「………………ん?」
 耳にした言葉があまりに予想外すぎて、月彦は一瞬聞き違いであると思った。
「すまん、真央。もう一度言ってくれないか?」
「あのね、由梨ちゃんとデートしてあげて欲しいの」
「………………。」
 ユリチャントデートシテアゲテホシイノ――確かにそう聞こえた。
(…………俺の耳が変になったのだろうか)
 思えば、この週末はなんだかんだで雪乃相手にハッスルしすぎてしまった。その反動が聴覚の異常という形で現れてもなんら不思議ではないのではないか。
「……父さま?」
「ああ、悪い……真央。どうも体の調子がおかしいみたいだ……少し横にならせてくれ」
 月彦は真央の隣を抜け、二階の自室へと入るなり倒れるようにベッドに横になった。そのベッドの脇に、真央がちょこんと座る。
「父さま、大丈夫?」
「ああ……ちょっと疲れてるだけだ」
 真央の手が、そっと月彦の右手を握りしめてくる。
「それでね、父さま。……さっきの話なんだけど……」
「む?」
「その……由梨ちゃんと……」
「………………。」
 事、ここに至って漸く、月彦は真央の言葉が幻聴ではないのではないかという可能性を考え始めた。
「……あー……真央? その……間違ってたら悪い。…………“由梨ちゃんとデートして欲しい”――そう聞こえたんだが……」
 こくこくと、真央は頷いてみせる。がばっ、と。月彦は瞬時に体を起こすなり、机の引き出しから――こんな時の為にと予め用意しておいた――特大ハリセンですぱぁん!と真央の頭を打ち付けた。
「馬脚を現したな、偽物め――いや、どうせ真狐だろ! 俺をからかおうったってそうはいかんぞ!」
「ううぅ……父さまぁ……痛いよぉ」
 しかし、真央(?)はといえば頭を抑えたまま涙目で月彦の方を見上げてくるばかり。ハッ、と。月彦の手からハリセンが落ちた。
「まさか……本物の、真央か?」
 こくりと、真央は頷く。
「……………………どうして、由梨ちゃんとデートして欲しいんだ?」
「最近……由梨ちゃんあんまり学校にも来なくて、様子が変だから……だから、父さまとデートしたら……元気出してくれるかなぁ、って……」
「……………………!」
 真央の言葉に、月彦は脳天からつま先まで稲妻が走ったような衝撃を受けた。
「うぉぉ…………俺はっ……俺ってやつはぁぁあっ……!」
 純真無垢な愛娘の言葉を疑い、あまつさえその正体さえも疑い、挙げ句手まで上げてしまうなんて――月彦はショックの余り涙すら浮かべながら膝から崩れ落ち、真央の足下へと蹲った。
「と、父さま……?」
「真央……俺が悪かったぁぁ!!」
 そしてがばっ、と顔を上げるなり、真央に飛びつくようにして強く抱きしめた。
(あぁ……まさかこんな日が来るなんて……!)
 もしや夢ではあるまいかと、月彦は不安に苛まれながらも真央を抱きしめ、よしよしとその髪を撫でてやる。
「すまん、真央……俺はまたてっきり真狐あたりが俺を騙そうとしているのかと…………あぁぁぁぁあっ……汚いっ、汚すぎるっ、こんな汚い心を持ってる俺なんか死んでしまえ!!」
 月彦はあまりのショックと、あまりの感動によって混乱状態に陥り、がすがすと絨毯ごしに床に頭を打ち付けながら真央への謝罪を繰り返す。
「と、父さま……大丈夫?」
 そんな父親の狂騒にちょっと引き気味の真央に声をかけられた瞬間、月彦は漸くにして“混乱”から立ち直った。
「……よぉし、解った! 真央がそう言うのなら、デートだろうが雪中行軍だろうが地獄巡りだろうが何だってやってやる! 俺に任せとけ!」
 そう、あの嫉妬の虫だった真央が親友である由梨子を気遣い、自分からデートをしてあげて欲しいと頼む――前代未聞の珍事ではあるが、それこそ真央が他ならぬ“よい子”への道を歩んでいる何よりの証だと、月彦には思えた。

 

 

 

 

 

『キツネツキ』

第三十七話

 

 

 


 翌朝。
 月彦は真央と共にいつも通りの時間に家を出た。が、その足は重く、隣を歩く真央の足取りはそれに輪をかけて非常に不安定であり、時折支えてやる必要があるほどだった。
(…………すこし、張り切り過ぎたか)
 月彦には、無論心当たりがあった。昨夜、由梨子を気遣う真央に感激し、これはもう“ご褒美”をやらねばと――雪乃宅の帰りであるという事も忘れて――真央の大好きなプレイをフルコースで堪能させてやったのだった。
 結果、真央は八割方魂が抜けたままのような状態になってしまい、月彦もまた歩くのに杖が欲しくなるレベルの体力、精力共に枯渇状態にあった。叶うことならば学校を休み二人そろって静養を取りたいところだったが、そんな事をすればそれこそ棺桶に両足をつっこむような事になりかねない。
(……あと、由梨ちゃんの事も気がかりだし、な)
 本来ならば、それこそ真央から相談を持ちかけられてすぐに電話の一本もするべきだったのだろうが、もろもろの事情から真央への“ご褒美”を優先させてしまった。仕方なく、学校で直に会って話をしてみようと思ってはいるのだが……。
(会えない可能性もあるな)
 真央の話では、最近由梨子は学校にもろくに来ていないらしい。となれば、今日学校で会える可能性は決して高くはないだろう。勿論、その場合どうするかについても、既に真央と打ち合わせ済みだったりするわけなのだが。
「こーら、真央。歩きながら寝るのは危ないぞ」
「ふぁっ……!?」
 歩きながら器用に寝こけて居る真央の肩を時折ぽむと叩いて起こしてやる。
「ほら、真央。もうすぐ学校だ。……由梨ちゃんがきてたら、ちゃんと教えるんだぞ?」
「うん……大丈夫……くぅ……」
 またしてもコックリ、コックリと舟をこぎ始める真央の肩を軽く揺さぶりながら、これは自分で確認をしにいったほうが良さそうだと、月彦は思った。

 どうやら今日もまた由梨子は休みらしいという事を、月彦は自分の目と、真央の言葉で確認した。
(…………しっかし、由梨ちゃん……一体どうしたんだ)
 最後に由梨子と顔を合わせたのは、例の“入れ替わり事件”の際のはずだ。もしやあの時の事が原因なのだろうかと不安に苛まれつつ、月彦は一日千秋の思いで――正確には、極度の疲労の為殆ど居眠りばかりして――放課後を待った。
 
 昨日の打ち合わせ通り、月彦は昇降口前で真央と待ち合わせ、そのまま宮本邸へと向かった。
「…………ところで真央、由梨ちゃんがどうして学校休むようになったのか……何か心当たりはないのか?」
「うーん……由梨ちゃんの様子が変だなぁ、って思い始めたのは、“あの日”のすぐ後からだったけど……」
 朝よりは幾分体調が良さそうな真央はそう言い、首を傾げた。
「…………ってー事は……やっぱり、“アレ”のせいってことか……」
 そんなに由梨子にショックを与えるような事をした覚えは無かったが、そこはそこ。自分たちにとっては大したことではなくとも由梨子にとってはショックだった――という事なのかもしれない。
「ねえ、父さま……私、帰った方がいいかな?」
「ん? 何でだ?」
 真央の唐突の言葉に、月彦は尋ね返さずにはいられなかった。
「だって……由梨ちゃん、二人きりのほうがいいんじゃないかなぁ、って……」
「…………んー……大丈夫だろう。つーか、“あの日の事”が原因なら、真央も一言謝った方がいいぞ」
 由梨子に直接何かをした――というわけではなく、そもそもの原因を作った者として、やはり一言謝るべきだと、月彦は真央を諭した。
 が。
「うーん……」
 真央はどこか腑に落ちない様子でしきりに首を傾げていた。

 程なく宮本邸の玄関口へと到着し、早速インターホンを押そうとした――まさにその時だった。
「ひゃあああっ!!」
 突然真央がそんな素っ頓狂な声を上げてしがみついてきて、月彦は危うく転びそうになってしまった。
「っとと、真央、一体どうしたんだ」
「い、いぬっ……父さま、犬が居るぅ!」
「犬?」
 はてな、と真央が指さした方に目をやると、宮本邸の塀の内側にそっと隠れるように犬小屋らしきものが置かれていた。そこから恐る恐るといった具合に顔半分覗かせているのは、確かに紛れもない犬の様だった。
「へぇ……由梨ちゃんち、犬を飼いだしたのか」
 月彦はしゃがみ、手をちろちろと動かしておいでおいでと誘ってみるが、よほど用心深い犬なのか小屋から出てくるどころかむしろ顔を引っ込めてしまった。
「ん、この犬は……ひょっとして……コーギーってやつか」
 いつだったか、妙子への土産にと買った犬のキーホルダーにそっくりだと、月彦は気がついた。ちょっと触ってみようと、さらに犬小屋の方へと手を伸ばすが、真央に服を引っ張られて止められた。
「父さま、ダメ! 噛まれちゃうよ!」
「大丈夫だって。……なんだ、真央は犬が苦手なのか?」
 愛娘の意外な一面に苦笑しながら月彦は腰を上げ、改めて玄関前に立つとインターホンを押した。
 が、いつまで待っても返事が無く、やむなくもう一度押す――が、やはり反応がない。
「……留守なのかな。真央、携帯は?」
 月彦にしがみついたまま、うーっ、と唸るような声を上げている真央の頬をちょんちょんとつついて“正気”に戻す。
「真央、ちょっと由梨ちゃんの携帯にかけてみてくれないか?」
 言われるままに、真央はスカートのポケットから携帯を取りだし、由梨子の番号に呼び出しをかけてみる。
 ――が。
「電源が入ってないか、電波の届かない場所に〜……だって」
「まさか……また入院…………真央?」
 ふと気がつくと、真央は携帯をしまうなり、玄関のドアに張り付くようにして聞き耳を立てていた。
「…………留守じゃないよ。由梨ちゃんの気配がする」
「……解るのか?」
 うん、と真央は頷きながらドアから二歩ほど遠ざかると、背をそらすようにして大きく息を吸い込んだ。
「ゆーーーーーーーーーーーーーーーりーーーーーーーーーーちゃーーーーーーん! あーーーーーーけーーーーてーーーーーー!」
 そして、肺に限界まで息を蓄えるや、思わず耳を押さえてしまうほどの大音量で叫んだ。
 “変化”は、約二分後に起きた。
「おっ」
「あっ」
 かちゃりと音がして、ドアノブが回った。
「先輩……それに、真央さん」
 ドアの隙間から見えた由梨子の顔は、静かな微笑を浮かべていた。



「……どうぞ、上がって下さい」
 まるで生命というものを感じさせない――作りものの人形が出すような声の由梨子に誘われて、月彦と真央は家の中へと上がった。そのまま階段を上がり、由梨子の部屋へと案内される。
 恐らくは、部屋で寝ていたのか、由梨子の姿は寝間着そのものだった。さらに今し方這い出たばかり、と言わんばかりのベッドの掛け布団が、さらにその推測を確かなものにした。
「あっ、そうだ……何か飲み物を――」
「ああ、いや、いいよ。由梨ちゃん具合悪いんだろ? 寝てなって」
 月彦と真央を部屋へと案内するなり、再び階下へと降りようとする由梨子を引き留め、月彦は半ば強引にベッドへと座らせた。
「でも……」
「いいから、ほら、横になって」
 そしてそのまま横にならせ、掛け布団をかける。由梨子は逆らわず、ただただ困ったような笑みを浮かべていた。
「由梨ちゃん……具合悪いの?」
「そう、ですね……良くは、ないです」
「ごめん、そんな体なのに、無理に呼んじゃって…………なんか携帯の連絡も取れないみたいだから、ちょっと心配だったんだ」
「ああ……すみません……多分、携帯はただの充電切れで……」
 由梨子はもぞもぞとベッドの枕元を探し、電池切れを起こしている携帯を見つけると同じく枕元のコンセントに繋がっている充電器へと接続した。
「あっ、そーだ! 由梨ちゃん、これ休んでる間に溜まってたプリントだよ」
「……わざわざすみません、真央さん」
 真央が鞄から出したプリントの束を由梨子はすまなそうに受け取り、一つ一つに目を通していく。
「あー……由梨ちゃん。プリント、机の上に置こうか?」
「……すみません、お願いします」
 ベッドに横になったままでは、プリントも邪魔だろうと思い、月彦は由梨子から受け取るなりその束を勉強机の上へと移した。
「……えーと……ごめん、こんな言い方はアレなんだけど…………由梨ちゃんが本当に具合悪いみたいで、ちょっとだけ安心したよ。……学校休んでるのは、ひょっとしてこないだの事が原因なんじゃないかって思ってたからさ」
「こないだの……事?」
「ほら……由梨ちゃんと真央が入れ替わった時……ちょっと悪のりしていろいろやっちまったからさ…………真央が、あの日の後から由梨ちゃんの様子がおかしくなったって言ってたし……」
「ああ……」
 くすりと、由梨子は苦笑する。
「それは違います。全く関係ありませんから、安心して下さい」
「そっか……それなら良かった。……もしかして、風邪……とか?」
「風邪じゃ……ないと思います。……時々、微熱は出ますけど……」
 由梨子の言い方はなんとも曖昧だった。まるで、由梨子自身自分の病状を理解していないかのように、月彦には感じられた。
「……学校も、無理すれば行けない事はないんです。……だけど……」
「だけど……?」
「…………。」
 由梨子からの返事は無かった。ただ、掛け布団の上に置いた手でぎゅっと、布団を握りしめる。
「……………………あっ、そういえば、義母さまにおつかい頼まれてたんだ! 父さま私先に帰るね!」
 数分の沈黙を破ったのは、真央のそんな一言だった。
「えっ、真央……おつかいって……」
「じゃあね、由梨ちゃん! 明日は学校来てね!」
 真央は早口に言い残すと、殆ど逃げるような足取りで部屋から出て行ってしまった。気を利かせたのだと、月彦にはすぐに解った。
「…………なんだか、真央さん……変わりましたね」
「そう……だな……。まあでも、良い兆候だから俺としては……」
 確実に“良い子”への階段を上りつつある愛娘に、月彦は感無量といった感じで頷く――が。
「……良い兆候、でしょうか」
 由梨子の不安げな言葉が、月彦の胸中に一筋の影を落とした。
「……真央さん、無理してるんじゃないでしょうか」
「えっ……? 由梨ちゃん、それってどういう……」
「……すみません。何でもないんです。忘れて下さい」
 由梨子は誤魔化すように微笑む。
「……私って、いつもそうなんです。言わなくてもいい事を口にしちゃって……そのせいで周りの人に……」
「……由梨ちゃん?」
「…………ごめんなさい」
 ぎゅうっ、と。布団の端を握りしめたまま、由梨子は俯くようにしてそんな言葉を口にした。月彦には、それは自分ではなく誰か他の人物に対しての言葉のように聞こえた。
「………………そ、そーだ! そういや、玄関の脇に犬小屋があったんだけど、由梨ちゃんちって犬飼い始めたんだね」
 “場”の重苦しさに耐えられず、咄嗟に月彦は話題を切り替えた。
「俺、猫は飼った事あるんだけど、犬はなくてさ。……どう、散歩とか大変じゃないの?」
「…………わかりません」
 少しでも場を明るくしようと、極力明るい声で問いかけてみた――が、由梨子からの返事はそんな月彦の努力を無にするようななんとも重い声だった。
「……そ、そっか……そういやそうだよな! 具合悪くて学校休んでるのに、散歩なんか行けないよな! ごめん、気が利かなくって」
「いえ……そんな……先輩が謝るような事じゃないです」
 由梨子の掠れるような声に、月彦はさらに室内の重力が増すのを感じた。
「あ、アレってさ……確か、コーギーっていうんだよな! 可愛いよな!」
「……そうですね。私もそう思います」
「…………。」
「…………。」
 室内に、沈黙が流れる。ズン、と。また重力が増したようだった。
(…………か、会話が続かねぇ!)
 はて、由梨子はこんなにも暗い子だっただろうかと、月彦は首を捻りたくなった。或いは偽物ではないかと疑いそうになりながらも、月彦は懸命にその“原因”を探った。
(…………ひょっとして、実は…………やっぱり“アレ”が効いてるんじゃ)
 由梨子は関係ない、と言ったが、その実由梨子の心に修復不能の傷を負わせてしまったのではないかと。
(違う……と、思いたい……けど……)
 あの時はあの時で、“体は真央のだから”と、いろいろと無茶な事をやってしまった手前、さもありなんと思えなくもなかったりするのだった。
(………………でも、だからって具合まで悪くなったりするか?)
 “悪ノリ”が過ぎて、自分や真央が嫌われるというのならば話は分かる。が、しかしそのせいで体調まで悪くなるという事があるだろうか。ましてや、“悪ノリ”をされたのは実際には真央の体であり、由梨子の体ではないのだ。考えれば考えるほどに、体調を崩す事などありえないように思える。
(……いや、待てよ。ひょっとしたらその前に――)
 原因はさらにその前――真央が由梨子の体に入っていた事に関係しているのではないだろうか。半妖である真央がその体に宿る事で、由梨子の身に何か悪影響が――。
(……いや、それならそれであのバカが何かしら言ってくるんじゃないのか)
 鼻持ちならない女だが、“そういう事”にかけてはそこそこ信用できるという事を月彦は知っていた。真狐が何も言ってこない以上、由梨子の体調不良は少なくとも真央がらみではないという事ではないのではないか。
(…………うーん……)
 月彦は悩んだ。悩んだ末、どうしても解が見つからず、最後の手段とばかりに口を開いた。
「……あのさ、由梨ちゃん」
「はい」
「……何があったの?」
 そう、本人に尋ねるのが最も単純で手っ取り早い方法であると、無論月彦には解っていた。解っていたのに実行に移さなかったのは――。
「……何も、と言っても……先輩は納得してくれませんよね。……だけど……ごめんなさい。言えないんです」
 そう言われるのではないかと、薄々感じていたからだった。
「……そっか。由梨ちゃんがそう言う以上は、本当に言えない事なんだろうし、無理には聞かないよ。だけど、相談とかならいくらでも聞くからさ」
「はい……その時は、お願いします」
 由梨子は、力無く笑う。その微笑で、月彦は自分の言葉が今の由梨子にとって何の救いにもなっていないという事を思い知った。
「………………よし、決めた! 由梨ちゃん、今度の休み、デートしよう!」
「えっ……?」
「大丈夫、真央の許可はもう取ってるんだ。今度の土曜、二人だけでどこか遊びに行こう!」
「……誘ってくれるのは、すごく嬉しいです。……でも――」
「だから、由梨ちゃんは週末までに頑張って体を治すんだ。雨天決行、朝の九時に迎えに行くから!」
 少々強引か――と思うも、月彦はあえてそのまま突っ走る事にした。由梨子の身に何があったのかは知らないが、少なくとも月彦には“病は気から”の典型のように見えた。ならばその“気”を、少しでも病気を治したいという方に向けてやれば――。
「……先輩、私なんかより、真央さんの方を――」
「ダメだ、由梨ちゃんがなんて言っても、これはもう決定事項だ。土曜日、例え大雪だろうが嵐だろうが、俺は由梨ちゃんを迎えに来るから!」
 拒絶は許さない、とばかりに月彦は立ち上がり、そのまま由梨子の部屋を後にした。階段を下り、玄関から出たところで――。
「あっ」
 と、月彦は思わぬ人物とばったり遭遇した。玄関前でやや前屈み、両手を両膝のうえに突くようにして呼吸を整えていたのは――
「……紺崎さん」
「武士くんか。ひさしぶ――」
「すみません。まだ走り込みの途中なんで、失礼します」
 月彦がしゃべり終わるのを待たずに、武士は体を起こすと勢いよく駆け出していってしまう。
「あっ、ちょっと――…………行っちまった」
 急速に遠ざかっていく武士の背を眺めながら、月彦は一瞬追いかけようかと思って、結局断念したる
(……由梨ちゃんの事が聞けたら、って思ったが)
 ひょっとしたら、部活の試合でも近いのかもしれない。むやみに邪魔をするのも武士に悪いだろうと、月彦は大人しく帰路についた。


 



 週末、土曜日の朝。月彦は前言通りに宮本邸へと赴いた。いつになく気分が晴れやかであったのは言うまでもない、“真央公認”――この四文字のおかげだった。
(今日だけは後ろめたく思ったり、ビクビクしたりしなくていいんだ……!)
 なんと言っても、あの真央が自ら由梨子とデートをしてあげて欲しいと頼んできたのだから。
(……ここは一つ、由梨ちゃんにもしっかり楽しんで貰わないとな)
 月彦にとって朗報だったのは、先日宮本邸を尋ねて以降、由梨子がきちんと学校に来ているという事だった。自分たちの訪問が、少なくとも何もしないよりは役に立ったのだという思いが、月彦の心をいっそう晴れやかなものにしていた。
 うずうずと両足がスキップを始めてしまいそうになるのを我慢しつつ月彦は早足で宮本邸の前までたどり着き、インターホンを押した。程なく、ちょっとだけおめかしをした由梨子が控えめに玄関のドアを開けた。
「やっ、由梨ちゃん。おはよう」
「……おはようございます」
 まだちょっと暗いかな?――と月彦はちらりと思った。
「んじゃ、早速行こうか」
 が、それはデートの終わりまでに解決されればいいやと、殆ど由梨子の腕を引くような形で月彦は殆ど由梨子の腕を引くような形で宮本邸を後にした。
 
 今日この日のデートをどういうものにするのか、月彦はいつになく真剣に悩んだ。普段であればそれこそまずは二人で映画でも見て、ゲームセンターなどで少し遊び、昼食のあと駅前をブラつきながら目に止まった店に入って簡単な買い物を楽しむような、ごくごく普通のデートで良かったかもしれない。
 しかし、今日は違う。なにがしかの理由で落ち込んでしまっている由梨子を励まさねばならないのだから。
(となれば――)
 そういった普通のデートよりも、いっそ体を動かすようなデートの方が良いのではないかと月彦は判断した。それも、ボーリングのように屋内でやるものよりも、屋外で気分よく汗を流すようなものの方が望ましい。
 そういった経緯から、デートの行き先は電車で二駅ほど離れた場所にある運動公園に決め、既に前日のうちに由梨子にその旨を伝えてあった。が、しかしその本当の狙いについては、月彦はギリギリまで伏せるつもりだった。
 恐らく由梨子は普通に散歩をしたり、公園内で乗れるボートで遊弋をしたりというようなデートを想像しているに違いない。春先や秋口であれば、そういったデートも悪くはないと月彦は思う。だが、今は真冬だ。常人よりも遙かに寒さに弱いであろう由梨子を寒風吹きすさぶ中連れ回したり、風を遮るものなど何もない湖上のボートの上で凍えさせたりするのは少なくともあまり良いデートには思えなかった。
 何よりそれでは、気晴らしになるとは思えない。もっとこう、由梨子が夢中になれる形で、それでいて何もかも忘れて楽しく汗を流せるような、そんなスポーツが望ましかった。
 そして、月彦は一つだけ――それに心当たりがあった。

