喘がせるためにしていることではない。おっぱいに正常な機能を取り戻させる為にやっていることだ。そのためにキスが必要ならば、手を抜くことはしない。
「やっ、もうっ……ンンッ! ンンッ…………ンンッ! ンンーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
 切なげなしほりの噎びを耳にしながら、それでも月彦は揉み続けるのだった。



 ハッと。月彦が我に返ったのは、しほりの宿泊している部屋を訪ねてからゆうに三時間以上も経った時だった。
 しほりを見下ろす。ぐったりを四肢をベッドに投げ出したまま身動き一つしない。呼吸は荒く、大きく胸が上下する度に大げさに乳が動き、肌は紅潮し、光沢を放つほどに汗に濡れている。
(…………ちょっと、やりすぎちまったかもしれない)
 時折、思い出したように体を痙攣させるしほりを見下ろし、乳酸漬けになっている両手の筋肉の痛みに奥歯を噛む。
 手は、尽くしたといっていい。しかし、つんと勃っているピンク色の先端からは、相変わらず母乳の出る気配はない。
(…………ごくり)
 生唾が出る。揉んでダメなら吸ってみろ――そんな諺があっただろうか。いや無ければ自分で作ればいいのではないか。今ここでしほりの乳を吸い、結果母乳が出れば、それがゆくゆくは妖牛族の里へと伝えられ、故事成語として広まっていくのではないか――。
(…………これくらいの役得は……あってもいい――よな?)
 しほりに言われるままに、治療を続けてきた。最後に少しくらい、乳を吸っても許されるのではないだろうか。
 そう、良識あるいち学生に過ぎない紺崎月彦をして、そのような発想に至らしめるのがおっぱいの持つ魅力であり、魔力なのだ。
 本来ならば、前後不覚に陥っているらしいしほりの状態を奇貨として勝手に胸を吸うなど許されないことだ。しかしそこまで配慮するにはもう、月彦は今にも崩れ落ちそうな理性の壁を支え続けて疲れ過ぎていた。
 むにっ、と乳房を掴み、人差し指と親指とで作った輪のなかでクンとせり出すように天を仰ぐピンクのつぼみへと狙いをつける。舌なめずりをしたのには、深い意味はない。
「あッ……!」
 唇をつけた瞬間、しほりが甘い声を上げた。ひょっとして、意識を取り戻したのかもしれない。しかしここまできて止められるかと、月彦は舌先で軽く蕾を転がしたあと、一気に吸い上げた。
 
 ――奇蹟は、その時訪れた。

(あれ……?)
 突然、どろりとした液体が口の中に溢れ、慌てて月彦は唇を離した。
(甘い……)
 じんと、頭の奥が痺れるほどに甘く、濃密な味。見れば何が起きたのかは一目瞭然だった。
 月彦が吸い付いた右の乳房の先から、乳白色の液体がトロリと漏れだしていたのだ。
「で――」
 思わず拳を作り、そのまま天へと押し上げる。
「出たぁ! 出ましたよ、しほりさん!」
 快哉。月彦の声に驚くようにしほりが上半身を起こし、遅れて自分の胸に起きた事態に気づく。
「そんな、どうして」
 小躍りして喜ぶ月彦は、当のしほりが喜ぶでもなくむしろ困惑の顔でそう呟くのに、まったく気づかなかった。


 結果的には、“吸ったから出た”のではなく、入念に入念を重ねてすっかり出す準備が出来ていた所へ、最後の一押しとばかりに吸ったが故の出来事だったらしい。
「良かったですね、しほりさん! これでもう大丈夫ですよ!」
 歓びの興奮冷めやらぬ月彦は、しほりがシャワーを浴びて着替えを終えて尚はしゃぎ続けていた。もちろん、しほりがシャワーを浴びている間は、部屋の外で待機していた。
「あぁ……良かった! このまま役に立てなかったらどうしようって思ってたんです。本当に良かった!」
 が、はしゃぎ回る月彦とは打って変わって、しほりの歓び方はなんとも味気ないものだった。それは恐らく、入念すぎる“治療”の連続でさすがに疲れが溜まっているが故なのだろうと、月彦は単純に考えていた。
「とにかく、これでもう大丈夫ですね! 大手を振って旦那さんの所に帰れますよ、しほりさん!」
「…………はい、そうですね」
 にこっ。
 まるで、結婚記念日なのを忘れた上、泥酔した状態で部下に肩を貸されて帰って来た夫を愛想笑いで出迎える若妻のような、そんな笑顔だった。
 さすがに、月彦も何かおかしいと感じる。
「あれ…………嬉しくないですか? しほりさん」
「いえ、そんな……嬉しくないわけではないんですけど」
 そう言うしほりの顔は、あきらかに沈んでいた。
「………………これでもう、帰らなければいけないのかと思うと、素直に喜べなくて」
「えっ……」
 それは、家に帰りたくないという意味なのだろうか。はしゃいでいた月彦の気分までもが、冬の冷たい雨にでも打たれたようにしぼんでいく。
「ひょっとして……DV…………旦那さんに暴力を振るわれている、とか……そんなことはない、ですよね?」
 しほりはきょとんと目を丸くしたあと、苦笑混じりに否定した。
「……夫の所に帰るのが嫌という意味ではありません」
 じゃあ、何故――問うことは出来なかった。しほりの沈黙が、それ以上の質問を拒んでいたからだ。
「…………あの、月彦さん。明日もう一度……最後にもう一度だけ、来てはいただけませんか?」
「え……でも、もう治療は……」
「昨日みたいに、出ても、また止まってしまうかもしれませんから……お願いします」
「確かに……そうですね。わかりました。明日は学校も休みですから、しほりさんさえ良ければ何時でも来れますよ」
「本当ですか!? 私も、時間はいつでも大丈夫です」
「じゃあ、そうですね……あんまり早すぎてもなんですから……じゃあ、十時に伺います」
「はい。お待ちしてます」
 漸く、しほりは苦笑ではなく、笑顔を見せた。その笑顔に見送られて、月彦はしほりの部屋を後にした。

