白石妙子は、自室で戦慄していた。その手の中には、先だって受けた模試の点数が書かれた紙が握られていた。
 そんなバカな――と、震えすら覚えた。確かに、いつになく問題が難しく感じた。実際、答えがわからない問題も多く、これは全体的な平均点自体相当に低いだろうと。そう思った。
 そう、解ける問題は少ない。だが、それは自分以外の者達も同じ筈なのだ。ならば、結局の所普段の勉強量が物を言うという結果には代わりはない。つまるところ、妙子が平均50点しかとれなくとも、全国の他の模試受験者が平均25点しかとれなければ何も問題はない――筈だった。
 しかし、その目論見は甘かった。甘すぎたと言わざるを得ない。担任教師からほんの小一時間ほど前に手渡された用紙には妙子がとった点数は無論の事、同じ高校の受験者の平均点と全国の平均点なども記載されていた。そして、妙子のとった点数は全ての教科においてそのどちらにも届いていなかった。
(そんな……なんで……)
 確かに、ここのところあまり意欲的に勉強には取り組めなかった。だからといって、そうそう急激に学力が低下する事などありえない。そう、こんな事はありえないのだ。ありえない筈なのに――今、実際に自分の手には五教科合計で250点にすら満ちていない衝撃の試験結果が記載されている。
 今までの人生でただの一度も“平均点”と呼ばれるものよりも下の点数をとったことがない妙子にとってこれは凄まじい衝撃だった。立ちくらみすら覚えた。
「ひっ……!?」
 突然、室内にインターホンの音が鳴り響き、妙子は悲鳴にも似た声を上げた。そうなのだ、模試の結果が出たという事は“あの男”が――。
 インターホンが、再び鳴る。無視をするわけにもいかず、妙子は恐る恐る玄関まで歩き、そしてそっと鍵を開けた。――瞬間、勝手にドアノブが回り、勢いよくドアが開かれた。
「よう、妙子! 模試の結果返ってきただろ?」
 ドアを勝手に開け、憎たらしいほどの笑顔を見せるのは当然、“賭け”を持ちかけてきた張本人、紺崎バカ彦だった。制服姿ということは、家には帰らずに直接帰りに寄ったのだろう。
「早速結果見せあおうぜ。上がっていいだろ?」
「あっ、ちょっ……」
 妙子が返事を返す間もなく、月彦は勝手に部屋に上がり込んでしまう。仕方なく妙子もその後に続くと、月彦は勝手にコタツへと入り込み、いそいそと自分の鞄をあさっていた。
「いやー、さすが妙子が受ける模試ってなだけあって難しかった。三百点以上とるのがやっとだったぜ」
 そんな月彦の何気ない一言が、妙子の胸に深く突き刺さった。その言葉が真実であるならば、既に合計点そのものが負けている事が確実になるからだ。
(こんなバカですら……三百点以上とったっていうの……?)
 妙子は月彦に背を向けるようにして、そっと用紙に書かれた自分の点数を確認する。何度見ても、そこには合計243点としか書かれていない。
「ああ、あったあった。ほらよ、妙子。五教科合計で391点、これが証拠だ。お前のは?」
 妙子は躊躇いながらも月彦が出した用紙を手にとり、その点数を確認した。合計点、391点。何度見ても、その点数に間違いはない。
(そん、な……)
 243点という結果を目にした時――そして、それが全国平均点すら下回っていると知った時――或いは合計点で負けるかもしれないという予感はあったし、その覚悟は少なからずしたつもりだった。
 しかし、“百点差”つけられた時の覚悟までは決まっていなかった。
「おい、妙子。お前の早く見せろよ」
「え、と……私、のは……」
「その手に持ってるのがそうじゃないのか?」
「あっ……やだっ、ちょっ……」
 めざとくみつけられ、妙子はあっさりと用紙を奪われた。月彦がすぐさま目を通し、そしてにやりと笑みを浮かべる。
「合計243点……なんだ、随分低いな」
「ま、待って……違うの、それは……事情があって……」
「まぁ、どんな事情があったって構わないさ。たまたま調子が悪かった、って事もあるだろう。……だけどな、妙子?」
 月彦はコタツから立ち上がり、ずいと距離を詰めてくる。ひっ、と妙子は悲鳴を盛らし、その迫力に押されるようにして後ずさりをした。
「どんな事情があったにせよ、約束は守らないといかんよな。……人として」
「そ、それは……そうだけど……で、でも! やっぱりおかしいわよ! こんな、模試の結果なんかで――」
「今更何言ってんだ。こうして文章にまでして、互いの署名までしただろうが! 今更イヤとは言わせねーぞ!」
 月彦は鞄から取り出し、契約書めいた文面のそれを妙子に突きつけてくる。
「っ……わ、解ったわ……月彦……私が、間違ってたわ……ね? ちゃんと謝るから……だから――」
「いいや、ダメだ。今更そんな事が許されると本気で思ってるのか?」
「えっ……や、やだっ……ちょっ……きゃんっ!」
 腕を捕まれ、強引に引き寄せられるようにして、妙子はコタツの脇へと押し倒された。そこに、月彦が影となって被さってくる。
「ま、待ってよ! や、約束は……ちゃんと守るから……だから、せめてもう少し時間を……」
「いーや、ダメだ。今すぐヤる。ほら、早く服を脱げよ。脱がないなら無理矢理脱がせてやる」
「ちょ、ちょっとっ……やだっ……やっ――嫌ぁぁぁァァァッァアアアアッ!!!!」


 襲われる恐怖が最高潮に達したその刹那、妙子は自らの悲鳴と同時に上半身を跳ねさせ、布団から飛び起きた。
「はぁ……はぁ……はぁ………………ゆ、夢……?」
 闇一色の室内の中で、ぎゅっと両手で肩を抱きながら、妙子は全身を震わせた。冬場だというのに下着もパジャマも気持ちが悪いほどに寝汗を吸っており、それらが気化熱によって妙子から体温を奪いつづけていたが、歯の根が鳴りっぱなしなのは勿論寒さだけが理由ではなかった。
「〜〜〜〜〜っっっ……あん、のっ……バカ彦ぉっ……!」
 目尻に滲んでいた涙を拭う。頭がはっきりしてくると同時に、すさまじい怒りが沸々と沸き起こり、妙子は拳を握りしめてぼすっ、ぼすっ、とマクラめがけて何度も何度も打ち下ろした。

 たっぷりと汗を吸ったパジャマを脱ぎ捨て、シャワーを浴びて自室に戻るとカーテンの隙間からうっすらと朝日が差し込んでいた。時計に目をやると七時少し前といったところだった。いつもより一時間弱早く起床してしまった事になる。
(……最悪、だわ)
 大嫌いな男にレイプまがいの目にあってたたき起こされるなど、最悪の寝覚め以外の何物でもない。妙子は憤然としながらも朝食を簡単に済ませ、いつも通りの時間に家を出た。
 そして、家を出て最寄りのバス停でバスを待つ段階になって、はたと。妙子はいつも持ち歩いているウォークマン――父からのお下がりの年代物――を家に忘れてきた事に気がついた。
 一瞬、取りに戻ろうかと迷ったものの、結局止めてそのままバスに乗った。本来ならば、バスが高校最寄りのバス停に着くまでの約二十五分間はそれで録り溜めしたラジオを聞くというのがいつもの生活スタイルなのだが。
(…………あんな夢を、見たせいだわ)
 それで、一日の生活のリズムが頭から狂ってしまった。結果、妙子は約二十五分間を手持ちぶさたな状態で過ごし、若干の寝不足も相まってお世辞にも機嫌が良いとは言えない状態で如学の門扉をくぐった。
 私立如水学院。元々は如水女学院という名前だったのだが、数年前から共学に変わり今では全校生徒の二割ほどだが男子も通っている。共学化した理由については、嘘か誠か「語感が悪いから」だと言われているが、本当の理由は妙子も知らないし、知りたいとも思わなかった。
 生徒数は一学年およそ二百人、一学年にクラスは五つずつあり、うち一クラスが体育科、もう一クラスが特進科と呼ばれる特別クラスだった。体育科はその名の通りスポーツ特待生の類が所属すクラスであり、特進科は成績が一際優秀で尚かつ本人が希望した場合にのみ所属することが出来るクラスなわけだが、妙子が所属するのがこの特進科だった。
「たゆりん、おっはよー」
 教室に入り、自分の席につくや否や、そんな間延びした声が背後から聞こえて妙子は軽い頭痛を覚えた。
「……英理、いい加減そのあだ名で呼ぶの止めてくれない?」
 妙子が声をした方へと振り返ると、同じく特進科の小曽根英理がそのトレードマークともいえる毛糸帽子と、それが乗っかっている天パ気味のぽわぽわ髪を揺らしながらとたとたと駆け寄ってくるところだった。
「ふぇー、なして?」
「なして、じゃないわよ。いい、私の名前は妙子。た、え、こ。たゆこじゃないの。たゆりんじゃおかしいでしょ?」
「おかしくないよぉ? “おっぱいたゆたゆの妙りん”の略でたゆりんにゃりよ?」
「………………もういいわ」
 妙子はため息混じりに友人の説得を諦めた。一応言ってはみたものの、これ以上の説得がどれほどの徒労感を生むかということは、いままでの付き合いで嫌というほどに思い知っていた。
(……こんなに頭の緩そうな子なのに)
 その成績は自分と同等かそれ以上というのが、妙子には未だに信じがたかった。
「そーそー、話は変わるけど、たゆりん昨日のフィーナイ聞いたー?」
「……聞いたわよ」
 フィーナイというのは、稲光ハシルという元オペラ歌手のDJがやっているラジオ番組“フィーリング・ナイト”の略であり、数あるラジオ番組の中でも特に妙子が贔屓しているものの一つだった。
(…………ていうか、そもそもこの子達との付き合いが始まったのも……)
 本来、人付き合いが苦手であり、クラスメイト達とも世間話や授業の話はくらいはするがそれ以上の関係――いわゆる、休日に一緒に遊んだりするような――に自ら積極的になろうとはしない妙子にとって、あの幼なじみ一味以外にまともな(?)友人(?)が出来た事自体ある意味では奇蹟だった。
 それも、幼なじみ達にすらない共通の話題――否、趣味と言ってもいいそれを共有した仲間(?)が。
 そもそもの発端は、妙子が件のラジオ番組を聞いていた時の奇妙な既聴感だった。あるリスナーから寄せられるファックスやハガキの内容が、どう考えても先日学校で起きた事件、或いは生徒間のやりとりなどを元にしたネタとしか思えないということが度々続いたのだ。試しに今度は妙子の方がそういう“身内ネタ”をハガキに書き、番組で読まれると、翌朝一部のクラスメイトだけが不審な動きをし始めた。
 そして、そんな事が何度か続いたある日、その一部のクラスメイトの片割れにとうとう面と向かって聞かれたのだ。『キミがラジオネーム“黒ポメ”なのかい?』――と。
(……我ながら、早まったことをしちゃったわ)
 今思えば、恐らくは飢えていたのだろう。そういったラジオの話題が共有できる友達というものに。――その結果、とんでもない連中に毎日のようにつきまとわれる事になってしまったわけだが。
「さゆりんのファックス五回も読まれてたにゃりねー、ハガキもコーナーに採用されたのが三つもあったにゃり」
「……確かに、凄かったわ。凄かったけど――」
 と、そこまで言いかけた所で、教室の戸ががらりと大げさな音を立てて開かれた。
「君、悲しいではないか!」
 噂をすればなんとやら。教室に入るなり、ハスキーがかった声で声高に叫ぶクラスメイトを見て、妙子はさらに頭痛が酷くなるのを感じた。
「おー! 悲しいではないかー!」
 拳を振り上げながら元気いっぱいに応えたのは英理だけった。妙子を除いた他のクラスメイト達は、最早見慣れた二人組の奇行に一瞬だけざわめきを止めたものの、すぐに何事も無かったようにそれぞれの世間話を再開させた。
「やあやあ、同志諸君。手厚い歓迎感謝する」
「歓迎してないし。朝っぱらからテンション高すぎだし……ていうかなんでいっつも私の机に寄ってくるのよあんたらは」
 当たり前の様に妙子の席へと歩み寄ってくる同じく特進科クラスメイト、倉場佐由に向けて、妙子はしっ、しっ、と犬でも追い払うような仕草をする。ぽわぽわ頭も相まってどちらかといえばぽっちゃりとした印象を受ける英理に対して、妙子よりもやや高い身長にすらりとした体つきに切れ長の目、時折なんとも力強い寝癖を生み出すクセの強いショートカットの佐由は二人並べるとまさに凸凹コンビという感じだ。
