九時半に、駅前のファミレス“モコス”で待ち合わせ――そういう話だった。
 白石妙子は十五分前に目当てのファミレスへと到着し、四人がけのテーブル席で千夏の到着を待っていた。出来れば二人用の席がよかったのだが、生憎と全てふさがっていたのだ。
 見れば、二人用のテーブル席に座っているのは殆どが同い年か、少し上くらいの若い男女だった。恐らくはこれからデートでもするのだろう、皆が皆和気藹々と談笑していた。
 そういった連中を見て、妙子は愉快にも不愉快にもならなかった。彼ら彼女らにはそれぞれの価値観があり、そうしたいと思うからそうしているわけで、自分はただその価値観を共有できないに過ぎない。自分に迷惑さえかからないのなら、どうぞ好きなだけイチャついて下さいと、投げやりに思うだけだった。
(…………それにしても遅いわね、千夏……どうしたのかしら)
 妙子はちらりと腕時計を見て、さらに携帯を取り出して千夏からのメールなどが届いていない事を確認する。と、そうやって液晶画面を見たまさにその時、タイミングを申し合わせたかのように千夏からの着信が入った。
 すかさず通話ボタンを押し、妙子は口元に手を当てながら、小声で言った。
「もしもし、千夏?」
『妙ちゃん、ごめん!』
 開口一番、千夏は大声で謝罪してきた。
『今日ちょっと行けんくなってもーた』
「え……?」
『ほんまゴメン! 堪忍して、妙ちゃん! 代わりにヒコに声かけといたから、映画は二人で行ってきて!』
「なっ……ちょ、ち、千夏!?」
 妙子は思わず席を立ち、親友を問いただそう声を荒げる――が、程なく千夏の方から一方的に通話が切られてしまった。
「ちょっと、冗談じゃないわよ! なんでよりにもよって――」
 妙子は慌てて千夏に電話をかけ直すが、繋がらない。
「ち、千夏……出てよ! 私、嫌よそんなの……」
 何度も、何度もリダイヤルをするが、やはり繋がらない。
 ハッと。不意に視線を感じて、妙子は携帯から顔を上げ、ファミレスの入り口の方へと目をやった。
「あっ」
 とでも言いたそうな顔をして、見覚えのある背格好の男がさっと体を物陰に引っ込めるのが見えた。
 そして、そーっと。まるで幼子が機嫌の悪い母親の様子を物陰から伺うような仕草で妙子の方へと視線を向けてくる。
「……はぁ」
 妙子は隠そうともせずに、大きく肩を上下させてため息をついた。

 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第三十九話

 

 

 



「そういえば月彦、妙子ちゃんにきちんとお礼はしたの?」
 事の発端は――朝、学校に行く前にかけられた――母親のそんな一言だった。
「……うん、多分」
 月彦は諸々の事情から、ためらいがちに頷いた。客観的に考えて、十中八九自分はお礼らしいお礼などはしていないと理解してはいたが、していないと答えてしまった場合またぞろ面倒な用件を押しつけられるのではないかと予測しての返事だった。
 とはいえ、それならそれで「した」と自信を持って言えばいい所を、全身から胡散臭さを醸し出しつつ、挙げ句「多分」という余計なものまでくっつけてしまうところが、紺崎月彦という人間の悲しさだった。
「ダメじゃない。妙子ちゃんのおかげでテストもいい点が取れたんでしょう? きちんとお礼はしなきゃ」
 確かに、結果的に見れば妙子のおかげだと言えるかもしれない。しかし、別に妙子に勉強を教えて貰ったわけではない。頑張ったのはあくまで自分だ。だから、そんなに改まってお礼などする必要はないはずだ――と思ったが、口には出来なかった。
「……今日ね、商店街の福引きでこんな物を頂いたの」
 そんな息子の微妙な様子に気づいているのかいないのか、はたまた気づいているけど無視しているのか、葛葉は買い物の時に使う手提げから小さな封筒のようなものを取り出し、月彦へと手渡す。
「……これは、映画のチケット?」
「ちょうど二枚だし。……それに確か、妙子ちゃん犬好きだったわよね?」
 月彦は封筒から出したチケットを改めて見る。映画のタイトルは“108匹コーギーわんわん大行進〜集え梁山泊!〜”となっており、可愛らしい犬の写真が所狭しとプリントされていた。
「今度の休みにでも、妙子ちゃんを誘って観に行ってくればいいんじゃないかしら?」
「…………折角だけど、母さん。今度の休みは真央をどこかに連れて行ってやりたいんだ。だから――」
「それなら大丈夫。真央ちゃんもそろそろ新しいお洋服が欲しい頃でしょう? 今度のお休みにデパートに連れて行ってあげるって言ったら、すごく喜んでたわよ?」
「いやでも――」
「それから、もう一つ」
 反論しようとする息子の口を、葛葉はぴしりと封じてしまう。
「変な病院じゃなくって、きちんとした病院でもう一度ちゃんと診察を受けてきなさい。…………霧亜が随分心配してたわよ?」
「……姉ちゃんが?」
 そんな馬鹿な事があるわけないだろう、と即座に月彦は心の中で否定した。否定はしたが、ほんの少しだけ嬉しかったりする。
「これが、霧亜から教えてもらった信頼できるお医者さんの住所。もう予約も入れてあるらしいから、今日の帰りにちゃんと寄って診察してもらってくるのよ? それから、妙子ちゃんのおうちにも寄ってちゃんとお礼を言う事。……分かったわね?」
「……うん」
 葛葉に命じられたことに対する返事は“Yes”しか許されないという事を、月彦は長年の経験から知っていた。
「ちゃんと病院に行って診察してもらって、妙子に会ってお礼を言って、チケットを渡してくるよ」
 

 いつものように真央と共に登校する道すがら。週末の葛葉とのおでかけについてそれとなく月彦は尋ねてみることにした。
「うん、義母さまがね、新しいお洋服買ってくれるんだって!」
「そ、そうか……。嫌なら、別に断ってもいいんだぞ?」
「嫌って……どうして?」
「いやべつに……」
「父さまは、私が新しいお洋服着るの、嫌なの?」
「いや、そういう意味じゃない。…………ただ、今週末は真央と一緒にどこか行きたいなぁ、って思ってたからな。…………土日でどこかに泊まりがけでってのもアリかなーと」
 そこはかとなく、月彦は水を向ける。真央が自分からやっぱりデパートには行きたくない。デートの方が良い、と葛葉に言い出すように。そうすれば、妙子をデートに誘うようなマネなどしなくて済むからだ。
(いやそりゃあ……僅かでも可能性があるなら、誘ってみるのもアリなんだろうが)
 月彦の見たところ、現在の状況で妙子をただ普通にデートに誘った所で、乗ってくる可能性など皆無だった。確かに、先だってのテストの点数勝負において多少は見直させる事が出来たかもしれないが、そのくらいでは長年の間に溜まりに溜まった負債の1/10も返しきれてないだろう。
(……あと、極めつけにバツが悪いのは……)
 胸を触った事については、そういう約束だったのだからいいとしても、時間をオーバーし、さらにその先までやろうとしたという事だ。しかも、失敗。無理矢理犯ろうとして失敗し、殆ど追い出されるような形で部屋を後にした手前、一体どの面下げて妙子に会いに行けというのか。
(…………せめて、もう少しほとぼりが冷めてから――)
 そういう意味でも、なんとかして真央に葛葉を説得してもらいたかった。
 ――が。
「…………でもね、父さま。私……やっぱり新しいお洋服欲しいなぁ……」
「よ、洋服なんていくらでも持ってるだろ? ……それとも、何か特別欲しい洋服でもあるのか?」
「うん。……あのね、ホントは……黙ってようと思ったんだけど……最近、またブラがきつくなっちゃったの……だから……」
「……そうか。そういう事なら仕方ないな」
 確かに、下着がきついのなら新しいのを買うべきなのかもしれない。
(……個人的には、ブラはちょっとキツめになってるくらいのほうが、見ていて興奮するんだが……)
 しかし、そんな己の趣味趣向の為に真央に苦しい思いをさせるのも悪い。
「それに、父さまも“白石さん”と大事な用事があるんだって、義母さまから聞いたよ?」
「あぁ、うん。…………大事といえば、大事かな」
「私の事は気にしないで、父さま。デートなんていつでも出来るんだもん」
 そう、一緒に住んでいるのだから、デートなんていつでも出来る――筈なのに、現実的に全然時間がとれないのだから堪らない。
(……とはいえ、母さんに逆らうのは…………)
 ある意味、他の誰よりも強制力という意味では強いかもしれない。月彦は隣を歩いている真央に気取られないよう、小さく小さくため息をついた。



 学校帰り、それとなく存在をアピールするラビにきちんと「今日は病院行かないといけないから」と断りをいれ、月彦は霧亜指定の病院へと向かった。
(……こりゃあ、また……)
 バスを二本乗り継いでたどり着いたのは、白い巨塔という表現がいかにもしっくりくる巨大な総合病院だった。
(…………一介の高校生には場違いな病院じゃないのか、ここは……)
 正面玄関からロビーへと入るなり、“場違い”オーラに月彦は気圧され、一度自動ドアの外まで押し出されてしまった。気合いを入れて再度中へと入るも、そこはおよそ病院の待合室とは思えないような風景が広がっていた。
 さながら、巨大企業のオフィスビルかなにかに迷い込んでしまったかの様。これは一度帰って背広か何かに着替えてから出直すべきなのでは――そんな馬鹿な考えを頭を振って打ち消しつつ、月彦は畏まりながらも恐る恐る受付へと向かった。
「あの……予約した紺崎ですけど……」
「紺崎様、ですね。少々お待ちください」
 紺崎、の名を聞くなり、美人の受付嬢の柳眉がぴくりと揺れたのを、月彦は見た。受付嬢はそのままカチャカチャとキーボードを叩き、程なく。
「確かに予約を承っております。お呼び致しますので、そちらに掛けてお待ちください」
 言われるままに、月彦はロビーの椅子へと腰掛けた。ロビー内にはそこかしこに薄型のテレビや、それとは別に現在の待ち時間、人数などを表示している液晶画面があった。
(……現在二十一人……一時間半待ち、か。……すげー流行ってる病院なのかな)
 はてな、と。そこで月彦は自分がまだ保険証も提示しておらず、さらに言えば周りの患者達全員が手にしている番号札を貰っていない事に気がついた。
 これはいかん、と慌てて再度受付へと向かい、
「あの、すみません。番号札貰ってないんですけど……」
「紺崎様はご予約がありますので、必要ございません。すぐにお呼び致しますので、かけてお待ちください」
 あまり人間味を感じさせない受付嬢の機械的な言葉に諭されて、月彦はしぶしぶロビーのソファへと戻った。戻りながら、思った。一体全体どういったコネで霧亜がこの病院の予約を取ったのかは分からないが、少なくとも先ほど話した受付嬢。彼女は霧亜に抱かれた事が在るのだろうな――と。
(……そういう目だった)
 霧亜に抱かれ、モノにされた女性の多くは、“姉様”の弟である自分を敵視する傾向が強いという事を、月彦は経験から知っていた。場合によっては、“こんな奴が”という態度を露骨に示されたりもする為、いつしかそういう事には敏感になってしまったのだ。
(……由梨ちゃんも昔はそんなだったしなぁ……)
 過去を懐かしみながらぼけーっと呼び出しを待っていると、程なくアナウンスで月彦は己の名を呼ばれた。
『紺崎月彦様、第二診察室の方へお入り下さい』
 立ち上がり、第二診察室と書かれたプレートを探して移動する――その間、月彦はいくつもの視線が自分の体にまとわりつくのを感じた。その大半がロビーで順番待ちをしていた患者達であり、その奇異の目をあえて無視して、月彦はアナウンスの通りに第二診察室へと入室した。
「……よろしくお願いします」
 中に居た三十台後半くらいの女医に無言で着席を促され、月彦は頭を下げながら椅子へと着席した。
 その無愛想な女性が、実は日本でも三本の指に入る内科の権威である事を、月彦は後に看護婦から聞かされて知った。


 



「いいか、これは実に由々しき問題だ!」
 教壇に両掌を叩きつけながら、夕暮れ時の教室で倉場佐由は声高に叫んだ。
「考えてもみたまえ! 昆虫は何故擬態するのか! それは生き延びる為だ。過酷な自然環境の中で生き延びるために現在の形となったわけで、伊達や酔狂で木の葉や枝に似た形態に進化したわけではない!」
「ではないー!」
 佐由の言葉に同調するように、小曽根英理がゆるく拳を掲げながらゆるい声を上げる。
「日本国内でさえ、多種多様な昆虫が存在する。ましてや、全世界規模ではその種類は無限と言っても過言ではない! それら全てに言えることは、より生存競争に適した優位種になろうと努力し、淘汰された結果現在のような姿になったという事だ! ――だというのに!」
 ばん!
 佐由は再度教壇を叩き、そしてまるで屈辱に耐えているかのように小刻みに拳を振るわせながら、唇を噛みしめる。
「だというのに! だ。……何故、奴らは……奴らにはあんな真似が出来るというのだ!」
「のだー!………………のだ?」
 英理が同調して声を上げ、そしてはたと。我に返ったように首を傾げる。
「そう、奴らだ。私は奴らの存在がどうしても許すことが出来ない。何故奴らは、あんな真似を続けて、しかも淘汰されないのだ」
「……ゴキ○リ?」
「違う!」
 すぱーん!――佐由が教卓の中に隠していたらしいハリセンで英理のポワポワ天然パーマ頭を小気味良くぶったたく。
「セミだ! 私にはあいつらの存在がどうしても理解できない! 何故あいつらは絶滅しないのだ。ああもやかましく自らの所在をアピールし続けて、何故外敵に狙われない! 何故補食されないのだ!」
「網持った子供にはよく捕まってるにゃりよ?」
「そう、つまり人間の子供ですらたやすく捕まえる事が出来る程に、奴らの位置を特定し捕獲することは容易なのだ! であるのに、奴らは全くと言って良いほどに同種の虫はおろか本来天敵である筈の鳥類にすら狙われないときている! それは何故だ!」
「むぅー……見てない所でそれなりに食べられたりしてるんじゃないのかなー?」
「しかし、絶滅には至っていない。外敵から身を守るため、各々その能力の限りを尽くして身を隠し、或いは自衛を行っているというのに。何故やつらは無防備に――否、それどころか自らの位置を明らかにし続けながら今日まで繁栄することが出来るのか。…………理由は三つしか考えられない」
「にゃ?」
「そう。食われても食われても平気な程、やつらの繁殖力が凄まじいか。或いは、やつらの天敵となる虫や鳥類には音波を感知する器官が存在しないか。……もしくは――」
「もしくはー?」
 佐由は一度言葉を切り、教壇の下から小さな箱を取り出し、教壇の上へと置く。一体どこから持ってきたのか、それは多数のセミが標本としてピンで縫い止められた木箱にビニールのようなもので蓋をしたものだった。
「もしくは、“食えないほど不味い”か――だ。昆虫や鳥類に味覚というものが存在するのかは分からないが、連中にとってとても食えないような代物ということになれば、セミが何故絶滅しないのか、その理由にも説明は、つく」
「ふみゅう?」
「そこで私は実験をしてみる事にした。折しも今は冬――新鮮なセミなどは当然手に入らない。そこでやむなく、生物準備室にあったこれを持ち出す事にした。……あとは“これ”で決めるのだ。誰が“勇者”となるかを」
 佐由がスカートのポケットから取りだしたのは細い棒状に切られたノートの切れ端だった。三つあるそれの一つだけ、先端には赤い印がつけられていた。
「言いだしっぺは私だ。選択の余地のない最後の一本は私が引き受けよう。さぁ、同士黒ポメ。君から引き――」
「嫌」
 佐由が喋り終わるのを待たず、一心不乱にペンを走らせながら妙子は短く言い放った。
「見てわかんないの? 私はあんた達みたいに遊んでる暇なんかないの! さっさとこのレポート仕上げて提出しなきゃいけないんだから!」
 溜まりに溜まったイライラを吹き出させるように妙子は声を荒げる。放課後の教室に残っているのは自分と、二人の物好きだけ。一刻も早く課題を終わらせてしまいたいのに、先ほどからなんやかやとちょっかいを出されては作業が遅々として進まないのだった。
「落ち着きたまえ、同士黒ポメ。君が今日提出のレポート課題を家に忘れてしまったのは、我々の落ち度ではない」
「分かってるわよそんなことは! 誰もそんなことまであんた達のせいにしようとはしてないでしょ!? 何がセミよ! 今は一月よ!? 下らない話をしたいなら教室から出ていくか、それが嫌なら一時間くらい黙って座っててよ!」
「生憎だがそれは出来ない相談だ」
 佐由はまるで、遺族にお悔やみを伝える医者のように目を瞑って首を振る。
「我々は、我々の知的探求心や好奇心の赴くままに真理を追い続ける事を宿命づけられた者達だ。いつ何時、いかなる時であろうと何者にも我々を止める事など出来はしないのだ」
「のだー!」
「ああもう……うるさい、うるさい…………何なのよもう、なんで私にまとわりつくのよあんた達は……」
 妙子は頭を抱え耳を塞ぎながら机に突っ伏してしまう。手が三本あればそのままレポートを書く事も出来るのだが、人間そう便利には出来ていない。
「にゃー。静かな所で書きたいんだったらたゆりん、図書室行って書けばいいにゃり?」
「…………前に似たような事があって図書室行って書こうとしたら、あんた達がついてきて大騒ぎして、何故か私まで一ヶ月図書室出入り禁止になったのを、私が忘れてるとでも?」
「すまない、私は忘れていた」
「わたしもー」
 けろりとした顔で言われ、妙子は深く深くため息をついた。
「やれやれ、仕方がないな。どれ、少し見せてみたまえ。手伝える所は手伝ってあげようではないか」
「あっ、ちょっとこら! 勝手に取るんじゃないわよ!」
「にゃー、たゆりん。ここ式間違ってるにゃりー。これじゃあ解が収束できないにゃりよ」
「えっ、嘘。どこ……?」
「こっちもだ。これは複素関数を使っているから冪級数展開は出来ない。ローラン展開を使わないと解けないぞ」
「あ、そっか……」
「たゆりん、本当に家でやってたにゃり? 間違いだらけにゃりよ?」
「や、やったわよ! ていうかあんたたちが邪魔さえしなけりゃこれだって――」
「つまりここが……こうなって、xはこの場合多元体となるわけだ。これが形式ローラン級数体もしくは単純にローラン級数体と呼ばれるわけだが――……同志黒ポメ、ちゃんと真面目に聞いているのか?」
「う…………はい……」
 ほんの一分前までセミだのなんだのとばかげた話をしていた級友達に真面目さについて追求される等とは夢にも思わず――かといって、言っている事の正当性も否定できず――妙子はぐうの音も出ずに神妙に頷くしかなかった。


 級友(?)達の手助け(?)の甲斐もあり、辛くも妙子は日没前には校門を潜る事が出来た。
「いやぁ、なかなか有意義な時間だった。これからはセミを見かけても今までとは違った見方が出来そうだ」
「にゃー。でも結局セミって美味しいにゃり? 不味いにゃり?」
「私が調べた所によると、セミ料理というものは存在はしているらしいがね。油で揚げたりして食すそうだが、まるでエビの頭のような味がするそうだよ」
「えび! えび大好きにゃり!」
「…………どんだけ味がエビに似てても、私はセミなんか絶対食べたくないわ。……だいたい、大きな音を出す虫が絶滅しないのが不思議っていうんなら、スズムシやコオロギだって似たようなものじゃない」
「…………それだ!」
 佐由はハッと全身の動きを止め、それは盲点だったと言わんばかりに指を鳴らす。
「……そうか、どうにも解にたどり着けないと思っていたら、単純に式が足りていなかったという事か。さすがは同志黒ポメ、見事な補完だ。感謝するよ」
「たゆりんさすがにゃりー! すごいにゃり!」
「…………あんた達、ひょっとして私をバカにしてるの?」
 とんでもない、とでも言いたげな顔をしている二人を見切って、妙子はやや早足にバス停へと向かう。そう、記憶が正しければ、そろそろ次のバスが来る筈なのだ。
 ――が。
「ねぇ……ちょっと」
「うん?」
「いや、うんじゃなくって……あんた達帰らなくていいの?」
 バス通学である自分とは違い、佐由も英理も自転車通学の筈だった。であるのに、バス停へと向かう妙子の後ろを二人がピッタリと追尾してくる――それに堪りかねて、つい声を出してしまったのだった。
「もちろん帰るとも」
「にゃ」
 二人は顔を見合わせて頷く。――が、バスを待つ妙子の側から離れる様子が全くなかった。
「……ねえ、ひょっとしてあんたたちもバスに乗るの?」
「も、という事は君もかい?」
 白々しく答えたのは佐由だった。
「私は、バス通学だもの……でもあんたたちは違うでしょ?」
「ああ、その事か。実はどうしても今日中に手に入れたいものがあってね。英理と共に買いに行こうと思っていた所なのだが、まさか君と同じバスになるとはね。偶然とは恐ろしい」
「ふぅん……ちなみに、どうしても手に入れたいものって、何?」
「それは明かせないな。乙女の秘密というやつだ」
「…………。」
 まさかこいつら、このまま家までついてくる気じゃ――以前にも似たような事をされた事があるだけに、妙子は直感的にそう感じた。
 程なくバスが来て、妙子は躊躇いながらも乗車した。二人も、当然のように乗車する。
 二人は相変わらず下らない話を続けていたが、当然妙子は参加はしなかった。ただただバスからの景色を眺め、他人のフリを続けながら、いくつかの停留所を通り過ぎた後、その次の停留所がもう見えそうな程近くまで接近した所で、唐突に“降ります”ボタンを押した。
「おや、偶然だな。君もここで降りるのかい?」
 佐由が白々しく言い、小銭の準備を始めた時にはもう妙子は席を立っていた。程なくバスが停車し、妙子は殆ど走るような足取りで運転手に定期を見せてバスから駆け下りる。ちらりと振り返ると、二人が慌てて小銭を運賃箱へと入れているのが見えた。
「……しまった、見失ったか……!?」
「にゃ……?」
 そして二人がバスから降り立った時には、妙子は後部昇降口から再度バスへと乗り込んでいた。窓の外から見られないよう身を伏せたままバスが発進するまで待ち、たっぷり三分ほどそうして身を低くした後、漸く通常通り座り直してほっと安堵の息をついた。
(ったくもう……あんな連中に家バレとか、冗談じゃないわ)
 教室での悪夢が、そのまま自宅での悪夢にすり替わる恐怖に、妙子はゾッと背筋を冷やす。
(そもそもなんで私に絡んでくるのよ。……私はあいつらとは全然違う人種なのに)
 自分が人よりも勉強が出来るのは、偏に人よりも勉強に時間を費やしているからに過ぎない。しかし、如水学院に入って痛感した事は、世の中には自分の半分の時間で、自分の倍の成果を上げられる人間が存在するという事実だった。
 言うなれば、あの二人がまさにそれだった。或いは、目に見えない形で血の滲むような努力をしているのかもしれないが、そういった努力をして尚、それらをおくびにも出さずにああやってふざけていられるというだけで、正直妙子は尊敬の念を禁じ得ない。
 が、だから何をされてもいいかと言われると、それはそれこれはこれ――というわけだった。
(そりゃあ、深夜ラジオっていう共通の趣味はあるけど……)
 たったそれだけで、ここまでつきまとわれるものだろうか。妙子には二人の行動が不可解極まりなく思えるのだった。


 無事二人の追跡を振り切り、いつもの停留所で降り立った所で――降りる際、運転手に変な顔をされたが、気にしない事にした――スカートの中で携帯が震えだした。見てみると、着信相手は葛葉だった。
「もしもし、はい。私です」
 すかさず通話ボタンを押し、妙子は黄色い声で返事を返す。“息子”に対してはいろいろと思う所はあるものの、その母親である葛葉に対しては、少なくとも恩を感じこそすれ悪い感情など一辺たりとも持っていなかった。
「はい……えと、今バスを降りてこれから帰る所です。…………えっ」
 一難去ってまた一難。
 妙子は今日ほどその言葉を痛感したことはなかった。