「知ってる? ここ、テニスコートが借りられるんだ」
「テニス……」
 由梨子の表情が俄に曇った事に、月彦は気がつかなかった。
「ほら、由梨ちゃんって元々テニス部入ってたんだろ? 良かったらちょっと教えてもらえないかなって思ってさ」
「…………そんな……すぐ、辞めちゃいましたし…………人に……教えられるほど、上手じゃ、ないですから……」
「でも、前に言ってたろ? テニスは中学の頃もやってたって。俺なんか簡単なルールくらいしか知らないから相手にもならないかもしれないけどさ、前々から一度はやってみたいって思ってたんだ」
 前々からやってみたいと思っていた――というのは無論方便ではあったが、それでも由梨子が元気を出してくれるのなら構わないと月彦は思っていた。
「………………はい……分かり、ました」
 まるで、堅くて苦い固まりでも飲み込むような顔で、由梨子が小さな声で呟く。
(……あれ?)
 事ここに至って漸く、月彦も何か変だなと感じ始めていた。無論、テニスを教えてくれと言った途端、由梨子が満面の笑みで、それこそ子犬が尻尾を振るような激しさで元気を出してくれるとは思ってはいなかったが、由梨子の様子を見るに明らかに家を出たときよりも元気が無くなったように見える。
「……えーと……もし、由梨ちゃんがやりたくないなら、別に無理にやらなくてもいいんだけど……」
 そんなあからさまな由梨子の変化に戸惑い、月彦もつい後退りをしてしまう。
「……いえ、いいんです。……私に出来る事で、先輩が喜んでくれるなら……」
「そ、そっか……んじゃ、とにかくテニスコートの方に行こうか」
 いろんな意味で雲行きが怪しくなるのを感じながらも、月彦は己の計画の成功を信じて闇雲に突き進むしかなかった。


 
 


 この作戦は大失敗だったかもしれないと思い始めたのは、由梨子とネットを挟んで対峙して一時間ほど経った頃だった。
 最初こそ全くのチンプンカンプンであった月彦だったが、由梨子の手ほどきを受け、徐々にそれらしい動きが出来るようになり始めた。コートやネットなどの機材などは借りられたとはいえ、審判まで借りるというわけにはいかず、それこそテニスというよりはただのラリーに近いような代物だったのだが――。
「あっ……」
 月彦が徐々に球を返せるようになるにつれて、目に見えて由梨子のミスが増え始めたのだ。必然、後逸した球を由梨子が拾って戻ってくるまでは月彦はただ待つしか無く、それでいて戻ってきた由梨子がサーブをし、月彦がそれを返し、また由梨子が後逸――というような事が何度も続けば、さすがにこれは失敗だと月彦も認めざるを得なかった。
「ゆ、由梨ちゃん……ちょっと休憩挟もうか?」
 月彦の提案に、由梨子は肩を弾ませながらもためらいがちに頷いた。息が上がっているのは、何度も何度も後逸した球を拾いに走ったからだった。
「ちょっと飲み物でも買ってくるよ、由梨ちゃんはそこで待ってて」
 はい、と。由梨子は風の音にすらかき消されそうな小さな声で返事を返して、コート脇のベンチに腰を下ろす。やはりいつもと違う――と月彦は思う。普段の由梨子ならば、たとえどれほど息が上がっていようと、自分も一緒に行くと言いそうなものだからだ。
「…………参ったなぁ、絶対巧く行くと思ったのに」
 自販機でスポーツドリンクを購入しながら、月彦はつい肩を落としてしまった。実のところ、今日のこの作戦は真央と二人で考え、これならきっと由梨子も元気を取り戻してくれると確信していただけに、二重のショックだった。
「ん……?」
 二人分のスポーツドリンクを買い終え、おつりを回収しようと伸ばした手の甲にぽつりと。不意に雫が当たった。月彦は反射的に空を見上げる。
「マジかよ……今日は一日晴れってなってただろ!?」
 週末には絶対に雨はふらないと天気予報が告げていたからこその運動公園デートであったというのに――月彦はやり場のない憤りを感じながらも、慌ててテニスコートの方へと駆け戻った。
「……! 由梨ちゃん!」
 雨は瞬く間に土砂降りの様相を呈し、他のコートのプレイヤー達が軒並み屋内へと避難する中、ただ一人ベンチに鎮座している由梨子の姿を見るなり、月彦はつい声を上げてしまった。
「あっ……先輩……早かったですね」
「早かった……って……いいから、こっちに!」
 月彦は由梨子の手を引き、大急ぎでコート脇の公用更衣室の庇の下へと由梨子を連れ込んだ。幸か不幸か、テニスで汗をかいた時用にと持ってきたスポーツタオルですっかり濡れそぼってしまった由梨子の髪をやさしく拭う。
「あぁ……」
 髪についた雫を拭われながら。
「雨……降ってたんですね」
 まるで、今気がついたと言わんばかりの由梨子の言葉に、髪を拭く月彦の手が止まった。
「由梨ちゃん……」
 事の深刻さが、漸く月彦にも理解できた瞬間だった。



 雨が小降りになるのを待ってから、月彦は由梨子と共に運動公園側のファミレスへと移動した。丁度昼食時だったというのがまず理由の一つ。冷たい雨に打たれたせいで思いの外由梨子が凍えてしまっていたから、暖を取りたかったというのが理由のその2。そして三つ目は――落ち着いて話せる場所に移動したかったからだった。
 月彦は席に着くなり、ホットココアを二つ注文した。注文の際にも、そしてそれらが店員の手によって運ばれてくるまでの間も、由梨子は口を開かず、まるで石にでもなってしまったかのように俯いたままだった。
 月彦もあえて口を開かなかった。可能ならばそれこそ寄り添い、抱きしめるようにして体温を分けてやりたかったが、さすがに衆目の中ではそうもいかない。それにそこまでせずとも、きちんと暖房の効いた店内であれば少なくとも凍えるような思いだけはさせずに済む筈だった。
 やがて注文した飲み物が到着し、月彦は半ば無理矢理に由梨子に勧め、口に含ませた。やはり体は暖を欲していたのだろう、最初の渋り方とは裏腹に、一度口をつけてからココアを飲み干すまでにそう時間はかからなかった。
「…………由梨ちゃん、今度こそ聞かせてほしい」
 由梨子の体が温まったであろう頃合いを見計らって、月彦は切りだした。
「……一体何があったの?」
 由梨子の表情がさらに曇る――が、月彦としても引くわけにはいかなかった。いくらなんでも今日の由梨子の様子は尋常ではない。よほどの事があったのだろうという事はいかな月彦でも分かるというものだった。
「……ここじゃあ話せないことなら、どこか二人きりになれる場所とかに移動してからでもいいけど」
 休日の昼食時という事もあり、店内は席も殆ど埋まり、ほどよい喧噪に包まれていた。内緒話の一つや二つしたところで、誰に聞かれるという事もないだろう。
 が、しかし由梨子もそう思うかどうかは話は別だ。
「……どうしても、言わないとダメですか?」
 テーブルの端を見るような――そんな伏せ目がちに、由梨子が呟く。
「どうしても、聞きたい」
「…………私、先輩には…………先輩にだけは、嫌われたくないんです。だから……言えません」
「……どういうこと?」
 まさか、由梨子の心を苛んでいるものに自分も関わっているのだろうか――月彦は肝が冷えるような思いと共に、必死に記憶を振り返った。
 心当たりは…………いくらでもあった。
「お、俺なら……大丈夫だから、さ…………どんな事言われたって、由梨ちゃんの事絶対嫌いになんかならないから」
 引きつるような声になってしまったのは、『もしかしてあのコトか?』『それともアレかな?』と様々な思案が頭の中で回っていたからだったが、幸い由梨子はそんなコトにはまったく気がつかないらしかった。
「…………先輩」
「うん?」
「先輩は…………お姉さん…………霧亜先輩のこと、嫌い……ですか?」
「姉ちゃんのコト……?」
 予想だにしなかった由梨子の質問に、月彦は一瞬頭の中が真っ白になった。
 そしてすぐに――。
(まさか、姉ちゃんが由梨ちゃんになにかしたのか……?)
 そんな危惧を抱いた。
「…………違います。今回の事に霧亜先輩は全く関係ないです」
 月彦の胸中を見透かすように、由梨子は微笑み、そっとそんな言葉を口にした。
「そ、そうか……それなら、良かった………………姉ちゃんの事は…………うーん………………怖いところもあるけど、それってようは俺がダメな弟だから厳しくしてくれてる部分もあるんだろうし……うーーーーーん…………普通よりちょこっとだけ好き、かなぁ……」
 一応、恋愛感情とかそういうものではなく、あくまでいち家族として。と月彦は付け加えた。
 由梨子は、再度微笑を漏らす。
「じゃあ、霧亜先輩が先輩にとって大事な人……たとえば、真央さんを悪し様に罵ったら……どう思いますか?」
「どうって……そりゃあ怒ると思うよ。いくら姉ちゃんだからって、事と場合によっちゃ……殴ってでも真央を守る!」
 月彦としては、その“守る対象”には由梨子も含まれているということを付け加えたかったが、さすがに面と向かっては照れくさかった。
「罵った挙げ句、土下座させて、土足で踏みつけたらどうします?」
「…………姉ちゃんならやりかねない……けど、さすがに真央にそんな事は…………ま、まぁ仮定の話だもんな。もちろん真央にそんな事をしたら、絶対に許さない。力ずくでも止めさせて、謝らせる」
 一体何が気に障ったのだろうか。由梨子が僅かに表情を曇らせる。
「ただ、姉ちゃんが理由も無しにそんな事をする筈がないから、きちんと理由を問いただす。………………まぁ、俺が聞いたからって、姉ちゃんが本音を言ってくれるとは限らないんだけどな」
「先輩は優しいんですね。…………じゃあ、もう一つ聞かせて下さい」
 由梨子は少しだけ息を溜めるように唇を閉じ、そして“問い”を口にした。
「先輩にとって、絶対に相容れない――絶対に許すことができない、顔を見るのも、口を利くのも、同じ部屋の空気を吸うのも嫌な相手は居ますか?」
「いる」
 月彦は即答した。考えるまでもなく、一人の女の顔が頭に浮かんだからだ。……さらに言うなら、続けて浮かびそうになった“二人”の顔については、月彦はあえて無視した。
「じゃあ……もし、その人と霧亜先輩がつきあい始めたら、どうしますか?」
「……なぬっ」
 またしても予期しなかった質問に、月彦の頭は真っ白になった。
(姉ちゃんと……真狐が……つきあう?)
 なんだそのカタストロフな状況は。
(あの二人が腕とか組んだりして……にこにこ笑いながらデート……)
 想像するなり、月彦はどうにも許容しがたい不快感を覚えて、吐き気すら覚えた。それは、言うなれば決して混ぜてはいけない液体同士を混ぜ合わせるような、そんな禁断のカップリングのように月彦には思えた。
「………………いろんな意味で耐えられないな」
 そう、あの二人が仲むつまじくイチャイチャしている様をみせられるくらいなら、まだ体毛もじゃもじゃのムサいオッサン同士のカラミを見せられるほうが不快感が少ないのではないかとすら月彦には思えた。
「……二人を、祝福してあげられますか?」
「うーん……絶対無理。……っていうか正直、想像しただけで吐きそうなくらい気持ち悪い」
「……そうですか」
 由梨子は、再度微笑んだ。
「想像しただけでそんなに気持ち悪いなら、実際にそうなったら……大変な事になっちゃいますね」
「由梨ちゃん……?」
「……変な話ばかりしてしまってすみません。………………今日は、もう帰りますね。……ごめんなさい」
 由梨子は財布を取り出し、月彦が止める間もなくココア代を置いて席を立ってしまう。後を追おうと思えば追えた――が、月彦はあえて追わなかった。
「…………成る程、そういう事だったのか」
 話をするべき相手は由梨子ではなく、武士の方であると分かったからだった。



 通り雨のようなものだったのだろうか。ファミレスを出ると、雨は既に上がっていた。しかし空は相変わらず雲に覆われたままで、晴れ間一つ見つけることが出来なかった。
 一歩、二歩、三歩――ファミレスの出入り口から数歩歩いた所で、由梨子は不意に背後を振り返ってしまった。ひょっとしたら、月彦が追って来ているのではないかと、僅かばかり抱いた期待はすぐに裏切られた。
 僅かな落胆と――その何倍もの自己嫌悪に由梨子の心は苛まれる。自分から場を中座して逃げ出しておいて、相手が追ってきてくれなかったからといって落胆してしまう――己のそんな我が儘な心に心底嫌気が差す。
(……先輩、ごめんなさい)
 由梨子には、月彦が一体どういう気持ちで今日のデートを企画してくれたのか、痛いほどに分かっていた。なにがしかの理由によって意気消沈してしまっている後輩を励まそうと、あの不器用な先輩がどれほど真剣に悩み考えてくれたのか、想像するだけで胸が痛んで涙がにじんでくる。
 テニスをしよう等と急に言い出したのも、汗を流して気晴らしをさせてあげたいという月彦の思いやりに違いない。――それは痛いほどに分かる。或いは、月彦が選んだスポーツがテニスでさえなければ、月彦の目的通り気晴らしが出来たのかもしれない。
(…………テニスだけは、ダメなんです)
 ある意味では、そもそもの発端とも言えるものだ。“あの女”との関係を持つに至ったのも、テニス部の先輩と後輩として知り合ったが為だ。
(……でも、先輩はそんな事知りませんよね)
 無論、月彦に悪意などひとかけらもない事くらい、由梨子にも分かっている。分かっていても、実際にラケットを握り、ネットを挟んで対峙するとどうしても“あの女”との馴れ初めを思い出してしまって全くゲームに集中出来なかった。
 当然そんな事を月彦に説明できるわけもない。由梨子にとって、佐々木円香との事はタブーそのものだ。あの女とした事も、された事も何一つ、月彦の耳には入れたくなかった。
 だから、“言えない”のだ。今回の件に関して月彦に説明をするという事は、宮本由梨子という――あどけない後輩の仮面を被った汚く醜い女の本性をさらけ出すという事に等しい。そしてそれは、由梨子にはとても耐えられるものではなかった。
 かろうじて口にできたのは、謎かけめいたたとえ話だけ。しかし恐らくはそれで月彦には何があったのか大凡には伝わっただろう。出来ればそれで今回の件からは引いて欲しいと由梨子は思っていた。そう、そしてそのまま何事も無かったように、楽しく笑いながら話が出来るようになれば――。

 愚にもつかない思考や、極めて自分勝手な希望的観測などをうだうだと抱きながら由梨子は歩き続け、気がつくと全く見知らぬ住宅街へと迷い込んでしまっていた。家に帰るにはまず駅に行き電車に乗らねばならないというのに、一体自分は何処に行くつもりだったのだろうと、由梨子はまたしても自嘲の笑みを浮かべてしまう。
 踵を返して、由梨子は朧気な記憶と地理を頼りに駅へと向かう。が、殆ど初めて訪れるような土地では、その土地勘もどれほどアテになるか由梨子自身分からなかった。だったら辺りを歩いている人を捕まえて駅への道を尋ねればよさそうなものだが、不思議とその気が起きなかった。むしろ、肌を刺すような寒さの中アテもなく歩き続ける事が、月彦の思いやりを袖にした自分への相応しい罰のようにも思えて、またしても自嘲の笑みを浮かべながら歩き続けて――はたと、由梨子は足を止めた。
「…………あれは……」
 それは運動公園とは別の――いわゆる住宅街のただ中に作られた“普通の公園”だった。砂場があり、滑り台があり、ブランコがあり、ジャングルジムがある。雨上がりでさえなければ、それらの遊具で無邪気に遊ぶ幼児達とその母親達の井戸端会議をする様が目に浮かぶような――そんな場所に、ぽつんと。一人の男が屋根つきのベンチに腰掛けていた。
、男の姿に由梨子は不思議な引力を感じて、無意識のうちに公園内へと足を踏み入れた。
 ひょっとしたら、人違いかも知れない――そんな危惧は、近づくにつれて消え失せた。和装の、女の目から見ても羨みたくなるほどの美丈夫。その人ならざる容姿を見違える筈がなかった。
(……真央さんの……お兄さん)
 真田白耀――たしかそんな名だった筈だ。由梨子はほんの数歩の所まで歩み寄って、そこで足を止めた。由梨子自身、何故そんな距離まで近づいてしまったのか、自分でも分からなかった。
(……そんなに、親しいわけでもないのに)
 顔を合わせた事はあるし、話もした事はある。顔見知りではあるが、たとえば街で出会ったからといって挨拶以上の事をするような関係でもないと、少なくとも由梨子は思っていた。
 ましてや、こんな――思い詰めたような顔をしている時にかける言葉など、在るはずがないと。
「あの……」
 そう、声をかけるような関係ではないと思っているのに――気がついたときには由梨子は声を出してしまっていた。ハッとするように白耀が顔を上げる。その表情に最初に現れたのは困惑だった。
「貴方は……確か、真央さんの……」
「宮本、由梨子です」
「そうでした、由梨子さん…………前に屋敷でお会いしましたね」
 白耀は微笑み、そっと体をずらして腰掛けていたベンチに由梨子が座るスペースを作った。由梨子は少し迷い、結局は白耀の隣に腰掛けた。
「奇遇ですね、こんな所でお会いするなんて。……お住いは確か、月彦さんの家の近くでしたよね?」
「はい。……今日は、ちょっと……出かけた帰りなんです」
 何故だか、デートという単語を使う事に由梨子は抵抗を感じた。白耀が「僕もです」と微笑を漏らす。
「帰ろうとした矢先に雨に降られて……雨宿りをしていた所だったんです」
 成る程、と頷きかけて、すぐに由梨子は疑問を覚えた。確かに雨は降った――しかしそれは遙か前に止んだ筈だ。少なくとも、由梨子がファミレスを出てからこの公園へとたどり着くまでに、傘の必要性を感じた事は一度も無かった。
 ならば一体、白耀は雨が止んで尚どうして腰を上げなかったのだろう。
「………………。」
 疑問には思うが、それを尋ねられるほど親しくもないというのが、由梨子が白耀に感じる距離感だった。眼前の男性とは、親友の兄という立場以上に種族という隔たりがあるという事を、由梨子は知っていた。
「……成る程、月彦さんが仰った通りです」
「……?」
 白耀の不意の呟きに、由梨子はつい首を傾げてしまった。
「由梨子さんの側に居ると、不思議と心が安らぎます。…………女性が苦手なこの僕ですらそう感じるんですから、きっと他の方にはそれ以上に感じるのでしょうね」
「あっ……」
 と、由梨子は咄嗟に腰を上げかけて、白耀が掌を差し出すようにしてそれを制した。
(そういえば……この人は……)
 女性が苦手なのだという事をすっかり失念していた。毎度の事ながら、由梨子は己の思慮の足り無さが嫌になる。
「……すみません」
「謝らないで下さい。今言った通り、由梨子さんが隣に座ったからといって何一つ困る事なんか無いんですから」
「…………。」
 白耀はそう言うが、由梨子は肩を竦ませるようにして体を萎縮させる。本当に、どうして自分は声なんてかけてしまったのだろうと、例えようもない居心地の悪さを由梨子は感じていた。
「……あの、由梨子さん」
 白耀のその言葉は、たっぷり五分ほどの沈黙の後に発せられた。
「……ここで貴方に会ったのも何かの縁だと、僕は考えます。……もし良かったら、その……少し、相談に乗って頂けないでしょうか」
「相談……ですか?」
 はい、と。頷く白耀の顔は名の通り蒼白で、まるで死人の肌の色の様だった。
「それも、出来れば内密に。真央さんにも……誰にも話さずに、由梨子さんの胸の内にだけ留めると約束して頂けませんか」
「…………はい。分かりました……私なんかで良ければ…………誰にも言いません」
 お願いします、と白耀は呻くように言い、しばらく沈黙した。恐らくは頭の中で必死に言葉を選んでいるのだろうと由梨子は推測する。
(大丈夫、かな……)
 白耀の真剣な顔にNOとは言えず、つい引き受けてしまったが、真剣だからこそ断るべきではなかったのかと、由梨子は早くも後悔をし始めていた。
 しかし、そんな由梨子の思惑とは関係なく、白耀はゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「…………たとえば……とある女性がとある男性の家に泊まった時をきっかけに、普段の態度が余所余所しくなったり、時折物憂げに空を見上げたりするのは……別に気に病むような事じゃないんでしょうか」
「…………? すみません、意味がよく……」
「あっ……そ、そうですよね。……すみません、僕自身、一体どう言えばいいのかわからなくて…………質問を変えます」
 よほどこの手の話には不慣れらしいと見てとれる程に白耀は狼狽し、あたふたと無意味に手を動かした後、コホンと態とらしく咳払いをする。
「……同居している女性が、住まいを別にしたいと言い出すのは……他の男性の事が好きになったからだと思った方がいいんでしょうか?」
 ああ、と。由梨子は事ここに至って漸く白耀の言う“とある女性”というのが誰の事なのかを理解した。ハッキリと聞かされたわけではないが――恐らくは白耀が月彦から由梨子の話を聞いたのと同じ程度には――月彦から、この奥ゆかしい主とその従者の焦れったい恋仲の話を耳にしていた。
 だから。
「……そんな事はないと思います」
 由梨子は白耀を安心させる為にも、笑顔すら見せながら断言した。
「好きだから、少し距離を置きたい……そういう時もあると思います」
「……そう、なのですか?」
 白耀の目に、希望の光が宿るのが、由梨子にもハッキリと分かった。
「もちろん嫌いになってしまったから、距離を取りたいっていう場合もあると思います。……でも、好きでも……やっぱり距離を置いて、自分を見つめ直す時間が欲しいって思う事もあると思うんです。…………私も、時々、そういう気持ちになりますから」
「……で、では……ひょっとしたら、やっぱり本当に菖蒲は僕に愛想を尽かしたという可能性も……」
「……何か、心当たりがあるんですか? その……菖蒲、さん……という方に嫌われるような事をしたとか……」
「…………心当たりなら、沢山あります。僕は百年以上もの間、ろくに手も握ってやる事が出来なかった情けない男です。その上、つまらない事で腹を立て、挙げ句……っ……菖蒲に愛想を尽かされても仕方がないと、僕自身ですら思っています」
 手を握ってやる事が出来なかったというのは、以前聞いた“女性恐怖症”の為だろう。そういう事情なら仕方がないと由梨子は思う。
(……そして、きっと……“菖蒲さん”も……)
 その事は承知の上で、白耀の側に居たのではないだろうか。勿論、愛しい男性と一つ屋根の下で暮らしているのにろくに触れてももらえない事が辛くない筈はない。
(でも、先輩の話じゃ……)
 白耀自身、そんな己の体質をなんとかしようと努力をしていると由梨子は聞いていた。その成果がの一つが、まさに今の状況ではないのだろうか。一時はそれこそ、女性が目に映る事すらも耐えられない程に悪化した事もあったらしいが、今はこうして殆ど交流のない自分と同じベンチに座る事すら出来るようになっている。
 それほどに努力して、“自分”に触れようとしている男性の事を見限ったりするだろうか?
 ありえない、と由梨子は思う。
「……白耀さん」
「はい……?」
「ええと……すみません。……私なんかが言っても、説得力無いかもしれませんけど…………もっと自分に自信を持って下さい!」
 えっ、と。白耀が呆気にとられたような顔で固まってしまう。
「私の目から見ても、白耀さんはすごく魅力的な男性だと思います。きっと、“菖蒲さん”にはその何倍も魅力的に見えてる筈です。それなのに、他の男性に靡いたりなんて、絶対しないと思います」
「し、しかし……」
 あくまで口ごもりつつ反論しようとする白耀が焦れったく思えて、由梨子は知らず知らずのうちに語気を荒げてしまう。
「白耀さん、もっと自分を……そして菖蒲さんを信じてあげて下さい!」
「……!」
 由梨子の言葉に、白耀は目を見開き、まるで雷にでも打たれたように背筋をピンと伸ばした。
「菖蒲を……信じる……」
 独り言のように、白耀は呟く。そして再びその口から紡ぎ出された言葉は、単なる独り言以上の意味を持っているように、由梨子には聞こえた。
「そう、だ……主である僕が、菖蒲を信じなくてどうするんだ。今までずっと、こんな僕を見限らずに仕えてくれた菖蒲を疑うなんて……僕は……っ……」
 僕は根本から間違っていた――そんな呟きを、白耀は漏らす。
「ありがとうございます、由梨子さん。……危うく、取り返しのつかない間違いを犯す所でした」
「…………不安になる気持ちは私もよく分かりますから。……さっきは偉そうな事を言ってしまって、ごめんなさい」
 由梨子が頭を下げると、白耀は「いいえ」と大きく首を振る。
「妖狐の習性なんでしょうか……少しでも気に掛かる事があると、何でもかんでもすぐに疑ってかかってしまって……そんな筈はない、そんな筈はないって思っていてもどうしてもその考えが頭から離れなくて…………でも、由梨子さんのおかげでようやく吹っ切れました」
 がしっ、と。いきなり白耀に手を握られ、由梨子は突然の事に顔を真っ赤にしてしまう。
「えっ、えっ……!?」
「僕はもう迷いません、菖蒲を信じて、好きにさせてみます!」
 白耀は微笑み、その体の輪郭が仄かに赤く光ったかと思えば、忽ち霧のように霧散してしまう。白い霧は風に流されるようにして空へと舞い上がり、すぐに由梨子の視界から消えてしまった。
「……白耀、さん」
 人気のない公園に一人残された由梨子は、ベンチに座したまま俄に肩の力を抜いた。ふと、白耀に握られた手を見つめ、少しだけ口元を綻ばせてしまったのは何故なのか、由梨子自身にも分からなかった。
 ただ、公園に入る前にはあれほど鬱々としていた心の黒い霧が少しずつ晴れていくのを感じた。
(…………白耀さん、頑張って下さい)
 人に言うだけではダメだ、自分も頑張らなければ、元気を出さなければ――そんな事を思いながら、由梨子もまた公園を後にした。



