「今日は楽しかったね! 父さまっ」
「ああ、そうだな」
「また行こうね! 私、遊園地大好き!」
 夕暮れ時。未だ興奮冷めやらぬ真央に苦笑しつつも、こんなに喜ぶのならもっと早くにつれていってやればよかったなと、月彦は僅かな胸の痛みを感じていた。
 俺は真央を蔑ろにしすぎではないのか――その事を猛省し、また行動でも示すかのように、月彦は早速休日に真央を連れてのデートに赴いた。行った先は電車を乗り継いでなんとか行ける距離のテーマパーク――勿論以前行ったばったもんの遊園地とも、雪乃と共に行った隣県の巨大遊園地とも違う――であったが、肝心の真央の反応は月彦が思った以上に激しかった。
 さながらそれは、一ヶ月ぶりに散歩に連れていてもらえた飼い犬のそれに近かったと言えるだろう。事実、最後に真央と二人きりのデートをしたのがいつだったのか、月彦自身記憶に薄かった。
(……そりゃあ、真央もプチグレたりするわけだよなぁ)
 由梨子に、雪乃に、そして時々矢紗美にと時間を割き続けて、肝心の真央に構ってやる時間が減っていたのだ。無論、家ではずっと一緒に居るわけだから他の誰よりも一緒の時間は長いのだが、休日の度に何かと言い訳をつけられて家に置いて行かれては不満も溜まるというものだ。
「……ねぇ、父さま。今日ね、帰ったら――」
「うん?」
「帰ったら……またいっぱいシよ?」
 先ほどまでのハシャギMAXの状態から、今度はムラムラMAXといった状態への移行。ぽう、と熱を帯びた様な愛娘に濡れた目で見上げられ、月彦はゾクリとさせられてしまう。
「ま、待て……明日は学校だからな? あんまりそんな激しくは――」
 真央の盛り上がり方に尋常ではないオーラを感じて、月彦はつい腰が引けてしまう。こういった燃え方をしている時の真央はえてして激しく、序盤はただただ圧倒されて終盤になって漸く主導権を握れるという流れになりやすい。そしてその終盤というのが明け方だったりするから、翌日が月曜日という時には少々マズイ流れだと言えなくもないのだ。
「うん……解ってるけど……」
 腕を月彦のそれに絡ませ、そのたわわな胸元をむぎぅーと押しつけながら、真央はもじもじとお尻をくねらせる。ああ、頭の方では解ってるけど、体の方が全然解ってないんだなと、月彦はもうただただ苦笑するしかない。
「父さま、今夜はいっぱい口でシてあげるね。あと、おっぱいで挟んだりとか、それに――」
「わ、解った。わかったから真央、とりあえず帰ってから、な?」
 このままヒートアップし続けたらそのうち近場の公衆トイレの個室あたりに引っ張りこまれるのではないかとすら思えて、月彦は必死に宥めつつ早足で我が家へと向かった。
(……これはもう、覚悟するしかないか)
 ここで変に我慢させたり、はたまた真央の期待を裏切るような微妙なエッチをしてしまったらまた由梨子が犠牲になってしまうかもしれないと思うと、覚悟を決める他に手はないのだ。
(……あとは、母さんが家に居る事に期待するしかないか)
 葛葉が在宅の時ならば、若干ながら真央のケダモノ化は収まるのだ。少なくとも、玄関のドアを閉めるなり靴も脱がずにその場で押し倒されるというような事はなくなる。尤も、葛葉が居た所で自室のドアを閉めた瞬間結局同じ結末になるであろう事は否めないのだが。
(…………ここが分水嶺だな)
 月彦は自宅玄関前で意を決し、ドアノブを握った。葛葉が在宅中であれば、玄関の鍵はまず開いている。逆に出かけていれば鍵はかかっている。
 ドアノブを回す――鍵は、かかっていなかった。
「……ただいまー」
「ただい――」
 月彦にやや遅れて、ただいまの声をあげようとした真央が途中でその言葉を止めた。
「おかえりなさいませ、月彦さま………………と、真央さま」
 まるで二人の帰宅を予期していたかのように、玄関マットの上に立ち、丁寧に辞儀をする猫耳メイド服従者の姿に、真央に遅れて月彦もまたあんぐりと口をあけた。

 

 

『キツネツキ』

第三十二話

 


「あ、菖蒲……さん? 一体どうしてうちに……」
「その件については、葛葉様からお手紙を預かっております」
 と、菖蒲は白い封筒を取り出すや、そっと月彦の方に差し出した。封はされておらず、中には便せんが一枚入っていて、その余白は見覚えのある母親の字で半分ほどが埋まっていた。
「何々………………………………母さん、また旅行に行ったのか」
 そこには、またしばらく家を空ける旨と、留守の間は“家政婦さん”を雇ったから食事やその他の家事については心配しなくていいという様なことがつらつらと書かれていた。
「家政婦さんを雇った……って」
 ちらり、と。月彦は便せんから視線を上げて眼前に立つメイドを見る。勿論菖蒲とは白耀の家で幾度と無く顔を合わせてはいるのだが、なじみのある自宅の中でいかにも洋風なこの姿を見る事に言いしれぬ違和感を感じた。
「……菖蒲さん、うちの母さんと知り合いだったの?」
「知り合い……と言っても宜しいものかどうか、判断出来かねます。葛葉様とは、買い物の際等に何度かお会いしておりまして、その都度野菜の安い店やお肉の質の良い店などのアドバイスを頂いた……そういうご縁でございます」
「な、なるほど……」
 普通に買い物に行く時もそのメイド服姿なのかという疑問をぶつけてみたくもあったが、何となく訪ねてはいけないような気がして月彦は言葉を飲み込む事にした。
(でも、だからってよりにもよって……)
 そんな買い物先でちょこっと知り合っただけの相手に留守中の子供の世話を任せるというのはいかがなものだろうか。葛葉のやることが理解の範疇を越えることはままあるが、今回ばかりは些か“やり過ぎ”ではないのだろうか。
「…………何か、ご不満でも?」
「ああ、いや……別に、不満なんて無いけど……」
 睨み付けられた――というわけではないが、冷気すら感じるほどの視線に射られて、月彦は僅かに上体を後ろに引かせた。
(……あれ、なんつーかこう、もうちょっとフレンドリーじゃなかったっけか……)
 かつては、邪魔者として散々な扱いを受けはしたものの、最近は白耀との仲を促進させる要因として微妙に歓迎気味な雰囲気を見せてくれていただけに、こんな責めるような視線を向けられる理由が月彦にはわからない。
「で、でもうちに家事をやりに来るなんて、良く白耀が許可出したね。あいつの事だから、菖蒲さんの事は絶対手放したりしないと思ってたけど」
 白耀――その単語が月彦の口から出るなり、まるで“無表情”という顔の面をかぶっているかのように何かと喜怒哀楽の漏れにくい従者の形の良い眉がぴくりと揺れた。
「……他に質問が無いのでしたら、夕飯の支度がありますので下がらせて頂きます」
 ぺこり、と辞儀をしてそのまま振り返るや、衣擦れの音さえもたてずにしずしずと台所へと従者は消える。
 相変わらず愛想の乏しい、それでいて掴みにくい人だなと首をひねりながら月彦は靴を脱ぎ、自室へと階段を上がる。月彦同様ショックを受けているらしい真央もまたその後に続き、二人とも部屋着へと着替えを終えるなり並んでベッドへと腰掛けた。
「……父さま、どうしよう」
「どうするもなにも……母さんが留守を頼んだっていうのなら、追い出すわけにもいかないだろう?」
 確かに苦手な相手ではあるが、完全な赤の他人よりはマシなのかもしれないと、月彦はこの件に関してはポジティブに捉える事にした。
「そうじゃなくて……あの人が居たら……」
「うん?」
 しかし、真央が言っているのはどうやらそういう意味ではないらしかった。見れば、なにやら早くも呼吸が荒く、肌は上気し瞳は潤み、今にも飛びかかってきそうな状態だった。
(ああ、そういやそうだった)
 玄関のドアを開けるなり、あまりに衝撃的な出来事が起きたせいですっかり失念していたが、真央はもう過充電液漏れ状態だったのだ。
 つまり、真央の言う“どうしよう”というのは、菖蒲の存在を無視して今すぐ始めてもいいかという、そういう意味なのだ。
(…………それはさすがにマズイんじゃなかろうか)
 失礼な物言いかもしれないが、月彦にはあの無愛想な従者がそこまで空気が読めるとはとても思えなかった。このまま二人抱き合いベッドに横になり呼吸をする間ももどかしいとばかりにキスを重ねながら服を脱ぎ脱ぎ――突然ドアがばたんと開かれ、「お食事の用意が調いました」と、水を差される様子がありありと目に見えるようではないか。
「と、とりあえず我慢だ、真央。……今はまずい」
「でもぉ……」
 まるで尿意でも我慢しているかのような仕草で、真央はもじもじと体をくねらせる。可能ならば、月彦としても愛娘の望みを叶えてやりたいところではあったが。
「と、とにかく今はダメだ! 飯食って、風呂に入って……菖蒲さんが帰った後でならいくらでもシてやるから、それまで我慢だ。……出来るな?」
「ううぅぅ〜〜〜っ…………」
 真央は不満そうに唸るも、最終的にはこくりとうなずいた。真央も頭では解っているのだ。今始めてしまっても、必ず途中で邪魔が入るという事に。
 程なく、コンコンとドアをノックする音。月彦が返事を返すと、「失礼します」の声と共に従者が静かにドアを開けた。
「お食事の用意が調いました」
「あ、ありがとう、菖蒲さん。……ほら、真央。行くぞ」
 ぶぅ、と拗ねるような目で菖蒲をにらみ付ける真央の背中を叩くようにして、月彦は一足先に部屋を出た菖蒲の後に続いた。



 階下へと降りるなり、すぐさま嗅ぎ慣れた芳香が月彦の鼻を撫でつけた。おや、この香りはと月彦が思うよりも先に、菖蒲が口を開いた。
「葛葉様に頂いたレシピの通りにそれぞれ作らせて頂きました」
「な、なるほど……どーりで……」
 恐らくそのレシピというのは絵図入りではないのだろうか。テーブルの上に用意されたほうれん草のごま和えやらマカロニサラダやらは言うに及ばず、二人分の膳の配置や、その皿の中の千切りキャベツとコロッケの配置等まで葛葉の癖がそのまま反映されていた。
「って、あれ……? 二人分しかないみたいだけど」
「…………?」
 月彦の言っている意味がわからない、とばかりにきょとんと、菖蒲は微かに首を傾げる。
「いや、俺の分……と真央の分。…………菖蒲さんの分は?」
「月彦さまと真央さまの食事の後かたづけが済み次第、夕食を摂らせて頂く予定です」
「俺たちの後……って……」
 冷静に考えれば、家政婦というものはそもそもそういうものかも知れない。逆に何故自分は菖蒲を含めた三人で夕飯を食べている図式を連想してしまったのだろうと、月彦は奇妙なもどかしさを感じた。
「そ……っか。じゃあ、とにかく食うか」
 どうやら菖蒲が苦手らしく、常に月彦の影に隠れるような位置取りの真央をいつもの椅子に座らせ、自分も座る。
「ええと、じゃあ……菖蒲さん、先にいただきます」
「……いただきます」
 菖蒲からの返事は無く、辞儀のみ返してそそくさとキッチンから出て行ってしまった。
「うーん……」
 もうちょっと愛想が良ければなぁ……とは思うも、口には出さない。そのような言葉をうっかり口にすれば、隣の真央の機嫌が著しく悪くなる事は明らかだからだ。
(……でも、猫ってあんなだよな)
 菖蒲の挙動を見るたびに、月彦は頷いてしまいそうになる。むしろ、きちんとメイド――もとい、家政婦としての使命は全うしているという点のほうが不思議にさえ感じられる。
(……春菜さんの関係者……なんだよな。春菜さんの仕込みが良かったってことか?)
 肝心の料理の味の方も申し分ない。葛葉が作ったものと寸分違わぬ――とまでは言い難いが、目隠しをされてさあどっちがホンモノでしょう的な事をやられたら判別に困る程の完成度だった。
(前に真央が菖蒲さんの料理は美味しくないって言ってたが……アレはやっぱり――)
 “わざと”だったのだろう。直接口で言うのではなく、そういったやり口がまた猫らしいと、月彦は妙な納得を覚えながら母親の料理とうり二つなそれを次々に胃に収めていった。

 丁度夕食が終わる頃に菖蒲から風呂の用意が出来た事を告げられ、月彦は迷った末に真央とは別々に入る事にした。その理由は第一に、一緒に入ったらほぼ間違いなく自分は真央に手を出してしまうであろうという事と、第二に、その場合いつまでたっても風呂から上がらない二人の様子を見に菖蒲がやってくるのではないかという二つの危惧があるからだった。
 勿論真央は一緒に入りたそうだったが、「菖蒲さんが帰るまでの我慢だ」と 月彦は必死に宥めた。
 先に月彦が入り、入れ替わりで真央が入った。月彦は湯上がりの一杯――勿論ビールなどではなくフルーツ牛乳であるが――を飲もうと台所へ行くと、丁度菖蒲が洗い物をしている所だった。
「ああ、菖蒲さん。今日はもういいよ、あとは俺がやっとくからさ。早く白耀の所に帰ってあげなよ」
 月彦なりの親切――恐らくはこれから数日は家の中で一緒に過ごさねばならない相手と可能ならば友好でありたいという、人としてごく当たり前の心の動きから出た申し出だった。
 が、菖蒲は一瞬ひどく不快そうな顔になりかけたのを無理矢理無表情に戻したような、そんな一瞬の間を置いてぽつりと返事を漏らした。
「葛葉様からは“住み込み”での依頼を受けております。お気になさらないで下さい」
 今度は、月彦がフルーツ牛乳の入った紙パックを手に一瞬固まる番だった。
「え゛……住み込み?」
「はい。そのように承っておりますが」
 何か問題でも?――そう言い足そうな菖蒲の目に晒されながら、月彦は必死に愛想笑いを浮かべその実、脳みそだけは高速回転していた。
(ってーことは……つまり……どういうことだ?)
 家政婦というからには、てっきり“通い”であるものだと思いこみ、そのことを全く疑っていなかった。住み込みという事はすなわち、葛葉が帰って来るまで家の中には常に菖蒲が居るという事であり、必然的に――。
「父さまっ、お待たせぇっ!!」
「どわっ!」
 思案にふけっている所を突然背後から猛烈なタックルをされ、月彦は危うくフルーツ牛乳を盛大にぶちまけそうになった。辛くもそうならずに済んだのは、月彦の手から放り出された紙パックを菖蒲がそっとキャッチしてくれたからだ。
「ねぇ……父さまぁ……早くお部屋に行こ?」
 体から立ち上る湯気は、決して風呂上がりという理由だけではないだろう。目の前にまだ菖蒲が居る事などもはや眼中にないとばかりに、月彦のパジャマの袖を掴んでぐいぐいと二階へ引きずっていこうとする真央を止めたのは、意外な一言だった。
「…………随分悩んだのですが」
 ぽつりと漏れた菖蒲の言葉に、ぴたりと真央の動きが止まる。
「やはり、私には問題があるように思えます」
「も、問題……って?」
 真央に引っ張られ、組み体操の“扇”の端から二番目の人のような体勢になりながら、月彦は苦しげな声で訪ね返した。
「私は葛葉様にこう依頼されました。留守中、月彦さまと真央さまが“健全で規則正しい生活”を送れる様、その手助けをして欲しい、と」
「そ、それが……何か問だ――ちょ、ま、真央すとっぷ! すとぉぉっっっぷ!」
 もう待てない、とばかりに無理矢理父親を引きずって行こうとする真央になんとか待ったをかけながらも、月彦は必死に菖蒲との会話の続行を試みる。
「…………“実の娘”と性行為をするのは、はたして“健全”でしょうか?」
「っ…………………………!」
 ぎくぎくぎくぅ!
 茶化しなど微塵も混じっていない、心底疑問に思っているような菖蒲の目に鋭く心臓を射抜かれ、月彦の意識は三秒ほど制止した。
(い、今まで……)
 ぜえ、はあ、ぜえ、はあ。
 突然自分の周囲だけ、酸素という酸素が消え失せてしまってのではないかと思いたくなるほどに息を切らしながら、月彦はそれでも必死に呼吸を整える。
(うすうす、これってマズイよなぁ、とは思いつつも、なんとなく目をそらし続けてきた問題を……ついに他人に面と向かって指摘されてしまった……!)
 それとなく指摘されたくらいならば、まだ精神の持たせようもあるのだが、まるで冷や水でもぶっかけるような冷静な口調で言われては、最早なんと返せばいいのやら。
「…………別に良いじゃない。ほっといてよ」
 どうしよう、どうしようで硬直しきっている月彦に代わって、真央が敵意すら籠もった口調で言葉を返す。
「私と父さまはこれが“普通”なの。……“関係ない人”が口出ししないで」
「ちょ、ちょっと真央……落ち着けって。……ごめん、菖蒲さん。菖蒲さんの言う事も解るんだけど……」
「関係が無い……確かに、真央さまのおっしゃる通りで御座いますね。ではここは一つ、葛葉様に直にお伺いを立ててみる事に致します。月彦さまと真央さまの性行為を容認するべきかどうか」
「え゛……ちょ、あ、菖蒲さんちょい待ちぃいいッ!!」
 冷蔵庫にはられていたメモの切れ端――恐らくは緊急時用の葛葉の連絡先――をぴっと手にとるや、ぱたぱたと珍しく足音を響かせて廊下に設置されている電話機の方へと向かう菖蒲を、今度は月彦がタックルするようにして強引に止めた。
「…………月彦さま、離して頂けますか?」
 ジトリと。絶対零度の視線を向けられて渋々月彦は手を離した。
「あ、菖蒲さんの言うことは解った…………やっぱり、親子でそういう事をするのは変だよな、うん。……ってことで真央、今夜はやっぱ無しにしよう」
「そんなっ……父さまむぐっ」
 月彦は金切り声を上げて抗議しようとする真央の口を強引に塞ぎ、半ば羽交い締めのようにして階段の方へと引きずっていく。
「それに、今日は遊園地行ったりして疲れてるしなっ、少し早いけど今夜はもう先に寝て明日に備えた方がいいかもしれないなっ、というわけで菖蒲さん、おやすみ!」
 まるで独り言を大声で言うかのような別れの挨拶を残して、月彦は真央を抱えたまま階段を上がり、自室へと入るなり漸く真央を解放した。
「父さま、ヒドい! どうしてあんな女の言いなりになるの!?」
「頭を冷やせ、真央。……いくらなんでも、母さんにモロバレはマズイだろ?」
 あるいはひょっとすると、あの葛葉の事であるから既に察してはいるのかもしれない。が、それでも今のところ面と向かって「真央ちゃんとエッチするのは“メッ”よ?」等と言われたわけではない。
 が、葛葉が気づいていようがいまいが、菖蒲の密告によって状況が悪化する可能性は低くはないと月彦は見た。気づいていなかった場合は言うに及ばず、既に気づいて見て見ぬふりをしていた場合でも、第三者にそれはおかしいのではと指摘されれば、その通りかもしれないと葛葉が思わないとも限らないからだ。
(あとはアレだ。そういう話を母親に持ち込まれるっていうのは……ある種、オナニーしてるところを見られる類の苦痛もあるしな!)
 と、真央には言いづらい類の情けない理由は心の中でそっと呟き、とにもかくにも菖蒲が電話確認をすると言い出した以上、黙って引くしかないということを月彦は真央に解らせたかった――が。
「…………じゃあ、あの人が居なくなるまでずっと我慢しなきゃいけないの?」
 残り一桁でカウントダウンする時限爆弾を見る時の気持ちってこんなかな、というようなふくれっ面の真央をどう、どうと諫めながら、これはとても言って収まる類ではないなと月彦は痛感した。
「……そうは言ってない。……ようはバレなきゃいいんだ」
 人差し指をたてながら小声で囁くや、忽ち愛娘のふくれっ面が笑顔に変わる。
「静かに……できるな? 真央?」
「う、うん……がんばる……だけど、あんまり激しくされたら……ちょっと。自信ないかも……」
「解った、激しくはしない。……その代わり、絶対声出したりするなよ?」
 うん、と頷き、“父さまの好きにして!”とでも言いたげに瞼を瞑る真央に苦笑して唇を重ねようとした矢先の事だった。コンコンと、ドアがノックされたのは。
「月彦さま、少し宜しいでしょうか」
「あっ、菖蒲さん!?」
 あわてて真央の上から飛び退くや、まるでそれを待っていたようなタイミングでドアが開かれた。
「お休みの所大変失礼致します。ですがいくつか申しそびれた事がありましたので」
「も、申しそびれたって……何を?」
「私の耳は飾り物では御座いません」
「……え……?」
「それから、深夜に二、三度。月彦さま達が問題なく就寝なさっているか見回りをさせて頂きますので予めご了承下さいませ」
「なっ、ちょ、あ、菖蒲さん?」
 月彦の言葉を打ち切るかのように、「話は以上でございます」と言い残して菖蒲はぺこりと辞儀をした後、ドアを静かに閉めた。
 月彦が恐る恐る視線を戻した先には、先ほど以上の――目尻に涙さえ溜めた愛娘のふくれっ面が待っていた。