「さゆりん、丁度今たゆりんとフィーナイの話してたにゃりよ、さゆりんのファックス凄かったにゃり」
「うむ。アレは我ながら会心の出来であったと自負している。稲光氏が腹筋崩壊して放送事故になりかけたのもやむなしと言えるだろう」
「……確かにギャグのキレは凄かったけど……もうちょっと……」
「うん? どうした、同志黒ポメ。言いたいことがあるならハッキリと言い賜え」
「うるさい、誰が同志よ。あと学校でその名前口にしないでっていつも言ってるでしょ!」
「気にする事はないさ。我らラジオ志士の高尚な会話に聞き耳を立てている不埒な輩など居るまいし、居ても到底理解は出来まい。何なら、お返しに君も私のラジオネームを口にしてくれても良いのだよ? さあ、大きな声で叫んでみたまえ!」
「あんたのラジオネームって……い、言えるわけないじゃない!」
「あははー、さゆりんのRNは公序良俗に反しまくりにゃり。昼のラジオ番組だったら絶対読んでもらえない名前にゃりね」
「失敬な……神聖なる鳥と書いて神聖鳳鶏の何処が公序良俗に反するというのだ」
「いーからっ、口に出して言うな! あんたってばどーしてそー……昨日のファックスだって酷いシモネタばっかりだったし……今時小学生だってあんな下らない事言わないわよ」
「これはしたり。二重三重にウィットの効いたギャグと、時にきわどすぎるエロネタでリスナー間にファンすら出来つつある同志黒ポメの言葉とは思えぬ。所詮私のシモネタは君の二番煎じに過ぎぬというのに」
「だ、誰がいつエロネタなんか書いたっていうのよ! いい加減な事言わないでよ!」
「たゆりんは自覚なしに時々すんごいエロいネタ送りつけるにゃり。ある意味、さゆりんよりも卑猥にゃりねー」
「……もういい、わかったから…………あんたたち早く散って自分の席についてよ……こんな話してたら私までみんなに誤解されるじゃない」
 殆ど泣きそうな声で妙子は言ったが、妙子の机を挟むように陣取っている女子生徒二人はその脚をミリほども動かそうとはしなかった。
「時に、同志黒ポメよ。昨日、そこにいる同志いろはより気になる報告を受けたのだが」
「……予鈴鳴るまで意地でも離れないって事ね。……気になる報告って何よ」
「曰く、最近たゆりんから男の気配がするー、と」
「ぎくり」
「……って、こら! 何が“ぎくり”よ! 勝手に変な擬音口にするんじゃないわよ!」
「その発言は己の罪を認めるということかな」
「なんでそうなるのよ! 彼氏なんか居ないし、そもそも仲の良い男子なんか一人も居ないのはあんたたちだって知ってるでしょ!?」
「でも、たゆりんはクリスマスにもうちらの集いに顔を出さなかったにゃり。隠れて男と会ってた公算は大にゃり」
「そうだぞ。折角同志黒ポメを我らの姫に紹介する良い機会だったというのに」
「姫って……前に理科実験室爆破して無期停学食らって、そのせいで留年したとかいうあのアブない先輩の事でしょ? そんな人と関わりなんか持ちたくないわよ」
「おっと、姫をディスるのはそこまでにしてもらおうか。いみじくも主従のちぎりを結んだ間柄故、姫の敵に回るというのであれば同志黒ポメといえども容赦は出来ぬ」
「雛森先輩はいい人にゃりよ? ちょっと変わってるけどー」
「……あんたらから見て“ちょっと変わってる”は常人から見たら十分危険域なのよ。ほら、もう予鈴が鳴ったからいい加減散った散った!」
「……どうした、同志黒ポメ。今朝はいつになく機嫌が悪いな。通学途中のバスで痴漢に遭遇して、そのふしだらな巨乳を油臭い中年にたっぷりと揉みしだかれでもしたのか?」
「きっと“あの日”にゃりよ。触らぬ神に祟り無しー」
「あーもう、うるさいうるさい! いいから散れ! ほら早く!」
 堪りかねるように席を立ち、妙子が腕まくりして拳を振りかぶると、友人(?)二人はしぶしぶそれぞれの席へと戻っていった。それを確認してから――とでも言うようなタイミングで、本来の隣の席の女子が自分の席へと着席した。
「白石さん、毎朝大変ね」
 心底同情するようなクラスメイトの言葉に、なんと返せばいいのか。妙子はただただ苦笑するしかない。大変だと思うのなら連中が側に居る時に助けて欲しいと思うのだが、変に絡まれるのは嫌だという常識的な気持ちも理解できるから、それも口に出来ない。
(……それもこれも、全部あのバカ彦のせいよ! …………手加減なんか、絶対してやらないんだから)
 最早完全に八つ当たりなのだが、妙子にとって最も怒りの対象をスライドしやすい相手である事には間違いがなかった。無論、そういう意味で紺崎月彦の存在が時折役に立っている事など、妙子自身知るよしも無かった。



 時間が、足りない。時よ止まれと、何万回願った事だろうか。
 学校へ行く道すがらも参考書片手に、授業中も授業などほぼそっちのけで模試の過去問に取り組み、休み時間は言うに及ばず。その鬼気迫る勉強風景にクラスメイトは愚か授業中ですら、担当の教諭が何も口を挟めない程に没頭して尚、月彦が目標とする学力水準には到底足りなかった。
(……古文、漢文については昨夜の一夜漬けでなんとかなりそうな気はする。日本史は元々得意だから、やること自体はそう多くはないし、所詮は暗記だ。英語も、多少なりとも先生に教えてもらった分でとっかかりはつかめた)
 しかし、ここに来て最後の難関である数学、そして物理が重しのように月彦にのしかかっていた。どちらも苦手教科であり――選択理科である物理は比較的難易度の低い生物を選ぶという道もあったのだが、そちらはそもそも授業すら受けておらず、化学に至っては物理以上にチンプンカンプンだったりするから論外――過去問自体、どれほど参考書片手に取り組んでも解ける気がしなかった。
(…………恥も外聞もない。…………数学と物理の先生に尋ねるか)
 普段なにかと煙たがっていた手前――尤も、面と向かって煙たがった事はないが――頼みづらいというのはある。が、しかし事ここに至っては最早背に腹は代えられない。一応、雪乃から過去問を貰う際に模範解答一式も貰っているのだが、マークシート形式故か、数学や物理などは最後の答えのみしか書かれておらず、途中計算などが皆無な為まるで手が出ないのだった。
 月彦は意を決して、帰りのホームルームが終わるや否や心配そうに声をかけてきた和樹に二つ返事で「俺は大丈夫、問題ない」の一言だけを残して職員室へと向かった。
「……むっ!?」
 廊下の中程で、月彦は不意に背後から視線を感じて足を止めた。振り返ると、三々五々教室から散っていく生徒の姿に混じって、遙か後方――階段へと繋がる曲がり角付近で、なにやら見慣れた顔がぴょこっと引っ込むのが見えた。
(………………あの髪は……)
 顔自体は引っ込んだのだが、その特徴的すぎる前髪が物陰から飛び出したままになっていた。月彦は些か迷った挙げ句、側まで歩み寄って声をかけてみることにした。
「……月島さん、何か用?」
 声をかけるや、びくっ、と前髪が揺れ、遅れて本体の方が物陰から姿を現した。
「つき………………紺崎、くん……ぐ、偶然……だ、ね」
「ああ……本当に偶然だね。……それで、何か用かな?」
 いつもより少々余裕の乏しい月彦はつい結論を急ぐように、早口に尋ねた。月彦のそういった部分を敏感に感じ取ったのか、ラビはうぐっ、と俄に笑顔を曇らせるものの、すぐに満面の笑みへと戻った。
「あ、……あの、ね?」
「うん」
「ぶか、つ……行こ?」
「部活……」
 ああ、そういえばと。月彦は思い出した。言われてみれば、今週はただの一度も部室に顔を出していなかった事を。
(……ていうか、そもそも部活動なんて何もしてないも同然な部なんだが)
 雪乃への義理でたまには顔を出すようにはしてるが、行った所で何がどうなるというものではない。ラビや雪乃と世間話じみた話をしたり、お菓子をつまんだりお茶をしたりして日が暮れたら解散――それだけの部活(?)だ。
 正直なところ、雪乃さえ「もう天文部なんてどうでも良い」と言ってくれれば、かえって重荷が消えてすっきりするくらいの感覚だっただけに、月彦にはラビの申し出が心底意外だった。
(…………ひょっとして、あんな部活でも月島さんにとっては楽しい……のかな?)
 確かに、部活中のラビはいつもにこにことしていてとても楽しそうに見えたものだった。初期の頃などは、どうしてこの部は真面目に活動をしないのかと、いつかつっこまれるのではないかとヒヤヒヤしていたものだが、それらは全て杞憂に終わった。
「……ごめん、月島さん。俺今日、やることあるから」
 しかし、ラビにとってどれほど楽しい時間であったとしても、今日ばかりは付き合ってやることはできない。月彦は胸を痛めながらも、キッパリと断りを入れた。
「ぁぅ…………じゃ、じゃあ……あし、た……行く?」
「ごめん、明日も無理なんだ。……模試の勉強をしなきゃいけないんだ」
「も……し?」
「ほら、今度の土曜日に希望者だけで全国模試やるって……先生から聞いてない? それを受けるんだ。だから勉強しないと」
 月彦はちょっとだけ鞄を開け、数学の過去問が書かれたプリントの一枚をラビに見せる。
「俺、数学と物理苦手だからさ。今から先生に聞きに行く所だったんだ」
 決して、その場のデマカセで部活を休むわけではないんだ、と。月彦なりにラビに誠意を示したつもりだった。
「そういうわけだから、今日も明日も無理なんだ。来週なら――って、そうか。来週は来週で中間考査があるからテスト期間で部活禁止か……再来週なら行けると思う」
 月彦は早口に言って、過去問を鞄にしまおうとした――が、その瞬間「あっ」とラビが声を上げ、月彦はやむなく手を止めた。
「……月島さん?」
「そこ……間違っ、てる」
 ラビは自分の鞄から筆記用具を取り出し、月彦から過去問のプリントを受け取るや、廊下の壁を机がわりにして、月彦が途中で断念した計算式の隣にすらすらと数式を書き込み始める。
「これ、が……答え、だよ」
 ぎょっとして、月彦は雪乃に貰った解答集に書かれている数値と見比べた。結果、両者はまったく同一の値だった。
「………………月島さん、ひょっとして………………数学得意?」
 こくこく、とラビは何度も頷いた。
「まさかとは思うけど……物理も得意?」
 こくこく、と。ラビは何がそんなに嬉しいのかとつっこみたくなるほどに、笑顔で頷く。
(……待てよ、そういや月島さんって……“入部試験”の時も……)
 単純な割り算とはいえ、難解な数値同士のそれを頭の中に電卓でも入ってるのではというスピードであっさりと解いていた。むしろ何故今までラビに数学が出来るかどうかを尋ねなかったのだろう。
「……月島さん、もしよかったら……今日、これから部室で数学と物理の勉強教えてもらえないかな?」
 ラビは零れんばかりの笑顔を浮かべて、大きく頷いた。

 ラビと部室で勉強するに至って、不安要素となるのは雪乃の存在であったが、それに関しては問題は無かろうというのが月彦の推測だった。
(…………なんか、アレから避けられてるしな、俺)
 雪乃のマンションで勉強会をしたその日以降、月彦は一度もまともに雪乃と口を利いていなかった。月彦としてはまだまだ英語の勉強が不十分であるから、さすがに部屋に行くまではしなくとも、放課後にちょっとだけ解らないところとかを教えてもらえたりとかしてもらえないかなと、何度か接触を試みたが、その都度雪乃は顔を真っ赤にして足早に去ってしまうのだった。
 とにもかくにも、雪乃がそういう状態であるならば、部室にわざわざ顔を出したりはしないであろうから、ラビと二人きりで部室に居た所で何も問題は無かろうと月彦は判断した。
(まぁ、仮に先生が来た所で、本当に勉強しかしてないわけだし)
 何を責められるいわれもない。
「それで、月島さん…………早速だけど、この問題教えてもらえるかな?」
 ラビはこくりと頷き、月彦の手からプリントを手に取ると、早速にホワイトボードに数式を書き始める。
(……ふむふむ……なるほど、そういう事か!)