 しほりは浮かない顔をしたが、月彦としては一仕事無事やり遂げたということもあり、帰りの足取りは極めて軽かった。
「あんた、騙されてるわよ」
 しかし、そういう楽しい気分を台無しにするのが楽しくて堪らないという、極めて厄介な存在が居るということも、決して忘れてはならない。何故ならその女は、幸せの絶頂に居る者を蹴落としたり、不幸のどん底に沈んでいる者に追い打ちをするのが何よりも好きという、歪な性格の持ち主なのだから。。
「…………出やがったな、妖怪変化。姿を見せやがれ!」
 明かりの乏しい夜道。辺りには車の通りはおろか人影すらもない。最初に聞こえたのは、くすくすという笑い声。やがて月彦の前方にある電柱の影からすらりと白い手が伸び、赤い着物、足といった具合に、真狐が姿を現した。
「てめぇぇぇぇよくも俺の前に姿を見せられるな! こないだの仕打ちを俺が忘れたとでも思ってんのか!」
「何よ。あんたが姿を見せろって言ったんじゃない」
「うるさい黙れ! 今日という今日は許さん! その曲がりくねった性根を無理矢理にでも――」
「はいはい、わかったわかった。特別におっぱい触らせてやるから機嫌直しなさいよ」
 やれやれとでも言いたげに、真狐は大胆に歩み寄るや、月彦の手を掴んで胸元へと誘い、にゅむりと。着物とおっぱいの間へと差し入れてしまう。
「なっ……てめ! 俺はマジで怒ってんだぞ! こんなっ…………こんっ……………………」
 もみもみ。
 もみもみもみ。
 柔らかく、それでいてなんとも弾力に飛んだ感触に、怒りが凄まじい勢いでしぼんでいくのを感じる。
(いかん、これは……ダメだ。こんな、こんな奴の思い通りになんて……!)
 怒りの炎を再燃させようと努力する――が、巧くいかない。さながら、蛇口よりも排水溝の方が遙かに大きな流しに蓋をせずに水を溜めようとしているようなものだった。
(あぁぁ……畜生。さっき、あんなにしほりさんのおっぱいを触って満足した筈なのに……)
 あっちのおっぱいが極上なら、こちらもまた極上。しほりのような善人に極上おっぱいが与えられるのは当然として、何故こんな悪魔のような女にも神はおっぱいを与えたもうたのか。
(こんな奴……おっぱいさえなけりゃ……)
 こうも人生が狂わされることはなかったのに。そう、おっぱいさえ無ければ――。
(あぁぁ……癒やされる…………こんないいモノが、なんでこんな女にくっついてるんだ……世の中間違いすぎてる)
 例えるならそれは、何十件も殺人を重ねたシリアルキラーが、獄中で万人を感動させるような名画を描き上げるような皮肉。何故こんな女にと、月彦は涙が止まらない。
「ふふっ……そろそろ話を聞く気になったかしら?」
「う、うるさい……今日のところは、勘弁してやる…………」
 ついと、真狐が体を引く。あぁぁ、と。月彦は遠くに行ってしまったおっぱいの感触を名残惜しむように、右手をグーパーする。
「で、改めて言うけど、あんたしほりに騙されてるわよ」
「いきなり出て来て何を言うかと思えば……。しほりさんが騙したりなんかするわけないだろ」
 寝言は寝て言え――吐き捨てるように言うが、当の真狐はニヤニヤ笑みを崩さない。
「そうよねぇ、あんな人の良さそうな、騙されることはあっても騙すことなんて絶対しなそうな女に、まさか騙されるなんて思いもよらないわよねぇ」
「お前の魂胆は分かってんだ。どーせ一人ハブられた腹いせに、あることないこと俺に吹き込んで引っかき回そうってことだろ。その手に乗るか!」
「酷い言われようね。あたしが一度だってあんたに嘘ついたことある?」
「むしろ騙された覚えしかねーよ!」
 吠える――が、真狐はけろりとした顔で「そうだっけ?」と笑い飛ばす。
「ま、どうしても信じられないってんなら、無理に信じなくてもいいけど。あたしはただ、しほりに騙されていいように振り回されてるあんたがもう見てらんなくて、可愛そうで可愛そうで涙出そうになっちゃったから、親切に教えにあげただけだし」
 真狐はわざわざどこからかハンカチまで取り出して、そっと目元を拭うような素振りをする。
「………………だいたい、俺なんかを騙して、しほりさんに何の得があるっていうんだ」
「いろいろあるんじゃない? しほりだって男遊びには興味あるだろーし。“こっち”なら浮気なんかしたってまずばれないだろうし」
「お前と一緒にするな! しほりさんはそんな人じゃない!」
「そりゃそうよ、人じゃなくて牛だもん」
「そういう意味じゃない。…………はあるのか」
「はいー?」
「証拠はあるのか、って言ってんだ。しほりさんが俺を騙してる証拠があるなら見せてみろ」
「悪いけど、あたしは持ってないわ」
 ほれみろ、と月彦は勝利の笑みを浮かべる。やはり、デマカセだったのだ。
「だけど、何よりもあんた自身がおかしいって感じてるんじゃないの? そもそもどうしてしほりはあたしに内緒で、直接あんたに会いに来たんだと思う?」
「決まってる。お前が信用出来ないからだよ」
 ぐっ、と真狐は微かに言葉を詰まらせる。さすがに身に覚えはあるのだろう。ささやかながら、一矢報いることが出来たらしい。
「違う! あたしに出てこられたら都合が悪かったからよ! しほりは、あたしが治してあげるって言われたくなかったの!」
 ムキになって声を荒げる真狐に余裕の笑みを返しながら、月彦は考える。はたして、真狐が言っているようなことはありうるのかと。
(確かに、真狐には内緒にして欲しいってのは、しほりさんが言ったことだ。しほりさんはお忍びだから、って言ったけど……)
 そもそも、前回は真狐を水先案内人としてこちらへやってきたのだ。いくらお忍びとはいえ、既に事情を知っている真狐にまず相談するというのが筋のように思える。
「とにかく、どうしても信じられないんなら、明日にでもしほりの荷物を漁ってみるのね。紫色の巾着袋が出て来たら、あたしが言ってたことは本当だったって噎び泣くといいわ」
「紫の巾着袋? 待て、その中に何が入ってんだ!」
「さぁ何かしら? 見ても、あんたには何か分からないかもしれないわね。……でも、それが全ての元凶とだけ言っとくわ」
「元凶……」
「ふふ……ねぇ、月彦。あたしは知ってるわよ? しほりの事に関しては、あんたは真面目に頑張ってるって。あんたにしては珍しく下心抜きで一生懸命治そうとしてるって事も。………………そんなあんたをしれっとした顔で騙してるんだから、しほりも大したタマよねぇ?」
「うるさい。まだしほりさんが俺を騙してるって決まったわけじゃない」
「でも、もし騙してたんだとしたら、頭に来るでしょ? しほりの胸を治す為に一生懸命頑張ってきたのに、それも全部無駄だったんだから」
「ぐぬ……」
 気がつくと、真狐は目の前から消え、いつの間にか背後に回っていた。両肩に手が添えられるのを感じる。
「ヤッちゃいなさいよ」
 ぼそりと。耳元に生暖かい吐息がかかる。
「今回ばかりは、正義はあんたにあるってあたしが保証したげる。もちろん真央にも黙っててあげるし、必要なら口裏だって合わせてあげる。……だから、いつもみたいにヤッちゃいなさいよ」
「い、いつもみたいにって……俺がいつ……」
「またまたぁ、トボけちゃって。あたしが知らないとでも思ってんの?」
「くっ……」
「あんたはよく我慢したわ。それこそ、あたしの予想を遙かに超えて、ね。でも、そろそろ自分に素直になってもいいんじゃないかしら。……しほりだって、“そういうコト”を期待してるって、さすがに気づいてるんでしょ?」
「う、うるさい! 誰が、お前なんかの言葉に耳を貸すか!」
 耳元でヤッちゃえ、ヤッちゃえと囁き続ける真狐を追い払うように、月彦は振り向きざまに腕を払う。が、手応えはなく、代わりに黒い影がしゅたたんと地面を蹴り壁を蹴りそのまま夜空へと舞い上がるや、そのまま闇に姿を消してしまった。
 後に残されたのは、耳障りな哄笑のみ。月彦はぎりぎりと奥歯を噛み締める。
「相変わらず逃げ足の速い奴だ。………………しほりさんが俺を騙してる、か」
 そんな馬鹿なと思う反面、もしそうなら幾度となく不自然だと感じた今回の出来事の全てのつじつまが合う気がして、俄には否定出来なかった。
「くそ……今頃になって出て来やがって…………ずっとニヤニヤしながら見てやがったのか」
 恐らくは、ずっと影からタイミングを計っていたのだろう。そしてここぞというところで、邪の道に唆すべく現れたに違いない。
(…………生憎だったな。お前がそうやって唆す限り、俺は逆を行ってやる!)
 誰が、あの女を喜ばせるようなことをしてやるものか!――仮に、しほりが本当に騙していたのだとしても、それだけはすまい。絶対にやるまいと、月彦は決意を新たにするのだった。


 翌朝、時間通りに月彦はしほりの部屋を訪ねた。しほりは笑顔で出迎え、そして言った。
「…………すみません、先生。その……やっぱり……」
「また出なくなってしまいましたか」
 気を悪くする――とでも思っているのだろうか。しほりは恐縮した風に、はいと小さく頷いた。
「仕方ないですよ。今日はたっぷり時間が取れますから、昨日よりも入念にいろいろ試してみましょう」
「は、はい! お願いします、先生!」
 飛び上がらんばかりに喜んでいるしほりを見ていると、やや心が痛む。何故なら今から、しほりを引っかけようとしているのだから。
「っと、その前に。ちょっと気になることがあるので、簡単な触診をしてもいいですか?」
「触診……ですか?」
「はい。服の上から、少し触るだけです」
 椅子をベッドの側へ移動させ、ベッドに座っているしほりと向き合う形で座る。しほりがどうぞと言わんばかりに胸を反らし、手を後ろで組む。
「んっ」
 淡い桃色のセーター越しに、しほりの胸に触る。そのまま、もみもみと軽く円を描くように揉む。
「………………やっぱりだ」
「先生……? どうかなさったんですか?」
 手を離し、ううむと月彦は唸る。さも深刻そうに。
「…………しほりさん。俺に嘘をついてませんか?」
 えっ――そんな言葉と共に、しほりが硬直する。
「こないだから、どうもおっぱいを触った感じが変なんです。…………何か、隠してませんか?」
「そんな…………先生に隠し事、なんて……」
 見る見るうちにしほりの顔は色を失い、青ざめる。おろおろと狼狽えながら肩を抱き、目を逸らす。
 それはもう、見事なまでの“動揺”だった。
「でも、しほりさんのおっぱいは、しほりさんが隠し事をしているって言ってるんですよね。俺はどっちを信じればいいんでしょうか?」
「そ、そんなことまで……判るんですか?」
「そりゃもう。それくらいでないと、こういう仕事は出来ませんから」
 月彦は自信満々に答えるが、当然はったりだ。
「そうですね。たとえば……その隠し事っていうのは、紫色の巾着袋が関係してるんじゃないですか?」
 しほりが、目を見開く。唇は震え、言葉も巧く出せないらしい。
「……先生……わたし…………私、は……先生を騙そうとしたわけじゃ…………」
「わかってます。事情があったんですよね。……詳しく話してもらえますか?」
 どうやらしほりは巧く引っかかってくれたらしい。観念したように、ぽつりぽつりと“事情”を語り始めた。



 しほりは語る。春菜に頼んで、母乳が出なくなる薬を貰ったこと。その使い道も。
「あの……私……どうしてももう一度、月彦さんにお会いしたくて……」
「…………おちちが出なくなった、と嘘をつけば、俺に会いに来る口実になる。だから、春菜さんにだけは相談を持ちかけたんですね」
 はい――しほりは掠れた声で頷く。
「つまり、ここ数日の俺の努力は完全に無駄だったわけですね?」
 つい、責めるような声色になってしまう。しほりは下を向いたまま「いえ、そんな」ともごもご口を動かし続ける。
「こっそり春菜さんに貰った薬を飲んでおちちの出ない体に自分でなっておいて、いけしゃあしゃあと俺の前でだけおちちが出なくて困ってるフリをしてたわけですね?」
「で、でも! そうでもしないと………………」
「正直、しほりさんがそんな女性だとは思いませんでした。本当に困ってて、一日も早くおちちが出る体に戻りたいから頑張ってるんだって、俺は思ってました。……少し、ショックです」
「月彦、さん……」
 ごめんなさい――しほりはスカートを握りしめながら、掠れた声で言う。
「……う、すれば……」
「しほりさん?」
「どうすれば…………償いになりますか?」
「償い?」
「私は、月彦さんを騙してしまいました。騙しているわけじゃないって、自分の気持ちをずっと誤魔化してきましたけど……でも、やっぱり騙したことになるんだと思います。……どうすれば、謝罪になるんでしょうか」
 到底、口で謝り頭を下げたくらいでは済まされない罪であると、しほりは自覚しているらしい。消え入りそうな声で、今にも涙をこぼしそうな目で、“謝罪の方法”を求めてくる。
「いや、そんな……」
 今度は、月彦が狼狽える版だった。確かに、しほりには騙され、利用されたのだろう。ショックも受けた。しかし、それは別に「まったくもう。次からは気をつけてくださいよ?」で終わらせても構わない程度のショックだ。
(なんてったって、役得でもあったし……)
 妖牛族の極上おっぱいを、連日たっぷりと堪能できたのだ。ちょっとやそっとの詐欺被害額ならむしろプラスだと思えるほどに、月彦には不満らしい不満が残ってはいなかった。
(強いて実害を捜すなら……)
 間に妙子を挟んだことで、セクハラ魔神の容疑をかけられてしまったことだ。しかしこれはしほりに悪気があってそうなったわけではないから、責めるのは門違いというものだろう。
「……私、何でもします。教えて下さい、月彦さん……私はどうすればいいんですか?」
「何でも、って……」
 今、何でもと言いましたか?――危うくそう詰めよりかけて、堪える。
(何でも……)
 その言葉の指すところを、月彦は吟味する。言葉通りに受け取るなら、それこそ何でも言う事を聞いてくれるということなのだろう。
 勿論、しほりの体が欲しいという欲求でもだ。