 一難去ってまた一難――今の状況を表すのにこれほどふさわしい言葉はないのではないか。
(……やっとこさ真央との関係を修復できて、これからだって時に……)
 翌日、授業もそぞろに受けながら、月彦は新たに提起された問題をどう処理するかで頭を悩ませ続けていた。
(母さんも母さんだ……留守中くらい、俺と真央だけでどうとでも出来るってのに)
 百歩譲ってヘルパーさんを雇うにしろ、あの人だけは無いだろうと月彦は思う。もしや自分と真央が困惑するのを承知であえて菖蒲を雇ったのではないかと邪推したくなるほどに、その人選には甚だ不満と疑問の余地があった。
(……折角真央の機嫌も良かったのになぁ……)
 この間の一件以来、心なしか嫉妬の虫も収まりつつある様に思えて、躾の手応えを感じていた矢先の事だけに、今度の事は本当に痛いと月彦は思った。
 というのも、昨夜はあのようにあからさまに釘を刺された以上さすがにエロる事は出来ず、二人してムラムラしたまま眠れぬ夜を過ごすハメになってしまったのだ。しかも、菖蒲は己の言葉通り夜中に三度、しっかり見回りに来るという念の入れようだった。
 おかげで今朝の真央の機嫌は最悪であり、菖蒲が用意した弁当すら受け取らずに1人でさっさと玄関を出てしまった。さすがに月彦は真央ほど露骨には態度に示せず、菖蒲の作ってくれた弁当にはしっかり礼の言葉を返したが、心中ではおおよそ真央の憤りに近いものを感じていた。
(無愛想……なだけじゃないよな。明らかに敵意めいたものを感じる)
 葛葉に頼まれたであろう仕事は全てそつなくこなしてはいるが、それ意外の部分では微塵も好意を感じさせない。否、それどころかイヤガラセとしか思えないような釘のさしっぷりは一体どうしたことか。何か理由があるのか、それともあれが彼女の素なのか。
(帰り道、ちょっと白耀の所に寄ってみるか。ひょっとしたら何かヒントが聞けるかもしれないしな)
 そのような具合で考え事を続けているうちに四時限目のチャイムが鳴ってしまった。生徒達が三々五々昼食の為の行動に移る中、月彦もまた弁当を食おうと鞄に手を伸ばしかけた時だった。
「おーい、紺崎ーっ」
 不意に名前を呼ばれ、声の方へと視線を向ける。見れば、クラスの男子の一人がニヤつきながら手招きをしているではないか。その隣には――
(なっ、真央……!?)
 ぎょっと目をむき、月彦はダッシュで教室の入り口へと駆けつけた。
「なんだ……真央……どうした?」
「う、うん……あのね、ちょっと……来て……欲しいんですけど」
 月彦の覚えている限り、学校の中で真央が教室まで訪ねてきた事はこれが初めてだった。よほどの緊急事態が起きたのかと、ニヤつきながら意味深な視線を送ってくる級友達を手をふって追い払いながら、真央の背を押すようにして教室を後にする。
 ――が。
「こっち、こっちに来て」
 人気のない屋上あたりで話をするつもりだった月彦の腕を逆に引くようにして、真央は早足に廊下を屋上への階段とは逆の方へと歩いていく。真央の狙いが解らず、月彦は腕を引かれるままに歩き、そして一瞬の間隙を縫って教員用トイレの中へと連れ込まれた。
「お、おい真央……ここは――」
「こっち」
 そのままずかずかと中に踏み入る真央の勢いに押され、月彦は強引に教員用トイレの個室の中へと押し込まれた。すぐさま真央も入り、後ろ手でカチャリと鍵をかけるなりぎゅううっ、としがみついてくる。
「父さま……シよ?」
「し、シよ……って……ま、真央?」
「ねぇ……シよ? 一回だけ……一回だけでいいの……じゃないと私……おかしくなっちゃう」
 便座カバーの上に月彦を強引に座らせ、その上にまたがるようにして真央が身を寄せてくる。はぁ、はぁ、ふぅ、ふぅ……肩で息をしながら既に瞳はトロリと濡れており、月彦の目から見ても限界ギリギリの状態であることは明らかだった。
「父さまァ……お願い……」
 ぴょこん、と狐耳を露出させ、尻尾をぱたぱた振りながらおねだりしてくる愛娘に月彦の心はゴトリと動かされた。
(……しょうがない、か……)
 家で出来ない以上、こういった時間を利用するしかないのかもしれない。月彦は言葉ではなく笑みをもって真央への返事を返し、その尻尾を優しく握った。
「ふぁンっ」
 忽ち、真央が大仰な声を上げる。しっ、と月彦は人差し指を立てた。
「静かに、だ。……出来ないなら止めるぞ?」
 真央は自らの手で口元を押さえ、こくりと頷いた。それを見て、月彦は真央の尻尾を優しくしごき始める。
「んっ、んんっ……ンッ……ンッ……」
 真央がぴくぴくと体を揺らしながら声を漏らし、くたぁ……と月彦の体にもたれかかってくる。しゅり、しゅりと音がするのは、真央が下着を月彦のズボンに擦りつけるように腰をくねらせているからだ。
「父さまァ……こっちも触って……?」
 尻尾を愛撫されてより一層吐息を乱しながら、自ら制服の前をはだけさせ、囁くように真央がねだってくる。月彦は苦笑し、ブラウスの内側へと手をすべりこませブラのホックを外してから上へとずらし、高校生らしからぬ美巨乳を露出させるや、むぎぅ、と指の合間から肉が盛り上がるほどに強く握りしめる。
「あァッ……ンンッ!!」
 弾かれたように声を上げようとする真央の口を掌で押さえながら、空いている手でぎゅむ、ぎゅむとこね回す。
「ほら、真央?」
 自分で押さえろ、と月彦は目で促す。真央は頷き、両肘を持ち上げて乳を捏ねる月彦の邪魔にならぬようにしながら両手で口を覆う。
「んんっ……んんっ、んふぅ……んっ……んっ!」
 柔肉をこね回し、ピンピンにそそり立った先端をつまみ、くりくりと揉むように弄ると真央は弓なりに背を逸らせ、ぎゅっと目を瞑りながらびくびくと体を揺らす。頃合いか、と月彦はそっと真央の耳に唇を寄せた。
「真央、腰を浮かせろ」
 その一言だけで真央は全てを察したらしい。僅かに腰を浮かせ、スカートを捲しあげ、自ら下着をずらしてみせる。月彦もまた剛直を解放し、ぐんと天を仰ぐそれを愛娘のとろけきった場所へと宛い、一気に腰を落とさせた。
「ッ! ンンンッ〜〜〜〜〜〜〜ッ! っっっ……………………!」
 真央の手の上からさらに押さえつけなければ、忽ち廊下にまで響く嬌声が漏れだしていた事だろう。
「っっっ……ふはぁぁぁぁ…………とう、さまぁ…………」
 剛直を根本まで飲み込み、きゅん、きゅんと締め付けながら真央はくたぁ……ともたれかかってくる。
「ッ……ま、真央……また、そんなに……」
 見た目こそ全身脱力、くたぁともたれかかっているだけだがその実、くわえ込まれている部分は特上の肉襞によってうねうねと刺激され、今度はうっかり自分の方が声を漏らしてしまいそうになり、月彦はあわてて唇を噛みしめた。
「ずっと……我慢してたから……すごく、いいの……ンンッ……」
 真央が少しずつ腰をくねらせ始める。焦れったげに月彦の頬の辺りをなで回しながら、声が出そうになるたびに唇を重ねてくる。
「んんっ……ンンッ、ンッ……」
 月彦もまたそれに応じ、徐々に舌を絡め合いながら真央の体をなで回す。制服の上から背中を撫で、そのまま背骨にそって指を下ろしていき、スカートを捲しあげるようにして勃っている尻尾の付け根を優しくしごき上げる。
「んんっ、ンーーーーーッ!!!」
 ぴくぴくぴくっ……!
 唇を重ねたまま真央が心地よさそうに噎び、キュンキュンと剛直を締め付けてくる。月彦もまたそれに応えるように尻尾から手を離し、両手で真央の尻をやんわりとこね回す。
「んんぅっ……はぁ、はぁ……とう、さまぁ……もっと……」
 突いて――と、かすれるような声で真央がねだってくる。そうは言われてもと思いながらも、月彦は真央の尻を掴み持ち上げ、落とすと同時に僅かに腰を持ち上げ、ずんっ、と強く突き上げる。
「あっ……ンッ! ……ンンンッ! ンンンッ!!」
 またしても真央が甘い声を上げてしまい、月彦はあわててキスでその唇を塞いだ。そのままこちゅ、こちゅと小刻みに突き上げながらねっとりと舌を絡め、互いに快感を高め合っていく。
「やっ……待って……父さま……やっ……い、イッちゃう……!」
 真央の尻を掴み、腰の動きを誘導しながら弱い場所を執拗に擦り上げると、溜まりかねたように真央が小声で囁いてきた。
「……まだだ、真央。我慢しろ」
 月彦もまた狐耳の中にそっと唇を差し込み、囁くように言うと胸元の突起へと舌を這わせる。
「あぁんっ……!」
 甘い声を上げる真央を上目遣いで睨み付け、次に声を漏らしたら止めるぞと月彦は暗に脅す。真央もその辺の機微は伝わったのか、きゅっと唇を固く結んで両手で口を覆った。
 月彦は時折思い出した様に腰を使い、しかし決して真央をイかせないようにしながらじっくりたっぷりと胸元をなめ回し、ピンピンにしこった乳首を嬲った。真央はもどかしくも何も言えず、ただただ訴えるような目で月彦を見つめてくるが、月彦はあえて無視をし、真央がイく寸前のギリギリの状態を保つ事につとめた。
 が、訴えてくる真央の目に涙が溜まるほどの段階になって、月彦は唐突に乳を嬲るのを止めた。そして真央の尻を掴んだまま、便座カバーの上から腰を上げて立ち上がる。真央もまた月彦の目論見をすぐに達し、両腕を背中側から肩へと引っかけるようにして月彦の体にしがみつく。
「ぁっ、ぁっ、ぁっ……とう、さまぁっ…………! んんっ……んんっ……!!」
 必死に声を抑えようとしているものの、両腕で月彦にしがみついているため口を覆う事はできない――そんな真央の切なげな唇を月彦は奪い、奪いながら……揺さぶるようにして突き上げる。
「っっっ〜〜〜〜〜〜ッ!!!!」
 ずんっ、と突き上げる度に、真央の体重が剛直の先端へとかかる。何度も、何度もそうして突き上げてやると、次第に肩にかかった真央の指先の爪が食い込み始める。
「…………真央、出すぞ」
 月彦は唐突に唇を離し、まるで独り言のように宣言する。ハッと、真央が全身を強ばらせた瞬間を見計らって、最後に一際強く突き上げる。
「ぁくっ…………ぅぅぅぅ〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!」
 痺れる様な快楽と共に、濃厚な牡液をたっぷりと愛娘の体内へと注ぎ込みながら、月彦はあえて真央の口をキスで塞がなかった。眼前では、真央が途方もない快楽による絶頂に上り詰めながらも、涙目で必死に声を抑えていた。その“ギリギリさ”が愛娘の快楽をさらに高めるであろう事を月彦は本能的に悟っていた。
「ぁっ、ぁっ…………熱い、の……いっぱいぃ…………ひんっ……」
「あぁ、昨日の夜はおあずけだったからな。……いっぱいで、しかも“濃い”だろ?」
 囁きながら、にゅぐり、にゅぐりと特濃の牡液を肉襞に刷り込むように動かしてやると、真央は弾かれたように口を噤み、全身を痙攣させながら必死に月彦にしがみついてくる。
「ひぅぅ……やぁっ……濃いの……塗りつけたら……あンッ……そ、そこっ……らめっぇ……ぁぁんっ……やっ……また、シたくなっちゃうぅ……」
「……そうしたいのは山々だが、残念だな。……予鈴だ」
 まるでタイミングを計ったかのように――事実、月彦は意図的に狙いはしたのだが――昼休み終了五分前を告げる予鈴が鳴り響く。
「そんなぁ……父さまぁ…………」
「ダメなものはダメだ。続きはまた明日……な?」
「でもぉ……じゃあ、放課後に――」
「そ、そうしたいのは山々だが、放課後は行くところがあるんだ。…………白耀に菖蒲さんを引き取ってもらわないといけないだろ?」
 ううーっ、と真央は涙を浮かべたまま不満そうな目をするも、確かに菖蒲を追い払う事は最優先事項だと納得したのか、渋々こくりと頷いた。



 

 放課後、月彦は学校を後にすると早速隣町へと赴いた。目的は勿論、白耀を訪ねる事だった。
(ひょっとしたら、白耀と何かあったんじゃなかろうか)
 そう考えると、白耀の名前を出した時に菖蒲が一瞬だけ見せた不快そうな眼差しや、奇妙な間の説明がつくのだ。
(……でも、一体何が……?)
 元が相思相愛の二人なのだ。そう生なかな事では二人の関係にヒビすら入らないのではないだろうか。
(……ひょっとして、白耀の奴が他に女を作ったとか)
 それならば――と考えて、あのオクテが服を着ているかのような白耀にそんな大それた真似は無理だろうと1人ごちる。が、即座にあの男は昔真央を口説き落とそうとした男だという事を思い出し、もしや……とも思う。
 そんな事を延々ぐるぐると円を描くように考えているうちに白耀の屋敷へとたどり着き、月彦はいつもの通り裏口へと回って呼び鈴を鳴らした。
(…………あ、待てよ……いつもなら菖蒲さんが出てくるよな。でもその菖蒲さんは多分今もうちにいる……ってことは――)
 はてな、と月彦が小首を傾げていると、がちん、と閂が外される音がした。
 と同時に――
「菖蒲か!?」
 ばむっ、と戸が開かれるや否や、鬼気迫る顔の白耀に凝視され、月彦は思わずぎょっと後ずさってしまった。
「あ、あぁ……月彦さんでしたか……し、失礼……」
 月彦の顔を見るや否や、白耀ははっとその白い肌をさらに蒼白に染め、すぐさま取り繕うような愛想笑いを返してくる。
「わ、悪いな……白耀……いきなり訪ねてきちまって……ちょっと話があるんだが、今時間あるか?」
「話……ですか……申し訳ないのですが、今は少々立て込んでまして……」
 ははは、と力無く笑う白耀の顔には力どころか精気すらも消え失せてしまっている様に見えた。両目の下にはどす黒いクマが滲み、色白の肌のせいで痛々しい程だ。
「そうか……残念だ。菖蒲さんの件でちょっと相談したかったんだが……そういうことなら――」
「月彦さん!」
 言葉も半ばできびすを返そうとした月彦の肩を、まるで地獄の餓鬼かなにかのような力強さで白耀が掴んできた。
「今なんとおっしゃいました!? 菖蒲の行方をご存じなんですか!?」
「あ、あぁ……勿論知ってるけど……白耀、もしかして……菖蒲さんに家出でもされたのか?」
「えっ……」
 白耀は言葉に詰まり、月彦の肩を掴んだ手を不自然に硬直させたまま、一歩二歩と後ずさった。そのままたっぷり三秒ほど固まった後、唐突にはははと軽い笑い声を上げ始める。
「……家出だなんて、まさか。菖蒲がそう言ってたんですか? ハハハハハ……バカな事を……あべこべです、こっちが追い出してやったんですよ」
「………………成る程な。そういう事情だったのか。よくわかった」
 邪魔したな、白耀――そう言い残して再び踵を返そうとした月彦の肩を再度、餓鬼の手が掴んだ。
「つ、月彦さん……もしよろしければ少し上がって行かれませんか?」
「えっ……だって、立て込んでるんだろ?」
「た、立て込んでますけど……軽くお茶するくらいなら大丈夫です。積もる話もあることですし……是非!」
「いやでも、忙しいところ無理にお茶するのも悪いから今日の所は帰――」
「月彦さん!」
 肩だけではなく、今度は腕をがっしりと捕まれ、ぐいと引かれる。
「以前申し上げた筈です。僕にとって、月彦さんと話をする時間は何物にも代え難いと。……どうか」
「…………わ、解った……白耀がそこまで言うんなら……少しだけな?」
 少々意地悪をしすぎたかな――見るも無惨なほどに窶れてしまっている親友に懇願され、月彦は罪悪感にチクチクと心を痛めながら、屋敷の中へと入って行った。


 いつもの応接室へと通され、待たされる事十五分。どたんばたんと熊と格闘でもしているような激しい物音が漸く止んだかと思いきや、程なく盆を手にした白耀が戻ってきた。
「すみません……こういうことは菖蒲に任せっきりだったもので……湯飲み一つ探すのも時間がかかってしまって」
「そんなに気を遣わなくていいって」
 湯飲みを受け取りながら月彦は苦笑し、そっと口を付ける。茶の温度はひどく温く、味も暈けてしまっていたが、無論そんな事で不満を口にしたりはしない。
「しっかし……なんつーか、ちょっと来ない間に大分内装が変わったんだな」
「ははは……立て込んでいるといったのはそのことなんです……一人では後かたづけもなかなか進まなくて」
 以前月彦が訪ねてきた時は絨毯から何からきっちりとしており、棚の上などもホコリ一つ落ちていないような状態であった応接室は見るも無惨な状態へと変貌してしまっていた。飾られていたいくつかの帆船模型は壊れボトルシップは瓶ごと割られ、壁にかけられていた絵画なども額縁ごとズタズタに引き裂かれてしまっていた。
 ソファもまた無数のひっかき傷のようなものがついていて、所々綿が飛び出していたりと酷い有様だった。
 そう、まるで猫科の大型動物が大暴れでもしたかのような――
「一人では……って、使用人の代わりなら表の料亭の従業員とかがいっぱい居るんじゃないのか? それにほら、いつもちっちゃいのが走り回ってたじゃないか。あいつらは?」
 白耀の屋敷では、菖蒲の他にも細々とした掃除などを行う木偶人形が白耀の妖力を受けて細々と走り回っているのを月彦は幾度と無く目にしていた。それらに部屋の掃除を命じれば、いかな惨状といえどたちどころにマシにはなるのではなかろうか。
「料亭の者達はこちらの邸宅の方には立ち入れない決まりになってますから。……木偶達は……ちょっと所用で外に出ておりまして」
「所用で外に、か」
 菖蒲さんを探させてたんだな、と月彦は密かに察した。
「それであの……月彦さん、菖蒲の居場所なんですが……」
「その前に、一体何があったのか教えてくれないか?」
「そ、それは……」
 ぎゅっ、と。対面のソファに腰をかけたまま白耀が握り拳を作る。
「申し訳ありません……月彦さんといえど、さすがにこればかりは」
「……そうか、まあそういうことならしょうがないな」
 あの白耀がこれだけ口ごもっているのだ。およそ人には言えない“何か”があったのだろうという察しはつく。そこを無理に聞き出そうとするのは些か思いやりに欠ける、と月彦は思った。……無論、好奇心はうずくが。
「……とりあえず、この部屋の状態を見るに、何かしらが原因で大喧嘩をした、って所かな。……で、菖蒲さんは出て行ってしまったと」
「僕が追い出したんです。菖蒲が出て行ったわけじゃありません」
「……まぁ、白耀がそう言い張るならそれでもいいさ。んで、問題の菖蒲さんの居所だが……今、うちにいる」
「……は?」
「いや、だから……今うちに住んでる。…………住み込みの家政婦として」
 白耀は目を点にしたまましばらく惚けた様に固まり、そして程なく乾いた笑みを漏らし始めた。
「はっ……ハハハハハ……ご冗談を……どうして菖蒲が月彦さんの家に……」
「いや、俺にもその経緯はよくわからないんだ。なんでもうちの母さんと知り合いだったとかで、旅行で留守にする間俺と真央の面倒を菖蒲さんに頼んだとかなんとか……」
「……本当、なのですか?」
「嘘をつくためにわざわざここまで来たりはしないぞ? さらに付け加えるなら……なんつーかその……菖蒲さんの事で俺と真央は地味に迷惑を被ってる。……いや、家事をちゃんとやってくれないとかじゃなくてだな……邪魔をするんだよ、俺と真央の事を」
「月彦さんと真央さんの仲を邪魔……ですか?」
「ああ。そういうわけで菖蒲さんが家に居ると真央とイチャつけないから、出来れば早々に白耀に引き取ってもらえると助かるんだが」
「…………しかし……」
「勿論お前の言い分も解ってる。自分で追い出した手前、戻ってこいとは言いづらいだろう。……だから俺から頼む、どうか菖蒲さんを引き取ってくれ」
 そう言って、月彦は軽く頭まで下げた。勿論、これはある種の方便だ。確かに菖蒲の存在には迷惑していて、出来れば今夜にでも白耀に引き取ってもらいたいというのは本音ではある。が、ただ白耀に引き取りに来いと言ったところで難色を示すであろうことは今までの話の流れから確実だった。
 だが、ここに『月彦さんからの強い要請があったから』という大義名分が追加されれば事情は変わる。少なくとも菖蒲を追い出したと言い張る白耀自身、不本意ながらもそういうわけであるから屋敷に帰ってこいと切り出しやすい筈だった。
「……そんな、頭を上げて下さい。…………わかりました、元はといえば僕達の犯した不始末。責任をもって僕が菖蒲を引き取りに行きます」
「そうか、そうしてもらえると助かる。早速今から来てくれるか?」
「はい。そのようにご迷惑をおかけしているというのであれば、一刻も早く伺いたいですから。……着替えて参りますので少しだけ待って頂けますか?」
「ああ、先に門の方に行って待ってる」
 白耀が屋敷の奥へと消えていくのを見送り、月彦は言葉の通りに先に門へと移動する。これで何もかも万事解決だと、そう胸をなで下ろしながら。



 

 白耀と二人、帰路についたものの紺崎邸が近づくにつれてその挙動は徐々に変化し始めた。
「……どうした? 腹でも痛いのか?」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
 真田邸を出たばかりの頃はむしろ早足であり、一刻も早く駆けつけたいといった様子であったのが、電車を降りて紺崎邸が近づくにつれ重しでもつけられたかのように白耀の歩みは遅くなってしまっていた。その上時折立ち止まっては何かを躊躇うような顔をして、また歩き出しては止まるという事を繰り返されては、残りの道程は遅々として縮まらない。
「あの、月彦さん……菖蒲は、どんな感じでした?」
「どんな……って……普通だったかな。いつも通り」
「そ、そうですか……いつも通り、でしたか」
 ホッと安堵したような笑みを見せるが、その実顔面蒼白であり、冬の最中だというのにだくだくと冷や汗をかいている様はどう見ても尋常の様子ではなかった。
「……白耀、大丈夫か?」
「え、えぇ……全然大丈夫です。ちょっと熱っぽいようなそうじゃないような……悪寒があるような気がするだけで、全然大丈夫です」
 端から見ている分には全く大丈夫そうに見えないのだが、全身を不自然に震わせながらもそれでも前に進もうとしているその気概だけは見上げたものだと月彦は思う。
(……あとは、菖蒲さんを巧く説得できればいいんだが)
 紺崎邸に近づくにつれてみるみる体調が悪化してく白耀をなんとか励ましながら、漸く玄関の前までたどり着いたときにはすっかり日が暮れてしまっていた。
「ただいまー」
 ガクブル状態の白耀に比べれば、月彦はなんとも気楽なものだった。いつも通りにドアを開け、玄関へと入る。それを予期していたかのように、玄関マットの上には従者が待ちかまえていて、ぺこりと辞儀をした。
「おかえりなさいませ、月彦さま」
「あ、菖蒲っ!」
 そして月彦に遅れること数秒、白耀もまた玄関内へと入ってくるなり声を上げる。無表情な従者がぴくりと、微かに柳眉を動かした。
「お久しぶりでございます、白耀さま」
 普段通りの、抑揚のない声でさらりと返され、白耀がうぐりと言葉に詰まる。そのまましばし月彦は二人の動向を興味深く見守っていたが、どちらも互いをじっと見つめ合うばかりでただただ時間だけが経過するのみだった。
「あー……菖蒲さん、なんか白耀が話があるらしいんだけど」
 仕方なく月彦は水を向けてみるが、菖蒲はといえば不思議そうに小首を傾げただけだった。
「話、でございますか?」
「ああ、ほら……白耀?」
 完全にヘビに睨まれたカエル状態になってしまっている白耀の背中をばむと叩き、一歩前へと進ませる。
「っと……その、何だ……菖蒲――」
「どういった御用件でしょうか?」
 まるで白耀の言葉を切るようなタイミングで発せられた言葉は凛としていて、端で聞いていた月彦ですら冷気を感じさせられた。ましてや、面と向かって放たれた白耀には吹雪かなにかのように思えた事だろう。
「っ……き、聞いたぞ。何でも随分と月彦さんに迷惑をかけてるらしいじゃないか」
「えっ……」
 と、つい漏らしてしまったのは月彦だ。忽ち、菖蒲の冷凍光線が如き視線が白耀から月彦の方へと向きが変わる。
(ちょっ……白耀、そりゃねーだろ!)
 確かに迷惑しているとは言った。言ったが、それをバラすのはルール違反ではないのか。
「……そんなにご迷惑なのですか?」
「い、いや……別にそこまでじゃないっていうか……は、白耀!」
 俺に振るな!と月彦は目で訴えるが、伝わったかどうかは怪しかった。
「ほ、本当は顔だって二度と見たくなかった……けどな、君が真央さんとの仲を邪魔するから連れ戻して欲しいと頼まれたんだ。だから、今日は仕方なく――」
「はぁ、月彦さまがそのような事を……」
 ジトリ、と。冷たさを通り越して痛みすら感じるほどの視線を向けられ、月彦はつい顔を背けてしまった。
(は、白耀の奴……なんて卑怯な……これじゃあまるで俺が告げ口したみたいじゃないか!)
 告げ口と言われれば確かにそうなのだが、それにしてもな言いぐさに改めて月彦の中で『妖狐は卑怯な連中』という情報がインプットされた。
「と、とにかく……そういう事情だから、僕としては大変不本意ではあるが、君がどうしても帰ってきたいというのであれば――」
「お断り致します」
 凛とした声が、白耀の言葉を遮った。
 えっ、という声が月彦の口と、白耀の口から同時に漏れた。
「他に御用がなければ、失礼させて頂きます。夕飯の支度がありますので」
「あっ、ちょっ……」
「あ、菖蒲っ!」
 二人して手を伸ばした先――ぱたぱたと足音を立てて台所へと向かう従者の背が、ぴたりと止まった。
「……まだ、何か?」
 ちらりと、上半身半分だけで振り返った菖蒲の目は如実に語っていた。そう、「これが最後のチャンスです」と。かつて真央に家出をされ、その連れ戻しに四苦八苦した月彦には解る、最後の一線――。
(……白耀、謝るんだ。ここはとにかく頭を下げろ!)
 月彦には詳細は解らない。解らないが、とにもかくにもここは頭を下げるべきだ。そして菖蒲を無事連れ帰ってくれ――祈るような気持ちで月彦は白耀を見た。
 しかし、どうやら月彦の側の鈍感男にはそういった機微は察する事が出来ないらしかった。
「さ、さっきも言っただろう! 君がここに居ると月彦さんに迷惑がかかるんだ! だから――」
「月彦さまに迷惑だと申されましても、既に葛葉様と契約を交わしてしまった以上、勝手に持ち場を離れるわけには参りません。それに――」
 ちらりと、菖蒲は一瞬だけ月彦に目をやる。
「もし月彦さまが真央さまとの事を邪魔する対価を払え、と仰るのでしたら、私には応じる覚悟も満足して頂ける自信も御座います。…………“どなたか”と違って、月彦さまは随分とそちらの方もお強いみたいですから、私としても吝かでは御座いません」
「…………な、んだと…………い、言うじゃないか、菖蒲……?」
 ぴしりと。菖蒲と白耀との間に何か致命的な亀裂のようなものが走る音が、月彦にはハッキリと聞こえた。
「なっ、ちょ……白耀も……菖蒲さんも……落ち着いて……」
 ゴゴゴゴゴ――そんな擬音が聞こえてきそうな二人の間での板挟み。二人とも落ち着いて――その言葉はかすれてしまって声にならなかった。
「……君がそういうつもりなら、僕としても……い、異論はない。……せいぜい月彦さんに可愛がってもらうといい」
「はい。精一杯可愛がって頂ける様、誠心誠意お仕えする所存です。…………長らくお世話になりました」
 ぺこり、と菖蒲は深々と辞儀をして、そしてそのまま台所へと消えた。
「ば、バカか白耀! 菖蒲さんを連れ戻すんじゃなかったのか!?」
「……ハハハハハ……さすがにあそこまで帰りたくないというのを無理に連れ戻す事なんて出来ませんよ。そういうわけですから、どうか菖蒲をよろしくお願いします」
 白耀は紙切れのように笑うと、そのままふらふらとエリマキトカゲのような足取りで玄関から出てしまった。
 ただ一人玄関に残された月彦はただただ天井を仰ぎ、そして深くため息をついた。