 今から息子が行くから、仲良くしてあげて欲しい――葛葉の電話の内容を一言で表すならば、つまるところそういう事だった。
(葛葉さんはいい人なんだけど……)
 時折こうして無理難題を言ってくるのが玉に瑕かもしれないと、妙子はため息混じりに思う。
(……………………アイツと顔を会わせるのは“アレ”以来、か……)
 その時の事を思い出す度に妙子は赤面し、じたばたしたくなってしまう。一時の気の迷いとはいえ、あの男に体を許しかけた自分が信じられなくて、恥ずかしさの余り何度壁に額をうちつけたか知れない。
(……うぅ……危なかった……本当に危なかったわ)
 もし、あの男が名前を書き忘れていなかったら――否、千夏が来訪しなかったら。ひょっとしたら“他人”では無くなっていたかもしれないのだ。
(……っ……冗談じゃ、ないわ…………)
 “初めて”は結婚する相手に捧げたい――とまでは、さすがに思わない。かといって、遊びで捨てたいとも思わない。ましてや、あの男に捧げるなどもってのほかだった。
(アイツとするくらいなら……っ……)
 まだ、その辺にいる見知らぬ会社員――否、いっそ浮浪者辺りに抱かれる方がマシかもしれないとすら、妙子は思う。
(……でも……)
 そう、すんでのところで契るには至らなかった。が、胸を直に触られ、しかも舐められる所まではいってしまったのだ。或いはこれは十分“他人ではない”という事になるのではないか――そんなひやりとした危惧に、妙子の心は大いに揺れる。
(違う……違うわ。気の迷いよ…………ちょっと胸を触られるくらい、昔からなんどもされてたじゃない)
 そう、それこそ小学校、中学校と。まるで挨拶代わりとでも言わんばかりにあの男は胸を触ってきて、その都度妙子は鉄拳を、或いはヤクザキックをたたき込み続けた。しかし、懲りるという事を知らないあの男はどれだけ手痛い目に遭ってもそれを止めなかった。
 “あの事件”が起きるまでは。
「…………っ……」
 妙子は首を振って、思考をリセットする。うじうじと考えた所で、答えなど出るはずがないのだ。先だっての事に関してはもう、忘れるのが一番だと何度も結論を出したではないか。
(………………でも、出来ればもう少し……ほとぼりが冷めるまで……)
 顔を合わせたくなかったというのが、正直な気持ちだった。そしてそれは恐らく、月彦の方も同様なのではないかと。
(そうよ。結局、あいつなんて嘘しかつかないロクデナシなんだから)
 あの男が自分に対して執着を見せるのも、結局この脂肪の塊が目当てなだけなのだ。
(だって、そうじゃなくて…………純粋に私の事が好きなんだったら……)
 胸を触らせろ、等ではなく俺と付き合えという条件を出してくるのが――それを受けたかどうかはともかくとして――普通なのではないか。そこをいきなり胸に行く辺りが、あの男らしい低俗さが滲み出ていると妙子は思う。
(そうよ、本当に好きなら、もっと……)
 毎日足繁く通ったりするのではないか。あの男にとって結局白石妙子など学業上の都合か、親の言いつけがなければ会う価値の無い女に違いないのだ。そしてあわよくばそのついでに胸を触ろうと画策しているのが、紺崎月彦という男の本性なのではないか。
(………………なんか、段々腹が立ってきたわ)
 今日という今日は出会い頭に強烈な一発をお見舞いして、二度と顔を見せるなと引導を渡してやろうかと、そんな物騒な事を考えながら妙子はいつもより若干ながら早足でアパートの自宅へと向かった。
「あっ」
 と、思わず身を隠してしまったのは、既に部屋の前に人影があったからだった。日はとっくに暮れているが、アパートの廊下の照明のおかげでそれが誰であるかを把握するのはたやすかった。言わずもがな、部屋の前に立っているのは紺崎月彦その人だった。
(…………何してるのかしら)
 見たところ、部屋の前で何をするでもなく呆然と立ったままの月彦を不審に思いながら、妙子はそっと階段と廊下の分かれ目の辺りから様子を伺う。月彦は時折手を挙げ、インターホンを押そうか押すまいか――やっぱり押さない。かわりにノックをしよう――でもしない。といったような行為を繰り返すばかりで、妙子は徐々にイライラを募らせていく。
(用があるのなら、インターホン押せばいいだけの話でしょうが!)
 耳を引っ張りながら怒鳴りつけてやりたいのを我慢しつつ、妙子は月彦の動向を見守り続ける。かれこれ十五分ほどもそうして見守り続け、唐突に月彦がくるりと自分の方を向くなり、妙子は慌てて体を引っ込めた。
(バレた!?)
 足音は、間違いなく自分の方へと近づいてくる。一瞬逃げようかと迷って、なんであの男から自分が逃げねばならないのか、という謎の対抗心によって、妙子は辛くもその場に踏みとどまった。
「あっ……た、妙子!?」
 そして、廊下から階段部分へと曲がるその場所で、とうとう二人は顔を合わせた。
「…………。」
 妙子は返事を返さなかった。代わりに、これ以上ないという程に侮蔑の目を月彦に対して向けてやった。
「ちょ、丁度良かった……今、部屋の前まで行ってきたんだけど……る、留守みたいだから帰る所だったんだ」
 インターホンも押さずノックもせずによく言う――と思うも、いまさら口にはしない。以前言っても治っていないということは、言葉で治すのは不可能だろうと思ったからだ。
「……何か用?」
「用って程のことじゃないんだけどな…………えーと…………なんつーか……ほら、こないだのテスト勉強の時、一応お前に世話になったみたいな形になったっていうか……俺が良い点数とれたのは一応はお前のおかげだっていうか……つ、つまりだな……」
「悪いけど、早く帰って着替えたいから要点だけ言ってくれない?」
「要点か……分かった……。こ、これ……お前に渡す様に母さんに言われた」
 月彦が鞄から封筒を取り出し、差し出してくる。妙子は不審げにそれを受け取り、封筒の中身を取り出した。
(えっ……これって……)
 どきんと、心臓が跳ねるのが分かった。
「……母さんが、犬の映画ならお前が好きだろう、ってさ。……でも確か、その映画に出てくる犬って嫌いだったろ? だから別に無理には――」
「………………ありがとう。葛葉さんにそう伝えておいて」
 弾む心臓を押さえながら、妙子は声が震えないよう精一杯平生を装い、鞄の中へと封筒ごとチケットをしまう。
 そしてチケットをしまうや否や、妙子は自分でも信じられないような言葉を口にした。
「…………折角だから、コーヒーでも飲んでいったら?」



 妙子自身、己の言葉が信じられなかった。一体全体どういう所存で自分はこの男を自宅へと誘ってしまったのだろうか。
「……着替えるから、ちょっと待ってて」
 疑問と疑念に心を揺らしながら、妙子はあくまで平生を装って言い残し、月彦を外に残して部屋の中へと入る。真っ先に部屋着のトレーナーとジーンズに着替え、さらに部屋の中を片づけてから、月彦を中へと招き入れた。
「……コーヒーでいいでしょ?」
「ああ。……ありがとう」
 ダメだと言われてもコーヒーしか無いわけだが、月彦が頷くのを見てから、妙子は準備に入る。程なく湯が沸き、妙子は二人分のコーヒーカップを手に居間へと戻った。
「…………。」
 カップの一つを月彦の前へと置き、妙子自身も自分のカップを手に、月彦の対面席へと座る。外は寒かったから本来ならば体は冷えている筈なのだが、どういうわけか妙子は熱々のコーヒーに手をつける気にはなれなかった。
「…………それで、あんたに聞きたいんだけど」
 代わりに、妙子は鞄から先ほどの封筒を取り出し、映画のチケット二枚をテーブルの上に置く。
「これってどういう事なの?」
「どういう事も何も、さっき言った通りだ。母さんが商店街の福引きで貰ったらしいんだ。……んで、妙子の所に持っていけってさ」
「ふーん……」
 商店街の福引き――理由としてはあり得なくもないとは言える。が、それを鵜呑みにするほど妙子はお人好しでも眼前の男を信頼もしていなかった。
(……コイツらしい下手な言い訳だわ)
 恐らくは、先だっての事で親密度は増した――とでも勘違いしているのではないだろうか。今ならば、映画の誘いくらいには乗ってくるのではないかと侮られているような気がして、妙子は怒りにも似たものを感じていた。
(……ひょっとしたら、本当に葛葉さんに言われて持ってきただけなのかもしれないけれど)
 先ほどの葛葉からの電話も、この男の小狡い工作でないとはいいきれない。とにもかくにも、これはよく吟味して動く必要があると妙子は思った。
(…………また下手に動いて、こないだみたいな事になったら堪らないし)
 この男が一体どういうつもりでこのチケットを持ってきたのか、まずはそこを見抜かなければならない。
「い、言っとくけど、本当だぞ!? べ、別にお前を映画に誘いに来たとか、そういうわけじゃないんだからな!?」
 語るに落ちるとはまさにこのことだと、妙子は思った。が、同時になんともこの男らしい間抜けっぷりだと、不思議と溜飲が下がりもした。
(………………つまり、そういう小芝居うってまで、あんたは私と一緒に一緒に映画に行きたいワケ?)
 少しだけ、口元がにやけてしまいそうになるのをかみ殺しながら、妙子はついとチケットの一枚を手に取り、その内容を確認する。
(108匹コーギーわんわん大行進……)
 こういう映画がある、という事は知識としては知っていた。一時期、ラジオでCMもしきりに流されていたからだ。しかし、一人で映画を見に行くという事がどうにも億劫に思えて――それでいて、わざわざ自分から友人を誘って映画館に行くほどアクティブな性格でもなくて――結局手を出さないままだった映画だ。
 見たくない、と言えば嘘になる。というより、むしろ見てみたい。それもかなり。
(………………一緒に行ってあげる、って簡単に答えたら、コイツの事だもの。きっと調子に乗るに決まってるわ)
 そういう男なのだ、月彦という男は。それこそ、土下座させてお願いだから一緒に行ってくれと言わせるくらいでなければ――。
「……これ、有効期限が今週末までってなってるわね」
「そ、そうなのか? それは見てなかった」
「……週末は予定があるのよね」
 ぽつりと呟き、妙子はちらりと眼前の男の反応を横目で観察した。きっと、見ていて面白いほどに狼狽えるだろう――という予測は、意外にも裏切られた。
 月彦はホッと。まるで安堵したように胸をなで下ろしていたのだ。
「なんだ、そうなのか。……そういう事なら仕方ないな」
 いそいそとチケットを封筒にいれ、懐にしまおうとする月彦に慌てたのは妙子の方だった。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
「な、なんだ……どうした?」
「ど、どうしたって……」
 そこをなんとか、頼む、妙子!――テーブルに額を擦りつけるようにしてそう言うだろうという予測は見事に裏切られ、妙子は言葉に詰まってしまった。
(……コイツ、もしかして…………私がこの映画もの凄く見たいっていうの……見透かしてるの?)
 そう見越して強気に出ているのならば、それは大きな間違いであると言わざるを得ない。何故なら、どれほど見たい映画であっても紺崎月彦という男に対して下手に出てまで鑑賞するに値する映画などこの世には存在しないからだ。
「…………予定があるけど、別に午後からでもいいし。折角葛葉さんがくれるっていうのなら、貰ってあげるわ」
「……そうか。そういうことならこれは置いていく」
 これまたあっさりと、月彦は封筒を出し、炬燵テーブルの上へと置く。そして若干冷めたコーヒーをぐびぐびと凄まじい勢いで飲み干していく。
(…………何よ、そんなに急いで飲まなくてもいいじゃない)
 早く帰りたい、と暗に言われているようで、毎度の事ながら月彦のこのコーヒーの飲み方にも、妙子は一言言いたくなってしまう。
「ふう、コーヒーごちそうさま。体も温まったし、そんじゃあ俺は帰るぜ」
「あっ、……ちょっと、こら!」
 あっさりと腰を上げ帰ろうとする月彦を、妙子は慌てて追いかけた。
「なんだ、どうした?」
「どうしたじゃないでしょ! 結局……どうするのよ……」
 妙子はトレーナーの袖を握りしめながら、ちらりと炬燵の上に置かれたままのチケットへと視線を這わせる。
「どうするもなにも、妙子の好きにすりゃーいいだろ?」
「意味が分からないわ…………何時に行くかとか、待ち合わせは何処にするかとか、何も決めてないでしょ!」
「…………?」
 月彦はまるで日本語が理解できない、というような顔をする。
「そんなもん、お前が一緒に行くやつと決めればいい話だろ? なんで俺に聞くんだ?」
「なっ………………」
 言葉を失うとは、まさにこのことだった。
(こ、こいつ…………!)
 そう、確かにこの男は――月彦は、ただの一度も「俺と一緒に映画観に行こうぜ」とは言っていない。それを匂わせるような事は言ったが、一応は否定している。この男が言ったのは、チケットをやると――ただそれだけだ。
 つまり。
「…………妙子、お前もしかして……――ぐぼぉッ」
 最後まで喋らせはしなかった。渾身のヤクザキックを無防備なみぞおちへとめりこませ、月彦の体は背中から玄関ドアへと叩きつけられた。
「げほっ、がはっ……ちょ、こらっ……た、妙子……!?」
「チケットありがとう。千夏を誘って、二人で楽しませてもらうわ」
 妙子はドアノブをひねり、開けるや否や人間生ゴミこと月彦を盛大に蹴り飛ばし、部屋の外へとたたき出す。ついでに足下に残っていた月彦の学生鞄と靴を顔面目がけて力一杯投げつけ、アパートが揺れるほど乱暴にドアを閉め、鍵をかけた。
「………………っ…………」
 そのまま、妙子は顔を真っ赤にしたままその場へと崩れ落ちる。図らずも愚弄された、あんな男の掌で踊ってしまったという思いに目尻に涙すら滲んだ。
(……許さない。……絶対、許さないんだから)
 過去に何度そう思わされただろうか。その都度、二度とあの男の言葉など信じまい、浮き足だったりしないと心に誓ったというのに。
 それなのに。
「………………もしもし。あっ、千夏? うん、今大丈夫?」
 携帯を取り出し、妙子は千夏へと電話をかける。勿論、声にもそういった心中のドロドロはおくびにも出さない。
(許さない、許さない、絶ッッッッたいに許さない……!)
 こいつは、私をデートに誘おうとしている――そんな風に多少なりとも心を浮つかせてしまった自分が許せなかった。何より、他ならぬあの男にそう勘違いされるようしむけられ、まんまと乗ってしまったというのが、屈辱で堪らなかった。
「あのね、今度の土曜日……ヒマ? うん、ヒマならさ、一緒に映画なんかどうかなって。…………そう、丁度チケットが二枚あるの、面白いかどうかはわからないけど、タダだからさ」
 今後一切、二度とあの男からの誘いになど乗ってやるものかと。妙子はきつく唇を噛みしめながら心に決めた。



 試みは無事成功した。少なくともその筈だった。
(……俺はちゃんと母さんにもチケットは渡してくる、と言った。嘘はついてない)
 最後に何故蹴り飛ばされたのかだけが不明ではあるが、きっと虫の居所が悪かったのだろうと月彦は思う事にした。或いは、やはり映画の内容が気に障ったのかも知れない。何故ならあの映画の主演であるコーギーという犬種は、犬好きの妙子にとって唯一といってもいい苦手な犬であろうからだ。
(…………でも、だからって蹴るのはちょっと酷いよな)
 折角気を利かせて、デートに誘うのではなくチケットをプレゼントするという形にしたというのに、蹴られるのは少々筋違いではないかと思うのだ。
(……でも、そういう奴なんだよな。人間嫌いってわけじゃないんだろうけど、不器用っていうかなんていうか)
 コミュ障――と言うほどではないとは思うのだが、それに近いものはあると月彦は思っていた。
(まぁいいや。ともかくこれで週末は空いた。真央を連れて行ってやるのは無理でも、一緒に買い物について行ってやるくらいは出来るぞ、うん)
 気を取り直して、るんるん気分で月彦は自宅へと帰り着いた。いつものようにドアノブを握ろうとして――否、実際に握って、はたと。月彦は慌てて手を離してしまった。
「…………?」
 そんなはずはない――というよりは、それが当然とも言うべき事ではあるのだが、いつになくドアノブが冷たく感じたのだった。それこそ、掌を火傷しかねない程に――しかし、実際にはそんな事は無く、改めて握ったドアノブの温度は冷たい事は冷たいが外気温に沿った冷たさではあった。
「……あれ?」
 ドアノブを捻って、その手応えに月彦は小首を傾げた。鍵がかかっていたのだ。家の灯りはついており、葛葉が居る時はだいたいいつも鍵は開けっ放しである事が多いのだが――無論、深夜帯などは除く――ひょっとしたら買い物にでも行っているのかもしれない。
 月彦は家の鍵を取り出し、鍵を開けてから玄関へと入る。後ろ手にドアを閉めると、台所の方からはトントンと小気味の良い包丁の音が聞こえてきた。
(なんだ、母さん居るんじゃないか)
 てことは、真央辺りがうっかり鍵を閉めてしまったのだろうか。深く考えずに、月彦は靴を脱ぎ、真っ先に台所へと向かった。
「母さん、病院、行ってきたよ」
 あら、月彦。お帰りなさい。診断結果はどうだったの?――振り返り様にそんな言葉が返ってくるとばかり思っていた月彦だが、背を向けたまま調理を続ける葛葉はまるで言葉が聞こえなかったかのように黙々と夕飯の準備を続けている。
「えーと、病院……行ったんだけど……」
 やや声を大きくして、月彦は再度言った。聞こえていない筈はないのだが、まるで月彦の存在など気がつかないと言わんばかりに、葛葉は振り返らない。
「なんか、偉い先生っていう人に診てもらったんだけど、やっぱり胃潰瘍で間違いないってさ。……ははは……」
 葛葉からの返事はない。月彦は掌に嫌な汗が滲むのを感じた。無言の母親の背中に、月彦は次第に気圧され始める。
「そ、それから……例のチケットもちゃんと妙子に渡してきたよ。……妙子が、ありがとうってさ」
「……そう」
 そこで漸く、葛葉が返事を返した。トン……と、不意に包丁の音が止まり、葛葉がゆっくりと振り返る。
 そんな筈は無い。そんな筈は無いのだが、ひょっとしたら振り返った葛葉の顔は夜叉か般若のようになっているのではないか――そんな想像に月彦は震えた。しかし、実際に振り返った葛葉の顔はいつも通りの、柔和な笑顔だった。
「貴方は、それでいいと思ったのね?」
「えっ……ど、どういう意味?」
 葛葉からの返事は無く、そのまま無言で前に向き直ると、トントンと機械的な音を立てて夕飯の支度が再開された。
「……えと、…………診察代のおつり、ここに置いとくから……」
 ひょっとしたら、自分は何かとんでもない間違いをしてしまったのでは――いつになく恐ろしい母の後ろ姿に戦々恐々としながら、月彦は逃げるように二階へと上がっていった。


「ヒコ、妙ちゃんに何か言うたん?」
 翌日の昼休み、月彦はいつものように屋上で昼食を取ろうとした矢先、千夏にそんな言葉をかけられた。
「……いや」
 ここで目を逸らすということは「言った」と答える事と同義なのだが、体に染みついた習性はいかんともしがたく、月彦は弁当を手に持ったままやっぱり目をそらしてしまった。ちなみに弁当はいつも通り葛葉の手作りなのだが、蓋を開けてビックリ。入っていたおかずは梅干しとたくあんのみだった。
「こーらっ」
 千夏は豆乳パックのストローを口にくわえたまま月彦の隣へとやってきて、肘でこつんと頭を小突くようにして隣へと座る。
「白状しぃ。今更ウチに隠し事が出来るーなんて思うとるん?」
「…………。」
 ぐりぐりと肘で脇腹を弄られながら、月彦は頑として知らないフリを続ける。同時に、少しだけ安心もしていた。一時は学校を連続して休み、顔を全く見せなくなった千夏だったが、いつの間にか完全復活していつも通りの小悪魔っぷりを発揮しているからだ。
「おーっす。遅れて悪いな、売店が混んでて――……なんだ、どーした?」
 一抱えほどもある紙袋を手に、和樹が息をきらせながらやってくる。
「んー、またぞろヒコが妙ちゃんにやらかしたんやて。今から口割らすトコや」
「……ほう。それは面白そうだ」
 千夏はペットボトルのお茶を和樹へと投げ渡し、和樹は菓子パンを二つ千夏へと投げ渡す。事前に片方が飲み物係、パン係と役割分担をすることで、一人で両方回るよりも遙かに効率よく昼食の準備が出来るという、庶民のささやかな生活の知恵だった。
「…………俺は別に何も言ってないぞ。ただ、母さんに言われて、妙子に映画のチケットを渡しただけだ」
「渡しただけ……やないやろ? なんか余計な事言ったんと違う?」
「余計なこと……」
 月彦は記憶を辿る――が、どうにもそれらしい発言に心当たりがない。
「悪いが、心当たりがない。…………妙子の様子がおかしかったんなら、きっと映画の内容が気に入らなかったんだろ」
「ちなみに、どんな風におかしかったんだ?」
 カレーパンを囓りながら、和樹が耳ざとく話に加わってくる。
「んー……せやなぁ。しいて言うなら……本命の彼氏にフラれて、ヤケになってキープ君の求愛を受けてもーた的な?」
「……よく分からんたとえだな」
「そういや、妙子も映画は千夏と行くって言ってたな。良かったじゃないか、二人で楽しんでこいよ」
 嫌がらせのようにご飯が圧縮して詰め込まれている日の丸弁当に四苦八苦しながら、月彦は千夏に笑顔で返した。
「……成る程。妙ちゃんが怒るわけや」
 ぐしゃっ、と。千夏は飲み終わった紙パックを右手で潰しながら、そんな言葉を呟く。
「何だ、俺が悪いって言いたいのか? 言っとくけどな、俺はほんっとーに、マジでチケットをやっただけだからな!? イヤミとか、そういうんじゃなしに、純粋に仲の良い友達と行ってこいって、百%善意で言っただけだからな!?」
「成る程な。こりゃ有罪だ」
「カズまで……一体何が悪いっていうんだよ!」
 声高に叫ぶも、千夏と和樹は顔を見合わせ、やれやれと言いたげなジェスチャーをする。
「……まー、ヒコだけが悪いワケやないけどな。ウチの見たところ、妙ちゃんも同罪や」
「そうかぁ? 話聞いてる限りじゃ、俺は月彦が十割方悪いと思うぞ?」
「んーん。妙ちゃんもアカン。……これはもう二人とも――」
「ん、なんだ。悪巧みか?」
「…………勝手にしてくれ」
 何やらヒソヒソと密談を始めた二人に付き合いきれなくて、月彦はひっそりと普段の四倍ほどの質量がある白米を必死にかみ砕きながら嚥下していく。
(何だよ……俺が一体何したっていうんだ)
 葛葉といい、妙子といい、千夏といい、和樹といい、皆が皆自分を悪者のように扱う事が耐えられなかった。



 何となくではあるが、葛葉が言わんとする事、そして千夏、和樹が責める事が何なのか、日にちが経つにつれて月彦にも分かってきた。
(…………ようは、俺が妙子を誘わなかったから悪いって、そういう事なのか?)
 そうとしか考えられなかった。そして、だったらこちらにも言い分はあると、月彦は思うのだった。
(誘って、断られて、ヘコむのは俺なんだぞ!?)
 なんと言っても相手はあの妙子だ。紺崎月彦など、毛虫と芋虫の間くらいの好感度しか抱いていない妙子にデートを申し込むという事がどれほどの苦行か三人ともちっとも分かっていないのだ。
(超冷めた目で見られながら散々にこき下ろされるに決まってる)
 もしくは、思い切り足下を見られて無理難題をふっかけられるかもしれない。それこそ、いつぞやのように成績で勝てたらOKとか――実際には、チケットの有効期限があるからそんな悠長な事は出来ないが――そういう話になりかねない。
(それに妙子だって……俺なんかと一緒に行くより、他に仲の良い友達とかと観にいった方が楽しいに決まってるだろ)
 なまじチケットをどうするかで揉めるよりも、気前よくスパーンと渡して男らしく帰ってきた自分の一体全体何処が悪いというのか。
 月彦は声高に叫びたかった。俺には非はない――と。

