「最近、お菓子に凝ってるの」
 半月ぶりに顔を合わせた双子の姉は巫女服の上から薄い桃色のフリル付きエプロンをつけていた。呆気にとられる優巳の手を引き調理場――数十人前の料理は軽く作れそうなほどに広い、土岐坂家別邸のメインキッチン――へと連れてくるなり、きつね色に焼き上がったクッキーの盛られた大皿を差し出してくる。
「折角だから、優巳にも味見させてあげようと思ってメールしたの」
「えっ……と……愛奈……大事な用って、そのこと?」
 呆気にとられているのは、姉の格好があまりにもトンチキな組み合わせだから――だけではなかった。自作の菓子の味見を“大事な用”だと言い張り、双子の妹を片道数時間もかかる場所へと呼び出した事に対して唖然としているのだった。
「うん。だってそう言わないと、優巳ったら全然来てくれないし」
 最近冷たくない?――不満げな愛奈の顔は露骨にそう言っていた。優巳は愛想笑いを浮かべながら、さりげなく視線を逸らす。
 姉とそりが合わないと感じ始めたのは一体いつからだろうか。かつては自分の分身のように感じていた愛奈が、徐々に恐怖の対象となりつつあるのを感じずにはいられない。
「大丈夫だよ、何も怖い事なんてないんだから」
 まるで心中を見透かしたような姉の一言に、優巳は思わず悲鳴を漏らしてしまいそうになる。
「ほらぁ、何をそんなに怖がってるの? 優巳らしくないよ?」
 愛奈の言う通りだと、自分でも思う。“こんなの”はらしくないと。では、らしい自分とは一体何か――それを考えようとする度に、優巳は底の見えない穴に足を踏み入れるような恐怖を覚える。
 ひょっとしたら、自分は何か大切なことを忘れてしまっているのではないか――。
「ねえ」
 そんな漠然とした不安を吹き飛ばす、愛奈の焦れた声。
「早く味見して欲しいんだけど?」
「あ、うん……じゃあ、もらうね、愛奈」
 ハート型のクッキーを一つつまみ、先端部を囓る。サクサクふっくらとした生地の甘さと、鼻へと抜けていくバターの香ばしさに、優巳は思わず笑顔を綻ばせた。
「うん、美味しい……かな?」
 きっと焼きたてであれば、もっと美味しかったのだろう。しかしそれでも、市販のクッキーに比べれば美味しいと断言できる味だった。
「うんうん、じゃあこっちは?」
 そう言って、愛奈が別の大皿を差し出してくる。先ほどの物よりも、ややくすんだ色をしたクッキーだった。見た目で判断するなら、明らかに前者の方に軍配が上がるのだが、愛奈の様子からしてより自信があるのはどうもこちらの方らしい。
 優巳は星形をしたクッキーをつまみ、囓りつく。
「わっ……これ、美味しい!」
「やっぱり? 私もね、こっちのほうが自信あるの!」
「全然違うよ! なんていうか、さっきのクッキーは普通の甘いお菓子って感じだけど、これは魂に響くっていうか……味はそんなに変わらない気がするんだけど」
「こっちはね、ちょっと隠し味入れてみたの。巧くいくか不安だったんだけど……」
「こんなクッキー食べちゃったら、普通のクッキーなんて食べられないよ! もうね、格が違うって感じ!」
「本当にそう思う? お世辞じゃないよね?」
「お世辞なんかじゃないよ! 愛奈は凄いなぁ、ホント、何でも出来ちゃうんだね」
 かつて自分も趣味で料理を始めようとして、どうしても巧くいかなかった際の記憶を優巳は思い出していた。
 双子であるのに、この差は一体どこから来るのだろう――肩を落としながら、残りのクッキーを頬張る。美味しい――しかし、どこか不思議な味のするクッキーだ。恐らく隠し味とやらが効いているのだろう。甘いような、とろけるような。言葉では言い表せないほどの美味。
 もっと欲しいと、体が要求する。
「ごめん、愛奈……もう一つ食べてもいい?」
「いいよ。これは試しに作ったやつだから、何なら全部食べちゃってもいいよ?」
「全部はさすがに多すぎるけど……」
 優巳はクッキーを摘み、囓る。何かのハーブでも練り込まれているのだろうか。頭の奥がジンと痺れるような独特の風味がある。気がつくと右手に持っていたはずのクッキーは跡形もなくなってしまっていて、優巳は何かに突き動かされるように、新たなクッキーを摘み上げてしまう。
「どうしよう、愛奈……これ、美味しすぎて止まらないよ」
「うふ。そんなに気に入ってくれたんだ? …………どんどん食べていいよ?」
 促されるままに、優巳は次々にクッキーに手を伸ばし、とうとう大皿に盛られた分を全て平らげてしまった。
「全部食べちゃった……」
 一度に、しかもこんなにも大量のクッキーを食べてしまったことなど生まれて初めてだった。困惑の目で姉を見ると、愛奈もまた妹を見ていた。――否、その目は、優巳など見てはいなかった。
「……ヒーくんも美味しいって言ってくれるかなぁ」
 遠い目を大皿へと視線を落としながら、独り言のように愛奈が呟く。その一言だけで、何故姉が急に菓子作りなど始めたのか解ろうというものだった。憂いを帯びた瞳は女の――それも双子の妹である優巳の目にさえ、ゾクリとするほどの色気を帯びていた。
(……どうして、愛奈だけ――)
 かつて、何度そう思ったことか。十の指では数え切れないほどに多才な姉と、そのうちの一つすらも持っていない妹。幼い頃は見分けがつかないと言われた容姿さえも、成長と共に差は広がるばかりだ。二十歳を迎え、姉の美しさはもはや神がかっていると言っていい。笑顔一つとっても、まるでつぼみが花開くように艶やかに微笑む愛奈の隣では、優巳は歪めた笑みしか浮かべられない。なまじ双子であるからこそ、その差がより際立ち、いっそう惨めな思いをさせられるからだ。
「………………このクッキーなら大丈夫だよ。本当に美味しいもん」
 そういった妬みや羨みをひた隠しにしながら、優巳はあくまで対等に――双子の妹として返す。
「本当? 本当にそう思う?」
「うん! だってホントに美味しいかったよ?」
「じゃあ、今度はもっと美味しいの作って絶対ヒーくんに食べて貰わなきゃ!」
 愛奈は調理台に大皿を置くなり、てきぱきと準備を始める。入念に手を洗って拭き、材料や道具を調理台の上へと並べる。ボウルにほどよく暖めたバターを入れ、ゴムべらで溶かしながら砂糖を加えていく。さらに粉ふるいにかけた薄力粉を加えながらゴムべらで混ぜるその手つきは、少なくとも優巳の目には熟練の手つきにしか見えなかった。
「そうそう、隠し味も忘れないようにしないとね」
 隠し味――その単語に反応するように、優巳は身を乗り出し、愛奈の手元を凝視する。くすりと、愛奈が口元に笑みを浮かべたのはその時だった。
「気になる? 隠し味が何なのか」
「そりゃ気になるよ。だって、本当に美味しかったんだもん」
「ヒントはね、バラ。バラの棘だよ」
「バラの棘?」
 まさかバラの棘をクッキーに混ぜたとでも言いたいのだろうか。そんなことをすれば、口の中で棘が刺さったりするのではないか――そんな優巳の思考をあざ笑うように、双子の姉はさらに笑みを漏らした。
「あれは小学校に入ったばかりの頃だったかな。優巳と二人で花壇のバラの手入れをしたことがあったじゃない?」
「あー! あったあった! 愛奈が指を傷だらけにしちゃった時だよね!」
「傷だらけにしちゃったのは優巳もだよ。優巳のは私が治してあげただけ」
「そ……う、だっけ? ごめん、覚えてないや……あれ、そういえばあのときって……」
 朧気な記憶を辿る。そうだ、確かに愛奈の言う通り、自分の指はあの奇蹟の力で治してもらった。しかし愛奈は自分の傷は治せない。そんな姉の手を見かねて、優巳は夢中になって指を舐めて血を吸った……。
「……美味しい美味しいって、優巳、夢中になって吸ってたよね。自分の血の味と違うって言ってたよね」
 だから――まるで仕草でそう示すかのように、愛奈は左手を胸の前まで持ち上げ、優巳の方へと指を上にしたまま手の甲を向けてくる。左手の小指の先には、赤黒く変色した絆創膏が巻かれていた。
「あの時の事を思い出して、ほんの気まぐれにちょっぴり混ぜてみたの。……今度のはヒーくんにあげるやつだから、たっぷり入れてもっと美味しくしなきゃ」
「たっぷりって……あ、愛奈――」
 優巳がしゃべり終える前に、愛奈はさらに人差し指、中指の爪の先を噛み、食いちぎるように引きはがした。
「愛奈!」
 優巳の声は、殆ど悲鳴だった。色を失っている優巳の目の前で、愛奈はさらに左手の親指、薬指、続いて右手の指の爪全てを噛み、引きちぎるように剥がしていく。あまりの光景に、見ている優巳の方が失神してしまいそうだった。
「ヒッ………………ぎ…………ッ……ひぃ………………」
 当の愛奈の顔も痛みに引きつっていた。両手の指の先からどくどくと血を溢れさせながら、愛奈は目尻一杯に涙を溜め、そんな笑い声とも鳴き声ともつかない声を漏らし続ける。
「い、痛くないの……?」
 愚問だと解っていても、優巳は問わずにはいられなかった。愛奈の不自然すぎる笑い、血が滲むほどに噛み締めた唇を見れば答えは一目瞭然だ。
「い、い、たい……よ…………」
 ひゅっ、ひゅっ――声を出そうとしても、巧く喋ることが出来ないのか、途切れ途切れの言葉の合間に空気の漏れる音ばかりが聞こえる。
「で、でも……ひーくんの、ため、だもん……」
 辿々しくもそこまで口にして、愛奈は笑顔を零した。先ほどまで目尻で足踏みしていた涙が今はもうほろほろと頬を伝っている。その涙はボウルに向けて柳の枝のように指を下げている愛奈の手の甲へと落ち、滴る血と混じり合ってクッキーの生地へと浸透していく。
「ふうっ……ふうっ…………んんっ……!」
 さながら、寒中水泳でもするかのような息使い。意を決したように、愛奈が両手をボウルの中へ入れ、血まみれの手で生地をこね始める。
「あぎっ……いいいっ……痛く、ない…………痛くない…………」
 念じるように呟きながら、愛奈は生地をこね続ける。
「美味しくなあれ…………美味しくなあれ…………」
 優巳はもう言葉を無くし、ただただ見守ることしか出来なかった。
 ………………。
 …………。
 ……。

 

 

 

 

 


 ……。
 …………。
 ………………。
「じゃあ、優巳。ちゃんとヒーくんに渡してね!」
 十の指全てに絆創膏が巻かれた手から、包装紙に包まれたクッキーを渡される。ずしりと、まるで姉の想いそのものを手渡されたかのように、優巳には途方も無く重く感じた。
「返事は?」
「あ、うん……これを、ヒーくんに渡してくればいいんだね」
「ちゃんと、私からって伝えてね。あとあと、美味しかったかどうか、感想もちゃんと聞いてきて欲しいな」
「それは……」
 どうだろう――優巳は記憶の中にある、月彦のことを考える。どういうわけか記憶が虫食い状態ではっきりと思い出せない事が多いが、それでも月彦が未だに自分たちを嫌っているのだということは解る。そんな月彦に、愛奈の手作りクッキーだと言って渡して、果たして食べてもらえるのだろうか。
「……嘘は絶対ダメだよ。そんなことしたら、私本気で怒るよ。優巳ならそれがどういう意味か解るよね?」
 愛奈は、読心術でも使えるのだろうか。昔から“こう”だっただろうか――答えは“解らない”。思い出そうとしても、巧く思い出すことが出来ないからだ。
「ちゃんと、私からだってヒーくんに伝えてから渡して、感想を聞いてくるだけ。簡単なおつかいでしょ?」
「で、でも……もし――」
「くどいよ優巳。私を怒らせたいの?」
 ゾッ――姉の声色が変化しただけで、優巳は全身が震え不自然に硬直する。手足の先が痺れ、不自然なまでに汗が噴き出し、歯の根が合わなくなる。
「わ、わかったよ……愛奈……。ちゃんとヒーくんに、愛奈からだって渡して、美味しかったかどうか、聞いてくるね」
「うん! じゃーね、頼んだよ、優巳」
 眩しいほどの笑顔を残して、愛奈は優巳一人を正門前に残して踵を返してしまう。去って行く姉の背を見送りながら、優巳は途方に暮れた。


 


 
 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第五十四話

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 





 月彦は自室で椅子に腰掛け、腕組みをしたまま唸っていた。目の前の勉強机の上には、いくつもの封筒が広げられている。
 二十一万五千円。封筒に入っていた金額を改めて計算して、月彦は唖然としていた。半ば流れで封筒を受け取っており、その中にいくら入っているかなどまったく頓着しておらず、家に帰るなり机の引き出しに放り込んでしまっていたのだ。
「…………貰いすぎ、だよなぁ……」
 目の前の札束が、月彦には途方も無い金額に見える。それは優に一年分の小遣いを超える金額だ。
「しほりさんに返すか……いやでも、うーん……」
 果たして受け取ってもらえるだろうか。そもそも、最後の夜をあんな形で別れてしまった手前、顔を合わせづらいというのもある。
「…………そもそも、本物なんだろうか」
 時間経過と共に葉っぱにでもなってしまうのではないだろうか。自分の手元にある間に葉っぱになってしまうのならばそれは別に構わないのだが、万が一使った後にそうなってしまった場合が困るのだ。
「…………よし、しほりさんを信じよう。…………んで、とりあえず半分の十万円は母さんに預けよう」
 娘の養育費――などと大層なことを言うつもりはないが、折角バイトをして得たお金であるし、感謝の気持ちを込めて半額の使い道は葛葉に委ねることに、月彦は決めた。
「で、残った分はどうするかだが……」
 当初の予定では、真央を旅行に連れて行ってやる予定だった。が、なんだかんだであの後の真央はすこぶる機嫌が良く、あえて機嫌取りをする必要も無いように思える。勿論機嫌取り抜きに真央とお泊まりをしにいくのもアリなのだが、折角のまとまったお金であるから、何か他に有意義な使い方はないかと考えてしまうのだ。
「そうだな……これだけあれば中古の原付だって買えるし、そうすれば行動範囲も飛躍的に広がるな」
 ただの原付ではただ単に日常の足が広がるだけだ。しかしもしこれが佐由のように二人乗りが可能な単車であればどうだろう。
「原付の免許ならすぐにとれるんだろうけど……はて、倉場さんのアレに乗るには一体何の免許が必要なんだろう」
 二人乗りできる単車があれば、真央と共に遠乗りをし、疲れたらファミレスにでも入って一休み。さらに走って夜はモーテル……そんなグフフな使い道も可能ではないか。
「いやいや、真央だけに限らないぞ。由梨ちゃんとだって同じことが出来る」
 或いは、珠裡を乗せてやることも出来るだろう。反面、都などは走った方が早いとすぐに飛び降りてしまいそうだ。
「先生は……ちょっと体格的に厳しい、かなぁ」
 特別ガタイがいいわけでも、体重が著しく重いわけでもないのだが、やはりあのムチムチボディで男との二人乗りは厳しいのではないかと思える。
「うん、もっと排気量のある単車だったらいいんだろうけど……倉場さんのアレはどう見ても50に毛が生えたようなもんだろうしなぁ」
 別に佐由のそれを踏襲する必然性もないのだが、かといって単車素人の自分がいきなり大型バイクに乗るというのはハードルが高すぎる気もするのだ。二人での遠乗りはあこがれはするが、事故でも起こしては本末転倒だ。
「……まあ、すぐすぐ使わなきゃいけないものでもないし、大事にしまっておくか」
 葉っぱテストもしないといけないし――苦笑混じりに、月彦は札束を一つの封筒にしまい直し、机の引き出しへと入れる。
「っと、そろそろ待ち合わせの時間か」
 呟き、ハンガーにかけてあった上着を羽織り、月彦は急ぎ足に家を出た。
 



 待ち合わせ場所のファミレスへは、徒歩で十五分程だった。店内に入り席を見渡すと、目当ての人物はすぐに見つかった。
「これは月彦さん。お呼びだてしてしまって……」
「よう、白耀。気にするなって、お前からの相談事なら例え深夜だろうが俺はすぐに駆けつけるさ」
 冗談めかして言いながら、白耀とテーブルを挟む形でソファに腰を下ろす。注文を取りに来たウェイトレスにホットコーヒーを頼み、改めて白耀の方へと視線を移す。
「……今日は、本当に申し訳ありません。先日あのような事になってしまったばかりで心苦しいのですが……」
「気にするなって言ったろ? “あの件”もお前が用意してくれた菓子でなんとか丸く収まったしさ。…………それに、由梨ちゃん絡みの相談って言われたら尚のこと、乗らないわけにはいかないよ」
 恐縮の余り、普段の七割ほどしか肩幅の無い白耀の緊張を解きほぐそうとするかのように、月彦は優しい言葉をかけ続ける。その甲斐あってか、白耀も徐々に笑顔を零すようになった。
「そう言って頂けると…………それで、ご相談したい件なんですが」
「うん」
「月彦さんもご存じの通り、今由梨子さんにはアルバイトという形で、店の手伝いをしてもらってます。これがお客様の評判も大変良くて、誇張無しに三割ほどは客足が増えている程なんです」
「そういや、前にもそんな話聞いたっけか。由梨ちゃん、凄い人気だって」
 白耀の店の客層がどういったものか、月彦には想像するしかない。が、料亭というからにはあまり若い世代の客は居ないのではなかろうか。若くて三十台、平均をとれば40〜50台の客がやってくる中、自分たちの娘あるいは孫ほどの可憐な少女が健気に働いている――それだけでほっこりしてしまうのではないか。
「それで、中にはその……込み入った事を気になさる方も居まして……事情が事情ですから、訳あって僕の家に居候という形になっていると説明はしたのですが……」
「が? 何か問題でも起きたのか?」
「その方というのが、不動産を扱っておられる方でして。居候では何かと心苦しいこともあるだろうから、もし本人が望むのなら、学校近くのアパートの一室を格安で賃貸させても良いと仰るんです」
「んん? 由梨ちゃんが一人暮らししたいって言うなら、学校の近くのアパートを安く貸してくれるってことなのか?」
「はい。その方は昔からの常連の方で、信頼は出来る方です。……ただ、ここからが問題といいますか、月彦さんにご相談――というより、お願いをしたいことなのですが」
「ふむ……?」
「もしよろしければ、一人暮らしを希望するか否かを、月彦さんの方から由梨子さんに聞いては頂けないでしょうか」
「白耀が自分で聞くのはダメなのか?」
「…………これは僕の考えすぎかもしれませんが、仮に僕が由梨子さんにこのような話を持ちかけたとしますと、由梨子さんは僕が出て行って欲しがっていると思われるのではないかと……そう考えてしまって…………」
「あぁ、成る程。そういうことか」
 月彦は理解した。確かに白耀の言う通り、居候先の主人から「一人暮らしをする気はないか?」と問われれば、自分はひょっとして邪魔に思われているのではと危ぶみたくなるものだ。
(ましてや、由梨ちゃんだ)
 実の両親から、お前はいらないと殆ど捨てられるようにして白耀の屋敷にやってきた手前、白耀が何も言わなくても邪魔だと思われているのではと危惧し続けているに違いない。
(勿論白耀のことだから、邪魔だなんて一ミリも思ってない。けど、由梨ちゃんにそういう風に勘違いされたら意味がないってことか)
 成る程、成る程と月彦は大きく頷く。
「そういうことなら了解だ。なんとか誤解させないように、巧いこと由梨ちゃんの意思確認をしてみる。任せてくれ」
「……ありがとうございます。先日に引き続いて月彦さんを頼るような事になってしまって、本当に申し訳ありません」
 白耀はわざわざ起立し、深々と頭を下げてくる。
「いいっていいって、気にするなって。…………いつかそのうち、俺の方が白耀に謝らないといけない時が来るに決まってるんだからさ」
「とんでもありません。……月彦さんには何度も助けて頂いて返しきれないほどの恩を頂いてますから、お困りの時はいつでも僕を頼って下さい」
「ははは……そ、その時はよろしくな……」
 力ない笑みを浮かべて、月彦は冷めたコーヒーを一口に飲み干した。


 



 ファミレスの前で白耀と別れ、月彦はホクホク顔で帰路についた。
(一人暮らしかぁ……いいなぁ、由梨ちゃん)
 恐らく、由梨子は断らないだろう。いくら白耀がこれ以上ない程に優しい男であるとはいえ、他人であることは変わりが無い。それよりも、気ままな一人暮らしのほうがいいに決まっている。
(………………いろいろあったからなぁ。そろそろ由梨ちゃんだって、幸せになっていい筈だ)
 早速明日にでも由梨子を昼食に誘い、意思確認をしてみよう――そんなことを考えながら、うきうきと家路を急いでいた月彦の耳に。
「ヒーくん」
 悪魔の声が、寒気を伴って入り込んできた。
「……………………………………………………優巳姉か」
 そのまま無視をして走り去ってしまうべきか悩みに悩んで、結局月彦は足を止めた。ちらりと視線を向けると、路地の暗がりからひょっこりと上半身を1/3ほど覗かせている優巳が目に入る。
「ひさしぶりだね。さっき家に行ったんだけど留守でさ、きっと入れ違いだったんだね。どこ行ってたの?」
「別にどこでもいいだろ」
 路地から出、歩み寄ってくる優巳に月彦は突き飛ばすように言った。
「あはは……相変わらず嫌われてるみたいだね。……ブレないヒーくんも素敵だよ」
 グレーのキャスケットを目深に被り治しながらの、照れるような、ばつが悪そうな、そんな愛想笑い。見れば、この時期にしては暖かいとはいえ、優巳は前を開けたコートの下はセーターとハーフパンツという出で立ちだった。思わず足は寒くないのかと問いたくなるのを、ぐっと言葉を飲み込む。
「…………何の用だ」
「うん、用っていうかさ……ひさしぶりに、ちょっと話とかしたいなぁって思って。もしヒーくんさえ良かったら、どこか座って話せる所にでも行かない?」
「悪いな、たった今知り合いとファミレスに行ってきたところだ」
 また今度な――そう口にしそうになるのをグッと飲み込み、月彦は軽く手だけを振って優巳の前を通り過ぎる。
「あっ……」
 そのまま一歩、二歩、三歩歩いたところで、月彦は苛立ち紛れに振り返った。
「言っとくけど、本当にファミレスから帰ってきた所なんだからな」
 吐き捨てるような口調で言い捨てて、早足にその場から去る。
(畜生……何だってんだ。折角の良い気分が台無しだ)
 歩き去る際、唾でも吐き捨ててやればよかった――そんな後悔を胸に、月彦は家路を急ぐのだった。



 翌朝、月彦は早速由梨子と昼食を共にする算段をとった。優巳との遭遇については、犬にでも噛まれたと思って忘れることにした。
「……先輩とこうして二人きりでお弁当を食べるのも久しぶりですね」
 嫌味な響きなどは一切無く。いつものように家庭科調理室の調理台の影で身を寄せながら、由梨子は微笑み混じりに言う。珍しく体を傾け、足を崩し、体重をかけてきているのは由梨子なりの“甘え”なのかもしれない。
「最近は、真央も一緒の“三人で”が多かったしね。……でもたまには、由梨ちゃんと二人きりがいいかな、って」
「…………たまには、ですか」
 今度の呟きには、僅かだが責めるような響きが含まれていた。失言だったと、月彦は空笑いを浮かべる。
「……………………私も、もっとアピールしたほうがいいんでしょうか」
 ぽつりと、独り言のような呟きだが、上目遣いにしっかりと月彦の顔を見上げてくる。肩にかかる由梨子の体重が、徐々に増す。
「もっと先輩と一緒に居たいって、一人じゃ寂しいって、ちゃんと言ったほうが良いですか? そう言えば、先輩はもっと私の側に居てくれますか?」
「ゆ、由梨ちゃん……?」
 由梨子らしからぬ押し――大攻勢に、月彦はたじたじだった。鼻同士が触れあうほどに詰め寄られ、或いはこのまま押し倒されるのではないかと思った刹那、由梨子はふいと体を引いた。
「……………………冗談です。もともと真央さんと先輩がくっついてるところに割って入ったんですから」
 構ってもらえないのは覚悟の上だと暗に言われて、月彦は二の句が継げなくなる。
(……冗談とは言ってるけど、ホントは由梨ちゃん結構溜まってるんじゃ……)
 考えてみれば、最後に二人だけでデートをしたのはいつだっただろうか。由梨子が何も言わないのを良いことに、蔑ろにし続けたのではないか――ギリギリと心臓を搾られるような痛みに、思わず声を漏らしそうになる。
「……すみません、折角誘ってもらったのに、重石になるようなこと言っちゃって……こんなこと言いたかったわけじゃないんです。先輩と一緒に居られてすごく嬉しいはずなのに……」
「……はは、俺の方こそごめん。由梨ちゃんがいい子過ぎるから、俺の方こそ大分甘えてたみたいだ。……今まで本当にごめん」
 何となく、由梨子がそれを求めている気がして、月彦は左手を由梨子の背から左肩へと回し、力強く抱き寄せる。
「ン……せんぱい……」
 こてんと、由梨子の頭が肩に乗るのを感じる。そのまましばらくの間、互いに空白の時間を埋めるかのように、無言の時を過ごした。