 
 雪乃の場合もそうだったが、人を待ち伏せするというのは、自分には合わないなと、月彦はつくづく思った。ましてやそれが男を待つ為となると尚更だった。
 由梨子に元気を取り戻させる為には、弟武士の協力が不可欠であると月彦は悟った。それも出来れば由梨子を通さずに連絡をつけたい――そんな理由から、月彦は月曜の夕方、武士が通っている中学へと直に足を運ぶ事にした。
 武士がサッカー部に所属している事は知っていたから、そこへ行けば直接話も出来るだろうという安直な考えは、同級生の部員から武士は退部したという話を聞かされた事によって脆くも崩れ去った。
 しかし、同時に有益な情報も得られた。サッカー部を辞めはしたが、代わりに学校が終わるなり日が暮れるまで川沿いの土手で走り込みをしているとの話を聞き、月彦は早速行ってみる事にした。
 土手に腰掛け、ダンボールをソリ代わりにして滑る小学生らを見ながら、月彦は武士を待ち続けた。やがて遙か彼方からウインドブレーカー姿の人影が近づいてくるのが見え、月彦はそれが武士であると悟るや立ち上がって側に来るのを待った。
 武士の方も月彦の姿に気がついたのだろう、互いの距離が十メートルほどになった辺りで武士は速度を落とし、二,三歩の距離で足を止めた。
「姉貴の件ですか」
 武士はフードを脱ぎ、息を弾ませながらも開口一番にそう言った。
「話が早くて助かる。……って言っても、俺は何があったのか詳しく知ってるわけじゃないんだ。出来れば、武士くんの口から“真実”が聞きたい」
「“あの女”は絶対に許せない事をやった……真実も何も、それが事実です」
「それだけじゃ分からない。…………もっと具体的に、事細かに何があったのかを教えて欲しい」
 手短に言って、そのまま脇を抜けて走り去ろうとする武士の腕を月彦は掴んだ。その華奢な体からは想像もつかないほどの馬力に思わず引きずられかけて、月彦は咄嗟に両足で踏ん張らねばならなかった。
「…………分かりました」
 やがて武士は諦めたように呟き、足を止めた。
「…………紺崎さんには、お世話になりましたから。どうしてもと言われたら、断れないです」
「ありがとう。……とりあえず、座ろうか。飲み物もある」
 月彦がスポーツドリンクを差し出しながら促すと、武士は小さく辞儀をして「ども」と言いながら腰を下ろした。
 月彦もその隣へと腰を下ろす。――やがて、武士は“話”を始めた。

 武士の話は、俄には信じがたかった。特に、“あの由梨子”が武士の恋人を土下座させ口汚く罵りながら足蹴にしたという話には――例え由梨子の口からその行為を示唆するような話を聞いていたとはいえ――月彦にはどうしても想像できなかった。
「信じてもらえないなら、これ以上話す事はないです」
「いや、疑ってるわけじゃないよ。……疑ってるわけじゃないんだけど…………信じがたいな……あの由梨ちゃんが」
 月彦の中で、宮本由梨子という少女は他の誰よりも慎み深く、思慮深く、およそ他人を虐げるような行為とは無縁の存在だった。
(そりゃあ、確かに……隠れSだって感じる事はあったけど)
 だからといって、そこまで他人に対して攻撃的になれるものなのだろうか。
「き、きっと何か事情があったんじゃないかな。そうでなきゃ、いくらなんでも……」
「事情、ですか」
 武士の横顔は“例えどんな事情があったにせよ”と如実に語っていた。
「確かに、何か事情はあったみたいです。…………元々、円香さんは――付き合ってた相手の人の名前ですけど、姉貴と仲が良くて、よくうちに遊びに来てたんです。ただ、喧嘩別れしたのか何なのか、いつのまにかぱったりと来なくなって……その頃は、俺も別に好きでも何でもなかったんですけど」
「……待てよ、それって、もしかして――」
 円香という女性は、ひょっとすると由梨子の“元カノ”だったのではないだろうか。
(……そういや、前に姉ちゃんが言ってたっけ――)
 あまり思い出したくない内容のやりとりではあったが、微かに覚えがある。“あの娘は、前に付き合っていた子に脅されて、トイレの代わりまでしていた”――と。霧亜の語った内容がもし真実であるならば、由梨子を脅していた相手というのは……。
(……そんな目に遭わされてたら、由梨ちゃんだって……キレても……)
 かつて自分を散々に虐げていた相手が、今度は弟に手を出している――その現場を目の当たりにし、カッと頭に血が上る様が月彦には目に浮かぶようだった。
「………………。」
 月彦は考える。武士は自分が付き合っていた女性が、過去に姉とどういう関係にあったのかうすうすは察しているらしいが、恐らく真相にまでは至っていないだろう。今この場でそれを教えるのは容易いが、それが果たして問題の解決に繋がるだろうか?
(……いや、無理だな)
 由梨子にも事情があった――そう言った所で、決して武士は納得しないだろう。それはもう、武士の横顔が如実に語っている事だった。
 となれば。
「……武士くん、頼みがある」
「何ですか?」
「その彼女と話がしたい。連絡をとってくれないか」
 これはもう、その“彼女”と由梨子をどうにか和解させるしか、由梨子と武士の和解もあり得ないように月彦には思えた。
 しかし、武士は困ったような、それでいて苦しむように顔を僅かに歪め、しばらく沈黙を続けた。
「……それは無理です」
「どうして? まさか――」
 そのことが原因で既に別れた後なのか――そんな月彦の想像は、ある意味では当たっていた。
「もう、この街には居ません。引っ越してしまいました。連絡先も……俺は教えてもらってないんです」
「そんな……」
「いろんな事情があって、この町にはもう居られなくなったらしいんです。…………全部が姉貴のせいとは俺も思ってませんけど、全く関係がないとも思ってません」
「武士くん……」
 あの日、と。武士はそれこそ血を吐くような顔で続ける。
「姉貴と顔を合わせるまでは、巧くいってたんです。……少なくとも、巧くいく筈だったんです。それなのに」
「武士くん、信じてもらえないかもしれないけど、俺にもその気持ちはよく分かる。……だけど、由梨ちゃんを恨むのは筋違いだ。……由梨ちゃんだって、武士くんが憎くてやった事じゃない」
「分かってます」
 武士は拳が震える程に強く握りしめながら、まるで懺悔でもするように言葉を続ける。
「本当は俺、ずっと前から気がついてたんです。円香さんと姉貴の間には何かがあった――でも、円香さんがそれを覚えてないなら。姉貴も気がついてないなら、そのままにしといた方がいいって……」
「…………。」
「もっと早くに言うべきだったんです。姉貴に、今俺が付き合ってるのは昔うちに遊びにきていた佐々木円香さんだって。そうすれば――少なくとも、あんな風にいきなり顔を合わせるよりは、姉貴だってもう少し冷静に話が出来た筈なんです。…………知ってて黙っていた俺が一番悪いんです」
「…………。」
 懺悔じみた武士の話を聞きながら、やっぱり姉弟だなと月彦は密かに思っていた。由梨子も、そして武士も何か問題が起こると、最終的には“自分が悪い”という結論に達してしまうのだろう。
「……俺は当事者でも関係者でもないから、“そんなことはない”なんて無責任な事は言えない。……ただ、これだけは言える。武士くんに嫌われてこれ以上無いくらいに落ち込んでる由梨ちゃんを見ていられない。……せめてもう少し、優しく接してあげる事は出来ないかな?」
 由梨子のことを心底憎んでいるわけではないのなら、それはきっと可能な筈だと、月彦は思った。しかし、武士の返答は――月彦の想像を遙かに超えるものだった。
「…………それは無理です。……いえ、必要がない、と言ったほうがいいかもしれません」
「……どういう事?」
「俺も、じきこの街を出ます」
「え……?」
「今回の事で、俺はどうしようもなく自分が嫌になったんです。家を出て、北海道にある祖父の道場に身を寄せて、心身共に鍛え直してもらうつもりです」
「だ、だったら……尚更、今しか仲直りは――」
「それは出来ないんです!」
 武士はかぶりをふりながら、殆ど喚くように言った。
「姉貴は、俺の目の前で俺の一番大切な人を罵って、土下座させ、足蹴にしたんです。例えそれが俺自身のせいでそうなってしまったのだとしても、俺は生涯あの光景を忘れられません」
「武士くん……それは、でも――」
「お願いします、紺崎さん。この話はもう終わりにしてください。……お願いします」
「………………分かった」
 今にも泣きそうな声で言われては、月彦としても引き下がらざるを得なかった。
「…………姉貴のこと、頼みます」
 武士は深く頭を下げ、再びフードを被ると風のように走り去っていった。


 



 


 何かを成したという自覚は全くと言っていい程に無かった月彦だったが、それでも真央から由梨子の様子が比較的明るくなったという話を聞かされれば、少しは役に立てたのだろうかという気がしてくる。
(……デート自体は大失敗だったけど……)
 例え自分は関係なく他の要因によるものだとしても、結果的に由梨子が普段通りの由梨子に戻ってくれるのならば、月彦はそれでいいと思っていた。
「真央、これからも何か気がついた事があったらすぐ教えてくれな?」
「うん!」
 日曜も、そして月曜日の夜も、月彦はことさら念入りに真央を褒め、いろんな意味で愛でてやった。真央もそれを喜び、ひとまずはこれで全ての憂いは解決した――かに思えた。

「すみません、月彦さん。……急な話で大変申し訳ないのですが、少々時間を割いてはいただけないでしょうか」
 水曜日の放課後、校門を出るなり和装の美丈夫に声をかけられるまでは。
「あ、あぁ……白耀……別に少しくらいならいいけど、一体どうしたんだ?」
 まさかの人物による待ち伏せに、月彦は声を上ずらせながらも必死に平生を装った。本来ならば誰よりも気兼ねなく話ができそうな程に気心の知れた――そして同じ傷を持った――相手である筈なのだが、とある事情から月彦は白耀の目をまともに見ながら話す事が出来なくなっていた。
「立ち話も何ですので、どうぞこちらへ。車を待たせてあります」
 いつぞや真央との旅行の際に乗せられた黒塗りの高級車へと月彦は招かれ、乗せられてしまう。そのまま白耀の屋敷へと運ばれるのかと思いきや、連れられた先は外から見る分にはごくありふれた喫茶店にしか見えない場所だった。
「本来なら屋敷へとお連れしたい所なのですが、移動にあまり時間をかけてしまうのも心苦しいので……」
「ああ、成る程な」
 白耀としては、可能な限り用件を手早く済ませ、月彦を解放してやりたい――という所なのだろう。そういった心遣いをされればされるほどに、月彦は胃の中に重い固まりを放り込まれたような気分になる。
 白耀に先導される形で月彦も喫茶店の中へと足を踏み入れる。別段、知り合いの店だとか、白耀の手がかかった店だとか、そういう事はないらしく、店内もこれまた実にありふれた喫茶店らしい喫茶店だった。しいて言えば、マスターがコーヒーにこだわる男なのか、店内には焙煎されたコーヒー豆の芳香が漂い、またカウンターの向こうには多種多様なコーヒー豆がガラス張りになる形で並んでいた。
(白耀にしては珍しい店選びだな)
 姿も和装ならば屋敷も和風。趣味もきっと和風だろうと思っていた月彦は、白耀がこのような店を会談の場に選んだというのが少々意外だった。
「……落ち着いた雰囲気の、良い店だと思われませんか?」
 席に着くなり、まるで月彦のそんな疑問を感じ取ったかのように白耀が口を開く。
「最近は暇を見つけては、和洋こだわらず良い店を探すようにしてるんです」
「へぇ……いい心がけじゃないか? 細かいことにこだわらず視野を広げようっていうのはいい事だと俺も思う」
「月彦さんならきっとそう言って頂けると思ってました。……あっ、どうぞ。僕の奢りです、好きなものを注文なさって下さい」
「そうか、悪いな……じゃあこのマンデリンってのを貰おうかな」
「さすがにお目が高い。……では僕はグァテマラで」
 店内に他に客は居らず、百合の花のような形をした蓄音機から耳に障らない程度の音量でクラシックが流されてはいるが、月彦にはその曲名までは分からない。
「……どうでしょうか」
「ん? どうって……何がだ?」
 てっきりコーヒーが来るまでこの落ち着いた雰囲気を楽しむものだとばかり思っていた月彦は、白耀の突然の言葉にやや面食らった。
「たとえば、菖蒲をここに連れてきたら……喜んでもらえるでしょうか」
 そして、その次に飛び出してきた言葉に、もっと面食らった。
「ど、どうかなぁ……そ、そればっかりは……俺にも何ともいえないな……。菖蒲さんの趣味なら、俺よりも白耀の方が詳しいんじゃないか?」
 コーヒーが来る前で良かったと、月彦は思っていた。もし口に含んでいた時であれば間違いなく吹き出していたであろうし、カップを手にもっていた時であれば動揺のあまりかちゃかちゃと音を立ててしまった事だろう。
(ま、まさか……とうとう気取られたのか?!)
 永遠に隠し通す事など出来ないのではないかと思ってはいたが、こんなに早く露見するとも思っていなかった。
(落ち着け、落ち着け……まだ探りをいれられているだけかもしれない)
 事は、自分自身の保身だけの問題ではない。白耀という親友と、その恋人の将来に関わる事だ。
 下手を打つわけにはいかない。
「ひょっとして……“こういう店”を探し始めたのも、菖蒲さんに趣味を合わせて、って事か?」
「さすがです、月彦さん。……お察しの通り、僕なりにどういった逢瀬――……いえ、デートを行えば、菖蒲に喜んでもらえるのか。試行錯誤を重ねている所でして」
「い、いいんじゃないか? そういう気遣いは大事だと思うぞ、うん」
 惚ける度に、チクチクと胸の奥が痛む。こんなにも純粋な想いを傾けている男から、恋人を――そしてその処女を奪ったのだという罪悪感に、胃痛と共に嫌な汗が滲み出てくる。
(ううぅ……俺は、なんて事をしちまったんだ……)
 不可抗力気味であったとはいえ、何か他に手は無かったのだろうかと詮無い事を考えてしまう。
 そうこうしている間にふわりと芳香を漂わせながら、テーブルへとコーヒーが運ばれてくる。月彦は場の重圧から逃げるようにコーヒーカップへと手を伸ばし、口に含んだ。
 初めて飲むマンデリンコーヒーの味はこの上なく苦かった。
「えーと…………今日の話ってのは、つまりその事なのか?」
 手が震えないよう細心の注意を払いながらそっとカップを皿の上に戻す。白耀もまたカップを口元へと近づけ、香りを楽しむように微かに左右に揺らした後、唇はつけずにカップを置く。
「いえ、用件というのはその事ではないんです。…………その、大変心苦しいお願いなのですが」
「気にするな! 何でも言ってくれ、俺に出来る事ならいくらでも力になるぞ?」
 白耀に対する罪悪感から、月彦は弾かれたように声を上げていた。僅かでも、ほんの少しでも白耀への負い目が払拭できるなら、ドブ攫いだろうが重労働だろうが何でもやってやると言わんばかりに目を輝かせた。
 そんな月彦の様子に白耀はしばし目を白黒させて、そしてにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。…………実はお願いというのは、菖蒲の引っ越しの手伝いなんです」
「…………へ? 引っ越し?」
「はい、その……実は…………菖蒲が“住み込み”ではなく“通い”になりたいと、しきりに言ってまして……」
「な、な、な…………なんで、また……そんな……」
 カップを持つ手が震え、かちゃかちゃと音を立てる。月彦は慌てて左手を右手に添えてその震えを押さえつける。
「僕にも分かりません。……ただ、とある人に相談した所、女性は時にそういう行動をとりたくなる事がある――と、助言を頂いたんです。だから、迷ったんですが……菖蒲のしたいようにさせてみようかと……」
 まさかその女性というのは母の葛葉ではあるまいなと、月彦は密かに危ぶんでいた。なにせ菖蒲に良からぬ事を吹き込んだという前歴がある。
(…………でも、さすがに無いか)
 菖蒲とは買い物先で知り合ったらしいが、さすがに白耀とは接点がないだろう。となれば自分のあずかり知らない、それでいて白耀が信頼を置く誰かの助言という事だろう。
「菖蒲さんの引っ越しについては何となく理由は分かった。……だけど、そんなに手が足りてないのか?」
「そういうわけではないのですが……その…………お恥ずかしい話ですが、僕は機械というものが苦手でして」
「機械?」
「菖蒲が、新しい住まいにはいろいろと……“えーぶいきき”と言うのでしょうか。音楽を聴く為の装置や、“てれびじょん”等を置きたいと言うのです」
「ふむふむ?」
「ただ、僕はそういったものには疎くて……うちの使用人達に頼めれば良いのですが、菖蒲がそういった連中を部屋に上げるのは嫌だと言うんです」
「…………。」
「唯一、月彦さんであれば気心も知れているから許容できると……そういう次第でして……」
「えーと、つまり新しい部屋にはいろいろとAV機器を置きたいけど、自分はよく分からないから、俺に手伝って欲しいと。……そういう事か?」
「はい。……勝手なお願いだとは重々承知しています……しかし、すみません。惚れた弱みだと笑って下さい。それが菖蒲の望みであるのなら、僕はこうして頭を下げてお願いをするしか無いんです」
「……ま、まぁ……気持ちはわかる。うん……」
 他ならぬ月彦自身、真央が望む事は極力叶えてやりたいと思ってしまう為、白耀の気持ちは痛い程に理解ができた。
 そう、本来ならばそれこそただの引っ越しの手伝いだ。何の問題もない――筈なのだが。
「ちなみに、白耀……菖蒲さんの引っ越しっていつの予定なんだ?」
「ええと……少々お待ちを。確か手帳に……あぁ、ありました。来週の土日の予定です」
「来週の土日か……悪い。ちょっとはずせない用事があるんだ」
 ただの引っ越しの手伝いならば、問題はない。問題はないのだが、先日の例もある。引っ越しを手伝いに行ったが為にまたぞろ泥沼に足をつっこむハメにもなりかねない。
(…………悪い、白耀。俺はもう極力菖蒲さんには関わらないようにするから……許してくれ)
 あの夜の事は無かった事にするしかないと、月彦はそっと心の中で深く謝罪をする。
「そうですか……どうしてもはずせない用事が……」
「ああ、悪いな。今週だったら余裕で行けたんだが、来週だけはダメなんだ。土曜も日曜も朝から晩までやんごとない用事でぎっしりと――」
「あっ」
 と、手帳の書き込みを指で辿りながら、白耀が不意に声を上げたのはその時だった。
「すみません、月彦さん。僕が勘違いしてました。引っ越しは今週です」
 ぶっ、と。月彦は思わず口に含みかけていたコーヒーを吹きそうになってしまう。
「ちょ、待っ……こ、今週なのか!?」
「ええ、本当に申し訳ありません。辿る行を間違えてました。…………良かった、今週なら何の問題もありませんね」
 お前、ひょっとして分かっててカマをかけたんじゃないのか?――思わずそう勘ぐりたくなるような屈託のない笑顔に晒されて、月彦の頭の中は“どうするどうする?”で埋まっていく。
「あー……っと……そういや今週も確か午前か午後どっちか用事で埋まってたよーな……」
「大丈夫です、午前でも午後でも、菖蒲の都合の方を月彦さんに合わせますから」
「いや、それはさすがに悪い。……誰か他に適任者は居ないのか?」
「……先ほども言いましたが……機械を触れる人間ならば心当たりはあるのですが…………菖蒲が承知してくれないので……」
「……ぶっちゃけ、俺も気心は知れてないぞ? ていうか、白耀も覚えてるだろ? お前の屋敷に行くたびに嫌な顔されたり、来て早々お茶漬け出されたり、躓いたフリをして足を踏まれたり、居留守使われて門を開けてもらえなかったりで……」
「しかし……菖蒲が月彦さんならば、と……」
 ひょっとして――と。それまで笑顔と苦笑の二パターンのみだった白耀の顔に、疑念の色が混じったのはその時だった。
「……月彦さん、何か……菖蒲と顔を合わせられない理由でもあるんですか?」
 ギクギクギクゥ――!!!
 核心を突くような白耀の言葉に、月彦は危うく手からカップを取りこぼしそうになる。
「そ、そういうワケじゃなくてだな……ほ、ほら! むしろ白耀が手伝ってやればいいじゃないか! 男らしさを見せる良い機会だろ? 週末までになんとか苦手を克服すりゃーいいだけの話じゃないか!」
「それが出来れば一番なのですが……俄知識で菖蒲を困らせるのも悪いですし、何より別件のお得意様の付き添いで明日からしばらく留守にしなければならないんです」
「そ、それなら尚のこと引っ越しは見送った方がいいんじゃないか? ほら、手伝いに行くって言っても、一応俺は男で、菖蒲さんは女なわけだろ? 二人きりになったら何か間違いが起きないとも限らないじゃないか」
「大丈夫です」
 にっこりと、白耀は菩薩から生まれたのではないかという程に屈託のない、心が洗われるような笑顔を零す。
「月彦さんはそんな事をなさる方ではありません。菖蒲の事も、僕は全面的に信頼していますから何の問題もありません」
 あいたたた――胸の奥に鋭い痛みを覚え、月彦は全身から一気に汗が噴き出すのを感じた。例えるなら朝日の光を浴びた吸血鬼か、聖書の朗読を聞かされた悪魔のような気分だった。
「わ、分かった……白耀がそうまで頼むのなら、俺としても断れない。…………力になるよ」
 最早退路はない。これ以上ゴネ続ければ、さすがに白耀も何かおかしいと感づくだろう。善良そうな外見に騙されてはいけない、この男も真央と同じ――“あの女”の息子なのだから。
「良かった……留守中、どうか菖蒲をよろしくお願いします」
 深々と頭を下げられながら、月彦は渋面にならないよう精一杯に引きつった笑顔を浮かべた。



