「やっほー、妙ちゃん。来たでー」
「……うん、上がって」
 ドアを開けるなり、元気よく笑いかけてくる幼なじみに少し困ったような笑みを返して、白石妙子は部屋へと上がるように促した。
 ちょっと宿題で解らないところがあるから教えて欲しいと、そう相談をされたのは昨日――金曜日の夜の事だった。休日とはいえ別段予定も無く、断る理由も思いつかなかったから妙子は快く承諾したのだった。
「妙ちゃん、お昼まだやろ? お好み買うてきたから一緒に食べよー」
 強いソースの匂いを放つビニール袋を突き出す幼なじみに、妙子はまたしても困った様な笑みを返す。別にお好み焼きが嫌いというわけではなかった。千夏の好意は勿論嬉しいし、昼食どころか朝食すらまだとっていない事を今更ながらに気づいた所だから、腹ごしらえは妙子としても望むところである筈なのだ。
 が、しかしどうしても素直に喜ぶという事が――満面の笑顔を零す幼なじみと一緒に笑うという事が出来ない。それはもう白石妙子という人格を形成する一部となってしまっていて、自分自身でもどうにもならなかった。そして当然の事ながら一番の親友でもある幼なじみは、同じく一番の親友の性格など百も承知だからそのくらいのことをいちいち気にしたりはしない。
 妙子は千夏に若干急かされながらテーブルの上を片づけ、食事の支度を整える。整えながら、妙子ははたと気がついた事があった。千夏が買ってきたのはお好み焼きが二つにパックに入った焼きそばが一つ、さらにたこ焼きが一パックと、女二人で食べるには少しばかり多すぎる量だったのだ。
(……もしかして)
 とくんっ、と心臓が僅かに早く鼓動を刻み始める。が、表面上は別段気にも止めず、飲み物その他の準備を済ませて着席してから、さも今気がついたかのように妙子は切り出した。
「ねえ……千夏?」
「んー?」
 よほど腹が減っていたのか、お好み焼きにがっつり食らいついたまま千夏が目だけで返事を返してきた。
「……もしかして、後から誰か来るの?」
「んーん? 誰も呼んでへんよ?」
 でも、量が――と妙子が呟きかけた目の前で、がつがつと千夏がすさまじい勢いで食事を再開する。
「……うちはほら、体もちっちゃいし、脂肪もないやろ? 冬場はいっぱい食べんと体温が維持できひんのよ」
 そういう問題なのだろうかと、妙子は小首をかしげながらお好み焼きを割り箸で切り取り、口に含む。
(……懐かしい味……)
 そう感じてしまう。この味は中学時代からずっと千夏が贔屓にしているお好み焼き屋の味だ。妙子自身、千夏に連れられて幾度となく足を運んだものだ。
「…………ねえ、千夏。……最近、どんな感じ?」
 箸を進めながら、不意に妙子はそんな言葉を口にしていた。妙子自身、特に深く考えての言葉ではなかった。
「どんな感じー……て、何が?」
 だから、千夏にそう尋ね返されたとき、もっともな質問だと納得してしまった。一体自分はどういうつもりで、そんな問いかけをしたのだろうかと。
「何が、って……だから、その……」
 答えに詰まった。あわてて何かもっともらしい言い訳を繕おうとするも、いい案が浮かばない。
「ほ、ほら……そっちもそろそろ中間考査じゃないの? 勉強とか……大丈夫?」
「んー……ちょいヤバ……っていうか、実はかなり…………今日持ってきたプリントもばっちり試験範囲なんやけど、さっぱり解らへんし……」
「……裏を返せば、その宿題を自分で解ける様になれば、試験もばっちり、ってことじゃない」
「……まぁ、そうなんやけどね…………」
 ふっ、と。まるで他人事の様に千夏が目を背ける。
「……でも、いいの?」
「……?」
「だって、ほら……………………千夏が危ないって事は、和樹とか、アレとかもっと危ないんじゃないの?」
「あー、カズは心配あらへん。うちらが邪魔せんかったら、1人でそれなりにやる奴やから」
「……そういえば、そうね」
 くすりと、妙子は昔を思い出してつい微笑んでしまう。今でこそ三バカ、というようなひとくくりの扱いを受けていて、しかもその筆頭のように思われがちだが、そもそも和樹自身の成績は決して悪くはなく、それが今のようにくくられる様になったのはひとえにテスト期間の度に千夏と月彦が道連れ工作を行い続けたからなのだ。
「じゃあ、問題があるのは…………アイツだけってことか」
「んー、せやなぁ。……本当は今日ヒコも誘おうかと思ったんやけど」
「…………思ったけど、何?」
 無意識のうちに語気が強くなってしまった。これではまるで責めているみたいだと、妙子は言い終わってから自覚した。
「あっ、妙ちゃん。たこ焼き食べへんのやったら、一個貰ろていい?」
「もともと千夏が買ってきたものでしょ。好きなだけ食べればいいじゃない。…………それで?」
 妙子は先を促すが、千夏はまるで言葉が聞こえてないかのようにたこ焼きにご執心だった。このたこ焼きも小学校の頃から贔屓にしている屋台のもので、ただ焼くだけではなく油を多めに使って表面をカリカリに揚げてあり、これまた千夏の大好物なのだった。
「……ねえ、千夏?」
 妙子はさらに語気を荒げ、ずいと身を乗り出すようにして千夏に詰め寄った。さすがに無視はできないと思ったのか、千夏がやれやれとばかりに爪楊枝を置いた。
「……ほら、うちとヒコはクラス違うし。うちが宿題でひぃひぃ言うとる横で茶々入れられるのも癪やし、妙ちゃんかていっつもヒコと一緒じゃ勉強にならんーて怒ってたやろ? そやからヒコは呼ばんほうがええかなーて」
「…………それは…………そんな、昔の話……」
 千夏の言う事は真実ではあった。中学時代――否、小学校時代までさかのぼっても、あのバカ男と一緒に勉強をしようとして、うまくいった記憶が掘り起こせなかった。
「何や、妙ちゃん。もしかしてヒコも呼んで欲しかったん?」
「…………誰もそんな事は言ってないでしょ」
 にへら、と意地の悪い笑みを浮かべる幼なじみの視線から逃げる様に妙子は顔を背ける。
「私はただ、あんたたち二人だけ良い点とって、あいつ1人赤点とかになったら……さすがに可愛そうかな、って……そう思っただけよ。……一応、葛葉さんからあいつのことよろしくって頼まれてるし、それなのにあいつがテストで変な点数とったりしたらまるで私のせいみたいだし。だからってわざわざ私の方から勉強教えてあげるって言うのも押しつけがましいし……でももし千夏が引っ張ってきたのなら、仕方ないから少しくらい面倒みてあげても――」
 そこまで呟いて漸く、妙子は目の前の幼なじみが最早自分の話など聞いちゃいないという事に気がついた。薄焼き卵でオムライスのように包まれた焼きそばをさも美味そうにほおばる千夏を見て、はぁと小さくため息をついた。
 そのまま昼食を済ませた後、案の定千夏がまずは食休みをしたいと言い出した。
「ダメ。休むのは宿題を済ませてから」
「少しくらいええやん。ほら、“例のブツ”も持ってきたで?」
 千夏が手提げ袋を持ち上げ、アピールするようにぽむと叩く。
「ダメよ。ほら、早く問題を見せて。どうせ数学か英語でしょ?」
「相変わらずやなぁ……妙ちゃん。……でもま、そこが頼りになるとこなんやけど」
 千夏は苦笑しながら二枚のプリントをテーブルの上に広げる。どちらも数学のプリントで、それぞれ三角関数と微積の問題が書かれていた。
「うちもなー、中学までは数学得意やってん。……でもこれはあかんわ。三角関数と微積は数学やない」
「……気持ちはわかるけど、根本は同じよ。きちんと基礎さえ固めておけば、あとはその応用をするだけ。三角関数も微積も、結局最終的にやることは四則演算なんだから、これも間違いなく数学よ。……千夏、教科書はもってきた?」
「むぎゅう……うちはべつに……答えだけ教えてもろたら……それでもええんやけど……」
 あからさまにやる気のない声を出しながらも、千夏はしぶしぶ教科書を出して、妙子の前に広げた。
「それじゃあ意味がないでしょ。……じゃあ、まずは三角関数の基本中の基本から。sinとcosは何を示しているのかっていう所から始めるわよ」
「むぎゅう……お手柔らかにお願いします」

 


 ――二時間後


「……だからこの“瞬間の変化率”の事を微分係数っていうわけ。つまるところ微分っていうのは物事の変化量を――」
「妙ちゃん妙ちゃん、ちょいタンマ! いい加減ちょっと休憩いれよ……知恵熱出過ぎて、うちもう死にそうや……」
「休憩はまだ早いわよ。いい、千夏。この場合はdxが――」
「お願い! 妙ちゃん、一生のお願いやから、一息いれさして! じゃないとうち、うちもう……壊れてまう……」
 うるうると瞳を潤ませながら、両手をあわせて“お願い”をしてくる幼なじみに、妙子はため息をつきながら教科書とペンを持つ手を下ろした。
「…………仕方ないわね。じゃあ、十分だけよ?」
「じゅ、十分て……あかん……妙ちゃん鬼や……やっぱりヒコを連れてくるべきやった……」
 がっくりと肩を落とし、千夏はそのまま軟体動物のようにずるりとテーブルに伏せてしまう。
(…………確かに、月彦が居たら……多分まだ半分も進んでなかったわね)
 “その場合”の事を想像して、妙子は妙にほほえましい気持ちになる。なった後で、なんであんな奴の事でと、奇妙な怒りが沸いたが。
「なぁ、妙ちゃん。とりあえず三角関数の方は大分解ったから、先にこっちのプリント自分で解いてみたいんやけど……」
「そうね。自力で解けそうなら、一端そっちのプリント終わらせた方がいいかもしれないわね」
 勿論千夏の狙いなど妙子はお見通しだった。自力でプリントを解く、という形にすればとりあえずは問題の合間合間に適度に休憩がとれるという事だろう。
(……勉強って、そんなに辛い事かしら)
 幼なじみ達のこういった挙動を見るたびに、妙子はふとそのような事を思う。幼い頃からほとんど生活習慣のように――大げさに言えば呼吸をするように自主的な学習を続けてきた妙子としては、勉強という行為自体を毛虫のごとく嫌う友人達に首を傾げたくなるのだった。
「…………そういえば千夏、英語は大丈夫なの?」
「……妙ちゃん、気が散るから今は話しかけんといて」
 その話題は禁句、とばかりに千夏が手のひらを見せる。
(……英語も危ないのね)
 千夏の態度は、そう口にしたに等しかった。千夏の言うとおり、中学時代の数学の成績は決して悪くはなかったが、英語のほうは妙子が知る限り中学時代から見るに耐えない点数しかとっていなかった筈なのだ。
(……そして、あのバカは……)
 中学時代から、英語も数学もどちらもダメだった筈だ。何か劇的な変化が無い限りは、恐らくは今も。
「うぅ……妙ちゃん……ダメや、ここ教えて……」
「どこ? ……これは……ほら、さっき教えた公式を代入すればいいのよ。sin(θ+π)=-sinθだから――」
「公式、公式て……もう公式とか見るのも嫌やぁ……おとんとおかん、どうしてうちを数学のない国に産んでくれへんかったん……」
「ほら、泣き言言ってないで。まだ二問目じゃない」
 どうやら精神的に大分まいってしまっているらしい幼なじみを元気づけながら、その手に再びペンを持たせる。
「もーだめ、あかん……妙ちゃん、何か別の話しよー……」
「だぁめ。このプリントが終わるまでは無駄話も休憩もなし」
「せや、こないだカズに誘われて一緒に釣りに行ったんやけどな、その時に――」
「ちーなーつ?」
 ばんばんばんとテーブルを叩かれて、千夏はぎゅうとハムスターのような鳴き声を漏らして口を閉ざした。
「…………妙ちゃんがそないやから、ヒコが他の女子と――」
「こら、千夏っ!」
 めっ。と、妙子は子犬でも躾るように声を荒げる。たちまち千夏はしゅんと肩を縮こまらせてため息混じりにプリントへと視線を落とした。
 ん?、と。妙子が小首を傾げたのはその時だった。
「……ちょっとまって千夏。今なんて言おうとしたの?」
 はたと、なにやら聞き捨てならない言葉を聞いた気がして、妙子はずいとテーブルの上に身を乗り出した。が、千夏はそんな妙子の言葉などまるで聞こえていないとばかりに、すっかりハイライトの消えた――まるでこの世の終わりを見たかのようなレイプ目のまま、ただシャープペンだけを動かし続ける。
「……ねえ、千夏ってば」
「プリントが終わるまでは休憩も無駄話も無しって、妙ちゃん自分でそう言ったやん」
 プリントに視線を落としたままぽつりと言われ、妙子は黙るしかなかった。
 仕方がないから、話を聞き出すのはプリントが終わってからにしようと思うも、これがまた遅々として進まない。
「…………〜〜〜〜〜〜〜っっ……」
 十五分が経過して尚、1/3も進んでいない。知らず知らずのうちに、トントンと人差し指がテーブルを叩いてしまっていた。
「妙ちゃん、それ気が散るから止めて」
「……ごめん」
 千夏に指摘されて、妙子は右手をテーブルの下、コタツの中へと引っ込めた。
 そしてさらに待つ――が、千夏は数式を書いては消し、書いては消しを繰り返し、妙子の見る限り一向に正解に近づく気配がなかった。
「ね、ねぇ……千夏。喉乾かない? 何かお茶でも――」
「うちはええわ。そないな気分やないし」
 折角の提案もにべもなく断られ、妙子は無意識のうちに唇を噛んだ。
「……解ったわよ。私の負け。三十分の休憩とるから、ちゃんと話して」
 妙子にしてみれば、最大級の譲歩のつもりだった。しかし、肝心の千夏はといえば、ちらりと妙子の方へと視線を一瞬だけ走らせたかと思えば、再びプリントへと視線を戻し、はあ、と大きくため息をついただけだった。
「何よ……休憩、いらないっていうの?」
「休憩は嬉しいんやけど…………その後またこれやらなあかんーて思ったら……無駄話する気なんて起きひん……」
 この程度の条件では話せない、と露骨に示す親友に対し、妙子もまた咄嗟に握り拳を作りかけた。
「っっっ………………わ、解ったわ。千夏……あとで半分だけやってあげるから……ね?」
「ホンマ!? 妙ちゃんありがとー!」
 そして、妙子からギリギリの条件を引き出すやいなや、千夏はコロリと満面の笑みを浮かべて喝采を上げた。
「それで、あいつが他の女子と……の続きは何?」
 小躍りして喜ぶ千夏の前で、ばむっ、とテーブルを叩く様にして妙子は急かす。
「まーまー、妙ちゃん。お楽しみは後でええやん。とりあえず先に半分やって――」
「千夏!」
 怒るわよ?――とばかりに妙子は声を荒げる。悪ふざけもある程度までは看過するが、それ以上は許さないと、妙子は頑として態度で示す。この辺りは散々飼い犬を躾てきた妙子としては慣れたものだった。
「…………あのな、ヒコがな……こないだ、廊下でうちの知らん女子と――」
「知らない女子と?」
「………………すれ違っとるの見たんや。それだけ」
「……………………。」
 しばしの沈黙の後、妙子はにっこりと笑顔を浮かべた。千夏も、まるで返事を返すかのようににっこりと微笑んだ。
「千夏、腕を出して」
「え……やっ……嘘、妙ちゃん、堪忍や――ぎゃん!」
 怯える千夏の腕を、妙子は強引に掴み、ぐいと腕まくりをする。そして右手を思い切り振り上げ、人差し指と中指だけを立てて、千夏の腕めがけて思い切り打ち下ろした。
「痛っっっ……………………つぅぅ〜〜〜………………」
「バカな事言って人を引っかけた罰よ。大げさに痛がらないの!」
「お、大げさて……妙ちゃんに打たれた所……指の形の内出血になってもうとるんやけど……」
「ちゃ、ちゃんと加減はしたわよ! あのバカを殴るときの半分くらいの力しか……」
 千夏の言う通り、白い肌にくっきりと指の形で青いアザが出来てしまっているのを見せつけられて、さすがに少しばかり狼狽えてしまう。」
「わ……解ったわよ……ちゃんと、約束通り半分はやってあげるから……」
「ええもん……妙ちゃんにヒコの話したらぶたれたーって、ヒコに言いつけたる……ヒコが何か勘違いしてもうち知らん!」
「ちょっっ……千夏!?」