「一人暮らし……ですか?」
 月彦が本題を切り出したのは、弁当も食べ終わりまったりイチャイチャしていた最中だった。
「うん。もし出来るとしたら、由梨ちゃんはしてみたい?」
「それは……出来るなら、してみたいですね」
 困ったような由梨子の笑顔には、明らかに白耀に対する配慮が滲んでいた。
「白耀さんはとても良くしてくれます。でも、良い人だから、逆に不安になるんです。きっと、私のことを邪魔だと感じてても、白耀さんは優しいから、そんなことは絶対に口にしないと思うんです」
 自覚のないままに、迷惑をかけているかもしれないのが怖いと、由梨子は小さく付け足した。
「そんなことはないって。実際、白耀のやつすげー感謝してたよ。お客さんもかなり増えたって」
「…………確かに、一部のお客様はとても良くしてくれますね。……何度か、おひねりを渡されそうになって困りました」
「実際由梨ちゃんの仕事着姿はめちゃくちゃ可愛いからしょうがないさ。応援したくなる気持ちは俺だって解るよ」
「でも、先輩はお店に来ちゃダメですよ? 先輩が来たら、絶対恥ずかしくってミスばかりしちゃいますから」
「そう言われると行きたくなっちゃうな。………………ごめん、話がそれちゃったけど、じゃあ由梨ちゃんは一人暮らしが出来るなら、やりたいってことで間違いないかな?」
「そうですね。いつまでもお世話になるのも悪いですから、今のままお仕事を続けさせてもらって、いくらか貯金が出来て機会があれば――」
「……もし、由梨ちゃんさえその気ならすぐにでも出来るとしたら、どうする?」
「えっ…………先輩……それってどういう――」
「実はさ、白耀の店の常連の人――由梨ちゃんのファンの一人が、由梨ちゃんさえその気なら、いいアパートを格安で貸してくれるそうなんだ」
 半信半疑――由梨子の目の光はそう言っていた。月彦はさらに言葉を続ける。
「勘違いしないで欲しいのは、白耀が由梨ちゃんを追い出したくてそういう話が出たってことじゃないんだ。あくまで由梨ちゃんの働きぶりに感じ入ったお客さんの一人が、こんなに真面目に働く子なら住まわせてもいいって、申し出てくれたってことなんだ。…………で、もうネタバラシしちゃうけど、白耀は自分が訊くと由梨ちゃんが勘違いするかもしれないからって、代わりに俺が訊いたってわけ」
「……えと、すみません……話が急すぎて、よく解らないんですけど……」
「難しく考える必要なんて無いんじゃ無いかな。由梨ちゃんさえその気なら、すぐにでも一人暮らしが始められる――それだけの話だよ」
「そんな…………そんなこと……」
 わなわなと、由梨子は全身を震わせていた。“そんなこと”――その言葉の続きが、月彦には解る気がした。
 きっと、由梨子はこう言おうとしたのだ――『そんな幸運な出来事が、私の身に起きる筈がありません』――と。

 後から真央から聞いた話によれば、その後の由梨子の様子は魂の半分をどこかに置き忘れたかのようだったらしい。望めば、一人暮らしが出来る――それはまさに青天の霹靂だったのかもしれない。
(……嬉しいのが半分、あとの半分は……多分“信じられない”なんだろうなぁ)
 信じたが最後、期待してしまったが最後、その後の落胆でとんでもないダメージを受けてしまう――由梨子のそんな気持ちは、月彦にも何となく察することが出来た。
(そうだ、折角バイト代があるんだし、何か引越祝いをあげるのもアリかもしれないな)
 アパートの場所次第では、原付をプレゼントするというのもアリかもしれない――そんなことを考えて、いくらなんでもそんなに高額な引越祝いは由梨子も受け取らないだろうと思い直す。
「うーん、難しいな……」
 あまり高価ではなく、新生活に必要で、尚且つ由梨子が持ってなさそうなモノは何だろうか――うーんうーんと唸りながら家路を辿っていた月彦の耳に。
「ヒーくん」
 またしても、不愉快な響きが侵入してきた。反射的に月彦は舌打ちをし、背後を振り返る。今し方自分が歩いてきた歩道の脇、路地裏へと通じる暗がりに、媚びるような微笑を浮かべた優巳が立っていた。
「………………何だよ」
「えっと……今、ちょっと良いかな?」
 声を聞くだけで、泥団子でもぶつけられているかのように不快になる。自分は心底この女を――正確には、その姉も――嫌いなのだなと、顔を合わせる度に月彦は再確認させられる。
「良くない。じゃあな」
「ま、待ってよ、ヒーくん!」
 背を向けて歩き出すと、背後から今にも泣きそうな声を浴びせられる。ちっ、と大きく舌打ちをして、月彦は渋々足を止める。
「こないだから一体何の用なんだよ」
 振り返らずに吐き捨てる。肩越しに感じる微かな息使いで、優巳が身を竦めているのを感じる。
「ご、ごめんね……ヒーくんが私のこと嫌ってるっていうのは解ってるんだけど……」
 だったら顔なんか見せるな――もはや、それを口にするのも億劫だった。
「…………え、と……ね……あの、これ……渡してって……頼まれてて……」
 がさごそと鞄かなにかを漁る音。月彦が渋々優巳の方へと向き直るのと、優巳がピンクと白のチェック柄の紙包みを取り出すのは同時だった。
「……何だよそれ」
「クッキーだよ、すっごく美味しいの。ヒーくんも絶対気に入ると思う」
 巾着状に赤いリボンで結ばれた紙包みを差し出しながら、優巳が小首を傾げて笑う。ふんと鼻息を吐きながら月彦はむしり取るように紙包みを受け取った。
「……こんなものを渡すためにわざわざ来たのか。ご苦労なこった」
 右手から伝わってくる重さ、包み紙越しの手応えからして、クッキーであるという優巳の言葉は嘘ではないようだった。
「ていうか、ぶっちゃけ優巳姉の味付けって俺には――……ん?」
 ざわりと。巨大な爬虫類の舌で産毛を舐められたような悪寒。
「待て、優巳姉。さっき“渡してって頼まれた”って言ったけど――」
 誰にだ――それは言葉にならなかった。掠れた吐息だけが口から漏れる。
「んとね…………愛奈、から……」
「うわあッ!!!!」
 瞬間、月彦は悲鳴を上げて紙包みを投げ捨てていた。右手の平に残る紙袋の感触すらも怖気が走るほどに不快だった。
 この女は。なんというものを触らせてくれたのか――月彦は殺意すら込めた目で、優巳を睨み付ける。
「だ、ダメだよ! ヒーくん、愛奈が折角丹精込めて作ってくれたクッキーなんだから……」
 地面に投げ捨てられたそれを、優巳が慌てて拾い、差し出してくる。ひいと女の様な悲鳴を上げて、月彦はさらに三歩後退る。
「や、やめろ……頼むからそれを近づけるな!」
 月彦の目にはもう、それは紙袋の形として見えていなかった。派手な色合いに醜悪な形状をした様々な小虫が集る汚物の塊――月彦にしてみれば、まだ人間の生首でも差し出されているほうがマシな気分だった。
「…………そんなに嫌がらないであげてよ。愛奈、本当に頑張って作ったんだよ?」
「冗談じゃねえ! そんなもの食べるくらいなら、まだその辺の道ばたに落ちてる犬の糞でも食ったほうがマシだ! どんぶり一杯だって食ってやる!」
「ヒーくん、お願い。ヒーくんがこれを受け取ってくれないと、私が愛奈に怒られるの」
「んなの俺の知ったことかよ! ……あぁ気持ち悪ぃ……」
 あの女が触れたであろう包装紙に、直に手を当ててしまった――それだけで、全身に鳥肌が立つ。早く帰ってシャワーを浴びなければ――否、皮膚が溶けるほど強力な洗剤で手を洗わなくては。
 優巳に背を向け、殆ど逃げるように月彦は走り出した。
「待って! ヒーくん! お願い……ヒーくんが受け取ってくれないと、私……愛奈に殺されちゃう!」
 悲痛な優巳の声は、しかし月彦の耳には届かなかった。



 不吉極まりない優巳との邂逅をよそに、由梨子の一人暮らしの準備は着々と整っていった。アパートの下見も終わり、契約も済み、週末には早速引っ越しを行うとの事だった。
「ちょっと急ぎすぎじゃないかな。もうちょっとじっくり選んだ方がいいと思うけど……」
 あまりに事が急に運びすぎている気がして、昼休みに二人きりの時間を作ってはそんな言葉を口にしてしまった。
 由梨子は静かに首を振る。
「いくつか空きのあるアパートの中から好きな部屋を選んで良いと言われたんですけど、通学や白耀さんのお店の手伝いをすることを考えると、候補になるのはせいぜい一つか二つなんです。だから、すぐに決めちゃいました」
「そっか、そういうことなら納得だよ。週末に引っ越しなら、俺も真央と一緒に手伝いに行くよ」
「あ、いえ……それは、大丈夫です」
 まさか断られるとは思わなくて、月彦は言葉を失った。慌てたように、由梨子が続ける。
「えと、その……大きな荷物なんかは、業者の方が運んでくれるそうですから……は、白耀さんが、その辺の手配も済ませちゃってて……だから……」
「そっか……じゃあ、手伝いはいらない、かな……」
「いえ、その……まったく要らないわけじゃなくて……」
「なくて……?」
「…………その………………先輩だけ、来てくれれば……ま、真央さんの手までは要らないと、思います……」
 あっ――と。月彦は瞬時に、由梨子が言わんとする所を理解した。
「ゆ……由梨ちゃんが、そう言うなら……じゃ、じゃあ……俺だけ手伝いに行こう、かな」
 週末、新居で二人きりになりたい――由梨子からの“お誘い”に、いつになく胸が高鳴る。同時に、月彦は思い出していた。
(あぁ、そうだ……“前”は……)
 由梨子が白耀の屋敷に移る前、由梨子の家に誘われたときは、こんな風にドキドキしていた――そのことを、月彦は懐かしさと共に思い出す。
(……そういや、白耀の屋敷に移ってからは殆ど誘われなかったな)
 やはり、由梨子も白耀への遠慮があったのかもしれない。居候の身で、男を部屋に連れ込むというのが、ただでさえ控えめな性格の由梨子には耐えがたかったのだろう。或いは、由梨子が一人暮らしの手続きを急いだ理由も……。
(そ……っか……考えて見たら、前みたいに親御さんや武士くんが居るわけじゃないんだから……“お泊まり”だって……)
 アレも出来るコレも出来ると、妄想が際限なく膨らんでいく。二人きり、誰の邪魔も入らない空間で、思う存分由梨子とイチャつける――もはや月彦の方が、週末が楽しみで楽しみで仕方なかった。



 


 結局、由梨子と週末の予定を話合うだけで昼休みが終わってしまった。気分的にはもう、由梨子を抱きたくて抱きたくて仕方が無いくらいに気持ちが高ぶっていたが、週末までの我慢だと月彦は必死に己を押さえつけた。
(……後は、妙な邪魔さえ入らなきゃ――)
 五限目、六限目の授業を受けながら、はたと。脳裏にフラッシュバックしたのは、もはや月彦の中では醜悪な怪物と同義な存在である、双子姉妹の顔だった。
(…………さすがにもう、ちょっかい出してきたりなんかしない、よな?)
 またぞろ優巳が何か仕掛けてきて、週末の予定がぶちこわしになったりしたら、自分が何をしでかしてしまうか、月彦は恐ろしくて想像することすら出来なかった。さすがに取り返しのつかないことはしないまでも、二度と自分たちに近づかないように骨の一本くらいはへし折ってしまうかもしれない。
(…………いや、待てよ。俺は自衛できるけど、また姉ちゃんを狙われたら――)
 ゾクリと、肝が冷える。そうだ、あの悪魔達は、骨折して満足に身動きが出来ない霧亜を、階段で突き落とすような連中なのだ――。
(や、べ……すぐにでも姉ちゃんの所に行って、気をつけるように言わないと……)
 勿論霧亜のことだ、そうそう同じ手は食わないだろう。しかし頭では解っていても、どうにもならないのが感情だ。一度脳裏を過ぎった悪い想像は、実際に霧亜の無事な姿――入院している時点で無事ではないのだが――を己の両目で確認するまでは消し去ることが出来ない。。
 六限目が終わり、HRを足踏みしながらやり過ごし、終わると同時に月彦は教室からダッシュで駆けだした。昇降口にたどり着くや大急ぎで靴を履き替え、そのまま校門から飛び出していく。息せき切って走り続け、病院のロビーにたどり着くや受付で見舞いの手続きをしようとするも呼吸が乱れすぎていて喋れず、深呼吸を十数回。手早く手続きを済ませ、もはや目を瞑ってもたどり着ける霧亜の病室へと、今度は早足に急ぐ。
「姉ちゃん! 無事か!」
 病室に入るなり、月彦はたちまち硬直した。刃物のような視線が首筋をかすめ、それは月彦の全身に冷や汗を噴き出させる。
 ベッドの上に膝上まで毛布をかけた霧亜は、静かに唇の前に人差し指を立てていた。
「あっ……みゃーこさん、来てたのか……」
 小声で呟き、霧亜の太ももを枕代わりにすやすやと寝息を立てる都に視線を落とす。双子の魔手は伸びてはいなかった――が、安堵する月彦はたちまちぐぎぎと歯ぎしりをする。
(姉ちゃんの太ももを枕代わりにするなんて……罰当たりな!)
 例えるなら、毎日丁寧に磨いている仏壇を椅子代わりに腰掛けられているのを目の当たりにした仏教徒のような気分だった。やっているのが都でなければ、たちまち飛びかかっているところだ。霧亜は大きくため息をつき、優しく都を揺さぶり起こす。
「都、そろそろ起きないと。バイトの時間でしょ?」
「ふぁ……?」
 都は寝ぼけまなこで体を起こし、その口元から涎が垂れかけたのを、霧亜がハンカチで拭う。
「あっ、つっきー! ふぁ……」
 まるでネコのように、都は大きく伸びをしながら大あくびをする。
「やっ、みゃーこさん。今日も姉ちゃんの見舞いに来てくれたんだね、ありがとう」
「うん! 都はね、毎日だって来るよ!」
「都、早く行かないと」
「えっ、もうそんな時間!? きらら、つっきー! またねー!」
 都の動きは速かった。あっという間に身支度を調えると、びゅんと風を巻いて病室から飛び出していく。
「やれやれ……相変わらずみゃーこさん元気いいな」
「やれやれじゃないでしょ。……都の前で一体何を喋る気だったの」
 うっ……。月彦は上体を引きながら口ごもる。確かに、病室内に都が居る可能性は想定していなかった。当然ながら、霧亜は月彦の一言だけで、愚かな弟がノックもせずに病室内に転がり込んできたのかを察したようだった。
「ご、ごめん……姉ちゃん……最近また優巳姉がちょっかいかけてきててさ……それでひょっとしたら、って思ったら居ても立ってもいられなくなっちまって……」
「優巳が……」
 再度、霧亜がため息をつく。うんざりするような、それでいて安堵するような。真意の測りにくい息使いだった。
「あれ、姉ちゃんそれ……」
 ふと、月彦は霧亜の膝の上――丁度さきほど都が被さっていた辺りに一冊の大学ノートが置かれているのに気がついた。どうやら都に膝を貸しながら、何かを書いていたらしい。見れば霧亜は右手にペンを握ったままだった。
「姉ちゃん……何書いてたんだ?」
「ただの日記」
 言って、霧亜はノートを閉じ、ペンを筆立てにしまう。
「それで、優巳に何をされたの」
「何をされた……って程のことはされてない。なんか、愛姉が作ったクッキーを渡しに来たって言ってた」
「まさか――」
「う、受け取るわけないだろ! いや、正確には手には持ったけど、速効捨てたよ!」
「………………それで?」
 まさかその報告の為だけにわざわざ来たのかという目。実姉からの、絶対零度の視線に晒されながら、月彦はふと自分と優巳のやりとりを思い出していた。
「いや、えーと……一応、それだけ、なんだけど……」
「けど?」
 うぐと、月彦は息を詰まらせる。今日の霧亜はいつになく風当たりがキツく感じる。それが弟が嫌い故なのか、愚かしい故なのか。はたまた愚かな弟のせいで黒須姉妹との確執が都にバレそうになったからなのか。或いは都との楽しいひとときを魯鈍な弟に邪魔されたからなのか。ひょっとしたらその全てかもしれない。
「ごめん……。とにかく、姉ちゃんが無事で良かった」
「………………。」
「で、でもさ……つきまとって来るのが優巳姉の方でまだ良かったよ。アレが愛姉で物陰から突然出て来られたりしたら、間違いなく心臓が止まってた」
 ただの軽口――当然霧亜は無視するものだと、月彦は思っていた。
「………………愛奈は、どうして来ないのかしら」
 故に、霧亜がそう呟いた時、まるで雷にでも打たれたようだった。
「どうして、って……よ、養女に出された家が厳しいところで、殆ど監禁されてるみたいな感じなんだろ?」
「………………。」
 霧亜からの返事は沈黙だった。ただ、得心がいっていないことだけは、その険しい顔からありありと解る。
「……な、なぁ……姉ちゃん。……なんつーか、その……怒らないで聞いて欲しいんだけど」
 霧亜は相変わらず険しい顔のまま、視線だけを月彦の方へと向けてくる。話してみろ、という合図だと、月彦は解釈した。
「…………ひょっとしたら、優巳姉は……愛姉が怖くて調子合わせてただけで、本当はそんなに悪い奴じゃないんじゃないかな……って、最近ちらっとだけ思ったりするんだけどさ……」
「月彦」
 ちょいちょいと、霧亜に指で誘われ、月彦は身を乗り出す。その左頬を、痛烈なビンタが襲った。
「ぶっ」
「目は覚めたかしら。…………あの女が、愛奈が怖くて調子を合わせてただけの被害者? 寝ぼけたこと言ってるんじゃないわよ」
「ッてて……で、でも姉ちゃん……最近の優巳姉を見てると、なんか本気で愛姉を怖がってるみたいなんだよ…………ひょっとしたら、俺が苛められてたみたいに、今度は優巳姉が……」
「仮にあの女が愛奈にどういう目に遭わされてたとしても、それは自業自得。あんたが気にするような事じゃないわ」
「でも、姉ちゃん!」
「構うなって、何度言わせる気? あんたがそうやって気にすればする程、愛奈の思う壺だってどうして解らないの」
「…………っ……」
「あんたはまだ幼かったから、愛奈の怖さばかりが記憶に残ってるのかもしれない。だけど愛奈を煽ってそう仕向けたのは優巳。被害者なんかじゃない、歴とした共犯よ」
「……………………わかったよ、姉ちゃん。優巳姉の事はもう、無視することにする」
 確かに、霧亜の言う通りだった。記憶を振り返っても、優巳はいつも愛奈の傍らに控え、愛奈を煽るようなことばかり言っていた。“アレ”で実は愛奈が怖くて仕方なく意見を合わせていたというのは確かに筋が通らない。
「そうしなさい。…………今日は疲れたから、もう休むわ」
 ため息混じりに言って、霧亜は上半身をベッドに横たえる。
「……おやすみ、姉ちゃん。飯はちゃんと食わないとダメだぜ」
 月彦もまた来客用の椅子から腰を上げ、病室を後にする。後ろ手にドアを閉めた後で、左手を先ほど霧亜に張られた頬へと宛がった。
 痛みが全く後を引かない――なんと軽い一撃だろうか。これが霧亜の張り手だと思うだけで、痛みによるものとはまったく別種の涙が出そうになる。
(姉ちゃん……本当に大丈夫なのか……?)
 戯れに母を背負いてそのあまりに軽きに泣きて三歩歩まず――気分的には、まさに短歌の通りだった。骨の芯まで響くようだったビンタが、見る影もないではないか。
(……そうだよ、全部……あいつらが悪いんだ)
 一度は決まった退院が伸びたのも、優巳が愛奈の手先となって霧亜を突き落としたからだ。何を今更同情する余地があるというのだ。
(…………もう二度と、ぜってー相手してやるもんか)
 月彦は堅く心に誓い、病院を後にした。



 優巳の件は意識的に頭の中から削除し、その分週末へと意識を集中させることにした。幸い優巳もあれからは顔を見せなかった為、月彦は我が身の自由の利く限りで由梨子と週末の予定について話合うことが出来た。
「じゃあ、荷物とかは業者が運んでくれるんだ?」
「はい。荷造りのほうは毎日少しずつやって、当日は殆ど手ぶらで新しい部屋に行けます。あとは……」
「買い物、だね。そっちは俺が付き合うよ」
「すみません、先輩。……すごく、助かります」
 放課後。今日はバイトがあるからと、校門で真央と別れた由梨子と駅前で合流しての逢瀬。店の前を通っただけでは絶対に見つからない、ファミレスの奥の席で隠れるように、由梨子と“週末の予定”を話合っていた。
「……本当は、当日は白耀さんも手伝いに来るって言ってたんですけど……」
「……でも、断った?」
 由梨子は小さく頷く。申し訳なさそうに、肩を縮めながら。
「白耀さんには悪いと思ったんですけど……でも、折角先輩と二人きりになれるチャンスですから」
「……俺も今度の週末は凄く楽しみにしてるよ。由梨ちゃんの期待は絶対に裏切らないから安心して」
「えとっ……何に期待すればいいのか、よく、わからないんですけど…………た、楽しみに、して、ます……」
 由梨子はみるみるうちに顔を赤くし、身をよじる。おやおやと、月彦は思わざるを得ない。
「由梨ちゃん、ちゃんと週末まで我慢できそう?」
「が、我慢って……先輩!」
 思わず声を荒げてしまい、由梨子はハッと店内を見渡す。店内に客は少なくはないが、月彦と由梨子に視線を向ける者は居なかった。
「我慢なんてする必要もありません!……先輩や真央さんとは違うんですから……」
 さて、それはどうだろうか――少なくとも月彦が覚えている限りでは、普段こそこうして礼儀正しい後輩の皮を被ってはいるが、文字通り一皮剥いた由梨子はなかなかの――。
(……まあ、そのギャップが由梨ちゃんの魅力の一つなわけだが)
 この場はあえて由梨子の主張を受け入れることにしよう。そしてそれが事実かどうかの検証は週末、二人きりになってからすればいい。
(あぁ、早く週末にならないかなぁ)
 そして、絶対の絶対の絶対に邪魔が入りませんように――月彦は祈らずにはいられなかった。