 ラビは極力計算式を省略せず、一問一問丁寧に答えを導き出していく。さらにいちいち使った公式などを横にきちんと書き加えていく為、ラビが無言で数式を書き連ねていく中、月彦もただの一度も「その式はどこから出てきたんだ?」と質問する必要すら無かった。
(…………妙子もこうして教えてくれりゃーなぁ……)
 と、ラビの書いた数式をルーズリーフに写し取り頭にたたき込まれながら、はたと。月彦はそんな事を思った。
 はいこれとこれとこれを制限時間内にやれ。間違った箇所はもうすこし自分で考えろ。考えてできなければ仕方がないから教えてやる――それは、自主性を促すという意味では間違いではないのだろうが、少なくとも自分には合わないと月彦は感じた。
「………………どう?」
 はたと気がつくと、数式を書き終えたラビがやや不安げな面持ちで小首を傾げていた。
「うん、すっげー解りやすいよ。月島さんありがとう」
 月彦は素直に礼を言い、大急ぎで残りの数式をルーズリーフに書き写した。書き写しながら目を見開き、しっかりと頭に刻み込んだ。もう一度同じ問題、似たような問題が出た時には間違いなく解けるようにと。
「それで、月島さん……こっちもお願いしたいんだけど」
「……見せ、て」
 月彦は同じく解けなかった問題が乗っている過去問のプリントをラビに見せる。ラビはさっと目を通すや否や、すぐさまホワイトボードにスペースを作り、新たに数式を書き込み始める。
(…………スゴいな。見た瞬間もう答えなんか頭の中で出ちゃってるって感じだ)
 そしてラビがあまりにもすらすらと簡単に問題を解いていく為、それらを写し頭に刻み込む作業そのものが生理的快感にすら思える。それはさながら、RPGで強敵にぶつかり立ち往生していた所に強力なスキルを持つ仲間を得て一気に道が開けた時のような爽快感に似ていた。
(……すげぇ……一人で三時間以上考えて解らなかった問題がたった十五分で片づいちまった……)
 やったことと言えば、ただただラビが書いた数式を写し取っただけなのだが、それらが極めて順序立てて解り安かった為、自分でも驚くほど簡単に脳へと吸収されていた。中学以来、ずっと数学に悩まされていた月彦としては、まるで頭がよくなる魔法でもかけられたような気分だった。
 その後も月彦は立て続けに自分が解けなかった問題をラビに見せ、解いて貰うという作業を繰り返した。どんな問題を見せてもラビが悩みその手が止まるという事は無く、二時間後には数学も、そして物理も解らない問題は全て解き方がルーズリーフに記されている状態になっていた。
「……ふぅ、ありがとう、月島さん。すげー助かったよ!」
「…………………どう、いたしまして……。」
 ラビは俄に頬を赤らめ、そしてマーカーを置き、右手をプラプラさせた。
「ああ、ごめん。ずっと問題解きっぱなしで腕疲れたんだよね。良かったらマッサージしようか?」
 それは、他愛のない冗談のつもりだった。『もうっ、紺崎くんってば、やだー』等とはラビは言わないであろうが、似た感じで否定された後、『じゃあお礼に飲み物でも』と、何か暖かいものでも買ってくるつもりだった。
 だから。
「………………。」
 俄に頬を赤らめたラビが戸惑いながら右手を差し出してきた時は、月彦は逆に困ってしまった。
(えっ……?)
 差し出された腕を前にして、月彦は俄に固まった。今まで何人かの女性と肌を重ねはしてきたが、腕のマッサージをやった経験など皆無だったからだ。
(……いやでも、言い出した手前、やるしか……ないよな?)
 月彦はやむなくラビの側へと寄り、その右腕を制服の上着の上から丁寧に揉み揉みした。
「……こんな感じでいいのかな?」
 と、時折指示を仰ぎながら、月彦は必死に揉み揉みをした。ラビは時折「んっ」とか「ぁっ」とか艶めかしい声を漏らしはするものの、マッサージ自体は不快ではないらしく、月彦がそろそろいいかなと思って手を引こうとするとあわてて首を横に振って続きを促してきた。
 結局、十分ほどそうして揉み揉みした後、当初の予定通り月彦は店じまい寸前の購買で暖かいココアを買ってきてラビへと手渡した。
「あ、……あり、がとう……」
「どういたしまして。ていうか、お礼言いたいのはほんと俺の方だよ。本当に助かった、ありがとう」
 正直、数学教師や物理教師の所に過去問を持ち込んでいたら、これほど早くは片づかなかったのではと思えた。それだけに、ラビの存在が一際ありがたかった。
(……そうだよなぁ、こんなココアとうさんくさいマッサージだけじゃ、全然お礼し足りないよな)
 さて、どうすればこの感謝の気持ちをラビに伝えられるだろうか――月彦はココアに口をつけながら、しばし考えた。
「…………そうだ、月島さんって……やっぱり天体観測とか、好きなんだよね?」
「……っ!」
 まさかその手の話題を振られるとは思っていなかったのか、ラビは前に突き出た前髪(?)を大きく揺らしながらこくこくと頷き返してきた。
「折角の天文部なんだからさ、今度雛森先生と相談して、夜に学校の屋上で観測とかやってみようと思うんだけど、どうかな?」
「………! ……や、やるっ……やり、やりたっっ……」
「ちょっ、月島さんそんなに興奮しないで、ココア零れるから!」
 部室のパイプ椅子から膝を浮かせ、鼻息荒くココアの缶を握ったままの両手をぶんぶん振るラビをどう、どうと月彦は宥めるようにして椅子に座らせる。
「つ、月島さんが賛成なら、先生には俺の方から話しておくからさ。……一応、話が具体的に決まり始めたら、月島さんが都合のいい日を――」
「いっ」
 と、そこで舌でも噛んでしまったのか、ラビは一瞬苦悶の表情を浮かべ、しばらくして改めて口を開いた。
「いっ……いつ、でもっ…………私、いつでもっっ」
「わ、解ったから……とにかく落ち着いて。先生に話を聞いてみないと、そもそも夜の学校でそんな事していいかどうかも解らないからさ、ひょっとしたら駄目になるかもしれないし……」
 予想を遙かに上回るラビの食いつきっぷりに、月彦は大きな手応えと同時に、鋭い胸の痛みを覚えた。恐らくは――否、間違いなく、もっと早くにそういう事をやりたかったのだろうが、ずっと言い出せなかったのだろうなと。察しがついてしまったからだ。
(………………重ね重ねごめん、月島さん)
 模試が終わり、時間に余裕ができ次第、何とかして必ず観測会を開いてやりたいと、月彦は心に決めたのだった。



 学校からの帰り道、妙子はいつも“尾行者”が居ないか、常に気を張っていた。それは女の一人暮らしという、極めて犯罪の対象になりやすい生活を送っている者として極当然の気構えではあるのだが、妙子の場合それ以外の意味合いも多分に含んでいた。
(…………あんな濃い連中、絶対部屋には入れないんだから)
 “濃い連中”というのは二人のクラスメイトを指し示す言葉だ。確かに、長らくラジオの話題を共有できる相手に飢えていたのは事実ではあるし、しかも贔屓にしている番組まで同じという仲間が同じクラスに二人も居るというのは驚異的幸運とも言えるかもしれない。
 だからといってプライベートな空間にまで踏み込ませるかどうかとなると話はまるで変わってくる。教室でのまとわりつかれ方から鑑みるに、あの二人にアパートの場所と部屋番号がバレたが最後、毎日のように入り浸られるのが妙子には目に見える様だった。
 そのため、妙子は学校からの帰りの際、バスに乗るときは二人の姿が無いか必ず確認をする事にしていた。というのも、以前一度二人に家に遊びに行ってもいいかと尋ねられ、断っても断っても食い下がられ、最終的に尾行までされて家の場所を知られかけた事があるからだった。
(……それに、もしあいつらと……千夏たちがかち合ったら……)
 その瞬間の事を考えると、妙子はぶるりと身震いをせずにはいられない。あんな公共の場で下品な単語を平気で連呼する連中と不可抗力気味とはいえ、付き合いがあるという事を千夏や他の幼なじみ達には絶対に知られたくはなかった。恐らく千夏などは露骨に「妙ちゃん……あんな友達が欲しくて、うちらと違うガッコ行ったん?」と憐憫の目を向けてくる事だろう。それだけは、どうしても避けねばならない。
 ならば、他のまともな友達を先に紹介してしまえば済みそうな話なのだが、悲しいかな妙子にはそういった知り合いは殆ど皆無と言って良かった。勿論、日常的な会話をするクラスメイトならば多数いるが、家にまで遊びに行ったり、遊びに来られたりという付き合いにまでは至っていない。その段階になる前に、あの二人がずかずかと土足で妙子の周りを囲むように占拠してしまい、自ずと“まともな生徒”たちとの距離が隔たってしまったからだ。
(……ああ、もう止め止め! あいつらの事考えるのは止めて、模試に集中しなきゃ……)
 千夏から妙な事を言われたせいもあって、ここのところ勉強に費やす時間が少なくなりすぎ、その分頭の方がエネルギーを持て余しでもしているのか、余計な事ばかり考えてしまう。
 ここは一つ、自分に喝を入れるためにも久しぶりに徹夜で英単語の総復習でもやろうかと、行き同様手持ちぶさたなバスの中でそんな事を妙子は考えていた。
 冬場の日暮れは早い。HRが終わった後、二人に捕まってちょっとしたラジオ談義に否応なく花を咲かされてしまったせいもあって、自宅最寄りのバス停で降りた時にはもうすっかり日が暮れてしまっていた。早いところ近所のスーパーで夕食用と朝食用の食材を買って家に帰ろうと、妙子が早足に歩き出した――正にその時だった。
「……っ!?」
 “それ”が目に入った瞬間、妙子は反射的に電柱の影に身を隠した。そして一拍おいて、そっと顔を出して、恐る恐るその人影へと目をやった。
 妙子の居る場所から五十メートルほど先をとぼとぼと歩いているのは、紛れもない紺崎月彦だった。しかもただ歩いているのではない、まるで二宮金次郎像のように本を片手に歩いているのだ。決して視力が良いとは言えない妙子の目にも、街灯の明かりに照らし出されたそれが漫画や雑誌の類などではなく、参考書か教科書の類である事はハッキリと解った。
(…………あいつ…………本当に…………)
 とくん――胸の奥が、微かに高鳴った。千夏から、月彦が突然人が変わったように勉強をし始めたという話は聞いてはいたが、話に聞くのと実際に見るのとは大違いだった。
 妙子は足音を殺しつつ歩測を早め、さらに月彦との距離を縮めながら何度もその顔を盗み見た。そこにあるのは見慣れた間抜け面などではなかった。文字通り、魂を削るようにして研鑽研磨を重ねているであろう男の生き様が、窶れ顔となってハッキリと現れていた。
(………………何よ……アイツ………………あんな顔も、出来るんじゃない…………)
 とくん、とくん……。
 さらに胸の奥が大きく高鳴り、妙子は咄嗟にぎゅっと手袋ごと右手を握りしめ、己の胸をおさえるようにした。
 妙子には、それほど体調が崩れる程に無理をして勉強に勤しんだ記憶はない。そのようになる前に、常日頃から定期的に学力をつけ、テスト前だからといって決してあわてて徹夜などしなくて済むような状態になる様にしているからだ。
 が、同じく進学校に通っているクラスメイト全員がそうであるかと言えば、そんな事はない。テスト前にだけ何かにとりつかれたように徹夜を繰り返し、一気に学力を上げるタイプのクラスメイトも少なからず居るのだ。そういった連中を見てきた妙子としては、今の月彦の状態がどれほど寝食を削り勉強に励んだ結果なのかという推測が痛い程に伝わってくるのだった。
(…………ほんっと……底抜けでバカな奴……三日かそこら徹夜したくらいで本気で私に勝てると思ってるの?)
