朝。
 頬に感じる冷気と、微かな喉の痛みで宮本由梨子は目を覚ました。しばし微睡み、寝返りを打つ形で枕元の目覚まし時計の文字盤をを確認する。
 時刻は六時四十五分丁度。アラームをセットしているのは七時であるから、なんとなく損をしたような気分になる。
「…………。」
 昨夜もなかなか寝付けず、何度も枕元で時刻を確認し、最後に確認したときは二時を過ぎていたから、どう多く見積もっても四時間ほどしか寝ていない計算になる。
(……起きなきゃ)
 このまま二度寝をしても、十五分後にはアラームが鳴る。それすら無視してしまう事も不可能ではないが、由梨子は漠然とした責任感からゆっくりと布団の中で膝を立てる。そのまま上体を起こし、布団を肩から被ったまま座るような体勢になる。
 はぁ、とため息じみた息を吐く。喉が痛いのは昨夜寝る前に加湿器を付け忘れたからだ。幸い風邪までは至っていないらしいが、この喉の痛みさえなければもう少し寝ていられたのにと、そんな事を思いながらアラームを解除し、ベッドから降りる。
 勉強椅子にかけておいたドテラに袖を通し、靴下を履いて部屋から出る。外はまだ暗く、家の中はシンと静まりかえっていた。もしやと思い、由梨子は階下へと降りるなり真っ先に玄関の靴を確認した。
(…………お母さん、昨夜は帰らなかったんだ)
 別段驚きも、落胆もしなかった。良くある事というわけではないが、滅多にないという事でもない。そもそも何処で何をしているのかなど一度も聞いた事はないが、“息子からの嫌味”が無くなった途端、母親の夜遊びは一層酷くなった。
 そのことに対して、由梨子が抱く感情は複雑だが、一番近いものは“諦め”だった。そう、またか――と。冷めた頭で思うだけだ。
「…………。」
 ポストから新聞を取ってキッチンのテーブルの上へと置き、洗面台で顔を洗う。肌を刺すほどに冷たい冷水が眠気を吹き飛ばしてはくれたが、頭の奥に残った重石までは消してはくれない。それは日に日に重さと大きさを増しているように由梨子には感じられた。何のことはない、寝不足が続いているから、その分頭の働きが鈍っているだけの事だ。
 顔を洗った後、一度居間へと移動し、テレビをつけようとして、その手が止まる。テレビをつければ、確かにシンと静まりかえった室内の空気は幾分賑やかになるものの、それがかえって孤独を際だたせ、涙がこみ上げてくることを由梨子は経験によって学んでいた。
 結局テレビはつけずに台所へと移動し、朝食の準備を始める。以前は武士と自分の二人分、時には母親の分も作らねばならなかったが、少し前からその必要も無くなり、一人分が定番となってしまった。一度に十合まで炊ける家庭用炊飯ジャーだが、最近はもっぱら一合半も炊けば十分だった。半分は朝食と弁当の分のご飯で消費し、のこりの半分はラップにして冷蔵庫にいれておく。夜まで残っていたらそれを晩ご飯に使うし、無くなっていたら母が食べたのだろうと推測して、代わりにスパゲッティか何かを食べるだけの話だった
 炊飯は昨夜のうちに仕込み、七時には炊きあがるように予約はしてあるから既に米は炊けていた。あとは弁当用のおかずを作り、そのあまりで朝食を食べるというのがこれまた定番の流れだった。
 自分という人間は、ひょっとしたらひどくものぐさで面倒くさがりなのかもしれないと、ここに至って由梨子はそう感じ始めていた。何故なら、以前こそ弟の目があった手前、そうそう手を抜いた弁当など作れなかったのだが、自分一人の分だけでいいとなった瞬間、露骨に手を抜き始めたからだ。
 今日のおかずは卵焼きに焼いたウインナー(勿論タコになどしていない)。冷凍食品のアスパラガスのベーコン巻き、夕飯の残りのほうれん草のゴマ和えとプチトマト。ご飯部分にふりかけをしただけの代物だった。弟にこんなものを持たせようものなら、夜弁当箱を返される際に鼻で笑われても仕方がないと思えるほどの粗末な内容だった。
 でも、その弟ももう居ない。どうせ自分しか食べないのだからと、由梨子は割り切って調理を進めていく。盛りつけを終え、弁当を冷ます傍らで今度は朝食を摂る。――が、準備した量の半分も食べられなかった。
「…………っ……」
 茶碗に半分以上残っている白米を見ているだけで吐き気すらこみ上げてきて、由梨子は仕方なく箸を置いた。まだ手をつけていないおかずは皿ごとラップして冷蔵庫へとしまい、ごはんの残りはおにぎりにして同様にラップをかけて冷蔵庫へとしまう。
 台所を片づけた後、自室に戻って着替えを済ませ、髪をセットする。鞄の中身を確認して階下へと降りた後、弁当箱の蓋をしめてハンカチで包み、鞄へとしまう。昨夜就寝前に確認した戸締まりをもう一度確認してから玄関へと向かい、靴を履く。
「…………行ってきます」
 呟きにも似た由梨子の言葉への返事は、閉まるドアと施錠による無機質な音だけだった。

 

 

 

 

『キツネツキ』

第四十話

 

 

 

「今週末だ! 今週末こそはデートをするぞ、真央!」
「きゅ、急にどうしたの? 父さま……」
 真央が驚くのもある意味では当然と言えた。夜、自室で二人でまったりしていた矢先の突然の宣言だったからだ。
「いやほら、ここのところ休みの日はいっつも真央に構ってやれなかったからな! 今週末こそは何よりも真央とのデートを優先させるという俺なりの決意を表したくなっただけだ」
 振り返れば、最後に真央と二人だけで出かけたのはいつの事だったのか、思い出すのも少々難しかったりする。止むに止まれぬ事情で休日真央を置いて出かけねばならなくなる度に次こそは、次こそはと思い続け、とうとうその想いが臨界へと達したのだった。
「というわけで今週末はデートをするぞ! 真央は何処に行きたい!?」
「うーん……父さまと一緒ならどこでもいいよ?」
「何処でも良い、ってのが一番困るんだぞ? どこか行ってみたい場所とかないのか?」
 映画や買い物、ゲームセンターなどの月並みなデートでは、ここのところつもりに積もった真央への申し訳なさを払拭しきれない。
(そうだ、少し遠出をして遊園地って手もあるな)
 遊園地ならば真央も喜ぶだろう――そこまで考えて、はたと。月彦は前回の休日の出来事を思い出した。
「…………真央、プールに行くか?」
「え……プール?」
 真央が再度驚いたのも無理はない。真冬にプールに行こうなどと言われればそれが普通の反応だろうと月彦は思う。
「ただのプールじゃない。温水プールだ。ちょっと遠いが、流水プールやウォータースライダーまであるレジャーランドがあった筈だ」
「そんなところがあるの?」
 真央が、俄に目をきらきらさせる。
「ああ、まだ潰れてなければ……な。明日にでもその辺の事に詳しい奴に聞いて確認してみるが、まあ大丈夫だろう。万が一潰れてたら代わりの場所を探せばいいだけの話だ。…………真央も新しい水着着たいだろ?」
「うん!………………あっ、だけど、父さま…………」
「ん?」
 真央が元気よく返事を返したのもつかの間、すぐさま目を伏せるように表情を曇らせ、月彦から視線を逸らしてしまう。
「あのね…………父さまと一緒にデート出来るのは、すっごく嬉しいんだけど……」
「けど?」
「…………由梨ちゃんも一緒に誘っちゃダメ、かな?」
 えっ、と。愛娘の思わぬ申し出に月彦は思わず息をのんでしまった。
「ど、どうして由梨ちゃんを誘うんだ?」
「……最近、由梨ちゃんの様子が変なの。だから……」
「様子が変って……まさか――」
 月彦は思い出す。以前にも真央から由梨子の様子が変だからデートをしてあげて欲しいと頼まれた事があった。その時は武士との不仲が原因であり、結果的に由梨子は普段通りの元気を取り戻す事が出来た筈だった。
 なのに、再度由梨子の様子がおかしくなったという事は――
(…………そっか。武士くんが家を出たから……)
 真っ先に思いつく要因としてはそれだった。先だって妙子の部屋に挨拶に来た際、明日にでも経つというような事を言っていた。その段階に至っても、由梨子との和解は出来ていなかったという事は、武士の口ぶりからもはっきりしている。
「…………一つ聞く。真央、本当にそれでいいのか?」
「え……?」
「由梨ちゃんを励ますだけなら、何も無理にデートの際に一緒に誘う必要はない。どこか他に時間をとって、由梨ちゃんと二人だけで、或いは真央と三人で話をするって手もある。それでも、真央は由梨ちゃんを誘って、一緒にデートでいいのか?」
 真央は一瞬、悩むように言葉を詰まらせる。
「……あのね、父さま。由梨ちゃん……今、おうちに一人なんだって」
「…………らしいな」
「お父さんは殆ど出張とかで家に帰ってこなくて、お母さんも全然帰って来ないんだって。……だから、きっと寂しいんだよ。普通に話したりとかじゃ、多分……元気出してくれないんじゃないかなぁって思うの」
「……確かに、そうかもしれないな」
 家族が誰も居ない家に一人きり、陰々滅々としていれば鬱な気分にもなろうというものだ。特に由梨子は性格的にもそういった方向に傾きやすいように月彦には思えるだけに、真央の言葉には説得力があった。
「…………分かった。真央がそこまで言うなら、俺に反対する理由はない。週末、由梨ちゃんを誘って三人で温水プールに遊びに行くか!」
「うん! 明日早速由梨ちゃんを誘うね!」



 翌日、月彦はクラスの情報通の友人から目当てのレジャーランドがまだ存命であるとの確認をとった。これで残った憂いは由梨子が申し出を断る可能性だけだったが、それに関しては月彦はあまり心配はしていなかった。
(…………多分、大丈夫だろう)
 何か別の、抜き差しならない事情がない限りは恐らく由梨子は来てくれるものだと、月彦は思いこんでいた。事実、夜に真央から聞いた話では由梨子は殆ど二つ返事でOKしてくれたとの事だった。
(温水プールだから屋内だし、天気も関係ないな。……楽しいデートになるといいな)
 果たして由梨子はどんな水着を着てくるのだろうか――そんな妄想を膨らませながら、月彦は暢気に週末を楽しみにしていた。

 当日の朝、月彦は真央と二人、水着の入った鞄を手に待ち合わせ場所である駅前のバス停へと向かった。由梨子との待ち合わせ時間は朝の九時であり、その十五分前に駅前へと到着すると、既にバス停前のベンチには由梨子の姿があった。
「おはよう、由梨ちゃん」
「由梨ちゃん、おはよー」
「おはようございます、先輩、真央さん」
 由梨子は静かにベンチから立ち上がり、微笑みながら挨拶を返してくる。
(……少し、痩せたんじゃないか)
 ここのところろくに顔を合わせていないからだろうか。元々太くもない体の線が僅かに細ったように月彦には感じられた。
「今日は……誘ってくれてありがとうございます。…………あの、本当に私が一緒に行ってもいいんですか?」
「ここでダメだなんて言うくらいなら、そもそも誘ったりしないって」
 月彦は苦笑を漏らす。やはり由梨子には、自分は真央とのデートの邪魔ではないかという危惧があるらしかった。
「それに、由梨ちゃんを誘って一緒にプールに行きたいって言ったのは真央の方だしさ。……ほんと、気兼ねなんかせずに今日は思い切り楽しもうよ」
「…………はい。……真央さん、ありがとうございます」
 面と向かって由梨子に礼を言われ、真央は照れるように笑った後、月彦の影に隠れるようにぴょんと引っ込んでしまう。
 程なくバスが到着し、月彦一行は三々五々乗り込んだ。目当てのレジャーランドへはバスで片道40分というなかなかの長旅だった。
 バスの座席は二人がけの席が一列と一人がけの席が一列だった。月彦は一人がけの席へと座り、真央と由梨子が二人がけの席に並ぶように配慮をした。
 至極、二人の会話には参加しづらかったが、それでも楽しげに会話をする二人の姿を見ているだけで全く退屈をすることは無かった。

「あ、そうだ。先輩、良かったらこれ使って下さい」
 バスに揺られる事40分、漸くにして目当てのレジャーランドの前までたどり着き、早速中へと入ろうとした矢先、突然思い出したように由梨子が声を上げた。
「え……? 由梨ちゃん、どうしてこんなもの持ってるの?」
 由梨子がポシェットから取り出したのは、三人分の割引券だった。
「……だいぶ前に、新聞のチラシにくっついてたのを切ってとっておいたんです。期限はまだ過ぎてませんから、使えると思います」
「……ほんとだ。三割引かぁ、これは結構大きいな。ありがとう、由梨ちゃん」
「由梨ちゃんすごーい! 今日プールに行くってずっと前から分かってたの!?」
 真央の言っている意味がわからなかったのか、由梨子は目を丸くしたまましばし唖然とする。
「…………違いますよ、真央さん。チラシについてくる割引券とか、とっておくのがクセなんです。ひょっとしたら、行くことになるかもしれない、って……。一種の貧乏性ですね。殆ど役に立つ事なんて無いんですけど……」
「いやいや、そういうのは貧乏性なんかじゃないって! 几帳面な性格って言うんだよ! 何にせよ助かったよ、実は結構予算ギリギリだったんだ。ホントありがとう!」
 マイナス方向へ、マイナス方向へと傾きがちな由梨子の腰に綱をつけて引っ張りあげるようなつもりで、月彦はすかさずフォローをいれる。
「と、とにかく外は寒いし、さっさと中入っちゃおうか」


 受付で入場料金を支払い、更衣室前で月彦は二人と別れた。着替えをしつつ、鍵付きのロッカーへと貴重品や脱いだ衣類などを収めていく。
「んー…………やっぱり新しい水着買うべきだったかなぁ」
 昨日の夜押入から引っ張り出してきたのは、高一の夏前に買ったブルー主体のトランクスタイプの水着だった。サイズが特別小さいというような事はないのだが、なんとなく使い古した感が否めない。……もっとも、実際に着用した 回数など、十にも満たないのだが。
「真央は当然こないだのアレだろうし、さてさて由梨ちゃんは一体どんな水着なのかな」
 期待に胸を膨らませつつロッカーに鍵をかけ、それを輪ゴムで手首へと引っかけ、月彦は更衣室を後にする。
「うぉっ、すっげ…………」
 更衣室の先は既に屋内プール場となっていた。それも、月彦の想像よりも二回りほども大きい巨大空間だった。
「……うちの学校の体育館が六つくらい入るんじゃないのか、これは……」
 一辺が五百メートル以上はありそうな巨大な空間の中には流水プールや、オーソドックスな縦長の長方形プール、さらに遠くにそびえるのは噂に高い温水のウォータースライダーであり、他にも様々な形状のプールが目白押しだった。
(……ちょっと入場料高いと思ったけど、これなら納得だ)
 客入りもまずまずといった所だろうか。流水プールはまばらに人が流れ、ウォータースライダーもその登り口の根本から五人ほどが列を成している状態だった。登り口から滑り口までの階段部分には3,40名は居るだろうか。尤も、4つもある滑り口からぞくぞくと滑っている為、その進みは意外に早い。恐らく今並んだとしても五分とかからずに滑る事は出来るだろう。
「父さま、お待たせ!」
「ん? …………おおっ…………」
 愛娘の声に促されて、月彦はくるりと更衣室の方へと振り返った。真っ先に目に入ったのは、母譲りの――ふしだらと言い換えてもいいほどの――たわわな果実をあられもなくアピールした、真央の水着姿だった。
(……前見た時はそれほどとは思わなかったが……これはちょっと露出が多すぎじゃないか?)
 オレンジの三角ビキニタイプの水着であるから、余計に肌の露出が多く感じるのかもしれない。特に、むちっ……と水着の生地から溢れんばかりに盛り上がった胸元の肉などは、気を抜けばたちまち下半身に血が行ってしまいそうなほどに凄まじい破壊力を秘めていた。
「先輩、お待たせしました」
「……おおお……由梨ちゃんも……」
 そして、やや遅れて現れた由梨子の水着姿に、月彦は圧倒されるように俄に後退りした。
 由梨子のそれも真央同様のビキニタイプではあるのだが、その性格を表しているかのように比較的露出は控えめだった。色は白と黒のツートンカラーであり、フリルつきで、下はスカート状になっていた。その“控えめ”なところが逆に由梨子らしいと月彦には思えた。無論月彦は由梨子の下着姿も、一糸まとわぬ姿も見たことはあるし、今この瞬間にも脳裏に浮かべようと思えば出来るほどに鮮明に覚えてはいた。
 が、しかしこの水着姿にはそういったものとは全く別の――言うなれば、“健全な興奮”を覚えずにはいられなかった。
「ぐ、グッド……!」
 二人の水着姿に大して月彦は両手の親指を立て、ただ一言褒め称えた。口にした言葉はたった一単語であったが、月彦はそれに千の意味を込めたつもりだった。
「…………真央さんの水着、スゴいですね。……いえ、水着がスゴいというよりは真央さんの胸のほうが…………それ……飛び込みとかしたら外れちゃったりしないんですか?」
「確かにな……胸、はみ出してるもんな……ってあれ、そういや真央……お前、泳げるようになったのか?」
 事ここに至ってはたと、月彦は思い出した。去年の夏――出来れば思い出したくはなかったが――とある人物の邸宅の温泉に浸かっていた時、とある女が言っていた事を。真央、あんたまだ泳げないの?――と。
「……まだ泳げないよ? だから、コレもってきたの!」
 と、真央が背中に隠していたものをえいや、と前に出す。
「父さまぁ、お願い。膨らませてぇ」
 そして、甘え声を出しながら月彦へと手渡してきたのは、膨らませる前の浮き輪だった。
「……真央、いい年してプールで浮き輪は……あぁ、いや……一応まだ五歳なんだったか……しかし見た目がそれで浮き輪はちょっとみっともないぞ。……なぁ、由梨ちゃん?」
「そ、そうですね……ちょっと目立つと思います。……その、別の意味で既に目立ってますけど……」
 先ほどから、側を通る小学生らしき男児たちや、家族連れの父親などが真央の方へと目をやっては、ぎょっと目を丸くしていた。その度に、月彦は露骨に自分の体を視線の間に割り入らせたくなる衝動を堪えねばならなかった。
「えぇー……だって、泳げないんだもん……浮き輪が無いとプール入ったら溺れちゃう……」
「だったら、今日泳げるようになればいい。丁度良かったじゃないか、真央」
 うぅ、と。真央が露骨に嫌そうな顔をして、二歩ほど後退りをする。
「い、いいの! 別に泳げなくても平気だって、母さまも言ってたから」
「それは嘘だな。真狐がそんな事を言う筈がない」
 月彦は覚えている。温泉で、真狐は意図的に真央に泳ぎを覚えさせようとしていた事を。あの女なりに、娘のカナヅチをそこはかとなくとでも直そうと思っていなければ、あんな事はしない筈だ。
「そうですよ、真央さん。それに、夏になったら水泳の授業とかもあるんですから。…………今泳げるようになっておかないと、夏になったときに大変ですよ?」
「ううううーーー!」
「……どうやら、最初にやる事は決まったな。まずはあっちの二十五メートルプールに行って、水泳の練習だ。由梨ちゃん、悪いけど手伝ってくれる?」
「はい。……真央さん、一緒に頑張りましょう」
 イヤイヤする真央の右腕と左腕をそれぞれ由梨子と月彦とが掴み、強制的に連行していく。真央はまるで散歩をまだ続けたい犬のように両足で踏ん張ったりして抵抗を続けたが、月彦が囁いた「泳げるようになったらご褒美」の一言で程なく抵抗を止めた。


