料理をしていても、つい顔がにやけてしまう。ハッと気がついて、すぐに顔を引き締めるも、気がつくとまたにやけてしまう。
 そんなことを一体何度繰り返しただろうか。休日だというのに五時起きで部屋を片付け――前日のうちに既に片付けてはいたのだが、さらに入念に――調理を続けていた。普段は作れない、手間も時間もかかる料理。その殆どが、白耀邸でのアルバイトを通じて教わったものだ。
 月彦が来ると約束した時間は朝の九時。由梨子の気持ちとしては、九時と言わず七時でも六時でも良かったのだが、そこは逸る気持ちを抑えて承諾した。
(……珠裡さんの試験も終わったし、今日は前の時みたいな邪魔は入らないですよね、先輩)
 念には念を入れて、月彦が来たら鍵を閉め、インターホンが鳴っても一切出ないようにしよう――そんなことまで、由梨子は考えていた。とにもかくにも、久しぶりに“二人きり”になれる休日であり、由梨子は待ちきれない気持ちを抑えながら、鼻歌交じりにシチュー鍋をかき回していた。

 インターホンが鳴ったのは、そんな時だった。

「あれ……?」
 咄嗟に、居間の壁掛け時計のほうへと視線を向ける。時刻はまだ8時を過ぎたばかり。月彦との約束は9時だから、来るには早すぎる。
(でも……ひょっとしたら先輩も……)
 待ちきれなくて、早く来てくれたのではないか――そんな期待を込めて、由梨子はそっとドアの覗き窓から向こうの様子を伺った。そして瞬時に、自分の望みが叶ったことを知った。
「先輩っ!」
 即座に鍵を開け、ドアを開ける。
「やっ、由梨ちゃん」
 朝日を背に、眩しいばかりの笑顔を浮かべた月彦がそこに立っていた。その容姿がいつになく魅力的に見えるのは、それだけ待ち焦がれていたが故かもしれない。
「ずっと待ってました。どうぞ、上がってください」
 月彦には既に合い鍵を渡してある。由梨子としてはわざわざインターホンなど鳴らさず、自分の家の様に「ただいま」と言って上がって欲しいのだが、そこはそこ。やはり月彦もなかなか慣れないらしく、由梨子の望みは叶わない。
(……いいんです。でも、少しずつ慣れてくださいね?)
 そんな期待を込めて、由梨子は月彦を見上げる。見上げる、という程の身長差でもないのだが、気分的にはそれに近い。
 が、どういうわけか月彦は立ち尽くしたまま、一向に上がろうとする気配がない。
「……先輩?」
「ごめん、由梨ちゃん。俺、考えたんだ」
「えっ……考えたって……」
 何をですか――それは掠れて、声にはならなかった。浮かれていた心がたちまち萎え、逆に身が震えるような恐怖が体を包む。
 “この切り出し方”は、ひょっとして――。
「家から、ここに来るまでの間、考えて……そして思った。今のままじゃダメだって。今みたいに、由梨ちゃんと真央を両天秤に乗せるみたいな生活をしてたら真央にも、由梨ちゃんにも失礼過ぎる。なんとかしないといけないって、そう思ったんだ」
「ま、待ってください……先輩……それって――」
 何故、どうしてという思いが、次から次にわき上がる。今日は、今日は楽しい一日になる筈だったのではないか。それなのに、どうしてこんな思いをしなければならないのか――。
 まるで、足下の地面が崩れ奈落へと落ちていくような気分。由梨子が危うく貧血を起こしかけたその時だった。
「……だから俺、旅に出ようかと思うんだ」
 月彦の言葉に、意識を失いかけていた由梨子は辛うじて踏みとどまった。月彦はふっと視線を由梨子から外し、彼方を見るように目を細める。
「た……び……? え?」
「特にアテはないけど、とりあえず南の方に行ってみようかと思ってる。いろんな場所を回りながら、自分の力だけで生きるんだ。そうすればきっと“本当の自分”が解ると思うんだ」
 今度は、違う意味で目眩を覚えた。一体全体月彦は何を言っているのだろう。
「待って、待って下さい……先輩……どうして急にそんなことを言い出すんですか? だって今日は――」
「解ってくれ、由梨ちゃん。いや、由梨ちゃんなら解るはずだ。俺は今の俺を超えたいんだ!」
「全然解りません! 先輩、一体どうしちゃったんですか?」
「大丈夫、今は解らなくても、いつかきっとわかる日が来るよ。とにかく俺はもう、今みたいな爛れた生活に嫌気がさしたんだ。俺には……もっとこう、俺にしか出来ない何かがある筈なんだ。それを探しに行きたいんだ」
「先輩……」
 由梨子は、まじまじと月彦の顔を見る。冗談を言っている顔ではなかった。こんな寝言にしか聞こえない様な事を、月彦は大まじめで言っているのだ。
 月彦は再び、視線を由梨子の方へと戻す。その目はさながら、プロポーズでもするかのように真剣だ。
「急なことで、由梨ちゃんには本当に悪いと思ってる。だけどもう決めたことなんだ。……このことは、まだ真央にも言ってない。だから出来れば、由梨ちゃんの口から真央に説明してもらえると嬉しい」
「先輩……本気、なんですか……?」
「本気だよ。俺は本気でピリオドの向こう側を目指す。一年かかるか二年かかるか解らないけど、必ずやり遂げてみせる」
「そんなに長く……先輩、学校は――」
「学校なんかじゃ俺を縛れない。いや、縛られちゃダメなんだ」
 かぶりを振って、月彦はハッと。何かの気配を感じたように、再び彼方を見つめる。
「……感じる、もうじき黒い風が吹き始める。由梨ちゃん、危ないから今日は外に出ちゃダメだよ」
 あまりにもな月彦の変化に由梨子は絶句したまま思考停止していた。由梨子のそんな姿にはも関わらず、月彦はまるで子供が格好つけるような仕草でウインクをすると、そのまま颯爽と走り去ってしまう。
 由梨子が自我を取り戻したのは、月彦が去ってからゆうに五分は経過した後だった。
「先輩……今の話を……私が、真央さんに伝えるんですか……?」
 呟く。
 或いは――否、間違いなく。自分まで真央に正気を疑われるだろう。
「先輩……一体どうしちゃったんですか……?」
 悪い夢なら早く覚めて――由梨子の願いもむなしく、程なく漂ってくる漕げたシチュー鍋の匂いが、否が応にも現実であると思い知らせるのだった。


 


 
 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第五十六話

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 





  ―― 七日前。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれ……?」
 それは丁度、霧亜の見舞いを終えての帰路。その途中、街路樹の側で呆然と立ち尽くしている藤色の着物を見るなり、月彦は小走りに駆け寄った。
「まみさんじゃないですか。変なところで会いますね」
「……月彦はんどすか」
 まみは物憂げに――ほとんどため息混じりに――呟き、力なく笑った。女性としてもふとましい――もとい、やや大柄気味なまみだが、今日に限っては平均以下にすら見える。
「なんかため息ついてたみたいですけど、どうかしたんですか?」
「…………“学校”の方に呼び出されましてなぁ。その帰りどす」
 “学校”の発音に違和感を覚えるのは、恐らくはまみにとって――或いは妖狸という種族にとって――あまり馴染みのない施設だからなのかもしれない。そんなことを考えている間に、まみはさらにもう一つため息をつく。
「学校にって……まさか、珠裡のことで何か……?」
 こくりと、まみは力なく頷く。
「…………ここであんさんに会うたのも縁どす。一つ、話を聞いてくれまへんやろか」
 
 
 
 立ち話も何だからと、月彦は誘われるままに綿貫家へとやってきた。黒塗りの座卓を挟む形でまみの正面へと座り、そっと湯飲み茶碗を差し出される。
「…………成績があんまようないらしいんどす」
 ぽつりぽつりと。まるで念仏でも唱えるかのようにまみが語るところによれば、珠裡は一応はとある有名高からの特待生という触れ込みで転入してきた――ということになっているらしい。しかし、それにしては……というより、殆ど言語道断なテスト結果を残しすぎていて、このままでは最悪退学もありうるのだという。
「……ちょっと待って下さい。一つ確認したいんですけど……珠裡は学校に入る前、どこかで勉強とかしたことあるんですか?」
「人間の学問くらい、そないなことせんでも余裕やと思うとったんどすが……」
「つまり、いきなりぶっつけ本番で高等教育に放り込んだんですね?」
 それは高校の勉強水準を見誤っていたまみにとってもショックだっただろうが、珠裡にとっても大きな不幸だったのではないか。
(真央ですら……入学前には姉ちゃんに勉強教えてもらってたのに……)
 ましてや、真央より格段に出来の悪そうな――この判断には、かなりの親ばか補正が入っているが、無論月彦にその自覚はない――珠裡では、それこそひとたまりも無かったのではないか。
「……とりあえず、今からでも勉強頑張るしかないんじゃないですか? そうだ、いっそ小曽根さんに家庭教師してもらうってのはどうです?」
「小曽根……? 家庭教師?」
 頭から大きな?を出しながら首を傾げるまみに、月彦は説明を続けねばならなかった。
「家庭教師っていうのは、先生を家に呼んでマンツーマン……1対1で勉強を教えてくれる人のことです。小曽根さんはほら、アルバイトで雇ってたじゃないですか。俺と同年代の、ちょっとぽっちゃり気味の……」
「ああ、英理はんの事どしたか。あの子があんさんの言う家庭教師いうもんなんどすか?」
「いえ、ちょっと誤解があるみたいで……家庭教師っていうのは別に仕事とかじゃなくて……いや、それを仕事にしてる人も居るかも知れませんけど、とにかくある程度勉強が出来れば誰にでも出来るものなんですよ。で、小曽根さんはすごく勉強が出来る人しか行けない学校に通ってる人ですから、きっと教え方も巧いと思うんです」
「あの子が、まぁ……。確かに、えらいそろばんの早い子やなぁと思うとったんどす」
 うんうんと、感心するようにまみは湯飲みを手に持ったまま頷く。そして「ただ……」と、小さく零した。
「…………あの子が承知しますやろか」
「珠裡が、ですか?」
 まみは頷く。またしてもため息混じりだった。
「ああ見えて、気位だけは高い子どす。英理はんとは確かに顔なじみどすが、教師生徒の間柄いうんはどないどっしゃろ」
 独り言のように呟きながら、まみはちらりと。まるでのぞき見るように視線を向けてくる。
「…………?」
「さっき、家庭教師いうんはある程度勉強が出来るなら、誰にでも出来る言うとりましたな。……したらいっそ、あんさんに頼むんは駄目どすか?」
「へ……お、俺ですか!?」
「あんさんなら、珠裡もよう懐いとることやし、きっと恙のう勉強出来ますやろ」
 うん、と大きく頷き、まみは湯飲みを置いて名案だと言わんばかりにぽむと手を叩く。
「ま、待って下さい! やっぱりこういうのって“教師の質”が大事なんですよ! そういう意味では、俺なんかとても小曽根さんの足下にも及ばないわけで……」
「珠裡もきっとあんさんに教えてもらえるなら、勉強なんか嫌やー言いまへんやろ。そうと決まれば。早速明日から頼みますえ」
「え……ちょっ…………決まっ……え?」
「あんじょう頼みましたえ」
 混乱する月彦を見据えて、まみは菩薩のような笑顔を浮かべて、再度言った。



 或いは、まみは最初からそうするつもりで、あそこで待ち伏せていたのではないか――綿貫家からの帰り道、月彦は呆然としながらそんなことを考えていた。
(ていうか……絶対無理に決まってる)
 まみの話によれば、珠裡の学力測定を兼ねた特別テストが行われるのは約一週間後だという。その時点で在る一定以上の点数が取れなければ、最悪退学もありうるのだとか。
(無理だ……俺には責任が重すぎる)
 しかし、まみは聞き入れてはくれなかった。珠裡との縁でいえば、絶対に英理に頼んだほうがいいと何度訴えかけても頑として受け入れてはもらえなかった。
「もう決まったことどすから」
 まみはそう言い、明日は学校が終わったらすぐに来るようにと付け加えた。断る権利など無かった。断っても、それは断ったことにはならなかった。
(……まともな人だと思ってたのに)
 ショックではある、が、それも見方一つとも言える。というのも、あの食いしん坊のまみをして、先ほどの会談の間を通してただの一度も、まみは自分が用意した茶菓子である大福に手をつけなかったのだ。
 今度こそ本当の本当に“何も喉を通らない”程に困り果てているのかもしれない。だとすれば、まみのらしからぬごり押しにも、多少は仕方ないという気分になる。
「ただい――」
 とぼとぼと玄関前にたどり着き、ドアを開けようとして――月彦は第六感を超えた七感で“それ”を感じ取った。忽ち声を抑え足音を殺し、階段を上がる。
「――そういうわけだから、“呪”っていうのはバカにならないわけ。しかもこれは大妖狐やそれに比肩する連中に限ったことじゃないの」
 自室の方から聞こえてくる声に、やはりと思う。あの性悪狐が来ているのだ。
「ただの人間だって、心の底から憎まれたり、敵意を向けられたら運の巡りが悪くなったりするの。丑の刻参りとかも“呪”の一種ね。もちろん生半可の敵意じゃ実害を与えたりなんかできないけど、逆に言えば生半可でさえなければ害しうるとも言えるわ」
 話し相手は真央だろうか。ここは一つ思い切り怒鳴り込んで悲鳴の一つも上げさせてやるかと、月彦は自室の前まで忍び寄り、そのドアノブに手をかける。
「そうねぇ、たとえば……不眠になったり、治るはずの怪我が治らなかったりとかも、ひょっとしたら誰かに死ぬほど憎まれてるせいだったりするかもしれないわねぇ」
 いざ踏み込もうとした刹那。どこか笑いを含むような真狐の声に、月彦の全身は硬直した。
「…………おい、今の話をもう一度聞かせろ」
 当初の予定を変更し、月彦はごく自然にドアを開けた。室内にはなるほど、予想した通り絨毯の上に置かれたクッションにちょこんと座っている真央と、勉強机に腰掛け偉そうに足を組んでいるその母親の姿があった。
「あっ、父さまお帰りなさい!」
「おう、ただいま、真央」
「あら、帰ってきてたの? 全然気づかなかったわぁ」
 嘘つけ、と反射的に毒づきそうになる。帰って来ているのに気づいたから、そしてドアの向こうで聞き耳を立てているのに気づいたから、“そんな話”をしたくせにと。
「お前、まさか知ってるのか。姉ちゃんの怪我がどうして治らないのか」
「何のことかしら」
「惚けるな! まさか、お前が――」
「一体何の話かまったく解らないけど、言いがかりも大概にしてほしいわ。あたしはただ、真央と世間話をしてただけよ」
「父さま、母さまは本当に何もしてないよ? だって、あそこは――」
「…………あぁ、そういや、そうだったな」
 真央の言葉で、月彦は思い出す。何故真央が霧亜の見舞いに行けないのか、それはあの病院にどういうわけかキツネ避けのまじないが施されているからだ。
「……もっとも、こいつならそんなのどうとでもしちまいそうだが」
「あんたがどうしても何かちょっかい出して欲しいっていうんなら、してあげなくもないけど?」
 くつくつと笑いながら真狐は足を組み替える。まるでそれが、話題を変える合図だとでも言うかのように「ねえ」と声に喜色を乗せて切り出した。
「そんなことより、真央に言わなくていいの? まみに頼まれたんでしょ? まさか隠すつもり?」
「……なんでお前が知ってるんだ。つか、お前が居なきゃ俺は普通に言ってたんだからな!」
 真狐の余計な一言のせいで、まるで真央にバレてはいけない秘密を抱えて帰って来たような形にされてしまった。娘に余計な疑惑を持たれない為にも、ここは公明正大に真実のみを話す必要性があった。
「……えーと、その、なんだ。真央、ちょっとまみさんに頼まれてな、明日から……珠裡の家庭教師をすることになっちまった」
「父さまが……珠裡ちゃんの?」
 真央が怪訝そうに眉を寄せる。その声の響きには明らかに“何故”“どうして”“相手は妖狸なのに”という抗議の響きが混じっていた。
「いや、俺も断ろうとは思ったんだが……まみさんに頼み込まれちまって」
「そーそー、“父さま”は来週のテストで無事珠裡に合格点取らせることが出来たら、母娘丼でお礼するってまみに頼まれたんだってサ」
「ってぉい! デタラメ言うんじゃねえ!」
「父さま、本当なの……?」
 まるで、首筋に刃物でも当てられたかのような悪寒を感じるのは、真央の父親を見る目があまりにも冷ややかだからだ。多分に侮蔑を含んだその目に、月彦は後ろ暗い事など何も無いにもかかわらず、まるで本当に後ろ暗いかのようにうぐと言葉を詰まらせてしまう。
「で、デタラメだ! 第一、俺がそんな誘惑に乗る男か!」
「…………。」
「…………。」
 真央の視線の温度がさらに下がる。否が応にも、月彦は自分が娘に一体どのように思われているのかを自覚せずにはいられなかった。


