嵌められた――!
 
 なんとも嬉しげな、楽しげな女のうずうずするような笑みを見上げながら、月彦は痛感せずにはいられなかった。
 しかし、それよりもなによりもこみ上げてきたのは。
「そうか……やっぱりお前の仕業だったのか!」
「はぁ?」
「惚けんな! さっき俺に桃をぶつけただろ!」
「桃ぉ? あんた前もそんなこと言って、あたしのせいにしようとしてなかったっけ?  生憎、あたしずっと昼寝してて、さっき起きたばっかりなんだけど」
「嘘つけ! お前以外に誰があんなことをするってんだ! 俺に桃をぶつけて、この井戸まで誘導するのがお前の計画だったんだな!?」
 真犯人はお前だ!――とばかりに、月彦は人差し指を突きつける。が、真狐は目を丸くした後、大笑いをし始めた。
「ねえ、仮にあんたの言う通り……桃をぶつけて、そこにあんたを誘導したのがあたしだったとしたらさ――」
 そして、ひぃひぃと目尻に涙をにじませながら、にぃと口の端をつり上げる。
「あんたもう、詰んでるんじゃないの?」
「詰んでる……?」
 ハッと、月彦は咄嗟に周囲を見回した。確認するまでもない井戸の底、そして唯一の脱出手段であるザイルはすっかり真狐の手によって巻き取られてしまっている。
「ねえ、あんたそこからどうやって出るつもり?」
「くッ…………」
 そう、確かに真狐の言う通りなのだ。自力での脱出手段を断たれた今、この性悪狐に命運を握られたも同然。
「……何が狙いだ」
「狙い?」
「何か目的があるから、俺をこんな場所に閉じ込めたんだろうが!」
「だーかーら、あたしは本当に何もしてないって。……でも、何かして欲しいってんなら、いくらでも付き合ってあげるけど?」
 にったらにったらと、楽しくて堪らないという笑み。ぐぬと、月彦は思わず唇を噛み締める。
「……わかった、お前は何もやってないってんなら今はそれでいい。話はここを出てからだ。さっさとザイルを下ろせ」
 とにもかくにも、頭上を取られしかもろくに身動きも出来ない現状は打開せねばならない。月彦はグッと怒りを抑え、早くザイルを下ろせと促した――が、真狐はにやにやとうすら笑みを浮かべたまま、微動だにしない。
「おい、早く下ろせ」
「どうして?」
「どうして……って、そうしないと出られないだろうが!」
「あんたが出られなくても、あたしは困らないしー」
 んな――月彦は絶句した。
「何だと! やっぱりお前ッ――」
「それにぃ、濡れ衣着せられてなんか気分悪いしぃ。…………このまま蓋締めちゃおっかなー?」
「くッ…………わかった、濡れ衣を着せたことは謝る。だから早くザイルを下ろせ」
「それが人にモノを頼む態度?」
 “ヒト”じゃないくせに――などと言ったところでらちがあかない。月彦は大きく息を吸い、吐く。
「…………ザイルを下ろしてくれ……ください」
「えーっ、どうしよっかなー?」
「おい! いい加減に――」
「いい加減に……何?」
 ぐぬと、月彦はまたしても言葉を飲み込む。……飲み込まざるを得なかった。
「ねえあんた、自分の立場解ってる? あんたの命は今、あたしに握られてるの。そこから出られるかどうかは全てあたしの気分次第。……何か言うときは、ちゃんとそのことを踏まえて言ったほうがいいわよ?」
「ッ……この性悪狐が……人が下手に出てりゃつけあがりやがって! お前がその気ならもう頼まん! こんな井戸くらい、お前の助けなんか借りずに出てやる!」
「あっそ。じゃあ一人で頑張ってねー」
 バイバイと、真狐はふざけるように手を振って、そのまま井戸の蓋を閉めてしまう。
「あっ、こらばか! 蓋は閉めんな!」
 慌てて叫んだが、時既に遅し。闇に沈んだ穴の底で、月彦は一人途方に暮れるのだった。


 闇の中、月彦は文字通り途方に暮れていた。蓋を閉められた井戸の底には一切の光が入らず、間違いなく目の前にあるはずの自分の手すら見えない有様だ。
(……どうしてこうなった…………)
 本来ならば今頃はまみに貰ったエリクサー(?)を霧亜の元に届けている頃ではないのか。それが一体何故こんなことに――。
(夢なら覚めてくれ……)
 一週間、珠裡の為に一生懸命家庭教師をやってきた結果がこの仕打ちかと。或いは真央を蔑ろにした呪いなのかもしれない。視界も効かず脱出する方法も浮かばず、座ったり寝転がったりするしか出来ない井戸の底で、月彦はただただ考え事を巡らすことしか出来ない。
 そのまま体感で一時間ほどしょげかえっていた月彦だが、悩んでいても仕方ないと心機一転、脱出方法を考えることにした。
「えーと……今持ってる物は……」
 そして今更ながらに、教材やらなにやらが詰まっていたバッグは綿貫家に忘れてしまっていることに気がつく。救いは、たとえこの場に教科書があったところで脱出の役にはまるで立たないだろうという事だ。
「筆記用具があってもな……せいぜい遺言を書き残すくらいか……縁起でも無い」
 結果、両手に嵌めていた軍手と、財布、そして腕時計のみ。やはり、脱出の役には立たない。
「隠し通路なんかあったりして……」
 RPGなどでは定番のそれだが、そんなものが都合良く用意されているわけもない。闇の中手探りで周囲の壁を探ってみるが、穴はおろかでっぱり一つ見つけることが出来なかった。ならばと、地面の砂を掘り返しても、やはり出てくるのは砂ばかり。
「…………ヤバいな」
 これはいよいよ、あの性悪狐に命を握られているのかもしれない。月彦は漸くに、そのことを実感し始めていた。
「場所が場所だ……誰かが通りがかるってこともまず無いだろうしな……」
 やはり、携帯は持っておくべきなのかもしれない――少なくとも、今手元にそれがあれば、助けを求めることが出来た筈だ。尤も、こんな場所で電波が通るかどうかは解らないが。
「かくなる上は……」
 もはや頼れるものは親子の絆だけだ。月彦は指を組み、握り合った両手を額に当てるようにして、強く、強く念じた。
(真央……真央! 頼む、助けてくれ……!)
 ………………。
 …………。
 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 ……。
 …………。
 ………………。
 闇の中で、一体どれほどの時間そうしていただろうか。当然のように助けは来ず、それでも他に頼る術も無く、月彦はただただ愛娘に救助信号を送り続けた。
 が。
(…………腹が、減った)
 朝食を食べたきり、一体何時間ここにこうしているのだろうか。井戸の底は気温も低く、時折筋トレなどをして体を温めたりしていた為か、月彦はひどい空腹に襲われていた。
(ていうか……なんか、息苦しい気が……)
 閉所空間に閉じ込められた人間は、それだけで息苦しさを感じるのだという。だからこれは気のせいだ――そう思い込もうとするが、一度息苦しいと感じてしまったが最後、そうそう簡単には思い込みを覆せない。
(いや待て、確か二酸化炭素って下の方に貯まる筈……)
 或いはこの息苦しさは錯覚ではなく、ガチで酸素が減って来ているのでは――
「おい、こら! 真狐、いい加減蓋をどけろ!」
 そのことに気づいた時にはもう、月彦は声を荒げていた。
「窒息しちまうだろうが! こら! そこに居るのは解ってるんだぞ!」
 叫ぶ――が、返事は無い。井戸の中は相変わらずの闇一色であり、蓋が動く気配すら無い。
(まさか、どこか行っちまったのか……? いいや、居る! 俺には解る!)
 恐らくは、キツネの姿で蓋の上に寝そべり、ニヤつきながら傍観でもしているに違いない。そう思うと尚更腹が立つが、とはいえ現状ではあの女に蓋を開けさせるしか術が無い。
 月彦は思いつく限りの罵詈雑言を並べ立て、腹を立てた真狐が蓋を開けて文句を言うように仕向けようとした――が、結果その目論見は失敗した。声もろくに出せなくなるほどに叫び続けた月彦がいよいよ酸欠に陥り、ぐったりと井戸の底に座り込んだ時。
 月彦は、“風”を感じた。
「あら、まだ生きてる」
 半分ほど開いた蓋の向こうに見えるのは夜空。そしてその蓋と井戸の縁の間に、性悪狐が顔をその憎たらしい顔を覗かせていた。
「っ……真狐! てめぇ!」
 毒づきながらも、月彦は徐々にではあるが井戸の中の空気が入れ替わるのを感じていた。
「いいか、もう一度だけお前にチャンスをやるぞ。大人しくザイルを下ろして、俺をここから出せ。今ならまだ全部水に流してやる」
「ふーん?」
 真狐は鼻で笑うと、ずりずりと井戸の蓋を閉め始める。
「ま、待て!」
 月彦は反射的に手を伸ばしていた。
「……くっ、解った。仕方ない、ここから出してくれたら、礼もしてやる」
「礼って?」
 真狐は先ほどまでの半分ほどになった隙間から獣のように光る目で尋ねてくる。
「………………うまい稲荷寿司を食わせてやる」
「他には?」
「他にはだと!?」
 くすくすと、笑い声が振ってくる。
「だぁってぇ、あたしが出してやらなきゃあんたは一生そのままなのよ? だったらそんな“お礼”なんかじゃ釣り合わないわよねぇ?」
「このッ……足下見やがって……!」
「ほらほら、他には何をくれるの? あたしはあんたに、自分の命の値段と自由の値段を訊いてるのよ?」
「………………はっきり言え。俺に何をさせたいんだ」
「自分で考えろーって言いたいところだけど…………そうねぇ」
 真狐はうーんとしばし唸り、そしてとびきりの笑顔を隙間から覗かせた。
「“男を食い物としか見てないような女には絶対に屈しない(キリッ”とか言ってる男が、無様に泣きながら全裸土下座してここから出して下さいお願いしますお願いしますって懇願する所とか見せてくれたら、あたしの気も変わるかもしれないわねぇ」
「なん……だと……ふざけんな!」
「くすくす……まぁ、楽しみにしてるわよ。あんたがいつまで意地張ってられるか。……そうそう、窒息させるのは趣味じゃないから、隙間は開けておいてあげる」
 あたしは優しいのよ?――口元だけを隙間から覗かせて、そのまま真狐はどこかへ行ってしまった。
「くそ……なんて日だ……」
 尻餅をつき、月彦は頭をかかえて毒づいた。



 どうやらそのまま眠ってしまっていたらしい。井戸の縁から差し込む陽光で月彦は目を覚まし、そして即座に青ざめた。
「朝……やべっ……おーーーーーい真狐! 大事な話があるんだ!」
 おーいおーいと叫び続けること三十分。漸くにして寝ぼけ眼の真狐がにょきりと顔を出した。
「あによ……うっさいわね……ふあぁっ……」
「頼む、早く出してくれ! 今日は由梨ちゃんちに行く約束があるんだ!」
「ふーん……まあ、あたしの知ったこっちゃないわ」
「そう言わずに頼む! お前だって由梨ちゃんとは知らない仲じゃないだろ! 約束すっぽかしたりしたら絶対由梨ちゃんは傷つく! 是が非でも行かなきゃいけないんだ!」
「……ま、あんたがそこまで言うなら、あたしが一肌脱いでやってもいいけど。………………じゃあさ、代わりにあんた、そこで猿のモノマネやってくんない?」
「はぁ!?」
「あの子を傷つけたくないんでしょ? だったら猿の真似をするくらい平気よねぇ?」
 それとも、あんたのあの子への想いとやらはその程度なの?――そう暗に含めるように、真狐は井戸の縁に頬杖をつき、にへらと笑う。
「…………わかった。やれば、お前も約束を守るんだな?」
 これは井戸から出るため、ひいては由梨子を傷つけない為だ。屈辱を噛み殺し、月彦は大きく息を吸い込む。
「ウキッウキキッ」
 そしてめいっぱいの猿顔で、猿のように頭を掻いてみせる。忽ち、頭上から驟雨のような笑い声が振ってきた。
「ウッホ、ウホッウホッ!」
 そして、次はドラミング――をして、はてこれは猿ではなくゴリラかなと思い、再度猿顔に戻し、猿のように前傾気味の姿勢で井戸の底をぐるぐると回ってみせると、真狐は尚更声を上げ、ケタケタと笑った。
「アハハハハハハハッ! し、死ぬっ……ほら、続けなさいよ……アハハハハハ!」
 そして涙目を拭いながら催促し、再度言う通りにしてやるやばんばんと井戸の内側を叩きながら笑い出す。
「はぁはぁ……イイわぁ……たっぷり笑わせてもらったから、約束通り由梨子ちゃんにはあたしの方から事情を説明してきてあげる」
「へ……? おい待て! 俺をここから出すって約束だろ!?」
「あたしは一肌脱いであげるって言っただけよ。……大丈夫、ちゃーんとあんたに化けて、あの子を傷つけないようにやんわりと、今日はエッチ出来ないって伝えてあげるから」
「お、俺に化けて……ば、バカ野郎! 止めろ! 余計なことすんな!」
 この女が、わざわざ化けて、事情を説明する――だけで済ます筈が無い。必ず余計なことをし、或いは喋るに違いない。
 月彦は、半狂乱になって制止を懇願する――が。
「悪いけど、あたし約束はちゃんと守る女だから。それじゃあちょっと行ってくるわねん」
 ばいばいと手を振り、真狐の姿が消える。
「待てぇええええええええええええ! 止めろ! 行くなぁああああああああああああああ!」
 月彦の絶叫が、むなしく井戸の壁に反響し続けるのだった。



 
 

 

 

 

 


 

 ――小一時間後。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ただいま♪」
 まるで、新婚ほやほやの新妻が、夫に向けるそれのような甘ったるい声と共に、にょきりと井戸の縁に真狐の顔が生える。
「あんたの望み通り、あの子がショックを受けないようにやんわりと断っておいてあげたわよ」
「…………嘘つけ。どうせあることないことデマカセを吹き込んで、俺の評判を貶めてきたんだろ」
「あら、そうして欲しいなら今からもういっぺん行ってきてもいいけど?」
「止めろ! いいからもう余計なことはするな! ていうか早くここから出せ! もう十分俺をダシに楽しんだだろ!」
「やーだー。もっともーーーっとあんたで遊びたいもん」
 思わず寒気が走る程の、甘ったるい声。獲物を嬲り殺すのが何より好きなネコに囚われたネズミの気分が今なら解る気がした。
「ふふ……ねえ月彦。さすがにお腹ぺこぺこなんじゃない? さっきの猿の真似は上手だったから、ご褒美に……ほぉらっ」
 そう言って、真狐が井戸の縁から見せたのは、竹製の釣り竿と、その先端から伸びたたこ糸、そしてそれに結びつけられているバナナだった。
「お前……まさか……」
「はい、お食べ」
 真狐がバナナを放り投げると、丁度月彦の目の高さ辺りでびょーんびょーんと跳ね回る。キッと上を睨むと、なんとも楽しそうに釣り竿を握っている真狐の姿が見える。
「ほらほら、丸一日飲まず食わずでお腹ぺこぺこでしょ? 遠慮しないで食べていいのよ?」
「誰が食うか!」
 確かに真狐の言う通り、空腹の極みと言ってもいい状況だ。しかしこんな屈辱的な方法での食事など願い下げだと。月彦は腕を組んでそのまま砂地の上に胡座をかく。
「ほらほら、食べないとあたしが食べちゃうわよー?」
 しかし、真狐はバナナを巧みに操り、しつこく頬をぺちぺちしたり頭の上で跳ねさせたりを繰り返す。月彦も最初は耐えていたが、かれこれ三十分以上もそんなことをねちねちと繰り返され、さすがに我慢の限界に達した。
「このやろう! いい加減にしろ!」
 バナナをぶんどり、そのまま投げ返してやる――つもりだった。しかし、月彦の右手がバナナを掴もうとした瞬間、ひょいとバナナが釣り上げられてかわされてしまう。
「アハハハハハハハ! へたくそー!」
 そしてそのまま、バナナは月彦の頭の上へと着地する。むきー!と、次の瞬間には頭に血が上っていた。
「ほぉら、ほぉら、鬼さんこちらー」
「このっ、くのっ、ちょこざいなッ……このっ!」
 躍起になってバナナを追う――が、捕まえられない。まるでそれ自体が生き物のように変幻自在に跳ね回り、ますます月彦の頭に血を上らせる。
(もう少し……もう少しでッ……!)
 もはや、食欲がどうとか、空腹を満たしたいとか、そういうことはどうでも良くなっていた。この女の回避能力との勝負に何としても打ち勝ちたいという強烈な執念が月彦の肉体を限界を超えて突き動かしていた。
 その甲斐あって、どうにかこうにかバナナの動きを先読みし、もう少しで捉えられそうだというところで。
「はい、時間切れー」
 バナナは無慈悲に釣り上げられてしまった。
「というわけで、あたしが頂きまーす。……あぁん、美味しい! ちょーおいしっ! 最高!」
 真狐はバナナの皮を剥くや、むしゃりとかぶりつき、ほっぺたに手を当てながら嫌味ったらしく美味しい、美味しいと繰り返す。
「こんなに美味しいバナナ食べたの初めて! あんたも食べれば良かったのに」
 そして、食べ終わった皮をぽいと井戸の底へと投げ落としてくる。
「はい、残念賞。めしあがれー」
「めしあがるか!」