 

 ――さらに四時間後

 

「今日はホンマ助かったわぁ、ありがとー、妙ちゃん」
 まるで人生の難所を越えた、といわんばかりにすがすがしい声を出して、千夏は靴を履く。
「…………本当に解ったんでしょうね。……中途半端で終わらせたら、後々泣くのは千夏の方よ?」
 結局、なんだかんだで微積の分のプリントも半分は妙子が解いてしまったのだった。我ながら甘すぎると妙子は思う。。
「んー……多分大丈夫やろ。数学のセンセ、テストはこのプリントから半分くらい同じ問題出すーゆーてたし。いざとなったら暗記するわ」
「…………英語はどうするの? ヤバいんでしょ? 英語も」
 うっ、と。千夏が露骨に表情を曇らせる。どうやらそうとうにヤバいらしい。
「…………何なら、あのバカも連れて来ればいいじゃない。それくらいの面倒なら……別に……慣れてるから構わないわよ」
「うーん……数学はともかくとして、英語はまぁ……ヒコは大丈夫やろ。強い味方が居る事やし…………」
「強い味方……? 英語が出来る友達でもいるの?」
「ま、そんなトコや。……ばいばい、妙ちゃん。“例の物”の感想は今度聞かしてなー」
「あっ、こらっ、ちょっと、千夏!」
 妙子が呼び止める間もなく、すばしこい幼なじみは早口に別れの挨拶をすませるとそのまま玄関の外へと飛び出していってしまった。
「……ったくもぅ……変なところばっかり、アイツの真似するんだから」
 不満を口にしながら玄関に鍵をかけ、はたと妙子は思う。“あのやり口”はそもそも月彦と千夏、どちらがオリジナルだっただろうか――と。
(……千夏が先……だったかしら?)
 思わせぶりな口調で興味を引き、取引を有利に進める――それを先にやり始めたのは千夏だったような気もする。が、より多用していたのは月彦だった気もする。
(…………不愉快、だわ……不愉快だけど……)
 それが相手の手だと解っていても、妙子はしばしば己の好奇心に勝てず、妥協してしまう。先ほどもそれで結局千夏の宿題の半分をやるはめになってしまった。
(……あの二人……お似合い、よね……ある意味)
 尤も、千夏と月彦が互いに裏をかきあった場合、最後に勝つのは必ず千夏であろうという確信はある。そういった頼りなさ、いざというときのあてにならなさにかけては妙子は他の誰よりも月彦を信用していなかった。
(…………英語が得意な友達って……誰かしら)
 ふと、去り際の千夏の言葉が蘇る。もしや女友達かと思いかけて、あのダメ男と仲良くできる程忍耐力のある女子などそうそう居るわけがないと思い直し、妙子は何度も首を振った。
 このことは出来るだけ早く忘れよう――そう思って、気を紛らわす為に千夏がおいていった手提げ袋を開いた。中には、以前借りたレディースコミックの続きが五冊、さらに新作が五冊入っていた。
「千夏ったら……」
 思わず苦笑が漏れる。こういう本を読んでいる事を月彦や和樹は知っているのだろうか。表紙で美男子同士が胸元をはだけさせながら絡み合っているそのコミックの一つを手に取り、徐にぱらりとページをめくってみる。
「……うわ……千夏ったら……相変わらず濃いのばっかり持ってくるんだから」
 文句を言いつつも無意識のうちに妙子は姿勢を正し、正座をするように足をそろえたままコミックに目を通す。周りに誰もいなくてもつい畏まった姿勢になってしまうのは、後ろめたい事をしている時の癖だった。
「…………ひっっ!?」
 レディースコミックに夢中になっていた所に突然の電話の呼び出し音が鳴りだし、妙子はついそんな悲鳴を出して大あわてで手提げ袋にコミックをしまった。しまった後で、自分は何をやっているんだろうと少しばかり赤面してしまった。
「…………はい、もしもし。白石です」
 赤面しながらも受話器を手に取り、耳に当てる。
「えっ…………葛葉さん?」

 

 

 

 

『キツネツキ』

第三十三話

 


「――そういうわけだから、今日から毎日二時間、再来週の中間考査が終わるまで私があんたの家庭教師をしてあげる。解った?」
「さっぱりわからん!」
 ばむっ、と月彦はテーブルに両手をたたきつけ、膝立ちになりながら月彦は声高に叫んだ。
「一体全体何がどうなって妙子が家庭教師って事になったんだ?」
「そんなの、こっちが聞きたいくらいよ。私だって……葛葉さんの頼みじゃなかったら、あんたの家庭教師なんて絶対引き受けなかったわ」
 はあ、と。月彦の眼前で妙子は露骨にため息をつく。その態度はもう見るからにやってらんないわと言いたげで、少なからず月彦の心を傷つけた。
(ぐ……母さんが突然無茶を言い出すのは今に始まった事じゃないが……)
 さすがにコレは無いのではないかと、月彦は思うのだった。


 そもそもの発端は、昨日の夜。やんごとなき事情による外出から帰ってきた矢先の事だった。
「ただいまー」
「あら、お帰りなさい。…………そうそう、月彦。ちょっと話があるから、すぐに私の部屋に来なさい」
「えっ……」
 最初に嫌な予感がしたのはこの時だった。紺崎家の一つの慣習として、葛葉の部屋に呼ばれるというのは大概何かしらのお説教を受けるという事を意味していた。
(俺……何かやったか……?)
 心当たりは――山ほどある。そもそもが、真央との事自体、咎めようと思えばいくらでも咎められる事だ。他にも、平日の外泊やらなにやらと叩かれて出るであろうホコリの心当たりには不自由が無かった。
(まさか……こないだの事か……)
 先日の――月彦としてもまだ記憶に新しい大失敗の記憶が俄に掘り起こされる。考えてみれば、自室ではなく葛葉の寝室で菖蒲とヤッてしまったのはまずかったのではないだろうか。いや、それを言うならばそもそも菖蒲と関係を持ってしまった事自体が大失態ではあるのだが。
(…………もしかして、そのことのお説教か……?)
 恐らく証拠は残していない筈だが、この母親の事だ。それとなく全てを察知していないとも限らない。それならばもう、腹をくくるしかないと月彦は思っていた。理由はどうあれ、菖蒲と白耀との関係を知りつつヤッてしまった事には代わりがない。葛葉がそれを責めるのであれば、甘んじて受けるのが筋というものだ。
 そう、来るべき時が来てしまっただけだと。月彦はまるで刑を受ける虜囚のような心持ちでいったん部屋へと上がり、部屋着に着替えた。いっそ白装束があればそれに着替えたのだが、生憎と手持ちが無かった為普段着に着替えて、階下へと降りた。
「そこに座りなさい」
 葛葉の部屋は八畳ほどの和室で、和箪笥や鏡台などを除けばめぼしい家具はない。月彦は葛葉に言われたとおりに、葛葉の前にぴしりと正座をした。
「月彦、最近学校はどう?」
「どう……って、普通だけど……」
 一体どのように切り出されるのか――月彦は慎重に受け答えをしながら必死に原因を探していた。
「もうすぐ中間考査でしょう? ちゃんと勉強はしているの?」
「まぁ……それなりに……」
 嘘だった。本当は授業以外の勉強など、全くと言っていい程にやっていなかった。
「……月彦。私はね、今まで貴方のやることに極力口を出さないようにしてきたわ。勉強の事だってそう。口やかましく言った事なんて一度も無かったでしょう?」
「……だと、思うよ、うん。確かに……」
 葛葉の言う事は真実だった。事、勉強に限らず、普段の葛葉はそれはもうありがたい程にフリーダムな教育方針を貫いている。勿論、それ故に時には弊害を被る事もあるが、恩恵に比べれば微々たるものだった。
「……だけどね、それでも時々不安になるの。このまま口を出さなかったら、貴方がどんどん落ち零れていっちゃうんじゃないかって。成績だって、ちょっとずつ落ちてきてるでしょう?」
「なっ……ちょ、ちょっとまってよ! そりゃあ、二学期の成績は一学期に比べたら少しだけ落ちてたかもしれないけど……」
 それは偏に、真央という同居人が来たせいで様々なトラブルに巻き込まれるようになり、それまで以上に勉学にいそしむ事が出来なくなった事に起因していたが、それでも葛葉を不安にさせるほどの成績降下には至らなかった筈だ。
(せいぜい数学の3が2の+に、英語の2+が2になるとか、それくらいだった筈だ)
 逆にいくつか上がったものもあるから、トータルで見ればほぼ現状維持だともいえる。なのに何故、葛葉は突然このような事を言い出したのだろう。
(……第一、成績の降下が心配だっていうのなら、冬休み頭で通知票見せた時に言うべきじゃないのか?)
 何故新学期が始まり、そして中間考査間近になってこのような事を言い出すのだろうか。
(……っていうか、菖蒲さんの件じゃなかったのか……ホッとしていいのかこれは……)
 いや、むしろ逆のような気さえする。葛葉がこういった事を言い出したときは決まってなにか面倒事に――。
「…………やっぱり、自由にさせすぎたのかしら。……霧亜は何も言わなくてもテストで酷い点なんか取ったりしたことはなかったんだけど」
「……ね、姉ちゃんと比べられたら辛いけど…………と、とにかく……成績の降下が心配だっていうんなら、次のテストはがっつりいい点とってみせるからさ!」
「……大丈夫かしら。……心配だわぁ……」
 しかし、息子の言葉がよほど信用できないのか、葛葉は困ったような顔をしてはふうと小さなため息までつく始末。
(……ていうか、いくらなんでもそこまで母さんを不安にさせるような点数なんてとったことない筈なんだが……)
 そもそも、今までテストの結果を見せろと要求されることも、見せて叱られた事も一度も無かったのだ。逆を言えば、たまに良い点をとったからと見せたところで、「よくがんばったわね、月彦」以上の言葉を貰った事もなかったのだが。
「……そうだわ、月彦。今度のテストまでの間、妙子ちゃんに家庭教師をしてもらうっていうのはどうかしら?」
「……は?」
 一体何がどうなってそうなるのか、月彦の頭ではまるで理解できなかった。
「ほら、妙子ちゃん勉強出来るし、教え方も上手でしょう? 昔はよく一緒に勉強会やってたじゃない」
「いや……ちょっと待って母さん。俺の成績って、そんな家庭教師雇わなきゃいけないほどヤバくはなかったと思うんだけど……」
「成績の問題じゃないのよ、月彦」
 にっこりと、葛葉は静かな微笑みを浮かべる。
「ようは、貴方が“やる時はやる男”だという事を、母さんに見せて欲しいの」
「………………なんで急にそんな証明をしなくちゃいけないのか、俺には解らないんだけど……」
 相変わらずこの母親の思考システムは謎だと、月彦は痛感せざるをえない。
「それに第一、俺と妙子は学校が違うんだよ? 俺が中間考査ってことは、妙子の方だって似たような時期にテストあるんだろうし、単純に考えてすっげぇ迷惑になるんじゃないかな」
「それなら大丈夫よ? 昨日電話でお願いしたら、妙子ちゃんOKって言ってくれたもの」
「んなっ……! なんで勝手にそんな事を――……」
「そういうわけだから、がんばりなさい、月彦。……もし、十分な結果を見せられなかったその時は、母さんにも考えがあるから、そのつもりで試験まで二週間、しっかりやりなさい」