 それは、言い換えれば十年剣道に勤しんできた有段者相手に、ド素人が三日間の特訓だけで一本とれるようになろうとしているようなものだった。
(そりゃあ……試験はマークシートだし……極端に運さえよければ幼稚園児でも満点を取ることは不可能じゃないわ。……だけど――)
 そう、不可能ではない。しかし、それはただ不可能ではないというだけだ。第一、今回の賭けでは――
(私が四百点以上とったら、あんたは満点とったってダメなのよ? そんなの不可能だって解らないの?)
 それとも、四百点以上などとれないと思われているのだろうか。だとしたら目算が甘すぎる、と妙子は思う。今回の模試に限らず、今まで五百点満点の全国模試で四百点を下回った事などただの一度も――悪夢を除けば――無いのだから。
(………………千夏の言う通りだわ。……これは、最初から私の勝ちが決まった勝負だったのよ)
 そう考えると、眼前の男が不憫にすら思えてくる。どれほど努力を重ねようが、それは必ず徒労に終わるということが本人にだけは解っていないのだから。
(………………バカ、バカ。……バカ彦…………自分がどれほどバカな人間なのか、思い知れば良いんだわ)
 気がつくと、紺崎邸のすぐ側まで来てしまっていて、妙子はあわてて視線を切って回れ右をした。そのまま殆ど逃げるように自分のアパートまで小走りに駆けた後で、買い物をするのを忘れてしまっていた事に遅まきながら気がついた。
(………………っっ…………なんなのよ、もうっ…………)
 さらに夜道を歩いてスーパーまで行こう――という気には、ならなかった。それよりもなによりも、とくん、とくんと不思議なリズムで高鳴りつづけている己の心臓の音がとにかく耳障りで仕方がなかった。

 そして結局、妙子はその夜も勉強机に向かう事はなかった。



 金曜日の朝、東から登る太陽の初光を、月彦は勉強机に向かったまま受けていた。
(…………夜が明ける……か)
 とても長い、永遠にも思える夜が明ける――それは喜びとも、切なさとも違う、不思議な感慨を月彦の中に沸き立たせた。
(……っ……指が、もう……)
 月彦は徐に左手の指へと視線を落とす。その指先、五指の爪の部分は全て、赤い斑のような色に変わってしまっていた。それは夜中に勉強している最中、あまりの眠気に意識を失いそうになる度に、針で爪の下の肉の部分を突き刺し、痛みで意識を覚醒させつづけた結果だった。勉強に支障が出る可能性を鑑みてさすがに右手にはやらなかったが、しかしおかげで左手は痛み以外の感覚が殆ど無いような状況になってしまっていた。無論、無駄な睡眠など一秒たりともとっている暇のない現状況において、その痛みこそが途方もなくありがたかったりするわけなのだが。
(……あと一日――か)
 試験が開始されるのは、土曜日の朝九時と聞いた。ならば、タイムリミットはあと二十六時間ほどしか無い事になる。それがどれほど少ない時間かということは、この三日間の勉強漬けの生活で月彦は嫌というほどに思い知っていた。
(……本当、朝から晩まで勉強漬けだな……………………そういや、最近姉ちゃんの見舞いにも行ってないな……)
 そんな事を思って、はっと月彦は思わず息を止めた。
(待てよ……そういや、母さんはどうして……妙子を選んだんだ?)
 今の今まですっかり忘れていた自分が言うのも何だが、息子に教師をつけるというのなら何故在校時代成績優秀だった姉ではなく、他人の妙子なのか。
(そりゃあ……姉ちゃんとは仲が悪いし、第一姉ちゃんは入院中だし……)
 とはいえ、学校から帰って妙子の部屋に通うなら、霧亜の病室に通うのも同じではないのか。それに仲が悪いという点を言うなら、自分と妙子とて同じなのだ。“あの母親”がそんな事を考慮する筈がないではないか。
(……何か、意味があるのか?)
 あえて妙子を選んだのは、何か意図するところがあるのだろうか。
(いやいや……母さんの事だ。……単純に姉ちゃんの事を忘れてるって可能性もある……)
 現に、霧亜が入院したばかりの頃、その事を言うのを忘れていたではないか。
(…………止めよう、今はそんな事を考えている場合じゃない)
 第一、本当に気になるのなら素直に葛葉に尋ねればいいではないか。月彦は頭を切り換え、再び勉強を再開しようとして――失敗した。
「うぅん……父さまぁ……もう、お腹いっぱいだよぉ……」
 背後から聞こえた、そんな愛娘の寝言に、月彦は思わず振り返ってしまったのだった。
 見れば、真央が一人すやすやとベッドで寝息を立てていた。思い返せば、月曜日に妙子と賭をして以降、ただの一度もベッドで眠っていなかった。授業中や学校の休み時間などに半ば気絶するようにして超短時間の濃縮型の睡眠を、まるで水泳の息継ぎかなにかのようにとってはいるものの、それでも合計の睡眠時間は間違いなく二時間にも満たないだろう。
 それほどの状況、本来ならばとても勉強など出来る筈など無いはずだった。否、それよりなによりも、日課とも言える“アレ”を全く行っていないのだ。その溜まりに溜まった性欲のほうが問題になりそうなものなのだが、不思議とそういうことにはならなかった。まるで、過剰に蓄積されるべき精力そのものをエネルギー源にして、それで勉強を続ける事ができているような、そんな錯覚すら、月彦は覚え始めていた。
(……でも、俺はともかくとして……真央は……溜まってるだろうなぁ)
 溜まっていない筈がないのだ。が、死にそうになりながらも勉強を続ける父親に遠慮をしているのか、ここ三日ほどは露骨に誘いをかけてきた事は一度も無かった。
(すまん……真央、明日の模試が終わったら…………いや、その結果が返ってきたら――)
 月彦としても、この苦行が終わるなり思い切り愛娘の体を愛でてやりたいのは山々だった。が、そういうわけにもいかないと思い直し始めていた。
(いやほら……だって、な?)
 そもそもが、何故これほどまでに殺人的なペースで学力を強化しているのかといえば、偏に白石妙子の体をしゃぶり尽くさんが為なのだ。ならば、その前一週間くらいはひたすら禁欲生活を送り、溜まりに溜まった状態で来たるべき日を迎えるのが筋というものではないだろうか。
(……ていうか、それくらいテンパってる状態じゃないと、妙子に嫌だって無理矢理つっぱねられたら、引き下がってしまいそうだ)
 敵を知り、己を知れば百戦危うからずと言う。月彦は勿論己の事は熟知しているつもりであったし、幼なじみである妙子の事も知っているつもりだった。その性格は極めて真面目で、一度約束を交わせば容易なことでは裏切るような真似はしないという事も知っていた。が、今回は事が事だけに土壇場で反故にするという可能性も無くはない。
(……いいや、待て待て。妙子への仕打ちを想像して楽しむのは後回しだ。………姉ちゃんの事も、母さんの事もとりあえずは後回しだ、まずは、明日の試験の時間まで、少しでも多くの情報を頭に詰め込むんだ)
 そう、妄想に耽るのは明日、模試が終わってからでも出来るが、模試の為の勉強は今しか出来ないのだから。
 月彦は再び歯を食いしばり、そして机へと向かった。

 
「……こうして昼休みに学食を訪れて、注文の順番待ちをさせられる度に思うのだが――」
「にゃ?」
「何故学校側は各学年の授業の終了時間をズラす等の配慮をして、学食の混雑を解消しようとしないのだろうか」
「……どういう事?」
「つまりだ。一年、二年、三年の四限目終了時刻を20分ずつずらすことで、学食の混雑は解消され尚かつ利用者の増加も見込めるのではないかと、私は言いたいのだ」
「そんな事をしたら授業の開始時間とかまで変えなきゃいけなくなるじゃない。それに先生達もバラバラにご飯食べなきゃいけなくなるし、現実的じゃないわ」
「開始時間を弄る必要はないさ。四限目の終了時間だけ伸ばすか、或いは若干縮めればいいのだ。考えてもみたまえ、どうせ早く授業が終わったところでこうして長々と待たされるのだ。ならば教室で10分や20分余計に授業を受ける事になった所で大差は無かろう」
「ふみゅー。さゆりんの言いたい事はよく解るにゃり。でも、それって文部省とかから怒られそうにゃり」
「そうね。やっぱり現実的じゃないわ」
 佐由の発想自体は悪くはない――と、妙子は思う。事実、学校側がそうしてくれれば確かに学食の混雑も解消され、必然的に利用者数も増えるだろう。だが、それくらいの発想は学校側の教員連中にだって出来る筈なのだ。それなのにその案が実行されないのは、実行できない理由があるからではないのか。
「……ふうむ。ならば食券を予約制にしておいて昼休み前に予め調理を済ませておいてもらう手は……いやしかし、それでは食堂の席の数が足りてない事への解決にはなり得ない……」
 背後でぶつぶつと独り言を呟いている佐由を無視して、妙子は手早く注文を済ませ、代金を払ってメニューを受け取るや、一つだけ空いていた座席に迷いも無く座った。
「すまないが、ちょっと詰めてもらえるかな?」
「にゃ。お願いしまーす」
 そして後からやってきた二人は見ず知らずの、しかも上級生っぽい生徒相手に苦もなくそう言い、無理矢理自分たちの席を確保すると妙子を挟み込むようにして座った。
「やれやれだ。……しかし、同士黒ポメ。君はいつも日替わりランチだね。もう少し食事という行為に対して愛情を持とうという気にはならないのかい?」
「うるさいわね。人が食べるものにまでいちいち口出ししないでよ」
「人間好きなものを食べるのが一番にゃり」
「同士いろは。君も毎日ラーメンだな。……まぁしかし、好きなものを食べて太く短く、という考え方も私は嫌いではないが」
 そう言う佐由は確かに二日と同じメニューを注文しない、いろいろなものを食べようと言うスタイルらしかった。ちなみに今日は俗にAランチと呼ばれる、日替わり和膳を注文していた。
「さてと。今日はどれにするかな」
 そんな事を呟きながら、佐由はスカートのポケットから徐に小型の機械を取り出し、操作を始める。妙子が愛用している年代物のウォークマンとは違う、USBメモリを媒体とした最新型のポータブルプレイヤーであり、それから伸びているイヤホンの片方だけが、妙子が座っている側とは逆の耳へと接続されていた。そう、ラジオを聞く、とはいっても生放送ではなく、家で録音したものをUSBメモリへと移し替え、それを聞くための機械だった。
「ちょっと、佐由。いい加減食べながらラジオ聞くのは止めなさいよ。行儀が悪いわ」
「これはしたり。食事をしながら本や新聞を読むのは確かに見た目も悪く、手もふさがるから行儀が悪いと言えるだろう。が、耳を塞いだ所で食事自体には何の影響も無ければ、さして気にする者も居るまい」