 ――ヤッちゃえ。

 そんな幻聴が脳裏を過ぎる。ことここに至って、あの女の囁きがさながらボディブローのように効き始めていた。何故ならそれは、月彦がひた隠しにしていた欲望そのものでもあるからだ。
 が、現実問題として出来るわけがない。しほりの弱みにつけ込み、体を要求するなど鬼畜にも劣る所業だ。
 そう、できるわけが、ない。
「私……月彦さんなら…………どんなことをされても………………」
 しほりが独り言のように呟く。そう、紛れもない独り言だ。独り言だが、それは目の前にいる男に聞かせるためのものだ。……しほりの言葉に月彦は鉄の意志がぐらぐらと揺れ出すのを止められない。
(いやいや……いやいやいやいや……だ、ダメだろ! そんな、さすがにダメだろ!)
 何故、謝罪イコールおしおきセックスというような流れになっているのか。そもそも何故しほりの方がそのような誘導をするのか。ひょっとして無自覚なのか。
「…………絶対に、秘密にします。月彦さんにされたことは、誰にも言いませんから……」
「ちょ、ちょっと待ってください……しほりさん。少し、考えさせてください」
 このまま“誘導”されるとヤバい。月彦は席を立ち、くるりとしほりに背を向け、かぶりを振って少しでも頭を冷やそうと試みる。
(もし……本当に……しほりさんが黙っててくれるんなら……)
 本当にバレないのなら、ヤッてしまうのもアリなのではないか――そう思い始めている自分がいる。正直な話、しほりの色香には散々頭を悩まされてきた。無理矢理押し倒し、おっぱいをこね回しながら犯してやりたいと考えたのも一度や二度ではない。
(もちろん、嫌がるしほりさんを無理矢理なんて、そういうのは絶対に嫌だけど……)
 ここまで水を向けてくれているのなら、むしろ二の足を踏んでいるほうが失礼ではないのだろうか。ここは男らしく「じゃあ、許す代わりにしほりさんの大事なものを頂きます。……旦那さんには内緒ですよ?」とばかりに濃密な一日を過ごすべきじゃないのだろうか。
(………………しほりさんは、どんな風に乱れるんだろう)
 貞淑そうな顔をしているが、意外と積極的なのかもしれない。或いは、夫とのセックスに不満があるのかもしれない。
(…………どっちかっていうと、俺を騙した云々より、旦那さんを裏切った件のほうが問題なんじゃないだろうか)
 もちろん、人間と妖牛族とでは、そういった夫婦としての倫理観が違う可能性もある。が、普段のしほりの様子を見る限りでは、浮気や不倫が奨励されているようには見えない。
「………………わかりました。しほりさん」
 しほりの方を向き直るや、ぴくんと。しほりが顔を上げる。
「本当に、どんな事でもいいんですね?」
「…………はい。それだけのことを、私はしてしまいましたから」
「しほりさんが不愉快になるようなことをするかもしれませんけど、それでも大丈夫ですか?」
「それ、は……月彦さんを……信じてます、から」
「わかりました」
 にっこりと、月彦は微笑む。その笑顔に、しほりはきっと安堵したことだろう。真央や由梨子、もしくは雪乃や矢紗美ら、一度ならず体を重ねた相手であれば、その笑顔こそが最も危険であると知っているのだが。
(…………やるか。)
 月彦は口元に笑みを浮かべ、椅子へと腰を下ろした。



「えっ……」
 どうやら月彦の要求は、しほりにとって耳を疑うようなものだったらしい。
「月彦さん……今、なんて……」
「おちちを搾らせて欲しい――そう言ったんです」
 特別早口でも、小声で言ったわけでもない。しほりにも間違いなく聞こえたはずだ。それでも、耳を疑わずにはいられなかったのだろう。
「あの、あの……でも、それは…………」
「ダメなんですか? “何でも”と言ったのに?」
「ぁぅぅぅぅ…………」
 しほりは顔を真っ赤にして俯いてしまう。何となく予想はついたが、母乳を搾るという行為もやはり、妖牛族にとっては大事なことなのだろう。
「それとも…………何か“他のこと”を期待してたとか?」
 意地悪く言うと、しほりはますます顔を赤らめた。ひょっとしたら、図星――だったのかもしれない。
(…………だとすると、もしかしたら……本番エッチよりも、おちちを搾られる方が重要なのか?)
 貞操観念が低いというわけではなく、それだけおっぱいが大事ということだろうか。ならば、尚更搾りたい――そう思う。
「ぁぅ……でも……今朝、お薬を飲んだばかりですから……多分、夜までは……」
「それはどうでしょうか。…………お薬、だんだん効かなくなってきてるんじゃないんですか?」
 これまた図星だったらしく、しほりは驚愕の顔で月彦を見る。
「当然のことです。いくら春菜さんの薬だからって、万能じゃない。しほりさんの、牛さんとしての本能――おちちを出したいっていう欲求を、いつまでも抑えてられるわけがない。ましてや、俺が毎日苦心しておっぱいを刺激し続けてるんですから」
「ぁ……」
 何かを思い出すように、しほりが体をぴくんと震わせ、己の乳房ごと肩を抱く。
「断言してもいいですよ。今日また俺がしほりさんのおっぱいに触れれば、薬の効果は一時間と持たない。つまり、おちちを搾るのになんら支障はありません」
「で、でも……でも……! ここには、おちちを搾る道具も器もなにも……」
「普段しほりさんたちがどんな道具を使ってるのか知りませんけど、そんなものこの両手だけで十分ですよ。搾ったおちちを入れる器は確かに欲しいところですけど…………今日の所は無くてもいいじゃないですか」
「え……でも……」
「知ってます。貴重な品……なんですよね。真狐が言ってました。値段は俺たちが普段口にしてる牛乳の百倍以上、それもコネがないと買うことすら出来ないそうですね。…………そんな大事なミルクを、ただ搾りたいから搾る――それをやりたいんです」
 売るためでもなく、飲むためでもなく。
 ただ、搾る為にのみ搾る――それはある種、究極の贅沢。妖牛族の出すミルクに価値があれば尚更だ。
「“何でもする”って、言いましたよね?」
 尚も逡巡しているしほりの背後に回り、肩に手を置きながら、囁く。
「つ、月彦……さん……」
「もちろん、しほりさんがどうしても嫌だと言われるなら、無理にとは言いませんけど」
 ぶんぶんと。髪がムチのように撓るほどに、しほりは首を振る。
「嫌というわけじゃ……ありません……………………あの、このことは本当に……夫には……」
「仮にバラそうと思っても、俺はしほりさんの旦那さんにどうやったら会えるのかすら知らないですよ」
 月彦の言葉に、しほりは僅かに安堵のため息をついた。それはイコール、背徳の乳搾りに殉じるという合図であることを、当然月彦も理解していた。