 その日の夕食は、月彦にとってはまるで針のむしろに座っているかのようだった。菖蒲は菖蒲で「迷惑している」と白耀に告げ口したことを根に持っているのか、何かと言葉の端々にトゲのようなものが含まれているし、真央は真央で「あの人には帰って貰うんじゃなかったの?」と言いたげな目で終始ご機嫌斜めだった。
(……これは、何とか攻め方を変えるべきか)
 白耀のあの様子では、再び訪ねて菖蒲を連れ戻す様説得しても無駄だろう。ならば逆に菖蒲の方に折れさせるしかないのではなかろうか。
「……あの、菖蒲さん。ちょっといいかな?」
 入浴の順番を先に真央に譲り、丁度菖蒲が洗い物を終えた所で月彦は一か八か切り出してみる事にした。
「……何か御用でしょうか?」
「用……っていうか、ほんと、話だけなんだけど………………どうしても気になっちゃって。………………白耀と何があったの?」
 これを聞かねば始まらないと、月彦としては意を決しての質問であったのだが菖蒲は一瞬不快そうに眉を寄せただけですぐに無表情に戻った。
「特に何も」
「何もないって事はないだろ? あれだけ白耀と仲良かったじゃないか。……それなのに――」
「それは、私事やその他プライベートに関する事も全て報告をせよというご命令でしょうか?」
「いや、そうじゃなくて……」
 ああ、やっぱり敵視されてるのかなと、月彦は少しばかりくじけそうになった。一体全体何の因果でこんな喧嘩の仲裁をやらねばならないのかと、己の運命を嘆きたくなる。
「何か俺に力になれることはないかな、って思ってさ。菖蒲さんと白耀が喧嘩の真っ最中っていうのは何となく解るんだけど、その原因がわからなきゃ力になりようもないし」
「……力になって欲しいと頼んだ覚えは御座いません」
 つーんと、まるでそっぽを向くような口調で言われ、さすがの月彦も堪忍袋の緒がぶちぶちと音を立て始めるのを悟った。
(喧嘩をするなら、二人だけで、俺や真央を挟まずにやれって……そう怒鳴りつけてやろうか)
 そう、怒鳴りつけてやりたいのは山々だが、月彦には負い目があった。かつて真央が家出をした際、同じように白耀や菖蒲を巻き込んでしまったという先例があるから、あまり強くは出られないのだった。
「そんなこと言わずにさ。…………あんまり意地張ってると、白耀が新しいメイドさん雇っちまって本当に帰るところがなくなるかもしれないよ?」
「…………………………!」
 この言葉には些か効果があったらしく、菖蒲は一瞬目を見開くようなそぶりを見せた。が、すぐに優しげな――そしてどこか悪意のある笑みを零した。
「その場合、葛葉様にお願いしてこの家の専属メイドとして雇って頂きます。勿論、無理にお願いするわけですから、お給金など一切頂かなくて結構です。ただ、三度の食事と粗末でも個室を頂ければ、それだけで私は満足で御座います」
「……専属メイド……って……んなアホな……」
 給金はいらない、ただ自分の部屋と三度の食事さえあればいい――本来ならばそれはメイドを雇う上で破格の条件なのであろうが、月彦にしてみればたちの悪い脅迫者に弱みを握られるに等しい条件だった。そんな事になれば間違いなく真央の不満は爆発し、良い子に育てよう計画は完全に破綻してしまうことだろう。
(…………どう考えても、俺に何とかしろって……遠回しに言ってるよな……)
 そういう風に切り出せば、自分が嫌がるであろうことを見越して言っているとしか思えなかった。そのくせいざ解決に手を貸してやるから事情を説明しろと言っても聞いてもらえないのだから始末が悪い。
「……あ、菖蒲さん……お願いだからほんと、事情だけでも教えてもらえないかな。……喧嘩の原因は何だったの?」
 やむなく、月彦は思い切り下手に出てみる事にした。ほとんど泣きそうな声で、あるのかどうかも怪しい菖蒲の憐憫の情に一縷の望みをかけて。
「………………………………些細な事で御座います。人様にお話するような事では御座いません」
 その甲斐があってか、漸くにして菖蒲の口から自体解決の糸口となりそうな言葉を聞く事が出来た。
「そんな事言わず、教えて欲しい。大丈夫、白耀以外には誰にも絶対に言わないから」
 月彦は誠心誠意頼み込んだ。まっすぐに菖蒲を見つめ、その視線の中に様々な思いを込めた。今まで散々白耀との仲を取り持とうとしてきた俺を信用してくれと言わんばかりに。
 しかし菖蒲はそれきり口を噤んでしまった。たっぷり五分ほど黙り続け、そろそろ真央が風呂から上がってくるんじゃなかろうかと、月彦が半ばハラハラし始めた頃になって漸く、ぽつりと漏らした。
「………………原因は、秋刀魚の腸……で御座います」
「秋刀魚の腸……?」
 はてな、そんなものが大喧嘩の原因になりうるのだろうかと、月彦は小首を傾げた。
「……私は、魚類に限らず、“腸”が無二の好物なので御座います。あの何とも言えないほろ苦さと血の味が堪らなく好きなのです」
「ふむふむ」
「しかし、白耀さまは逆にそういったものを全くお召し上がりになられません。それどころか、まだ私がお仕えしたばかりの頃、川魚の臓腑を食らう所を見咎められてそれきり食することを禁じられました。それ以来、私も堅く己を律し、白耀さまにお仕えする以上決して口にはするまいと誓ってはいたのですが……」
「……破ってしまった、とか?」
 はい、と菖蒲はそのことを心底恥じるかのように耳まで萎れさせ、こくりと頷く。
「先日、料亭の方でお得意様の新年会が催されまして、その際の料理に秋刀魚が使われたのです。秋刀魚は旬を外しているのですが、そのお得意様からの是非にという要望で白様さまが手を尽くして手に入れられた、この季節に手に入るものでは極上の秋刀魚でした。その腸があまりに美味しそうで、つい……」
「食べてしまった、と」
 はい、と菖蒲は僅かに顎を上下させる。
「その様子を白耀さまに見咎められてしまって……きつい叱責を受けているうちに……その……」
「…………なるほどなぁ。話してくれてありがとう、菖蒲さん。……とりあえずこれだけは言える、菖蒲さんは悪くない!」
「……………………月彦さまもそう思われますか?」
「ああ。間違いなく白耀が悪い!」
 珍しく不安げな目で見てくる菖蒲に、月彦は力強く頷き返した。喧嘩の原因がまさか食べ物の好き嫌いであるとは夢にも思わなかったが、菖蒲の語った通りだとするならば悪いのは間違いなく白耀の方に違いがない。
「いくら主従の関係だからって、大好きなものを食べるなと命令する権利なんか無い筈だ。しかも菖蒲さんはずっと我慢してて、たった一回我慢しきれなくて食べてしまっただけなのに、そんなにきつく叱るのはどうかと思う」
「月彦さま……」
 菖蒲の瞳に、いつもの無感情のそれとは違う、確かな感情の動きを見て、これはチャンスだと月彦は判断した。そう、この鉄面皮の従者と普通に会話が出来、冗談を飛ばしあえるようなそんな関係へとステップアップできる絶好の機会だと。
「全く、そんな事で喧嘩した挙げ句、菖蒲さんを追い出すなんてな。男の風上にも置けないやつだ。……男だったら、惚れた女性に自分の好みを合わせるくらいの甲斐性を――」
 と、そこまで口にした所ではたと、月彦の舌の動きが止まった。何故ならば、眼前にある菖蒲の手の爪が――洗い物を終えたばかりで、手袋をつけていない――しゃきんと、まるで威嚇するように鋭く伸びたからだ。
「月彦さま、あまり白耀さまのことを悪く言わないで頂けますか?」
「あっ……はい…………すみませんでした」
 鋭く尖った爪をチラつかされながらにっこりと微笑みかけられ、月彦は即座に謝ってしまった。仄かな希望は音もなく砕け散り、顔を青ざめさせながら、月彦は“人外”とのコミュニケーションの難しさを噛みしめるのだった。


 翌日の昼休み、月彦はまたしてもムラムラMAXの真央の相手をしての放課後、同じように白耀の屋敷へと赴いた。理由は勿論白耀に「お前が折れるべきだ!」と説得をする為だったのだが――
「バカな……悪いのは僕じゃない、菖蒲の方です!」
 しかし、先日と同じように応接室――まだ散らかりっぱなしなのだが――へと通され、白耀を説得しようと、菖蒲に事情を聞いた切りだした矢先の事だった。
「いいや、お前の方が悪い! 食べ物の好き嫌いくらい、自由にさせるべきだ」
「確かに、月彦さんの仰るとおりです。現に、秋刀魚の腸を食べた件で菖蒲を問いつめもしました……しかし」
「しかし?」
「いくらなんでも、たったそれだけの事で僕はあそこまで問いつめたりはしません!」
「…………あそこまで、ってのが俺には解らないんだが」
 確かに白耀の言うとおり、変ではないかと月彦も感じた。この温厚が服を着ているような男が、ただ食べるなと命じたものを食べたというだけで、従者が家出するほと激しく問いつめるだろうか。
「……つまり、他にも“原因”があったってことか?」
「いえ……きっかけは確かに秋刀魚の腸の一件です。……ただ――」
「ただ……?」
「菖蒲が約束を破ったのは、それが初めてではないんです」
「え……?」
「以前にも似た様な事があったんです。それも一度や二度じゃありません。そのたびに菖蒲はもう二度と口にしないと誓うのですが……」
「ちょっとまて、なんか俺が聞いた話と大分違うんだが……」
 ずっと我慢に我慢を重ねていて、それでつい我慢しきれなくなって口にしてしまった――という話ではなかったのだろうか?
「それに僕も、最初は確かにそんなもの二度と口にするなと命じましたが……どうやら菖蒲にとって本当に好物らしいと解ってからは、食べたければ食べてもいいと言いました。でも菖蒲はあくまで僕の最初の言いつけを守ると言い張り、表向きは口にしないと公言しつつ……その実隠れて食べ続けていたんです」
「…………ってー事は、もしかして今回の大喧嘩は……」
「はい……恥ずかしながら、何度言っても再犯が止まらない事に堪忍袋の緒が切れてしまって……繰り返しますけど、食べたいのなら堂々と食べてくれれば何も言わないんです。もう食べませんと言っておいて、その実隠れて食べているのが許せなかったんです」
「……そりゃあ、確かに怒りたくもなる……かな……」
 白耀の言いたい事はよく解る。確かに堂々と食べればさして気にも障らないのだろうが、食べないと誓っておいて隠れて食べられては、しかもそれを何度も繰り返されては怒鳴りたくもなるというものだ。
「……しかも、今回はあろう事か……お客様にお出しする秋刀魚の腸にまで手をつける始末で……同じく秋刀魚の腸が好物だというお客様から、腸が入っていないと苦情を受け、調べてみたところ菖蒲が調理の過程でつまみ食いをしていたことが発覚したんです。それで、さすがに僕もこれはきつく叱らなければと思って……菖蒲も、初めは僕の言葉を黙って聞いていたのですが…………途中から突然物に当たり始めて……この有様です」
「…………話を聞く限り、悪いのは99%菖蒲さんで、しかも叱られて逆ギレして家出したという風にしか聞こえないんだが……」
 頭痛にも近いものを感じて、月彦は頭を抱えた。
(なんてこった……白耀が言ってる事が本当なら、話はまるで変わってくるじゃないか)
 否、“本当なら”ではない。恐らくは白耀の言い分こそ真実なのだ。何故なら菖蒲の行動はなんとも“猫らしい”と納得してしまうからだ。
(猫を叱る時は、普通に叱っちゃダメって、そういや昔母さんが言ってたなぁ)
 悪さをした猫を叱れば、猫は“人が居たから怒られた”と思いこむ。その後は確かに人が見ている所では悪さはしないが、人の目が無くなればたちまち同じ事を繰り返す――と。
 それを防ぐ最も簡単な方式が天罰方式という叱り方なのだが、それは今回の事に関しては関係がない。
「……なんつーか……その、悪かったな、白耀。頭ごなしにお前が悪いなんて言っちまって……やっぱり言い分って両方からちゃんと聞かないとダメだよな」
「良いんです……確かに僕も大人気ありませんでしたから」
「そうか……解ってくれたか。……じゃあ、改めて菖蒲さんを連れ戻しに行ってくれるよな?」
「いえ、それとこれとは話が別ですから」
 へ?、と。月彦は危うくソファに座っているというのに転びそうになってしまった。
「悪いのは菖蒲の方です。菖蒲が自分から頭を下げてくるまで、僕の方から謝る筋合いはありません」
「待て待て待て、確かに白耀の言う事にも一理あるけどな? こういうときはやっぱり男の方が折れるものなんだぞ? 現にほら、俺と真央の時だって、俺の方が真央を連れ戻しに行ったろ?」
「それは月彦さんと真央さんの場合ではそうなのかもしれませんが、僕と菖蒲のことはまた別です。僕達は仮にも主従です。それなのに主である僕が非もないのに軽々しく部下に頭を下げていては規律が保てません」
 きっぱり、とさも決意は固いと言いたげな白耀の口調だがその実、ティーカップを持つ手は――今日は湯飲みではなく、ティーカップでのお茶を出された――小刻みに震え睡眠不足の証である目の下のクマは昨日よりも濃くなっている。どこからどう見てもやせ我慢なのだが、どうしても自分から頭を下げる気だけは無いらしい。
「昨日、改めて菖蒲と顔を合わせて決意が固まりました。菖蒲が頭を下げないうちは、二度と僕の屋敷の敷居は跨がせません」
「白耀…………それじゃあ菖蒲さんは本当に二度と戻ってこないかもしれないぞ?」
 かくなる上は、今ですら不安で夜も眠れないであろう白耀の不安をさらに焚きつけ、限界を超えさせるしかないかもしれない。
「昨日あの後菖蒲さんと少し話をしたんだけどな、このままうちに住み込んでも構わないとか言ってたぞ? 給金も何もいらないから、このまま置いて欲しいって」
「…………へぇぇ…………い、いいじゃないですか…………僕も厄介払いが出来て嬉しい限りですよ」
 ティーカップを持つ手をぶるぶる震わせ、下皿とかちゃかちゃ言わせながらも、白耀は痛々しいまでに平生を装っていた。
「白耀、俺も若い男だ。一応真央というパートナーがいるとはいえ、お前が知っての通り菖蒲さんもあの通り美人だ。一つ屋根の下で何日も一緒に過ごせば、間違いが起こらないとも限らないんだぞ? 菖蒲さんだって、随分長いこと独り身なんだ。たまには一人で眠るベッドが広く感じる事もあるだろう。そんなとき、側に若い男が居たらフラフラ〜っと靡いてしまう事だって無くは無いと思わないか?」
「はっ……はははははっ……そ、そそそうなったら……そうなったで……なるようにしかなりませんよ……そもそも、僕と菖蒲は……べべべべべ別に恋人同士とか、そういうんじゃないですから……ほ、他の誰と何をしようが……ぼ、ぼぼぼ僕に止めるけけけけけ権利は……」
 ティーカップを持つ右手と、下皿を持つ左手の両方がぶるぶると震え、飲みかけの紅茶が溢れてテーブルにまで零れてしまっているが、それすら気がついていないのか気にもとまらないのか。
(白耀……そんなに意地を張る意味はあるのか?)
 最早哀れみすら感じて、月彦は憐憫の眼差しで白耀を見る。白耀は漸くにしてほとんどお茶の残っていないティーカップと下皿をテーブルの上に置き、懐紙を取り出して両手をフキフキするや、はたと。なにやら思いだしたと言わんばかり顔を上げた。
「ああ……そ、そうです……月彦さん、……あ、菖蒲と一緒に暮らされるなら一つ届け物を頼まれてはいただけないでしょうか」
「届け物? 着替えとかか?」
 さすがにそれはマズイのではないだろうかと月彦が思っていると、一足先に席を立った白耀が持ってきたのは白い和紙に包まれた一升瓶のようだった。
「以前、桜舜院殿にいただいたものなのですが、これも菖蒲の好物なんです。是非渡してやってください」
「春菜さんからの……? これは……酒……か?」
「はい。マタタビのお酒らしいのですが、今年のは特に出来が良いからと。妖猫の娘は例外なく好物なのだそうで」
「なるほどなぁ……俺も飲んだことあるけど、確かにアレは美味い酒だった。マタタビ酒なら、菖蒲さんも特に好きそうだな」
「ええ、それはもう。菖蒲は本当にこれに目が無くって、狂った様に飛びつく筈ですよ」
「そんなにか。……まあ、猫はマタタビが大好きだからなぁ」
 どうせなら、この酒を土産に仲直りをすればいいのにと思うも、それが出来ないから意地をはっているのだろう。
(しょうがない。ここは一発、俺が代わりに謝っておいてやるか)
 和紙包みの一升瓶を受け取りながら、うむりと月彦は頷く。
 そう、月彦はこのとき、完全に失念していたのだった。いかに温厚な好青年とはいえ、白耀は紛れもなく妖狐――しかも、“あの女”の息子だという事を。あれほど挙動不審っていた白耀が、突然人が変わった様に冷静さを取り戻し、マタタビ酒を持ってきた事の本当の意味に気がつくべきだったのだ。
「解った、そういうことならまかしとけ。間違いなく菖蒲さんに渡しとくからな」
「ええ、お願いします。……さようなら、月彦さん」
「おう、またな。白耀」
 白耀に見送られて、月彦は意気揚々と真田邸を後にするのだった。



 
 

「ただい……」
「おかえりなさいませ」
 玄関のドアを開けた瞬間、言葉を遮る様に辞儀をしてきたのは当然ながら猫耳の従者だった。が、月彦が一人であると見るや否や、その目から急激に輝きが失われた。
(………………今、露骨にガッカリしたな)
 恐らくは、帰宅時間からみて昨日同様白耀を連れてくると期待されていたのではないだろうか。そうではないと解るやいなや小さくため息までついて、菖蒲はくるりときびすを返し、台所へと戻っていく。
(…………そんなに帰りたいなら帰ればいいのに)
 と、つい思ってしまうのだが口には出しにくい。なんと言ってもこちらのほうが先に迷惑をかけてしまったという負い目がある。多少の事は我慢せねばならないのだ。
「ああ、そうだ……菖蒲さん。今日の帰り、白耀の所によってきたよ」
 ピタリと、従者が足を止める。
「それで、白耀からいろいろ話を聞いたんだけど……どうも菖蒲さんに聞いた話と大分違ってるみたいなんだけど……」
「…………どの辺りが、でございますか?」
 くるりと、菖蒲が再び月彦の方へと向き直る。その瞳がキュピーンと怪しげに光るのを見て、月彦は俄に気圧された。
「ま、まぁ……とりあえず立ち話もなんだから台所にでも行って話そうか」
 月彦は靴を脱ぎ、台所へと行くと菖蒲とテーブルを挟む形で椅子に座る。こほん、とわざとらしく咳払いをしてから早速に本題を切り出す事にした。
「それで、話の続きなんだけど…………菖蒲さんの話だと、つまみ食いをしたのは今回の喧嘩の時が初めて、っていう感じだったけど、実際は違うのかな?」
「それが初犯だった、とは申し上げた記憶はございませんが」
「……なるほど、確かに勝手に俺が勘違いしてたみたいだ。……さらに言うなら、白耀も最初はダメだって言ったけど、そんなに食べたいなら別に我慢しなくてもいいって言ってたらしいけど」
「その通りでございます」
「………………。」
 けろりと、真顔のまま答える菖蒲を前にして、月彦は軽い頭痛を覚えた。
「……つまり、食べたいなら別に食べてもいいって言われてるのに、食べないって言っておきながら盗み食いしてた……わけなんだよね?」
「……悪意のある言い方をすれば、そのようにとられるかもしれません」
 何処が悪意だよ、と月彦は喉まで出かかるが、必死に言葉を飲み込んだ。
「ただ……やはり違うのです。食べても良いと言われているものを食すのと、禁止されているものを食すのでは、噛みしめたときのあのほろ苦さの響きがまるで変わってくるのです」
「……ダメだって言われてるものを食べた時の方が美味しいって事かな?」
「左様でございます」
「………………。」
 月彦は頭痛がますます酷くなるのを感じた。
「…………白耀は、客に出す秋刀魚もつまみ食いされたって言ってたけど」
「……まさかお客様も腸が目当てだったとは存じませんでしたので……その件については少々心苦しく思っております」
「……………………今までの話をまとめると、やっぱり悪いのは菖蒲さんのほうなんじゃないかな?」
 月彦は恐る恐る切りだしたが、当の菖蒲はといえば無表情の中どこかきょとんとした目をしていた。そう、まさに悪さをした猫を叱りつけた時のような、「なんでこの人は怒ってるんだろう?」とでも言いたそうな罪の自覚の全くなさそうな顔だ。
(…………厳格貞淑で仕事の出来るメイドさんだとばかり思ってたら……中身は悪戯猫と同じじゃないか)
 やはり、猫はどこまでいっても猫なのかもしれない。そう、“あの女”がどこまでも性悪狐である事と同じなように。
「食べないと誓っているものを食べ続け、さらに客に出す予定の秋刀魚の腸まで勝手に食べてしまったんじゃ、さすがの白耀でも怒ると思うんだけど……」
「はい、それはもう……きつく叱られました」
「それで……家出しちゃった……ということかな?」
「結論だけ申し上げればそういうことになるのですが……ただ……屋敷を出てしまったのは……半分は成り行きでございます」
「どういう事?」
「私は、その……あまりきつい言葉で叱られると……我を忘れてしまうことがあるのです。頭がカッとなって、つい大暴れをしてしまうことが」
「………………。」
「今回はそれが少々いきすぎてしまって……正気に戻った時には部屋も、白耀さまの大事なコレクションもメチャクチャになってしまってました。居たたまれなくなってお屋敷を飛び出した先で……偶然葛葉様にお会いしたのでございます」
「母さんに……?」
 それは本当に偶然なのだろうか、と月彦はつい疑ってしまった。
「はい。前にも申し上げました通り、面識自体は既にありましたので、私は事の顛末をお話して、葛葉様に助言を頂いたのです」
「………………なんか聞くのが怖い気がするけど、母さんはなんて?」
「男と喧嘩した時は、絶対にこちらから頭を下げてはいけない。とにかく強気に出ていればそのうち男が勝手に頭を下げてくるから、そうすれば全ては丸く収まる、と」
「……母さん………それは……………」
「仮にも結婚をされ、二人も子を産まれた方の言葉ですから、私もそういうものなのかと納得した次第です。そして、行き先に困っているのならうちで子供の面倒を見てほしいと仰られたので……」
「……なるほど、事情はよくわかったよ」
 ふう、と月彦は大きくため息をつく。今度こそ菖蒲の言葉が本当であるとするならば、今回のいざこざの原因の三割ほどは葛葉の余計な助言のせいではないか。
(……そりゃあ、確かに父さんとはそれでうまくいったのかもしれないけど……)
 それが全てのカップルに当てはまると思うのはいかがなものだろうか。そのせいであの人の良い親友は人相が変わるほどに窶れてしまっているのだと思うと気の毒でならなかった。
(ていうか、母さん……俺が妙子と喧嘩したときは、すぐに謝れって言ってたよな……)
 あれはつまり、男女間の喧嘩はすべからく男が頭を下げれば丸く収まると思っているという事なのだろうか。
(いや、母さんの事だから……案外……)
 丁度旅行で家を空ける予定があり、その間の子守をどうしようか悩んでいた矢先、菖蒲に相談を持ちかけられたから適当にデマカセを言って、体よく子守に据えてしまった可能性も決して否定できないと、月彦は思った。
「……あのさ、菖蒲さん。確かに母さんが言った事もある意味では真実なんだろうけど……それでもやっぱり白耀には菖蒲さんのほうから素直に謝った方がいいと思うよ」
「…………葛葉様が仰った事は間違いだと?」
「まるきり間違いってわけじゃないよ。だけどやっぱり、悪いことをしたと思った時は素直に謝った方がいいと思う。そうすれば白耀の方だって、僕も言葉が過ぎた、って謝ってくれるだろうし」
「…………そういう、ものなのでしょうか」
 菖蒲は戸惑うように僅かに瞳を揺らす。
(そういうものも何も、それが至極当たり前の発想だと思うんだけど……)
 しかし、その当たり前こそが菖蒲にとっては当たり前ではないのかもしれない。とはいえ、“説得”に仄かな手応えを感じるのも事実だった。後何か一つ、後押しができれば――。
「ああ、そうだ」
 ここにいたって、月彦は帰り際白耀に持たされた土産の事を思い出した。
「白耀の家に寄った時に、菖蒲さんに渡して欲しいってお土産渡されたんだった」
「白耀さまが……私に、ですか?」
 憮然とした顔のままではあるが、瞳の奥にきらりとした輝きが宿っていた。喧嘩の最中とはいえ、恋いこがれた相手からの贈り物であれば当然の反応だと月彦は思った。
「これなんだけど、春菜さんに貰ったマタタビ酒だって。菖蒲さんの大好物だから、って……聞いた…………んだけど………………?」
 しかし、和紙包みの酒瓶をテーブルの上に出した途端、菖蒲は突然怯えるように上体を引いた。当然、酒瓶を受け取ろうとはせず、まるで汚物でも見るような目で睨み付けてくる。
「……白耀さまが、本当にこれを……私に、と?」
「そう聞いたけど……?」
 はて、おかしいな……こんな反応が返ってくる筈では――想定とはあまりに違う菖蒲の反応に、月彦もまた首を捻る。
「…………左様でございますか、白耀さまのお気持ちはよく解りました」
 がたりと。大げさな音を立てて菖蒲が椅子から立ち上がる。
「あっ……ちょっと……菖蒲さん?」
「白耀さまがそういうおつもりなら、私の方も考えがあります。…………こちらから頭を下げて戻るなんて、絶対にお断り致します」
「えっ、あの……菖蒲さん?」
 それは俺が困る!――という月彦の最後の言葉が届いたのかどうか。菖蒲はぷいと背を向けるとそのまま自分が寝起きしている葛葉の部屋へと引きこもってしまった。
「…………っかしいな……大好物じゃなかったのか……?」
 月彦はやむなく酒瓶を抱えたまま渋々二階の部屋へと戻った。酒瓶を机の上に置き、その隣に荷物も置く。部屋着に着替えようとして漸く月彦はじぃぃと、愛娘の自分を見る視線に気がついた。
「な、なんだ真央……先に帰ってたのか」
 だったら声くらいかけてくれればいいのにと、制服のまま着替えもせずにベッドの上で体育座りをし、無言の圧力を向けてくる真央に微笑みかける。
「…………ねぇ、父さま……まだあの人追い払えないの?」
「……そう言うな。……一応俺だってがんばってるんだ」
「うん……解ってる。……解ってるけど………………私、あの人嫌い」
「………………ま、まぁ……確かに扱いにくい感じの人ではあるな」
 その時、はたと脳裏に浮かんだのは姉の顔だった。もし、霧亜が入院中ではなく家に居たら、菖蒲の事はどう対処しただろうか。
(…………菖蒲さんが相手でも、姉ちゃんなら、或いは)
 ひょっとしたらいつものごとく容易く手込めにしてしまうのではないかという期待と、さすがの姉でもアレは無理ではないかという現実的な予測とがない交ぜになり、最終的にそもそも姉が家に居れば葛葉は家政婦など雇わなかっただろうという結論に達した。
(…………別に、姉ちゃんが居たからって、母さんみたいに家事やってくれるわけじゃないんだが)
 むしろ、全くやらないと言っても過言ではない。月彦が覚えている限り、姉が家事はおろか料理をやっている所すら記憶にない。しかしそれでも、霧亜が家に居るというだけで葛葉は安心をするらしいという事はこれまでの経験から判断できる事だった。
(…………そういや、最近姉ちゃんの見舞いにも行ってないな)
 着替えなどは葛葉が定期的に持って行っている筈なのだが、月彦自身の足は遠のいていた。
(…………姉ちゃん、確か日本酒とか結構好きだったよな。菖蒲さんが要らないっていうのなら持っていってみるか)
 さすがに捨てるのはもったいなく、白耀に返すというのもまたよからぬ波乱を呼びそうで気が引ける。だったら姉への見舞いにでもしようかと――怪我人に酒の見舞いというのがはたして倫理的にどうなのかという懸念はさておき――月彦は思った。もし姉が要らないというのであれば、その時は酒好きの姉妹のどちらかにあげればいい。先にそちらの方にもっていこうという気にならないのは、あの二人に酒を持って会いに行くというのはカモネギになる可能性がきわめて高いからだった。
「……父さま?」
「ああ、悪い。……ちょっとぼーっとしてた。…………まあ、最悪でももうじき母さんが帰ってくるさ。そうなったら……な?」
 真央の髪を撫でながら、月彦は諭すように言い含める。
「それに……我慢した後のほうが…………燃えるだろ?」
 毎日昼休みに隠れてこっそり犯っておいて我慢もなにもないのだが、それくらいではこの貪欲な愛娘は全く満足出来ない事も月彦は知っていた。
(…………とにかく、夕飯の後にでも、もう一回説得してみるか)
 うすうす徒労に終わるであろう事を悟りながらも、月彦には他に手だてがないのだった。