「それはそうだけど……あんたの場合……」
「よし、今日はフィーナイの肛門拡張スペシャルの回に――」
 佐由が喋り終わる前に妙子は立ち上がり、その頭にげんこつを振り下ろしていた。
「だから! 肛門拡張とかそういう事を公共の場に口走るなって言ってんのよ!」
「たゆりん、たゆりん、声が大きいにゃり」
 英理にちょん、ちょんと小脇をつつかれ、妙子はハッと周囲から寄せられる怪訝そうな視線に気がつき、赤面した後、あわてて着席した。
「同士黒ポメ。君はもう少しTPOという言葉を知った方がいい」
「誰のせいだと思ってんのよ! だいたいなんで食事しながら聞くのがよりにもよって………………の回なのよ!」
「ははは。それはもちろん、男共の悲痛なうめき声が最高のテイストとなるからさ」
「さゆりんはドSにゃりー。南無南無」
「はぁ…………あんたたちってほんっとーにマイペースで……時々うらやましくなるわ。年から年中ラジオの事ばかりで…………少しは明日の模試の事とか考えたりしないの?」
「何週間も前からその日にあると解っているものに対しての備えを怠り、前日になって狼狽えている者が居たとしたらそれは間違いなく愚か者だ。そして私は、私の知る限りではそういう愚か者ではないよ」
「………………ねぇ、佐由。一つ聞くけどさ……万が一、模試で酷い点数とかとったりしたら、特進クラスから普通クラスに落とされたりするものなの?」
「さあ、どうだろう? 少なくとも私はそんな例は聞いた事ないが。模試はあくまで模試で、クラスの移動は学校のテストを基準に行われるのではないかな?」
「そ、そう……よね……じゃあ、もし酷い点数とっても……特進から落とされることは無い……って思っていいのよね」
「確約はしかねるがね。どうしても知りたいなら教師陣に聞いてみればいい。どうした、同志黒ポメ。君らしくもない、全国模試如きで緊張でもしているのか?」
「別に……そんなワケじゃ……」
「模試といえばー」
 と、それまで黙って聞いていた英理が、不意に口を挟んできた。
「昨日FMで酷いのを聞いたにゃり」
「FM? 珍しいものを聞いたな。何がどう酷かったんだ? 同士いろは」
「にゃ。福りんの恋愛相談のコーナー、いつもは眠くなるくらいつまらないけど、たまーに痛い痛い相談ファックスが来て抱腹絶倒するから時々気が向いた時だけ聞いてるにゃりよ。それで昨日、半年に一回クラスのビッグウェーブが来たにゃり」
「ほほう、興味深いな。…………うん、どうした、同士黒ポメ。顔色が悪いぞ」
「えっ……そ、そう? 気のせいじゃない?」
 妙子はうわずった声を上げながらあわてて佐由から顔を背けるも、そうすると今度は逆サイドに座っている英理に顔をさらす羽目になってしまう。
「それで、どうビッグウェーブだったのだ?」
「にゃ。十七才女子高生からのファックスで、何でも土曜日の全国模試で自分よりいい点がとれたらエッチさせてあげる約束を男の子としちゃったんだけど、どうすればいいんでしょうか?っていうドンデモ相談だったにゃりよ」
 英理の話を聞くなり、ブフーッ、と。隣にいた佐由が口に入れかけていたサトイモの煮っ転がしを吹き出し、それは学食の白いテーブルの上で勢いよくバウンドして他のテーブルにまで飛んだ。きゃあっ、という悲鳴がどこからか聞こえたが、そんな些細な出来事を気にかける余裕は、妙子には無かった。
「そ、それはまた酷い相談だな。そんな話を振られて、どうすればいいと聞かれても答えようが無いだろう」
「にゃ。なんでもその相手の男というのがその子よりかなり学力が下で、まともに勝負したら間違いなく勝ってしまうから、手加減をしたほうがいいのかー、みたいな感じだったにゃり。相談された福りんも答えに困ってたにゃり」
「それはそうだろう。第一、大切な貞操をかけて模試の点数勝負など正気の沙汰ではないな。まあそもそも、男相手にうつつを抜かしている時点でまともではないのは確かだが。ラジオで濡れても男に濡れるな、が女性リスナーとしての正しい姿勢だというのに」
「ちなみにラジオネームは“迷える豆シバ”だったにゃり。ファックス送った女の子はきっと犬好きにゃりよ」
 ハッとして、妙子は思わずスカートのポケットに手をいれ、まるで隠すかのように家の鍵を握りしめた。鍵にはもちろん、以前ある男にもらったコーギーのキーホルダーがつけられていた。
「しかし、それは是非私も生で聞きたかったな。エアチェックはしたのか?」
「それが……裏番組のほう録音してたから、そっちは出来なかったにゃり。お腹かかえて三十分くらい笑い転げた後、そのことに気がついてベッコリ凹んだにゃりよ……」
「……そうか、残念だな。しかし、そういう金脈が時折混じっているのなら、たまにはなじみの番組以外をつまみ食いしてみるのも悪くはないかもしれないな。……どうした、同志黒ポメ。先ほどから全く箸が進んでないようだが。昼休みが終わってしまうぞ」
「あ、うん……ちょっと……食欲無くって……」
「たゆりん、顔色真っ青にゃり。保健室いくにゃり?」
「大丈夫……ちょっと、気分が悪いだけだから」
「……時に、同志黒ポメ。前々から気になっていたのだが」
「な、何?」
「君のラジオネームの黒ポメとは、一体どういう意味なのだ?」
「あー、それ私も知りたいー」
 うっ、と。妙子は言葉に詰まった。
(何なのよ……こいつら……なんでこんなタイミングでそんな事を……まさか、全部分かってて聞いてるの……?)
 英理の話の振り方、佐由のそれに対する反応からして、そうではないとは思うのだが、偶然だとしてはあまりにも――。
(……っ……ここで嘘ついたら……かえって怪しまれるんじゃないかしら)
 妙子は、覚悟を決めた。
「い、犬の……ポメラニアンって種類がいるでしょ? あれの黒いのを……黒ポメって言って……お父さんが、一番最初に買ってきた犬がそれだったから……だから……」
「ほう……犬の……」
「にゃ」
 二人とも、そう呟いたきり黙り込んでしまった。そしてしばしの沈黙の後、徐にぽむ、と妙子の肩を叩くように手を乗せ、そのまま二人とも席を立ってしまった。
「なっ……ちょっ、ひ、否定くらいさせなさいよ!」
 妙子の叫びが二人の耳に届いたかどうかは定かではない。


 人事を尽くして天命を待つ――この言葉を今この時ほど身にしみた事は無かった。
(…………やれるだけの事はやった)
 月曜日に妙子との賭を始めて、その夜から勉強を開始すると同時に、火曜日には模試の申し込みと、雪乃への協力要請を行った。
 水曜日には雪乃のマンションで過去問を受け取り、英語の指導を僅かばかりだが受け、その後は図書館へ行き、閉館になるまで勉強した後、家に帰ってからは古文漢文の学力強化を行った。
 木曜日には苦手教科である数学、物理の過去問をラビに解いてもらい、さらに徹夜でそれらの解き方、覚えておかなければならない公式などを徹底的に頭にたたき込んだ。
 金曜日は、これまで勉強した範囲の総復習を夜中の三時まで行い、三時から朝の六時まで三時間だけ睡眠をとった。これは、本番に向けて可能な限り頭のコンディションをベストに戻したかったのと、人間の脳は朝起きて三時間後から活発に動き始めるらしいという説に則ってのものだった。
 事実、たった三時間ぽっちの睡眠ではあったが、朝目覚めた時の爽快感は格別だった。ずっと濁った液体に浸っていた脳みそを、冷水でじゃぶじゃぶと洗ってすっきりしたかの様だった。
 早速にシャワーを浴び、葛葉が起きてきて朝食を作るまで簡単な復習を行い、八時には家を出た。休日に制服を着て学校に向かうというのはそれなりに違和感を伴ったが、周りを見ればちらほらと同じように制服を着ている生徒が歩いていた。恐らくはそれぞれの高校で模試を受ける者達なのだろう。そしてその中には間違いなく、白石妙子も含まれているに違いなかった。
 模試の会場となるのは、普通の教室ではなくそれよりも若干広い視聴覚教室だった。月彦は八時半前に視聴覚教室に入ったが、既に五人の生徒がばらばらに着席しており、月彦もまたどこに座ったものかと迷ったが、黒板に書かれていた『席次は自由』の文言を見て、教卓のド真ん前の席を選んだ。それは偏に、模試に対する自信の現れだった。
(……そうだ、俺はできる。……出来るに決まってる)
 過去問は、全て自力で解ける程にまでやり尽くした。勿論、今回の模試で同じ問題が出るという事はほぼ無いだろうが、少なくとも同じレベルの問題が出た時に解ける可能性は極めて高い筈だった。
 試験開始までの最後の残り時間、果たして何をしようかと月彦は一瞬悩み、日本史の参考書を読む事にした。元々一番の得意教科だった事もあり、必然的に一番勉強時間が少なく、故に逆に心許なく感じてしまう教科だったからだ。
 試験開始の時間が迫るにつれて、ちらほらと生徒の数が増えていく。最終的には七十人弱にまで増え、視聴覚教室の座席の八割ほどが埋まる事になった。その人数に意外に多いなという印象を受けたが、だから何だという気概が月彦の中にはあった。
(……この中で、俺よりも勉強をした奴が一体何人いる?)
 勿論、日常的に学力を積み重ねてきた者達は大勢居るだろう。だが、この一週間の勉強量だけならば、自分が間違いなくこの中で一番だという自負があった。
 試験開始十分前。問題用紙を抱えた教師が現れ、筆記用具以外のものを全てしまうように指示が出た。生徒達はそれぞれ手にしていた参考書や教科書の類を鞄へとしまい始める。
(……最初は数学、か)
 試験教科の順序は予め黒板に書かれていた。数学、国語、英語、選択理科、選択社会の順序で行われるらしい。時間はそれぞれ六十分。英語と選択社会の間に六十分の昼休みがあり、それ以外の休憩時間は十五分。つまり、泣いても笑っても約八時間後には全ての結果が決まっているという事だ。
 試験開始五分前。全ての生徒が筆記用具以外のものをしまったのを見届けて、教師が問題用紙を配り始める。勿論問題用紙は表紙を表にしたままその中身を見る事はまだ許されない。
 試験開始三分前。監督役の教師から注意事項などが告げられる。主にカンニングに関しての注意だったが、希望者のみの模試でカンニングなどやる馬鹿は居ないだろうと月彦は鼻で笑いたい気分だった。
(……ああ、そうだ。カンニングという手もあったんだよな)
 等と、むしろこの段階になって月彦は気がつかされた程に、その手の発想は全く頭に浮かばなかった。無論頭に浮かんだ所で絶対にやろうとは思わなかっただろう。何故ならそれは神聖なるおっぱいを侮辱する行為に他ならないからだ。
 試験開始十秒前。教師が秒読みを始める。
「3……2……1……0、始め!」
 教室中に、問題用紙をめくる音が響き渡る。
(…………さあ妙子。……勝負だ!)