「おーっす、ヒコー!」
 そんな事をぐじぐじ考えながら迎えた金曜日の夕方。自宅でまったりしていた月彦は思わぬ人物の来訪を受けた。
「千夏っ……どうしたんだ? 今日バイトじゃなかったのか?」
「バイト先の先輩が明日デートなんやて。シフト変わってぇ〜って泣きつかれてもーて、しゃーないからウチが明日先輩の代わりにバイトに入って、今日は休みなったんや」
「明日って……妙子と出かけるんだろ?」
「せやから、こうしてヒコに“代役”頼みに来たんやない。……電話でも良かったんやけど、直接ゆーた方が確実やし」
「だ、代役ぅ!? おい、ちょ……ふざけんな! 勝手に何決めてんだよ!」
「ええやん。どーせ暇なんやろ?」
「ひ、暇じゃねえ! 代役ならカズでいいだろ!?」
「ヒコより先に声かけてんけど、明日は親父さんと一緒に釣り船乗るんやて」
「嘘つけ! お前ら二人で示し合わせててきとーに都合でっち上げてるだけだろ! いつもそーだ、分かってんだからな!?」
「人聞き悪いこと言わんでくれるー? ウチはただ、幼なじみとして、ヒコに自分の代役を頼みに来た、それだけやで?」
「…………悪いがな、千夏。はいそーですかってホイホイ行くわけにはいかねーんだよ。……そもそも、妙子は納得してるのか? 俺が代わりに行くって事に」
「当たり前やん」
 けろりと、千夏は当然と言わんばかりに真顔になる。
「ウチが行けんくなったー、代わりにヒコがいくからーって言うたら、妙ちゃん顔あかーくして俯いとったで?」
「嘘だ! ぜってー嘘だ! あの妙子がそんな反応するわけねえ!」
「……ま、疑うのはヒコの勝手やけど。明日ヒコが待ち合わせ場所に行かへんかったら、妙ちゃん一人で待ちぼうけになるやろなー?」
「う……」
「ヒコとデートするために精一杯おめかししてくるのにスッポカされるんかー。妙ちゃん可愛そ過ぎるわ」
「す、するわけないだろ……あの、妙子が……」
 妙子が、鏡の前で洋服の肩を持ち、自分に重ねたりしているシーンなどはおよそ想像出来ない。ましてや、自分とデートをする為にそんな事をしているなんて、信じられる筈がなかった。
「…………ちなみに、待ち合わせは駅前の“モコス”に九時半や。遅れたらあかんでー?」
「ま、待て……まだ俺は行くとは…………」
 月彦が止めるまもなく、千夏は玄関を後にするとそのままタカタカと一目散に駆けて行ってしまう。
「ま、マジかよ…………本当に、明日……」
 月彦は振り返り、ちらりと固定電話へと目をやる。千夏が言った事が本当かどうか確かめる手はある。妙子に電話一本かければ済む話だ。
(…………………………でも…………)
 月彦は受話器を手にするが、結局かける勇気が出ず、そのまま受話器を置いた。



 一晩眠れぬ夜を過ごした後、月彦は渋々ながらも待ち合わせ場所へと向かうべく早起きをして準備をし、玄関で靴を履いていた。
「月彦、待ちなさい」
 そこへ、ぱたぱたと台所からスリッパの音が近づいてきた。振り返るまでもなく分かる、葛葉だ。
「これから妙子ちゃんと映画観にいくんでしょう? はい、これ。お小遣いと……」
「ありがとう、母さん。…………これは何?」
 葛葉が差し出したのは、5千円札と小さな紙袋だった。
「今は開けちゃダメ。…………いーい? どうしようもないくらい困った事が起きた時にだけ、袋をあけて中のものを使うのよ?」
「………………何が入ってるの?」
「ヒ・ミ・ツ♪」
 葛葉は十代以下の少女しか許されないような仕草でそう言うと、鼻歌を歌いながら台所へと戻っていってしまった。
「…………困ったこと、ねぇ……」
 仕方なく葛葉に貰った紙袋を肩掛け鞄にしまい、月彦は自宅を後にした。

 駅前までは、寄り道さえしなければそう遠くはない。月彦は待ち合わせの十分前には目当てのファミレス前へと到着し、窓際席に座っている妙子の姿を確認した。
(……まてよ、……千夏のやつ、本当に俺が代わりに行くって言ったのか?)
 そして事ここに至って、月彦の頭にふとそんな疑念が浮かんだ。
 というのも――
(あいつの事だ…………妙子に俺が代わりに行くって伝えたら、妙子が来ないかもしれない可能性を考えない筈がない)
 千夏ならば、そのくらいの“読み”はするだろう。そしてそうなってしまっては、後日紺崎月彦の失態談を面白おかしく聞き出すという千夏の目論見も外れることになる。
 ではどうすれば良いか――簡単だ。妙子にだけ代わりが行くということを伝えなければ良い。千夏と待ち合わせだと思いこんでいる妙子は当日のこのこと待ち合わせ場所にやってきて、そして自分が騙された事を知って――。
(……ヤバいぞ。どう考えてもそうとしか思えねぇ)
 妙子に代理の件を伝えたという話はデマカセに違いない。伝わっているなら絶対に来るはずがないではないか――何故そのことにもっと早くに気がつかなかったと、月彦は己で己の頭をどつきたくなった。
(……困ったな…………どうすりゃいいんだ)
 このままそっと帰るか、観念して声をかけるか。ざっと考えて二者択一……そこではたと。月彦は朝家を出る前の葛葉とのやりとりを思い出した。
(…………困ったときは、中のものをつかえって言ってたな)
 まさかこんなに早く困る事になるとは思っていなかったが、兎にも角にも困っている事に変わりはないのだから開けてみようと、月彦は紙袋を取りだし、中身を見た。
「…………なんだこりゃ」
 紙袋の中に入っていたのは、小さなビニールの包みだった。形と良い大きさといい、昔駄菓子屋などで売っていたヨーグルトによく似たお菓子の容器にそっくりだった。
(……血糊……か、もしかして)
 赤い液体がビニールによって巾着状につつまれ、輪ゴムでその口がしっかりと結ばれていた。どう見ても血糊にしか見えないそれを見つめながら、一体全体葛葉がどういうつもりでこんなものを渡したのか、月彦は真剣に考えてみた。
(…………まさか、これをつけて……交通事故にでも遭ったフリをしながら登場しろ、とか……)
 血糊など、それくらいしか使い道はないのではないか。さらに月彦はいろいろなパターンを考えてはみたが、どれもこれも現在の閉塞状況を打破できるだけの画期的アイディアには思えなかった。
(……わからん。……今度ばかりは、母さんが何を考えているのか全くわからん)
 月彦は血糊をジーンズのポケットへとしまい、改めて腕時計に目をやる。そうこうしているうちにもう時刻は待ち合わせの時間ジャストになってしまっていた。
(どうする……もう時間だ。……行くか?)
 行くしかない――という事は分かっているのだが、踏ん切りがつかない。月彦はそれこそ某目が燃えている野球少年の姉のように、そっと店の入り口から体を1/3ほど覗かせて妙子の様子を盗み見る。
(……よし。千夏……頼むぞ?)
 そう、悩んだところで結局行くしかないのだ。もし千夏が言っていた事が真実であるならば何の問題もない。そうでなかった場合は公衆の面前で怒った妙子に罵倒されればすむ話だと。月彦は半ば投げやりな気持ちで店内へと入り、妙子が居るテーブルへと足を向けるやいなや、思わず眉を寄せた。
 妙子は何やら携帯電話を耳に当てたまま、慌てたように何かを叫んでいる所だった。叫んでいる――とはいっても、その声量はTPOを最低限鑑みたものであり、詳しい内容までは月彦の耳には届かない。
 ただ、その口ぶり手振りから「話が違う」といった内容の事を言っているのだという事は理解した。
(…………まさか、千夏のやつ……)
 やはりか、と思う。千夏は、妙子をこの場に誘き出す為に、あえて連絡を遅らせたのだ。待ち合わせ時間ギリギリに“代理”が行く事を伝えられたら、いかな妙子でもどうしようもない。――そして、そのしわ寄せは確実に自分に来るのだと思うと、月彦はキリキリと胃が痛むのを感じた。
「あっ」
 と、思わず声が出てしまったのは、唐突に妙子と目が合ってしまったからだった。慌てて月彦は物陰へと身を潜めてしまい――そしてすぐに、隠れても何の意味もないという事に気がついて、そっと顔を出した。
 妙子が、大きく肩を揺らしてため息をつくのが分かった。



「いやー……まいったよな。昨日の夕方、いきなり千夏が家に来てさ。なんか急なバイトが入ったとかで、代わりに〜って頼まれちまったんだよな」
「…………。」
 ファミレスを後にして、駅で電車を待つ間――目的の映画を上映している映画館は電車で二駅の所にある――月彦はそれとなく、場の雰囲気というものを柔和なものにしようと努力を怠らなかった。
 が、悲しいかな、結果は全くといっていい程に伴わなかった。
「も、文句があるなら千夏に言えよな!? 俺だって……今日は本当は予定があったんだからな!?」
「…………そーね」
 電車に乗っている間も、妙子は露骨に距離をとったりこそしないまでも、たとえば月彦が一歩近づけばその分だけ離れるといったような、絶妙な距離を保ち続けていた。それでいて話をふれば完全に無視するというわけでもなく、ため息混じりに投げやりな返事を一応なりとも返してくる。
(……相変わらずっつーかなんつーか………………うーん…………何か、話題は……)
 妙子ににらまれない程度に、月彦はその容姿を観察する。当然の事ながら、妙子の格好はいつもの普段着であるジャージなどではない。白のダウンジャケットの下は縦に模様の入った薄い青のセーター。紺のジーンズという格好は色気こそ微塵もないが、元よりそういった目で見られることを極端に嫌う幼なじみに色気のある格好を要求する方が無理な話でもある。
(…………俺は知っている。ここで下手に服を褒めたりすると、妙子の機嫌がますます悪くなる事を)
 だから、そのことには触れない。代わりに何か当たり障りのない話をふらねばと、月彦の頭はぐるぐると思考を続ける。
「…………。」
「…………なんだよ」
 気がつくと、なにやらじーっと妙子に見られていて、月彦はハッと我に返るなり、ついそんな言葉を口にした。
「…………はぁ」
 しかし、妙子は何も言わず、ふいと視線を逸らしながら大きくため息をつく。……そう、まるで百万の言葉よりも、たった一つのため息の方が紺崎月彦にダメージを与えると分かっているような、そんな仕草だった。
(ぐ……こうなるって、分かってたから……)
 妙子を誘ったりせず、チケットだけを渡したというのに。仮にも惚れた相手からつまらなそうにため息を連発されるということがどれほど辛いことなのか、千夏も和樹も葛葉もきっと理解していないのだろう。
 十分ほどそうして気まずい空気の中電車は進み、目当ての駅で降りてからも殆ど会話らしい会話は皆無。映画館まで十五分ほど歩く間に交わした会話も
「そうだ、妙子。ノド乾かないか?」
「……あんたは?」
「んー……ちょっと乾いたかな。何か飲むなら奢るぜ?」
「そう。私は乾いてないから、一人で好きなの飲めば?」
「……いや、やっぱいいや」
 これだけだった。
 胃をキリキリと痛めながら歩き、どうにかこうにか映画館へと到着し、ロビー内へと入る。が、いざ受付で席を決めようという段階で、またしても問題が持ち上がった。
 封切りから大分経っている映画ということもあり、席自体は選び放題との事だった。だったらやや後方の中央付近で、と月彦が言うと、受付嬢はキーボードを操作しながら言った。
「では、Jの10と11でお取りしても宜しいですか?」
「あ、はい。それでお願いしま――」
「すみません」
 月彦の言葉にかぶせる形で、妙子が会話に割り込んできた。
「席は必ず隣り合ってないとダメなんですか?」
 えっ、と。受付嬢が思わず言葉を失ったのが、月彦にも分かった。
「えと、あの……お連れ様じゃ……」
「…………すみません、何でもないです。隣で我慢します」
 ぽつりと言い残して、妙子はその場から一歩下がってしまう。
「あー……ええと。Jの10と11で」
「は、はい……畏まりました」
 受付嬢がタカタカとキーボードを打ち込み、月彦らがもってきたチケットを席情報が記載されたそれへと交換する。
「どうも」
 礼を言って、月彦は受付を離れた。そのまま離れ壁に背を預けたまま退屈そうに携帯を弄っている妙子の元へと歩み寄り、チケットの片方を差し出す。
「ほら」
「ん」
 妙子は携帯を弄りながら、さもつまらないものでも受け取るような仕草でチケットを手に取る。――そんな幼なじみの様子に、さすがの月彦もかちんと来た。
「……おい、妙子。いい加減にしろよ」
 怒気を孕んだ声に、妙子は携帯を弄る手を止め、視線を上げて月彦の顔を見る。
「千夏と来る筈だったのが、俺に代わってガッカリしたってのは分かる。分かるけどな……いくらなんでもその態度はねえだろ。そんなに俺と一緒に映画を見るのが嫌ならはっきりそう言えよ。そしたら俺はもうこのまま回れ右して帰ってやるから」
「…………別に、千夏だろうと和樹だろうとあんただろうと、誰と一緒に映画見るかなんて大した違いはないんだけど」
 妙子は携帯を折りたたみ、ポケットにしまいながら小さくため息をつく。
「だけど……そうね。確かに、ちょっと態度が悪かったわ。…………ごめんなさい」
 そして意外にも、妙子はあっさりと自分の非を認め、謝罪してきた。
「い、いや……別に……そんな、改まって謝られるような事じゃないんだけどな……と、とにかく、あと五分くらいで始まるから、中に入ろうぜ」
「そうね」
 かちんと来たのもつかの間、あっさりと謝られてしまったことで月彦はかえって恐縮してしまった。自分がひどく心の狭い人間にすら思えて、恥じ入るように赤面しながら、劇場内へと入っていく。
 中は既に予告編が始まっており、暗がりのおかげでそんな顔を妙子に見られずに済んだのが不幸中の幸いではあった。



 


「……まぁ、ボチボチ面白かったかな」
「そうね。思ったよりは楽しめたわ」
 映画の後、近場のファミレスで昼食を取りながら、妙子と二人、それとなく映画の感想などを語り合っていた。
「アニマトロニクスの出来はかなり良かったよな。吹き替えだったけど、ちゃんと口の動きと合っててすげえと思った」
「その辺はどうでも良かったんだけど……。コーギーの事をよく分かってる人が脚本を書いたんだって、そっちのほうが私は感心したわ」
「へぇ……たとえば?」
「たとえば、コーギーってああいう外見だから愛玩犬だと思われがちだけど、実際は狩猟犬として使われていたのよ。だから獲物を見つけたり、捕まえたりする能力はそんなに低くはないの」
「ああ、なるほどな。終盤のアレはそういう事だったのか」
「そういった種としての特徴を捉えながら、腰痛持ちだったり段差に弱かったりする所をコミカルに演出して、笑いを誘う所なんかは好感持てたわね」
 確かに、と月彦は思う。108匹コーギーわんわん大行進はコメディ色が強く、大人も子供も楽しめる非常に良い映画に仕上がっていた。というより、むしろ声に出して何度も笑ってしまったのだ。ただ、妙子の方は笑いのツボではなかったのか、ちらりと横目で見た限りでは不自然なまでに口を真一文字に結んでいたが。
「他にも、断尾の伝統についてコーギー達がどう思ってるのかを語らせてみたり、尻尾が無いほうがセクシーだなんて言わせてみたりとか……ちょっと人間っぽい恋愛模様だったけど、エンタテインメントだからそれでいいのかなって思うし。……コーギーのお尻って確かに可愛いのよね。私自身は子犬の頃に尻尾を切っちゃうっていう今の風潮は決して好きじゃないんだけど……ていうか愛玩犬と飼う以上断尾の必要性なんて全くないし、痛い思いさせるだけだから絶対やらないほうがいいんだけど……だけどやっぱり、尻尾がないお尻は可愛いのよね」
「へ、へぇー……そんなに可愛いのか」
 いつになく饒舌な幼なじみにやや圧倒されながらも、月彦は無難な相づちを打つ。
「何よ、あんたどこ見てたの? 映画の中でこれでもかっていうくらい後ろからのアングルはあったでしょう?」
 真剣に見ていなかったのか、と言わんばかりに妙子に睨み付けられ、月彦はたちまちたじたじになってしまった。
「み、見てた! 真面目に見てたよ! だけどほら、いちいちそんな犬の尻なんて覚えてないっていうか、やっぱり映画なんだから話の筋理解しようとしてたっていうか――」
「何言ってるのよ。あんな子供向けの映画のストーリーなんてどうでもいいでしょ? そんなのよりコーギーの可愛らしさ、愛くるしさがどれだけ適切に表現出来てるのかをきちんと評価すべきなのよ。そういう意味では、なかなかの映画だったと思うわ」
「そ、そうだな……うん、確かに可愛かった」
「アンタが言うとひどく俗っぽいっていうか、下世話に聞こえるから不思議ね」
「…………。」
 結局どう答えても文句を言われるだけなのではないだろうか――そんな八方ふさがり感をひしひしと感じながら、月彦はちびりちびりとお冷やに口を付ける。
(……まあ、でも良かった。なんだかんだで、映画自体はそれなりに楽しんだみたいだし)
 映画が始まるまでは一体どうなることかと思いやられたが、妙子自身思うところがあったのか、映画が始まってからは比較的友好的に接してくれているのが、月彦にはありがたかった。
「…………ねえ、一つだけ正直に答えて」
「ん?」
「あの映画のチケット。本当の本当に葛葉さんに持っていくようにって言われたから、私の所に持ってきたの?」
「当たり前だろ? なんで俺がそんな事で嘘つかなきゃいけないんだよ!」
「…………そうね」
 変な間を空けて、妙子は呟きながら頷く。
「…………。」
「…………。」
「…………。」
「……そ、そーいや、午後から予定があるんだっけか?」
「予定?」
「ほら、こないだ。チケット持っていった時に、午後から予定があるって言ってなかったか?」
「あぁ……」
 妙子は、少しだけばつが悪そうな顔をする。
「いいのよ、もう。断りの電話入れちゃったから。…………千夏と映画見た後、何時まで遊ぶか分からなかったし」
「そ、そうか……」
 じゃあ、代わりに俺と――と、切り出す事が出来ればどれほど楽か。
(……マズったな……折角だから、少しくらい予定を考えてくりゃーよかった)
 これが真央や由梨子とのデートであれば、それこそ行き当たりばったりに駅前をフラつき、手頃なゲームセンターやショッピングモールなどに入るのもアリではあるのだが、妙子相手にそんな“無目的”な行動を提案しても即却下を食らう気がしてならないのだった。
(そんな事をする暇があるなら、帰って勉強したいとか言い出しそうだよな……)
 ならば図書館に誘うのはどうだろうか――否、やはりどうせなら一人で来て勉強したいと言われるのが関の山だろう。
「…………。」
「…………。」
「…………。」
「…………。」
 沈黙が続く。月彦の方もこれといって話題が無く、妙子もまた映画のチケット分の義理は果たしたとばかりに無言で店の外を眺めながらコーヒーを啜っていた。
「…………。」
「…………。」
「…………。」
「…………そ、そろそろ帰るか?」
 沈黙に耐えかねて、月彦はさりげなく提案する。どれだけ考えてみても、妙子の好感度を下げる事無く実行できる魅力的な提案を思いつけず――好感度が上がるような提案は存在しえないと月彦は最初から諦めていた――むしろ最も喜ばれる提案はこれしかないと思っての苦渋の決断だった。
「……そうね。これ、私の分」
 月彦の推測はズバリ当たったのだろう。妙子はあっさりと頷き、ちらりと伝票を見て、自分が食べた分の代金をテーブルの上に置く。そのまま一足先に席を立って外へと歩き出しかけて――突然、影を縫われたかのように不自然に体の動きを止めた。
「……妙子?」
 伝票を手に、妙子が出した小銭を財布へとしまいながら自らも席を立とうとしていた月彦は、もの凄い勢いで振り返った幼なじみの顔にぎょっと目を剥いた。
「座って!」
 怯え竦み上がる――そんな表現がピタリとはまる幼なじみに促されて、月彦は大あわてでソファへと着席する。妙子自身も、まるで自陣へ飛来するロケット弾でも見た歩兵のような身のこなしでソファへと座り、しかもそのまま上半身を寝そべらせるようにして伏せてしまう。
「た、妙子? どうし――」
「しっ!」
 声をかけようとした矢先、妙子に人差し指を立てられて言葉を強引に止められる。睨み付けられた――というよりは、殆ど泣きそうな目でみられ、月彦は咄嗟に口にチャックを施した。
 妙子と二人で占拠している四人がけのテーブル席は、丁度妙子の方が入り口に背を向ける形になっていた。必然的に月彦はファミレスの入り口と正対している形になり、やがて二人の少女が店内へと入ってくるのが見てとれた。
(なんだなんだ、もしかして知り合いか?)
 月彦の見たところ、二人の少女は丁度同い年くらいに見えた。一人は女にしては背が高く、160センチ近くはありそうだった。黒縁のメガネ着用、すらりとしたやせ形であり、髪は肩ほどのショートカット。服装は黒と灰のブルゾンの下にベージュのロンT、腰にはチェックのシャツを巻き下はデニムパンツといった出で立ちだった。
 もう一人は黄色い毛糸の帽子を被った、小柄だがややぽっちゃり気味の少女だった。髪は背中ほどまで伸ばしているようだが、どうやら多少天然パーマの気があるらしく、ぽわぽわとえらくボリュームのある髪だ。服装は白いフリルのついたピンクのシャツにロングスカート。上下の装飾が合っていることから、セットで売られていたものだろう。
 二人は軽く店内を見回し、月彦達の隣――妙子の背中側に――空いている席を見つけるや、そこに着席する。どうやら――妙子にとって――幸いな事に、二人は妙子の存在には気がついていないらしかった。
「……やれやれ、とんだ無駄足だったな。折角遠出をしてきたというのに、まさか今日に限って店が閉まっているとは」
「レアなパーツいっぱい買いあさろうと楽しみにしてたにゃり。残念にゃりねー」
「まったくだ」
 やれやれ、とため息混じりに長身の女の方が呟く。
 月彦は二人の会話に耳を傾けながらも、ソファに張り付くようにして身を伏せている妙子の方へとそっと視線を向けた。……哀れな幼なじみはまるで一切身動きをしない事でソファと一体化できると信じている未開人のように息を潜め、気の毒なほどに顔を青くしていた。
(…………そっか、きっと学校の友達なんだな。…………なるほど、俺なんかと一緒に居るところを見られたら要らぬ勘違いをされると、そういうわけか)
 なるほど、と月彦は合点がいった。だったら、先ほど散々イヤミを言われた仕返しにここに居る事をバラしてしまえ――などとは、月彦は思わなかった。
(……仕方ないな)
 月彦はテーブルの上に置かれているアンケート用のボールペンを手に取り、紙ナプキンの上にさらさらと文字を書き連ねていく。
『急な用事を思い出したから、先に帰るが、いいか?』
 そんな文言を書き、そっと妙子に見せる。いつも気丈で、およそ人に媚びるという事をしない幼なじみが――ひょっとすると初めて――縋るような目でコクコクと小さく二度頷いた。
『よし。それじゃあ、後は一人で巧くやれよ』
 ナプキンに書いて妙子に渡すと、妙子は大きく一度だけ頷いた。後は可能な限り“二人”の印象に残らぬ様、さりげなく店から出る事が出来れば、少なくとも学校における白石妙子の名誉は守られる事だろう。
 月彦がそっと、音もなく立ち上がろうとした――まさにその時だった。
「ちょっとおトイレ行ってくるにゃりー」
 二人組のうちの一人が、そんな言葉を残して席を立った。さらに言うなれば、ファミレスのトイレは入り口から見て最奥――月彦の背中側に位置していた。
「あっ」
 月彦らのテーブル席の真横を通過する際、ぽわぽわ頭が足を止め、そんな声を漏らした。
(……あちゃ)
 月彦はその瞬間、確かに聞いた。白石妙子の、心の叫びを。