 という具合に、後半は半ば強引に妙子の家庭教師を受ける事を了承させられたのだった。ただ、月彦も完全にイエスマンというわけではなかった。妙子に家庭教師をしてもらうのなら、これだけは飲んで欲しいといくつかの条件を葛葉につきつけたのだった。
 その条件というのが、一つは勉強をするのは自室ではなく妙子の部屋でという形にしたいという事。もう一つは、家庭教師を受けるのは平日のみにしたいという事だった。
(……家に妙子を呼んで真央と会わせるのはかなりマズい事になる気がするからな……あと、休日くらいは真央にかまってやりたい)
 というのが、条件を出した主な理由だった。葛葉は多少悩むような仕草を見せた後、意外にもあっさりと了承した。
 そして翌日の月曜日、月彦は学校帰りに妙子の部屋によってみると、確かに妙子には葛葉から話が通っていて、妙子本人も不本意ながらも家庭教師をやる気になっているという奇々怪々な状況ができあがっていたのだった。
「なぁ妙子、マジで俺には解らないんだが……どうして急にこんな事になったんだ?」
「そんなの、私に聞かれてもわからないわよ。……大方、よっぽど二学期の成績が悪かったんじゃないの?」
「確かに良くはなかった……けどな、悪くもなかった! 全教科の平均をとれば間違いなく3,5近くはあった筈なんだ! 第一、成績が下がったからっていうんなら、冬休みの頭の時点で――」
「はいはい、能書きはいいからさっさと勉強道具出して。言っとくけど、頼まれたからには無駄話なんかする気はないわよ。やることやって、さっさと帰ってくれる?」
「ぐぬっ…………なぁ、妙子……こんな話、お前だって迷惑だろ? そっちだってどうせ似たような時期に中間テストがあるんだろうし、何なら巧く口裏あわせてくれりゃ、今すぐにでも――」
「ご心配なく。私は普段からきっちり予習復習やってるから、テスト前だからってあわてて勉強する必要なんてまったく無いの。……第一、うちは学校の試験よりも全国模試の結果の方が遙かに重要視されるから、気にする必要もないの」
「ぐっ……ち、ちなみに……その全国模試ってのはいつやるんだ?」
「平均月二回でいろんな所のやってるけど、次にやるのは土曜日ね。国数英に選択理科、選択社会の合計五〇〇点満点の模試」
「なっ……それなら俺に構ってる暇なんか無いだろ! やっぱりこの話は母さんに言って――」
「だーかーら、私は普段から一人でちゃんとやってるから試験前でもやること変わらないって何度言わせんのよ! むしろ、模試前にあんたの学校の程度のひくーい勉強を見てやる事でちょっとした気分転換になって助かるくらいだわ」
「……程度が低い……だと?」
 それは、恐らく真実ではあるのだろう。が、しかし……少しばかりかちんと来るものを月彦は感じた。
「本当の事でしょう? あんたも千夏も和樹も、それを承知で楽してワイワイできる高校に進んだんじゃないの?」
「…………確かに、な」
 そう、妙子の言う事は紛れもない真実だ。事、勉強に関してはこの幼なじみは自分たちよりも遙かに高みにいることは間違いがない。そして、そのために恐らくは多くのものを犠牲にしてきただろうことも。
「別に、それが悪いって言ってるんじゃないのよ。だけど、今回みたいにテストで良い点を取らなきゃいけないっていう時には、今まで遊んできた分のツケが回ってくるって事よ。……いいからさっさと勉強道具を出しなさい。グズのあんたでも、試験までになんとか平均点くらいは超えられるようにしてあげるから」
「くっ……ば、バカにするなよ! 平均点くらい……勉強なんかしなくたって概ね越えてんだからな!」
 ぼやきながら、月彦はしぶしぶ筆記用具と教科書、ノート類をコタツ机の上に出した。そのノートの一冊を妙子が無造作に手にとった。
「あっ、こら! 勝手に見んな!」
「あんたは座ってて。ノート見ないと、どういう授業やってるのか解らないじゃないの…………………………何よこれ、ラクガキばっかりじゃない」
「ら、ラクガキじゃねえ! それは……ええと、その……なんだ……こ、行動予定表だ!」
「D1にYRK×改め1−2にYKN……N2にM×改めYZM……なにこれ、何かの暗号?」
「ま、まぁ……そんなもんだ。教師の目をかいくぐって生徒間だけで情報をやりとりする為に必要なものだ」
「……授業中にそんな事やってるから勉強に身が入らないのよ。……それで、何の教科が一番危ないの?」
「…………強いて言うなら、日本史かな」
 月彦は少し考え、最も得意な教科名を口にした。弱みをいきなり知られる事に抵抗を感じたからだった。
「数学と英語ね。どっちからやるかはあんたに選ばせてあげるわ。好きな方を選びなさい」
 しかし、そんな月彦のハッタリを幼なじみはいとも容易く見破り、不自由な二択を突きつけてくる。
「……なんでわかった?」
「そんなの、あんたの顔見れば解るわよ。それで、どっちにするの?」
「……………………………………じゃあ、数学から」
「数学ね。……一体どこから解らないの? 三角関数? 微積? まさか九九からやらなきゃいけないって事はないわよね?」
 あからさまに挑発するような妙子の物言いに月彦は咄嗟に拳を握ってしまうが、曲がりなりにもこちらから教師を申し込んだ都合上、辛抱せねばと奥歯を噛みしめた。
(…………くそっ……母さんさえ余計な事を言い出さなければ……)
 勉強をしてほしいのなら、普通にそう言ってくれればそれなりにがんばったというのに。何を思ってこんな事を企画したのか、月彦には全く母親の意図するところが見えない。
「…………とりあえず、三角関数辺りから……頼む」
「解ったわ。…………それじゃあまず……そうね、教科書に丁度いい問題があるわ。この三問を例題を見ながらでいいから自力で解いてみて。制限時間は十五分」
「んなっ、いきなりかよ!」
「あと十四分五十二秒。……出来なかったら、葛葉さんに言って勉強時間をさらに増やしてもらうわ」
「くっ……解ったよ、やりゃーいいんだろうが!」
「あと十四分四十五秒」


 ――約十五分後

「っっっ……終わったぁぁあああ! どうだ見たか!」
 月彦は肩で息をきらしながらペンをおき、妙子に向かって開いたノートをつきつけた。妙子はさも事務的にそのノートを受け取り、ささっと目を通すや否や手に持った赤ペンで容赦なくペケをつけた。
「一問正解、二問不正解。どちらも単純な計算ミスね。あんた小学校からやり直したほうがいいんじゃない?」
「なっ……そんなバカな……ちょっと貸せ!」
 月彦はひったくるようにしてノートを取り返し、妙子に×をつけられた問題の計算式を具に見直した。……そして、妙子の言う通り、どちらにも単純な計算ミスがあったことを確認した。
「間違った箇所は確認した? 以後同じミスはしないように。じゃあ次の問題いくわよ」
「なっ、ちょっ……休憩とか無いのかよ!」
「何甘えた事言ってるのよ。うちに居る間は休憩時間なんて無いものと思いなさい。……次は、これとこれとこれ。あとこれを解いて。制限時間は二十分。はい始め」
「くっ……わーったよ! やりゃーいいんだろうが!」


 ――そして約二十分後


「はいそこまで。……出来た?」
「ぐっ……い、一問だけ……な」
 月彦は肩で息をしながらペンを置き、開いたノートを妙子の方へと差し出した。妙子は赤ペンを手にノートを受け取り、そして月彦が辛うじて解けた一問目の答えに容赦なくペケをつけた。
「また計算ミスね。あと公式も間違ってるわ。五分あげるからもう一度自分で解いてみて。五分経っても解らなかったら教えてあげる」
 ぽいと、まるで路傍の野良犬に食い終わって骨だけになったフライドチキンを投げ捨てるような仕草でノートを放られた瞬間、月彦の我慢は臨界に達した。
「っっっっっ……やってられっかーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
「……月彦?」
「なんだこりゃ……家庭教師ってこういうモノなのか!? だったら要らねぇ! 一人で図書館でも行ってた方がマシだ!」
「……相変わらずこらえ性がないのね。一人でやってダメだったから私に泣きついてきたんじゃないの?」
「んなわけあるか! 何度も言ってるだろうが! 今度のことは母さんが一人で勝手に企画して、ごり押ししただけの事なんだよ! 本当は俺はお前の顔なんか見たくもなかったんだ!」
 溜まりに溜まった鬱憤が、つい月彦にそんな言葉を言わせた。
「…………それはこっちのセリフだわ。あんたなんかを部屋に上げて、また何か汚されたらたまったものじゃないもの」
「うぐっ……す、過ぎたことをいつまでも…………ひ、卑怯だぞ!」
「どの口が言ってるのよ。あんたまさか、私がもう忘れてるとでも思ったの?」
「い、今は関係ねえだろ! とにかく、このやり方は俺には合わない。それだけは間違いがない!」
「ああそう。じゃあどういうやり方ならいいっていうの? 言ってみなさいよ」
 売り言葉に買い言葉。煽り文句を口にした以上、後には引けない。が、しかし代案などもとより月彦の頭に在るわけもなかった。
「お、俺はだな……褒められて伸びるタイプなんだよ! こんな奴隷と女王様みたいな勉強システムは合わないんだ!」
「褒められて伸びるタイプ…………性根が腐った奴が言いそうな事ね。あんたみたいなダメ男の何処を褒めろっていうのよ」
 ふんっ、と妙子に鼻で笑われ、月彦は再びかちんと来た。
「そうか、そこまで言うのなら……俺が俺のやり方できっちり結果出した時は……どうしてくれるんだ?」
「どう、って。何? 様づけで呼びながら肩でも揉んで欲しいの?」
「……いいや、逆だ。揉ませて貰う」
「はぁ……?」
「今度の中間考査……俺が百点を取った教科×十分間、お前のおっぱいを俺が好きにできるってのはどうだ!」

 その瞬間、時が制止するのを、月彦は感じた。

(あっ、ヤバい……殴られる)
 そう直感した時にはもう、幼なじみの拳が左頬にめり込んでいた。
「ぐぼはぁっ」
「………………ほんっっっと、あんたって救いがたいバカね。一体全体何がどうなってそうなるのよ。頭膿んでんじゃないの?」
 ハデに殴り倒された月彦をゴミムシでも見るような目で見下ろしながら、妙子は手首から先をぷらぷらさせる。
「ぐっ……バカなのはお前だ、妙子。お前は男って生き物を全然解ってない!」
「……バカのあんたにバカ扱いされるなんて心外だわ。……私が何を解ってないっていうのよ」
「物事の報酬におっぱいが絡んだ時のッ、男のッ、爆発力をッ、だッ!」
 唇に滲んだ血を拭いながら、月彦は声高に宣言した。その迫力のすさまじさに、怪訝そうな顔をしながらも妙子が一歩退いた程だ。
「いいか、妙子。おっぱいには男の不可能を可能にする力があるんだ。ましてや、惚れた女のものとなれば尚更だ! 嘘だと思うのなら試してみろ、俺は必ず中間考査全八教科全て百点を取って八十分間おまえの巨乳を好きにしてみせるっ!」
 政治家の集会演説か何かのようなノリで月彦はキッパリと断言した。が、集会演説との大きな違いは演説の後に付随するであろう熱狂的な声援も、豪雨のような拍手もそのどちらも返ってこない事だった。
 月彦を待っていたのは幼なじみの――ひどく冷めた視線のみだった。
「……不可能を可能に、ね。面白いじゃない」
 くすりと、妙子が含み笑いを漏らす。
「そこまで言うんなら、その賭け……乗ってあげてもいいわ」
「…………マジか!?」
 半ば勢いで口にしただけで、まさか本当に妙子が了承するとは思っていなかっただけに、月彦はつい驚きの声を上げてしまった。
 ただし――と。妙子は口元に笑みを浮かべたまま言葉を続けた。
「学校のテストなんかで百点とるくらいじゃ、不可能を可能とは言わせないわ。……そうね、中間考査なんかじゃなくて今度私が受ける全国模試でそれを立証したら、あんたの言う事も信じてあげるし、胸だって触らせてあげるわ」
「ぜ……全国模試で百点とれってのか……?」
「不可能を可能に出来るんでしょ? だったらそれくらい余裕なんじゃないの? ……まぁでも、私はそんな世迷い言全く信じてないから、少しだけ妥協してあげる。百点じゃなくて、私よりも高い点数がとれたら、でいいわ。勝った教科数×十分間、これなら受けてあげてもいいわよ」
「…………三十分だ!」
「三十分?」
「その条件なら、勝った教科数×三十分! これは譲れん!」
「…………………………いいわ。どうせ勝てっこないもの。その条件で受けてあげる」
「言ったな? 悪いがもう取り消しは効かないぞ。お前が後でどれだけ嫌がろうが、俺はきっちり勝った教科数×三十分間分揉ませてもらうからな!」
「いいわよ。何ならちゃんと文面にしてあげてもいいわ」
「よし、それでいこう。後々惚けられたんじゃ堪らないからな」
 月彦は鞄からルーズリーフを取り出し、早速ボールペンで必要な文章を書き込もうとした――その矢先だった。
「待って、月彦。まだ半分でしょ」
「半分……?」
「私が勝った時、あんたが何をしてくれるのかががまだ決まってないわ」
「お前が……勝った時?」
「そうよ。あんたが勝った時だけご褒美アリで、私が勝っても何も無しなんて不公平でしょ」
「ば、バカ言うなよ! 第一、自力が違うんだからお前は勝って当たり前だろ!」
「バカ言ってるのはあんたの方でしょ。それが飲めないっていうのなら、私も賭には乗らないわ」
「くっ…………わーったよ、じゃあ……お前が勝ったら、三十分俺のに触る権――ぶっ」
 全てを喋り終わる前に、痛烈なビンタによって言葉を遮られた。
「……そうね、私が勝ったら……あんたには人間椅子でもやってもらおうかしら。土下座したまま勉強椅子の代わり、私がいいって言うまで身動きも、口を利くことも許さないわ。あんまり座り心地はよくなさそうだけど、それなりに楽しいかもね」
「に、人間椅子……だと……?」
「それとも、“僕は無謀な賭けに挑んで負けた愚か者です”って札を首から提げて三日間生活の方がいい? 勿論、ちゃんとつけてるかどうかは千夏や和樹に見張ってもらうから、ズルは許さないわよ」
「…………っっ……舐めるなよ! だったらその両方やってやらぁ! さらに、丸坊主もおまけにつけてやる! その代わり、そっちは教科ごとの勝負じゃない、総合点数での勝負だ!」
「巧く逃げたわね。一教科だけに絞って勉強すれば、ピンポイントで私に勝てるかもしれないっていうこすっからい魂胆が丸見えだわ」
「言ったな? じゃあ総合点でお前に負けたら、例え四教科勝ってたとしてもおっぱいはいらん! 総合点で勝ち、尚かつ教科別で勝った数×三十分! これならどうだ」
「……へぇ、随分な自信じゃない」
「その代わり、もう一つ条件を追加させてもらうぜ。俺が五教科の総合点数で勝ち、尚かつ――」
「尚かつ……何よ」
「お前に百点差つけて勝ったら…………ヤらせ――ぐぼふっ」
 電光石火の膝蹴りがみぞおちにめり込み、月彦は悶絶しながらその場に崩れ落ちた。
「バッカじゃないの! たかが模試の点数の勝ち負けでなんでそこまでやらせなきゃいけないのよ!」
「ぐっ、ぉぉぉ……い、息が…………」
「だいたい、あんたその条件がどういう事か解ってるの? 五教科で百点差ってことは、私が401点以上とったら、あんたが全教科満点とっても不可能なのよ?」
「い、言われなくても……解ってる……だからこそ、不可能を可能にするって言ってんだ……」
 ぜぇはぁ、ぜぇはぁ。月彦は辛うじて呼吸を整えながら、ゆっくりと立ち上がる。
「断言、するぜ。この賭けに乗ったら、妙子……お前は絶対に四百点以上はとれなくなる。どれだけ勉強しようが、俺の執念が絶対にそうはさせない」
「執念って……」
「俺の執念が怖いんなら、最後の条件だけは無しにしてもいいぜ? 尤もその場合、お前は半分俺に負けを認めた事になるわけだけどな。万に一つでも俺に百点差つけられるかもしれないって思ったって事だからな」
「……っ……何、言ってんのよ…………執念なんかでテストの結果が変わるわけないでしょ」
「そう思うか? じゃあ条件を飲むって言えよ」
「………………っ……ッ…………あんたって男はッ………………解ったわよ。その条件、飲んであげるわ」
「よぉし、それじゃ全ての条件を文章におこすぜ。もう取り消しは効かないからな? 結果が悪かったからって逃げたりするなよ」
「良いわよ。こっちこそ楽しみだわ。あんたをこの手で直接丸坊主にして、椅子にして、“僕は女の体の事しか考えていないケダモノです”って札を首からかけてあげる。……本当に楽しみだわ」


 