 
 
 結局、肝心なことは聞けずじまいのまま真狐は帰って行った。
「えーと……その、ほ、本当に珠裡の家庭教師をして欲しいって頼まれただけ……だからな?」
 なにやら言葉を重ねれば重ねるほどに語るに落ちる気がして、月彦はそうとしか言えなかった。
(……本当に後ろ暗い事なんて何も無いのに…………)
 純粋に、まみに母親として娘の勉強を見てやって欲しいと頼まれただけであるのに。まるで色欲で釣られて鼻の下を伸ばしながら下心満載で家庭教師を引き受けたような形にされてしまった。
 尤も、そのような疑いを掛けられてしまうような“行い”を続けてきた自分自身にも責任があるということは解ってはいるのだが。
「……父さま、それって珠裡ちゃんのおうちでするの?」
 室内で二人きりの時は何かと距離を詰めその母譲りの凶悪な胸元をすり当ててくる真央だが、今日に至っては微妙な距離を保ったまま近づいてこようともしない。なにやら体の向きまでそっぽを向けたまま、振り返り気味に僅かに首だけを月彦に向けたまま、硬質的な声でそんな質問を投げかけてくる。
「そりゃあ……だって、家に呼ぶわけにはいかないだろ?」
 珠裡とて、真央が居るなら行きたくないとゴネるのは目に見えている。それでなくとも、一体どれくらいの時間を掛けねばならないのかわからないのだ。下手をすると帰りに珠裡の家まで送る羽目になるかもしれない。
「………………するのは勉強だけ……なんだよね?」
「あ、当たり前だろ!」
 なんという率直で、そして意味深な質問だろうか。気がつけば、先ほどにも増して真央はそっぽを向き、ほとんど月彦に向けて背中を見せるような形になってしまっている。そのふっさりとした尻尾はさも不機嫌そうにぴったりと絨毯の上に寝かされたままぴくりとも動かない。
 が、真央は唐突ににっこりと笑顔を零した。
「……大丈夫だよ、父さま。帰りが遅くなっても、いつもみたいにちゃんと一人でお留守番してるから」
「うぐ……俺も、断ろうとはしたんだが……」
「あっ、義母さま帰ってきたみたい! 晩ご飯の用意手伝ってくるね!」
 態とらしい程に明るい声を上げ、真央は階下へと降りていってしまう。
(……まぁ、仕方ない……か)
 が、月彦はさほど悲観もしていなかった。というより、心の何処かで喜んでもいた。何故なら、真央も本気で怒っているわけではないと信じていたし、何よりも真央は不機嫌な時のほうが乱れた時のギャップが凄まじいことを経験から知っているのだった。



 夕飯が終わっても、そして風呂を済ませても、真央の機嫌は直らなかった。激怒しているというわけではなく。例えるなら新しく家にやってきた子猫に飼い主が構いっぱなしなのが気に入らない古株の猫のような。同じ部屋の中には居るが、決してすり寄ったりはしないという状態。そのくせ時折意味深に訴えるようなチラ見をしてくるあたり、月彦はもう噴き出しそうになってしまう。
(つまり……アレか? アレをして欲しいんだな?)
 チラ見は、本気で怒っているわけではないということをわざわざ教えているのだ。そのくせ不機嫌を装い、距離を詰めてこないのは強引に襲われることを望んでいるから。無理矢理気味に、それも叱られながら犯されたいという愛娘の願望が透けて見えるようで、月彦はニヤけそうになりながらも、それを叶えてやるのは教育上どうなのだろうという危惧を抱かずにはいられない。
(とはいえ……ここで真央の訴えを無視すれば、本当に機嫌が悪くなってしまうかもしれないしな)
 明日からしばらくかまってやれない以上、ここはやはりある程度真央の機嫌をとっておく必要がある。が、ただ真央が望むようにしてやれば満足されるかというと、必ずしもそうではないのが難しい所だった。
(ふむ……)
 机に向かい、高一の勉強範囲の復習などをしながら、月彦は真央の方へと視線を向ける。ベッドの上で、クッションを抱くように座ったままテレビを見ていた真央もまたちらりと一瞬月彦の方へと視線を向け、一瞬目が合い、真央の方が反らす。
「……よし、まあ……大丈夫だろう」
 聞こえよがしに言って、教科書を閉じ、伸びをする。
「11時か、ちょっと早いけどそろそろ寝るか」
 わざわざ時計を確認して呟くと、不機嫌そうにベッドの上に伏せられていた真央の尻尾がぴくりと反応した。つまり、月彦が言わんとすることを察した証拠とも言えた。
「…………私、今日は義母さまと一緒に寝る」
 テレビを消し、真央が不機嫌そうな声を残して部屋を出ようとする。――その手がドアノブに触れるか触れないかのところで。
 ドンッ、と。月彦は真央の肩越しにドアに手を突き、動きを止めさせた。
「……とう、さま?」
 突然の壁ドン(本当はドアドンだが)にびくりと体を竦ませ、恐る恐る振り返った真央の目は怯えと期待に濡れていた。が、すぐにこれではいけないと思い直したのか、首を振ってキッと睨み上げてくる。
「つれないな、真央。今日は一緒に寝ないのか?」
「…………今日は……父さまと一緒に居たくない……の」
 真央はドアに背中を張り付かせながら、視線を左下方へと逃がす。お気に入りの牛柄ではなく、赤と青のチェック柄のパジャマには「注目しろ!」と言わんばかりにばつんばつんに自己主張した膨らみ。例によって例の如くブラはつけておらず、真央の興奮の度合いを示すかのように早くも堅く尖りだした先端が、生地の下から自己主張を始めていた。
(……いくらなんでもバレバレ過ぎるだろ、真央?)
 無理矢理プレイが望みなら、せめてもう少し本当に不機嫌なフリくらい出来ないのかと。尤も、真央にしてみればあくまで無理矢理“め”がいいのであって、本物のレイプでは駄目ということなのかもしれない。
「そうか、残念だな。俺は真央と一緒に寝たいんだが」
 残念だと言いつつ、ドアに突いている手とは逆の手で、徐に真央の胸元を鷲づかみにする。
「ンッ……やっ……」
 真央は一瞬だけ身を竦めるが、しかし抵抗もしない。さらに月彦がもっぎゅもっぎゅと揉み捏ねても棒立ちのまま、ただただ押し殺したような息を漏らすばかり。
「どうした、真央。母さんの所に行くんじゃないのか?」
「ッ……ぅ……だって、父さまが……放して、くれない、から……」
 さも不本意そうに。悔しそうに。下唇すら噛みながら、真央は言う。いつでも自分の意思で動かし、月彦の手など簡単に撥ね除けられるであろう両手を、自ら背中の方へとしまいながら。
「や、やめ、て! 今日は……父さまと、シたく、ない、の……」
 尚もしつこく服の上から揉み続けていると、真央は殆ど悲鳴のように声を上げた。が、当然月彦は無視して、胸元のボタンを一つ二つ外し、その内側へと手を滑り込ませて直に乳肉を揉みしだく。
「……やっ、ぁ……い、嫌ッ…………おっぱい、さわら、ない、で………………」
 ゾゾゾゾッ――そんな快楽が、稲妻のように真央の体を駆け巡っているのが、乳肉越しに掌へと伝わってくる。母譲りの白い肌、しっとりと掌に吸い付いてくるような極上の質感、そして質量に、月彦は思わず生唾を飲み込んでしまう。
(…………こんなの、仮に真央が本気で嫌がってても、止められるか)
 恐ろしいまでの中毒性。毒されていると解っていて尚、止めることが出来ない。
「ぁぁぁッ…………い、嫌っ…………父さま、早く……」
「“早く”?」
 あっ、という顔を、真央がする。月彦はもはや我慢しきれず、くつくつと笑い声を零した。
「全く、俺が珠裡の所に家庭教師に行くのがそんなに嫌か? そんな我が儘な真央には――」
 そして、わざわざ真央の狐耳の側に唇を寄せ、吐息が内耳に生えた白い耳を揺らすほどの距離で、意地悪く、囁いた。
「おしおきが必要だな」


 

 

 まるで、雷にでも打たれたかのように、真央は全身が痺れるのを感じた。それはまさしく、快感の稲妻だった。爪の先まで痺れるようなそれに、真央は立っているのも難しくなる。
(おし、おき……)
 ゴクンッ。
 月彦の言葉を脳内で反芻し、思わず唾を飲み込む。かつてそう囁かれる度に、魂が抜け出てしまいそうな程の快楽に翻弄されたことを、体が覚えているのだ。けたたましく全身を迸った稲妻はやがて下腹へと集中し、“ある欲求”を真央の脳へと叩きつけてくる。
(欲し、い……)
 トロォ――下腹に走る甘い痺れに誘われて、下着が濡れるのを感じる。それも尋常の勢いではなく、やがてはパジャマズボンにまでしみ出すのではという勢いで。真央はもう演技の上でも父親を睨み続けることが出来ず、完全にメスの顔でただただ息を荒げながら見上げることしか出来ない。
(おし、おき……おしおき……どんな……?)
 頭の中を、妄想が駆け巡る。その妄想がさらなる興奮を呼び、気を張っていなければ自ら父親の体に縋り付いてしまいそうだった。全身を襲う強烈な飢餓感は当然、食欲に起因するものではない。
 単純に、純粋に。
 異性が、オスが欲しいという、生物としての根源的な欲求だった。
(おしおき……オシオキ……オシオキ、オシオキ……)
 妄想は、さらに巡る。目隠しをされ、さらに手足を拘束されて一方的に犯される自分を想像しては、真央は吐息を乱す。鼻を摘まれ強引に口を開けさせられ、息も出来ぬほどに奥まで剛直をねじ込まれ、噎せるのもおかまいなしに出し入れをされ、最後には鼻から逆流してくる程に大量の精液を飲まされる自分を想像しては身震いをする。
 が、真央は無論解っている。この父親がおしおきというからには、そんなありきたりな陵辱では済まないということを。ましてや、今回に限っては妖狸の家庭教師を引き受けた父親に対して腹を立てている“フリ”をしている自分に対して、とびきりのおしおきをしてくれるに違いないのだ。
 おしおきという言葉を口にしたにもかかわらず、あえてその続きを口にしないのもわざとに違いなかった。あえて具体的な内容を口にせず、妄想するに任せる。そうやってあらん限りの妄想に期待を膨らました後で、それら全てを凌駕する仕置きをしてくる父親が、真央は大好きなのだった。
「随分嬉しそうだな。……そんなに“おしおき”が嬉しいのか?」
 はい――思わずそう頷いてしまいそうになるのを、真央は懸命に堪えた。こういう場合、従順さよりもむしろ反抗的であるほうが月彦に喜ばれることを、真央もまた経験から知っていた。
 そう、知ってはいるが、しかしそれは常に月彦の言葉に従う誘惑と隣り合わせの危うい橋でもある。今すぐ月彦の前に跪き、雌犬のように尻を振って交尾をせがみたくなるのを懸命に堪えながら、真央は父親を喜ばせる為に、あえて反抗的な目つきで、月彦を見上げる。
「真央、こっちに来い」
 腕をとられ、ベッドの脇へと戻される。月彦はベッドへと腰掛け、真央はその前へと膝をつかされる。それだけでもう、何をさせられるかは解ったようなものだった。
「ンんグ……!」
 月彦はイヤイヤと首を振る真央の頭を掴み、無理矢理に剛直を頬張らせてくる。熱く、堅く、惚れ惚れする程に猛々しいそれが、ゆっくりと真央の唇を割り、その喉奥へと入ってくる。
「ンくふっ……んふっ……!」
 もちろん真央は苦しげに呻くことを忘れない。実際苦しいのだが、しかしそれを上回る興奮に、うっとりと目が細まる。れろり、れろりと舌で裏筋を刺激すると、月彦もまた満足そうに口の端を歪めた。
「真央の好きにしていいぞ」
 月彦の言葉に、全く落胆をしなかったと言えば嘘になる。真央としては、或いはこのまま両手首を掴まれ持ち上げられ、乱暴に腰を振られてのイラマチオなどを期待していただけに、「好きにしていい」というのは真央が抱いていた期待に対してあまりにも“優しすぎる”のだ。
(でも、父さまがそう言うんなら……)
 それはそれで、好きにさせてもらおうと真央は思う。先ほどまであれほど不機嫌を装い、嫌がる素振りをしていたことも忘れて、真央は自ら喉奥へと剛直を飲み込むように誘いながら、ゆっくりと頭を前後させる。
「んぷっ……くふっ……ふっ……」
 ちぅぅと強烈に吸い上げながら頭を前後させ、その強烈な刺激に時折髪に爪を立てられるのが堪らない。自分の口戯で、月彦が感じてくれているのだというその証拠に、真央自身興奮が高まるのを抑えられない。
 気を抜けば、自ら下腹へと手を伸ばし、自慰を始めてしまいかねない。しかしそこまでは“許し”を貰ってはいない。あくまで許されたのは口戯だけ。真央はそう解釈し、疼く下腹をもてあますように尻を振り尻尾を振りながら、父親の男根にしゃぶりつく。
「んはぁっ……んっ、ちゅっ……れろっ、れろっ……」
 いい加減バキュームフェラの刺激にも慣れたであろう頃に、真央は唐突に攻め方を変える。一端剛直を口から抜き、今度は徹底的に先端のみを攻める。れろり、れろりとアイスクリームでもなめるように、亀頭部分だけを舐め続ける。
「れろ、れろっ、れろぉ」
 時折、先端に滲んだ蜜を吸うようにキスをしながら、真央はねっとりとした舌使いで先端のみを攻め続ける。ぎりっ、と頭に宛がわれている月彦の手が微かに爪を立ててくるのは、焦れているからだ。早く咥えろと。しゃぶれと暗に促しているのだ。或いはここでさらに焦らし続ければ、今度こそ焦れた月彦に無理矢理に喉奥を犯されるかもしれない。その想像に胸を膨らませながら、真央はわざと月彦の焦れに気づかぬふりをしながら、舌先のみの口戯を続ける。
「っ……真央ッ……」
 堪りかねるように、月彦が舌打ち混じりに口を開く。しかし真央は横笛でも吹くように、今度は竿部分へと唇をつけ、或いは舌を這わせ。月彦を挑発し続ける。
 その報いは、すぐに来た。
「ンッ……ぐっ……ンググググッ!!!」
 突然、鬼の手にでも掴まれたかと思う程の力で頭を掴まれ、同時に剛直が唇の中へと挿入される。
「ンゴッ……ォ……」
 喉奥で剛直が“撓る”程の深い挿入に、真央は堪らず白目を向きそうになる。が、それよりもなによりも、実の父親にそこまでされるという興奮が、真央の全身に稲妻のような甘い痺れを走らせる。
「はぁっ……はぁっ……真央、出す、ぞ……」
 月彦はそのまま、およそ実の娘にする仕打ちではない荒々しさで真央の口を乱暴に犯し、欲望のままにその牡液を撃ち放った。
「ンンッ……ンッーーーーーーーーーーッ!!!」
 飲むというよりは、喉奥に直接流し込まれるような、そんな射精。ドロリとした、液体と呼ぶにはあまりに濃い塊が己の中へと注がれるのを体の内側で感じながら、真央はただただトロけるような快楽に揺られていた。
(ァッ、ァ……父さま、の……熱くて、濃いぃぃ……)
 鼻腔を“逆”から刺激する、噎せそうになるほどの濃厚な牡液の匂い。それはかつて服したどんな媚薬よりも強烈に、真央を一匹の発情したメスへと貶める。
 ぬろりと、剛直を唇から引き抜かれた次の瞬間にはもう、真央は自らパジャマズボンに指を掛け、足を抜きながら月彦の体にのしかかろうとしていた。
 そんな性衝動にのぼせ上がった真央の頭を僅かに冷やしたのは、屈託の無い父親の笑顔だった。
「真央、ここまでだ」
「……? ここ、まで……?」
 既に真央はズボンを脱ぎ捨て、左手はパジャマのボタンを外し右手は月彦の肩をベッドに押しつけるようにして跨がりながら。月彦の言葉が理解できないとばかりに首を傾げる。
「言っただろ? おしおきだって。だから、このまま“おあずけ”だ」
「おあ、ずけ……? そんな……父さま……」
 ごくりと、真央は思わず喉を鳴らしてしまう。あんなにしつこく胸を触られて。さらにあんなに“濃い”のを飲まされて。ここでお預けなどされたら、気が狂ってしまう――。
「お願い……父さま……一回だけ、一回だけでいいから――」
「ダメだ、真央。俺がお預けと言ったらお預けだ」
 寝間着を脱がそうとする真央の手を、月彦の両手が苦も無く払う。
「そんなぁ……父さま……一体いつまで……」
 一時間か、二時間か。どちらにせよ今の真央には、一時間どころか一分ですら、十年ほどに感じられるかもしれない。
 月彦は、先ほど見せたものに勝るとも劣らない天使の笑顔で、愛娘の問いに答えた。
「珠裡の試験が終わるまで、だ」