 さすがにベッドルームで行うのは後々の迷惑に繋がるということで、バスルームの中で行うことになった。ユニットバスで狭く、すぐ側には便座もあるが、この際贅沢は言えない。
「ここなら、最悪最後に全部シャワーで流してしまえば綺麗になりますね」
 月彦は便座カバーの上から深めに座り、自分の前に座る様、しほりに促す。
「さぁ、しほりさん?」
「……はい」
 先ほどから顔を赤くしっぱなしのしほりは、どこかヤケになったような返事と共に月彦の前へと座る。既に上半身は裸、下半身もいつものロングスカートを脱ぎ、黒のパンティストッキング姿だ。ストッキング越しにうっすらと白のショーツが見えているのも、しほりの羞恥心を煽っていることだろう。
(でも、スカート履いたままじゃシミになっちゃうかもしれないしな)
 スカートは、月彦が脱ぐように指示した。しほりは躊躇ったが、自分から“何でも”と言った負い目もあり、渋々脱衣した。
「くす。まだ何もしてないのに、随分息が荒いですね。緊張してるんですか?」
 自分の前に座るしほりが、既に肩で息をしているのがおかしくて、月彦はつい口に出してしまう。
「……緊張、して、ます…………本当は、すごく……いけないこと、なんです……」
「おちちを無駄にすることがですか?」
 しほりは首を振る。
「…………夫以外のひとに、おちちを搾ってもらうことが、です…………もし、バレたら……私はもう、お里に居られません」
「てことは、普段は旦那さんが搾ってくれてるんですね。てっきり、しほりさんが自分でされてるのかとばかり思ってました」
「…………自分でも、します。でも、基本的には夫に………………ただ……」
「ただ?」
 続きを促すが、しほりは小さく首を振ったっきり黙ってしまった。夫の悪口は言えない――ということなのかもしれない。
「……まぁ、大丈夫ですよ。さっきも言いましたけど、仮に俺がバラそうと思ったって、バラすのは不可能です。そこは安心してください」
 別に、しほりの破滅を望んで搾りたいわけではない。単純に、純粋に、妖牛族のおっぱいを搾るというのはどういう感じなのか、その経験を積みたいと思っているだけだ。
「っと、それじゃあ始めますね。…………まずは、春菜さんの薬の効果を切らしてしまいましょうか」
 昨日の時点で、すでに効き目は切れかかっていた。朝、新たに薬を飲んだところで、そう長くはもたない筈なのだ。
「んっ……あ……!」
 まずは、揉む。
「あっ、あっ」
 丹念に。丁寧に。
「あっ……ん! あぁっ……!」
 体をもじもじと捻るしほりを、背後から抱きしめるようにしながら、たわわなおっぱいをもっぎゅもっぎゅと捏ねていく。
(う、は……なんか、フェロモンが……)
 しほりが身をよじる度に、ふわりと。無臭の香水のようなものが鼻を擽ってくる。無臭ではあるが、嗅げばたちまち下半身が元気になるそれはまさしく成熟した女性特有のフェロモンだ。
「あっ……アッ!」
 三十分ほどモミモミした頃。徐々に、しほりの反応が激しくなる。体に汗を浮かせ、時折かぶりを振っては月彦の方へと体重をかけてくる。
「つ、月彦さん…………おっぱいが…………おっぱいがムズムズします……」
「薬の効果が切れてきたみたいですね。じゃあ――」
 予想よりも早いのは、やはり牛としての本能のほうが薬よりも強いということか。月彦は一端揉む手を止め、下乳に手を宛がい、指をウェーブさせるように動かして、やさしく刺激する。
「はぁっ……はぁっ…………んっ……ぅ…………?」
 今までの愛撫とあまりに違うからだろうか。しほりが、不思議そうに鼻にかかった声を出す。
「準備、ですよ。強く揉めばいいってものじゃないんです」
 ここにきて、真央のおっぱいで予行練習をしたのが活きた。もちろん真央のそれとしほりのそれとでは種族的な違いもあるだろうが、おっぱいには変わりない。
(…………おかげで、さも慣れてますって感じで、しほりさんをリードできる)
 月彦は下乳に手を宛がったまま、今度は小刻みにしほりのおっぱいを上下に揺さぶる。
「ぁっ、ぁっ、ぁっ…………月彦さん…………何を……ぁっ、ぁっ……」
「何って……“熟成”させてるんですよ」
「じゅ……熟成……ですか?」
「俺は濃いのが好きですから。こうやって優しく刺激して、おちちを濃くしているんです」
 事実、春菜の薬の効果はもはや完全に消え失せているようだった。小刻みに揺らしながら、時折母乳が漏れ出さない程度に優しく揉んでやると、徐々にではあるがしほりの胸が膨張し始めた。
「あっ、あっ、あっ………………おちちが…………おちちが、もう…………!」
 普段の二割増しくらいになった頃、しほりが堪りかねたように声を上げた。既に先端からはとろりと乳白色の液体が僅かに漏れ始めていて、ほんのりと立つ甘い芳香に、思わず頭が痺れそうになる。
「まだまだ。………………もっと、もっとですよ。しほりさん」
 たぷたぷとおっぱいを上下に揺さぶってやると、しほりは掠れた声を上げながら天を仰いだ。
「だ、だめ……です……揺すらっ…………ァァァァッ…………!」
 ダメだと言われても、月彦は尚も手を緩めない。イヤイヤするしほりを逃がさない様がっちりと押さえ込みながら、おっぱいを刺激し続ける。
「こんなっ……こんなの、知りません……! あぁぁ……もう、もう許して、下さい…………おっぱいが、おっぱいが爆発しちゃいます……!」
 恐らくは、普段しほり達が行っている搾乳とは、あまりにもかけはなれたやり方なのだろう。しほりはもう、ほとんど泣くような声を上げながら、両手で懸命に月彦の手首を掴み、動きを制そうとしていた。
「わかりました。大分濃くなったと思いますし、それじゃあそろそろ搾っちゃいますね」
 搾るコツも、真央とのそれで学んだ。小指と薬指、そして掌の部分で乳肉を押さえるように刺激しながら、人差し指に沿えるだけの中指、そして親指の腹で先端を摘んでやればいいのだ。
「あッ…………あぁっ……! やっ…………あぁぁぁぁぁぁぁーーーーーっ!」
 びゅるびゅると、たちまち両胸の先端から乳白色の液体を迸らせながら、しほりが嬌声を上げる。
(……この力加減が、難しいんだ)
 ただ強く摘めばよいというものではない。絶妙の力加減でつまんだ場合にのみ、母乳は美しく迸るものなのだ。下手をすれば、巧く絞れないばかりか、相手にただ痛みを与えるだけとなってしまうから、月彦としては真剣にならざるを得ない。
「あふっ……う…………はぁはぁ…………はぁはぁはぁ……」
「思ってたよりもたっぷり溜まってたみたいですね。さすが、牛さんです」
 射乳を終え、くたぁと脱力しているしほりの耳元に囁きかける。迸った母乳は正面の壁まで届き、乳白色のアートを描いていた。月彦は自分の指へと付着した母乳を試しに口に含んでみた。
(…………!)
 あまりの旨さに、目が覚める思いだった。真央のそれも確かに甘く、後を引く味だったが、しほりのそれはある意味では次元が違う代物だった。
(まろやかで、そのくせねっとりと濃くて、ほんのり甘くて……)
 真央のそれが下半身に凄まじく効く栄養剤(それでいて、極めて中毒性も高い)だとすれば、しほりのそれは牛乳の正統進化系とでもいうべき代物だ。もちろん味だけでなく、栄養も豊富なのだろう。
(前に、瓶詰めのやつをもらったけど……“濃さ”がダンチだ)
 もちろん、“搾りたて”というのもあるだろうが、搾り方の問題の方が大きいだろう。少なくとも月彦は、自分のやり方のほうが、味という面でも栄養という面でも高い評価が得られる筈だと確信した。
 たぷたぷと、上下に揺さぶるようにして刺激をすると、脱力していたしほりが再び声を上げ始めた。
「つ、月彦……さっ…………また……ンッ……」
「もちろん。あれだけじゃあ、しほりさんも物足りないでしょう?」
 キュッと。何かを我慢するようにしほりが太ももを閉じていることに、もちろん月彦も気がついている。
「あっ、ぁっぁっ…………月彦さんの、やり方、はっ…………ふ、普通、に……普通に、して、くださいっ…………お願いします……あぁぁ!」
「悪いですけど、俺はこのやり方しか知りませんから」
「あっ、あっ、あっ…………だ、ダメです……こんなっ……こんなのっっ…………あぁッ! お、お願いです、から…………はぁはぁ……ンぁぁアッッ!」
 先端を強く、摘む。びゅるっ、びゅっ――まるで射精のように、どろりとした液体が迸り、しほりが甲高い声を上げて鳴く。
「はーーーーっ…………………はーーーーーーっ………………はーーーっ…………」
 びくんっ。
 びくっ……びくっ。
 痙攣するように体を震わせながら、再び脱力して呼吸を整えるしほりはなんとも色っぽく、“牡”としての食欲をそそる。一瞬、何もかも忘れて襲いかかってしまいそうになるのを懸命に堪え、意識を両手の先へと集中させる。
「あっ、あっ、あっ……ま、また…………やっ……たぷたぷって、しないでくださっっ…………だめっ、だめっ…………それ、されるっ、と……はぁはぁはぁ…………」
 しほりは必死に月彦の両手首を掴んで、イヤイヤをする――が、もちろん止めたりはしない。
 たっぷりと揺さぶり、刺激をして限界まで濃くなったところで、搾る。
「あァーーーーーーーッ! あァァーーーーーーッ!!」
 これまでよりも、強めに。たっぷりと母乳を迸らせる。恐らく強い快感を伴うであろうその射乳に、しほりはほとんど絶叫していた。
「……しほりさん、さっきの話の続きですけど」
 休憩、とばかりに月彦は手の動きを止め、しほりの腹部のあたりを優しく抱きしめる。
「ふ、ぁ……?」
「“ただ……”の続きです。旦那さんがいつも搾ってるんですよね。でも、何か問題がある……少なくとも、しほりさんはそう感じてるんじゃないですか?」
「それ、は……」
「言えませんか。…………じゃあ、質問を変えましょうか」
 恐らくは、変えたほうがよりしほりが答えられなくなるであろうことを察した上で。月彦は悪魔のような笑みを口元に浮かべながら。
「旦那さんと俺と、どっちが“良い”ですか?」
 囁く。
「ああ、失礼。言葉を間違えました。…………どっちが“巧い”ですか?」
「………………い、言えません…………そんな、こと…………」
 しほりの声は小さい。耳を澄まして、辛うじて聞き取れる程だ。
「言えない? 何故ですか?」
 つい、怒るような口調になってしまい、今度は月彦がかぶりを振る。そう、月彦は――もちろん本気ではないが――怒っていた。
 しほりにではない。その夫に――だ。
(……こんな極上おっぱいから、あんな駄ミルクしか絞れないなんて)
 最初にしほりから届けられたものを口にしたときは、なんて素晴らしいミルクだと思った。しかしこうして直にしほりのおっぱいに触れ、絞ったものと比べればその差は雲泥だ。
 そう、例えるなら素質は一流。しかし調教師と騎手に恵まれずに、目立った成績を残せない隠れた名馬を見ているようなやるせなさ。俺ならばもっと巧くやれるという自負が、月彦に怒りを覚えさせるのだ。
「…………夫は、あまり手先が器用ではないんです」
 それが、散々に迷った末に、しほりに言えるギリギリの言葉だったのだろう。
「もったいない話ですね。しほりさんのおっぱいは、こんなにも美味しいおちちを出せるのに」
 月彦は胸の頂きからとろりと漏れているそれを指先で掬い、しほりの唇へ差し入れる。忽ち、しほりは目を見開き、体を捻って月彦の方を見た。
「全然違うでしょう?」
 しほりは答えなかった。答えなかったが、その目を見れば言いたいことは全て伝わった。
「……で、でも…………夫は……とても優しく……丁寧にしてくれます」
「しほりさん自身も、それでいいと思ってるのなら、俺には何も言えませんね」
 苦笑混じりに言いながら、月彦はのんびりと。しほりの腹部に手を回したまま、何もしない。
 焦れるように、しほりが体を揺すり出すのは程なくの事だった。
「あ、の……おっぱいは、もう……」
「しほりさんが止めて欲しそうでしたから、そろそろ終わりにしようかと思ってますけど」
「ぁ……で、でも……あの、一度搾り始めたら……ある程度出してしまわないと……」
「そういうものなんですね。じゃあ――」
 両手をおっぱいへと宛がい、モミモミする。優しく、丁寧に。
「……ンッ…………う…………つ、月彦さん?」
「どうかしましたか?」
「その……さ、さっきまでと…………全然、違います…………」
「優しく、丁寧にされるのが、しほりさんは好きなんですよね?」
 うう、としほりが唸る。
「……月彦さんは、いじわる、です」
 本当はわかってるクセに、とでも言いたそうな、しほりの呟き。手が、月彦の手首へと添えられる。
「いじわる、しないでください」
「してませんよ。ちゃんと優しく、丁寧にしてるじゃないですか」
 尤も、こんなやり方では百年続けてもおっぱいは出ないでしょうけど。月彦は胸の内だけで呟く。
 ぎゅっ、と。手首を掴むしほりの手に、力がこもる。
「つ、月彦さぁん…………お願い、ですから」
「よくわかりません。しほりさんはどうして欲しいんですか?」
「さ――」
 言葉が、途切れる。一瞬、しほりが下唇を噛んだのだ。
「さっきまで、みたいに」
「すごく嫌がってるように見えましたけど」
 月彦は笑いを噛み殺しながら、冷淡な口調を装わねばならなかった。
 しほりが首を振る。
「嫌じゃ……ありません。嫌じゃ、ありませんから、お願いします……」
「じゃあ、認めるんですね? 旦那さんより、俺のほうが“良い”と」
「………………っ…………は……い………………みとめ、ます…………みとめます、から…………は、早く…………」
 痛みを感じるほどに強く、しほりが手首を握りしめてくる。はぁはぁと切なげに喘ぎながら「お願いします」を連呼するしほりのなんと色っぽいことか。
 くすりと、微笑を一つ。月彦は両手をおっぱいの下方へと宛がい、たぷたぷと揺らす。
「あァん♪ あっ、あっ、あっ……!」
 しほりのそれはもう、悲鳴ではなかった。待ちに待った刺激に歓び喘ぐ、歓喜の声に他ならなかった。
「あふっ、あふぅっ……はぁはぁはぁ…………あぁぁぁぁあぁっ!」
 しほりの手が手首を離れ、月彦の太ももの辺りを掻き毟る。爪を立てられているわけではないから、せいぜいくすぐったい止まりだが、つまりはしほりにとってそれほどの刺激らしい。
「はぁはぁ…………はぁはぁはぁ……………おっぱいが…………おっぱいが熱いです……はぁはぁ……はちきれそうです……」
「じゃあもう、搾っちゃいますか?」
 耳元に囁きかけると、しほりは黙って俯いてしまった。
(……意外と欲張りなんですね、しほりさん)
 しほりももう気がついているのだろう。貯めて、濃くして出したほうが、快感が倍加することに。
 そういうことならばと。月彦はしほりの要望通り、限界ギリギリまで貯めて濃度を上げた上で。
「あッッッッ……あァァァーーーーーーーーッッッ!!!」
 月彦に両の乳首を摘まれ、母乳を吹かされながら、しほりが絶叫する。太ももを閉じたまま両足をピンと伸ばし、背を逸らしながら声を上げるしほりの胸を、月彦はさらに、断続的に搾り、射乳させる。
「あッッ……いィィッ……やっ…………ンッ! ぁっ……あああああァァァァァッ!!!」
 びゅるっ、びゅっ、びゅうっ。
 どろりと濃い――もはや牛乳というよりも生クリームやヨーグルトといったレベルの――母乳をたっぷりと吹かされ、しほりは何度も、何度も声を荒げる。
「はーーーーっ………………はーーーーーっ………………はーーーーっ………………」
 そして最後はぐったりと脱力し、月彦の胸の中へとしなだれかかる。迸った母乳は手当たり次第に辺りを白く汚し、それはしほり自身の体も例外ではない。黒のパンティストッキングは言わずもがな、婚約指輪までもが、背徳の濁った白に染め上げられていた。……“その手”で、しほりは搾乳後の胸を労るように、やんわりとマッサージを続ける月彦の手を優しく握る。そのまま恋人にでも甘えるように、首筋へとキスをする。
「……満足してもらえましたか? しほりさん」
 声をかけられ、ハッと正気に戻ったかのように、しほりがキスを中断し、顔を赤くして俯いてしまう。
「うぅ……こんな……こんなこと……絶対、いけません……もう、二度としないでください」
 罪の意識に震えているらしいしほりの頬へと、今度は月彦がキスをする。
「月彦、さん……? あんっ」
「不思議ですね。……二度としないで欲しいって言われると、もっともっとしてあげたくなるんですから」 
 たぷたぷとおっぱいを揺すってやると、たちまちしほりは声を震わせ、喘ぎ出す。
「だ、ダメ……です……もう……あぁぁ……これ、クセになっちゃいます、からぁ……あぁぁぁぁあッ!」
 嫌がってはみせているが、まんざらでもない――そんなしほりの抵抗の仕方に既視感に近いものを感じながら。
 月彦もまた、滅多に揉めない牛さんおっぱいを堪能するのだった。