 二十五メートルプールのプールサイドへと移動し、そこで月彦は入念に準備体操を行った。無論、真央にも由梨子にもそれを促した。
「さて、いきなりさあ泳げって言っても無理だろうからな。まずは顔を水に浸ける練習から始めるか」
 月彦は他の利用者の邪魔にならぬ用、プールの隅っこのほうへと入水し、真央と由梨子を促した。
 最初に由梨子が、そして遅れて真央が渋々プールの中へと入ってくる。
「よし、じゃあ真央。まずは水の中で目を開ける練習からだ。俺が潜るから、真央も合わせて潜るんだぞ?」
 言って、月彦は息を止め、水の中(正確にはお湯だが)へと潜る。遅れて真央が、そして由梨子も潜った。
(……ゴーグルしてないからよく見えないが……目、開けてる……よな?)
 それを確認してから、月彦は水面へと顔を出した。真央も、由梨子もそれに習う。
「なんだ、真央。出来るじゃないか」
「えっ……だって、水の中で目を開けるだけでしょ……?」
「……まぁ、そうなんだけどな。…………とある男の子は、それが出来るようになるまでえらく苦労したらしいぞ?」
「とある男の子……?」
 真央はきょとんと首を傾げただけだが、隣の由梨子は月彦のたとえ話が一体誰の事なのか察したらしく、口元に静かな笑みを浮かべた。
「と、とにかく、それが出来るならもうカナヅチは治ったようなもんだ。じゃあ、次はバタ足の練習だな。真央、俺が手を持っててやるから、バタ足で泳ぐんだ」
 うん、と頷く真央の両手を持ち、月彦はゆっくりと背中側へと歩き出す。それに合わせて真央はバタ足を始める。
「真央、バタ足って言うけど、そうやってばたばた水面を叩くんじゃなくて、水中で水を掻くように動かすんだ。そうだ、いいぞ」
「んしょ……んしょ……こう? 父さま」
「ああ、いい感じだ。あ、由梨ちゃん、もし後ろ誰かとぶつかりそうだったら教えてね」
「はい、任せて下さい」
 背中側へと歩かねばならない都合上、どうしても後方の警戒は疎かになる。それを由梨子に頼みつつ、月彦は片道二十五メートル、往復五十メートルほどそうやって真央にバタ足の感覚を覚え込ませる。
「よーしよし。筋が良いぞ、真央。ここまできたら、もう8割方泳げたようなもんだ……最後に、俺が水泳の極意を教えてやる」
「水泳の極意……?」
「ああ。何を隠そう俺も小学校の三年までは泳げなかったんだ。……でも、姉ちゃんの超スパルタ特訓のおかげで泳げるようになった! いやー、マジだえあの時は姉ちゃんに殺されるかと思ったぞ。こんな風にプールで教えてもらうならともかく、山の奥まで連れて行かれて川の中でだな……竹刀でバンバン背中とかぶっ叩かれながら……っと、その話はまた今度だ」
 由梨子の前で霧亜の話をするのは些か無神経であると、月彦は話半ばで気がつき、止めた。
「いいか、真央。まずは両手を伸ばして、頭の先で指先を重ねるんだ。そう、そのままゆっくり体を水面に横たえるんだ。……大丈夫、ジッとしていれば絶対に溺れない」
 月彦は真央の体を支えながら、水面に対して平行になるように横たえていく。
「よし、それでいい。あとはそのままさっきみたいにバタ足をするんだ」
 言われるままに、真央はばたばたとバタ足を開始し、五メートルほど泳いだ所で息の限界だったのか、ぷはぁと顔を上げて足をつく。
「どうだ、真央。初めて“泳いだ”感想は」
「え……? 私、泳いだの?」
「なんだ、自分で分からなかったのか? 俺の所からそこまで、自分で泳いで行ったんだぞ? なぁ、由梨ちゃん」
「はい。真央さんはちゃんと泳いでましたよ」
「えっ、だって……」
「分かったか、真央。泳ぐのなんて何も難しい事はない。ただ、水に浮かんで、あとはバタ足で前に進めば、それが泳ぐって事なんだ。……簡単だろ?」
 言いながら、月彦は奇妙な感慨に浸っていた。言い回しこそ違うものの、それはすべて自分がかつて姉に言われた言葉そのままだからだ。
(まずは水に浮く。あとそこから進めばそれはもう泳いだことになる、っていうのも姉ちゃんに言われた事だしな)
 そうして、泳ぐという事は何も難しい事ではない。極々簡単な事だと、“思わせる”事が大事なのだと、月彦は身をもって知っていた。だからこそその流れをなぞり、まずは真央の中にある“自分は泳げない”という壁を撤廃させる事から始めたのだった。
「そら、真央。今度は今のを自分でやって、俺の所まで戻ってくるんだ。……出来るな?」
 先ほどのバタ足で自信をつけたのか、真央はコクリと頷くと先ほど同様に両手を頭の先へと延ばして重ね、ばたばたとバタ足で月彦の元へと戻ってくる。
「ぷはぁっ……どう、父さま!」
「凄く良かったぞ。……ただ、バタ足がまた水面を叩いてたから、そこは直さないとな」
「あ、そっか。水の中で掻かなきゃいけないんだよね」
「そうそう。その方がもっと楽に前に進めるからな。感覚としては、足の甲と裏でグイグイ水を掻く感じだ」
「わかった! やってみる!」
 真央は嬉々として声を上げ、促すより先にプールの向こう岸目がけて泳ぎだし、先ほどの5メートルよりやや遠い8メートルほどの地点で足をつき、そして同様に戻ってくる。
「父さま、どうだった!?」
「ばっちりだ。これならもういきなりクロール覚えても良さそうだな。……どうかな、由梨ちゃん」
「いいと思います。……良かったら、私がちょっとやってみましょうか?」
「おっ、じゃあ由梨ちゃんお願い。……真央、由梨ちゃんが手本みせてくれるから、よく見てるんだぞ?」
 うん、と真央が頷くのを確認してから、由梨子はプールの飛び込み台側の壁を蹴り、そのまま十五メートルほどをクロールで泳ぐ。真央への見本である事を意識してか、スピードよりも手の動きや息継ぎなどが分かりやすいようゆっくり動かしながら。
「……こんな感じです。息継ぎは1,2,3,4の4の所……右手、左手、右手、左手の二回目の左手でやるような感じでやると良いですよ」
「俺は左はやりにくいから、いつも右だな。まぁその辺は真央がやりやすいと思う所でやればいい」
「右手、左手、右手、左手……」
 真央はぶつぶつ呟きながら、自ら両手で水面を掻くような仕草をする。
「そうそう。最初はまず手の動かし方を覚えないとな。歩きながらでいいから、どういう感じで動かして、どこで息継ぎするかを覚えるといい」
「そうですね。真央さん、焦らなくてもいいですから、一つずつやっていきましょう」



 

「よーし真央。大分様になってきたな」
 歩きながらクロールの手の動きを練習し、その次は月彦が両足を持った状態で両手を動かして息継ぎの練習。
「息継ぎができるなら、もうクロールは出来たも同然だ。次は自分でバタ足しながらやってみるんだ」
「うん!」
 真央は勢いよく頷き、先ほど由梨子がそうしたようにプールサイドの飛び込み台の壁の側まで移動すると、壁を蹴ってそのままクロールで泳ぎ始める。
「おっ、ちゃんと出来てるじゃないか」
 まだ多少不格好ではあるものの、真央がやっているそれは百人が見て百人ともクロールだと答える程に様になっていた。
「……まだ、プールに入って二時間経ってませんよね。……上達、早すぎませんか?」
「言われてみれば……」
 驚嘆の息を漏らす由梨子に、月彦も頷かざるを得ない。
(ひょっとして……真央って天才なんじゃ……)
 等と親バカな事を考えてしまうも、さすがに口には出せない。
「ぷはぁっ……父さま、どうだった!?」
「バッチリだ。そこで足をつかなかったらもっと良かったぞ、真央」
 真央が足をついたのは丁度プールの中間当たり、12,5メートル地点だった。
「息継ぎができるなら、二十五メートル泳げる筈だ。次は足をつかないでいけるところまで行ってみろ」
「うん!」
 真央はいったんプールから上がり――その方が戻りが早いと思ったらしい――再び飛び込み台の壁の側へと入ると、壁を蹴って泳ぎ出す。
「…………先輩、私ちょっと気になったんですけど」
「うん?」
「真央さんって……やっぱりタフですよね。……まだ泳ぎ不慣れなのに、あんなに連続で泳いで全然息上がってないみたいですし……」
「あぁ……まぁ……うん……。…………真央は、タフだと思う。特に有酸素系スポーツには強いんじゃないかな」
「でも、マラソンは苦手みたいですよ? …………ただ、あれは胸のせいかもしれません」
「…………確かに。あんな重そうなの首から提げたまま走ってたら、俺でもすぐにバテそうだ」
 そんな話をしているうちに真央はあっさりと向こう岸まで到着し、満面の笑顔でぶんぶん手を振っていた。
「…………もう25メートル泳げるようになっちまった。…………俺が二十五メートル泳げるようになるまで、姉ちゃんの特訓開始から二週間かかったってのに」
 半ば呆れるように感心している月彦の元へ、今度は真央は往路同様クロールで戻ってきた。
「ぷはっ……父さま、見てた!? 私二十五メートル泳げたよ!」
 往復五十メートルはさすがに少々堪えたのか、真央は肩で息をしながら嬉々とした声を上げる。
「凄いです、真央さん。二時間前まで泳げなかったなんて信じられないです」
「えへへ、ありがとう、由梨ちゃん」
「本当にすごいぞ、真央。これでもう体育で水泳の授業があっても大丈夫だな」
「うん! ……だけど……」
「けど……なんだ?」
「あのね……泳いでる時に、おっぱいが引っかかる感じがして、なかなか前に進めないの。これはどうすればいいの?」
「……………………そればかりは俺にはどうしようもないな。馴れるしかない、としか言えない」
「…………。」
 困ったような顔をする月彦同様、由梨子もまたかける言葉がないのか、片手で肩を抱きながらそっと目を伏せる。
「あっ、そーだ! 父さま、次はアレ教えて!」
 二十秒ほどの沈黙の後、不意に真央が飛び込み台の方を指さした。
「アレ?」
「うん、アレ! アレやりたい!」
 真央の指の先を辿ると、三つとなりのコースで、今まさに飛び込まんとしている見事な逆三角形マッチョさんの姿があった。恐らくはライフガードでもやっているのか、逆三マッチョは飛び込み台を蹴るとまるで魚雷のように水面へと突き刺さり、見えない糸かなにかで引っ張られているかのような強烈なスピードで向こう岸へと到達した。
「…………飛び込みをやりたいのか?」
「うん!」
「……悪いことは言わない。それは止めておけ、真央」
「ええぇー……どうしてぇ?」
「私も絶対止めた方がいいと思います。…………絶対、外れます」
「……だな」
「外れる……?」
 真央は月彦と由梨子が言わんとする言葉が理解できないとばかりに首を傾げる。その仕草は正にあどけない無邪気そのものであり、三角形の布地部分以外は殆どヒモで構成された己の水着の対衝撃性能など微塵も疑っていないらしかった。
「飛び込みを練習するなら、もうちょっと、こう……なんつーか、ワンピースタイプの水着じゃないとな」
「そうですね。馴れない頃なら尚更そうしたほうがいいと思います。……私も、一応飛び込みはできますけど、この水着でやるのはちょっと怖いです」
「……そういう事だ。真央、とりあえずクロールは出来るようになったんだから、今日はそれで十分だろ?」
「……うん。……じゃあ、今度にする」
 しゅーんと、狐耳を出していたらそれこそ露骨に下を向きそうな程に肩を落とす真央を見かねたように、声を出したのは由梨子だった。
「そうです、真央さん。折角ですから、クロールで二十五メートルどっちが早いか競争しませんか?」
「えっ、私と由梨ちゃんが?」
「はい。さっき見てたら、真央さん結構早かったですし、いい勝負になるんじゃないかって思うんです」
「面白いな。よーし、じゃあ俺が商品を出そう! もうすぐ昼飯時だし、勝った方には俺がチョコパフェを奢るぞ!」
「チョコパフェ………………由梨ちゃん、私まだ泳げるようになったばかりの初心者なんだよ? ハンデ欲しいなぁ」
 真央、本気で勝ちを狙うつもりだな――と、月彦は内心苦笑していた。
「ハンデですか……先輩、どうしましょう?」
「うーん……そうだなぁ。確かに真央はまだ泳げるようになったばかりなんだし……ハンデ五メートルくらいが妥当じゃないかな?」
「真央さん、それでいいですか?」
「ハンデ五メートルって、私が五メートル泳いだら勝ち?」
 冗談ではなく本気でそう言ってそうで、月彦は些か肝を冷やした。何故なら、真央は既に両目に見てとれる程にパフェしか映っていなかったからだ。
「真央が五メートル地点に到達したら、由梨ちゃんが出発って事だ。……それならいいだろ?」
「えぇー………………うん、じゃあそれでいいよ」
「よし、決まりだ。真央はこのままここ12コースで、由梨ちゃんはとなりの11コースで。合図は俺が出すから、二人とも準備して」
 月彦はプールから上がり、二人が所定の位置につくのを待った。程なく由梨子、真央がそれぞれ壁を背にして立つのを確認して、大きく声を上げた。
「よーい!………………スタート!」



 屋内プール場の片隅に設置されたランチスペースは相応に広く、四人がけのテーブル席だけでざっと三十席ほどはあった。また料理の種類も多種多様で昼食のメニューを選ぶのに苦労する程だった。
 予算の関係もあって月彦は月並みながらも大盛りカレーを選び、真央もそれに習った。由梨子は月見そばを、そして二人の間には先ほどの勝負の景品であるチョコパフェが置かれた。
「いやー、しかしいい勝負だったな。五メートルのハンデつきとはいえ、まさか同着までもつれ込むとはな」
「そうですね。明日勝負したら、ハンデなしでも私が負けちゃうかもしれません」
 由梨子ははにかみながらそんな事を言うが、プールサイドに上がって上から見ていた月彦には分かっていた。ハンデ五メートルの後に出発した由梨子のスピードは明らかに真央を上回っていた。そのまま行けば、恐らく1,2メートルほどの差をつけて由梨子が勝っていただろう。だがしかし、途中で明らかに由梨子はペースダウンをした。真央に勝ちを譲ろうとした事は明白だった。
 ただ、真央の方も馴れぬ水泳の練習を行い、疲れが溜まっていたのだろう。由梨子の計算以上に後半ペースダウンをしてしまい、結果同着という流れになったのだった。
「由梨ちゃん、早くおそば食べないと、パフェ溶けちゃうよ?」
 水着のまま食事が出来る様、ランチコーナーにも、相応に暖房がかけられている。それらの熱風によってパフェが溶けてしまうのを真央は懸念しているらしかった。ちなみに、真央はとっくにカレーライスを食べ終え、柄の長いパフェ用スプーンを握ったまま由梨子がそばを食べ終わるのを今か今かと待っている状態だったりする。
「折角ですけど……私は蕎麦だけでお腹一杯になっちゃいそうです。パフェは真央さんが食べちゃって下さい」
「えっ、いいの?!」
 真央は嬉々と声を上げ、ちらりと月彦の方へと視線を送ってくる。吐血事件を境に、よく噛んで食べるように努めている月彦もまだ1/3ほどカレーを残している状況だったが、
「……まぁ、由梨ちゃんがそう言うなら仕方ない。真央一人で食べていいぞ」
 由梨子の気持ちを汲んで、そう答えた。たちまち、真央は嬉しげな悲鳴を上げてパフェにかぶりつく。
「おいしーーーーー! このパフェ、すっごく美味しいよ、父さま!」
「水泳の後だからな。泳いだ後はカップ麺でも涙が出るくらい美味しく感じるもんだ」
 ましてや、“甘いモノ”は疲れを癒す。体が欲しているものはより美味しく感じるというのが体のメカニズムだ。水泳勝負で勝ち取ったチョコパフェの美味しさはひとしおだろうと月彦は思う。
「由梨ちゃんも絶対食べた方がいいよ! ね! ね!」
「……じゃあ、少しだけ頂きますね」
 真央の熱意に押される形で由梨子は渋々スプーンを受け取り、パフェに口を付ける。
「甘くてすっごく美味しいですね」
「美味しいよねー! あっ……」
 と、由梨子からスプーンを受け取り、再度パフェを突こうかとした矢先、スプーンの先からてろりと。クリーム状に溶けたバニラアイスが垂れ、胸元へと落ちた。
「垂れちゃった……んっ……」
「こ、こらっ、真央!」
 もったいない――という無意識の行動なのだろう。真央はスプーンを置くと、自ら胸を寄せ上げるようにして、胸元へと垂れたアイスを舌先で舐め取った。――瞬間、月彦は周囲の喧噪が二秒ほど静まりかえるのを感じた。
「……? 父さま、由梨ちゃん……どうしたの?」
「……いや、何でもない。……真央、行儀が悪いから、次からは止めるんだぞ?」
「………………凄く、見られてましたね」
 まるで、由梨子自身が裸でも見られたかのように顔を赤くし、肩を縮こまらせる。
「…………?」
「そ、そーだ! 食い終わったらさ、今度はスライダーとか、色々回ってみないか? 折角遠くまで来たんだし」
「そ、そうですね。食べてすぐ泳ぐのは危険って言われてますけど、スライダーだったら……」
「さんせーい! 早く行こ!」
 マッハでパフェを食べ終わった真央に急かされる形で、月彦、由梨子もまた大急ぎで食事を終え、ランチスペースを後にした。


 ウォータースライダーをそれぞれ4,5回は滑り、月彦はいったんベンチで一休みすることにし、由梨子もそれに習った。一人真央だけが興奮冷めやらぬとかばりに再びスライダーの登り口へと小走りに駆けていった。
「…………先輩、どうしたんですか?」
「ん? どうしたって?」
「いえ……その、さっきからちょっと浮かない顔してるように見えましたから……」
「ああ。それはね……ちょっと気になることがあるからだよ」
「気になること……ですか?」
「うん。……そろそろじゃないかな、って……」
 言いながら、月彦は周囲へと視線を這わせる。そう、自分のカンが正しければ、そろそろの筈なのだ。
 タイミング的に――そろそろ“あの女”が。
「こういう楽しい場をぶちこわすのが何より好きな奴だからな。……今頃、どこかその辺で乱入する機会をうかがってるに違いない」
「……あぁ、真央さんのお母さんの事ですか。…………確か、前も三人で遊んでる時に……」
「そうそう、懐かしいなぁ。アン時もいきなり現れて因縁ふっかけてきて、なし崩し的に俺たちに混じって来たんだよな」
「本当に懐かしいですね。…………でも、別に真狐さんだったらいいじゃないですか。一緒に楽しく遊べば問題ないと思います」
「甘い、由梨ちゃんは甘いよ。…………あの後、アイツのせいで俺たちがどれだけ酷い目に遭ったか……」
 そう、由梨子は知らないのだ。あのボウリング対決の後、逆恨みをした真狐によって紺崎家の庭がどれほど悲惨な状況にされたか。また、それらを片づけるためにどれほどの労力と時間が必要だったかを。
「…………二人で何の話してるの?」
「ん、おお。真央戻ったか。もうスライダーはいいのか?」
「うん。…………父さま、由梨ちゃんと何のお話してたの?」
「いや、なに。別にやましい話じゃないぞ? 何となく、そろそろ真狐が混じってくるんじゃないかな、って二人で話してただけだ。なぁ、由梨ちゃん」
「はい」
「……母さまは来ないよ?」
 真央は首を傾げながら、まるでそれが当たり前だと言わんばかりに呟く。
「来ない……のか?」
「うん。一昨日くらい前に、“どーそーかい”に行くから、しばらく会えないって言ってたよ」
「どーそーかい……同窓会? アイツが?」
 同窓会とは、学校に通った事がある者が参加する会ではないのだろうか。月彦は俄に首を傾げた。
「昔の知り合いとかが集まるんだって。母さま、すっごく楽しみにしてるみたいだったよ」
「そ、そうか……んじゃ、今日はアイツは混じってこなそうだな。うん、そりゃよかった」
「…………先輩、少しガッカリしてませんか?」
「な、何言ってんだよ! ガッカリなんかするわけないだろ!? むしろホッとしたくらいだ。アイツが混じってくるといつもロクな事がないし、こないだだって真央に化けて酷い目に遭わされたばっかなんだからな!」
 月彦は慌ててベンチから立ち上がり、オーバーアクションを交えて必死に弁明をした。が、それがかえって徒となったのか、愛娘からはどこかしらけたような目を向けられ、後輩からはやんちゃな子供を見守る母親のような微笑を向けられてしまった。
「ち、違う……本当にガッカリなんかしてないんだからな!?」
 誤解されたままでは堪らないとばかりに、月彦は再度否定した。
(そりゃあ……アイツがどんな水着着て現れるのかって、そこだけはちょっと気にはなったけど……)
 娘の真央ですら、この有様なのだ。真狐がビキニなど着て現れようものならプールサイドを自らの鼻血で赤く染める男達が一人や二人現れてもおかしくはないのではないか。
「…………そ、そういや、さっき上から見たら向こうにポチャンコプールって変わったのがあるらしいな。お、面白そうだから、ちょっと行ってこようかな」
 なんだか弁明をすればするほど墓穴となるような気がして、月彦は強引に話題を切り替えて歩き出した。その後に由梨子が続いて、最後に真央が続いた。