 月彦は大きく深呼吸をし、まずは真っ先にマークシートに名前を記入し――そして恐らくは教室の中で一番最後に、問題文の表紙をめくった。



 全国模試最初の教科である数学、その最後の問題を解き終え、答えをマークシートの回答欄に書き込んだ後、妙子はふうと僅かに肩の力を抜いた。ふと教室の時計に目をやれば、試験開始からおよそ四十五分が経過していた。
(…………これは、満点いける……かな)
 まだ最後の見直し、計算ミスのチェックを終えていないから確信は持てないが、現段階で九十点の後半に近い点数になっているであろうことは経験から解っていた。というより、この問題には手が出ない、と思わされる問題はただの一つも無く、もし計算ミスさえしていなければ間違いなく百点が取れる事だろう。
 試験問題のレベルが低いというわけではない。強いて言うなら、たまたま好きなタイプの問題に偏っていたというだけの話だった。とはいえ、運も実力の内という言葉の通りならば、この結果は間違いなく白石妙子の実力そのものと言えた。
(…………アイツは何点くらい取れるかしら。……四十点? それとも三十点?)
 月曜日に見た月彦の数学の実力を思い出し、妙子はなんとも憂鬱な気分になる。あんな、教科書に書かれているレベルの問題ですら四苦八苦する程度の学力では、全国模試ではまともな点数など到底取れまい。それこそ、仮に多少手加減をしてやったところで、負けてやる事すら難しいほどの惨めな点数しか。
(……何、考えてるのよ。……手なんか抜いて、もし万が一……)
 先日見た、怖気の走る悪夢がフラッシュバックの様に脳裏を走る。そう、模試でわざと低い点を取るなどばかげた話だ。そんな事で悩み、ラジオの恋愛相談などにファックスを送ってしまった事自体、妙子は壁に額を打ち付けたくなるほどに後悔していた。
(しかも……よりにもよって英理がそれを聞いていたなんて……)
 同時間帯に英理、佐由双方が贔屓にしているラジオ番組があった為、絶対に聞いている筈が無いと確信して送ったものだったというのに。尤も、あの昼休みの後の必死の弁明で黒ポメ=迷える豆シバ説は限りなく疑わしいものの辛うじて確定には至らないというレベルで留まらせる事が出来たのは不幸中の幸いではあったが。
(…………そうよ、手加減なんかせずに……思い切り打ちのめしてやればいいんだわ)
 あの馬鹿のことであるから、どんなに数学で頑張った所で六十点やそこらをとるのがせいぜいだろう。英語に関してはそれ以下、現国はそれなりに点数を稼げるかもしれないが、確か古文漢文は苦手だった筈であるから最終的な国語の点数はそれほど高くはならない。選択社会は恐らく得意な日本史を選び、或いは八十点、九十点をたたき出してくるかもしれないが、選択理科の方は何を選ぶかにもよるが、そう高い点数はとれないに違いない。
 つまるところ、妙子は月彦の点数は良くて二百六十点前後、最高でも三百点には届くまいと推測した。たったの三百点では、百点差どころか何かの間違いで一教科0点をとったとしても負ける気がしなかった。
(……こんな勝負……するんじゃなかったわ)
 賭の対象に自分の体が入っているというのも確かに不快ではあるが、それよりもなによりも、本気を出せば必ず勝ててしまう勝負というのは味気なさを通り越して後味すらも悪くなるものだ。例えるなら、幼稚園児相手に五十メートル走をして大差で勝った所で、それは誇らしくもなんとも無く、むしろ大人気ないと非難されるだけではないか。
(第一、こんな事でもし賭けに勝って……それでエッチできて……あんたは満足なの?)
 そこには――いわゆる愛情だとか、相手への想いといったものは皆無なのではないのか。風俗に行って性欲を解消するのと何が違うというのか。
(………………それとも、アイツにとっては、違う……のかしら)
 今だから解る事が一つだけあった。仮にどれほど怒りを煽られ、言葉巧みに乗せられた所で、本来ならばこんなばかばかしい賭けなど、絶対に引き受けなかった筈なのだ。――あいつが、あの男が……あの一言さえ口にしなければ。
(…………惚れた女だなんて言われて……多分、私も舞い上がってたんだわ)
 自覚は無かった。が、間違いなく舞い上がって、浮ついていたのだろう。そうとでも思わなければ、このような袋小路めいた状況に追い込まれる理由がわからない。
「…………っ……」
 妙子は、震える手で徐にペンを置いた。置きながら、自分は何をやっているんだろうと不思議で堪らなかった。まだ、最後の見直しが済んでいないというのに。検算もやらねばならないというのに。何故自分はペンを置いているのだろうか。
(…………もし……あいつが……)
 妙子の脳裏に、先日の――学校帰りに見た、月彦の窶れた横顔がフラッシュバックする。ほんの数日の間に、それこそ人相ががらりと変わるほどに真剣に勉強に取り組んでいるのならば。或いは、本当に奇蹟を起こすかもしれない。
(……あいつが…………本当に……………………)
 妙子はふっと視線を上げ、壁掛け時計へと目をやった。思案を重ねている間にあれよあれよと時間はすぎてしまっていて、残り時間はもう五分も無かった。『もし、妙ちゃんがほんの少しでも、ヒコのこと好きなら、その分だけ手加減してあげてな』――そんな親友の言葉が、不意に聞こえた気がして、妙子はキュッと唇をきつく噛みしめた。
(…………甘いわ、千夏。ちょっと手加減したくらいで、あのバカが……私に追いつけるわけ無いじゃない)
 今まで、どれほど裏切られた事か。事、紺崎月彦という人間に関してのあてにならなさ、いざという時の頼りにならなさにかけては、ある意味千夏よりも自分の方が詳しいとすら、妙子は思っていた。
(…………そう、よ……。ちょっとやそっとの手加減じゃ……あのバカは…………ダメなのよ……)
 妙子はまるで何か大切なものでも諦めるかのように目を瞑り、そして再び瞼を開けるや、消しゴムを手にとり、マークシートにいくらかの“修正”を加えた。
 数分後、試験終了のチャイムが鳴り響くと同時に妙子は静かにペンを置き、そして自分でも気がつかぬうちに口元に僅かな笑みを浮かべた。


「…………はっ!?」
 うとうとと、眠気に誘われるままに意識を失いかけていた月彦は、危うくその最後の一歩を崖から踏み外す寸前で辛うじて意識をつなぎ止めた。
(うっ……いかん、今、俺は寝ていた……のか?)
 あわてて教室の壁掛け時計へと目をやると、試験開始から既に十五分ほど経過してしまっている事を示していた。。
(危ねぇ…………あと、残り一教科じゃないか。……がんばれ、俺……!)
 明け方、三時間がっつり寝たとはいえ、そもそも絶対的な睡眠量が足りていないのだ。そこへきて、思いの外これまでの四教科の出来が良かった事も相まってほんの少し気のゆるみが出てしまい、その隙を睡魔に突かれたのだろう。
(向こう十年しっかりしなくていいから、この瞬間、この六十分だけ、死ぬ気で頑張るんだ)
 月彦はぺちんと両手で己の頬を叩いて気合いを入れ、改めて問題用紙の表紙をめくった。最後の教科は日本史であり、ほとんど唯一と言ってもいい得意教科だった。ここでの失敗は、万に一つも許されない。
(解る……解るぞ、……はははっ、何だ、この程度か全国模試!)
 問題文に目を通しながら、月彦は一切のよどみなくスラスラとマークシートに答えを記入していく。
(おおっと、ヤバい……回答欄が一個ずれてるじゃないか、危ない危ない)
 マークシートの回答欄が一行ズレてしまっている事に途中で気がつき、月彦はあわてて消しゴムを手にとった。――が。
(ぐぬ……ここまで来て……)
 手に原因不明の震えが出て、巧く修正が行えない。寝不足のせいなのか、或いは一週間がかりの大事業の大詰めに対する緊張からなのか、とにもかくにも月彦はいったん消しゴムから手を離し、大きく深呼吸をして気を落ち着けることにした。
(大丈夫、大丈夫だ……時間はまだたっぷりある、焦ることはない……)
 五分かけて深呼吸を行い、気を静めて消しゴムを握ると今度は腕が震えるという事も無かった。月彦は丹念に消しゴムをかけて記入した黒線をきっちり消し、改めて丁寧に解答を書き込んでいく。
 それほどにもたついて尚、試験開始から四十五分後には全ての問題に解答を終える事が出来たのは、やはり得意教科だからというのもあっただろう。その後さらに入念な見直しを行い、ただの一つも書き損じや選択ミスがない事を確認してから、月彦はふっと肩の力を抜いた。
(いける……いけるぞ、これは……もしかして百点いけるんじゃないか)
 正否が怪しい問題もあるにはある。が、しかしそれは選択肢四つのうち二つまでは絞れるが、どちらかまではハッキリと判断が付かないというレベルのものが2,3あるだけだ。それも、大凡これで間違いはないだろうが、確信までは至らないというものだから、正解を選んでいる可能性は極めて高い。
(数学も、思っていたよりは遙かに解けた。英語は……さすがにきつかったが、国語も割と何とかなった。物理も……善戦は出来ただろう)
 さすがに妙子に合計で四百五十点以上とられては為す術が無いが、三百点の後半くらいであれば、ひょっとしたら勝てるのでないか。
(……そしたら、あの乳が……)
 月彦ははたと、己の記憶を振り返る。幼なじみの、あのふしだらな乳に最後に直に触れたのは一体いつだっただろうかと。中学の時にはもう、直接など絶対に触らせてくれなかった。ならば、最後に触ったのは小学生以下という事になるだろうか。
(…………遠い、遠すぎるおっぱいだった。……しかし今はもう、俺の手の届く範囲に……ある!)
 正直なところ、さすがにあの勉強の虫妙子に五百点満点の模試で百点差をつけて勝つなどというのは無謀の極みだったと月彦は思い始めていた。勿論、そうなれるように努力はしてきたが――というより、そこまでの高みを目指し続けていたからこそ、これほどまでの結果が残せたのだろうが――そちらの望みはほぼ完全に諦めていた。無論、模試で全て満点に近い数値でも残せれば、或いはという希望はあったが、さすがにそこまでの結果が望めない事は手応えで解っていた。
(……でも、おっぱいなら……おっぱいなら射程範囲の筈だ!)