 翌朝、月彦はいつものように朝食を摂り、いつものように登校した。なにやら寝不足気味らしい真央についてはあえて必要以上に構わず、普段通りに接した。真央ももちろん、これは“そういうプレイ”なのだと解っていることだろう。
(……これでいいんだ)
 あの場で真央の機嫌をとることは容易い。否、容易くはないが、不可能ではなかった。たっぷりじっくり愛娘の体をいじり倒し、珠裡の試験が終わるまで構ってやれないが、我慢するんだぞと諭すことは出来た。
 が、それでは表面上は納得しても、心には澱が残るだろう。今は良くても、日を追うごとに徐々に不満が募るに違いない。だからこそ――そう理由づけてはみたものの、実のところそこまで考えてのことではなかった。
 ようは、ぷんぷんモードの真央を見ているうちに、ふと思いついただけなのだ。このまま一週間、焦らし続けたら、一体どんな乱れ方をするのだろうかと。
(……大丈夫、これでいい……筈だ)
 勿論、これが大きな間違いの元となるのは言うまでもないのだが、漠然と胸を刺す不安から目を逸らしながら、月彦は学校へと赴くのだった。

「ツキヒコ」
 教室へと向かう途中、月彦の眼前に立ちふさがったのは、一匹の豆狸だった。
「ママが言ってたけど、本当に今日からしばらくうちに来るの?」
 廊下の中央に仁王立ち――正確には、腕組みをしたままだが――した珠裡は妙に強気だった。顎でしゃくるように、むしろ見下ろすような視線すら向けてくる。
「ああ、どうもそういうことになったみたいだ」
「ふぅん……」
 意味深に鼻を鳴らし、珠裡はやや斜に構える。同じような仕草を、月彦は割と最近別の女性がするのを見た。そう、デートに誘われた雪乃が「さすがにそれは無いんじゃない?」と言ったときのそれにそっくりだったのだ。
「言っとくけど、遊びに行くんじゃなくて、勉強を教えに行くんだからな?」
「解ってるわよ。ママも真面目に勉強しなかったら晩ご飯抜きって言ってたし…………じゃあ、終わったら靴箱のところで待ってるから」
「あっ、ちょっ、珠裡!」
 呼び止める間も無く、珠裡は顔を隠すように急ターンをして走り去ってしまう。
「……俺は学校から直接行くつもりは無いんだが……」
 待ち合わせをしたところで、一度家に帰って高一の教科書やらを取って来なければならないのだが、それを説明する時間は無かった。
(まぁ、いいか)
 あえて走って追いかけ、そのことを告げる必要性も感じず、月彦はそのまま自分の教室に向かう事にした。


 一時限目、二時限目と授業を受けながら、ふと月彦の脳裏を過ぎったのは、少々長すぎる放置プレイを強いることになった娘への申し訳なさではなく、珠裡の学力についての不安――でもなく。昨日巧くはぐらかされてしまった性悪狐の話のことだった。
(…………誰かに恨まれたら、それだけで体調が悪くなるなんて……)
 果たして、本当にそんなことがあるのだろうか。話をしたのがあの性悪狐でさえなければ、到底信じられない話だった。
(…………胡散臭い奴の口から胡散臭い話を聞くと、逆に信憑性が増すってのも変な話だが)
 仮にこれがクラスメイトの一人から聞かされた話であれば、月彦は歯牙にもかけなかっただろう。しかし、あの女が思わせぶりに口にしたというだけで、聞き捨てならないという気になるのは何故か。
(……デマカセを言って、いたずらに俺を不安がらせてるだけ……ならいいんだが)
 聞き捨てならないと感じてしまうのは、月彦自身心当たりがあるからだった。霧亜の女癖の悪さは実の弟の目から見ても目を覆いたくなる程であり、手酷く振られたらしい相手は月彦の知る限りでも両手の指に余る程だ。不思議なことに、それほど人を人とも思わないような振り方をしても、次から次に新しい女の子(或いは女性)を捕まえるのだから、姉の人間的魅力は第三者から見てもズバ抜けているのかもしれないと、月彦は内心複雑だったりする。
 が、そうして積もり積もった怨みの念で心身を害しているのだとすれば、さすがに見過ごすことは出来ないというものだ。
(…………でも、本当にそんな事ってありうるのか?)
 恨まれて、その怨嗟の念で心身を病む。流れとしてはありうると思えなくもないが、本当にそんなことが起こりうるのならば、高利貸しを営む人間などはおよそ生きてはいられないのではないか。
(…………やっぱり、俺を不安がらせるための嘘……か)
 念のため、姉に諌言をすべきか――考えて、月彦は静かに首を振る。あの姉が、弟の意見ごときで自分の行動を変えるとは到底思えないからだ。
(或いは、みゃーこさんなら……)
 都の口から言ってもらえば、少しは効果が望めるかも知れない。しかしそれはそれでなにやら負けのように思えるし、こと姉に関しては都はある意味ライバルであるから尚更だった。
(……せめて、本当に姉ちゃんの体調不良に関係があるって確信があれば、話は別なんだが)
 そう、事実それこそが霧亜の退院延期に関係があるとはっきりすれば、弟としての矜恃などより姉の命を優先するのは当たり前だ。必要ならば、霧亜と関係を持ったことのある女性の自宅を回って土下座しての謝罪だって厭わない。
(…………いかんいかん、昨日見舞いに行ったばかりだってのに)
 うずうずと、姉の顔を見たくてたまらなくなる自分に気がつく。本当ならば毎日にでも見舞いに行きたいのだが、本当にそんなことをすれば心底うんざりだという顔をされてしまう為、三日に一度以上の頻度にはならないよう己を律しているのだ。
(…………まあでも、母さんから何か用事を頼まれでもすれば、その限りではないんだけどな!)
 そろそろ新しい着替えを持っていけと言われる頃ではないかと期待しつつ、放課後を迎えつつある月彦の頭からは珠裡の家庭教師の件など殆ど抜け落ちかけていた。


 であるから、昇降口を出た所でまたしても腕組み仁王立ちしていた豆狸と遭遇した際、月彦は軽い驚きを覚えた。
(あぁ、そういやそうだった)
 と思い直しながら、軽く手を振って挨拶をする。
「よう、珠裡。待ったか?」
「うん。遅い」
「悪かったな、ホームルームがけっこう長引いたんだ。んじゃ行くか」
「うん」
 頷いて、珠裡が隣に並ぶように歩き出す。
「……手」
「うん?」
「繋ぎたい」
「………………今すぐか?」
 せめて、校門を出てからにしてくれと。月彦は必死に目で訴えかけるが、珠裡には伝わらなかったらしい。外的に襲われたハリセンボンかよくばりなハムスターのように頬を膨らませた為、月彦はやむなく周囲を警戒し、珠裡の手を握ってやった。
「えへへ」
 忽ち珠裡は頬の空気を抜き、笑顔を綻ばせる。普段の勝ち気面やふくれッ面とのギャップがあまりに凄まじく、うっかり「可愛い」と思いそうになってしまう。
(……いや、実際……可愛いんだよな)
 身長は真央より頭一つ分は低く、同年代の――正確には、同年代などではないのだが、この場合高一女子に比べて――女子の中でもやや低い。赤毛よりの黒髪はくるんと内側に向くようなクセッ毛で、元気の良さを示すようにぱっちりと大きな目は、子狸というよりもまるで子猫の様。母親のまみに比べれば手足も体幹の肉付きもまだまだ薄く、この先いくらでも伸びしろがありそうな可能性を匂わせるのは、真央よりもさらに年若な実年齢4才ということもあるのだろう。
(躾のなってない子犬みたいにキャンキャンうるさい所が無くなれば、クラスメイトにも大分好かれると思うんだけどなぁ……)
 或いはまみも同じような事を考え、その辺を矯正する意味でも異種族の群れの中に放り込んだのかもしれない。
「ツキヒコ、どこ行くの?」
「ん? ああ、そっか。言い忘れてた、一度俺の家に寄るぞ。いろいろ準備があるからな」
「ツキヒコの家に?」
 ムッ、と珠裡が眉を寄せる。
「別に珠裡は上がらなくていいぞ。外で待ってれば良い」
 恐らく真央と顔を合わせたくないのだろうと察して、月彦はぽむぽむとぬいぐるみの頭でも触るように、珠裡の頭を撫でる。

 自室へと戻り、必要(と思われる教材一式)を鞄に詰めて、家を出る。つまらなそうに塀に寄りかかっていた珠裡と再び手を繋ぎ、綿貫家へと向かう。
 その途中。
「「「あっ」」」
 と声が三人分重なった。
「ま、真央……」
「父さま……」
 帰り道、どこかに寄り道でもしていたのか。制服姿に鞄を提げた真央とばったり出くわし、月彦も、そして真央も足を止めて固まった。唯一珠裡だけが、まるで「これは私のっ!」とでも言わんばかりに身を寄せ、手だけではなく腕を絡めてくる。
「んべえっ」
 そして真央に対して舌を出し、さらにイーッ!と歯まで剥く。
「……えーと、昨日言った通り、今から珠裡の家庭教師……してくる、から」
「……………………うん。いってらっしゃい、父さま」
 魂の抜けた体が勝手に喋っているような、そんな声で返事をして、真央は幽鬼のような足取りで二人の横を抜けていく。
「ツキヒコ、早く私んちに行こ?」
 そんな真央の後ろ髪に投げかけるように、珠裡がわざと甘えるような声を出す。一瞬、ほんの一瞬だけ真央の歩みが、その足が止まったのを、月彦は見逃さなかった。
「あ、あぁ……」
 珠裡にぐいぐい腕を引かれながら、月彦は今更ながらに後悔をしていた。焦らして、“一度で済ませよう”等と横着せず、一日一日きっちりと真央の機嫌を直すべく相手をしてやった方が良かったのではないか――と。