 思えば、朝からずっと嫌な予感はしていた。何となく、今日はろくでもない一日になるんじゃないかと、虫の知らせ的に感じた。
 それは、待ち合わせの際に掛かってきた千夏の電話で確信に変わった。よりにもよって、代わりにあの男を選ぶなんて。悪気は無い――どころではない。悪気百%の親友の思いやりに、今度顔を合わせたら無条件で拳骨の一つや二つはおみまいしてやろうと復讐を誓った。。
 そもそも月彦に愚弄された一件以降、この男の誘いには二度と乗るまいと決めた矢先の事でもあり、不可抗力気味ながらも共に行動することを余儀なくされ、妙子自身どう振る舞ったものか戸惑いを隠しきれなかった。
 とにかく甘い顔だけはすまい、楽しそうな振る舞いだけはすまいと心に決め、その通りに振る舞っていたのだが、それは思わぬ人物に指摘された事で妙子は素直に止めた。そう、他ならぬ月彦自身だ。
 この男の言うことはもっともだと、妙子自身妙に納得してしまったのだ。同時に、自分の態度がそれこそ拗ねた子供のように見苦しいものであったと反省をした。だからこそ非を認め、謝罪もした。
 そこからは、極力“先入観”なしに、純粋に映画を楽しむ事にした。そして映画は思いの外面白かった。一つ大きく後悔をしたのは、二人ではなく一人で見にくるべきだったという事だ。それなら、思う存分笑う事も出来、変なストレスを溜める事も無かったからだ。
 そう、朝感じた“嫌な予感”というのは、即ちイレギュラー的に現れたこの男と、そのせいで思うように映画を楽しめない自分――その程度の事だろうと奇妙な安心をしていた。あろう事か、こんな風に誰かと二人で出かけるというのも、そんなに悪くはないかもしれないと、そんな事まで考え始めていた妙子を罰するかのように。
 二人の刺客が現れた。

「初めましてー。私、白石さんのクラスメイトの倉場佐由っていいます」
「にゃ。同じくクラスメイトの小曽根英理ですー。よろしくー」
「えと……初めまして。紺崎月彦……高二です」
「………………。」
 気づいた時には、四人がけのテーブル席の片側に佐由と英理が。もう片方に妙子と月彦が、という並びになっていた。そう、伏せるように隠れていたのが英理に見つかった後、なし崩しにそういう並びにされてしまったのだ。
(何で……何でこんな事になるの……!?)
 妙子は一人、両手で頭を抱えるような体勢で混乱していた。こんな不幸な偶然があるものだろうか。たまたま幼なじみと映画を見に出かけ、ファミレスで食事をしていたらたまたま同じクラスの女子に見つかってしまうなんて、そんな偶然が。
(まさか、こいつら……また私をつけてたんじゃ……)
 しかし、それはありえない。家がバレたのならともかくとして、この二人はそもそも今日映画を見に行く事すら知らなかった筈なのだ。そしてなにより、先ほど席についてからの二人の会話の内容が、この邂逅が偶然であることの何よりの証だった。
「あ、私たちお昼まだなんで、先に注文しちゃってもいいですか? 英理、何食べる?」
「にゃ。ラーメン!」
 二人のやりとりを聞きながら、妙子はゾゾゾと鳥肌が立つのを止められなかった。
(…………何よ、その猫のかぶり方……)
 英理はともかく、佐由などは人が変わったようなアニメ声を使い始めており、普段のハスキーボイスとのギャップに怖気が走る程だった。
(何なのよ……こいつら、一体何をたくらんでるの……?)
 世の中、得体の知れないものほど恐ろしいものはない。妙子は、確かに見た。二人に自分という存在がばれてしまった後、一瞬――ほんの一瞬ではあるが、英理と佐由が顔を見合わせ、ニタリと悪い笑みを浮かべたのを。
「じゃあ、私は日替わり定食で。あっ、店員さーん」
 佐由が手を挙げて店員を呼び、注文をする。程なく店員が去り、さて――と佐由が月彦の方に向き直るのが、頭を抱えたままの妙子にも分かった。
「あのぉ、紺崎さんにぃ……いくつかお聞きしたいことがあるんですけどぉ」
「な――」
「ただの幼なじみだから!」
 ばん、と両手でテーブルを叩きながら、妙子は隣の男が余計な言葉を言う前に大声で宣言した。
「今日は、本当は別の友達と一緒に映画を見に行く予定だったんだけど、その子の都合が急に悪くなっちゃって、チケットの有効期限が今日まででもったいないからって、“その子が勝手に”こいつに声をかけただけで、私は待ち合わせ場所でその話を電話で聞くまで知らなかったんだから!」
 一息に言って、妙子はお冷やをぐいと飲み干す。隣の男が余計な事を言って変な誤解を招く前に、一辺の嘘も無い真実を公にすることが一番と思っての判断だった。
「…………って言ってますけど、紺崎さんは白石さんの“彼氏”ですよね?」
「いや、ち――」
「違うって言ってるでしょ!」
 空になったグラスをテーブルに叩きつけながら、妙子は叫ぶように言う。
「お、おい……おちつけって……」
 隣にいる情けない顔をした男がどう、どうとまるでいきり立つ馬でも宥めるように声をかけてくるが、生憎とそういうわけにはいかなかった。
 冗談抜きで、この場には人生がかかっているのだ。白石妙子の、高校生活における人物評――その評判が。
「……安心しろって。言っていい事と悪いことくらい、俺にだって分かってる」
 小声で囁かれるその言葉が信用に足るものであれば、どれだけ良かったか。悲しいかな、妙子には月彦の言葉を信用する気は全くと言っていい程に無かった。
「妙子の言った通りだよ。俺たちはただの幼なじみで、今日はホントに代理で来ただけなんだ」
「そうだったんですか。……随分仲が良いみたいに見えましたから、てっきり彼氏彼女の関係なのかなぁ、って勘違いしちゃいました。ごめんなさい」
 何、そのキャラ――テーブルと人目さえ無ければ、胸ぐらを掴んで吊し上げにしてやりたい衝動に駆られるも、妙子は必死に我慢した。
「ははは、仲が良いなんてとんでもない。むしろ俺は嫌われ――……ん?」
 まんざらでもなさそうにニヤニヤし始めた月彦の脇腹を妙子はやや強めに肘で突き、余計な事を言うなと釘を刺す。
「何だよ、どうした?」
「いいから、あんたは喋らないで。聞かれた事には私が答えるから」
「大丈夫だって。間違っても彼氏だなんて言わねーから安心しろって」
「良くない! あんたはこいつらの本性が――」
「にゃー。…………なんかもう“夫婦”って感じにゃりねー」
 ぽつりと呟かれた英理の言葉に、妙子はこめかみに血管が浮くのを感じた。殆ど無意識的に英理の胸ぐらへと手を伸ばしかけて――
「お、おい! おちつけって!」
「そうですよ、白石さん。…………照れなくってもいいじゃないですか」
「あ、あんたたち……か、帰る! 私もう帰るから退きなさいよ!」
 これ以上この場に居て公開処刑にされ続けるくらいなら一人で帰った方がマシだと、妙子は隣に座っている月彦を蹴り飛ばす勢いでテーブル席から飛び出した。
 そしてそのまま帰りかけて――はたと振り返る。テーブル席には英理と佐由。そして席に戻った月彦の三人が座っている。自分が帰った後、あの男が二人に料理されてどんな言葉を喋るのか――。
(だ、だめ……アイツも連れて帰らないと……!)
 くっ、と妙子は唇を噛みしめ、テーブル席へと戻る。
「か、帰るのよ! 月彦、あんたも!」
「え……? いやでも……」
「でもじゃない! 言い訳無用! ほら、来なさいよ!」
 月彦の腕を掴み、強引に立たせたその時だった。
「ごめんなさい、白石さん!」
 佐由が、不必要なまでに大きな声で、芝居っ気たっぷりに続ける。
「私たちが、デートの邪魔したから怒ってるんですよね。本当にごめんなさい」
「…………っっっ…………」
 佐由ぅぅぅ!――わなわなと全身を震わせながら、妙子は佐由を睨み付ける。そう、この女は“獲物”を逃がさない為に、楔を打ち込んできたのだ。
(ここで、帰ったら……)
 それは暗に佐由の言葉を肯定した事になってしまうのではないか。そう、いくら白石妙子本人がそうではないと否定した所で、周囲にそう思われたのでは意味がない。
(なにより、“こいつ”にそう勘違いされるのだけは我慢ならないわ)
 この男に“なんだ、素っ気ない振りして実は俺とのデートを楽しんでたのか”等と思われるくらいなら、まだこの場で公開処刑に甘んじた方がマシだと、妙子は心の天秤を軋ませながらそう判断した。
「……なぁ妙子、二人とも学校の友達なんだろ?」
「………………。」
「この子の言う通り、別にデートってワケじゃないんだしさ。ちょっと話するくらいいいんじゃないか? 折角だし、俺もちょっと聞いてみたい事とかあるしさ」
「………………わかったわよ」
 この場に自分の味方など居ないという事を骨の髄まで痛感して、妙子はギロチン台に首を通すような気持ちでソファへと座り直した。
 ニタリと。二匹の悪魔が笑うのが、見るまでもなく妙子には分かった。


「そっかぁ。二人とも妙子のラジオ仲間だったのか。……こういっちゃ何だけど、全然そんな風に見えなかったよ」
「そうですか? ちなみに紺崎さんもラジオ聞かれるんですか?」
「たまに、ね。勉強してるときとかにつけてみたりするくらいだよ。何か一つの番組を追っかけてるとか、そういうのは無いかなぁ」
「そうですかぁ。残念ですけど、趣味は人それぞれ違いますから、仕方ないですよね」
「……まぁでも、安心したよ。実はさ……ちょっとだけ心配だったんだ」
「心配? 何がですか?」
「いや、俺と妙子……あと千夏と和樹って奴が、一番仲が良い幼なじみだったんだけど、妙子だけが違う高校行っちまってさ。向こうで巧くやれてんのかなぁ、って俺たちみんな心配してたんだ」
「なぁんだ、そんな事ですかぁ。大丈夫ですよ、白石さんはクラスの人気者――っていう程でもないですけど、普通にみんなと仲良くしてますから。ねぇ、英理?」
「にゃー。休み時間の度にたゆりんの席の周りには輪ができてるにゃりよー?」
「そ、そうなんだ……? …………ごめん、正直想像できない」
 妙子が貝のように口を閉ざしてから小一時間。既に昼食を取り終えた二人とロクデナシの三人は飽きもせず雑談を続けていた。
(ワケわかんない話で騒ぐあんたたち二人を周りが避けて出来る輪っていう意味では間違ってはいないわね)
 少なくとも嘘は言っていない――妙子は追加注文したアイスコーヒーにストローを刺し、その先を咥えたまま人ごとのように考える。
「……でも、本当に安心したよ。…………本人前にして言うのもアレなんだけど、妙子って昔から人付き合いが苦手っていうか、人嫌いなところがあったからさ。俺たちもラジオの趣味までは付き合ってやれなかったし、違う高校行ってそこで仲間が見つかったんなら、本当に良かった」
「紺崎さんは心配性なんですね。…………それとも、白石さんの事だから、余計に気に掛かるとかだったりですか?」
「あぁ……うん、それはあるかも――……ん、何だ?」
 口は出さないと決めた。が、さすがに黙っていられなくなって、妙子はぐいぐいと肘で月彦の脇腹を刺激する。
「何だよ、妙子。言いたいことがあるなら、お前も話に入ればいいだろ?」
「あ、いいんです、紺崎さん。きっと、紺崎さんの前だと色々照れくさいんですよ。……大丈夫、私たちと一緒の時の白石さんは、明るくて朗らかでとってもおしゃべりなんですから」
「そ、そうなんだ……? ごめん、それも想像が出来ない……。妙子が朗らか……………………」
 月彦が、詐欺師を見るような目で妙子を見る。
(……何で私を見るのよ)
 疑うのなら、こちらではなく目の前の女の言葉の方だろうと、妙子は喉まででかかったが、止めた。そうやって自分を話に加えさせるのが、佐由の狙いであろうと見抜いていたからだ。
「そーだ。良かったら紺崎さんも今度、私たちが聞いてるラジオ番組聞いてみたらいかがですか?」
 ぶっ、と。突然の佐由の言葉に、妙子は飲みかけだったコーヒーを鼻の方へと押しやってしまい、大いに噎せた。
「白石さんって、いつもはそれこそ“委員長”って感じで、落ち着いてますけど…………事、ラジオの事になると――」
「さ、さゆっ……!」
 噎せながら、さすがに黙っていられなくなって、妙子は声を荒げた。
「い、いい加減にしなさいよ!? これ以上、その馬鹿を焚きつけるような真似をしたら……」
「……真似をしたら?」
 余裕綽々、とでも言いたげに佐由がニッコリと笑顔を返してくる。
「あ、アンタの本性をばらすわよ!? あんたが、どんなラジオネーム使ってるか、とか……」
「構いませんよ?」
 えっ、と。今度は妙子が固まる版だった。
「どうぞ、紺崎さんの前でバラして下さい。私のラジオネームを、大声で」
「なっ…………っ……あ、あんたの……ラジオネームは………………し……」
「し?」
「し……しん…………っっっっ〜〜〜〜〜!」
 どうしてもそれ以上の単語を口に出来ず、妙子は赤面した唇を噛みしめる。
「……えーと、ごめん。俺、ラジオにはほんと詳しくなくって…………ラジオネームっていうのはペンネームみたいなものって事でOK?」
「そうです。白石さんは私のラジオネームが卑猥だ卑猥だって言いがかりをつけてくるんですよ」
「へぇ? …………ちなみに、どんなラジオネーム?」
「それは、しんせ――」
「言うな!」
 またしても黙っていられなくなって、妙子は大声をかぶせた。
「も、もぉいいでしょ!? いい加減あんた達どっか行きなさいよ! 聞きたいことがあるなら、月曜日、学校でいくらでも答えてあげるから」
「あら……ひょっとして、この後何か予定でも?」
 と、佐由は妙子にではなく、月彦の方へと話をふる。
「いや別に。後は帰るだけ――だよな?」
 この男、本当に使えない――と、妙子は苦々しく思った。例え嘘でも予定があると言えないのかと。
(人の気持ちが分からないの? この男は……)
 たとえば、この後バイトがあるとか、今日中に終わらせたい課題があるからとか、何かしら理由を付けて一人先に帰るなどの機転を利かす頭はないのかと。妙子にはそこが歯がゆくて仕方がなかった。
(…………でも、そういうところに気が回らないのが、コイツって男なのよね)
 諦めにも似たものを感じて、妙子は小さくため息をつく。
「なーんだ。だったら、紺崎さん。この後、四人でカラオケなんかどうですか? 知り合いの子がバイトしてて、安くしてもらえるところがあるんです」
「カラオケかぁ……俺はいいけど……」
 ちらりと、まるでご機嫌伺いのように月彦が視線を送ってくる。
(……そう。アンタは行きたいの。分かったわ)
 妙子は言葉を使わず、ジェスチャーだけで“行ってもいい”と答えた。
「英理も来るでしょ?」
「にゃ。行くー!」
「決まりですね。じゃあ、早速行きましょうか」
 伝票を手に、佐由が席を立つ。続いて英理が、月彦が。一番最後に、妙子が重い腰を上げた。



 佐由の知り合いが働いているというカラオケボックスに移動し、早速に部屋を借りた。さすが知り合いがいるというだけあって、四人でドリンク飲み放題つきで二時間1200円という破格のサービスだった。
「にゃー! 一番手いくにゃりー!」
 部屋に入るなり、英理が飛びつくようにしてリモコンを手に取り、歌本も見ずに番号を入力していく。
「紺崎さんもどんどん歌っちゃって下さい」
「ありがとう……えーと……」
「倉場です」
「ありがとう、倉場さん」
 佐由から歌本を受け取り、はらり、と月彦はめくる。さて、何を歌おうかとジャンル分けされた項目に目を通しながら、はたと。部屋の隅の方で一人距離を置き、サイコロ状の椅子に腰掛けて闇と同化している幼なじみへと視線を向ける。
「妙子。なんでそんな隅っこにいるんだ」
「別に……」
「折角だから、お前も何か歌えばいいだろ? 一応金払ってるんだし……」
「いい、私はただあんたたちに付き合って来ただけだから」
 つーんと月彦の申し出を突っぱね、妙子はちびりちびりとジュースに唇をつける。
(…………失敗した、かな)
 どう見ても現状を楽しんでいる風ではない幼なじみの姿に、月彦は胸の奥にずしりとした痛みを感じてしまう。
(やっぱり、カラオケは断るべきだったか)
 それは、月彦としても未だに悩む決断だった。そもそも最初の妙子の様子を見れば、自分と一緒の所を見られたくないと思っているのは明らかだった。が、しかし一度見つかってしまった以上、これはこれで邪険には出来ないと。後日、妙子が級友達から『何、あの人……』等と詰め寄られるような、そんな振る舞いだけはすまいと月彦は心に決めていた。
 至極、付き合いの良い好青年を装う羽目になった。――が、今となってはそれこそが一番の墓穴だったのではないかという気がしてくる。
(しかもよりにもよってカラオケ……せめて遊ぶ場所には異を唱えるべきだったか)
 恐らくは性格的なものもあるのだろう。幼なじみ四人の中で、妙子が最もカラオケを苦手としていた。音痴という意味では和樹のそれが最も強烈ではあるのだが、肝心要の本人にそれを恥じる気持ちが無いから月彦も千夏も思う存分からかってやる事が出来る。が、妙子のそれは本人が強烈にコンプレックスを感じているらしく、幼なじみ四人でカラオケに行った時も、一人では絶対に歌わず、千夏が一緒に歌うという条件つきでしか決してマイクを手に取らなかった。
(…………この空気……ヤバいかな……)
 一人気を揉んでいる月彦を尻目に、最初にマイクをとったのは英理だった。歌ったのは演歌で、こぶしの利きっぷりから察するに、どうやらネタではなく本気で好きらしい。二番手の佐由がこれまた軍歌というチョイスであり、英理同様よほど歌い馴れているらしく歌詞を見もしていなかった。月彦は三番手として、無難に二,三年前に流行ったポップスを歌った。その間、妙子はジュースをちびちび飲みながら、部屋の隅で闇と同化していた。
「紺崎さん、良かったらデュエットして頂けませんか?」
「いいけど……歌える曲あるかな?」
 愛想笑いを浮かべながら――簡易ステージでは英理が演歌を歌い続けていた――月彦は歌本を手に取る。その隣へと佐由が座り、一冊の本を二人でのぞき込むような形になる。
 ハッとして、月彦は咄嗟に闇にとけ込んでいる幼なじみの方へと視線をやる――が、妙子は別段睨むでも文句を言ってくるでもなく、やはりちびちびとジュースを飲み続けていた。
(…………そうだよな、真央じゃあるまいし)
 妙子にとって、紺崎月彦は別に彼氏でも何でもないのだ。他の女と並んで座ったからといって、不満がある筈がない。――それはそれで少し悲しかったりするのが、男の悲しい性だった。
「あ、これなんかどうですか?」
「いいね。これなら俺も歌える」
 佐由が指摘したデュエット曲は、仮に同年代の男女にイントロを聴かせれば七割は曲のタイトルを答えられるであろう超有名ヒットソングだった。月彦はマイクを手に持ち、佐由と共にステージへと上がる――その時だった。
「っ……!?」
 一瞬、ほんの一瞬だけ刺すような冷気を首筋に感じて、月彦は咄嗟に振り返った。……が、入れ替わりにステージから降りた英理は夢中になって歌本をめくり、妙子はジュース片手に携帯を弄っていた。
「紺崎さん、始まりますよー」
「ああ、うん」
 佐由に促されて、月彦は歌詞画面へと視線を移す。多少うろ覚えの部分もあったが、さすがに歌詞を見ながらであれば間違えるというような事も無かった。
「たーゆりんっ。何か一緒に歌おー?」
 歌本を見ながらも、英理はぱちぱちと合いの手を挟み、そして間奏に入るやぴょんと飛び跳ねて妙子の隣へと座り込む。
「いい。一人で好きなの歌えばいいじゃない」
「にゃー……。たゆりんと一緒がいいにゃり」
 英理は甘えるような声を出しながら、つん、つんと妙子の頬を人差し指で突く。既に間奏が終わり歌唱中であったが、月彦は密かに英理を応援していた。
「いい。私は歌いたくないの」
「ほらほら、たゆりんー。カラオケは歌わないとつまらないにゃりよ? 一緒に歌おー?」
「いいってば……ほっといてよ」
 が、苛立ち紛れの妙子の声に、デュエット中の月彦は内心ひやりとした。
(そ、それ以上はまずい……まずいよ、えーと……小曽根さん!)
 何度も何度も“白石火山”の噴火の瞬間を目の当たりにしている月彦には、それはもう妙子がキレる寸前の声であると分かってしまった。
「ねーねー、たゆりん。ほら、これなんかフィーナイで替え歌のコーナーやってたから歌えるにゃり? 何なら、さゆりんも一緒に三人で――」
「何度も言わせないで! 歌いたくないって言ってるでしょ!」
 さながら、溜まりに溜まったマグマが一気に地表へと吹き出したような、そんな大声だった。あまりの声量に噴火を予想していた月彦ですらも驚き、佐由もまた目を丸くして声が止まってしまっていた。
「………………っっ……」
 伴奏だけが流れる室内の空気に耐えかねたのか、妙子は立ち上がるとコップをテーブルへと戻し、そのまま部屋の出口へと向かう。
「お、おいっ……妙子、待てって!」
 月彦が慌てて後を追い、部屋の外で辛くも妙子に追いついた。
「……別に帰ったりなんかしないわよ。…………ちょっと、トイレに行くだけ」
「そ、そうか………………とにかくさ、あんま気にするなよ? カラオケってのは、やっぱり歌ってナンボだからな。あの子もお前に楽しんで貰おうと必死だったわけで――」
「英理の事はあんたより良く知ってるわ」
 月彦の手を振り払いながら言い、妙子はその場を後にする。仕方なく月彦は部屋へと戻り、二人に妙子はただトイレに行っただけだと説明した。
「にゃー……」
 妙子が凍り付かせた雰囲気がまだ解凍しきっていない最中、今度は英理が月彦の隣へと座り、ちょいちょいと服の端を引っ張ってくる。
「たゆりん、好きな歌とか無いにゃり?」
「…………あるにはある、けど…………今日の所は無理に勧めないほうがいいんじゃないかな」
 千夏と一緒の時には必ず歌っている歌が二,三曲はあり、無論そのタイトルも知ってはいる。が、それをこれ見よがしに勧めた所で、あの不器用な幼なじみは決して首を縦には振らないだろう。むしろ、そういった腫れ物に触れるような扱いは妙子の最も嫌う事であり、今度こそ場を中座して帰ってしまうかもしれない。
「…………カラオケに誘ったのは失敗だったかもしれませんねぇ。まさか白石さんがあそこまで歌うのを嫌がるなんて思ってもみませんでした」
「ごめん、俺が止めるべきだったかもしれない。…………仲が良い友達と一緒なら、あいつも歌ったりするんじゃないかなーって思ったんだけど……」
 と、そんな事を離している間に妙子がトイレから戻ってきた。が、あくまで部屋の隅を定住の地とし、闇と同化することを生業とする妙子の存在はただそれだけで場の盛り上がりを妨げ、その後誰が、何を歌おうとも室内に漂う言いしれぬ微妙な空気をぬぐい去る事は出来なかった。
「よーし、じゃあ……とっておきのアニソンメドレー大会いくにゃりよ!」
 そんな微妙な空気を打破するかのように、英理が唐突に声を上げた。
「私からさゆりん、ピコりんの順番でマイク渡して、歌えなかったら罰ゲーム!」
「ば、ばつげーむ?」
 ていうかピコりんというのは俺の事なのかと、月彦は遅まきながらに自分に酷いあだ名が付けられてしまったことを知った。
「面白そうですねー。私は賛成ですぅー」
 佐由が真っ先に手を叩いて賛同する。
「あ、あぁ……うん。……じゃあ、俺も一応賛成で…………でも、罰ゲームって何するの?」
「にゃ……自腹で何かお菓子買ってくるとかどうにゃり?」
「そ、それくらいなら……」
 常識的で無難な罰ゲームだと、月彦は安堵した。
(……これが千夏や和樹だったら、とんでもない事言い出したりするからな)
 そこはそこ、あくまで知り合ったばかりの友達の友達という距離感がありがたかった。
 ――が。
「うーん、それは難しいですねぇ。……ここって確か持ち込みアウトなんですよねー」
 佐由の冷静な言葉が、英理の案をたやすく却下する。そして、月彦は見た。佐由がくいと右手でメガネを弄る際、キラリと。まるでそれ自体が発光するように輝いたのを。
「…………歌えなかったら脱衣する――というのはどうでしょう?」
「だ、脱衣!?」
「おもしろそー!」
「えええっ!?」
 まさかの英理賛同に、月彦は素っ頓狂な声を上げてしまう。そしてちらりと、最早定位置と言ってもいい程に部屋の隅でサイコロ状の椅子に座している妙子へと視線を送る。
 妙子は特別驚いている風も無く、ただただアイスコーヒー片手に冷めた目で我関せずを通していた。
「紺崎さん、どうですかー?」
「え、ええと……さ、さすがにそれはマズイんじゃないかな?」
「だいじょーぶですよぉ。ちゃんと下着まで脱ぐ前に止めますから。“遊び”に緊迫感を加味する為のちょっとしたエッセンスですよぉ」
「そ、そういう事なら……いい――のかな?」
 佐由に押し切られる形で頷きかけたその時だった。ガァン!――コップの底が砕けんばかりの音を響かせて、妙子が空になったグラスをテーブルへと叩きつける。
「いいわけないでしょ! 何考えてんのよあんたらは!」
「た、妙子……!?」
「佐由も、英理も、この馬鹿からかってそんなに楽しいの!? ……ううん、英理はそういうつもりじゃなかったのかもしれないけど、佐由、あんたは違うわよね?」
 ぎんっ、と。妙子は佐由を名指しで睨み付け、噛み付かんばかりに罵声を浴びせる。
「お、おい妙子……あんまり熱くなるなって……」
 どうやら、先ほどの噴火だけでは怒りは収まっていなかったらしい。とにかくこのままではマズい――月彦はそう直感し、慌てて場を落ち着かせるべく、どう、どうと妙子を宥めにかかる。
 ――が、その瞬間、月彦は見た。くるりと、佐由から自分の方へと向き直った妙子が佐由に向けたものの三十倍くらい強烈な怒りが、自分の方へと向けられるのを。
「……誰がッ、一番ッ、悪いと思ってんのよ!」」
 ドンッ――凄まじく思い衝撃が、胸から背中へと駆け抜けていく。苛立ち紛れに放たれた強烈なヤクザキックが見事に胴体部に命中し、月彦は吹き飛びこそしなかったものの、足をもつれさせながら数歩後ずさった。
(やべっ……)
 そう思った瞬間、咄嗟に口を覆う。
「ぐぶっ」
 が、間に合わなかった。少量ながらも逆流してきた血が口から噴き出してしまい、口を押さえた指の間からしたたり落ちる。
 えっ――そんな声が、誰の口からともなく漏れるのが聞こえた。
(ヤバい、大事になっちまう!)
 咄嗟にこの場を取り繕わなければ――月彦の頭はいつになく高速回転した。そう、何とかこの場を取り繕い、誤魔化す手はないか――。
(そうだ、アレだ!)
 母親にもらったアレを使えば――月彦は記憶を辿り、すかさずジーンズのポケットから“アレ”を取り出し、掲げる。
「な、なーんちゃって…………ビックリしたか?」
 葛葉に持たされたアレ――“血糊”の詰まった小さなビニールの包みを見るなり、眼前の幼なじみがくわっ、と怒りを再燃させるのが分かった。
 マズい、さすがにもう一発食らったら――月彦が全身を硬直させたその時だった。
「たゆりん! そこまでー!」
 咄嗟に英理が真横からタックルをする形で妙子をソファへと押し倒した。
「英理っ、こら……どきなさいよ! 私はこの馬鹿に……」
「ぼうりょくはんたーい! ぼうりょくはんたーい!」
 ソファの上で二人もつれ合う形でじたばたしているのを尻目に、月彦はそっと部屋の出口へと向かう。
「じゃ、じゃあ……俺はちょっと手を洗ってくるから」
 短く言い残して、月彦は部屋を後にした。