 仮に一歩届かず、敗北したとしても、恐らく妙子に驚きと戦慄を与える事はできるだろう。それほどに劇的な点数を――以前の学力を鑑みれば、だが――はじき出した自信はあった。
(……まあその場合、首から札を下げて生活をするのだけは勘弁してもらおう。うん、それだけは嫌だ)
 妙子とて鬼ではあるまい、努力に免じて三つの罰則のうち一つくらいは許してくれるだろう。そして何より、紺崎月彦はやるときはやる男だと、認識を改めてくれるに違いない。
(……そうだよ、そうやって……少しずつ、俺という人間の信用を上げていけば、もしかしたら……)
 と、そんな甘い妄想に月彦が浸りかけた時、試験時間終了を告げるチャイムがスピーカーから厳かに流れ始めた。勿論、普段と全く同じチャイムの音が厳かに聞こえたのは紺崎月彦ただ一人だった。
「はーい、そこまで。全員筆記用具を置きなさい」
 監督役の教師の声に、各自一斉にペンを置く。その後で、教師の手で直にマークシートが回収されていき、回収された者達から三々五々に教室を後にしていく。月彦もまた例に漏れず視聴覚教室を後にし、昇降口で靴を履いて校門の外へと出るや、空を仰ぎ大きく伸びをした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……。
 …………。
 ………………。
 全国模試実施日より九日後の月曜日。帰りのHRの際に妙子は担任教師の手から全国模試の結果が記載された用紙を受け取った。周りの生徒達を見ていると嘆く者もいれば密かにほくそ笑む者もいたりと反応は様々だった。そして妙子はそのどちらでもなく、ただただ無感動を装い、件の濃い衆に多少揉まれ一時は模試の結果を強奪されそうになりながらも辛うじて振り切り、早足で帰路についた。
 自宅であるアパートの一室に帰り着き、鞄を置き勉強椅子に腰を下ろして、改めて妙子は模試の結果へと目を通した。
 合計点数は312点。もしこれが狙ったものではなく、本気で取り組んだ結果の点数であったならば、ショックで立ち直れなかったかもしれない。
(…………本当なら、三百点丁度にする筈だったんだけど……)
 どうやら“うっかり正解してしまった”問題が一つ二つあったらしい。そう、妙子は紺崎月彦に対するボーダーを三百点より百点多い四百点と定めたのだった。それは言い換えれば、月彦が全国模試で四百点を超えられる程の努力をしたのならば、その望みを遂げさせてやるのもいいかなと。気の迷いにも似た決断をしたという事だった。
(……っ……だ、大丈夫……よ……あのバカが四百点越えるなんて……そんな奇蹟……起きる筈が無いんだから)
 今更ながらに、妙子は怯えを抱いた。ひょっとしたら自分は、取り返しのつかない事をしてしまったのではないかと。
(もし…………あいつが本当に四百点を……ううん、四百十二点を超えてきたら……)
 抱かれなければならない――そういう約束だ。そういう約束をしたのを承知で、自分はわざとこんな点数をとってしまった。それが、妙子には自分でも信じられない。
(……っ……あんな、奴に……)
 “その時”の事を想像するだけで――先日見た悪夢を思い出して――震えがくる。男に抱かれる、というのは即ちそういう事なのだ。あの男の前で一糸まとわぬ姿になり、直に肌を重ね、そして――。
「〜〜〜〜〜っっっ!!!!」
 ごつん、と。妙子は己の額を勉強机にうちつけて、その痛みと衝撃で“その先の妄想”を打ち消した。
(っっ……そんなの、絶対ダメよ……ダメに決まってる…………第一、千夏達になんて言えばいいのよ)
 月彦とそういう事をしてしまったという事を、あの勘の鋭い幼なじみに隠し通せるとは思えない。黙っていたとしても、必ず感づかれる。そうなったら――
(っっ……やっぱり、早まった……わ…………今からでも、こんな賭け無かった事に……)
 なんとかごまかして、月彦に中止を訴えかける事は出来ないだろうか。妙子は少し考えて、それは不可能だという結論に達した。千夏ほどではないが、あの男もそれなりに悪知恵が働く。試験の結果が戻って来るなりそんな事を言い出せば、たとえどう巧く言いつくろった所であの男は容易く感づくだろう。『ははーん、さては……試験の結果がそうとう悪かったんだな』と。
 勿論、わざと悪い点数をとってしまった等という言い訳は通じないだろうし、する意味がない。下手をするとあの男をますます増長させる危険すらある。
(………………こうなったら……もう……覚悟を、決めるしか……)
 どれほど考えても、月彦が四百十二点以上とっていた場合に自分の名誉を一切傷つけずに惨劇を回避できる方策が思いつかない。逆を言えば、なりふり構わなければ防ぐ手だてはいくつかあるのだ。たとえば、そう――千夏に全てを打ち明け、仲裁に入って貰えば、あの男も無理強いは出来まい。
(……でも、ダメ……そんな事するくらいなら、まだあいつに抱かれた方がマシだわ)
 或いは、最後の手段として“月のもの”を理由に断る手も無くはない。が、それでもやはり問題を先送りには出来ても、根本的な解決には至らない。
 何より、妙子にも矜持というものがある。一度は引き受けた賭けの事で、終わった後にとやかく言うくらいならそもそも最初からやるべきではないのだ。ましてや、そのことで他人に迷惑をかけるくらいなら――。
「……っ!?」
 思案に耽っていた所に、突然電話が鳴り、妙子はびくりと体を震わせた。そしておずおずと受話器へと手を伸ばし、耳へと当てた。
「……もしもし」
『もしもし、妙子……俺だ』
 予想はしていた。していたが、妙子にしてみれば、まるで死刑囚が看守に声をかけられたときのような、そんな複雑な気分だった。
『模試の結果、返ってきたか?』
「か、返ってきたわよ。……そっちは?」
『こっちも今日、返ってきた』
 そう、と呟き、妙子は密かにごくりと唾を飲み込んだ。今にも受話器の向こうから『俺は四百三十点だったが、そっちは?』という類の言葉が飛び出てきそうで、心臓がばくばくと高鳴り続けていた。
『…………妙子、今、暇か?』
 しばしの沈黙の後、月彦がそんな事を聞いてきた。勿論妙子にはその申し出に答えを返すということがどういう事になるかなど、百も承知だった。
「暇……といえば、暇よ」
『そうか、じゃあ今から行っても大丈夫だな?』
「……ま、待って! 部屋を片づけるから……少しだけ時間を頂戴。……そうね、三十分……三十分後なら、大丈夫だわ」
『三十分後か……解った。三十分後に、そっちに行く』
 ぶつっ、と通話が切れる音がして、受話器から聞こえてくるのは不通音のみになった。妙子は半ば呆然としながら、そっと受話器を親機に置いた。
「…………どうしよう」
 つい、声が漏れてしまった。あの男が、自分から電話までかけてくるなんて。少なくともここ数ヶ月の間は一度も無かった事だった。
(そんなに……自信があるっていうの……?)
 それも、相当な自信が。でなければ、あの妙なところで気の小さい男が自分からそっちに行っても良いかなどと言い出すわけがない。
(……シャワー……浴びたほうがいいのかしら)
 しでかしてしまった事を悔やみ続けているのが、いい加減自分でも女々しいと感じ始めていた。もう、なるようにしかならないのであれば、そのための行動をするしかないのではないか。
(……あと、二十五分)
 妙子はちらりと壁掛け時計に目をやり、月彦がくるまでに残された時間を確認するや、バスタオルと替えの下着を持ってバスルームへと駆け込んだ。そしていつになく時間をかけて、入念に体を洗った。
 バスルームから出た後は大急ぎドライヤーで髪を乾かしながら、今度は服装について悩んだ。こういう場合、一体どういう格好で出迎えるのが一番自然なのか、妙子には全く解らなかった。
(パジャマ……は、ありえないわ。制服……はシャワー浴びた後に着てるなんて変だし、第一もし汚れたらどうするのよ)
 かといって、街に出かける時に着るような服で出迎えるというのも妙な話だった。そんなあからさまにおしゃれをした格好であの男を出迎えるなど、やはり考えられない。
 そうして消去法で選んでいった結果残ったのが、いつも通りの部屋着であるジーンズ&セーターの組み合わせか、汚されても大丈夫という意味での学校の体育用のジャージ上下だった。妙子は迷った挙げ句、普段着の組み合わせを選んだ。翌日に授業の体育があり、もし汚れた場合洗っている暇がはたしてあるのかという危惧が最終的な決め手だった。
(……あとは…………)
 他に何か、事前に準備――或いは、やっておかなければならない事はないだろうか。
(先にお布団を敷いて……ううん、ダメダメ。そんな事をして、もしあいつの点数が足りなかったら――)
 まるで、抱かれる事を期待していたみたいにとられかねないではないか。そのような誤解を受ける事は、なまじ体を抱かれる事よりも耐え難かった。
 そうしてあれやこれやと思案しながらあれを片づけあれを仕舞い、という具合に全ての“準備”が完了したのは、月彦が行く、と指定した時間の五分前だった。
(…………あと五分で、あいつが……来る)
 何かと頼りにならない男だが、昔から時間にだけは比較的正確だった。恐らくは、五分とズレずに来る事だろう。
(…………っっ…………そうだ、歯磨き……歯磨きしなきゃ……!)
 大切な事を忘れていた。抱かれる、という事は必然的に唇を重ねる事にもなるだろう。となれば、口臭の処理もエチケットの一環ではないか。
 妙子はあわてて歯ブラシを手にとり、しゃこしゃこと大急ぎで歯を磨き始めた。と、同時にインターホンが鳴り、妙子は仕方なく口を濯ぎあわてて玄関へと出た。
「よう、妙子。待たせたな」
「……別に待ってなんかないわよ! ちょっと、来るの早いんじゃないの?」
「一応二十分待ってから家を出て、ゆっくり歩いてきたんだが……早すぎたなら、少し待ってようか?」
「…………構わないわ。もう、殆ど……片づけ終わってた所だし。………………上がりなさいよ」
「そうか。そういう事なら、遠慮無く上がらせてもらう」
 妙子の脇を抜ける形で、月彦が部屋の中へと上がる。その背が居間へと入るのを見てから、妙子は徐に玄関のドアを閉め、そして後ろ手に鍵をかけた。
「さて、と……――ん、シャワー浴びたのか?」
「……悪い? 今日六時限目マラソンで、汗かいたから帰ってすぐ浴びただけよ。他意は無いわ。あんたこそ一度家に帰ったんじゃないの? それなのに制服のまま?」
「ああ、家にはこれを取りに戻っただけだからな。……俺がガキの頃母さんが使ってたバリカンセットだ。子供用だが、丸坊主にくらい出来るだろう」
「……へぇ、殊勝な心がけじゃない」
 さも、自分は余裕たっぷり――そういう演技をしているが、その実妙子はもういろんな意味でギリギリだった。足だって小刻みに震えているし、舌を噛まないように喋るだけで途方もない労力を使っていた。
「どうした、妙子。何を突っ立ってるんだ、とりあえず座れよ」
「……何よ、偉そうに。ここは私の部屋なんだからね、あんたこそ私の許可無く勝手にコタツに入ってるんじゃないわよ」
 憎まれ口を叩いて、妙子は月彦と対面となる形でコタツへと入った。入りながら、妙子は俄に唇を噛みしめていた。
(…………何よ、コイツ……ほんと自信満々じゃない…………こんな風に堂々とできるなら、普段からしてなさいよね)
 人の部屋だというのに、まるで自分が主人であるかのような振る舞いをするなど、およそこの男の挙動ではない。何か変なモノでも取り憑いているのではとすら思えてくる。
「さて、と。それじゃあ妙子。心の準備はいいな?」
「い……いいわよ。いつでもどうぞ?」
 妙子は精一杯強がりを言って、そして自分の模試の結果の用紙を手にとり、テーブルの上に出す準備をする。
「じゃあ、まずは俺からいくぞ。俺の合計点は――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ま、待って!」
「ん?」
 月彦が自分の点数を口にしようとした矢先、妙子は半ば悲鳴を上げるように中止をせがんでいた。
「ちょっと、待ちなさいよ……モノには順序ってものがあるのよ。いきなり合計点言っちゃったら、それでいきなり勝敗解っちゃうじゃない。興ざめだわ」
「む……確かにそうかもな。それじゃ数学から順番に発表する形でいくか」
「そうね……それが無難だわ