「ただいまー!」
「お、おじゃま……します」
 ガラガラと玄関の引き戸を開けて靴を脱いでいると、廊下の奥からどすどすと地響きが近づいてきた。
「おかえりやす。……月彦はん、今日からあんじょう頼んますえ」
「はぁ……いちおう、努力はしてみます」
 藤色の着物に身を包んだまみに会釈をし、力なく笑う。
「そういえば……勉強は一体どこでやるんですか?」
「どこでも。あんさんらがやりやすい場所で構いまへんえ」
「じゃあ、いつもの居間で――」
「私の部屋! ぜーーーーったい私の部屋!」
 月彦の言葉をぶった切るように、珠裡がキンキン声で叫び出す。挙げ句、四股でも踏むように駄々をこね始めて、月彦もまみも苦笑しながら珠裡の提案を受け入れざるを得なかった。
「わかったわかった。……じゃあ、珠裡の部屋でやるか」
「うん!」
「…………珠裡、ちゃんと勉強せなあきまへんえ。ほな月彦はん、後で飲み物とお菓子持っていきますさかい」
 そう言って、まみは廊下の奥へと消えていく。
「あ、お構いなく。……っと、んじゃ珠裡、部屋は何処なんだ?」
「二階!」
 珠裡に腕を引かれて、月彦は綿貫家の二階へと上がる。
(そういや、二階に上がるのは初めてか)
 L字に曲がった階段を上がると、そのまま一直線に廊下が延び、突き当たりで左へと曲がっていた。その手前、左側のドアの向こうがどうやら珠裡の部屋らしい。
「ママとエリ以外、誰も部屋に入れたことないんだから」
 ドアノブを捻る際、珠裡は誇らしげに、尚且つ恩着せがましく言った。お前はその選ばれた三人目なんだから感謝しろとでも言いたげだったが、もちろん月彦に特別な感慨などあるはずもない。
「そっか。ありがとな、珠裡」
 しかし、ここは感謝してみせるのが年上の勤めとばかりに月彦は礼を口にした。珠裡はえへへと笑いながらドアを開け、そのまま飛び跳ねるように自室のベッドへと飛び込んだ。
「へぇ」
 と思わず声が漏れたのは、珠裡の部屋が意外にも“女の子の部屋っぽい”からだった。広さは六畳、ドアを背にして正面に窓、左奥に勉強机、右奥にベッド。勉強机の手前側に本棚とタンスがあり、部屋の真ん中には円形のテーブル。壁紙は白だがカーテンは淡いピンク、サクランボ柄の枕に、その脇に大きなサクランボのぬいぐるみ。そして何故かカーテンの左側にはキツネのぬいぐるみが逆さまに、丁度尻尾の根元をくくられる形で吊され、逆側にはカエルのぬいぐるみがこちらは両足首を紐で縛られて万歳の姿勢で吊されていた。
(……私服が狸みたいな色合いしてたから、てっきり部屋も黒々としてるだろうと思ってたら)
 やれピンクのカーテンだの、サクランボのぬいぐるみだの、珠裡もきちんと女の子してるんだなと思う反面、逆さに吊されたキツネとカエルのぬいぐるみに心の闇を見た気がして、月彦は困ったような笑みを崩すことが出来ない。
「……珠裡、あの逆さに吊されたぬいぐるみはおまじないか何かか?」
 ベッドに飛び込んだ勢いで2,3度跳ねた後ぴょんと跳ね起きてベッドに腰掛けている珠裡に向けて、月彦は2つのぬいぐるみを指し示す。
「あれはね、あっちのキツネはね、マオって名前にしたの!」
「……どうしてマオって名前をつけたぬいぐるみを逆さに吊してるんだ?」
「だって、マオ嫌いなんだもん」
 つーんと、珠裡は悪びれるでもなく、実の父親の目の前で堂々と言い放つ。やれやれと、月彦はため息混じりに勉強机の上のペン立てに入っていたハサミを手にとると、えいやとばかりに二つのぬいぐるみを吊している紐を2本とも切断した。
「あーッ!」
「いくら嫌いだからってこういうのはよくない」
 陰湿だぞと、月彦は諭すように言い、絨毯の上に転がった二つのぬいぐるみをタンスの上へと鎮座させる。
「そこはダメ! あそこならいい」
 ビッ、と珠裡が指さしたのは、ベッドの足下側の壁との隙間だった。
「いっつも日陰でひっついてるマオとユリコにお似合いよ」
「…………カエルは由梨ちゃんだったのか……」
「今つけたの!」
 珠裡はひったくるように二つのぬいぐるみを手にするや、ぽぽいと隙間へ投げ込んでしまう。
「……まぁ、いっか。とにかく、勉強を始めるぞ、珠裡。ほら、準備をしろ」
「準備?」
「このテーブルでするんだろ? 教科書とノートを広げろってことだ」
 珠裡が先ほど部屋に入るなり放り投げた鞄を手に取り、中に入っていた教科書類をでんとテーブルの上に置く。
「全部じゃない。とりあえず、一番解らない科目のやつだ」
 月彦もまた持参した鞄をテーブル脇に置いてあぐらをかく。むーっと珠裡がふくれ面をしたのはその時だ。
「………………ぶ」
「ぶ?」
「………………全部、わかんない」
 うつむき、唇を噛むような声。こんなことを言うのは屈辱だと言わんばかりの低い声だった。
「……解った。んじゃまずは基本の五教科の中ならどれが一番解らないんだ?」
「だから、全部! 五教科とかそういうのも全部わかんない!」
 先ほどが低く唸るような声だとすれば、今度は火山の噴火のような叫びだった。月彦は軽い頭痛を覚えながら、ため息をつきそうになるのを慌てて止めた。
「…………わかった。じゃあ、とりあえず数学からいこう。珠裡、方程式とかは解るか?」
「ほーてーしき?」
「x+2y=1とか、そういうやつだ」
 月彦は持参したノートに実際に式を書いてやる。
「???」
「解った。じゃあ公式とかは知ってるか?」
「こーしき?」
「………………球の面積の公式とか、そういうやつだ」
「だから、わかんないの!」
 おいおいマジかよ――そう呟きたくなるのをグッと飲み込み、月彦は三角定規を使い、ノートに直角二等辺三角形を描く。さらにそれぞれの辺の長さを表す数字を書き込み、ノートをくるりと回して珠裡の方へと向けた。
「珠裡、この三角形の面積は解るか?」
「…………うーっ…………」
 珠裡の返事は凄まじいばかりのガン飛ばしだった。同じ事を何度言わせるのかと言わんばかりの目つき。
「ちょっと待て…………じゃあ、これはどうだ?」
 月彦は再びノートを自分の方へと回し、12×13=という式を書いて珠裡に見せる。が、その両目にみるみる涙が貯まるのを見て、月彦は慌てて式を書き直した。
 2+3=――その式を見るなり、珠裡は僅かに笑顔を浮かべた。そして両手の指を使ってたっぷり時間もかけて、“5”という答えをはじき出した。
(おいおいマジかよ……)
 近年、これほど愕然とさせられたことがあっただろうか。不幸中の幸いは、どうやら数字や記号が何を指し示しているのかは解るらしいということだが、そんなことで安堵しなければならない現状に、月彦は絶望を禁じ得なかった。



「まみさん、無理です!」
 一時間後、月彦は珠裡に自習を命じ、階下に降りるなりまみに泣きついていた。
「珠裡には、小学校低学年レベルの学力しかありません! それを一週間で高校レベルになて、俺じゃ絶対に無理です、不可能です!」
 まみは居間で茶を啜っているところだった。その眼前のテーブルには、いくらなんでも一人で食べるには多すぎるだろうという量の和菓子が広げられていた。恐らくは、二階に持っていく菓子を吟味しているうちに味を確かめたくなり、そうなると今度は熱いお茶が欲しくなり――といった流れが、まるで見てとれるようだった。
「なんや、よう解りまへんが………………まぁ、なんとかなりますやろ」
 ずずずと茶を啜り、ほうと一息をつくなり、まみはそう言い放った。
「だから、無理なんですって! いくらなんでも時間が足りなすぎます!」
「あの子が勉強できひんのは、今まで努力をしてこんかったからどす。やる気さえ出せば、出来る子どす」
「でも、いくらなんでも……」
「“あの女”の娘に出来た事が、うちの子にはできん言うんどすか?」
 たんっ――湯飲みをテーブルに置く音だけで威嚇するような、そんな音。月彦はうぐと顎を引かざるを得ない。
「……珠裡には無理だって言ってるんじゃないんです。俺には無理だと、そう言ってるんです。真央だって、俺より全然優秀な家庭教師が何ヶ月もつきっきりで勉強を教えて、それで高校レベルの学力に追いついたんですから。ましてや俺が一週間でなんて」
「あの子には丁度良い“はんでぃきゃっぷ”どす。うちの子が才能で負ける筈あらしまへん」
 ずずず……まみは茶を啜り、どらやきをあむぐと満足げに頬張り、また茶を啜る。
「……確かに、本当にそうなら……一週間で何とかなるかもしれないですけど……」
「とにかく、あんさんはやるだけやってくれればよろし。結果、うちの望むようにならんでも、あんさんを責めたりはしまへんえ」
 責任を追及したりはしない、そこは安心しろと、まみは静かに付け加える。
「……わかりました。やるだけはやってみます。その結果どうなっても、絶対に絶対にぜーーーーったいに、俺のせいにしないでくださいね?」
 まみは、静かに微笑んだ。



「…………珠裡、できたか?」
 そろりと部屋に戻ると、部屋を出るしな書き残していった計算問題と今尚にらめっこしている珠裡の姿があった。
「まだ……いま三つ目」
「三つ目……そうか。時間は気にせずゆっくり頑張れ」
 部屋を出る前に書き残していった計算問題は全部で10問。すべて一桁の足し算と引き算で、一応5問目以降は数字を二つから三つに増やし、さらに+と−を織り交ぜるなどして難易度を上げているが、そもそもそこまでもまだ到達していないようだった。
(……さっき部屋を出てから、10分以上は経ってる……よな)
 それで、まだ3問。しかしそれを責める事は出来ない。何故なら珠裡は文字通りテーブルにかじりつくようにして、さらに両手の指を総動員して一生懸命計算しているのだから。
「うー…………」
 今にもその頭からぷすぷすと白煙が上がりそうだった。月彦は暇をもてあまし、持参した高一の教科書にそれとなく目を通して時間を潰す。
(…………明日は高一じゃなくて、小学校の教科書を持ってこないとな)
 しかし、果たして葛葉は保管しているだろうか。そんな、今後使うアテのなさそうな代物を。
(いや待てよ、ここって一応古本屋なんだから、小学生用の問題集くらいあるんじゃ……)
 葛葉に尋ねて、もし捨てられていれば、まみに頼んでそれっぽいものを見繕ってもらえばいい。そんな事を思案していると、ちょんちょんと肩が突かれた。
「ツキヒコ、できた」
「おお、できたか。早かったな」
「えへへー」
 もちろんこの“早かったな”は世辞なのだが、珠裡は素直に喜んでいるようだった。
「さて、んじゃ答え合わせをするか」
 月彦は赤ペンを持ち、正解には○を、不正解には×をつけていく。
「……三問正解、だな」
「ええぇーーー!? たった三つだけぇ!?」
 それも、最初の三問だけ。どうやら珠裡は+と−の記号の違いがわからなかったらしく、解答は全て数字が足されていたのだった。
「いいか、珠裡。この“−”っていうのはな……」
 月彦は、懇切丁寧に足し算と引き算について説明した。この日月彦が教えたのは数学――というより算数であり、食事休憩を挟んでの夜10時まで懇切丁寧に励んだ結果、かけ算に至ることは出来なかった。


 



 


「ほな、明日も頼んますえ」
「はい。……珠裡、今日教えたところちゃんと復習しとくんだぞ? ちゃんと宿題できてるか、明日確かめるからな?」
「うー……」
 狸の母娘に玄関先まで見送られながら、月彦は綿貫家を後にする。どうやら珠裡は既におねむらしく、半分寝ぼけながら玄関先で手を振っていた。
「…………思ってたより長居しちまった。急いで帰らないと」
 早足に、殆ど走るようにして家路を急ぐ。家庭教師と言うから、せいぜい2時間くらいかと思いきや、結局6時間近く居座ることになってしまった。
(食事や休憩を入れて6時間とはいえ、そんだけ教えて……足し算と引き算だけ、って……)
 一応後半は2桁の加減算まではこなせるようにはなっていたが、それも正解率は7割以下といったところ。
(……明日、かけ算を教えるべきか。それとも他の教科を教えるべきか……)
 考えて、ずしりと両肩が、歩みが重くなるのを感じる。その正体は徒労感だ。どれだけ頑張って教えたところで、およそ高校レベルには到達できないだろうという思いが、足首に着けられた鉄球のように月彦の足を重くする。
(まみさんは珠裡が真央に才能で負けるわけないって言ってたけど……)
 月彦としては、むしろ一つでも勝ってるものがあるのだろうかと思うのだった。勿論一年という年齢差も鑑みねばならないだろうが、一年後の珠裡が今現在の真央の域に達しているとは到底思えないのだった。
(……珠裡を見ていると解る。真央は…………俺にはもったいなすぎるくらい、できた娘だったんだ)
 性格は素直、教えられたことは綿が水を吸うように瞬く間に吸収し、人間社会にも瞬く間に適合してしまった。それでいて、あの底意地の悪そうな目つきを除いた母親の美貌の殆どを見事に受け継ぎ、既に制服を纏っているのが犯罪と思えるほどの魅力を備えつつある。
(それでもって……“夜”の方も……)
 普段は、それこそコウノトリやキャベツ畑を信じてやまない無垢な乙女のように装いながらその実、自身のあどけなさすら武器にして男を誘ってくるのだから月彦としては堪らない。時折「むしろ俺が真央の肉奴隷なんじゃ……」と頭を抱えたくなるほどに、その誘惑は抗いがたく、逃れがたいものだったりする。
(……ううぅ、やっぱり……珠裡の試験が終わるまで我慢しろ、ってのは……失策だった、かなぁ……)
 “真央断ち”してまだ一日目だというのに、早くも体が愛娘のそれを欲しているのを感じる。そんな事よりも明日の事を考えなければならないのに、首から下だけがうずうずと真央の体を求めて騒ぎ出しているのだ。
(いやいやダメだ、自分から言っておいて、やっぱ無しだなんて……)
 それでは父親としての威厳が無くなってしまう――かぶりをふる月彦の耳に、何物かが囁きかける。そもそもそんなものがあると思っていること自体、独りよがりな妄想ではないのか、と。
(……くそ、俺ってやつは……もう、骨の髄まで……)
 愛娘の体という毒に侵され、完全に中毒にされているのだと痛感する。“これ”を抜くには一体どれほどの間“真央断ち”をせねばならないのだろう――それは想像しただけで地獄以外の何物でもないと確信できる。例え真央以外の女性全員との関係を断たれることになっても、その逆よりは遙かにマシだと思える程に。
 月彦の体は、“真央”を欲していた。


「ただいま……」
 ほとんど駆け足気味に自宅へと帰り着いた時にはもう、10時を回っていた。幾分声を抑えめに、そして気持ち静かに玄関のドアを開閉し、そっと靴を脱ぐ。
(別に何か悪いことをして遅くなったわけじゃないんだが……)
 胸に残る正体不明の罪悪感が、月彦にそのような行動を取らせるのだった。やや遅れて、居間の方から葛葉の足音が聞こえた。
「あらお帰りなさい。随分遅くまで頑張ったのね」
「あぁ……うん。なかなか慣れなくて……あ、晩ご飯も向こうで食べてきたから」
 勿論葛葉には家庭教師の件は話してある。月彦は明日も同じくらいになるかもしれないと説明し、そのまま自室へと上がった。
「あっ…………父さま、お帰りなさい」
「ただいま、真央」
 机に鞄を置き、ちらりと横目でベッドに座ったままテレビを見ている真央の様子を伺う。葛葉同様、真央にも家庭教師の件は説明しているから、遅くの帰宅を咎められるいわれはないのだが、それでもやはり真央の機嫌が気になってしまう。
「父さま、珠裡ちゃんの家庭教師……どうだった?」
「うーん……厳しい、かな」
 見た所、真央は特別怒っている風には見えず、そこだけは月彦は安心した。
 ただ――
(……部屋着が……いや、考えすぎか)
 いつもならば、この時間帯ならばお風呂を済ませ、パジャマ姿になってる筈の真央が、珍しく部屋着のままなのだ。それも愛用の厚手のトレーナーやらではなく、何故か夏用の水色キャミソにホットパンツという出で立ち。言わずもがな、露出の度合いではパジャマとは比較にならない。
「来週の試験までに高校レベルの学力にするのは……まぁ、無理だろうな」
「そっか」
 真央は特別興味があった風もなく呟き、視線をテレビの方へと戻す。別に珠裡の学力が気になったというわけではなく、とりあえず尋ねてみるのが礼儀とでもいうかのような口ぶりだった。
「…………そういや、真央はもう風呂は済ませたのか?」
「うん。…………珠裡ちゃんの試験が終わるまでは、一緒に入らないほうがいいと思って……」
 真央は済まなそうに言い、ぽつりと。独り言のように「絶対我慢できなくなっちゃうから」と付け加えた。
(……俺も同感だ)
 今ですら、キャミソの下のふくらみやら、ホットパンツからにょきりと伸びた白い脚とその太ももの凄まじい磁力に抗い続けているというのに。このうえ二人で入浴などしようものならば間違いなく衣類と一緒に理性まで脱衣所に置き忘れる羽目になるだろう。
「……珠裡ちゃんの試験、早く終わらないかなぁ」
 テレビへと顔を向けたまま、真央がもどかしげに片足を曲げ、両手で抱くようにして呟く。その脚の付け根とホットパンツの合間の闇に目を吸い寄せられかけて、月彦は慌てて首を振る。
「……じゃ、じゃあ……一人で入ってくる」
 殆ど逃げるように、月彦は脱衣所へと急いだ。