「あ、あのっ……月彦さん……明日も来ては頂けないでしょうか!」
 バスルームの清掃を終え、さらにしほりがシャワーを浴びて着替えを終えた後、じゃあ今日の所はと去ろうとするや否や、月彦はしほりに詰め寄られた。
「私……明日の夜には、お里に帰らないといけないんです。だから、その前にもう一度月彦さんと……」
「あ、明日……ですか?」
 うぎぐと、月彦はつい顔を引きつらせてしまう。しほりと顔を合わせるのが嫌というわけでは、もちろんない。
(………………今日は、巧く場を収められたけど)
 もし明日、“同じような流れ”になった際、しほりを襲わないでいられる自信は無かった。
(むしろ、今だって……)
 気を抜けば、むらむらといきり立ちそうになる分身を、鉄の自制心で押さえつけているのだ。出来れば今すぐにでも帰宅して、一人留守番をして寂しがっている真央に欲望の限りをぶつけ――もとい、たっぷりと可愛がってやりたいところなのだが。
「ええと……すみません。明日はちょっと用事が……」
「ぁ…………そう、ですか………………それは、残念です」
 しゅーんと、しほりが肩を落としてしまう。
「………………その、月彦さんの用事に、私もご一緒するわけには、いかないのでしょうか」
「へ……? お、俺の用事にって……」
「絶対に邪魔にならないようにします! 少しでも長く、月彦さんの側に居たいんです」
「いや、それは…………すみません、ちょっと難しいと思います」
「どうしても……ダメなのでしょうか」
 尚もしほりは食い下がる。うつむき加減に、上目遣いで。
(ううぅ……なんだ、すごい圧力を感じる……)
 先ほどの搾乳プレイの後辺りから、なにやら凄まじいラブビームを感じる。もっと一緒に居たいというしほりの思いが、見えない触手となって体中にまとわりついてくるかのようだった。
(マズいぞ……この様子だと、家まで押しかけてきそうだ)
 しほりは紺崎家の場所は知らないはずだが、帰りにつけられる可能性は十二分にある。それだけのことをやりかねない雰囲気が、今のしほりには感じられるのだ。
(か、かくなる上は……)
 きちんと説明するしかない。どんな用事なのか、何故つれていけないのかをはっきりと。
 そう、たとえ嘘でも。
「実は……明日は、妙子に謝りに行く予定なんです」
「妙子さんに……?」
「ええ。その……なんて言ったらいいか…………どうも妙子のやつ、俺としほりさんの事を誤解してるみたいで」
 月彦は妙子とのいきさつをざっくばらんとしほりに説明する。しほりとの仲を誤解して、妙子がヘソを曲げてしまったこと。そのことについてはもちろんしほりを恨んではいないし、責めるつもりはないこと。
 そして何よりも――
「……俺、妙子のことが好きなんです。だから、どうしても誤解を解いておきたいんです」
「……そ――う……だったんですね。妙子さんの事が……」
 驚いた――風ではなく。ショックを受けた風でもなく。しほりの顔には、納得の色が出ていた。
「………………月彦さん、私に手伝わせてくれませんか?」
 しほりの言葉に、思わず耳を疑った。
「いや、これは俺の問題ですから」
 第一、しほりがまた出て来ては尚更妙子がつむじを曲げてしまうのではないだろうか。だが、しほりは首を振り、言葉を続ける。
「元を正せば、私のせいですから。月彦さんと妙子さんの仲を修繕する役目、私にやらせてください」
「いやでも……絶対無――」
「やらせてください」
 ずいと。しほりは距離を詰め、まっすぐに見つめてくる。
「うまくやります。私、月彦さんのお役に立ちたいんです」
「し、しほりさん……その……妙子はなんていうか……かなり扱いにくい部類っていうか、人見知りする奴ですから……しほりさんじゃ……」
「大丈夫です」
 狼狽える月彦に、しほりはさらに距離を詰めてくる。じぃぃ、と曇りの無い目で見据えながら。
「絶対に失敗しません。やらせてください」
 不意に、月彦の脳裏にある光景がよぎった。それは、農道を行く車の前に一匹の牛が立ちふさがり、どれだけクラクションを鳴らしても微動だにしてくれないという光景だった。
「……しほりさんが、そこまで言うなら」
 月彦は、折れざるを得なかった。