 週末が、来てしまった。
 そう、まさに“来てしまった”という表現こそ正しい。
「……じゃあな、真央。そういうわけだから、ちょっと行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい、父さま」
 午前十時。笑顔の真央に見送られながら、月彦は曇天の空の下、紙袋を手にとぼとぼと我が家を後にする。既に、今日の用向きについて真央には説明してあった。止むに止まれぬ事情から、引っ越しの手伝いをしにいく――と。
 少なくとも、この肩の落とし方足の進まなさからして、隠れてこっそり他の女性とのデートをする――という風には見えないだろう。真央が笑顔で送り出してくれたのはそういう意味もあったかもしれない。
「あぁ……気が重い」
 月彦はため息をつきながらズボンのポケットを探り、白耀から別れ際に渡されたメモ用紙を取り出し、目を落とす。そこに書かれている場所こそが今日の目的地にして菖蒲の新しい部屋の場所だった。
(…………菖蒲さんもどういうつもりなんだろう)
 まさかあの夜のやりとりを本気でとらえているわけではあるまい。少なくともそう簡単に無かったものにしてしまえるほど白耀と菖蒲の絆というものは脆くはない筈だと月彦は思っていた。
 となればやはりお互いに“何も無かった”という事にしてしまうのが一番ベストなように思える。菖蒲がどういうつもりで引っ越しの手伝いとやらに自分を呼んだのかは分からないが、とりあえずそのことを提案してみようと月彦は考えていた。
「えーと……ここかな」
 地図に書かれている名前と同じマンションを探し、エントランスへと入る。マンションはマンションでも雪乃のそれとは違い、一応部屋の前までの出入りは自由な仕組みだった。菖蒲の部屋は七階建ての七階、エレベーターから最も離れた角部屋だった。
 月彦はドアの前に立ち、力無い指でそっとインターホンを押す。出来れば故障でもしていてくれと祈る心は無上にもドア越しに聞こえた音によって裏切られた。
 程なく。
「……月彦さま。お待ちしておりました」
 ドアをあけるなり、まるで留守番に退屈しきっていた猫が飼い主の帰宅にはしゃぐような――そんな笑顔を浮かべる菖蒲に、月彦は苦笑いしか返せなかった。
「や、やぁ、菖蒲さん。……手伝いに来たよ」
「どうぞ、上がってくださいまし}
 菖蒲に促されて、月彦は部屋の中へと招かれる。どうやら思っていたよりも中は広い作りらしく、入ってすぐがダイニング兼キッチン。広さは合わせて4畳ほどはあるだろうか、奥には居間と、さらに別途寝室もあるらしかった。
「あれ……今日引っ越しじゃなかったの?」
 てっきり、部屋の中には大量のダンボール箱が山積みになっていて、それらの開封から始めなければならないとばかり思っていた月彦は、すっかり荷ほどきされて適材適所されている家具類を前に些か唖然としてしまった。
「荷物だけ早めに送って、数日前から荷ほどきを始めておりました。当日、月彦さまにやって頂く事は極力少ない方が良いと思いましたので」
「そ、っか……。さすがメイドさんっつーか手際がいいっつーか…………どこかの先生にも見習って欲しいくらいだ」
 雪乃の引っ越しの手伝いはそれこそ悲惨なものだったと、月彦はふと記憶を巡らせる。一向に進まない荷ほどき、洗濯物がまるまる詰められたダンボール箱、その中に埋まった食器類――同じ女性でこうまで違うものかと思いたくなる。
「…………ていうか、家でもその格好なんだ」
「はい。一応“私服”も持っておりますが…………“お客様”を持て成す必要上、やはり正装でお迎えするのが正しいと思いましたので」
 “自宅”だというのにいつも通りのメイド服姿で、菖蒲はぺこりと小さく辞儀をする。
(……まさか、電車にもその格好のまま乗るつもりなのかな)
 この場所から白耀の邸宅に通うには電車かバスを使うしかない。まさかマイカー出勤はしないであろうから、下手をすると名物さんになってしまう可能性があるのだが、月彦はあえて気にしないことにした。
「あっ、そうそう。忘れる所だった。これ、母さんから。引っ越し祝いだって」
「まぁ、わざわざご丁寧に……ありがとうございます、と。葛葉さまにお伝え下さい」
「食べ物だって言ってたから、早めに冷蔵庫に入れたほうがいいかもしれない」
「左様でございますか。そういう事でしたら……」
 菖蒲は紙袋の中から包装紙に包まれた四角い箱を取り出し、リビングのテーブルの上に置くやぺりぺりと包装を剥がしていく。その下から現れた箱の蓋をそっと開けるなり――菖蒲はぴたりとその動きを止め、見ていた月彦もまたぎょっと目を剥いた。
「ちょっ……母さん……これは……」
 箱の中にぎっしりと詰められた多種多様な“猫缶”を前に、菖蒲は完全に固まっていた。
「れ――」
 そっと箱の蓋を戻しながら、珍しく菖蒲が言葉を詰まらせながら、微笑みを漏らす。
「冷蔵庫に入れる必要はない様でございますね」
「そ、そうみたいだね。……ははは」
 菖蒲は蓋をしめた箱をそっと流しの下へとしまい、剥がした包装紙を丁寧に折りたたむと紙袋の中へとしまい、さらに紙袋も折りたたんでリビングの戸棚の引き出しへとしまった。どう見ても喜んではいなそうな菖蒲に声をかけられず、月彦はその間ただただリビングに立ちつくしていた。



「……月彦さま。宜しければ、早速に……その……“例のアレ”をお願いしたいのですが」
「OK、まかせといてくれ。……っていっても、俺もそんなに詳しいわけじゃないから、ひょっとしたら手に負えないかもだけど」
 気を取り直して、と言わんばかりの菖蒲に連れられて、月彦はリビングの奥の居間へと足を踏み入れる。フローリングの床の上に白と黒のマーブル模様の絨毯が敷かれ、その上にはガラス製の正方形のテーブル。部屋の隅にはドラセナの植木鉢が置かれ、さらにテーブルの側には二人がけのソファ。それとテーブルを挟む形でテレビ台があり、その上に三〇インチほどはあろうかという薄型の液晶テレビが鎮座していた。
「へぇ、結構大きなテレビ買ったんだね。菖蒲さんがテレビそんなに好きだってのは知らなかったよ」
「いえ、私はこういうものは全く」
 けろりとした顔で、菖蒲は返してくる。
「えっ……テレビ、見ないの?」
「はい。白耀さまの屋敷に居た頃も、自室にはありませんでしたし…………ただ、これからは必要になるのではないかと思ったものですから」
「…………どうして?」
 月彦の問いに、菖蒲は一瞬困ったような顔をし、僅かに頬を赤らめてしまう。
「……以前、月彦さまの所に居候させて頂いた時に、いくつかの番組を大変興味深そうにご覧になられておられる様に見受けられましたので」
「………………。」
 しれっとそんな所まで観察されていたのかと、月彦は肝を冷やした。
「え、えーと…………と、とりあえず、ちゃちゃっと配線の方すませちまうかな」
 何やらこの話題をこれ以上続けるのは非常に危険な気がして、月彦は菖蒲の熱っぽい視線から逃げるように背を向け、テレビの前へとしゃがみ込む。
「っと、菖蒲さん。このテレビを買った時についてきた説明書とかある?」
「はい。大事そうなものは全てこちらの箱の中にとってあります」
 菖蒲が隣の部屋からダンボール箱を持ってきて、月彦の側へと置く。
「へぇ、洗濯機から冷蔵庫まで全部の説明書をちゃんと取ってあるのか。保証書まで……」
「はい。一応電化製品をそろえる際にはそれなりに詳しい方に同行して頂きましたので。こういったものは絶対に取っておくようにと言われましたので、その通りに致しました」
 だったらその人に配線もやってもらえばいいのに――と、月彦は喉まで出かかったが、あえて口にはしなかった。
「テレビの説明書もちゃんとあるな……んーと…………ふむふむ。付属のカードを差さないとダメなのか。そのカードは……――……って、菖蒲さん!?」
「はい?」
「いやその、なんて言うか……ちょっと、近いんだけど」
 テレビの前であぐらをかき、説明書へと目を通している月彦の横にぺたりと座り込み、説明書をのぞき込むように顔を近づけてくる菖蒲に月彦は堪らず声を上げた。
「お邪魔ですか?」
「じゃ、邪魔って事はないけど……ほ、ほら……パーソナルスペースとかいろいろあるし、山嵐のジレンマとかっ、ね? そういう事だからさ」
「……畏まりました。月彦さまがそのように仰るのでしたら、少々距離を置かせて頂きます」
 菖蒲はしゅんとネコミミを萎れさせると――まるで飼い主に構ってもらえず拗ねてしまった猫のような足取りで――リビングの方へと出て行ってしまう。
 なにもそんなに離れなくても――という言葉をぐっと飲み込み、とにかくコレさえ終わらせてしまえば早く帰れるのだからと。月彦は作業に集中する事にした。
 とはいっても、たかがテレビの配線ごとき、いくら不慣れとはいえ十分もあれば終わる。最後にチャンネル合わせまで行い、テレビの向きをきちんとソファに合わせる。
「よし、完璧だ。終わったよ、菖蒲さん」
 さて帰ろう――と腰を上げ振り返った月彦が見たものは、いそいそと“茶の用意”をする菖蒲の姿だった。
「ありがとうございます、月彦さま。大変助かりました」
「あぁ、うん……それはいいけど……菖蒲さんは何を?」
「…………?」
 菖蒲は月彦の言葉が分からない、とばかりに首を大きく傾げる。
「お茶はお嫌いですか?」
「いや、嫌いじゃないけどさ。……それ、二人分……だよね?」
「月彦さまが飲むな、と命じられるのでしたら、私は我慢致しますが……」
「そうじゃなくて……まぁいいや。お茶頂くよ、菖蒲さん」
「はい。宜しければこちらも召し上がって下さいまし」
 紅茶入りのティーカップと共にクッキーが漏られた皿を差し出され、月彦は断り切れずにそれらへと手を伸ばす。
「あっ、月彦さま。いけません!」
「えっ?」
「その……差し出がましいとは思うのですが、一応先に手をお洗いになられたほうが宜しいかと……」
「あぁ、そうだね。テレビの裏とかいろいろ触っちまったし……ありがとう、菖蒲さん」
 月彦は延ばしかけた手を引っ込め、立ち上がるとそのままリビングの方へと向かう。
「洗面台はそちらでございます」
 と、菖蒲に促されなければそのままキッチンで手を洗う所だったが、促されたからには行くしかなかった。
「ちなみにそちらの方が脱衣所、先が浴室となっております」
「そ、そうなんだ……へぇ〜……」
 一体どういうつもりなのか、手を洗う横でそのように解説をする菖蒲に月彦は愛想笑いを返す。
「良かったら、ご覧になられますか?」
「えっ、風呂場を?」
「はい」
「いや、別に良いかな……」
 特に興味も感じず、月彦は濡れた手をタオルで拭き拭き、洗面台を後にしかけるが――。
「あのっ、月彦さま?」
 すっ、と。まるで先回りでもするかのように菖蒲が前に立ちふさがり、月彦は危うくぶつかりそうになりながら足を止めざるを得なかった。
「私がこの部屋を選んだのは、他の物件に比べて浴室の出来が良かったからなのです」
「そ、そうなんだ?」
「浴室自体もさることながら、湯船もとても広く、大人二人が楽に入れるスペースがございます」
「へ、へぇー……すごいね」
「興味がございますか?」
 ある、と言ったが最後、是が非でも風呂に入れられる事になる気がして、月彦はやむなく首を振った。
「いやぁ、広い風呂なら白耀の家で見慣れてるし、特に興味はないよ」
「左様で、ございますか」
 しゅん、とネコミミを垂れさせる菖蒲の姿に胸の奥をチクチクと刺されながら、月彦は心を鬼にして居間へと舞い戻る。
 とにもかくにもやるべきことを手早く済ませて、一刻も早くこの凄まじく居心地の悪い空間から抜け出さなければと。
「……月彦さま、どうぞ、ソファにお座りになって下さいまし」
「えっ、俺はいいよ、絨毯の上で。ソファには菖蒲さんが座りなよ」
「月彦さま、私は従者として桜舜院さまに育てられた者でございます。人様よりも高い視点で茶を飲むなど、とても落ち着けません」
「そ、そういうものなんだ…………そういうことなら……」
 月彦はやむなくソファへと腰を下ろし、ティーカップへと手を伸ばす。菖蒲はといえば、テーブル脇の絨毯の上へと鎮座し、自らは茶にまったく手をつけず、月彦の方にばかり目を向けてくる。
(……くっ……もう少し、もう少しの辛抱だ。茶さえ飲み終わったら……帰れるんだから!)
 何やらデジャヴのようなものを感じて、月彦ははたと考えた。過去にも似たような事があった気がすして――そしてそれは妙子の部屋で凄まじく苦いコーヒーを飲まされた時だと思い至った。
(……アレとはまた一風変わった居心地の悪さだ。……どっちがキツいって言われたら、こっちのがキツいな)
 妙子との事に関しては自分と妙子との二人だけの問題だが、菖蒲に至ってはそこに白耀に対する申し訳なさが加わってくる。白耀の留守中にこうして菖蒲と茶を飲んでいるだけで白耀を裏切っているようにすら思えて、月彦は気が気でなかった。
「……ふぅ。ごちそうさま、お茶美味しかったよ。菖蒲さん」
「宜しければ、替えをお持ちしましょうか?」
「いや、いいよ。用事も終わったし、今日の所は――」
「あっ」
 と。月彦が立ち上がろうとした矢先、今思い出したと言わんばかりに菖蒲が声を出す。
「……申し訳ございません、月彦さま。……実はもう一つ、月彦さまにやって頂きたい事が」
「ん? また機械の配線?」
「はい。……“れこーだー”とかいう、てれびじょんの番組を録画する為の機械だそうなのですが、正直私には手に負えません」
「あぁ、それくらいなら俺にも多分出来るよ。で、そのレコーダーは何処にあるの?」
「それが…………届くのは明日なのです」
「え……?」
「その、大変人気の品だそうで、その品だけ納品が遅れてしまうのだとか…………」
「そ、そうなんだ……。そういう事なら仕方ない、また明日来るよ」
「あの、月彦さま。……恐れながらそれは難しいのではないかと……」
「どういう事? 菖蒲さん」
 菖蒲は無言で腰を上げると、ベランダへと通じるガラス戸にかけられていたカーテンをシャーッと一息に開いた。
 途端、月彦はぎょっと目を剥いた。
「んなーーーーーーー!?」
 窓の向こうに見えるのは雪、雪、雪。
 これでもかと降りしきる一面のボタ雪に、月彦はつい叫び声を上げてしまった。
「な、なんじゃこりゃー!? なんだ、何でこんなに雪が降ってんだ!?」
「何故、と申されましても……天気の具合ばかりは私にも……」
 困ったように呟く菖蒲の脇を抜けて、月彦はベランダへと通じるサッシに手をかけ、鍵を外してスライドさせる。――やいなや、凄まじい寒風と共に大量の雪が室内へと舞い込み、月彦は慌ててサッシを閉めざるを得なかった。
「ゆ、夢じゃない……目くらましとかそういうのでもない、ガチで大雪が降っていやがる……今日は一日曇りの筈だったろ! 先週に引き続いてまた大外しかよ!」
「人の世の“天気予報”というものもアテにはならない様でございますね。……これでしたら、桜舜院さまに教えて頂いた天占術の方が遙かに頼りになります」
「……天占術?」
 あっ、と。菖蒲が慌てて口を噤む。しまった、とでも言いたそうな顔だった。
「……つまり、菖蒲さんは今日大雪が降るのを知っていた、と」
「いいえ。それは違います、月彦さま。天占術が使えるのは妖猫の中でも限られた者だけでございます。私のような端女にはとても」
「でも、さっき春菜さんに教えてもらった、って……」
「指南は受けました。しかし……恥ずかしながら、私には使いこなせませんでした」
「……へぇ」
 ならば一体何故カーテンを閉めたままの状態で雪が降っていると分かったのだろうか。これが雨ならば雨音で気づく事もあるだろう。が、しかし雪はただしんしんと積もるのみだというのに。
(…………止めよう、問いつめた所で、多分時間の無駄にしかならない)
 それに、本当に知らなかった可能性もゼロではない。月彦は半ば崩れ落ちるようにソファへと腰掛ける。
(……そういえば、猫が顔を洗うと雨が降るんだっけか)
 ならば、猫が引っ越しをすると大雪が降るのだろうか。ひょっとしたら、妖猫にとって“天気読み”というのはある種のお家芸なのかもしれないと、月彦はふとそんな事を思う。
「……大分冷え込んでまいりました。お茶の替えをお持ち致しますね」
 いけしゃあしゃあとカーテンを半分だけ閉め、空になったティーカップを手にリビングへと消えていく菖蒲の横顔は笑っているように、月彦には見えた。


 日が暮れると、降雪の量はますます増え、夜だというのに窓から見える景色は空も地上も白一色となってしまっていた。
「うん、そういうわけだからさ……今夜はちょっと帰れそうにないんだ。……うん、こっちは大丈夫だから――」
 或いは、途中で雪が止んで帰れるのではないか――そんな月彦の淡い期待は無情に降りしきるぼた雪によって文字通り深く埋められた。やむなく月彦は自宅へと一報を入れ、まだぴかぴかの光沢を放つ受話器をそっと親機の上へと置いた。
「まずい、まずいぞこれは……」
 月彦の全身を恐怖が包み、受話器を置いた手は小刻みに震えていた。何がそんなに恐ろしいのかというと、台所の方から微かに聞こえてくる鼻歌なのだ。
(菖蒲さんの鼻歌なんて、初めて聞いたぞ……)
 何故そんなにも上機嫌なのか、月彦は怖くて推測すら出来なかった。鼻歌に混じって聞こえてくるリズミカルな包丁の音さえも、月彦にはまるで己の命を終わりを告げるカウントダウンかなにかのようにしか聞こえなかった。
 それらの音から逃げるように月彦は居間のソファに座し、気を紛らわすためにテレビをつけたりはしてみたものの、当然そんな事で気が紛れる筈もない。こうなったらもう一か八か雪中行軍で我が家へと帰るしか――
「…………。」
 そんな決死の覚悟も、窓ガラス越しに見える景色に無惨に砕け散ってしまう。夜空を殆ど真っ白に染め上げるほどの降雪の中、方向を見失わず命燃え尽きる前に我が家へとたどり着けるだけのパワフルな肉体を持っている自信など、月彦には無かった。