 翌日、学校が終わるなり一度家に帰った月彦は、小学生用の教材をバッグに詰めて綿貫家へと向かった。
(……母さん、まさかこんなものまでとってたなんて……)
 朝、思い出したように例の件を葛葉に切り出した月彦は、ダンボール一杯にきっちり詰められた懐かしの教科書達と対面したのだった。
(しかも、姉ちゃんが使ってた方……)
 葛葉曰く、月彦が使った方は汚れや破れが酷すぎてさすがに捨ててしまったのだという。身に覚えのある本人としては当然だと思う反面、あの姉が素手で触った教科書達を恐れ多くも自分が使うということに、一抹の罪悪感を感じてしまうのだった。
(本当に俺なんかが使っていいのかな……一応、姉ちゃんに許可をもらいに行くべきか……)
 しかしそこでダメだと言われてしまっては元も子もない。大丈夫、いくら霧亜でも小学校の頃の教科書などさすがにもう使わない筈だと己の心を説得し、綿貫家へと急いだ。

「失礼しまーす、まみさーん!」
 ガラガラと綿貫家の引き戸を開けながら声をかける、が返事は無い。
「あのー、俺ですけど……上がりますよー?」
 靴を脱ぎ、玄関マットへと上がった所で、二階から珠裡が降りてきた。
「月彦、遅ーい!」
「悪い悪い。さっきも言った通り、珠裡の勉強用の教科書とかを家から取ってきたんだ。ちゃんと自習してたか?」
「…………ツキヒコが居ないと、わかんない!」
「……そうか。まみさんは?」
「ママはお昼寝」
「昼寝か……じゃあ、静かにしないとな」
 気持ち足音を立てないように心がけながら、珠裡の部屋へ移動する。
「おっ、ちゃんと勉強してたんだな」
 テーブルの上に広げられたノートには、昨夜帰り際に残していった計算問題と、その答えがきちんと書き込まれていた。
(……ただ、正解率が……)
 もちろん適当にやったわけではなく、珠裡なりに真剣にやったのだろうが、いかんせん二桁の足し算引き算の正解率が悪すぎる。
「……よし、じゃあまずは答え合わせからだな」
 珠裡と向かい合わせに座り、月彦は赤ペンを取り出し、正解には○を、そして間違っているものには丁寧に説明をし、正解を書き込んでいく。
「うー…………」
 最初はニコニコしていた珠裡が、×の数が増えるにつれてどんどんふくれっ面になっていく。
(……こりゃ、今日は算数以外の勉強の方がいいかな)
 ここからさらにかけ算、割り算を教えようとしても、嫌気が差してしまうのではないか。月彦は考え、バッグから小1の国語の教科書を取り出した。
「よし、算数はここまでだ。今日は国語を――」
 

 どっしーーーーーん!


 月彦の言葉を遮るように、階下から凄まじい地響きが伝わってきたのはその時だった。
「な、なななななんだ!? 地震か!?」
 慌てふためく月彦を尻目に、何故か落ち着き払った珠裡がきょとんとした目で言った。
「たぶん、ママが寝ぼけて落ちたんだと思う」
「まみさんが!?」
 寝ぼけて、しかも落ちたとはどういうことなのか。とにもかくにもと、月彦は珠裡を伴って階下へと降りる。
「あっち」
 そして珠裡が指さした居間へと通じる襖を開けると――
「うわ」
 思わず声が出た。まず目に入ったのは、無残にひしゃげた押し入れの襖。そしてその上に不自然な体勢で横になっているまみ。さらに襖が剥がされた押し入れでは、中段の仕切りの上に布団と枕が敷かれていた。
「…………まみさん、押し入れの中で昼寝してたのか」
「ママは夜もそこで寝てるよ。落ち着くんだって」
「……ひょっとして、まみさんまだ寝てるのか?」
 ひしゃげた襖を下敷きにしたまみは、今尚幸せそうな顔でスヤスヤと眠っているように見える。
「ママは一度寝たら家が火事になっても起きないよ」
「……とにかく、せめて布団の上に戻してあげるか」
 月彦はまみの両脇を抱える。
「おい、珠裡見てないで手伝……んぎぎぎぎぎぎぎ……お、重い…………」
 そのまま持ち上げようとするも、まるで相撲取りでも相手にしているかのように持ち上がらない。やれやれと言いたげに珠裡が首を振りながらため息をつく。
「そのうち自分で戻るから大丈夫だよ」
「そ、そうか……珠裡がそう言うなら…………」
 一体まみの体重は何キロあるんだろうか――決して口に出してはいけないことを考えながら、月彦は珠裡の部屋へと戻るのだった。


 はて、一体自分は小学生自分、国語の時間一体教師に何をやらされていたのだろうか。あらためて教える側に立った月彦は、自分でも驚く程に国語の授業中の記憶が残って居ないことに驚き、結果ひたすら教科書を珠裡に音読させることでお茶を濁していた。
「ツキヒコ、疲れた」
 しかしそれも一時間も続ければ、珠裡がぶうたれるのも無理からぬこと。
「よし、じゃあ少し休憩するか」
「ふしゅうう……」
 珠裡が教科書から手を放し、テーブルに突っ伏してしまう。
「ツキヒコ、喉渇いた」
「わかった、冷蔵庫見てくるな」
 まるで貴族かなにかのような口ぶりで言う珠裡に苦笑し、月彦は階下へと降りる。そっと居間の様子を覘くと、ひしゃげた襖はそのままにまみは寝床へと戻っていた。なるほど、珠裡の言った通りだと納得しながら台所へと赴き、一瞬躊躇するもまみが寝ているのだから仕方ないと、冷蔵庫を開ける。
「………………タッパーがいっぱい」
 そのタッパーの中身が何で、誰が作ったものなのか、月彦は既に知っている。何故なら昨夜、綿貫家の夕飯を馳走になった際もおかずの大半はタッパーの中身であり、その際にまみからパートの槙枝というおばさんが料理好きで仕事のついでに料理もしてもらっているという話を聞いたのだった。
「とりあえずオレンジジュースでいいか」
 紙パック入りのオレンジジュースと、コップを二つ盆に載せ、部屋へと戻ると今度は珠裡はベッドに突っ伏していた。モコモコの黒い尻尾をぱたん、ぱたんと左右に振りながら、部屋に入ってきた月彦に反応するようにもぞりと、顔だけを部屋の入り口へと向けてくる。
「ツキヒコ、尻尾触って」
「尻尾……」
 盆をテーブルに置き、ベッドに腰掛けてモコモコ狸尻尾をにぎにぎしてやると、珠裡はえへへと擽ったそうに笑った。もぞりと体を起こし、オレンジジュースをコップに注いで一気に飲み干した後、再びベッドへと突っ伏した。
「もうちょっと休んだら、勉強に戻る」
「……そうか。頑張るんだぞ、珠裡」
 どう考えても試験は絶望的だが、しかしなんとか力になってやりたいと、切に思う月彦だった。


 六時を回り、すっかり日が暮れた後、寝ぼけ眼のまみがのそりと様子を見に来た。
「ふぁぁ……調子はどないどす?」
「ママ!」
「お邪魔してます。まあ……ぼちぼちです」
 まみはテーブルの上に広げられたノートやら教科書やらを見て、うんうんと満足げに頷いて来た時と同じようにのそりと部屋を後にした。
「月彦はん……」
 かと思えば、再度ドアの隙間から手だけを覘かせ、ちょいちょいと手招きをしてきた。
「……? 悪い、珠裡。ちょっと行ってくる」
 部屋を出て、壁にもたれ掛かるように階段を下りるまみに誘われる形で階下へと降りると、まみは大あくびをしながら台所の方を指さした。
「眠うてようと頭がはっきりしまへん……熱い茶でも入れておくれやす……」
「ええと……普通にお湯を沸かしてお茶を淹れればいいんですよね?」
「頼みましたえ……」
 まみはふらふらと居間の方へと入っていく。母娘そろって人使いの荒いことだと思う反面、ひょっとしたらまみはガスコンロの使い方をよく知らないのかもしれないと、月彦は思った。
 幸い薬缶も茶葉もすぐに見つかり、まみの眠気が覚めるよう濃いめに茶を入れて湯飲み、急須と共に盆を手に居間へと急いた。
「あぁ……ええ香りどす」
 まみは湯飲みを受け取るや、その芳香を胸一杯に吸い込み、ほう、とため息をついた。
「……すぐには口つけられまへんな」
 そして、湯飲みから伝わってくる熱に、困ったように笑った。
「す、すみません……普段あんまりお茶とか淹れないんで……」
「折角どすから、月彦はんも一緒にいかがどす? 戸棚の中にまだ湯飲みはありましたやろ」
「はぁ……そうですね。じゃあ、折角ですから……」
 と、腰を上げた瞬間。
「ついでに、どらやきも持って来ておくれやす。昨日の残りが同じ戸棚に入っとりますさかい」
「はい」
 まさか、そのために腰をあげさせたのではと苦笑しつつ、月彦は自分の湯飲みと、高級感漂う紙袋入りのどらやきを手に居間へと戻る。
「あぁ……これこれ……熱ぅいお茶とどらやきがあれば、うちはもう他になんもいりまへんえ」
 まみはどうにか口をつけられる熱さになったお茶とどらやきを交互に頬張りながら、桃源郷にでも居るかのようにうっとりと目を細める。
「なんか、随分眠そうですけど……ひょっとして昨夜寝てないんですか?」
「槙枝はんに教えてもろた“てれびじょん番組”が面白うて面白うて、ついつい夜更かししてしまいましたえ」
「てれびじょん……」
 なるほど、言われてみれば確かに居間の片隅にはテレビが――それも何故か、ダイヤル式のものがでんと置かれている。
「…………珠裡のほうはどないどす?」
 今時、こんなもの一体どこで仕入れてきたのだろうと首を傾げていた月彦は、唐突な問いかけに胸を刺された気がした。
「ええと……すごく、頑張ってます。正直、あそこまで珠裡が頑張るとは思ってませんでした」
 月彦の予想では、勉強なんかしたくないつまらないと駄々をこねる珠裡をなんとか宥めながら勉強をさせねばならない筈だった。しかし蓋を開けてみれば、こちらが驚くほどに珠裡はやる気満々であり、惜しむらくはそのやる気に肝心の頭脳のほうが追いつかないことだった。
「ふふ、ああ見えて負けん気だけは人一倍ある子どす。人間の子供らはともかく、“妖狐の子供”に負けるんは我慢できまへんのやろ」
「…………まぁ、こういうことで張り合ってくれるなら……」
 やれ傷つけてやろう殺してやろうという方向ではなく、あくまで勝負事やテストの点数で負けたくないということならば、安心して見ていられると、月彦は思う。
「……ただ、本当に俺でいいんですか? 前にも言いましたけど、珠裡のことを考えるなら、俺なんかよりもっと勉強できる人を家庭教師につけたほうがいいと思うんですけど」
 たとえば姉ちゃんとか――口にしかけて、月彦は首を振る。それは詮無い事ではあるし、そもそも入院中の姉には不可能なことだ。尤も、入院中でなかったとしても、あの姉がわざわざ家庭教師をやるために綿貫家まで出向くとは到底思えないが。
「あんさんが教えとるから、あの子もやる気を出しとるんどすえ。仮にあんさんが、自分より勉強ができるいうて勧めるエリはんに頼んだところで、同じ“もちべえしょん”が保てるかは疑問どすな」
「はぁ……そういうもんですか」
 呟きながら、月彦は自分自身心当たりがあることに気がついた。
(そういや、妙子との勝負の時も……)
 相手が妙子であり、勝てばおっぱいを揉みまくれると確約されていたからこそあれほどのやる気が出、結果勝つ事が出来たのではなかったか。
(つまり珠裡にとって、真央には負けたくないって思いと、教えるのが俺だからっていうのが、やる気の源ってことなのか)
 我ながらずいぶんと懐かれてしまったものだと苦笑する反面、相手が真央を嵌めて成り代わろうとした小憎い豆狸とはいえ、そこまで懐かれてしまっては正直悪い気はしないと顔がニヤケそうになってしまう。
「やる気は大事どすえ。やる気の無い者には何もできまへん」
「確かに、そうですね」
 精神論を唱えるつもりはないが、確かにやる気の有無は結果に大きく左右する。
「……珠裡の試験が無事済んだら、あんさんにはなんぞ礼をせなあきまへんな」
 茶を啜りながら、まみはぽつりと漏らした。
「れ、礼ですか!?」
 一瞬、月彦の頭を過ぎったのは半脱ぎ状態の狸の母娘においでおいでをされるシーンだった。
(んなワケあるか! あいつが余計なこと言うから!)
 ぶんぶんと月彦は頭を振り、よからぬ妄想(?)を打ち払う。
「礼なんていいですよ。まみさんには……その、“鈴”の件でもお世話になりましたし……」
 が、まみはそうはいかないとばかりに首を振る。
「なんぞ、力になれる事があったら、遠慮のう言っておくれやす」
「そんな……」
 不意に、病室に居る姉の姿が頭を過ぎる。長引く入院と、先だって性悪狐から聞かされた話が、魚の小骨のように引っかかっていたからだ。
「……あの、まみさん……相談っていうか、ちょっと聞いてみたいってだけなんですけど」
 まみは目線と微笑だけで、続きを促してくる。
「他人から恨まれたりすると、怪我の治りが遅くなったり、体調が悪くなったりとか、そういうことってあるんですか?」
 月彦の言葉を聞いたまみは一瞬目を丸くし、そして声をあげて笑った。
「阿呆らし」
 そして、小馬鹿にするように言った。
「もし、憎ぅ思っただけで相手を病ませられるんなら、あの女は今頃生きてはいまへんえ」
 まみの言う“あの女”というのがもちろん誰のことなのか、月彦には解り過ぎるほどに解った。
「うちだけやおまへん。うちの知る限り、あの女ほどぎょうさん怨みを買っとるもんは居りまへんえ。……あんさんには、あの女が具合悪ぅしとるように見えるんどすか?」
「いえ、全く……」
 うんと、まみは大きく頷く。
「そういうことどす」
 ホッと、月彦もまた大きく肩を落とし、安堵のため息をつく。
(なんだ……やっぱりアイツの話はでたらめだったのか)
 姉が、怨嗟の声で心身を病んだという説も杞憂だったのだ。本当に良かったと、月彦が胸をなで下ろしたその時だった。
 ただ――と、まみが声を落として言った。
「……罪の意識があれば、別どすえ」
「罪の意識?」
「罪悪感……言うんどすか。怨嗟と、そこに申し訳ないと思う気持ちが重なれば、心身を病む可能性は無いとは言いきれまへん」
「罪悪感……ですか」
「病は気から言いますやろ。自分には生きてる資格が無いいう思いが、回り回って自分を殺すいうことなら、十分考えられますえ」
 はたして、姉には罪悪感はあるのだろうか――正直、月彦には計りかねる問題だった。そもそも罪悪感があるのならば、付き合った相手を手酷く振るような行為を改めればいいだけの話だ。
(それに、なんか女々しい……姉ちゃんらしくない)
 違う――と、月彦は弟としての直感で、そう感じた。
「……まみさん、その……実は、先日真狐のやつから聞いた話なんですけど」
 月彦はやむなく、単刀直入に尋ねることにした。
「呪……っていうんでしたっけ。ほら、前に俺と真央がまみさんから逃げようとしたけど逃げられなかったみたいなアレ」
「懐かしい思い出どすな。それがどうかしたんどすか?」
 いや、俺たちにとっては懐かしいどころか戦慄の思い出なんですけど――そう言いたいのをぐっと堪えて、月彦は話を続ける。
「なんていうか、それと同じで……尋常じゃ無いくらいの悪意や敵意を向けられたら、怪我の治りが遅くなったり、不眠症になったりすることがあるって、真狐が言ったんですけど……そんなのでまかせですよね?」
 まみは、すぐには答えなかった。茶を啜り、あむぐとどら焼きを一口囓って、尚黙り続けた。
「…………あながち、でまかせとも言えまへんな」
 そして、重々しい声で、独り言のように言った。
「“そういうこと”があるいうんは本当どす。ただ、先も言った通り、本人が“気に病ま”ない限り、そないなことは起きまへんえ。少なくともうちの知る限りでは、例え相手が大妖と呼ばれるような者でも、ただ憎まれた嫌われたで体がどうにかなったいう話は聞きまへん」
「そう、ですか。それなら――」
「ただ、どないなことにも例外はありますえ」
 安心です、という月彦の言葉は、またしてもまみの句に潰された。
「うちかて森羅万象全て知っとるわけやおまへん。桁外れの悪意や憎悪を、体から黒煙が立ち上るほどにどす黒い想いを寝ても覚めても一瞬たりとも切らさず、何年も何年も抱き続けることができる者が居ったなら、或いは罪の自覚の無い者でも体の調子がおかしくなるくらいのことは、起きるかもしれまへんな」
「……桁外れの悪意を、寝てる時も起きてる時も切らさず、何年分も……ですか」
 それは想像するだけで、ゾッとする話だった。いくらなんでも、そこまで恨まれるような手酷い振り方はしていない筈だと、月彦はもはや願うような想いだった。
「どのみち、“普通の人間”には無理どっしゃろ。……もし仮にそないなことが出来る者がおったとしたら、それはもうヒトとは呼べまへんやろな」
 たん、とまみが空になった湯飲みを置く音が、驚く程に響いた。そしてすぐに、まみは微笑を浮かべる。
「……とまぁ、仮定に仮定を重ねるような暴論どすが、そもそも普通はそこまで憎ぅ想う前に、手と足が動きますえ。それすらも出来ん者……家族皆殺しにされた挙げ句、自分も両手足切り落とされて、しかもそのまま飼い殺しにされてるような者でもない限りは………………あんさんの姉は、そないなことをするお人なんどすか?」
「は……え……?」
 一瞬まみが何を言ったのか解らず、月彦は混乱した。くすりと、まみが笑う。
「鶴交の陣をかける前に、家族構成くらいは調べとります。……ついでに、あんさんが重度の“しすこん”いう話も耳にしとりますえ」
「なっ、ちょっ、違っ……とんでもない誤解です!……ていうかそもそも誰から聞いたんですか!」
「ふふっ、誰どっしゃろな。珠裡ではない、とだけ言うときますえ」
 まみはどらやきを頬張り、ああ美味し、と幸せそうに呟いた。