 ぐぎゅるるる……。
 
 空腹を抱えて、月彦は井戸の底に座り込んでいた。背中から伝わってくる周囲の壁の冷たさが身に染みたが、そこから逃げて横になったところで、今度は砂地の冷たさが身に染みるだけなので、動く気にもならなかった。
(俺は……このままあの女に嬲り殺されるのか……)
 それこそ、死ぬまでネコにいたぶられるネズミのように。
(ある意味……まだ矢紗美さんに監禁されるほうがマシだったかもしれない……)
 同じ人間である以上、まだ人の心というものが期待できる。が、あの女はそもそも人間ですらない。道徳や倫理といったものがおよそ皆無であり、自分が楽しむ為ならば他人の命などどうでもいいと思っているに違いない。
(すまん……真央……父さまは先に逝く……あとは頼んだぞ……)
 月彦が目を閉じ、安らかな眠りにつこうとした矢先のことだった。
 突然、どちゃどちゃと、何かが砂地の上に振ってきた。目を開けると、それは三つのカップ麺だった。
「何だ……?」
 一瞬、空腹故の幻かと思った。しかし手を伸ばし、触れてみると確かにそれは存在していた。
(これは……神からの贈り物か!)
 もしそうであれば、脱出の暁には入信も厭わないと思い、月彦が天に感謝の意を捧げようと見上げた先にあったのは。
 やはりというか、なんとも楽しげな性悪狐の顔だった。
「あたし、優しいでしょ?」
「………………本当に優しいやつは真っ先にここから出してくれるし、そもそもお湯も注いでない即席麺なんか放ってよこさない」
 とはいえ、恋い焦がれた食べ物であるのは間違いない。この際生でもいいからかじりつこうと、月彦が蓋を開けた時だった。
「あ、月彦。ちゃんと受け止めないと危ないわよー?」
「受け止め……? ば、バカ野郎!」
 真狐の声に促されて見上げた月彦は、文字通り凍り付いた。何故ならそこには、井戸の縁から身を乗り出し、薬缶を傾けようとしている性悪狐の姿があったからだ。
「や、止めろ! そんなもん浴びたら熱いじゃ済まないんだぞ!」
「だーいじょうぶだって。あたし、コントロール抜群だから。あんたさえ下手に動かなきゃ火傷なんてしないわよ」
「無理に決まってんだろ! うわばかやめろマジで止めろって!」
「いいからいいから、あんたはちゃんと手に持ったまま動くんじゃないわよ?」
 必死の制止も聞かず、真狐がお湯を垂らし始める。やむなく月彦は蓋を取り去ったカップ麺を手に立ち尽くした。
(おっ)
 と思ったのは、意外にも真狐の狙いが正確だったからだ。井戸の深さは5,6メートルはゆうにある。それだけの距離を経て尚、直径二十センチにも満たないカップ麺にお湯を命中させるのは、さすがと言わざるを得ない。
(てっきり、わざと狙いを外して火傷させるつもりかと思ったが……)
 なんだ、意外と良いところあるじゃないかと月彦が評価を改めかけた時だった。
「へ……へっ……」
 思わずゾッとするような声が、頭上から振ってきた。
「ふぇっくち!」
「うわちちちちっち!」
「ぶぇっくし! くしっ! へくちっ!」
「あちあちあちちちちっ! ば、ばかやろっ! クシャミするなら薬缶を戻せ!」
 真狐がクシャミをする度にお湯の軌道が大きくうねり、水滴が灼熱の雨となって月彦の全身を襲う。
「あー、鼻風邪引いちゃったかな? あっ、お湯無くなっちゃった。月彦−、足りたー?」
「三分の一しか入ってねえよ! 殆ど零しやがって!」
 不幸中の幸いは、冬場の寒気だ。細かい粒となった熱湯は空気に冷やされ、辛うじて火傷には至らなかった。が、まったく熱くないと言えば、それは嘘だ。
「だーいじょうぶ。こんな事も有ろうかと、もう一個用意しといたから」
 じゃーん!――真狐が誇らしげに新たな薬缶を取り出し、傾けてくる。
「もういい、止めろ!」
「ほらほら、動くと危ないって」
「俺は動いてねぇ! ってあちちっ、こら笑うな! お前さてはわざとやってんな!」
「うりうりー、うーずーまーきー!」
「うずまきじゃねえ! こうなったら意地でもカップで受け止めてやる!」
 うりうりと円を描くように振りまかれるお湯を、極限まで研ぎ澄まされた集中力でカップ麺だけで受け止めていく。
「へー、巧い巧い。やるじゃない」
「見たか! 本気を出せばこれくらい!」
 気持ちお湯を入れすぎたカップ麺の蓋を閉じ、月彦はそっと砂地の上に置く。
(あとは三分待てば……ん?)
 そこではたと。重大な事実に月彦は気づかされた。
「おい、真狐……箸はどうした」
 見上げる。真狐は目を丸くし、さながら外国人が「ワタシニホンゴワッカリマセーン」とでも言っているかのようなボディランゲージをしてみせる。
「おい、箸だ箸! 箸が無いと食えないだろ!」
 今度は片耳を井戸に傾け、手を宛がい、さながら「えっ、何? 聞こえない」といった素振り。
「なに聞こえないフリなんかしてんだ! 箸よこせって言ってんだ! 違う、スプーンじゃない!」

 十数分に及ぶ真狐の小芝居に付き合わされた結果、麺はだだ伸びにされた挙げ句、月彦はスプーンでの即席麺実食にトライせざるを得なくなった。頭上からは当然のようにケタケタと笑い狂う声が聞こえたが、月彦は地蔵のように無視し続けた。



 腹はそこそこに満ちた。が、喉の渇きは相変わらずであり、依然として脱出の目処は立たない。
(畜生……あの野郎、いつまでこんなことを続ける気だ)
 真狐の言う通り、全裸土下座をして泣きながら許しを請えば、即座に出られるのかもしれない。しかしそれは紺崎月彦にとって死よりも辛い選択肢であり、だったらこのまま死んだ方がマシということになる。
(冷静に考えてみよう。…………助けが来る可能性は果たしてあるのか?)
 助けの筆頭候補に挙がるのは、やはり真央だ。本来ならば珠裡の試験終了と同時に“ご褒美”をやる手はずであったのだから、今頃はそれこそ父親の帰宅が待ち遠しくて仕方ないだろう。真央が焦れに焦れて、綿貫家に何故まだ帰ってこないのかと一報を入れれば、土曜日の朝には確かに帰った筈だとまみから聞き、これは一大事だと思うかもしれない。
(問題は……)
 まず、真央が綿貫家に連絡するかということだ。珠裡が妖狐を嫌うように、真央もまた妖狸を嫌っている。妖狸と喋るくらいなら家で大人しく待つ――という選択肢を選ぶ可能性は十二分にある。
 また、連絡をし、確かに帰った筈だと聞かされても、真央がなんの行動も起こさない可能性もある。これについては、普段から何かと家を空けたり、無断外泊を続けている我が身から出た錆を呪う他ない。
(いや、違う……今回は違うんだ! 頼む、真央……気づいてくれ! 俺のSOSを受信してくれ!)
 無駄とは思いつつも念じてみる――が、当然レスなどは返ってこない。
(真央が助けてくれないとなると……他は……………………絶望的だな)
 雪乃や矢紗美がここまで来てくれるとは思わない。同様に白耀や菖蒲がこの場所を探し当ててくれるヴィジョンも見えない。
(意外と珠裡やまみさんが……)
 紺崎月彦が帰宅していないという事実を重く見て、捜してくれるのではないか。珠裡はともかく、まみがその気になれば、救助してもらえる可能性は決して低くは無い。
(或いは、大穴でみゃーこさんとか……)
 野山大好きな都が、たまたま近くを通りかかり、見つけてくれる――そんなサプライズがあったら、自分はもう都にゾッコンになってしまうだろう。
「…………まぁ、いくらなんでもそうそう巧くはいかないよな」
 なんといっても場所が場所だ。こんな場所にそもそも用があって訪れる者など居る筈が無い。
(だからこそ、あの女も根城にしてたんだろうし)
 そう、真狐の話ではどうやらあの廃屋はあの女の塒(ねぐら)の一つらしい。ここを無事に出る事が出来たら、まみにチクってやると、月彦が復讐の炎を滾らしていた時だった。
 耳が、“足音”を拾った。
「……………………?」
 思わず、空を見上げる。日は既に傾き、日曜ももう終わろうとしている。ざわざわと風が枝葉を揺らす音に混じって、微かに何者かの足音が聞こえる。
(真狐……? いや、アイツは足音を立てない)
 昨日から、幾度となくあの女が足音を立てずに井戸の周りを行き来しているのは確認済みだ。ということは、あの女ではない誰かが井戸の側まで来ているということか。
「誰か! そこに居るのか!?」
 月彦は、声の限り叫んでいた。次の瞬間、井戸の縁から顔を覗かせたのは、先ほど月彦が助けを期待した相手の、誰とも違う顔だった。
「先輩……? そこに居るのは、先輩ですか!?」



「由梨ちゃん!? まさか……そんな……」
 到底起こりえない事態に、月彦は混乱した。混乱しつつも、歓喜に打ち震えていた。
「先輩の様子がおかしかったから、こっそり後をつけたんです。そしたら、先輩じゃなくて真狐さんで……」
「事情はどうでもいいから、とにかくここから出してくれ! 早く! アイツが戻ってこないうちに!」
「は、はい! でも……」
 由梨子が戸惑うように辺りを見回す。
「その辺にザイルはない? 俺が降りる時につかったのがあると思うんだけど」
「ザイル……ですか? 見当たらないみたいですけど……」
「真狐のやつが片付けやがったのか……だったら納屋だ! 納屋の中に多分まだあるはずだ」
「納屋ですね、解りました。先輩、もう少しだけ辛抱しててください」
 縁から、由梨子の姿が消える。ホッと、月彦は安堵の息をつき、砂地に尻餅をついた。
(助かった……)
 体から力が抜ける。まさか、由梨子が助けてくれるとは思っていなかっただけに、歓びはひとしおだった。
(なんて頼りになるんだ)
 もうこれは由梨子と結婚するしかないかもしれない――己の中で由梨子の株が爆騰するのを感じながら、救いの糸が垂らされるのを今か今かと月彦は待ち続けた。
「先輩、ありました! 今下ろしますね」
 程なく、井戸の縁に戻って来た由梨子の手から、ザイルが下ろされる。よし、と月彦は力一杯握りしめ、井戸の壁に両足で踏ん張り、一歩、また一歩と昇っていく。
 が、三分の一ほど昇った時だった。月彦の耳が、めりめりとなにやら不審な音を聞いた。
「えっ、あっ――」
 そして、唐突にザイルからの手応えが消えた。あぁっ、と由梨子の悲鳴が重なった時には、月彦は背中から砂地の上に落下していた。
「せ、先輩! 大丈夫ですか!?」
「いてて……一体なにが……」
「あっ……すみません、先輩。ザイルを結びつけた場所が悪かったみたいです……柱が腐って折れちゃってます」
「なんてこった……由梨ちゃん、他に結べそうな場所はある?」
「大丈夫です。先輩、もう少しだけ待ってて下さい」
 慌てた様子で、由梨子が井戸の縁から消える。五分ほど経って、再び由梨子は戻って来た。
「先輩、今度は絶対大丈夫です」
「OK、じゃあ、今度こそ」
 再びザイルを握りしめ、昇る。時折ザイルの手応えを確かめながら、今度こそはと。三分の一ほど昇った時だった。
 ぶちぶちと、何かがちぎれるような音を、月彦の耳が拾った。
「えっ……ちょっ、そんなっ……」
 ぶちんっ――そんな音と共に、またしても手応えが無くなる。「先輩!」――掠れたような由梨子の悲鳴を聞きながら、月彦は井戸の底へと落下する。
「いっ……たたた……今度は何だ……ザイルがちぎれてやがる」
 まさか、ザイルが千切れてしまうなんて考えられない――が、現に井戸の底には千切れてしまったザイルの先端が転がっている。恐らくは経年劣化によるものだろうか。長く納屋にしまわれていたものだから仕方が無いのかもしれない。
「先輩……大丈夫、ですか……?」
「大丈夫……由梨ちゃんのせいじゃないよ。ザイルがちょっと古かったみたいだ」
「すみません、先輩……あの、納屋にもう一つザイルの束がありましたから、そっちを持って来ます」
 二度も失敗してしまったのは自分のせい――と思ってしまったのか、由梨子は瞬く間に駆けていってしまった。そして程なく、先ほどまでのものより若干新しく見えなくもないザイルを、井戸の底へはらりと垂らした。
「先輩、今度こそ大丈夫です」
「OK、三度目の正直だ」
 月彦はしっかりとザイルを握りしめ、今度こそと井戸の壁を昇る。三度目の正直というだけあり、月彦は順調に歩を進めていく。
(……っ、これ、結構キツいぞ……)
 しかし、問題は体力だった。ただでさえ丸一日ろくに食事も取っていない。何度もずり落ちそうになりながらも、月彦は歯を食いしばって耐え、ザイルを引き寄せるような手つきで、徐々に、徐々にではあるが昇っていく。
「先輩、あと少しです」
「ぐぬっ……もうちょい……ぐぐっ……」
 もう少し、もう少しで井戸の縁に手が届く。応援する由梨子の姿が近づくにつれ、それ自体が力となるかの様だった。
 いける!――そう月彦が確信した、まさにその時だった。
「へ……?」
 月彦は、信じられない光景を目にした。今の今まで応援をしていた由梨子が、どこからともなくペットボトル容器を取り出し、その中身をザイルへと垂らし始めたのだ。
「ゆ、由梨ちゃん……それは?」
「油です」
「あぶら――」
 絶句した次の瞬間には、ザイルを伝って月彦が握っている場所まで、油が到達していた。
「うわっ」
 摩擦が消え、滑落する刹那。月彦は最後の力を振り絞って右手で井戸の縁を掴んだ。
「ぐぐ……ゆ、由梨ちゃん……一体何を考えて……」
 が、辛うじて指先だけを引っかけたに過ぎず、長くは耐えられなかった。やがて月彦は力尽き、壁面で体を擦るようにして井戸の底へと滑落する。落ちる月彦を追いかけるように、由梨子の哄笑が井戸の中に響き渡る。
「先輩、大丈夫ですか?」
 井戸の中を覗き込む由梨子は、なんとも無邪気な、あどけない顔をしていた。
「くっ……そうか、お前真狐だな!?」
「くすくす……先輩、そこでオナニーしてみせてくれませんか? そしたらもう一度ザイルを下ろしてあげます」
「うるさい黙れ! よりにもよって由梨ちゃんに化けるなんて……お前に人の心はあんのか!」
「あるわけないじゃないですか」
 けろりと言って、由梨子は煙を噴きながらくるんと宙返りをする。
「だって、あたしキツネだし」
「こンの……てめぇ、覚えてろよ……ここから出たら、お前のその性根が治るまで、徹底的に教育してやる!」
「やンっ、月彦こわーい。そろそろ出してあげようかなって思ってたのに、そんなコト言うの?」
「そうやってニヤついてられるのも今だけだ。お前に復讐する、その心がある限り、俺は絶対に諦めない。必ずここを出て、お前の泣きっ面を拝んでやるからな!」
「無理に決まってんでしょ、ぶぁーか!」
「出る! 絶対に出てやる!」
 けらけらと大笑いをする性悪狐を見上げながら、月彦は堅く拳を握りしめるのだった。


 が、そうやって決意を新たにすれば脱出の妙案が浮かぶかといえばそうではなく、結局月彦は頭上を押さえられている不利を覆せず、あの手この手でちょっかいをかけてくる性悪狐に対抗する術もなく、じりじりとSAN値を削られ続けた。
 ある時は都が助けに来てくれたかと思えば、やっぱり化けた真狐であったり。雪乃が助けに来てくれたかと思えば、当然のように真狐であったり。白耀も、菖蒲も、全てが化けた真狐で、もはや誰が顔を覗かせても絶対に信じたりしないぞと、月彦は固く誓った。