 世にも珍しいポチャンコプールの後は流水プールへと移って遊んだ。レンタルのサメの乗り物を借りて三人で交互に乗りながら流水プールを心ゆくまで楽しんだ。
「ねーねー、父さま。このプールってどうして流れてるの?」
 流水プールを五週くらいした頃だろうか。サメの乗り物に跨ったまま真央がそんな疑問を口にした。
「何カ所か、凄い勢いで水が噴き出してるところがプールの中にあるんだ。檻みたいに格子がついててな、小学生とかの頃はよくそこに掴まって遊んだりしたもんだ」
「私は危ないから絶対に近づいたらダメって教えられました」
「うん、それが普通だと思うよ、由梨ちゃん」
 しかし、悪ガキにとって絶対に近づいてはいけないという場所ほど好奇心をかき立てるものはない。
(そうだ……あんときもそうやって噴射口の格子に掴まって鯉のぼりみたいになってたら……)
 突然水着のヒモが緩み、するすると凄まじい速度であっという間に足首から抜けていってしまい、幼なじみ達の前でとんだ生き恥を晒すハメになった事を、月彦は不思議な苦みと共に思い出した。
「……うん、流水プールの噴射口は危ない。絶対に近づくべきじゃない」
「私、ちょっと見てみたいなぁ……」
「ぜぇーーーーったいダメだ! ホントに危ないんだからな!?」
 さすが、自分の血が半分混じっている事はあると、月彦は唸らざるを得なかった。噴射口に並々ならぬ好奇心を示す真央に自分と同じ過ちをさせない為に、心を鬼にしてでも月彦は止めるつもりだった。
「つっても、さすがに疲れてきたな。気がついたらもう夕方か……」
 所々設置されている時計を見ると、既に午後四時を過ぎている。食休みがあったとはいえ、六時間近く水の中に居る計算になる。疲れない方がおかしかった。
「あんまり遅くなると由梨ちゃんもマズいだろうし、どうする? そろそろ出て帰るか?」
「えー! やだっ、私はもっと泳ぎたい!」
 泳ぎたい、というよりは浮きサメに情が移ったと言わんばかりに、真央はひしっ、と両手でサメに抱きついてイヤイヤをする。
「私は、別に何時まででも…………帰っても、どうせ誰も居ませんし……」
「……由梨ちゃん…………」
 しまった、嫌なことを思い出させてしまった――忽ち由梨子の周囲に影が濃くなる気配を感じて、月彦は心中で舌打ちをした。
 そう、まさに失言。楽しげであった雰囲気など一気に吹き飛んでしまい、三人の間にどこか重苦しい空気だけが残った。
 そのまま、ぷかぷかと浮かぶサメの浮き輪の速度に合わせる形で流水プールを一週した辺りで、はたと。
 由梨子が口を開いた。
「…………あの、先輩。……先輩は……泳ぎは得意、ですか?」
「ん? んー……どうだろう。可もなく不可もなく……昔は泳げなかったけど、今じゃそれなりに泳げるし、自分では得意な方だと思ってるけど」
 何故急にそんな事を尋ねるのだろうと、月彦は由梨子の真意を測りかねた。
「私も、泳ぎは割と得意なんです。……………………もし良かったら、先輩……私と二十五メートルプールで百メートル自由形の勝負をしませんか?」
「えっ……俺と……由梨ちゃんが、勝負?」
「はい」
「そりゃあ構わないけど…………急にどうしたの?」
「なんとなく、です。……こうして先輩と一緒に泳ぐ機会なんて、もう無いかもしれないじゃないですか」
「そんな事はないって! 冬の間は難しいけど、夏になったらプールだって、海だって行けるんだしさ」
「分かってます。…………でも、私は今、先輩と勝負がしたいんです」
「……由梨ちゃん、どうしたの?」
 由梨子らしからぬ物言いに、サメに跨ったまま陶然としていた真央までもが口を挟んでくる。
「……別に、どうもしません。…………私が先輩と勝負をしたいって言い出すのは、そんなにおかしいですか?」
「お、おかしくはないけど…………まぁ、いいさ。由梨ちゃんが勝負したいっていうんなら。俺も久々に本気で百メートル泳いでみたいし。……やろうか」
「はい。……本気でお願いします。私も、本気で泳ぎますから」
 言って、由梨子は一足先に流水プールから上がってしまう。遅れて月彦も上がり、最後に真央がサメから降りて先に上がった月彦にサメを渡し、自らも上がった。
「……先輩、“本気の勝負”には、賞品がないとダメですよね」
「賞品……? ま、まぁ……言われてみれば、確かに。……さすがにまたパフェってのもアレだから、晩ご飯でも賭ける?」
 財布に残っていた金を計算しながら、月彦がやや小声で提案するが、由梨子は真顔のまま静かに首を振った。
「こういうのはどうですか、先輩。…………この勝負で、もし先輩が勝ったら……私は何でも一つだけ、先輩の命令に従います。…………私が勝ったら、今日……私は先輩を“お持ち帰り”する。…………ダメですか?」


「お、お持ち帰り……って……ゆ、由梨ちゃん?」
 目の前に居るのは本当に由梨子なのだろうか――その可能性すら疑いながら、月彦は目を白黒させた。それは傍らにいる真央も同様だった。
「…………わけのわからない事を言ってるのは、自覚してます。………………先輩がどうしても気が進まないんでしたら、勝負自体なしでもいいです」
 しかし、いつになく真剣な声でそう呟く由梨子に、月彦は偽者の可能性を全否定した。
 由梨子らしくはない。らしくはないが、由梨子には由梨子の、止むに止まれぬ事情があって“らしくない振る舞い”をせざるを得ないのではないかと。
(……つっても…………負けたら、お持ち帰りってのは……)
 これが由梨子との二人きりのデートであれば、迷いこそすれその返事には困らなかっただろう。しかし、真央の目の前でとなれば話は別だ。
(受けて、もし負けたら……真央はどうなる?)
 一人寂しく家路につく真央の姿を想像して、月彦はそれだけで胸が苦しくなる。
(…………いやでも、考えてみたら――)
 それは、勝負をしない場合でも同じではないのか。そう、真央が由梨子に変わるだけで、楽しかった三人の時間から一人だけ切り離され、寂しく家路につくという点では何も変わらないではないか。
(どう、したら……)
 いっそいつぞやの様に三人で――と切り出そうとするも、“場”の雰囲気がそんな軽はずみな提案を受け付けなかった。
「……いいよ」
「ま、真央!?」
「私はそれでいいよ、由梨ちゃん」
 まるで答えに窮している月彦の代わりに、とでも言うかのように真央が口を開く。挑発的――というわけではない。あくまで淡々と、無感情を装うような口調で。
「……わ、分かった。真央がそれでいいっていうんなら、由梨ちゃんの条件を飲むよ」
「………………ありがとうございます、先輩、真央さん」
 由梨子は月彦の心中の葛藤、そして真央の想いすらも察したような複雑な微笑で、ぺこりと小さく頭を下げた。

 コース上に誰も居ない十二コースと十一コースの飛び込み台に由梨子と並んで立って尚、月彦は迷っていた。
 そのさらに傍らには、真央が居る。僅差の勝負となった場合の判定は真央に委ねられていた。それを言い出したのは由梨子であり、真央が不正な着順を言う可能性についてはあえて無視したのかは、月彦には分からなかった。
「よーい……」
 真央が右手を振りかぶり、声を上げる。その段階に至っても尚、月彦は迷っていた。由梨子がどれほど泳げるのかは分からないが、月彦とてそんじょそこらの一般人には負けない程度の泳力を備えている自負はあった。
(……なんたって、姉ちゃんに鍛えられたからな!)
 そう、思い出すだけで身の毛のよだつ姉の猛特訓を受けたのだ。勿論特訓を受けたこと自体は五年以上も昔の話であるが、だからといって一度覚えたものをそうそう忘れるという事もない。
 由梨子が小中と水泳部に所属し、“○○小のトビウオ”だの“○○中の人魚姫”だのといった異名を獲得するほどの泳ぎ上手でさえなければ、十中八九負けないつもりだった。
 が、しかし。月彦は迷う。勝ってしまっていいのか――と。
「どん!」
 あっ、と思った時には、水面へと飛び込んだ由梨子の尻が視界の端に見えた。しまった、出遅れた――そう考えるよりも早く月彦は飛び込み台を蹴り、水面へと飛び込む。
(痛っ……少し腹を打ったか)
 お世辞にもスマートな飛び込みとは言えなかった。もしこんな無様を姉との特訓中に晒していたならば、水から上がろうとした瞬間、竹刀で喉を突かれている所だと、月彦はかつての記憶を思い出しながら震えた。
 自然と、ペースが上がる――右斜め前方を行く由梨子との距離が俄に縮む――が、そこでまたしても月彦は考える。
 勝ってしまって良いのか――と。
 そう、この勝負、由梨子に勝てるかどうかは正直分からない。だがしかし、負ける事に関しては容易い。単純に手を抜けばいいだけの事だ。
(由梨ちゃんが勝ったら――即ち、俺が負けたら……俺は、由梨ちゃんにお持ち帰りをされなければならない)
 即ち、本気で勝利を目指すという事は、自分を押し倒そうとしている由梨子を力任せに押しのける行為に等しいという事になる。無論、勝負は勝負と割り切る事も出来なくはないが、様々な事情が月彦にその割り切りを禁じていた。
 二十五メートル地点、視界の端で由梨子がくるりと華麗にクイックターンを決めるのが見えた。遅れること数秒、月彦もまたクイックターンで由梨子の後を追う。
 月彦はさらに考える。何故急に由梨子がこんな勝負を持ちかけてきたのか。それは、“家に帰った後”の事を考えたからに違いがなかった。由梨子の言葉を借りれば“誰も居ない家”に、一人で帰る事が堪らないほどに寂しかったからではないのか。
 それこそ、“らしくない”と思われる程に強引に切りだしてでも、それを回避したいと思えるほどに。
 五十メートル地点。由梨子との距離が若干広がった。月彦もそれなりに本気で泳いではいるのだが、由梨子も自分で水泳は得意だと言うだけはあって早かった。しかし、“勝てない程”でもない――それが、余計に月彦を迷わせた。
 いっそ、由梨子がどう頑張っても敵わない程に泳ぎが達者であれば、諦めもつく。しかし勝とうと思えば勝てる速さなだけに、月彦は己の心の本質を問われているように思えるのだった。
 即ち。
(…………由梨ちゃんの事が一番好きだったら……普通は手を抜く……よな)
 そう、月彦自身、手を抜きたいのは山々だった。が、そうできない理由がプールサイドにある。母譲りのめざとさを持った真央の事だ、僅かでも手加減しようものならば、きっと見抜き、そして口にこそしないまでも心の奥で思うだろう。
 あぁ、父さまは由梨ちゃんの方が好きなんだ――と。
 七十五メートル地点。さすがに息が上がり始める。腕が重く、巧く水をかけない。ペースダウンも止む無し――だが、それは由梨子も同じらしい。一気に開くかと思われた差は逆に縮まり出し、ラスト十五メートル辺りで殆ど横並びになった。
(……ごめん、由梨ちゃん。俺は……)
 皮肉なことに、序盤逡巡していた分月彦には余力が残されていた。最後の十五メートルではその余力がそのまま勝利の要因となる形で、月彦は腕一本分の差をつけて先にゴールの壁へとタッチした。



 更衣室を出た先で由梨子、真央と合流し、レジャーランドの外へと出ると、辺りはもうすっかり夜になっていた。
 腕時計へと目をやると、既に七時を回っていた。
(……そりゃあ、疲れるわけだ)
 こうしてバス停でバス待ちをしているだけで、ゆらゆらと全身が波に揺られているような錯覚すら覚える。昔、海で一日中泳いだ後などによくこういう状態になったなぁ、と。そんな事を考えながら、月彦はやがて到着したバスへと乗り込んだ。
「すっごく楽しかったね! また来ようね、父さま!」
「あぁ、そうだな……」
 疲れもあってか、月彦はつい気のない返事しか返せなかった。そしてその視線の先は、往路で月彦がそうしたように一人がけの席へと座った由梨子の姿が捉えられていた。
 “勝負”の後の由梨子は普段通りの、慎ましやかな後輩そのものだった。負けました、先輩、水泳本当に得意なんですね――そんな事を言いながらはにかむように笑う由梨子は、本当に普段通りにしか見えなかった。
 しかし、その胸中はやはり複雑なのだろうと月彦は思う。
(…………やっぱり、負けるべきだったかな……)
 態とであれなんであれ、“お持ち帰り”を由梨子が望むのであれば、その意を汲んでやるべきではなかったのか。
(でも、そしたら今度は真央が……)
 否、同居している真央ならば、後からいくらでもフォローをきかせられるのではないか。やはりあの場合、優先されるべきは由梨子であったのではないのか。
(…………ヤバい、かなり……疲れてるな)
 一人元気いっぱいの真央の話を殆ど生返事で聞きながら、月彦はうつらうつらと何度も窓ガラスに額を打ち付けそうになりながらも、由梨子のために自分が何をしてやれるかを考え続けた。

 道が混んでいた為か、往路よりも十五分ほど余計に時間が掛かって漸く、バスは最寄り駅のバス停へと到着した。
 時刻は軽く八時を過ぎている。一日プールで泳ぎ通した為か、腹もかなり減っていた。帰る前にファミレスで夕飯でも――という流れが自然のように思えて、月彦はそれとなく切りだしてみることにした。
「どうだろう。折角だから、どこかその辺で夕飯でも一緒に食べない?」
「さんせーい! もうね、さっきからお腹がきゅー、きゅーって鳴りっぱなしだったの!」
 真っ先に元気よく返事を返してきたのは真央だった。月彦としては、真央がそうして賛成してくるのはすでに分かり切っていた事だから、問題は――。
「あっ……」
 由梨子は、まるで寝ていたところを揺り起こされたような、そんな声を出して、キュッと。白の上着――トレンチコートの裾を握りしめながら、小さく呟いた。
「……すみません。私は……ちょっと……遠慮します」
「あぁ、大丈夫だよ。夕飯くらいは俺が奢るって! 由梨ちゃんが割引券もってきてくれたおかげで、少しだけ余裕があるし」
「由梨ちゃんも一緒に行こうよ!」
 真央は、勝負の確執など忘れてしまったかのように、嬉々とした声で月彦の言葉に賛同する――が。
「…………すみません。……食欲、あまりないんです…………今日はこれで帰ります。誘ってくれてありがとうございました」
「あっ、ちょっ、由梨ちゃん!」
 月彦が止める間もなく、由梨子は小走りに駆け出してしまい、あっという間に雑多とした人混みの中に紛れ込んでしまう。
「………………まいったな」
 ぽりぽりと頭を掻きながら、月彦は小さくため息をついた。一緒に食事をし、せめて別れるその一瞬までは明るい気持ちのまま家路につかせてあげたいと。そう思っての提案ではあったのだが、由梨子に拒絶されては元も子もなかった。
「……父さま、由梨ちゃん追いかけてあげて」
「真央?」
「由梨ちゃんが見つからなくても、由梨ちゃんちまで行けば、絶対大丈夫だよ。父さま一人だったら、絶対由梨ちゃんは家の中に入れてくれるよ」
「…………………………。」
 真央の提案に、一瞬。ほんの一瞬だけ月彦は迷ったが、しかし行動には移さず、代わりに自分を見上げる真央の頭にぽむと手を置き、くしゃくしゃと撫でた。
「……真央、そんなに何でもかんでも由梨ちゃんに譲ろうとするな」
 人を思いやる優しい気持ちを真央が持ってくれている事は嬉しい。しかし、その言葉のままに由梨子を追えば、自然と真央を蔑ろにする事になる。
「由梨ちゃんとは、また月曜日にでも改めて話をするさ。今日の所は、このまま大人しく帰ろう。……夕飯も、家に帰ってからでいいだろ?」
「でも……」
「それに、約束だしな。…………泳げるようになったら、“ご褒美”って」
 ぼそりと、小声で囁いてやると、「あっ」と真央は思い出したような声を出して、みるみるうちに頬を赤く染めた。
「とう、さま……ご褒美、くれるの?」
「約束だからな。どんなご褒美がいいか、家につくまでじっくり考えとくんだぞ?」
「う、うん……ご褒美……考えとく」
 ふーっ、ふーっ。
 忽ち手負いのケモノの様に呼吸を荒くし、悶々と妄想に耽っている愛娘の様子に苦笑しながら、月彦は家路を辿った。