 結局、不安は払拭されたんだか、新たな不安の種を植え付けられたんだか解らないまま、月彦は昨日同様遅くまで家庭教師業に殉じ、綿貫家を後にした。
(……大丈夫、やっぱり杞憂だったんだ。いくらなんでも、姉ちゃんがそこまで恨まれてる筈が無い)
 ましてや罪の意識などあるわけがない。あの性悪狐の話も真っ赤なデタラメではないにしろ、まず起こりえない事をさもありふれた事象のように誇張しただけであり、やはり霧亜のケースとは何も関係が無かったのだ。
(……でも、だったらどうして……いや、それだけ二度目の怪我が酷かったってことか)
 あの優巳とかいう悪魔さえ来なければと、月彦は思わず拳を握りしめる。むしろ、あの女を憎むことで腹痛くらいは起こしてやれないものかとすら思う。
(……まみさんの言う通りだ。そんなに簡単に、人を恨んだでけで怪我させたり出来りゃ世話ないよな)
 自嘲気味に笑いながら、月彦は頭を振り、そっと肩にかけた鞄を撫でつける。勿論鞄が愛しかったわけではなく、中に詰まっている霧亜が使った教科書類の手触りが恋しかったのだ。
(…………明日も、頑張らないとな)
 霧亜のことももちろん気がかりだが、一度引き受けたからには珠裡の家庭教師も全力を尽くさなければならない。
(つっても、あと三日……か)
 まみの話では、試験が行われるのは今週の土曜日だという。ということは実質水木金の三日間しか残されておらず、現時点でやったことといえば四則演算と教科書の音読くらい。
(……無理すぎるだろ。妙子との模試勝負の時だって、ここまで絶望的じゃあ無かったぞ……)
 狸母娘の期待には応えてやりたい――しかし、どう考えても無理なのは間違いない。月彦はため息混じりに自宅へとたどり着き、玄関のドアを開けた。
「あっ……父さま。お帰りなさい」
「ま、真央……なんだ、丁度風呂上がりか」
「うん」
 丁度玄関マットの前を通りかかったという体の真央は下はショーツのみ、肩からタオルをかけたままという出で立ちで、体からは湯気を立ち上らせていた。もし今玄関から入って来たのが俺じゃなくて泥棒かなにかだったら、間違いなく襲われてるぞと。月彦は真央のあまりにも無防備な格好を窘めるべきか悩まなければならなかった。
(……ていうか、こんな格好で家の中をうろついてる真央なんて初めて見たぞ)
 普段は脱衣所できちんとパジャマに着替えるか、或いは“お誘い用”の特殊コスに着替えるかの真央が、裸同然の姿でうろつくのは極めて希だ。
「……じゃあ、父さま。先にお部屋に戻ってるね」
 ううむ、もしや“偽者”ではと訝しげに見る月彦の視線をよそに、真央は尻尾ふりふり、お尻をぷりぷりと振りながら部屋へと戻っていった。



 
 

 尋ねれば、別に誘っているわけではないと、惚けた顔で返してくるだろう。それは解っている。解っていて尚、月彦はいつもより多く露出されている娘の肌色に、視線を吸いよせられるのを止められなかった。
「父さま、どうしたの?」
「いや、別に……」
 自身も風呂を済ませ、自室へと戻ってきた月彦はついうっかり愛娘の生足に視線を走らせてしまった。それをめざとく察知した真央は、ベッドの上で読んでいた雑誌を畳みながら、上目遣いに尋ねてくる。
 半袖の黄Tシャツに、薄いブルーの下着。葛葉がサイズを間違えて買い与えたのではないかと思いたくなるほどに、ぴっちりと体のラインを浮きだたせたTシャツは、目をこらすまでもなく胸の頂をくっきりと浮かび上がらせている。
「父さま?」
 どうして部屋の入り口に突っ立ったままそっぽを向いて動かないの?――上目遣いの目は明らかにそう言っていた。
(……っ……わかってるクセに)
 ここで挑発にのって真央の方へと視線を向ければ、強調するように両腕で寄せられた胸元の谷間が視界のど真ん中に映ることだろう。
(うぎぐ……こんなことに頭を悩ませてる余裕はないってのに……)
 いっそ、前言を撤回して今すぐ襲ってやろうか――そんな誘惑にフラフラと気持ちが揺らぎそうになる。むしろそうした方が明日からの家庭教師にも身が入るのではと思う反面、自分から言い出した事を肉欲に負けてあっさりと翻す父親を、真央がどう思うだろうかという危惧が月彦を踏みとどまらせる。
(うわ、ちょっと誘っただけで落ちちゃうなんて、父さまチョローい!……なんて思われるかもしれない)
 いや、よい子の真央がそんなことを思う筈が無い――しかし、真央は“あの女”の娘でもある。
 そんな葛藤を繰り返す月彦の手が、くいと引かれた。
「うわっ」
 悲鳴を上げる間もなく、月彦の体はまるで吸い込まれるようにベッドの上へと転がされた。すかさず、真央の両手が二匹の蛇のような動きで月彦の体を捉え、ぎゅうと背後から抱きしめられる。
「こ、こらっ……くっつくな!」
「どうしてくっついたらダメなの?」
 無邪気な声で返しながら、真央はわさわさと体の前面に手を這わせてくる。その間も足を絡めて背中に乳を擦りつけながら、耳の裏にハァハァとケダモノじみた吐息を吹きかけてくる。
「わっ、ば、バカッ……ダメだって言ってるだろ!」
 真央の手が、わさわさと部屋着のズボンの上を撫で始め、月彦は声を上ずらせた。上ずらせはしたが、その両手を引っぺがせばいいという発想にまでは至らない。
「触るだけ」
 ふぅふぅと息を荒げながら、真央はさらに続けた。
「触るだけだから……お願い、父さま……」
「さ、触るだけ……って」
 真央の手が、ズボンの下、下着の中まで入り込んでくる。
「う、ぁ……」
 そして、もはや完全に臨戦態勢になっているそれを握りしめ、優しく扱き始める。
「こ、こら……真央……いい加減に……っ……」
 
 真央は、きちんと約束を守った。しかしそのせいで、月彦は重度の寝不足に陥る羽目になったのだった。



 翌日、千鳥足で学校へとたどり着いた月彦はなんとか仮眠を挟みながら放課後まで乗り切り、前日同様霧亜の教科書類を手に綿貫家へと向かった。
「ふぁ……珠裡、今日は日本史をやるぞ」
 まみから聞いた試験科目は数学、現国、英語、日本史、生物の五科目。せめて一教科なりとも高校レベルの水準まで持って行ければ或いは情状酌量も狙えるのではと思ったが、初日の珠裡の学力を見て不可能だと察した。
(……とりあえず、一日一科目、やれるだけやってみよう)
 ひょっとしたら、珠裡には隠された才能があり人知を越えたレベルで得意な教科が存在するかもしれない。そしてそれがたまたま試験科目と重なっているかもしれない――さすがにそんな奇蹟に賭けたわけではなかったが、苦手なものをひたすら頭に詰め込むような勉強よりも、僅かずつでも新鮮なものを与えてできれば興味を持ってほしいという、月彦なりのささやかな気遣いだった。
「まずは教科書を……ん、どうした?」
「ツキヒコ、これ絵が描いてある」
 教科書を開いた珠裡が、興味深そうにページの隅っこを見、そして指さした。
「馬鹿な。これは姉ちゃんの教科書だぞ」
 落書きなんかしてあるはずが――そう思って珠裡の指先を覗き込んで、月彦は思わず顔をほっこりさせた。
 珠裡は嘘をついていなかった。ページの端には確かに黒のボールペンで落書きがされていたのだ。
(……落書き……姉ちゃんも落書きとかするんだなぁ)
 日本史を習うのは小学校何年生の頃だっただろうか。月彦はほっこりとした目で、ページの隅っこの余白に書かれた落書きを見つめる。それは何とも可愛らしくデフォルメされた黒い猫の絵だった。
「待てよ、珠裡……ちょっと貸してみろ」
 縦横二センチにも満たないサイズの落書き。そしてページの端。もしやと思い、月彦は珠裡から教科書を取り上げ、次のページ、さらに次のページとめくっていく。
「やっぱりだ。…………珠裡、面白いものを見せてやる」
「面白いもの?」
「あぁ。……いいか、よく見てろ?」
 月彦は一度教科書を閉じ、テーブルの上へと置く。そして、教科書の角だけを指先で摘むように持ち上げる。
 そして一気に――
「わわっ、絵が動いた!」
「どうだ、凄いだろ!」
 パラパラと高速でページをめくることにより、黒猫が歩いたり走ったり、跳んだり跳ねたりする様子がアニメーションのように見えることが、珠裡にはよほど衝撃だったらしい。
「私にもやらせて! 私にもやらせて!」
「……結構難しいんだぞ?」
 苦笑混じりに教科書を渡すと、珠裡は早速とばかりに月彦のやり方を真似し、パララとめくっては黄色い声を上げる。
「凄い! ツキヒコ! これなんで絵が動くの? 妖術?」
「……うむ。俺の姉ちゃんの術だ。凄いだろ」
「……………………人間のクセに、凄い」
 ぐぬぬと、珠裡はさも悔しそうに目を輝かせる。
「……さてと。それじゃあ気を取り直して勉強を再開するぞ」
「ツキヒコ、もう一回だけパラパラさせて!」
「…………もう一回だけだぞ?」
 苦笑混じりに許可を出すと、珠裡は早速とばかりにパラパラさせては、おおおっ、と感嘆の声を上げる。
 よほど楽しかったのか、その後の勉強にはいつになく身が入る珠裡だった。