「……月彦さま。夕飯の支度が整いましたので、どうぞこちらへ」
「あ、うん。ありがとう、菖蒲さん」
 菖蒲に招かれ、月彦はリビングへと移動する。テーブルの上にはこれまた大層なご馳走が準備されており、月彦は微かに口元を引きつらせながらテーブル脇の椅子へと着席した。
(……俺って、よっぽど“食いそう”って思われてるのかなぁ)
 白耀といい、菖蒲といい、見るからに男一人の腹には収まりそうない量の料理を出されるのは、そういった誤った認識を持たれているからなのだろう。
「さ、どうぞ。月彦さま」
「あ、ありがとう、菖蒲さん」
 これまたこんもりとご飯を盛られた茶碗を差し出され、月彦は苦く笑いながらも受け取り、箸を手にする。
 とにかく、自力ではどうにもならないことをうだうだと気に病んでいても仕方がない。ここは一つ気持ちを切り替えて夕飯を楽しむほうが賢いのかもしれないと、月彦は思うことにした。
「いやぁ、しっかし美味そうだ。菖蒲さんってホント料理上手だよね」
「今回は葛葉さまの味付けをアレンジさせて頂きました。月彦さまのお口に合えば良いのですが……」
「へぇ……それは楽しみだ。んじゃ早速、この美味しそうな唐揚げから」
 月彦はきつね色に見事に揚げられた空揚げを一つ箸でつまみ、ひょいと口に放り込む。
「んっ、ンまい! これは……鶏じゃないね。コリコリしてて……噛めば噛むほど味が染みだしてくる……何の唐揚げなの?」
「すっぽんでございます」
「すっぽんかぁ……すっぽんって唐揚げにするとこんなに美味かったんだ」
 それは世辞ではなく、心底そう思えた。さらに二つ目、三つ目と月彦は口へと放り込み、噛みしめるたびに広がる至福の味に軽い感動すら覚える。
「うん、すっげー美味しいよ。ごはんがメッチャ進む!」
「喜んで頂けて私も嬉しゅうございます。どんどん召し上がって下さいまし」
 菖蒲に促されるまでもなく、月彦は食欲に突き動かされるままに箸を動かしていく。
「ん、これは何だろう……豆腐と何かの煮付け……かな?」
「それは……鶏肉と豆腐のすっぽん煮でございます」
「鶏肉と豆腐のすっぽん煮……美味そうだ」
「良かったら小皿にお分けしましょうか?」
「あ、うん。お願いしようかな」
 菖蒲がレンゲを使い、そっと小皿に鶏肉と豆腐、白ネギとスッポンを取り分け、手渡してくる。早速に月彦はそれらを箸先で摘み、ほおばっていく。
「ンッ、これもンまい! 一緒に入ってるネギも味が染みてて……ごめん、菖蒲さん。ごはんのお代わりもらえるかな?」
「はい」
 菖蒲は笑顔で頷き、空になった茶碗を受け取るやまたしても大きくご飯を山盛りにして返してくる。
「さっきの唐揚げもよかったけど、これも美味しいね。甘辛く味付けされてて……お酒もちょっと入ってるかな。生姜も利いてて……ああでも、唐揚げも捨てがたいなぁ」
「月彦さま、良かったらこちらも熱い内に召し上がって下さいまし」
 と、菖蒲がそっと押し出すようにして主張してきたのは、木製の皿の上に鉄板が置かれた――いわゆるステーキ皿に載せられた料理だった。
「これは……何のステーキかな。……あんまり見ない感じの肉だけど……」
「すっぽんでございます」
「すっぽん……の、ステーキ?」
「はい」
「…………ま、まぁ美味しければなんでもいいや。あっ、最初から切ってあるんだ」
「お箸では不便だと思いましたので……」
 そういった気の利かせ方はさすが春菜に仕込まれただけの事はあると、月彦は納得しつつ、綺麗に焼き色をつけられたスッポン肉を口へと放り込む。
「んんっ、唐揚げとも煮付けとも違ってこれも良いな。付け合わせは照り焼きにしたアスパラガスと山芋かな? これもシャクシャクして美味しいね」
「どうぞ、こちらのスープも召し上がって下さいまし」
「スープ……中に何か入ってるみたいだけど、ひょっとして……」
「すっぽんでございます」
「…………こっちのこれは茶碗蒸しかな。……もしかして――」
「すっぽん入りでございます」
「………………なんか、食材がちょっと偏ってない?」
「すっぽんはお嫌いですか?」
「いや、嫌いじゃないし、料理はすごく美味しいんだけど……」
「大変質の良いすっぽんを引っ越しのお祝いにと頂きましたので、すっぽん尽くしにしてみたのですが……」
「あ、いや別に責めてるわけじゃないんだ。ほんと、料理自体はすごく美味しいし、ただちょっと気になっただけだからさ」
 しゅん、とネコミミを萎れさせる菖蒲に月彦は慌ててフォローをいれ、がつがつと料理を胃袋へと詰め込んでいく。
「あれ、そういえば菖蒲さんは食べないの?」
「私の事はお気になさらないで下さい。月彦さまが召し上がられた後に頂きますので」
「……うちに居た時もそんな事言ってたけど……ひょっとして、一緒に食べちゃダメだとか、そんな決まりがあるのかな?」
「決まりと申しますか……お仕えする方と共に食事を摂るのは、大変恥ずべき事であると桜舜院さまに教えられましたので」
「……それは……多分、ある意味間違いじゃないんだろうけど……折角なんだし、菖蒲さんもお腹空いてるだろうし、一緒に食べない? ていうか、白耀とも一緒に食べたりしなかったの?」
「……それは、その……白耀さまも、食事は一緒にと仰っておられたのですが……」
 どうやら、よほど厳しく春菜に躾られたのか、菖蒲にとって“主人”と食事を同席するという事はなかなかに耐え難い事らしいという事を、月彦は菖蒲の挙動で理解した。
「そう言わずにさ。白耀だって、自分一人で食べるより、菖蒲さんと一緒に食べる方がきっと楽しいと思うよ。……練習だと思って、まずは俺と一緒に夕飯を食べてみない?」
「……月彦さまがそう命じられるのであれば、私としましては……従う他ございません」
「いや、別に命令とかじゃなくて……単なる提案なんだけど」
 まぁこの際命令でもいいか、と月彦は思い、あえて菖蒲の言葉を否定はしなかった。ようは白耀と菖蒲の仲を取り持つことこそが、過去の誤ちの責任をとる唯一の方法であると信じているからだった。


「……うー……スッポンもあれだけ食うと結構キくなぁ……」
 足を伸ばして入れる程に広い湯船に浸かりながら、月彦は悶々としていた。当初は風呂に入るつもりなど毛頭無かったのだが、豪雪で帰れないとなれば話は別だった。勿論はいる前にきちんと、背中流しなどといった気遣いは一切無用との宣言を菖蒲にしてあるから、いつ脱衣所との扉が開くかという事にビクビクする必要はなかった。
「……たまたま、じゃあないよなぁ、やっぱり」
 菖蒲の言葉通り、“偶然質の良いすっぽんが手に入ったから”の献立であると思いこむ事ができればどんなに楽か。
(……いっそ――)
 菖蒲の期待通りのことをしてしまおうか――そんな危ない考えがうっかり首をもたげかけるのも、偏にすっぽんパワーで性欲が爆発しかけているからだと、月彦は自覚していた。
(……出来るわけがない)
 肉体からの欲求にうっかり傾いてしまいそうになる月彦の理性を支えているのは、他ならない親友の笑顔だった。あれほどまでに一途に自分を信頼してくれている男を二度と裏切るまい――それこそが、何かと欲望に負けてしまいがちな月彦を強固に支える柱となっていた。
(…………よし、風呂から上がったら、菖蒲さんにキッパリと言おう!)
 自分にはもう“その気”はないという事を。そして純粋に、白耀との仲を応援するつもりだという事も。
(菖蒲さんだってきっと魔が差しただけに決まってる)
 本当は白耀の事が一番好きなのに、肉体的な欲求に耐えかねてついつい“気軽にヤれる手近な牡”に靡いているだけなのだろうと。月彦自身、なんとなくそういう心の流れは共感できるだけに、きっとそうに違いないと思えるのだった。
(よし、言うぞ……風呂から上がったら、絶対に言うぞ!)
 何度も何度も、念じるように決意し、月彦は浴室を出た。


 ――バシュン!


「えっ……!?」
 そう、浴室を出て、脱衣所へと足を踏み入れた、まさにその時だった。突然浴室の、そして脱衣所の明かりが消えてしまい、月彦の視界は闇に閉ざされてしまった。
「月彦さま、大丈夫ですか?」
「あ、菖蒲さん? 一体何があったの?」
 脱衣所とリビングとを遮る扉越しに声をかけられ、月彦は慌てて手探りでバスタオルを探し、腰に巻いた。
「それが……私にも分かりません。恐らく停電というものではないかと思うのですが」
「停電……」
 成る程、確かに外は凄まじい雪だった。積雪によってどこかの電線が切れたか、或いはショートしてしまったという可能性もゼロではないように思える。
「とにかく、何か明かりの代わりになるものを探して参ります。大変危険ですので、月彦さまはその場から動かれないで下さいまし」
「あ、あぁ……って、菖蒲さんも危ないだろ!?」
「ご心配には及びません。この程度の闇、妖猫の目にはどうという事はございません」
 菖蒲の気配が扉の向こうから消え、月彦は仕方なくバスタオルで体だけでも拭いておくことにした。
(……ん、これは……ひょっとして着替え――か?)
 手探りで辺りを探っていると、洗濯機らしきものの上に男性用の下着のようなものが置かれていた。
「……月彦さま、開けても宜しいでしょうか?」
「あっ、ちょっと待って!」
 早くも“灯り”を見つけてきたのか、脱衣所のドアの曇りガラスごしにうっすらと橙色の光が見える。それに照らされる形で脱衣所の中も僅かに視界が広がり、自分が手にとっていたのは紛れもない男性用の下着だということを確認する。
「菖蒲さん、この洗濯機の上においてあるのは着替えって事でいいのかな?」
「はい。……一応、“このようなこと”が起きた時の為にと、万が一の備えをしておりましたので。早速役に立ちました」
「……あ、ありがとう。……とりあえず、使わせてもらうよ」
 一体どんなケースの事を指して言っているのか気にはなったが、聞いてはいけない事のような気がして月彦はあえて噤む事にした。
 菖蒲が用意した下着をつけ、さらに浴衣のような形の寝間着を羽織り、腰帯をつけて脱衣所の外へと出ると、燭台を持った菖蒲が心配そうな面持ちで出迎えてくれた。
「懐中電灯じゃなくてロウソクの光だったのか。よくそんなの用意してたね」
「何事にも備えを怠ってはならないというのが、桜舜院さまのお教えでしたので」
「なるほどね。さすが春菜さんだ。……とりあえず、ちょっとブレーカーを見てみようか。ひょっとしたら電気の使いすぎてブレーカーが落ちただけかもしれないし」
「ブレーカー……?」
「大丈夫、やり方なら俺が分かってるからさ。菖蒲さんは灯りを持って俺の後ろをついてきて」
 ブレーカーはだいたい玄関かリビングにあるものだと相場が決まっている。頼りないロウソクの灯りに照らされながら玄関へと移動し、月彦は目当てのものを見つけた。
 が。
「…………ダメだな。全然反応がない。ブレーカーじゃないみたいだ…………ってことはいよいよもってマジで停電かな」
「……このような時はどうすれば良いのですか?」
「うーん……基本的には何もしなくていいと思うよ。停電なら多分この部屋だけじゃなくて、マンション全体か、付近一帯全部だろうから、すぐに誰かが気づいてなんとかしてくれるとは思う。…………ただ、雪が凄いからそうそうすぐには直らないかも」
 玄関からリビングへと戻り、ため息混じりに月彦は椅子に腰掛ける。その眼前へと、菖蒲が手にしていた燭台が置かれ、ゆらゆらと揺れる炎が室内に強く陰を残す。
「左様でございますか…………電気というものも不便なものでございますね」
「まぁ、ね。便利ではあるけど、万能でないのも確かだよ。だからこそ、有事の備えが必要なわけで……あ、菖蒲さん!?」
 てっきり菖蒲も椅子に腰掛けるのかと思いきや、月彦の背中側へと回るや両手をそっと肩に乗せてくる。
「……やはり、殿方というものは頼りになります。今宵、降りしきる大雪の中で、もし私一人の時にこのような事態になっていたらと思うと、正直震えが止まりません」
「あ、菖蒲さんなら大丈夫なんじゃないかな? 並大抵の事じゃ狼狽えないし、何があってもぴしりと冷静に対処してくれそうなイメージが強いんだけど……」
「そんな事はございません。……私は弱い……寂しがり屋の、とても弱い女でございます」
「だ、だったら……無理に一人暮らしなんかせずに今まで通り白耀と一緒に暮らしてりゃよかったのに……」
「それは……そうなのですが」
 きゅっと。肩に乗っている手が僅かに爪を立ててくる。
「……月彦さま、私の心は今……大きく揺れているのです」
「揺れてる……?」
「はい。……揺らしたのは、月彦さまでございます」
「え、えーと……それは、ひょっとして……」
 はい――耳を澄ましていなければ聞こえないほどの音量で、菖蒲が返事を返してくる。
「……責任を、とって頂けますか?」
 ぼそりと。まるで吐息が耳を舐めるような距離で囁かれて、月彦はゾクリと背筋を冷やした。
「せ、責任って……あ、菖蒲さん!?」
「……菖蒲、と」
 また、吐息が耳を撫でる。
「呼び捨てにして下さいまし。……あの時の様に」
 さわ、さわと肩に乗っていた手が胸の辺りを這ってくる。
「……あの夜が忘れられないのでございます。月彦さま……」
「ま、待って! 菖蒲さん、待って!」
 さわさわと這ってくる菖蒲の手を払いのけ、月彦は強引に椅子から立ち上がり菖蒲から距離を取る。
「月彦さま?」
「や、止めよう! こんなことは、もう……は、白耀に悪いよ」
「…………。」
「あ、菖蒲さんが一番好きなのは白耀だろ!? だったら、こんな……白耀を裏切るような事をしちゃだめだ。………………いや、俺が一番悪いのは分かってる。でも、だからこそ、“過ち”を繰り返しちゃダメだと思うんだ」
「…………。」
「菖蒲さん、今ならまだ引き返せるよ。……誰にだって一度くらいは過ちはある、白耀なら、きっと許してくれる!」
 ロウソクの灯りが弱く、月彦の位置からは菖蒲の目元が前髪に隠れて見えない。それ故、菖蒲が怒っているのか悲しんでいるのか、判断する術がない。
「……過ち、でございますか」
 目元を伏せたまま、ぽつりと菖蒲が呟く。
「確かに、月彦さまの仰る通りでございます」
 でも――と。菖蒲は一拍間を作って、言葉を続けた。
「私には、それが初めてだったのです」
「あっ……」
 月彦が何かを言おうとした瞬間、ふいと菖蒲が背を向ける。
「……月彦さまを責めるのはお門違いであると分かってはいるのですが……申し訳ございません。少し、頭を冷やして参ります」
「あっ、ちょっ、菖蒲さん!?」
 頭を冷やすって、まさか外に――という月彦の危惧は、杞憂に終わった。菖蒲は寝室の方へと行くなり着替えらしきものを手に、脱衣所へと向かったのだ。
(…………マズったな……菖蒲さんがお風呂から上がったら、もう一度きちんと謝ろう)
 無論、謝って済む問題ではないことは月彦も重々承知している。女性の“初めて”をいたずらに奪うという罪はそれほど重いのだ。しかしだからこそ、誠意を見せて謝罪をしなければならないという事も理解していた。
「…………言い忘れました」
「どわっ!?」
 突然脱衣所の扉が五センチほど開き、キラリと光る猫の目ににらまれて、月彦はつい悲鳴を漏らしてしまう。
「ロウソクの予備が寝室のクローゼットの下段の箱の中にございますので。燭台のロウソクが尽きる前に、良かったら新しいものに換えて頂けますか」
「う、うん……分かった。寝室のクローゼットの下段の箱の中、だね。りょ、了解」
 すっ、と。音もなく脱衣所の扉は閉じられる。恐らくは殆ど真っ暗闇の筈なのだが、菖蒲の目はその程度の闇ではどうということもない――という事なのだろうか。
「…………確かに、気づいたらもう残り僅かだな。新しいのに換えておくか」
 いつもの菖蒲であればそれこそ「このようなことを人様にさせるのは桜舜院さまの教えが許しません!」とばかりに自分で換えそうなものだが、そんな配慮が出来なくなるほどに動揺或いはショックを受けているのだろう。
(ううぅ……本当にごめん、菖蒲さん)
 しかし、結果的にはこのほうが良い未来に繋がる筈なのだ。やってしまったことの取り返しはもうつかないが、これ以上事態を悪化させない事は出来る。そしてそれこそが、今の自分に出来る唯一の事なのだ。
「……えーと、寝室のクローゼット……これか」
 これまた、どこかの誰かさんの部屋にあるキングサイズのベッドを彷彿とさせるような、女の一人暮らしにはまず必要なさそうなそれにはあえてつっこまず、月彦は一直線にクローゼットへと向かい、戸を開けて下段をのぞき込む。
「箱……って、これの事かな」
 それはちょっとした宝石箱サイズの木箱だった。端から見る分にはとてもロウソクがしまわれているようには見えないのだが、とりあえず月彦は蓋を開けてみる事にした。
「……ん? ロウソク……か?」
 が、十中八九違うだろうという月彦の予想とは裏腹に、中に入っていたのは紛れもない一本のロウソクだった。緋毛氈のような手触りの布地に埋もれるように入れられていたそれは、今現在燭台に乗せられているような細くて頼りないものではなく、直径7〜8センチ、高さ30センチほどはある巨大なものだった。
「成る程、確かにこれなら1時間や2時間じゃあ消えそうにないな」
 しかしひょっとするとこれは高級品の類ではないのだろうか――月彦はロウソクが入っていた、いかにも高級そうな木箱へと視線を移す。が、他ならぬ菖蒲がこれを使えと言っていたのだ。最初に使われていたロウソクは文字通りの緊急用のものであり、それを繋ぎにこちらの太いロウソクを使うつもりだったのだろう。
 ロウソクを手に居間へと移動し、まずは今にも消えてしまいそうな火種を新しいロウソクの方へと移した。そのうえで、燭台の上の突起に新しいロウソクを強引に差し込み、テーブルの上へと置く。
「……ふう。……ロウソクの光に頼る生活なんて、何年ぶりかな」
 ひょっとしたら、ただの一度も無く、初めての経験かもしれない。これはこれで貴重な体験かもしれないと、月彦はソファに腰掛けたまま、ゆらゆらと揺れるロウソクの炎を注視する。
(……はて?)
 不意に、何かが鼻を擽るような気がして、月彦はくんっ、と大きく鼻を鳴らしてみた。やはり、気のせいではない。何かの香料の類の匂いがする。
「もしかして……このロウソクか?」
 月彦はそっとロウソクの近くへと手を伸ばし、己に向かって仰ぐようにしてその匂いを嗅いでみる。微かではあるが、やはり香料はロウソクから立ち上っているらしかった。
「……やっぱり値の張るロウソクだったのかな」
 アロマ効果でもあるのだろうか。仄かに立ち上る甘い果実を彷彿とさせるその香りを嗅いでいると、不思議と心が落ち着くような気さえしてくる。よく見ればその色も、オーソドックスな白ではなく、ほんのりピンクがかっているようだ。
(でもこの匂い、どっかで嗅いだ気がするんだよなぁ……どこだったかなぁ……)
 はてなと記憶を巡らせるも、段々考える事自体が面倒になってくる。ジンジンと頭の奥が痺れるような感覚があるのだが、それが不快ではなく、むしろ安らぎすら感じるのだった。
「あぁ……ホント落ち着くなぁ……。このロウソクどこで売ってるんだろ……俺もちょっと欲しいな」
 知らず知らずのうちに、ソファから身を乗り出すようにして月彦はロウソクの間近にまで顔を寄せてしまっていた。
「……にしても、菖蒲さん随分と長風呂だな。…………いやでも、女の人ってそういうモノなのかな」
 風呂は抱かれる前の通過儀礼と割り切って入っているような真央と比べるのが間違っているのかもしれない。むしろこれが平均的な女性の入浴時間なのではないだろうか。
(…………まさか、お風呂で泣いてたりして)
 湯に浸かりながらさめざめと泣く菖蒲の姿を想像して、月彦はズキリと胸の奥に強い痛みを覚える。
(…………確かに、俺も悪かった。…………でも、考えてみりゃそもそもの原因を作ったのは……菖蒲さんと白耀なんだよなぁ)
 そう、そもそもあの二人が喧嘩などをして家に上がり込んでこなければ、過ちが起きる可能性自体ありえなかったのだ。
(しかも、よりにもよって白耀がマタタビ酒なんかよこすから……)
 アレを飲んだ菖蒲がどうなるかなど、自分に分かる筈がない。つまりあのような未来を予測する事も、それを防ぐ事も不可能だったのだ。
(いや、それどころかアイツ……俺を酔った菖蒲さんに殺させるくらいのつもりで酒を渡してたんだよな)
 翌朝、白耀が菖蒲を迎えに来た際に確かそのような事を言っていた筈だ。誠実な男だと思っていたが、よくよく考えてみればそうではないのではないかという気が、徐々にしてくる。
(そうだよ。今回の事だって、何で俺ばっかりこんなに悩まなきゃいけないんだ。……悪いのは菖蒲さんだって同じだろうに)
 むしろ、謝罪をするのは筋違いのような気さえしてくる。確かに処女を奪う結果になってしまったのは事実だが、あの時はああしなければこちらの首が飛んでいたかもしれないのだ。
 ならば、やはりアレは正当防衛ではないのか。
「……畜生、なんだか無性に腹が立ってきたぞ」
 そもそも、折角の休みだというのに、何故ただの知人に過ぎない自分が引っ越しの手伝いなどをやらねばならないのか。白耀や菖蒲に悪い事をしてしまったと思っていたからこそ引き受けはしたものの、そもそもそれが間違っていたと思える今となっては、二人の申し出がひどく図々しくすら感じられる。
「いつもいつも厄介事ばっかり持ち込みやがって…………俺だって聖人君子ってワケじゃねえんだぞ。……キレる時はキレるんだからな」
 いっそ、一度がつんと示してやるべきなのかもしれない。紺崎月彦という人物を侮るとどういう目に遭うのかを、体と心の両方にしっかり記憶させてやれば、今後厄介事に巻き込まれる事も無いのではないか。
「ああそうだ……そうしてやるべきだ」
 得体の知れないどす黒いものが心身に充ち満ちてくるのを感じる。ゆらゆらと揺れるロウソクの炎までもが、まるで自分の考えを後押しして応援しているようにすら思えて、月彦はゆっくりとソファから立ち上がる。
「“あの夜”が忘れられないとか言ってたな」
 ならば、望み通りの扱いをしてやろうか――そんな邪な考えに、月彦は思わず口元を歪めて笑う。真田白耀と、紺崎月彦――どちらの“牡”がより魅力的か、そして真の主はどちらなのかを、あのサカりのついたメス猫に教え込んでやるのも悪くない。
 月彦は、静かにリビングへ、そして脱衣所へと向かった。