 すでに日は暮れ、井戸から見えるのは満天を丸く切り取った夜空。そこにちりばめられた星々には見向きもせず、月彦は井戸の底で蹲っていた。空腹であるというのももちろんだが、何よりも寒かった。もはや筋トレをして体を温めるなどという元気も無く、月彦はただただ歯を鳴らしながら蹲っていた。
 だから、一体いつからそこに居たのか、月彦には解らなかった。寒すぎて眠ることもできず、最初は夢か幻かと思った。
「うん……?」
 井戸の縁からにょきりと。生首のようなものが生え、見下ろしていた。また性悪狐がちょっかいをだしにきたのかといい加減月彦はげんなりする。が、よくよく見れば似て否なるものだと気がつく。そして気がつくや、月彦はハッと身を起こしていた。
「真央!? ………………いや、どうせまた真狐の奴だろ」
 その手には乗るかと、月彦は首を振って横になる。そのまま十分ほど横になり続けて、ちらりと横目で見ると真央の首は消えていた。
(ほらな)
 と、月彦は内心ほくそ笑んでいた。もしあれが本物の真央であれば、一も二も無く助けてくれる筈なのだ。声もかけず、黙って消えたということは、化けた真狐に違いないのだ。
 そのまましばし微睡んだ月彦は、どちゃどちゃという音と共に、顔に砂がかかったことで目を覚ました。
「な、何だ!?」
 慌てて砂を払い、辺りを確認する。井戸の底は月明かりも乏しく、視界はさほどには効かなかったが、今まであったものと無かった物くらいは解る。
「……コンビニ袋……?」
 見慣れない白い袋の中には、まだ暖かいコンビニのオニギリと、お茶のペットボトルが数本入っていた。
「……真狐の奴、また手が込んだことを」
 どうせこれも幻術に決まっている。口にいれたが最後、馬糞か何かに戻るに違いないのだ。
 そう、頭ではそうだと解っているのに、月彦はごくりと喉を鳴らしてしまう。言うまでも無く空腹であり、何より喉が渇いていた。空腹に耐えかね、真狐が投げ落としたカップ麺を生で囓り続けたせいで、とにかく喉がカラカラなのだ。
(もういっそ――)
 これが幻術であり、馬の小便であってもいい――とにかく喉を潤したいという思いから、月彦はペットボトルの栓を開け、ぐびりと嚥下する。どうやらよほど出来のいい幻術らしく、飲み干して尚、口の中に残るのは茶の味だけだった。本当に茶の味しかしないのなら、泥水だろうが馬の小便だろうが構わないと、月彦はそのままぐびぐびと500mlをいっきに飲み干した。
 そこからはもう、怒濤のように食べ物を胃に詰め込んだ。おにぎりも、本当は馬糞か何かなのだろうが、終始おにぎりの味しかせず、月彦は久方ぶりの満腹感にごろりと大の字になる。
 そこで漸く、先ほども見た真央の首が井戸の縁に生えていることに気がついた。
 もしや、と。その時初めて、月彦は首の持ち主が本物の真央である可能性を疑った。
「……ひょっとして……本物の真央……か?」
 こくりと、真央の首は頷いた。
「どうして黙ってるんだ?」
「声をかけたけど、父さま寝てるみたいだったから」
 成る程、意識が朦朧としていた時に一応声はかけられていたらしい。
「どうしてここに居るってわかったんだ?」
「…………由梨ちゃんが、父さまが旅に出ちゃったって教えてくれたの。だけど、様子がすごく変だったって。だから、心配になって――」
 真央はそこで言葉を切り、躊躇った。
「…………父さまは、使っちゃダメって言ってたけど……遠視の術で父さまを捜したの」
「あぁ……そういえば」
 遙か昔に、そんなやりとりをしたなと、月彦は思いだした。
(てことは、やっぱり本物の真央なのか)
 あの時はまだ、真狐の奴は獄中だった筈だ。真央がわざわざ話しでもしない限り、真狐がそのことを知っているはずは無い。
「真央……本当に真央なのか!?」
「うん。私だよ、父さま」
「本物の真央なら話は早い! 早くここから出してくれ! 真狐の奴に騙されて監禁されてるんだ!」
「どうすればいいの?」
「納屋だ! 多分まだザイルの残りがあるはずだ! それをどっか丈夫そうな柱に結んで垂らしてくれれば、あとは自力で出られる!」
 先ほどまでの飢餓状態であれば、難しかったかもしれない。しかし今は腹も満ち、何より久方ぶりに愛娘の顔を見れたことで気力すらも充実している。
「わかった、ちょっと待っててね」
 真央の姿が消え、待つ事数分。ザイルを両手に抱えた真央が井戸の縁へと戻って来て、その先端をゆっくりと下ろしてくる。
(やっと……やっと出られる……!)
 今度こそ、今度こそ出られる――月彦は感動のあまり涙が出そうになったが、グッと堪えた。涙は、本当に脱出できたその瞬間まで取っておくべきだからだ。
「……よし、登るぞ!」
 気合いを入れて、ザイルを掴む。……もとい、月彦は掴もうとした。しかし何故か、月彦の右手は空気を握りしめていた。
「うん?」
 首を傾げて、漸く何が起きたのかを理解した。掴もうとした瞬間、ザイルがするりと手の中から逃げたのだ。再度、左手で掴もうとすると、またしてもザイルが20センチほど持ち上がり、手の中から逃げてしまう。
「まーおー? 一体何の冗談だ?」
 月彦は苦笑混じりに真央を見上げる。
「……ごめんなさい、父さま。ちょっとふざけてみただけなの」
 真央はしゅんとキツネ耳を萎れさせながらザイルの先を元の高さまで戻した。やれやれとため息混じりにそれを掴もうとすると、またしてもしゅるりと。
「くぉら、真央! 何のつもりだ!」
「ごめんなさい、父さま。もうしないから」
 真央が再度ザイルを戻す。月彦はそっと右手を近づけ、あと十センチというところで一度手を止める。見上げ、真央の顔を確認する。真央は無言で頷いた。月彦はザイルへと視線を戻し、蛇が獲物を狙うような動きで掴んだ。
 ……空気を。
「まぁぁあぁぁぁぁお? どういうつもりだ!」
「ごめんなさい父さま。もう絶対しないから」
「嘘つけ! さては、やっぱり真狐なんだな!? 危うく騙されるところだった」
「ううん、違うよ。私は母さまじゃないよ」
「嘘をつくな! 真央なら、本物の真央なら絶対こんなコトはしないはずだ!」
「ううん、本物だよ」
 月彦は三度「嘘つけ!」と怒鳴りかけて、止まった。嘘をついているようには、見えなかったからだ。
「ねえ、父さま」
 するすると、ザイルを巻き上げながら、真央が呟く。どこか虚ろな、四次元の存在に焦点を合わせたような目で。
「私ね、ずっとお留守番してたんだよ? なのにどうして帰ってきてくれなかったの?」
「だから、それは真狐の奴に騙されて……」
「母さまとばっかり、ズルい」
「真央……何言って――」
「だから、私も父さまと遊ぶの」
 それは悪戯っぽさの抜けない、母親の無邪気な笑みとは違う。狂気すら匂わせる、冷たい笑みだった。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 ――数時間前。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 自室で悶々としながらも、律儀に月彦の帰宅を待ち続けていた真央の携帯に着信があったのは、日曜日の朝の事だった。
 相手は由梨子だった。
『もしもし……あの、真央さん。朝早くからすみません』
「ううん、大丈夫だよ、由梨ちゃん。どうしたの?」
『ええと……その、先輩……今、家に居ますか?』
「……………………どうして?」
 意図せず、どこか冷たい声色になってしまった。それどころか父さまは金曜日の夜に今夜は珠裡の家に泊まると連絡をしたきり帰ってきていないと、金切り声を上げたくなる。(……珠裡ちゃんの試験が終わるまでって、約束したのに)
 一体今どこで何をしているのか。真央は焦燥と苛立ちで既に余裕は皆無だった。
『実は、さっき……その、先輩に会ったんですけど……』
 口ごもりながら、由梨子は説明を続ける。月彦の様子がおかしかったこと。旅に出ると言っていたこと。そしてそのことを、由梨子の口から真央にも伝えてほしいと言われたこと――。
「父さまが?」
 耳を疑う話だった。突然旅に出ると言い出したこともさることながら、それを人づてに伝えてくるとはどういうことだろうか。
『先輩、本当に変だったんです。だから、ひょっとしたらただの冗談で、家に帰ってるかも……って思ったんですけど……そうですか………………やっぱり…………』
 由梨子の声は、多分に失望を孕んでいた。もしかしたらこっそりデートの約束でもしていたのかもしれないと真央は思ったが、口には出さない。
「とにかく、うちには帰ってきてないよ」
 もし帰って来たら、由梨ちゃんが心配してたって伝えるね――真央は通話を半ば一方的に切り、ごろりとベッドに大の字になった。
(父さま……どうして……)
 本当に旅に出てしまったのか。だとしたら何故急に?――考えられるのは、妖狸に何かをされた可能性だ。何せ連中には前科があり、そして月彦が最後に接触をしたであろう相手でもある。
(でも……)
 主犯は妖狸説を信じる気になれないのは、まみの人柄を知ったからだ。真央の見た所、実の母真狐に比べればずいぶんと“まとも”であり、ファーストコンタクトはともかくおよそ悪戯で他人に迷惑をかけるようなタイプとは思えない。
(…………なんか、ざわざわする……)
 心が浮つく、と言うべきか。由梨子から月彦の様子が変だと聞かされるまでは、焦らされつづけて身体感覚がおかしくなっているだけだと思い込んでいたが、ひょっとしたら“これ”は別なのではないかという気がしてくる。何か、第六感のようなものが父親の危機を感じ取り、助けに行けと促しているかの様だった。

 ――真央、助けてくれ!

 耳を澄ませば、そんな幻聴すら聞こえるようだった。真央はそわそわする気持ちを抑えきれず、むくりと体を起こす。
 “見”てみようかと思ったのは、その時だ。紺崎家に来る前、父親である月彦を見つけ出す為に必死に習得した遠視の術。しかしむやみに使うことを月彦に禁じられ、以来真央は一度も使っていない。
 しかし、月彦が危機に陥っているのだとすれば、そうも言っていられない。
(でも、もし――)
 ピンチなどではなく、ただたんに浮気をしているだけであったら。見知らぬ女と交尾に耽っている父親の姿を“見”てしまったら――真央が遠視を躊躇うのは、その時頭に血が上った自分がどういう行動に走ってしまうのか予想出来ないという危惧もあるからだ。
 とはいえ、由梨子の話の通り月彦が並々ならぬ精神状態になっているのならば、事態は深刻であり一刻も早い救助が必要かもしれない。
 真央は勇気を振り絞り、数ヶ月ぶりに――遠視を行うことにした。


 やはり、長らく使っていない能力というものは衰えてしまうものらしい。慣れ親しんだ月彦の気配を超感覚的に捕らえるのに想像を絶する集中力を必要とし、さらにそれを長時間に渡って維持せねばならなかった。例えるなら、全身を煙のように気化させ無限大に発散させていき、月彦の形をしたものを捜すようなものだった。
(……前、だったら……)
 何となく、直感的に月彦が居る方角を察知し、その方位にだけ念波を飛ばすように簡単に察知できた。しかし、人間の世界で暮らすこと約一年。人間として暮らすうちに妖狐としての本能は随分と衰えてしまったらしい。昔は無意識的に出来たことが、いまは意識しても出来なくなっていることに真央は少なからずショックを受けたが、泣き言を言っても始まらない。
(……居た、父さまだ)
 一時間はそうして月彦を捜していただろうか。漸くにして真央は月彦の気配を捕らえ、そのか細い糸をたぐり寄せるように、“視覚”を月彦の方へと繋げる。やがてぼんやりと、月彦の姿が視界に浮かんでくる。
「えっ」
 月彦の姿に焦点を結ぶや、真央は思わずそんな声を漏らしてしまった。月彦が居るのは、薄暗い――窖のような場所だった。ひょっとして閉じ込められているのかもしれないが、問題は肝心の月彦の様子だった。
 月彦は、何かどんぶりのようなものを両手で持ち、踊るような足取りで狭い場所を右往左往していた。その様子はどう見ても楽しげであり、はしゃいでいるようにしか見えない。閉じ込められているのに、はしゃいでいるとは一体どうしたことだろうか。真央は遠視をしながら思わず首を傾げてしまう。
 出来ればそのまま様子を観察しつづけたかったが、能力的な限界によって真央は遠視を断念せざるをえなかった。真央が月彦を見ることが出来たのはせいぜい30秒だったが、少なくとも生存は確認できたことに、ホッと胸をなで下ろす。
 なで下ろした後で、むかむかと腹が立ってきた。
(……父さま、どういうことなの?)
 家にも帰らず、一体全体何をしているのか。約束はどうなったのか。そもそも、何故こっそり由梨子とだけは会っていたのか。
 会って、問い詰めたいことが山ほどあった。幸い、遠視の際に具体的な居場所こそわからないまでも大凡の方角と距離だけは察知することが出来た。真央は即座に服を着替え、葛葉に出掛ける旨を伝えて家を出た。

 真央が“その場所”にたどり着いたのは、もはや日も暮れようかという刻限だった。小高い丘の頂上、木々に浸食されるようにして辛うじて立っている廃屋。
「あら、やっと来たわね」
「母さま……」
 しゅたん、と。さながら忍者かなにかのように唐突に真央の目の前に降り立った真狐は、真央の手をとり、掌同士を合わせるように打ち付けた。
「はい、バトンタッチ」
「バトンタッチ?」
「もう飽きたから、アレあんたにあげる」
 真狐はくいとあごでしゃくるように井戸を指す。それだけで、真央は母親が何を言わんとしたか理解した。
「じゃあ、母さまが……」
 ぐごごと。真央が嫉妬の炎を立ち上らせかけた時、真狐は困ったように苦笑した。
「違う違う、あたしはノータッチ。たまたまアイツがあたしの塒に飛び込んできたから、ちょーーっとからかってやっただけ」
「父さまが?」
「そ。あたしがそこの家の中で寝てたら、アイツがふらふらーって何かに操られてるみたいな足取りでやってきて、自分から井戸の中に入ったのよ」
 母さまが“横取り”したわけじゃないのよ?――まるで幼子をあやすように、真狐はよしよしと頭を撫でてくる。
「あたしはもう十分楽しんだから、あとはあんたの好きにしなさい。もし出してやりたくなったら、納屋の中にロープがあるから、それを垂らしてやれば勝手に這い上がってくるわよ」
「納屋……」
 真央が納屋の方へと目線を向けると、視界の外で真狐がくすりと笑った。
「でも、今すぐ出すのは止めた方がいいんじゃないかしら」
 母親の意外そうな声に、納屋に向けて走り出そうとした真央の足が止まった。
「……すぐに出したら、“父さま”はまた居なくなっちゃうわよ?」
「えっ……」
「昨日から、たーっぷりあたしが遊んであげたんだもの。きっと今はあたしのことで頭がいっぱいになってるわよ。井戸から出て自由になったら、間違いなくあたしを追いかけてくるわね」
 たっぷり遊んであげた――真狐の言葉に、真央はおおよそ父親がどういう目に遭わされたのかを理解した。恐らくは、井戸の底という逃げようのない場所で、散々な目に遭わされ続けたのだろう。確かに母の言う通り、そんな目に遭わされた月彦が大人しく娘と共に帰宅し、しっぽりと夜を過ごすとは思えない。
(…………父さまは、絶対母さまに仕返しをしようとする)
 出してくれてありがとう、真央。お前は本当にいい子だ。ご褒美をやりたいが、父さまはやらなきゃいけないことがある。もう少しだけ留守番をしててくれるか?――頭を撫でながらそう言い、走り去っていく月彦の姿が目に浮かぶようだった。
「ね? 真央。…………そんなの、“面白くない”でしょ?」
 背後に回り、肩に手を乗せながら、文字通り悪魔のように囁く母親の言葉に、真央は思わず頷いてしまう。
「だったら、あんたも父さまに遊んでもらえばいいじゃない。構ってくれないと悪い子になっちゃうんだって、思い知らせてやればいいじゃない」
「でも……そんなことしたら……」
 月彦にはもちろん構ってほしい。しかし、嫌われたくはない――そんな思いが、真央に母親の誘いに乗ることを躊躇わせる。
「大丈夫よ。なんだかんだ言って、アイツは真央のことが可愛くて堪らないんだから。ちょっとやそっと酷い目に遭わせたって、笑って許してくれるわ」
「でも……」
 それでも、真央は踏み切れない。月彦の望むように、いい子でありたいと思う心が、決定的な一歩を踏み出すことを躊躇わらせる。
「そうそう。そーいえば、今朝月彦に頼まれたのよねえ。今日は由梨ちゃんとデートする約束があるから、出してくれないのならせめて断りに行ってくれ、って。アイツがあんまり必死に頼むから、仕方なく月彦のフリして断りに行ってあげたんだけど…………家で待ちぼうけさせてる真央については、そういえば何も言ってなかったわねぇ」
 真狐の言葉が、さながら左右に揺れる秤のように揺れていた真央の心の天秤を、ガタリと大きく傾ける。娘の心の動きを、表情から読み取った狡賢い母狐は、満足そうに大きく頷いた。
「くすくす、あんたが満足するまで、たっぷり父さまを苛めてあげればいいわ。いっそ少しくらいやり過ぎちゃった方がいいんじゃないかしら?」
 意味深に言い残して、真狐はそのまま闇に解けるように姿を消した。真央は立ち尽くしたまま、母親の最後の言葉を吟味する。
(そっか、中途半端じゃ……父さまは、母さまの方を優先させちゃうから……)
 少しくらいやりすぎたほうがいいというのは、即ち。月彦の復讐対象が真狐から自分に移るくらいに徹底的にやったほうがいいという意味だと即座に理解する。真狐への復讐よりも、娘の再教育の方が優先事項だと、月彦が思うほどに“やりすぎ”なければ、何の意味もないのだ。
(……ごめんなさい、父さま。こんなこと、本当は嫌だけど……)
 月彦にきちんと構ってもらうために、あえて心を鬼にして、“悪い子”を演じよう――ぞくぞくと尾の付け根から走る快感に身もだえしながら、真央はゆっくりと井戸の縁へと歩み寄っていくのだった。