 雑多とした駅前の人混みをかき分け、早足に――ほとんど逃げるように由梨子は家路を急いでいた。
 そう、逃げてしまいたかった。今の、この現実から。
「…………っ……」
 馬鹿な事をした――と、ほんの二時間ほど前の自分の行動を思い出すたびに、由梨子は叫び出したくなるのを堪えなければならなかった。
(折角……せっかく、先輩と真央さんが、遊びに誘ってくれたのに……)
 どうして最後まで笑って、笑顔のまま別れる事が出来なかったのか。自分という存在のままならなさに涙すら滲みそうになる。
(あんな勝負持ちかけたりなんかして……死にたい……死んじゃいたい……っ……)
 よりにもよって真央の目の前で、そして月彦本人に勝負を申し込んで、勝ったらお持ち帰りなどと、由梨子自身己の常識を疑いたくなる醜態だった。仮に望み通り勝ったとて、どんな顔をして月彦を連れて帰るというのか。そして、真央を一人で帰らせるというのか。
(死にたい、死にたい、死にたい、死にたい……!)
 肌が切れそうな程に鋭く冷たい寒気をもってしても、羞恥の余り上気した肌を――赤面した顔を冷やすには至らない。
「ぁぁぁ……ァァァァァッ……!」
 本来ならば、思い切り叫びたい。しかしそれは叶わず、代わりに暗い穴の底で亡者が嘆いているような、そんなうめき声を上げながら、由梨子は歩道の端にしゃがみ込んでしまった。
 きっと、通行人には変な顔をされているだろう。ひょっとしたら誰かに肩を叩かれるかもしれない。由梨子は側を人の足音が通るたびに声をかけられる事態に戦々恐々とし、そしてほんの少しだけ、期待もした。
 そう、肩を叩かれ愛しくて堪らない先輩の優しい声で「由梨ちゃん、大丈夫?」――と声をかけられるのを。
 しかし、現実はそう甘くはないという事を、由梨子は時の流れと共に思い知った。そうして歩道の端にしゃがみ込んでいたのは、時間にして恐らく十分も経っていなかっただろうが、不思議と頭は冷え、由梨子は少しだけ冷静さを取り戻した。
(…………帰らなきゃ)
 プールで、体のほうも相当に疲れているのだろう。こうしてしゃがみ込んでいるだけで、まるで催眠ガスでも嗅がされているかのように瞼に重みを感じた。帰らなければ、このまま寒空の下しゃがみ込んでいたところで、自分には帰りを心配してくれる者も、探しに来てくれる者も居ないのだ。凍え死にたくなければ、自分の足で家へと帰るしかない。
(…………帰ったら、すぐに真央さんの携帯に電話して……謝ろう)
 そして、月彦にも。今日の自分の態度は酷かったと、全面的に謝罪をしよう――そんな事を考えながら、とぼとぼと由梨子は家路を辿り、そしてはたと目を見開いた。
「えっ……?」
 信じられないものを見た――大げさではなく、由梨子は心底そう思った。遠くに微かに見える宮本邸のシルエット。その窓には赤々と灯りがついているのだ。
(お母さん? それともお父さんが帰ってきてるの?)
 自然と、早足になった。さらに加速して、ほとんど走るようにして由梨子は宮本邸の門扉を潜り、玄関のドアを開ける。そこにはいつも目にする、暗くて寒々とした玄関と廊下ではない、家族の温かみを感じる、明るい屋内の風景が広がっていた。
 あっ、と。由梨子の目が咄嗟に足下に丁寧に並べられている革靴へと止まった。それは紛れもない父親の靴だった。
(お父さん……帰ってきてるんだ)
 隣に並んでいるのは母の靴だった。夜のこんな早い時間帯に父と母が二人とも家にいる――由梨子の記憶が正しければ、過去半年ほどの間には無かった事だ。
 由梨子はどこかうきうきとした心持ちで靴を脱ぎ、室内灯の明かりに誘導されるように両親の姿を探した。
「あっ」
 探す――までもなかった。玄関から台所へと通じる廊下の途中で、由梨子はばったりと背広姿の父親と遭遇した。
「……こんな時間まで何処に行ってたんだ?」
 父親はじろりと由梨子を見下ろし、開口一番にそんな言葉を口にした。休日とはいえ、夜の八時過ぎに帰宅した娘を快く思っていないのは明らかな口調と声色だった。
「…………ごめんなさい」
 頭の先からいきなり冷水を浴びせられたような、そんな気分だった。浮ついた気持ちなど瞬時に消え去り、由梨子は肩を縮こまらせながら下を向き、謝った。
「早く帰ってくる様、携帯にメールも入れておいただろう」
「ごめんなさい……気がつかなくて……」
 メールは、恐らくプールに入っている間に着信していたのだろう。更衣室に戻った後は自己嫌悪に悶え、とても携帯を見る余裕などは無かった。
「…………まぁいい。部屋に荷物を置いたら、すぐに居間に来なさい。……母さんと私から、大事な話がある」


 

 どうやら例によって葛葉は留守らしく、代わりに台所には大量の稲荷寿司が用意されていた。
「…………なんだか、真央が最初に来た日の夕飯みたいだな」
 大皿にラップがけされた稲荷寿司を前にして、月彦はつい懐かしんでしまう。
「あ、真央。腹減ってるなら食い始めてていいぞ。俺は先に風呂の用意してくるから」
 温水プールに半日近く浸かっていて尚風呂に入るというのも気分的には妙なものだったが、ああいうものは見た目ほどに綺麗ではないという事も月彦は理解していた。この後、真央とガッツリやることをやるのであれば、互いのためにもしっかり身を清めるべきだと――そんな思いから出た言葉だったが。
「真央、どうした?」
「えっ……な、何? 父さま」
「いや、何じゃなくて……風呂の用意してくるから、メシ先に食べててもいいぞ?」
「あ、うん……分かった……食べる……」
 ふぅ、ふぅ、ふぅ――ほんのり頬を染めたまま、目をトロンとさせ、真央はどこか譫言のように呟いて食卓の椅子へと着席する。着席した後で、食事には小皿と箸が必要だと気づいて席を立ち、何故か冷蔵庫の扉を開けてしまい、冷蔵庫の中から何かを取り出そうとして、自分が欲しかったのは箸と皿だと思い出して扉を閉める――そんな奇行を繰り返していた。
(…………心ここにあらず、だな)
 もう真央の頭の中は“ごほうび”の四文字で埋め尽くされているのだろう。ほほえましさ半分、恐ろしさ半分の絶妙な面持ちで月彦は浴槽を洗い、湯を出して浴室、脱衣所を後にする。
 まさに、その瞬間だった。
「あーーーーーーーーーーーーッ、むかつくーーーーーーーーーーーーーッ!!!」
 背後から雄叫びのような声が聞こえたと思ったその時には、月彦は背中を蹴り飛ばされていた。
「ぶべっ」
 と、変な声を出しながら台所の床に転がった月彦の背を、さらに。
「ムカツク! むかつく! ムカつく!」
 どげしっ、げしっ、どげしっ!
 月彦を背後から襲った何者かは大声でそんな事を喚きちらしながら、げしげしと月彦の背を踏みつけてくる。
 否、“何者か”――ではない。こんな大それた事をするのは――。
「くぉら、真狐! てめ、何しやが――」
「あによ、なンか文句あんの!?」
 体をひねり、床を転がるようにして辛くも立ち上がった月彦は昔年の恨みを込めてつかみかかろうとした――が、それよりも早く真狐に胸ぐらをつかまれ、額をぶつけるような勢いでガルルと牙を剥かれて睨み付けられ、思わず視線を逸らしてしまった。
「あ、いや……」
「あーーーーーーーーッ! ムカつくゥ!!」
 どげしぃ!
 胸ぐらを解放された途端、再度月彦は蹴り飛ばされ、キッチンの椅子を巻き込みながら床へと転がった。
「か、母さま……どーしたの!?」
 反応が遅れたのは、やはり夢うつつだったからなのだろう。遅れて真央がそんな声を上げるが――。
「どーしたの、じゃないわよ! あぁぁぁーーーー思い出したらますますムカッ腹が立ってきたわ! あぁンのシマシマデブ女ぁぁぁ……今度見かけたら全身の皮ひん剥いて塩と唐辛子の粉塗り込んだ後薪しょわせてカチカチ山の刑に――」
「いちち……おいおい、真狐、ちょっと落ち着けって。お前、同窓会に行ってたんじゃなかったのか?」
 いつも余裕綽々、底意地の悪い笑みを絶やさない女の“マジ怒り”を目の前にして、月彦は蹴られた痛みも忘れてどう、どうと宥めに入る。
「同窓会じゃないわよ! どーきょーかい! 同郷会よ! どーゆー耳してんのよあんたは!」
「いいからちょっと落ちつけって! ほらほら、甘くて美味しいいなり寿司もあるぞ?」
「いなりずしぃぃ!?」
 ぴくぴくぴくっ――まるで、その一言が禁句であったかのように、真狐が狐耳をぴくぴくさせながら怒りのインジケータを跳ね上げさせる。
「ざっけんじゃないわよ! 狐が誰でも稲荷寿司に飛びつくと思ったら大間違いよ!」
 真狐は月彦がそっと皿ごと差し出した稲荷寿司をむんずと掴むと、そのまま床へとたたきつける。
「か、母さま……?」
「真央! あんたもいい加減自分の身くらい自分で守れるでしょ?」
 こくこくと、真央は完全に母親の剣幕に押される形で小さく何度も頷く。
「あたしはこれからあの糞女を見つけ出してギタギタのズタズタにしてやんなきゃいけないから、あんた達のお守りはしてらんないわ。いーわね?」
「お、おい……ギタギタのズタズタって物騒な……ていうか、よく見たらお前、なんか髪がちょっと焦げてな――ぶべっ」
 全てを喋り終える前に、月彦は顔面を足の裏で蹴られ、そのまま踏みつけられた。
「だぁぁれがあの鯨幕女に負けたってぇ!? あんなの負けたウチには入らないわよ! 髪をちょっと燃やされたら負けだっての!? 誰がそんな事決めたってのよ! 何時何分何秒に誰が決めたのか言ってみなさいよ、ほら!」
「お、落ち着っ……だ、誰もそんな事言ってな――ぶぶっ」
「真央っ、いーわね!? 何かあったら、このバカを盾にして一目散にマシロの所に逃げるのよ、分かった!?」
「う、うん……」
 ぐり、ぐりと月彦の顔面をグリグリ踏みながら猛り狂ったように叫ぶ母親に、真央はただただ頷くことしか出来ない。
「っっって、手前ェッ、いーかげんに――…………あれ?」
 顔面を踏みつける女の足を強引に払いのけ、月彦が体を起こした時にはもう、その姿は影も形も無かった。
「母さま……行っちゃったみたい」
「…………なんか知らんが、本気で頭に来てたみたいだな。アイツが食い物を粗末にするところ初めて見たぞ」
 もったいないことをしやがるとボヤきながら、無惨に床にたたきつけられたお稲荷さんを拾い、渋々流しの三角コーナーへと廃棄する。
「いちち……あのバカ、しこたま蹴りやがって……ていうか、ムカつくからって何で俺が蹴られなきゃいけないんだよ!」
 真狐の余りの剣幕に忘れていた怒りが、今頃になって沸々と月彦の中で燃え始める。
(畜生、やっぱりあの女は敵だ。宿敵だ)
 ブツブツと呟きながら、月彦は小皿と箸を準備しようとした所で――はたと、テーブルの上に違和感を覚えた。
「………………ちょっと待て。真央……母さんが用意してくれた稲荷寿司、五十個くらいはあったよな?」
「うん。…………あっ」
「…………なんでもう4個しかないんだ?」
「わ、私が3個くらいは食べた、けど……」
 分かっている。真央が一人でそんなに大量に食べたわけではない事くらい、月彦には最初から分かっていた。
「あンの性悪狐……!」
 稲荷寿司好きの女が食事時に乱入してきて、姿を消した後40個近い稲荷寿司が消えている。犯人は考えるまでもない。
 めらめらと月彦が怒りの炎を燃やしていると、その背をちょいちょいと真央が突いてきた。
「父さま、まだ4個あるよ。2つずつたべよ?」
「いや、しかしだな……」
「ね? 早く食べよ?」
 ぐいぐいと、真央に袖口を引かれる形で着席させられ、小皿に稲荷寿司2つを移される。
(…………成る程、な。分かった)
 勿論、月彦には真央の言わんとする事はすぐに分かった。取り戻せる筈もない稲荷寿司の事など早く忘れて、さっさと夕飯を済ませてしまおうという事だ。
 そして夕飯の後は――。
「父さまァ……あのね、最初はね……父さまと一緒にお風呂……入りたいな」
 身を寄せるように抱きつき、しっとりと濡れた目で見上げながら、同時に母譲りの巨乳をこれでもかと押しつけながら、腰をくねくね、尻尾フリフリさせながらそんな事を言われて「No!」と叫べるほど、月彦は聖人では無かった。
(…………大凶、か……)
 一瞬、ちらりと。そんな危惧が頭を掠めたが、先ほど散々に蹴られた事もあり、何よりあんな女の心配なぞしてたまるかと、月彦は意図的に忘れて真央へのご褒美に興じる事にした。




 こってりと濃い休日を真央と共に過ごしての翌月曜日。些かおぼつかない足取りで学校へと向かう月彦の胸には一つの懸念があった。
(きょ、今日は……なんとかして……由梨ちゃんとコンタクトを……)
 土曜日のあの場はやむなく真央を優先させたが、その後も、そして日曜日もずっと由梨子の事が気に掛かってはいた。
「ふぁ……まだ、体がフワフワしてる……」
 登校途中、隣を歩く真央もまた、足取りがおぼつかない。――が、おぼつかない足取りとは裏腹に血色などはむしろ普段よりも彩り良く、精気に満ちあふれているようにすら月彦には思えた。
(…………冗談抜きで吸われてるんじゃないのか)
 半分が妖狐であるだけに、そういうことも無くはないのではないかと月彦には思えるのだった。

 いつも通り真央とは昇降口で別れ、月彦は自分の教室へと向かう――その途中にある階段の踊り場で、月彦は意外な人物と鉢合わせた。
「あっ、先輩……」
「ゆ、由梨ちゃん!?」
 どきんと、心臓が撥ねたのは突然の遭遇に驚いたからではなかった。
(うっ……ゆ、由梨ちゃん……それは……)
 視線が、勝手に下へ、下へと動くのを、月彦は意識して堪えねばならなかった。そう、制服のスカート生地から伸びた、黒い足は、まるでそれ自体が引力でも秘めているかのように月彦の視線を掴んで離さない。
「良かった……先輩を捜してたんです。…………その、土曜日のこと……どうしても直接会って謝りたくて…………」
「あ、謝るなんて……俺の方こそ、なんていうか……由梨ちゃんの気持ちも考えずに……」
 視線が、グイグイ引きつけられてしまう。昨夜――否、今朝まであれほど真央と絡み合い、声が枯れんばかりに鳴かせ、しつこいくらいに精を注ぎ込んだばかりだというのに。早くもムクムクとズボンの下で反応し始めるのだから堪らない。
「いえ……あの時の事は完全に私が悪いです。……本当にすみませんでした。……真央さんにも、後で謝るつもりです」
「いいって、由梨ちゃん……頭を下げたりなんかしないでよ。…………失敗することなんて誰にでもあるんだからさ、細かいことは忘れて、また三人で遊びに行こうよ」
「………………はい。……あっ、そうだ。……先輩、お詫び……というわけじゃないんですけど……これ、良かったら受け取ってくれませんか?」
「えっ……これって……」
「その……久しぶりに、ちゃんとしたお弁当……作ってみたんです。もし、良かったら……」
「あ、ありがとう……弁当は持ってきてるけど、今日は朝あんまり食べてなかったから、昼大丈夫かなって心配してた所だったんだ。グッドタイミングだよ、由梨ちゃん。ありがたく食べさせてもらうよ」
「……そうですか、良かったです。…………すみません、そろそろHRが始まりますから」
「そうだね。……弁当ありがとう、由梨ちゃん。土曜日の事は本当に気にしなくていいから」
 はい、と由梨子は複雑な笑みを浮かべて、一年生の教室の方へと早足に階段を下りていく。その後ろ姿が見えなくなるまで――特に黒タイツに覆われた足を――注視して、月彦もまた自分の教室へと戻った。

 朝食をあんまり食べていなかったというのは嘘であったが、腹が減っているというのは本当だった。例の件以降暴飲暴食は極力しないようにしている月彦ではあったが、限界ギリギリまで消耗した体が“補給”を欲しているという事だけは理解していた。
(……ありがとう、由梨ちゃん。お弁当助かるよ)
 昼休み。葛葉のお弁当と由梨子のお弁当、どちらを先に食べるかで少しばかり悩み、結局由梨子の方を先に食べる事にした。何となく、より腹が減っている状態で食べてあげることが、お詫びのつもりで弁当を作ってきた由梨子の好意に報いる事ではないかと思ったのだった。
「なんでお前弁当が二つもあるんだ?」
「今日は朝飯食い損ねちまってな。こっちが朝食で、こっちが昼食だ」
 隙あらば弁当箱を奪おうとしてくる和樹を野良犬でも追い払うように遠ざけ、月彦はいそいそと弁当包みを解く。ちなみに千夏は風邪でも引いたのか学校に来ておらず、合流する必要がないという理由から月彦も和樹も自分たちの教室で昼食を摂っていた。
「……ん?」
 顔がにやけそうになるのを我慢しながら月彦は弁当包みを解き、はたと。弁当包みと弁当箱の蓋との間に小さなメモ用紙が入っている事に気がついた。
「なんだそのメモ用紙」
「なんでもない。物欲しそうな目で見るなよ。お前だって自分のパンがあるだろうが」
 月彦は咄嗟にメモを手にとり、ポケットにしまって何事も無かったかのように弁当箱の蓋を開けた。
「……おお!」
 由梨子に弁当を差し入れされた事は過去にも何度かあったが、気合いの入り方は今まででダントツではないかと、月彦はそんな事を思った。勿論、今までの弁当もきちんと作ってはいたのだろうが、相対的に見劣りしてしまうほどに凄まじいオーラを感じた。
 弁当は大きく三つに区切られており、その一つにはサンドイッチが、一つにはおかずが、最後の一つにはデザートがという振り分けになっていた。ご飯やおにぎりではなく、サンドイッチ主体にしたのは、葛葉の弁当があることを考えたからなのだろう。最悪、お昼に食べられなくても午後の授業の合間のおやつ代わりに出来る様に――という配慮があったのかもしれない。
 月彦はまずサンドイッチに目を付ける。どうやらパンを一度表面を炙ったらしく、ほんのりときつね色の焦げ目がついていた。挟んである具はハムやレタス、チーズにトマト、シーチキン等々。ありふれた食材と言えばそれまでだが、奇をてらわない素朴な味が月彦の心に深い感動を与えた。
「……おいおい、なんだそのサンドイッチ。スッゲー美味そうだな」
 机を挟んで対峙している和樹が、じゅるりと擬音が聞こえそうなほどに涎をあふれさせながらそんな言葉を呟くのも無理はない。
「褒めてもやらんぞ」
「褒めるからくれよ」
 和樹の言葉を無視して、月彦はさらにサンドイッチをもう一つ頬張り、今度はおかずのコーナーへと目を向ける。これまた洋風のおかずが目白押しであり、プラスチックの仕切によって分けられた場所にはそれぞれグラタン、ほうれん草と卵の炒め物、ポテトサラダ、マカロニとミートソースの和え物、ウインナーの大葉巻きが入っていた。グラタンもさることながら、月彦が最も手が込んでいると感じたのはウインナーの大葉巻きだった。ただ蒔いただけではない、いわゆるタコさんウインナーにされたそれに、まるで服を着せるように蒔かれていたからだ。
「なぁなぁ、そのほうれん草が入ってる卵焼き一個くれないか?」
「だめだ、やらん」
「じゃあその海苔まいてあるたこウインナー」
「海苔じゃない、大葉だ。断る!」
「じゃあサンドイッチ半分でどうだ!」
「パンくず一つだってやらん!」
 熾烈なやりとりをくりかえしながら、どうにかこうにか月彦は由梨子の弁当の全てを守りきり、己の胃袋へと収めた。続いて葛葉の弁当も平らげ、そちらも普段の倍くらい良く噛んで食した結果、昼休み時間の殆どを費やしてしまった。
「…………お前、なんか最近牛みたいな飯の食い方するよな」
「俺は反芻はしないぞ」
 弁当を元のように包んで片づけ、さりげなくトイレに立つフリをして席を外し、幼なじみの目が届かないところまで来てから、月彦はそっと先ほどポケットにしまったメモ用紙へと視線を落とす。――そして、そこに書かれていた言葉に目を通すなり、月彦はキュッと心臓を掴まれたような気分になった。
 『大事な話があります。放課後、昇降口で待っています』――メモには小さく丁寧な文字で、そう書かれていた。