 その日の夜から、月彦は変わった。それも劇的に――と言わざるを得ない。
「ねぇー……父さまぁ……遊ぼ?」
「悪いな、真央。ちょっと今勉強してるんだ、後にしてくれ」
 半ば首にぶら下がるようにして甘えてくる愛娘の誘いを頑として退けながら、月彦はせっせとルーズリーフに線を引き、表をこしらえていた。言うまでもない、勉強の予定表だ。
(模試の申し込みは明日学校でするとして、明日を入れても模試まで四日しかない。問題は圧倒的な学力の差をどう埋めるかだな。まともに勉強をしていたんじゃ四日どころか一ヶ月あっても危ういぞ、これは)
 既に、妙子と決裂し、逆に模試で対決する羽目になった旨は葛葉に告げてある。叱られるかと思いきや、意外にも葛葉は笑顔を零していた。貴方の好きなようにやりなさい、と。さらには、模試の結果如何では月の小遣いの増額すら約束してくれたのだった。
「ねぇ……父さまぁ」
「ダメだ。悪いが、今日から最低五日間はかまってやれない」
 葛葉の了解をとりつけた以上、最早模試の先にある中間考査に向けて勉強する意味は薄くなった。となれば、文字通り全力をもって模試に当たるべき――なのだが、この先の予定を組み立てようとするとどうしても必要水準まで学力を水増しできる気がしない。
「ぬぅ……これは、早まったか」
 素直に、教科別勝負だけにしておくべきだったのかもしれないと、月彦は今更ながらにそのことを痛感していた。そう、妙子の言うとおり1教科か或いは2教科に絞って勉強をすれば、或いは妙子の点数を凌駕することはできたかもしれない。しかし、総合点数でも勝つとなれば話は全く変わってくる。
(…………俺は賭け事には向いてないな。すぐ熱くなっちまう) 
 しかし、一度口に出してしまった以上、約束を反故にする事など出来るわけもない。或いは妙子のことだから案外簡単に無かった事にしてくれるかもしれないが、今まで以上の蔑視を受ける事は間違いないだろう。
(そうだ、もはややるしかないんだ。過ぎたことを後悔するよりも、これからどうすればいいのか、それだけを考えるんだ)
 その“過ぎた事”には親友とその彼女の一件も含まれていた。アレはアレで何とかせねばならない懸案ではあるのだが、現状では後回しにせざるをえなかった。
 月彦は、知恵を絞った。既に、背後から被さるようにして乳をすり当ててきていた愛娘はふくれっ面になって一人ゲームコントローラを握っており、心中密かに月彦は謝りながらも、しかし同時になんとか現状の苦境を乗り切るべく頭を働かせる。
(……………………この手、しかないか)
 いくつか出た案のうち、この手ならば或いは――というものが一つだけあった。しかしそれには、いくつかの関門を越える必要があった。
(でも……他に手がない。…………妙子に勝つには、あの人の力を借りるしかない)



「はぁ……」
 ため息などつきながら、雪乃はとぼとぼと廊下を歩いていた。今し方授業を終えたばかりであり、職員室へと戻る所だった。
 別段、授業で何か手痛い失敗をしたとか、そういう事ではなかった。ため息が出てしまうのは、単純にここしばらく“恋人”に全く構ってもらっていないからだった。そのため不満と鬱憤がない交ぜになり、かといって誰かに当たり散らすというわけにもいかず、まるで怒りを放出するかのようにため息が出てしまうのだった。
(……こんな筈じゃなかったのに)
 先だって、雪乃は一念発起し、事実上廃部状態であった天文部を復活させ、その部長に紺崎月彦を据えた。それは別に天体観測に対して並々ならぬ思い入れがあったとか、はたまた星の動きに興味があったとか、そういうまっとうな理由などではなく、偏に月彦と二人きりになれる時間を作る為だった。
 その試みは、半ばまでは成功した。――が、一人の女子生徒の登場によって計画は事実上瓦解した。
 月島ラビ――実姉以外で、これほど他人に対して憎たらしいという想いを抱いたのは雪乃は初めてだった。部の創設時期の頃などはその勢いが乗じて教師としてあまりにふさわしくない態度をとってしまい、さすがの雪乃自身も反省し態度を改めたが、しかしそれでもこの小娘が憎たらしい事には代わりがなかった。
(……どれだけ空気読めないのよ、あの子……)
 放課後、部室に月彦を含め三人集ってしまった時などは、雪乃は必ずそう思った。三人集まったからといって、特に何をするわけでもなく、ちょっとした雑談などをして結局解散という流れになるのが常なのだが、雪乃はいつもこの女さえ先に帰ればという想いから、ついつい月彦を引き留めつつ長居をしてしまう。が、雪乃のその想いはただの一度もラビに通じる事はなかった。
 よくもまぁこんなまともに活動もしていない部活に毎日足繁く通うものだと、その点については感心すらする程だった。月彦ですら、三日に一度くらいしか来ないというのに(この点も、雪乃にとって甚だ不満な点だった)、あのトンデモツインテ女は嫌がらせのように毎日部室の前で待っているのだ。
「…………あーあ……いっそもう顧問なんかやめちゃおうかしら」
 現状が続く限り、恐らく百年待っても月彦と二人きり――というシチュエーションは作れないだろう。かといって、ラビを露骨に排斥するような事をすれば、肝心の月彦の不興を買うことは目に見えている。自発的に去ってくれれば言うこと無しなのだが、その気配は皆無と来れば、最早雪乃としては天文部の顧問でありつづける理由もまた皆無ということになる。
 ほんの200メートルほどを歩く間に5回はため息をついて、雪乃は職員室へと戻ってきた――そこで、はたと。息をのんだ。
(紺崎……くん!?)
 職員室の中に月彦の姿を見つけて、雪乃は俄に胸がときめくのを感じた。
(何……? ひょっとして私に会いに来たの……?)
 淡い期待に飛び上がりそうになったのもつかの間。
(……何よ。今まで散々放っといた癖に。…………無視してやるんだから)
 今まで準放置プレイを強いられた不満から、雪乃はそのように思い直してわざと月彦の脇を抜けるようなルートで自分の机へと着席した。が、常に横目で月彦の動向は確認はしていた。
(………………何の話をしているのかしら)
 月彦が話をしている相手は学年主任の初老の男性教師だった。休み時間という事もあり、職員室自体がざわめいているため、会話の内容までは聞くことが出来なかった。仮にこれが男性教師相手ではなく、同僚の女性教師相手の会話であったら、雪乃は我慢出来ずに間に割って入っていたかもしれなかった。
「……じゃあ、よろしくお願いします」
 どうやら話は終わったらしく、月彦はぺこりと辞儀をして、そしてきょろきょろと周囲を見回し始めた。雪乃は横目でそれをチラチラ確認しながら、机の上の書類を整理するフリをしてわざとそれを床に落とし、あっ、と声を上げた。
 その声は、勿論月彦にも聞こえただろう。雪乃は書類を拾いながら、あくまで月彦には気がつかないフリをしつつ、しかしその足が自分の方に向かってくる事が内心小躍りをしてしまいそうな程に嬉しかった。
「あの、雛森先生……ちょっといいですか?」
 待ちに待った声に、雪乃はうっかり返事を返してしまう所だった。が、あえて聞こえないふりをしつつ、机の整理を続けた。
「あの、雛森先生?」
 再度、月彦に声をかけられるも、雪乃は無視した。声をかけられたのは嬉しい。嬉しい――が、そう簡単に返事をしてやるものかと、奇妙な意地が雪乃の中にあった。
(……私、怒ってるんだからね?)
 雪乃としては、暗にそう示しているつもりだった。しかし、折角の月彦との会話の機会を潰したくないというのが本音でもあり、もう一度声をかけられたら渋々返事を返そうかと、雪乃がそんな事を考えてにやつきそうになった時だった。
(って、ちょっと! なんで紺崎くん職員室から出て行こうとしてるの!?)
 横目で見える位置に月彦の姿が見えず、あわてて周囲を見回した雪乃はその背中が職員室から出て行く瞬間を見て、あわてて立ち上がりその後を追った。
「ちょ、ちょっと! 紺崎くん、待ちなさい! 私に用があるんじゃなかったの!?」
 月彦に追いつくや、雪乃はその腕を掴みぐいと引き寄せながら人目もはばからずに声を上げた。
「……用があったんですけど、先生、なんか機嫌が悪いみたいでしたから出直そうかと」
 多少目を丸くしながら、いけしゃあしゃあとそんな事を言う年下の恋人に、雪乃は反射的に頬を張りそうになるも、辛うじて拳を握りしめその衝動を堪えた。
「……ここじゃ何だから、ちょっとこっちに来て」
 月彦の腕を引き、いつもの密談場所こと生徒指導室へと連れ込み、後ろ手にかちりと鍵をかける。
「……はぁぁぁ………………紺崎くん、私がどうして怒ってるのか、ちゃんと解ってるの?」
「何となくは……ですけど。すみません、最近いろいろと忙しくて……」
「もうっ……紺崎くんが忙しいっていうのは今に始まった事じゃないし、それはもういいわ。……それで、用って何?」
 憤然と腕を組みながらも、雪乃は密かに期待をしていた。もちろん、月彦の口から「あの、今度の土曜日空いてますか?」とか、「金曜日泊まりに行ってもいいですか?」的な言葉が出る事を、だ。
(どっちでも、すぐにはOKしてあげないんだから。焦らして、焦らして、紺崎くんが泣きそうな顔になったら、渋々OKしてあげるわ)
 そう、雪乃はもう半ば以上、月彦の用というのは週末の誘いであると決めてかかっていた。
 だから。
「ええと……その……ちょっと言い出しにくいんですけど、今度の土曜日、全国模試やるじゃないですか」
「……そうね。うちの学校でも希望者だけ土曜日に集まってやるみたいな事を聞いてるわ」
 一瞬、月彦が何を言い出したのか雪乃には理解ができなかった。事、ここに至って何故模試の話などせねばならないのか。雪乃はいらだち混じりに左手首の時計へと視線を落とした。休み時間は、もう残り三分もない。
「それ、俺も受けようと思って、さっき山内先生に申し込んできたんです」
「……ちょっと待って。…………土曜日に、紺崎くんも模試を受けるの?」
 雪乃は、耳を疑った。それでは、土曜日にも、そして恐らくは金曜の夜にもデートは絶対に不可能ではないか。
「はい。…………それで、言い出しにくいんですけど…………模試の過去問とか、先生のコネでなんとか手に入らないかなーって」
「……ふぅぅぅん……………………私に用件って、そういう事?」
 びきびきと、青筋が浮き出そうな程に雪乃は怒りを露わにしながら、震える声で言った。月彦のあんまりな要求に、雪乃は相手の正気を疑りたくなった。
(あれだけ放っとかれて、この上さらに協力しろなんて言われて、私が頷くとでも思ってるのかしら)
 協力をして欲しいのならば、先にこちらの言い分を聞くべきだと雪乃は思うのだ。そう、たとえば丸一日がっつりとデートをした上、夜は一睡もできない程に濃密な夜を過ごした後での事ならば、過去問どころか模試そのものの問題を何とか入手して欲しいという要求ですら、死力を尽くしてしまう事だろう。
「それと……さらに言いにくいんですが……できれば、英語の過去問の解き方とか教えてもらえると……すごく、助かったりするんですが」
 俺、英語が苦手で――と、月彦は控えめにぽつりと呟く――が、雪乃はといえば、最早怒りが臨界突破、メルトダウン直前といった状態だった。
(よくもまぁ、そこまで――)
 厚かましいお願いが出来る物だと、雪乃はイライラの頂点に達しながらも同時に感心すら覚えた。自分は、そこまで都合の良い女だと思われているのだろうか。
「あのねぇ、紺崎くん。……これだけは言っておくわ。私は――」
 そして、溜まりに溜まった怒りを一気に放出させるべく口を開いた瞬間、はたと。雪乃は閃いた。
「………………そうね。仮に過去問だけ集めても解けなきゃ意味がないものね。あの模試は難しいから、いきなり解こうとしても自力じゃそうそう解けないでしょうね」
「ええ、そう思います。だから、もし――」
「他ならぬ紺崎くんの頼みだもの。聞いてあげてもいいわよ?……だけど、一つだけ条件があるわ」
「条件……ですか?」
「そんな大したことじゃないわよ? ただ、その勉強っていうのは私の部屋でするっていうだけだから。……まさか紺崎くんの部屋で私がつきっきりで教えてあげるってわけにもいかないし、むしろ至極当然な条件でしょ?」
「……先生の部屋で、ですか」
「図書館とかじゃ、いつ誰に見られるかもわからないし。悪いけど他に選択肢はないと思うけど?」
 先ほどまで溜まりに溜まっていた憤懣も何処へやら。雪乃は最早舌なめずりすらしそうな勢いで、月彦に悪魔の囁きを持ちかける。
「……そう、ですね。先生の言う通りだと思います。それで、よろしくお願いします」
「決まりね。とりあえず、放課後までに出来るだけ過去問集めておくから、放課後またここで二人きりで話し合いましょ」
「ここで、ですか? どうせなら部室のほうが――」
「部室だとあの娘も来るでしょ。内緒の話なんか出来ないじゃない。……わかった?」
「はぁ……解りました」
 丁度予鈴が鳴り、雪乃はどこか腑に落ちなそうな顔をしている月彦の背を押すようにして進路指導室を後にした。



 
 