 翌朝、真央は葛葉と二人きりの――些かばつの悪い朝を迎えていた。
「まだ帰ってこないなんて……あの子ったらもう、帰って来たら少し叱ってあげなくっちゃ」
「そ、そうだね……義母さま」
 葛葉の言葉に頷きながら、真央は愛想笑いを浮かべる。本当は月彦の居場所も、帰ってこれない理由も全て知っているのだが、あえて惚けたフリをするというのは、思いの外良心の呵責に悩まされる結果となった。
(でも、悪いのは父さまだから……)
 構ってくれず、あまつさえ母とばかりイチャイチャする月彦に、少しばかり灸を据えているだけなのだと。真央は葛葉の前での居心地の悪さをそのように誤魔化していた。

 少し早めに家を出た真央は、その足で月彦が監禁されている井戸へと向かった。
「父さま、起きてる?」
 そっと、井戸の底を覗き込む。ぐったりとうなだれるように座り込んでいた月彦の姿が、井戸の中に僅かに差し込む朝日によって浮かび上がる。
「真央か……いい加減ここから出せ。どういうつもりか知らないが、今なら許してやる」
「………………お茶とお弁当と、あとおしぼり持って来たから、落とすね」
 真央は行きがけのコンビニで買ったそれらを袋に入れ、井戸の底へと落とす。
「こら、真央! 一体いつまでこんなことを続ける気だ!」
 井戸の底で喚く月彦から逃げるように、真央はその場を後にする。
(いつまで? そんなの、決まってる)
 母真狐に対する憎悪を忘れ、娘の再教育を最優先しなければと思うまでだ。真央は途中、何度も井戸の方を振り返りながら、廃屋を後にした。



「真央さん、先輩から何か連絡はありましたか?」
 朝一番、教室で顔を合わせるなり、由梨子は“おはようございます”の言葉よりも先に訊いてきた。
「………………うん、あったよ」
 真央は少し考え、嘘をついた。ぱっと、由梨子の顔が明るくなった。
「本当ですか!? 先輩、なんて言ってました?」
「ええと……ちょっと、気晴らしをしたら帰ってくるって。だから心配しなくていいって言ってた」
「そう……ですか…………気晴らし…………」
 しゅんと、一転由梨子は肩を落とす。真央は一瞬、自分の嘘のせいで由梨子を傷つけてしまったことを後悔したが、かといって今更言葉を変えるわけにもいかない。
「あっ、でも……やっぱり父さまちょっと様子がおかしかったから……」
 真央に出来る事は、そう付け加えることで、由梨子のショックを和らげることだけだった。
「そ……う……ですよね。先輩、やっぱりちょっと変でしたよね……早く、いつもの先輩に戻ってくれるといいんですけど…………」
 まるで独り言のように言って、由梨子は自分の座席へと戻っていく。
(……ごめんね、由梨ちゃん)
 本当は由梨子が見た“変な月彦”の正体は真狐であり、本物の月彦は井戸の底に監禁されているのだが、いくら親友とはいえ教えるわけにはいかない。
(だから今は……私が父さまを独り占め……)
 母親を除けば、今月彦に干渉出来るのは自分だけ――その事実に、真央はなんとも背徳的な快楽を覚えるのだった。

「ねえ」
 昼休みも終わりにさしかかった頃、真央は思いも寄らぬ人物に声をかけられた。
「ツキヒコ、どうして学校に来てないの」
 珠裡だった。あぁ、そういえばと。真央は今更ながらに、月彦が珠裡を在学させるために骨を折っていた事を思い出した。
「……病気だよ」
「ふぅん……」
 珠裡はつまらなそうに鼻を鳴らし、そのまま踵を返して離れていく。まだ珠裡が学校に来ているということは、試験とやらは合格したのだろうか。それとも結果が出るまでは処分は保留されているだけなのだろうか。
(今は、どうでもいい)
 真央が考えるのは、学校が終わった後のこと。如何にして父親の興味を自分の方へと向けるか。その手段だった。もちろんやりすぎてはいけない。が、中途半端では意味がない。そういう意味ではむしろやりすぎた方がいいかもしれないが、だからといってやりすぎてはいけない。
(母さまみたいに、父さまをいじめなきゃ……)
 ほどほどに、月彦をいたぶる手段を夢想するのは、予想以上に楽しく、興奮を覚える行為だった。まるで、そのため用意されていたかのように、脳には次から次に新たな発想が浮かび、そのたびに真央は怒る月彦の姿を想像してぶるりと身震いをする。
(ダメ……さすがにそれはダメ……ダメだけど、もし、やったら……)
 妄想は、徐々にエスカレートする。真央の中の良識が、さすがにそこまでやってしまったら終わりだと警鐘を鳴らすが、真央の半分を構成している狐の性がうずうずと疼くのを止められない。

 結局、放課後まで授業そっちのけで真央は妄想に耽り続けた。途中幾度となく、興奮のあまりスカートの下へと手を伸ばしかけて、慌てて自制するということを繰り返したせいか、HRが終わった頃には頭の芯が熱を帯び、痺れたようになってしまっていた。
「真央さん、もし良かったら今日は寄り道して帰りませんか?」
「寄り道……?」
 ぼう、と痺れた頭で聞く由梨子の声は、まるで夢の中に響いてくる現実の声のように不思議な響きを孕んでいた。
「はい……その……私もちょっと、気晴らしをしたいな……って……。駅の近くに、美味しいケーキバイキングのお店があるんです」
「………………ごめん、由梨ちゃん。私、今日は早く帰らなきゃいけないの」
「そう、ですか……」
「本当にごめんね、由梨ちゃん」
 肩を落とす由梨子を見ていられなくて、真央は殆ど逃げるように鞄を手に教室を駆けだした。
 そのまま一直線に帰宅し、台所へと向かう。唯一の危惧であった葛葉はどうやら出掛けているらしかった。手早く済ませてしまおうと、真央は制服の上着を脱ぎ、ブラウスの袖をまくりあげ、丹念に両手を洗う。
(……待っててね、父さま。きっとお腹空いてるよね、すぐに準備するから)
 ゾクゾクゾクッ――尾の付け根から走る快感に身震いしながら、真央は調理に取りかかるのだった。


 調理に思いの外時間がかかってしまい、真央が月彦の居る井戸を訪れたのはすっかり日が落ちてからだった。念のためにと、真央は懐中電灯を手に、井戸の底を覗き込んだ。
「真央か」
 声をかける前に、光を当てられただけで月彦は真央の方を見上げ、声を上げた。
「父さま、お腹空いた?」
 真央はわざと、惚けた声で尋ねる。
「当たり前だ。とにかく、早くここから出せ!」
「やだ」
 あえて、聞き分けのない娘を演じるのは、本当に辛いことだった。辛すぎて辛すぎて、頭の奥がジンと痺れて呼吸が乱れるほどに。
(もっと、もっと父さまを苛めて、怒らせなきゃ)
 真央は辺りを見回し、廃屋の玄関脇にある足洗場のような場所に目をつけた。もしやと思って蛇口を捻ると、なんと水が出た。真央はさらに側に転がっていたプラスチック製のバケツに水を汲み、井戸の側へと戻る。
(……全部かけたりしたら、父さまが風邪をひいちゃうかもしれない)
 だから、そんな非道いコトはしない。代わりに真央は右手を水に浸した後、井戸の底めがけて振り、水滴を飛ばす。何度も、何度もそれを繰り返す。
「な、何だ、雨……じゃない、真央の仕業か!」
 なんとも地味な嫌がらせだが、効果は絶大だった。
「こぉら、真央! やめろ! 聞こえないのか、真央!」
 ゾクゾクゾクッ――!
 月彦の罵声が、悲鳴がなんとも耳に心地よい。クセになりそうな興奮と快楽に、真央はゾクゾクが止まらない。
「ごめんなさい、父さま。冷たかった?」
「ごめんなさいじゃない! いいか真央、いい加減にしないと本気で怒るぞ!」
 謝りながらも、真央は次の手を準備する。恐らくは母真狐が用意し、使っていたであろう竹竿の先から伸びたたこ糸に、濡れタオルを結びつける。
「えいっ」
 井戸の底へと濡れタオルを投下するや、たちまち月彦の悲鳴が轟いた。
「つべてッ! こら真央、止めろ!」
 もちろん止めるわけがない。真央は適当に竹竿を上下させ、井戸の底で濡れタオルを乱舞させる。狙いなど必要無い。井戸の中で濡れタオルが跳ね回り、月彦に触れたり水滴を飛ばしたりして結果月彦が苛立ちを募らせれば、それで十分なのだ。
「あっ」
 不意に、たこ糸がピンと張り詰める。竿を動かしても、糸が張るばかりでタオルを跳ねさせることができない。そっと井戸の底を覗き込むと、濡れタオルがしっかりと月彦の手に掴まれていた。
「まぁぁぁおぉぉぉ……そんなに俺を怒らせたいのか! もう許さん! 今すぐザイルを下ろせ、おしおきだ!」
 ゾクゥッ――!
 “おしおき”という単語に、真央は思わず「はい」と返してしまいそうになる。月彦の言う通りにすれば、文字通りおしおきを受けることが出来る誘惑に必死に抗い、
「やだ」
 真央はわざと、小憎たらしい声で返す。予め用意しておいたハサミでたこ糸をちょきんと切り、竹竿を放る。
 その後も、あえて買ってきた皮付きの天津甘栗を落としたり、胡椒を蒔いてクシャミを連発させたり、あの手この手で真央は“悪い子”を演じ続けた。嫌々やっている筈のそれが、いつしか妙に板についていたりするのだが、勿論真央自身はあくまで演じているつもりである。
「じゃあ、父さま。今日はもう帰るね」
 散々楽しんだ後、真央はお茶とおにぎり入りのビニール袋を落として、井戸を後にした。お茶は行きがけのコンビニで買ったものだが、おにぎりの方は夕方から端正込めて作った“特製”だ。
(明日は、もっともっと父さまをいじめなきゃ……)
 “この快楽”に溺れてはいけない。それは解っている。解っているのだが、どうにも抗いがたいそれの虜となりつつあることを、真央は自覚せずにはいられなかった。


 


 自覚は無かったが、真央は有頂天になっていた。珠裡の家庭教師という、何故父さまがそこまで面倒を見なければならないのかという不満をグッと押し殺しての一週間。そこからさらに、もらえるはずのご褒美がいつまでたってももらえない苛立ち。しかもその原因がこっそり母と二人きりでイチャついていたからというものだから、真央の我慢は一気に臨界点を振り切った。
 だから、何をしても許される――というわけではない。が、自分にも同じように“遊んでもらう”権利はあるはずだ。少なくとも、真央の中の人間の部分がしきりに訴えてくる“良心”の呵責を、真央はそのように目を逸らし続けた。
 そう、真央は有頂天になっていた。調子に乗っている者はえてして足下を掬われるものだという当たり前のことすら忘れる程に。
 朝、昨日同様早めに家を出た真央は、登校前に朝食を投げ込む為に月彦のいる井戸へと向かった。
「えっ……」
 しかし、井戸の中を覗き込んだ真央は文字通り凍り付いた。何故なら、そこにはあるはずのものが無かったからだ。
「父さま……!? 嘘……どうして……」
 井戸の底は薄暗いが、見通せないという程ではない。差し込む陽光で十分底の砂までは見ることが出来る。しかしどこにも月彦の姿が見当たらないのだ。
(まさか……)
 一人で脱出したということなのだろうか。或いは、自分が帰った後に何者かがやってきて月彦を逃がしたのか。
(そうだ……また……)
 遠視の術で、月彦の居場所を探れば良い――真央は井戸の縁にへたり込んだまま、意識を両目に集中する。
「…………………………。」
 しかし、視えない。というよりも、それ以前の問題だった。そもそも、月彦の気配を探り、視界をシンクロさせることすら出来ないのだから。
(そんな、どうして……)
 “前回”は、まるで見えない手に招かれているかのように容易く、月彦の気配を察知することが出来たというのに。真央は目を閉じ意識を集中して何度も何度も試みてみるが、術が成功することは無かった。
(もしかして、父さまが怒ってるから……?)
 怒り狂う月彦の思念が妨害電波のように、遠視を妨げているのではないか。もしくは、単純に前回ほど集中できていないか――とにもかくにも、真央は遠視での月彦捜索を断念せざるを得なかった。
「どうしよう……」
 真央は恐怖のあまり両足が震え、その場に膝をついてしまう。今更ながらに、自分はなんと恐ろしいことをやっていたのかという後悔が募る。
(父さまをいじめるなんて……)
 ほんの数分前まで浮かれきっていたのが嘘のように真央は怯え、両肩を抱いて震え出す。もし、月彦が自力で脱出したのだとすれば――何者かの助けを得たのかもしれないが――今頃はきっと怒り狂っているだろう。それも、尋常ではない程に。
(……おしおきじゃ、済まないかもしれない)
 浮かれていた時は、これでおしおきは独り占めできると高をくくっていた。しかし冷静になってみれば、“それ”だけでは済まないのではないかという気がしてくる。最悪、絶縁をされるかもしれない。
(どうしよう……)
 心の中で、もう一度呟く。もちろん、誰も答えてくれる筈などないのだが。


 井戸の縁でたっぷり途方に暮れた後、真央は殆ど事務的に学校へと向かった。道中、いつ怒り狂った月彦が背後から襲いかかってくるかと気が気でなく、何度も何度も振り返り、その都度安堵のため息をつく――そんな事を繰り返し、教室についた頃にはへとへとになっていた。
「真央さん、具合でも悪いんですか? 顔色悪いみたいですけど……」
「うん……ちょっと、寝不足なの」
「………………大丈夫ですよ。先輩は、きっと元気にしてます。すぐ帰ってきますよ」
 どうやら由梨子は“寝不足の原因”を察して、励ましてくれているらしい。真央は返す言葉が見つからず、ただただ力なく笑った。
(いっそ、由梨ちゃんにだけは……本当のことを……)
 昨日までは、井戸に月彦を監禁していた。決して悪気があってのことではなかった――そう言えば、由梨子は解ってくれるだろうか。真央は少し考え、さすがに呆れられる未来しか見えず、打ち明けられないと判断した。
(……でも、父さま……一体どこに行ったんだろう)
 先ほどは突然の事で半ばパニックになり、てっきり自力で逃走あるいは何者かの手を借りての逃走だと決めつけてしまった。しかし実はもう一つ可能性があることに、真央は気がついた。
(……隠れていたのかもしれない)
 井戸の底は、カップ麺のカップやら、空のペットボトルやら、ビニール袋やらが散乱しているが、それらはおよそ人を隠せるほどではない。が、砂に潜れば別だ。砂を掘り、さながら海底に潜むヒラメやカレイのように身を潜め、逃げたと思わせただけなのかもしれない。
 問題は、何故そんな事をしたのかということだ。姿を消し、逃げたと思わせる――それが月彦の狙いだとすれば、それは確かに成功した。が、それが脱出の役に立ったわけではない。
 それとも月彦は姿を消したことを不審がり、ザイルを使って穴の底まで調査に来ると踏んでいたのだろうか。だとすれば、真央は無意識的に月彦の希望を打ち砕いてしまったことになる。
(……もし、本当に逃げてたら……)
 隠れていたのではなく、本当に脱出に成功していたのだとしたら。今頃何をしているのだろう。恐らく――否、間違いなく。
 あの父親ならば――。