 最後の懸念であった天気も快晴で、月彦はこれ以上ない程に清々しい気分で出立した。真央には昨夜のうちに「友達の引っ越しの手伝いをしてくる」と説明してあるし、葛葉にはそれに加えて「ひょっとしたら今日はそのまま泊まるかもしれない」と伝えてあるから、後々家に連絡を入れなければならないということもない。
(完璧だ……あとは駅前で由梨ちゃんと合流して――)
 そのまま、隣町の百貨店まで買い出しに行き、軽くお昼を済ませた後、由梨子の新居へと向かう。そしてその後は……。
 ぐふぐふと顔がニヤけそうになるのを必死に噛みつぶしながら、月彦は早足に駅前へと急ぐ。待ち合わせは九時だが、気が逸る余り八時半には現地に到着してしまっていた。
「あっ……先輩!」
「おっ、由梨ちゃん! おはよう」
「おはようございます。…………絶対私の方が早いと思ってたんですけど……」
 白のトレンチコートに身を包んだ由梨子が息せき切って駆けてくる。コートから伸びた足は100%防寒の為であろう黒のストッキングに包まれており、月彦は思わず視線を走らせながらごくりと生唾を飲んでしまう。
「由梨ちゃんに負けないくらい、俺も今日が楽しみだったからさ。早すぎるって自分でも解ってたけど、体がうずうずしてどうにもならなかった」
「…………私もです。昨日の夜なんてドキドキしっぱなしで全然寝付けなくて困っちゃいました」
 マフラーに顔を半分埋めながら、由梨子が照れ笑いを浮かべる。そんな由梨子の手を、月彦はさりげなく握る。
「大丈夫、力仕事とかは全部俺がやるからさ。由梨ちゃんは買い物が終わったらゆっくり休んでていいよ」
「いえ、あの……二人でやったほうが……片付けも、早く終わると思いますから……」
 手袋越しに、由梨子が手を握り返してくる。
「じゃあ、少し早いけど……電車に乗っちゃおうか。急行じゃなくて鈍行で行けば、案外ぴったりの時間につくかもしれないし」
「はい……先輩に、任せます」
 ただ、こうして手を繋いで身を寄せているだけで幸せ――由梨子のそんな様子に激しく同意しながら、月彦は最高の一日の始まりを噛み締めていた。



 幸せとは、こういうものなのかもしれない。由梨子と二人でデパートの売り場から売り場へと渡り歩きながら、月彦はこれ以上無いほどに満たされていた。
(……まるで、由梨ちゃんと同棲でも始めるみたいだ)
 新婚気分とでも言うべきか。たとえば、洗面台に置くマグカップ一つ選ぶにしても、ああでもないこうでもない、あれが可愛いそれの色違いもいいと由梨子と話合うのが楽しくて堪らないのだ。
「先輩、先輩も自分用のをちゃんと選んで下さいね?」
 そしてマグカップを選ぶときも、タオルを選ぶ時も、由梨子は必ずそう付け加えた。月彦専用のものを、きちんと部屋に常備しておきたい――暗にそう示す由梨子が愛しくて、月彦は人目を憚らず思わず抱きしめてしまった。
「せ、せんぱい!?」
「ご、ごめん……なんだか、感激しちゃって……」
 勿論すぐに解放したが、マフラーから上半分だけ覗いている由梨子の顔はゆでだこのように赤くなってしまっていた。そのままフラフラと足下もおぼつかなくなってしまった為、月彦は売り場の端にあるベンチコーナーへと移動し、小休憩をとることにした。
「…………先輩、ああいうことは……こういう場所では慎んで下さい」
 ベンチに腰を下ろしたまま、そして月彦が買ってきた紙コップのココアを両手で持ったまま、由梨子はじとりと上目遣いに責めてくる。
「………………先輩にあんなことされたら、足に力入らなくなっちゃうんですから」
「ご……ごめん……」
 部屋まで我慢する――そう、心の中で付け加える。謝りながらも、目はもじもじと焦れったげに動く由梨子の黒い太ももに釘付けだった。

 小休憩の後も売り場を転々としながら小物を買い続け、最終的には寝具コーナーにて月彦は専用の枕まで買ってしまった。
(さすがに枕はやりすぎじゃないだろうか……)
 と思わなくもなかったが、由梨子との久しぶりのデートでテンションが上がっていた月彦は結局勢いのままに買ってしまった。先日のバイトで懐が非常に温かかった――というのも月彦の背中を後押しした。
「あっ、そうだ……カーテンも買わないといけなかったんです」
 二人とも両手に荷物を持ち、そろそろ買い物も終わりにしようかという段になって、由梨子が思い出したように言った。
「カーテンか……よし、じゃあそれは俺が買って、由梨ちゃんにプレゼントするよ」
「えっ……でも、先輩! 今までだって、先輩の分は……」
「俺が使うものだから、俺が買うのは当然のことだよ。そしてカーテンは、由梨ちゃんの引越祝いってことで。大丈夫、こないだ俺もちょっとしたアルバイトして懐は温かいんだ」
 でも、とあくまで渋る由梨子だが、月彦も譲らない。結局由梨子が折れる形でカーテン売り場へと移動した。
「で、由梨ちゃんはどれが欲しい? 値段は気にせず、好きなのを選んでいいよ」
「そう言われても……あの、先輩はどれがいいと思いますか?」
 こういうときは、遠慮がちな由梨子の奥ゆかしい性格が歯がゆいと感じる。月彦としてはもちろん由梨子が一番欲しいものを買ってあげたいのに、由梨子はそれを教えてはくれないからだ。
「カーテンに関しては、俺はノーコメントを貫くことにする。由梨ちゃんが選んで」
「そんな………………じゃあ、えと……これで……」
 と、由梨子が選んだのは、白地にリーフ柄が申し訳程度に散っただけの、最も安いカーテンだったりする。
「……由梨ちゃん、頼むから由梨ちゃんが一番いいと思うものを選んで欲しい。値段とかはホント気にしなくていいから」
「……わかり、ました…………先輩がそう言うなら、一番いいと思うのを選びますね」
 漸く由梨子も腹をくくったらしい。キッと、気合いを入れた目でカーテン生地を一つ一つ具にチェックしていく。
「…………先輩、候補が三つ出来ちゃったんですけど……一人じゃ決められないから、ここからは先輩が決めてくれませんか?」
 そして小一時間ほどかけて選んだ結果、由梨子は泣くように言った。
「……仕方ないな。どれとどれとどれの中から選べばいいのかな?」
「えっと……まずあれです」
 由梨子が指し示したのは、黄色い生地に月や星などの模様がちりばめられたカーテンだった。
「それから、あれもいいかな、って」
 次に示されたのは、白地に幾何学模様のような柄が散ったもの。
「三つ目がこれです」
 最後に由梨子が示したのは、グリーンの生地に北欧柄のカーテンだった。
「うーん、この三つか……俺的には一つ目か三つ目だけど、女の子の部屋のカーテンとしては、三つ目の方かなぁ」
 よく見ると、北欧柄カーテンは柄になっているものが花の形をしているのだ。そして恐らく由梨子は色の中でもグリーンが好きな筈だと――何故なら、由梨子を脱がした時にグリーン柄の下着を身につけていることが一番多いから――月彦は思っていた。
「解りました。じゃあ、これにしちゃいます」
「あ、そうだ。由梨ちゃん、窓の寸法とかは解る?」
「はい、ちゃんと携帯にメモしてます」
 適合する寸法のものを買い物籠へと入れ、会計を済ませる。ただでさえ二人とも両手に荷物をかかえた状態から、さらに月彦はカーテン分の買い物袋をかかえる羽目になる。
「と、とりあえず……今日のところはこのくらいにしとこうか。足りないものがあったら、また俺が付き合うからさ」
「ありがとうございます、先輩。…………ちょっと、調子にのって買いすぎちゃったかもしれません」
 浮かれていたのは、月彦だけでは無かったということだろうか。由梨子もまた、両手に提げた買い物袋を、些かばつがわるそうに見る。
「まあ、仕方ないよ。丁度お昼時だし、軽く何か食べて、それから由梨ちゃんの部屋に行こうか」


 フードコーナーで軽く腹を満たしてから、デパートを出、駅まで戻る。
「……あの、私……タクシー代くらいなら、出せます、けど……」
 デパートを出て駅へと向かう途中で、由梨子はぽつりと言った。
「あっ、ごめん……由梨ちゃん、荷物重い?」
「いえ、その……そうじゃ、なくて……」
 月彦が由梨子の買い物袋を取ろうとすると、由梨子は慌てて後退りする。
「……電車で行くよりも、そのほうが早く着くと思うんです」
「そりゃあ早いかもしれないけど……でもここからだと結構かかるんじゃないかな?」
 電車で移動すること三駅。由梨子の新居の詳しい場所はまだ解らないが、元の家からそう離れた場所ではないという話は聞いている。となれば、少なくとも駅三つ分の料金はかかるのではないか。
「…………すみません、なんだか、待ちきれなくて…………電車で、大丈夫です」
「ま……待ちきれないのは俺も同じだよ。大丈夫、電車でいっても、多分そこまで時間に差は出ないと思うから」
 そうですね――同意の言葉を呟く由梨子はどこか虚ろな目をしていた。まるで魂だけが、既に新居に到着済みの時空へと飛翔してしまったかのようだった。
 ……後にして思えば、このとき由梨子の提案にのり、タクシーを使っていれば。あのような面倒には巻き込まれなかったのかもしれない。少なくとも由梨子と過ごす、最高の週末を迎えるにあたって、月彦が最も危惧した“邪魔”は入らなかっただろう。
「……あれ、ヒーくん?」
 最寄り駅で電車を降り、駅前のロータリーからバスに乗ろうとした矢先のことだった。迂闊にも、月彦は傍らにいる由梨子のことを忘れて舌打ちをしてしまった。
「良かった……今からヒーくんちに行くところだったの。……ねえ、ちょっとだけ話を――」
 不幸中の幸いは、丁度目の前の停留所にバスが停車したことだった。
「丁度良かった。由梨ちゃん、早く乗って」
「はい……あの、先輩?」
「大丈夫。多分誰かと間違えてるんだよ」
 由梨子を急かし、殆ど尻を押すようにしてバスの中へと押し込む。それでいて、優巳が追って乗ってこない様、月彦はギリギリまで昇降口に留まり、蓋をする。
「待って、ヒーくん! お願い、ちょっとだけでいいから話を聞いて!」
 悲痛ともとれる優巳の叫び声の後半は、バスの発車の際の騒音にかき消された。月彦は何事もなかったように整理券をとり、由梨子の隣へと座る。
「先輩、さっきの人は……」
「急に声をかけられて俺もびっくりしたよ。あんまり誰かと間違われたことって無いんだけどな」
 誤魔化すように笑いながら、ちらりと後方に視線を泳がせると、まるで置き去りにされた幼子のように必死にバスを追いかけてくる優巳の姿が見えた。ちっ、と。月彦は小さく口の端を鳴らす。
「由梨ちゃん、降りるのはいくつ先だっけ」
「ええと……岡ノ下って所ですから、次の次です」
「次の次、か」
 微妙なところだと、月彦は密かに歯噛む。優巳がさっさと諦めてくれればいいのだが。(…………ぜってー邪魔なんかさせるか)
 最悪、由梨子を先に部屋に行かせて自分一人で対処せねばなるまい。いざとなったら、暴力の行使も厭わない――由梨子の視界の外で、月彦は強く、拳を握った。



 バスを降り、歩くこと五分弱。
「着きました。先輩」
 興奮を抑えきれない様子で、先導していた由梨子が月彦の方を振り返った。築十年も経ってなさそうな真新しいアパートだった。白い外壁には汚れらしい汚れも無く、三階建てだが角部屋だけがベランダを広く取るようなデザインをされていて、角度によってはその場所だけ段々畑のように見えなくもない。
「私の部屋は205号室です。丁度真ん中辺りになります」
「へぇ……綺麗な所だね。バス停からも近いし、自転車があれば学校も白耀の屋敷もどっちも電車を使わずに行けるね」
「そうなんです。……実は、自転車も新しいのがあって…………白耀さんが引越祝いにって……」
 由梨子はアパートの脇にある屋根付きの駐輪場へと視線を泳がせる。恐らく、ぴかぴかと一際輝きを放っている赤い自転車がそれなのだろう。
「…………しまった、カーテンじゃなくてそっちにすればよかったのか! ……いや、既に白耀に先を越された時点で俺にはカーテンの選択肢しか無かったのか」
「先輩、そんなところで張り合わないでください。白耀さんの自転車だって、何度も何度も断って、殆ど押しつけられるように贈られたんですから」
「…………白耀も変なところで押しが強いな」
 或いは“それ”を菖蒲相手の時に発揮できないものかとやきもきするが、同じ女性相手でも心底惚れた相手では勝手が違うということなのかもしれない。
(まぁ、白耀じゃなくても……何かしてあげずにはいられなくなるのが、由梨ちゃんの持ち味というか魅力というか……)
 恐らく白耀から聞いた例の親切な大家さんとやらもそのクチではないだろうか。月彦もまたその一人であるから、気持ちは痛いほどに理解できるのだった。
「……先輩、そろそろ……部屋に行きますか?」
「そ――う、だね。じゃあ、折角だから……」
 一体何が折角なのか――最初から行く気どころか泊まる気満々のくせにと。月彦は苦笑しつつ由梨子の後に続く。
「そうだ、先輩。一つ約束をしてください」
 鍵を開けながら、由梨子が神妙な顔で言った。
「約束?」
「はい。……部屋に上がるときには、“ただいま”って言ってください」
「えぇ!? それは、どういう――」
「絶対守ってください。間違っても“お邪魔します”なんて言っちゃダメですよ?」
 ドアを開け、由梨子は一足先に靴を脱ぎ、玄関マットの向こう側へと陣取る。
「ええと……じゃあ――……た、ただいま」
「おかえりなさい、先輩」
 自分で強要しておいて恥ずかしかったのか、由梨子はたちまち顔を赤面させた。
「……どうぞ、あがって下さい」
 そして月彦から顔を隠すように背を向けながら、辿々しく言う。月彦も照れ混じりに頬をかきながら、靴を脱いだ。

 由梨子の部屋の間取りはいわゆる1Kと呼ばれるものだった。玄関から入ってすぐに台所があるが、ダイニングキッチンと呼べるほどのスペースは無く、調理は出来るが食卓を置くことはできない。入って左手がシンク、ガス台となっていて、右手が脱衣所へと通じる折り戸になっていて、折り戸を開けた先の左側がトイレ、右側が浴室になっている。
「へぇ……結構広いんだ」
 奥の居間――洋室は、フローリングの十畳。グリーンの絨毯を敷き、その上にベッドや勉強机、そして部屋の隅にはテレビ台とテレビ。勉強机の隣に本棚もあり、部屋の中央にはガラス天板のテーブル。また押し入れの代わりにクローゼットがあり、衣類などはそちらに収納されているようだった。
「他にもいくつか候補の部屋があったんですけど、ここが一番広かったんです。場所も丁度良かったから、悩まずに済みました」
「確かに……俺が住みたいくらいだよ。俺の部屋より全然広いし……このベッド……ちょっと大きすぎない?」
 どう見てもシングルではないサイズのベッドは、由梨子の体格を考えれば大きすぎるように思える。が、早くも枕元に並べられた二つの枕が、月彦の疑問を氷解させた。
「………………確かに、一人で寝るには、ちょっと広すぎるかもしれません」
 由梨子はそっぽを向いたまま、まるで人ごとのように呟いた。暗に、一緒に寝てくれる人がいれば、広すぎることはないと言いたげなその口調に、今度は月彦の方が赤面を禁じ得なかった。
「えーと……と、とにかく片付けを済ませちゃおうか」
「そ、そうですね! カーテンもつけないと、夜になったら外から丸見えになっちゃいますし……」
「じゃあ、まずはカーテンかな」
 苦笑混じりに、月彦は先ほど買ったばかりのカーテンを紙袋から取り出し、値札を外してベランダへと通じるガラス戸へと装着する。同様に、セットで買ったレースのカーテンもセットしていく。
「よし、ばっちりだ」
「お店の中で見たのとは、随分違う色合いに見えますね。カーテンをつけたのに、逆に部屋の中が明るくなったような気がします」
 由梨子はカーテンレールの滑り具合を確かめるように、開け閉めを繰り返す。
「先輩、ありがとうございます。あの売り場にあったカーテンの中で、一番この部屋に似合うカーテンだと思います」
「気に入ってもらえたなら俺も嬉しいよ。……じゃあ、このまま一気に片付けを済ませちゃおうか」
「はい!」


 月彦にとって、まさしく心が洗われるような数時間だった。雑貨選びの時にも感じた時だが、月彦自身幾度となくこれから由梨子との新生活が始まるかのような錯覚に陥り、その都度夢から覚めたかのようにハッとする。由梨子も同じような錯覚に陥っているのか、時折不自然な形で会話が途切れ、照れ混じりに互いに目を逸らす――そんな事が何度もあった。
「……あの、先輩。夕ご飯は、うちで食べていきます……よね?」
 辿々しくも由梨子がそんな言葉を切り出してきたのは、荷物の片付けもほぼ終わってそろそろ小腹が空き始めた頃だった。
「えっと……一応、そのつもりだけど……」
 本当は一応どころではなく、久しぶりに由梨子の暖かい手料理が食べられると期待を寄せていたのだが、さすがに当然そのつもりだとは言い切れなかった。
「私も、そのつもりで……前もって食材を用意しておいたんですけど……すみません。どうしても足りないものがあって…………その、出来れば先輩に買ってきて欲しいんですけど」
 おやと、由梨子の言葉に月彦は首を傾げそうになる。控えめな性格の由梨子ならば、自分が買いに行くから留守番をしてて欲しい――そう言いそうなものだ。もしくは、今日のこの新婚雰囲気ならば、一緒に買いに行こうと言いそうなものではないか。
 その不自然さ故に、月彦は察した。
「解った。何を買って来ればいい?」
「本当にすみません。今すぐメモに書きますから」
 由梨子は心底すまなそうに言い、手早くメモ用紙に必要なものを書き込み、いつも持ち歩いているのとは違う財布を手渡してくる。お金はここから出して欲しいという事なのだろう。
「アパートの前に出たら右に曲がって、そのまままっすぐ進んで最初の信号を左に曲がれば、すぐスーパーですから」
「アパートの前の道を右にいって、最初の信号を左だね。……急いだほうがいい?」
「えっ…………っと………………急がなくても、大丈夫、です、はい……」
 由梨子はうつむき、意味深に黙り込んでしまう。心なしか顔も赤い。
「わかった。じゃあ、行ってくる」
 月彦はあえてそこには触れず、にこやかな笑顔だけを残して玄関へと向かう。由梨子がどういうつもりかは解らないが、恐らく何かの準備をしたいのだろう。靴を履き、ドアを開けると既に夜の帳は降り、ひゅうと刃物のように冷たい風が首筋をかすめた。
「先輩、これを」
 ぶるりと体を震わせた瞬間、そんな声が聞こえた。振り返るのと、首にマフラーが巻かれるのは同時だった。
「外、寒いみたいですから。…………すみません」
 こんな寒い中、おつかいを頼んでしまって――由梨子の目はそう言っていた。もちろん月彦には、由梨子を恨む気持ちなど微塵も無かった。
「大丈夫、ちゃんと上着も着てるし、これくらいどうってことないよ」
 由梨子が自分が寒い思いをしたくないから頼んだわけではないことなど、百も承知だ。大丈夫、俺はちゃんと解ってるから――月彦もまた、あえて言葉にはせず、視線に言霊を込めて由梨子に微笑みかけ、部屋を後にする。
 階段を下り、アパートの前の道を由梨子に指示された通りに歩く。そして最初の信号にさしかかった辺りで。
「あっ」
 という声が重なった。同時に、月彦は目眩を覚えた。
「ヒーくん! 良かった……ずっと捜してたんだよぉ……」
 泣きそうな声を出しながら、優巳が駆け寄ってくる。一方月彦は苦虫でも噛みつぶすように歯を食いしばり、そして徐に夜空を仰ぎ、大きくため息をついた。
「…………まさか、昼間からずっと捜してたのか?」
「そうだよ! ヒーくんに置いてけぼりにされた後、必死にバスを追いかけて、途中からタクシーを捕まえてやっと追いついたんだけど、その時にはもうヒーくんは乗ってなかったから、どこか手前で降りたんだと思って……ずっと捜してたんだから!」
「そりゃまたご苦労なこって」
「ヒーくんは携帯持ってないから連絡しようもないし、本当に大変だったんだよ? 一体何してたの? 昼間一緒にいた女の子は誰なの?」
「悪いけど、優巳姉にいちいち説明する気はない。急いでるからまたな」
 おざなりに手を振って、月彦は優巳の脇を抜けて歩き出す。
「ま、待ってよ!」
 慌てて、その横に優巳が並んでくる。月彦はまた大きくため息をついた。
「…………何だよ。まだ何か用があんのか?」
「あるから、ずっと捜してたんだよ? ………………ねえ、ヒーくん……愛奈がね、早く渡して早く渡してって、何度も電話で急かしてくるの…………だからね――」
「要らないって言ったよな、俺」
「で、でもね。愛奈、本当に一生懸命作ったんだよ? だから、せめて一口くらい――」
「いい、要らない。クッキーどころか、愛姉が触った包み紙すら触りたくない」
 話は以上だ――そう言外に含めて、月彦は歩くスピードを露骨に上げる。
「ヒーくん! 待って!」
 殆ど小走りに、優巳が隣に並び、食い下がってくる。
「…………優巳姉、いい加減にしてくれ」
 心底うんざりした声で、月彦はため息混じりに言い、歩速を緩める。
「考えてもみてくれ。俺が愛姉が作ったクッキーなんて受け取るわけないだろ? お互いに時間の無駄だって解らないのか?」
「ご、ごめんね……ヒーくんが迷惑してるっていうのは、よくわかってるんだけど――」
「本当に解ってるなら顔なんか見せるなよな!」
 必要以上に声を荒げ、怒鳴り散らすと優巳は雷にでも怯えるようにひぃと悲鳴を上げた。
「だって……愛奈が……クッキー渡してこないと酷いコトするって……」
「知ったことか」
 双子姉妹に対する嫌悪もさることながら、優巳の物わかりの悪さにもいい加減嫌気が差す。つまるところ、優巳は自分が酷い目に遭いたくないが為に、紺崎月彦を生け贄にしようとしているのだ。そう考えると、いっそう腹も煮えるというものだった。
「わかった、じゃあこうしよう。クッキーは確かに俺が受け取った、だけど食べずに捨てた。それでいい。そんな事は絶対にないだろうけど、もし万が一愛姉の使いの人とかが裏を取りに来ても、俺はそう答える。これなら優巳姉も俺につきまとう理由は無くなるだろ」
「だ、ダメだよ……そんなの、愛奈に絶対バレちゃう……愛奈には、嘘なんてつけないんだよ!」
「そんなの優巳姉の覚悟次第だろ。本気で嘘をつけば、案外何とかなるんじゃないのか」
「ダメ……絶対にダメ。嘘ついて、もしバレちゃったら、もっと酷いコトされる……だから、無理、絶対無理だよ」
 優巳のそれは、さながら虐待に怯える子供のようだった。はてなと、月彦は首を捻る。優巳は以前からこれほどに愛奈を恐れていただろうか――と。
(…………遊園地行った時はともかく、その前の時なんて、そんな素振りは全然無かったような……)
 或いは、二度の“おしおき”が効いて大人しい性格に変化しつつあるのだろうか。しかし、人がそう簡単に変わるものだろうか。
(……どうでもいいや。優巳姉のことなんて考えるだけ時間の無駄だ)
 月彦はその思いをそのまま口に出すことにした。
「はっきり言って、俺は優巳姉が愛姉にどんな目に遭わされようと興味ないんだけどな。……むしろいい気味だって思うくらいだ」
「ヒーくん……そんな……」
 優巳の目から、色が失われる。ハイライトを失い、どろりとした絶望色の目――痛む心を、ざまあみろという思いで無理矢理塗り込める。
「自業自得だろ。自分たちが俺にしたことをもういっぺん思い出してみろよ」
「で、でも……!」
「でも?」
「あぅ…………」
 月彦の怒気を孕んだ声に、優巳は口を噤む。代わりに、ダッフルコートのポケットから、見覚えのある――そして記憶にあるものよりも皺の寄った――紙包みを取り出した。
「お、お願い……ヒーくん…………怒った愛奈は、本当に怖いの…………」
 半泣きになりながら、優巳が差し出してくる。ちっ、と。月彦は露骨に舌打ちをした。
(……最後の手段は泣き落としかよ)
 ぐらりと、胸の内が揺れる。目尻に溜まった、今にもこぼれ落ちそうな涙から目を離すことが出来ない。
「………………わかったよ、優巳姉」
 月彦は右手を差し出し、紙包みを受け取る。あの女――黒須愛奈が触ったであろう紙包みに触れるだけで、全身に鳥肌が立つようだった。
「受け取ってくれるの!? ヒーくんありがとう!」
「ああ。“言葉”じゃあどれだけ重ねても、優巳姉には通じないみたいだからな、しょうが無い」
 ぞわぞわと全身を走る嫌悪感に耐えながら、月彦は巾着状に紙包みをまとめているリボンを解く。そしてそのまま紙包みを持っている右手を、上下逆さまにする。
「ヒーくん!? ダメッ……やめてェエ!!」
 悲鳴を上げる優巳の目の前で、クッキーは無残にアスファルトへと激突し、砕け散る。月彦はさらにトドメとばかりに、落ちたクッキーを踏みつける。
「俺だって、ここまではしたくなかった。だけど何度言っても優巳姉が解ってくれないから仕方ないよな」
 踏みつけた足をさらに捻り、そのまま一歩、二歩と後退る。愛奈が作ったものだからだろうか。こうやって踏みつけにした際の感触すらも不快極まりなかった。出来るなら、靴ごとこの場に捨てたいとすら、月彦は思う。
「ダメッ……ダメッ……そんなっ……ダメだよ…………愛奈が……愛奈が作ったクッキーなのに……そんなっ……」
 優巳はその場に膝から崩れ落ち、まるで自分の魂の欠片でも捜しているかのように、月彦が踏みつけたクッキーの破片をかき集める。街灯の明かりの元で、這いつくばるようにして砕けたクッキーを集め続ける優巳の姿は滑稽さを通り越し、哀れにすら見えた。
「…………じゃあな、優巳姉。これに懲りたら、もう二度と俺の前に顔を見せるなよ」
 紙袋を投げ捨て、月彦はその場を後にした。