 放課後、HRが終わるなり月彦は真っ先に昇降口へと向かった。
「あっ、先輩……」
 昇降口――その傘立ての所にもたれるようにして立っていた由梨子は月彦の顔を見るなり、つぼみが花を開かせるように笑顔を零した。
「やっ、由梨ちゃん……メモ、見たよ」
「すみません、あんな形で…………その、先輩……今日、用事とかは……」
「大丈夫」
 月彦はちらちらと周囲を伺い、どこにも“金色の疑似餌”が見えない事を確認して、微笑んだ。
「ちょっとくらい何か予定があっても、由梨ちゃんを優先するって。……大事な話なんだろ?」
「…………はい」
 由梨子はスカートの前でキュッと、両手で鞄の取っ手を持ち、意味深に頷く。グググと、咄嗟に月彦の両目は由梨子の足へと引きつけられるが、辛うじて自制する。
(大事な話って、やっぱり……)
 ごくりと、密かに生唾を飲む。由梨子が、黒タイツを履いてきている――それ自体がもう、“用件”を如実に物語っていた。そう、今までにも何度もあったことだ。
 即ち、“今日、抱いて欲しい”――そういうサインであると、暗黙の内に月彦も了承していた。
「そ、っか……んじゃ、こんな所じゃなくて……」
「はい、出来れば……私の部屋とかで……」
「OK、分かったよ。んじゃ、早速由梨ちゃんちに行こうか」
 はい、と頷く由梨子を伴い、月彦は学校を後にする。
(…………考えてみたら、由梨ちゃんと二人だけでするのって随分久しぶりだな)
 体が入れ替わった時は、体自体は真央のものであったし、最後は3Pなんだか4Pなんだかわからないような状態だった。
(去年のクリスマスが最後……か? ひょっとして……)
 記憶を辿って、ゾッとした。随分由梨子を無碍にしてしまったと、改めて月彦は実感した。
(…………そりゃあ、由梨ちゃんが由梨ちゃんらしくない事言い出すわけだ)
 恐らく由梨子の事だ。ずっと言い出せなくて我慢していたのだろう。我慢して、我慢して、我慢して、それでも我慢して、どうにも我慢できなくなっての、あの“勝負”だったのかもしれない。
「……あれ、そういえば……真央はどうしたの?」
「真央さんなら、今日は用事があるから、って、先に帰られました。…………多分、察してくれたんだと思います」
「そ、っか」
 めざとい真央の事だ。“由梨子のサイン”の事にも薄々気がついているのかもしれない。それよりも、サインに気づいて尚由梨子の邪魔をしなかったという事が、月彦には嬉しく、そして真央に申し訳なく思えた。
(すまん、真央…………だけど、今日は……)
 今までろくに相手を出来なかった分、由梨子の為に時間を割くと決めた。何分、武士の件もある。このままでは本当に由梨子が心を病んでしまうような気がしてならなかった。
(……前の事もあるし、な)
 摂食障害――あんな事は二度と繰り返してはならない。
(…………となれば、今日はなんとしても由梨ちゃんに元気を出してもらわないとな)
 或いは、前々から考えていた作戦を今日こそ実行に移すべきではないのか。
「…………ごめん、由梨ちゃん。家に行く前に、ちょっとスーパーに寄っても良いかな?」
「はい。……何を買うんですか?」
「うん、ちょっとね」
 一応はぐらかしはしたが、一緒にスーパーへ行く以上隠し通す事は出来ない。が、恐らく由梨子にその現場を見られても、何故そんなものを買うのか、そこまでは分からないだろう。
(俺の考えが正しければ……コレが秘密兵器になるはずだ)
 是が非でも由梨子に元気を取り戻させてやる――月彦は使命感に燃えていた。

 由梨子と二人、他愛のない世間話などをしながら宮本邸へと到着した。
「誰も居ませんから」
 玄関のドアを開けながら由梨子の言ったその言葉は、何か諦めにも似た感情が含まれているように、月彦には感じられた。
「……おじゃまします」
 靴を脱いで、月彦も家に上がる。宮本邸を訪れるのは当然初めてではないのだが、以前に訪れたときとは比べものにならないほどに、その空気が寒々としているように感じられた。
(単純に気温が低いとか、そういうんじゃない……なんつーか、人の気配が……)
 そう、廃墟などを訪れたときに感じる、あの独特の雰囲気。それに似たものを、宮本邸に感じるのだった。
(…………由梨ちゃんは、毎日こんな家に……)
 他人の住まいを指して“こんな家”という表現は失礼なのかもしれない。しかし月彦には他に形容する表現を思いつけなかった。
 由梨子に誘われるままに、月彦は階段を上がり、由梨子の部屋へと通される。いつ見てもきちんと整理整頓された、女の子らしい部屋だと思う。しかし、やはり前に訪れたときと雰囲気が違う。何か、陰々滅々としたものが吹き溜まっているように月彦には感じられた。
「だ、暖房つける前にさ……ちょっと空気の入れ換えしとこうか」
 月彦は鞄と買い物袋を置き、勉強机の側の窓と、ベッドの側の窓を開け放ち、空気の入れ換えをする。そんなことで“陰の気”が霧散するかどうかは分からないが、やらないよりはマシに思えた。
「あっ…………ひょっとして……何か変な匂いとか、残ってました?」
 そうやって窓を開け放つなり、ぽつりと。由梨子がまるで崖っぷちにでも追いつめられているかのような、切迫した声を盛らした。
「えっ、いやいや違うって! いつも通り由梨ちゃんの匂いで香しいっていうか、むしろ良い匂いすぎてムラムラしそうだから――って、そうじゃなくて! 普通にほら、冬場ってちゃんと換気しないと病原菌とかハウスダストとかいろいろ怖いしさ」
 混乱し、自分でも何を言っているのか分からない――ただただあたふたと言い訳にならない言い訳を繰り返し、部屋の気温がほどよく下がった所で月彦はいそいそとドアを閉めた。
「か、換気はこれで大丈夫かな。…………由梨ちゃん?」
「…………。」
「ごめん、勝手に換気しちゃったせいで大分室温下がっちゃったけど……だ、暖房つける?」
 自室であれば、迷うことなくつける所だったが、さすがに他人の部屋のエアコンを勝手に付けるのは――和樹や千夏のように、勝手知ったる幼なじみならともかく――なんだか躊躇いを覚えてしまう。
「……暖房よりも」
 由梨子は、まるで独り言のように呟いて、そっと。ベッドに腰掛ける。
「先輩に、暖めてもらうっていうのは、ダメですか?」
「ゆ、由梨ちゃん……?」
 これはまた、由梨子らしからぬ大胆な“お誘い”だなと、月彦はやや腰を引かせつつも、しかしその目はガッチリと、ベッドに座った由梨子の黒タイツにロックオンされていた。
(……ごくり)
 両足の付け根にうずくものを感じて、月彦もさりげなく由梨子の隣へと腰をおちつける。……まるでそれを待っていたかのように、由梨子がかくんと頭を傾け、月彦の肩へと乗せてくる。
「えーと……由梨ちゃん……“大事な話”って、つまり……」
 やはり“アレ”の事なのかなーと。月彦の頭の中でカチカチと“それ用”のモード移行を行うべく、スイッチの切り替えが行われ、さりげなく由梨子の腰へと手を回そうとした――その時だった。
 あっ、と突然声を上げ、由梨子が立ち上がってしまったのだ。
「すみません、先輩。……折角来てくれたのに、飲み物すら持ってきてませんでした」
「えっ、飲み物なんて別に――」
「すぐ準備してきますね」
 あっ、ちょ――既に股間がムクムクし始めていた月彦は立ち上がって追う事が出来ず、情けない声を出しながら左手を由梨子の背へと伸ばし――そのまま何もない中空を掻くようにして膝の上へと戻した。
(……どうしたんだ、由梨ちゃん……急に逃げるなんて……)
 今までは無かった事だ。或いは、密かに土曜日の事を根に持っていて焦らされているのでは――いやいや、由梨子に限ってそんな事はないと、月彦が悶々としながら待つ事五分弱。
「お待たせしました、先輩」
「お、おかえり、由梨ちゃん」
「すみません、ちょっとテーブルを出してもらえますか?」
 由梨子は両手で盆を持っていた。やむなく月彦は由梨子に促され、普段は勉強机と本棚の間にしまわれている折りたたみ式の小さな簡易テーブルを組み立て、絨毯の上へと置いた。
 テーブルに、由梨子が盆を置く。盆の上には透明なガラスのコップに二人分のアイスコーヒーがストロー付きで置かれていた。
(おや、珍しいな)
 寒がりの由梨子が準備する“飲み物”だから、てっきり暖かい飲み物だとばかり思っていた。が、別段不自然というほどでもない。これから暖房でもつけるつもりなら、アイスコーヒーでも十分だろう。
 しかし、ここでまたしても。
「あっ」
 月彦の隣へと座りながら、由梨子が“しまった!”と言わんばかりの声を出す。
「すみません、先輩。……うっかりしてました、こんなに寒いのに、アイスコーヒーは無かったですね」
「いや、別に良いんじゃないかな? 俺は好きだから全然構わないよ」
 本音を言えば、やはり暖かい飲み物が欲しい所。しかしそんな些細な我が儘で由梨子を再び台所に行かせるのは申し訳なく思え、月彦はさも丁度喉が渇いていたと言わんばかりにコップに手を延ばし、ストローに口をつける。
「そう、ですか……」
 そんな月彦の答えに落胆したような――しかしどこか演技の匂いのする――声で、由梨子はぽつりと盛らす。
「…………私は、苦手……なんですよね。……冷たい、飲み物」
 自分で用意しておいて、それは変なのではないか――そんな疑問は、由梨子が続けた言葉によって氷解した。
「よ、良かったら……先輩が暖めて、飲ませて……くれませんか?」
「えっ……? あ、暖めるって……」
「その……先輩の、口で……」
 照れるように視線を伏せながら、ぽつりと由梨子は呟く。その言わんとする所は、月彦にもすぐに分かった。
「私も、喉は渇いてるんですけど……」
 呟きながら、由梨子はスカートの上に置いた手で、キュッと。スカートの生地を掴む。
「でも、こんなに冷たいのを飲んじゃったら、お腹壊しちゃうかもしれませんし……」
 そして、さも自然な仕草で、すすすとスカート生地を手前側に引き、太股の露出を増やしていく。ごくりと、月彦の目がそちらに釘付けになると、由梨子はさらにスカートを引き、太股を付け根近くまで晒した。
「た、確かに……そうだね。……由梨ちゃんがそうして欲しいっていうのなら……」
「我が儘言ってすみません、先輩」
 誘ってるつもりなど微塵もない――そんな、どこか惚けたような声で由梨子は“礼”を言う。月彦もまた、べつに他意などないといった手つきでコップを手にとり、アイスコーヒーを口に含む。
 ストローから口を離し、由梨子に促すと、自然とその唇は重なった。
「んっ」
 ちゅっ――と唇を重ね、そしてそっと口に含んだアイスコーヒーを由梨子の中へと移していく。
「んっ……ぅン……」
 こく、こくと由梨子が小さく喉を鳴らし、そっと唇を離す。――そう、これはキスなどではなく、あくまでただコーヒーを飲ませてもらっているだけ。そう言うかのように。
「まだ、ちょっと冷たいです」
「ご、ごめん……」
「もう一回、お願いしてもいいですか? 今度は、もっとゆっくり……少しずつ飲ませて下さい」
「りょ、了解!」
 とろりと。どこか蕩けたような視線を向けてくる由梨子に注文された通りに、月彦はアイスコーヒーを口に含み、先ほどの倍以上の時間をかけて、ゆっくり、ゆっくりと。舌を絡ませあいながら由梨子の口へと移していく。
(うはぁ……相変わらず由梨ちゃんキス巧いなぁ……)
 “女の子らしいキス”とでも言うべきか。てち、てち、ちろ、ちろと舌先で擽り合うようなキスがなんとも心地よく、月彦はつい夢中になって由梨子の唇を吸ってしまう。
「んっ……先輩も、コーヒー飲みたいんですか?」
「うん、飲みたい」
 由梨子の“真意”など、すぐに分かった。一も二もなく、由梨子もまたアイスコーヒーを口に含み、れろれろと舌を絡めながら少しずつ、月彦の口へと移してくる。
(うぁ……なんかこれ、甘い……?)
 コーヒーを飲まされている筈なのに、コーヒーの味がしない。由梨子の唾液が多分に混じったそれはまるで天上の花の蜜でも飲まされているかのように甘美で、うっとりと全身から力が抜けていくのを月彦は感じた。
「先輩……」
 れろりと、舌先で糸を引きながら、由梨子が呟く。
「先輩っ……先輩、せんぱいっ……」
 どこか、切なさすら感じる声で繰り返し呟き、その都度、由梨子にしては乱暴とも感じるような、荒々しいキスを挟んでくる。
(うわっ、ちょっ……)
 もぞりと、突然股間の辺りに何かが這うような感触を感じて、月彦は唇を重ねながら目を見開いた。そっと視線を落とせば、由梨子の手が、さわさわとズボンの上から強張りをなで回していた。
「先輩……その、お願いがあるんですけど」
 ちゅっ、ちゅっ――キスの嵐が途絶え、由梨子が上目遣いに申し出てくる。
「な、なに……?」
「先輩と、キス、してたら………………その……すっごく、口でしたくなっちゃったんですけど…………」
 さわ、さわ。
 さわ、さわ。
 謙虚な申し出とは裏腹に、まるで月彦を挑発し、焦らすような手つきで、由梨子は完全にテントを張っているその場所をねちっこく撫でつけてくる。
「ッ……お、俺も……由梨ちゃんに口でして欲しい…………かも……」
「本当ですか? 嬉しいです………………いっぱい舐めて、気持ちよくしてあげますね、先輩」
 由梨子はベッドから降り、月彦の足の間へと座り込み、ゆっくりとジッパーを卸し始める。その手つきがいやにもどかしく、焦れったく、月彦は思わず由梨子の手をはね除けてスパーンと一気に脱衣してしまいたい衝動に駆られるほどだった。
「ンッ……何度見ても、先輩の……スゴい、です……」
 ジッパーとトランクスから解放された剛直が荒ぶるように顔を出し、由梨子の頬をぺちんと叩く。
「久しぶりだから、でしょうか。…………その、いつもより……大きく見えますね。………………スゴいです、ビクッ、ビクッて震えて……先の方に、ちょっと透明なのが滲んでますね」
「ゆ、由梨ちゃん……その、み、見てないで……早く……」
「分かってます、先輩。……いっぱい気持ちよくなって下さい」
 上目遣いに呟いて、由梨子は唇を先端へとあて、そのままゆっくりと剛直を頬張っていく。
「あぁぁ……」
 由梨子の小さな口に飲み込まれていくその感触に、月彦は嘆息しながら、俄に天井を仰いだ。



「んふっ、んくっ、んんっ……んっ……」
 粘つくような、くぐもったような。卑猥な水音が室内に響く。時折混じるのは衣擦れの音、ちゅっ、ちゅっ、という口づけの音。そして、ぐぷ、ぐぷと沼が泡立つような音が繰り返し響く。
「っ……くぁぁ……由梨ちゃんにしてもらうのは久しぶり、だけど……」
 衰えた――というのならば、まだ分かる。むしろ巧くなっているように思えるから堪らなかった。
(……ていうか、なんか……“飢えてた”って感じ、か……これは……)
 丁度、我慢させた後に真央にさせた時のような――そんなねちっこい舌使いを感じて、月彦は息を弾ませながらも、ちらりと視線を下方へと泳がせる。
(ただ……出来れば、もうちょっと……見たいな……このアングルだと……あんまり見えないし……)
 由梨子の黒タイツ姿を見ながらフェラをされたいというのは、さすがに我が儘が過ぎると月彦自身思わざるを得ない。――が、快感が溜まれば溜まる程に、その二つを両立させたいという思いが膨らんでいく。
「ゆ、由梨ちゃん……ごめん……一つ、いいかな?」
「ンはぁ…………何ですか、先輩」
 涎まみれになった剛直を右手でやさしく扱くようにしながら、由梨子がやや潤んだ瞳で見上げてくる。
「ええと……とっても言いにくいことなんだけど……」
「はい」
「ゆ、由梨ちゃんの足を見ながら……口でされたい」
「私の足を見ながら……ですか?」
 由梨子自身、戸惑うように首を傾げる。――が、すぐに解決策を見いだしたのか、ニッコリと微笑んだ。
「わかりました。先輩の希望通りにします。…………ただ、一つだけ約束してもらえますか?」
「な、何を……?」
「私がいい、って言うまで、絶対に勝手に動かないで下さい」
「わ、分かった……由梨ちゃんの言うとおりに……っ……」
「じゃあ先輩。……ベッドの上に仰向けになってもらえますか?」
「こう、かな?」
 言われるままに、月彦はベッドの上で仰向けに寝転がる。
「先輩、絶対に動かないで下さいね」
 由梨子もまたベッドの上へと上がり、月彦を跨ぐようにして陣取る。が、その向きは月彦に対して背を向ける形であり、由梨子はそのまま徐々に上体を倒していく。
「ンンッ……先輩、どうですか? さっきよりは見やすいと思うんですけど」
「ぐはぁッ…………こ、これは……見やすいっていうレベルじゃ……」
 女性上位の69――丁度両足が月彦の頭を跨ぐ形で、由梨子はフェラを再開させる。
「うっ、ぁ…………や、ヤバッ……由梨ちゃん、このアングルは……ちょ、強烈、過ぎ……」
 文字通り目の前で黒タイツに包まれた太股と、僅かにうっすらと透けて見える白と青の横嶋のショーツに鼻血が出そうなほどに興奮させられ、否が応にも月彦の呼吸は荒くなる。
(さ、触り、たい……)
 眼前で、まるで挑発するように揺れる由梨子の尻に我慢が出来なくなって、月彦は思わず右手を伸ばしかけた――瞬間、それをめざとく感じ取った由梨子が剛直を口から引き抜いてしまう。
「先輩、約束しましたよね?」
「ううっ……」
 月彦は渋々右手をベッドの上へと戻す。
「うはっ……」
 忽ち、ぬろりと。剛直が由梨子の口へと含まれる。
(こ、これは……ある意味拷問、だよ……由梨ちゃん……)
 また、由梨子の口戯が絶妙なのだ。興奮MAX、すぐにでもイきそうな剛直をギリギリのところで寸止めし、焦らしてくるのだから溜まらない。
(くはぁぁぁ……く、黒タイツ……あ、足……太股……下着……こんなに、近くにあるのに……)
 微かに甘酸っぱい匂いがするのは、恐らく由梨子自身も濡れているのだろう。それも、由梨子の体質を考えれば、かなり。
(ほ、頬ずり……太股に頬ずりする、だけ……)
 恐る恐る体をずらし、頬ずりしようとすると――またしても、めざとく由梨子に察知され、フェラが中断される。
「せんぱい?」
「ゆ、由梨ちゃん……ごめん……ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから…………さ、触りたい……」
「まだダメ、です。……先輩が、すっごく興奮してくれてるのは私にも分かってます。私の口の中で、グンって硬くなって……さっきより大きくなってるみたいですし。…………でも、まだダメです。もっと、もっと興奮してください」
「で、でも……くぁぁ……」
 由梨子が激しく頭を上下させ、ぐぷ、ぐぷと音を立てて剛直をしゃぶり始める――が、月彦がイきそうになると、それがピタリと止まる。そして間を置いて、再度――。
「ぁっ、ぁっ……ぁっ……」
 由梨子が激しく頭を上下させるたびに、反動でその尻も誘うように揺れる。その動きに幻惑されながら、月彦は掠れた声を上げ、体の下にある掛け布団を握りしめながら、必死に由梨子の奉仕に耐え続ける。
「ゆ、由梨ちゃん……せ、せめて……もう少し、スカートを…………か、影になっててさ、よく、見えないんだ」
「んプ……それも、だめです。……今まで、本当に寂しかったんですから。…………今日は、先輩をいっぱいイジメちゃいます」
「ゆ、由梨ちゃぁんっっ……くぁぁぁぁぁぁ!!」
 本気か嘘か分からない事を言いながら――否、十中八九冗談だろうとは思うのだが、実際問題としてこの両面作戦は月彦には効果覿面だった。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
 何度も、何度も寸止めをされて、月彦は息も絶え絶えになりながらも、それでも由梨子の下半身から視線を外せなかった。
 そして――それは、唐突に起きた。
「ぇっ、ゆ、由梨……ちゃ……ンンッ!?」
 突然、由梨子の体が沈んだかと思った瞬間、月彦の頭は由梨子の太股によって挟み込まれ、さらに黒タイツ越しにショーツが擦りつけられた。
「………ンンンッ………………!」
 その瞬間、月彦の興奮は限界値を振り切った。同時に、由梨子もまた深く、深く剛直をくわえ込んでおり、その喉奥目がけて月彦は溜まりに溜まった獣欲の滾りを惜しみなく放出する。
(こ、これは……たまらん……!)
 湿ったタイツ生地越しに、由梨子の甘酸っぱい蜜の香りがダイレクトで鼻腔を刺激し、月彦は下半身を撥ねさせながら射精を繰り返す。
(ごきゅ、ごきゅって……由梨ちゃんの喉が動いてるのが、分かる……)
 剛直から伝わってくる、由梨子が精液を嚥下する音がなんとも甘美な音色に聞こえた。今朝の時点ではほぼ間違いなく枯渇状態であったとは思えないほどにそれは濃く、そして大量に由梨子の口腔を怪我していった。
「かはっ……けほっ……けほっ…………す、すみません……先輩……ちょっと、噎せっ……かはっ……」
 長い長い射精の漸く終わり際、由梨子が漸くに腰を上げ、月彦の上から退くと激しく咳き込み始める。月彦はといえば、そんな由梨子の傍らに寝そべったまま、いつになく絶頂の余韻に酔いしれていた。
(ううう……あ、頭が……クラクラする……)
 それは、由梨子の秘部で顔を圧迫され、長いこと呼吸を阻害されたからか。或いはその際にまだ成熟しきっていない“女性”ではない“女子”の甘酸っぱい蜜の香りをふんだんに吸ったからか。それともその両方か。
 月彦には分からない。ただ、分かり切っている事は――
「きゃっ……せ、先輩……」
 ベッドに腰掛ける形で噎せている由梨子の体を、月彦は背後から抱きしめる。
「次は俺の番だね、由梨ちゃん」