 ――が、身が入っているからといって、実力以上のものが発揮出来るというわけでもなかった。
「……というわけで、織田信長の後を家臣の羽柴秀吉が引き継いで、天下統一を果たしたんだ。そして秀吉の死後、さらにその天下を徳川家康が横取りしたわけだが――」
 説明をしながら、ちらりと珠裡の顔を盗み見る。縄文時代から安土桃山時代まで怒濤の二時間で駆け抜けてきた反動が、ありありと爪痕を残していた。ほんの二時間前はあれほどキラキラと輝いていた目は死んだ魚のように濁り、見る者が見れば死相と判断されてもおかしくはない。
(……ヤバいな。このまま続けても珠裡の頭にはなんにも残らないぞ)
 見れば、ノートをとっていた右手の動きもいつからか止まっている。最後に書かれた文字が“なら時だい”ということは、ひょっとするとそこからの授業はずっとフリーズしていたのかもしれない。
「……あーっ、珠裡……ちょっと休憩挟むか?」
「うー……」
 ぷしゅーと頭から湯気を出しながら、頷いているのか力尽きたのかわからない動きで珠裡はテーブルの上へと突っ伏してしまった。
「………………えーと……珠裡、一応尋ねるけど……鎌倉幕府を作った人は誰か覚えてるか?」
「…………かまくらたろう?」
「……源頼朝だ。じゃあ、奈良の大仏を作ったのは?」
「………………かみさま」
「……そこからやり直すか」
 ため息は、つかない。ぐっと息を飲み込み、教科書へと視線を落とす。
「そーだ、珠裡。知ってるか? この徳川家康って人はな、ひょっとすると正体は狸だったかもしれないぞ」
 それは何気ない、ただの雑談――のつもりだった。
 が。
「嘘。そんな名前の妖狸なんて聞いた事無い」
 ぐったりと伏せたままだが、珠裡は明らかに食いついてきていた。いい兆候だと頷きながら、月彦はさらに続ける。
「どうかな、珠裡が知らないだけで本当に狸だったのかもしれないぞ? なにせ狸親父の語源とも言われてるくらい狸に似てたみたいだし、何より天ぷらが大好物だったんだ。天ぷらの食べ過ぎで死んだんじゃないかってくらいにな」
「じゃあ、妖狸が人間に化けて天下を取ったの!?」
 むくりと、珠裡は顔を上げる。その目には光が戻り、興味津々とばかりに輝きを放っていた。
 うむ、と月彦は大きく頷いた。
「かもしれない、って話だ。なんせ400年以上も前の話で――」
「ママに聞いてくる!」
 言うが早いか、珠裡は立ち上がるなり階下へと駆け下りていってしまう。そして五分と経たずに戻って来た顔は些かぶうたれていた。
「……ママまたお昼寝してた」
「ま、まぁ……最近深夜テレビにハマってるみたいだから……」
「ママ狡い! 試験が終わるまではママもテレビは見ないって言ってたのに!」
 狡い、狡いと地団駄を踏み続ける珠裡をなんとか宥め、座布団の上に座らせる。
「ほらほら、落ち着けって。別にテレビくらい良いだろ? 珠裡も試験が終わったら好きなだけ見ればいいじゃないか」
「うー……」
「とにかくほら、今は勉強を頑張らなきゃいけないんだろ? 徳川家康の事は覚えたか?」
「うん! 妖狸で、人間を支配した徳川家康! 天ぷらが好き! ざまーみろ人間!」
 キャッキャと飛び跳ねてはしゃぐ珠裡に、月彦は次の質問を浴びせた。
「じゃあ、その前に天下取りの基盤を作った二人の名前は?」
「………………とくがわ、たろう?」
「織田信長と羽柴……まぁ、豊臣秀吉って覚えた方が間違いないか」
 むーっ、と珠裡が忽ち渋い顔をする。やれやれと、苦笑混じりに月彦は一計を案じ、言葉を付け加えた。
「…………珠裡、実はこの二人も天ぷらが大好きでな」

 結果、日本史の主要人物の殆どが天ぷらが大好きで、尚且つ狸に似ているか狸そのものという事になってしまった。が、代わりに月彦の予想以上に、日本史に登場する人物名を珠裡に覚えさせることに成功したのだった。



「先輩……ちょっといいですか?」
 翌日の放課後、さあ今日もがんばるぞと昇降口に急いでいた月彦は、なにやら怯えた様子の由梨子に声をかけられた。
「由梨ちゃん? どうしたの?」
「あの……なんていうか……最近、真央さんが怖いんですけど……ひょっとしてケンカでもしてるんですか?」
「へ?」
 一瞬、由梨子の言葉が理解できず、月彦は次の句が遅れた。
「真央が怖いって……どういう事? 別にケンカはしてないけど……」
「なんていうか……真央さんの機嫌が悪いとか、そういうことじゃないんですけど……」
 由梨子は左右を見回し、真央の姿が無いことを確認してから、言葉を続けた。
「……風船を、ですね。膨らませていくと……“ああもうダメ、割れちゃう!”っていう瞬間が来るじゃないですか」
「うん」
「そこからさらに三倍くらい膨らんで、元の風船の色もわかんないくらい向こう側が透けて見えてる感じなんです」
「き、気のせいじゃないかな」
「……絶対、気のせいなんかじゃないと思いますけど…………」
 今思い出しても寒気が止まらない――そう示すかのように、由梨子は肩を抱き、ぶるりと震える。
(そりゃあ……今週はずっと本番無しだから……真央も相当……)
 ごくりと、月彦は昨夜のことを思い出す。本番は無し、それがルールということは真央も解っているのだろう。勿論真央自身はそのルールを破るつもりはない――が、そのくせ月彦の側が破るのは何の問題も無いとでも思っているのか、はたまたルールを遵守しようとしている父親をいたぶることに楽しみを見出しているのか。家庭教師を終えて帰った際の真央の挑発的な行動は日を追う毎に激しさを増し、昨夜などはベッドの上で月彦の上に跨がったまま疑似セックスさながらに喘ぎ声を上げながら腰まで振る始末だった。
(我ながら……よく耐えたもんだ)
 我が身の自制心の無さを何かと嘆くことが多い月彦だが、ひょっとすると誘惑する側が人並み外れているだけで、自分の自制心は並の人間以上なのではないかとすら、思い始めていた。
「ひょっとして……先輩が珠裡さんの家庭教師をしてる件と関係があるんですか?」
「まぁ……無くはない、かな」
 家庭教師の件を由梨子が知っているのは不思議でもなんでもない。真央から聞いたのかもしれないし、珠裡自身が言いふらした可能性もある。どちらにせよ、大した問題ではない。
「でも大丈夫、真央にはきちんと話して納得してもらったから。いくら真央でも、それで不機嫌になって、腹いせに由梨ちゃんをとって食おうとか、そういうことはないと思う。……まぁでも、万が一襲われちゃったら、それはそれで」
「そ、それはそれで……って」
「だってほら、由梨ちゃんも別に嫌いじゃないんだし」
 なっ、と赤面したまま由梨子が絶句する。
「冗談だよ。……多分、ていうか間違いなく、由梨ちゃんには手を出してこないから。そこは安心していい」
 由梨子との絡みが嫌だという意味ではない。我慢をすればする程に後の快楽が増すと知っている真央が、あえてそれを減らすような真似をするわけがない。……そう、あの“欲張り”な真央が。。
 問題があるとすれば――。
「ただ、ひょっとしたら今週末――日曜日頃には死にかけてるかもしれない。もし由梨ちゃんさえ良ければ、その時は由梨ちゃんの家でゆっくり養生させてもらえると有り難いかもしれない」
「し、死にかけてるかもしれない……って……先輩、一体――」
「まぁ、身から出た錆……ってところかな。口は災いの元、後悔先に立たずとも言うけど……とにかく自分が蒔いた種は自分で狩るしかないってことだよ」
「よく……わかりませんけど…………先輩が本当に私の部屋に来てくれるなら、ちゃんと、準備して待ってます」
「ありがとう、由梨ちゃん。ひょっとしたら、まともに足腰立たなくなっちゃってるかもしれないけど、その時は這ってでも行くよ」
「先輩、大げさに言ってるだけですよね?」
 苦笑混じりに由梨子が言う。どうやらあまりに大げさに言いすぎたせいで、冗談だとでも思われたのかもしれない。
(……本当に冗談じゃ済まない可能性があるんだが……)
 由梨子に無駄な心配をかける必要も無い。月彦は笑って誤魔化した。
「えと……先輩、できれば来る時間を決めておいて欲しいんですけど…………その、いろいろ準備とかしなきゃいけませんから」
「そっか……んー……じゃあ、朝の九時くらいでどうかな? 早すぎるならもう少し遅くてもいいんだけど」
「九時ですね、わかりました。ばっちり準備して、先輩がもう帰りたくないって言うくらい居心地良く過ごしてもらいますから。覚悟してて下さいね?」
「はは、それは楽しみだ。……じゃあ、ごめん、由梨ちゃん。この後も珠裡の家に行かなきゃいけないから」
 手を振り、月彦は由梨子と別れる。
(……由梨ちゃんの接待か…………楽しみだな)
 前回は優巳とかいう悪魔の手先が横槍を入れてきたせいで折角の蜜月が台無しになってしまった。今度こそはという熱意と共に、月彦は昇降口へと足を向ける。

 勿論、自らそのチャンスをフイにすることになるなど、この時は夢にも思ってはいなかった。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――そして、家庭教師最終日。

 

 

 

 

 

 

 

 


「……ふぅ、今日はこんな所にしとくか。お疲れ様、珠裡」
「ふみゅううう……」
 珠裡が悲鳴とも呻きともつかない声を上げながら、テーブルの上に突っ伏してしまう。その頭からは狼煙のように湯気がいくつも上がっており、本来持っている性能を遙かに超えた働きを強いられた脳の悲鳴が聞こえるようだった。
(…………今日やったことといえば、アルファベットの大文字小文字の書き取りだけなんだが……)
 明日土曜には珠裡の試験が行われる。その結果によって学校の残留できるかどうかが決まるのだが、やはりというべきか。月曜日から金曜日まで、毎日六時間強の家庭教師を経ても、珠裡の学力は高校レベルはおろか中学にすら達することは出来なかった。
(………………やっぱり、一か八か先生に頼むべきだったか)
 雪乃とて教師だ。進退窮まっている“特待生”のことくらい、当然耳にしているだろう。あの子は実は遠い親戚の子で、なんとか学校に残らせてやりたいから、可能なら英語の試験問題だけでも手心を加えてほしい――或いは雪乃ならば、頼み込めば承諾してくれたかもしれない。勿論相応の見返りは要求されるだろうが、ひょっとしたら試験問題そのものの入手だって可能だったかもしれない。
 しかし、結局月彦は言い出すことが出来なかった。雪乃が引き受けるにしろ引き受けないにしろ、それを頼むのはさすがに卑怯ではないかと思ったのだ。
(……だけど、どう考えても無理……だよなぁ……)
 数学は文字通り算数レベル。四則演算すら怪しい。現国はひらがなとカタカナの読み書きならばっちり。漢字もある程度なら、但し文章から書き手の意図を読み取るのは苦手。古文、漢文に至っては全くの手つかず、恐らく出題されても太刀打ちは出来ないだろう。社会は主に日本史から出題されるそうだから、五教科の中では最も望みはあるが、実際の試験でどれくらいやれるかは未知数。理科は生物だが、教科書に載ってるカエルが嫌いとかいう理由で五教科中最も身が入らず、また教える月彦自身真央の横槍で疲労困憊していた為、絶望的。英語に至っては、辛うじて大文字小文字のアルファベットが書ける程度。
(………………どう考えても無理だ。ていうか、小学校すら行けるか怪しいレベルだぞ……)
 しかし、珠裡にそれを告げるわけにはいかない。珠裡は珠裡なりに、精一杯頑張ったことは、勉強を共にしてきた月彦が最も実感していることだ。可能ならば、試験中せめて同じ教室で見守っていてやりたいが、勿論そんなことは許されないだろう。
「……ねえ、ツキヒコ」
「ん?」
 珠裡が、テーブルに顎をついたまま、伏せ目がちに唇を噛む。時折何かを言い出そうとするかのように開くが、その都度唇を噛む、という動作を繰り返しているのだ。
「あの、ね……もし……」
「もし?」
「…………試験、合格したら………………」
「ご褒美か?」
 言いづらそうに口をモゴモゴしている珠裡に水を向けてやると、赤面しながら小さく頷いた。
「いいぞ。珠裡は何が欲しいんだ?」
「………………ゆーえんち、行ってみたい」
「遊園地か……よしわかった! 合格したら絶対に連れて行ってやる、約束だ」
 十中八九討ち死にするであろう兵士の頼みならば、何でも聞いてやりたくなるというのは、一体誰の言葉だったか。今の月彦には、その上官の気持ちが見てとれるようだった。仮に合格したら結婚して欲しいと言われたとしても、或いは頷いたかもしれない。
 それほどに、珠裡の合格確率は月彦の目から見て絶望的だった。
「本当!? じゃあ、もう少し頑張る!」
「ま、まだやるのか? もう十時過ぎてるんだぞ?」
「やる!」
 こうして顔を合わせているだけで、疲労の度合いも解ろうというもの。恐らくは家庭教師以外の時間も珠裡なりに勉強に使っているのだろう。右手はもう常時ペンを握っているままの形に固まっていて、左手の指先にはシャーペンの芯汚れがつきっぱなしだ。
(……なるほど、確かにこの根性は、真央には無いかもしれない)
 珠裡とて、自分が高校レベルの学力に達していないと解っているからこその努力なのだろう。彼我の戦力差も漠然とながらも察しているに違いないのに、あえて絶望的な戦いの中で勝機を見出そうという姿はもはや勝算に値する。
「……わかった。珠裡がその気なら、俺もできる限り手伝ってやる」
 月彦は一端階下へ降り、珠裡の意向をまみに伝えると共に電話を借りて家に一報を入れた。
「さあ、これで後顧の憂いは無しだ。遠慮無くぶつかってこい、珠裡!」


 結果、朝の三時まで珠裡は頑張り、さすがに本番前に徹夜は勧められないと休ませた。六時にセットした目覚ましで共に起き、時間ぎりぎりまで最後の悪あがきとばかりに昨夜の復習をやることになった。
「ぽんぽーこ……ぽんぽーこ……」
 眠そうに瞼を下げながら、珠裡は呪文のように呟きながら、ノートにペンを走らせる。
「……おまじないか何かか?」
「おまじないじゃない……ぽんぽこ踊りの……ふぁぁ……」
 大あくびをしながら、珠裡はさらにペンを走らせる。
「ぽんぽーこ……ぽんぽーこ……違う、ここはぽんこっこー……ぽんこっこー……」
「……随分眠そうだな……よし、俺がコーヒーを買ってきてやる」
 綿貫家にあればいいのだが、少なくとも月彦が戸棚や冷蔵庫を見た限りでは、コーヒーそのものはおろかインスタントの粉末すら見た事はなかった。そろりと部屋から抜け出し、階下へと降りる。まみはまだ押し入れで寝ているのだろうか、一階はしんと静まりかえっていた。
 まだ暗い朝の街へと繰り出し、自販機を探す。缶コーヒーと、珠裡が飲めなかった場合に供えてココアを数本買い、両手でかかえるようにして部屋へと戻る。
「ぽんぽこぽん、ぽんぽこぽん……」
 珠裡は相変わらず虚ろな目で呪文のような言葉を呟きながらペンを走らせていた。が、そこに書かれているのはもはや文字ではなく、一筆書きのミミズのようなものになっていた。
「ほら、珠裡。コーヒー買ってきてやったぞ。これを飲めば少しは眠気も紛れるはずだ」
 栓を開けてやり、珠裡に握らせる。買った時ろくに持てないほどに熱々だった缶コーヒーだが、既にほどよい温度にまで覚めていた。
「……苦い」
 一口飲むなり、珠裡はうええと舌を出した。
「やっぱりか……。こっちのココアと交換するか?」
「これで、いい……苦い方が、眠くならない」
 ばちーん!と自分でほっぺたを叩き、珠裡は教科書へと目線を落とし、再びノートにペンを走らせる。
(……頑張れ、珠裡)
 もはや、解らない箇所を教えるという段階ではない。試験前に少しでも知識を詰め込んでおこうという珠裡を前に、月彦に出来ることはただ暖かく見守ることのみだった。