 これほど気分の上下が激しい一日を過ごしたことは無かったかもしれない――暖房の効いたスーパーの中で、由梨子に頼まれた食材――主に調味料だった――を買い物籠へと放り込みながら、月彦は思った。
(まったく……優巳姉も優巳姉でしつこすぎだろ)
 とっくに諦めたものだと思っていた。まさか昼過ぎからずっと日没まで探し続けている等と誰が思うだろうか。
(……それだけ、愛姉のことが怖いってことか)
 理解は出来る。あの女の怒りの矛先が自分の方へ向く――それは想像したくもない恐怖だ。その為ならば、寒空の下で数時間走り回る事など何でも無い。
(…………だからって、同情したら、負けだ)
 同情すれば、受け取らねばならなくなる。そしてそれは“前例”となる。二度目も、三度目も受け取らねばならなくなる。それだけは、絶対に避けなければならない。
(…………気分を落ち着けなきゃな。万に一つも、由梨ちゃんに“何かあった”って気づかれるわけにはいかない)
 たっぷり時間をかけてスーパーの中を練り歩き、さらには念のため行きとは違う道を通って由梨子の部屋へと戻る。インターホンを鳴らし、試しにドアノブをひねってみると、鍵は開いたままになっていた。
「あっ…………先輩、おかえりなさい」
「た……ただい……ま?」
 丁度出ようとしたところだったのだろう。キッチンに立つエプロン姿の由梨子と鉢合わせになる。そう、エプロン姿なのはエプロン姿なのだが。
(あ、れ……? なんで、制服……?)
 さっきまでは、間違いなく私服だった。こんな時間から、学校に用事などあるわけがない。そもそも休日だ、一体なぜ制服になど着替えているのか。そしてその上からエプロンをつけているのか。
(その上、黒タイツだけはそのままとか……!)
 制服。エプロン。黒タイツ。それはまさに三種の神器だった。こうして対峙しているだけで、神々しさすら感じる程に。
(あと、香水……? いや、違う……これは、シャンプーの香り……?)
 よく見れば、微かに髪も濡れているようだ。どうやら由梨子は人払いをした隙にわざわざシャワーまで浴びて、制服に着替えたらしい。一体全体何の為に――などとは思わない。月彦はただただ、生唾を飲み込むだけだった。
「え、っと……これ、頼まれてた、買い物……」
「ありがとうございます。すぐにご飯の準備しますから、先輩はテレビでも見ながら寛いでてください」
 由梨子が買い物袋を受け取り、そのままキッチンに立つ。既に調理台の上にはタマネギや生姜、豚肉等々、いくつかの食材が並んでいる。早速とばかりに、由梨子が包丁を手に、タマネギの皮を剥き始める。
 月彦は由梨子に言われた通り、居間で待とうとその横をすり抜ける――刹那。不意に足を止めた。すぐ隣には、由梨子の無防備な背中がある。わざわざしなくてもよさそうな買い物まで頼んで、こっそりシャワーを浴びて意味深に制服になど着替えている後輩を、このまま抱きしめてしまいたい衝動と、月彦は闘っていた。
(…………いや、ダメだ。今手を出したら、止まらなくなっちまう)
 それでは、夕飯が台無しになってしまう。折角だから、由梨子の手料理も味わいたい――“その後”でも遅くないではないか。
「……先輩?」
 どうかしましたか?――いつまでも背後に立ったままの月彦を不審がるように、由梨子が視線を向けてくる。何度も真央の相手をしてきた月彦には解る。平生を装っている由梨子の目の奧に、襲われる事への期待の光が隠れているのが。その証拠に、由梨子は問いながら、今の今まで使っていた包丁をわざわざまな板の上へと置いた。まるで“これでもう『今手を出したら、包丁で怪我をしてしまうかもしれない』なんて心配はしなくてもいいですよね?”――そう示すかのように。
「……いや、由梨ちゃんが何を作ってくれるのかなって思ってさ。晩ご飯、楽しみにしてるよ」
 だからこそ、月彦は引いた。由梨子の気持ちを十二分に察した上で、もうちょっとだけ焦らしてやろうと。この奥ゆかしく慎ましやかな後輩が、焦れに焦れて自ら懇願してくるまで惚け続けるのも悪く無い。
(…………問題は、それまで俺の理性が持つかだが……)
 思わず苦笑する。既に、優巳との一件など、完全に頭から抜け落ちていた。

 白耀の店で働くことが、料理のスキルの底上げをしたのだろう。夕飯に出たのは炊きたての白ご飯と豚肉の生姜焼き、いんげんのごま和え、キクラゲ入りかに玉等々、ありふれているといえばありふれている献立だったのだが――
「美味い! これめっちゃ美味いよ由梨ちゃん!」
 文字通り、月彦は快哉を叫んでいた。気を抜けば欲望のままにがっついてしまいそうになるのを懸命に我慢しながら、由梨子と二人。居間のテーブルを挟んでの食事を続ける。
「喜んでもらえて嬉しいです。ごはんもいっぱい炊きましたから、どんどんおかわりしてくださいね」
「じゃあ、さっそくおかわりもらえるかな。もうこの生姜焼きが絶妙な甘辛で美味しくて美味しくて」
 月彦が空になった茶碗を差し出すと、由梨子は嬉しげに受け取り、傍らの電子ジャーからこんもりとご飯をよそい、返してくる。
「はい、先輩。いっぱい食べてくださいね」
 エプロンをつけたままの由梨子から茶碗を受け取りながら、月彦は不思議な感慨に耽っていた。
(あぁ……幸せってこういうことなんだなぁ……)
 先ほどまで由梨子を襲いたくて襲いたくてムラムラしていた肉欲までもが昇華され、清らかな光と共に天に昇ってゆくのを感じる。“癒やされる”とはまさにこういうことなのだと、月彦は目尻に涙すら浮かべる。
「……先輩?」
「あぁ、ごめん。……こういうの、凄く良いなぁって思ったら……なんだかじーんって来ちゃって」
「…………私もです。なんだか、先輩と本当に同棲でも始めるみたいで、どきどきしてます」
 由梨子が顔を赤らめながら、小さく首を振る。
「……違います。ずっと、どきどきしっぱなしなんです。朝起きた時から――ううん、昨夜、眠る前から、ずっと」
「由梨ちゃん……」
 ズキュンと、由梨子の言葉が胸の奥を貫く。瞬間、箸を投げ捨て、テーブルを飛び越え、由梨子を押し倒したい衝動に月彦は駆られる――が、辛くも耐える。
(……やっべ……今日の由梨ちゃん……超可愛いじゃないか……)
 照れる仕草や、目の伏せ方。唇の動き――全てに魅了される。まるで由梨子のそれが伝播したかのように、ドキドキが止まらなくなる。
「……と、とにかく……食べようか。冷めちゃうと、もったいないし……」
「そ、そうですね! ……いただきます」
 ぴんぽーんと、インターホンが鳴ったのはその時だった。
「あれ……?」
 由梨子が首を傾げ、壁掛け時計を見る。とうに日没は過ぎ、針も七時を回っている。
「新聞の勧誘とかかな?」
「こんな時間に来るものなんですか?」
 一人暮らしを経験したことがない月彦としてはなんとも答えようがなかった。
「一応出てみますね。ひょっとしたら隣の人とかかもしれないですし」
「えっ、でも……」
 席を立つ由梨子に手を伸ばしかけて、止める。いや、まさかそんなことはないだろう。杞憂に違いない――首を振りながら、粟立つ心を押さえ込む。
 後悔は、色を失った顔の由梨子が居間に戻るなり言った言葉によって呼び起こされた。
「あの……先輩の知り合いだっていう人が……」


 まるで悪い夢でも見ているかのようだった。むしろ、本当に夢であってくれればどんなに良かったことか。
「んぐんぐ、おいしー! 今日はお昼前から何も食べてなくって、お腹ぺこぺこだったの。ありがとう、えーと……?」
「……宮本、由梨子…………です」
「私は優巳。黒須優巳二十歳、大学生だよー。ユリコちゃんは高校生かな?」
 引きつった笑みを浮かべる由梨子と、余り物のおかずとご飯を盛大に書き込む優巳の図に、月彦は目眩を禁じ得ない。一体全体何が起きているのか、理解が追いつかない。
「……はい。先輩の一つ下で、高一です」
「そっかそっか。それで、ヒーくんはユリコちゃんの引っ越しの手伝いをしにきてたってワケかー」
 うんうんと頷きながら、優巳は次から次におかずに箸を伸ばし、ごはんをかきこんでいく。その仕草には遠慮とか配慮とかいったエッセンスが微塵も感じられない。
「んもー、ヒーくんったら、そういうことなら一声かけてくれたら私も手伝ってあげたのに。他人のフリして逃げたりなんかして、恥ずかしかったのかな? 私もヒーくんに用事があったから、結局あの後片っ端からインターホン押して回ったんだよぉ。ヒーくんってば意地悪もほどほどにしてよね?」
 優巳はぶうと唇を尖らせる。反射的に月彦は優巳から視線を逸らすと、自然とテーブルを挟んで座っている由梨子の方へと目が向いてしまう。先輩、これは一体どういうことですか――由梨子の目は、そう語っていた。
(……こっちが聞きたいくらいだ。一体どういうつもりなんだ……)
 優巳が食べさせようとしていたクッキーは、先ほど捨ててしかも念入りに踏みつけたばかりだ。
 それなのに、何故――。
「あー…………優巳姉、ちょっと外出て話しようか」
 立ち上がる――が、肝心の優巳が腰を上げない。
「優巳姉っ」
「やだっ!」
 優巳は茶碗を持ったまま、ぷいとそっぽを向く。
「やだじゃない。話があるって言ってるんだ」
「話なら、ここでして」
「いいから来い!」
 優巳の右手を掴み、強引に立たせようとした――途端
「きゃあっ! ヒーくん、乱暴は止めてェ!」
 優巳は大げさに悲鳴を上げ、まるで月彦に腕を捻られたせいでそうなってしまったかのように、白米が半分ほど残っていた茶碗をテーブルの上めがけて投げ捨てる。派手な音を立てて茶碗は欠け、さらにごはんはおかず皿の中へと飛び散ってしまう。
「っ……そんなに強く握ってねぇだろ!」
 吐き捨て、手を放す。同時に由梨子の視線に気がついて、月彦は唇を噛む。視界の外で、優巳がぺろりと舌を出しているのが気配で解る。
「あ、お手洗い借りるねー」
 そんなギスギスした空気の中で、優巳はじつにあっけらかんとトイレに立つ。このまま優巳の後ろに続いて、強引に玄関へと押し出してしまおうか――そう思って月彦が腰を上げかけた時だった。
「……あの、先輩……一体どういう関係の人なんですか?」
 堪えかねたかのような、由梨子の声。月彦は慌てて由梨子へと視線を戻す。
「………………ごめん、昼間は知らない人だって言ったけど、本当は従姉妹なんだ。ただ、仲はあんまりよくなくって……」
「……従姉妹なだけ……ですか?」
 何かを推し量ろうとするかのような、由梨子の目。何を疑われているかは、勿論すぐに察した。
「…………できれば、その従姉妹って関係すらも断ち切りたいんだけどね。なんたって――」
「あーすっきりした! ねえねえ、テレビつけてもいーい?」
 わざとやってるのかと問いたくなるほどの、傍若無人な振る舞い。優巳は居間へと戻ってくるや、勝手にテレビのリモコンを操作し始める。
「………………なあ、優巳姉。悪いけど、今日の所は帰ってくれないかな。用があるならまた今度改めてってことでさ」
「やだ。帰らない」
「……優巳姉」
「いいじゃん。三人で一緒に仲良くテレビでも見ようよ」
 いいかげんにしろ――ぎりぎりと歯を鳴らしながら、胸の内だけで呟く。どうやら、優巳は完全に見透かしているらしい。即ち、第三者――由梨子がこの場にいる限り、紺崎月彦はあまり思い切った行動には出られないと。
「ねーねー、一つ聞いてもいーい? ユリコちゃんって、ヒーくんの彼女なの?」
「えっ……と……」
 答えに窮し、由梨子が月彦の方へと目を向けてくる。なんと答えるかは委ねる――そういう目だ。
「………………まあ、そんな所だ。そういうわけだから、帰ってくれないか」
「そっかそっか。彼氏彼女なんだぁ〜……ふぅーん……へぇーーー……………………………………ところで、なんで制服着てるの?」
「優巳姉、自分が邪魔者になってるって解っててやってるだろ。いい加減にしてくれ」
 もはや、苛立ちを隠す余裕すらも無くなりかけていた。
「………………ヒーくんがお願いを聞いてくれたら、すぐにでも帰るよ?」
 優巳はくるりと月彦の方へと向き直るや、蛇のように嗤った。
「お願い……?」
「これ」
 優巳がダッフルコートのポケットから取り出したのは、見覚えのある紙袋だった。そう、先ほど月彦が逆さにし、中身のクッキーを捨てたあの忌まわしき袋だ。優巳はさらに袋の口を開き、右手をいれてがさごそと漁り、半分に割れたクッキーの欠片を取り出した。
「奧の方にこれだけ挟まってて残ってたの。ヒーくんがこれを食べてくれたら、すぐにでも帰るよ」
「いい加減に――」
 今日だけで、この女を前にして、一体何度この言葉を口にしただろうか。側に由梨子さえいなければ、きっと怒りのままに拳を振るっていたことだろう。
「そのクッキーは食わねえって言ってるだろ! 一体何回同じやりとりをすれば気が済むんだよ!」
「食べてくれないなら、帰らない。ずーっと邪魔してやる」
「……何だと…………ッ……!」
 ぷちんと、何かが切れる音が聞こえた。視界が赤く曇り、陽炎でも立つように歪む。怒りのままに、優巳に掴みかかろうとしたその時、視界を何かが横切った。
「あっ」
 という声は、果たして月彦の口から出たものか。優巳のものか。或いはその両方だったか。
 気がついた時には、優巳が手にしていたクッキーの欠片は、由梨子の手へと握られていた。
「…………これが無くなれば、帰ってくれるんですね?」
「えっ、ちょ――」
「由梨ちゃ――」
 慌てて伸ばした手が空を掻く。それは優巳も同じだった。
「「あーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」」
 クッキーが、由梨子の口の中へと消えた瞬間、二人の悲鳴が木霊した。



 優巳は去った。というよりは、最後の希望までもが断たれ、魂無き肉体のようになってしまった優巳を、月彦が強引に部屋の外まで押し出したというのが正しい。ドアに鍵をかけ、念入りにチェーンロックまでして居間に戻ると、物言いたげな顔をした由梨子に出迎えられた。
「由梨ちゃん…………ええと……」
「すみません、先輩!」
 一体なんと言って由梨子に謝ろうかと思案していた月彦は、突然の謝罪に「へ?」という顔になった。
「ゆ、由梨ちゃん!? どうして由梨ちゃんが謝るんだ……」
「……すみません。私……私、どうしても、我慢出来なくなっちゃって……」
 由梨子はエプロンの裾を握りしめたまま、月彦から視線を逸らす。
「折角先輩と二人きりになれたのに……あの人に邪魔してやるなんて言われて…………」
「…………謝るのは俺の方だよ、由梨ちゃん。“あんな奴”でも一応俺の従姉妹なんだし、巧く撒けなくてここまで呼び込んじまったのは俺の責任だ。本当にごめん」
 “蛇のようにしつこい”という表現は一体誰が言い出したものだろうか。今日からはそこに“蛇のような名の女もしつこい”という補足を加えてもらいたいものだと、月彦は思う。
「さっきもちらっと話したけど、従姉妹ではあるんだけど、仲はあんまり良くないんだ。だから俺としては極力関わり合いたくないと思ってる」
「……確かに、ちょっと変な人でしたね。よく知らない人をあまり悪く言いたくはないですけど……わざわざ押しかけてきてまで、あんなひとかけらのクッキーを食べろだなんて……」
「あー……うん、そう、だね…………ていうか、由梨ちゃん、体は大丈夫? 何ともない?」
「はい……?」
 月彦の言葉の意味がわからないとばかりに、由梨子は小首を傾げる。
「いや、あいつら――優巳姉と、双子の姉の愛姉って、本当にとんでもないことを平気でする連中だからさ。ひょっとしたら、毒入りのクッキーだったかもしれないんだ。できるなら、今すぐ吐いてきたほうがいいよ」
「毒、って……まさか、そんな――」
「誇張じゃないんだ。事実、さっき由梨ちゃんが会ったあの女は、骨折して満足に歩けない姉ちゃんを階段から突き落としたんだよ?」
 由梨子の顔から色が消える。今更ながらに、自分がとんでもないものを口にしてしまったと自覚した――そんな顔だった。
「で……でも、いくらなんでも……だ、大丈夫ですよ、先輩! 私、本当になんともないですから!」
「……………………えーと、救急車は119番だったかな」
「先輩! 本当に大丈夫ですから!」
 電話、電話と部屋の中を見回す月彦を制するように、由梨子がしがみついてくる。
「でも、もし何かあったら……」
「大丈夫、ですから…………それに、もうこれ以上……邪魔を、されたく、ないんです…………」
 ぎゅうと、文字通りしがみつくように、由梨子は月彦の背中越しに回した手で衣服を掴み、消え入りそうな声で言った。
「由梨、ちゃん……」
 由梨子の方を振り向こうとする月彦の挙動を察したように、ふっと抱擁の手が緩む。その緩んだ手の中で、月彦はくるりと体の向きを変え、由梨子の体を抱きしめる。
「先輩……」
「由梨ちゃん……」
 目が、合う。先に瞼を閉じたのは由梨子の方だった。腕の中で精一杯背伸びをしている由梨子がいじらしく、月彦は吸い込まれるように唇を重ねた。

 