 水泳勝負の際、由梨子は言った。自分が勝ったら、月彦をお持ち帰りする。しかしもし負けたら、何でも一つ言うことを聞く――と。
 由梨子に対して、そういう証文を持ち出すのは些か抵抗があった。が、しかし月彦はこの時、見栄や後輩に対する配慮よりも、本能が勝ってしまった。
 黒タイツを破りながらシたい――せっぱ詰まったような息づかいでそう言う月彦に、由梨子はさして迷う仕草も見せずに頷いた。
「……先輩にそうしてもらう為に履いてたんです。……先輩の好きなようにしてください」
 ごめん――そう言いつつも、月彦は止まれなかった。散々目の前で特上の黒タイツ太股や透けショーツを見せつけられて、たった一度の射精などで我慢が出来るわけがない。
「じゃあ、由梨ちゃん……立って。勉強机に手をついて、お尻をこっちに向けて?」
 先ほどまでは、由梨子のターン。これからは自分のターンだと言わんばかりに、月彦は由梨子に命じる。由梨子もまたそういった“流れ”を承知しているのか、月彦の言うままに、逆らうそぶりすらみせずに勉強机の側に立ち、両手をつき、月彦に対して尻を差し出す体勢になる。
「由梨ちゃん……」
「ンッ……せ、先輩……」
 月彦は由梨子の背後に立ち、まずその尻を両手で掴み、スカートごとこね回した。
「ぁっ、んっ……」
 触りたくても触れなかった先ほどまでの鬱憤を晴らすかのように、ぐにぐにとと円を描くようにこね回す。
「せ、先輩……?」
 由梨子が疑問の声を上げるほどにしつこく尻を触った後、唐突にスカートのホックを外し、はらりとその場に落とす。黒タイツに包まれた尻が蛍光灯の明かりの下に晒され、月彦は思わずごくりと生唾を飲んだ。
(まずは……)
 不必要には破らない。必要最低限――そう、“挿入”に必要と思われる部分だけ、月彦は黒タイツ生地を掴み、ビリリと破る。そうして露出したショーツの一部はもう色が変わるどころではない。今にも雫が滴りおちそうなほどに水気と熱気を孕んでいた。
(これなら……)
 愛撫などしなくてもいけるだろう。月彦はそう判断し、剛直をその隙間へと宛い、ショーツをずらすようにしながら、ゆっくりと挿入していく。
「ぁっ、やっ……せ、先輩……い、いきなり……ですか……? ンンッ……」
「由梨ちゃんのナカ、十分すぎるくらい準備出来てるみたいだから。…………っ……キツいな……メチャクチャ濡れてるのに」
「ぁっ、だって……ひさ、しぶり…………ぁっ、あぁッ! ひ、広がっちゃう……!」
 由梨子は踵を浮かし、さらに両足を肩幅よりも広げる、体を前に逃がそうとする――が、月彦は由梨子の腰のくびれを掴んで、体を逃がす事だけは許さない。
(っ……マジで、キツい………………軋んでるみたいだ…………あぁ、でもこの感じが……由梨ちゃんとシてるって感じで…………たまんねぇ…………)
 興奮が興奮を呼び、さらに剛直が肥大してしまいそうになるのを月彦は唇を噛んで堪えながら、漸く根本まで由梨子のナカへと埋没させる。
「はぁぁっ…………久々だけど……やっぱり由梨ちゃんの中は最高だよ。…………なんていうか、“汁気たっぷり”って感じでさ」
「やっ、そ、それは……言わないで、下さい…………勝手に、溢れちゃうんですから……ンぁっ!」
 我慢できなくて、由梨子が喋り終わるのを待たずに月彦は抽送を開始する。
(はぁ、はぁ……黒タイツ……黒タイツの由梨ちゃん……!)
 腰を掴み、自らのほうに引き寄せるようにしながら、月彦は何度も何度も腰を突き出し、剛直で由梨子の奥を小突き上げる。その都度、由梨子は掠れた声を――聞きようによっては悲鳴ともとれるものを盛らし、さらに蜜を溢れさせる。
 ぐちゃ、ぐちゃと結合部から漏れる卑猥な音はどんどん大きくなり、それらは黒タイツを足首まで侵食し、やがて踵に、つま先まで到達する。
「ぁあっ、ぁっ、せんっ、ぱい……せんぱいっ……あぁぁあっ……!」
 最初は、掌をついていた由梨子だったが、何度も何度も突かれる内に上半身に力が入らなくなったのか、いつのまにか掌ではなく肘をついていた。
(……そろそろ、か)
 由梨子がしたように散々焦らして――というのも悪くはないのだが、それよりもやりたい事のほうが優先され、月彦は寄り道をせずに一直線に絶頂へと向かう。
「あっ、あっ、あっ! せ、先輩っ……あぁっ、ぁっぁっ、も、もう……ぁっ、あぁ〜〜〜〜〜〜っっ!!!」
 ビクンッ!――由梨子がつま先立ちのまま、一際高く尻を突き出すような姿勢で声を上げる――膣内が収縮し、絡みついてくるのを名残惜しく思いながらも、月彦は射精の瞬間一気に剛直を引き抜いた。
「……っ……」
 そして、迸る白濁液を黒タイツの上からふんだんにかけ、それらを汚していく。尻も、太股、脹ら脛も白く濁った液によってしとどに汚され、その光景は月彦の征服欲を大いに満足させた。
「……まだだよ、由梨ちゃん」
 そのまま膝から落ちそうになっている由梨子を再度立たせ、さらに黒タイツを何カ所か破き、由梨子の白い肌を露出させる。
「このままもう一回、後ろからシたい」
 そして、二度目も同様にたっぷりと黒タイツにかけ、汚した。


「あっ、あっ、あっ……せ、先輩っっ……あぁっ、あぁっ、あぁぁっ!」
「そろそろかな?」
 ベッドの上で、由梨子は月彦に左手で抱かれたまま、右手でくちゅくちゅと秘部を弄られていた。人差し指と中指が由梨子の弱い場所を的確に刺激し、その動きが徐々に、徐々に加速していき――。
「あっ、ぁっ、い、イヤッ……先輩、見なっ……あっ、ァッァーーーーーーーーーーッ!!!!」
 ビクビクビクッ!――月彦の指によって由梨子は容易くイかされ、腹部を突き出すように撥ねさせながら、ビュ、ビュ、ビュと秘部から立て続けに透明な飛沫を迸らせる。
「久しぶりにやってみたけど、スゴいね。ほら、壁まで飛んでるよ」
「やっ……い、言わないで、下さい………………ぅぅぅ……」
 体を抱かれながらそんな事を囁かれ、たちまち由梨子は耳まで顔を赤くする。 
「も、もうっ……先輩……こ、これ……止めて下さい! ほ、本当に……恥ずかしいんですから」
「ごめんごめん。でも、恥ずかしがりながらピュピュって潮吹いちゃう由梨ちゃん、めっちゃ可愛いよ」
「せ、先輩! 私は真面目に……あんっ……!」
「ごめん。……大分おちついてきたから、これからはいっぱい優しくする。約束するよ」
 その言葉の通りに、月彦は見違えるように優しい手つきで由梨子の体を愛撫する。ベッドに上がる前に汚れたタイツは脱がされており、ショーツも言わずもがな。制服の上着とセーターも脱がされ、辛うじてカッターシャツとホックを外されたブラだけが首に引っかかっているような状態で、由梨子はさわさわと胸元を撫でられ、撫でられながら――突き上げられる。
「はぁっ、はぁっ……せ、先輩……あんっ……あぁっ…………くっ、はぁ…………や、やっぱり……先輩の……私には、大きい、です……はぁはぁ…………お、奥……グイグイ押されて……」
「もし、我慢出来ないくらい痛かったりするなら、あんまり奥までは入れないけど」
「いえ……い、痛い、とかは……ないんですけど……ぁぁんッ!」
「痛くはないんだ。……じゃあ、何も問題はないね」
「い、痛くはないです……痛くは、ないんですけど……あっ! あっ! あっ!」
 月彦が被さってきて、由梨子は抱きしめられながらごりゅ、ごりゅ、ごりゅと抉るように突き上げられる。
「せ、先輩……あぁぁぁ…………ァはぁぁっ! お、思い出しました…………あぁぁぁっ、先輩に、された時の、あっ、あぁっ……こ、この感じ、あっ、あぁぁーーーーーーーーーーーーッ!!!」
 月彦に抱かれたまま、由梨子は電気ショックでも打たれたかのようにビクビクと体を跳ねさせ、イく。
「ンッ……やっぱり、由梨ちゃんのイき方は可愛いなぁ。……もっと、もっと感じさせたい、ってそう思っちゃうよ」
「はぁっ、はぁっ……ま、待っ……先輩……あぁぁっ!」
 月彦が一端体を起こし、由梨子の片足を担ぐようにして――さらに突き上げてくる。
「せ、せん、ぱっ……それっ…………あっ、あっ、あっあぁぁ〜〜〜〜〜ッ!!!!」
「こうしてするの、由梨ちゃん好きだったよね?」
 別に、好きというわけじゃ――その発言は、言葉にならなかった。
「はぁっ、はぁっ……あんっ! あっ、あっ、あっ……あぅうッ!! ま、待って……先輩、待っ……い、イき、過ぎて、……い、息っ……出来なっっ……ぁあッ! あっ、あーーーーーーーッ!!!!」
「ン、スゴいね。……びゅっ、って潮吹くみたいにしてイくなんて……由梨ちゃん、やっぱり側位だと感じやすいなぁ」
「はーっ…………はーっ…………せ、せん、ぱい…………ちょっ……は、激しすぎ、です……」
 視界に火花が散るような、絶頂に次ぐ絶頂。さながら、ジェットコースターをハシゴした直後のような、そんな疲労感に由梨子はぐったりと四肢をベッドに投げ出し、脱力しきっていた。
 そんな由梨子を見下ろしながら、月彦がニッコリと微笑む。
「うん。そろそろじゃないかな、って思ってた所だよ。大体いつもこれくらいヤッたところで、由梨ちゃんヘバっちゃうよね」
「せ、せんぱい……? うっ……」
 相変わらず、剛直は挿入されたまま――月彦はベッドの端に座る形で、由梨子は丁度座位の形へと誘導される。そのまま先ほどまでのように突かれるのかと思いきや、何故か月彦はベッドの方へと買い物袋を引き寄せ始めた。
「せ、先輩……それは……」
「うん、さっき買ったスポーツドリンク。由梨ちゃんにはこれが必要なんじゃないかと思ってさ」
「どう、いう……こと……ですか?」
「俺なりに考えてみたんだ。どうして由梨ちゃんがすぐにへばっちゃうのか。んで、気がついた。ほら、由梨ちゃんってかなり濡れ易いだろ? だから、ひょっとして……脱水症状みたいな感じになっちゃってるんじゃないかって」
「そんな……事……」
「ものは試し。ちょっとだけでいいから飲んでみない?」
「わ、分かりました……じゃあ、ちょっとだけ……」
 確かに、月彦の言うとおり喉の渇きに近いものを由梨子は感じていた。月彦がキャップをあけた五百_gペットボトルのスポーツドリンクを受け取り、由梨子はそっと口を付ける。
「んくっ……」
 その最初の一口目は、驚くほどに美味しいと感じた。立て続けに由梨子は喉を鳴らし、気がつけばあっという間に五百_リットルを飲み干してしまっていた。
「……やっぱり、由梨ちゃん。かなり喉乾いてたんだね」
「そう……みたい、です……あっ……すみません、先輩……一人で、飲んじゃって……」
「いや、由梨ちゃんの為に買っておいたものだからさ。……どう、少しは体が楽になった?」
「は、はい……言われてみれば……大分、楽になったような……」
 疲労感はある。が、確かに水分を補給する前に比べて、体に力が戻ってきているように感じた。
「そっか、良かった良かった。……一応まだストックはあるけど、もう一本くらいいっとく?」
「い、いえ……もう大丈夫、です……ぁっ……」
「そう? まぁいっか。……また由梨ちゃんがぐったりしてきたら、補給すればいいだけだしね」
 そんな事を言って、月彦の手がさわさわと由梨子の尻を掴み、上下に揺さぶり始める。
「せ、先輩……あんっ……ぁっ、やっ……」
「ンッ、もう効いてきたのかな? ほら、由梨ちゃん。繋がってる所から、どんどん溢れてきてるよ」
「やっ……だから、そういう事、言わなっ……あっ、あぁぁーーーーーーッ!!!」



 

 何度も、何度もイかされ、由梨子が気を失いかけるほどに消耗した所で、スポーツドリンクで水分を補給する。
 そんな事を三回は繰り返しただろうか。確かに、水分を補給すれば幾分楽にはなる――が、体力が完全回復するわけではない。
「せ、せん、ぱい……も、もう……私っ……あっ、あっ……あぁぁーーーーーッ!!」
「ンッ、俺も…………由梨ちゃんッ……一緒に……!」
 背後からぎゅう、と抱きしめられながら由梨子は達し、同時にびゅくりと、腹部に熱を帯びた液体が迸るのを感じる。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
 ベッドシーツに顔を擦りつけたまま、由梨子は息も絶え絶えに呼吸を整える。背中に月彦の重みと熱を感じながら、このまま目を瞑り眠ることが出来たらどんなに幸せだろうと、由梨子がそんな事を考えていた時だった。
「…………由梨ちゃん、そろそろメインディッシュが欲しい。…………いいかな?」
「ぇ……めいん、でぃっしゅ……?」
 冗談抜きで、由梨子には月彦の言葉の意味が分からなかった。
「うん。…………由梨ちゃんの“お尻”を食べたい」
「なっ……………………だ、ダメです、先輩、それは……やぅッ!」
 ダメ――そう言っている側から、にゅるりと。恐らくは恥蜜を絡ませた人差し指か中指が、由梨子の後ろの穴へと入ってくる。
「せ、先輩っ……ダメですっ……もう、そっちは……あんっ!」
 指を出し入れされながら弄られ、由梨子は激しく悶えながらも、うつぶせのまま徐々に膝を立て、尻を持ち上げてしまう。――そう、さながらメス猫が尾の付け根を擦られ、尻を持ち上げてしまうように。
「由梨ちゃん……お尻上がってきてるよ?」
「っっっ…………んんぅっっ……せ、先輩、止めて、下さい……」
「でも、久しぶりだし。よーく解してからじゃないと……」
「そ、そういう意味じゃ…………そこでするのなんて、どう考えてもおかしいです……あぁんっ!」
「確かに、普通はしないかもね。…………でも大丈夫。本当は由梨ちゃん、こっちでするの大好きだって分かってるから」
「好きなんかじゃ……あぁぁっ……だめ、です……先輩、い、弄らないで、下さい……ぁっ、ぁっ、ぁっ……」
「ん、大分ほぐれてきたかな。…………由梨ちゃん、そろそろいい?」
「やっ……だめ、です……そっちは……は、恥ずかしいんです……あぁぁぁ……!」
「…………いいって、言ってほしいんだけどなぁ」
 まるで、子供が欲しい玩具をねだるような声色で言って、月彦はさらに指をもう一本増やし、由梨子の菊座を弄ってくる。
「やぅっ、そん、な……ゆ、指、増やさっ……ぁぁぁっ……あぁぁぁぁぁっ…………」
「どう、由梨ちゃん。段々お尻でシたくなってきた?」
「……っ…………し、したく……ありま……あぁぁぁぁッ!!!」
 唇を噛みながら、由梨子は必死に首を振り、否定しようとする――しかしそれも、嬌声によって中断される。
「ぁはぁぁぁ……はぁはぁ……せ、先輩……やぁっ……も、止め……止めて…………あぁんっぁぁっ……やぁぁっ、お、お尻弄らないでぇぇ……」
「お尻弄ってるだけなのに、ビュッ、ビュッって……潮吹きみたいになってるよ。……由梨ちゃん、そろそろ素直になろうか」
「あふっ……あっ、やっ……せ、先輩……あぁぁっ……あぁぁっ…………ぁぁ…………」
 月彦の愛撫が一転、焦らすような動きになる。人差し指と中指を指先が抜ける寸前まで引き抜いては、指の根本まで差し込む。そんな動作をゆっくりと、何度も何度も繰り返す。
「ぁっぁっ…………ぁっ…………せ、先輩?」
 そして唐突に、そのゆっくりの出し入れすらも止まってしまう。由梨子は戸惑いの声を上げ――そして、自分でも気づかぬうちに自ら腰をくねらせ、月彦の指をしゃぶるように動かし始める。
「……ダメだよ、由梨ちゃん。……欲しいなら、ちゃんと言わないと」
「あっ、やっ……!」
 そんな由梨子の動きをあざ笑うかのように、月彦があっさりと指を引き抜いてしまう。
「せ、先輩…………あぁぁ……」
「ほら、由梨ちゃん。どうして欲しい?」
 月彦に被さられ、囁かれながら――同時に、剛直を尻穴に塗りつけるように動かされて、由梨子の矜持はとうとう快楽に屈してしまった。
「お……お尻で……シて、下さい……」
「うん、その言葉が聞きたかった。…………このまま挿れるよ、由梨ちゃん」
「は、はい…………ぁっ、はぁぁあんっ!!」
 指などとは比べものにならない質量が、強引に尻穴へと割り行ってくる。
「あぁぁぁあっっ……ふ、太いィ……あぁぁぁぁっ……」
「ッ……くっ……やっぱり絞まる、なぁ……それに、由梨ちゃんも良い声出す、し……たまんねっ……」
「あんっ、あんっ、あんっ! やっ……せ、せんぱっ……は、激しっ……あぁあんっ!」
 上体は伏せ、尻だけを持ち上げるような姿勢のまま、由梨子は杭でも打ち込まれるように腰を使われ、サカり声を上げ続ける。快感と興奮の度合いを示すかのように、秘裂からは滴りを通り越して迸るように蜜を溢れさせながら、由梨子は凄まじい勢いで絶頂へと上り詰めていく。
「ひィ……ぁあっ……お、お尻……なのにぃ……き、気持ち、いぃ……あぁんっ! はぁはぁ……らめっ、れすぅ……も、イく……イくイクイクッ……あぁぁぁぁッ……あぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!」
 体を跳ねさせ、弓なりに背をそらし絶叫しながら、由梨子の意識は乳白色の霧の中へと溶けた。