 
  不思議と、燭台の必要性は感じなかった。闇に閉ざされたリビングだが、うっすらと家具の輪郭くらいは見る事が出来、月彦は迷わず脱衣所の前へとたどり着くことが出来た。
 扉越しに伝わってくる物音で、丁度菖蒲が浴室を出た所だという事が分かる。月彦は口元に笑みを一つ浮かべて、やや乱暴に脱衣所へと通じる扉を開けた。
「っ……つ、月彦さま!?」
 はっと、慌てたように菖蒲が身構えるのが気配で分かった。そんなにバスタオルで体を隠したりしなくとも、どうせ“人の目”ではろくに視界が利かないというのに――闇の中、爛々と光を放つ猫の目が戸惑うように瞬きを繰り返すのがおかしくて、月彦はまたしても笑みをもらしてしまう。
「あ、あのっ……何を……ンッ……」
 逆に“それ”が良い目印となって、月彦は菖蒲の後頭部へと手を回すとそのまま強引に抱き寄せる形でいともあっさりと唇を奪った。
「っ……やめっ……ンンンっ……!」
 菖蒲の抵抗は強かった。月彦は俄に体を押され、キスを中断されるが、再度唇を奪う。
「ンンッ……くっ……ぁっ……ンンンッ!」
 今度は、菖蒲が首を捻ってキスを拒絶する――が、その“逃げ”を月彦は許さない。三度唇を奪うと、菖蒲はもう抵抗をしなくなった。
「ンぁ、ぁぁ……」
 唇を舐め、食み、舌を差し込む。人のそれよりもざらりとした舌の感触を楽しむようになめ回し、絡め合い、唾液を送り込み、飲ませる。
「んふっ……んんっ……くっ、ンンン……!」
 後頭部に回した手でまだ濡れたままの髪を撫でながら、月彦はさらにキスを続ける。たっぷり十五分以上かけて、菖蒲の唇と舌を愛で続けた後、唐突に唇を離す。
「ぁっ……ふぁ……」
 とろけたような、それでいて困惑の色が強い目で、菖蒲が見上げてくる。そしてすぐに、ばつが悪そうに目線を斜め下へと落とした。
「あ、あの……このような事はもう、なさらない筈では……」
「悪いな、気が変わった」
 いけしゃあしゃあと、月彦は言ってのけた。
「菖蒲の望み通り、“主”として愛でてやる。……寝室で待っているから、従者に相応しい服装で来い」
「ぇ……あ、あの……」
「……あぁ、下着以外は新しいものに着替える必要はないぞ。そこにある、さっきまで着ていた服で十分だ。間違っても寝間着姿なんかで来るなよ、…………菖蒲にはメイド服が一番似合うんだからな」
 言うだけ言って、月彦はさもあっさりと脱衣所を後にする。己の言葉の通りに寝室へと移動し――燭台も、寝室のテーブルの方へと移した――ベッドに腰掛けて菖蒲を待った。
 菖蒲は、すぐには現れなかった。恐らくは濡れた髪を丁寧に拭いて、さらに身だしなみを整えるのに時間を食っているのだろう。暇を持て余した月彦はベッドから腰を上げ、ロウソクから立ち上る香りを楽しむように鼻を近づけたりして時間を潰した。
 ほどなく、寝室のドアがノックされた。
「……失礼、致します」
 ロウソクの頼りない光に照らし出されたその姿は紛れもない、いつもの姿だった。月彦は菖蒲の言葉には返事を返さず、無言でベッドへと腰掛けた。
「あの……月彦さま?」
 恐らく、どうして良いか分からなくて立ちつくすしかないのだろう。窮したような菖蒲の声に、月彦はただ一言。
「舐めろ」
 支配者の如き声色で言い放った。
「な、舐めろ……とは、その――」
「聞こえなかったのか?」
 菖蒲の言葉にかぶせるように、月彦は言い放つ。さも、気分を害したと言わんばかりのとげとげしい声で。
「あっ……」
 と、菖蒲は弾かれたように動き、月彦の前まで来るとその場に膝をつく。そして何度も何度も月彦の足の間と、月彦の顔とを見比べるように視線を這わせ、おずおずと手を伸ばしてくる。
 菖蒲の手が、下着を突き破らんばかりに屹立しきっている剛直を解放し、その竿部分を撫で始める。いかにも不慣れなその手つきに、月彦は態と菖蒲に聞こえるように舌打ちをする。
「誰が触れ、と命じた?」
「は、はい……も、申し訳……ございません…………ンンッ……」
 菖蒲はまるで叱責を受けた猫のようにパフンと猫耳を伏せ、膝立ちのまま体を月彦の足の間へと潜り込ませ、まるで剛直に頬ずりをするようにして舌を這わせ始める。たちまち、妖猫特有のざらりとした舌の感触がゾワゾワと下半身を這い、月彦は思わず嘆息を漏らしてしまう。
「……いいぞ、続けろ」
「は、はい…………んっ、ン……」
 れろり、れろりと竿を這う舌の感触。技術的な面だけを見れば、それは“拙い”と言うべきものだったが、それでも月彦が十二分に快感を得られるのは、偏にその心にいつになく充ち満ちている邪心が、“他人の女”に奉仕させているというシチュエーションに満足しているからだった。
「……菖蒲、確か――白耀とはキスもまだだったよな?」
 ぴくりと、菖蒲の奉仕が止まる。
「どうした、答えろ、菖蒲」
「…………はい。月彦さまの……仰るとおりで、ございます」
「そうか。……そんな菖蒲が、他の男とはキスどころか、股ぐらに顔を埋めて嬉々として男のモノをしゃぶってるなんて白耀が知ったら、どう思うかな」
「……っ……つ、月彦さま……その様な事……おっしゃらないで、くださいまし……」
「冗談だ、気にせず続けろ」
 奉仕は、すぐには再開されなかった。が、しかし一分と経たずに再び剛直をザラ舌が這い始め、月彦はクッ、と口元を歪めてしまう。
 この女は白耀に対する申し訳なさよりも、紺崎月彦という主に奉仕する事を選んだのだ――その事が妙におかしく、笑わずには居られなかった。
「あぁ、いいぞ……舐めるだけじゃなくて……そう、咥えろ。口をすぼめて吸うようにしながら……そうだ」
 さすがにメイドとして躾られただけあって“奉仕”についての飲み込みの良さは抜群だった。みなまで言わずとも、菖蒲は剛直を喉奥近くまでほおばり、頭を前後させるようにしてしゃぶり始める。
「んふっ、んふっ……んっ……んくっ……」
 ぐぷ、ぐぷとくぐもった音が寝室に響く。なかなか熱の入った“奉仕”だと、月彦は菖蒲の頭に手を置き、撫でることで暗に褒めてやる。菖蒲にも褒められたという事が分かったのか、奉仕がよりいっそう激しくなり、メイド服の尻尾穴から伸びた黒い尾がくにゃりと揺れ、先端に結びつけられているリボンと鈴を揺らし、ちりんと澄んだ音を慣らす。
「……よし、もういいぞ、菖蒲」
「んふっ…………ンッ…………も、もう……宜しいのでございますか?」
 剛直を唇から引き抜かれながら、菖蒲が戸惑うような言葉を漏らす。
「ああ、もう十分だ」
「で、ですが…………その、月彦さまは……まだ……」
 そう、イッてはいない。普段であればそのままイくまでしゃぶらせるのが紺崎月彦という男だ。
 それをあえて中断させたのには、無論理由がある。
「菖蒲に選ばせてやろうと思ってな」
「えら、ぶ……?」
「あぁ。このまま口に出して欲しいのか、それとも……」
 月彦はあえてそこで言葉を切り、菖蒲自身に“その先”を想像させる。
「只でさえ今夜は菖蒲のスッポン料理のせいで血がたぎりまくってるからな。…………一番濃くて、量の多い“最初”を受ける場所を、菖蒲に選ばせてやる」
「そ、んな………………わたくし、には……え、選べません……」
「選べない? 何故だ?」
 月彦は、あえて菖蒲に尋ねた。さも、本当に分からないとでも言いたげに。
 そう、口に欲しければ、口に欲しいと言えばすむ話だ。しかし菖蒲は“選べない”という。それは即ち、本当に欲しい場所を口にする事に抵抗があるという事――ならば、その“抵抗”とは何か。
「答えろ、菖蒲」
「……っ……ど、どうか……月彦さまが、選んで……下さいまし……。わ、わたくしには……」
「下僕の分際で、“主”に意見をする気か?」
 よほど“怖い声”に聞こえたのだろう。菖蒲がひっ、と微かに声を漏らして身を引く。仮初めの従者のそんな反応に月彦は満足したが、だからといって菖蒲を甘やかす気は毛頭無かった。
「面白い。…………そういう事なら、菖蒲の望み通りにしてやる。…………但し、罰付きでな」


「んぁっ……つ、月彦、さまぁ……どうか、お許しを……」
 壁に手を突き、尻を差し出せ――その命令通りの姿勢になりながらも、菖蒲はなんとか体をひねり、許しを請う。
 が、月彦はあえてその言葉を無視し、菖蒲のスカートをまくしあげ、さらに黒い尾を尻尾穴からスカートの下へと戻し、捲しあげたスカートが落ちないように尻尾の付け根に引っかける。
「……ふむ。いつもながら、菖蒲は下着のセンスは良いな。今宵は下着もガーターベルトもどちらも白か。悪くない」
 まるで独り言のように呟いて、月彦は露わになっている尻肉へと手を添え、円を描くように揉み捏ねる。
「んんっ……ぁ……」
「肉付きもいい。……なかなか叩き甲斐のある尻だな」
「っっ……」
 いかにも、尻叩きをする――というような言葉で菖蒲を怯えさせておいて、その実、ただ尻肉を揉み捏ねるだけ。そうして徐々に手を太股の方へと写し、外股、内股の辺りをねちっこくなで続ける。
「んっ、ぁっ……つ、月彦、さまぁ……」
 はぁはぁと、次第に菖蒲が湿った吐息を漏らし始める。スカートのストッパーとなっている尻尾がうねうねと焦れったげに動き、その都度先端についている鈴がちりちりと音を鳴らす。
「……下着が湿ってるな」
 ジットリと熱を帯びた液体に濡れた下着を指先で擦るようにしながら、月彦はあえて口にする。そして徐々に、下着に浮いたスリットをなぞるように、指を強く――。
「ぁっ、ぁっ……やっ……し、下着が……汚れてしまいます……あぁぁ……」
「俺はただ触っているだけだ。汚しているのは菖蒲だろう?」
 中指と薬指で下着の上から揉むように刺激しながら――しかし、菖蒲が焦れったいと感じる程度の弱さで――月彦は空いている手で尾の付け根を掴み、親指の腹で優しく擦る。
「あっ、あぁっ、ぁっ……つ、月彦、さまぁ……そ、そこ、は……」
 “同時責め”は効果覿面らしい。或いは、尾の付け根を刺激されるのがよほど堪らないのか、菖蒲は忽ちつま先立ちになり、尻をさらに高くあげながら声を上げる。
「……随分と疲れそうな姿勢だな。……まぁ、手さえ壁から離さなければ、あとは菖蒲の好きにしろ」
 くつくつと笑いながら、月彦はさらに尾と秘部への刺激を続ける。強すぎず、弱すぎず――絶頂へは決してたどり着けない量の快感で、菖蒲を焦らしていく。
「つ、月彦……さまぁ……」
 菖蒲が“泣き”をいれてきたのは、そんな刺激を一時間ほども続けた頃だった。
「ど、どうか……お情けを……も、もう……限界でございます……」
 恐らくは、この“焦らし”こそが罰だとでも思っているのだろう。だとすれば甘い、と月彦は思う。この淫らなメス猫に、自分という主の怖さをきちんと教えてやらねばと思う。
「限界、か。……つまり、こうして欲しいという事か?」
 月彦は菖蒲の下着に手をかけ、あっさりと膝上まで下ろしてしまう。あっ、と。それだけで菖蒲は嬉しげな声を上げ、ぶるりと体を震わせる。
 さらに、月彦は屹立しっぱなしの剛直を菖蒲の秘裂へと宛い、その存在を誇張するようににゅりにゅりと前後させる。忽ち、菖蒲の秘裂より溢れた蜜で剛直は濡れそぼり、前後させるたびににちゃにちゃと卑猥な音が寝室に響く。
「つき、彦……さまぁ……は、早く……」
「早く?」
「は、はや、く…………あぁぁ……も、もう…………どうにかなってしまいそうで……お、お願いで、ございます……どうか……」
「ふむ?」
 惚けるような声を上げて、月彦は剛直の竿を卑劣に宛ったまま、ぐにぐにと菖蒲の尻肉を弄ぶように揉む。
 そして、不意に――尾を掴む。
「そういえば、菖蒲の尻尾……この先についているリボンと鈴は、白耀からの贈り物だったよな」
「え……?」
 何故、今突然そのような話を――そう言いたげな、菖蒲の声。月彦はくすりと笑い、尾の先端を掴むや、しゅるりとリボンを紐解いてしまう。
「つ、月彦さま……何を……」
 そしてそのままはらりとリボンを落とし――リボンについていた鈴も同様に絨毯の上へと落ち、かすかにちりりと音を鳴らす。
「白耀ではない“他の男”に今から抱かれるんだ。…………白耀に貰った鈴の音なんて、邪魔でしょうがないだろう?」
 月彦は意地悪く囁きながら、月彦はゆっくりと挿入を開始する。
「あくっ……あぁっ……ぁぁぁぁ……つ、月彦、さまぁぁ……くはっ……ぐいぐいって……ひ、広げられて……ああァァッ!!」
 ぎりぎりと壁に爪を立てながら、菖蒲が苦しげに呻く。そう、確かにその苦しそうな声が伝える通り、菖蒲の“中”はまだこなれておらず、つい先日まで処女であった証を如実に残している。
(……あぁ、でも……この少し堅い感じが……たまんねぇ)
 紛れもなく自分の手で処女を奪い、そして今また他に男を知らぬその体を抱いているのだと。いつになく邪心に充ち満ちている月彦はそんな支配感に満足する。
「あぁっ……あぁぁァァッ!」
 とん、と剛直の先端が奥を小突くと、菖蒲は再度尻を震わせながら甲高い声を上げる。月彦はゆっくりと腰を引き、とん、とんと少しずつ抽送を始める。
「あっ、あっ……あっ!」
 まだ、強くは突かない。角度も変えない。そうそう容易くはイかせてやらない。折角の機会だ、このメス猫は念入りに調教してやる――そんな考えを秘めつつ、月彦はあえて単調な抽送を繰り返す。
「つ、月彦……さま……?」
 徐々に、挿入の圧迫感に慣れてきたのだろう。次第に菖蒲が少々焦れったげな――不満そうなと言い換えてもいいような声を漏らし始める。くねくねと尻尾が左右に揺れときおり何かを急かすように逆立った毛が月彦の頬を撫でつけてくる。
 苦笑を一つ――そして月彦は不意に、一度だけパァン!と尻が鳴るほどに強く突き上げる。
「あぁァッ!」
「……“主”に催促とは、良い度胸だな、菖蒲?」
 ぐい、ぐいと先端を奥に押しつけながら、月彦はぽつりと呟く。
「そ……な……さ、催促、など……ァァッ……!」
「口答えするのか?」
「ぁっ、あぁっ……ぁぁあァッ!!」
 さらに、ぱん、ぱんと尻肉が震える程に強く、二度、三度と突き上げる。
「ぁぁ……つ、月彦、さまぁ……どうか、お許しを……あ、菖蒲は……月彦さまに逆らう所存など、毛頭ございません……」
 お許しを――その言葉は何とも嬉々とした口調で菖蒲の口から発せられた。真央の“誘い方”に慣れている月彦には、それはもう“もっと強く、激しくシて下さい”というようにしか聞こえなかった。
(しかし、簡単に望みを叶えてやるのも面白くない)
 これが真央相手や由梨子相手というのであれば、それこそ精一杯甘やかしてやるのも良いと思える。だが、菖蒲相手ではそうはいかない。きちんと主従の関係というものを覚えさせてやる必要があるからだ。
「……俺に逆らう気はない……そう言ったな?」
「っっ……つ、月彦さま?」
 ならば――月彦は抽送を止め、ぺろりと舌なめずりをして、怯えるように伏せたままの猫耳へとそっと唇を近づける。
「白耀からもらった鈴を踏みつけろ。それが出来たら、菖蒲の望むようにしてやる」
 えっ、と。菖蒲が全身を強ばらせ総毛立たせるのが、月彦にも分かった。
「そ、んな……で、出来ません……どうか、それだけは…………」
「菖蒲」
 ぐりんっ、と。月彦は剛直で強く、菖蒲の中を抉るように腰を動かす。
「あひぃっ……!」
「俺に逆らう気は無いと言ったな。あの言葉は嘘か?」
「う、嘘、では…………ですが、それだけは……それだけはぁぁっ、ぁぁぁぁぁああッ!」
 菖蒲の言葉を遮るように、月彦はさらにグリグリと剛直を菖蒲の“弱い場所”へと押しつける。勿論、そのままイかせたりはしない。絶妙な所で、“寸止め”をする。
「ぁ、ぁぁぁぁ…………ご、後生でございます……月彦さま……ほ、他のことなら何でも致しますから……どうか……」
「ダメだ。……踏め」
 月彦は譲らない。耳元で囁きながら、菖蒲が決してイけない強さでの抽送を繰り返す。
「はぁ……はぁ…………はぁ…………つ、月彦さまぁぁぁ…………」
 菖蒲が肩を揺らすように息を荒げ、モジモジと足踏みをするように体をくねらせる。が、菖蒲のそんな“訴え”など、無論月彦は聞き届けない。
「どうした、菖蒲。……随分苦しそうだな?」
「うぅぅ……月彦、さまぁ……お願い、でございます……どうか、お情けを……」
「“情け”が欲しければ、鈴を踏め。…………俺は“俺の下僕”にしか情けをやる気はない」
 菖蒲、お前はどっちだ?――さも言外にそう含めるように、月彦は菖蒲に被さったまま、その喉を、顎を撫でつける。
「ぁ、ぅ、ぅ…………」
 菖蒲は、月彦が予想していたよりも遙かに粘った。それだけ、白耀からのプレゼントが大事だったという事なのだろう。
 だからこそ、踏ませてやりたい――そんな邪な思いが、沸々とわき起こり、月彦を滾らせる。
「ふっ――」
 どれほどの時間が経っただろうか。何度も、何度も寸止めを繰り返し、堪りかねるように菖蒲がついにその言葉を口にした。
「踏み、ます……踏みます、から……だから……」
「言葉だけでは無意味だ。行動で示せ」
 ぱんっ、と月彦は軽く音がなる強さで、白い尻に掌を叩きつける。菖蒲は一瞬身震いし、やがておずおずと右足を上げ、躊躇いながらもすぐ足下に転がっていた鈴の上へと乗せる。
「こ、これで……宜しいですか?」
「ダメだ」
 にべもなく、月彦は言い放つ。
「誰が“足を乗せろ”といった。俺は“踏め”と言ったんだ」
 月彦はさらに、菖蒲に被さりその身を抱きしめながら、猫耳の側へと唇を寄せる。
「……もっと体重を乗せて、踵でグリグリと踏みつけろ。鈴がひしゃげて、音が鳴らなくなるくらい強く、な」
「あぅ……っ……く……わ、わかり、ました…………………っっ…………」
 命じられるままに、菖蒲は鈴の上に踵を乗せると、グリグリと踏みつける。下が絨毯とはいえ、体重をかけて踏みつけられれば金属製の鈴など簡単に変形してしまう事だろう。
 それを見下ろしながら、月彦はニヤリと微笑む。
「……よくやった、菖蒲。“ご褒美”だ」
 ずんっ、と。一際強く、月彦は菖蒲の奥を小突く。
「……白耀の想いを踏みにじって手に入れる快楽だ。存分に味わえ」
「つ、月彦、さま……ぁぁぁあっ、あひっ……ぁあああッ!!」
「ほら、もっとだ。もっと強く踏みつけろ」
「っ……は、い…………あぁぁぁッ!!」
「もっと、もっとだ。踏め」
 菖蒲が鈴を踏みつける程に、月彦はより動きを強め、菖蒲の“弱い場所”を刺激し、声を上げさせる。――そう、まるで白耀を裏切るという行為そのものが、強い快楽と結びつくのだということを菖蒲の体に教え込むかのように。
「……そうだ、良いぞ、菖蒲。…………それでこそ、俺の下僕だ」
 剛直で菖蒲の中を嬲りながら、月彦は文字通り猫なで声で囁き、菖蒲の喉を、顎を、そして頬を撫でてやる。そこからはもう、一切の加減も、焦らしも無い。“俺の命令に従えば、至上の快楽を与えてやる”――そう言わんばかりに、一直線に高みへと登らせていく。
「あぁっ、あぁっ、ぁあっ、ンッ……はぁぁっ、ひぅっ……あぁんっ……ぁっ、ぁっ、ぁっ……あぁっ、ぁっ……!」
「まだだぞ、菖蒲。勝手にイくなよ? イッていいのは、俺の許しがある時かもしくは――……もちろん、覚えているな?」
「ぁっ、ぁっ……は、はい……お、覚えて、おります……ですが……ですが、もう……もう……」
「ダメだ、勝手にイくな。……菖蒲、我慢しろ」
 寝室中に尻の鳴る音を響かせながら、月彦もまた高みへと登るべく興奮を高めていく。
「つ、月彦、さまァァ……もう、もう……菖蒲はっっ……〜〜〜っっ!」
「あぁ、分かってる……待たせた、なっ………………ッ……“主”の子種を子宮に注がれながら、イけ、菖蒲ッ……」
 月彦は菖蒲の体をしっかりと抱きしめ、先端を膣奥へと擦りつけるように強く押し出し――
「は、はいっ……あっ、ぁッ……あァァーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」
 びゅくり、びゅくりと。特濃の一発目を菖蒲の中に注ぎ込みながら、痙攣するように震える菖蒲の体を、そして雑巾絞りでもするかのように剛直に絡みついてくる肉襞の感触を堪能する。
「ぁっ、ぁっ……す、ごい……です……びゅう、びゅうって……つ、月彦さまのが…………私の、中に……こんなに……沢山……………………ふにゃぁぁぁぁっ……」
 蕩けるような声を出しながら、菖蒲が脱力する――が、無論勝手に崩れ落ちる事など月彦は許さない。
「まだだ、菖蒲。勝手に力を抜くな」
「あぁぁぁ…………で、ですが……もう、足に、力が……ああぁぁぁッ!!」
 菖蒲の言葉を無視して、ぐりんっ、と抉るように剛直を動かすと、たちまちピンと、菖蒲の足がつま先立ちになる。
「あっ、あっ……つ、月彦さまぁぁ……何、を……」
「何を? もう忘れたのか? …………菖蒲にマーキングをしてやってるんだ。……“ここ”は俺のモノだってな」
 ぐり、ぐりと白濁液を肉襞に塗り込むように、月彦は念入りにマーキングを行う。そうして剛直を動かすたびに、菖蒲は吐息混じりに嬉しげに声を上げる。
「あぁぁぁ……わ、私……月彦さまの……匂いを、つけられているのですね……んんぅ……」
「そうだ。嫌か?」
「そんな……い、嫌というわけでは…………ただ、そのようにされると…………ぁぁぁ……!」
 くすりと、月彦はつい笑みを漏らしてしまう。
「……分かってる。……菖蒲は欲張りな従者だからな。…………あれっぽっちじゃ全然足りないんだろう?」
 菖蒲の返事など聞くまでもない。“初めて”の時ですら、ああも貪られたのだ。たかだか一度派手にイッたくらいで満足できるわけがない。
 それが分かっているから、月彦は再び菖蒲に被さり、そして囁いた。
「そのままじゃいい加減足も痛いだろう。――続きは、ベッドの上で、だ」