 間違いなく激怒しているであろう月彦の行方が解らない――その状況を、真央は震えながらも楽しんでいた。否、本心から真央は怯えていた。怯えながら、その恐怖を心のどこかで楽しんでもいたのだ。
「……っ…………」
 頭の奥がぴりぴりと痺れ、恐怖に両足が震える。移動教室の際などはいつどこで腕を掴まれ、物陰に連れ込まれるかと気が気でなく、自分が襲われる想像に呼吸まで乱れた。
 が、“期待”したような事は一切起きず、何事もなく真央は放課後を迎えた。冷静に考えれば、いくらマジギレモードの月彦とはいえ、人目も憚らず襲ってくる筈はないのだが、そんな簡単なことにすら気づけない程に、真央の頭は妄想でいっぱいになっていた。

 ひょっとしたら、隠れていただけなのかもしれない――そう、本当に逃げたのかどうかは確かめなければならない。真央は学校が終わるなり、早足に井戸の場所へと戻った。中を覗く――が、やはり月彦の姿はない。
「…………。」
 一度周囲を見回す。或いは、端で隠れ潜んでいた月彦がこっそり背後から接近しているかもしれないという“期待”からだ。もちろん怪しい影など何処にもなく、風が枝葉を揺らす音のみが辺りを包む。
 井戸の底の砂の中に隠れているかどうかを確かめる方法は、授業中に何通りかすでに考案済みだ。真央は一端井戸から離れ、廃屋の足洗い場へと赴く。水が出ることは確認済み、その蛇口に同じく長らく放置されているらしいホースを繋ぎ、水を出して井戸の縁へと戻る。
 あとはただ、井戸の砂に水を蒔くだけだ。空はどんよりと曇り、おかげで気温はさほどには低くない。が、ただでさえ冷たい砂の中に隠れ尚且つ水まで蒔かれてジッとしていられるとは思えない。真央は水を蒔きながら、注意深く砂の表面を観察する。
 が、十分ほどそうして水を蒔き続けても何の変化も起きなかった。或いは月彦の忍耐力が想像を絶して凄まじい可能性もゼロではないが、少なくとも真央は砂地の中に月彦が隠れているという可能性は無いものとして考える事にした。
(……隠れてるわけじゃないなら…………)
 やはり、月彦は逃げ出したことになる。しかしその方法が解らない。第三者の助けがあった可能性というのも信じがたい。そもそも井戸の周りに、“誰かが助けた痕跡”というものが見当たらないのだ。
(父さま……本当に逃げたの……? それとも――)
 いっそ、井戸の底へと降りて直に調べてみようか。待っていたとばかりに砂地の下から両目を血走らせた月彦が表れ、手酷く犯されるかもしれない――想像して、真央はぶるりと肩を抱きながら震える。
 はあはあと息を乱しながら、それはそれで悪く無い――と思う。
 真央は降りるかどうか悩み、結局一度家に帰ることにした。降りなかったのは、降りるのが恐かったというのもあるが、降りた後もし月彦が居なかった場合、自力で這い上がる自信が無かったからだった。
 真央の耳が、“その音”を拾ったのは、踵を返そうとしたまさにその時だった。
「………………?」
 微かな音。ざわめく枝葉に紛れてしまいそうなほどに微かなその音が、帰路に向けて歩み出そうとした真央の足を止めた。
 何故ならその音は、井戸の方角から聞こえたからだ。まさかと期待に胸を躍らせながら、真央は井戸の底を覗き込む。が、しかしそこには相も変わらずゴミの散乱した井戸の底があるだけ。
 ひょっとして、音が聞こえた気がしたのは気のせいだったのか――そう疑いながらも、真央はさらに注意深く観察する。そしてふと、違和感を覚えた。
「あれ……?」
 井戸の底。その周りをぐるりと囲っている壁の一部分が黒く変色しているのだ。最初は、ただの日の当たり具合で黒く見えているだけだと思った。しかしよくよく見れば、日の差し加減とは関係無しにその部分だけが変色していた。――否、変色などではない、それは紛れもない影――“穴”だ。
「そんな……どうやって……」
 まさか、素手で壁面を壊して穴を掘ったとでもいうのか。ありえない――と思う反面、父さまなら或いはという奇妙な期待に胸が躍る。そう、先ほどから聞こえてくる音は紛れもない、土の中を掘り進む音だ。人のそれよりも大きく敏感なその耳を地面へと向け、さながら雪の下を這うネズミを捜すキタキツネのように、真央は“音源”を捜す。
 
 ザクッ……ザクッ…………ガッガッガッザッ……。

 そして、“音源”が思いの外近いことに驚愕する。鼓動が早まり、血が騒ぐ。真央の両目は、やがて“音源”が到達するであろう地面を見据え、そこから距離を取るように後退り、丁度井戸の縁に退路を断たれるような形になる。
 木々に囲まれた廃屋は、夜の訪れも早い。真央が注視するその場所も既に木々の影に没してしまっている。
 
 ザクッ……ザッ……。

 一瞬、地面が動いたかと錯覚する。次の瞬間にははっきりと解るほどに地面が盛り上がり、その下から腕が生えてくる。真っ黒い腕はそのまま地面を鷲づかみにし、モコモコと土をひっくり返しながら、“体”を引き寄せる。
「………………〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ……!!!」
 尾の付け根から背筋にかけて、甘い痺れが稲妻のように迸る。逃げろ、すぐに逃げろと、獣としての本能が喧しく吠え散らす。この場に留まり続けるのは命の危険すらあると。それほどに、這いだしてきた黒い影は異様な殺気を纏っていた。
 否、纏っているのは殺気だけではない。まるで入浴の自由を奪われ十数年を獄中で過ごしたかのような濃厚な獣臭さに、真央は思わず口元を覆ってしまった。匂いが不快だったのではない。鼻腔を突くその獣臭さが、不快感よりもむしろ興奮を呼んだからだ。
 ごくりと、思わず喉を鳴らしてしまう。確かに入浴をしていないからというのもあるだろうが、それだけだとしたらあまりにも強すぎる。恐らく、いや間違いなく、“薬”の副作用だと確信する。
 ふうふうと、手負いの獣じみたその息使い。土まみれのその姿はおよそ真央の知っている月彦の姿ではない。今までの経緯が無ければ、その姿を見ただけでは間違いなく判別はつかなかっただろう。
「……とう、さま?」
 だとしても。その姿が見知った父親のそれとはあまりに違うのだとしても。この状況で声をかけるというのはあまりにも愚かな行為だった。さながら、血に飢えた肉食獣に、鳴き声を上げて自ら居場所を教えるような行為。
 “そう”だと“解っていて”も、真央は声を上げずにはいられなかった。そう、自分の方へと注意を向ける為に。
 黒い獣が、ゆっくりと真央の方を振り返る。同時に、その右手に握っていたものをその場に投げ捨てた。それは十センチ弱ほどの金属の棒であり、正体は柄まですり減ったスプーンなのだが、もちろん真央の知るところではない。真央の目は、その興味はそんな脱獄道具などではなく、月彦がどれほど“飢えて”いるのかを観察するために使われていたからだ。
(……んっ…………!)
 目が、合う。刹那、真央は稲妻にでも打たれたような衝撃と共に、ビクンと背を逸らし唇を噛む。尾の毛は逆立ち、全身が火照るのを感じる。血が騒ぎ、鼓動は早鐘のように早く、息苦しさに目が眩みそうになる。
(頭が……痺れ…………)
 無意識に、自ら歩み寄ってしまいそうになり、ハッと真央は気を持ち直す。そう、そんな“もったいない事”が出来るかと。
 真央は震える足を懸命に動かし、井戸の縁に沿ってじりじりと下がる。真央が下がれば、その分だけ月彦が距離を詰めてくる。真央が下がる、月彦が追う。徐々に、月彦の詰める距離の方が多くなる。互いの距離が5メートルから4メートル、ついには3メートルに――。
「っっっ――!」
 突如、黒い影が踊るように飛びかかってきた刹那、真央はすんでの所で跳んでかわした。そのまま勢いを殺さず走り出す。後ろを振り返る余裕など皆無だった。見ずとも、圧倒的な気配がすぐ間近に迫っているのが解る。全力で走るその尾の毛先を月彦の爪先がかする度に、真央は体を貫く快楽に足を止めてしまいそうになる。
 しかし、止まらない。男に――それも、無二の相手とみとめた相手に――本気で追われる。その楽しさ、快楽は真央の想像を絶するものだった。血走った目で時折雄叫びすら上げながら自分を追ってくる月彦をマタドールよろしくひらり、ひらりとかわしながら、真央はいつしか口元に笑みまで浮かべていた。
 今ならわかる。母真狐が、なぜ“あのように”なってしまったのか。“これ”は楽しい。それこそ、クセになってしまいそうな程に。
(あぁ……父さま、もっと追いかけて! そして――)
 真央を捕まえて、おしおきして!――叫ぶように願いながら、真央は夜の森の中を逃げ続けるのだった。


 甘美な、そして濃密な逃走劇は、既に数時間にも及んでいた。真央は自分がこれほどまでに速く走れることに驚き、同時に羽のように軽い身のこなしが出来ることに驚いていた。
 時にはわざと月彦の目の前まで近づき、すんでのところで、ギリギリにかわしてみたりもした。一度は冒険をしすぎて、危うく腕を掴まれる寸前で辛くも逃げ出せたが、その“ギリギリ”の興奮は真央の脳を焼き、危険だと解っていても尚繰り返さずにはいられない快感を刻みつけた。
 既に疲労困憊。“逃げ始め”の頃に比べて、明らかに持久力も反応速度も落ちてきている。本気でこの場から逃走するならばともかく、今のようにつかず離れずの逃亡劇を繰り返していたのでは、捕獲されるのは時間の問題だ。事実、秘薬でドーピングされた月彦の動きは、全くといって良いほどに衰えていない。むしろ、今まで捕まらなかったのが不思議なほどにその動きは鋭く、髪の先から足の指先まで女を捕まえ、犯すこと一色で塗りつぶされた獣――もはやレイプ専用マシーンと言い換えても差し支えない――の様だった。
 仮に相手が月彦でさえなかったら、楽しむどころか恐怖のあまり泣き叫んでいたかもしれない。かといって、相手が月彦であるから捕まっても構わないとは、真央は思わない。あくまで本気で逃げ、身をかわす。めいっぱいに伸ばした月彦の腕が、その指の先が辛うじて髪に触れ、或いは服に触れる程度のギリギリの距離でかわした時にだけ、通常のセックスでは絶対に得られない種の快感を味わえるからだ。
(楽しい……楽しい!)
 数時間もの間、肉体の疲れも忘れて――実際には、疲労は蓄積しているのだが――逃げ続けられるのも、その快楽の虜になっているからだ。早く捕まえて欲しい、捕まえておしおきをされたい――しかし、“この快感”をもっともっと味わっていたい。そんなジレンマに苦しみながらも、真央は絶頂にも近しいそれを味わう為に、何度も、何度も月彦の制空権内にその身を晒し続ける。
「あぁっ……!」
 終わりは、唐突に訪れた。自覚のないまま蓄積された疲労によって、真央はあろうことか月彦の目の前で足を縺れさせてしまった。慌てて姿勢を立て直し逃げようとした時にはもう、その右手首がしっかりと掴まれていた。
「ひっ……」
 手首から伝わってくる、圧倒的な腕力。振り払って逃げることなど、絶対に不可能なその力量差に、真央は悲鳴すら漏らした。極度の興奮状態で誤魔化されていた疲労がどっと吹き出し、忽ち真央はその場に膝から崩れた。筋肉という筋肉が痙攣し、もはや立ち上がることすらも不可能だった。
(ぁぁ……)
 痙攣とはまた違った意味で、全身が震える。ぎろりと、真央は自分を見下ろす獣の双眸に気がついた。
「きゃんっ」
 腕を引かれ、強制的に月彦に身を寄せる形にされた時にはもう、制服の上からその胸を鷲づかみにされていた。
(あぁぁ……!)
 声を上げようとしたが、出来ない。同時に唇も奪われ、舌が触手の様に侵入してくる。滴り落ちる月彦の唾液の味に、真央は麻酔でも打たれたように抵抗を止め、脱力する。
 まるで、“味見”をするようなキス。体中をまさぐられながら、真央は徐々に目を細めていく。
 このまま、理性の無い月彦にケダモノのように犯されるのだという真央の予想は、外れた。
「…………フーッ…………フーッ…………随分と手こずらせてくれたな、真央?」
 月彦に話しかけられたことに、真央は少なからず驚いた。そういった“人間性”などは、秘薬の効果で吹き飛んでしまっていると思い込んでいたからだ。
「俺から逃げるのはそんなに楽しかったか? 途中何度も真狐かと見違えたぞ」
 真央は知っている。というよりも、体が覚えている。“こういう時”の月彦が、最も危険だということを。
 尾の付け根から、甘い痺れが走る。
「ぁぅ……やっ……放しっ……」
 無駄と解っていて尚、真央は暴れる素振りをする。くつくつと、月彦が嘲笑する。
「なんだ、逃がして欲しいのか?」
 言葉と共に、背後から抱きしめられるような形でまさぐっていた月彦の手が、不意に止まった。
「俺はてっきり、おしおきをしてほしくてわざと手の届く範囲をうろちょろしてるんだと思ってたんだが」
 月彦の言葉に、真央は冷や水を浴びせられる思いだった。バレていた――それもそのはず、本気で逃げたいのならば、一目散に逃げる筈なのだ。わざと捕まる範囲に留まり続けるなど、何か思惑があると思われて当然ではないか。
「…………逃がしてやろうか?」
 月彦の手が、さらに緩む。それこそ、真央が本気で駆け出せば、容易く逃げられるという程に。
 真央は一瞬躊躇した。このまま腕を引き抜き、あの楽しく甘美な追いかけっこに興じるべきか否か。
 迷っていられる時間は長くはなかった。
 何故なら。
「…………なんてな。逃がすワケないだろ?」
「あぁ……!」
 時間にして、月彦の手が緩んでいたのは一秒も無かった。再び、前以上の力で抱擁――もはや締め上げると言ったほうが正しい――されたからだ。
「折角捕まえた“獲物”だ。……たっぷり楽しまないとな?」
 えもの――唇の形だけで月彦の言葉を反芻し、真央はびくんと背筋を反らす。
(私は、父さまの……獲物……)
 そう、文字通り月彦に捕らえられた獲物だ。獲物なら、何をされても不思議ではない。普段ならおよそ出来ないような事も、獲物相手ならば出来る。
「い、嫌……父さま、酷いこと、しないで……」
 瞳を濡らし、はぁはぁと悶えながらの言葉に、月彦はおやおやとでも言いたげに苦笑する。
「まーお? 嫌がるなら、せめて怯えてるフリくらいはちゃんとしないとな? そんなメス顔で“やめて……”なんて言って聞く奴なんか居ないぞ?」
 それに、と。月彦の左手がぐいと、乱暴に顎を取られ、振り向かされる。
「この二日間、さんざん悪さした奴が、仮に本気でそう言ったとしても、俺は聞く気なんかまったく無いからな。…………真央、“父さま”はちゃーんと覚えてるぞ?」
「ぁ、ぁ……ご、ごめん、なさい……父さま……だって、母さまが――」
「うるさい、黙れ。……全く、いい子に育ってるとばかり思っていた真央に、まさかあんな形で裏切られるとはな。真狐に仕返しをする前に、まずは躾のやり直しだ」
 ろくに息もつけないほどに抱きしめられながらも、真央は月彦の言葉に満足していた。何故ならそれは、“目的”が無事完遂されたことを意味していたからだ。