 その日の夕食は、とても不思議な味のする料理が目白押しだった。恐らく当初の予定ではハンバーグと添え物としてにんじんとアスパラガスのバター焼き。ポテトサラダと千切りキャベツ、デザートに杏仁豆腐という献立だったのだろう。しかし、実際に食卓に並んだのはどれも原型を留めていない料理ばかりだった。
 ハンバーグらしきものには何故かポテトサラダが混入し、しかも食べてみると味は完全にアスパラガスという摩訶不思議な料理となっていた。千切りキャベツは無駄にクジャクの様な形へとまとめ上げられ、食べるのが惜しい程に美しいオブジェクトにされてしまっているし、デザートの杏仁豆腐は杏仁豆腐味のジャガバターと化してしまっていた。
 それだけちぐはぐの料理であるのに、食べられないほど不味いわけではないのはそれだけ菖蒲の料理スキルが凄いという事なのか、月彦には判断がつかない。横に座っている真央も時折大きな?マークや怪訝そうな顔をしながらも、ゆっくりと箸を進めていた。
 月彦もまた食べ慣れない味ではあるが、食えないほど不味いわけではない料理をほおばりながら、横目でちらちらと菖蒲の様子をうかがい続けた。昨日までの菖蒲ならば、食事中は大抵料理の後かたづけをしているか、他の場所で家事をしているのだが、今日ばかりは後かたづけをするでもなく、ソワソワと右往左往を繰り返していた。
(……なんか、明らかに心ここに在らず、って感じだな)
 恐らく料理も、頭の方は何か懸念材料でいっぱいいっぱいで、首から下だけで作ってしまったのではないだろうか。
「あの……月彦さま……」
 横目で様子を伺いながらそんな事を考えていると、珍しく食事中に菖蒲が声をかけてきた。
「あっ、いえ……何でもございません。……湯加減を見て参ります」
 が、すぐに首を振り、そのまま脱衣所の方へと消えていってしまった。月彦ははてなと首を傾げ、微妙な味のする夕食を続けた。

「月彦さま」
 夕食を終え、風呂に入ろうと着替えを手に階段を下りてきた所で再度、月彦は菖蒲に声をかけられた。
「あの……“アレ”は捨てて下さいましたか?」
「アレ……って酒の事? まだ俺の部屋に置いてあるけど……」
「いけません! すぐに捨ててきて下さい!」
 突然、すさまじい剣幕で大声を上げられ、月彦は思わず上体を引かせてしまった。
「アレは……アレは危険なのでございます。早く……捨てて頂かないと……月彦さまと真央さまの命の保証は出来かねます」
「そんな大げさな……心配しなくても、明日にでも誰か知り合いにあげるからさ。菖蒲さんはあのお酒すんごい嫌いなのかもしれないけど、それまでは待ってよ。さすがに捨てるのはもったいないし」
「…………………………嫌いなわけでは…………ないのですが…………」
 消え入りそうな声で、菖蒲は視線を斜め下に外しながら呟き、そしてしずしずと台所へと戻っていく。
「…………菖蒲さん……本当は飲みたくて堪らないんじゃ……」
 だったら我慢する事など無いのにと思いつつ、月彦は脱衣所へと向かった。そして服を脱ぎながら、何故マタタビ酒を見るなり菖蒲が態度を豹変させたのかを考えた。
(……菖蒲さんの反応を見るに、多分本当は飲みたいんだ。……だけど、そうできないのは……)
 白耀に対する意地……だろうか。それにしては態度がおかしかったように思える。
(……いや待てよ、エサで釣ろうとされた――そう思ったんじゃないか)
 ほら、マタタビ酒を飲みたいだろう? だったら早く家に帰ってこい――そんな白耀の意図を見透かしてつむじを曲げてしまったのではないだろうか。
(…………難儀だなぁ。端から見ている分には、お互いちょこっと譲ればすぐ仲直り出来そうに見えるものなんだが)
 しかし当の本人達にしてみればそう簡単にはいかないのだろう。
 やれやれと思いつつ、月彦は浴室へと足を踏み入れ、そしてすぐに浴槽の栓を抜いた。何故なら、浴槽のお湯は黄土色に濁り、浴室いっぱいにみそ汁の様な臭いが立ちこめていたからだ。



 鼻水を啜りながら浴槽を洗い、湯を張り直したせいで一時間近くも掛かった入浴を終え、湯上がりの一杯ついでに菖蒲と話でもと月彦は台所へと向かった。が、菖蒲の姿は無く、珍しく洗い物もそのまま残されていた。
 はてな、と思いつつ月彦はそれとなく菖蒲の姿を探した。が、菖蒲の姿は何処にもなく、寝起きに使っている葛葉の部屋にも勿論居なかった。
「っかしーな……外に買い物にでも行ったのかな?」
 壁掛け時計はすでに九時を回っている。買い物という線は薄いなと思いつつ、ひょっとしたら酒の贈り物に内心感激していて白耀の屋敷にとんぼ返りしてるのではないかと甘い期待を抱きながら、月彦は階段を上がり、自室のドアを開けた。
「うわっ」
 そして、尻餅をついた。
「あっ…………菖蒲さん、何してんの!」
 ドアを開けるなり月彦の目に飛び込んできたのは、部屋の中央にぺたんと座り込み、まるで愛しい我が子を抱くような仕草で和紙包みの一升瓶を両手に炊き、頬ずりしている菖蒲の姿だった。
「あっ、月彦さま……」
 そしてどこか惚けた様な、とろりとした目を月彦に向けてくる。月彦が見る限り、酒の封はまだ開けられていない様だが、菖蒲の様子を見る限りでは既に半ば以上酔っぱらっているように見えた。
「何か……御用ですか?」
「ご、御用もなにも……一応ここ俺の部屋なんだけど……」
「あら」
 まるで寝言の様に呟いて、菖蒲はきょろきょろと周囲を見渡した。
「これは……大変失礼を致しました」
 これまた寝言の様に呟いて、菖蒲はすぐさま立とうとする――が、くにゃりと。まるで両足がコンニャクかなにかになってしまったかのように、再びその場にしゃがみ込んでしまう。
「あうっ……そんな……どうして……」
「……とりあえず、両手をその瓶から離した方がいいんじゃないかな」
 菖蒲の様子を見ているに、足に力が入っていない事もさることながら、両手がしっかりと瓶を握ったままであることも巧く立てない理由の一つに違いなかった。しかもどうやら、当の本人はそのことに気がついていないらしかった。
「……瓶?」
 今まさに、和紙包みのそれに鼻を近づけてすんすんと香りを嗅いでいるというのに、まるでその物体が目に入っていないかのように菖蒲は惚けたような声を出す。
「………………菖蒲さん、そんなにマタタビ酒が好きなら、別に飲んでもいいよ? 俺は白耀みたいに好きなものを我慢しろーなんて言わないし」
「……バカな事を……仰らないで……………はぁぁぁ………………くださいまし……。…………私は、マタタビ酒など……はぁぁぁ…………まったく……好きでは…………」
 言葉の合間合間に鼻を鳴らし、その都度ため息でもつくように大きく息を吐き、艶めかしい手つきで和紙越しに酒瓶をなで回す姿に、月彦はあきれた視線を送る事しかできない。これほど言ってる事とやってる事が食い違っている事例も珍しい。
「………………好きじゃないなら、早いところそれ返してくれるかな」
「…………?」
「いやだから、さっきからずっと後生大事に抱えてるその酒瓶……」
「ほえ……? ………………っっっっっっ!?」
 菖蒲はとろりとした目で月彦が指した人差し指の先を追い、それが己の抱いている酒瓶へと到達するや否や、突然弾かれたように酒瓶を放り出した。
「うわっ、と! あ、あぶねえ……」
 放り出された酒瓶が顔面を直撃するすんでのところで月彦はなんとかキャッチする。片や菖蒲は部屋の壁に張り付くようにして顔を蒼白にしていた。
「だ、だから危険だと申し上げたんです! は、早く……早くそれを……捨てて下さいまし……」
「……いや、えーと…………うーん…………菖蒲さん、ホントはすんごい酒好きなんじゃないの?」
「嫌いです! 見るのも、臭いを嗅ぐのすら嫌なのでございます! 後生ですから、早く目の届かない所に捨てて下さいまし!」」
 ほとんど悲鳴のように叫んで、菖蒲は部屋から飛び出していってしまった。入れ替わりに、湯上がりほかほかパジャマ姿の真央が部屋へと入ってきた。
「……何があったの? 父さま」
「いや……なんでもない。気にするな」
 月彦は誤魔化すように真央の頭を撫でる。別に隠す必要は無いのだが、一から説明するのは手間な上、その必要性もとくに感じなかった。真央は一瞬だけ不満そうな顔を見せるが、すぐに笑顔を取り戻した。
「ねえ、父さま……私、考えたんだけど……お部屋の前にこれをいっぱい置いたらあの人来ないんじゃないかな?」
 と、真央が差し出したのは表面のラベルを取り去った、水の入ったペットボトルだった。
「…………学校帰りに、横倒しになった二リットルペットボトルの上でのほほんと昼寝してる野良猫を見たことあるぞ。猫がペットボトルを嫌がるっていうのは、迷信だ」
「そうなんだ……」
 しゅん、と狐耳と尻尾をたれさせる愛娘を慰めるように、月彦はそっと髪を撫でる。こういう年齢相応の幼稚な発想をすること自体、なんとも可愛らしいと感じてしまう。
 ――が。
「ねぇ……父さまぁ……もう二日もシてないんだよ?」
 その体躯はどう見ても五歳児のそれではなく、パジャマの上からでも存在感たっぷりの胸元などはその辺の雑誌のモデル顔負けの質量だったりする。それを露骨に擦りつけられながら鼻息粗くモーションをかけられては、同じく我慢を強いられている月彦としてはたまったものではなかった。
「ま、待て……真央……二日もって……が、学校でちょっとだけシたろ?」
「あんなのじゃ……全然足りないの…………父さまだって……」
「そりゃあ……確かにそうだが――」
 ダメだ、真央がフルチャージ状態だ。これは止められないかもしれない――と、月彦が半ばあきらめた時だった。コンコンとドアを叩く音に、はっと真央が尻尾を立てて振り返る。
「あの……月彦さま……お電話です」
「電話……?」
 てっきり邪魔をしにきただけだと思っていただけに、菖蒲の意外な言葉に月彦はあわててベッドから立ち上がった。
「一体誰から……」
「葛葉様です」
「母さんから!?」
 菖蒲が現れて尚、蔓植物のようにべったりとしがみついて離れない真央を半ば引きずるようにして、辛くも引きはがした。月彦はそのまま階下へと降り、保留中になっている受話器を手にとった。
「もしもし、母さん? 電話代わったけど」
『ごめんなさいね。急なことで驚いたでしょ?』
 受話器の向こうから聞こえてきた声は紛れもない母親の声だった。そのことに安堵すると同時に、月彦は何故か自分が無意識のうちに電話をかけてきたのは母親ではないのではないかという可能性を疑っていたことに気がついた。
「そりゃあ……かなり驚いたけど……旅行に行くならせめて俺や真央にも一言くらい言って欲しかったよ」
『ごめんなさいね。本当に急な話だったの。でももう大丈夫、明日の昼には帰れると思うから、それまでちゃんと菖蒲さんとも仲良くするのよ?』
「えっ、ちょっと待って……大丈夫って何の話? 旅行じゃなかったの?」
『それは――』
 と、そこで突然ひどいノイズが混じり始め、葛葉の声が聞き取れなくなる。砂嵐の様な轟音に混じって、微かに『もう十円玉が……』という葛葉の呟きを最後に轟音は不通音へと切り替わった。
「…………母さん、一体どこに何をしに行ったんだよ…………」
「義母さま、なんて言ってたの?」
「ああ、明日には帰るから、菖蒲さんとちゃんと仲良くしろってさ」
 いつの間にか音もなく背後に立っていた愛娘に、月彦は最早つっこみすら入れなかった。それはごく自然な光景であるからだ。
「……まぁ、そういうわけだから……真央、今夜一晩くらい我慢できるな?」
「……………………うん、わかった。……明日にはあの人居なくなるんだよね?」
「うむ。母さんが帰ってきたら、是が非でも菖蒲さんには白耀の元に帰って貰う。菖蒲さんがうちにいるのは今夜だけだ」
 それは、真央を安心させるために言った言葉であり、それ以外の意味など何一つ無い筈だった。
 であるのに。
(………………あれ、なんか今……フラグが立ったような……?)
 いや違う、ただの気のせいだ――月彦は頑なにそう思いこむと、愛娘の背を押すようにして自室へと戻った。


 ――深夜。

 すやすやと眠る父親の傍らで、真央は眠れぬ夜を過ごしていた。
(ぅぅん………………体、火照って……眠れないよぉ……)
 暖房などはつけていない。ベッドの上の布団も、毛布と掛け布団がそれぞれ一つずつ。しかしそんなものですら寝苦しいと感じてしまうほどに体が熱く火照って仕方がなかった。
(あんな人、無視しちゃえばいいのに)
 何度、そう思った事か。しかしどうやら月彦にとってそれはなかなかに致命的な事らしかった。真央としても、月彦をもっと信頼し、良い子だと褒めてもらえる様がんばろうと決心した矢先の事でもあるから、可能な限り月彦の言葉に従おうと努めていた。
(…………明日まで、我慢すれば……)
 そうすれば、心ゆくまで抱いてもらえる。それだけが、今の真央の心の支えだった。そうやって疼く体を懸命に押さえ込まねばすぐにでも月彦の体の上に跨ってしまいそうだった。
(…………ほんのちょっとくらいなら)
 そんな悪戯心が首をもたげるのも、今回が初めてではなかった。月彦が起きない程度に、こっそり悪戯をするくらいならばと。
 しかし――。
「…………っ!?」
 突然音もなくドアノブが回り、真央は起こしかけていた上体をあわてて寝かせた。当然、ドアの方を露骨に見る事など出来ず、ただただその両耳だけで自体の把握を努める。
(まただ……)
 と、思うのは、前日も前々日の夜同様、菖蒲が見回りにきたのだと解ったからだった。
 嫌な女だと、真央は心底思う。この女は、倫理観がどうとかではなく、単純に自分と父親がイチャイチャしているのがうらやましくて邪魔しているのだと確信に近い思いを抱いていた。
 真央は当然のように寝たふりを続け、その実両耳で室内に侵入した人影の一挙手一投足を観察し続けた。十中八九……否、九割九分九輪あり得ないとは思うが、もしこの女が父親に何か手出しをしようとした場合、真っ先に噛み付いてやろうと、それくらいの覚悟は決めていた。
 が、予想通りと言うべきか。人影はベッドの方には見向きもせず、勉強机の方に近づくと何かを手にとり、そしてそのまま音もなく部屋から出て行った。
 ドアが閉まるのを確認してから、真央はゆっくりと身を起こした。夜目の利く獣の眼で、机の周囲の様子を具に確認する。が、見慣れた勉強道具や教科書があるばかりで何かが減った様には見えない。
 あの女が何かを盗っていったと感じたのは気のせいだったのだろうか。確かに実際に自分の目で見たわけではなく、耳で聞いただけだ。
(……ううん、確かに何かを持っていった)
 そういえば、と真央は記憶をたどる。今夜は何か、机の上に置かれてはいなかったか。さして興味を引かれなかったからそれが何だったかまでは思い出せないが、少なくともあの女が勝手に持ち出して良いモノではなかった筈だ。
「父さま、起きて、父さま」
 真央は小声で囁きながら、ユサユサと月彦の胸元を揺さぶるが、月彦が起きる気配は全く無かった。
「ううん……こら真狐……人の頭の上に乳を乗せるな……重いだろうが……むにゃむにゃ……」
「…………父さま!」
 また母さまの夢を見てる!――真央は瞬間湯沸かし器の様に怒り心頭となり、父親の頬を思い切り抓ってやろうと思わず手を伸ばした。が、すんでの所で思いとどまりため息を一つついてそっとベッドから降りた。
(…………もう、そういう事はしないって決めたもん)
 すぐ嫉妬してしまう癖を直さなければならない。それは父親に嫌われる悪癖であると悟ったのだ。真央は深呼吸をして怒りを静め、そして菖蒲に対するそれだけを残すと、そっと部屋を後にした。
 朝になって月彦に報告し、二人で問いつめるという選択肢もあるが、それでは惚けられて終わりになるような気がした。。
 かくなる上は自分一人で盗みの証拠を掴み、二度と紺崎家に近寄ることが出来ないようにしてやろう――そんな正義感めいた思いにすら突き動かされて、真央は足音を立てぬよう細心の注意を払いながら静かに階下へと降りていく。別に抓ったりせずに揺さぶり続けてふつうに月彦を起こすという選択肢まで否定する事はなかったのだが、怒りを忘れる事に執心するあまり、真央はうっかりその可能性を失念してしまっていた
「…………っ……」
 不意に、ひやりと。何か冷気のようなものに当てられて、真央は思わず肩を抱きしめた。
 明かりは何もなく、各部屋から微かに漏れる月明かりを頼りに真央は歩を進めていく。いかに闇に強い獣の目とはいえ、その構造上光が全く無くても見えるというシロモノではない。当然のように、家の中には何かが潜むには十分な大きさの闇の吹きだまりが各所に出来、それらは真央の中のまだ幼い人の部分を強烈に揺さぶってくる。
 ――そう、闇に対する恐怖という形で。
(やだ……怖い…………やっぱり父さまの所に帰ろう……)
 階段を下りきった所で得体の知れない恐怖に駆られ、真央は踵を返そうとした。

 ――その時だった。

 ぴちゃり、ぴちゃりと。
 何か水音のようなものを人のそれよりも大きな耳が拾った。
 真央は階段を上ろうとしていた足を再び階下へと向け、恐る恐る音のする方へと歩み出した。
 恐怖が消えたわけではない。が、好奇心がそれを上回った。同時に、“あの女”が何か良からぬ事をしているに違いないという確信が真央の足を前へと進めさせた。闇の中で恐怖を感じるというのが幼い人の部分の性であるならば、それは自分の“巣”で他のメスに好き勝手にされて堪るかという、獣としての性だった。

 …………ぴちゃり。………………ぴちゃり。

 音はどうやら台所の方から聞こえてくるらしかった。真央は静かに、衣擦れの音すらも立てないように注意を払いながら、そっと台所の中へと足を踏み入れる。
 黒い影が台所の隅にうずくまり、蠢いているのが解った。やはり間違いない、あの女だ――真央はそろそろと右手を台所の照明のスイッチへと伸ばした。明かりをつけると同時に、何をしているのかと怒鳴り散らしてやるつもりだった。
 が、真央の指先がスイッチに触れるかどうかという所で、影の動きがぴたりと止まった。そして、ゆっくりと背後を――真央の方を見る。きらりと、金色がかった猫の瞳が、ぴたりと真央の姿を捉えた。
 刹那。
「見ィィィィィイイイタァァァナァァァアァッッッッッッッ!!!!!!!!」
 咆哮と共に、黒い影が飛びかかってきた。真央は立ち竦み、あらん限りの声を振り絞って悲鳴を上げた。