「あぁんっ、ぁぁっ、ぁぁ……月彦さまぁっ……月彦さまぁぁっ……!」
 甘い声を上げながら、菖蒲は一心不乱に腰を振る。月彦の目から見ても明らかにまだ不慣れな腰使いだったが、それ故に菖蒲が夢中になって快感を貪っているというのが如実に伝わってくる。
「ッ……いいぞ、菖蒲。大分、巧くなってきた……」
 菖蒲の中に埋没したままの剛直が、うねうねと蠢く粘膜と潤滑油によって休む間無く責められ続け、月彦の方もそうそう涼しい顔ばかりはしていられない。さらに、褒められた事に気を良くしたのか、菖蒲がますます腰を大胆に動かし始めて月彦はたまらず菖蒲の両足の付け根を掴みながら唇を噛んでしまった。
「あんっ……月彦さまぁ……いかがですか? んぅ……菖蒲は、きちんとご奉仕できてますか?」
「あ、あぁ……悪くない……っていうか……っ……くっ……」
 菖蒲はくいくいと腰を使いながら、丁度猫が忍び寄ってくるような仕草で上半身を前に倒してくる。
「はぁっ……はぁっ……んっ……ぁっ……月彦、さまぁ……ぁあんっ……これ、いいですぅ……太くてぇ……堅くてぇ……はぁ、はぁ……んっ……ぁあぁぅ……!」
「き、気に入ってもらえたようで……何よりだ……っ……あ、菖蒲の、中、も……っくっ……ぅ……」
「あっ、あンッ! つ、月彦さまのが……ビクンって……はぁはぁ……菖蒲の中で……感じて、下さっているのですね……嬉しいです……」
 ちゅっ、と。感極まった様子の菖蒲から控えめなキスをされ、さらにギューーーーっとまるで甘えるように締め付けられて、月彦は吐息と共に情けない声まで出してしまう。
「くおっ……っ……ま、まさか……こ、腰の使い方まで……春菜さんに教えてもらったとかじゃ……っっ……」
 みるみるうちに上達する菖蒲の腰使いが尋常ではなく思えて、月彦は声を上ずらせてしまう。
「わたくしなりに、月彦さまのお顔を観察して、より感じて頂けるよう、精一杯ご奉仕させて頂いております。……もっと、もっと菖蒲の中で感じて下さいまし」
 衣擦れの音を立てながら、菖蒲がさらに大胆に腰をくねらせる。ねっとりと吸い付くような感触の肉襞がぴっちりと剛直に密着し、そのままぐーりぐりと、さながらアーケードゲームのコントローラ宜しく円を描くように刺激され、月彦はまたしても気の抜けるような吐息を漏らしてしまう。
「くっ……あ、あや、め…………ちょっ……それ、ヤバッ……」
「あぁぁ……月彦さまぁ…………ンッ……そのような顔をされては……ンゥ……わ、わたくしも……もう、我慢、出来なく……あぁぁぁ……!」
 キュン、キュンと剛直を締めながら、菖蒲が切なそうな声を出す。
「もうしわけ……ございません……月彦さま……んんっっ……ぁっ……つ、月彦さまのが……良すぎ、て…………菖蒲は、もう……もう…………ご、ご奉仕が続けられそうにありません……あぁっ!」
 菖蒲はぶるりと体を震わせ、肩を抱くようにして身を捩り、甲高い声を上げ始める。――そんな菖蒲の言葉に内心ほっと安堵したのは月彦だった。
「わ、わかった……菖蒲……俺も、結構ヤバい。…………一緒にイこう」
 はい――菖蒲は頷きながら、再び体を前へと倒してくる。そのまま唇を重ね、互いに背へと手を回し抱擁をしながら――腰を使う。
「んっ……ンッ、ンンッ……!」
 月彦もまた、より菖蒲が感じられるようにと、あえてマグロになっていたその禁を解き、菖蒲の背へと伸ばした手を南下させ、キュッと尾を握りしめる。
「あふっ……あぁぁぁっ……つ、月彦、さまぁ……尻尾は……あぁん! 尻尾は、ダメでございます……あぁぁぁぁっ……!」
 びくっ、びくぅ!
 尻尾を弄られて体を小刻みに震わせる菖蒲がなんとも可愛くすら見えて、月彦はつい笑みすら零してしまう。
「菖蒲、そろそろだ。…………しっかり受け止めろ」
「は、はい……月彦さまの子種を……いっぱい……菖蒲の、奥っに……あっ、ぁっ……あっ、ビクンって……大きくっっ…………あっ、あーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」
 菖蒲の尻を両手で掴みながら、びゅぐぅッ!――と。溜まりに溜まった獣欲もろとも特濃の白濁液をその体の奥底へと注ぎ込んでいく。
「あぁーーーッ……! あぁぁぁぁぁッ!!  あぁぁぁぁぁっ……! ぁぁぁぁぁっ…………つ、月彦さまぁぁぁ…………ひぅぅ……こ、こんな……あ、熱い、の……いっぱい…………ふにゃぁぁぁ…………」
「ほら、菖蒲。まだ終わりじゃないだろう? 今度は自分で、擦りつけるように動かせ」
「ぁ、ぁっ……そ……んな…………む、無理、でございます…………からだが、しびれて…………う、動かなっ……ああァァァッ!!」
 菖蒲が全てを喋り終わるのを待たず、月彦は菖蒲の尻を掴んだまま、ぐりぐりと自ら擦りつけるように腰を動かす。
「仕方ないな。……貸し一つだぞ、菖蒲?」
「はひぃっ……も、もうしわけ――あぁんっ! ぁあっ、ひぃうっ……あはぁッ!!」
 ビクッ、ビクゥッ! ビクビクッ!
 特濃の白濁液を塗りつけられながら、その都度菖蒲は尻尾の毛を逆立てながら体を大きく震わせる。
「はーっ…………はーっ…………月彦、さまぁぁぁ…………」
「うん?」
 両目を今にも涙を溢れさせんばかりに潤ませ、甘い声を上げる菖蒲の仕草から全てを察し、月彦はその首の後ろへと手を添え抱き寄せる形で唇を奪う。
「んむ、んっ……ちゅっ、んんっ……」
 優しく舌を絡め合っている最中も、菖蒲が焦れったげに腰を動かしているのが微笑ましくて、月彦は必死に笑いを堪えねばならなかった。
「あっ……」
 と、菖蒲が不満そうな声を漏らしたのは、月彦が唐突にキスを中断したからだった。
「菖蒲、何か言いたい事があるのならハッキリと言え。……今なら聞いてやる」
「ぁ、ぅ……そ、その…………」
 もじもじと、菖蒲は顔を赤らめたまま猫耳を何度も何度もぱふん、ぱふんと伏せ、ぽつりと。
「う、後ろから……」
「後ろから?」
「み、耳を…………あの…………あの時の様に……」
「……あぁ、なるほどな」
 月彦は納得した。そういえば、菖蒲はそのプレイが好きだったと。
「悪かったな、菖蒲。……さっきはさぞ不満だったろう、許してくれ」
「そ、そんな……不満などは……ございません…………ただ…………」
「分かってる、みなまで言うな。…………しかしアレだな、菖蒲は本当に“後ろから”が好きなんだな」
 かぁ、と。菖蒲がみるみるうちに顔を赤くする――が、否定はされない。そんな菖蒲の頬に月彦は口づけをして、菖蒲の要望に応えるべく、その身を押し倒した。



「あ、あの……つ、月彦さま?」
 菖蒲が困惑するような声を上げたのは、恐らくはすぐに“要望通り”にしてもらえると思っていたからなのだろう。
「……焦るな、菖蒲」
 月彦は菖蒲をベッドに仰向けに寝かせ、笑う。
「さっきの“奉仕”は見事だったからな。…………褒美をやる」
「ぇ……ぁ……んっ……!」
 月彦は菖蒲の唇を奪い、舌を吸いながら、優しくその胸元へと手を這わせる。そう、下着は脱がせたとはいえ、まだ殆ど手をつけていないメイド服の上から、胸元を優しく撫でつける。
(……順序が明らかに逆だけどな)
 既にヤッたあとで愛撫というのも文字通り本末転倒であると、月彦は内心苦笑しながらも、それでも手は止めない。
「ぁ、ぁっ……つ、月彦、さま……? あんっ……!」
 まだ事態が巧く飲み込めないらしい菖蒲をよそに、月彦はシャツのボタンを外し、さらに背のホックを外しブラもずらした上で、まろびでた白い乳へと唇をつける。
「ぁぁぁ……!」
 ちぅぅ、と強く吸いながら、軽く先端を噛むと菖蒲はさらに甲高い声で鳴いた。さらに月彦は吸い、舐め、噛み――不意に菖蒲の唇を奪い、両手で菖蒲の胸を揉みながら唾液に濡れた先端を指先で弄り、さらにキスを続ける。
「ふぁっ、ぁぁ……つ、月彦、さま……やっ……ど、どうして……こんな……あぁぁぁ……!」
 菖蒲の言葉を無視し、月彦はその頬へと舌を這わせ、そのままピンと立つ菖蒲の耳へと唇を寄せ、れろり、れろりと内耳を舐め上げる。
「ぁっ、……み、耳、は……ぁぁぁ……!」
 しかし、噛んではやらない。あくまで舐め、そして唇で食むだけに留める。内心期待していたのか、耳への愛撫を止めた時、菖蒲は微かに不満げな声を出した。
(まだだ。……菖蒲の望みは“後ろからされながら”だろ?)
 中途半端な事はしないと、月彦は含み笑いを漏らしながら、さらに丁寧な愛撫を続ける。主と従者の――ではない。さながら恋人同士のような愛撫をしながら、少しずつ、菖蒲の衣類を脱がせていく。
「つ、月彦、さまぁ……ひょっとして……お、お怒りなのですか?」
 ブラウスもスカートも脱がせ終え、体を包むものはガーターベルトとニーソックスのみという状態になった頃、とうとう泣きそうな声で菖蒲がそんな事を言った。
「……俺が怒ってる? 何故そう思う?」
 こんなにも優しく、それこそ腫れ物を扱うように丁寧に愛撫し、脱がせているだけなのにと。月彦は心外なという思いをこめて菖蒲に尋ね返した。
「ち、違うので……ございますか? それなら……ど、どうして……こんな……」
「こんな?」
「……っっ………………つ、月彦さま……もう、菖蒲は我が儘を申し上げたりしません……ですから、は、早く……続きを……」
「何を言ってるんだ。俺が菖蒲に我が儘を聞いてやると言ったのに、それで怒ったとでも思ってるのか?」
 そこまで理不尽な主ではないぞと、月彦は菖蒲の誤解を解くためにも優しく微笑む――が、菖蒲はさらに泣きそうな顔になりながら、もじもじと太股を摺り合わせる。
「い、意地悪を……仰らないでくださいまし…………こんなに、焦らすような事をされては……菖蒲は、もう……もう……」
「……なるほど」
 つまり、ごく一般的な愛撫というものは、菖蒲にとっては“耐え難い焦らし”になるのだと、月彦は改めて理解した。
「つまり……菖蒲はこう言ってほしいわけだな?」
 こほん、と咳払いを一つ。そして月彦はあえて冷徹な口調で――それこそ、愛娘を喜ばせる時のように――言った。
「四つんばいになって、尻を上げろ」
 あっ、と。菖蒲が感極まった声を出し、急がず慌てずあくまでしゃなりっ、とした猫らしい優雅な動きで、命令通りに四つんばいとなり、月彦に尻を差し出すような姿勢になる。
「月彦さまぁ……どうか……菖蒲を愛でて下さいましぃ……」
「……分かった。望み通りにしてやる」
 本来ならば、あのまま甘い甘ぁい愛撫を続け、身も心もトロトロにトロケさせた後、後ろから気が狂わんばかりに責め立ててやろうと思っていた月彦だったが、それで喜ぶのはあくまで真央であり菖蒲ではないという事を身をもって学習した。
 月彦は両手を菖蒲の尻に当て、ぐにぐにと尻肉を弄ぶように揉んだ後、両手の親指で秘裂を割り開き、萎え知らずの剛直の先端を宛う。
「ぁっ……」
 今か、今かと挿入を待ち望んでいるような菖蒲の声に、少し焦らしてやろうかと悪心が首をもたげるも、あえてかみ殺し月彦はそのまま一気に奥まで剛直を押し込んだ。
「あぁぁあっ、くひぃっぃッ!!」
 菖蒲がベッドシーツに爪を立てながら、苦しげな――しかし歓喜の声を上げる。
「あぁっ、ぁぁっ、ぁああっっぁぁぁあッ!!!」
 そのまま休む間も無く、菖蒲を責め立てる。腰のくびれを掴み、好き放題に突き上げ、散々に声を上げさせた後、ぴたりと動きを止める。
 そう、大事なことを言っておくのを忘れていたからだ。
「そうそう、菖蒲。言い忘れた…………今から、好きなときに、好きなだけイッていいからな」
「ぁっ……は、はい……わかりっっ……ぁぁあああッ!!!」
 ごちゅん!――菖蒲の言葉が終わるよりも早く、月彦は抽送を再開させる。
「あーーーーッ!! あーーーーッ!! あァーーーーーッ!!!」
 極太の剛直で好き放題に膣内を抉られ、菖蒲は文字通り盛りのついたケダモノのような声を上げ続ける。何度か絶頂にも達しているのだろうが、そんな事はお構いなしに月彦は突き続け、そして不意に――菖蒲に被さるようにしてその身を抱きしめる。
「菖蒲、一つ……尋ねたい事がある」
「はぁっ……はぁっ……はぁっ…………な、何、で……ございますか……?」
「仮に、だ。仮に……白耀か俺か、どちらかを無二の主として選べと言われたら、菖蒲はどちらを選ぶ?」
 えっ、と。菖蒲は絶句するように黙り込んでしまう。
「片方を選べば、もう片方とは金輪際会うことは許されないとしたら、だ。…………どちらを選ぶ?」
「そ、れは………………っ………………こ、答えられ、ません……」
「ダメだ。どちらかを選べ」
「ぅぅぅ………………は、…………はく………………」
「はく?」
 月彦はオウム返しに呟き、そして不意に――菖蒲の耳へと歯を立て、噛む。
「あっ、あァーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」
 キュキュキュッ、キュキュゥッ!!!
 耳を噛んだ瞬間、菖蒲をぶるりと体を震わせ、痛いほどに剛直を締め上げてくる。
「アはぁぁぁ…………ぁ、ぁっ……」
「……良く聞こえなかったぞ、菖蒲。……どちらを選ぶんだ?」
 れろり、れろりと噛んだ場所を労るように舐め、優しくしゃぶりながら、月彦は再度尋ねる。
「ぁぁぁぁ………………つ、月彦、さま…………ですぅ…………」
 ぜぇはぁ、ぜぇはぁ。
 上体をベッドにぐったりと伏せるようにしたまま、菖蒲は消え入りそうな声で呟く。
 月彦はさらに菖蒲の耳を噛み――。
「あヒッッ……ぃぃいっ!? ぁっ、ぁぁぁぁぁああアーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
 噛みながら、痙攣する膣内をこじ開けるようにごちゅん、ごちゅんと何度も強く突き上げる。
「あぁっ、ぁあっ、ぁっ! ぁぁぁっ……やっ、らめっ……ぁぁぁああっ!!!」
「……悪い、菖蒲。まだよく聞こえない。…………菖蒲が選ぶのはどっちだ?」
「つき、ひこ、さま……月彦さまっ、ですぅ…………あぁぁぁぁーーーッ!!!」
 叫ぶように声を上げる菖蒲に、月彦はようやく得心がいったとばかりに腰の動きを止める。
「そうか、嘘でも嬉しいぞ、菖蒲。…………なに、“仮の話”だ。本気にすることはない」
 月彦は笑みをかみ殺しながらも、声色の上ではあくまで惚けたような口調で続ける。
「しかし、例え嘘だと分かっていても……自分を選んでくれる言葉というのは嬉しいものだな。…………菖蒲、もう一度聞かせてくれるか?」
「え……?」
「嘘でも構わない。…………菖蒲の口から、もう一度聞かせてくれ。俺を選ぶ、と」
 戸惑う菖蒲を急かすように、月彦はれろりと唾液に濡れた耳を舐める。忽ち、菖蒲が弾かれたように口を開く。
「わ、……私が……お仕えする、のは…………月彦さまだけ、で……ございます……っっ……ひッ……ぁぁぁぁぁーーーーーッ!!!」
 そして、菖蒲が喋り終えるや否や、月彦はまたしても猫耳をくわえ込み、キュッときつく噛みしめる。
「……もう一度だ、菖蒲。もう一度聞かせてくれ」
「は、はいぃ…………わた、くしが……お仕えするのは……月彦さま、だけで……ああァアッ!!」
「もう一度だ」
「わ、っ……私は、月彦さまだけのしもべでございますっ…………ああァァァ!!!……ぁぁぁっ、ぁぁぁァ………………〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!!」
 さらに、腰の動きまで加えられて、菖蒲は甲高い声を上げながら身を震わせ、びくん、びくんと痙攣しながらイく。痛いほどに締め上げてくる肉襞の感触に月彦は嘆息を漏らしながらも、唾液に濡れた猫耳に「それで良い」と囁きかける。
「菖蒲、お前は俺だけの従者だ。毎日朝晩、鏡の前で繰り返し同じ事を十回は復唱しろ。いいな?」
「は、いぃ……仰せの、通りに……しますぅ…………あひっ、あぁっ、あぁぁあんっ!!」
 “耳噛み”がよほど“効く”のか、すっかり脱力してとろけきってしまっている菖蒲にさらにトドメを加えるべく、月彦は体を起こし、スパートをかける。
「あっ、あっ、あっ……あぁっ、あっ、あっあっ、……あぁっ、ぁぁぁっ、ぁぁぁっ……つ、月彦、さまぁぁぁっ…………!!」
 菖蒲は上体を伏せたまま、それでも声を上げる。毛を逆立てさせた尻尾を反らさんばかりに立てながら、最早爪の制御すらできないのか、鋭く尖った爪でシーツを引き裂きながら、はしたなく声を上げ続ける。
 やがて、月彦の方も限界が近づく。ギリギリまでそうして菖蒲のナカを抉り、散々に声を上げさせた後、当然最後は菖蒲の要望通りに――。
「つ、月彦さまっっ……!? やっ……い、今はっ…………ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!」
 菖蒲の子宮へと特濃の子種を注ぎ込みながら、月彦は菖蒲の耳へと歯を立てる。耳を劈くようなメス猫の鳴き声は、月彦の牡としての矜持を満足させるには十分なものだった。