 早足でトイレへと逃げ込み、手を洗った。幸い服には血はついておらず、胃から逆流してきた少量の血の始末さえしてしまえば、吐血の名残などすっかり消え失せてしまった。
(…………なかなか良くならないなぁ)
 薬はそれなりに効力を発揮してはいるのだろうが、胃に負担がかかるような出来事が続くため――今回は四六時中妙子の側でハラハラしつづけた為の出血であろうと思われる――なかなか完治は難しいらしい。
(…………痛ぇ……妙子のやつ、マジで蹴りやがったな)
 ズキズキと痛む胸とみぞおちをさする。さすがに骨が折れたりといった事はないものの、服を脱いだら痣くらいは残っているかも知れない。それほどまでに強烈なキックだった。
「失礼するよ」
 男性用トイレには、月彦の他には利用者は居なかった。が、そんな声と共に何者がトイレ内へと入ってくる――その姿を見て、月彦はぎょっと身構えた。
「場所が場所だ、出来れば手短に、二人きりで話をしたい、いいかな?」
 そこに立っているのは紛れもない倉場佐由その人だった。しかし、その声は別人かと聞きまがう程にハスキーがかっており、月彦は軽い混乱状態に陥った。
(え……てか女子……だよな? 俺もしかして間違えて女子トイレに――)
 慌てて出ようかと足を踏み出しかけて、はたと。月彦はここに至って漸く佐由の言葉を理解した。
「は、話って?」
 全ての疑問を無理矢理飲み込み、月彦はそれだけを口にした。うん、と佐由が大きく頷く。
「気遣い、痛み入るよ。………………率直に尋ねるが、さっきのは本物の血だろう?」
「えっ……」
「家庭の事情でね。血糊と、本物の血液の見分けくらいはすぐにつくんだ。例え、薄暗いカラオケボックスの中でもね」
 家庭の事情――まさか、医者の家系とかそういう事だろうか。月彦が固まったままそんな事を考えていると、佐由がくすりと笑みを漏らした。
「すまない、これが“地”なんだ。……正直に言うと、私はついさっきまで君を軽蔑していた。悪いが、その辺りを歩いている一般的な男子高校生と変わらないように見えたものでね。こんな“普通そうな男”と付き合うなんて白石君らしくない……否、だからこそなのか――などと混乱もしたよ。……猫を被り自分を偽っていたのは、君や君と付き合っている白石君に対する遠回しの嫌味だったんだ。……申し訳ない、この場を借りて心から謝罪させてもらう」
「あっ、いや……謝罪なんて、別に……」
 深々と頭を下げる佐由に気圧される形で、月彦はあたふたと両手を降る。が、佐由はこれまたけろりとあっさり頭を上げる。
「差し支えなければ、どういった疾患を抱えているのか教えてはもらえないだろうか?」
「た、ただの胃潰瘍だよ。本当に、大した病気とかじゃないんだ。さっきも、蹴られたショックでちょっと血が上がってきただけだから」
「……もう一つ良いかな。白石君にあのように暴力を受けるのは、日常的な事なのかい?」
「…………たまに、かな。日常茶飯事って程じゃあないよ」
「成る程、面白い。……つまり君は胃潰瘍という疾患を抱えていて、たまたま白石君に蹴られてしまった時、しかもその時にうっかり血を見せてしまった時の事を考えて、血糊を持ち歩いていたわけか」
「…………いや、そんな上等なものじゃないよ」
 そう、出がけに母親が持たせてくれた意味不明なアイテムがたまたま役に立っただけなのだ。用意周到な策士のように持ち上げられるのはくすぐったいと、月彦は愛想笑いを浮かべる。
「自分が蹴った事で相手が吐血した等と知ったら、さすがの白石君でもショックだろう。つまり、君のその周到とも言える準備は全て、白石君の事を慮っての事というわけだ。……面白い。こう言っては何だが、私は君の行いに軽く感動さえしているよ。君にとって、白石君はそこまでの配慮をさせるほど大切な女性なんだね」
「いや、あの……倉場……さん?」
「ああ、心配しなくても、君の“手品”をバラしたりなんて野暮な事はしないよ。……まぁ、今回の件のお詫びに、もし君が望むのであれば、彼女が自発的に悟るようそっと促すくらいの事はしても良いと思っているけどね」
「お、お気遣いなく! じ、自分の事は自分でやるから!」
「そうかい? 個人的には報われるべき努力は報われるべきだと思っているのだけどね。君がそう望むのなら、下手な口出しは止めておこう」
 ふむ、と佐由は右手で唇を摘み、肘を左手の手の甲の上に載せるような、そんな仕草をしてはたと沈黙してしまう。
「……最後に一つだけ聞かせてほしい。君は以前、白石君と模試の点数比べをしたことがあるかい?」
 月彦はしばし逡巡し、小さく頷いた。
「そうか。ありがとう、おかげで疑問の一つが氷解した。…………白石君の事が好きなら、迷わず頑張ると良い。きっと良い結果が得られるはずだ。影ながら応援させてもらうよ」
「あ、ありが……とう?」
 終始圧倒されっぱなしだった月彦は、最後までそんな頼りない返事しか返せなかった。佐由は軽く手を振って踵を返し、レストルームのドアを開けるなり
「おや」
 と声を上げた。
「さ、佐由!? あんた男子トイレで何やってるのよ!」
 そして佐由の背中を通して聞こえてきた声で、月彦は佐由がトイレを出るなり妙子と鉢合わせした事を知った。
「いやなに、ちょっとしたネタバレをね」
「ネタバレって……」
「猫を被るのは止めたって事さ」
 そんなやりとりを残して、佐由の足音が遠ざかっていく。月彦はしばし洗面台の前で息を殺して待ち、三百まで数字を数えてからそっとレストルームの扉を開けた。
「うっ」
 そしてドアの向こうに見知った人影を見るなり、思わずドアをしめてしまいそうになった。が、さすがにそれは出来ず、何事もなかったように月彦は男子用トイレを後にする。
「…………。」
 妙子はトイレの入り口から五歩ほど離れた場所にある壁の出っ張りに持たれるようにして立っていた。
(…………たまたまトイレに行く途中だったとかじゃなかったんだな)
 三百秒数えて尚トイレの前に立っていたのなら、もはやそれは間違いなく待ち伏せだろう。そして、該当者は一人しか居ない。
「…………随分遅かったじゃない」
 妙子は柱から背を離し、二歩ほど歩み寄りながら斜め下に吐き捨てるように呟いた。
「悪い。ちょっと血糊が服についちまって、それを洗ってた」
「……馬鹿な悪戯するからよ。…………佐由とは何を話してたの?」
「えーと……自分を偽ってた、とかなんとか」
「…………なら分かってると思うけど、アレがあの子の普段の姿。あんたってばずっと馬鹿にされてたのよ」
「……らしいな」
「…………。」
「…………。」
 そこで会話が途切れてしまう。さりげなく妙子の横を通って部屋へと戻ろうかと足を踏み出しかけたところで「ねえ」と。妙子が口を開いた。
「……体は、大丈夫なの?」
「体……?」
 まさか、妙子にも本物の血であるとバレてしまったのか――そんな危惧に、月彦はひやりとした。
「………………結構、強く蹴ったでしょ。…………痛いんじゃない?」
「まぁ、な。……珍しいじゃないか、お前が俺の体心配するなんて」
「………………アンタだって一応血の通った生身の人間なんだって、そんな当たり前のことにさっき気がついたのよ。……馬鹿だって笑ってもいいわ」
「……一応言っとくが、俺は気にしてないぞ? お前に殴られたり、蹴られたりするのはスキンシップの一種だと思ってるからな。痛さだって、姉ちゃんに殴られた時の半分くらいだしな!」
「………………。」
 姉の話をした途端、妙子が俄に表情を暗くする。しまった、やぶ蛇だったと月彦は己の配慮の足り無さを後悔した。
「……と、とにかく……そろそろ戻ろうぜ。予約した時間結構ギリギリなんじゃないか?」
「それは大丈夫……っていうか、あんた達が居ない間に英理が勝手に一時間延長しちゃったから」
「そっか。……まぁいいや、とにかく戻ろうぜ」
「……うん」



 部屋に戻った後は、何事も無かったように再度アニソンメドレー大会をやろうという話になった。勿論罰ゲームの脱衣は無しだが、変わりに――
「パスは三回まで。四回目のパスをする羽目になった者は、“恥ずかしい秘密”を一つこの場で暴露するというのはどうだろう?」
 素に戻った佐由から、そんな提案が出た。
「但し、デタラメを防ぐ為に一つだけ条件を付ける。この場にいる者が証言してくれる秘密であることがその条件だ。幸い、君達は幼なじみ同士であるし、私と英理も結構な付き合いだ。どうだろう?」
「おもしろそー!」
「う……き、キツイ条件だけど、その勝負受けた!」
「そうか、なら――」
「待って」
 佐由の言葉を遮って、不意に妙子が声を上げた。
「……それ……やるわ、私も」
 えぇ、という声が二カ所から漏れた。唯一佐由だけが「ほう……」と感心するような声を出す。
「た、妙子……いいのか?」
「………………言っとくけど、誰か一人でも笑ったら、その場で帰るからね。…………人前で歌うの、本当に嫌なんだから」
「だいじょーぶ! たゆりんのおっぱいに誓って絶対に笑わないにゃり!」
「では私も、おっぱいに誓おう。決して笑ったりしないと」
「…………やっぱり帰ろうかしら」
 等と言って立ち上がろうとする妙子の肩を英理と共に月彦が押さえ、なんとか着席させる。
「では改めて。順番は英理、私、紺崎君、そして……白石君の順序で良いかな?」
「……学校でもそう呼びなさいよね。いつものあだ名じゃなく」
「いつものあだ名……?」
「あんたは知らなくていーの。…………順番はそれでいいわ」
「にゃー! じゃあ一番手、張り切っていくにゃりー!」
 ………………。
 …………。
 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「えー……俺の恥ずかしい秘密は……妙子が知ってるやつじゃないとダメなんだよな? 難しいな……」
 最初に月彦がパス1。次に妙子がパス1。月彦がパス2。佐由がパス1。月彦がパス3。妙子がパス2。英理がパス1。そして月彦が歌えず、最初の失格者となったのだった。
「この場で証明できるものであれば、白石君が知らない事でも構わないよ?」
「この場で証明できる恥ずかしい秘密……」
 咄嗟に、一つの秘密が頭に浮かんだが、それは人として絶対にやってはいけないことだと、頭の上に輪っかがあって背中に羽の生えたミニ月彦が否定した。
「いっぱいあるじゃない。なんなら私が代わりに答えてもいいわよ?」
「や、止めてくれ…………一生懸命吟味してるんだ。なるべくダメージが少なそうなやつを」
 珍しくサド笑みなど浮かべる妙子に泣きをいれながら、えーとえーとと月彦は必死に頭を回転させる。
「……うー…………よ、よし……言うぞ…………実は俺、小3まで泳げなかったんだ!」
「…………。」
「…………。」
「………………ま、嘘じゃあないわね。……嘘じゃあないけど……」
「さゆりん、どうするにゃり?」
「正直期待ハズレ……だが、最初からあまり飛ばしても仕方がない。今回はそれで良しとしよう」
「えっ、ちょっと待って…………一回で終わりじゃないの?」
 慌てて口を挟んだのは妙子だった。
「何を言う。白石君が参加し、やっと四人全員で歌えるようになったんだぞ? 折角の機会を一度や二度で終わらせるのはもったいないじゃないか」
「ないかー!」
「…………俺も、自分だけ秘密暴露して終わりってのは嫌だな」
 うむりと、月彦は大きく頷く。
「…………そうだ、折角だから、前回の失格者が次のジャンルを選べるという事にしないかい? そうすれば連敗が減り、より多くの人物の秘密を聞くことが出来ると思うんだが?」
「さんせー!」
「良い案だと思うよ」
「……ぅ…………わ、わかったわよ。順番はどうするの? また英理から?」
「いや、それも続行でいこう。つまり次は白石君、君からだ」
 ほう、と月彦は密かに悪い笑みを浮かべる。
「ふむ。じゃあ、そうだな………………次のジャンルは…………ずばり、洋楽だ!」
「洋楽か……」
「にゃー……やばいにゃり」
「洋楽……」
 三人が三人とも浮かない顔をする。――そう、それこそが月彦の狙いだった。
(全員が全員苦手なジャンルを責めれば、順番的に俺は負けない!)
 当然、月彦も殆ど全くと言っていい程に洋楽には縁がないのだが、それは他の三人も同様だろうと読んだのだった。パス合戦となれば、それこそ“順番”が勝敗に大きく関わってくる。或いはひょっとしたら佐由か英理のどちらかないし二人とも洋楽に詳しくとも、少なくとも妙子にその趣味が無いという事は知っていた。
(悪いな、妙子。 次は泣いてもらうぜ!)
 月彦は意気揚々とマイクを妙子へと渡し、程なく洋楽メドレーの伴奏が流れ始めた。
 ………………。
 …………。
 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「えーと……俺の二つ目の恥ずかしい秘密は……」
 十数分後、真っ先にパス三回を使い果たし撃沈した月彦は己の記憶を辿っていた。
「にゃー。危なかったにゃりー。シーボルトせんせーに感謝!」
「まったくだ」
「そうね」
 三人が三人とも顔を示し合わせるように頷く。
「…………ちょっと聞いて良いかな。そのシーボルト先生ってのがどうかしたのか?」
「うちらの学校の英語の先生にゃりよー」
「趣味が洋楽でね。授業中に洋楽の歌詞の聴き取りをやらされたりするのだよ」
「狙い澄ましたみたいに授業中聞き取りやった事がある曲ばかりだったから助かったわ」
「…………そういう事か」
 どこまで自分は運が悪いのだろうと、月彦はちょっぴり泣きたくなった。
「さて、それでは罰ゲームの時間だ。…………悪いが、さっきのような秘密では却下させてもらうよ、紺崎君?」
「にゃー。思わず赤面しちゃうようなの聞きたいにゃりー」
「あるでしょ、あんたにはいっぱい」
「くっ……!」
 確かに、妙子の言うとおりなかなか人に言えない恥ずかしい秘密にはいくつも心当たりがある。が、いざ一つ選ぶとなるとなかなか難しかったりもする。
「…………高熱が出てるのに雨の中出歩いて、行き倒れてた所を妙子に拾われた事があるんだ」
「…………嘘ではないわね。でも却下」
「うん、却下だな」
「きゃっかー」
「ええっ、ダメなのか!?」
「インパクトに欠けるね。…………なんなら、白石君に代わりに言ってもらうというのでも我々は構わないが?」
「ま、待ってくれ……それは勘弁してくれ! …………か、代わりのを白状するから!」
 月彦は唇を噛みしめ、必死に“恥ずかしい秘密”を記憶の中から探し出す。恥ずかしい秘密それ自体を探すことは決して難しくはないのだが、そこへさらに妙子が証明できるという条件がつくと途端に厳しくなるのだった。
(……さ、さすがに……その後妙子の布団で夢精したってのは……くっ……)
 インパクトという意味では抜群だろうが、正常な思考回路を持った女子高生には間違いなくドン引きされる事案であることは間違いない。さすがにそこは月彦も空気を読んだ。
「えーと……実は俺……巨乳フェチなんだ」
 そして、空気を読んだつもりでそんな発言をしてしまうのも、月彦という人間だった。
「………………嘘じゃない、けど」
「弱いな。私は却下する」
「わたしもー。おっぱいスキーは別に恥ずかしい事じゃないにゃりよ?」
「そ、そんな……」
「紺崎君。もしまた次もインパクトに欠けるようなら、白石君に代弁してもらうからそのつもりで心して選んでくれたまえ」
「うぅ……」
 この倉場佐由という少女。なかなかに手厳しい性格をしているらしいと、月彦は唸りながら痛感していた。
(…………人間じゃなくてケモノに童貞奪われたとか、インパクトならばっちりなんだろうが……)
 悲しいかな証明が出来ず、仮に信じてもらえたところでドン引き間違いなし。さらに自分自身にも反射ダメージ大という爆弾はさすがに投げる事が出来なかった。
(ぐぅぅ…………な、なら……もう、アレしかないか……)
 月彦は唇を噛みしめ、訥々と語り始めた。
「…………小学校低学年……の頃だったと思う。幼なじみの静間和樹って奴と、どっちが……ええとその……アレが勃った状態を持続できるかの勝負をしたことがある。妙子はその場には居なかったけど、多分千夏から話は聞いてる筈だ」
「……………………聞いた、事はあるわ。うん……多分、本当よ」
「ふむ…………ちなみに、勝ったのはどちらなのかな?」
「俺だった。さらにその後、どちらがより重いものをぶら下げられるか勝負ってのもやった」
「勝ったのは?」
 月彦は無言で己を指さした。
「ふむ。……まぁ、悪くはない。インパクトは弱いが、合わせて一本といった所か」
「ギリギリにゃりねー」
「…………ま、まぁ……私もそれで認めてあげるわ」
 どうにかこうにか納得はしてもらえたらしい。月彦はホッとため息をつく。
(てか、これでも弱いのかよ……どんだけスゴいのを求められてたんだ)
 正直、ちょっと引かれるのを覚悟していただけに、佐由と英理の反応に月彦は驚きを隠せなかった。
「さてと、早速三回戦――と行きたいところだが、時間が迫ってるな。異論がなければさらに二時間ほど延長しようと思うが、どうかな?」
「……トコトンやる気なのね。………………私はいいわよ。なんだかちょっとだけ面白くなってきたし」
「私もいいにゃりよ」
「俺も負けたままでは終われない。続行で!」
「結構、では二時間延長する」
 佐由が頷き、インターホンを通じてその旨を受け付けへと伝える。
「さて、ジャンルか…………」
「いちおー、同じジャンル二連続はやめないにゃり?」
「そうね。……洋楽以外にしなさいよ。あんたも歌えないんだから」
「わかったよ。…………じゃあ、無難にポップスメドレーで」
 ………………。
 …………。
 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「……やれやれ。まさか私が負ける事になるとはね」
「運もあったにゃりねー。…………さゆりん、スゴいのを期待してるにゃりよ」
「スゴいもなにも、既に君が知っている事しか言えない手はずになっているのだが……さて。何をバラしたものか」
 うーん、と佐由が真顔で唸る。そこまで親しくない間柄である以上、面と向かってハッキリと言う事こそ出来ないが、先ほど散々ダメ出しをされた手前、なまなかの秘密では納得はしてやらないぞと、月彦も密かに意気込んでいた。
「…………実は私は、足の匂いフェチなんだ」
「あ、足の匂いフェチ!?」
 素っ頓狂な声を出したのは妙子だった。どうやら知らなかったらしい。
「ああ。それも自分のではなく、他人のを嗅ぐのが好きだ。どちらかといえば同性よりは異性のほうが好みかな。特に一日履いた後の革靴や靴下の匂いは堪らない。しかも、臭ければ臭いほど強く興奮してしまうんだ」
 佐由はまるで高名な著書でも朗読するように、淡々とした口調で続ける。
「私が覚えている限り、今までで最も興奮を覚えたのは、中学三年の時の担任だ。……あぁ、誤解の無いように言っておくと、彼自身については恋愛感情などは全く抱いてはいなかったよ。容姿も、人間性についても全く興味をそそられないタイプの教師だったのでね。ただ、彼の場合は異常なまでに足が臭くてね。雨の日などは教室の扉越しでも廊下を歩いているのが分かる程だったよ」
「わかるわかるー、アレは凄かったにゃりー」
「若気の至り、というやつなのだろうね。私はどうしても、彼が普段履いている革靴の匂いを嗅いでみたいという衝動を抑えられなくなったんだ。……そしてある日の放課後、隙を見て職員用玄関口へと忍び込んで、彼の革靴を探し当て、口と鼻を覆うようにして思い切り嗅いでしまったんだ」
「……ど、どうなったんだ?」
「実は、その時の事はよく覚えていないんだ。……ただ、私を“発見”した人の話によると、恍惚の表情で失神していたそうだよ。私が意識を取り戻したのは保健室のベッドの上だった。微かに覚えていたのは、目眩がするほどの凄まじい臭気と、それによって体に刻みつけられてしまったらしい、思わず失神してしまうほど強烈な……極度の性的興奮さ」
「…………せ、性的興奮って……あんた……」
 顔を赤らめながら、妙子が絶句する。が、聞きたくないというわけではないのか、上半身を椅子から乗り出すように、佐由の方へと近づけている。
「その興奮は失神して、さらに覚醒して尚収まらなくてね。手足なんか半分痺れたままになっていたよ。手足の痺れも興奮も、家に帰って食事をして、長風呂に浸かっても治らなかった。結局その日の夜どうにも寝つけなくて、私は生まれて初めて自慰というものをしてしまったよ。それも立て続けに三回もだ。……さすがに私も懲りてね、それ以降二度と彼の革靴には近づかなかった」
 以上だ、と。佐由はまるで論文でも発表し終えた学者のように一例をし、椅子へと腰掛ける。
「さゆりんの話はホントにゃりよー。保健室で看病もしたにゃり」
「そうそう、あの時は世話になったね」
 うんうんと、英理が大きく頷く。
「……っ…………わ、私は……却下はしないわ」
「お、俺も…………」
 想像を遙かに超える“秘密”に、月彦は完全に圧倒されていた。
(…………そりゃあ、俺のが却下されるわけだ)
 “このレベル”の秘密を求められていたのなら、しょうがないと月彦は奇妙な納得をするのだった。
「さてと。では次は私がジャンルを決めて良いのだったな。…………ふむ、ただ自分の得意分野を選ぶというのも芸がない。ここは一つ……ラップを選んでみるか」
 ………………。
 …………。
 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「にゃー……ラップは歌じゃないにゃりぃ……」
「同感だが、負けは負けだ」
「あ、危なかったわ……」
「同じく……」
 月彦がパス3で後が無く、妙子も同様。佐由はパス1のみで英理が撃沈――という結果になった。
「さてと、それでは聞かせてもらおうか。……個人的には、この場で証明が出来る私も知らないような秘密が望ましいのだが」
「あ、あんまりスゴいのじゃなくてもいいからね?」
 まるで何かに怯えるような声で、妙子がそっとそんな言葉を口にする。
「そ、そうそう! 遊びなんだし、簡単なのでいいよ」
「うにゅー………………中学の頃、時々下着履き忘れてノーパンで学校行っちゃってたにゃり」
「事実だが、却下だな。第一、秘密でもなんでもない。同じ中学出身者なら誰でも知ってる事だ」
 一も二もなく、佐由が首を振る。
「うぅー……そ、そのせいで後輩からノーパン先輩って呼ばれてたにゃり」
「事実だが、秘密というには少々知名度が高すぎる」
 どうやら幼なじみだからといって優遇する気は全くないらしい。自分への佐由のツッコミは意地悪などではなく、極々公平な立場からの意見だったのだと、月彦は理解した。
「にゃ……実は、おっぱいフェチにゃり。…………いつもたゆりんのおっぱいちゅっちゅしたいって思ってるにゃり」
「それは秘密ではなく願望だ。却下」
「ちょっと……佐由、少し厳しいんじゃない?」
「お、俺も妙子に同感だ。……遊びなんだしさ、別に少しくらい緩くても……」
「遊びだからこそ、ルールは遵守されなければならない。…………第一、当の私が率先して生き恥級の秘密を暴露したんだ。当然英理もそれに匹敵する秘密を暴露すべきだろう?」
「い、生き恥って……」
「まさか、私が平気だったとでも思っているのかい? とんでもない誤解だ。親ですら知らないような秘密を暴露したんだ。平生を装ってはいたが、羞恥の余り顔から火が出そうだったよ」
 とてもそうは見えなかった――と、月彦はもう少し親しければ口に出していたところだった。
「うにゅううぅ…………じ、実は最近ちょっとお腹周りがヤバいにゃり」
「ただの菓子の食べ過ぎだ。却下」
「まぁまぁ……倉場さん。そのくらいでいいじゃない、俺の時みたいに合わせて一本って事でさ」
「ふむ。……確かに、合わせて一本という認め方を一度してしまっている以上、英理にだけそれを許さないというのは道理に合わない事になってしまうな」
「そうだよ! とりあえず、小曽根さんはこれでOKって事で」
「しかしだね、紺崎君。私は英理の事ならば大抵の事は知っているが、生憎最近の彼女の胴回りについては全くの無知と言わざるをえないんだ。…………私が知らない秘密を述べる場合、この場でそれを証明するというのがルールではなかったかな?」
 ニヤリ、と。佐由がドSの笑みを浮かべる。
「さ、佐由……あんた、何が言いたいの?」
「証明だよ。英理が腹周りの肉付きがヤバいというのなら、それをここで見せてもらおうじゃないか」
「にゃぁぁ…………そ、それだけは…………」
「なに、無理にとは言わないさ。……嫌なら代わりに、もっと強烈なヤツを暴露してしまえばいい。…………二年前の海での一件など良いんじゃないかな? なんなら、私が代わりに言ってもいいが?」
「だ、ダメにゃりー! アレだけは……アレだけはぜったい、ぜったいに喋っちゃダメにゃり!」
 突然火がついたように英理が喚き出す。“海での一件”とやらがどんな事柄なのか月彦には想像することしか出来ないが、少なくとも彼女にとって半泣きになりながら必死に首を横に振ってイヤイヤするだけの秘密ではあるらしい。
「なら、どうすれば良いか分かっているだろう? 脱ぎたまえ」
「ちょっと……佐由……いくらなんでもそれはまずいわよ。私たちだけならともかく……」
「何も全裸になれと言っているわけじゃない。腹部をちらりと見せるだけだ」
「で、でも……」
「あー……男が居ちゃまずいなら、俺ちょっと外に出てようか?」
 それとなく、月彦は申し出るが、佐由はゆっくりと首を振る。
「紺崎君。君は男女差別主義者かい?」
「ど、どうだろう…………違う、って言いたいけど……細かいところまで差別しないか、って言われると、正直自信はないかな」
「なかなか好感の持てる返答だね。私は過度の女性庇護は男尊女卑と同じくらい唾棄されるべき悪習だと思ってるんだ。……つまり、何が言いたいかというと――」
「うー! わかったにゃり…………脱げば、いいにゃり…………?」
 最早観念するしかない――そんな声を出して、英理がいそいそと上着を脱ぎ、スカートの下へと仕舞われていたシャツをまくしあげていく。
「ううぅー……こ、これで……いいにゃり……?」
「ほう。……これはまた……見事な贅肉だな」
 シャツの裾がまくしあげられ、露わになった腹部をのぞき込みながら、佐由が感心するような声を上げる。
「大分スカートがキツそうだね。ほら、見てご覧? 苦しそうに膨らんだお肉がこんなにも」
「ぁぅぅぅぅ〜〜〜〜っ……つ、つまんじゃダメにゃりぃぃ」
 佐由が態と見せびらかすように、英理の腰回り――スカートのベルト部分に締め付けられてぷっくりと膨らんだようになっている贅肉を摘んで弄ぶ。
「……た、確かに……ちょっとダイエットしたほうがいいかもね」
 妙子は直視するのは英理に悪いと思っているのか、やや体をナナメに傾け片目を手で覆い隠すような仕草をしたまま、そんな言葉を呟く。
「紺崎君、もっとこっちへ来たまえ」
「えっ、いや……俺は――」
「そこではよく見えないだろう? 遠慮することはない、もっと近くへ」
 渋々、月彦は佐由の手招きに応じ――背中に妙子のひやりとした視線を同時に感じながらも――英理の腹部の真正面へと腰を屈める。
「どうだろう、紺崎君の目から見てもこれは“ヤバい”だろうか?」
「い、いやぁ……これくらいなら、別にそれほどでも……太ってるって程じゃあ――」
「そうか。“この程度”では恥ずかしい秘密になり得ない、と」
「――って思ったけど、うん、これはヤバいな。十二分に恥ずかしい秘密だと思うよ」
「成る程。つまり、まるまると太った牝豚のように見えると、そう言いたいんだね?」
「く、倉場さん……」
「…………冗談だよ。心配することはない。…………彼女は少しMの気があってね。これくらいの扱いの方が丁度良いのだよ」
 佐由に促されて、月彦はちらりと盗み見るように英理の顔を見た。その顔は羞恥の赤にこそ染まってはいるものの、佐由の物言いに腹を立てている風でもなく、かといって落ち込んでいる風でもなく、しっとりと潤いを帯びた目で微かに吐息すら荒げていた。
「君がつまんであげれば、もっと悦ぶと思うよ?」
 月彦にだけ聞こえるような声で、佐由がそんな悪魔の囁きをしってくるが、さすがにその誘いには乗らなかった。佐由もそれは予想していたのか、程なく英理の側から身を引いた。
「ご苦労。もう服を着ても構わないよ」
「にゃぁぁ…………は、恥ずかしかったにゃりぃぃ…………」
 英理が泣きそうな声を出して、いそいそとシャツをしまい、上着を着る。
「さて……気がつけば残り時間も僅かだ。さらに延長……という手も無くはないが、いつまでもダラダラと続けていても仕方がない。次で最後にしたいと思うが、どうだろう?」
「そ、そうだね……俺もそれでいいと思う」
「私はむしろコレで終わりでいいと思うんだけど……」
「つれないことを言うじゃないか。そういえばまだ君だけ一度も暴露していないんだったか」
「たゆりん〜…………勝ち逃げはズルいにゃりよ?」
「な、何言ってるのよ! ちょっと、何よその目は…………わ、分かったわよ……最後の一回……やればいいんでしょ!?」
「その意気や良し――と言いたいところだが、どうかな。勇気と蛮勇は違う…………“流れ”的にも、最後に負けるのは誰か、私には目に見える様だよ」
「ジャンルは完全ランダムにするにゃり。………………たゆりんの秘密、楽しみにゃりー」
「ま、負けないわよ! 絶対に…………」
 そして、最後のゲームが始まった。