(あれ……?)
 と、ベッドの柔らかな感触に包まれながら、月彦は奇妙な錯覚に囚われていた。唇を重ね、そのまま由梨子と共にベッドへと倒れ込んだ――筈だった。
「せんぱい……」
 熱っぽい、由梨子の呟き。当然月彦としては、自分が由梨子を押し倒すつもりだった。しかし実際には、月彦は由梨子に組み敷かれる形でベッドに仰向けに寝かされているのだった。
「先輩……? どうかしましたか?」
 頬を上気させ、息使いも微かながらも荒い。普段であれば「大丈夫? 熱計ってみたほうがいいんじゃないかな?」と声を掛けるところだ。
「いや……なんていうか……ゆ、由梨ちゃん……今日は珍しく積極的だなぁ、って……」
「そう、ですか?」
 自覚なさげに、由梨子は微笑む。
「もし、そう見えるんだとしたら…………もう、我慢が出来なくなってるからかも、しれません」
「が、我慢出来なくなったって……」
 心なしか、由梨子の顔が先ほどよりも近いように感じる。鼻に、唇に、由梨子の息が触れる。月彦はまるで助けでも求めるようにベッドの外へと視線を逃すが、優巳の襲来以降まだ片付けのされていないテーブルと食器類しか見えない。
「先輩、よそ見なんてダメです」
 由梨子の手が両の頬に添えられ、真正面を向かされる。
「もう絶対に……誰にも、邪魔なんてさせませんから」
 “ここ”は自分の――自分だけのテリトリーであると。そう主張するかのように、由梨子が唇を重ねてくる。
「あン……む……」
 年齢の割に舌を巻くほどにキスの巧い由梨子にしては珍しい、ただ唇を押しつけてくるだけのキス。僅かに開かれた唇の隙間から、ふうと。ゾッとするほどに熱い息が吹き込まれる。
「せんぱい……」
 唇を離し、甘え声で呟き、キス。
「せんぱい……ずっと、ずっとこうしたかったんです」
 喋る、話すというよりは、想いが高じて口から飛び出してしまっているような、そんな口調だった。二度、三度と唇が触れあう度に、体の前面に由梨子の体重がかかってくるのを感じる。
「先輩……先輩!」
 両手でもどかしげに月彦の髪を、頬を、首を、肩を、胸板を、腕を撫でながら。体を殆ど押しつけるようにして足を絡ませながら、由梨子のキスは徐々に熱を帯び始める。
「由梨、ちゃん……」
 あの由梨子に。慎ましやかで思慮深い、どんな時でも他人を優先させ、自分は一歩引く――その由梨子に、ここまで情熱的に迫られて、冷静でいろというのが無理な話だった。 うずうずと下腹から突き上げてくる衝動のままに月彦は両手を上げ、由梨子の体を抱きしめる。
「ああぁっ……先輩っ、先輩、先輩!!!」
 由梨子が声高に喘ぎ、殆どしがみつくように抱きついてくる。
「触って、下さい……もっと、私に…………先輩に、触って…………抱きしめて欲しいです……先輩っ……」
 そのまま耳元で喘ぐように懇願してくる。由梨子の言葉のままに、月彦は由梨子の体を抱きしめ、その背を撫でつけ、髪を撫で、さらには手を這わせてスカートの上から尻肉を揉みしだいた。
「ン……ァ……はぁぁ……んっ、ちゅっ……んんっ…………」
 由梨子は悶えながらもうっとりと目を細め、そして再度キスをねだってくる。今度は月彦も積極的に応じ、舌を絡ませ、唾液を啜り合うような音を立てながら、徐々に徐々に。さながら寝返りを打つような具合に、由梨子の体を下に、自分が上になる様、体を入れ替えていく。
「あんっ……先輩っ……ダメ、です……私が、もっと先輩に…………」
 が、失敗した。由梨子は再度強引に“上”へと体を移動させる。太ももでしっかりと月彦の体を挟み込む形で馬乗りになる。
「えっ……ちょ、ゆ、由梨ちゃん……!?」
 れろり、れろっ――由梨子の小さな舌が、首筋を這うのが解る。ちぅ、ちぅと時折強く吸われ、同時に衣類が脱がされていく。
(……うう……俺だって、由梨ちゃんの体にいっぱい触りたいのに)
 由梨子が“久しぶり”なのと同様、月彦もまた由梨子とするのは久しぶりということで、燃えに燃えていた。が、ここは珍しく積極的な由梨子に譲らなければ――もちろん、先輩として――と、月彦は万歳をさせられセーターを脱がされながら、そんな事を考える。
「せんぱい……んっ、せんぱっ……ちゅっ……せんぱいっ……ちゅっ……ちゅっ……」
 腰から上を丸裸にされるや、今度は上半身いっぱいにキスの雨が降ってくる。さながら、初めて降った大雪に感激した幼子が、真っ新な雪原に己の足跡を興奮しながら残していくような、そんなキスが、不意に止まった。
「先輩、これ……ここのキスマークつけたの、真央さんですか?」
「え、と……そ、そうだったかな?」
 左の脇腹の辺りを由梨子に突かれながら、月彦はばつが悪そうに笑う。
「……私ので上書きしちゃいます」
 そう言って、由梨子は一際強く吸い、自らのそれで真央のそれを塗りつぶしてしまう。
「先輩が恥ずかしくて真央さんの前で裸になれないくらい、いっぱいつけちゃうんですから」
「ちょっ……由梨ちゃん、それは勘弁してよ! 真央がどうとかより、体育の授業とかで困るからっ」
 しかし由梨子は聞く耳を持たないのか、今度はヘソの辺りをれろれろとほじくるように舐められ、月彦は思わず笑い声を上げてしまった。
「由梨ちゃん、ほどほどにしないと、俺も怒るよ?」
 といいつつ、怒る気などまったくない、笑顔100%のまま、月彦は今度こそ強引に由梨子の体を組み敷いてしまう。
「あんっ……せんぱい……」
 由梨子は最初こそ抵抗をしたが、すぐに脱力した。ゆるやかなカーブを描く胸元を小刻みに弾ませながら、うっとりと期待に濡れた目で見上げてくる。「さあ、先輩。私をどうしちゃうんですか?」――そんな目だ。
(……由梨ちゃんにされたことをただやり返す――んじゃ、芸が無い)
 何より、折角由梨子が制服エプロン黒タイツと三種の神器が揃っているのだ。これを極力脱がせずに楽しむべきではないのか。
(だったら――)
 月彦は徐に由梨子の上から体をどかし、胡座をかく。そして小首を傾げる由梨子の手を取り、自分の懐へと誘導し、前を向かせて座らせる。
「せん、ぱい……? あンっ……」
 まずは挨拶代わりに、エプロンと制服の間へと手を差し込み、真央に比べれば慎ましやかな――そして、年齢相応といえば相応の――胸元を、やんわりと愛撫する。
「あっ……はぁっ……せんぱいっ……あぁぁっ……」
「くすぐったい?」
 耳元に囁くと、由梨子は強く首を振った。
「先輩に……直接、触って、欲しい……です……あっ……ぁっ……」
 もちろん月彦としても、そうしたいのは山々だった。が、あえて我慢し、ブラウスの上から触るだけに留める。最初は体育座りのように揃っていた由梨子の膝頭が、徐々に、徐々に離れていくのを見下ろしながら、撫で摩る手を胸元から腹部、腰回りへと移動させていく。
「あぁぁっ……せん、ぱいっ……」
 もっと、もっととせがむような、由梨子の切なげな声。さも、その声に応えてという具合にスカートの上を這い、太ももの辺りへと手を伸ばしていくと、たちまち由梨子は喉を震わせて歓喜の声を上げた。
「先輩っ……先輩っ……触って…………触って、下さい…………」
 やはり、今日の由梨子はいつになく積極的であると言わざるをえない。由梨子は自らの右手で月彦の右手首を掴み、スカートの下へと誘導してくる。一瞬、そんな由梨子をさらに焦らしてやろうかという考えが頭を過ぎるも、今まで散々にお預けをさせてしまったという負い目から、月彦はその考えを打ち消した。
 スカートの下は、指先の感触だけで感じ取れるほどに、ムッと湿度を帯びていた。月彦はそのまま、由梨子の手に誘われるままに、タイツ生地の上から足の間へと指を着地させ、割れ目をなぞるようにゆっくりと、優しく上下させる。
「ぁっ……ぁっ……せん、ぱい……」
 はぁはぁと、由梨子の息使いが目に見えて荒くなる。さらに、少しだけ指を押しつけるようにして擦ってやると、由梨子は鼻にかかった声を上げながらうねうねと腰をくねらせ始めた。
「ぁ、やっ……だ、だめ……です……そんな風に、されたら………………ぁぁぁぁぁ……(//////」
「溢れちゃう――かな? 由梨ちゃんのそういう所も、すごく可愛いよ」
 声を震わせながら由梨子は顔を真っ赤にし、下を向いてしまう。そんな由梨子の髪を左手で撫で、頬にキスをするように身を寄せながら、右手は優しくショーツの割れ目を擦り続ける。
「ぁっ、ぁっ、ぁっ…………せん、ぱい……ゆ、び……気持ちいい、です……ぁっぁっ……ぁっ……」
「殆ど俺の指に由梨ちゃんが自分が腰を動かして擦りつけてるような感じになっちゃってるけどね。………………直接触ってもいい?」
 まるで、不意打ちのように、月彦はそっと耳打ちをする。かぁ……と、由梨子がたちまち耳まで赤くし、しかし即座にこくりと頷いた。
「出来れば、きちんと声で聞きたいな」
「ぁぅ…………わ、私、も……先輩に、直接……触って、欲しい、です……」
 くすりと、苦笑を一つ。月彦は右手の指先を、黒タイツの下、さらにショーツの下へと滑り込ませる。じっとりと濡れそぼった恥毛をかき分け、まだ成長途中――未成熟な女性器へと、指先を這わせていく。
「ァ、ァ、ァ……せんっ、ぱっ……うっ……ゥんッ! ……ぁっ……ッッ……!」
「わわっ、スゴい……まだ下着の中に手を入れただけなのに、びゅるっ、って、指先にかかったよ、今。……う、わ……スゴ…………由梨ちゃんのここ、どろどろのぐちょぐちょだ」
 “ここ”と強調するように、月彦はぷりぷりの微肉を指先でなぞりながら囁く。由梨子はもう、目尻に涙を浮かべながら、「ぁぁぁ……(//////」と嗚咽を漏らしていた。
「指、入れるよ?」
 あえて囁き、つぷりと中指を埋める。「アッ」と、由梨子は一際高い声を上げ、ぶるりと体を震わせる。
「ア、ア、あっ……せん、ぱい…………先輩の、指っ……入って、きてます……」
「うん。由梨ちゃんがキュキュキュって、締め付けてるのが解るよ。……動かすね」
「は、い……あッ、ぁ……ぁぁっっ……あぁぁぁっ……あぁぁぁぁ……!!」
 ゆっくりと、中指を出し入れする。その都度、じゅくじゅくと熱い蜜が溢れ出し、タイツのシミが広がっていく。
「ァ、ァっ……せん、ぱっ……」
「凄いな……ほんと“溢れてくる”って感じだ。…………いつからこうなってた?」
 わざと意地悪く、耳元に囁く。由梨子は赤い顔をさらに絡め、目を伏せるように“白状”する。
「……朝、先輩と顔を合わせてから、ずっと……です。……先輩にはバレてたかもしれませんけど、私……今日だけで三回も下着代えたんですよ……?」
「いや……ごめん、気がつかなかった。……最後の一回は、さっきの買い物行った時かな?」
「はい。…………先輩は、意地悪な人だって、思いました。…………私の気持ちに気づいてるのに、わざと惚けてましたよね?」
「いや、あれは……なんていうか……俺も随分悩んだんだ。だけど、由梨ちゃんが作ったご飯もやっぱり食べたいな、って……」
 苦笑しながらも、納得してもいた。がらにもなく優巳を追い払うようなことをしたのも、それほどまでに焦れていたからこそなのだ。
(…………ほんとダメだなぁ、俺は。…………由梨ちゃんなら解ってくれるって、甘えすぎていたのかもしれない)
 由梨子とて人並みに寂しいと思うこともあれば、我慢できなくなることもあるに決まっている。年上の自分の方が甘えてどうすると、月彦はこんな時でさえなければ、両手で自分の頬を張って気合いを入れ直したいところだった。
「…………ごめん、由梨ちゃん。次からは、もうちょっと……由梨ちゃんと一緒に居られるようにするから」
「……本当、ですか? 先輩……ンッ……嬉しっ……ンッ……!」
 本当だと、言葉ではなく行動で示す。中指にさらに薬指も加え、ぐじゅぐじゅととかき回す。
「っゆ、び……先輩のっっ……あぁっ……ンッ……はぁァァっ……ンンッ……気持ち、いい……気持ちいい、です、先輩……あぁぁっ……!」
 指をミリ単位で動かす度に、腕の中の由梨子が小刻みに体を震わせながら、甘く切ない声を上げる。はあはあと悶えながら身をくねらせる由梨子の頬に、或いは唇に優しくキスを加えながら、月彦はさらに由梨子の秘部を愛でる続ける。
(キュッて、何度も何度も締め付けてきて……ホント可愛いなぁ……)
 つけっぱなしのテレビから漏れる、とりとめのない音声。それに混じって聞こえる、ぐちゅにちゅと泡立つような水音。
「やっ……イヤッ……イヤッ…………せん、ぱっ……あぁぁぁっっ…………ダメッ……と、止まらない、んです……ぁぅぅぅぅ…………」
 由梨子がそういう体質だと知らなければ、失禁したのかと勘違いしてしまう程の量だった。そして由梨子自身、そういう己の体質を恥じるかのように、耳まで真っ赤にしたまま瞼を閉じ、イヤイヤと首を振る。
「相変わらず、“汁気”たっぷりだね、由梨ちゃん」
「っっっっ…………!」
 恥じらっている由梨子を無視するのも悪い気がして、あえて囁く。瞬間、由梨子は嗚咽とも悲鳴ともつかない掠れ声を上げながら強く、強く指を締め上げてくる。
「アッッ!……んっ、ンッ……! せん、ぱい…………そこっ……はっ……アァァ!」
 中指と薬指を内部で折り曲げ、優しく引っ掻くように出し入れすると、由梨子はたちまち喘ぎ出す。うねうねと腰をくねらせながら、もっと、もっととせがむように、月彦の右手を掴んでくる。
「せ、せんぱいっ……ヤッ……だ、めっ、です……だめっ……もっ……い、イきっ……そ…………い、イクッ…………」
 くちゅくちゅと音を立て続ける右手を、由梨子の手が痛いほどに握りしめてくる。これが真央相手であれば、途端に愛撫を緩め焦らして焦らして焦らしまくってやるところなのだが。
「あっ、あンッ……ぁっ、ッンンンッ!!!!!」
 ピンと背を逸らしながら、由梨子がイく。指先を食いちぎろうとするかのように締め上げ、大量の熱い蜜を下着の内側で迸らせながら、何度も、何度も体を震わせる。
「…………ッッッッ………………はぁっ、はぁはぁはぁっ……はぁはぁ…………んっ、ぁふっ…………」
 そして由梨子が脱力した瞬間を狙い、唇を重ねる。重ねながら、右手の動きを再開させる。
「ンンッ!……ンンッ……んふっ…………んぷっ、んぁっ……ふぁ…………せん、ぱい……あンッ……あぁっ……ンッ……んぷっ……んふっ、んふっ……!」
 二本の指を、ゆっくりと出し入れをする。時折角度を変え、或いは中で指を折り曲げ、或いは広げ。由梨子がうねうねと腰をくねらせながらより噎ぶ様、動きを調節する。
(…………本当に積極的だな)
 不意に、股間にむずむずした感触が走る。それが由梨子の左手だと悟るや、唇を重ねたまま苦笑する。
「ンぁ……せん、ぱい…………欲しい、です…………おねがい、します…………せんぱい…………は、早く…………」
 もどかしげに左手でジッパーを開け、下着越しに剛直を撫でながらのおねだり。羞恥の朱に顔を染めながら、目尻には涙すら浮かべながら、はぁはぁと肩で息をしながらの懇願に、月彦の理性は総辞職に追い込まれた。
「…………わかったよ、由梨ちゃん」



 

 まずは優しく由梨子の体を抱きしめる。そして優しくベッドに横たえ、仰向けに寝かせる。
「せん、ぱい……」
 由梨子はエプロンの上から、まるで胸元を隠すように腕を折りたたんで乗せる。膝を立て、足は僅かに開く。足を閉じないのは、“来て”という意思表示なのだろう。
「由梨ちゃん……いい?」
 それだけで意味は通じると、月彦は確信していた。由梨子は、少しだけ困り顔で頷く。それを確認してから、月彦は黒タイツの股間部分だけを僅かに破く。そう、挿入に必要最低限の部分だけを。
「ぁ……っ……」
 ビッ、と破る瞬間、由梨子はむしろ嬉しげに声を上げた。それはまるで、“宮本由梨子”という嗜好品の封を切り、初めて使用するような――そんな錯覚を月彦にもたらした。
「……挿れるよ」
 月彦は畳みかけるように脱衣し、漲るやる気が先端から迸らんばかりに猛り狂っているそれを、黒タイツの破れ目からチラリと露出しているエメラルドグリーンとホワイトの縞パンへと宛がう。たっぷりと蜜を孕んだそれを横にずらし、由梨子の未成熟な――そのくせ汁気たっぷりな割れ目へと先端部を埋没させる。
「ァ……せん、ぱっ……イぃぃッ……あぁんっ!!」
 勿論裂けてしまったりしない様、加減はする。指でたっぷりほぐしたとはいえ、無理は禁物だ。徐々に徐々に、肉の槍をなじませるように肉襞を分け入っていく。
(う、お……これ、由梨ちゃんのナカの感触もさることながら……視覚的にも、かなり……)
 半分以上偶然――努めて残そうとしたのは、黒タイツのみだったにもかかわらず、制服エプロン黒タイツという三種の神器を全て装着したままの由梨子との行為は、予想だにしなかった程の興奮をもたらした。
「あっ、ァ……せん、ぱい……おっき…………大きい、ですっ……ぅ……はぁはぁ…………あんっ……凄く、堅い……」
 “指”とは全然違うと、由梨子は目で語る。挿入は半分ほど。その割りに苦しげに浅い呼吸を繰り返す。やはり、狭い――だがそれがいいと、月彦は思う。
「んっ……由梨ちゃんのナカ、キュッキュッって締まって、凄く気持ちいいよ。……少し、動くね」
 あくまで優しく。月彦は由梨子に被さるようにしながら、少しずつ腰を使っていく。
「あっ、んっ……せん、ぱっ……んっ……先輩っっ……んんっ!」
 激しく動く必要は無かった。体格的にも狭く窮屈な由梨子のナカは単純な前後運動だけでも、腰回りが痺れるほどに快感が得られるからだ。
(や、べ……なんか、すげー興奮する……)
 剛直を出し入れする度に。ぬらついた窮屈な肉襞をかき分ける感触が下半身から伝わってくる度に。きちんと制服を着、その上からエプロンまで身につけた後輩が顔を赤くして可愛らしく声を上げる様がなんとも真新しく、興奮をかきたてられるのだ。
「ンンッ……! せん、ぱっ……やっ……お、大きく、なって……ッッ……」
 由梨子が殆ど悲鳴のような声で言い、腹部を持ち上げるような姿勢になる。
「やっ……だ、めっ、です……せん、ぱっ……ッあぁぁっ……これ、すごい、です…………先輩の、形……はっきり解って…………ンンンッ!!!」
 由梨子のナカでググンと反り返った剛直が、抽送の度に先端で上側を強く擦りあげる。
「だめ、だめ、ダメ……ッァ、ァッ……腰、上がっちゃいますっ…………だめ、です……ァァ、ァ……ッ!」
「うん? 由梨ちゃん、ここ弱かったっけ?」
 惚けるように言いながら、月彦は膝を放した正座のような姿勢となり、由梨子の腰をその上に乗せ、さらに両手でがっしりと掴んだまま腰上げ正常位の形でさらに強烈に擦りあげる。
「アッァァァッ!!!」
 ビクビクビクッ!――由梨子が声を荒げながら腰を跳ねさせ、潮でも吹くように秘蜜を迸らせる。さらに、月彦は微妙に角度を変えながら何度も、何度も同じ場所を擦りあげ、由梨子に声を上げさせる。
「アッ、アッ、アッ! せ、せんぱっ……やめっっ……あああァァァッ!!! あーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」
 ビュビュビュッ! ビュッ!
 熱い飛沫が幾度となく体に当たり、気がつくと下半身周りはびしょ濡れになってしまっていた。由梨子が濡れやすいのはいつものことなのだが、今夜はひとしおだなと。強烈に締まる膣内の感触に思わず我を忘れそうになりながらも、月彦は由梨子が声を掠れさせるまで続け、そして漸くに動きを止めた。
「はぁっ……はぁっ…………はぁっ…………せん、ぱっ……は、激しすぎ、ですっ……あっ、あんっ!」
 しかし、由梨子に呼吸を整える暇など与えない。今度は由梨子の左足を抱えるように肩に引っかけ、逆に右足を跨ぐようにしながら、抽送を再開させる。
「や、ぁっ……せん、ぱっ……はぁはぁはぁ…………ンッ、ぁっ……ふぅふぅ…………」
 由梨子の反応が、がらりと変わる。例えるなら、電気ショックを受けて全身を激しく震わせながら悲鳴を上げていたのが、微弱な電気によるマッサージを受けてそのあまりの心地よさに嘆息を漏らしているような。
(由梨ちゃんは“横”のほうが好きなんだよな)
 膣の形なのか。性感帯のスポットの違いなのか。普通に相対して挿入するといかにも苦しげであるのが、こうして体の向きを変えると純粋に快感だけを得られるようなのだ。
(ていうかホント……脚がエロいんだよなぁ)
 この体勢だと、由梨子の片足を抱きしめながら抽送をするような形になる。至極、顔のすぐ側に黒タイツに包まれた由梨子の脚があるわけで、思わず舌を這わせたくなる誘惑を堪え続けねばならないのが辛いところだ。
(さすがにそこまでやったら由梨ちゃんに引かれ――いや、由梨ちゃんなら許し――あぁぁ……!)
 ぐるぐると思考ループに陥りながらも、徐々に快感の虜となる。十六才女子高生のナマ膣の感触はただそれだけで凶悪であり、ましてや制服のまま。さらにエプロン、黒タイツまで加わっては、もはや射精するなという方が無理な話だった。
「あっ、あんっ、あっ、あッ……せん、ぱっ…………せん、ぱい……? あっ、ッ……あンッ!」
 “動き”の変化を、由梨子も察したらしい。突かれながら、月彦に合わせるように腰をくねらせ、さらに意識的に下半身に力を込めているようだった。それにより圧迫感がさらに増し、加速度的に極みが近づいてくるのを感じる。
「あンッ、あンッ……あンッ! あぁぁっ……せん、ぱっ……先輩っ……今日、は…………な、膣内……は――……ンッ……ぁっ、あんっ、あぁぁっ……!」
 何かを口にしかけて、由梨子はそのまま言葉を飲み込んだ。代わりに、左足を掴んでいる月彦の右手に、自らの左手をそっと添えてくる。
「由梨ちゃん……由梨ちゃん……!」
 殆ど譫言のように呟きながら、月彦は動きを早めていく。
「あぁぁあァッ……! あぁぁッ、ぁぁっ、あッ……せん、ぱいっ、先輩っ、先輩っ……先輩っ、あぁんっ! あんっ、あんっ、あンッ……あッ……ッッッ!!!」
「由梨、ちゃ――」
 由梨子の左足を抱きしめながら、剛直を一際奧へと突き入れる。
「あッ……あぁぁぁぁッ………………あーーーーーーーーッ!!!!!」
 達し、搾るように剛直を締め上げてくる由梨子の中へと、特濃の白濁汁を撃ち放つ。
「く、はっ……あ……」
 まるで心臓が移動したかと思うほどに、ドクドクと剛直が波打ち、おびただしい量の精液が打ち出されていく。
「あっ、あぁ……やっ、ぁ……熱っっ…………ンッ……こ、こんなに………………だ、ダメ、です…………」
 悲鳴を上げ、体を逃がそうとする由梨子の足を掴む。ごびゅごびゅと反動を伴って注がれた精液はやがて行き場を無くし、汚らしい音を立てて結合部から溢れ出した。
「あぁぁっ……だ、め……ダメ、なのに…………ンンッ…………ぁぁぁ……せん、ぱい…………」
 ギュッと、由梨子の右手だけが、強く、強く腕を掴んでくる。
「せん、ぱい……もっと、もっと……ください……もっと……私に……いっぱい……」
「……わかったよ、由梨ちゃん」
 後輩の期待に応えるのも、先輩の義務の一つであると言わんばかりに、月彦はいつになく張り切るのだった。



 

 

 由梨子はいつになく積極的で。
「あっ、あっ、あっ……ッ! あァッ! せん、ぱいっ……先輩っ……ぁぁぁアア!」
 そしていつになく“貪欲”だった。
「先輩っ、先輩っ……先輩ッ……!」
「う、お……ちょっ、由梨ちゃん!?」
 何度も体位を変えながら、惜しみつつも“三種の神器”を脱がしながら。それでも黒タイツだけは諦めきれず、上半身裸に下半身は黒タイツと下着のみというなんともマニアックな組み合わせの由梨子とのセックスに、月彦は完全に溺れていた。
 そして気がつけば、再び由梨子に“上”を取られ、半ば押し倒される形での騎乗位。由梨子は激しく腰をくねらせ、全身に浮いた玉のような汗を、さながら笹の葉が雨雫を弾くように振りまきながら声を荒げる。
「ァッ………………ァァァァ〜〜〜〜〜〜ッッッッ!!!!」
 そして、絶頂。背骨が軋む音が聞こえてきそうなほどにのけぞり、体を反らしながら、由梨子がイく。
「ッぁ……締、まる……」
 まさに、搾り取られるようだった。どくり、どくりと打ち出される精液を、由梨子は自らの腹部を撫でながら、はああと満足げに息を吐く。
「はぁ……はぁっ…………せんぱい……」
 そして甘えるように小首を傾げながら、体を被せてくる。月彦もまた両手で由梨子を抱きしめるように応じ、その後ろ髪を撫でながら唇を重ねる。
「ンッ……んっ……せん、ぱっ……ンッ……」
 唇を吸い、舌を絡め合いながら、由梨子は体を擦りつけるように動かしてくる。コリコリに堅くなった乳首が、控えめな乳房の感触がなんとも心地良い。が、それよりなにより、剛直をしゃぶるように締め上げてくる肉襞の感触がまた絶品だった。
「はぁん……んっ……ちゅっ……んんっ……はぁはぁはぁ……せんぱい……ヘン、です……」
「変……?」
 はいと、由梨子は息を乱したまま頷く。
「体が、変なんです……いつもと違うんです……」
「いつもと、違う……?」
 はいと頷きながら、由梨子は焦れるように腰を動かし始める。
「いつもなら、とっくにくたくたになってる筈なのに……先輩とすればする程、もっとシたい、もっとシたいって……あぁんっ……」
「ちょっ……ゆ、由梨ちゃん……!?」
 由梨子は月彦の脇の下の辺りでベッドに両手をつき、言葉も途中に腰を前後させる。
「はぁっ……はぁっ……先輩っ……先輩っっ…………好き、です……先輩っ……!」
「ゆ、由梨ちゃん……? ちょっ……一端落ち着いたほうが……く、ぁっ……」
 そんな提案は却下――そう言うかのように、剛直が締め上げられる。
「あぁぁああアッ! せんっ、ぱい……あぁぁァアッ!!」
 前後運動だけでは留まらず、由梨子はぐりんぐりんと腰を回し始める。上体を背中側に反らし、自らの唇に指を引っかけるようにして喘ぎ続ける。
「ちょっ……由梨ちゃん、激しすぎっ……」
 いくらなんでも、そこまで激しくして痛くはないのか――まるでポールダンサーのように激しく腰を振る由梨子に月彦はただただ圧倒されていた。
「せんぱいっ、せんぱいっ……せんっ、ぱっ……ンンッ……あっ……あぁッッ……あァァーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!!」
 仰け反り、叫び、イく。搾り取られるように射精をさせられ、汁気たっぷりの女子高生のナマ膣の中へと白濁汁が流れ込む。それを、由梨子は美味しそうに微笑みながら受け止める。
「あハァ……ンッ……ぁふぅ…………せん、ぱい…………もっと、もっと下さい…………せんぱい…………もっと……あンッ……」
「……ゆ、ゆり……ちゃん?」
 ゾクリと、悪寒が背筋を走る。右手の指を結合部へと這わせ、指先に絡めた白濁汁を舐めるようにしゃぶりながら、由梨子が上体を被せてくる。
「あぁぁっ……せんぱいっ…………好きです…………食べちゃいたいくらい、大好き、です……」
「ま、まさか――」
 言葉は、激痛によって遮断された。気がついた時には、由梨子の歯がしっかりと肩口へと食い込んでいた。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………。
 …………………。
 …………………………。
 由梨子は落下していた。闇一色に塗りつぶされた穴の中を――上方へと目を向ければ微かな光の頂が見えるからこれは穴なのだと解る――深い深い穴の底へと由梨子は落下し続けていた。
 不思議と恐怖は感じなかった。それは落下の速度自体がそれほど速いものではなかったからかもしれない。さながら、ダイバーがウェイトの重さに任せてゆっくりと海の底へと降りていくような、そんな緩やかな落下は、恐怖よりもむしろ心地よさを由梨子にもたらしていた。
 一体どれほどの時間、落ちるままに身を任せていただろうか。由梨子は少しずつ、穴の底の輪郭が見え始めたことで、落下の終焉が近いことを知った。
 穴の底は、とてつもない広さの半球状の空洞だ。そして闇の中にうっすらと浮かぶのは、空洞の広さに見合う巨躯を横たえた生き物の姿だ。
 竜――そんな単語が、真っ先に頭に浮かんだ。“頭に”とは言ったが、今の由梨子には肉体は無い。周りの空間と“自分”を隔てているのは、由梨子自身の意識と感覚だけだ。或いは、恐怖という感情がないのは外的要因によって損なう可能性がある肉体を所持していないが故なのかもしれない。。
 穴の底へと“着地”した由梨子は、眼前の巨大な竜を見上げる。穴の底には光源はない。しかし由梨子が竜の存在を知覚することで、その輪郭が徐々にではあるが薄ぼんやりと浮き彫りになっていく。トカゲのような頭に、巨大なかぎ爪。翼があり、全身は硬質な赤い鱗に覆われたその姿。口の端から覗いている牙の一本ですら、由梨子の身長ほども在る。竜は眠っているのか、瞼を閉じたまま、まるで地面に伏せているような姿勢で呼吸を繰り返している。
 空気を通じて、びりびりと魂の肌を震わすような波を感じる。それは他ならぬ竜の鼓動だ。まるで、巨大な太鼓の中へと入れられ、思い切りバチで叩かれているかの様。生身であれば、この鼓動の波を受けただけで或いはショック死していたかもしれない。そんな規則的かつ人の身には強烈すぎる鼓動が、突如乱れた。
 竜が、瞼を開く。深緑の玉の中央に、縦細長い黒の瞳が入った、巨大な眼。はたして竜は由梨子を知覚しているのか、深緑の瞳はしばし由梨子を捕らえたまま動かなかった。
『ギ…………』
 次の瞬間。まるで錆びた金属同士を擦り合わせるような不快な音が空洞内に響いた。
『ギィィィィィィイァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!』
 それは竜の咆哮だった。空洞内の岩壁を震わせ、落石すら招く凄まじい声。竜は体を持ち上げ天を仰ぐようにして吠え続ける。そのまま、竜は飛び立とうとするかのように体を低く縮め、そして四肢を跳ねさせた――が。
 竜の跳躍は、その身に幾重にも絡みついた鎖によって阻まれた。まるで船の錨に使われるような極太の鎖は竜の首を、前脚を、後ろ脚をがんじがらめに拘束し、さらにその付け根は竜の四肢とその翼を貫く戒めの杭へと繋がっていた。そう、竜は穴の底に身を横たえていたのではない。幾重もの鋼鉄の鎖と楔によってその身を磔にされていたのだ。
 尚も、竜は跳躍を試み、身を跳ねさせる。その都度四肢を貫く金属の杭が肉を抉り、血しぶきが舞う。鎖が堅い鱗を剥がし肉へと食い込む。
 咆哮。それは怒りによるものでも、ましてや痛みによるものでもなかった。竜は泣いているのだ。
 アイタイ。
 アイタイ。
 竜の叫びが、魂の声となって由梨子の全身を震わせる。
 会イタイ。
 会イタイ。
 深緑の瞳から涙を溢れさせながら、竜は全身に食い込む鎖をものともせずに暴れ続ける。
 会いたい。
 会いたい。
 会いたい――。
 狂える竜の咆哮は、徐々にその力を失っていく。まるで泣き疲れて眠る幼子のように、その体躯からは徐々に力が失われ、地響きを伴って冷たい岩の寝床へと体を横たえる。
 