 自分は、賭け事には向いていないかもしれない――昨日の月彦とのやりとり以降、白石妙子は何度その事を思い、後悔を重ねたか知れなかった。
(…………バカな約束しちゃったわ)
 その場の勢いとはいえ、我ながらとんでもない約束をしてしまったものだと。妙子はそのことを思い出すたびに叫び声を上げながら地面に転がりたくなるのだった。
(……そもそも、あいつが変な事言い出すからよ)
 点数で勝ったら、乳を揉ませろだの。まともな人間の言う事ではない。そんな奴の戯れ言など聞き流してしまえばよかったのだ。
「はぁ……やんなっちゃうわ……」
「何が嫌なん?」
「っっっ……ち、千夏!?」
 自室で勉強机に向かったまま、しかし勉強は手につかず呆然と思案していた妙子は、突然聞こえた幼なじみの声にぎょっとして振り返った。
「い、いつからそこに居たの?」
 そこにはちゃっかりとコタツに入り、顎をテーブルの上にのせるようにしてぬくぬくしている幼なじみの姿があった。
「二分くらい前からやけど。インターホン鳴らしても妙ちゃん出てきーへんし。合い鍵使うて入ってみたら、なんや考え事しとるみたいやったから、声かけんほうがええかなーて」
 ああ、そういえば――と妙子は思い出した。いつでも好きな時に尋ねて来てくれていいと、千夏にだけは合い鍵を渡していたことを。
「それで、何がイヤになったん?」
「な、何でもないわ……ただの、独り言よ」
「ふふーん、妙ちゃん、嘘はアカンなぁ。………………ヒコに関する事って顔に書いてあるで?」
「っ!?」
 咄嗟に、妙子は千夏から顔を背けてしまった。――それが、逆に決定打になってしまったと気づいたのはすぐだった。
「部屋の片づき具合から察するに……昨日辺り、ヒコが来たんやろ?」
「…………負けたわ。ええそうよ、千夏の言うとおり。昨日アイツが来たの」
「それで、何を話したん?」
 目を爛々と輝かせる幼なじみに圧倒されて、妙子はいったんペンを置いて立ち上がると、そのまま台所に向かった。電気ポットでコーヒーを二人分いれ、改めて居間へと戻るや千夏と真向かいになる形でコタツに入る。
「べつに……大したことじゃないわよ。……ただ、葛葉さんからアイツの家庭教師やってほしいって言われたから……仕方なく受けただけ。そしたらアイツが勝手に怒って帰った……それだけの事よ」
 一息に言って、妙子はコーヒーに口を付ける。口をつけた後で砂糖もミルクも何も使っていなかったことに気がついたが、今から台所に入れ直しに行く面倒臭さの方が勝ってしまった。
「それだけやと、ヒコがいきなり人が変わったように勉強の虫になった事の説明にはならへんなぁ。…………他にも何かあったんと違う?」
「………………さあ、私には解らないわ」
「ヒコ、急に今週末の全国模試受けるーとか言うてたんやけど。……妙ちゃんの差し金やないの?」
「………………。」
「うちのカンだと、ヒコと妙ちゃんの間に何か密約があった筈なんやけどなぁ。せやないと、ヒコのあの豹変っぷりが説明つかへんもん」
「豹変って……そんなに変わったの?」
「うちが見たのはお昼の時単語帳片手に弁当食っとる所だけやけど。カズの話やと“アレは月彦の形をした別の何か”としか思えない様子だったらしいで?」
 そこまで言って、千夏もまたコーヒーに口を付ける。苦っ、と殆ど悲鳴のように言って、ぴょんと飛ぶように台所に行き、ささっと戻ってきた時にはコーヒーの色がクリームがかっていた。勝手知ったるなんとやら、というやつだ。
「せやなぁ。試験で良い点とったら、キスしてあげるーとか。そないな事言ったんと違う?」
「……そんなこと、私が言うと思う?」
「自分からは言わへんやろけど。……けど、ヒコもあれはあれで駆け引き知っとるからなぁ。…………巧いこと妙ちゃん乗せて言わせたとかなら、十分考えられると思うんやけど」
「…………………………参ったわ。千夏の言うとおりよ。……アイツに乗せられて、変な約束しちゃったの」
 千夏の追求から逃れきる事は不可能だと、妙子は悟った。仮に嘘を突き通せたとしても、千夏は必ずその嘘の臭いを嗅ぎつけ、そして今度は月彦に対してカマをかけるだろう。そうなれば、妙子が最も恐れる“全てが露見”してしまう可能性が出てきてしまう。
 ならば。
「……今度の模試で、もしアイツが総合点で私より上だったら……少しだけ胸を触らせてあげるって……下らない約束しちゃったのよ」
 真実を少しだけ漏らして、一番隠したい所だけは隠し通した方が良いと、妙子は判断した。
「ブフーッ! ヒコが言い出しそうな事や!」
 と、千夏は吹き出すや否や腹を抱えて転げ回るようにして笑い出した。幼なじみのそんな様を見て、妙子はホッと胸をなで下ろす。
(……エッチさせる約束までしたなんてバレたら、大変な事になる所だったわ)
 ただ、笑われるだけならばまだマシだ。これから先、ことあるごとにネタにされてからかわれ続けるのだけはどうしても避けたかった。
「そっ、それで…………妙ちゃん、どれくらいヒコに手加減してやるん?」
「……え?」
 ひぃひぃと呼吸を整え涙を拭いながら放たれた幼なじみの言葉に、妙子は疑問符を返さざるを得なかった。
「手加減、するんやろ? せやないと、ヒコじゃ絶対妙ちゃんに勝てへんもん」
「……どうして私が手加減しないといけないの?」
 まるで手加減をするのが当たり前とでも言わんばかりの千夏の言葉に、妙子のほうが不思議で堪らなかった。
「……? ヒコに胸触らせたくて、賭けに乗ったんやないの?」
「そんなわけないじゃない!」
 だむっ、とテーブルに拳をたたきつけながら、妙子は大声を上げた。
「あれは、アイツに乗せられて、つい約束しちゃっただけよ! 手加減なんかするわけないじゃない」
「またまた、妙ちゃんそないなこと言って、本当は手加減するんやろ? うちには解っとるで?」
「しないわよ! 第一、そんな事してもしあいつがまぐれで――……」
 ハッと。とんでもない事を口走ってしまいそうになって、妙子はあわてて口を噤んだ。
「とにかく、私は手加減なんか一切しないわ。私の方が点数上だったら、あいつの方が土下座して謝って、人間椅子になって、丸坊主になって、自分はバカですって札を首から提げて生活するって約束になってるんだから。そこまで言い切ってる相手に手加減なんかしたらむしろ失礼よ!」
「せやけど、妙ちゃんとヒコじゃ地力に差があるやん。……大人げないとうちは思うけどなぁ」
「そんなの、私が知った事じゃないわよ。そもそも、あいつの方から言い出したことなんだから」
「……それだけ、妙ちゃんの事が好きって事やないの。あんなに必死になって勉強しとるヒコ、うち見たことないで?」
「それは………………そんなの…………知らないわよ…………」
 不意に、先日の月彦の言葉が脳裏にフラッシュバックする。『いいか、妙子。おっぱいには男の不可能を可能にする力があるんだ。ましてや、惚れた女のものとなれば尚更だ!』――そう、あの男はハッキリと惚れた女と言い切った。その言葉を聞いた瞬間、全くの無感動だったと言えば、それは嘘になる。
 だが、しかし。
「………………んー………………なんかモヤモヤするから、今日は帰るわ。コーヒーごちそうさま」
「えっ……千夏……どうしたの?」
「あははー…………うん、解っとるんよ? 妙ちゃんが“そういうつもり”で言っとるんやないって事は。うちかてよう解っとる。……せやけど、アカン。…………どうしてもノロケに聞こえてまう」
「ノロケって……バカな事……」
「……仮に、うちが……ヒコに――ううん、少しでも仲の良い男子にそないな話もちかけられたら…………全力で全教科〇点とるかも知れへんなー……アハハ、そないな事あるわけないんやけどな!」
「千夏……?」
「ゴメン、妙ちゃん。ただのヒガミや。ヒコとの賭けの事は、妙ちゃんの好きにしたらええと思うで」
 そう言って、千夏はまるで逃げるように玄関まで早足に歩き、ただ――と。振り返りながら言葉をつなげた。
「もし、妙ちゃんがほんの少しでも、ヒコのこと好きなら、その分だけ手加減してあげてな。これはうちからの、妙ちゃんが最後におねしょした年すら知ってる親友からのお願いやから!」
「ちょっ……何言ってるのよ! そんな脅迫したって、絶対に手加減なんかしないからね!」
 妙子の最後の叫びは果たして親友の耳に届いたかどうか。ドアから飛び出すようにして帰ってしまった親友を追ったりする気も起きず、妙子は鍵をかけると再び居間へと戻り、勉強机へと腰掛けた。
「なんなのよ、もう……なんで、私までモヤモヤした気分にならなきゃいけないのよ…………」
 全ては、あの男が。バカ彦が悪いのだ。
「……………………とても、勉強するような気分じゃないわ」
 一度はペンを握ろうとするも、まるで誰かに言い訳でもするかのように呟いて、妙子は結局勉強道具をしまった。
「…………これが、あいつの言った執念ってやつなのかしら……」
 何となく、漠然と――妙子は予感していた。次の模試で、或いは自分は過去最低の点数をとる事になるかもしれない――と。