 ジャンルは完全ランダムのメドレー。最初にパスを出したのは佐由だった。次に妙子、月彦、月彦、英理、妙子、英理、月彦、佐由、妙子と今までになく白熱した戦いになった。
(パス三回使い尽くしてリーチがかかってるのは俺と妙子だけ、か)
 順当に行けば、自分か妙子のどちらかがつぶれ、“恥ずかしい秘密”を暴露するハメになるだろう。
(それも、生半可なものじゃ納得してもらえない……)
 今考えれば、ハードルが上がる前に早々に暴露できた自分はラッキーだったと月彦は思っていた。少なくとも佐由の後であれば、とても“小3まで泳げなかった”程度の秘密では納得してもらえなかったに違いない。
 マイクが、英理から佐由へと渡される。選択された歌は学校の音楽の教科書にも載っているような有名な民謡だった。佐由は歌い出しこそ怪しかったが、少なくとも全く歌えないという事はなく、パスは消費されなかった。
(次は俺……そして妙子、か)
 月彦はちらりと隣に座っている妙子の横顔を盗み見る。かつて見たこともない程にその顔は蒼白になってしまっていた。ここまで唯一一人だけ秘密を暴露せずに済んでいるというプレッシャーが、よりいっそう重石となっているかのように見える。
(……なんせ、トリだからな。倉場さんも小曽根さんも、こぞって却下を繰り返して、根ほり葉ほり聞き出そうとするんじゃなかろうか)
 泣く泣く秘密をばらす妙子もちょっと見てみたいとは思うものの、そこは惚れた弱み。そんな悲惨な目には遭わせたくはないと、どうしても月彦は考えてしまう。
(………………仕方ない、ここは一つ、俺がドロを被ってやるか)
 メドレーの“一曲”は短い。歌によっては“一番”を歌い終わる前に曲が変わってしまう。既に佐由は歌い終え、次の歌のイントロが鳴り出していた。
(……この歌なら知ってる。…………けど……)
 月彦はマイクを受け取り、佐由と入れ替わりにステージに上がる。
「………………ごめん、パスだ」
 月彦の言葉を受けて、やったー!と快哉を上げたのは英理だった。続いて、妙子がほっと胸をなで下ろすのが見えた。
「パス四回目……だな。仕方ない…………俺の秘密は――」
「待ちたまえ。紺崎君」
 ステージを降り、マイクをそっと置いて罰ゲームに興じようとした矢先、佐由の声が響いた。
「態と負けるのはルール違反だよ。それは参加者全員に対する冒涜だ」
 気分を害しているのか、佐由の言葉には敵意すら感じられた。ぎくりと心臓を跳ねさせながらも、月彦は――様々な場所で培った――得意のポーカーフェイスで平生を装う。
「態とじゃないって。本当に知らない歌だったんだ」
「ならば聞こう。…………パスの前に何故謝った?」
 えっ、と。月彦は佐由の指摘に絶句した。
「今まで、君も私も英理も。誰一人としてパスをする前に謝った者など居なかった。当然だ、謝る必要など無いのだからね。四回目のパスを出した所で誰に迷惑がかかるわけでもない。むしろ自分が罰ゲームを受けねばならないのだから、悔しがりこそすれ謝るなどもってのほかだ。……もう一度聞こう、紺崎君。君は何故謝った?」
「ううぅ……」
「答えられないなら、代わりに言ってあげようか。それは不正をするという自覚があったからだ。ならばこの場合の不正とは何か、それは態と負ける事以外あり得ない。それは何の為か……」
 佐由の視線が、英理の視線が、妙子へと集中する。
「えっ……?」
「気持ちは分からなくもない。私の目から見ても、先ほどまでの白石君は外敵に怯える子兎のように震えていたからね。……まぁ、そんな白石君もそれはそれで魅力的ではあったが……生憎、勝負事の不正を許容するほど私はお人好しではないんだ。……紺崎君、君にはペナルティを受けてもらう」
「ぺ……ペナルティ?」
「そうだ。不正をした罰として、今ここで白石君の恥ずかしい秘密を一つ暴露したまえ」
「なっ……」
「えぇえっ!?」
 月彦と同時に、妙子までもが声を上げた。当然といえば当然ではあった。
「ちょ、ちょっと待ってよ……どうして私まで巻き添えにされなきゃいけないの?」
「気の毒だとは思うよ。……しかし、ここは災難だと思って貰う他ない。本来ならば、紺崎君自身の強烈な秘密を暴露してもらうのが筋ではあるのだが――」
 佐由はそこで言葉を切り、意味深に笑う。
「それでは彼の目論見通りになってしまうのでね。彼にとって最も罰となりうるのは何かと考えていけば、自然とそうなってしまうのだよ」
「どーゆー意味よ! だいたい、全部このバカが勝手にやった事でしょ!? 私は……関係ないじゃない」
「本気で言っているのだとしたら、君はとても薄情な人間だね、白石君。……普通に考えれば、彼が“誰のために”そんな不正をしようとしたのか、子供でも分かると思うがね」
「………………ぁっ……」
 妙子が、言葉を失って黙り込んでしまう。
「ま、待ってくれ……倉場さん。確かに、俺は不正をした。けど、悪いのは俺だけだ。俺はどんな罰でも受けるから、妙子は巻き込まないでくれ!」
「そういう君だからこそ、“この罰”なんだ、紺崎君。白石君の為なら望んでドロを被ろうとする君だからこそ。…………悪いが、私は引くつもりも譲歩するつもりも無いよ」
「く、倉場さん……!」
 月彦には分かる。彼女は宣言の通り、引きもしなければ譲歩もしないだろうと。そしてものの道理としても相手の方が正しいと、月彦には分かっていた。
「……とはいえ、私も鬼ではないのでね。白石君が愕然として泣き崩れるようなものを教えろとは言わないよ。……ささやかな、君だけが知る小さな秘密で構わないさ。……なぁ、英理?」
「にゃ。……それはいいけど、急いだ方がいいにゃりよ? あと五分で出ないとまた延長する事になるにゃり」
「…………と、いうわけだ。……紺崎君、手短に頼むよ」
「ううぅ……」
 月彦は言葉に窮し、ちらりと妙子の方へと視線を移す。はあ、と。妙子は月彦と目が合うなり大きくため息をついた。
「……………………わかったわよ。もういいから、こいつらの望むようにしてやって。何を言われてもあんたを恨んだりはしないわ」
「ほ、本当か? 本当に恨まないんだな?」
「くどい。……いいからちゃっちゃと済ませなさいよ」
「わ、わかった」
 ううむ、と月彦は唸りながら、妙子の秘密を吟味する。が、実のところ候補はそれほどに多くはなかったりもする。
(いくつかは知ってる…………けど、その殆どが喋ったら洒落にならん事ばかりだ)
 こういうとき、幼なじみというものは恐ろしいと月彦は思う。思い出そうとすれば、それこそ千夏と共に三人で風呂に入った時の思い出まで――そしてその時の情景まで――ハッキリと脳裏に思い浮かべる事が出来るからだ。
(うーーーん、難しいな…………ささやかな秘密でいいんだよな…………ささやかな秘密か……)
 相手が佐由や英理でなければ、妙子の趣味は深夜ラジオである――と言えば済んだ話かもしれない。しかし二人が相手ではそれは秘密でもなんでもない。
(大の犬好き…………さすがに秘密じゃないな、こりゃ)
 そもそも隠すような事でもない。
 うーんうーんと月彦が唸っていると
「あと一分にゃりよー」
 そんな英理の悲鳴が聞こえた。
(……むぅ、これしかないか)
 月彦は意を決して立ち上がった。
「よし、決めた。…………妙子の秘密は――」
「秘密は?」
「わくわく」
「………。」
「………………妙子は、乳首がすげー敏感なんだ!」
「……ほう」
「……にゃ」
 一拍の間をおいて、二人の口からそんな声が漏れた。月彦は宣言したままの体勢で、ちらりと。幼なじみの様子を盗み見た。
 妙子は呆気にとられた顔で、特にこれといった反応を返さなかった。が、程なくゆらりと立ち上がると、月彦の方へと足を踏み出し、同時に大きく腰を落とす。それら全ての動きが、月彦にはまるでスローモーションの様に見えた。
「た……妙子?」
 そう、まるで目に見えない鉄棒かなにかを潜るかのように体を大きく沈めた後、下半身に溜めた力を一気に解放し“標的”を打ち抜くアッパーカット――見事な利き腕のガゼルパンチに、月彦の両足は地面から離れた。

 


「いやぁ、なかなか良い見せ物だった。……人があのように宙に舞う様は正直初めて見たよ」
「たゆりん、ボクサーになればいいにゃり? ああでもでも、おっぱいが邪魔にゃりー」
 腹を抱えて爆笑している二人に両肩を支えられる形で、月彦は辛くもカラオケボックスの外へと脱出することに成功した。肩を借りねばならなかったのは妙子のパンチがあまりに強烈で膝が笑ったまま歩けなかったからだった。
(な、何言っても恨まない……って……言ったのに……)
 言葉というのは恐ろしいと、月彦は身に染みていた。そう、妙子は恨まないとは言ったが、怒らないとは一言も言ってなかったのだ。
「……ワケわかんない事言った、あんたが悪いっ」
 殴った自分も痛かったのか、妙子は右拳をさすりながらフンと鼻息荒く月彦に背を向ける。
「ぅ……も、もう大丈夫……自分で歩けるから……」
 いつまでも女二人に肩を貸されているというのも情けない話だった。月彦は強がり半分に二人から離れ、そしてがくがく膝を笑わせながらもなんとか歩き、歩道と車道との合間にある植え込みの柵へと腰を下ろす。――と、何故か佐由までもがその隣へと腰掛けてくる。
「すまないね、紺崎君。やはりクピドの真似事などは私には向いていないらしい。……もう少し巧くやれる自信はあったんだが」
「……倉場さん?」
 ぼそりと、まるで囁くように告げられた言葉に、月彦はハッと佐由の顔を見た。
「君達の行く末には個人的に非常に興味はそそられるが、さすがに馬に蹴られたくはないのでね。今宵はこれにて邪魔者は退散させてもらうよ」
 言って、佐由は妙子の方へと向き直る。
「白石君、日も暮れてしまった事だし、私たちはそろそろ失礼させてもらうよ」
「あ、そう。好きにしたら?」
「そうさせてもらうよ。……ちなみに私たちはバスで帰るが、君たちは徒歩かい?」
「いや、電車――」
「よけーな事は言わなくていいの」
 なぜだか分からないが妙子に強烈に睨み付けられて、月彦は黙らざるを得なかった。
「……まぁ良い。帰ろうか、英理」
「にゃー。たゆりん、またねー! ピコりんもまた遊ぼうにゃりー」
「ま、またね、倉場さん、小曽根さん」
 月彦は手を振って二人を見送り、妙子もおざなりではあるが同様に見送った。そして二人の姿が完全に見えなくなり、さらに五分ほど時間を空けてから、そっと隣へと歩み寄ってきた。
「…………顎、まだ痛い?」
「けっこう、痛い」
「……ちょっと待ってて」
 妙子は小走りにどこかへと消え、すぐに戻ってきた。手にはどこから手に入れてきたのか、クール便などを送るときに使う保冷剤が握られていた。
「これを当てとくといいわ。……少しはマシになるでしょ」
「さんきゅ、妙子」
 ハンカチに包まれた保冷剤を顎に当てると、僅かずつだが痛みが引いていくのを感じた。
「もうちょっと、そっち詰めて」
「あ、あぁ……」
 促されて、月彦は尻の位置をずらし、植え込みの端へと移動して妙子が座れるだけのスペースを作った。
「……少し休んだら帰るわよ。もう七時回っちゃってるし、あんまり遅く帰って変な勘ぐりされたくもないから」
「そうだな。…………多分、千夏辺りが今日の事いろいろ聞いてくるだろうしな」
「…………言っとくけど、余計なことは言わないようにね。…………とくに、あの子達の事は」
「何でだ? 別にいいだろ?」
「ダメよ。絶対にダメ。あんな連中と知り合いだなんて千夏にバレたら、何言われるかわかったもんじゃないわ」
「…………そういうもんなのか?」
 確かに、ちょっと変わった連中だとは思うが、そんなに悪い連中だとも思えなかった。
「……今日は、あんたの前だったから、あいつらも比較的大人しかったけど……いつもはもっと酷いんだから」
「お、大人しかったのか? あれで?」
「いつもいつも、ほんっとうに迷惑してるんだから。………………せめて、もう少し静かにしてくれてたら……あんた達にも紹介してもいいかな、って思えるんだけど」
 成る程、妙子は妙子でいろいろと気苦労があるのだなと、月彦は妙な納得を覚えた。
「……妙子、そういやお前右手は大丈夫なのか?」
「大丈夫よ」
 大丈夫といいつつ、妙子はまるで隠すように右手をダウンジャケットのポケットへと突っ込んでしまう。
「ちょっと、見せてみろ」
「やっ、ちょっ……痛っ……」
 月彦は強引に妙子の右手を掴み、ポケットから引き出させる。案の定、と言うべきか。右手の一部分が赤く晴れ上がっていた。
「やっぱりな。俺はもう大丈夫だから、あとはお前が手を冷やせよ」
 内出血などはしていないようだから、骨がどうという事はないだろう。月彦は強引に妙子に保冷剤を渡し、冷やさせる。
「殴られた時の感じがいつもと違ったからな。ひょっとしたら手を痛めてるんじゃないかと思ったんだ」
「………………そんな違いが分かるものなの?」
「わかる。…………今まで何回お前に殴られて、蹴られたと思ってるんだ?」
「あんたが…………殴らせるような事言ったり、したりするからでしょ」
 妙子の言葉は、語尾になる程に聞き取れないほどに小さくなっていった。
「さっきだって、もっと普通の事言ったんだったら……殴ったりなんかしなかったわよ」
「悪い。悪気があったとかじゃなくて、ほんっとーに思い浮かばなかったんだ」
「……それは分かってるわ。あんたには悪気なんかないのよね、いつも」
「………………なんか、トゲのある言い方だな」
「気のせいでしょ」
 良いながら、妙子は腰を上げ、保冷剤をしまってぱんぱんと尻を叩く。
「もう休憩はいいでしょ。いい加減帰るわよ」
「そうだな」
 駅へと移動する間。そして電車に乗り、最寄り駅で降りるまで、不思議なほどに妙子は周囲や背後を警戒していた。その様子はさながら秘密警察に追われるレジスタンスかなにかのようであったが、月彦は単純に自分と一緒の所を知り合いに見られたくないだけなのだろうな、と思っていた。
「さてと。じゃーなー妙子。手の痛み酷いようならちゃんと病院いけよ?」
 帰路の途中、自宅への道と妙子のアパートへの道とで分かれる交差点で、月彦はそれとなく別れの挨拶をして帰路につこうとした。
「あっ」
 が、そんな声につい足が止まった。
「ちょっと……待って」
「ん?」
「…………少し、うちに寄っていかない?」
 まさかの言葉に、月彦は我が耳を疑った。