 瞼が痙攣するのは、ストレスが関係しているらしいという話を聞いたのは、誰からであったか。もし本当だとすれば、なるほど、心当たりならばいくらでもある。先だっての模試の結果も決して良いものとは言えなかったし、友人である佐由とは金曜日に一歩間違えばつかみ合いに発展しかねない口論をかわしたばかりだ。毎朝通学に使うバスで顔を合わせる中年サラリーマンが最近やたら話しかけてくるのもストレスだし、十年以上前からハガキを送り続けたラジオ番組が近々終わってしまうというのも、凄まじいストレスだ。
 だから、ストレスが原因で瞼が痙攣してしまうのだとすれば、今まさに瞼が痙攣して勉強の妨げとなっているのはおおいに在りうることだ。
「ああもう!」
 ばしーんと叩きつけるように教科書を閉じ、妙子は椅子から立ち上がるやそのまま布団に寝転がってしまった。いつもなら朝起きてすぐ布団は片付けるのだが、それすらも億劫に思えて今日は敷きっぱなしだったのだ。
 服も着替えず、パジャマ姿のままだ。こんな自堕落な生活をしてはいけない――そう思うが、どうにも体が動かない。そういえば朝起きてまだ食事も摂ってない。それなのに何故勉強をしようとしてしまったのか、自分でも自分の行動が理解できない。
 まるで、何か大事な歯車が狂ってしまっているかのようだった。何をするにもかみ合わず、イライラが募る。一体何故、いつから“こう”なってしまったのか。
(全部、アイツのせいだわ)
 紺崎月彦。そう、あの日あの夜、芭道しほりとかいう女と共に月彦と会ってから、全ての不運は始まったのだ。
(全く、冗談じゃないわ)
 ひょっとしたら、思っていたほどダメな男ではないのではないか。もしくはダメな男であるが、改善しようとしている努力の跡くらいは見えなくもないのではないか。そんな風に見直しかけていた自分を呪いたくなるほどに、妙子は激昂していた。
(結局、大きい胸なら相手は誰でもいいのよ)
 目を瞑る。瞑っていても、瞼の端がピクピクと痙攣するのを感じる。これのせいでろくに本を読むことも出来ない。
 イライラは募るばかりだ。
(くさくさしても仕方ないわ。何か気晴らしをして忘れなきゃ)
 そう思うも、妙案が思いつかない。いっそ千夏を誘ってどこかに出掛けるのもアリだろうか――少し考えて、妙子は断念する。ひょっとしたら、あのダメクズ男が、千夏に仲直りの仲介を頼んでいるかもしれない。千夏を誘ったが最後、これ幸いとばかりにあの男が付随してくる可能性が大いにありうる。
(かといって、佐由とは気まずいし……英理も……)
 佐由を外して、英理とだけ――というのは難しいだろう。返す返す、友達の少なさを痛感する。気晴らしに出掛けたくても、ろくに誘う相手も居ないのだから。
 かといって、一人で出掛けるのはなんだか面倒くさく思えて、立ち上がることが出来ない。そもそも一体何処に行くというのか。
(…………前の家だったら)
 犬たちとじゃれ合うだけで癒やされた。毎日散歩に行くだけで、多少のストレスなど吹き飛んでしまった。
(………………円香さん。元気かな)
 不意に、円香の顔が脳裏を過ぎる。愛くるしいコーギーを連れた、ちょっとだけ年上の女の子。お互い一人っ子同士で、少なくとも妙子は気の許せる相手だと思っていた。
「……………………。」
 左の瞼の痙攣が止まらない。もういっそ、このまま二度寝してしまおうか――妙子がもぞりと。掛け布団の下に潜り込もうとした時だった。
 
 ――ピンポーン。

 思わず起き上がる。まさか、という思いに心がざわつく。立ち上がろうとして、ふと動きを止める。
(…………もしアイツだとしても、出てやる筋合いなんかないわ)
 違うのなら、尚更出る必要はない。どうせ新聞の勧誘か、宗教の勧誘のどちらかだ。つまり、布団から出て行く必要性は皆無なわけだ。妙子はもぞりと、掛け布団を被ってしまう。
 また、インターホンが鳴る。前回との間、ボタンの押し方による微妙な音の変化から、妙子はドアの前に立っているのがほぼ100パーセントの確率であの男であると確信する。
(……顔を見せるなって言ったのに)
 苛立ちが募る。一体どの面下げて会いに来たというのか。
 またインターホン。なかなか諦めない。ひょっとしたら、居留守だとばれているのかもしれない。
(…………あと5回鳴らしたら、しつこい!って怒鳴って、ついでにブン殴ってやる)
 妙子は布団にくるまったまま拳を握る。
(って、その前に着替えておかなきゃ)
 さすがに、パジャマ姿のまま出て行って殴りつけるわけにはいかない。妙子はいそいそと物音を立てないように注意しながら着替え、ついでに顔を洗って髪をセットする。その間もインターホンは鳴り続け、既に3回目をカウントしていた。
(あと2回)
 部屋着のトレーナーにジーンズへと着替え終え、既にいつでも飛び出していける準備を整えてから、妙子は“四回目”を待つ。
 ぴんぽーん、と。今までよりもやや遅れて鳴る。ぎりっ、と歯が鳴る。本当にしつこい男だとうんざりする。
(あと一回)
 右手を握りしめる。どこか心が沸き立つのは、やはりストレスの賜物か。あの男を殴りつけて早く憂さを晴らしたいという気持ちが、心を浮つかせるのかもしれない。
(…………まだなの?)
 遅い。なかなか鳴らない。妙子は焦れるように立ち上がり、居間からそっと玄関の方を盗み見る。
(何やってんのよ、さっさと鳴らしなさいよ!)
 いらいらいら。
 これはもう、一発殴るだけでは済まさない。三発は殴りつけてやると心に決めながら、妙子は尚も待つ。
 が、鳴らない。とうとう焦れて、妙子は抜き足差し足忍び足で玄関のドアへと張り付き、そっと外を覗き見る。
(…………何よ、居るじゃない)
 そこには、予想通りの男が、予想通りの間抜け面で突っ立っていた。月彦は右手を持ち上げ、インターホンへと伸ばす――が、途中で断念するかのように手を戻してしまう。
(ああもう……!)
 この根性無し!――そう罵ってやりたくなる。月彦は再度右手を挙げるが、やはりボタンまでは指が届かない。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっ!」
 いらいらいらいらいらいらいらいら。
 妙子はうっかりドアを殴りつけてしまいそうになり、辛うじて我慢する。もういっそインターホン関係なしにドアを開けて殴りつけてやろうかとすら思う。
(って、ちょっ……!)
 ドア一枚を隔てて、十分は経っただろうか。月彦は小さくため息をつくや、くるりと体の向きを変え、そのまま歩き出したのだ。
 反射的に、妙子はドアを開けてしまっていた。
「え……」
「あっ……」
 開けてしまった後で、妙子はハッと我に返る。なんとも気まずい空気が流れるのを感じる。
「な――」
 なんとかこの場を取り繕わなければ――そんな思いから、妙子はなんともぎこちない笑みを浮かべてしまう。
「なに、よ……あんた、まだ居たの。なんか用? 私は買い物に行く所だけど」
 白々しい。言ってて恥ずかしくなるとはまさにこの事だった。が、もはや後には引き返せない。インターホンを無視していたが、買い物に出なければならない為にやむなく外に出たら顔を合わせたくない男と顔を合わせてしまったという演技で押し通すしかない。
「いや……なんて言ったらいいか…………買い物って、すぐ終わるのか?」
「………………別に、どうしても今日行かなきゃいけないってワケじゃないけど…………」
「そ……っか。実は、お前にどうしても会いたいって人がいて、呼びに来たんだ」
「私に会いたい人?」
 眉をひそめる。この男は一体何を言っているのか。二度と顔を見せるなと言われた相手に頼み事など出来る立場だと思っているのか。
「芭道しほりさん……ほら、こないだちょっとだけ話をしただろ? あの人が、どうしても妙子と二人きりで話がしたいらしい」
「はあぁ?」
 思わず、声が裏返る。こほん、と妙子は咳払いをする。
「冗談じゃないわ。なんで私があの人と、しかも二人きりで会わなきゃいけないのよ!」
「俺もそう思う…………だけど、大事な話があるって言うんだ」
「何よ、大事な話って」
「それは……俺にもわからない。とにかく、大事な話らしい」
「………………。」
 妙子は思い出す。芭道しほり。なんとも人の良さそうな、優しそうな女性だった。年は恐らく20台後半か30台前半くらいだろう。あまり共通の話題があるとは思えない。
(本当に、なんで……)
 自分が呼ばれたのだろうか。妙子には皆目見当がつかない。本音を言えば断りたい――が、何故呼ばれたのか気にならないと言えば嘘になる。
「…………あんたは?」
「俺?」
「その話って、あんたも混じるの?」
「いや、二人だけで話したいって言ってたからな。妙子をしほりさんの所まで案内したら、俺は外で待ってる」
「………………それって、今すぐ行かなきゃいけないの?」
「まぁ、早い方がいいかな。しほりさん、今夜にはもう故郷に帰らなきゃいけないみたいだから」
「………………………………解ったわ。ちょっと準備してくるから待ってて」
 結局、妙子は好奇心に負けた。一度部屋に戻るや、食パンをそのまま囓って軽く腹に入れ、歯を磨いた後、鏡の前で最終チェック。最後に上着を羽織り、外に出る。
「待たせたわね。……で、どこに行けばいいの?」
「俺が案内する。電車で何駅か行ったところだ。そんなに遠くはない」
「ふん。あんまり遠いようだったら、途中で帰るからね」
 連れと思われない様、並ばずに間隔を空けて歩く。何をやっても治らずあれほど悩まされた瞼の痙攣がいつのまにか止まっていた。