「……はい、はい。本当に申し訳ありません。……はい、明日は大丈夫ですので……はい。よろしくお願いします」
 自分なりに迫真の演技で雪乃は謝罪し、そして用件を伝え終えるや静かに受話器を置いた。
「はぁ……これでもう後には引けなくなっちゃったわ」
 我ながら、よくもこんな事を思いついたと雪乃は今更ながらに恐ろしくなった。否、思いついただけならばまだいい、それを実際に実行に移してしまった自分が恐ろしかった。
 全ては、昨日生徒指導室で月彦と打ち合わせをしたことだった。そう、翌水曜日――自分は母が倒れたと偽って学校を休むから、月彦もまた理由をつけて学校を休み、密かにマンションを尋ねて来て欲しいと。
 勿論雪乃の方が言い出した事であり、表向きは「本気で模試で良い点を狙うのなら、それくらいやってガッツリ勉強しないとそもそも話にならない」という事なのだが、無論それは建前だった。
 雪乃の本音は、偏に――紺崎月彦と二人きりで、丸一日イチャイチャしたい、ただそれだけだった。
(…………紺崎くんのせいなんだから)
 自分にそこまでの事をさせてしまったのは、偏にあの年下鈍感男なのだ。だからといって自分に非はない――とまで思いこめる程に、雪乃は傍若無人ではなかった。
(……もし学校にバレたら、大変な事になっちゃうわね)
 今更ながらに、自分がしでかした事に怯え、雪乃はぶるりと肩を抱いた。こんな事は今回一度限りにしよう、そうしようと思う事で、雪乃は沸々と沸き起こる罪悪感を打ち消しつづけた。
「…………そろそろ、来るはず……よね」
 雪乃はちらりと壁掛け時計に目をやる。時刻は七時前。予定通りならば、今9と10の間にある長針が12に重なる頃にはインターホンが鳴る筈だった。
(そうだわ、着替えもしなきゃ!)
 さすがに寝間着姿のままお出迎えというはどうなのだろうか。否、雪乃としてはある意味、その方が目的を達成しやすいのだが、月彦にどう思われるかだけが気に掛かった。さすがに、露骨に誘うような格好をしていては、かえって引かれるだけではないだろうか。
 とはいえ、ただの部屋着というのも味気ない。第一、部屋着のズボン姿ではいざ事に及ぶ時に脱ぎにくい気がする。よって却下。
(それなら……いっそ……)
 以前、友達とショッピングに行った際に悪のりが高じて買ってしまったアレを着るというのはどうだろうか。うまく月彦の趣味に合えば、或いは最も早く目的を達成できるかもしれないが、下手をすると下着姿で出迎えるよりもドン引きされる可能性が否めない。
 あれこれと迷った末、雪乃が選んだのは普段学校で着ているスーツだった。一つにはもう時間が無く、迷っている暇もなかったという理由もあった。
 大あわてでシャワーを浴び、髪を乾かし、スーツに着替え、髪のセットや最低限の化粧を済ませた瞬間、まるでそれを待っていたかのように室内にインターホンが鳴り響いた。
「はい、雛森です……紺崎くん? 今開けるから、すぐに上がってきて」
 雪乃はちょちょいと操作をして、マンションの入り口を開け、月彦を敷地内へと招き入れる。数分とかからずに再び玄関の方のインターホンが鳴り、既にドアの前で待ちかまえていた雪乃はタイムラグ無しで勢いよくドアを開いた。
「いらっしゃい、さあ、上がって」
「はい。……おじゃまします」
 私服姿の月彦はどこか緩慢な動作で室内へと上がり、上がるや否や早速ソファーに腰掛け、鞄から勉強道具取り出して広げ始めた。
「それじゃあ先生、早速お願いします」
「えっ……いきなり? 先に何か暖かい飲み物でもどう? 外は寒かったでしょ?」
「ええ、かなり……それじゃあ、すみません。熱いコーヒーをもらえますか? 昨日寝てないんで」
「寝てないって……どうしたの?」
「昨日は夜通しで英単語の暗記をしてました。今日先生に教えてもらうときに、辞書を引く時間を無駄にしたくなかったんで」
「そ、そう……なんだか解らないけど、紺崎くん随分やる気なのね。……すぐ、コーヒー煎れるわね」
 雪乃は二人分のマグカップを用意し(片方は、密かに月彦専用と決めて自分は元より誰にも使わせていないもの、勿論雪乃のものと色違いのペア)、それにコーヒーを注ぐ。もし興奮剤の類などの持ち合わせが在れば迷わず混ぜてしまいたい所だったが、生憎と雪乃には手持ちがなかった。
「紺崎くん、お砂糖はいくつ?」
「なしでいいです。ミルクもなにもなしで。苦い方が目が覚めますから」
「そうかもしれないけど……ミルクはいれたほうがいいわよ? 胃が荒れちゃうから」
「じゃあ、ミルクだけお願いします」
 雪乃は言われたとおりに月彦のカップにはミルクを入れ、自分のコーヒーには砂糖一つとミルクを入れて居間のテーブルへと戻った。月彦はもう、ソファではなく絨毯の上に直にあぐらをかき、待つ時間も惜しいとばかりに単語帳を睨みながらぶつぶつと何かを呟いていた。
「はい、お待たせ」
「ありがとうございます。……先生、早速で悪いんですが……模試の過去問を見せてもらえませんか?」
「モチロンちゃんと用意しておいたわよ。国数英と、選択科目は日本史と物理――でよかったのよね?」
 雪乃は鞄からテスト問題の束を取り出し、月彦に渡した。
「二年前までのしか無かったけど、月イチでやってる模試だから、それでも結構な量だったわ」
「らしいですね。俺も昨日山内先生から詳しく教えてもらいました。なんか他の模試に比べて結果もすぐに教えてくれるとか」
「そうね。普通は一月くらいはかかるんだけど、ここの模試は一週間かからないみたいだし。よほどせっかちな人が採点やってるのかしら」
 等と冗談を交えながら、雪乃はさりげなく月彦の隣に座り込もうとするが、月彦が丁度テーブルの真ん中辺りに座っている為にそれが難しい。やむなく、角を挟む形ですぐ隣になる様、雪乃は腰を下ろした。
「…………先生、英語の問題をちょっと見てみたんですが……これ、リスニングは――」
「そうね、リスニング問題だけはちょっとどうしようもないわね。諦めて他の問題だけやりましょ」
「やっぱり……そうなりますよね。……とりあえず、一番新しいやつから順番にやってみます」
「分かったわ、解らないところがあったらいつでも聞いて」
 はい、と勢いよく返事を返して、月彦はシャープペンを握りしめるやたちまち取り憑かれたように問題に取り組み始めた。それは確かに雪乃の想像の範囲内ではあったのだが、しかし雪乃は僅かながらも不満を覚えた。
(…………紺崎くんったら、本当に勉強だけしにきたつもりなのかしら。…………そんなワケないわよね?)
 一見ウブにも見える眼前の年下男の薄皮一枚下ではどれほどのケダモノを飼っているのか、雪乃はこの世の誰よりも熟知しているつもりだった。
(……本当は、勉強を理由に、私の部屋に上がり込みたかっただけじゃないのかしら?)
 さすがにそんな事は無いだろう、とは思いつつも、雪乃は手持ちぶさたも相まってついついそんな甘美な想像に浸ってしまう。
(もう、紺崎くんったら……そんなもっともらしい理由なんか作らなくったって、いつだって来てくれていいのに)
 極端な話をすれば、平日の深夜などに突然何の前連絡もなしに尋ねて来ても、自分は快く部屋に迎え入れるだろうと雪乃は思う。
(そうだわ……いっそ合い鍵渡しちゃおうかしら。そうすれば、紺崎くんだって……自分の家みたいに尋ねてきてくれるんじゃないかしら)
 職員会議が長引き、遅まきながらに部室に顔を出すも誰の姿も無く、落胆して一人家に帰ると、そこには慣れない手つきで夕飯の支度をしているエプロン姿の月彦が居たりするわけで。
(先生、遅かったですね。お風呂の準備と晩ご飯出来てますよー、なんて。はにかみながら言われたら……あぁ、だめ……ご飯もお風呂もそっちのけで紺崎くん押し倒しちゃうわ、絶対!)
 叫びだしたい程に気恥ずかしい甘美な妄想に浸り、雪乃はくねくねと身もだえをする。
「……の、あの、先生。ちょっといいですか?」
「えっ、あっ、な、なぁに?」
「ここのthatの訳なんですけど……」
「どれどれ、ちょっと見せて。……ふんふん、紺崎くん、これはね――」
 文法の説明をしながら、雪乃は横目でちらちらと月彦の横顔を伺っていた。
(……やだ、紺崎くんったら……すごく真剣な顔してる。……こういう紺崎くんも結構アリかも……)
 きゅん、と胸がときめくのを感じて、雪乃は文法の説明の傍らそっと月彦の手を握りしめる。
「……先生?」
「あっ……ご、ごめんね。邪魔よね、あはは……」
 月彦の怪訝そうな声にはっと正気に戻り、雪乃はあわてて手を引いた。が、本音を言えばこのままベッドにまで月彦を引きずっていきたい所だった。
(……こっそり後ろに回って、ぎゅーって抱きついちゃおうかしら)
 さすがにベッドに連れ込むのは現実的ではないが、それくらいの悪戯ならば許されるのでは無いだろうか。最近全く構ってもらえなかった寂しさも相まって、雪乃はとにかく甘えたくて仕方がなかった。
(あぁん、もう……紺崎くんも紺崎くんよ……。……せっかく二人きりなんだから……勉強なんて後回しにすればいいのに)
 実際、そう言ってやりたかった。が、しかし自分の側から露骨に求めるような真似は雪乃の矜持が――否、羞恥が勝ったというべきか。
(……とにかく、折角のチャンスなんだから……焦りは禁物よ、雪乃)
 己に言い聞かせるように内心呟いて、雪乃はちらりと壁掛け時計に目をやる。時刻は八時を過ぎた辺り、丁度月彦がやってきてから一時間あまりが経過した事になる。
「……そろそろ一時間ね。紺崎くん、一息いれたらどうかしら?」
「いえ、大丈夫です」
 さりげなく打ち出した提案は、にべもなく却下された。が、勿論これくらいでは雪乃は諦めない。
「でも……あんまり根を詰めても能率は上がらないのよ? 学校の授業だって1時間に一回休憩挟んでるでしょ?」
「大丈夫です。集中力は全く切れてませんから」
 これまた、雪乃の方を一瞥すらせず、問題文に目を落としたまま却下された。……雪乃の中に、僅かずつではあるが不満が蓄積していく。
「じゃ、じゃあ……何か新しい飲み物でも……紺崎くんは何がいいかしら?」
「まだ先生が煎れてくれたコーヒーが残ってますから、俺は大丈夫です」
 またしても、月彦は雪乃の方を見もしない。ぎりっ、と。雪乃は俄に奥歯を鳴らした。
(……我慢、我慢よ、雪乃……紺崎くんだって、別に悪気があってやってるわけじゃないんだから……)
 ここは、大人の自分が堪えねばならない――そう頭では解っていても、心では理解しづらい。否、心よりも体が――。
(……もう一週間以上、キスすらしてないのよ?)
 雪乃は恨みがましい視線を送るが、それは月彦に気づかれる事はない。ただただ淡々と問題を解き、時折詰まった時にだけ、雪乃に声をかけてくる。そんなパターンがさらに1時間ほど繰り返された所で、とうとう雪乃の堪忍袋の緒が切れた。
「もうっっ! 紺崎くんは私と勉強、どっちが大事なの!?」
 ばむっ、と両手をテーブルにたたきつけながら、雪乃はそんな――100人の男が100人面倒くさい女だと思ってしまうようなセリフを口にしてしまう。
「……なんか前にも同じ事を聞かれた気がしますけど、今は勉強、としか答えられません」
 そして、そんな月彦の答えに雪乃の怒りはMAXにまで達した。
「いーい? 紺崎くん。紺崎くんのやる気を殺いじゃうのは可愛そうだと思って、今まで黙ってたけど……ぶっちゃけ今からがんばった所で無駄なの! 過去問を見れば模試のレベルくらい解るでしょ? 三日やそこら勉強したところで良い点なんかとれる筈ないのよ! 勉強っていうのはそんなに甘くないの!」
「…………そんなのは、百も承知です。でも、やるしかないんです」
「だいたい、どうして急に模試で良い点数とりたいなんて言い出したの? もし行きたい大学が見つかったからとか、そういう理由ならもうちょっと計画的に――」
「違います。そういうんじゃないんです」
 月彦はゆっくりと首を振る。そして、しばしの逡巡の後――恐らくは、寝不足で頭の働きが鈍って居なければ、絶対に言わなかったであろう言葉を口にした。
「…………強いて言うなら、“惚れた女の為”です」
 えっ――と。思いも寄らなかった月彦の言葉に、雪乃は一瞬息をのんだ。
「惚れた女を、男として“幸せ”にしてやりたい――そのために、俺はやるときはやる男だって事を証明しなければならないんです」
「えっ……えっ…………こ、紺崎くん……?」
 月彦の言葉に、雪乃はただただ顔を赤くし、おろおろと狼狽えるばかりだった。
(えっ……何、今の…………ひょっとして、プロポーズ……?)
 惚れた女を幸せにしてやりたいから――まさかそんな言葉を面と向かって言われる日が来るなどとは予想だにしておらず、雪乃は怒りも忘れて身を縮こまらせるように座り込み、黙り込んでしまった。
(そんな……まさか、私の為……だったなんて……)
 ただ一つ解らないのは、どうして模試で良い点をとれば自分が幸せになると月彦が思ったのかだが、プロポーズともとれるような言葉をかけられ、舞い上がってしまっている雪乃にとってはそれは些細な事だった。
「……ご、ごめんね……紺崎くん……私、まさか……紺崎くんがそういうつもりで勉強してるなんて……全然思ってなかったから……」
 胸の奥がきゅんと高鳴るのを感じながら、雪乃は素直に自分の非を認め、謝罪した。
「…………? あの、先生……ひょっとして何か……勘違いしてます?」
「だ、大丈夫よ? うん、大丈夫……勘違いなんかしてないわ…………紺崎くんの気持ちは……ちゃんと伝わってるわよ?」
 ぼっ、と顔から火を噴きそうなほどに赤らめ、月彦の方をまともに見れない雪乃は、月彦の“やっぱりなんか勘違いされてるっぽいけど、面倒だから深く追求しないでおこう”的な微妙な表情に気がつかなかった。
「…………それとは別に、理由はもう一つ…………母からも、“やるときはやる子”だという事を証明してみせろと言われてるんです。それができなかったら、今までみたいに外泊を二つ返事でOKしたりとか、そういった事はもう許さない、小遣いも減らすって」
「そ、それは……困るわね……お泊まりしたりとか、出来なくなるって事でしょ?」
「そういうことです。……だから、無茶でもやるしかないんです」
「そう……そういうことなら…………私も、邪魔なんか出来ない、わね……」
 でも――と、雪乃はぽつりと、まるで独り言のように言葉を付け加えた。
「これだけは……はっきり言っておくわ。……私は、べつに……学歴なんて、全然気にしたりなんかしないわ。……そんなのよりも、普通に側に居てくれたりしたほうが……断然嬉しいんだから」
 呟いて、雪乃はキュッとスカートの上から足の付け根の辺りを押さえつけるような仕草をする。丁度尿意を我慢しているような仕草だが、それは意識しての事ではなかった。
(……やだ……ちょっと、火……ついちゃったかも……)
 きっかけは勿論、先ほどの月彦のプロポーズじみた発言だ。ただでさえ普段構ってもらえず、溜まっている所にあんな言葉をかけられたら――。
(…………っっ…………ぅぅぅ…………だめ、よ……我慢、しなきゃ……)
 子宮が充血し、熱を帯びるような感覚。腹部の奥がジンジンと疼き、それらが耐え難い焦燥をもって一つの欲求を導き出す。
 即ち――。
(…………っ……凄く……疼いてる…………んぅっ……)
 呼吸までもが、自然と荒くなる。ふぅ、ふぅ、はぁ、はぁ……すぐ側に居る月彦に気づかれない様、必死に押し殺しはするものの、それでも気がつくと濡れた瞳で物欲しげに“恋人”の横顔を見つめてしまう。
(くっ……はぁぁぁ………………だ、めぇ……欲し、いぃ………………)
 キュン、キュンと疼きを伴って、下腹部の辺りから強烈な衝動が突き上げてくる。欲求不満ぎみの体も相まって、気を抜けば今すぐ月彦を押し倒して衣類を剥ぎ、足を絡めるようにして子種をせがんでしまいそうだった。
「……先生? 大丈夫ですか?」
「えっ……あっ、うん……だ、大丈夫よ? どうして?」
 雪乃はハッと笑顔を作り、なんとか平生を装う。
「いえ……なんか息が荒いみたいですから」
「そ、そう? ……実は、ちょっと……お腹の調子が……ね。……さっき飲んだコーヒーが悪かったのかしら……紺崎くんは大丈夫?」
「ええ、俺は大丈夫ですけど……」
 月彦はやや心配そうな目を残して、再び問題集へと視線を落とす。その横顔に口づけをしてしまいたい衝動をなんとか堪えて、雪乃もまた別の過去問を手にとり、その英文へと視線を落とした。気を紛らわそうと思っての事だったが、しかしそれは全くの無意味だった。
(だ、めぇ……英文なんか、全然頭に入ってこない……んぅ……)
 キュッと太股を閉じ、拳を握った手でスカートの上から押さえつける――そんな仕草には何の意味もないのだが、それでもやらずにはいられない。
(……もういっそ……紺崎くん押し倒してそのまま………………………って、ダメ、ダメよ! 何考えてるのよ、私……)
 気がつくと、テーブルに身を乗り出すようにして月彦の方へと身を寄せてしまっていた。
(……あぁ、でもでも………………紺崎くんから、すごくいい臭いがする……)
 それは単純な体臭とも、香水の類とも違う。強いて言うならば、フェロモンとでも言うべきものだった。嗅げば嗅ぐ程にうっとりと目が細まり、全身を襲っている疼きがより耐え難いものに変わっていく。
「……ご、ごめん……私、ちょっと……席外すね」
 このままでは本当に月彦を押し倒してしまいそうで、雪乃はあわてて一言残して席を立った。そのまま逃げるようにトイレへと駆け込み、内側から鍵をかけた。
「はぁぁぁっぁ…………もうっ……紺崎くんがあんなコト言うから……」
 恨みがましく呟いて、雪乃はそって左手でスーツの上から胸元を愛撫し、そして右手は戸惑いながらもスカートの下へと這わせる。
(やだ……もう、濡れてる……)
 ストッキング越しでもハッキリと解るほどに、その場所は湿り気を帯びてしまっていた。雪乃は少し迷った末、ストッキングをヒザ下まで下ろし、そのまま右手を下着の中へと潜り込ませた。
「んっ……んっ…………ぁ、あンッ……!」
 くちゅ、くちゅと指を動かすうち、思いの外大きな声が出てしまい、雪乃はあわてて口を噤み、指の動きを止めた。
(っ……嘘っ……どうして、こんなっ…………いつもより、何倍も……)
 ムラムラがどうしても押さえきれなくて、仕方なく一人エッチをしてしまった時とは雲泥の快感に、雪乃は驚きを隠せなかった。少なくとも、声を抑えようとしているのにそれでも口を開いてしまうといったコトは一度も無かった。
(だめ、声なんて……絶対出せない……もし、紺崎くんに聞かれたら……)
 ムラムラが押さえきれなくてトイレでこっそり自慰で済ませるというコトすら恥辱の極みであるというのに、月彦にまでそれを悟られた日にはもう首をくくるしかない――雪乃はそっとスーツのポケットからハンカチを取り出し、それを口にくわえた。これで恐らくは、声を漏らすコトだけは避けられるだろう。
「フゥ……フゥ…………んんっっ…………!」
 右手で秘所を弄りながら、左手はもどかしげに胸元をはい回る。なで回すような愛撫をしながら、スーツのボタンを外し、シャツのボタンも外し、前をはだけさせるや、そのままブラのホックを外して上方へとずらす。――全て、月彦に抱かれる時に、月彦がする仕草を真似たものだった。
「んんっ……フゥゥ…………フーッ…………フーッ…………」
 露出した乳房を、やんわりとこね回す。つん、と先が堅く尖ってしまっているのは、冬場の寒気だけの理由ではない。むしろ、寒さなど微塵も感じない程に体は火照ってしまっていた。
(あぁっ……紺崎くんっ…………紺崎くんっ…………!)
 雪乃は瞼を瞑り、愛しい男のコトを一心不乱に想いながら自慰に耽る。くち、くちゅっ、にちゅっ――自らの指が立てる卑猥な音すらも、雪乃の中では月彦の愛撫による擬音にすり替わっていく。
 妄想の中で、雪乃はベッドの中にいた。覆い被さってくる影の主は勿論月彦であり、雪乃は包み込まれるように抱きしめられながら耳元に愛の言葉を囁かれ、囁かれながらこれでもかと胸元をまさぐられる。
「フーッ…………フーッ…………フーッ…………フーッ…………ッッ!!」
 耳を舐められ、甘く噛まれ、唇を奪われる間も、月彦の愛撫は止まらない。そうして体中をなで回しながら、月彦は何度も何度も、雪乃の耳元に愛の言葉を囁きかけてくる。その都度、雪乃は感極まって体を小刻みに跳ねさせ、短くイく。
 胸をもみくちゃにしていた月彦の手が、漸く雪乃の腹部の辺りへと這う。撫でられて、雪乃はつい声が出てしまう。月彦はくすりと笑みを漏らして、雪乃がより感じやすい――熱を帯びた子宮の辺りを丹念に撫でてくる。雪乃は、堪らずに声を上げ、そして月彦の手を掴み、自らの秘裂へと招き寄せる。
「ッンッ……ンンッ……!!」
 月彦の指が、既に潤いを帯びた膣内へと侵入してくる。女の指とは違う、無骨な男の指の感触に雪乃は身震いし、悶えながら声を上げる。勿論、月彦は雪乃の弱い場所等百も承知だが、あえてそこには触れてはくれない。膣の中に侵入させた指を無意味に折り曲げたり、広げてみせたりして雪乃を焦らしに焦らし、切なさのあまり雪乃が叫び出しそうになる瞬間を見計らって、唐突に弱い場所へと刺激を加えてくるのだ。
「ンンッ、ンッ、ンッ……!」
 それも、決して雪乃がイけない強さに調節してくる。そうして弱い場所を重点的に責めつつ、再び唇を奪い、ねっとりと舌を絡めてくる。その間、雪乃は決してイかされることはない、イきそうになると、それを過敏に察して月彦が愛撫を止めてしまう為だ。
 雪乃は堪えきれず、月彦の股間へと自ら手を伸ばしてしまう。既に猛々しくそそり立っているその肉柱を扱くようにさすると、月彦が少しだけ驚いたような顔をする。大胆になりましたね、先生――そう言い足そうな顔だった。雪乃もまた視線と、そして剛直を扱く手の動きだけで月彦に伝える。欲しい――と。
「フゥ、フゥ、フゥ……………………ンンンンッ!!!!!」
 太く、逞しい剛直が雪乃の中へと侵入してくる。敏感な肉襞を擦りながら押し広げ、雪乃の奥の奥まで侵入したそれは子宮口を持ち上げるようにして突き上げ、その衝撃で雪乃は顎を浮かしてしまう。息苦しいほどのその質量に雪乃は背筋をぶるりと震わせ、突き上げてくる快楽によって弛緩ぎみの手足を懸命に動かして月彦の体へと絡める。動いて――そう言葉に出す前に唇を塞がれた。くちゅ、くちゅと唾液を啜り合うようなはしたないキスの合間、月彦は剛直を雪乃の奥深くにまで埋めたまま全く動かしてはくれなかった。それなのに、結合部からくちくちと音が漏れるのは、我慢出来ずに雪乃のほうが腰をくねらせてしまっているからだ。そうやって腰を動かすたびに、卑猥な音が漏れるたびに、自らの分泌液とカウパー液とが混じり合い、解け合っている所を想像して、雪乃はますます興奮を高めていく。
 くすっ……せっかちですね、先生――そんな言葉が囁かれる。知ってますか? カウパーでも妊娠することがあるらしいですよ?――続いて、そんな言葉が囁かれ、ハッと、雪乃はスキンなしで行為に及んでしまった事を遅まきながらに悟る。
 もちろん、だからといって今更スキンをつけて欲しいなどとは言えない。言ったところで聞いてはもらえないだろうから、だから雪乃も言わない。ただ、今日は危険日だから、中に出すのだけは止めてと、それだけは懇願するように伝えた。
 刹那、ぐんと剛直が力を増すのを、雪乃は下腹部から伝わってくる圧力によって知った。解りました、最後は外に出しますね――そう呟いて、月彦が腰を使い始める。たちまち、身を溶かすほどの圧倒的な快感に雪乃は支配される。剛直が行き来し、肉襞がカリで引っかかれるたびに太股を震わせて小刻みにイき、その強すぎる快感を堪えるように月彦の背中に爪を立てる。
 先生、今度は上になってもらえますか?――そんな月彦の囁きに、雪乃の体は雪乃の意志がそうしろと伝えるよりも早く、月彦の上に跨ってしまう。
「ンッ……フッ…………ゥゥゥゥウッゥ……!」
 ぐん、と天を仰いでいる剛直を根本までくわえ込む――子宮口がぐいと押し上げられ、そこに体重が掛かるのを感じる。初期の頃は痛みすら感じたそれが、今ではもう心地よくて堪らない。腰をくねらせるたびに、体重のかかった子宮口が堅い剛直の先端でコリコリと揉むように刺激されて、雪乃ははしたなく声をあらげてしまう。
 時折、思い出したように月彦に被さり、乳をすり当てるようにして長い、長いキスをする。その間も、月彦は雪乃の尻を揉みながら幾度と無く突き上げてくる。堪りかねて雪乃が唇を離し、声を上げてイくと、その耳元に月彦が囁いた。先生、俺もイきそうです――と。
 ゾクリと、背筋が震える。勿論、雪乃は中は止めて――と言う。月彦はやはり中に出したいと言う。雪乃は、形だけの抵抗をする。が、両足の付け根をがっしりと捕まれたまま下から散々に突き上げられ、そして最後には――。
「ッッッッンンンンッッ!!!! ………………〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッッ!!!!!!!」
 びゅぐ、びゅぐと体が浮きそうになるほどの勢いで、特濃の牡液が注ぎ込まれる。雪乃はしっかりと両手で尻を捕まれ、体を浮かす事すら許されず、月彦の子種を一滴余さず注ぎ込まれる。注ぎ込まれながら、雪乃は自らもはしたなく声を上げて、そして盛大にイく。
「フーッ………………フーッ……………………フーッ………………」
 雪乃は、ゆっくりと瞼を開ける。勿論そこはベッドの中でもなければ、眼前には月彦の姿もない。見慣れたトイレの白い壁紙が見えるだけだ。体が溶けそうになるほどの快楽と、絶頂の余韻。そしてそれに付随する泣きたくなるほどの虚しさ。下着の中から右手を出して、指を広げてみる。白く濁った愛液がにゅぱぁ、と。水かきのように広がる。雪乃は再び瞼を閉じ、右手を下着の中へと差し込む。
 精液を注ぎ込まれた後の、“アレ”を思い出しながら、くちゅくちゅと指を動かし始める。
(あぁ……欲し、い…………こんな、ニセモノ、じゃなくて…………ホンモノの…………紺崎くんの、精子…………欲しいぃ…………)
 それは、或いは雪乃さえその気になれば、今すぐにでも容易く手に入るかもしれないものだった。そう、今すぐトイレの戸を開け、自らの愛液でべったりと濡れた手で月彦の腕を引き、ベッドに連れ込んで強引に跨ってしまえばいいのだ。
 しかし、それが解っていても、雪乃にはそれが出来ない。出来ないから、一人で慰める道を選んでしまう。
(あぁっ……ダメっ……こんな、一回くらいじゃ……全然、足りない……)
 疼きが、全くと言っていいほどに収まっていない。むしろ、強くなった気さえする。雪乃は再び妄想に耽り、そして自慰を続けた。