「んぼぉっ、んぶっ……んぶぶっ、ちゅぼっ、ぢゅぶぶっ、んぶぶっ…………!」
 夜の森に、くぐもった音が響き渡る。膝立ちにされ、頭というよりも髪を乱暴に掴まれ、口での奉仕というよりは、まるでオナホ代わりにでもされているかのように。
「んぷっ……んんっ、んふっ、んんっ、んっ…………!」
「ははっ、すごい涎だな。まーお? 零すんじゃなくて、ちゃんと飲み込むんだ。……そう、そうだ……」
 極太の剛直に喉奥まで犯されながら、真央は言われるままに唾液を嚥下する。長くお預けされていた肉体は文字通り細胞の一つ一つに至るまで牡を欲していて、こうして口を冒されているだけで、まるで飢えた犬のように涎が溢れてくる。
(あぁぁ……父さま……父さまの……美味しい…………!)
 先走り汁ですら、舌先が痺れるほどに美味しい。真央は積極的に舌を絡め、ぐじゅぐじゅと粟立った唾液を喉を鳴らして飲み干していく。
「おかげさまで、風呂にもロクに入れなかったからな。……真央には責任をとって綺麗にしてもらわないとな?」
 言われるまでもなく、真央は夢中になってしゃぶりつく。さながら、飢えた子猫が母猫の乳首に食らいつくように。
「…………全く、少しは嫌そうにしろ」
 これは“おしおき”なんだぞ?――そんな苦笑じみた言葉は、真央の耳には入らなかった。もっと、もっとと言わんばかりにしゃぶりつくその貪欲さに、辟易するように月彦は腰を引いてしまった。
「あぁんっ」
 ちゅぽんと唇から剛直が引き抜かれるなり、真央はそんな声を上げてしまう。さらに食らいつこうとするのを、月彦に頭を掴まれて制止させられる。
「やぁっ……もっと、父さまぁぁっ……」
「ダメだ、真央。おあずけだ」
「やぁぁっ……もっと……もっと、欲しいのっ…………」
 体が燃えるように熱い。我慢に我慢を重ねた体が、“剛直の味”で一気に火をつけられたのだ。
「くす……スゴいな。もう“誰でもいいから”って感じだな」
「あぅっ……そん、な……」
 月彦の言葉に、真央は僅かに冷静さを取り戻す。はぁはぁと身もだえしながら肩を抱き、その場に崩れるように座り込む。
(欲しい……早く……欲しい…………)
 目は、ギンギンにそそり立っている剛直にロックオンされている。うずうずと血が騒ぎ、今すぐにでも飛びかかりたいくらいだ。しかし実際に飛びかかれば、難なく月彦は身をかわすだろうという確信が、真央の中にはあった。
「とう、さま……お、おね……が…………もうっ…………」
 先ほど剛直をしゃぶらされてから、涎が止まらない。真央はゼエゼエと開きっぱなしの口から涎を零しながら懇願する。
「もう、何だ?」
「あた、まの、おく……チリチリするのぉ…………欲しくて、欲しくて、…………我慢、できなっ……」
 “それ”を体現するかのように、真央は自分の意思とは関係なしに立ち上がり、月彦に向けて飛びかかってしまう。が、それは真央の予想通りあっさりと月彦にかわされてしまった。
「はや、く……とうさま……ほ、ホントにおかしくなっちゃう…………」
 真央はそのまま、木の幹を支えに立ち上がるや、今度は月彦に向けて尻を差し出すような姿勢になる。
「早く……お願い、父さま……早く、早くぅ……早くシてぇ……!」
 月彦に尻を向け、振り向き気味に、真央は泣き叫ぶ。誘うように尻尾をくねらせながら、それでも動かない月彦に焦れて、真央は自らショーツに指をかける。
「ひどい交尾狂いだな。こんな場所で恥ずかしくないのか?」
 月彦の言葉が、冷や水のようにふりかかる。真央は僅かに冷静になるや、忽ち赤面した。
 夜の森で人気は無いとはいえ、“外”には違いない。いつ誰に見られるともしれない場所で、男に尻を向け自ら下着を脱ごうとしている――
「どうした。やっぱり脱がないのか?」
 ショーツに指をかけたまま硬直している真央をあざ笑いながら、月彦が距離を詰めてくる。その手がスカートにかかり、ゆっくりとまくり上げられる。
「ぁぁっ……父さま…………」
「凄いな、由梨ちゃんと同じくらい……いや、それ以上だ。それに……濃いな」
 ちゅくっ――ぐっちょりと濡れた下着の上から、軽く秘部を弄られ、真央は掠れた声を上げて膝を折る。
「あッ……ァァッ……あアッ!」
「触っただけで、ドロドロしたのが溢れてくる……匂い――フェロモンも凄いな、噎せそうだ」
「だって……だって、もう……ずっと父さまとシてなくて…………」
「あぁ、解ってる。同じだけ俺も真央とシてないんだ。真央がシたくてシたくて堪らないって気持ちは、よーーーーくわかってる。でもな?」
 月彦が大きく手を振りかぶり、その手が派手な音と共に、真央の尻へと落ちる。
「ひんっ」
「真狐の真似をしたことは許せん!」
「ひんっ、んんっ! ご、ごめっ……んなさっ! あァァッ!!」
 尻を叩かれる度に、尾の毛が逆立ち、痛みを遙かに上回る快感が背筋を駆け上る。真央は悲鳴を上げながらも悶え、木の幹に爪を立てる。
「本当に反省してるのか?」
 苛立ったような声と共に、尻を叩く音が一層大きくなる。
「あァァ!! ひぃぃっ……あンッ!! あっ、ぁああーーーーーーーッ!!!」
 激痛と、それを遙かに上回る快楽に、真央は声を荒げる。腹部が疼き、どろりとしたものが止めどなく溢れ、下着を越えて太ももを伝うのを感じる。
「ッ……ったく……気持ちよさそうな声上げやがって…………おしおきにならねーだろ…………」
 真央はその大きな耳を小刻みに動かしながら、常に月彦の動向を探っている。そしてその挙動が怒りから欲望に切り替わりつつあるのを、敏感に察知していた。
「こんな、エロい体しやがって…………発情フェロモンふりまいて……我慢する方の身にもなれってんだ」
 尻を叩く手が止まり、くらりと。立ちくらみでもしたように月彦が一歩後退る。それが転機だった。
「……そうだな、やっぱり“それ”しかないか。あの淫乱ギツネの血を引いてる真央を躾けるには――」
 まるで、“誰か”と会話しているかのような呟き。真央は知っている。それは内なる月彦であり、欲望の化身であり、股の間に生えているものでもあると。
 後はもう、真央は待つだけでよかった。
「あっ……ん!」
 ぐいと、乱暴に下着が下ろされる。膝の辺りまで下ろされたそれを追うように、とろりと蜜が滴り落ちる。
「真央、父さまが“いい子”に戻してやるからな」
 肉柱の先端が、粘膜に触れた――次の瞬間、真央の嬌声が、夜の森に響き渡った。



 犯さずにはいられなかった。母の真似をし、自分をおちょくるような真似をした真央には当然腹が立っていたし、それが無くとも――推測の域を出ないが、恐らく間違いは無い――手製のオニギリに薬を盛るような真似をした真央には仕置きをしてやらねばならないと思っていたし、何よりも十日近くも焦らされ続け性欲の臨界に達した真央の“犯してぇフェロモン”の力たるや凄まじく、人の意思ごときでは到底抗うことなど出来なかった。
 高校一年生とは思えないほどに肉付きの良い体。散々に追いかけっこに興じたその体は全身汗だくであり、フェロモンの効果を倍加させている。月彦はまるで糸で引かれるように真央の腰のくびれへと手を当て、逆の手で腹を打つほどにそそり立っている剛直を愛娘の秘裂へと宛がう。
 先端が触れた瞬間、真央が甘い声を上げる――同時に、月彦は両手で真央の腰を掴み、一気に突き入れた。
「っっっっーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」
 耳を劈く、真央の悲鳴。山一つ向こうの地まで聞こえたのではという声に、驚きよりもさらなる性欲をかきたてられる。
(や、べ……なんだコレ……)
 狭く感じるのは、恐らく“久しぶり”だからだろう。それに加えて、まるで吸盤でもあるかのように肉襞が吸い付き、剛直が締め上げられる。
(震えてる……いや、痙攣してるのか?)
 久方ぶりの挿入に歓喜するかのように、真央の腰回りが痙攣し続けていた。掴んでいる手はもとより、挿入された肉柱を通して、月彦は真央がどれほど飢え、この瞬間を待ち望んでいたのかを思い知った。
「ッッッッ……………………はぁぁっ……♪」
 体を硬直させ、掠れた声を上げ続けていた真央が脱力と共に息を吐く。まるで熟練の娼婦が濡れた唇に髪の毛を張り付かせながら漏らしたような艶美な声に、月彦は耳を疑いかけた。
「ンぁ……ぁぁ……気持ち、いいィィ………………!」
 真央は自ら腰をくねらせ、剛直の堅さを楽しむように尻を振る。
「くぁっ……」
 今度は、月彦が腰砕けになる番だった。まるで、無数の舌に舐められ、肉厚の唇で吸われているような感触に、月彦は早くも腰の辺りが痺れ始める。
(超気持ちいい…………やっべ……)
 “真央の”が一番しっくりくるのは既に月彦が認めるところであるが、その具合がさらに特上に仕上がっている。肉襞一つ一つが飢えに飢え、子種をおねだりしているかの様。さらに腰を引こうとすれば、離れないでと言わんばかりに強烈に吸い付いてきて、その凄まじい摩擦に危うく暴発しかねない程だ。
「はぁっ……はぁっ……とう、さまぁ………………」
 真央が、呼吸を整えながらちらりと振り返る。動いて欲しいという目なのは明らかだった。
 やむなく月彦は体を起こし、両足を踏ん張って体を引く。
「ああァッ……! ……父さまの、にっ……引っ張られるのぉ……!」
「ッ……締めすぎ、だッ……少し、緩めっ……ろ……」
 涎のように恥蜜を溢れさせているくせに“コレ”かと、毒づきたくなる。しかし、始めこそ動きにくいと感じたそれも、摩擦に伴う強烈な快感が徐々にクセになってくる。二度、三度と抽送を繰り返すうちに、気がつくと尻肉が鳴る程の動きに変わっていた。
「あんっ、あぁっ! あっ、あッ! あッ! あッ! あッ!」
 真央はピンと両足を踏ん張り、尻を差し出すような姿勢で声を上げ続ける。その膣内は剛直で小突くたびにうねり、しゃぶるように絡みつき、子種をねだり続ける。
「はぁっ……はぁっ……真央、っ……真央っ、真央っ……!」
 もはや、仕置きがどうとか躾がどうという考えすらも地平の彼方へと吹っ飛び、月彦はただただ愛娘の体に溺れていた。猿のように腰を振り、思い出したように被さってはその胸元をまさぐり、ブラウスを無理矢理左右に割り開き、露出したブラを引きちぎり、露出した母譲りの巨乳をこれでもかと揉みしだく。
「あぁんっ……父さまぁぁっ……もっと、もっとおっぱいギュってしてぇぇ!」
 キュキュッ、キュキュキュンッキュキュッ!――力一杯巨乳を揉みしだくと、応じるように真央が締めてくる。それが何とも心地よくて、月彦はさらに腰を振るう。
「あぁぁあんッ! あっ、ぁっ……と、さまぁっ……ンッ……はぁはぁ……父さま、の……堅くてぇっ、おっきっ……あぁん! もっと、もっとぉ……もっとごちゅごちゅってシてぇ……!」
 言われるままに、月彦は腰を振るい、或いはくねらせ、或いは突く。
「あーーーーッ!! アーーーーッ!! 父さまぁっ……父さまっ、父さまぁっ…………気持ちいい……気持ちいいっ……気持ちイイッ……イイッ! イイのぉっ……はぁはぁ……あた、ま……シビれるぅ…………気持ちいいのっ……もっと、もっと欲しいぃぃ……」
「っっ……ド淫乱がッ……飢えすぎ、だッ……」
 乱れれば乱れる程に、天井知らずに“具合”が良くなる。月彦は“限界”が近づきつつあるのを感じていた。息を荒げながら、真央に被さる様に根元まで突き入れ、そっと耳打ちをする。
「真央、出すぞ」
 囁いた瞬間、真央がぶるりと身震いをするのが解った。
「あァアーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!」
 文字通りケモノのように声を荒げる真央の中へと、貯めに貯めた特濃白濁汁を注ぎ込んでいく。
「く、ぁ……すっげ……出るッ…………」
 月彦にとっても、約二週間ぶりの射精だった。まるで魂そのものがドロドロに解けていくような途方も無い快楽に、思わず意識が飛びそうになる。
「フーッ…………フーッ…………真央っ………………」
 射精を繰り返しながら、月彦は両腕で真央の体を抱きしめ、鼻先を背に擦りつける。胸一杯に愛娘の特濃フェロモンを吸い込みながら、特上の牝を抱いているという満足感に酔いしれる。
「あンッ……やンッ……ま、まだ……出てっ……ンンッ……す、ごい……父さまの、濃い、ので……お腹、パンパンに、なってる…………あぁっ……こんなに、いっぱい…………んぅっ……! やっ……今は動かさなっ……」
 真央の制止を無視して、月彦は射精が終わったばかりの剛直でぐりぐりと“マーキング”を開始する。
「だめっ、だめっ……父さま……やっ、イクッ……父さまの、匂いつけられてイッちゃう……!」
 構わず、月彦はぐりゅん、ぐりゅんと腰をくねらせ、ずる賢い子狐の粘膜へとマーキングを続ける。そう、これが躾だと言わんばかりに。
「あぁぁぁんっ! あぁぁ……あぁぁぁァァッ!! だめぇぇっ……父さまぁぁ……動いたら、溢れちゃう……父さまの濃いのが、漏れちゃう!」
「欲張りだな、真央は。…………でも安心しろ、すぐにまた濃いのを注いでやる」
 ググンと、挿入しっぱなしの剛直を、強引に反らしながら、再度囁く。
「真央の望み通り、真狐の分まで、たっぷりと仕置きをしてやる」


 

 “おいかけっこ”で、血が高ぶっていたのだろうか。それとも、自室ではなく野外ということで、野性が解放されたのかもしれない。とにもかくにも真央はいつになく乱れ、蜜を溢れさせた秘裂を貫かれる度に声を荒げ、淫らな言葉でさらなる快感を求め続けた。
 立て続けに二度、背後から犯された後は木に背を預ける形でまぐわった。月彦の首に手を掛け、何度もキスをせがみながら真央はイき、イきながら突きあげられ、背を逸らして再度イく。子種をねだるように剛直を締め上げながら、イき続け、射精を受けてまたイく。
「あハァァ………………!」
 尻を掴まれ、そのままにゅぐり、にゅぐりとマーキング。敏感な粘膜に濃厚な牡液をすり込まれる度に、父親の所有物にされているのだと実感させられる――興奮、する。
「父さまァァ……」
 興奮の極みに達した真央は月彦に抱きつくようにしがみつき、そのまま押し倒してしまう。
「ァ、ぁっ、あッ……!」
 地面に月彦を押し倒し、そのまま真央は腰を使い始める。
「はぁっ、はぁっ……父さまっ……父さまっ…………!」
 堅い肉柱は鋼鉄の芯のように屹立し、腰を落とす度にグンと子宮を持ち上げられ、真央は声を上げずにはいられない。
「あぁんっ、あぁっ、ぁっ……か、たいぃ…………はぁはぁ…………堅い、の、好き、ぃ…………!」
 腰を前後させ、ぐりぐりと回し、持ち上げ、落とす。持ち上げて、落とす。持ち上げて落とす。
「あっ、あんっ、あんっ」
 堅い肉の槍に、体を裂かれる感触が堪らない。甘い痺れが背筋を走り、脳汁が溢れ出す。
「あぁんっ」
 夢中になって腰を振っていると、唐突に胸を掴まれた。
「あっ、やんっ……あぁぁっ……!」
 両手で、もっぎゅもぎゅとこね回される。ゾゾゾと稲妻のような快楽が体中を走り、腰を振り続けることが出来なくなる。
「はぁぁ……んぁぁっ……おっぱい、気持ちいいのぉ…………」
 くすりと、月彦が笑む。胸を揉まれただけで腰砕けになってしまう娘に呆れるような、可愛がるような、そんな笑みだ。
「はぁ……はぁ……もっと、もっとおっぱいギュってしてぇ…………はぁはぁ……」
 真央は自ら月彦の手首を掴み、愛撫を促す。痛みすら感じるその愛撫がもうすっかりクセになってしまっているのだった。
「……全く、折角“上”にならせてやったのに、もうギブアップか?」
 苦笑混じりに月彦が呟き、胸を揉む手を止めると同時に体を起こしてくる。反対に真央は体を倒す形となり――
「ああぁンっ……!」
 どちゅんと、蜜が飛び散る程に強く突き上げられる。
「あァっ! あぁっ、あァァッ!!」
「真央は“コレ”好きだろ?」
「あッ、あッ、あッ、あァーーーーーーーーーーーーーッ!!!」
 月彦の言う通りだった。草の絨毯に背を預け、下半身を月彦に抱えられるような形での腰上げ正常位。火照った肌が冬の寒気に晒され、汗が湯気となって霧散する。
(あぁぁぁッ、好きッ! コレ、好きぃぃいぃッ!!!)
 腰が、真央の意思とは無関係にヒクつき、痙攣する。剛直の先端で最も弱い場所をグリグリ擦られ、真央はブリッジをするように仰け反りながら声を荒げる。
「こらこら、そんなにおっぱいを揺らすな。…………ますます興奮しちまうだろうが」
「あぁぁっ……やんっ!」
 たぷんっ、たぷんっ。月彦に激しく突かれる度に、たわわな巨乳が上に下にと大きく揺れる。
(あぁぁっ……父さまに、見られてる……父さま、見てるっ……!)
 揺れるおっぱいをガン見されている。まるで視線そのものが熱量を持っているかのように、胸が熱く火照り、先端がジンジンと痺れ堅く尖る。
(あぁぁっ……父さま……もっと、見てぇ……真央のおっぱいに夢中になってぇ……!)
 真央はさらに背を逸らし、胸を激しく揺らして月彦を誘う。――それが、月彦の興奮を誘ったのか、真央の中をかきまわす剛直がさらにグンと、質量と堅さを増す。
「まーおー?…………ったく、“悪い子”だな」
 うん、悪い子なの……だから、おしおきシて?――真央は濡れた目でそう訴える。
「あァァッ! ああああッ! やっ……と、さま……早っっ……あァーーーーーーーーーーーーッ!!」
 忽ち、真央はスパートをかけられ、イかされる。
「ダメッ、だめっ、まだ、イッ……いまイッてッ……あーーーーーーッ!!!!!」
 絶頂の最中にさらに突かれ、痙攣して収縮する肉襞を強引に割り開くように突き上げられ、真央は月彦の両手首を掴みながら、喘ぎ、体を跳ねさせる。
「だめっ、イクッ! やっ、イクイクッ……イくの止まらなっ……あんっ! やっ、らめっ……も、許っ……あぁぁあああッ!!!」
 舌を突き出すようにして喘ぎ、度重なる絶頂に真央が背骨が折れんばかりに反らした時、とどめとばかりに白濁汁を注ぎ込まれる。
「アーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!」
 視界に火花が散り、思考がまでもがどろりとした乳白色に包まれる。
(ア……ぁ……もっと、もっと……欲しい…………)
 失神するほどの絶頂を味わいながら、真央は尚も貪欲に快楽を求める自分を自覚していた。