 月彦に案内されてやってきたのは、特にこれといって特徴のないビジネスホテルだった。
「………………。」
「な、なんだよその目は! 見ての通り、ちゃんとしたビジネスホテルだよ!」
 まさか、騙してホテルに連れ込もうとしているのでは――という疑念は拭いきれないが、いくらこの男がバカだといってもさすがにそこまでバカではないだろう。妙子はため息混じりに月彦の後に続き、ロビーへと入る。
 しほりとは、恐らくロビーで待ち合わせをしているのだろう――という妙子の予想は、あっさりと裏切られた。何故なら月彦は、受付の奥でスマホを弄ってる中年女性に軽く挨拶をして、そのまま奥へと入っていってしまったからだ。
「ちょっとちょっとちょっと! これ、入って行っちゃっていいの?」
「えっ……?」
 遅れて、月彦は言った。
「どういう意味だ?」
「だから、泊まってるわけでもないのに勝手に入っちゃっていいのかってこと。普通ダメでしょ」
 宿泊者と会う時は、ロビーで。それは常識なのだとばかり、妙子は思っていた。
 が、目の前の男にとっては違うらしい。
「そうなのか? 俺何度も出入りしてるけど、一度も止められたことないぞ?」
 さっきの女性とはもう殆ど顔見知りで、顔パスが効くのだという。
(…………こいつ、そんなに足繁く通ってるっていうの?)
 普段そんなに暇なのだろうか。その割には全然――妙子は頭を振って、思考を打ち消す。
「まぁ、とにかく大丈夫だろ。しほりさんが泊まってるのは6階だから、エレベーター使うぞ」
「………………あんたなんかと一緒に乗りたくはないけど」
 さすがに6階まで階段で上がるのは骨だし、いやなことを思い出しそうで、渋々我慢する。
「………………だいたい、話があるなら向こうから来るのが筋じゃないの」
 エレベーターのある場所までの歩き方、乗る際の身のこなしなどから、やはりそれなりの回数通っていることを察知し、妙子はつい口を尖らせてしまう。
「しほりさんは最初、そうするつもりだったみたいだけど、俺が断った」
「なんでよ」
「邪魔の入らない個室でじっくり、二人だけで話をしたいらしい。でもさすがに、よく知らないしほりさんを部屋にはあげたくないだろ?」
「…………確かにそうだけど……」
「それにどうせ今、すっげぇ散らかってんだろ?」
 反射的に、月彦の顔を見る。あっ、やべ――さもそう言いたげに、月彦が口を覆う。
「何よそれ。なんで私の部屋が散らかってるかどうかなんて、あんたに解るっていうのよ」
 むきになってしまったのは、それが図星だったからだ。ここ数日、何をするのも面倒で、つい後片付けを後回しにしてしまった結果だった。
「…………いやその、ほら……妙子って、機嫌悪いとすげー投げやりになるところがあるから、きっと部屋も散らかってんじゃないかなと………………」
「っっっ……それは、昔の話、でしょ……!」
 これだから“幼なじみ”はやりづらいと感じる。こんなダメクズ男相手でも、昔から顔を合わせているというだけで、知られたくないことまで知られてしまっているのだから。
(そういえば、こいつ……お母さんの命日のことも覚えてたし……)
 一番の親友の千夏ですら、そこまでは覚えてはいなかった。だからといって千夏を責めたりはしない。そもそも他人の母親の命日まで記憶しているこの男が異常なのだ。
(…………こいつ…………どんだけ、私のこと好きなのよ)
 頬が熱くなるのを感じる。うっかりにやけそうになってしまう顔を、歯を食いしばって引き締める。
(そのくせ、よく知りもしない他の女の胸を触ったりして、やることがちぐはぐ過ぎるのよ)
 鼻の下を伸ばしながらしほりの胸元を凝視している月彦の姿を想像するだけで、うわついた心が急速に覚めていくのを感じる。そう、この男はそういう男なのだ。胸があるから、白石妙子にもつきまとっているだけで、それが無ければ見向きもしない最低の男なのだ。
「……と、とにかく降りようぜ。いつ誰がボタン押すかわからねーんだから」
 気がつくと、エレベーターはとっくに目的の階へと到着していた。ふんと鼻を鳴らして、妙子は一足先にエレベーターから降りる。
「……………………だいたい、なんでよく知りもしない相手と、個室で話なんかしなきゃいけないのよ」
 どうやら、他の利用者が待っていたらしい。エレベーターは月彦が降りて扉が閉まるやすぐさま動き出した。
「どうしても嫌なら今から帰ってもいいぜ。しほりさんには、俺から話しておくから」
「別に……そこまで嫌ってわけじゃないわ」
 そもそもそこまで嫌なら、ここまでついてきたりはしない。そうこうしているうちにエレベーターが目的の階へと止まり、月彦に先導されて部屋の前へと到着する。
「しほりさん、連れてきました」
 月彦がノックをすると、程なくドアが開いた。
「こんにちは、妙子さん。お呼びだてしてしまって、ごめんなさい」
 顔を合わせるなり、しほりは深々と頭を下げる。
「……いえ、別に」
 何となく気恥ずかしくて、妙子はつい顔を逸らしてしまう。
「じゃあ、俺はロビーで待ってるから」
「はい。……妙子さん、中に入って下さい」
「…………。」
 月彦と別れ、妙子は室内へと案内される。入ってすぐ右手側がバスルーム、奥が居住スペースなのだろうが、予想通り狭い。部屋の大半はベッドが占め、小物を除けば申し訳程度の机と椅子があるのみだ。室内は暖房が効いているらしい、妙子は上着を脱ぎハンガーへとかけた。
「どうぞ、そちらに座ってください」
 しほりがベッドの方を促してきた為、妙子はやむなくベッドに座る形となり、しほりは向かい合って椅子に座った。
(…………やっぱり、大きい)
 紫色のニットセーターに深く影を作るその膨らみには、正直負けたと思わざるを得ない。
(って! そんな勝ち負けなんてどうでもいいし……!)
 何故、大きい方が勝ちみたいな考え方になってしまっているのか。あの男に思考が毒されていると、妙子は唇を噛む。
「……何か飲みますか? お茶とかならお出しできますけど」
「いえ、いいです。…………話って何ですか」
 あまりぶっきらぼうな口調にならないよう苦慮するも、難しい。そもそも、ろくに知りもしない相手と話をするのは本当に苦手なのだ。
(……なのに、なんで来ちゃったんだろう)
 妙子自身、自分の行動が理解できない。ただの好奇心――では、説明がつかない引力を、しほりに感じていることは事実だった。
「……その、妙子さんが誤解なさっているようなので、それを解いておきたくて……」
「何が誤解だっていうんですか」
 まただ。何故こんな、子供が拗ねているような口調になってしまうのだろう。妙子はままならない口を叱るように、右手で覆う。
「その……妙子さんは、月彦さんが下心で私の相談に乗っていると……そのように思われてるとお聞きしたんですが」
「……その通りです。あの男は、女性の胸に触る為ならどんな嘘でも平気でつく男です」
 しほりが、表情を曇らせると同時に、妙子は心臓を搾られるような痛みを覚えた。同じ顔を、しほりと年格好の似た女性にされても、これほどに苦しいと感じる筈はないのに。
「………………私は、あの男のことを昔からよく知っています。芭道さんの前ではどんな聖人君子を装っているのか知りませんけど、全て演技です。あの男の性根は腐りきってます」
「…………どうして、月彦さんのことをそんな風に言われるんですか? 私には、とてもそんな方には思えません」
「それはアイツが芭道さんの前で演技してるからです。心の中では涎を垂らしながら、芭道さんの胸のことばかり考えてるに決まってます」
「………………妙子さん」
 しほりはまた表情を曇らせる。何かを口にしようとして、再び口を閉じる。
「…………言葉では、伝わらないものなのかもしれません」
 それなら――しほりが、不意に立ち上がる。そのまま妙子の目の前に立つや。
「えっ――」
 ふわりと、唐突に包み込まれるように抱きしめられ、慌てて妙子はしほりの両手を払いのけ、ベッドから立つや逃げるように後退る。
「い、いきなり……何をするんですか!」
「怖がらないで下さい。今の妙子さんには必要なことなんです」
 しほりは追わず、妙子の方へと両手を差し出すように広げる。
「少しの間、私に身を任せて下さい」
「何を、言って……」
 心がざわつく。両手を広げて微笑を浮かべているしほりの姿が、脳裏にある何者かの姿と重なるのだ。
「さあ、妙子さん」
 堪えがたい衝動を感じる。ふらふらと、何かに操られるように、妙子はしほりの元へと歩み寄る。しほりの両手が頭の後ろへと回り、抱きしめられる――同時に、ふわりと体が浮くのを感じた。次の瞬間には、しほりに抱きしめられたまま、妙子はベッドに横になっていた。
 今度は、逃げようとは思わなかった。逆に心が安らぎに満ち、全身から力が抜けていく。今まで、求めても求めても決して得られず、だったらもういらないとヘソを曲げてきたものが、溢れるほどに注ぎ込まれるのを感じる。
 本能の赴くままに、妙子はしほりの胸元へと顔を埋める。不思議と息苦しいとは感じなかった。代わりに猛烈な眠気を催し、程なく妙子は意識を無くすように眠りに落ちた。
(おかあ……さん……)
 閉じた瞼の端から、ひとしずくの涙が頬を伝い、しほりのセーターを濡らした。