 愛娘の突然の悲鳴に、月彦は俄に飛び起きた。
「な、なんだ!? 真央……の声……か!?」
 突然の覚醒で、今ひとつ頭がはっきりしない。今の悲鳴がはたして現実に聞こえた悲鳴なのか、それとも夢の中での事なのか、それすらも判断出来かねる状況だった。
(……何か、ひどく不快な夢を見ていた覚えはあるんだが……)
 ここにいたって月彦は初めて、月彦はとなりに居る筈の真央の姿が無い事に気がついた。はてなと、暗い室内を見回してみるが、その姿は何処にも見つける事が出来ない。
 部屋の明かりをつけ、あらためて周囲を見回すが、やはり真央の姿はない。
(……まさか、さっきの悲鳴は気のせいじゃなくて……本当の……)
 階下から……聞こえたような気がした。と、その時まるで月彦の推測を裏付けるように、階下からどんがらがっしゃーんと凄まじい物音が響き渡った。月彦はすぐさま部屋を飛び出し、途中の明かりをつけながら階下へと滑り降りた。
「真央っ!?」
 台所に入り、明かりをつけた瞬間仰向けに寝転がっている真央の姿を認めて、月彦はあわてて駆け寄った。
(なんか……今一瞬……影みたいなものが……)
 明かりをつけた瞬間、真央の側にあった黒い影が目にもとまらぬスピードで消え失せた――ように見えたのだが、今はそれどころではなかった。
「おいっ、真央! 大丈夫か! しっかりしろ!」
 肩を揺さぶり、頬をぺちぺちと叩きながら声をかけるが、返事はない。何処にも外傷らしきものは見あたらず、どうやらただ気を失っているだけに見えるが、一体全体どうしてこんな所で気絶せねばならなかったのか。
「と、とにかくこんな所じゃ風邪ひくぞ……一端部屋に……」
 真央の体を抱え上げ、自室に戻るやその体をベッドへと横たえ、掛け布団をかける。――と、その時、月彦は机の上に置いておいた筈の酒瓶が消えてしまっている事に気がついた。
「…………まさか」
 否、“まさか”ではない。疑念ではなく確信に近いものを抱いて、月彦は再び階下へと降りた。
「菖蒲さん!」
 何があったのかは解らない。が、まず間違いなく真央を気絶させたのは菖蒲の仕業だろう。
「…………なんだこれは」
 階下へと降りて、改めて月彦は台所の惨状に思わず息をのんだ。辺り一面に散らばった鍋やその蓋などの調理器具にくわえて、中途半端に囓られた食材などが足の踏み場もない程に散乱していた。
 そして、その中に混じってはらりと落ちていたのは菖蒲が身につけていたと思われるエプロンだった。さらに見れば少し離れた所にはブラウス、そしてスカートと、一定間隔を空けて衣類が脱ぎ散らかされており、それはどうやら台所から葛葉の部屋へと点々と続いているようだった。
(……これは、酒瓶……か)
 そして最後に葛葉の部屋の前に転がっていたのは空になった酒瓶だった。破られた和紙の残りを見るに、間違いなくマタタビ酒の入っていた酒瓶だろう。
(……一升丸飲みにしたのか)
 そのことに驚嘆と僅かばかりの恐れすら感じながらも、さすがにこれは一言言ってやらねばと、月彦は部屋の襖に手をかけた。――その瞬間、月彦の耳が何か奇妙な音を拾った。
(……なんだ、嗚咽……?)
 葛葉の部屋の中からは、なにやら啜り泣きのような声が聞こえるのだ。勿論、本来の主である葛葉は旅行とやらに行っているのだから、声の主として考えられるのは一人しか居ない。
「……菖蒲さん、入るよ」
 一応声をかけて、月彦は入り口の襖戸を開けた。葛葉の寝室は八畳ほどの和室であり、部屋の中は明かりがついておらず暗かったが、部屋の中央には葛葉のものではない、来客用の布団が敷かれているのは解った。そして、その傍らに何か黒い影がうずくまっていることも。
「……あやめ、さん?」
 くすん、くすんと嗚咽を漏らしながら肩を揺らしているその背に、月彦は恐る恐る声をかけてみる。忽ち、伏せられていた猫耳がぴんっ、と立ち。菖蒲がゆっくりと振り返った。
「……白耀さま?」
「え?」
「白耀さまっ、白耀さまっ、白耀さまぁぁぁぁァァァ!!!」 
「うわちょっ、ぶっ!」
 突然、きらりと菖蒲の眼が光ったと思った瞬間には、電光石火の体当たりを受けて月彦は家の廊下にしたたかに背中を打ち付けた。
「ぐはぁっ……ちょっ、あやめ、さ――」
「迎えに来て下さったのですか!? あぁ……私はなんと愚かだったのでしょう……たかが秋刀魚の腸くらいの事で白耀さまの元を離れるなんて!」
「ちょっ、揺すらっ……ぐるじっ……ぐべっ」
 マウントポジションをとられ、パジャマの胸ぐらを捕まれ、散々ガクガクと前後に揺らされた挙げ句唐突に手を離された為今度は後頭部を堅い床でしたたかに打ち付けるはめになった。目眩すら感じながらも、月彦はなんとか首を振り、視界の正常化に努めた。
(ってっ、菖蒲さんなんつー格好を! しかも……酒くさっ!)
 菖蒲は普段のメイド服ではなく、黒の上下の下着に同じく黒のガーターベルトにストッキングという出で立ち――但し何故かカチューシャだけはつけたまま――だった。それでいて、よほど酒が入っているのか、絹のように白い肌はほんのり朱に染まり、瞳は今にも涙がしたたりそうなほどに潤んでしまっていた。
「あぁ……白耀さま……本当に申し訳ありません。わたくしは……最早白耀さまと離れては生きられない体ですのに、あのような無礼の数々を……」
「いや、ちょっ……菖蒲さん? 俺は白耀じゃなくて……」
「どうか、どうか許して下さいまし……もう二度と、金輪際、決して秋刀魚の腸は口に致しません!」
「いや、だから――」
 再度否定の言葉を口にしようとして、月彦は己の行動が無駄に終わるであろう事を悟った。
(…………正気の目じゃない)
 菖蒲の目は、自分を見てはいるが、決して紺崎月彦を見てはいない。およそ男っぽい形のものに己が最も見たい幻影を重ねているだけなのだ。
 ならば、この場を丸く収めるには――。
「…………あぁ、菖蒲の気持ちはよく解ったよ。僕のほうこそ、きつい言葉で叱ってしまってすまなかった。……また、僕の元に返ってきてくれるか?」
 月彦は事態を収拾するために、可能な限り親友の声色を真似て菖蒲を慰めた。忽ち、菖蒲がその双眼からほろほろと涙をこぼした。
「あぁぁ……白耀さま、本当に許して頂けるのでございますか? あのような無体を働いてしまったこの私を……本当に……」
「ああ、許すとも。僕にとっても菖蒲は二度と得難い従者……いや、半身と言ってもいい。半身を失って生きていられる者など居るものか。…………おかえり、菖蒲」
「はくよう……さまぁぁ……」
 菖蒲はさらに大粒の涙をこぼし、感極まって被さるようにして抱きついてくる。
(おお、ヨシヨシ………………これで仲直りは完璧だろう! 白耀、俺に感謝しろよ!?)
 そっと菖蒲の背に手を回し、あやすようにぽむぽむと叩き、髪を撫でつける。さて、後はどうやってこの体勢から抜け出したものかと、月彦が頭を働かせ始めた時だった。
「……白耀さま……あの、こんなお願いを……出来た義理ではないという事は……わたくしも重々承知なのですが……」
「うん?」
「……このまま……わたくしを抱いてはいただけませんか?」
 

 



 さぁ、ロケンロォルの始まりだ!――菖蒲の消え入りそうな“お願い”を耳にした途端、月彦の頭の中はまさにそんな言葉が似合う状態と相成った。
「……いや、さすがに……それは、ちょっと――」
「駄目……なのでございますか?」
 鼻同士が触れ合いそうな程の距離まで詰め寄られ、涙目で問いつめられて、月彦はうぐと唸るようにして目をそらした――が、菖蒲に両手でぐいと頭を捕まれ、無理矢理正面を向かされる。
「わたくしの事を半身だと仰ってくださったのではなかったのですか!? 白耀さまは……白耀さまはいつも……言葉ばかりで…………」
 そうは言われても――と、月彦は何とか現状をうまく切り抜ける策はないものか頭をフル回転させ続けた。
(ヤバいぞ……今更とても“なーんちゃって、実は俺は白耀では無かったのです!”なんて言えない……言ってバレたが最後間違いなくあの鋭く尖った爪で頸動脈をズブシャーってやられる……)
 そもそも、菖蒲が一体いつまで酔っぱらって勘違いを続けてくれるかという問題もある。一刻も早く菖蒲の下から抜け出し、真央の元へ戻らねばならないのだが……。
「わ、解った……菖蒲。君がそこまで言うのなら……僕としても覚悟を決める。……が、そのための時間が欲しい。一日、一日だけ待ってくれないか?」
 とにもかくにもこの手しかないと、月彦は祈るような気持ちで菖蒲に切りだした。
「……嫌でございます」
 が、その決死の提案は拗ねたような菖蒲の声によって却下された。
「……もう、わたくしは……待つのは嫌なのでございます。……それに、葛葉様も仰ってました……時には、“力ずく”で押し倒すのも、大人の女の嗜みであると」
「なっ、ちょっ……そんな大人の女の嗜みは無ぁぁぁい!!」
 母さん、なんて余計なアドバイスをぉぉお!――月彦の脳裏に、いつもの微笑を浮かべた母親の姿が思い浮かぶが、それはもうドSの笑みにしか見えなかった。
「白耀さま、もう……観念なさって下さいまし……私は……私の身も心も、全てを白耀さまに捧げ……いえ、奪って頂きたいのです」
「い、いや……しかし……」
 本当に白耀本人であれば、何も迷う事は無いだろう。しかし、悲しいかな紺崎月彦はあくまで紺崎月彦であり、真田白耀ではない。
(ぐぐぐ……なんという天国と地獄……!)
 若い女性に――しかも、普段はツンケンと笑顔すらろくに見せてくれない相手が下着だけの姿になり全身を上気させ、首元に甘い息を吹きかけるようにして“おねだり”をされる事など、人生のうちで一度でもあれば果報者とあざけ罵られ夜道で背後から刺されかねないほどの幸運だろう。が、その幸運自体が死と隣り合わせであり、手を出してしまったが最後、仮に生きて朝日をおがめたとしても、親友でもある白耀に対して言い逃れのしようのない裏切りをしてしまう事にもなる。
「…………だめだ、菖蒲。……とにかく、今は……出来ない」
「…………白耀、さま……」
 ヤッちゃえヤッちゃえと囁く、黒い羽と槍のように尖った尻尾を持ったダーク月彦の囁きを振り切り、月彦は菖蒲の両肩を掴み、押すようにしてハッキリと拒絶した。
「……そんなに…………そんなに、私は劣っていますか?」
「劣る……?」
「女として……“あの女”や、その娘にすら勝てないと、そう仰るのですか!?」
「あの女……その娘……」
 察するに、恐らくは真狐と、真央の事だろう。
(……そりゃまぁ、真狐はともかく、菖蒲さんか真央だったら、真央のほうが可愛いに決まってるだろう)
 親の欲目もあり、月彦は内心大きく頷いた。
「……本当に目障りな母娘でございます……白耀さまの母君と妹君でさえなければ……何度その身を百と八つに分けてやりたいと思ったか」
 あぁ、やっぱりかなり怨まれてるんだな――しかし、かつて真狐と真央がやった事を想えばそれが当然とも思える。
「それに……あの男も……」
「“あの男”……?」
「……白耀さまがよく家に招かれるあの男でございます。……あの男……いつも顔を合わせる度に……私の体を舐めるような目で見てくるのです」
「……ほう?」
 それは興味深い意見であると、月彦は目線で菖蒲に続きを促した。
「……白耀さまの御友人をあまり悪く言いたくはないのですが、あの方は男として最低の部類であると思われます。あの男にしてあの娘あり、あの娘にしてあの男ありと申しますか……数日お世話をする間も何度なれなれしく声をかけられて、視線で体を汚されたか数え切れません」
「ふむ……視線で体を……」
「はい。……あの目は女を性処理の道具くらいにしか思っていないケダモノの目でございます。……葛葉様はすばらしい方ですのに、何故そのご子息があのような――」
「菖蒲」
 月彦は不意に声を上げ、菖蒲の言葉を遮った。
「……気が変わった。…………君を抱きたい。今すぐに」
「えっ……」
 突然の方針転換に驚いたのか、菖蒲が目を丸くする。
「君が月彦さんにそんな目に遭わされているとは全く知らなかった。……さぞかし不快な思いをしたことだろう…………君に詫びたいんだ、僕の全身全霊をもって」
「そ……んな……よ、よろしいのですか……? ほ、本当に……そのような……」
 菖蒲は忽ち、ただでさえ酒気を帯びて赤い顔を朱に染め、おろおろと狼狽えるように瞳を泳がせる。
「ああ、もちろんだ。……月彦さんに汚されたという君の体を、“僕”がたっぷりと清めてあげたいんだ」
「あぁぁ……白耀さま……!」
 菖蒲は感涙し噎び泣きながら、ぎゅううとしがみつくように抱きついてくる。月彦はそんな菖蒲の髪を優しくなでながら、耳元にそっと囁いた。
「さぁ、菖蒲。寝室に行こうか」


「あ、あの……白耀さま……これを外して頂くわけにはいかないのでしょうか……」
「いいや、ダメだ。それを外すというのなら、今夜の事は全て無かった事にする。絶対に外してはいけない」
「ぁぅ……わかり、ました……」
 しゅん、と菖蒲は猫耳を萎れさせ、布団の上に座り込んでしまう。その目元には、メイド服のリボンを流用した目隠しがされていた。勿論これは月彦が強引に申し出た事だった。
(……酔いがいつ覚めるかわからないからな。こうしておけば、そうそう別人だとは気づかれないだろう)
 葛葉の寝室、その窓から差し込む仄かな月明かりに照らし出された菖蒲の肢体は美しく、月彦の牡としての部分を刺激するには十分な魅力を備えている――が、今回のこの暴挙とも言える振る舞いに月彦が身を投じる気になったのは、決してそれだけの理由ではなかった。
(……俺は、心底……白耀と菖蒲さんの仲を取り持ってやろうと、そう思ってたんだ)
 下心など微塵もない。あったとすれば、突っ慳貪としている菖蒲と、もう少しフレンドリーに話せるようになれたらいいなぁという、あくまで人として常識的な思いだけだ。
(今回だって、ひたすら下手に出て、何とか穏便に帰って貰おうと思ってた。…………だが、さすがに我慢の限界だ)
 真央との事を邪魔され続けて、ムラムラの極みに達していたというのも、勿論理由の一つではある。とはいえ、親友の女に手を出す事に関して躊躇いを禁じ得ないというのもまた事実だった。
 ――が、そういう類の罪悪感の消し方については、月彦もまた慣れたものだった。そもそも、このような状況に陥る原因の一端を作ったのは白耀自身なのだ。白耀が土産と称してマタタビ酒など渡さなければ、そもそもこのような状況にはなり得なかった。
(酒は、俺が飲ませたわけじゃない。菖蒲さんが勝手に飲んで、そして俺に襲いかかってきたんだ。俺は自分の身を守るために白耀のフリをするしかなかった、即ちこれは不可抗力だ)
 その上、善意で行ってきた事まで歪曲して受け取られ、あろう事か男として最低の部類とまで罵られたのだ。これで憤りを感じなかったら、それはもう人間ではないと月彦は思う。
(……自分が最低の男とあざけった男に犯される気分を味わわせてやる)
 さらに言うならば、白耀にはこの悪戯猫と懇ろになることは出来てもきちんと躾をする事は無理だろう。二百年近くも一緒にいてこのザマなのだ。ならば俺が代わりに躾をしてやるしかないと、むしろ正義感めいたものすら胸に抱いて、月彦はそっと菖蒲の体を押し倒した。
「あぁ……白耀さまっ……」
 菖蒲は抵抗することなく、されるがままに背中を布団につけた。月彦は菖蒲に被さり、優しく唇を奪う。
「んっ、……っ……」
 最初は、ただ触れるだけのそれを、徐々に菖蒲の唇を舐めるようなキスへと変化させていく。そうして唇を舐めながら、やんわりと胸元を下着の上からなで回す。
(……矢紗美さんと同じくらいか……いや、矢紗美さんより少し大きいかな)
 触りながら、つい大きさを測ってしまうのは巨乳スキーとしての性だった。それでいて、真の巨乳スキーは下着越しの愛撫などでモノ足りる筈もなく、すぐさま菖蒲の背中側へと手を伸ばし、ブラのホックを外した。
「ぁっ……」
 と、菖蒲があわてて胸元を両手で隠すような仕草をする。
「どうした、菖蒲。僕に見せてはくれないのか?」
「で、でも……私は、その……スタイルにはあまり自信が……わ、笑わないで……下さいましね?」
 おずおずと菖蒲が両手をどかし、その胸元を露わにする。自信がない、とは言うがボリューム、形共に十分に誇って良いレベルではないかと月彦は思った。
(…………まぁ、どちらも真央の方が上だが)
 地味に先ほど真央の悪口を言われた事を根に持っている月彦は心の内で密かな反撃をして、そっと菖蒲の胸元へと手を這わせた。
「あぁっ……ンッ……」
 掌ですくい上げるようにして揉むと、早くも菖蒲が声を震わせた。
「……菖蒲、胸……弱いのか?」
「い、いえ……そういう、事では……ただ、その…………先ほど、白耀さまと会う前に……少々、お酒を嗜んでしまいましたので……」
「酒を飲むと……感じやすくなるのか?」
「ま、マタタビさえ入っていなければ……あまりそういうことにはならないのですが…………申し訳ありません……酒は……二度と口にしないと誓いましたのに……」
「……仕方ないな。なんと言っても菖蒲は“やってはいけないこと”程やりたくなる、悪い猫なんだから。…………まぁ、そこが可愛くもあるが」
「そんなっ……白耀さま……ンンッ! ……ぁっ、ぁァッ!」
 心外そうな声を上げる菖蒲の胸の先を吸い、軽く持ち上げてみる。寒気のせいもあるのだろう、ピンと堅く尖った先端を口に含み、優しく歯でくにくにと転がすように噛むとそれだけで菖蒲は甲高い声を上げる。
「……なかなかいい声だ、菖蒲。そんなに良いのか?」
「は、はい……じ、自分で触った時とは……全然、違い、ます……」
 目隠しをしている為、細かな表情までは解らないがきっとそのリボンの奥はとろりと潤みきった目をしている事だろう。
「自分で……ということは、普段からよく自慰をするのか?」
「ぇっ……と……そ、それ、は……」
 かぁぁ、と。月明かりの下でもハッキリと解るほどに菖蒲が顔を赤くする。
「主の質問にはちゃんと答えろ」
「あぅッ……ゥン!」
 月彦は白耀のフリをしている事も忘れて、菖蒲の乳首をキュッと強くつまみ、答えを促す。
「は、はいっ…………します…………と、時々……ですが……白耀さまの、事を……考えながら……自分で……」
「……そうか。今まで本当に済まなかった。…………これからは、そんな寂しい想いはさせない」
 好奇心が満足し、再び白耀モードに戻った月彦は菖蒲に優しくキスをして、さらに愛撫を続ける。
 マタタビ酒の効果か、胸元に限らず腕や腹、首筋、太股などなで回しているだけで、菖蒲は驚くほどの反応を示した。既に、見て解るほどに黒い下着は色を変えてしまっていたが、月彦はあえてそこには触れず、髪をなで耳を撫で、その内側を舐めては軽く食む――というような事を繰り返した。
「あ、あのっ……白耀さま……」
 そうした焦らすような愛撫を小一時間も続けた頃、とうとう菖蒲が泣きそうな声を上げた。
「そのっ……は、早く……して……いただけない……でしょうか……」
「……? 何をしてほしいんだ?」
「そ、それ……は……」
 はぁ、はぁ……ふぅ、ふぅ……荒々しい吐息に肩まで揺らしながら、菖蒲はキュッと一度唇を噛んだ。
「……わ、私の……“初めて”を……白耀さまに……奪って……頂きたいのです」
「………………初めて?」
 ぴくりと、月彦は一瞬全ての動きを止めた。
「は、はい…わたくしは、白耀さまが“初めて”でございます」
「……………………。」
 完全にフリーズしたまま、月彦は考えた。
(………………年齢的にも、てっきり菖蒲さんは経験済みだと思ってたんだが)
 まさか処女だったとは。さすがにいくらなんでも親友の彼女の処女を奪うというのは倫理的にヤバすぎるのではないかと、完全にケダモノモードに入っていた月彦の頭が例外的に一瞬正気へと立ち戻った。
(…………でも、今更後に引けるか)
 第一、ここで止めるというのはあまりにも不自然極まりない。むしろ危険なのではないかとすら思える。大型の肉食獣に腕を噛まれた時などは腕を引くのではなく、むしろ押し込んだ方が助かる公算が高いと聞く。
(そう、最早……引けない)
 これは、ただの寝取りではなく、躾なのだ。菖蒲が正気に戻る前に、紺崎月彦という人間を主人として認めさせる事ができるかどうか、そういう勝負なのだ。
「……白耀さま?」
「ああ、いや……すまない」
 月彦はかぶりを振り、再び頭をケダモノモードのそれへと切り換える。余計な迷いなど抱かぬ様に。
「……ならば尚のこと、入念な愛撫が必要だな」
「えっ……あ、あのっ……白耀、さま……? ぁ、あんっ!」
 ケダモノモードに入ってはいても、そういった下準備だけは怠らないのが紺崎月彦という男だった。そっと菖蒲の下腹へと手を伸ばすと、すっかり濡れそぼりってしまった下着の上から、くちゅくちゅと揉むようにして秘部を刺激する。
「ぁっ、ぁっ……ァッ……やっ、は……白耀、さまっぁ……」
「ふむ……“初めて”という割にはなかなか感度がいい。…………自分でシていた時期が長かったせいかな」
「そんなっ……ぁんっ!」
 菖蒲の背中側から抱きすくめるようにして秘部と胸元を弄り、弄りながら耳元に意地悪く囁きかけてやる。勿論、どちらも決して菖蒲が達してしまったりはしない様、絶妙の力加減での愛撫であるから、続ければ続けるほど菖蒲の息づかいは切ないものへと変化していく。
「あっっ、ぁっ、ぁっ……あぅっ……ンッ……! ぁはっ……んぅっ……あぁぁっ!」
 指を下着の中へと挿れると、菖蒲はますますよがり、月彦の腕の中で面白いほどにびくびくと身を震わせる。そのたびにしとどに蜜を溢れさせ、月彦の指を濡らしていく。もし菖蒲に目隠しさえさせていなければ、己がどれほど溢れさせてしまっているのかを見せつけてやる所だったが、さすがにそこまでの危険は冒せなかった。
「やっ……ぁっ……は、白耀、さまっぁ……もう……もうっ……十分、で……ございます……どうか……」
「十分……とは? 何が言いたい、菖蒲?」
 勿論、月彦には菖蒲が何を言いたいかなど百も承知だった。が、あえて惚けるような口調でささやきかける。
「ゆ、指……ではなく……はやく……白耀さま、ご自身で……」
「……菖蒲。君は“初めて”だったな。……ならば閨での作法を知らないのも無理はないか」
「作法……でございますか?」
「そうだ。桜舜院殿に習わなかったのか?………………女は、好きな男に“初めて”を捧げる時は、自ら足を開き、欲しい場所を指で開いて自らが間違いなく処女である証を見せながら男を誘う――というのが、閨の正しい作法だ」
「……そのような作法が……あるのでございますか?」
 無論、在るわけがない。
「ああ。女性ならば誰しもが通る道だ。……今宵は、僕と菖蒲の記念すべき“最初の夜”だ。……出来ればきちんとした作法通りに行いたいと僕は思うわけだが」
「で、でも……そんな……み、自ら……開いて、見せる、なんて…………」
「僕が菖蒲に目隠しをしたのは、そのためでもある。……僕の姿が見えなければ、恥ずかしさも少しは収まるだろう?」
「そんな……深いお考えがあっての事だったのですか……。…………わ、わかり、ました……作法というのであれば、恥ずかしい等とは言っていられません」
 菖蒲は一端上体を起こし、そして体の向きを月彦が居る方へと調節する。そして、おずおずと下着を脱ぎ、カチューシャとガーターベルトだけの姿になると、躊躇いながらも月彦に向けて秘部を露わにする様、足を開く。
「っ……こ、このような……感じで……よ、宜しいので……しょうか…………」
「あぁ。向きは合っている。だが、それだけではダメだぞ、菖蒲」
「は、はい……解って、おります……けれども、その……これは……もし、目隠しをして頂かなかったら、とても、出来る……事、では……」
 そりゃあそうだろう、と月彦は思う。“初めて”で、男に裸体を晒す事すら慣れていない状態でそこまで要求されても、ふつうは出来る事ではない。
「っっ…………こ、これ、で……よろしいのですか?」
 菖蒲はM字の形に足を開き、右手の人差し指と中指でくぱぁ、と秘裂を割開き、消え入りそうな声で尋ねてくる。月彦は割り開かれたその場所に顔を近づけ、わざと息を吹きかけたりして、ついと身を引いた。
「いや、ダメだ。それじゃあ奥までよく見えない。ちゃんと作法通り、両手の人差し指と中指を使って広げるんだ」
「そ、そんなっ…………っっっ……わかり、ました………………っ……これ、で……よろしいのですか?」
 菖蒲は月彦に言われたとおり、両手の指を使って秘裂を左右に広げるようにして見せた。月彦はその様子を食い入るように見つめながら、今まで散々に蓄積させられた菖蒲に対する鬱憤が晴れていくのを感じた。
(……いい眺めだ。できれば写真でもとって残しておきたいくらいだ)
 これが通常の女子相手であれば、良い取引材料になるのだろうが、相手が相手だ。ここで弱みを握った所で、あとでそれをちらつかせたが最後、事故にでも見せかけられて口封じをされるのが関の山だろう。
「……うん。奥までたっぷりと濡れて、ヒクヒクってなってるのがよく見える」
「っっっっ……そ、そのような事……仰らないで……下さいまし……」
「じゃあ、後は巧く“誘う”事が出来れば、作法は完了だ」
 えっ、と菖蒲がかすれた声を出した。
「誘う……というのは――」
「さっき言った筈だ。自ら指で開いて、“誘う”のが閨の作法であると。……俗な言葉を使えば、菖蒲が“おねだり”をして初めて前儀式は完了という事になる」
「そんなっ……!」
 さすがにそこまでは想定していなかったのか、菖蒲は足を閉じて絶句する。その反応から、さすがに無茶な要求をしすぎたかな、と月彦が取りやめの言葉を言おうとした時だった。
「い、いえ……それが正しい作法だというのであれば…………完遂致します。…………あぁ……最初にこのような取り決めをした者というのは誰なのでしょう……叶うことなら、その身を百と八つに斬り分けてやりたく思います」
 菖蒲は泣きそうな声を出しながら、一度は閉じていた足を再び開き、先ほどと同じように指でくぱぁと開いて見せる。
(…………叶うことなら、どころか今まさに目の前に居るわけだが)
 眼福眼福、と月彦は至上の光景に満足しながら、さらに月彦は悪のりを続けた。
「そうだ、菖蒲。…………最後の作法についてだが、より淫らな言葉を用いて男を誘うのが最上とされている。男を興奮させ、襲いかかりたくて堪らなくなるような言葉で誘うのが閨での礼儀だ」
「より淫らな言葉で……ございますか…………」
 恥ずかしさを通り越して、最早諦めすら入ったような声で菖蒲は呟き、十秒ほど考え込んだ後、意を決したように唇を開いた。
「……不肖、保科菖蒲……謹んで申し上げます……どうか、淫らなわたくしの処女を……う、奪っては……いただけないでしょうか……」
「…………………………。」
 恐らくは、相当な覚悟をしての“おねだり”であったのだろうが、肝心の月彦はといえばなんとも微妙な心持ちで受け止めざるをえなかった。
(………………なんか、俺が思ってたのと175度くらい違う……)
 考えてもみれば、男に抱かれるのも今夜が初めてという菖蒲に、真央ばりにエロい言葉で男を誘えという方が無茶かもしれない。
(それに、一応精一杯考えて菖蒲さんなりにエロい言葉を言ってみたわけで、考えようによってはむしろそのほうがエロくもある)
 うむ、これはこれで、と月彦は納得することにした。
「あ、あの……白耀さま……?」
「……菖蒲の想い、しかと受け取った。…………これが僕の返事だ」
 月彦は菖蒲の傍らへと身を寄せ、右手首を掴むとそっと自らの方へと引き寄せた。そして、己がどれほど興奮の極みにあるのかを、菖蒲に直に触らせる。
「あ、の……こ、これ……は……」
「菖蒲のおねだりする姿を見て、こうなってしまった。……今宵は寝かせないぞ、菖蒲」
 言って、布団に押し倒す――が、珍しく菖蒲は抵抗をした。
「ま、待ってくださいまし……これが……は、白耀さまの…………でございますか? こ、このようなものが……わたくしの、中、に……む、無理でございます!」
「最初に抱いて欲しいとせがんできたのは菖蒲だ。悪いが、キャンセルは効かない」
 ほとんど悲鳴のように叫ぶ菖蒲の体を押さえつけ、濡れそぼった秘裂へと狙いを定める。
「ああっ……そんな……待って下さいまし……まだ、心の準備が――……ァァァッ!!!」
 菖蒲の言葉を聞かず、月彦は一気呵成に剛直をその膣内へとめり込ませた。ぶち、ぶちと独特の感触をもって処女膜を貫き、そのまま根元まで剛直を押し込みながら菖蒲に被さり、抱きしめる。
「…………これで君は僕のモノだ、菖蒲」