 まもなく由梨子は覚醒する。しかし、多くの夢がそうであるように、この夢もまた、由梨子の記憶に残ることは無かった。
 ………………………………。
 ……………………。
 …………。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


 この日、宮本由梨子は人生で或いはもっとも幸福な朝を迎える筈だった。少なくとも、由梨子の立てたプランの上ではそうなる筈だった。
「ん……」
 瞼を閉じたまま身じろぎをする。冬の寒気が頬を撫でるが、首から下は布団に包まれているのだと解る。――否、“布団”などよりももっと暖かいそれは人肌のそれだった。
「あれ……ぁ……」
 最初に疑問。次に歓喜。昨夜までの記憶を、意識の本格的な覚醒と共に思い出しながら、由梨子はたちまち瞼を開けた。
(……先輩)
 声に出してしまいそうになり、慌てて“心の声”で呟く。どうやら月彦はまだ眠っているらしく、規則正しい寝息を立てている。今、自分は月彦に抱かれているのだ――その幸せを噛み締めるように、由梨子はより月彦に身を寄せるように寝返りを打つ。次に、両手で抱きつこうとして――はたと、由梨子はそこで初めて、自分の両手が後ろ手に縛られていることに気がついた。
(え……?)
 拘束は、腕だけではなく、足首にも及んでいた。一体何故という疑問と共に、どうにか拘束をふりほどこうと手足を動かし続けていたのが、どうやら月彦の覚醒を促したらしい。
「んぁ……由梨ちゃん、おはよ……」
「あっ……先輩……おはよう、ございます……」
 あの――早速由梨子が拘束の理由を尋ねようと口を開いた瞬間、ホッと月彦が安堵のため息をついた。
「………………良かった、どうやら、いつもの由梨ちゃんだ」
「…………いつもの?」
「何でもない。とにかく、無事で良かった」
「あのっ……先輩、一体……ぁ……」
 布団の中でぎゅうと抱きしめられ、忽ち由梨子は幸福感でいっぱいになる。このまま幸せに身を委ねてしまいそうになるのを、なんとか踏みとどまる。
「せ、せんぱい! あのっ、これ……どういうことなんですか?」
「…………ええと……なんていったらいいか…………き、昨日は激しかったね」
 答えに窮したように、月彦はなんともばつが悪そうに笑った。
「激しすぎて、ちょっと手に負えない感じだったから、仕方なく縛っちゃったんだ。……由梨ちゃんが嫌なら、すぐに外すよ」
「は、激しすぎて……って…………私が、ですか……?」
 頬が熱くなるのを感じる。一体全体どれほど月彦の手を焼かせれば、手足を縛られるというようなコトになるのだろうか。
(…………私、そんなに……)
 “乱れた”のだろうか。覚えは無い――が、何となく“手応え”のようなものは残っている。全身の筋肉が、限界を超えて酷使されたことを示すように筋肉痛のようになっているからだ。
(…………私、先輩の上で……あんな………………)
 辛うじて覚えているのは、月彦を無理矢理に押し倒して跨がり、狂ったように腰を振っている自分の姿だった。しかも、正気では口にできないような淫らな言葉を叫びながら、もっと、もっととねだったような気さえする。
「あぁぁ…………」
 羞恥に身をよじる由梨子の手足が、程なく月彦によって解放される。どうやら縛るのに使われたのは脱いだ黒タイツとタオルらしかった。
「先輩……すみません、私…………」
 違う――と、由梨子は全面否定をしなければならなかった。昨夜の自分は自分ではないと。確かに今日という日を楽しみにしていた分、いつもよりも乱れてしまったかもしれない。しかしそれはあくまで――
(あくまで……?)
 はたと、由梨子は我に返る。ならば、一体何故“そう”なってしまったのだろうか。由梨子は微かに覚えている。自分の中に渦巻く、どす黒い炎のような衝動を。やがてそれが全身へと伝播し――浸食と言い換えても差し支えないような、あの感覚。そう……まるで、誰かに体を乗っ取られたかのような――。
「えっ……」
 由梨子の記憶を辿る旅は、掛け布団の下から出した自らの両手の指先を見た瞬間に凍結された。両手の指先、特に爪周りは赤黒いものがこびりつき、すぐにそれは凝固した血液だと解る。
 一体何故、こんなものがついているのか――わなわなと震える由梨子の目が、目の前に添い寝している月彦の肩へと止まる。そこには、はっきりと歯形が残っていて――
「ちょっ、由梨ちゃん!?」
 月彦の制止を振り切って、由梨子はベッドから転がり出、そのまま脱衣所にある洗面台の鏡の前へと立つ。
「そん、な……イヤァァァァァアアアアアアアアアアアッッ!!!!!!!!」
 顔の下半分、唇周りにこびりついた血の跡に、由梨子はたちまち絶叫を上げた。



 月彦の勧めに従って、由梨子はシャワーを浴びた。特に顔と両手の指先は入念に洗い、血の跡を徹底的に洗い落とした。
(どうして――)
 熱い湯を頭から浴びながら、由梨子は半ば茫然自失としていた。先ほど、脱衣所へと追いかけてきた月彦の体には、無数の噛み跡とひっかき傷が残っていた。誰がやったのかは、考えるまでもない。
(先輩は、気にしなくていいって……言ってくれたけど……)
 確かに、昨夜はいつになく興奮していた。憧れの一人暮らしが始まると同時に、月彦と二人きりになれる空間も手に入れることが出来て、これ以上ないほどに浮かれていた。だからこそ、それを邪魔しようとする相手――優巳という名らしい――はたとえ年上であったとしても、強引に排除してしまった。
 “だから”なのだろうか。いつになく興奮し、いつになく浮かれ、そしていつになく焦れていたから、我を忘れてあんな凶暴な爪痕を残してしまったのだろうか。
(ひょっとしたら――)
 由梨子が思うのは、件のクッキーのことだった。月彦はしきりに吐き出せと言っていた。何が入っているかわからないからと。或いはあのクッキーの中に、何らかの興奮剤のようなものが混ぜられていたのではないか。
(……先輩の、言った通りだった……)
 すぐに吐き出すべきだったのだ。そうすれば、月彦にあのような乱暴な振る舞いをすることもなかった。……シャワーを浴びながら、由梨子は後悔に後悔を重ね、そのまま湯に溶けて消え去りたいほどに自己嫌悪を募らせる。
 
 結局30分以上もシャワーを浴び続け、脱衣所へと出て来た由梨子の鼻を擽ったのは、なんとも香しい味噌の香りだった。はてなと思い、大急ぎで部屋着のセーターとミニスカート(どちらも月彦と一緒の時用)へと着替え、脱衣所の扉を開けた。
「やっ。由梨ちゃん。昨夜はご馳走になったから、朝食は俺が作るよ」
 真っ先に男物のエプロンをつけた月彦の姿が飛び込んできて、由梨子はぎょっとその身を硬直させた。
「せ、先輩! 先輩はそんなことしなくていいですから!」
「いやほら、昨日せっかく自分用のエプロンも買ったことだし……よっと。それにあとはもうお皿に盛りつけるだけだし」
 言いながら、月彦はフライパンと菜箸を華麗に振るい、宙を舞わせながらウインナーを焼き続ける。その脇へと視線を向ければ、千切りキャベツと細切りにされた人参、キュウリのサラダと目玉焼きが載せられた平皿が二人分。さらに湯気をたてている味噌汁が準備されていた。
「……ぁぅ……すみません……先輩、私が……ずっとシャワー浴びてたから…………」
 きっと月彦は我慢できないくらい空腹だったのだろう――そんな“想像”に、由梨子はさらに肩を縮こまらせる。自己嫌悪など月彦が帰ってから、一人になってからで十分ではないか。何故自分は朝食の用意を優先させなかったのか――新たな後悔の為に、由梨子の周囲はどんよりとした空気に包まれていく。
「……確かに腹は空いてたけど、由梨ちゃんが引け目を感じるような事じゃないって」
 その“どんより”をぱたぱたと器用に手で払いながら、月彦は最後の盛りつけを行い、平皿を手に居間の方へと移動する。
「あっ、私も手伝います!」
 ハッと、由梨子は頭のスイッチを切り替える。空いている茶碗にごはんをよそい、さらにお椀に味噌汁を注ぎ、盆に載せて月彦の後を追った。


 


 本来ならば、幸せを噛み締めねばならない所なのだろう。愛しい人と迎える、二人きりの休日の朝。しかも朝食は手料理――由梨子的には、朝食も自分の手料理を食べて欲しかったという思いが3割ほどはあったりするのだが――となれば、言葉を無くすほどに感激するのが当たり前の反応ではないだろうか。
「…………由梨ちゃん、本当に気にしなくていいって」
「はい……すみません」
 箸が進まない理由など、月彦はお見通しなのだろう。事実、これほど夢にまで見たシチュエーションであるというのに、由梨子はまったくといって良いほどに食欲が無かった。理由は言わずもがなだ。
(…………私のせいで、先輩が傷だらけに……)
 頬についている絆創膏も、ひっかき傷を隠す為だ。昨日買った“月彦の”部屋着用トレーナーの下は歯形やひっかき傷だらけであり、その事を思い出す度に由梨子は暗澹たる気分になる。。
「うーん……」
 どうしたものか――そんな心の声が聞こえてきそうな、月彦の困り顔。由梨子としても、出来ることならばにっこりと微笑み、“この後の予定”などを話し合いたかった。しかし、どうしてもそれが出来ない。
(いっそ、同じ傷をつけてくださいって……)
 そうすれば、少しは気が楽になる――そう思うも、少し考えて由梨子は首を振る。確かにそれで自分の気は軽くなるかもしれないが、反対に月彦の心が傷ついてしまうのではないか。そもそも、そんな馬鹿馬鹿しい提案に乗ってくれるとも思えない。
 
 結局、朝食の間中殆ど会話らしい会話が出来なかった。月彦は頻繁に話題を振ってくれたのだが、そこからさらに話が膨らむような受け答えが由梨子には出来なかったのだ。そのくせ、食欲を感じていなくても体の方はやはり相当に消耗し、栄養の補給を求めているのか、はたまた月彦の手料理には愛情のエッセンスがたっぷりこめられているのか、目の前の料理のほうはきちんと残さずに平らげてしまった。
 二人で分担して後片付けを終え、居間へと戻る。本来ならば、このままベッドに寝転がってイチャイチャするも良し、まったりとテレビでも見るも良し、二人でどこかに出掛けるも良しの筈だが、由梨子はまったく逆の事を考えていた。
(…………いっそ……このまま帰ってくれたほうが……)
 月彦の為にもいいのではないか――自分の気持ちとは裏腹に、由梨子はそんなことを願い始めていた。月彦が気を遣ってくれる度に、励まそうとしてくれる度に、申し訳なさの海の中で溺れるような苦しさを感じる。このまま帰って、宮本由梨子はとんでもない女だったと蔑んでくれたほうが、むしろ気が楽に――。
「由梨ちゃん!」
 ベッドの縁に背をもたれさせたまま、陰々滅々と考え込んでいた由梨子の思考が、突如ホワイトアウトする。遅れて、月彦にいきなり抱きしめられたのだと理解した。
「せ……んぱい……?」
「気にしなくていいって、大丈夫だって、言っても全然聞いてくれないから、俺は最後の手段を取ることにする」
 最後の手段?――そう呟こうとして、失敗する。息もできないほどに、強く、強く抱きしめられていたからだ。
「昨夜のことを由梨ちゃんが悪いことをしたって思ってるなら、その分償ってくれれば、きっと由梨ちゃんの気も軽くなると思う。――だから、由梨ちゃんには俺のわがままを聞いてもらう」
「せん、ぱいの……わが、まま……?」
 微かに抱擁が揺るんだせいで、由梨子は辛うじてそれだけの言葉を絞り出す。とうに冷え切った筈の胸の奥が、とくんとくんと波打つのを、由梨子は感じた。
「由梨ちゃんの、“お尻”でシたい」


「あの、先輩……本当に、するんですか……?」
 ベッドに上がり、月彦の指示通りに四つん這いになり、上体だけを伏せながら、由梨子は問わずにはいられなかった。
「もちろん。だってそうでもしないと、由梨ちゃんがいつもの由梨ちゃんに戻ってくれないみたいだから」
 月彦は由梨子の真後ろに位置する形でベッドへと上がっている。そして、由梨子が履いているのはデニム生地のミニ。恐らく――否、間違いなく月彦の目には下着が丸見えになっていることだろう。
(確かに、先輩に償いをしたいって……それができれば、って……思ってました、けど……)
 それがこんな形になるとは、夢にも思っていなかった。そもそも、もう一度月彦に抱かれる可能性など全くの想定外で、それ故に由梨子はいつもの勝負縞パンではなく、普段用の飾り気のない白のショーツを穿いていた。
「ぁぅ……」
 今現在の自分の姿勢。そして月彦が見ているであろう光景。そして今から自分が受けるであろう恥辱を想像して、由梨子は枕に顔を半分埋めたまま赤面する。確かに月彦の言う通り、この“罰”を受け入れれば、月彦に対する申し訳なさも大分薄れるのかもしれない。
(……でも、だからって……“お尻”でしたいだなんて……)
 もっと、他に選択肢は無かったのだろうか。たとえば、口での奉仕とかであれば、償いという意味でも相応しいのではないか。
 否――と、由梨子は小さく首を振る。容易に出来ること――それでは償いにはならない。顔から火が出るほどに恥ずかしく、正気でいることすら難しいほどの恥辱を受ける行為であればこそ、贖罪になるのだ。
(…………っ…………先輩も、きっと……私のために……)
 月彦としても、こんなギクシャクした空気を払拭し、いつもの関係に戻りたいという思いがあるのだろう。だからこその提案であり、そこにはきっと邪な願望などは――
「…………折角だから、由梨ちゃんのおねだりが聞きたいな」
 えっ――思わずそう声が出そうになる。姿勢的に由梨子には月彦の顔が見えないが、何故だか意地悪く口元を歪めているのが気配でわかった。
「その方が、由梨ちゃんもより気持ちが楽になると思うし。…………ほら、由梨ちゃん?」
 ひゃんっ――そんな声が出たのは、月彦に尻を撫でられたからだ。そのままさわ、さわと右の尻肉が鷲づかみにされたまま撫でられる。
「ぁっ……んっ……わ、わたし、の――」
 そう、これは贖罪なのだ。だから、月彦の言う通りにしなければならないのだ――
「おしり、で……して、ください……」
「…………もっとはっきりした声で」
 冷たい、まるで貴族が召し使いにでも命令するような口調。由梨子は微かに背を逸らしながら、唇を開ける。
「私、の……お尻、で……シて、下さい」
「下着も自分で脱いで」
「……っ…………はい……」
 唇を微かに噛みながら、由梨子は尻を持ち上げたままの姿勢で、自ら下着を膝裏まで下ろす。
「足、少し開いて」
 はい、と返事をして、由梨子はその通りにする。足の付け根の辺りにひやりとした空気が当たり――実際には暖房が効いているから、さほどでもない筈なのだが――由梨子は尿意に近いものを感じる。
 そう、それは尿意と錯覚しがちだが、似て非なるもの――。
「……さすがに濡れてはないか」
 月彦の手が太ももの内側を這い、秘裂が指で割り開かれる。
「ンッ……!」
 反射的に下半身が震える。が、由梨子が危惧した――期待したともいえる――ような愛撫は行われなかった。
 代わりに。
「ぁっ……やんっ……!」
 尻――その窄まりに、指が這うのを感じる。つんつんと、指先で突くように刺激され、由梨子はつい声を上げてしまう。
(やだっ……先輩に突かれるたびに……)
 窄まりが、ひくひくと反応しているのが解る。由梨子は月彦の眼前に晒されているであろう光景を想像し、ますます顔を赤らめねばならなかった。
 月彦の指はそのまま、まるで由梨子を嬲るように尻穴の周囲を撫でるように旋回し、そして不意に下方へと滑り落ちる。そして人差し指と薬指でくぱぁと割り開いたその谷を中指でなぞるように動かし、
「濡れてる」
 意地悪く呟いた。
(………………っっっっ……ううぅーーーっ…………)
 枕に口を押しつけ、由梨子はギュッと目を瞑って唸る。そんな由梨子をよそに、月彦の指は徐々に大胆さを増していく。ちゅぶちゅぶと汚らしい水音が聞こえてくるまでに、さほどの時間はかからなかった。
「っっ……はっ……ンッ……せん、ぱっ……ンンッ…………い、いつ、まで…………」
 持ち上げた尻を振るようにして、由梨子は声を上げずにはいられなかった。これでは、こんなにしつこく弄られては、“欲しく”なってしまう――。
「うん、これくらい濡らせば大丈夫かな。…………じゃあ、挿れるよ」
 月彦の言葉を、由梨子は誤解した。
 故に。
「ひァァッ……ンンンンッ!!!」
 にゅぷぷっ――尻穴への、唐突な侵入に、由梨子は目を見開きながら声を上げる。
「やっ……せん、ぱっ…………ンンンッ!!!」
「まだ“指”だよ、由梨ちゃん。まだ、ね」
 意味深に言いながら、月彦が指を抜き差しする。その都度、由梨子は鼻にかかった声が出るのを止められない。
「ンッ…………ンッ…………ンンッ……!」
 口を枕に押しつけ、必死に声を押し殺す。そうしなければ、たちまち甘い声を上げてしまうことになるからだ。
(あぁぁ……先輩の、ゆび、が……出たり、入ったり…………)
 出入りする指の節くれ立った関節部分がはっきりと解る。その僅かな凹凸が、背骨が溶けそうになるほど気持ち良く、痺れるような快感に由梨子は体の力が抜けてしまう。
(ち、がう…………違う…………お尻で、感じてなんか…………)
 必死に、頭では否定をする。
 しかし――
「由梨ちゃん、お尻……気持ちいい?」
「…………っ……せん、ぱい……」
「“正直に”答えて」
 贖罪をする気なら、嘘はダメだ――月彦は暗にそう言っていた。くっと、由梨子は唇を噛む。
「き…………きもちいい、です……」
「どこをどうされて気持ちいいのか、具体的に」
「ンッ……ぁっ…………せ、せんぱい、に……指、で……お、お尻の穴、を……弄られて……き、気持ちいいです……」
「……どんな風にされたら、一番気持ちいい?」
 ぞくりと、月彦の意地悪な囁きに背筋が冷えたのは、隠れたマゾッ気が目覚めたから――ではなかった。この瞬間由梨子は、紺崎月彦という名のケダモノに“弱み”を握られることの意味を痛感したのだった。
(そんな、こと……言えるわけ……)
 そう、言えるわけがない。しかし、今日――今この瞬間だけは、言わなければならない。そうしなければ、後で必ず悔いることになる。ここで味わう恥辱以上の自己嫌悪に苛まれるに決まっているからだ。
「せ――」
 目尻に涙まで浮かべながら、由梨子は正直に“白状”する。
「せんぱい、の……指、の……か、関節の、ところ……ちょっとだけ、太くなってるところ、が……出入りする、ときが……い、一番……気持ちいい、です……」
「へえ? こうかな?」
「ッ! ……ンッ……ァ……ァッ!!」
 ゾゾゾゾゾッ!
 月彦の指が、その関節部――僅かに節くれ立った部分だけを尻穴に出し入れしてくる。忽ち由梨子は手足の爪の先まで痺れるような快楽に包まれる。
「あッ……アッ……アッ……やっ……あんっ……! ぁっ……ァァッ……だめっ、だめっ……!」
「うわ、すご……由梨ちゃんのここ、ビュッ、ビュッって、潮吹きみたいに凄い勢いで溢れてるよ。シーツがもうぐしょぐしょだ」
 喋ってる間も、絶え間なく指を出し入れされ、由梨子はもう己を恥じる余裕すら無かった。気を抜けば、指の出し入れだけでイかされる――それを、歯を食いしばって堪える。
「なるほど、なるほど。……これなら、指よりもアレの方が良さそうだな」
 確か真央が持っていたはず――そんな月彦の呟きに、由梨子は昔、真央にアナルビーズを使われた時のことを思い出していた。
(そんな……先輩に、あんなものまで使われ、たら……)
 もはや赤面どころではない、由梨子は色を失い、それだけはと懇願したかった。――が、出来ない。月彦に対する負い目が「どの口がそれをほざく」と由梨子にダメ出しをする。
「まぁ、それは今後の楽しみにとっておくとして………………由梨ちゃん、そろそろ指一本じゃ物足りなくなってきたんじゃないかな?」
「いえ、そんなこと、は――」
 そこまで口にした瞬間、にゅぷりと。唐突に指が抜かれてしまう。
「あ、ぇ……?」
「指、どうして欲しい?」
 そして焦らすように、尻穴の周囲の皺を伸ばすように愛撫をされる。そのもどかしさに、由梨子は忽ち尻を振って声を上げていた。
「ゆ、び……い、挿れ、て……ください…………は、はや、く……」
「一本でいい?」
 まるで耳元で囁かれているような、月彦の意地悪な吐息までもが伝わってきそうな問いかけだった。
「…………二本、に、して……ください」
 言うが早いか、つぷりと。まずは人差し指らしきものが、続いて中指までもが侵入してくる。
「ァ……あッッッ………………ぁぁぁぁぁぁぁぁぁァァァッ!!!」
 ゾゾゾゾゾゾッ――二本の指が尻穴を広げながら侵入してくる、その快感に由梨子は声を上ずらせながらたちまちイかされてしまう。
「あれ……由梨ちゃん……ひょっとしてイッた?」
 津波のような快感に翻弄されている由梨子には、月彦の質問が理解できなかった。
「…………由梨ちゃん、ホントにお尻敏感なんだな」
 月彦は呟き、そして今度は二本の指をにゅぐり、にゅぐりと時折捻るようにしながら出し入れをしてくる。由梨子はもう、目を白黒させながら、尻を振ってよがり狂わねばならなかった。
「ぁっ、ぁっァッ……せんっ、ぱっ……だ、めっ……ですっ……お尻っ……もう、止めっっ…………もうっ……もうっっ……やッ…………ま、またッッ………〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッッ!!!」
 ゾクゾクゾクッ――!
 自分では全く制御出来ない、途方も無い快楽に晒され、由梨子はまたしても尻を震わせながら、イく。
「あッッッ、あッッッ、あァァーーーーーーーーーーーーッ!!!」
 イッている間すらも弄られ続け、何度も、何度も。
「やっ……もっ……弄らなっっ…………もうっ、お尻っ、はっ……ゆるひっっ……あああアーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」
 ベッドシーツを握りしめながら。時には足をピンと伸ばしながら、由梨子はイかされ続ける。
「やめっ……もっ、ほんろっ……にぃっ……ゆるひっ……ゆるひっ……ッッッッーーーーーーーーーーーーーッ!!!」
 声にならない声を上げながら、由梨子は絶頂に翻弄される。もはや、自分が俯せになっているのか仰向けになっているのかすら定かではないほどに快感漬けにされながらも。
 それでも由梨子は、はっきりと聞いた。
「ヤバいな……お尻をイジられてイく由梨ちゃん可愛い過ぎだ…………なんだか俺も我慢できなくなってきた……」
 自分に、さらなる贖罪を要求するであろう一言を。