 特に断る理由も思いつかなくて、月彦は妙子に誘われるままに部屋へと上がった。時刻は八時前。そんなに遅いとも言えないが、遅くないとも言えない微妙な時間帯だった。
「……飲み物の準備してくるから、向こうで待ってて」
 妙子に促されて、居間へと足を向けた矢先。
「ねえ」
 と、再度月彦は呼び止められた。
「一応聞くけど…………あんた、コーヒー嫌いだったりする?」
「いや別に。好きでもないけど、嫌いでもない」
「紅茶とかココアとか……そういうのと比べたらどう?」
「場合によりけり……かなぁ。ああでも、コーヒーはコーヒーでも出来ればブラックよりミルクとか砂糖とか入ってた方が飲みやすいかな」
「そう、分かったわ」
「…………?」
 首を捻りながら居間へと移動し、炬燵に入って妙子が来るのを待った。程なく妙子が二人分のコーヒーカップを手に戻って来、カップの片方を月彦の前へと置いて自らも対面席へと座る。
(おっ、ブラックじゃない)
 いつもの墨汁のように漆黒の液体ではなく、クリームがかったその色に、月彦は僅かながらも驚いた。
「ありがとな、妙子」
 妙子は咄嗟に口を開き、何事かを言いかけるも止めた。
「……で、何か話があるんじゃないのか?」
 いつもより格段に飲みやすいコーヒーに口をつけながら、月彦はそれとなく水を向ける。さすがに用もないのに自分がただ引っ張り込まれたとは、月彦には思えなかった。
「用って程の事じゃないんだけど……」
 妙子は自分のコーヒーカップを弄ぶように、取っ手を右にしたり左にしたりとくるくる回しながら、呟く。
「…………一応、ちゃんと謝っておこうかと思ったのよ」
「謝る?」
 さっき殴った事についてだろうかと、月彦はコーヒーカップをテーブルに起きながら、はてなと首を傾げてみせる。
「今まで私……当たり前みたいにあんたを殴ったり、蹴ったりしてたけど……それって考えてみたら、とんでもない話よね。……もし私が、誰かにそんな扱いされてたら、絶対に相手の事許せないもの」
「待て、待て、妙子。それは違うだろ? 元を正せば、お前に殴られるような事をした俺が悪いわけであって、別に何もしてない相手を一方的に殴りつけてるわけじゃないんだから」
「……あんたがそう言うから、私も今まではそういえばそうか、って……納得しちゃってたけど。……でもそれってようは、あんたに甘えてるって事なのよね」
「……甘えてる?」
 暴力を振るうことが甘えるという事なのだろうか。さすがにそんなヘヴィな甘えは出来れば願い下げたいと、月彦はちらりとそんな事を思う。
「あんた相手なら、思い切り殴りつけても、蹴りつけても笑って許してくれるって……無意識のうちに思っちゃってるのよ。……悪癖だわ」
「…………まぁ、お前がどう思うかは勝手だけど、そんなに気にするような事でもないだろ。…………昼間も言っただろ。お前に殴られるのはスキンシップの一環、ようはボケとツッコミみたいなもんだ。むしろ、俺は妙子に感謝してるんだぜ?」
「感謝?」
「あぁ。俺が駄目な事をやらかしたとき、お前や……姉ちゃんがガツンと強烈な一発をお見舞いしてくれるからこそ、張り合いがあるっていうか、反省できるっていうか。…………まぁようは、気にするなって言いたいわけだが」
「……でも…………」
「甘えてるっていうのなら、俺だってお互い様だ。……中学の頃とか、ちょっとくらい胸を触っても、お前だったら殴ったり蹴ったり罵声を飛ばしたりするだけで許してくれるって分かってたからちょっかい出してたってのもあるしな」
 つまり、持ちつ持たれつみたいなもんだと言って、月彦はコーヒーカップに口を付ける。
「一応、誤解の無いように言っとくけどな、俺はMとかそういうんじゃないからな? あんなに思いっきり殴られたり、蹴られたりしてもやり返す気にならないのは、正直姉ちゃんかお前くらいだ。……千夏や和樹だったら、場合によっては倍返ししたりもするからな」
「……霧亜さんに逆らえないのは分かるけど、どうして私にはやり返さないの?」
「好きだからに決まってるだろ」
 自分の名前でも答えるようにすらりと、月彦は言ってのける。
「…………あんたが好きなのは私じゃなくて…………私の…………胸、なんじゃないの?」
 顔を僅かに朱に染め、視線を斜め下に逃がしながら、妙子は反論する。
「そんなことはない! ………………とは、言い切れない、気が……する」
 最初の一言は勢いよく、そして間を空けて小声でボソボソと。さも頼りなげに月彦は人ごとのように続ける。それを聞いて、妙子がふふんと得意げに笑う。
「そうでしょーとも。………………仮に私が男だったとしても嫌だもの。コミュ障で……すぐ暴力振るうような女なんて」
「……ていうか、コミュ障とか気にしてたのか? ……そっか、だからあの時、急に自分も歌うって言い出したのか」
「………………人前で歌うなんて、絶対に嫌なんだけど…………だけど、折角あんた達が楽しく騒いでるのに、一人で空気悪くしてるのも嫌だから……」
「でも、思い切って歌ってみたら気が楽になったんじゃないか? 誰も笑ったりなんかしてなかっただろ?」
 勿論それはあざ笑うという意味で――なのだが、無論言葉を付け足すまでもなく、妙子には通じているだろうと月彦は思っていた。
「…………あんたも、佐由達も音痴を笑ったりしないって事は、私だって分かってるわよ。分かってるけど……」
「………………まぁ、そういう気持ちは俺も分からなくもないけどな」
 というよりも、人間誰しも“そういった部分”は持っているだろうと、月彦は思う。周りから見ればどうしてこんな簡単なことをそんなにも嫌がるのかと、首を捻りたくなるような事柄でも、本人にとってはいかんともし難いという事が。
(俺だって、目の前でおっぱいゆらゆらされたら、たとえ電車に轢かれる寸前とかでも絶対目で追っちまうしな、うん)
 無論、妙子のケースとは天と地ほどもレベルの違う話であるという自覚は、月彦には無かったりする。
「とにかく、殴る蹴るに関してはあんまり気にするなよ。第一、本気で嫌だったら俺だって逃げたり避けたりくらいはするって」
「………………。」
 納得がいかないのか、それとも別のことを考えているのか、妙子はぷいと顔を背けたまま返事を返さなかった。
(まぁそりゃあ……殴られないのが一番ではあるんだが)
 セクハラまがいの事をして、黙って我慢される事の方が逆に耐え難いようにも思えるのだった。いわば、セクハラと暴力による報復は等価交換のようなものであり、後々に禍根を残さないための大事なシステムなのだ。
(禍根……残ってない、よな?)
 いや、残っているかもしれない――などと、己の考案したシステムの致命的欠陥に今更ながら気がつき、ヒヤヒヤしながら月彦はコーヒーカップに残っている最後の一滴を飲み干した。
「……ねえ、月彦」
 コーヒーも飲んだし、話も終わったし、夜も遅いし、そろそろ帰る――そんな言葉を言おうと口を開きかけたところで、月彦は先手を打たれてしまった。
「私には……あんたの………………その、大きな胸を触りたいっていう感覚が……理解できないわ。……それがどれくらい強い衝動で、達成されたときにどれくらい嬉しいかとか、全然分からないの」
「……まぁ、そりゃあ……」
 普通そうだろうと、月彦は納得する。同じ男ですら、自分ほど巨乳に執着する男は希ではないかと月彦は思う。ましてや、女であれば尚更理解はしにくいだろう。
「分からないけど…………少なくとも、あんたにとっては、“胸に触れる”っていうのは、“ご褒美”になりうると思っていいの?」
「……なるかどうかは、以前証明しなかったか? 俺はおっぱいが触れるってだけで、いくらでも努力が出来る男だぜ!」
「…………そういえば、そうだったわね」
 フフッ、と。妙子が思い出し笑いをする。
(…………何故そこで笑う?)
 予想と百八十度違う妙子の反応に、月彦はゾッと怖気が走った。月彦の知っている妙子であれば、ここでぷつんと『そういえばこの間はよくも〜』的な事を言って怒り出す筈だった。
(なんか怖いぞ…………この“流れ”は俺の知らない流れだ)
 訳の分からない不安に月彦が戦々恐々としていると、不意にぽつりと妙子が呟いた。
「あの時……さ」
「うん?」
「庇って……くれたのよね?」
「……カラオケボックスの件か? ………………ま、まぁ……一応、な。…………倉場さんには見破られちまったけど」
 妙子は、小さく首を振る。
「実を言うと、あんたが嘘をついたって事だけは私もすぐに分かったわ。……分かってたけど、どうしてあんたが態と負けたかまでは頭が回らなかった。とにかくこれで自分は安心だって、そっちにばかり気がいっちゃって、悔しいけど佐由が指摘するまであんたがどんなつもりだったかなんて、気にもしてなかった」
「俺が勝手にやったことだからな。……別に恩に着せようとか、そういうのは無いから安心しろよ」
「……そう?」
 その“そう?”は一体どういう意味の“そう”なのか。月彦には分からなかった。
「確かに、あんたの言うとおり、あんたが勝手にやったことだし…………別に、気にする必要なんて無いのかもしれないけど」
 だけど――妙子は言葉につまりながらも、続ける。
「このまま、ウヤムヤするのは気持ちが悪いから……もし……」
「もし……?」
「も、もし…………あんたが、今……触りたいっていうのなら…………少しくらいなら、胸……触らせてあげてもいいわ」
「なっ……!?」
 月彦は、我が耳を疑った。そればかりではなく、これが現実なのかどうかさえも。頬を抓り、さらに眉に唾を塗り、眼前の人物が白石妙子ではない可能性すらも考えた。
(さすがに真狐…………じゃあ、ない、よな……)
 化かされているのではないかとハラハラしながらも、突然目の前にぶら下げられた極上の霜降り肉に戸惑いを隠しきれない野良犬のように、月彦は忽ち挙動不審に陥る。
「ぁ……さ、先に言っとくけど、服の上から、だからね? あ、あと……この前みたいに後ろからとかじゃなくて、今この場で。この位置関係で触る事!」
「……触らせてくれるんなら、どんな条件だろうと構わない。…………けど、本当にいいのか?」
「………………一時の気の迷い、よ…………明日になったら多分……ていうか、絶対後悔してると思うわ。…………自分から、触ってもいいなんて……あんたに言うのは、これが最初で最後なんだから。…………一応言っとくけど、二匹目のドジョウは期待するんじゃないわよ?」
 暗に“ご褒美目当て”の二度目は通用しないと釘を刺されるも、そんな事はどうでもよかった。空腹に飢えに飢えていたところに突然極上のステーキを食わせてもらう事になり、次はないからなと言われたところで痛くも痒くもない。元々食える筈のなかったステーキだ、それを食わせてもらえるというだけで感謝こそすれ恨む道理も落胆する必要も無い。
「分かってるって。…………んじゃ早速――」
「あ、待って!」
 両手の指を“女神の手”のようにわさわさ蠢かしながら獲物に食らいつこうとする月彦を、不意に妙子が制した。
「なんだ、やっぱり止めるのか?」
「そうじゃなくって…………大丈夫とは思うけど、もしまた途中で千夏が来たりしたら……言い訳が大変だから」
「へ? お、おい……妙子?」
 妙子は携帯電話を取り出し、ボタンを押し始める。
「あっ、もしもし。千夏? うん……今帰ってきたところ。……うん、うん……違う、そんなんじゃなくって、ちょっと買い物とかしてたら遅くなっちゃっただけで……うん、そう。…………あっ、ごめんね。今からシャワー浴びるから、詳しい話はまた明日聞かせてあげる」
 一息にまくし立てるように言って、妙子は通話を切るなりふうと小さく息を吐く。
(…………それ、逆に感づかれるんじゃないか?)
 端で見ていた月彦にも妙子の言い様は「今からちょっと大事な用があるから、邪魔をしないで欲しい」という風にしか聞こえなかった。ましてや、あの千夏ならば――。
(……それとも、妙子が嘘ついてるって知ってるから、そう聞こえただけ……か?)
 そうであって欲しいと願うばかりだった。そして幸か不幸か、電話をかけた妙子自身は自分のかけた電話がどれほどキワドイものであったのかについてはまったく自覚がないらしかった。
「これでもう……変な邪魔は入らない……と思うわ。うちに来るのなんて、それこそあんたか千夏くらいだもの」
「気遣いはありがたいんだが…………まぁいいか。…………んじゃ早速……ほ、本当にいいんだな?」
「何度も念を押さなくても……いいって言ってるでしょ。…………触りなさいよ」
 妙子は両手を炬燵の中へと引っ込め、縦縞のセーター越しにしっかりと存在を誇張する巨乳を炬燵テーブルの上へと乗せる。その高校生離れした質量に、思わず月彦はごくりと喉を鳴らしてしまう。
「……た、妙子……悪い。…………良かったら一つだけ我が儘を聞いてくれないか?」
「……なによ。これ以上まだ何かしたいっていうの?」
「いや、そうじゃない。さすがにそこまで図々しくはないぞ? 俺が言いたいのは、その…………前みたいに、下着は外してくれないか、って事だ。セーターはそのままでいいから」
「……どうして?」
「はっきり言おう。下着は硬い。つけたままじゃ、殆ど触った気がしないんだ。…………勿論、これはお前の行為で触らせてもらうわけだから、無理に脱いでくれとは言えないんだが……」
「…………。」
「あと、出来ればその厚手のセーターじゃなくって、もっと薄い……ほら、確か黒の薄手のセーター持ってただろ。あれに着替えてくれればもう言うことはない。明日死ぬことになってたとしても、俺は笑顔で逝ける!」
「…………あんたって男は……どこまで……………………」
 絶句したように妙子は沈黙しつづけ、そして大きく肩を揺らしながらため息をつく。
「よくもまぁ、それだけ図々しく言えるものだわ。……そんな注文、私が受けるとでも思ってるの?」
「う……やっぱりダメか……」
 言うだけ言ってはみたものの、さすがにいくらなんでも注文がマニアック過ぎたかと、月彦はしょんぼりと肩を落とす。――そんな月彦の死角外から、もう一度大きくため息が聞こえた。
「…………わかったわよ。…………私には全然分からないけど、あんたにはあんたのこだわりがあるって事なんでしょ? ……最初で最後のお礼なんだし…………言うとおりにしてあげるわよ」
「え……ま、マジで……?」
「言わなくても分かってると思うけど…………千夏達には絶対に内緒よ。ううん、千夏達だけじゃない、他の誰にも、絶対に」
「わ、分かってる! 誰にも言わない、この秘密は墓場まで抱いていく!」
「…………じゃあ、着替えてくるわ。少し待ってて」
 妙子は炬燵から立ち上がり、衣装ケースから注文の黒のセーターを取り出し、居間を後にする。
「………………げ、現実……だよな? これ……」
 かつて無いほどの興奮とドキドキを胸に、月彦は一日千秋の思いで妙子の帰りを待ち続けた。