 ひとしきり自慰に耽り、はたと我に返った時には口に含んだハンカチは唾液でしっとりと湿り、指はすっかりふやけてしまっていた。
(……いくらなんでも…………さすがに、そろそろ出ないと…………紺崎くんに何事かと思われちゃうわ……)
 というより、既に結構な時間トイレに籠もってしまったようにも思える。今更ながらに、なんと言って言いつくろえばいいのかと、雪乃は顔を赤くしながら身なりを整え、そしてそっとトイレのドアを開けた。
「…………え?」
 と、つい声を漏らしてしまったのは、居間に月彦の姿が無かったからだ。広げられていた勉強道具までもが消えていて、代わりに一枚のルーズリーフと薬局の袋が置かれていた。
 雪乃は恐る恐るルーズリーフを手に取り、書かれていた文言に目を通した。

 “先生の体調が優れないみたいなので一人で図書館に行ってきます。一応、近くの薬局で腹痛の薬をいくつか買っておきました。鍵は勝手に借りました、折角休みまでとってもらったのにすみません。今日は薬を飲んでゆっくり休んで下さい  月彦”

 雪乃はキッと、まるで睨み付けるように壁掛け時計へと目をやった。時刻は既に二時になろうとしていた。月彦が一体いつ帰ったかは解らないが、どう少なく見積もっても三時間以上はトイレに籠もってしまっていた計算になる。
(そん、な……嘘……でしょ?)
 とてもそんなに長く籠もっていた自覚は無かった――雪乃は目眩を覚えながら再びテーブルへと視線を落とす。薬局の袋に入っていたのは腹痛用の薬と、そして便秘薬だった。
「いやあああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァアッ!!!!!!!!!!!」
 若い女教師の叫び声が、マンション中に木霊した。



 下校途中、妙子は久しぶりに見かけた見知った人影に、つい笑みを零して自ら走り寄り、声をかけた。
「円香さん!」
「……妙子ちゃん!?」
 丁度コジローの散歩中だったらしい円香もまた、妙子の顔を見るなり笑みを零した。
「良かったぁ。コジローがぐいぐい引っ張っていくから、何となく妙子ちゃんに会えるかなぁ、って期待はしてたの」
 まさか後ろから声をかけられるとは思わなかったと、円香ははにかむように笑う。
「コジローがリードを引っ張るのは、まだ円香さんをちゃんと飼い主だと思ってないって事ですから、もう少しきちんと躾た方がいいですよ」
「妙子ちゃんは厳しいなぁ……でも、いいの。私、そういうの多分向いてないから……それに他の人に噛み付こうとした時とか、そういう時にはちゃんとリードを引っ張って止めるから」
 自分が侮られるだけなら、別に構わないと。暗に円香はそう言っている様だった。飼い犬の指導方針について、妙子はさらに口を出そうかとも思ったが、途中でその気が失せてしまった。
「…………あの、円香さん。良かったら……少し、話しませんか?」
「うん、いいよ。……ひょっとして、何か相談事? 男の子の事とか?」
「……ええと、大別すれば……そういうことになるのかもしれません」
 とりあえず立ち話も何だからと、妙子は普段円香と話をする時に使う公園のベンチまで移動することにした。できれば、喫茶店あたりに入って暖をとりながらじっくりと話をしたいところだったが、コジローを連れていてはそういうわけにはいかない。
 妙子は自動販売機で缶入りのココアを二つ買い、その片方を円香に渡して、ベンチへと座った。その隣に円香が座り、コジローまでもがベンチに上がって二人の間にぎゅっ、と。密着するようにして体を割り込ませる。
 もし、自宅で飼っていた犬たちがそんな真似をしようものなら忽ち烈火の如く叱りつける所であったが、どうやら円香には叱るつもりはないらしく、むしろコジローの体を抱え上げ湯たんぽ代わりにするように膝の上で抱いてしまった。成る程、こうして甘やかして、しまっているのだなと、妙子は苦笑を漏らしそうになってしまう。
(…………ダメよ、人様の犬なんだから……)
 うずうずとこみ上げる衝動を抑えるように、妙子はきゅっと拳を握る。あのダメ男を前にした時も似たような衝動に駆られる事があるが、ダメ犬を前にしたときは尚更強く感じるのだ。そう、この手でキッチリ“調教”してやりたい――と。
「……それで、妙子ちゃん……相談って?」
「ええと……その……私、部活とか入った事がなくて……年上の知り合いとか……全然居なくて……それに、学校の友達も……変なのばっかりで、とてもそういう話出来なくて……正直、こんな事聞けるの……円香さんだけで……」
「うんうん、円香おねーさんに何でも相談しなさい。……それで?」
 おねーさん、とは言ったものの、妙子が聞いた限りでは円香との年は二歳と離れていない筈だった。が、年上は年上と割り切り、妙子はおずおずと口を開いた。
「…………円香さんは、男の子と……エッチ、したこと……ありますか?」
「……………………あるよ」
 数秒間を空けて、円香は答えた。
「……初めての時は……やっぱり、痛いんですか?」
「そだね。…………私の場合、相手も初めてだったし…………ヘタクソだった、っていうのもあって、結構痛かったかなぁ」
「血とか……出るんですか?」
「その辺は個人差じゃないかな。友達には出なかったって言ってた子もいたしね。……なに、妙子ちゃん……今度彼とエッチするの?」
 にぃ、と悪戯っぽい笑みを向けられて、妙子はあわてて顔を赤らめ、視線を手に持ったココアの缶へと落とした。
「そういうわけじゃ…………ただ、その…………“とある男子”が……エッチさせろって、しつこく迫ってきてて……」
「あはは、男の子ってそんなだよね。……いいんじゃない? 妙子ちゃんがその男の子の事本当に好きなら、シちゃっても全然OKだと思うよ?」
「別に……好きなんかじゃ……」
 そこまで口にして、妙子はそっとココアに口を付ける。仄かな甘みが口いっぱいに広がり、凍えそうになっていた体が俄に温まる。
「……私の経験から言わせてもらえば――」
 円香がやや声のトーンを落とし、言葉を続ける。
「エッチって、そんなに気張る程のものじゃないよ。そりゃあ最初は痛いけど、終わってみたら……あぁ、こんなものか、って思う人、多いんじゃないかな」
「そう……なんですか?」
「ま、かなり主観入った意見だけどね。……大事なのは、行為そのものよりも相手だと私は思うな。…………嫌な相手とだったら、それこそ死にたくなるくらい酷い気分になるし、逆に……本当に好きで好きで堪らない相手とだったら……感動して涙出ちゃったり、気持ち良すぎて天国見えちゃったりするよ?」
「て、天国……って……」
「あはは、ちょっと大げさかな。でもさ、そう言いたくなるくらい気持ちいいし、なんていうか……心が満たされるんだよね。もうこのまま死んじゃってもいい、っていうくらい」
「心……ですか」
「うん。……あぁ、私は女なんだなぁ、って実感する瞬間って言えばいいのかな。……あの感じは、一度味わってみないと言葉では絶対に伝わらないと思う」
「………………。」
 逆に、と。円香はさらに声のトーンを落とし、今度は感情を一切込めない声で続ける。
「ただ……もし、本当にその男の子の事がそんなに好きじゃないのなら……絶対に、断固としてエッチは拒んだ方がいいよ。初めてなら尚更…………絶対に後悔するから」
「もしかして……円香さんも……?」
 そこまで口にして、妙子はハッと口を噤んだ。それは、円香の中の果てしなくデリケートな部分に触れる話題ではないのかと、遅まきながらに気がついたからだ。
「……まぁ、ね。妙子ちゃん相手だから話せるけど……私も、いろいろあったから。…………私、バカだからさ、何度も悪い男に引っかかっちゃって。そのせいで学校も辞めなきゃいけなくなっちゃったし……」
「……ごめんなさい、私……」
「いいのいいの、もう過ぎた事だし。私の中ではとっくに踏ん切りついちゃってるから、気にしないで」
 円香は明るい声でそう言うが、妙子は確かに見た。一瞬、ほんの一瞬だけ、円香の目の奥に暗い光が灯るのを。
「だからさ、結局はエッチがどうこうっていうより、妙子ちゃんがその男の子の事をどう思ってるのかっていうのが大事だと思うよ。……どうなの? 本当に嫌いなの?」
「………………好きか嫌いか、で言うなら……嫌い、だと思います。グズでいい加減で、嘘ばっかりついて、軽薄で、根性無しで、スケベで恥知らずで……でも、だから逆に目を離せないっていうか……私が何とかしてやらないと、何処までも落ちぶれていっちゃうんじゃないかって……」
「ふんふん……なるほどねー。……じゃあさ、妙子ちゃん。ちょっと想像してみて?」
「何を……ですか?」
「“その男の子”がさ、誰か……妙子ちゃん以外の女の子とイチャイチャしてる所。そうね、たとえば私とか」
 妙子は言われるままに円香が言った通りの状況を想像した。――そして、反射的に拳を握りしめてしまった。
「今、ムカってきたでしょ?」
「……いえ……」
 咄嗟に否定しようとして、妙子は口を噤んだ。拳を握った瞬間を、恐らく円香にも見られただろうからだ。
「それはもう“好き”って事なんじゃないかと、おねーさんは思うんだけどなぁ」
 にやにやと、悪戯混じりに笑う円香の視線から逃げるように、妙子は顔を背けてしまう。
「ねえ、妙子ちゃん。その男の子って……ひょっとして前に少し話してた男の子?」
 妙子は顔を背けたまま、返事を返せなかった。代わりに、こくりと。僅かに顎を上下させた。
「そっ……か。……困ったなぁ……どうしよう、“あのこと”妙子ちゃんに教えた方がいいのかな……」
「あのこと……?」
「あっ……別に、私が本当にその男の子と付き合ってるとかじゃないのよ? たださ……何となく、あの男の子だけはやめといたほうがいいんじゃないかなーって……」
 それは、円香に言われるまでもなく、妙子自身が一番よく解っている事だった。あの男は、紺崎月彦は紛れもない地雷男だ。否、最早地面に埋まってすらいない、地表に露出して尚かつ絶対に安全だから踏んでみてくださいと看板が立ててあるレベルの、引っかかったら後ろ指を指され大笑いされるクラスの地雷だ。そんなことは、妙子は骨身にしみて理解している。
(それなのに……どうして……)
 自分は迷い、円香に相談までしてしまったのだろう。千夏に妙な事を吹き込まれたからだろうか?――否、例え千夏が何も言わなくとも、恐らくは迷っていたに違いない。無論、千夏のせいでその迷いの振れ幅が大きくなった事は間違いないのだが。
「まあ、でも……ほら、私は結局部外者だからさ。最終的な判断は妙子ちゃんが下すべきだと思うよ。……大丈夫、好きでもない男の子と“間違い”でエッチしちゃっても、それなりにショックはあるけど、ちゃんと立ち直った例がこうしてあるわけだしね」
 と、円香は自分を指さし、照れるような笑顔を見せる。つられてつい、妙子も笑顔を零した。
「そうだ、私の方も妙子ちゃんに伝えたい事があったの忘れてた!」
「……? 何ですか?」
「ほら、前に言ってたでしょ? バイト探してるって。それがね、漸く決まりそうなの!」
「本当ですか!? おめでとうございます、円香さん」
「ありがとう。宅配ピザのね、ピザを作る方のバイトなの。まだ本格的に採用決まったわけじゃないから働くのはもう少し先になるんだけど」
「じゃあ……これからはあんまり……会えなくなるんですか?」
 円香の望みが叶えられたのは嬉しい――が、それだけが妙子には残念だった。
「今までよりは……時間とれなくなっちゃうと思う。……けど、大丈夫だよ、コジローも妙子ちゃんに会いたがるだろうから……あっ、そうだ。妙子ちゃん携帯もってる?」
「はい、持ってますけど」
 妙子は早速に鞄から携帯を取り出した。話の流れから、円香がメールアドレスや携帯番号を交換しようと言い出すものだとばかり思ったからだ。
(むしろ、どうして今までしなかったんだろう……)
 と、妙子は今更ながらにそのことを不思議に思う。円香も切り出さなかったし、自分も何故か切り出さなかった。一つには、どこか円香にはそういった――あまり、他人と深く関わりたがらないような、そんな見えない壁のようなものを感じたからというのもある。
 そして案の定――というべきか。自分から携帯を持っているかと尋ねた癖に、円香はいざ妙子の携帯を見るなり言葉を詰まらせたまま固まってしまった。そして徐に自分のスカートのポケットへと手を入れるような仕草をする。
「……ごめん、私の方が忘れちゃってた。番号もメアドも覚えてないから、アドレス交換はまた今度会ったときでいいかな?」
 円香にそう言われれば、妙子としては何も言えなかった。だが、薄々円香は嘘をついているのではないかと、そう感じた。
「そーだ、ねえ、妙子ちゃん。バイトがちゃんと決まって、そして最初のお給料が出たらさ、その時は二人で何か美味しい物でも食べに行かない?」
「えっ、でも……円香さん、いいんですか?」
 以前聞いた話では、円香がバイトを探していたのは一人暮らしの為の貯金をする為だった筈だ。それなのに――。
「いいのいいの、最初のお給料だもの。美味しい物くらい食べたってバチは当たらないと思うの。…………携帯の番号も、その時に交換っていう事で、どうかな?」
「…………解りました。楽しみにしてます」
 せめて自分の連絡先だけでも、用紙に移して円香に渡そうかと妙子は考えたが、結局行動には移さなかった。理由は推測の域を出ないが、円香には何か人との関わりに対して怯えねばならない“何か”があり、それを土足で踏みにじるような真似はしたくないと思った。
 その後は、軽く雑談をして日が暮れる前に円香とは別れた。公園の入り口で妙子は円香の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。