 


「はぁっ……はぁっ……クソっ……全然おさまんねぇ……」
 苛立ち混じりに、月彦は剛直を抜くや、ぐったりと脱力したままの真央に跨がり、猛りっぱなしの剛直を恥知らずな巨乳で挟み込む。
(……こういうところばっかり、アイツに似やがって)
 思わずしゃぶりつきたくなるほどに色白で、先端は綺麗なピンク色で。手を伸ばさずにはいられないほどにたわわで、たぷたぷと誘うように揺らされればもう理性など消し飛んでしまう。
「ぁんっ……とう、さま…………真央の、おっぱいで……シたいの……?」
 不安げな上目遣い。だがその実、自分の胸に父親が夢中になっている様が嬉しくて堪らず、ゾクゾクと興奮に身震いしているのが容易く見て取れる。
「…………あぁ、そうだ。こんな恥知らずで男の理性を消し飛ばすような悪いおっぱいはおしおきをしないとな」
 はぁはぁと息を荒げながら、月彦は剛直を挟み込み、腰を前後させる。本来ならば、あの性悪狐のおっぱいをこうしてやりたいと脳内で毒づきながら腰を振るい、最後は先端を乳肉の間に埋めるようにして射精をした。
「んんっ……!」
 剛直が射精の度に乳肉の合間でビクビクと震えるのが心地よいのか、真央もまた艶めかしい声を上げる。月彦の“ムラムラ”は尚おさまらず、立て続けに再度乳で剛直を挟み込んで腰を使い、今度は真央の顔に盛大にぶっかけた。
(……クソッ……俺は何をやってるんだ)
 こんなことをして、気が晴れるはずも無い。何故なら、本当にこうしてやりたい相手は真央ではないからだ。
「真央、口でしろ」
「うん。いいよ、父さま」
 月彦は真央の上から退き、胡座をかいて命じる。真央は言われるままに体を起こし、地面に寝そべるような形で剛直にキスをし、そのまま口に含む。
「んふっ……んんっ……」
 深く咥えて、れろれろと裏筋を刺激される。そのまま強く吸いながら頭を持ち上げ、ちゅぽんと唇から剛直を引き抜いて、また咥えこむ。
「っ……いいぞ、真央」
 今度は先端部分だけを咥え、そのまま唇を密着させたまま抜き、咥えを繰り返す。時折吸い、唇が離れたかと思えばまた咥え、そのまま唐突に深く咥えたかと思えば、れろり、れろりと裏筋を刺激される。
「んふっ、んふっ…………んぱぁっ…………父さま、気持ちいい?」
 甘えるような上目遣い。月彦は頷かざるを得ない。素直に頷きたくないのは、幼さの残る顔立ちと、フェラのテクが釣り合っていないからだ。
「はぁんっ……ちゅっ……れろっ、れろっ……」
 唾液に濡れた剛直を手で優しく扱きながら、れろり、れろりと舐め回される。舌先を窄めて、カリ首をほじくるようにされると、思わず真央の頭を撫でていた手に力がこもる。
「れろれろれろれろれろれろれろれろっ」
 ずる賢い子狐は、ここぞとばかりに“そこ”をほじくるように舐めてくる。かと思えば唐突に止め、再び深く、深く咥える。
(これも……本当なら、アイツに……)
 泣きっ面の性悪狐に、無理矢理咥えさせてやったら、どんなに胸がスカっとすることだろう。フェラを拒否しようが構うものか。強引に頭を掴んで腰を振ってやればいい。そのまま、まるで便器代わりにでもするように、たっぷりと白濁液を飲ませてやればいいのだ。
「ンンンッ、ンンーーーーーーーーーーッ!!!!」
 妄想に耽っていた月彦は、真央のくぐもった悲鳴で唐突に我に返った。気がつけば、真央の頭を両手で押さえつけ、喉奥まで咥えさせたまま射精していた。
「ンくっ……ングッ……ンンっ…………」
 押さえつけていた手を僅かに緩めると、真央は嬉しそうに尻尾を振りながら、ごくり、ごくりと喉を鳴らして嚥下していく。そのまま最後の一滴まで吸い上げ、ちゅぽんと唇から剛直を引き抜いた。
「……ンっ……ふ、ぁ…………美味しい……」
 月明かりの下。ほんのりと頬を上気させ、濡れた唇を指で辿りながら真央は呟く。さながら、最高級ワインを口にした令嬢のような微笑み方だった。
「父さまァ……」
 真央はそのまま、ネコが飼い主に甘えるように身を寄せ、月彦の手をスカートの下へと誘う。
「あのね、次はこっちに……欲しい、な」
 ドロドロの粘液にまみれたその場所を月彦に触らせながら、真央ははぁ、と息を吹きかけるように囁いてくる。
「まだ“欲しい”のか。底なしだな、真央は」
「うん……だって、いっぱい我慢してたんだもん」
 苦笑混じりに月彦は真央の背へと手を回して抱き寄せ、さらに自分の腰へと足を回させる。“いつもの形”へと誘いながら、真央の尻を掴んで体を持ち上げ――
「あァァン!」
 一気に腰を落とさせる。
「ッ……真央……ッ!」
 ドロドロの膣内は、先ほどまでよりもさらに熱く火照っているように月彦は感じた。“その熱”が剛直を通じて伝播し、全身から汗が噴き出してくる。
「なんだこれ……真央の中……めちゃくちゃ熱くて、ドロッドロで……キツくて……」
「だって、父さまがぐいいいって押さえつけてくるから……」
 真央は息を弾ませながら、照れるように顎を引く。
「息が出来なくなって……すっごく興奮しちゃったの……」
 ゆっくりと腰をくねらせながら、真央はさらに続ける。
「父さまに、おっぱい使われるのも、顔にかけられるのも、すっごく興奮するの…………口でしろって言われると、雷に打たれたみたいにビクンってなっちゃうの……」
 はぁはぁと悶えながら、真央は腰をくねらせる。
「父さまのを舐めてると、お腹の奥が早く欲しい早く欲しいってキュンキュンするの……ドロッドロの熱くって濃ゆい精液ミルク飲まされると、エッチしたくてしたくて我慢できなくなっちゃうの……」
「ま、真央っ……」
 言葉の通り、極度の興奮状態にあるらしい真央に気迫負けしまいと、月彦は真央の尻を掴んだ手に力を込め、大きく揺さぶる。
「あぁぁんんっ! あはぁ……シビれるぅ…………はぁはぁっ……あぁん! あぁんっ!」
 立て続けに大きく揺さぶると、真央は大きく仰け反てイき、そしてイきながら、今度は強く、強くしがみついてくる。
「やぁっ、揺さぶるのだめぇっ! 気持ち良すぎて、すぐイッちゃうの……お願い、父さま……優しくシて?」
 涙混じりの上目遣い。そのくせ、目の奥には期待の光。
(つまり、“して欲しい”ってことだな?)
 真央の望み通り、月彦は真央の体を激しく揺さぶり、たっぷりと声を上げさせてやることにした。
「あぁあん! あぁんっ! やぁっ、だめっ、だめっ……イクッ、ホントにイクッ……イッちゃう! あぁぁぁ〜〜〜〜〜〜ッッ!!!!」
「くぉっ……し、締まるっ……」
 剛直に絡みつく肉襞までもが、腹立たしい程に甘え上手なのだ。早く、早くと急かすように絡みついてきて、月彦は歯を食いしばりながら絶頂への誘惑に耐えねばならなかった。
(す、げ……きもちい…………溶けそうだ……)
 気持ち良すぎて、剛直が溶かされてしまうのではないか――そんな不安すら抱くほどの具合の良さ。
(クセに……なる…………)
 あまりの快感に、理性がトぶ。“これ”を、誰にも渡すものかと。無意識的に真央の尻を掴む手に力が籠もる。
「あンっ……やっ、父さまの、グンって…………やっ、ひんっ! あん!」
「フーッ……フーッ…………真央っ、真央っ…………!」
 月彦は我を忘れ、真央の体を揺さぶり、突き上げる。その首筋に鼻を埋め、愛娘の汗の臭いを嗅ぎながら。興奮のあまり噛みつき、歯すら立てながら――当然、真央は声を震わせて喜んだが――愛娘の体を蹂躙する。
「あんっ、あんっ、あん! 父さまっ……父さまぁっ……はぁはぁっ……父さまっ、父さまぁっ……あんっ! 一緒っ……いっしょっ、いっしょ、にぃっ……はぁはぁはぁ……やっ、らめっ……もッ……いっ……イッ………………〜〜〜〜〜〜〜ッッッ!!!!」
「真央っ、真央っ…………真央っ!!!」
 最後の瞬間、月彦は真央の体を抱きしめ、真央もまた両手で月彦の体にしがみついてきた。
 どぷっ、どぷと特濃の白濁汁を注ぎ込みながら、月彦は耳の側で、愛娘の嬌声を――交尾の快楽に狂ったメスのサカり声を聞いた

「はぁ…………はぁ…………はぁ…………」
 五分ほどはそのまま、互いに抱き合ったまま、呼吸を整えていただろうか。
「父さま………………好き……大好き…………」
 真央が月彦の肩に顎を乗せたまま、呟いた。
「…………………………………………母さまなんかに、絶対、渡さない」
 月彦は、真央の様子が突然変貌した理由を、この時知った。



「アアアアアァァーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
 月彦の上に背を向けたまま跨がり、大きく仰け反りながら、真央が声を荒げる。
「ァ……! ァッ……ぁふっ……ンぁぁ……気持ちいい……気持ちいいのぉ…………はぁはぁ…………もっと、もっと欲しい…………もっと、もっと……」
 譫言のように繰り返しながら、真央は尻尾をうねうねとくねらせ、尻を持ち上げては落とす。
 もはや時間の感覚も失うほどに、真央も、そして月彦も交尾に没頭していた。自分たちが一体いつ暗い夜の森から廃屋の中へと戻って来たのかも記憶にないし、比較的痛んでいない畳の間――他の部屋に比べて小綺麗なことから、恐らく真狐が寝床にしていたのではないかと思われる――で第二ラウンド(?)を開始したのかも覚えていない。
「あぁぁぁあっ!! ンンッ……父さまァァ……!」
 とにもかくにも、真央を求めずにはいられなくて、月彦は体を起こすやそのまま覆い被さるように真央を抱きしめ、たわわな胸元をもみくちゃにしながら突き上げる。
「あァッ! あァッ! あァッ!」
 白い乳肉に指が埋まるほどに強く握りしめると、おかえしとばかりに剛直がキツく、キツく締め上げられる。ぎゅるぎゅると雑巾絞りにでもされているようなその締まりに、月彦は思わずうめき声すら漏らしてしまう。
「あヒ……ンッ……とぉ、さまぁ……すご、く……カタいぃ……とぉさまの、形……はっきり解っ…………ァァァん!」
 右手をおっぱいから離し、真央の後頭部を掴むやそのまま畳へと押しつける。たちまち真央は“嬉しそうに”悲鳴を上げ、キュンキュンと剛直を締め上げてくる。特に理由があっての行為ではなかった。強いて言えば、“真央がそうして欲しそうだった”からだ。
「ァァァ……ごめん、なさい……父さまぁぁ……」
 額の辺りを畳に押し当てられながら、真央が呻くように言う。まるで、父親からの暴力を喜ぶかのように、ゾクゾクと尻尾の毛を逆立てながら。
「……ちゃんと反省しているのか?」
 囁きながら、軽く突いてやる。真央は頷くように、額を押し当てられたまま僅かに体を曲げる。
「………………嘘をつけ」
 腰を引き、右手を大きく振りかぶって思い切り尻肉を引っぱたく。
「〜〜〜〜〜っっっっ……!!!!」
 スパァン!――鋭い音が鼓膜を劈くと同時に、真央が掠れた声で鳴いた。
「父親を井戸で飼い殺しにするような“悪い子”が、そんなに簡単に反省するわけがない」
 立て続けに、真央の尻を引っぱたく。その都度、真央は怯えるように悲鳴を上げる。
 が――。
「ンッ……ぁ…………ハァ……♪」
 ゾクゾクゾクッ――真央の中を駆け抜けている快感が、剛直にぴっちりと密着している媚肉ごしに伝わってくる。尻を叩かれる痛みすら快感とでも言うかのように。
「はぁ……はぁ…………父さまぁ……もっと、もっと……悪い子の真央に……おしおきシてぇ……」
 挙げ句、自らねだってくる始末。月彦は尻を叩く手を止め、代わりに真央の腰を掴み、苛立ちをぶつけるように突きまくる。
「ァアッ! あんっ! アァァァッ! あッ! あッ! あぁぁ〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!」
 尻を叩かれ、よほど興奮していたのか、真央の絶頂は早かった。ぎりぎりと搾るように剛直を締め上げられ――。
「くぁっ……」
 自ら撃ち出すというよりも、殆ど搾り取られるように射精“させられ”る。
「……っ……」
 どぷ、どぷと特濃の白濁液を愛娘の体内へと注ぎ込みながら、月彦は軽く目眩を覚える。いくら“溜まっていた”とはいえ、そして“薬”を盛られたとはいえ。いくらなんでも出し過ぎなのだ。興奮状態故に知覚されにくかった疲労が、ここに来て目眩という形で表面化したに過ぎない。
 くらりと、そのまま月彦は背後に倒れかけて、慌てて畳の上に手を突き、体を支える。ぬろん、と栓代わりの剛直が引き抜かれるや、おびただしい量の白濁液が溢れ出す。
「とう、さま?」
 真央が体を起こしながら振り返る。纏っていた制服は無惨にボタンが引きちぎられ所々泥に汚れ、まるで数十人に暴行を受けた後のように至る所に白濁液がこびりついている。あぁ、そりゃあ目眩もするわけだと、月彦が納得しかけたその時だった。
「んぐっ……!?」
 真央が、飛びついてきた――と思った時には、その指先に夾まれていた丸薬が、口の中にねじ込まれていた。反射的に嚥下してしまい、遅れて月彦が口を覆おうとした時にはもう、真央の指も引き抜かれていた。
「何を、飲ませた」
 尋ねるまでもない。妖狐の薬は、ありえない程に即効性がある。腹の底でマグマが煮え立つように、全身が熱くなるのを感じる。
「ぐあぁ……ぁ……」
 理性が、トぶ。視界が赤く染まり、ギュンギュンと凄まじい音を立てて、血液が全身を駆け巡るのを感じる。
「……まだ、足りないの」
 赤く染まった世界で、真央が身震いしながら、言葉を続ける。
「お願い、父さま……もっともっと、真央にお仕置きして……“良い子”に戻して?」