 己の理解力を完全に超えた状況に突然放り込まれる事以上の恐怖は、果たして世の中にいくつ存在するだろうか。
 そう、たとえば親友の彼女の引っ越しを手伝いに行き、それとなく良い雰囲気になるも理性を総動員して誘惑を退けた筈であるのに、朝目が覚めてみると何故か同じベッドに、しかも寄り添うように寝ているという、この状況に勝る恐怖は。
(な、何だ……一体どうしてこんな事になってるんだ……?)
 見知らぬ天井を見上げながら、月彦は困惑していた。すぐ隣には、月彦の左腕を愛しげに抱いてスヤスヤと寝息を立てる菖蒲の寝顔がある。そしてその肌の感触からして、自分も、そして菖蒲も衣類は殆ど身につけていないことは明白だった。
(あぁ、そうだ。きっとこれは夢なんだ。……そうに違いない)
 十五分ほどあれこれ考えた結果、月彦がたどり着いたのはそんな安直な逃避だった。そうだ、きっと夢に違いない――そう思いながら目を瞑る。きっと現実の自分は今頃ソファか何かで一人横になっているに違いない。そんな自分の密かな願望という形で、このような夢を見ているに違いないのだ。
「ぅぅん……月彦さまぁ……」
 そう、これは夢――そう思いこもうとしていた月彦だったが、不意に菖蒲のそんな寝言めいた呟きにハッと目を開けた。菖蒲は寝ぼけているのか、そのまますりすりと身を寄せてきて、そのザラザラした舌で月彦の頬の辺りをペロペロと舐めてくる。
「ちょっ、あ、菖蒲さん!?」
 舌の感触がむず痒く、月彦はつい声を上げてしまった。程なく、菖蒲がうっすらと瞼を開けた。
「ぁ……おはようございます、月彦さま」
「お、おはよう?」
 疑問符がついてしまったのは、これを現実だと認めたくない月彦の最後の抵抗だった。が、菖蒲はそんな事は気にもならないのか、微笑みを一つのこしてごろにゃーんとばかりにさらに身を寄せてくる。
「わわっ……ちょっ、菖蒲さん! ダメだって!」
 夢の中とはいえ、菖蒲の姿をしたものと絡み合う事は白耀への裏切りだと。月彦は慌てて身を引――こうとして、菖蒲にしっかりと掴まれたままの左手のせいでそれは阻害された。
「……さん?」
 ぽつりと、菖蒲がそんな言葉を呟く。程なく、その手の中に掴まれていた左手が解放され、月彦は慌てて菖蒲から距離を取った。
「わわっ、と。……くそっ、これは夢だ、夢だ、……覚めろ、覚めろ、覚めろ〜〜〜〜〜っ……!」
 そして、己の頬を抓ったり、ぱんぱんと叩いてみたりするも、一向に目が覚める気配がない。
 まさか、まさかという思いが、徐々に月彦の中で首をもたげてくる。
「……あ、菖蒲さん」
「はい」
「ひょっとして…………これ、現実?」
 はい、と菖蒲は躊躇いも戸惑いも見せず、即答する。
「……………………あのさ、俺……昨日の事全然覚えてないんだけど……」
「覚えて……らっしゃらないのですか?」
 しゅん、と俄に落ち込むような菖蒲の言葉に、ドキリと。月彦は肝を冷やした。
「い、いや……全く……ってワケじゃないんだけど……えーと……確か停電して、菖蒲さんがお風呂に入って……その後ロウソクを換えた所までは覚えてるんだけど……」
「……その後の事を、何も覚えてらっしゃらないのですか?」
「え、えーと………………ひょっとして……また……ヤッちゃった……のかな?」
 はい、と。今度は僅かに頬を染めながら、菖蒲は頷く。
「それはもう……激しく。……沢山愛でて頂きましたが………………覚えてらっしゃらないのですか?」
「えと……その…………お、覚えて………………うわぁぁぁあああああああああああ!!!!」
 月彦は感極まり、まるで子供のような悲鳴を上げながらばふんと。掛け布団を被って丸くなる。
「月彦さま?」
 ゆさゆさと、菖蒲が掛け布団の上から優しく揺さぶるのが分かったが。月彦は反応を返さなかった。否、返せなかった。
 何故なら、布団にくるまったまま、ちょっと泣いてしまっていたからだ。


 
  どれほどの間そうしていただろうか。どうやら一足先に布団から出たらしい菖蒲が忙しなくあちこちを歩き回るのを足音で把握しつつ、月彦はそれでもあまりの自己嫌悪から布団から出られなかった。
 一体何故。
 どうして。
 そんな文句ばかりが頭に浮かんでは消えていく。
 あれほどに後悔して、反省して、二度と菖蒲には手を出すまいと。白耀との仲を引き裂くような真似はすまいと肝に銘じたというのに。
「うわぁぁぁぁ…………」
 自分を信じて頼ってくれた白耀に一体なんと申し開きをすればいいのだろう。死にたくなるほどの自己嫌悪とはこのことだと、月彦は涙混じりに嗚咽を漏らしていた。
「……あの、月彦さま」
 そんな月彦の耳に、不意に菖蒲の声が届いた。
「その……朝食の用意の方が調いましたが……こちらにお持ち致しましょうか?」
「……ごめん、食べたくない」
 朝食など、とても食えるような気分ではなかった。比較的心と体は分離しがちな月彦とはいえ、さすがに今回のコレはショックだった。
「……月彦さま。昨夜の事は、あまり気に病まれないで下さい。……あれは、事故だったのでございます」
 事故――そう、まさしく事故だったのだろう。特に、菖蒲にとっては。だが、自分にとってはそうではない。あれほどに強く自分を戒めていたにもかかわらず、そして親友の女であるにもかかわらず、欲望に負けて手を出してしまったのだから。
「私が……いけなかったのです。……あのようなモノを処分せず、いつまでも未練がましく持っていたのが、そもそもの間違いだったのでございます」
 あのようなモノ?――何やら菖蒲の言葉に聞き捨てならないものを感じて、月彦は布団にくるまったまま俄に身を起こし、菖蒲の方を向く。
「月彦さま、どうかご自分をお責めにならないでくださいまし。…………桜舜院さま手製のお香を嗅いでしまわれては、致し方ない事でございます」
 春菜さんのお香?――月彦は涙を拭い、のそりと布団から顔を覗かせる。眼前には、恐らくはシャワーを浴びて新しいメイド服へと着替えたらしい菖蒲が、見覚えのある燭台を手に鎮座していた。
「春菜さんのって……どういう事?」
「はい。……話せば長くなるのですが…………昨夜、月彦さまが“間違えて”使われたロウソクは……実は私が桜舜院さまの元を離れる際に頂いたものなのでございます」
 間違えて?――その部分に腑に落ちないものを感じながらも、月彦はあえて無視し、続きを促す。
「どういう事? アレはただのロウソクじゃなかったって事か?」
「はい、正しくは蝋燭ではなく――……“邪淫香”と呼ばれる、お香なのでございます」
「じゃいんこー……」
 何故だろう。読みを聞いただけなのに、瞬時に頭の中で漢字変換されるのは。
「煎じたウツリギ草に、粉末状にした鬼の骨と邪心木の白炭を加えて、八門山の雪解け水で練り、最後に芳露蜂の蜜で固めたものだと聞いたことがあります。……しかし、その正確な調合比は桜舜院さましかご存じなく、世に同名のまがい物は多数出回っておりますが、こと効力において桜舜院さまのものに敵うものはございません」
「……その“効力”っていうのは……」
「お察しの通り、嗅いだ者をとてつもなく邪で淫らな性格に変えてしまう危険なお香なのでございます。……しかも、アレは、その……」
 菖蒲はそこで口ごもり、俄に顔を赤くする。
「私にもし心に決めるような男性が現れた場合、奥の手として使いなさいと……桜舜院さまがわたくしの為に作って下さった、男性に対してのみ強力に作用する特別製なのです」
「…………一つ聞いていいかな。…………どうして白耀に使わなかったの?」
「……実は、一度だけ試しはしたのです。…………しかし、月彦さまもご存じの通り、以前の白耀さまは女性の体に対して恐怖にも近い思いを抱いておられました。お香を嗅ぐなり悶絶して昏倒なされてしまって……それ以降は怖くて試せませんでした」
「……なるほど」
 そして捨てるに捨てられず、未練がましく持っていたものを、“間違って”使ってしまったという事か。
「…………確かに、どっかで嗅いだ匂いだとは思ったんだ」
 全く同じものであるかどうかは分からない。が、少なくとも屋敷に居た時に“似たようなモノ”は使われたのだろう。そう、あの甘いような、頭の奥が痺れるような独特の香り――すぐに春菜の側で嗅いだものだと気がついていれば……そこだけが悔やまれる所だった。
「……………………最後に、もう一つだけいいかな。俺の記憶が正しければ、菖蒲さんが風呂に入る前に“換えのロウソクがクローゼットの下段の箱の中にあるから”って聞いた気がしたんだけど――」
「はい、ですから……」
 菖蒲はいったん立ち上がり、しずしずとクローゼットの側まで歩むや戸を開け、しゃがみ込んでそこにしまわれているダンボール箱の中から、蝋燭が束になって入っているビニール袋を取り出してみせる。
「わたくしは、こちらの箱のつもりで言ったのですが――……もうしわけございません。言葉が足りませんでした」
「……そっか。俺もきちんと確認してから使うべきだったよ……ごめん、菖蒲さん」
 菖蒲が取り出して見せたのは、確かに一番最初に菖蒲が燭台に刺して使っていた白くて細い蝋燭だった。そう、細い――それこそ一本三十分持たないのではないかという、小さな蝋燭だ。
 見れば、誰だってその蝋燭では長く灯りとして使う事はできない事は分かる。であるのに、何故菖蒲は蝋燭を燭台に刺し火を付けた後、残りの蝋燭をわざわざクローゼットの下段のダンボール箱の中にしまったのだろう。そう遠くない未来、蝋燭を換えねばならない事など、分かり切っているにもかかわらずだ。
(…………止めよう、詮無いことだ)
 確かに菖蒲の言った通り、“普通の蝋燭”もクローゼットの下段の箱の中に入っていたわけだし、間違った事は言っていない。たとえダンボール箱の方が下段の奥の奥へとしまわれ、その手前のいかにも目につく場所に件の木箱が置かれていたのだとしても、やはり菖蒲にしっかりと確認をとるべきだったという過失からは逃れられない。
(事故、か……)
 そう、事故かもしれない。しかし、またしても白耀を裏切ってしまった――その事実が、月彦の胸に重くのしかかっていた。



 


 どうやら、人知れず停電は復旧したらしいという事を、月彦はリビングの椅子に呆然と座ったまま理解した。何故なら、リビングには赤々と灯りがついていたからだ。
(…………停電……は、偶然……だよな)
 少なくとも、昨夜の菖蒲の様子を見る限り、偶然だとしか思えなかった。ブレーカーには細工をされた形跡はなかったし、そもそも意図的に停電を起こせるほど機械や配線に詳しいとはとても思えなかった。
(…………って事は……やっぱり、ロウソクの件も……たまたま、なのか)
 停電さえ起きなければ、ロウソクの出番は無かった筈だ。ロウソクさえ使わなければ、“事故”も起こりえなかった。……ならばやはり、アレはあくまで事故――という事になるのだろうか。
(……今更だ)
 そう、今更考えても仕方ない。悔やんだところで、時間は戻りはしないのだ。
 月彦は濁った目をキッチンの方へと向ける。視線の先では菖蒲が軽やかな足取りで朝食の準備――最後の盛りつけを――行っていた。鼻歌交じりに調理を進めるその姿は、昨夜にも増して上機嫌なように月彦には見えた。
 結局あの後、月彦もシャワーを浴び、体の方は些かサッパリはしたものの、心のつかえのほうはサッパリどころか黒く淀んだ沼のように淀みきっていた。
(…………昨日のことも…………ちょっとずつ、思い出してきた)
 起きてすぐは全く思い出せなかった昨夜の出来事が、徐々にではあるが確かな記憶として蘇りつつあった。その記憶によれば、確かに自分は昨夜、菖蒲を抱いていた。それも、かなりガッツリと。
「月彦さま、どうぞ。どんどん召し上がって下さいまし」
 抜け殻のようになってしまっている月彦の前に、菖蒲がてきぱきと料理を運んでくる。
 最初に運ばれてきたのはポタージュスープ、次にレタスとトマトとキュウリのサラダ、トーストとベーコンエッグ、チーズ入りのマッシュポテト。普段で在ればそれこそ、涎が出そうな程に美味そうな朝食であったのだろうが、今の月彦にはトースト一枚どころかパンの耳ひとかけらすら喉を通る気がしなかった。
 そう、通る気がしなかったのだが――。
「むぐっ……」
 どうやら極限まで痛めつけられた心とは裏腹に、体の方はよほど“補給”を欲していたらしい。ポタージュスープのふわりとした芳香を嗅ぐなりそうしようもない程の食欲に翻弄されて、月彦は瞬く間に目の前に置かれた料理の全てを餓鬼の如く平らげてしまった。
 腹が減っているのは菖蒲もまた同じだったのだろう。月彦ほどではないにしろ、朝食の準備が済むなり積極的に調理された食材へと手を伸ばしていた。それでも食事量自体は月彦の半分ほどであり、一足先に食べ終わった後は後かたづけなどをしながら、時折呆然とまるで恋する乙女のような目でじぃぃと月彦の方へと視線を向けて来るのだった。
(ううぅ……)
 その視線から逃げるように、月彦は目を伏せ、肩を縮こまらせる。しかし目線を逸らして尚、菖蒲の方から強烈に照射されるラブビームの熱量に、月彦は息が詰まりそうな程のプレッシャーを感じ、胸の奥にシクシクとした痛みを覚えた。
「……あの、月彦さま?」
「な、何?」
 必死に顔を逸らしてはいたものの、さすがに声までかけられては返事を返さざるを得ない。月彦は冷や汗をだくだくとかきながらも、必死に空笑いを返す。
「その……昨夜のことは……殆ど覚えてらっしゃらないのですよね?」
「ええと……実は……ちょっとずつだけど、思い出してきてる」
「左様でございますか……では、“コレ”の件も……?」
 そっと、菖蒲が両の掌に載せて差し出したものを見るなり、月彦は心臓が止まりそうになった。仮に爬虫類の死体かなにかをそうやって見せられても、ここまでは驚かないのではないかという程に、月彦は肝を冷やし、呼吸困難に陥った。
「そ、それは……確か……白耀からもらったっていう……」
「はい。……白耀さまに頂いたリボンと、鈴でございます」
 しかし、実際に菖蒲の掌の上に載せられているそれは、最早鈴とは呼べないほどにひしゃげてしまっていた。何故そうなってしまったのか、その答えは月彦の記憶の中にあった。
「ご、ごめん!」
 月彦はだむとテーブルに手をつくなり、額をぶつけるようにして頭を下げる。
「こんな事、言い訳にならないだろうけど……あの時の俺、どうかしてたんだ。な、殴って気が済むなら、いくらでも殴ってくれ! 何なら、いっそその爪で好きにしてくれ!」
「…………月彦さまを責めるつもりは毛頭ございません。ですが、その…………“その後の約束”のほうをひょっとしたらお忘れではないのかと、不安になったものですから……」
「え……その後の、約束……?」
「はい」
 きゅっと、鈴とリボンを握るようにして己の胸元へと添えながら、菖蒲がニッコリと微笑む。
「昨夜、“事”の終わり際に月彦さまは仰いました。大事な鈴を壊してしまった代わりに、新しい鈴を買って下さると」
「え……ほ、ホントに? ホントに俺、そんな事言ったの?」
「はい。…………やっぱり、覚えてらっしゃらないのですね……」
 しゅん、と菖蒲が猫耳を萎れさせ、目を伏せる。
「うぐっ…………いやでも……えええ…………」
 月彦は必死に記憶を辿る――が、どうしても菖蒲とそのような約束をしたという記憶が出てこない。
「ご、ごめん……それだけは本当に思い出せない……けど、約束したんだったら…………す、鈴……ちゃんと弁償、するよ。……俺のせいで壊しちゃったのは、本当なんだし……」
「……本当でございますか?」
 ぱぁっ、と。菖蒲はたちまち笑顔を取り戻し、ずいとテーブルの上にまで身を乗り出してくる。
「あ、あぁ……今度こそちゃんと約束する。鈴は弁償するよ」
「……ありがとうございます、月彦さま。どのような鈴を選んで下さるのか、楽しみにお待ちしております」
「ぅぅぅ……」
 一点の曇りも感じさせない菖蒲の笑顔に、月彦はまるで心臓を掴まれそのまま生き血を搾り取られるような声を上げながらも、辛うじて笑顔を返すのだった。


 雪はどうやら夜半には止んだらしい。とはいっても、積雪の量は確かに凄まじく、昼過ぎに届いたレコーダーの配線を終えて菖蒲のマンションから帰る段階になっても結構な量の雪が道路脇に残っていた。
「………………はぁ」
 家にたどり着くまでに、一体何度ため息をついただろうか。月彦自身、昨夜から今朝にかけての出来事を、どう自分の中で折り合いをつけて良いのか全く分からなかった。
(白耀には言えない……よなぁ……)
 一度ならず二度までも菖蒲と体を重ね、挙げ句白耀が贈ったという鈴まで壊させてしまった。三度首を撥ねられて尚許されない鬼畜の所業であると言わざるを得ない。
(だけど、だけど違うんだ……! 俺のせいじゃ、ないんだ……!)
 春菜が作ったというお香が相手では、ただの人間に過ぎない自分には抗いようが無かったのだ。そう、あればかりは一度味わった者にしか絶対に分からないだろう。正気のまま気が狂ってしまうような独特の感覚、事の最中は自分がそうしたいからしているようにしか思えないのに、いざ終わって過去を振り返ると、過去の自分は気が狂っていたのではないかとしか思えないのだから堪らない。恐ろしい――心底恐ろしいと、月彦は思う。
(…………でも、だからって……許されるわけもないよな)
 試しに、月彦は立場を入れ替えて考えてみる。仮に白耀と真央が二人してどこかに遊びに行き、止むに止まれず“お泊まり”をする事になり、しかも不可抗力な事情により関係を持つに至ってしまった。
 白耀は言う。仕方なかったんです、月彦さん。ああしなければ、僕の命が無かったかもしれない――はたして、自分は白耀を許すか?
 否。絶対に許さないだろう。うちの娘をよくもキズモノにしてくれたなと、それこそ思いつく限りの残虐な報復手段に訴えるだろう。
「あぁぁぁぁぁ…………俺ってやつは……なんてことを……」
 自分の想像に怯えて、頭までかかえて月彦は電柱の根本に蹲ってしまう。しかし、永遠にそうしているわけにもいかない。二,三人ほどギャラリーが集ってひそひそ話を始めた辺りで意を決して体を起こし、早足に自宅へと急いだ。
「あっ、父さま、おかえりなさーい!」
 やっとの事で紺崎家の玄関前へとたどり着き、鉛で出来ているかのように重い腕をどうにか上げてドアノブを握ろうとした矢先、思いも寄らぬ方向からかけられた愛娘の声に、月彦はぎょっと慌てて体を捻った。
「こっち、こっち。父さま、こっちだよー!」
「ま、真央……?」
 ちょいちょいと手招きする真央に連れられて、月彦は家の庭の方へと移動する。
 そこには――。
「あのね、あのねっ昨日の夜いっぱい雪ふったでしょ? だから、今日は朝から雪だるま作ってたの!」
 小さなスコップを手にはしゃぐ真央の両隣にはなかなか奇抜なデザインの雪だるまが二体並んでいた。
「これ……こっちのはもしかして真狐か?」
 雪だるまの体に、大きな耳と、そしてこれまた大きく誇張されたおっぱいからしてそうではないかと、月彦はにらんだのだった。
「うん! こっちは父さま!」
「…………ってこら! 変なところに棒を立てるんじゃない!」
 丁度股間のあたりからナナメに、にょきりと突き出された木の枝を月彦は乱暴に引き抜きぽいと庭木の陰へと放り投げる。
「えぇー……」
「ええー、じゃない! 母さんとかに見られたらどうするんだ!」
「義母さま、また朝からお出かけだって言ってたよ。今夜帰れないかもって」
「……そっか。朝から一人で留守番してたんだな、偉いぞ、真央」
 月彦はふっと、胸の奥に苦しさを覚えて、そっと真央の頭を撫でてやる。
「えへへ……そうだ、父さまも一緒に作ろっ! 今ね、私の雪だるま作ってた所なの!」
 見れば、二体の雪だるまの間にある作りかけの小さな雪だるまがあった。
「…………よし、任せろ!」
 一も二もなく月彦は頷き、真央と二人でまるで砂場遊びにでも興じるような手つきで、小さく――そしてなんとも可愛らしい雪だるまを仕上げていく。
「……ふむ。ざっとこんなモンか。なかなかいい出来映えだ…………しかし、いくつか不満があるな」
「不満?」
「あぁ、まずこっちの、真狐の雪だるまだ。いくらなんでもこれじゃあ顔が綺麗すぎるだろう。……もっとこう、口を裂けさせて」
 月彦は細い木の枝を持ち、葉っぱと黒い小石で素朴に作られた顔をなんとも意地の悪そうな顔へと変えていく。
「んで目つきも底意地が悪そーな感じにだな……んで鼻は――」
「ちぇすとぉぉお!」
 突然の雄叫びと共に、月彦は後頭部を蹴り飛ばされ、まるで雪だるまに熱烈なキスをするような姿勢で頭から突っ込んだ。
「ぶわっ……っぷっ、ぺっぺっ……ま、真央……いきなり何す――……ま、真狐!? どっから沸きやがった!」
 ぶるるっ、と犬のように身を震わせて背後を振り返った月彦が見たのは――怒りの形相で仁王立ちをしている“母狐”の姿だった
「人が黙って見てりゃー、なぁーにが“これじゃあ顔が綺麗すぎる”よ。それを言うならあんたの雪だるまだってちょっと二枚目すぎるんじゃない? “実物”はもっとこーで、こうなってて、こーんなでしょ!」
 真狐は“父親達磨”のマユゲを八の字の形へと変え、さらに自らも細い木の枝を持って、達磨の顔をなんとも情けない顔に変えていく。
「なっ、くそっ……てめえのなんてこうで、こんなんで、こうだろ!」
「あんたなんてこーんなで、ここもこうなってて、こうでしょ!」
 互いに張り合う形で、加速度的に雪だるまが悲惨な形状へと変貌していく。そうして見るも無惨に変わっていく雪だるまを今にも泣きそうな目で見ている娘の姿にいち早く気がついたのは、月彦だった。
「…………折角、一生懸命作ったのに」
「ま、真央!? ち、違うんだ……これはだな…………こら、真狐! お前が悪いんだからお前が真央に謝れ!」
「何言ってんのよ、最初に雪だるま弄りだしたのはあんたの方でしょ?」
「だ、だいたいお前、暇してるんだったら真央と一緒に遊んでやりゃーよかっただろうが! 今頃になって顔出しやがって!」
「悪かったわね。もーーーっと面白い“見せ物”があったから、ついさっきまでそっちの方見てたのよ」
 悪びれた様子もなく、真狐はニタリと笑う。それだけでもう、月彦には真狐の言う“面白い見せ物”というのが一体何の事であるのか、容易く推測出来た。
「母さま、何を見てたの?」
「んっふふー……それはねぇ、猫と――」
「だーーーーーーーーッ! いちいち言わなくていい! とにかく…………ッ……」
 声を張り上げようとした矢先、突然胃の方から何かが込み上がってくるのを感じて、月彦は咄嗟に口を閉じ、手で覆った。
「……父さま?」
「……月彦?」
 怪訝そうに首を傾げる二人に「何でもない」と早口に言い残し、月彦はそのまま逃げるように玄関へと飛び込むと、大急ぎでトイレへと駆け込んだ。
「っっ…………ケホッ……ケホッ……かはっ……」
 そして、“こみ上げてきたもの”を咳き込みながら口から出す。飛沫混じりに飛び散ったそれが手を濡らし、月彦は噎せながら視線を――己の右手へと落とす。
「……そんな……嘘だろ?」
 右手は、赤黒い液体によって斑に濡れていた。


 

 
 

 

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