 沈黙が、続いた。
 月彦は恐らくは痛みに震えているのであろう菖蒲の体を抱きしめ、落ち着くのを待った。菖蒲もまた、月彦の背へと手を回し、肩に指をかけるようにしたまま大げさに胸を上下させ、必死に呼吸を整えていた。
「……これ、で……」
 そうして呼吸を整えながら、菖蒲は絞り出すようにかすれた声を上げる。
「私は……白耀さまの本当の従者になれたのですね……」
「……あぁ。………………すまない、痛かったか、菖蒲」
「はい……少しだけ……ですが、その何倍も……嬉しいです……ただ……」
「ただ?」
「いえ……その……気のせいか…………白耀さまのお声が……普段とは違うような……」
 ぎくぅぅ!
 月彦は一瞬大いに焦るも、しかしあくまで表面上は平生を保った。
(危ない……やはり目隠しをしておいて正解だった)
 そもそも、姿を全くの別人と見まがう程に酔っていたのだ。ハッキリと顔を確認さえされなければ、少なくとも数時間はだまし通せるだろうと月彦は読んでいた。
「……久しく離れていたからな。声に違和感を感じるのはそのせいだろう」
「そういう、ものなのでしょうか……あの……白耀さま。……もう、……これをとっても……」
「いや、それはダメだ」
「で、でも……もう、“作法”は……」
「……それでもダメだ。……悪い、菖蒲……僕の心情も察してくれ。初めてつながる事が感動しているのは君だけではないんだ。……涙でくしゃくしゃになった顔を、まだ見られたくはない」
 エモノを見るような目で見下ろしながら、舌なめずりをしているというのが正しかったりするのだが、菖蒲はこの方便を信じ、一層感じ入った様だった。
(……まだ、“機”じゃない。ネタバレには早い)
 目隠しをとっても大丈夫だと判断できるまでは、軽々にとるわけにはいかないのだ。
「……しかし、“初めて”というだけあって、菖蒲の中はキツいな。……下手に動くと裂けてしまいそうだ」
 単純に締まりが良い――というだけではない。肉自体がまだ男根というものをどう扱って良いのか戸惑っているような、そんな処女特有の堅さがむしろ心地よくすら月彦は感じる。そう、男として――否、牡として、女の“初めて”の味を堪能する事に匹敵する贅沢はそう無いからだ。
「それは……白耀さまの…………が……きい……からというのも……あるかと思われます……ぐいぐいと内側から思い切り押し広げられて……その、息を思い切り吸うことも出来ません」
 確かに、見たところ菖蒲がはぁはぁと小刻みな呼吸を繰り返していた。純粋に興奮しているだけかと思っていたが、そういった理由もあったらしい。
「そうか。……ならもう少し、慣れるまで動くのは控えた方がいいか」
「そ、そんなことは…………い、痛みは……さほどのことはありません。……マタタビに酔うと……痛覚は殆ど麻痺してしまうのです…………ですから、どうか……白耀さまの好きな様に……動かれてくださいまし」
「本当に大丈夫なのか? なら、試しに少し――」
 月彦はゆっくりと腰を引いていく。菖蒲は微かに声を上げ、身を固くしたが月彦が見たところそれは痛みによる悲鳴には聞こえなかった。
(……痛くない筈は、ないと思うんだが)
 現に、挿入の際のあの独特の感触は間違いなく処女膜を破る感触だ。となるとやはり菖蒲の言うように、マタタビには痛覚を麻痺させる効果があるとしか思えなかった。
 月彦はさらに続けて腰を使い、菖蒲の反応を確かめてみることにした。
「んっ……ぁっ……!…………あっ、くっふぅ…………」
 菖蒲は辿々しくも声を上げ、時折体を硬直させながら月彦の腕を握り、爪を立ててくる。これがもし“鋭く尖った状態”であれば、人間の肌などは容易くずたずたにされてしまうのであろうが、幸い少し痛みを感じる程度で済んでいた。
「ぁっっ、ぁっ……へ、変……ですっ……白耀、さまぁ…………」
「変……? 何が変なんだ?」
「んっ、あんっ……! ……あはぁぁっ……やっ……す、凄く…………いい、んです……ああァァ!」
 剛直の動きにあわせて、菖蒲ははぁはぁと身もだえし、戸惑うように首を振る。
(……処女にしては、えらく反応がいいな)
 もしや処女というのは偽りだったのかとも思ったが、処女膜を破る時のあの独特の感触は間違える筈もない。
(となれば…………やっぱり――マタタビ効果か)
 月彦はふと、昔飼っていた猫にマタタビの粉を与えた時の事を思い出した。確かに、まるで本当に酔っぱらってしまったかのように見事にクニャクニャにとろけきってしまっていた。
(……てことは、むしろ遠慮なんかしないほうがいいのか?)
 さすがに処女相手に最初から全開というのは可愛そうかもしれないと、最初はローギアで様子をみるつもりだった月彦だが、すぐさま脳内シフトチェンジを行った。
「……菖蒲、少し激しくしてもいいか?」
「えっ……あっ、はい…………で、でも……あまり、極端には……ンンッ!!」
 菖蒲に覆い被さり、その唇を奪う。これまでは唇同士を触れさせ、その唇を舐めはしても、舌までは入れなかった。――が、今度は唇をはみ、そして舐めながら舌を入れ、菖蒲のそれと絡め合う。
(……このっ、感触……懐かしいな)
 ザラリとした、妖猫特有の舌の感触を味わいながら、月彦はやんわりと腰を使い始める。唇を塞がれたまま菖蒲が喉奥で噎ぶが、キスを止めはしない。ティープキスを続けながらのの字を描くように腰を使い、ほんの数分前まで処女であった従者の体に、男の味を覚え込ませていく。
「んんっ、ンンッ……んふっ……んぁっ……はぁはぁ…………は、はくよう、さまっ……ンンンッ!!!」
 菖蒲はまるで溺れる者が懸命に息継ぎをするようにして声を上げるが、月彦は再度唇を奪い、その舌を吸う。ぐりん、ぐりんと腰を動かし、男を知らなかった肉襞を擦り上げ、ヒクヒクと痙攣するように収縮するその不慣れな締め付けを堪能する。
(……ヤバいな…………思ったよりもこれは、来る……な)
 今回の事は、決して望んでの事ではない。むしろ成り行き、仕方なくの事だ。であるのに、月彦の心に禁忌を犯す事に対する興奮が芽生え始めていた。
(……さすがに、このまま中に出してしまうのはマズいか?…………いや、毒を食らわば皿まで、という言葉もある)
 既に処女まで奪っているのだ。今更何を躊躇う事がある。月彦はさらに菖蒲の胸元を揉みしだき、菖蒲の唇を解放するとそのままピンと立った猫耳をしゃぶるようにして舐める。
「ひぁっ!? あぁぁっ……み、耳はっ……ダメで、ございます……ぁぁあっ……ぁっ……そ、そんなにっっ……されては…………菖蒲は、菖蒲は、もう…………っっ……!」
「……イきそうか? 菖蒲」
 尋ねるまでもなく、月彦には経験から眼前の従者猫がどれほどの快楽に翻弄されているのか、十分すぎる程に解っていた。
「……丁度良い。……僕も、そろそろ……限界だ」
 耳をしゃぶるように舐めながら、月彦もまた息を乱しながら囁きかける。
「はくよう、さまぁ……どうか……一緒、……一緒、にっ……」
「ああ、解っている」
 月彦は菖蒲の息づかいにあわせるようにして腰を使い、絶妙の力加減で互いに同時に達せる様、快感を高め合っていく。
「あぁっ、ぁっぁっ……ぁっ、やっ……ひぁっ……あぁああっ、ひぃっ……あぁぁっ……白耀っ……さまっ……白耀さまぁっ……もうっ…………もうっ……!!!」
「菖蒲っ……」
 最後の瞬間、月彦は剛直を思い切り奥まで押し込み、そして菖蒲の唇を奪った。
「ンッ…………ンンッッーーーーーー〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっ!!!!」
 菖蒲が全身を震わせ、イく。それに合わせて、月彦もまたその膣内に子種を注ぎ込んでいく。
(うっ……ぁ……ヤベッ……すっげー出るっっ…………)
 それは他人の女を寝取っているという禁忌を犯している故の興奮の証か、或いは単純に真央とほとんど出来なかったから溜まっていただけなのか、月彦には判断がつかない。
「んんっ、んっ……ンはっ…………はあっ、はあはあっ…………ひぁっ……ぁんっ……は、白耀、さまぁ…………熱い、のが……ドクッ、ドクッ……って……注ぎ込まれて…………はぁぁぁぁ………………」
 ビクンッ、ビクッ!――腰を不自然に跳ねさせながら、菖蒲は息も絶え絶えにうっとりとした声を上げる。
「これ……が……白耀さまの……子種……なのでございますね…………あぁっ…………嬉しいです……こんなに……たくさん…………」
 菖蒲は注ぎ込まれる子種自体を愛しむように、自らの腹部を撫でるような仕草をする。そして、濡れた目で月彦を見上げ、満足そうに微笑んだ。
 月彦も釣られるように微笑み、そして再度口づけをかわそうかとして――はたと、固まった。
(えっ……目……?)
 何故、菖蒲の目が見えているのか。――刹那、月彦はゾクリと背筋を冷やした。激しく睦み合っているうちに、いつのまにか目隠しの結び目が緩み、半ば以上ずれてしまっていたのだ。
「えっ……?」
 そんな疑問符が、不意に菖蒲の口から漏れた。同時に、笑みを浮かべていた顔が驚愕、そして困惑へと切り替わる。
「白耀さまじゃ……ない…………?」
 刹那、しゃきんと。鋭く爪が伸びる音を、月彦は聞いた。


 
 ヤバッ……俺、死んだかもしれない――そう感じた瞬間、ドクンと。月彦は己の心臓が爆ぜるような勢いで脈打つのを感じた。殆ど同時に、普段よりも十五センチほど長く伸びた菖蒲の爪が赤い光を引きずるようにして己の首へと迫ってくるのを“見”た。
「……ッ……!」
 咄嗟に、月彦は上体を引いた――が、思うように動かない。まるで、体の周りをがっしりと粘度の高い液体で固められでもしたかのように動きが鈍く感じた。それは視界の端から迫る菖蒲の爪の動きも同様であり、月彦は文字通り首の皮一枚かすっただけでかろうじて菖蒲の爪の回避に成功した。
 菖蒲もまた、まさか今の一撃を避けられるとは思っていなかったのか、驚愕の表情で目を見開いていた。しかし、驚愕による硬直は僅かで、すぐさま第二撃を放ってくる――が、その一瞬の硬直を見逃さず、月彦は人のそれとは思えないほどの俊敏さで菖蒲と距離をとっていた。
 ドクン、ドクン!
 耳鳴りがする程に激しく心臓が波打つ。大量の血液が心臓へと送り込まれ、また送り出されていく。その都度、人のそれではない、獣の血に切り替えられていくような錯覚を、月彦は覚えた。そう、文字通り血が沸き立ち、全身に力がみなぎってくる――それは既に錯覚ではなく、実感だった。
 菖蒲が立ち上がり、再び爪を振るってくる――が、その予備動作から既にどういった攻撃が行われるのか、月彦には全て見えていた。動きそのものは恐らく菖蒲の方が数倍早い。が、その軌道が予め解っていれば避ける事はそう難しくはなかった。
「ははっ、はっ……」
 不思議と、口から笑いが漏れた。今、自分は間違いなく生命の危機に瀕している筈であるのに、不思議なほどに気分がハイになっていた。
 引き続き繰り出される菖蒲の斬撃。乱舞のようなそれはある種美しさすら伴っていた。――が、月彦はその中に一瞬の隙を見いだした。考えるよりも先に手を伸ばしていた。
「……なっ……!?」
 その細腕を月彦に捕まれた時、菖蒲は驚愕のあまりそんな声を漏らした。月彦はすぐさま菖蒲の足を払い、そのまま首根っこを押さえるようにして俯せに菖蒲を組み伏せてしまった。
「はははっ……どうした、そんなものか? 春菜さんの“爪”はお前の三倍は速かったぞ?」
 正確には、春菜が爪を振るった相手は月彦ではなく“あの女”であり、月彦は端でそれを見ていただけなのだが、ハイになった気分がついそのような強がりを言わせた。
 月彦はさらにもう片方の手で菖蒲の両腕を重ねる形で布団に押さえつける。その細腕は尚鋭く爪が伸びたままであり、月彦の手を押しのけんと凄まじい力が込められてはいるが、体勢の差もあってかろうじて封じることに成功していた。
(っっっ……ぶはぁぁぁぁぁ………………超あぶねぇぇぇ……六回くらい死んだかと思ったぜ……)
 見た目こそ余裕綽々に組み伏せてはいるが、その実勝負は紙一重だった。そもそも、何故自分があれほどまでに速く動け、菖蒲の斬撃を避け続けられたのか月彦自身解っていなかった。ただ、バクバクと波打つ心臓に引きずられるようにして、先ほどまで以上に月彦の興奮は高まっていた。
「くっ…………は、離せッ!!」
 月彦に組み伏せられて尚、菖蒲は戦意を衰えさせず、なんとか身を起こそうと試みる。――が、月彦はその都度首の付け根を押さえつけ、動きを封じる。
「外道ッ…………よくもっ……謀ったな……よくも、よくも、よくもっっっっ!!!」
「…………たばかったとは人聞きが悪いな。そもそも最初に勘違いして誘惑してきたのはそちらの方だろう。俺はただ善意で甘い夢を見せてやっただけだ」
「くっ…………!」
 そのことに関しては言い返せないのか、菖蒲がぎりと唇を噛みしめる。身動きの殆どを封じられたまま、ただその黒い尾のみがいらだたしげに月彦の顔をぺちぺちと叩き、そのたびに尾の先につけられたリボンつきの鈴がちりん、ちりんと冷たい音色を奏でる。
「っっ……この、ままで……済むと、思うな…………必ず、貴様の体を百と八つに……細切れになるまで切り裂いて、貴様の娘に食らわせてやる! その後で、貴様の娘も同じ目に――」
「それを実行するのは無理だな」
 菖蒲の言葉にかぶせるように、月彦は強い口調で断言した。
「何故なら、お前は今宵これから、白耀ではなく俺に忠誠を誓う様になるからだ」
「なっ……誰が……貴様、等に……」
「相手が白耀ではないと解った途端、えらく言葉遣いが変わったな。……ひょっとしてそれが素か? …………まぁいいさ、すぐにいつもの口調に戻してやる」
 猫耳に囁いて、ぺろりと舌なめずりをする。そう、獣の血に支配され興奮の極みにある月彦にはもう、菖蒲はただの非力な子猫くらいにしか見えていなかった。
(あぁ………いいぞ、この感じ。悪くない………)
 “躾”を行うのは真央を覗けば――矢紗美以来だろうか。但し、今回は少しでもミスをすれば取り返しのつかない事になる可能性がきわめて高い。慎重に事を運ぶ必要がある――そう、事こういう事案に対しては驚くほどに計算高くなるのが紺崎月彦という名のケダモノなのだった。
「さて、まずは一つ忠告をしておく。今からこの右手を離すが――決して妙な真似はしないことだ。単純な力は俺の方が上、さらに頼みの爪も俺には当たらない事はもう解っているだろう」
 抵抗しても無駄だと、月彦は“忠告”をする。勿論、自信たっぷりのその口調の裏には次にまた爪を振るわれたら防ぎきれないということを悟らせてはならないという思惑があるが、そんな事はおくびにも出さない。
「だが、もし仮に忠告が受け入れられず、また爪を振るおうとしたら――俺もその時は最後の手段に出る。………可愛い尻尾を失いたくはないだろう?」
「っっっ………どういう、意味………だ………」
「昔、真狐から聞いた事がある。自分を閉じこめた妖狐達の尾を焼き尽くし、ただの尾無し狐に戻してやった――とな。……さて、妖猫の尾を力任せに引きちぎったら、はたしてどうなるかな?」
「っ………………………!」
 一瞬だけ、菖蒲が怯えるようにぶるりと体を震わせる――その反応だけで、月彦は満足だった。恐る恐る右手を――菖蒲の両腕を押さえつけている手を離す。
「ッ――!」
 その刹那、菖蒲が動いた。解放された両腕を振るい、何とかして自分を組み伏せている月彦に爪を食い込ませようと腕を伸ばす――が、それよりも早く月彦の右手が菖蒲の尾を掴んだ。
「大人しくしていろ、と言った筈だが?」
「っくっ………ぁうッ!」
 冷徹な言葉と共に尾の付け根を強く握りしめ、くいと持ち上げるようにして引っ張る。忽ち菖蒲は悲鳴を漏らして、伸ばそうとしていた腕を布団へとついた。
「次に妙な真似をしたら、容赦なく引っこ抜くからな。ただの脅しだと思うのは勝手だが、その読みが間違っていたときに失うものの大きさをよく考えろ。……尾というものは一度失えば、容易く生えてくるものでもないのだろう?」
 くんっ、と月彦はもう一度だけ強く尾を引き、脅しではないぞと菖蒲に念を押してから、今度は尾の付け根を揉むようにしてやんわりと刺激する。
「っっ………やめ、ろ……な、何をっ……」
「安心しろ。俺は猫の扱いには慣れている……こうすると、勝手に尻が持ち上がるんだろ?」
 苦笑する月彦の眼下で、菖蒲が上体を伏せたまま下半身だけが膝立ちになるような形で徐々に尻を持ち上げていく。それは無論、菖蒲の意志ではないのだろう。
(……姿形は変わっても、猫は猫だな)
 月彦は尻尾を刺激し続け、菖蒲の尻が手頃な高さに達すると、当然のように臨戦態勢のままであった剛直をその割れ目へと宛った。ひっ、と怯えるような声を上げた菖蒲を尻目に、月彦は尻尾から一端手を離し、しっかりと狙いを定めた上で被さるようにして徐々に埋没させていく。
「やっ、やめっ……ろっ……な、何をっっ……」
「何を……? 男と女が二人、裸でやることといったら交尾に決まってるだろ」
 そんな当たり前の事も解らないのか?――そう言外に含めるかのように月彦は鼻で笑い、暴れようとする菖蒲を押さえつけたまま一気に剛直を根元まで押し込んだ。
「かっ……はぁっ……」
 菖蒲が苦しげに息を吐き、その肉襞はまるで剛直を拒否するかのように痛烈に締め付けてくる。しゃらくさい――とでも言うかのように、月彦は一度大きく腰を引き、ずんと思い切り突き上げた。
「ひぁう!…………っくっ…………ぁっ、や、やめっ、ろ……そん、な…………おぞ、、ましい……」
「おぞましい? ほんの少し前まで良い、良いとよがり狂っていたくせに、よくもまぁ言える」
「それ、は……貴様が――……ぁあんっ!」
 ぐりん、と大きく腰をくねらせると、忽ち菖蒲は甘い声を上げた。それを見て月彦がくすりと笑みを漏らすと、無理矢理首を捻って片目で月彦を睨み付けてくる。
「…………っ……好きなように……すれば、いい……その、代わり……覚えて、おけ……最後には、必ず……貴様の、首を……」
「あぁ、解った。……好きなようにさせてもらう」
 月彦は菖蒲の首を押さえつけていた手もどかし、両手で腰のくびれを掴むと言葉の通りに好き勝手に突き始める。
「くっ……っぅ……ッ…………ンンッ!!!!」
 声を上げる事は恥であると思っているのだろう。菖蒲は懸命に唇を閉じ、それでも堪えきれないと悟るや、手を伸ばしてマクラを引き寄せ、それを噛むようにして声を押し殺し始めた。
(無駄なことを……)
 菖蒲の必死の抵抗を内心であざ笑いながら、月彦は好き勝手に腰を使い、菖蒲の弱い場所を探っていく。
「ッ……っっ…………〜〜〜〜〜〜っっっ!!!」
 そうしてその場所を見つけるや、角度を調節して重点的に攻める。菖蒲に息をつく暇すら与えない程に。
「っっくっ…………ぅっっゥンっ…………っっっっ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
 菖蒲が一際体を強ばらせ、何かを必死に堪えるようにしながら顔をマクラに押しつける。必死に隠そうとはしているのだろうが、痙攣するように剛直を締め付けてくる肉襞の動きだけはどうにもならないらしかった。
(……随分と悔しそうな顔をする。……まぁ、それでこそこちらの溜飲も下がるというものだが)
 月彦は菖蒲の都合などまったく考えずに好き勝手に腰を使い、その胸元を揉みしだき、徐々に興奮を高めていく。
「さて……そろそろかな。…………喜べ、たっぷりと種付けしてやる」
「なっ…………ま、まさか……」
 ハッと、それまで沈黙一辺倒だった菖蒲がマクラから顔を上げ、信じられないといった顔で背後を振り返る。
「今更何を驚いてるんだ。……既に一発ヤッてるだろう」
 くつくつと、愛娘の母親のような意地の悪い笑みを浮かべながら、月彦は息を荒げながら菖蒲の膣内を蹂躙していく。
「いっ、やぁ…………やめっっ……な、中っ……だけはぁっ…………ッッ……ぁっ……ぁぁぁっ…………!」
「ダメだ。…………最低な男だと罵った相手の子種をしっかりとその身に刻め」
 月彦は逃げるように這う菖蒲の体を背後からしっかりと抱きしめ、びゅぐりっ、と。特濃の牡液をその膣奥へと送り込む。
「ァァッ…………ァッ…………っっ……くっ…………ぅっ……………………このっ…………ケダモノッ…ぉ…………」
「どっちが、と言いたいところだが。……なかなかいい目だ。躾のしがいがある」
 涙目で睨み付けてくる菖蒲を鼻で笑い飛ばし、射精を終えるや月彦は再び腰を使い始める。菖蒲はもう何も言わず、ただただマクラに顔を伏せさせ、声を押し殺した。
(……まだまだ、夜は長いぞ? 菖蒲さん)
 いつまで持つかな?――月彦はうすら笑みすらも浮かべながら、本能の赴くままに菖蒲の体を蹂躙した。