 月彦は、待った。始めは一階のロビーのソファに腰掛けていたが、次第に受付の女性の視線が気になり始め、ホテルの外で時間を潰すことにした。
(…………考えてみたら、別に俺が待ち続ける必要って無いよーな……)
 対して遠くに来たわけでもない。妙子も帰り道がわからないという事は無いだろう。が、仮にも自分の為に骨を折ってくれているであろうしほりと、そのしほりに頼まれてわざわざ妙子を連れて来た手前、さすがに一人帰ってしまうわけにもいかない。
(…………もう三時間。そんなに揉めてるのかな)
 ホテルから妙子が出てくればすぐに解る範囲で、月彦はぶらぶらと散歩をしたり、向かいのコンビニで立ち読みしたりと暇をもてあました。が、さすがに遅すぎるのではという思いから、月彦はしほりの部屋を訪ねてみることにした。
「あっ」
 しかし、エレベーターで六階へと上がり、扉が開くなり月彦は思わず声を上げてしまった。
「………………。」
「よ、よぉ……妙子。随分時間かかってるみたいだから迎えに行くところだったんだ」
 丁度妙子もエレベーターに乗ろうと待っていた所だったらしい。むすりとした顔をした妙子がエレベーターへと乗り込み、月彦はやむなく“1”のボタンを押した。
「……えーと、しほりさんとはどんな話をしたんだ?」
 妙子は答えない。両手をダウンジャケットのポケットに突っ込んだまま、襟元までジッパーを上げたジャケットに顔の下半分を埋め、むすりとした顔を崩さない。エレベーターが一階に着くなり妙子が降りてしまったので、仕方なく月彦も後を追う。
「…………悪かったわね」
 ホテルから出たところで、漸く妙子が口を開いた。
「確かにあんたの言う通り、私の邪推だったみたい。だけど元を正せば、紛らわしい真似をしたあんたが悪いんだからね?」
「え……あ…………あぁ…………まあそりゃ……確かに紛らわしかったかも、な」
 しほりは一体どんな魔法を使ったのだろうか。しほりの元へと連れて行く前と後で、妙子の態度は別人のように変わっていた。世を拗ねているような所はいつも通りだが、どこか角が取れ、丸くなったようにすら思える。
「…………私は帰るわ。あんたはしほりさんの所に戻ったら? 帰る前に話をしたいって言ってたから」
「いや、でも……」
 行ってもいいのだろうか。また怒ったりするのではないか――そんな妙子に対する危惧から、月彦は両足が硬直してしまう。
 はあ、とこれ見ようがしに妙子が大きくため息をつく。
「行きなさいよ。別に下心はないんでしょ」
「わ……わかった。じゃあ、ちょっとだけ話をしてくる」
「ふん」
 妙子は鼻を鳴らして、ぷいと背を向ける。が、すぐに半身だけ振り返った。
「……相談に乗るのはいいけど、絶対にあの人を泣かすような真似だけはするんじゃないわよ。そんなことしたら、私あんたのこと絶対に許さないから」
「す、するわけねーだろ!」
 ふんと再度妙子は鼻を鳴らし、そのまま歩き去っていく。その背が曲がり角の向こうまで消えるまで見送って、月彦は漸く緊張に強ばっていた肩を落とした。
「…………一体しほりさんと何があったんだ」
 あの人見知りの妙子が、ああまで言うとは。その謎を解くためにも、どうやら最後にもう一度だけしほりに会う必要があるらしい。
 月彦もまた踵を返し、ホテルの中へと戻った。



「ごめんなさい、月彦さん。随分と遅くなってしまって」
 部屋を訪ねるなり、しほりは申し訳無さそうに頭を下げてきた。
「いや、それは別に構わないんですけど……一体どんな魔法を使ったんですか?」
「ちゃんとお話すれば解ってくれる子だって、初めてお会いしたときから判ってましたから」
 しほりに部屋の中へと招かれ、ベッドへと座らされる。
「いやでも……」
 尚も納得がいかないという顔の月彦にしほりは苦笑して、両手を広げる。
「妙子さんは、寂しかったんです。だから、こうして」
 しほりに抱かれる形で、顔が胸元に押し当てられる。
「いいこ、いいこってしたら、解ってもらえました」
 そのまましほりに髪を撫でられ、月彦は猛烈な眠気を感じた。が、しほりがすぐに抱擁を解いた為、慌てて意識を取り戻して体を離した。
(な……なんだ、今のは!)
 月彦の知らない、おっぱいの使い方だった。しほりに抱きしめられ、胸の谷間へと顔を埋められた途端、まるで強烈な睡眠薬でも嗅がされたかのようだった。
「…………最初、妙子さんに声をかけられたとき。妙子さんは私のことを“お母さん”って呼んだんです」
「妙子が……?」
 月彦は記憶を辿る。朧気にしか思い出せないが、そこにある妙子の母の姿は、しほりとは似ても似つかないものだった筈だ。
「“悪い子”は、そんなこと絶対に言いません。だから、直接話せば絶対に解ってもらえる自信はありました」
 いや、話をして解ってもらったというよりは、どう考えてもおっぱいの母性で懐柔したという方が正しいのでは――そう思ったが、月彦はあえて突っ込まなかった。
(…………そういや、しほりさんと会った日って)
 よりにもよって、妙子の母の命日ではないか。一年の内で、恐らく妙子が最も母の存在を意識する日だ。
(……母性、か)
 姿形が似ているとかいないとかではない。しほりの持つ母性に、妙子は反応してしまったに違いない。
「…………私、子供はまだなんですけど」
 しほりは照れ笑いを浮かべながら、じりじりと体を動かし、月彦のとなりにぴったりと体を寄せてくる。
「でも、妙子さんを見ていたら、そろそろ欲しいなって……思っちゃいました」
 そして甘えるように、膝小僧に乗せられている月彦の右手に、左手を乗せ、指を絡めてくる。
「し、ししししほりさん!?」
 ぞくりと来る、人妻の色香に思わず、月彦はベッドから飛び退るようにして距離をとり、そのまま壁に張り付いた。くすくすと、そんな月彦の大げさな動きに、しほりが笑みを漏らす。
「冗談です。…………第一、私には夫が居ますから」
「ぁ……じょ、冗談……ですよね。ははっ……」
 そう、子供が欲しくなったのであれば、本来のパートナーである夫と作ればいいだけの話だ。そんな簡単な事すら忘れそうになる程に、しほりの色香は凄まじかった。
(手に、まだ……しほりさんの手の感触が残ってるし)
 指を絡められた時に感じた、堅い婚約指輪の感触。それが無ければ、ひょっとしたらしほりを押し倒してしまっていたかもしれない。
「で、でも……正直しほりさんにそういうことを言われると、本気じゃないってわかっててもクラクラって来ちゃうから、出来れば二度としないでもらえるとありがたいです」
「……そうなんですか?」
 とてもそうは見えなかった、とでも言い足そうな、しほりの目。
「そうなんですよ! 俺だって、一応は正常な男子なんですから…………正直、今回は巧く踏みとどまれましたけど、もしまた次同じようなことをされたらとても我慢出来ないでしょうから、今回みたいなことは絶対、もう二度としないでください」
 きらりと、一瞬。ほんの一瞬だけしほりの目が怪しく光ったように見えた。
「………………そう、ですね。月彦さんには本当に申し訳なく思ってます」
 しかしそれは本当に一瞬のことで、瞬き一つすればそこには肩を竦め心底申し訳なさそうにしてるしほりの姿があった。
「あ、いや……昨日も言いましたけど、俺自身は役得っていうか、別に何も損はしてませんからそんなに謝られるようなことじゃ…………それに、妙子との仲直りも手伝ってもらいましたし……」
 しほりは首を振る。
「……そんなんじゃ、全然足りません。私……もっともっと、月彦さんのお役に立ちたいんです」
「いえ、十分です! 俺自身何も不足は感じてませんし、むしろ“貰いすぎてる”くらいですから!」
 気がつけば、しほりもまた立ち上がり、にじり、にじりと距離を詰めてきている。月彦は下がろうとするが、その背はもうぴったりと壁に張り付いている。
「し、しほりさん……!?」
 上目遣いの、潤んだ目。人妻の湿った吐息を肌に感じ、理性が崩れ落ちるのを感じた――刹那。
「あの……月彦さん…………もし、私が夫と――」
「す、すみません! 急用を思い出したんで帰ります! しほりさんもお元気で!」
 月彦は、脱兎の如く逃げ出した。

「あっ……」
 部屋に一人残されたしほりは逃げた月彦の背を追うように手を伸ばしかけて、止めた。そのまま胸の前まで引き、まるで痛みでも堪えるように肩を抱く。
「………………次は……」
 身を震わせながら呟かれた言葉を、勿論月彦が聞くことは無かった。
 


 


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