 

 

 かなり張り切ってしまった――と、言わざるを得なかった。兎にも角にも久方ぶりの由梨子との(そして二人きりの)エッチなのだ。しかも黒タイツ姿で誘惑されては、男として止まるわけにはいかなかった。
「はぁっ、はぁっ……ぁんっ……せん、ぱ……もう、もう…………無理…………ゆ、許し……ゆるし、て……ぁっ、ぁぁぁああああァァーーーーーーーーーッ!!!」
 腕の中で、由梨子がイく。ぎゅぬ、ぎゅぬと剛直を締め付けられながら、月彦もまた由梨子の中へと精を解き放つ。
「くぅぅ、ぅぅ……凄く良いよ、由梨ちゃんのナカ」
「ぁ、ぁ……」
「あれ、由梨ちゃんまたキツい? 少し飲む?」
「い、いえ……も、もう……ホントに…………きつくて……すみ、ません……」
「もう無理? …………最後にもう一回だけお尻の方でシたいんだけど、ダメ?」
「む、無理、です……ホントに、死んじゃいます……」
「そ……っか。本当に限界ならしょうがないね」
 由梨子の様子から恐らく本当に限界なのだろうという事を感じ取って、月彦はやむなく引き下がる事にした。
(……まぁ、でもいっか。一つ発見もあったし)
 水分補給はどうやら有効らしい。由梨子のスタミナが後半まで持たないのは、やはり脱水症状のせいだったのだろう。月彦は己の試みの結果に満足した。
「っと、大分長居しちゃったかな……ごめん、由梨ちゃん。ちょっとシャワー借りていいかな?」
「は、はい……私も……」
「じゃあ、一緒に浴びる?」
「えと……はい…………あの、浴びるだけ、ですよね?」
 上目遣いで不安げに言う由梨子を再度押し倒したくなるのを我慢して、月彦はあくまで紳士の手つきで四肢に力の入らないらしい由梨子をお姫様だっこで浴室まで案内する。
 二人仲良くシャワーを浴び、脱衣所を後にしたところで、月彦の目がはたと。台所の壁掛け時計に止まった。
「…………11時50分?」
 月彦はその文字盤の指し示す意味が分からなくて、つい口に出して呟いてしまった。
「由梨ちゃん、ごめん。あの時計って壊れてる?」
「いえ…………壊れてないと思いますけど」
「……マジで?」
 月彦は肝を冷やし、大急ぎで由梨子の部屋へと戻り、脱衣の際に外していた腕時計へと目をやる。十一時五十分――確かにその時間を指し示している。
「や、ヤバいよ由梨ちゃん! 日付変わっちまう!」
「それは……先輩が……あ、あんなに…………私は、何度も……止めましたよ?」
「ご、ごめん! とにかく急いで帰らないと……家に電話も入れてないし……」
「あっ……せ、先輩、待って下さい…………か、帰っちゃうんですか?」
 月彦が制服へと着替える間、由梨子もまた部屋着へと着替えながら、そんな言葉を漏らす。
「帰っちゃうんですか――……って、だって、明日も学校があるし……」
「そう、ですけど……」
 大急ぎで着替えを終えた由梨子が、ひしっ、と。まるで飼い主のお出かけを阻止したい飼い猫のように、月彦のブレザーの裾を掴む。
「夜も遅いですし……このまま、一緒に寝て……朝、早めに起きて……帰るんじゃダメですか?」
「さすがに無断外泊で朝帰りは……あぁ、いや……やったことがないわけじゃないけど……由梨ちゃんの親御さんに見つかったりしたらそうとうマズそうだし……」
「大丈夫です、どうせ朝になっても誰も帰ってきませんから。…………お願いします、先輩……今日は泊まって行って下さい」
「いやでも……」
「お願いです、先輩……一人にしないで下さい……」
 ぎゅぅぅ――この袖は意地でも離さないと言わんばかりの由梨子に困り果て、月彦はその場に立ちつくしてしまった。
(まいったな……)
 由梨子の望みは叶えてやりたい。が、しかしやはり平日に“お泊まり”は無茶なのではないか。せめて由梨子がアパートなどで一人暮らしだというのならばともかく、一応は家族と同居の状態だ。由梨子は親が帰ってこないと言ってはいるが、不測の事態で帰宅してくるという事はありえなくは無いのではないか。
(…………かといって、こんなに寂しがっている由梨ちゃんを無碍に置いて帰るのも……)
 うーんと、月彦が立ち往生したまま悩んでいると、不意に袖を掴んでいた由梨子の手が離れた。
「………………すみません、先輩。……やっぱり、平日に家に泊まるなんて……ちょっとありえない、ですよね」
「あ、うん……俺も、そう思うよ。そりゃあ、俺も出来れば由梨ちゃんの言う通りにしてあげたいけどさ……やっぱり、親御さんとかに見つかったらかなりマズい事になると思うし……」
「そう、ですよね…………我が儘言ってしまってすみませんでした、先輩」
「いや、俺の方こそ……ごめん。……あぁ、そうだ。俺が泊まるのは難しいけどさ、週末とか、由梨ちゃんが泊まりに来たりする分には全然OKだよ。真央もきっと歓迎すると思う」
「……そう、だといいんですけど……」
 由梨子はふっと意味深に目を伏せ、ベッドへと腰を下ろした。
「…………………………えーと……じゃあ、由梨ちゃん。ホントに夜も遅いから、俺は帰るよ」
「はい。……………遅くまで付き合わせちゃって、すみませんでした」
「いや……それは半分くらいは俺の責任だし、由梨ちゃんが謝る事じゃないよ」
 苦笑し、由梨子の部屋を後にする。キシキシと軋む階段を半ばほど下りたところで、月彦は不意に自分を追ってくる足音に気がついた。
「先輩! 待って下さい!」
「由梨ちゃん? どうしたの?」
 ひょっとして、部屋に何か忘れ物でもしてしまったのだろうか――そんな危惧とは裏腹に、由梨子は月彦の側まで来るとぎゅっと、再び袖を握ってきた。
「泊まるのが無理なら、せめて送らせて下さい」
「お、送る……って」
「お願いします、先輩」
「わ、分かったよ。じゃあ、玄関までって事で」
「分かりました。“先輩の家の”玄関まで、見送らせて下さい」
「ちょ、由梨ちゃん。それはダメだって! こんな夜中に……そんな事されたら、今度は俺が由梨ちゃんを送らないといけなくなっちまう!」
「大丈夫です。真夜中って事は、逆に外を出歩く人なんて誰も居ないって事ですから。もし帰り道で変な人に絡まれたら、精一杯大声出して逃げますから、心配しないで下さい」
「でも……」
「ダメだって言われても、私はこっそり先輩の後をつけますから、同じ事ですよ」
 らしくないほどに、由梨子は強引だった。やむなく月彦は押し切られ、前代未聞の“女の子に家まで見送られる男”にされてしまった。

(……妙な事になった)
 と、思わざるをえなかった。日付も変わってしまった真夜中、その寒空の下を由梨子と二人、自宅へと歩く。そのシチュエーションのなんと珍奇な事か。
(……やっぱり、寂しい……っていう事なんだろうな)
 あれほどに強引に家に泊まってほしいと申し出たのも。そしてひょっとしたら、黒タイツで誘惑をしたのも、全て一秒でも長く誰かと一緒の時間を増やしたかったからではないのか。
(何とかしてあげられればいいんだけど……)
 既に武士が旅立ち、さらに両親の事ともなれば、一介の男子高校生には荷が勝ちすぎる問題だった。自分に出来ることはせいぜい由梨子の話し相手になってやったり、“寂しさ”を紛らわせてあげる事くらいかと、月彦は改めて自分という存在の矮小さを思い知った。
「………………そういえば」
「はい?」
「由梨ちゃん、今日は大事な話があるって言ってなかった?」
「…………。」
 由梨子は一瞬表情を強ばらせ、何かを言おうと口を開きかける。が、すぐに閉じ、そして笑顔を零した。
「すみません。…………あれは、先輩を家に呼ぶための、ただの口実です」
「……本当に?」
「はい」
「本当の本当に?」
「はい」
「本当の本当の本当に大事な話じゃないの?」
「先輩、ちょっとしつこいですよ? 違うって言ってるじゃないですか」
 由梨子が困ったような笑みを漏らす。そこまで言われては、月彦も引き下がらずを得なかった。
「それなら、いいんだけどさ。…………もし、何か困った事があって……少しでも俺が役に立てるなら、いつでも言ってよ。由梨ちゃんの為なら、出来る限り頑張るからさ」
「ありがとうございます、先輩。……でも、本当に大丈夫ですから」
 そんなやりとりをしている間に、やがて紺崎邸の門扉が見えてきた。さすがに家の灯りは消えており、真央も、葛葉も就寝しているらしかった。
「えーと……見送りありがとう、っていうのも何か変な話だけど……」
「私が好きでついてきただけですから、お礼なんて言わないで下さい」
「由梨ちゃん、本当に大丈夫? やっぱり、家まで送ろうか?」
「……そんな事繰り返してたら、どっちもいつまでも家に帰れなくなっちゃいますね」
 苦笑。
 由梨子がぴょんと、逃げるように後方に一歩飛ぶ。
「大丈夫、私は一人で帰れますから。…………今日はいっぱい我が儘言っちゃってすみませんでした。…………先輩、おやすみなさい」
「おやすみ、由梨ちゃん」
 別れの挨拶を皮切りに、由梨子はくるりと背を向けると小走りにその場を後にした。月彦もしばしその背を見続け、或いはこっそり後を付けて見送ろうかと思って――結局実行には移せなかった。



 気がつくと、頬を涙が伝っていた。月彦の目の前から小走りに走り去ったのは、一つはその涙を見られたくないという理由もあった。
 本来なら、そのまま家まで走って帰って、ベッドへと泣き伏したかった。しかし、月彦に散々にイかされ、喘がされた疲れから体力が回復しきっておらず、由梨子の足は百メートルも走らないうちに棒のようになってしまった。
 そのままその場に座り込んでしまいたくなるのをなんとか堪えて、由梨子は歩く。が、その歩みは亀のように遅かった。
 帰りたくない――そんな思いが自分でもどうにもならない程に強かった。いっそ、このまま踵を返して、月彦にもう一度泣きつこうか――そんなあり得ない案すら本気で検討してしまいたくなる程に、由梨子は己の真意というものを見失っていた。
 大事な話があるというのは本当だった。月彦を家に呼んで、真っ先に相談するつもりだった。絶対に、是が非でも月彦を家に呼ぶために、“色仕掛け”にも手を染めた。
 結果的には、それが裏目に出た――という事になるのだろう。部屋に連れ込んだ月彦はもう既に心ここにあらず。チラチラと黒タイツに目がいって仕方がないという風に、由梨子には見えた。このまま“大事な話”をしても、上の空できちんと聞いてもらえないのではないか――否、違う。本当は由梨子自身、月彦に一刻も早く抱かれたいという衝動を抑えかねて、“話”を後回しにしてしまったのだ。
 このまま泊まって行って欲しい――その懇願は確かに由梨子の本音ではあった。が、その提案がどれほど非常識であるかということも分かっていた。それでいて、その非常識な“お願い”を月彦が受けてくれるかどうかで、密かに月彦の自分に対する想いを計ろうとしている自分にも、由梨子が気がついていた。
(……もし、真央さんだったら……)
 そう、あそこで“お願い”をするのが自分ではなく、真央だったら、月彦は迷わず一緒に居てくれたのではないか――そんな“邪推”をしてしまう自分が、由梨子は心底嫌いだった。汚い、本当に汚い女だと、反吐が出そうになる。
(もう、嫌…………いっそ……)
 涙を拭きながら、とぼとぼと由梨子は歩き続ける。最早、何処に向かっているのか自分でも分からなかった。自分がどうしたいのかも、どうすれば良いのかも、なにもかもを見失って、由梨子は歩き続けた。
「あっ……」
 そうしてたどり着いた先は、見覚えのある公園だった。そう、そこはいつぞや月彦の部屋を見上げていた所を真狐に見つかって、そして話を聞いて貰った――ある意味で思い出深い公園だった。
「…………。」
 なんだか妙に懐かしくなって、由梨子は公園の中へと足を踏み入れた。そして、あの時と同じようにベンチへと腰掛けて、ふぅと体の力を抜いて瞼を瞑る。そうしているだけで、今にもぽんと肩を叩かれ、真狐が話しかけてくるような気がして、由梨子は少しだけ気分が落ち着くのを感じた。
 無論、実際に肩を叩かれる事は無い。さすがにそこまで会いたい相手が都合良く現れたりはしないという事は由梨子にも分かっていた。
「はぁ……」
 瞼を開ける。ため息、というよりは息の白さを確かめるために吐いたような息。しっかりと上着を着込み、下も部屋着用のジャージを履いているとはいえ、そんなものでは本場の冬の寒気はおよそ遮断出来ない。このままここでジッとしていたら、朝には間違いなく凍死しているだろうな――そんな事を人ごとのように考えながらも、由梨子はどうしても腰を上げる気にはなれなかった。
(…………もう、寝ちゃおう、かな……)
 ポケットに入れっぱなしの手すらも冷たく、全身の熱という熱が奪われていくにつれて、由梨子は微睡みにも似たものを感じていた。目を開け続けている事が段々堪らなく苦痛に思えてくる。
 うつら、うつらと。由梨子の意識が眠りの谷底へと足を踏み外しかけた――正にその時だった。
「え…………」
 ふわさっ、と。何かが肩に被された。由梨子がハッと瞼を開けると、眼前には涼風のように優しい笑みを浮かべた男が立っていた。
「こんな所で寝ていたら風邪をひきますよ、由梨子さん」


 


 実際、かなり危うい所ではあったのだろう。公園で白耀と出会ってから、一体どのようにして屋敷へと連れてこられたのか、由梨子は記憶が定かではなかった。ただ、最初家へと送ろうとする白耀に、頑なにそれだけは嫌だと駄々を捏ねた記憶だけは強く残っていた。
「……落ち着かれましたか?」
 白耀の屋敷の一室。応接室のような場所へと通され、白耀が用意した茶――緑茶のようだが、今まで一度も飲んだ事がない類の味だった――に口を付け、その湯飲みの暖かさに由梨子は自分でも奇妙な程に安堵していた。
「はい……すみません……こんな、夜更けに……」
 由梨子はそっと湯飲みを置き、頭を下げる。洋風のソファは背中側に傾斜がかかっており、背をもたれさせると不遜にふんぞり返るような姿勢になってしまう為、由梨子は遠慮の意味でもやや猫背にならざるをえない。
「いえ、良いんです。…………どうせ僕も、寝付かれない所だったでしょうから。……………………もし良かったら、何があったのか教えていただけませんか?」
 白耀の優しい笑顔と言葉に、由梨子は不可視の衝撃を受けたような気分だった。それはとても甘く甘美な響きをもって由梨子の心を強烈に揺さぶり、涙を溢れさせた。
 ……人に話すような事ではないと、頭では分かっている。しかし、由梨子は冷静ではなかった。
「…………両親が、離婚……するらしいんです」
 ぴくりと、白耀の眉が揺れた。
「二人とも家を出て……今、住んでいる家を売って……お金に、換えて……分けるそうなんです。それで、私にも……父と母、どっちについていくか決めなさい、って……」
「……すみません、僕が軽率でした。…………もし、話すのが辛ければ、無理には……」
 いえ、聞いて下さい!――由梨子は殆ど叫ぶように言った。
「母は、言いました。自分は九州の実家の方に一度戻るつもりだと。父は……元々単身赴任のような状態でしたから、そちらの方で暮らすつもりなんだと思います。……どちらについても、私は今の学校から転校しないといけないんです」
 白耀は何も言わず、ただ真摯な眼差しで由梨子を見据えたまま、時折首肯を繰り返す。
「それは、しょうがない事だと思います。……もともと、バラバラの家族でしたから。弟が家を出たのが……一つのきっかけになったんだと思います」
 こんな話、そもそも人間ですらない白耀にしてみれば理解のしようのない、迷惑千万以外の何物でもないだろう。それを分かっていても、由梨子は自分を止める事が出来ない。
「父と母が別れてしまうのも、しょうがないことだと分かってます。悲しいけれど、耐えられない程じゃないんです。でも――」
 言葉を続けようとして、由梨子は思わず息を詰まらせた。土曜日の夜に受けた衝撃が蘇ってきて、胸が張り裂けんばかりに痛んだ。
「父も……母も、言ってくれないんです。……自分の方に来い、って……。父も、母も、判断はお前に任せるって言うばかりで、自分の方に来て欲しいとは言ってくれないんです」
 白耀は、何も言わない。由梨子は話を続ける。
「……薄々、分かってるんです。母にはもう、新しい相手がいて……その相手と一緒になる為には、私は邪魔なんです。…………ひょっとしたら父にもそういう相手が居るのかもしれませんけど、どちらかというと……父は母に似ている私が嫌いなんだと思います。……第一、弟がもう父方の祖父の方に身を寄せてますから……“後継者”という意味でも、私は要らないんです」
「……由梨子さん」
「言葉には、されてません。……でも、二人とも…………お前は要らない、こっちに来るな、って……そういう目で私を見るんです」
 両親のあの目は、一生忘れる事は出来ないだろう。決して仲の良い家族ではなかったけれど、人並みには両親に愛してもらっているに違いない――そんな想いは錯覚であると、真っ向から否定するような、あの目を。
「だから……だから、もう…………」
「……すみません、由梨子さん」
 肩を震わせ、嗚咽に近い声で言葉を詰まらせる由梨子に、白耀が凛とした声をかぶせてくる。
「ご存じの通り……僕は人間ではありません。……人の家族というものの在り方を、知識としてしか知りません。…………そんな僕の言葉が慰めになるとは思えない……ですが」
 白耀が身を乗り出し――そして、膝の上で震えていた由梨子の手を、しっかりと掴む。
「由梨子さんが要らない存在だなんて、それは大きな間違いです。少なくとも、僕は由梨子さんの言葉で救われました。いえ、僕だけじゃない……由梨子さんが居なくなって悲しむ人はもっと沢山居ると思います」
「白耀、さん……」
「……大変な状況だとは思います。でも、早まった事だけはしないで下さい。僕も、月彦さんも……そしてきっと真央さんも悲しむと思います」
 あぁ――自分は、この言葉が聞きたかったのだと。由梨子は目尻に涙を滲ませながら、軽い感動と共にそれを実感していた。
 自分は必要とされている、それを他人の口から聞かせて欲しかったのだ。そう――出来れば、月彦の口から……。
「…………ありがとうございます、白耀さん。…………少し……いえ、大分、楽に……なりました。本当に、ありがとうございます」
「いえ……その、偉そうな事を言ってしまって、すみません……あっ、…………て、手も……勝手に……」
 由梨子の手を握りしめていた事に漸く気がついたのか、白耀は慌てて手を離し、雪のように白い肌を可愛そうな程に赤面させる。
(…………先輩から聞いた話だと、確か……三百才だって……)
 しかし、実際にこうして対面している限りでは、とてもそのようには思えなかった。むしろ同年代――せいぜい三つか四つ年上といった程度の“差”しか感じなかった。
「何にせよ、少しでも助けになれたのなら良かった。…………夜も大分更けました、良かったら今宵はこのまま泊まって行かれますか?」
「えっ、でも……」
「……………………丁度、菖蒲が使っていた部屋が空いてますから。寝具もありますし………………手入れも………………欠かさずしてますから、寝泊まりする分には何の問題も無いと思います」
 菖蒲――その名に、由梨子はどきりと胸を弾ませる。その名は知っている。他ならぬ白耀の想い人だ。
(そういえば……家を出るとか、そういう話を……)
 以前、白耀としたのを思い出した。つまりは、白耀は自分のアドバイス通りに、菖蒲に“通い”になる事を認めたのだろう。
 それでいて、空いた部屋はそのままに――しかし、いつ戻ってきてもいいように、手入れだけは欠かしていない。……そんな大切な部屋に、泊まっても良いものなのだろうか。
「気兼ねなんてなさらないで下さい。今宵はゆっくり休んで、朝、店の者に家まで送らせますから。それで学校には十分間に合うと思います」
「でも、あのっ……」
 白耀の申し出は嬉しい。しかしせめて、別の部屋ではダメだろうか――そう申し出ようとしても、言葉が巧く紡ぎ出せない。
 白耀は由梨子の言わんとする事を見透かしたように微笑を浮かべ、小さく首を振る。
「良いんです。……勿論、他の誰でも、というわけではありません。…………由梨子さんならば、と。他ならぬ僕がそう思ったんですから」
「白耀さん……」
 白耀は立ち上がり、戸惑う由梨子の手を半ば強引に引いて、菖蒲の部屋へと案内する。応接室もそうだが、菖蒲の部屋も純和風の屋敷の中にあってそこだけがノブつきのドアになっており、ひどく浮いているように由梨子には見えた。
 さすがに部屋の主が出て行った後というだけあって、中にはベッドと木製の机、空のタンスしか家具は置かれていなかったが、ベッドはついさっき換えたばかりとでもいうかのようにまっさらなシーツが敷かれていて、掛け布団も信じられないほどにふっくらとしていた。
「では、由梨子さん。朝は少し早めに起こしに伺いますね。…………おやすみなさい」
「はい……おやすみ、なさい」
 由梨子がベッドに入るのを見届けて、白耀が静かにドアを締める。闇に包まれた室内で、由梨子はもぞりと、掛け布団と毛布を肩までかぶり、横になった。
 そのまま、由梨子は自分でも信じられない程にあっさりと、そして穏やかに眠りの淵へと落ちていった。