「ぁっ、やっ……待っっ……せんぱっ…………やっ……太っっっ……ンンンッ!!!!!」
 尻穴を押し広げ、指とは比較にならないほどに太い肉の槍に貫かれるや、限りなく暈けていた由梨子の思考は一気に収斂した。
「はぁ、はぁっ……由梨、ちゃんっ……」
 背中に、月彦の体重を感じる。ぎゅうと強く抱きしめられながら、さらに剛直を押し込まれる。
「せん、ぱいっ……あぁんっ!!」
 耳を食まれ、胸元をまさぐられながら、ぐりん、ぐりんと剛直を捻るように押し込まれ、由梨子は体を逃がすことも出来ずにただただ喘ぐことしか出来ない。
(あぁぁっ……先輩、に……お尻、に……挿れられ、てる…………)
 この恥ずかしさだけは、何度されても慣れることが出来ない。単純なセックスとは違う、背徳的な味。もはや生殖とは何の関係もない、単純に快楽のみを追い求めるその罪深い行為は、由梨子に至上の快楽を植え付けてくる。
「やっ、あんっ! あんっ! せんぱっ……だ、だめ、です……あぁぁぁっ……!!」
 まだ、本格的な抽送ですらない。月彦に抱きしめられ、捻るように押し込まれているだけだ。それなのに、何度も何度もイきそうになり、その都度必死に堪えているような状況。
 もし、もし月彦に本気で動かれたら、一体どうなってしまうのか――由梨子は想像するだけで恐ろしかった。
「ふーっ……ふーっ…………由梨ちゃん、動く、よ」
 月彦が、体を起こす。その両手が、由梨子の腰のくびれを掴む。
「あぁぁ…………せん、ぱい……お、お願い、です……もう…………」
 抵抗など無意味だった。先ほど立て続けにイかされてから――否、その前から。尻穴を弄られている時からもう、由梨子は殆ど自分の意思で体に力を込めることが出来なくなっていた。
 そして何よりも、由梨子自身――認めたくないとはいえ――アナルセックスによってもたらされる快楽の虜となりつつあった。
「あっ……ひっ……ぃっ…………あぁぁぁああ!」
 月彦が、動く。剛直が出入りし、由梨子は弦を擦られたバイオリンのように、甘い声を奏でる。
「あぁぁッッ…………ンンッッ……ぁぁッ…………あハぁぁぁッ!」
 ゾクゾクッ!!
 ゾゾゾッ――!
 ゾクゾクゾクッッ!
 悪寒にも似た快楽が、立て続けに背筋を駆け上ってくる。
「ひッぃ……こ、これっ……しゅごっっっっ…………ンンッッ!!」
 舌がもつれ、思わず“しゅごい”と口にしてしまいそうになり、由梨子は慌てて両手で口を覆う。覆ったまま何度も突かれ、白目を向きそうになる。
(本当に、凄い……前にされた時の、何倍も……ッッッ!)
 月彦に動かれるたびに、びくびくと体が震える。その痙攣一つ一つが絶頂にも等しいほどの快楽をもたらしてくるのだから堪らない。
(だ、ダメッ……こんなの、絶対クセになるっっ……病みつきになっちゃう……!)
 月彦を暗がりに誘い、自ら下着を脱いで尻穴を指で開き、アナルセックスを懇願している自分の姿が目に浮かぶかのようだった。
「アひッッッ…………ひんっ! ンゥッ!! ッはッ……ンンッ!!!」
 連続する絶頂に、由梨子は掠れたような声しか上げられない。
「ふう……ふぅ……由梨ちゃん、すごいイき方だね。…………お尻、そんなに良いんだ」
「ぁぅぅ…………ッ……」
 僅かなインターバル。呼吸を整えながら、由梨子は渋々小さく頷く。
「……せ、先輩……お……お尻、気持ちいいの……ちゃんと認めます、から……だから、もう……許して、ください……でないと……」
「でないと?」
「ぅぅぅ………………でない、と……」
「でないと?」
 あくまで月彦は続きを促してくる。由梨子はもう、観念するしか無かった。
「お、お尻でする、のが…………病みつきに、なっちゃう…………かも……しれない、です、から……」
「へえ…………病みつきになっちゃうってことは、由梨ちゃんが自分からお尻でシて下さいってお願いしにくるってことかな?」
 見てみたいな――月彦のそんな呟きに、由梨子は心底恐怖する。そしてそれは恐らく、月彦が本気で実現しようと試みれば、実現する未来なのだ。
「えっ……やっ……せ、先輩……?」
「ごめん、由梨ちゃんが興奮するようなことを言うから……ちょっと、大きくなっちゃったみたいだ」
 月彦の言う通りだった。ググンと、剛直がさらに力強く反り返るのを感じる。
「やっ……ほ、ホントにもう……許してくださっ…………まッッ……う、動かなっっ……あッあーーーーーーーーッ!!!」
「はあはあっ……由梨ちゃんっ……由梨ちゃんの、お尻っ……気持ちいい、よ」
 体を逃がすことも許されず、由梨子は極太の剛直で尻穴を犯され続ける。
「やぁぁぁあっ……だめっ、だめっ……だめぇぇっ……あぁぁっ……きも、ち……いい…………気持ち、いいいいぃ……はぁはぁはぁ……ダメ、です……先輩……あぁぁあっ……」
 堕落に伴う快楽の、なんと甘美なことか。理性を、常識を剛直の一突き一突きで突き崩される度に、快楽の海にとっぷりと浸かっていくようだった。
「あぁぁぁっ……ぁぁぁっ……ひぃっ……ひぃっ……おひりっ……きもひいっ……おひりっ……あッッあアアーーーーーーーーーーーーッッッ!!!」
 頭が、思考が快楽に侵される。舌を突き出すように喘ぎながら、由梨子はもはや、アナルセックスとそれに伴う快楽のことしか考えられなくなる。
「はぁはぁ……由梨ちゃんっ……由梨ちゃん……由梨ちゃん……!」
「あああッッ、ああアッ……あアあッ……ひぁあっ……へんっ、ぱっ……ふぇんっ……ぱいっ……あヒッ……ンッ……あッ……ンッ……ぁッ……ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッッ!!!!」
 どくりと。
 特濃の白濁汁を注ぎ込まれながら、由梨子の意識はホワイトアウトする。しかしその白濁とした世界で、由梨子は確かに耳にした。

「はぁ……はぁ…………せん、ぱい……もっと……もっと、お尻でシてください……お願いします……もっと、お尻、気持ち良くして、ください……」

 快楽のままに、アナルセックスの続行を望む、自分の声を。


 夕方。完全に失神してしまっているらしい由梨子を優しくベッドへと寝かせ、月彦は部屋を後にすした。
(……ちょっと邪魔が入ったし、思ってた形とは違う流れにはなったけど)
 これはこれでいい休日だったかもしれない――そんな思いを胸に、アパートの階段を下りる。負い目を感じていた由梨子も、月曜日にはきっと元気になっていることだろう。
(………………でも、“あの時”の由梨ちゃん……本当にヤバかったな……)
 由梨子に対して恐怖を覚えたのは、あの夜が初めての事であり、そして最後になるだろうと、月彦は思う。あの時の、鬼女の如き振る舞いをする由梨子の姿は、記憶の奥底に封印せねばなるまい――。
(…………だから、吐き出した方がいいって…………まぁ、今更なんだが)
 これだから。
 これだから、あの双子姉妹には関わりたくないのだ。愛奈が一体何を混ぜてクッキーを焼いたのかは解らないが、到底ろくでもない代物なのだろう。せめて毒ではないことを祈るばかりだった。
「……さて、と。家はどっちの方に――」
 一階へと下り、全部屋分の郵便ポストが並んでいる壁の前を抜け、大通りへと出るやいなや、はたと。
 月彦の足は止まった。
「……………………。」
 止めろ、振り返るな。気づかなかったフリをしろ――本能がそう次げる。事実月彦の右足はぴくりと、前へと踏み出しかけたが、しかし再び踵を地につけてしまった。
 ゆっくりと振り返る。先ほど通り過ぎた郵便ポストの真下に、一見してそれとは解りにくい人影があった。視力の悪い者であれば、黒のゴミ袋かなにかと誤認されかねないその塊は紛れもない、黒地のコートを羽織ったまま額を膝頭につけて体育座りをしている黒須優巳だった。
「……………………。」
 天を仰ぐ。一体全体これはどういうことなのか。優巳を追い返したのは、前日の夜だ。まさかあれからずっと、ここに座り込んでいたというのか。
(……そんなに、ショックだったのか)
 双子の姉から渡して欲しいと託されたクッキーの大半を捨てられ踏みにじられ、袋の底にかろうじて残っていたひとかけらに希望を託すも、目の前で別の人間に食べられてしまった。優巳にとってそれは、一日近くも茫然自失となってしまうだけの出来事だったということなのだろうか。
(……よく、警察に通報されなかったもんだ)
 殆ど丸一日郵便ポストの下に座している女を見て、他の住人達はギョッとしたことだろう。ひょっとしたらうち何人かは優巳に話しかけたかもしれない。しかし今こうして優巳が座ったままであることを鑑みると、その誰もが優巳の心を動かすほどの言葉をかけてやれなかったということだろう。
(………………つまり、それだけ愛姉のことが怖いってことか)
 考えてはいけないと解っていても、優巳に同情の念が湧きそうになる。“あの女”の怖さを身に染みて知る者として、それは当然の心の流れだった。優巳が愛奈の共犯でさえなければ、今すぐにでもその身を抱きしめ、力になれることがあるなら何でもすると涙ながらに慰めてやるところだ。
「……………………優巳姉。こんなところで何やってんだよ。…………………………………………………………風邪ひくぞ」
 ぴくりと、優巳の肩が揺れた。そして恐る恐るという仕草で、ゆっくりと顔を上げる。顔を伏したまま泣いていたのか、優巳の両目は充血し、頬には涙の跡がはっきりと残っていた。
「ヒーくん………………」
 優巳が立ち上がろうとして――ゴンと。頭を集合ポストの下部に激しく打ち付ける。
「だ、大丈夫かよ……今、凄い音が――」
「お願い! 一緒に愛奈に謝って!」
 しかし優巳は頭をぶつけたことなどまるで頓着せず、殆どしがみつくように掴みかかってくる。
「じょ、冗談じゃねえ! 誰が……ッ! こらっ、離れろ!」
「ヒーくんが一緒に謝ってくれたら、愛奈だって許してくれると思うの! お願い、ヒーくん! このままじゃ私、愛奈におしおきされちゃう!」
 恐るべきは、“愛奈のおしおき”から是が非でも逃れたいという優巳の執念だ。さながら蜘蛛の糸に群がる亡者の如く、払っても払っても優巳は掴みかかってくる。最後には、殆ど月彦の右足に縋り付くように両手を絡ませ、そのままずりずりと引きずられる始末だ。
「お願い……お願い、ヒーくん! 何でも、何でもするから、だから一緒に謝って! 私は悪くないって、不可抗力だったって、愛奈にちゃんと説明して!」
「ぜってぇ嫌だ! 例え電話越しでだって、愛姉と話をするなんてお断りだ! ああもうほら、離せよ!」
「お願い……お願い、ヒーくん! お願い……します……お願いします……」
 優巳の声は、途中から嗚咽混じりになった。両目から涙をこぼしながら、哀願するように「お願いします」を繰り返す。
「っっっ…………嫌だ。……人には、出来ることと出来ないことがあるんだ。優巳姉が言ってるのは、俺には絶対に出来ないことなんだ」
 嗚咽混じりの声に、ざわざわと胸の奥が騒ぐ。なんとかしてやりたいという気持ちがわき起こりそうになるのを、反射的に押さえ込む。
「……どんな目に遭わされても、自業自得。そうだろ、優巳姉。だいたい、そんなに怖いなら――」
 ずるりと、優巳の“締め付け”が緩むのを感じて、月彦ははたと口の動きを止めた。試しに足を引くと、いとも容易く優巳の拘束を抜ける事が出来た。
(……やっと諦めたのか)
 やれやれと踵を返そうとした足が止まる。足を抜いた後の優巳が、まるで操り糸の切れた人形のように、タイル敷きの上に突っ伏したままぴくりとも動かなかったからだ。
「おい……優巳姉?」
 大丈夫か?――その言葉だけは飲み込み、月彦は優巳の側へとしゃがみ込む。どうやら、呼吸はしているらしいが、一向に立ち上がる気配も、体を起こす気配すらない。もしやと思い、嫌悪が走るのを我慢して優巳の額へと手をやると、明らかに正常では無い体温が掌を通して伝わってくる。
「………………マジかよ」
 月彦は天を仰ぎ、大きくため息をついた。


 仮に携帯電話を持っていたら、間違いなく119番に通報し、救急隊員に優巳を引き取ってもらったことだろう。しかし、月彦は携帯電話を所持しておらず、かといって優巳の体をかかえて由梨子の部屋に戻るわけにもいかない。ましてや、我が家へ連れ込むなどもっての他だ。いっそ、病院の前に放り出していこうかとも思ったが、それはそれであまりに非人道的すぎる気がして、結局月彦がとった行動は――。

「ったく……なんで俺が……」
 優巳を背負ったまま電車に乗り、うろ覚えの道筋を辿って優巳のアパートまでたどり着いた時にはもう完全に日が暮れ、辺りは凍えるような寒気に包まれていた。
(……もし明日も休みで、俺があのまま由梨ちゃんちに泊まってたら、凍死してたんじゃないのか)
 コートこそ着ているものの、どういうつもりか優巳の下半身はハーフパンツと足首まで丸めた靴下のみで、ストッキングすら履いていない。そもそもこんな格好で冬場出歩くのが常識外れであるのに加えてもう一つ。
(……いくらショックだからって、トイレくらいちゃんと行けよな)
 丸一日近く茫然自失としていた間に、どうやら優巳は失禁をしてしまっていたらしい。大ではなくて小でまだ救いはあったとはいえ、一時間以上背負い続けた結果月彦の衣類まで完全に小便臭くなってしまっていた。もちろん、あのまま下着やズハーフパンツが濡れたままでこの寒気に晒され続けていたら、間違いなく凍死していたことだろう。
「ほら、着いたぞ、優巳姉。俺は手がふさがってるから、鍵をあけてくれ」
 しかし、優巳はぐったりとしたまま荒い呼吸を繰り返すばかりで反応しない。やむなく月彦は一端優巳の体を地面に下ろし、上着のポケットから部屋の鍵を取り出し、ドアを開けた。
(……こんなことなら、まだ家に連れ帰ったほうがマシだったか)
 優巳を再び抱え上げながら、明かりの消えた室内へと入る。少なくとも家であれば、玄関まで運べばあとは葛葉に介抱を頼むことが出来たが、ここでは自分一人で何もかもやらなければならない。失禁したままの優巳を布団に放り込むのはさすがに気が引け、やむなく服を脱がして浴室へと運び、一端体を洗ってから再度新しい下着を着せ、パジャマを探し出して着替えさせる。
(こりゃ介護士は大変だ……)
 額に汗が滲むほどの重労働に辟易しながらも、どうにかこうにか着替えを終えさせ、さらに髪をドライヤーで乾かし、ベッドへと横たえる。横たえたあとで、そういえばまだ正確な体温を測ってなかったと思い出し、部屋中を漁って体温計を見つけ出し、優巳の脇へと挟ませる。
「っと、計ってる間に風邪薬でも買ってくるか」
 体温計を捜す際、部屋中をひっくり返したが薬の類いは腹痛用のものしか見つからなかった。やむなく月彦はアパートを出、近場のスーパーへと出向いて解熱剤の類いを購入し再び優巳の元へと戻った。
「えーと、体温は……38度6分か……結構高いな。とりあえずほら、優巳姉。薬だけでも飲んどけよ」
 意識朦朧としているらしい優巳の上半身を抱き起こし、その口に錠剤を含ませて水を流し込む。が、やはり意識が無いのか、口の中に注いだ水はそのまま口の端からこぼれてしまった。
「優巳姉、飲むんだ」
 やむなく、月彦は水を口に含み、口移しで飲ませる。どうにか優巳が薬ごと水を嚥下したのを確認してから、再びその体をベッドへと横たえ、掛け布団を肩までかける。
「あー……そっか。氷枕とかも居るのか。…………冷凍庫の中には無い……よなぁ……」
 やむなく、月彦は二度目の買い物に出るハメになった。



 優巳が意識を取り戻したのは、午後九時を回った頃だった。
「あれ…………ひー……くん……?」
「気がついたのか。気分はどうだ、優巳姉」
「きぶ……ん? あれ……わたし……」
 体を起こそうとする優巳を、月彦は掌をさしだして制す。
「いいから、とにかく寝てろって。さっき計った時は38度も熱があったんだ。………………このクソ寒いのに、まる一日あんな所にしゃがんでたりするからだ」
「………………?」
「覚えてないならいい。とにかく、さっき薬も飲ませたから、じき良くなる。……と思う。ならなかったら、自分で救急車でも呼んでくれ。とにかく、意識が戻ったなら俺は帰るから」
「あっ……ヒーくん、待って!」
 月彦が腰を上げるのと、優巳が声を上げるのは同時だった。
「まだ行かないで……お願い…………」
「…………悪いけど、待つ理由はない」
 月彦はそのまま立ち上がり、玄関へと向かう。
「待って……ヒーくん、待って!」
 優巳はベッドから転げ落ちるように這い出、月彦の足首へと手を伸ばしてくる。
「や、優しいヒーくんなら、私を見捨てたりなんかしないよね? 愛奈におしおきされないように庇ってくれるよね?」
「………………。」
 月彦は無言で、優巳を睨み付ける。
「お願い……愛奈と話をするのが嫌なら、手紙とかでもいいから……」
「冗談じゃない」
 足首に絡みつく優巳の手を、月彦は足を振ってふりほどく。
「待って、ヒーくん! ………………じゃないと、“あの子”のこと、愛奈に言いつけちゃうよ?」
 靴を履きかけていた月彦は、その動きをぴたりと止めた。ゆっくりと、優巳の方へと振り返る。優巳は熱で立ち上がることもできないのか、居間の絨毯の上で匍匐前進するような姿勢のまま、いびつな笑みを浮かべていた。
「ひひ、ひ……彼女、なんだよね。ユリコちゃんだっけ? あの子のこと、愛奈が知ったらどうなるかなぁ?」
「………………そうだな。バレないうちに、今ここで口封じをしておくか」
 えっ――そんな風に口の形を固める優巳へと、月彦は距離を詰めていく。そしてその腕を掴み、乱暴に持ち上げベッドへと押し倒すや、優巳に悲鳴を上げる間も与えずにその首を絞めにかかる。
「かッ………………」
 優巳が藻掻き、首を絞める手に爪を立ててくる。が、月彦は一切力を緩めない。両足をばたつかせて藻掻く優巳を淡々とした目で見下ろしながら、首を絞めるというよりはへし折ろうとするかのように、ギリギリとさらに力を込めていく。
 勿論本当に殺すつもりなどない。だが、月彦の中でこのまま力を加え続けてやりたいという誘惑が、これ以上ない程に甘美なものとして存在していた。そちらへと傾きそうになる心を懸命に支えながら、月彦は具に優巳の限界を観察する。
「ッ……かッ……かはっ…………げほっ、かはっ……かはっ……けぇっ……けぇっ……げほっ、げほっ…………!」
 舌打ちと共に、月彦は力を緩め、優巳の首を解放する。たちまち、優巳はベッドの上でのたうつように悶えながら激しく咳き込んだ。
「今のは警告だ。もし優巳姉のせいで由梨ちゃんに何か危害が及んだりしたら、俺は真っ先に優巳姉のところに来て、今の続きをするからな」
 掌に残る、優巳の首の感触が不快で堪らない。それは文字通り、優巳の命を握った感触に他ならない。こんなこと、由梨子を守る為でなければ、誰がするかと唇を噛み締める。
「優巳姉って、本当に性根が腐ってんのな。いくら自分が痛い目に遭いたくないからって、熱出して倒れたのを部屋まで連れて来てくれた相手を脅迫なんて、普通出来ないぜ」
「……ッ…………だって……そうしないと、愛奈が……」
「そんなに愛姉のことが怖いなら、もう会わないようにすりゃーいい。愛姉は養子先の屋敷から出られないんだろ? 優巳姉さえそのつもりになればいくらでも避けられるだろうが」
「で、でも……」
「ま、好きにすりゃーいいさ。痛い思いをするのは俺じゃない、優巳姉だ」
 こんな救うに値しない女の為に、善後策を考えてやることもない。月彦は今度こそ、優巳のアパートを後にした。