 それが、妙子の見た、佐々木円香の最後の姿だった。


 時間が、足りない。それも絶望的な程に。
 雪乃から模試の過去問を手に入れ、それらに取り組んでいると尚更にそれを強く感じた。
(……このままじゃ、ダメだ)
 図書館が閉館時間となり、月彦は暗澹たる気持ちで自宅へと歩いていた。やればやるほどに、自分の実力がどれほど足りていないかを思い知る、まるでその確認をする為に勉強をしているのではないかとすら思える程に。
(英語や数学だけじゃない。国語も、日本史も、物理も……このままじゃ……)
 到底妙子に太刀打ちできるレベルには届かないだろう。妙子が普段どの程度の点数をとっているかは想像をするしかないが、通っている高校のレベルからして五教科総合で350点以下ということは絶対に無いだろう。実のところ、400以上は軽くとられるのではないかという不安のほうが強いのだが、それを認めてしまったら今以上の絶望に押しつぶされてしまいそうだった。
(師が……必要だ。先生みたいに……親身になってつきっきりで教えてくれる人が)
 しかし、普段それほど親しくもしていない学校の教諭陣にいざ模試でいい点をとりたいからと、その自宅まで押しかけて指導を願うという厚かましさは、月彦には無かった。
「ただいま……」
 玄関のドアを開け、靴を脱ぐなり月彦は早足に自室へと向かった。台所に行けば、葛葉が用意した夕食が――夜は帰りが遅くなると、予め聞かされていた――用意されている筈だったが、とにかく時間が無いのだ。一刻一秒でも早くに勉強机に向かわねばならない。
「あっ、父さま。おかえりなさい。勉強どうだった?」
「あぁ……まあ、ぼちぼちだな」
 今日学校を休んだ事については、真央には図書館で勉強をするから、とだけ説明してあった。今となってはそれが殆ど真実となってしまったわけなのだが。
 荷物を置き、早速勉強の続きを、と椅子に座りかけて、はたと。月彦は何か見過ごしてはいけないものを見た気がして、改めて真央の方を振り返った。
「……あによ。もうあんたの分はないわよ」
 愛娘の隣に、さも当然のように座り込み、タイヤキを囓りながらゲームコントローラを握っている女の姿に、月彦は目を見開いた。
「おい、お前人の部屋で何やってんだ」
「見てわかんないの? あんたの出したハイスコア全部塗り替えてやってんのよ」
 けけけ、とタイヤキを囓りながら真狐は器用に笑い、ポーズをかけていた落ちゲーを再開させる。本来ならば怒鳴りつけてその尻を蹴り飛ばして部屋から追い出してやる所なのだが、月彦にはそんな事をする気力も、余力も、そして何よりも時間が惜しかった。
(……暇人め)
 自分が今最も欲しいものを持て余している女を一瞥し、月彦は机に向かった。そう、こんな女に構っている暇は一秒たりとも無いのだ。
(こいつの事だ。大方俺と妙子のやりとりもこっそり盗み見てて、俺が勉強づけなのを見越して邪魔しに来たに決まってる)
 相手をするのは真狐の思うつぼだと、月彦は一切無視することに決めた。
「ねぇ、母さま……こっちのゲーム一緒にしよ? 見てるだけなんてつまらないよぉ」
「我慢しなさい。もーちょっとであのバカの名前をランキングから消せるんだから」
「うううー……見てるだけじゃつまらないぃー」
「ああもう、さっきやったらあんただけさっさとゲームオーバーになっちゃって、結局あたし一人でクリアする羽目になったんでしょ! 一緒にやりたいならもうちょっと腕を――なに見てんのよ」
 そう、無視をする筈だった。が、気がつくと月彦は振り返り、憎たらしい女の横っ面を凝視していた。
 別に、気が変になったわけでも、賭けを諦めたわけでも、勿論一目惚れをしたわけでもなかった。
「……おい、妖怪変化。……お前、ボウリングの時……応仁の頃にこんな遊びやったとか言ってたよな?」
「それが何よ。気が散るから話しかけないでよね」
「……ってことは、日本史とか詳しかったりするのか?」
「日本史ぃ? あんなデタラメばっかりの記録なんか知ったこっちゃないわよ。……ってあーもー! 気が散ってミスしちゃったじゃない!」
 テレビ画面に目をやると、あれよあれよという間に画面の大半がブロックで埋まってしまい、GAMEOVERという文字が表示された。
「おい真狐、日本史の何処がデタラメなんだ?」
「はぁ……ったくもー、いーい? 歴史なんてものは所詮勝者にとって都合が良いようにどんどん書き換えられていくものなのよ。新しい支配者にとって都合の悪い記録や文章は焼き捨てられちゃうワケ。たとえば、ほら……あいつ、ちょんまげで鉄砲好きだった……とぶなが?」
「……もしかして、織田信長の事か?」
「ああ、それそれ。あいつとか、今でこそ六大天魔王だの暴君だったの言われてるけど、実際はそりゃーもう気の小さいオトコだったわよ?」
「……信長が、か? 信じられないんだが」
「そういう風に勘違いさせるような資料ばっかり残されたからでしょ。第一、あの猿なんて…………ああこらっ、真央! 勝手にソフト差し替えてんじゃないわよ!」
「……わかった、とりあえずお前はそれなりに詳しいんだな。だったらちょっと俺に教えてくれないか」
「やーよ。なんであたしがそんな七面倒くさいことしなきゃいけないのよ」
「そこをなんとか、頼む」
「やだって言ってるでしょ。どうしてもって言うんなら土下座して頼みなさいよ。そしたら考えてあげなくもないわ」
「…………この通りだ、頼む」
 一も二もなく、月彦は土下座をした。
「なっ、ちょ……」
 まさか本当にやるとは思わなかったのか、真狐はぎょっとして後ずさるようにして立ち上がった。
「……! …………父さまが……母さまに頭下げてる……!?」
 真央もまた、信じられないものでも見るかのように目を丸くし、そのような呟きを盛らしていた。
「な、何よ……あんた、そこまでしてあの娘とヤりた――」
「こらっ、真狐! しぃっ!」
 とんでもない事を口走りそうになった真狐に向けて、月彦はあわてて顔を上げ、人差し指を立てて口を封じた。そして恐る恐る、真央の方へと視線を泳がせた。
「………………?」
 真央は自分の頭を押さえるような不思議なポーズをとったまま、月彦と目が合うや小首を傾げた。そしてぱっ、と両手を離すや、寝かされていた狐耳がぴんっ、と立った。
「父さま、今何か言った?」
「い、いや……聞いてなかったならいいんだ。…………とにかく、真狐……頼む」
「……ったくもー……しょうがないわねぇ。だいたいこんな面倒くさいことしなくったって、ちょっと一服盛れば一発じゃない」
「お前と俺は違うんだ。……そうだ、お前……ひょっとして、古文とかも読めるんじゃないのか?」
「古文? それってつまりてふてふでしょ?」
「そう、てふてふだ。んじゃそっちも頼む。――漢文は?」
「余裕。……何を隠そう、虎の威を借りた狐ってのはこのあたしの事よ!」
「そういう冗談はいい。とりあえずこの問題のここ、意味がわからないんだ。教えてくれ」
「冗談なんかじゃないわよ! あんときはホントもーヤバくって、あたしは必死で――」
「ありゃ中国の話だろ。無駄話はいいから、聞いた事にだけ答えてくれ。時間がないんだ」
 じろりと、月彦は相手を射抜かんばかりの真剣な眼差しで真狐を見る。その迫力に気圧されたかのように、真狐は軽口を噤み、やれやれとばかりにため息をついて仕方なく問題文へと目を落とした。
「……ったくもー…………問題ってのはどれよ。何よあんた、こんなのも読めないの?」
「読めないから聞いてるんだ」
「バッカねぇ、こんなの返り点とか上中下点とか抑えておけば楽勝でしょ。むしろ何で読めないのかその方があたしには理解不能だわ」
「返り点とかが書いてありゃーよめるけどな。無かったらどう読めばいいんだ?」
「そんなのは…………真央、どこに行くの?」
「…………私、邪魔みたいだから下でテレビ見てくる」
 ぽつりと呟いて、真央は一人部屋から出て行ってしまう。ふう、と肩を大きく上下させながら、真狐が大きくため息をついた。
「……あーあ。…………あんたさー、これでもまだ勉強続けるっていうの?」
「…………………………真央には悪いと思ってる。…………けど、もう後には引けない。ここで途中で投げ出してしまったら……俺は一生、何かに本気で取り組むって事が出来ない気がするんだ」
「あたしには詭弁にしか聞こえないんだけど」
「……………………。」
「女とヤる事以上に大事なことってあんたには無いわけ?」
「ぐっ…………」
 真狐の言葉が、心の奥底に大事に隠しておいたものをズタズタに切り刻んでくる。月彦は胸を押さえてうめき、ぎゅうとシャープペンを握りしめた。
(こいつ……真狐のくせに……時々痛いところをついてきやがるよな……)
 お前に言われたくはないと反論をするのは簡単だった。しかし、他人を責めたところで自分の非が無くなるわけではない。
(それに、確かに……こいつが言う事の方が正しい面も……ある)
 妙子との賭は大事だ。大事だが、それは他のかけがえのないものを犠牲にしてまで優先させねばならないものだろうか。
(真央……最近は良い子してる、よな……)
 ふっ……と。肩から力が抜けるのを、月彦は感じた。徐にペンを置き、月彦は席を立った。
「あら、勉強はいいの?」
「…………少し休憩をいれる」
 ニヤニヤしている真狐に背を向けて、月彦は階下へと降りた。居間へと行くと、真央がソファに体育座りをするような格好でバラエティ番組を見ていた。
「父さま……?」
 月彦は無言で真央の隣に座り、肩に手を回してぎゅっと抱き寄せた。
「真央、悪かったな。…………だけど、母さんとどういう話をしたのか、真央にも話したろ? だから、もうしばらくだけ我慢してくれるか?」
 戸惑うような目を向けてくる真央を抱き寄せ、髪を優しく撫でる。こくりと、小さく頷いた真央の頭を再度撫でてやり、月彦はそのまま、1時間ほど真央と一緒にテレビを見た。
 風呂を済ませ、夕食を軽く腹に収めた後、真央が寝付くまで月彦は添い寝をした。その後、真央を起こさないようにそっとベッドから抜け出て、月彦は再び机に向かった。
 真狐の姿は真央とテレビを見て部屋に戻った時には既に消えていたが、開いたままだったノートにそれ自体が古文と同等な程に解読が困難なヘタクソな文字で漢文を読むコツらしきものが少しだけ書き残されていた。

 

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