 ブラを外し、セーターを換えるだけ――であるのに、妙子は十分が経過しても戻ってこなかった。既に月彦の体感時間的には数週間の時間が経っていたわけだが、それは裏を返せばそれほどまでに心待ちにしているという事でもあった。
「………………。」
 もう五分待っても妙子が戻ってこなかったら、ちょっと様子を見に行ってみようかなと月彦がそんな事を考え始めたとき、そっと音も無く居間とキッチンとを隔てている引き戸が僅かに開いた。
「……ちょっと、困った事になったんだけど……」
 妙子が浮かない顔を半分ほど覗かせながら、そんな言葉を口にする。
「ど、どうした? もしかして、セーターに虫食いがあったとか……?」
「セーター自体に問題はないんだけど……」
「けど?」
「こ、これ……考えてみたら一昨年買ったセーターなのよね…………少し、小さくって」
「小さくて着れない?」
「着れないって程じゃないんだけど……」
「歯切れが悪いな。セーターに問題が無くて、小さくてもちゃんと着れるなら何がダメなんだ?」
「えーと…………ああもう! 分かったわよ!」
 何故か逆ギレ気味に、妙子は勢いよく戸を開け、居間へと戻ってくる。
「ぶっ」
 と。幼なじみの姿を瞳に入れるなり、月彦は思わず鼻血を吹きそうになってしまった。
「ほら……つんつるてんでしょ?」
「つ、つんつるてんっていうか……それは――」
 袖の長さ、それほど問題なし。
 セーターの丈、まずまず問題なし。
 肩幅、とくに問題なし。
 タートルネックの襟首も問題なし。
 ただ一カ所、胸が。
(む、胸の所だけ……生地が薄くなって肌が透けてる…………ぐ、グッド!)
 真央ならば狙ってやってくるだろうが、無論妙子にそんなつもりはないのだろう。ただただセーターが窮屈だという思いしか無いに違いない。
(そして、ポッチが……ポッチが……)
 下着を外し、さらに小さめ(しかも薄手)のセーター一枚着込んだせいで、胸の頂までもがくっきりと露わになってしまっていた。そんな悩殺ものの光景を目の前にして、月彦は九割型人間を辞めてしまおうかという気になり始めていた。
(ていうか、辞めたい、辞めてしまいたい!)
 サカりのついた大型犬に手綱をぐいぐい引っ張られている引きずられている子供のような――そんな心情風景を思い描きながら、月彦は何度も何度も生唾を飲み込んでいた。
「そ、そんなに物珍しそうにジロジロ見るんじゃないわよ! あんたが着ろって言ったんじゃない」
 むしろ、望んだもの以上のものが見れるからこそ目を血走らせて凝視してしまっているのだが、妙子には物珍しさから見られている程度の認識しかないらしい。顔を赤らめぷりぷり怒ったまま、先ほどまで同様月彦の対面へと腰をおちつける。
(ぐはぁっ……は、反則だろ、コレは……)
 間近で見ると、これまた段違いの迫力に月彦は目眩すら覚えた。素肌がうっすら透けるほど薄くなったセーター生地に乳首が浮いているというだけの光景なのだが、他ならぬ白石妙子がそんな格好になって目の前に居るというシチュエーションが、情景以上の興奮を月彦に与えていた。、
(……すばらしい……この曲線の見事さはどうだ。……スゴい、スゴすぎて……神々しさすら感じる……!)
 妙子の背後に金色のオーラを感じ取って、思わず月彦は手を合わせて深く目を瞑った。
「ちょ、ちょっと! 何おがんでるのよ!」
「いや、なに。これはちょっとした感謝の表れだ」
 眼福眼福。さながら生まれて初めて奈良の大仏を見た熱心な仏教徒のように月彦はたっぷりと拝み続ける。
「……わけがわからないわ」
 呆れるように呟く妙子に、月彦は少しだけ哀れみを感じてしまった。これほどまでにすばらしいおっぱいを持っているのに、悲しいかな本人だけがその価値を理解できないのだ。皮肉としか言い様がなかった。
「……なぁ、妙子。世界平和って実現できると思うか?」
「はぁ……?」
「きっと世界から争いが絶えないのは、この素晴らしさを知らない人が多いからだと思うんだ」
「……………………。」
 眼前の幼なじみから本気で心配するような目で見られて、はたと。月彦は正気に返った。
「と、とにかく……グッドだ、妙子。…………何度も聞いて悪いが、本当にいいんだな?」
「……………………だんだんダメって言いたくなってきたわ」
「悪いが、それは許されない。……というわけで、触らせてもらう」
「はいはい、どーぞ。……好きにしなさいよ」
 もう付き合っていられない、とばかりに妙子は投げやりに呟き、炬燵の上へと巨乳を置く。その塊へと、月彦はそろり、そろりと手を伸ばしていく。
「んっ」
 そして、いきなり右手でわしっ、と。握りこむように掴み、妙子がぴくりと体を震わせる。
「い、いきなり大胆ね…………も、もうちょっと……遠慮気味に触りなさいよ」
「悪い。……あまりに見事なものだから、掌全体で感触を味わいたかった」
 自分的には褒めているつもりの言葉を口にしながら、月彦はさらにもう片方にも左手を添え、むぎゅ、むぎゅと交互に力を込め、揉み始める。
「んんっ……んっ……」
 妙子は時折顎を浮かせながら、くすぐったそうに鼻に掛かった声を漏らす。無論、そういった挙動は全て月彦によって観察され、“より良く”なる様、愛撫には修正が加えられていく。
(…………直接触れないのは残念だが、これはこれで……)
 セーター生地越しの巨乳の感触というのも決して嫌いではない――そんな事を考えながら、月彦は指先に全神経を集中させる。そう、次は一体いつ触れるかわからないこの希少なおっぱいの感触を記憶として刻み込む為に。
(……重い、な。……これ、片方だけで一キロくらいあるんじゃないのか)
 揉み捏ねる傍ら、月彦は下から持ち上げるような手つきで、たぷたぷと揺らしてみる。
「こ、こら……遊ぶんじゃないわよ!」
「いや、重そうだなーって思ってな。…………肩とかすんげー凝るんじゃないのか?」
「それなりに、ね……んんっ……」
「なんなら、また肩でも揉んでやろうか? 結構得意なんだぜ?」
「け、結構、よ……んんっ…………ていうか、しゃ、喋るか触るか……どっちかに……」
「何でだ。別に同時でもいいだろ? 手と口は別なんだし」
 巨乳を両側から寄せたり、逆に離したり。指先だけで掴んで縦に揺さぶったりしながら、月彦はさも朗らかにそんな事を言う。
「ところで妙子。一体いつまで触っていいんだ?」
「え……いつ……って……」
「いやほら、時間制限っていうか……何時まで、とかさ」
「……あんたに任せるわ。…………あんたが満足したら、終わりでいいわよ」
「…………ほう」
 それはよい証文を頂いたと、月彦は内心ほくそ笑んだ。
(俺が満足するまでヤッたら、大変なことになると思うけど……まぁ、他ならぬ妙子がそれでいいって言ってるんだからいいよな、うん)
 これで急ぐ必要は全くなくなったと言わんばかりに、月彦はよりいっそうもどかしげな手つきへと変化させる。
(…………今こそ、培ってきた技術全てを発揮する時だ)
 “同じ嗜好”の者が見れば乳を揉む手が発光していると錯覚するような、そんなオーラ(めいた常人には見えない何か)を迸らせながら、月彦はあの手この手を駆使し、次第に妙子の呼吸を荒くさせていく。
(……そろそろ、かな)
 妙子の様子を具に観察しながら、月彦は頃合いだと確信する。それまで一切手をつけていなかった頂の部分へと、さわさわと指を這わせていく。
「あっ……こ、こら…………そこ、は……」
「そこは?」
「そこ、は…………んっ……や、やだ…………」
 いきなり強く擦ったりなどはしない。人差し指と中指の先で、つん、とセーター生地を盛り上げている場所の周囲で円を描くように撫でるだけだ。
「だ、ダメ……やめて……っ……ぅ……」
 声を震わせながら、妙子がそんな言葉を呟く。が、無論月彦は気にせず、さわ、さわとポッチの周りをなで続ける。
「ダメ、だってば……ちょっと……聞いてるの?」
「ダメの意味が分からない」
「い、意味って……ぅ…………そこ、触られたくないんだってば……ンッ……」
 ふーっ…………ふーっ…………。
 肩をゆっくり上下させながら、妙子は口元に手を当てて荒い呼吸を誤魔化すように息を吐く――が、無論月彦はお見通しだったりする。
(……ホントに弱いんだな。………………まぁ、胸を触らせてくれたせめてもの礼だ。腰が抜けるくらい気持ちよくしてやろう)
 そう、やましい気持ちなど微塵もない。これは百%善意の証なのだといわんばかりに、月彦は嬉々として乳首の周囲を撫で続ける。
「ちょ……ダメ……それ以上、触るならもう終わり!」
「なんでだよ。俺が満足するまで触っていいって、そういう約束だったろ?」
「そ、そうだけど…………そこ、本当にダメなんだってば…………やっ……だ、だから……触る、なぁ……」
 ゾゾゾゾゾッ――そんな擬音が伝わってきそうな程に、妙子が背筋を震わせ、辿々しく言葉を着切る。
「分かった。どうしてダメなのか教えてくれたら、もう触らない」
「ど、どうしてって…………い、言えるワケないでしょ!」
「……じゃあ、こっちも止める必要はないな」
 既に、先端部分はくっきりと。より存在を誇張するように浮きだっている。周囲を撫でつけているだけでこの有様なのだ。もし、硬くそそり立った場所そのものを刺激したらどうなるか――
「だ、だめ…………ぁンッ…………!」
 きゅ、と。人差し指と中指の間で軽く摘んだその瞬間、妙子は弾かれたように声を上げて――すぐさま口に手を当ててその声を押し殺した。
「コリッコリだな。セーター生地越しでも、硬くなってるのが分かる」
「そ、そんな事……いちいち言わ…………〜〜〜〜〜っっっ!!」
 コリ、コリと硬い先端を弄ぶように刺激すると、それだけで妙子は口を覆い、声を押し殺すように黙り込んでしまう。
「妙子、手は炬燵の下に」
「ふぅ…………ふぅ………………?」
「手は炬燵の下に戻すんだ」
 言いながら、月彦はさも諭す様に先端部分をキュッと強く掴む。
「ぁくっ…………」
「手は下に」
「な、なんで……あんたの言う事を……ひぅ……!」
 月彦は無言で、キュッと強く乳首を捻る。
 妙子は睨むような目をしつつ、渋々両手を炬燵の下へと戻す。よし、と。まるで犬でもしつけているかのように月彦は頷き、再度先端部を弄り始める。あくまでも優しく。
「ぁ……やっ……だ、だめ……だめっ……だめっ…………」
「妙子、手」
 右手を口元に持ってこようとする妙子に釘を刺し、戻させる。その上で、先端部を人差し指と中指で挟み、親指の腹で擦るように刺激する。
「ふぁ……ぁぁぁ……ぁぁぁ…………!」
 ゾクッ、ゾクゾクッ……!
 そんな悪寒めいたものが妙子の体を駆けめぐるのを指先から感じ取り、月彦は心の内側だけで首肯する。
「あぁぁ…………ぁぁぁ…………ぁぁぁぁ…………!」
 はーっ……はーっ……。
 ふーっ……ふーっ……。
 呼吸というよりは、排気。体に溜まった熱を逃がしているだけのような、そんな息づかい。妙子の両目が、うっとりと潤いを帯び始める。
「ね、ねぇ……ちょ……いつまで…………も、もういいでしょ? 終わり……ね?」
「ちっとも良くない。満足するまで触っていいんだろ?」
「だから……もう……うっ…………ま、満足したんじゃないかって、言ってる、のよぉ……ぁ、ぁ……」
 喋っている間も休まず、コリ、コリと刺激するとその度に妙子は面白いように体を震わせ、言葉を切る。
「全然。両腕の握力がゼロになるまで触らせてもらうつもりだぜ」
「バカッ……あんたってば……どんだけ……ぅ……」
「それに、触らせてくれるのはコレが最後なんだろ? だったらそれこそ心おきなく、目を瞑っても妙子のおっぱいのラインが頭に浮かぶくらい脳みそに焼き付けとかないとな」
 それとも――と。月彦は“コリコリ”を止め、再び周囲を指先でなぞりながら言葉を続ける。
「これからも妙子が気が向いた時にでも、ちょくちょく触らせてくれるっていうのなら、今日ここで無理をする必要も無くなるわけだが」
「っっ……ばか……そんな手に乗るとでも……ぁ、やんっ…………〜〜〜ッッッ……だ、だめぇ……は、話してる時は、指、動かすなぁ……!」
 ちっ、そうそう巧くはいかないかと、月彦は少しだけ落胆した。最も、最初からこんな手に妙子がかかるとも思ってはいなかったが。
「……しかし、一体全体どういう風の吹き回しだ?」
「……なに、が……よ」
「いや……お前が自分から……触ってもいいだなんて。…………考えてみたらかなり異常な事だなーって、今更になって不思議になってきた」
「い、言った……でしょ。…………庇ってくれた、お礼、だって……」
「……本当にそれだけなのか?」
 愛撫の手をゆるめながら、月彦は半ば真剣に尋ねた。無論、『本当はずっと前からあんたの事が好きだった』――などという都合の良い答えは微塵も期待してはいなかった。ただ、何か事情があるのではと、そんな事を考えてしまったのだ。
「……………………ただの気の迷い……よ」
 呼吸を整えながら、妙子がぽつりと。衣擦れの音にすらかき消されるような声で呟いた。
「カラオケ、ボックスの時だけ、じゃないわ…………ファミレスでも、気を使って……先に帰ろうとしてたでしょ………………その時は……別に何とも思わなかったんだけど…………その後、佐由がアンタが私を庇おうとしてた、って言った時……あぁ、そういえばあの時も、って思い出したら………あんたを邪険にしてた事が…………凄く申し訳なく思えてきちゃって………………だから……代わりにちょっとくらい、あんたの我が儘聞いてあげてもいいかな、って…………それだけよ」
 ぽつり、ぽつりと。辿々しく語られる妙子の話に、月彦は真剣に耳を傾けた。この不器用で時には冷酷とも思えるほどに自分に対して冷たく接してくる幼なじみの心の変化が、まるで手にとるように伝わってくる。
(…………倉場さんに感謝、なのかな、これは)
 報われるべき努力は報われるべきだと思っている――彼女のそんな言葉を不意に思い出し、月彦は倉場佐由という人物についての評価を改める事にした。
「べ、別に……あんたが……庇ってくれたのが嬉しかったからとか……そういうんじゃないんだから……単純に、貸し借りの問題ってこと……そこだけは、勘違い……しないでよね」
「………………そういう事なら、俺だって嬉しい」
 止めていた手を再び蠢かし、むぎゅっ。と強く両手で握りしめるように、掴む。
「やんっ……“俺だって”って何よ! わ、私は――」
「妙子が、例え条件付でも……こうやって胸を触らせてくれる男なんて、俺だけだろ? それが嬉しい」
「ば、バカ…………それは……あんた以外に、こんな事させろなんて言うやつが、そもそも……ぅぅ……」
「じゃあ、仮に誰かが揉ませろって言ってきたら、揉ませるのか?」
 仄かな嫉妬を込めるように、むぎゅ、むぎゅと右左交互に力を込め、揉み捏ねる。
「触らせる、わけ……ない、でしょ…………ていうか、あんたもホントいい加減に……ぁ、ぅ……ま、また、……そこ……っ……」
 触らせるわけがない――その宣言に対するお礼のつもりで、月彦は再び先端部をクリクリと優しく弄る。
「ありがとう、妙子。結局、触らせてくれるのは俺だけって事だよな?」
「ち、違う……」
「違わないだろ? これは俺専用のおっぱいだ」
「あんた、ねぇ……調子に、乗――ぁ、ぁン!」
 否定はさせない、とばかりに月彦やピンピンに硬くそそり立っている先端を人差し指でピンと弾く。
(…………ホントに乳首弱いんだな。………………これなら、何でも出来そうじゃないか)
 いわば、自分は白石妙子のコントローラとでも言うべき部分を掌握しているのではないか。そんな実感に、月彦はゾクゾクするほどの愉悦を覚えてしまう。
(……ちょっと、悪戯してみるか)
 ちょっとだけ、ちょっとだけ――そんな些細な悪気と共に、月彦は唐突に、右手の指先で硬くそそり立った先端を強く掴むとクイと引っ張った。
「あンッ!」
 妙子は驚いたような声を上げ、同時にがしゃんと。大きな音が炬燵の下から響いた。
「だ、大丈夫か……?」
 恐らくは、反射的に足まで動いてしまい、膝辺りが炬燵の金網部分にぶつかってしまったのだろう。妙子からの返事はなく、その涙すら滲んでいる両目は物言わぬ唇の代わりにハッキリと憤怒の意志を告げていた。
 即ち。あんた、後で覚えてなさいよ?――と。
(…………そんな目をされたら……)
 ますます意地悪をしてみたくなるのが紺崎月彦という男だった。
「あっ……ぅッ……!」
 再度、先端部を摘み、今度はクイと上へ持ち上げる。
「あっ、やっ……」
 さらに、左の先端を摘み、そちらは下へ。右を上げれば左は下へといった具合に、交互に上げ下げを繰り返す。
「ぁ、ぁぅぅぅ…………ぁふっ…………ぁふぅ…………!」
 背筋をピンと伸ばし、炬燵から出した両手は戸惑うように中空で止まったまま、妙子は必死に押し殺しても尚漏れてしまうらしい喘ぎ混じりの吐息を繰り返す。
(…………今なら、或いは)
 イけるのではないかと。月彦は一部の事柄についてのみ凄まじい洞察力を発揮するその眼力で、幼なじみの状態を正確に見抜いていた。
「…………妙子、頼みがある」
「ぁ……ぅ……?」
「直接触りたい」
 先端愛撫がよほど堪らないのか、とろけたような目になっていた幼なじみが、一瞬にして正気の光を取り戻す。
「だ、だめ……何、言ってるのよ……」
「頼む。直接触らせてくれ」
「だめ、だって…………んぅ……!」
「頼む」
「だめ……やっ…………だめ、……だめ、だってばぁ……」
 まるで催促するように先端部を摘んだまま、円を描くように動かしたり、強く引っ張ったりを繰り返す。さらに人差し指の側面と親指の腹とで摘み、クリクリクリと――
「あっ、あぁぁぁぁぁぁぁァァァ…………!」
 妙子がぶるりと体を震わせ、切なげな声を出す。
「妙子、頼む」
「……っ……」
 妙子は唇を噛んだまま、必死に首を振る。らちが空かない、とばかりに月彦は乳首を弄る手を止め、直接セーターの裾へと手を伸ばす。
「だ、だめ……!」
 妙子が慌てたように月彦の手を掴んでくる。が、弱い。構わず月彦はセーターをたくし上げようとする。
 その時――だった。
「「……えっ……!?」」
 二人揃って、そんな声を上げてしまったのは、それが鳴るはずのない音だったからだ。そして空耳ではない証拠とでもいうかのように、再度。ピンポーンと、無機質な機械音が室内に響き渡った。


「………………ごめん、この格好じゃ人前出れないから……代わりに出てくれない?」
「わ、わかった」
 妙子の横をすり抜け、月彦は玄関へと移動すると鍵を外し、ドアを開けた。
「…………紺崎さん!?」
「た、武士くん!?」
 そして、まさかの人物の来訪に、月彦は文字通り度肝を抜かれた。
「ど、どーして武士くんが……」
「えと……夜分にすみません。……こちら、白石さんのお宅……であってますよね?」
「そう、だけど……」
 まさか、妙子と武士は知り合いなのだろうか――そんな事を月彦は考えて、一瞬ひやりとする。
「た、妙子に用……かな?」
「はい……その…………実は円香さん……例の彼女から、白石さんに伝言を頼まれてたんです。今までにも何度か来たんですけど、タイミングが悪かったみたいでいつも留守で……」
「な、なるほど…………そっか、その彼女と妙子が知り合いだったのか」
 そっちの線だったかと、月彦はホッと胸をなで下ろす。
「ああ、ちなみに俺と妙子は幼なじみなんだ。今日も……えと、ちょっと宿題見てもらっててさ」
「そうだったんですか。…………それで、あの……白石さんは……」
「さっきシャーペンの芯が足りなくなったとかで、ちょっとコンビニに行ってるよ。本当は俺が行かなきゃいけなかったんだけど、場所が分かりづらい所にあるとかで、仕方なく留守番してるんだ」
 ちょっと苦しい言い訳かな――とは思ったが、武士は別段疑う風もなかった。
「そうですか……出来れば直接会って伝えたかったんですけど、もう明日発たなきゃいけなくて時間がないんです。……紺崎さんなら信用できますから、“伝言”をお願いしてもいいですか?」
 もし、“また留守”であった場合は置き手紙を残すつもりだったのだろう。武士は手にしていた封筒をポケットにしまいながら、縋るような目をする。
「任せといてよ」
「ありがとうございます。…………佐々木円香さんから“約束守れなくてごめんなさい”――と。そう伝えてもらえますか」
「それだけでいいの? 約束の内容とか分からなくても大丈夫なのかな」
「俺も、そう伝えてほしいと言われたんです。…………多分、“急な引っ越し”で遠くに行かなきゃいけなくなって、白石さんに挨拶をする暇もなかったから……だからなんだと思います」
「…………なるほど。そういう事なら……きっと妙子と何か約束があったんだろうな。……分かったよ。責任もって俺が伝えておくから安心して」
「ありがとうございます。…………これで心おきなく祖父の家に行けます」
「あ、武士くん!」
 深々と辞儀をしてその場を去ろうとする武士を、月彦は反射的に呼び止めた。
「……明日、発つんだよね。新しい土地ではいろいろ大変だろうと思うけど、頑張って」
「はい。紺崎さんも」
「あ、あと……出来れば、由梨ちゃんとも仲良く――」
「それは………………失礼します」
 武士はもう一度小さく辞儀をして、部屋の前から消えた。
「…………。」
 月彦はぽりぽりと頭を掻いてドアを閉め、鍵をかけ直した。居間に戻ると、妙子は何故か部屋の中だというのに上着を着用していた。
「……ってワケらしいんだけど、聞こえてたか?」
「うん。………………そっか、円香さん……引っ越しちゃったんだ」
「………………。」
 一体どういう関係だったのか――そんな疑問が頭に浮かんだが、口に出すのは憚られた。少なくとも、互いに約束を結ぶくらいの親しい仲ではあったのだろうと、それだけで十分だった。
(…………今更、続きを――なんて雰囲気でもないな)
 妙子がそれを望んでいるのならば話は別だが、上着を着用しているのは遠回しの“拒絶”であろうと月彦は空気を呼んだ。
「妙子」
「……なに?」
「その…………………………さっきは悪かったな。嫌がってたのに、その……なんつーか……」
「………………。」
 妙子は何も言わず、ただ月彦から視線を逸らし、ぎゅっと上着ごと肩を抱く。
「……じゃ、じゃあ……夜も遅いし、俺はそろそろ帰るから………………」
 場の空気に耐えられなくなって、月彦はいそいそと逃げるように妙子の部屋を後にした。



 なんとなくモヤモヤした気分のまま、月彦は自宅へと帰り着いた。
「ただいまー……?」
 いつもならばそれこそ飼い主の帰りを待ちわびた犬のように玄関先で飛びついてくる真央の熱烈な出迎えが在るはずなのだが、玄関には人っ子一人いなかった。
 代わりに、とでもいうかのようにぱたぱたとスリッパの音を立てながら台所からエプロン姿の葛葉が顔を出した。
「あら、おかえりなさい。………………お泊まりはしなかったのね」
「……映画を見てきただけだよ。……そうそう、母さん。結局コレの意味がわからなかったんだけど」
 と、月彦はポケットから血糊の入ったビニール袋を取り出し、葛葉に見せる。
「あら、役には立たなかったの?」
「立った……といえば立ったんだけど……」
 一体全体どういう見通しをもって、息子のデート(?)に血糊が必要だろうなどという推測を立てたのか、月彦としてはその方が気になった。
「それなら良かったわ。晩ご飯、まだでしょ? すぐに出来上がるから、もう少しだけ待って頂戴ね」
 しかし、葛葉はふふふと。絶妙な“間”の使い方で月彦に疑問の言葉を言わせず、意味深な笑みを残して再び台所へと戻っていく。
「……まぁいいか。真央は上……かな」
 母親の得体の知れ無さは今に始まった事ではない。気にしていても始まらないと、月彦は大人しく二階へと上がり、自室のドアを開けるも、中は暗く人の気配は微塵もない――と思ったその時だった。
「……っ!?」
 部屋に入り、照明のスイッチを押す。ぱちぱちと瞬くように照明がつき、ベッドに伏せていた真央がぴょんと飛び跳ねて月彦の前へと姿を現した。
「じゃーん! 父さま、どう!?」
「ど、どうって…………真央、それ…………水着じゃないか」
 下着を買ってくるんじゃなかったのかと。オレンジチェックのビキニタイプの水着を纏った愛娘の姿を足先から頭の先まで何度も視線で往復しながら、月彦は上ずった声で言った。
「そのつもりだったんだけど…………どうしてもこれが欲しくなっちゃったの」
「……なんつーか……買ってやる母さんも母さんだが……」
 もう少し季節というものを考えてくれればいいのに、と。月彦は相変わらずの母ののんびり具合にため息を禁じ得ない。
「ねえ、見てみて! 父さま! 似合う?」
 尻尾をぶんぶん振りながら、真央は様々なポージングを決めていく。そのハシャギっぷりにやや気圧されながらも、月彦はいちいち最もらしく感嘆の声を漏らした。
「ああ、すごくよく似合ってる。思わず襲っちまいたいくらいだ」
「えっ……」
 と、途端に真央が顔を赤くする。
「い、いいよ……私、父さまになら…………」
「冗談だ。とにかく水着はもう少し暖かくなるまでお預けだ。風邪を引く前にちゃんとした服に着替えるんだ」
「えー…………」
「えーじゃない。早く着替えないと本当に襲っちまうぞ? 買ったばっかりの水着が破れたり、伸びたりしたら真央も困るだろ?」
「う、うん……折角、義母さまに買って貰った水着だから…………大切に、着たいの……」
「なら、着替えないとな?」
 コクリと、真央は無言で頷き、いそいそと着替えを始める。普段ならそれこそ、ジロジロと穴が空くほどに眺め――真央の方も、それはもう一種のプレイだと割り切っているらしく、視線を感じると途端にもったい付け始めたりする――るのだが、今日は様々な事情から月彦はあえてそっぽを向き通した。
(…………ヤバい。…………妙子の部屋で溜まったムラムラが……)
 どうやら自覚症状のないままに、相当に“溜まって”いたらしい。気がつかないフリをして強引に真央を押し倒してしまうのも手ではあるのだが、さすがに“他の女”で溜まったムラムラを真央にぶつけるのは人として恥ずべき事だと、月彦はそんな事を思う。
(……いや、今までも何度かそういう事はあったけれども!)
 だからといって、本能の赴くままにヤッていたのでは人として進歩が無いではないかと。
 つまるところ――
「おまたせー! 父さま、お着替え終わったからこっち向いても大丈夫だよ?」
「ん……………………っ!」
 そして、くるりと真央の方を振り返って――月彦はぎょっと固まった。
「ま、真央……どういうつもりだ?」
「えっ……? 何か変……かなぁ?」
 上は、それこそ体のラインを如実に浮き彫りにするような薄手のピンクのVネックセーター。胸元が大きく開いたそれの下は当然の事ながらノーブラであり、母譲りの巨乳のせいで胸元は――ついさっきいやというほど見た光景ではあるが――生地が透けてしまっていた。
 下は、ちょっとでも屈めば容易く下着が見えてしまいそうな紺のミニスカート。これまた肉付きの良いふとももがにょきりと伸び、これまた母譲りの白い肌がまるで男にしゃぶりつかれるのを心待ちにしているように、月彦には見えた。
「何か変かなぁ、じゃないだろ! お、男の前で……だなぁ、そんな、格好は……」
 ふーっ、ふーっ――そんな耳障りな音が一体どこから聞こえてくるのかと思えば、他ならぬ自分の鼻と口だったりする。
「どうしたの? 父さま。お熱があるの? はぁはぁ言ってるよ?」
 真央はそれこそ何も知らない、赤ちゃんはコウノトリがキャベツ畑から運んでくると信じている無垢な少女のようにあどけない目で月彦の顔をのぞき込み――しかも、真央の顔を見下ろすと必ず両腕で寄せた胸の谷間がくっきりと見えるよう体の位置を調節して――すすすと、少しずつすり足で月彦とベッドの直線上へと、体を移動させていく。
「ば、ばか……止めろ、真央……今日はダメだ。…………今日は、だめなんだ」
「何がダメなの? 真央にも分かるように教えて?」
 真央はさらに体を寄せ、月彦の右腕を谷間で挟み込むようにむぎう、と体を絡みつかせてくる。さらに、左手を月彦の背へと回し、指先でツツツと背筋を辿るように――
(あぁぁ……ダメだ……おっぱいに…………おっぱいに、負ける……!)
 クラクラと目眩のようなものを感じた時にはもう、月彦は真央の体をベッドへと押し倒していた。
「きゃんっ……♪」
 真央がそんな嬉しい悲鳴を漏らした時にはもう、月彦は本能の赴くままに胸元へと顔をダイブさせていた。顔全体でセーター生地越しに巨乳の柔らかさを感じ取り、両手でこれでもかとむぎゅむぎゅした後、物欲しそうな真央の唇へとキスを交わす。
「あぁんっ……父さまぁ……」
 甘えるような真央の言葉に誘われるままにキスを続け、両手で胸元をもみくちゃにしながらセーターを捲しあげていく。
(おっぱい……おっぱい…………おっぱい………………おっぱい!)
 最早、月彦の頭にはその四文字の単語しか存在しえなかった。欲望のままに愛娘の巨乳にむしゃぶりつき、なめ回す。最早ケダモノ改めおっぱい揉みマシーンと化した父親に真央の方もまんざらでもなく、そこにはいつも通りの紺崎家の日常が広がっていた。


「つっきひっこクーン♪」
 月曜日。いつものように昼食を屋上で取ろうと階段を上がっていた月彦は、背後からかけられた聞き慣れない甘い声に驚き、危うく弁当箱を落としそうになった。
「な、何だ今の気色悪い声……千夏、気でも狂ったのか!?」
 怖気が走るような幼なじみの甘ったるい声に、全身からドッと汗を噴き出させながら、月彦は辛くも振り返る。ニヤニヤと意味深な笑みを浮かべた幼なじみが、まるで鳥のタマゴを見つけたヘビのような足取りでにじり寄ってくる。
「なーなーヒコ。ウチな、どーしても聞きたい事があるんやけど」
「な、何だよ…………気持ち悪いな……」
 千夏の接近から逃げるように月彦は階段を早足に上がり、屋上へと通じる踊り場へとたどり着く。
「一昨日の午後八時十四分四十三秒、何処で何しとったか教えてくれへん?」
「一昨日……つーと土曜日か。土曜の午後八時…………家でテレビでも見てたかな」
「ふぅーーーーーーーーーーーん?」
 千夏は両腕を後ろで組んだまま、不審な生き物を見つけた猫のようにぐるぐると周囲を回りながらそんな声を漏らす。
「な、なんだよ……その時間にどっかで殺人事件でもあったのか?」
「妙ちゃんからな、変な電話かかってきたんや。……今帰ってきて、シャワーあびるところやーて」」
「……何が問題なのか俺には分からないな」
 ふぅーーーーん?――千夏が再度そんな声を漏らし、目を細める。
「ウチには今から“誰か”とイチャつくから、前みたいに邪魔しにくるなーて聞こえたんやけど?」
 ギクギクギクゥ――!
 心臓が竦み上がるような思いをしながらも、月彦は辛うじて動揺を顔には出さなかった。
(……だ、だから……あんな電話かけちまったら余計ヤバいって……)
 事前に一言相談してくれていれば、絶対に止めたのだが、妙子が勝手に電話をかけてしまったのではどうしようも無い。
「ま、前みたいに邪魔って何だよ! あの時だって別にやましいことしてたわけじゃなくてだな、普通に模試の点数見せ合ってただけだぞ!?」
「ヒコも妙ちゃんもホンマ嘘つけへん性格しとるなぁ。…………ま、そこがええとこなんやけど」
 千夏は一足先に屋上へと通じるドアノブを握り、開けると寒風吹きすさぶ外へと身を躍らせる。
「前にも言うたけど、ヒコ。妙ちゃん泣かせたら承知せーへんで?」
 背を見せたまま言って、千夏はドアノブから手を離す。外と中との気温差の為か、風に圧されて閉まるドアはいやに大きな音を響かせた。


 
 
 


 
 

 

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