「じゃあ、行ってくる」
「おう。珠裡、頑張るんだぞ」
 校門前まで珠裡を見送り、その背が昇降口へと消えていくのを見守ってから、月彦もまた踵を返した。
(……出来れば試験をやる教室までついていってやりたいところだが……)
 さすがにそれは過保護過ぎなのではないかと思い、月彦は断念した。腕時計に目を落とす。八時半過ぎ、試験は九時からだから、遅刻の心配だけはしなくても大丈夫だろう。
(せめてもうちょっと時間があれば……いや、それでも厳しいか)
 珠裡は頑張った、しかしその学力はやはり高校レベルには及ばなかった。十中八九――否、間違いなく玉砕するだろう。
(……その時はやっぱ、退学ってことになるのかな……)
 或いは、努力が認められて情状酌量が認められるのか。珠裡が学校に残れる可能性があるとすればそれしかなさそうだと思いながら、帰路につく。
(それにしても……まみさん一体どこに行ったんだろう)
 朝、朝食はどうするのだろうかとまみを捜して階下へと降りた際、月彦は食卓の上に置かれたまみの置き手紙を見つけたのだった。内容は、野暮用で留守にするが、珠裡のことをよろしく頼むという簡単なものだった。
(何の用か解らないけど、何も今朝じゃなくていいだろうに……)
 珠裡も、出来れば試験前に母親の顔を見て安心したかったのではないだろうか――そんな事を考えていると、不意に目の前に藤色の壁が出現した。
「うわっ、とぉ!」
「あぁ、月彦はん。随分捜しましたえ」
「まみさん!? まみさんこそ一体どこに行ってたんですか! 珠裡も心配してましたよ!?」
「うちならずっと蔵に居りましたえ。捜し物がようやっと見つかりましたわ」
 そう言って、まみは片手で着物の埃を払うような仕草をした後、逆の手に提げていた小さな小さな風呂敷包みを月彦の方へと差し出した。
「これが……捜し物ですか?」
「今回は随分と珠裡の為に骨を折って貰たみたいどすから。うちからのささやかなお礼どす」
「いえ、そんな……お礼なんていいですよ。俺の方こそ、いつぞやの鈴の時とか、まみさんにお世話になりましたから」
「そないなこと言わんと、貰ておくれやす。…………きっとあんさんの役に立ちますえ」
 さあ受け取れ、と言わんばかりにまみが小さな包みを差し出してきて、月彦は渋々ながらも受け取った。
「……ちなみに、これ何なんですか?」
 まさかまた鈴ではなかろうなと、月彦は目線でまみに了解を取り、包みを開く。中から出て来たのは随分と年季が入った風の小さなガラスの小瓶だった。三角フラスコのミニチュアのような形の、透明なガラス瓶の中に入っている薬は水の様に澄んでいるが、真珠の粉でも入っているのか、光を当てるとキラキラとまばゆいばかりに輝いている。
「えるきしゃあ……とか、そんな名前の薬どす。随分前に、知り合いが大陸の方に旅行に行った際、土産でもろたもんどす」
「薬……ですか?」
「何でも、どんな傷も病もたちどころに治す、万能薬いうもんらしいどすえ」
「万能薬!?」
「それがあれば、あんさんの姉も家に帰れますやろ」
 にっこりと微笑むまみの顔が、月彦には菩薩のそれと重なった。
「えるきしゃあって……ひょっとしてエリクサーですか? 名前しか知らないですけど……これ、本当にそうなんですか?!」
 小瓶の蓋を取ろうとした手を、まみがすかさず止めた。
「蓋は、ギリギリまで取らんほうがよろしおす。土産に持って帰ったもんが、“きはつせい”いうんが高いー言うとりましたえ。万が一零しでもしたら一貫の終わりどす」
「な、なるほど……わかりました。ギリギリまで蓋はそのままにしておきます」
「それがよろしおす。最後の一本どすが、蔵で埃を被っとるより、あんさんに使て貰たほうが薬も歓びますやろ」
「最後の一本……そんな大事なものを……ありがとうございます」
 まみの言う通り、本当に万能薬であるのならば、その価値は計り知れないだろう。ましてや最後の一本となれば、或いは黄金を積み上げてでも欲しがる者は居るかもしれない。
「本当にありがとうございます、まみさん」
 月彦は深々と頭を下げた。
「とにもかくにも、お疲れさんどした。……うちも帰って寝させてもらいますわ」
「はい。俺は早速姉の病室に行ってきます! 無事退院できたら、改めて挨拶に伺わせてもらいます!」
 ふぁぁと大あくびをしているまみに、月彦は改めて頭を下げ、踵を返して走り出した。 
(万能薬……これで、姉ちゃんが治る! 退院できる!)
 そしてその足取りがるんるんスキップに変わるまでに、さほどの時間はかからなかった。
(姉ちゃんが帰ってくる! 姉ちゃんが帰ってくる!)
 すれ違った通行人が揃ってギョッとするような浮かれ顔で、そのくせ人間の常識を超越したような速度でスキップする姿は後に新たな都市伝説を産んだが、勿論月彦の知ったことではない。
「ってうわッ!」
 あまりに浮かれ過ぎて足を縺れさせてしまい、月彦は危うく転びそうになった。が、なんとか踏ん張り、右手に握ったままのガラスの小瓶へと目をやり、ふうと安堵の息をつく。
「あっぶねぇ……転んで割りでもしたら一巻の終わりだった……まみさんも最後の一本って言ってたし、病室まで慎重に運ばないと……」
 浮かれるのは、姉に無事薬を渡して怪我を治した後だと、月彦はうずうずする体を押さえつけて、慎重に歩き出そうとした――その時、月彦の後頭部を凄まじい衝撃が襲った。。
 さながら、後ろから何者かに殴りつけられたかのような衝撃に、月彦は大きくバランスを崩した。視界に火花が散るほどのその一撃に、一瞬意識が飛んだ程だ。
「痛ってぇ……誰だ!」
 大きく前につんのめりながら、月彦は声を荒げ背後を振り返る。しかし、そこには今し方自分が歩いてきた――車道脇の歩道があるばかりで、人っ子一人居ない。そんな馬鹿なと思う月彦をあざ笑うように、びちゃりと。無惨にひしゃげた桃が足下に落ちる。
「桃……?」
 先ほどの凄まじい衝撃は、まさか後頭部に桃がぶつかった衝撃だったのか。右手で後頭部を触ってみると、にちゃりと。確かに桃の汁がこびりついていた。
(んなバカな……)
 こんな一本道で、しかも見る限り人影すら見えないような状況で、一体誰が桃をぶつけることが出来るというのか。しかも、一瞬意識が飛ぶほどの勢いで――それこそ、ピッチングマシーンか何かに球の代わりに桃を詰めて打ち出しでもしないかぎり、あれほどのインパクトは与えられないのではないか。
「……うん?」
 月彦はふと、“右手”に視線を落とす。その指と掌は、先ほど後頭部を触った際についた桃の汁でべっとりだ。にぎ、にぎと右手をグーパーしながら、何かがおかしいと首を捻る。

「………………。」
 そして漸く、月彦の目が“それ”を見つける。足下に転がり、砕け散り、無惨なガラスの破片のみとなった小瓶の姿を。


 一体何が起きたのか、すぐに理解することは出来なかった。たっぷり三十分はその場に立ち尽くしたまま、無惨に砕けた小瓶の残骸を見つめ続けた。
(…………薬、が……)
 まみは言っていた。この薬は揮発性が高いと。月彦が足下を見て、薬の残骸を見た時点で、中に入っていた液体の殆どは既に気化していた。そして、これはまみが持っていた最後の一本。代えもない。
(姉ちゃんが……退院できる筈だったのに……)
 思いも寄らなかった、まみからのご褒美。買ってもいない宝くじの一等が当たったような絶頂から、唐突に地獄の底へと落とされた。
(一体なにが……)
 そもそも、この桃は一体何なのか。月彦は思い出す、桃をぶつけられたのは今回が初めてではない。覚えているだけでも過去に二度やられている。違いは、一度目よりも二度目が、二度目よりも今回の方が桃の勢いが増しているという点だ。
(まるで、何かに焦れてるみたいな……)
 最初は控えめに、気づいて……とそっと放られた桃が、二度目にはまだ気づかないのかと強めに。三度目にはいい加減に気づけ!とばかりに全力で投げられれば、丁度こんな感じになるのではないだろうか。
(問題は……)
 そもそも、誰が投げているのかということだ。それよりなにより、何か言いたいことがあるのなら直接言えばいいのではないか。姿も見せず、声もかけず、しかし桃は投げるという意味不明な行いは一体何の為か。
(ただ一つ、確かなことは……)
 正体不明の桃の主のせいで、姉霧亜の退院がフイになったという点だ。月彦の意識がそこへと到達するなり、めらめらと怒りの炎が湧く。
「誰……だ……」
 ひしゃげた桃を拾いあげ、ぐちゃりと握りつぶす。
「一体どこのどいつだ! ぶっ殺してやる」
 声を荒げ、周囲を見回す。が、当然のことながら見つかるわけがない。
(落ち着け……落ち着け。考えろ、考えるんだ)
 怒鳴っても解決には近づけない。深呼吸をして、気分を落ち着ける。
(これを投げた奴は、俺に何かを気づかせたいんだ。てことは……)
 答えは記憶の中にあるはずだ――月彦は慎重にそれを辿る。
(桃……桃……桃……桃に関すること……)
 そして、なにやら記憶の空白――強いて言うならその輪郭を捉えた時、突如脳裏に不愉快な笑い声が響き渡った。
(……何で、アイツの笑い声が……!)
 なんとも耳障りな性悪狐の高笑いが、それ以上の記憶の旅を遮っているのだ。その声に耳を塞ぎながら――勿論実際に耳を塞いだわけではなく、気持ち的な意味で――月彦はさらにその“奥”へと進む。
(…………森だ。森が見える……その先は……山……?)
 やがて、記憶の中での動きと、肉体の動きがリンクする。
 月彦はゆっくりとした足取りで、その場を後にした。



 一体どれほど歩き続けただろうか。うすぼんやりと脳内に浮かぶ情景をヒントに、月彦は森を抜けさらにその先に続く山道を抜け、気がついた時には一軒の古い日本家屋の前に立ち尽くしていた。
「何だここ……近所にこんな所があったのか?」
 頭を振って意識を覚醒させ、辺りを見回してみる。家屋というよりももはや廃屋と言うべき木造平屋建てのそれはところどころに穴が空き屋根からも草は生え――といったありさまだ。周囲もまた雑草や木々に囲まれ、あと10年もすれば家屋も森と一体化してそうな程に飲まれかけている。振り返れば、今し方自分が登って来た一本道が麓へと続いてはいるものの、何度もうねったそれは草木に完全に隠され、まるで未開の地に一人迷い込んだかの様。随分と長い距離を登って来たような錯覚があったが、距離にすれば二キロもないだろう。山というよりも、小高い丘の上に立てられた一軒家といった表現が正しい。
「……違うな、ここじゃない」
 確かに“こんな感じの場所”だったような気がするのだが、ここではない。それは確信出来る。ここじゃないのならば用はないと、月彦が踵を返そうとした時、不意に視界の端に見えたものが、月彦の足を止めた。
「……井戸?」
 廃墟と化した家の庭に見えるのは、紛れもない井戸だ。そうだ、あそこには井戸があった――月彦はそのまま、吸い寄せられるように廃墟の庭、井戸の側へと歩み寄る。
 井戸は直径にして二メートルほど。古びた木の蓋が備え付けられていて、その上には重石代わりの漬け物石が乗せられていた。月彦は石をどかし、蓋を開けて中を覗き込んでみる。予想に違わず、井戸は枯れていて6メートルほど下に砂地が見えるのみだった。
「ふむ……」
 やはり違うと、改めて思う。“あの場所”の井戸は少なくとも涸れてなどはいなかった。
(それに……確か、井戸の中に入った気がする)
 ということは、“あの場所”の井戸というのはただ単に飲み水を得る為のものでは無かったということだろうか。
(…………井戸に入ってみたら何か思い出すかもしれない)
 “なんとなく似た場所”に来ただけで、こうして色々と思い出すことが出来たのだ。或いは、井戸の中に降りればさらに思い出すかもしれないと、月彦は手段を捜すことにした。
「…………ん?」
 ロープでも無いかなと、辺りを捜していた矢先、不意に視線を感じて月彦は背後を振り返った。が、人影は無い。
「まさか、廃屋に見えるけど、今も誰かが住んでるってことはないよな……」
 目線を、今度は建物の方へと向ける。庭に面した側には木製の雨戸が閉められているが、それもボロボロで雨戸の一つなどは殆ど外れかかっている。その隙間から建物の中を見る限り、やはり人が生活している気配はない。
 気を取り直して、ロープかその代わりになりそうなものを捜す。幸い、庭の隅に納屋があり、そこに恐らくは登山かなにかの際に使われていたらしいザイルが束になって置かれていた。月彦はそれを納屋の一番頑丈そうな柱に結びつけ、井戸まで引っ張って中へと降りてみることにした。
「…………今更ながら、一体何やってんだろな」
 昨日の今頃は、まさか翌日自分がこんな場所で井戸に降りているなど夢にも思わなかった。苦笑混じりに、同じく納屋で見つけた軍手でしっかりザイルを握りながら、月彦は井戸の底へと降りていく。
「……これはこれで壮観だな」
 底へと降り立ち、天を仰ぐ。上から見下ろした際は大した深さではないと思ったが、下から見上げると感想は一変した。丸く円の形に切り取られた空がなんとも心細く、こんなところに長居はしたくないと体が悲鳴を上げるのを感じる。
「……降りれば、何か思い出せるかもって……思ったが……」
 期待とは裏腹に、何もこみ上げてくるものは無かった。やれやれ無駄足かと、ザイルに手を伸ばした――その時だった。
「え」
 まるで突如ザイルに意思が宿り、触れられることを拒絶した――そんな馬鹿な想像が頭を過ぎるほど華麗に、ザイルの先端が月彦の手をすり抜けたのだった。
「お、おいっ! ちょっ……」
 そのまま、あれよあれよとザイルが井戸の内壁を這い上がっていく。もはや跳んでもその先端に捕まることは不可能な高さにまで引き上げられて漸く、ザイルの動きは止まった。
 代わりに、にょきりと。
 丸く切り取られた空に、不審な影が生えた。
「ねえ、何してんの?」
 影は、にぃ、と。意地の悪い笑顔を浮かべながら再度問うてきた。
「ねえねえ、あんたこんなところで何してんの?」
 今にも噴き出しそうな顔を、無理矢理我慢したような真狐を見るなり、月彦は自分が性悪狐の罠に嵌まったことを知った。


 


 


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