 ――明けて、月曜日。移動教室で廊下を歩いていた月彦は、不意に袖を引かれてクラスメイト達の波から引き抜かれた。
「先輩、私です」
「ゆ、由梨ちゃん!?」
「ここじゃ人目がありますから、ついてきて下さい」
 ついてきてくださいと言うよりは、殆ど由梨子に袖をひっぱられる形で、月彦は校舎の隅の物陰へと連れ込まれた。
「……すみません、先輩。すぐ済みますから…………先輩?」
 暗がりで向かい合うなり、改めて月彦の顔を見た由梨子がぎょっと目を見開く。
「……? 由梨ちゃん?」
「いえ……その……先輩、なんか……げっそりしてませんか?」
「ああ……」
 はははと、月彦は空笑いを浮かべる。その脳裏に、今朝方までの記憶が――狂乱した娘の艶姿が浮かび、それは興奮よりも恐怖を呼び覚ます。
(真央に夜通し搾り取られたから――なんて、さすがに言えないよなぁ)
 恐らくは、由梨子の所に泊まったことを察したのではないだろうか。体中についた傷についても、野犬の群れに襲われたと一応言い訳はしたものの、信じたかどうかまではわからない。表面には出さなくても、その心の内には嫉妬の炎を宿し、その結果いつになく激しく、そしてしつこいまでに求められることになったに違いないと、月彦は確信していた。
「…………真央さん、ですね」
 そして、説明せずとも、由梨子もまた察したらしい。というより、たった一日で人相すら変わるほどにやせこける理由が他に思いつかなかったのかもしれない。
「お、俺のことはいいんだ。…………それより由梨ちゃん、何か用があったんじゃないの?」
「あ、はい…………その、どうしても、先輩に渡さなきゃいけないものがあって……」
「渡さなきゃいけないもの……?」
 何だろう、忘れ物でもしただろうか――記憶を辿る月彦の前で、由梨子は顔を赤らめながら僅かに俯く。
「ほ、本当は……日曜日に、先輩が帰る時に、渡す……筈だったんです。でも…………」
「あぁ……」
 月彦は思い出す。日曜日は結局、由梨子が体力を消耗し尽くして気絶するように眠ってしまったから、やむなくそのまま帰ってしまったのだ。
「ごめん、由梨ちゃん……気持ちよさそうに寝てたから、起こすのも悪いと思って……」
「…………元はといえば、私のせいですから。謝るのは私の方です。……ただ、次からはもう少し手加減してくれると、嬉しいです」
 そう言って、由梨子は恥ずかしそうに、それでいて苦笑混じりの微妙な笑顔を浮かべる。その笑顔を見るに、どうやらあの時の負い目は払拭できたようだと、月彦もまた笑顔を返した。
「っと、それよりも先輩、時間がありません。とにかく、これを受け取って下さい!」
「うん?」
 由梨子に右手をとられ、そのまま掌に何かを握らされる。小さな、金属のような手触りだった。
「…………私の、部屋の……スペアの鍵、です」
 由梨子は月彦の手を握ったまま――鍵を握った月彦の手を、そのまま自分の両手で包み込むように押さえたまま、言葉を続ける。
「……………………時々で、いい、ですから…………私の所にも“帰って”きて下さいね、先輩」
 そこまで言い終わるや、由梨子は逃げるように踵を返して走り去る。一方月彦はといえば、思わぬ贈り物に呆然とその場に立ち尽くしてしまった。
(…………由梨ちゃんの部屋に“帰る”って……)
 それではまるで――否、完全に妾宅とそこに住まう愛人のようではないか。
(………………いやでも…………ちょっと、いい、かも…………)
 期待とも興奮ともつかない胸の高鳴りを覚える月彦の頭上で、人知れず授業開始のチャイムが鳴り響くのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下おまけ

読みたい方だけどうぞ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え………………?」
 笑顔のまま、愛奈は小首を傾げる。土岐坂家別邸の一角。八畳敷きの和室で互いに座布団に座す形で双子の姉と向かい合っていた優巳は、ただそれだけでひぃと悲鳴を上げた。
「ごめんね、優巳。私が聞き間違えたのかな? “ヒーくんに食べてもらえなかった”って聞こえたんだけど」
「だ、だからね……私も、頑張ったんだけど……」
 けほっ、と優巳は咳を挟む。
「ちょっと、体調崩しちゃって……あと、他にもいろいろ邪魔が入っちゃって……ごめんね、愛奈」
 優巳は、あえて失敗の原因をはぐらかした。愛奈が作ったクッキーを月彦自身が捨て、踏みつけたことや、最後に残っていたひとかけらがよりにもよって月彦の現彼女である女に処分されてしまったことを正直に話す気など、とてもなれなかった。
 話せば、或いは愛奈の怒りの矛先が自分ではなく、あの由梨子という女に向けられ、巧く処分を免れることが出来るかもしれない。が、“それはそれ”として、より重い罰が下される可能性の方が高いと――愛奈の側で、ずっとその考え方や行動を見てきたが故に――優巳は判断した。さらに言うなら、その場合再度怒れる姉の命を受けて由梨子を害しにいく羽目になるのも自分の役目となり、それは同時に怒れる月彦の報復を一身に受けることにも繋がる。
 もはや優巳にとって、由梨子の件を姉に報告するということは百害あって一利無しといえた。
「ねえ優巳。お菓子を渡して、食べてもらうのって、そんなに難しいことかな?」
 優しい声。だが愛奈は腸を煮えさせながらでも、そのように振る舞うことができる。そしてそれは同時に、一触即発の危機でもあることを、優巳は経験から知っている。
 下手な口をきけば、それ自体が引き金となりかねない。故に、優巳はただただ身を縮こまらせ、自分への沙汰に恐々とするしか術が無い。
「ヒーくんに会って、お菓子を渡して、食べてもらう。簡単なことだよね? なのにどうして失敗するの?」
「ごめん……ごめんね、愛奈……お願いだから、そんなに怒らな――――ァァアアッ!!」
 優巳の言葉は、激痛によって遮断された。瞬きよりも早く腰を上げた愛奈に前髪を掴まれ、ぐいと捻るように掴み上げられる。
「私、ずっとずっと楽しみに待ってたんだよ? 優巳は知ってるよね? 私がどんな思いであのクッキーを作ったのか。両手の指が痛くて痛くて、夜も眠れないくらい辛かったけど、だけどそれでヒーくんが美味しいって言ってくれるならって………………ねえ優巳、ちゃんと聞いてる?」
「ギャァァァッ! い、痛い……痛いよ愛奈ぁぁあ!」
 さらに前髪を捻り上げられ、そのうちいくらかはぶちぶちと引きちぎられる。優巳はもうほとんど膝立ちになりながら、ただただ姉の暴力に怯えていた。
「土下座」
 愛奈の呟きと共に、前髪が解放される。忽ち優巳はそのまま伏すように倒れ込む。
「三時間の土下座。それで許してあげる。ほら、早く!」
「は、はいぃ!」
 脇腹を容赦なく蹴りつけられ、優巳は雷鳴に怯える子供のように体を折りたたみ、愛奈の足下で畳に額を擦りつけるように土下座をする。
 そのまま、声もかけずに愛奈は踵を返し、障子戸を開けて出て行ってしまう。足音が徐々に遠ざかるのを聞きながら、優巳はホッと安堵の息を吐くも、土下座の姿勢は崩さない。たとえ監視の目がなくとも、少しでも姿勢を崩そうものなら愛奈は必ずそれを見抜くという確信が、優巳の中にあった。
(…………でも、良かった)
 土下座の姿勢を三時間続けることは、決して楽ではない。しかし、それは優巳が覚悟していた“おしおき”に比べればあまりにも軽い刑罰だった。
 あとは、このまま何事も無く三時間過ぎてくれれば――
「………………ッ!」
 屋敷の離れの部屋はしんと静まりかえっていて、外からは鳥の声ひとつ聞こえない。故に、部屋の前の廊下を歩く姉の僅かな足音、良く磨かれた床板と白足袋が擦れる微かな音ですらはっきりと聞こえる。先ほど愛奈が去ってから、まだ三十分と経っていない。ひょっとしたら、愛奈は三時間の間、土下座をする妹を椅子代わりに読書でもするつもりで、愛読書を取りにでも行っていたのだろうか――優巳のそんな甘い想像が打ち砕かれるのに、さほどの時間はかからなかった。
「ごめんね、優巳。いろいろ捜したんだけど、丁度良い大きさのが見つからなかったの。しょうがないからもうこれでいいよね?」
 障子戸を開け、部屋へと入るなり後ろ手でぴしりと閉めながら、愛奈はいつも通りの。世間話でもするような声で言う。優巳は恐る恐る顔を上げ、“これ”を見、そして戦慄した。
「あれ……? 顔、上げてもいいって…………私、言ったかなぁ?」
 笑顔のまま、惚けるように言われて、優巳は慌てて額を畳に擦りつける。これでいいかと訊いたくせに――などとは、微塵も思わない。優巳はただただ恐怖に震え、歯の根を鳴らし続ける。
 何故なら、愛奈が手にしていたものが、金槌と――そして五寸釘だったからだ。
「優巳、私はね、謝罪ってやっぱり誠意が大事だと思うの。誠意があれば、本気で謝りたいって気持ちがあるなら、人間は焼けた鉄板の上でだって平気で土下座できるんだって」
 畳に額を擦りつけたままの優巳には、愛奈の位置は見えない。が、畳から伝わってくる振動や衣擦れの音から、姉が自分の目の前に立ち、しゃがみ込んだことが解る。
「でも、ここにはそんな大きな鉄板は無いんだって。がっかりだね。優巳がここまで使えない妹だって解ってたら、前もって準備させておいたのに」
 使えない妹――愛奈にしてみれば、確かにその通りなのだろう。おつかいすらも満足に出来ない、劣った部分ばかりを集めて作り上げた、劣化コピー。
「優巳、両手を畳に着いたまま、指だけを広げて。じゃんけんのパーみたいに」
「ま……待って……愛奈……何を――」
「いーち」
「……っ!」
「にーい」
 優巳は慌てて、愛奈に言われた通りに指を広げる。くすくすと、頭上から天使の嘲笑が振ってきたのはその時だ。
「良かったね、優巳。私に“さん”まで言わせてたら、指じゃなくて両目に釘を打ってた所だよ」
 脅しでも、冗談でもない。愛奈なら、本当にそれをやっただろう。その気になれば、いくらでも“無かった事”に出来る愛奈にとって、妹の目を潰すくらいなんでもないのだ。
「……ゆびって……やっ……やだっ……愛奈、止めてよ!」
「どうして嫌がるの? 優巳はおつかいに失敗して、私に対して申し訳ない気持ちでいっぱいじゃないの? ……思った通り、やっぱり優巳には反省が足りないね。…………私と同じ痛みを味わえば、少しは反省できるかな?」
 反論することは出来なかった。何より、無意味だった。既に刑は下された。どれほど声を枯らして懇願しても、愛奈は決して判決を変えないだろう。
「大丈夫だよ。優巳が、本気で私に悪いって思ってるなら、謝罪したいって思ってるなら、これくらいへっちゃらだよ」
 愛奈は、優巳の小指の爪の上へと、五寸釘を宛がい、そしてゆっくりと金槌を振りかぶる。
「いや……やめて――」
「勝手に動いちゃダメだよ、危ないから」
 掠れて、まともに声にならない優巳のそれに、愛奈が微笑混じりに被せてくる。自らの指の先めがけて振り下ろされる金槌に、優巳は咄嗟に体を引いて逃げようとした。
 しかし。まるで両手のひらが畳に吸着されてしまったかのように、ぴくりとも動かすことが出来ず、そして当然、逃げることも出来なかった。。

 ――ダンッ!

「あぎぃッ……ぁ……あああああああああああああッ!!!!!」
 全身を揺さぶる鈍い振動。忽ち右の小指から激痛が走り、優巳は悲鳴を上げる。愛奈はさらに二度、三度と金槌を振り下ろし、優巳の小指へと釘をめり込ませていく。
「ひっ……ひっ…………ひっ……」
 涙に濡れた視界で、優巳は自分の小指に釘が打ち込まれる光景を見ていた。ぴかぴかの五寸釘が爪を割りながら、愛奈の一打ごとに小指へとめり込んでいく。痛みはとうに許容量を超え、もはや悲鳴すらまともに出ない。ただただ口元を引きつらせ、しゃくりあげるような嗚咽を漏らすのみだ。
「一本目――」
 愛奈は呟き、じゃらりと。八本の五寸釘を優巳の目の前、畳の上へと転がす。既に一本は愛奈の手に握られ、そして優巳の右手の薬指へと宛がわれている。
 ――ダンッ!
 釘の先が爪を割り、骨を貫き、肉を畳みに縫い付ける。優巳は体を痙攣させながら、屋敷中に響くほどの悲鳴を上げ続ける。
「二本目」
 まるで独り言のような、愛奈の呟き。さらに三本目、四本目と、愛奈は時折額に滲んだ汗を袖で拭いながら“作業”を続ける。
「十本……目っと」
 最後の一本を優巳の左の小指へと打ち終わり、愛奈はふうとため息混じりに体を起こす。
「んんーーーー疲れたぁ。慣れないことしたから、腰が痛くなっちゃったよ」
 両手の指先を五寸釘によって畳に縫い止められた優巳の前で、愛奈は暢気に体を解す。
「約束通り、三時間たったら治してあげる。……もし次失敗したら、この程度じゃ済まさないからね」
「つ……ぎ……?」
 痺れるような痛みに体を震わせながら、涙に頬を濡らしながら、優巳はオウム返しに言った。愛奈は、笑顔のまま大きく頷く。
「そうだよ? 今度はね、クッキーじゃなくってアップルパイにしようと思ってるの。昨日試しに作ってみたらすんごく美味しくって、ほっぺた落っこちそうだったんだから。まだ少し残ってるから、“反省”が終わったら、優巳にも味見させてあげるね」
 次はアップルパイ――優巳は絶え間なく贈られてくる激痛の信号に疲れ切った脳で、ぼんやりと自らの未来を想像する。文字通り精魂込めて愛奈はアップルパイを作るだろう。そしてそれを渡してこいと頼まれるのは自分。しかし月彦は受け取らない。愛奈は再び怒り、そして――
「……やだ!」
 気がついた時には、すでに唇が動いていた。
「うん? 優巳、何か言った?」
「じ……自分、で、渡せ、ば……?」
 とても、正対しては口に出せない言葉だった。血の滲んだ畳と、そこへ打ち付けられている自分の指を視界に捉えながら、優巳は精一杯の勇気を振り絞り、拒絶する。
 そう、月彦が言った通りなのだ。愛奈が怖いなら、会わなければいい。今までどうしてそのことに気がつかなかったのか。月彦の言葉が、さながら出口の無い迷路のように閉じていた優巳の思考に風穴を開けたのかもしれなかった。
「………………何言ってるの、優巳。自分で渡せないから、優巳に頼んでるんだよ? 私は、ここから出られないんだから」
「嘘っ、愛奈なら…………愛奈が本気で出たいって思ったら、こんなところ、すぐにだって出られるくせに!」
 違う、そうじゃない。そんなことを言いたいんじゃない――そう思うも、優巳は己の口から出る言葉を止められない。もう、愛奈には縛られない。自分は自由になるのだという思いが、今までは決して口にできなかった言葉を、優巳に紡がせる。
「………………………………頭の悪い優巳にはそう見えるかもしれないけど、そんなに簡単にはいかないんだよ。ここには何百人もの女官が居て、全員が私をここから出すなって命令されてるんだから。それに、仮にここを無理矢理出て、ヒーくんに会って、その先は? ここに戻るわけにもいかないし、実家にだって帰れるわけないじゃない。ずっとヒーくんの家に居候するの? ちゃんと学校を卒業してる優巳と違って、私には学歴なんて無いんだよ? どうやって生活すればいいの?」
「そんなの、どうにだってなるじゃない。愛奈が本当にヒーくんのコトが好きなら、私と違って何でも出来る愛奈なら、そんなの、ヒーくんと会った後に考えたって全然遅くない! ヒーくんと直接会って、駆け落ちでもなんでもすればいいじゃない!」
「…………………………駆け落ちなんて……きっとあのヒトブタが邪魔してくるだろうし…………あと、そもそもヒーくんの家への道とかも解らないし……………………」
「嘘っ、嘘! 全部嘘っ。本当は、本当はヒーくんと直接顔を合わせるのが怖いだけのくせに! だからッ――」
 ごぎんっ。
 鈍い振動と共に、優巳の視界が180度反転する。
「優巳、うるさい」
 それが、首の骨を折られ、悶絶昏倒する優巳が耳にした、最後の言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ep02 『その頃、真央は……』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは丁度、月彦が由梨子の新居から帰ろうとしていた頃のこと。


「義母さま、この箱はこっちでいいの?」
「ええ、ありがとう真央ちゃん。とても助かったわ」
 葛葉の指示通りに、真央はガムテープで口を閉じられた最後のダンボール箱を押し入れへとしまう。
「ごめんなさいね、本当は月彦に手伝わせる筈だったんだけど、あの子ったら友達の引っ越しを手伝うーとか言って、全然帰って来ないんだもの。真央ちゃんが居てくれて本当に助かったわ」
 葛葉に、押し入れの整理を手伝って欲しいと言われたのが今朝のこと。それから昼を跨いでずっと、葛葉と共に押し入れにしまわれているものを引っ張り出しては、いるものいらないものをより分けていたのだった。
「手伝ってくれたご褒美に、真央ちゃんにいいもの見せてあげる」
「ご褒美……?」
 ご褒美という言葉に、ぴくんと体が反応してしまうのは、間違いなく月彦の調教の賜物だった。もちろん葛葉が言っているのは、そういういかがわしい意味ではないだろうが、真央は心が浮き立つのを抑えきれない。
 葛葉は、なにやら黒い箱のようなものを小脇に抱えたまま真央を手招きし、居間へと誘う。そして真央を居間のソファへと座らせるや、自分は小脇に抱えていた黒い箱をテーブルの上へと置き、束ねていたコードを解いてそれらで黒い箱とテレビを繋いでいく。――真央は知らないが、黒い箱というのは一昔前のビデオカメラだった。
「ええと……どうやるんだったかしら」
 どうやら、葛葉自身もそれの扱いには不慣れらしい。というのも、ビデオカメラもまた押し入れの奥へとしまわれていて、それを見つけたのもついさっきのことなのだ。使い方を忘れていたとしても、葛葉を責めることはできない。
「変ねぇ……壊れちゃったのかしら」
「義母さま、ひょっとして……」
 真央はそっと、ビデオカメラには繋がれているが、その先が放置されている電源コードを指さす。機械のことはよくわからない真央だが、アレを差さなければ殆どの機械は動かないということは、人間社会で生活する上で学んでいた。
「あらやだ、コンセントに刺さってなかったのね。ありがとう、真央ちゃん」
 葛葉は苦笑しながらプラグをコンセントへと差し込み、そして再度ビデオカメラを操作する。程なく、黒一色だったテレビ画面に変化が起きた。
「えっ…………義母さま……これって……」
「うふふ、可愛いでしょう? お父さんがね、こういうのを撮るのが趣味の人だったの」
 テレビに映し出されているもの――それは、水色のベビー服に身を包み、柵つきのベビーベッドの中ですやすやと眠る赤ん坊の姿だった。そしてその傍らには、どこか心配そうな目で柵に取りつき、ジッと赤ん坊を見守る少女の姿があった。
「霧亜よ。可愛いでしょう?」
 まるで真央の焦点の動きを察したように、葛葉が呟く。うそ……ついそんな声が出てしまいそうになる。
(これが、姉さま?)
 そこには、現在の霧亜の面影など微塵もない。――否、確かに顔立ちそのものは霧亜のそれだが、その不安そうな眼差しや愛くるしい服装などはおよそ紺崎霧亜という人物に相応しくないものだった。何より、“あの霧亜”が髪にリボンをつけているというのが、真央には信じられなかった。
(じゃあ、ベッドで寝てるのが……父さま?)
 以前、呪いによって幼子へと変貌した月彦よりも、さらに幼いその姿。真央は呼吸をすることすら忘れて、ただただその寝姿に見入ってしまう。
(やだ……父さま、可愛い…………)
 やがてシーンが切り替わり、今度は赤ん坊が積み木細工で遊んでいるところが映し出される。どうやら幼い月彦は積み木で家だか塔だかを作ろうとしているらしいのだが、四角い木を何度積み上げても、最後の三角の木を屋根にする際に崩してしまい、次第にぐずり始めていた。するとすかさず霧亜が現れて、月彦の前に綺麗な積み木の家を作り、よしよしとあやし始める。が、今度は自分の積み木を勝手に使われたことが気に入らないらしい月彦がたちまち大泣きを始めてしまう。
「あぁぁ……!」
 真央はもう感極まり、思わずテレビへと詰めよってしまう。このまま画面の中へ入っていき、幼い月彦と、そして幼い霧亜をあやしてやりたい。抱きしめてやりたい――そんな欲求に身もだえしてしまう。
「ね、可愛いでしょ? 本当はもっとたくさん残ってる筈なんだけど……霧亜が勝手に捨てちゃうの。きっと恥ずかしいのね」
 これは霧亜に見つからないように大事にしまっておかなきゃ――そう言う葛葉に、真央は全面賛成する。この貴重な記録は、絶対に守り通されなければならない。
「でも義母さま、これ……音は出ないの?」
「あら……そういえば出てないわね。音もちゃんと出る筈なんだけど……」
 そう言って葛葉がビデオカメラを弄るが、依然無音の状態は改善されなかった。
「うーん、多分これはテープ自体が痛んじゃってるか、撮影の時にお父さんが失敗しちゃったんじゃないかしら」
 結局葛葉はそのように結論づけ、そして壁掛け時計を見るなりハッとする。
「あらやだ、もうこんな時間。真央ちゃん、私は買い物に行ってくるから、見終わったら後片付けお願いね?」
「うん! 任せて、義母さま」
「あと、霧亜にも、そして月彦にも内緒よ? 私と真央ちゃんだけの秘密」
 うんと、真央は葛葉の方を振り返る暇すら惜しいとばかりに、再び画面に視線を戻す。画面では、恐らく一歳前後と思われる月彦がつかまり立ちをしようと藻掻いている所だった。
「きゃわわわわっ!」
 思わず、そんな意味不明な声が口から出てしまう。こんな、こんな愛くるしい生き物が存在していいのだろうか。短い手足を懸命に動かし、なんとか立ち上がろうとするその姿のなんと胸を打つことか。
「がんばれっ、父さまがんばれ!」
 画面の中で、月彦は幾度となく転び、絨毯の上で頭を打っては――恐らく撮影されたのは、真央が要る居間だと思われる――果敢にも立ち上がる。やがて苦労が実ったかのように、月彦はソファに手をつきながらもよちよちと歩き出す。
「あぁぁぁぁッ!」
 真央が咄嗟に周囲を見回してしまったのは、共感してくれる相手を捜したからだった。しかし、唯一の共感者であった葛葉は外出してしまっている。この罪深いまでに可愛らしい生き物の姿を、もっとたくさんの人に見てもらいたい――同時に、自分だけのモノとして大事にしまっておきたい。そんな相反する重いに真央は身もだえしながら、再び画面へと向き直る。
 今度は、絨毯の上に両足を広げて座っている幼い月彦を、同じく背後に座っている幼い霧亜が包み込むように抱きしめて一緒に座っているシーンだった。画面の右側に大人の手が現れ、しきりに手招きをしているのだが、フリフリのゴスロリワンピに身を包んだ霧亜は何度も首を横に振り、そして宝物でも守っているかのようにギュッと月彦を抱きしめている。恐らくは撮影者である月彦の父親が「おいで」か「離れろ」と言っているのを拒否しているシーンなのだろう。少し迷惑そうな顔をしている月彦に、真央はニヤニヤが止まらない。
(……こんなの、今の姉さまが見たら……)
 きっと、奇声を上げながら機材一式を粉砕してしまうのではないか。葛葉の言う通り、これは絶対に霧亜に――そして、霧亜に漏らす恐れのある月彦にも――秘密にしなくてはならないものだ。
 さらにシーンは切り替わり、今度は家の中ではなく、公園の一角が映し出されていた。先ほどつかまり立ちをしていた頃よりもさらに一回り成長した月彦は既にベビー服ではなく赤の長袖シャツにオーバーオールを身につけていた。恐らくは、二才前後と思われる月彦は、四才前後と思われるピンクがかった白のワンピースを着た女の子と共に砂場遊びをしているようだった。
(…………姉さまにも、こういう頃があったんだ)
 あの霧亜も、子供の頃は砂場遊びをしていた――そう思うだけで、真央はなんともほっこりした気分になる。同時に、あの霧亜ならば自分のそういう過去を人に見られまいと、問答無用で処分をするのも仕方が無いかもしれないと思う。
 そのまま五分ほど砂場のシーンが続き、不意に幼い月彦がカメラの方へと顔を向けた。無音な為推測するしかないが、恐らくは撮影者である月彦の父親にでも呼ばれたのだろう。月彦は立ち上がると、園芸用ショベルを手にしたまま、とてとてと今にも転びそうな足取りで駆け寄って来る。そんな月彦の背を追うように、くるりと。今まで背を向けていた少女が振り返った。
「えっ……」
 てっきり、霧亜だとばかり思っていた。しかし振り返った少女の顔は霧亜とは明らかに違う――そしてどこかで見た顔だった。
 ぷつりと。まるで鼓膜に穴を開けられるような、そんな音がテレビのスピーカーから聞こえたのはその時だった。同時に、今まで全くの無音であった世界に、突如風のざわめきや、鳥のさえずりが混じり出す。どうやら、先ほど葛葉がなんとか音を出そうと弄っていたときに、音量が最大になっていたらしい。
 それ故に、真央はカメラの前まで駆け寄ってきた月彦が、こぼれるような笑顔を見せながら言った言葉を、はっきりと“全身”で聞いた。

『うん! ぼく、アイおねえちゃんだいすき!』

 

 


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