 真央のその言葉を最後に、月彦の記憶は数日後へと飛ぶのだった。



 真狐による井戸監禁から丁度一週間後、月彦は真央と共に無事自宅へと戻ることが出来た。さすがの葛葉も今回ばかりは怒るだろうと覚悟していたものの、覚悟とは裏腹に少々長めのお説教だけで済まされてしまった。毎度のことながら、母のおおらかさに安堵する反面、もう少し心配してくれてもいいんじゃないかとチラッと思ったりもしたが、さすがに口には出せなかった。

 約一週間ぶりの登校で、月彦は自分がインフルエンザで欠席になっていたのだということを知った。和樹や千夏からは、何度も見舞いに行ったのに一度も会えなかったと罵詈雑言を浴びせられて平謝りし、雪乃からは自宅療養ではなく入院だったら見舞いに行けたのにと不満を漏らされた。由梨子にも事情を説明して謝罪し、ついでとばかりにぶうたれ顔の珠裡と遭遇して、無事試験に合格出来たことを聞かされ、驚愕した。
 珠裡の合格は到底信じられる話ではなかったが、この時は素直に喜びを分かち合い、遊園地の約束は必ず守ってやると断言をした。後に、“後遺症”が収まった後、やはりあの学力で合格できる筈が無いと思い直し、まみを問い詰めた結果、夜な夜な試験関係者の夢枕に立ち、試験の難易度を下げるべく奔走していたことを聞き出すのだが、少なくとも“今”はそこまで気が回らなかった。
 そう、井戸を脱出してからというもの、月彦はある後遺症に悩まされ、その他の事柄について深く考える余裕を失っていたのだ。
 その後遺症とは――


「真央、ほらっ、早く来い」
「ま、待って……父さま」
 真央の手を引き、人目を忍んで男子トイレの中へと連れ込む。そのまま個室トイレの中へと連れ込むや、堪えかねたように真央の胸元へと手を伸ばす。
「はぁっ……はぁっ……真央っ、真央っ……」
 息を荒げながらブラウスの上から両胸を揉みしだく。下着のごわごわとした感触に舌打ちをしたくなるも、辛うじて残った理性を総動員して堪え、ボタンを一つずつ外していく。露出したブラをずらし、今度こそとばかりに生乳をもっぎゅもぎゅと揉み捏ねる。
「あんっ、やっ……父さまぁ……そんな、強く………」
「うるさい、黙れ! 元はといえば真央が悪いんだろうが!」
「で、でも……学校で、なんて……」
 さも、気乗りしていないような口調だが、そうでないことは顔を見れば一目瞭然だ。早くも頬を上気させ、息を弾ませながらろくに抵抗もしない。そんな愛娘の体を月彦は好き放題にまさぐり、鼻をすり当て牝フェロモンを肺一杯に吸い込みながら、スカート越しに勃起した股間をスリ当てる。
「元はといえば、真央の薬のせいでこんなことになったんだろ。ちゃんと責任は取ってもらうからな」
 そう、後遺症。常に体が熱を帯びたように熱く、些細なことで勃起してしまい、容易に元には戻らない。同時に襲ってくる、強烈な“飢え”。体に刻みつけられた快楽が、愛娘の体を欲して欲して堪らなくなるのだ。
 真央を問いただして、それは薬の後遺症であると判明した。完全に薬が抜けるまではその状態が続き、対抗策としては“適度に射精”をして少しでも早く薬を抜くしかないと。
「……どうしても嫌だっていうんなら、由梨ちゃんに事情を話して代わってもらうか?」
「ぁぅ…………だ、ダメ……私、のせい、だから……由梨ちゃんに代わってもらう、なんて…………」
 友達として、そんなことは出来ない――とでも言いたそうな口調。勿論月彦は真央の言葉がただの建前であることは解っている。“欲張り”な真央が、自分に向けられている性欲を由梨子に譲渡するなど、ありえないからだ。
「ほら、解るか、真央? もうずっと真央とヤりたくて、こんなになったままなんだぞ」
「やぅ……だ、ダメぇ……父さま……擦りつけないでぇ…………」
 ズボンとスカート越しに強ばりをすり当てられ、真央は目に見えて悶え出す。その嘘つきな唇へと、月彦は指をねじ込み、しゃぶらせながら耳元へと囁きかける。
「ほら、早く壁の方を向いて、尻を差し出せ」
「ンふ……んっ……」
 真央はねっとりと指に舌を絡めながら、色めいた声を漏らして頷き、貯水タンクに掴まるような形で月彦の方へと背を向け、尻を高く上げる。
「……どうした、下着も自分で脱ぐんだ」
「ンぁ……ンンンッ……!」
 指をくわえたまま、真央は不満そうに首を振る。やれやれと、月彦は少しだけ折れることにした。
「解った。…………真央は、自分で脱ぐより、脱がされる方が興奮するんだったな。…………この淫乱が」
 わざと悪意めいた言い方で囁き、咥えさせていた指を抜いて一気に膝裏まで下着を下ろす。
「ンッ……!」
「どうした、興奮しすぎてもうイきそうになったのか?」
 まだ早いぞと苦笑しながら、月彦もまたベルトを外し、“前”をはだけさせる。――がやがやと、“話し声”がトイレの中に入ってきたのはその時だった。
「……聞こえたな、真央。絶対声を出すなよ?」
「やっ、待っ……ンンンンッ!!!!」
 待つわけがない。月彦は容赦なく先端を濡れた秘裂に押し当て、一気に埋没させる。
「ンンンンーーーーーーッ!!!」
 片手で体を支えながら、片手で口を覆う真央の体を抱きしめるようにして、月彦はさらに、根元まで挿入する。
「くはぁ……ヤッベ……マジ癖になる……」
 薬の後遺症でしょっちゅう勃起してしまうのも困ったものだが、本当に困るのはこの感触の虜になってしまっている事だった。
「……最高だぞ、真央のナカ」
 わざと、囁いてやる。それが真央を興奮させ、さらに具合が良くなる。しかし、まだ動かない。代わりに、もっぎゅもぎゅと、両胸をこね回す。
「……ッ……ンッ……やッ…………だ、ダメッ…………」
「あれ、なんか聞こえね?」
「誰か個室でキバってんじゃね」
 小便器で用を足しているらしい二人組の言葉に、真央がハッと身を竦める。くすりと、月彦は口元に笑みを一つ。体を僅かに離し、トンッ、と軽く突いてやる。
「ンンッ!? ……ンンッ……!」
「ほら、真央……声は抑えろ。バレちまうぞ?」
 抑えろ、と言いながらも、徐々に抽送を始める。途中何度も、真央が涙目になりながら振り返り、目で訴えてきたが構わず、突きまくる。
(あぁぁ……たまんねっ…………)
 恐らくは、このシチュエーションに真央も相当興奮しているのだろう。ゾクゾクと快感に身震いしているのが剛直を通じて伝わってくるのだから。
 とはいえ、さすがに“尻肉が鳴るほど”に強く突くわけにもいかない。あくまでシチュエーションを楽しみながら、真央のナカを抉るように突き、時には被さってその両胸をもみくちゃにする。真央が喜んでいるのを膣内のうねりで感じながら、不意打ち気味に胸の先端を強く抓り上げる。
「…………ッッッッ…………!!!」
 恐らくは、目を白黒させているであろう真央のナカを、さらに突く。月彦もまた興奮に息を乱し、徐々に動きを早めていく。
「真央、出す、ぞ」
 そう言ってやれば、愛娘が“その瞬間”を妄想し、極度に興奮することを月彦は知っている。そして中出しの瞬間、真央が全神経を“そこ”に集中させ、特濃の精液が弾ける感触すらも余さず受け止めようとすることを知っている。
「……ぁ、ゃっ………………ンンッッッッ〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!」
 僅かに藻掻く真央の体を全身で抱きしめながら、月彦は肉欲の全てを白濁液に込めて撃ち放つ。愛娘の体を、ドロドロの精液で汚す禁忌に、征服する興奮に酔いしれながら。
「フーッ……フーッ…………ヤバいくらい出たな……」
 最後の一滴まで注ぎ込み、入念にマーキングまで行ってから、月彦は剛直を引き抜く。同時に、膝裏まで脱がせていた下着を引き上げ、“栓代わり”にする。
「真央、“次”は放課後だ」
 声を抑えたままの絶頂が、よほど堪えたのだろう。玉の汗を浮かべたまま力なく便座カバーの上に凭れる形になっている真央の腕を掴んで強引に立たせ、さらにその体を背後から抱きしめるようにしてまさぐる。
「つ……ぎ……?」
「そうだ。多少は収まったが、まだまだ全然足りない」
 真央もだろ?――スカートの下へと手を入れ、精液に濡れた下着の上から、秘裂を軽く指でまさぐる。
「ぁんっ! …………ほ、放課後、なら……お家で、でも……」
 はぁはぁと、肩で息をしながら真央が月彦の手首を掴んでくる。制止するためではない、促す為にだ。
「ダメだ。家までなんて待てるか」
「そん、な……」
 にやけそうになる顔を、無理矢理怯えさせているような――思わずひっぱたきたくなるような、白々しい演技。尤も、本当に引っぱたいたところで、真央は悲鳴どころか甘ったるい声を上げるに決まっているのだが。
「…………いいか。それまで、“着替え”は無しだ。たっぷりと中出しされたまま、由梨ちゃんと世間話したり、授業を受けたりするんだ。…………淫乱マゾの真央はその方が興奮するだろ?」
 否定――はさせない。首も振らせない。フェラでもさせるように、指を軽く抜き差しする。やがて、真央はとろんと瞳を蕩けさせ、“メスの顔”になる。
「……そもそも、真央が悪いんだからな。薬が抜けて俺の体が元通りになるまで、真央にはトコトン俺の相手をしてもらうぞ」
「んふぁ…………んふッ……」
 真央が頷くのを確認して、月彦は指を引き抜く。……約一週間後、月彦は漸くにして体を侵し続けていた不可思議な熱と加虐的な思考から脱却することに成功するのだが、それが果たして本当に薬が抜けたからなのか、はたまた構ってもらえなかった分構ってもらえたことで真央が満足したからなのか、最後まで知る機会は無かった。

 ……そして、桃の件もまた、副作用と共に忘れられてしまったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


 ――以下おまけ、読みたい方だけどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 姿形が変わっても、種の本質というものは、恐らく変わらないのだろう。
 夜。就寝前の屋敷の見回りをする際、桔梗はいつもその事を考える。猫は本来夜行性――ということではない。
 そう、寒いのだ。許されるなら、今すぐにでも布団にもぐりこんでぬくぬくしたい。夜回り用の手燭を下げてはいるが、そんなものが暖になるはずも無いし、そもそも月明かりさえあれば十分に夜目は利くのだから手燭を持つ意味合いもない。にもかかわらず夜回りに手燭を持たされるのは、ひとえに春菜にそう命じられているからだ。
 示威なのだと、春菜は言った。こうして明かりを手に回る事で、或いは屋敷に忍び込んで不届きな行いをしようと企んでいる輩に、警戒をしてるんだぞと示すのが目的なのだと。
(……無駄なことだ)
 と、桔梗はつい思ってしまう。そもそも、一体誰がよりにもよってこの屋敷に、妖猫族の重鎮桜舜院春菜の屋敷に忍び込むというのだ。桔梗に言わせるなら、それは積極的な自殺となんら変わりはない。仮に春菜をも殺せる程の手練れがその命を狙ってやってきたのだとすれば、そもそもこんな示威行為一つで断念するとも思えない。
 にも関わらず、大人しく見回りに殉じているのはひとえに春菜の命令であるのともう一つ、実際に“賊”の侵入を経験してしまったからだ。
(尤も、一体“どっち”が賊なのやら)
 半年前の出来事を思い出して、桔梗はつい口元に笑みを浮かべてしまう。かたや、春菜とは因縁があるらしい妖狐の女と、その女を追ってうかうかと虎口に飛び込み無惨に屍を晒した無知な妖犬共。そんな事があったにもかかわらず、屋敷に警備の人数を置くでもなく、相変わらずの使用人一人で済ませているのは、春菜自身賊の脅威など微塵も脅威とは感じていないのだろう。
 つまり、見回りをしようがしまいが、やっぱり結果は変わらないのだ。例え桔梗が居眠りをしていても、春菜は賊の侵入に気づくであろうし、桔梗がその場に駆けつけるよりも速く賊の体は数えるのも面倒な数にちりぢりになってしまうに決まっているのだから。
(やっぱり、無駄だ)
 そう思い、ため息をつきかけて、はっと口を噤む。一月ほど前にも、見回り中に似たようなことを考えてため息をつき、翌朝何気ない顔の春菜に「ため息だなんて、何か悩みでもあるのかしら?」と問われたことを思い出したのだ。……ぶるりと寒気によるものとは違うもので背筋を震わせ、尾の毛が逆立つ。或いは、こうして考えている頭の中すら、春菜に見通されているのではないかという杞憂すら、杞憂ではないのではないかと思いたくなる。
「桔梗、そこにいたの」
「……っっっっ!」
 春菜の声に、桔梗は思わずその場で飛び上がってしまった。手燭を落としそうになりながら、慌てて振り返ると、春菜はよほど桔梗の驚き方がおかしかったのか、袖で口元を隠しながらくすくすと笑っていた。
「何か、ご用でしょうか」
 しどろもどろ気味に辛うじて声を絞り出す。言いながら、自分でも愚問だと思う。用があったから声をかけたに決まっているからだ。
「毎晩ご苦労さま、桔梗。今夜はもう休んでいいわよ」
 えっ――思わず声が掠れた。
(そんな、まさか、本当に?)
 心まで見透かされていたとでもいうのか。だとしたら――桔梗が体の震えを抑えきれなくなった頃、春菜は微笑と共に言葉を付け加えた。
「これから、お忍びのお客様が来られるの。誰にも見られたくないそうだから、ね?」
「そういう……こと、でしたか」
 全身にかいた嫌な汗が、忽ち乾燥した空気に吸われていくのを感じる。春菜には間違いなく、挙動不審な従者だと思われたに違いないが、心を読まれているよりは遙かにマシだった。
(…………でも、こんな時間に?)
 既に日没から数刻は経っている。じき日も変わるだろう。或いは、お忍びだからこそなのか。
「……わかりました。先に休ませて頂きます」
 お忍びで、春菜以外に顔を見られたくないという客の素性を探ろうとすること自体、不忠だ。桔梗は素直に一礼し、自室へと戻った。

 が。やはり姿形が変わっても、種の本質というものは変わらないものらしい。桔梗は若い猫故の、如何ともしがたい好奇心に突き動かされて自室を抜け出し、影からこっそりと“客”を盗み見た。
(……あれは)
 暗い廊下を春菜に先導される形で歩くその後ろ姿。ほんの一瞬だけ見たそれには心当たりがあった。
 そう、以前乳の出が悪いとかで、薬を処方してもらいに春菜の元を尋ねてきた、妖牛族の女だ。
 女は春菜と共に和室へと入り、そこで話をしているようだった。内容を聞き取ろうと、桔梗は危険とは解っていても、さらに距離を詰める。
「…………あの、桜舜院さんにどうしてもお願いしたいことがあって……」
 女の口調は辿々しく、今この瞬間すらも第三者の耳を警戒しているかのように小さく、細かった。
「……えっと……その……あの……」
 逡巡。“お願い”というのはよほどの事なのだろう。女は何度も言いよどみ、春菜もあえて促したりはせず、静かに黙って聞いているようだ。
「お、お薬、を…………その、おちちが出なくなるお薬というのは……作ることは可能なのでしょうか?」
 しかし、意を決したらしい女の口から出た要求は、桔梗としてはなんとも首を傾げるものだった。
(乳が出なくなる薬……?)
 はて、前回この女は乳が出る薬が欲しいと言ってきたのではなかったか。なぜ今更正反対の薬など欲しがるのだろう。
 或いは、あまりに乳が出過ぎる故だろうか。ならばなぜお忍びで春菜に会う必要があるのか。ひょっとしたら乳が出過ぎるというのは、妖牛としてはとてつもなく恥ずかしい事なのだろうか――。
 首を捻る桔梗を尻目に、恐らく障子戸の向こうで目を丸くしていたであろう春菜の返事は短かった。
「まぁ……」
 驚くような、喜ぶような。まるで、女の要求の意味、目的、全てを察したような声。或いはそこに“羨望”すらも混じっていたかもしれない。

 桔梗は、空振りに終わった好奇心を慰めながらこそこそと寝床へと戻った。もちろん盗み聞きはバレていて、後日お仕置きを受ける羽目になるのだが、のど元過ぎれば何とやらの諺通り、猫はそう簡単には懲りたりはしないのだった。

 


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