 翌朝、白耀が用意してくれた朝食を遠慮気味に摂り、料亭の従業員に車で家まで送ってもらった。家の中へと入り、昨夜月彦を送って行ったまま何も変わっていない――父は当然として、母はやはり帰らなかったのだと――事を確認するも、別段由梨子は落胆も失望もしなかった。
 淡々と、そういう命令を打ち込まれたある種の機械のように身だしなみを整え、鞄の中身を入れ替え、学校へと急いだ。

 ひょっとしたら、“昨夜の件”で真央に何かしら言われるのではないかと危惧した由梨子だったが、そういう事は一切無かった。月彦の遅すぎる帰宅に何も感じなかった筈はないのに、いつも通りにあくまで級友として接してくれる真央に対して、由梨子は二重の申し訳なさを感じた。
「あっ、由梨ちゃん。ちょっと良いかな?」
 当然の事ながら弁当を用意している暇など無く、学食にパンを買いに行こうと教室を出た所で、由梨子は思わぬ人物に声をかけられた。
「先輩……」
「やっ。……よかった、ちゃんと学校来てたんだね」
「……心配かけちゃってたんですね。すみません……昨日は、ちょっと取り乱しちゃって……」
「いいって。……っと、あのさ。昨日の話の蒸し返しになったらゴメン…………由梨ちゃんが言ってた“大事な話”っていうのが、どうしても気になっちゃってさ」
「それは……」
「もし、今日の放課後でよかったら、改めて相談に乗らせてよ」
「………………。」
 由梨子は迷った。月彦の気遣いは無論、涙が出そうになるほどに嬉しかった。その申し出に甘えて、思い切り弱音を吐きたいという抗いがたい誘惑も感じていた。
 しかし。
「……本当にもう、大丈夫ですから。……先輩も、今日は真央さんにかまってあげてください」
「…………本当に大丈夫なの?」
「はい。……それに、今日はちょっと……私の方が用事があって……ごめんなさい」
「いや、いいんだ。そういうことなら…………そっか、本当に大丈夫なんだ……」
 由梨子の言葉を信じたのか、月彦はホッと胸をなで下ろす。そのまま、折角だからと一緒に学食まで行き、由梨子はパンと飲み物を、月彦は飲み物を買って、そのまま自分の教室へと戻っていった。
(…………先輩……)
 昨日、聞いてくれていたら――と思うのは身勝手な我が儘であると、無論由梨子にも分かっている。そもそも、昨日も月彦は聞こうとしてくれたではないか。それを“大丈夫だから”と突っぱねてしまったのは他ならぬ自分自身だというのに、由梨子は月彦の後ろ姿に奇妙なむずがゆさを感じてしまう。
「由梨ちゃん、どうかしたの?」
 教室の前に立ちつくしたままの由梨子の耳に、そんな真央の声が飛び込んでくる。
「あ、いえ……すみません、真央さん。待っててくれたんですか?」
「うん! もうお腹ぺこぺこ! 早くご飯たべよ?」
 弁当包みを開けずに手にぶら下げたままの真央に手を引かれて、由梨子は教室内へと連れ戻される。奇妙な罪悪感の為か、あくまで優しい真央の笑顔が、言葉が、むしろ身を切り刻む刃のように、由梨子には思えた。



 放課後、由梨子は学校から直接駅へと向かい、真田邸へと向かった。昨夜の件の――正確には今朝だが――礼を言うためだ。
(あっ……先に、電話して伺います、って……言っといたほうが……)
 白耀とて暇人ではないだろう。突然尋ねたりすればむしろ迷惑ではないだろうか。こんな事ならば朝の内に連絡先を聞いておけば良かったと、由梨子は己の配慮の足り無さに爪を噛む思いだった。
 真央の携帯へと電話し、白耀への連絡先――電話番号を尋ねようかと思うも、何故兄の連絡先を知りたいのかと真央に追求されるのが怖くて、掛ける事が出来なかった。
 やむなく由梨子は直接真田邸を尋ねる事にした。呼び鈴を鳴らして待つこと数分、門を開けたのは意外にも――白耀本人だった。
「おや、由梨子さん。どうかなさったんですか? まさか忘れ物でも……?」
「あっ、いえ……そういうわけじゃ、ないんですけど……」
 てっきり、“菖蒲さん”が迎えてくれるものだとばかり思っていた由梨子は、まさかの本人登場に一気に舞い上がってしまった。
「あ、あの……昨日…………正確には今朝……ですけど……もう一度、ちゃんとお礼が言いたくて……」
「そんな……礼だなんて。……気になさらないで下さい」
 白耀はいつもの、涼風のような微笑を浮かべる。
「“困ったときはお互い様”――これは確か、人間の言葉でしたよね。由梨子さんは、僕が苦しかった時に助けてくれました。僕も……由梨子さんを助ける事が出来た。貸し借りなしという事で、それで良いじゃないですか」

「でも……私、白耀さんが来てくれなかったら…………本当に、ありがとうございました」
 由梨子は手をそろえ、深々と頭を下げる。
「由梨子さん、頭を上げて下さい」
 困ったような白耀の言葉に促されて、由梨子はゆっくりと顔を上げる。そして、由梨子は確かに見た。顔を上げ、目が合った瞬間、白耀が何かを口にしかけて、途中で慌てて口を噤んだのを。
「…………白耀さん?」
「……由梨子さん。…………その、この後何か、ご予定とかは?」
 由梨子は少し考え、特に予定らしい予定はないと正直に答えた。
「そう、ですか。…………折角です。……良かったら、少しお茶でも飲んでいかれませんか」
「えっ、でも……」
「店を開けるのは夜からです。まだ、時間がありますから」
 由梨子の懸念などお見通しだと言わんばかりに白耀は言って、門を潜る用に促してくる。由梨子は逡巡したが、白耀の誘いを蹴る理由もなく、またそれはかえって失礼だという思いから、申し出を受ける事にした。



 昨日と同じ応接室へと通され、待たされる事五分弱。
「お待たせしました」
 白耀自ら盆を手に現れ、由梨子の前に緑色の湯飲みと茶菓子の乗った皿を、そして白耀自身も湯飲みを手に対面席へと座る。
「…………こういった事も、一人でする習慣がつきました」
 ぽつりと呟かれたその言葉がひどく意味深に思えて、由梨子はドキリと心臓を跳ねさせた。
「今、菖蒲は主に夜の店の手伝いと、週に二度ほど、屋敷の掃除をやってもらってます。今日は手伝いだけの日です」
 その言葉も、門扉を白耀自身が開けた事に対する答えのように、由梨子には聞こえた。

「…………実は、お茶にお誘いしたのは、改めて由梨子さんにご相談したい事があったからなんです」
「私に相談……ですか?」
「はい。………………その、……また……例の件、なのですが」
 それまで涼風のような微笑を絶やさなかった白耀が途端に、まるで心臓か肺かに重度の疾患を抱えているかのように押さえつけながら、血を吐くように呻く。
「……菖蒲さんの事……ですか?」
 はい、と。白耀の声は掠れていた。
「…………すみません。これこそ、人様にお話するような事じゃない…………僕は自分の事さえ満足に判断出来ない大間抜けだと暴露するに等しい、愚かな行為だと分かってはいるんです。…………ですが……ッ……」
「そんな事はないです。…………白耀さんの気持ちは、私もよく分かります。…………苦しいときに他の人に相談するのはちっともおかしい事じゃないと思います」
 むしろそれが自然なのだと――由梨子は白耀を落ち着ける為にもそう言った。
「私は、誰にも言ったりしません。…………話して楽になることなら、話して下さい」
 そう、今朝の自分がまさしくそうであったように。あのどうしようもない苦しさ、胸の痛さを知っているからこそ、由梨子は今眼前で苦しんでいる男の力になってやりたいと、心底そう思った。
「………………話をする前に、由梨子さん。一つだけ教えて下さい」
「はい」
「由梨子さんは……大切な人から……贈り物をされた事はありますか?」
「……はい」
 由梨子はそっと、右手で左手首の辺りを触る。そこには、外出時は勿論、家に居る時でさえ入浴時と就寝時しか――場合によっては、就寝時すら外さない事もある――外さない時計が巻かれていた。
 言わずもがな、月彦に貰ったものだ。そして、もう一つ――愛用の手袋もまた、同様に月彦からの贈り物であり、これも日常的に使っているものだった。
「それは……由梨子さんの宝物ですか?」
 はい――由梨子は少しだけ照れながら、迷うことなく頷いた。その瞬間、心なしか白耀の瞳に闇の色が増したように、由梨子には見えた。
「……あの、何か……」
 まずいことを言ってしまったのだろうか――由梨子がそんな不安に苛まれた時だった。
「実は、鈴が……」
 それは、掠れた。耳を澄ませていなければ到底聞き取れないような声だった。
「鈴……?」
「…………いや、その……すみません。忘れて下さい………………実は、菖蒲に何か贈り物をしたいと思ってるんです。出来れば、由梨子さんにその相談に乗って頂けないかと思った次第でして」
「贈り物、ですか」
「はい。……菖蒲は、実によく仕えてくれています。労いの意味でも、少し奮発したプレゼントを、と考えているのですけど…………どうにも良い案が浮かばなくて。………………どういった物を贈れば、女性は喜んでくれるのでしょうか」
「えと……すみません……私も、そういう事は、あまり……」
 他人に胸を張って“女性とは……”と語れるほど、由梨子はファッションや時流に精通している自信はなかった。ましてや、妖狐と妖猫の間の贈り物のアドバイスなど出来る筈がないと。
(……きっと、霧亜先輩なら……)
 女心の機微など知り尽くしているのだろうと、詮無いことを思う。そしてすぐに霧亜の影を頭の中から打ち消して、代わりに浮かんだのはかつて、自分を助けてくれた女性の顔だった。
「そういう事なら、私よりも……真央さんのお母さんとかに相談するのが良いんじゃないですか?」
「…………ははは、ご冗談を」
 ぴきっ、と。白耀が笑みを凍り付かせるのが分かった。
(あっ、そういえば……)
 そして、由梨子は遅れて気がついた。真央にとって母であるのならば、当然白耀にとっても母であるという事に。――そして、そもそも白耀が“女体恐怖症”となってしまったのは、他ならぬ母親が原因であるという事も、由梨子は月彦や真央から漏れ聞いていた。
「あの女に相談を持ちかけるくらいなら、僕は舌を噛み切る方を選びます」
「……す、すみません」
 これは自分の配慮が足りなかったと、由梨子は素直に謝罪をした。
「でも……私も本当に、そういうのは詳しくなくって……」
「そうですか……すみません、無理を言ってしまったみたいで」
「あっ、でも」
 しょぼーんと、狐耳を萎れさせる白耀を見ていられなくて、由梨子は咄嗟の思いつきを口にする。
「普段身につけているものとか、よく使っているものとかがあれば……それを贈ってあげると、きっと喜んでくれると思います」
「身につけているものや、よく使っているもの、ですか」
「私の場合だと……この時計は、プレゼントしてもらったものなんです。腕時計なら、出かける時も家に居る時も常に身につけていられますから…………あと、この手袋も。私、冷え性ですから、手が冷えないように、って」
「……成る程。日用品は喜ばれるという事なんですね」
 それはちょっと違うのではないかと由梨子は思ったが、では何が良いのかと聞き返されても困るから、曖昧に首肯することにした。
「でも、結局の所……一番大事なのは白耀さんの想いだと思います。菖蒲さんの事を好きなんだって伝わっているなら、きっと何を贈っても喜んでもらえると思います」
「…………想い、ですか」
「出来れば、それが伝わりやすい贈り物だと良いんですけど……そこはやっぱり白耀さんが自分で考えるべきだと思うんです。菖蒲さんの事を一番に考えていないと思いつけないような、そんなプレゼントを」
「菖蒲のことを一番に考えていなければ出来ないプレゼント、ですか」
 オウム返しに白耀が呟くのを聞いて、由梨子はふと目を伏せ、唇を噛んでしまった。そう、それは正確には白耀へのアドバイスではなく、自分が月彦から貰って嬉しいプレゼントの一例であると気がついてしまったからだ。
「あの……それって急がないといけないプレゼントなんですか?」
 もし、菖蒲の誕生日が来週に迫っているとか、そういった事情があるのならばゆっくり考えている暇など無いだろう。
「…………いえ、あくまで日頃の労をねぎらっての――という名目ですから。すぐでないといけないという事はありません。……ただ――」
「ただ……?」
「…………すみません、僕にも巧く言えないんです。ただ何となく……急がないと、取り返しのつかない事になってしまうんじゃないかって…………そんな気がするんです」
「…………ひょっとして、菖蒲さんと……うまくいっていないんですか?」
 それは、由梨子としてもひどく勇気のいる質問だった。白耀は困ったような、それでいて苦い飴でも噛んでいるような複雑な笑みを浮かべる。
「そんな事はない――と思います。いつぞやのように喧嘩をすることもありませんし、仕事の方もそつなくやってくれています。……でも、何かがおかしい、そんな漠然とした不安に苛まれるんです」
「でも、原因は分からないんですよね?」
 はい、と。白耀は小さく頷く。
「………………正直に言うと、昨日……あんな時間にあんな場所をうろついていたのも、それが原因なんです」
「どういう事ですか?」
「ご存じの通り、菖蒲は“住み込み”ではなく、“通い”になっています。昨夜も夜の仕事を終え、菖蒲が帰宅した後――不意に、菖蒲の声が聞きたくなってしまって……それも、電話などではなく直接、面と向かって話をしたくなって、菖蒲のマンションへと足を運んでしまったんです」
「………………わかります」
 由梨子自身、経験があるだけに、白耀の気持ちは痛いほどに理解出来た。
「ただ、マンションの前まで来た所で、それ以上先に進む事が出来なくなってしまって……部屋を尋ねて、もし菖蒲の機嫌を損ねてしまったらどうしよう。既にベッドに入っているのを起こしてしまったらどうしよう、って……そういう事を考え始めると、とても部屋の前まで行けなくて……かといってモヤモヤした気分のまま帰っても寝付かれない事は知っていたので……ただ、所在なげに歩いていたら……」
「あの公園に……?」
 はい、と。今度はやや照れくさそうに、白耀は頷いた。
「こんな偶然があるのかと、僕は目を疑いました。そして紛れもない本物の由梨子さんだと分かると、声を掛けずにはいられなかった。不思議ですね、ほんの数秒前まで菖蒲の事でウジウジと悩んでいたのに、気がついた時には殆ど人さらいのように由梨子さんを屋敷に招いていたんですから」
「“良い気晴らし”になったのなら、私としても本望です」
 冗談のつもりで、由梨子は微笑んだ。白耀もまた、それを受けて笑みを零す。
「確かに……そうですね。昨夜は、自分でも驚くくらいに良く眠れたんです。…………ここのところ、おかしなことばかり考えてしまって、ろくに眠れていなかったので……」
「おかしな事……?」
「はい。…………その、菖蒲が実は他の男性と付き合っているのではないかとか、そういう下らない嫉妬じみた妄想です」
「…………それも、少しだけ、分かります」
 もっとも、自分の場合は妄想でもなんでもなく、確固たる事実な分、“単なる妄想”で済んでいる白耀が羨ましいと、由梨子は思う。
「…………本当に不思議です。こうして由梨子さんとお話しているだけで、胸のつかえがどんどん楽になる気がします。……女性と話をするのは苦手な筈なのですが」
「実は、私も……男性と話をするのは得意な方じゃないんです。先輩……紺崎先輩だけ、少し特別で………………でも、白耀さんとお話するの、私も段々楽しみになってきました」
「それは良かった。…………何でしたら、これからも気軽に尋ねてらして下さい。いつでも歓迎しますよ」
「ありがとうございます。……先輩や真央さんと一緒に、遊びに来ちゃいますね」
 是非、と白耀は涼風のような笑みを浮かべる。――そして、ハッと。何かに気がついたように表情を暗くし――そして真顔になった。
「………………由梨子さん。確か……親御さんの都合で、転校は避けられない――そう仰ってましたよね?」
「………………はい」
 白耀の言わんとする事は、無論由梨子にも分かっていた。母を選ぶにしろ、父を選ぶにしろ、どのみち転校は避けられない。つまり、先ほど話したような――月彦や真央と共に遊びに来るというような事も近々不可能になるという事だ。
 それを分かっていて尚、由梨子は甘い妄想のような未来に耽っていたかった。両親から伝えられた猶予はたったの一週間、それを消化してしまえば、もうこの街には居られない――そんな現実から目を背けていたかった。
「…………これは、僕の身勝手な提案です。あくまで、そうしてもらえると何より僕が助かるから――そんな独善的な提案です」
 白耀が一体何を言い出すのか、由梨子はその真意を測りかね、ただただ黙って言葉の続きを待った。――そして、次の瞬間白耀の口から飛び出した言葉は、文字通り由梨子の想像の範疇を大きく超えていた。
「…………もし、由梨子さんさえ良ければ、親御さんの元を離れて、僕の屋敷で暮らしませんか?」
 

 
 

 

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