 三時間ほどは経っただろうか。
「くっ、ぁっ…………んっ……ふっぁっ……!」
 背後から腰を使われ、途切れ途切れながらも菖蒲が悩ましげな声を上げる。その両腕は力無くも、しかし必死にマクラを抱き寄せ続け、涎でべっとりと湿った枕に必死に顔を埋め続けるその様は健気にすらも見える。
「……さて、そろそろ……――ッっ!」
「やっ……止めっ…………っっっ!!」
 微かに拒絶の言葉を漏らす菖蒲の子宮口を突き上げ、月彦は容赦なく子種を注ぎ込んでいく。
「いっ、やぁっ…………やぁぁぁあっ………………」
 びゅぐん、びゅぐっ、びゅっ――さすがに回数をこなし、勢いが衰えたとはいえそれでも尚常人の数倍の白濁をたっぷりと注ぎ込み、月彦は菖蒲に被さるようにして少しばかり呼吸を整える。
(……思ったよりしぶといな。もっと早くに泣きが入ると思ったんだが)
 同じく息も絶え絶えに呼吸を整える菖蒲の体を抱きしめ、むにむにとその胸元を弄ったりしながら、月彦は己の目算が少々甘かった事を痛感していた。
 三時間ずっとヤりっぱなしであり、中出しの回数は十に近い筈であり、菖蒲をイかせた回数は間違いなくその三倍以上の筈なのだが、なかなか月彦の思う状態には至っていなかった。
(やばいな……真央がいつ起きてくるかも解らないし、あまり時間をかけるわけには……)
 焦りを感じる――が、だからといって妙案も思いつかない。かくなる上はやるだけやってみるしかないかと、月彦が体を起こした時だった。
「やっ……も、もぅ……やぁっ……」
 菖蒲が悲鳴のように声を上げて、月彦から逃げるようにして這う。萎え知らずの剛直が抜ける寸前で再びその首根っこを月彦が押さえつけた。
「い、いつ……まで……こんな、事、を……」
「…………最初に言っただろう。……今夜、俺のモノになってもらう、と」
 ぜぇぜぇと肩で息をしながら、殆ど泣くような声で言う菖蒲の耳元に、月彦はあくまで冷徹に言い放つ。
「だ、誰……が…………貴方、みたいな…………」
「貴方?…………変だな、さっきまでは“貴様”と呼ばれてたように記憶しているが」
「っっっ…………ひ、人、の……言葉尻、を……いちいち……あんっ!」
「まぁいいさ。従えない……というのなら、それはそれで。好きにしろ、と言ったのはお前の方だしな」
「だ、だからって……こんな…………こんな、こと……ぅんっ!……ぁあっ……やっ……も、もう…………止め、てぇ……!」
 最早、マクラに顔を押しつける力すらも無いのか、菖蒲は力無い手で布団をかきむしりながらも必死に月彦から逃げようとする――が、無論その腰はくびれの所でしっかりと捕まれ、否が応にも極太の肉柱によって至上の快楽が強制的に流し込まれる。
 そして勿論、菖蒲に訪れた変化とその意味をこのケダモノが見逃す筈が無かった。
「やっ、イヤッ……嫌っぁっ…………ひぁぁっ……お、奥にぃ……ずん、ずんってぇ……来るっっ…………やっ、ま、また…………ぁぁああっ……!!」
 そして、懇願する菖蒲をあくまで機械的に、無慈悲に絶頂の寸前まで追いつめ――はたと、月彦は全ての動きを止めた。
「えっ……」
 突然の制止がよほど意外だったのだろう。菖蒲もまたそのような声を漏らし、おずおずと背後を振り返るような仕草をする。
「やっ、ぁうっ………くぅっ、はっ、ぁっ………ひんっ! あァァッ………!」
 その瞬間、再び腰を動かし、またしても菖蒲を限界近くまで追い込み、そして唐突に動きを止める。
「っ………ぁっ、ぅ………?………んぁっ………くぅぅぅん………………」
 腰から下を不自然に痙攣させながら不可解そうな声を漏らす菖蒲の尾を握り、弄るようにしながら月彦は具にその様子を観察する。
(………そろそろか)
 やんわりと尾を弄り、僅かではあるが菖蒲が自ら腰をくねらせるような動きを見せ始めた途端、月彦は唐突に尾から手を離した。さらに、あっさりと剛直を菖蒲の中から引き抜き、そのまま布団の上にあぐらをかいて座る。
「さて、と。……やるだけやったし、満足もした。もう悔いはない。……後は首をはねるなりなんなり、好きにしてくれ」
 さながら、悟りを開いた聖職者かなにかのような言いぐさだが、悟りなど開いておらず賢者タイムなどでもない証拠に、その股間だけは今なお隆々と天を仰ぎ続けている。
 自分を散々に陵辱していた相手の突然の変化に戸惑うように、菖蒲もまたきょとんとした目を向ける。――が、その下半身、とくに両足がどこか焦れったそうに摺り合わされ、さらにその背中越しに見える猫尻尾がもどかしそうにくねくねと蠢いているのを月彦は薄目できちんと確認をしていた。
「……き、急に、………どうして……」
 そんな言葉をかけてくる菖蒲に、月彦は吹き出しそうになりながらも、あくまですました顔を続ける。
「今言っただろ。やるだけやってもう悔いはないから、好きにしてくれ」
 そして顎を持ち上げて首をはねろとジェスチャアをする。――が、待てど暮らせど、首と胴体は繋がったままだった。
「…………菖蒲?」
 月彦がゆっくりと目を開けると、目の前に鋭く伸びた爪が迫っており、危うく悲鳴を上げそうになった。――が、かろうじて平生を保てたのは、菖蒲が爪を伸ばした右手を押さえるように、左手で強く握りしめていたからだ。
「……ひ、卑怯……で……ございます…………あのような事を……繰り返し……何度も、何度もされては……ひ、人の首を撥ねる力など……残っている、筈が……」
 苦々しそうに呟く菖蒲に、月彦はおやおやと思わざるをえない。
「じゃあ、頸動脈でも何でもいいから、適当に太い血管をすぱーんとやっちゃってくれ。それくらいなら出来るだろ?」
「そん、な……」
 菖蒲は言葉を詰まらせ、困惑するように視線を泳がせる。
「どうした? さっきさんざん、後で殺す、って喚いてたじゃないか」
「そ、それ……は…………っっ……」
 菖蒲は一度はしまった爪を再び伸ばし、月彦の方へとのばしかけるも、しかしその手は途中で引き戻された。爪を戻し、そのままきゅっとこぶしを握るとそのまま――まるで尿意でも我慢しているかのように、下腹を押さえるような仕草をする。
(…………そろそろ、仕上げか)
 すっかり大人しくなってしまっている菖蒲の手を掴み、月彦は己の腕の中へと強引に引き寄せた。
「きゃっ……ンンッ!?」
 そしてそのままの流れで菖蒲の唇を奪う。
「んはっ……や、止めてっ……くだ――」
「俺のモノになれ、菖蒲」
 暴れる菖蒲の耳に、ぼそりと一言。それだけで、菖蒲は全ての動きを止めた。
「……俺を殺せないなら、俺のモノになれ。……そうすれば――」
 もぞりと、月彦は右手を菖蒲の肌に這わせ、秘部へと指を伸ばす。
「んっ……ぁあっ……止めっ……さ、触らなっっ……ぁあぁっ……」
 そのまま人差し指と中指の二本を菖蒲の膣内へと埋没させ、にゅぐり、にゅぐりと。今尚大量に残っている白濁を媚肉に塗りつけるようにして刺激する。菖蒲は咄嗟にそんな月彦の腕を引き抜こうとするかのように両腕で掴むが、それ以上の事は何も出来なかった。そして、またしても菖蒲が達する寸前の所で一切の愛撫を止め、月彦は指を引き抜いた。
「あぁ……そんな……また………んぐ……」
「……少なくとも、夜中に寂しく自分で自分を慰める――等と言うことは金輪際無くなる。俺のモノになると誓えば、菖蒲が望む時に望むだけの至福の快楽を与えてやる」
 月彦は白濁と菖蒲の分泌させた愛液とがたっぷりと絡みついたその指を菖蒲の唇の中へと差し込み、しゃぶらせる。
「……そうだな、いきなり白耀を裏切れ、と言っても抵抗があるだろうから、こちらも少し譲歩することにしよう。……一番はあくまで白耀でいい、但し二番目は俺だ。白耀が居ない所では、俺の事を主人と仰ぐ……これならどうだ?」
 月彦は指を引き抜き、最早菖蒲の唾液のみに濡れた指先でその顎を掴み、くいと自分の方を向かせる――が、菖蒲は返事は返さず、ただただ迷うように瞳を揺らすのみだ。
「……強情だな。……しかし、そう難しく考える事もない。…………ようは全て白耀の為だと思えばいいんだ」
「……白耀さまの……為……?」
 戸惑いながらも、菖蒲がオウム返しに尋ねてくる。月彦は大きく頷いた。
「そうだ。いずれ白耀との距離が縮まり、体を重ねる日も来るだろう。……その時、もし不慣れ故の失敗をしてしまったらどうする? しかも、取り返しのつかない失敗を。そういう事にならない様、予め閨の訓練を行っておくというのは、ゆくゆくは白耀の為になるとは思わないか?」
「閨の……訓練……で、ございますか……?」
「勿論、無理にとは言わない。……が、あの奥手の白耀のことだ。菖蒲と一緒に夜を過ごせるようになるまで、あと何年かかることか。……その間、ずっと自分で自分を慰めるのか?」
 問いながらも、そんなことは出来る筈がないという確信が月彦にはあった。そう、かつての菖蒲ならばそれまで待てたかもしれない。だが、“男の味”を知ってしまった今となってはそれは不可能だろう。――そう、不可能になる様に、たっぷりと快楽を覚え込ませてやったのだから。
「……全ては、………………白耀さまの為…………なので、ございますね?」
 恐る恐る――といった様子で、菖蒲がそんな言葉を漏らす。
「そういう事だ。俺と菖蒲が黙っていれば、誰も損をしない有意義な取引だ」
「っ……ぅ…………わ、解り……ました………………忠誠を……誓います……」
「……誓うと言ったな? 言ったからにはその言葉には責任を持ってもらうぞ」
「はい……つ、月彦、……さま、の……ご命令には……必ず………………で、ですから…………あのっ……は、早くっ…………」
 菖蒲は右手を股に挟むようにして、にゅりにゅりと太股を前後させるが、月彦は無視して己の言葉を続ける。
「俺に忠誠を誓うなら、俺は勿論の事、真央にも…………………………………………そして一応、その母親である真狐にも、一切の危害を加える事は許さない。…………守れるな?」
「ち、誓います! 守ります!……ですから……!」
「悪いが、言葉だけでは信用できない。………………忠誠を誓うというのならば、その証としてまずはその口でこれを舐めてもらおうか」
 ずいと、菖蒲の眼前に月彦は屹立しっぱなしの己の分身をつきつける。菖蒲は一瞬怯えるような声を上げ、そして月彦の顔と剛直を交互に見た後、何かを諦めたように目を閉じ、小さく頷いた。


 隆々とそそり立つ肉柱の先に菖蒲が口づけをし、ざらり、ざらりと独特の刺激と共になめ回されるのを見下ろしながら、月彦は奇妙な既視感を抱いていた。
(…………あぁ、そうか。そういえば前に……矢紗美さんにも似たような事をさせたな)
 あのときは足だったが、興奮の度合いは近しいものがあった。鼻持ちならない女を服従させ、奉仕をさせる――そのシチュエーション自体に、月彦はゾクゾクするほどの気分の高まりを自覚せずにはいられない。
(……あの、菖蒲さんが……)
 ほんの三時間前まで、憎しみと怒り、殺意すら籠もった眼で自分を睨み付けていた相手が、今は愛しげともとれる舌使いで剛直を舐め、しゃぶっている。あまりに非現実的なその光景に己の頬を抓りたくすらなるほどだ。
「んっ……んっ……んっ………………ちゅっ……んふっ……」
 舌使いの合間合間に艶めかしい息を漏らしながら、菖蒲は健気に奉仕を続ける。その仕草はいかにも不慣れであり、舌使いもお世辞にも上手とは言えない――が、妖猫特有のザラ舌の感触に月彦は時折声を上げそうになってしまう。
(……そういや、春菜さんは巧かったなぁ…………いやでも、菖蒲さんも決して捨てたものでは……)
 単純な刺激による快楽というよりは、今まで散々な扱いをされてきた相手が屈服しているというシチュエーションそのものが月彦を高ぶらせていた。
「……菖蒲さん、咥えて」
 月彦は堪らず促し、菖蒲が言われた通りに剛直を口に含む。
「んふっ……んふっ……んっ……んんっ……!」
 ぐぷ、ぐぷとくぐもった音を立てながら菖蒲が頭を前後させ、そのたびに裏筋がザラ舌で刺激され、否が応にも月彦は高みへと駆け上っていく。
「……あぁ……ザラザラした舌の感じが……すげーいい…………――っくッ…………ッ!」
 月彦は菖蒲の頭を掴み、そのまま思い切り白濁を撃ち放った。
「ンンッッ……んンーーーーーッ!!!」
 菖蒲が噎び、一瞬剛直に歯が当たるような感触があって、噛まれるかと月彦はあわてて菖蒲の口から引き抜いた。刹那、びゅるっ、と最後の一射が菖蒲の頬の辺りを白く汚した。
「けほっ……ケホッ……申し訳……ケホッ……ありま……せん……まだ、不慣れで……」
「あぁ、いや……俺の方こそいきなり無茶させすぎた。……大丈夫か?」
「はい……ちょっと、噎せただけ……ですから……んっ……」
 菖蒲は呼吸を整えると、指先で己の頬にかかった白濁を絡め取り、そのまま何の迷いもなく唇へと含んだ。
「んちゅっ……んっ…………はぁ…………ほろ苦くて……美味しゅうございます……これが……月彦さまの子種のお味なのですね」
「……あぁ、そういえば…………菖蒲さんって苦いのが大好きなんだっけ……」
 自分の分泌物をまるで食べ物のように扱われるというのもなんだかなぁと、月彦は奇妙な照れ笑いを浮かべた。
「あの、月彦さま……一つ伺っても宜しいでしょうか」
「……どうぞ」
「私に自分の従者になれ、と仰っておきながら、何故敬称をお使いになられるのですか?…………先ほどまでは当然のように菖蒲、菖蒲と呼び捨てになられてましたのに」
「……それは……ええと…………あ、菖蒲さんはどっちがいい?」
 性欲の解消に伴い、徐々に“素”に戻りつつあるとかそんな話は到底他人には理解できないだろう。
「…………わたくしは、月彦さまのしもべでございます。呼び捨てになられるのが自然かと存じます」
「解った。菖蒲……がそう言うのなら、そうする。……但し、二人きりの時だけな」
 さすがに白耀や真央の目の前でいきなり呼び捨てにしては、何かあったのではないかと勘ぐられかねない。
「それが宜しいと思われます。………………それで、あの……月彦さま?」
「うん?」
「わたくしとしては……その…………精一杯の忠誠を…………先ほどの奉仕に込めさせて頂いたつもり……なのですが」
「ああ……」
 月彦は菖蒲の言わんとするところを察し、ぽむと手を叩いた。
「そういやそんな話だったか。…………それで、菖蒲はどうして欲しい?」
「それ、は……その……」
 しゃなりっ、と菖蒲は四つんばいのまま猫のような足取りで月彦へと体を寄せ、辿々しく上目遣いをする。
「先ほどの、続き……を……」
「続き……って言われても、何の続きなのか言ってくれないと」
「つ、月彦……さまぁ…………い、意地悪を……仰らないで……くださいまし……」
 菖蒲は月彦の腕を掴み、ちょっとだけ爪をたてながら、ぐいぐいと揺さぶるようにして言葉を続ける。
「……あんな……あんな、に……癖に、なってしまうほどに……何度も、何度も…………わたくしの、膣……で…………それなのに……急に……止められて…………もう、我慢が…………どうか……後生でございます……続きを……して、下さいまし…………」
 まさしく、発情したメス猫のように執拗に体を擦りつけながら、菖蒲は息も絶え絶えにねだってくる。月彦はくすりと苦笑して、その顎を掴み、くいと持ち上げるや否や唇を奪った。
 ちゅっ……と、軽く唇が触れ合うだけのキスは一瞬で終わった。月彦はそのまま菖蒲の体を抱きしめ、布団へと押し倒しながら猫耳へと唇を寄せ、囁いた。
「解った。………………菖蒲の新しい主人として、最初のご褒美を与えてやる。……たっぷりとな」


「ああァァッ……あっ、あっ、あっ、あっ……あっ……あああァァーーーーーーーーーッ!!!」
 菖蒲が一際甲高い声を上げ、半ばブリッジをするように腰を痙攣するように撥ねさせる。
「くす……凄いイき方だな。……そんなに良かったか?」
 菖蒲の腰を掴んだまま、ぎゅぬっ、ぎゅぬと痛いほどに締め付けてくる肉襞の感触を心地よく受け止めながら、月彦は絶頂の波に翻弄させる新しい従者の肢体を満足げに見下ろしていた。
 白い肢体に黒のガーターベルトはよく映え、所々に玉のように浮かんだ汗はぜえぜえという大げさに胸元を上下させる呼吸の度にひとしずく、またひとしずくと滑り落ちていく。月彦は身をかがめ、乳房に浮かんだ汗の一つを舐めとるようにして舌を這わせ、そのままピンと尖った胸の頂を吸い上げる。
「あぁぁっ……つ、月彦、さまぁ……んぅぅッ……!」
 菖蒲の手が、月彦の頭を抱き込むように添えられる。その後ろ髪を愛しげに撫でながら、胸を吸われる快楽に震えた声を上げる。
「……しかし、変われば変わるものだな」
 菖蒲に後頭部を撫でられながら、不意に月彦は呟く。
「……ほんの数時間前まで、“貴様は絶対に殺す”――なんて言ってたのにな。……“アレ”が素の菖蒲かと思うと、なんだか妙におかしく――うぶっ」
「つ、月彦さま!」
 かぁぁ、と菖蒲がみるみるうちに顔を真っ赤に染めり、月彦の頭を自らの胸元に押しつけるようにして口を封じる。
「あ、アレは……忘れて下さいまし!…………アレは……そう、酒に酔っての戯言でございます……け、決して……素などでは……」
「むぐぐ……そうは見えなかったが……いやでも、ああいうワイルドな菖蒲もそれはそれで――ぶぶぶっ」
「月彦さま? それ以上仰るなら…………昔、桜舜院さまに教えて頂いた禁断の記憶消去術の初めてのお相手になって頂きますよ?」
「……春菜さんに教えてもらった記憶消去術って……なんかすげー怖そうなんだけど……ちなみにどんな術なのかな?」
 菖蒲はにっこりと微笑み、両手の人差し指を月彦の目の前にもってくると、人差し指の爪だけをしゃきん、と伸ばしてみせる。
「これを――」
 そして、いったん爪を引っ込め、とんっ、と月彦の両耳を人差し指で突く。
「こうするのでございます。どうしても口外されたくない秘密を殿方に握られたときにしか使ってはいけない術でございますが」
「…………それ、術とかじゃないし……そんなもん食らったら記憶だけじゃなくて命も消えないか」
「七割方は絶命する、と桜舜院さまは仰っておられました」
「……ごめん。二度と口にしないから、その術だけは俺に試さないでくれ」
 従者とはいえ、その真の実力は自分を遙かに凌ぐという事は決して忘れない方がいいなと、月彦はそのことを深く心に刻み込んだ。
「月彦さま? 猫というものは……きちんと愛でてさえ頂ければ、決して主人に牙をむいたりはしない生き物でございます」
「……ああ、よく解った。……愛でてやるさ。………………菖蒲、四つんばいになってくれるか」
 苦笑して、月彦はそっと菖蒲にキスをすると、その耳にぼそりと囁きかけた。はい、と菖蒲は照れ混じりに返事をして、言われるままに四つんばいになる。
「……? どうした?」
「いえ……その…………申し訳ありません。……まだ、その……慣れなくて…………」
 四つんばいになったはいいが、秘部を男に向けて晒す行為自体が不慣れなのだろう。黒い尻尾をくねくねと、月彦の視線を遮るような形で動かしているのがその証拠だった。
「恥ずかしい……というのは解るが、慣れて貰わないとな。……ほら、菖蒲。ちゃんと尻尾を上げて、よく見えるようにするんだ」
「は、はい…………これで、宜しいですか?」
 かぁ、と朱に染まった顔でちらちらと背後を振り返りながら、菖蒲がおずおずと尻尾を高く持ち上げる。既に幾度となく交わり、牡液を注ぎ込まれた秘裂が月明かりを受けててらてらと淫らな光沢を放っているのが月彦にも見てとれた。
「そうだ、それでいい。…………一度に全てに慣れる必要はないが、少しずつ羞恥にも慣れていかないとな。…………“本番”の時にしくじらない為にも」
 そう、これもすべて白耀との“本番”の為の訓練――少なくとも、建前上はそういう事になっている。
「はい……あの……月彦さま…………あまり、そのぉ…………焦らさないで頂けると…………」
「……わかってる。……菖蒲はせっかちだな」
 もじもじと尻を振る菖蒲に苦笑して、月彦は剛直を秘裂へと宛い、菖蒲の腰を掴んで引き寄せるようにしながら、徐々に先端を埋没させていく。
「ぁっ、ぁっ……は、入って、きますっ……あぁぁあっッ!!!」
「っ……菖蒲の膣も……少しずつ、慣れてきたみたいだな。……いい締め付けだ」
 最初の頃は堅い、と感じた膣肉が良い具合にこなれ、絡みついてくる感触に月彦は思わずうめき声を上げてしまう。
「……菖蒲、どうして急に四つんばいになれと言ったか……解るか?」
「ぇっ……それ、は……月彦さまが……後ろから、が……お好きだからではないのですか?」
「確かに好きだが……少し違う。………俺よりも、菖蒲の方が……後ろからされるのが好きだからだ」
 えっ、と身を固くする菖蒲の体を抱きしめるようにして被さり、ぐりんっ、ぐりんと月彦は∞を描くようにして腰をくねらせる。
「ぁああっぁっ、やっ……つ、月彦っ、さまぁっ……そんなっ…………ひぐぅっっ……!…………ぁっっ、やっ、み、耳っ……はぁっ……」
 そうしてえぐるように剛直を動かしながら、月彦は菖蒲の猫耳ははむっ、と咥える。あむあむと唇だけで噛んだ後は内耳をなめ回し、白く細い毛が唾液でてろてろになるまで弄び、最後には耳自体を歯で少しだけきつく噛んだ。
「ぁっ、やっ……ぁあっァッ……耳っ……ァアッ、あァーーーーーーーーーーッ!!!」
 菖蒲が、忽ち体を撥ねさせながらイく。ぎゅぬ、ぎゅぬと剛直が締め付けられるのを歯を食いしばって堪えながら、月彦はさらにもう片方の耳へと唇を寄せる。
「……こんな風に耳を噛まれながら後ろから抱かれるのが好きだろ? 菖蒲は」
「そんな、事、は……ふぁぁぁぁぁッ!? ひぁっ……やっ……やめっ……い、今っ……は、まだっ……ふにゃぁぁぁ………………」
 まだイッた余韻が残っている矢先に耳をはむはむされ、菖蒲が脱力したような声を上げる。そうして菖蒲がくたぁ……と脱力しきったところで、月彦は俄に体を起こし、腰のくびれを掴むやずんっ、と大きく突き上げた。
「はぁんっ! あぁっ……ぁっ……つき、ひこっ、さまぁ……あぁんっ! あぁっ……あんっ! あぁ……ンッ!!」
 一突き、一突き。菖蒲は腰を振るわせ尻尾をビクンと震わせてよがり、甘い声を上げる。そうしてしばらく乱暴に突き上げた後は、再び被さるようにして乳をこね回し、そして耳を噛むようにしてなめ回す。
「ぁぁぁァァアアッ!!! ひぅっ……はぁっ……あぁぁあん……耳っ………もう、止めっ……ぁぁぁぁぁあッ!!」
 ビクッ、ビクッ、ビクゥ!
 耳をしゃぶられて面白いようにイく菖蒲に愛しさすら感じて、月彦はぎゅうっ、と一際強くその体を抱きしめた。
「……ほんと、“初めて”にしては感度良すぎだな、菖蒲は。…………淫乱メイドになれる素質抜群だ」
「そん、な……私、は……淫乱、など、では……ぁぁぁあんっ!!」
 快楽に負けて主人を裏切っておいて何を――と、月彦は笑みを漏らし、そして菖蒲の耳元に再度囁きかける。
「そうだ、菖蒲。俺の従者になるのなら、一つだけ心がけなければならないことがある。…………俺がイくなと言ったら、イくな、絶対に我慢しろ。……そして、中出しをされたら、必ずイけ。……いいな?」
 ぐりん、ぐりんと剛直で膣肉をえぐるようにしながら、月彦は命じる。そう、まるで菖蒲の頭にではなく、体に刷り込むかのように。
「は、いぃ……月彦、さま、の……仰せの、通り、に……あぁぁァァッ!!」
「いい返事だ、菖蒲。…………そろそろ、こっちも限界だ………………ッ……く……!」
 菖蒲の体を抱きしめ、剛直を根元まで突き入れ、子宮口に先端を擦りつけるようにしながら、びゅぐん――と。
「あっ、あっあぁぁッ………つき、ひこ……さまぁぁっ……ひぁっ……あ、ついの……が、入ってッッッ……………〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!!!」
 月彦の言葉通りに、菖蒲は牡液の奔流を受けてイき、その身を激しく痙攣させる。月彦もまた脱力し、菖蒲に被さったまま絶頂の余韻を楽しんだ。腹のあたりでざわざわと蠢く猫尻尾の感触がこそばゆく、思わず笑いがこみ上げてしまいそうになるも、月彦は必死に堪えた。
「はぁ……はぁ…………月彦、さまぁ…………もう、耳は……堪忍して下さいまし…………おかしくなってしまいます…………」
「“耳は”……か。…………それはつまり、他のことはもっとシても構わないって事か? 菖蒲」
「そ、それ……は……」
 かぁ、と菖蒲は顔を朱に染め、月彦の視界から逃げるようにぷいと背けてしまう。
(……驚いたな…………ひょっとすると真央以上じゃないのか)
 あの真央ですら、初めての時はこれほどではなかった――と、月彦は半ば驚嘆する思いだった。
(でもまぁ、考えてみたら…………いい年してずっとお預け食らってたんだから……その分溜まってたって事なのかもな)
 そう考えると、菖蒲が不憫にも思える。そういう事情であれば、男として――否、新しい主人として、是非とも満足させてやらねばと思う。
「……解った。菖蒲が満足するまで、何度でもイかせてやる」
 ぐりゅんっ、――と。月彦は恒例の“アレ”を行うべく、剛直をグリグリと蠢かし、菖蒲の膣内に白濁を塗りつけていく。
「やっ、ぁぅ……つ、月彦っ……さまっ……あぁぁッ…………!」
「ほら、菖蒲。今度は騎乗位だ。…………いろんな体位にも慣れないとな?」
 月彦は体を後ろへと倒し、強制的に背面騎乗位の形へともっていく。
「あぁあっぁああっ……ひうっ……はぁぁぁ…………す、ごい…………月彦、さまっ……のがっ……奥っ……突き上げッ……ンぁぁああッ!!!」
 菖蒲の体が浮き、ぱんっ、ぱんと尻が鳴るほどに激しく下から突き上げ続け、途中でくるりとその体の向きを変えさせる。改めて向き合う形になった後は、視線だけで菖蒲を誘導し、上体を倒させ、長い、長いキスをした。
「んちゅっ……んんっ……ンンッ……んんっ……」
 ザラ舌そのものを舐めるようなキスは新鮮でもあり、あまり思い出したくない封印野の記憶が蘇りそうでもあり、月彦としては複雑ではあった。が、だからといってすぐに止めてしまうにはあまりにも惜しい甘美な味がするのもまた事実だった。
「んはぁっ……ちゅっ……んちゅっんんっ……ぁむっんっんぅ……!」
 しばらくキスを続けていると、月彦は一つの変化に気がついた。今までは月彦の方からばかり仕掛け、リードしていたキスだったが徐々に菖蒲の方が積極的に舌を使い始めたのだ。月彦は菖蒲のしたいようにさせるべく受けに徹しながら、空いている手で菖蒲の背中を撫で、尻を揉み、そして尻尾を優しく弄るようにして愛撫を続けた。
「ふぁっぁぁぁ……んくっ……んぅぅ……だめ、で……ございます……あぁん…………月彦、さまぁ…………こんな……こんなことを……続けられたら………………」
「……続けられたら?」
「…………ほ、本当に……月彦さまから……離れられなくなって…………しまいます…………きゃんっ!」
「いいじゃないか。…………何か問題でもあるのか?」
 月彦は軽く笑い飛ばして体を起こすとあぐらを掻き、菖蒲の尻尾を扱くように擦りながら対面座位の形へと誘導する。
「ほら、菖蒲……最後は、キスしながら一緒に……な」
「は、はい…………あぁっ……月彦さまぁっっ…………ンンッ!!!」
 月彦は菖蒲の唇を奪い、そのまま最後のスパートをかける。
「んんっ……ンンッ、ンンッ……んんっ…………んはぁっ……んっ、はぁっ、んっ……れろっ……んんっ……ンッ……ンンンッ!!!!!」
 互いの唾液を啜り合うような激しいキスは、二人が絶頂を迎える瞬間まで続いた。子種を注ぎ込む瞬間、月彦は菖蒲の体を力一杯抱きしめ、菖蒲もまた痛いほどに月彦の体を抱きしめた。
「ンぁ……ぁあっ、あッ……!…………はぁぁぁ…………あつい、の……入って、きますっぅ……どくっ、どくっ……って……ふにゃぁぁ…………」
 唇を離すやいなや、菖蒲は事切れる寸前のような声で呟き、月彦の肩に顎をのせるようにして脱力する。
「……菖蒲、満足……したか?」
 内心恐る恐る、月彦は尋ねた。もう余力が無い――というわけではなかった。ただ、“初めて”でこれ以上を求めるような相手であれば、問答無用で畏怖を感じてしまいそうだったからだ。
「はい…………菖蒲は、大満足でございます」
 しかし、月彦の恐れは杞憂に終わった。菖蒲はとろけたような笑みを浮かべると、月彦の頬にちゅっ、とキスをし、その後自分の行為に照れるように再び顎を肩にかけるようにして月彦の視界内から顔を隠してしまった。
 月彦は無言で笑みを浮かべると、よく慣れた猫の背を撫でるような手つきでそっと菖蒲の後ろ髪を撫でた。菖蒲は心地よさそうに身をくねらせながらその愛撫を受け入れ、そしてそのお返しとばかりにすりすりと月彦の体に自分の体をこすりつけるようにしてくる。そう、まるで自分の臭いをつけているかのように。
「……菖蒲?」
「ふふっ……なんでもございません。……ふふふっ……」
 菖蒲は笑みを漏らし、何でもないと言うわりにはその行為自体は止めなかった。
「月彦さま……私の新しい主さま……」
 体を擦りつけながら、黒い尾を満足げに揺らしながら、菖蒲は小さく呟いた。



 葛葉の部屋でしばらくイチャイチャしたあと、二人で一緒にシャワーを浴び、月彦は何食わぬ顔をして自室のベッドへと潜り込んだ。既に明け方近く、ろくに眠る事はできないだろうと思われた。が、極度に疲労していた事もあり、短時間ながらも深い睡眠によっていつも通りの時間の起床アラームによって目覚めた時には思いの外スッキリと起きる事が出来た。
「……おい、真央。起きる時間だぞ」
「うぅん……父さまぁ……もう一回……もう一回だけ……」
 何がもう一回だ、と苦笑しながら月彦は優しく揺さぶり続け、程なく真央は瞼をあけた。
「父さま……?」
「朝だ。起きるぞ」
 まだ寝ぼけているのか、きょとんとしている真央を置いて、月彦は一足先にベッドから降りる。
「あれ……父さま……私、ずっとベッドに寝てた?」
「ん? 当たり前だろ?」
 月彦は惚けつつ、伸びなどをする。
「あれ……じゃあ、夢だったのかな………………」
「夢?」
「うん……あの人が、そこの机の上から何かもっていって……それを追いかけていったら……」
「夢だな。見てみろ、机の上はいつも通りじゃないか」
 月彦はそれとな机の上を指し示す。――勿論そこには和紙包みの酒瓶は無いわけだが、もし万が一真央がそのことを指摘してもすっとぼけるつもりだった。
「バカなことを言ってないで、さっさと降りて飯を食うぞ。学校に遅れちまう」
「うん……」
 真央がどこか納得のいかない顔をしながらベッドから降りる。それを見届けてから、月彦も自室を出た。


 階下へと降りると、丁度菖蒲が朝食の支度を終えた所だった。月彦同様ほとんど睡眠がとれていない筈なのだが、散らかっていた台所はぴしりと片づいており、勿論廊下には衣服が散っているという事も無かった。
「おはよう、菖蒲さん」
「はい、おはようございます。……月彦さま」
 朝起きて、挨拶をするのは昨日までと同じ流れ。それに菖蒲が返事を返すのも同じといえば同じなのだが、前日までと明らかに違うのは月彦に向けられた笑顔だった。
 その瞬間、月彦は己の背後でピキーンと、何か冷たく鋭い音が聞こえたような気がした。
「……何か、変」
「うん? 何が変なんだ?」
 ぽつりと、真央が呟き、月彦はあわてて振り返った。
「……何となく。…………あの人の歩き方とか」
 真央に視線を向けられて、月彦も気がついた。食事の支度そのものは終わっているのだが、その後かたづけまで終わったわけではない。いそいそと後かたづけにいそしむ菖蒲の足取りは、僅かにぎこちなかった。
(…………マタタビ酒で麻痺してた痛みが、酒がきれてぶりかえした……とかかな)
 と、月彦は推測した。少なくとも行為の最中は殆ど痛そうなそぶりを見せていなかったから、あのときは痛みは感じていなかったのだろう。第一、痛みを感じていてあそこまで貪欲に求めてくる筈がない。
「……気のせいだろ。さっ、食おうぜ」
 席に座り、いただきます――と手を合わせてからはたと、月彦は固まった。
(………………なんだこのメニューは)
 たったいま焼き上がったばかり、というかのようにほんわりと湯気を立てるプレーンオムレツとゴボウとツナのサラダ。豆腐と油揚げ、ワカメのみというオーソドックスなみそ汁にほうれん草のおひたしという、根野菜から緑黄色野菜、タンパク質まできちんととれる献立に文句のつけようもない。つけようもないのだが。
(……何故、赤飯なんだ)
 茶碗にもられているのはふつうの白飯ではなく、ほんのり赤身がかった見事な赤飯だった。和洋折衷はしているものの、全体的にうまくまとめ上げられている献立の中でただただ赤飯だけが異質なオーラを放っており、隣の席を見れば真央もまたじぃぃ、といぶかしげに赤飯を見つめていた。
「と、とりあえず、食うか! うん、こりゃあ美味そうだ!」
 やや声を裏返らせながら言って、月彦はがつがつと料理を食らい始める。勿論、味などまったく解らなかった。
「…………どうしてお赤飯なの?」
「むぐっっっ!」
 そして、ぽつりと呟かれた愛娘の言葉に危うく喉を詰まらせ、月彦は臨死体験寸前の所でそっと菖蒲に差し出されたコップに口をつけ、麦茶で一気に流し込んだ。
「ぷはぁ……ありがとう、菖蒲さん。助かったよ」
「あっ、月彦さま……動かないでくださいまし」
 と、不意に菖蒲にそんな事を言われ、月彦は体を菖蒲の方に向けたまま素直に動きを止めた。菖蒲は月彦の両肩に手を置くと、そのまままるで口づけをするかのように唇を寄せ、月彦の頬についていた赤い米粒一つを己の舌先でぺろりと舐めとった。
「あっ、菖蒲さんっっ!!」
「……申し訳ありません。ご飯粒がついておられましたので」
 ビキビキビキ――固い壁にヒビでも入るような音が背後から聞こえて、月彦は背筋を凍り付かせた。
「……………………昨日の夜、何かあったの?」
 限界まで引かれた弓の弦から発せられるような、そんな張りつめた声に月彦は全身の毛を総毛立たせた。
「な、無い! 何も無かったぞ!」
「……バレてしまいましたか」
 真央の方へと向き直り、力一杯否定する月彦の背後で、その努力を台無しにするような菖蒲の呟きが漏れた。
「実は昨夜……真央さまが眠られた後、月彦さまに夜這いをされまして……」
「ちょっっ、菖蒲さぁああん!」
 昨夜の事は二人だけの秘密という事では無かったのかと食ってかかる月彦を尻目に、菖蒲はほんのりと頬を染め、もじもじと身をくねらせる。
「わたくしも初めは抵抗をしたのですが……月彦さまにそれはもう激しく求められて……やむなく操を――」
「あ、菖蒲さん?! 冗談もほどほどにしないと、ほら……真央が本気にするから、ね?」
 ゴゴゴゴゴ……背後から寄せられる濃密なプレッシャーに、月彦はもう真央の方を振り返る事すら出来なかった。
(ああああああヤバい、死ぬっ、ていうか死んだ! 俺は今日、ここで死んだ!)
 ガクブル状態のまま、月彦は考えられる限りの近未来シミュレーションを行い、しかしどのルートをたどっても最終的には真央から逃げ切れず、うつぶせに倒れ込んだ所を背後から包丁でメッタ刺しにされるという結論に達した。
 ――が、事態は突然、月彦の思いも寄らぬ方向へと変化した。
(…………あれ?)
 あれほど凄まじかった真央の漆黒のオーラが次第に、ふしゅるるるる……と力強さを失い始めたのだ。月彦は恐る恐る振り返ると、真央が折れた箸を握りしめたまま目を瞑り、必死に深呼吸を繰り返していた。
「ま、まおー…………?」
 月彦は恐る恐る声をかけるも、真央はただひたすらに深呼吸を繰り返すばかり。そして五分ほど黙り込んだまま深呼吸を繰り返した後、唐突に瞼を開けるや、にっこりと微笑んだ。
「大丈夫だよ、父さま。私、そんな嘘信じたりしないから」
「ま、真央……?」
「菖蒲さん、全部冗談なんでしょ?」
 そして、今度は菖蒲にもにっこりと微笑みかける。菖蒲は一瞬きょとんと目を丸くした後、すぐに愛想笑いを浮かべた。
「はい、冗談でございます」
 微笑みながら、そっと真央に新しい箸を手渡した。
「今日のお昼頃には葛葉様がお帰りになられるという事ですので、この朝食がわたくしが作る最後の食事という事になります。……そういうわけですので、少しだけ奮発させて頂いた次第にございます」
「な、なぁーるほど! そういうことだったのか! だから赤飯だったんだな! うん、すごく美味しいよ、菖蒲さん!」
「ありがとうございます」
 冷や汗をだくだくと流しながら、月彦は空笑い混じりに食事を再開させた。が、九死に一生を得られた事を素直に喜んで良いのか解らず、その心中は非常に複雑だった。
(何故だ……何故、真央はあそこで……)
 どう考えても不自然な挙動だった。いつもの真央であれば、あのまま嫉妬に任せて怒り爆発、取り返しのつかない事態になることは明白の筈だった。
(……まさか、真央……自発的に……我慢……したのか?)
 そうとしか思えなかった。
「きゃっ……と、父さま!?」
 月彦は無言で、隣の席の真央をぐいと抱き寄せ、そのままわしゃわしゃと頭を撫でた。
(……よく我慢した。偉いぞ、真央)
 菖蒲が居る為、今はおおっぴらに褒めてやることは出来ないが、今夜にでも早速“ご褒美”をやるからなと、その手付けのつもりで月彦は何度も真央の頭を撫でつけた。


「じゃあ、学校に行って来るよ。菖蒲さん、今までありがとう」
「はい、月彦さまも真央さまもお気をつけて。……こちらこそお世話になりました」
 昼には葛葉が帰ってくるということは、菖蒲の仕事もそこで終わりということだ。昨夜の密約によって、今度の白耀との喧嘩については菖蒲のほうから頭を下げて戻るという事に決まっているから、学校から帰る頃には菖蒲は既に白耀の元に返っている事だろう。
 菖蒲に見送られて真央と二人、玄関から出ようとした矢先――の事だった。
「あっ……」
 ドアを開けるなり、今まさにインターホンを押そうと手を伸ばしていた人影とばったり顔を合わせ、互いにぎょっと上体を反らしあった。
「は、白耀!?」
「月彦さん!?」
「兄さま………?」
 玄関前に立っているのは紛れもない、窶れに窶れて目の下にはどす黒いクマを作った真田白耀に他ならなかった。
「よ、良かった……月彦さん、ご無事だったのですね!」
「無事……って、どういう事だ?」
「ずっと……ずっと心配だったのです……僕は、なんと恐ろしい事を……いくら、月彦さんが妬ましかったからとはいえ、あんなものを渡してしまうなんて……」
「待て、待て……白耀、落ち着いてちゃんと順序立てて話せ。……真央、先に学校に行っててくれるか? 俺は白耀の話を聞いてから追いかけるから」
 場合によっては遅刻になるかもしれない可能性を鑑みて、月彦は真央を先に行かせる事にした。真央は真央で、相変わらずこの美形の兄にはあまり興味がないのか、二つ返事で頷くととたとたと一足先に学校へと駆けていった。
「それで、話を戻すが……あんなもの……っていうのは酒の事だよな? それがどうしてまずいんだ? 毒でも入ってたのか?」
「いえ……あの酒自体はあくまでただの酒です。……ですが……その……菖蒲は以前酒に酔った勢いで――」
「古い話でございます。月彦さまがお知りになる必要はございません」
「あ、菖蒲っっ!」
 月彦の背から聞こえた従者の声に白耀は過敏に反応し、月彦を押しのけるようにして玄関の中へと足を踏み入れるや否や、両膝と両手を菖蒲の足下へとついた。
「僕が、僕が全て悪かった! もう二度と、決して君を叱ったりはしない! 頼むから……屋敷に戻ってきてはくれないか……この通りだ!」
 そして最後には額まで玄関マットにこすりつけるようにしての、白耀は涙混じりに言った。どこからどう見ても土下座であり、主人が従者にとる態度ではないのだが、それだけに端で見ている月彦ですらも胸に迫るものを感じる光景だった。
(……白耀、そこまで……菖蒲さんの事を……)
 ズキリと、胸が鋭く痛んだ。ひょっとして、自分は取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと、今更ながらに月彦は恐れを抱いた。
「白耀さま……」
 菖蒲もまた、かつての主人の醜態に困惑し、そしてちらりと月彦の方へと意味深な視線を送ってきた。それはさながら、『御主人さま、私はどうすればいいのですか?』と問いかけるかのような、指示を請う視線だった。
 月彦はただただ無言で頷いた。
「……白耀さま、顔を上げてくださいまし。……謝って頂く必要はございません。……此度の事は、私の方にこそ全面的に非がございます。……本当に申し訳ありませんでした」
 そして月彦の“許可”を受けるや否や、菖蒲もまたそっと膝を折り、手をついて深々と頭を下げた。その言葉を聞いて、はっ、と白耀が頭を上げ、ほろほろと涙をこぼし始める。
「あぁっ……菖蒲っっ! 僕は、本当にバカだった……何故もっと早くに素直にならなかったのだろう…………」
「いえ……わたくしの方こそ……愚かな事をいたしました……」
「ちょっとちょっと、二人とも、とりあえずそれくらいにして、続きは屋敷に帰って二人きりで……な?」
 放っておけば、どこまでも謝罪合戦になりそうな雰囲気に、月彦はたまらず声をかけた。
「あっ……す、すみません……月彦さん…………今回の事は、月彦さんにも随分とご迷惑をおかけしました。……お詫びは、後日改めてさせていただきます」
「そんなのはいいって……俺も真央の時に白耀には大分迷惑かけちまったし……とにかく、もう二度と菖蒲さんを手放したりするなよ? 今度は本当に食べちゃうからな?」
「はい!! もう二度と離したりはしません!」
 白耀は――白耀にしては珍しく――菖蒲の手をぎゅうと力強く握り、力一杯の笑顔で答えた。その横で、戸惑うように視線を泳がせている菖蒲には、無論気がついていない。
「そうだ、菖蒲、朝食はもう済ませたのか? まだなら今日は是非僕に作らせてくれ。君のために手を尽くして秋刀魚を集めさせたんだ」
「それは……ありがとうございます。……とても、嬉しいです、白耀さま」
「こらこら、白耀、だからそういうのは帰ってからやれって。俺もこれから学校に行かなきゃいけないんだ、遅刻しちまう」
「あっ……そうですよね、申し訳ありません! さぁ、菖蒲……月彦さんの邪魔になってはいけない。早く帰ろう」
「はい…………あの、月彦さま………………お世話に、なりました」
「ああ、今度はちゃんと仲良くするんだぞ」
 月彦は笑顔で二人を見送り、そしてドアが閉まるやいなやはたと、真顔に戻った。
(……これで、一件落着………………なの、か?)
 昨夜は、自分の身を守るためにはこの方法しかないと思った。
 死線はくぐるはめになったが、最終的にはそれは成功し、自分にも、そして真央にも今後一切手出しはしないと誓わせる事も出来た。
 だが、本当にこれで良かったのかと聞かれると、頷くことに一抹の躊躇いを禁じ得ない。否、禁じ得ないどころか、首を横に振ったほうが正しくさえ思える。
 白耀に腕を引かれ、玄関から出て行く時の菖蒲の表情が脳裏に蘇る。本来の想い人と復縁する事が出来て嬉しい――そんな表情ではなかった。むしろ、人買いに連れて行かれる村娘のそれのような――。
「………………。」
 月彦は靴を脱ぎ、そのまま脱衣所へと向かった。しかし服は脱がず、浴室にまで入るとぴっちりと戸を閉めた。
「うぉおおおお………………やっちまったぁぁぁぁぁああァァッ!!!!」
 月彦は頭をかかえ、そして仰け反るようにして力一杯叫んだ。

 

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