 と、いかにも尤もらしい理由をつけてはみたものの、その実。いきなり結果がわかってしまう事の恐怖に堪えられそうになかったのだった。教科順の発表ならば、次第に覚悟を決めるゆとりもあろうというものだ。
(そうよ……まだこいつが百点差つけるって、決まったわけじゃないんだし)
 汚れのない体のまま明日の朝日を迎えられる可能性もゼロではないのだ。否、むしろ常識的に考えればその可能性のほうが遙かに高いとすら言える。
(…………普通に考えたら、こいつがたった五日足らずで四百点越えをしてくるって事自体ありえないんだから)
 そう、必要以上に気構える必要はないのだ。どうせ互いの点数の発表が終われば、ああやっぱり月彦は月彦なのだと、鼻で笑う結果になるに決まってるのだから。
「よし、それじゃあまず数学の点数……いくぞ」
「……いいわよ、そっちから先にどうぞ」
「89点だ」
「……え?」
 月彦の後に続いて自分の点数を言おうと構えていた妙子は、あまりに予想外の点数を口にされて思わず聞き返してしまった。
「嘘でしょう?」
「こんな事で嘘ついてどうなるんだよ。どうせ最後に点数書いてある紙を見せればバレる嘘だろ」
「そ、そうだけど……89点って……」
「それで、お前の点数は?」
「…………75点」
「……75? なんだ、随分低いな。調子悪かったのか?」
「そうよ。試験前日にちょっと熱が出て、それどころじゃなかったのよ」
 そうとでも言っておかなければ、さすがに格好がつかなかった。もちろん熱があった等というのは大嘘だった。
「……悪いが妙子、そんなのはお前の健康管理が悪かっただけだ。そんな理由で賭を中止にしたりはしないからな?」
「……解ってるわよ。だから、あんたに聞かれるまで風邪の事は言わなかったんじゃない。元々言い訳にする気なんか無いわよ」
「解ってるならいい。じゃあ、次……国語行くぞ」
「……いいわよ」
「92点」
「………………11点」
 は?――と、今度は月彦の方が声を上げた。
「今、11点って聞こえたんだが、91点の聞き間違いだよな?」
「聞き間違いじゃないわ。……正真正銘11点よ。…………熱で朦朧としてて、うっかり1問ずれたままマークシートに答えを記入しちゃったのよ」
「……そいつはまた、不注意だったな」
 月彦に心底同情の目を向けられ、はてなと。妙子は違和感を覚えた。
(…………何よ、コイツのことだから、ここぞとばかりに喜ぶと思ったのに)
 無論一問ずれたまま答えを書いてしまった、等というのも嘘だった。否、実際にずらしはしたのだが、それはわざとであり、点数を減らすためにあえてそうしたに過ぎない。そうでもしなければ、点数を劇的に減らす事など不可能だと思っての判断だった。
(…………でもこいつ……本当に点数を伸ばしてきたのね)
 そのことに対して、妙子は些か驚きを隠せなかった。数学の89点も驚いたが、国語の92点というのにも十分に驚かされた。それだけの点数を毎回はじき出せるのなら、間違いなく自分の居る特進クラスでも通用する学力だからだ。
(…………千夏の言ってた通りだわ。……こいつはこいつなりのやり方でがんばったのね)
 そのことに、妙子は奇妙な感慨を感じるのだった。例えるなら、どうしようもない、躾の全く出来ていない何処でも構わず粗相をするようなダメ犬が、ほんの少しの訓練期間を経て立派な盲導犬になった時のような――その種の類の感慨だった。
 とにもかくにも、五教科中二教科で早くも大差の兆しとなってしまったが、不思議と不快な感じはしなかった。むしろ、奇妙な胸の高まりすら、妙子は感じつつあった。
「……じゃあ、次。英語……いくぞ」
「いいわよ」
「……61点だ」
「71点よ。あんたにしては頑張ったじゃない」
 それは嫌みでもなんでもなく、素直な感想だった。正直な所、妙子の印象ではこの男の学力では一桁の点数をとっても不思議ではない筈だったのだ。
「さすがに負けたか。……じゃあ、次。選択理科、俺は物理だ」
「私もよ」
「……83点」
「84点。またまた惜しかったわね」
 教科別の勝負の上では二勝二敗。だがしかし、合計点数の方では月彦が325点、妙子が241点と目を覆わんばかりの差が開いてしまっていた。
(今の時点でもう84点差……最後の教科、私は公民で71点だから……)
 月彦がもし、選択社会で87点以上とっていたら、文句なしに百点差が開く事になる。
(……こいつ、昔から日本史は得意……だったわよね)
 当然、選択社会は日本史一択だろう。そして、苦手教科である数学や英語ですらあれだけの点数をたたき出せたのだ。ましてや、得意教科なら――。
(…………っ……)
 いよいよ、本当に覚悟を決める時が来たのかもしれない。妙子は自然と身を固くし、キュッと太股を閉じるようにして姿勢を正した。
(………………気のせい、かしら……)
 これからこの男が口にする点数次第で、この男に抱かれなければならない――そう思っても、不思議と前ほど嫌悪感が沸かないのだ。それどころか、胸の鼓動が息苦しいまでに高まり、平生を装う事すら難しくなっていた。
(……なんでこんな奴相手に……ドキドキしなきゃいけないのよ)
 それは、少なくとも二週間前までの自分にとっては屈辱としか思えない事だった。しかし、今は――。
「さて、いよいよ最後だな」
「……そうね」
 妙子は、形の上では普段通りを装い続けていた。何よりも、眼前の月彦がそうだった。あれほどムキになって賭を持ちかけてきたくせに、事ここにいたって驚きも狼狽えもしないというのはどういう事か。
(…………やだ……、月彦の癖に…………なんか、大きく見えるわ)
 まるで、切腹前の武士でも前にしているような迫力すら、妙子は感じた。普段からこうであれば、この男に対する自分の行動もどれほど変わった事か。
「じゃあ、いくぞ……俺の点数は――」
「待って。…………最後は、私が先に言うわ」
 それは、妙子なりの小さな親切心だった。恐らくは87点を超えているだろう月彦に対して、目的が達せられたという事を少しでも早く伝えてやりたいと。
「…………私は、公民を選んで……71点」
「俺は日本史を選んだ。点数は――」
 妙子の点数を聞いて尚、月彦は眉一つ動かさなかった。そして、ゆっくりと自分の点数を口にした。
「0点……だ」
「……………………0点?」
 それは、この男特有の空気の読めない冗談だろうと、妙子は思った。
「本当は何点なの?」
「いや、だから……0点だ」
「くだらない冗談はいいから。早く本当の点数を言いなさいよ」
「だから、0点だって言ってるだろ!」
「ふざけた事言ってるんじゃないわよ! ちょっとそれ見せなさい」
 妙子は月彦の手からひったくるようにして模試の結果が書かれた紙を奪い取り、目を通した。
 数学89点。
 国語92点
 英語61点。
 選択理科(物理)83点。
 選択社会(??)0点…………そこまで目を通して、妙子は軽い目眩を覚えた。
「………………ちょっと、どういう事よ。なんで選択社会が0点なの」
「……わからん。…………多分だが…………選択科目のところが?になってる事から察するに名前を書き忘れたというのが、一番可能性が高――」
 ばんっ!
 月彦が喋り終わるのを待たずして、妙子は両手をテーブルにたたきつけるようにして立ち上がっていた。
「た、妙子……?」
「……名前を……書き忘れたですってぇ?!」
「ああ、多分だけどな……っておいっ、ちょっ!?」
 だんっ、だんっと。妙子はテーブルを踏みつけるようにしてその上に立ち上がった。行儀が悪いとか、そういった良識の一切が頭の中から吹き飛んでいた。
「た、妙子……? どうした、落ち着――ぐぶふっ」
 そのままどげしっ、と月彦の顔面を踏みつけるようにして飛び降りる。月彦が仰向けのまま這うようにして後方へと逃げると、妙子もまたそれを追ってテーブルから降り、げしげしと踏みつけるようにしてけりつける。
「このっ、このっ、くのっ、あんたって男はっっ……あんたって男はっっ……あんたって男はぁあああっ!」
「ちょ、ちょっと待っぶ……な、何で俺っ、蹴られっ……はぐっ……」
「うるさい! うるさい! あんたって男はどーしてそー……いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも肝心な所でポカやらかすのよ! 私がこの二週間……どんな思いで……〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!」
 ぜえはあ。
 ぜえはあ。
 妙子は肩で呼吸を整えながら、眼下で亀のように身を縮めている男を見下ろした。大きく見えた――等というのはただの錯覚だということがよくわかった。紺崎月彦はやはり、どこまでいっても紺崎月彦なのだ。
(……私のバカッ……ほんとーーーーーーにバカだったわ! なんでこんな奴のこと……一瞬とはいえ認めちゃったりしたのよ!)
 この男が、紺崎月彦という男が。ここぞというとき、いざという時に限って頼りにならない男だということは、今まで十二分に思い知っている筈では無かったのか。
(……自信満々とか、そういうんじゃなかったんだわ。こいつはもう、日本史が0点ってのを見て、最初から勝負は諦めてたのよ)
 バリカンセットを自ら持参したのも、つまりは負けを悟ったからだったのだ。恐らくはそうやって殊勝な態度を示す事で、少しでも心証を良くしようというつもりだったのだ。そういうこすっからい計算だけは一人前なのだ、この月彦という男は。
「…………き、気が済んだか?」
 そーっと、ガードの隙間から機嫌を伺うような声に、収まりかけていた妙子の怒りは再び燃え上がった。
「うるさいっ、バカ!」
 どげしぃっ! 右足を振り上げ、思い切り踏みつけ、力の限り踏みつけ、さらに踏みつけた。いい加減足の裏が痛くなるほどに踏みつけて尚、妙子の怒りは収まらなかった。
「はーっ…………はーっ………………月彦、土下座しなさい」
「えっ……な、何で……」
「いいからっ、早く!」
 吠えるように妙子が叫ぶと、月彦はバネ仕掛けの人形のような動きでびたっ、と土下座の姿勢をとり、頭を下げた。
「よ、よくわからんが……すまなかった、妙子」
「もっと、心を込めて!」
「わ、悪かった! 妙子、頼むから許してくれ!」
 ほとんど泣き叫ぶような声で月彦が声を荒げ、それで漸く妙子は己の怒りが幾分収まるのを感じた。
(…………ったくもう……我ながら、ありえない気の迷いだったわ)
 ふう、ふうと肩で息を整えながら、妙子は今更ながらにゾッと身震いをした。気の迷い……そう、一瞬の気の迷いとはいえ、この男の事を認め、体をゆだねようとしかけていた事に対して、だ。
「……あーもう、ほんっとあんたってば私をイライラさせる天才ね。ちょっとでも認めてやろうかと思った私がバカだったわ。大切な真剣勝負の最中に、よりにもよって名前を書き忘れて0点だなんてあり得ないわ! バカッ、グズ! 海より深く反省しなさい!」
「えっ……ちょ、ちょっと待てよ妙子! 一応俺、二教科お前に勝ってんだぞ? このがんばりは評価しろよ!」
「なぁぁにが評価しろ、よ! そんなの私が手加げ――」
 ハッと。妙子はとんでもない事を口にしかけて、あわてて口を噤んだ。
「……お前が?」
「と、とにかく! これでよく解ったでしょ! あんたが言ってる事は世迷い言で、不可能を可能にするなんてのはただの妄想! そして、あんたじゃ私には絶対勝てないの、少なくとも、勉強においてはね」
「えっ……いや、ていうか……妙子?」
「何よ、まだ蹴られ足りないの?」
「いや、そうじゃなくて………………俺、勝ってるよな?」
「はぁ? 何言ってるのよ。日本史0点でどうして百点差つくっていうのよ」
「いや、そっちは確かに達成できなかった。ていうか、ぶっちゃけ一教科……それも一番の得意教科が0点になってるのを見た瞬間、俺はお前に勝つのは正直諦めた。……だけど、意外になんとかなったっつーか……」
「何が言いたいのよ。はっきり言いなさいよ」
「つまりだ。百点差つけるのは無理だったが、合計点では俺、勝ってるよな?」
「えっ……?」
「俺が四教科で325点。お前が五教科で312点。んで俺は二教科お前に勝ってる。ってーことはだ」
 あっ、と。妙子もまた、遅まきながらに月彦が言わんとしている事に気がついた。
「俺には六十分お前の乳を揉む権利が発生していると思うんだが?」

 


 失念していた――と、言わざるを得なかった。
「そう、いえば……そんな、話も……」
「そんな話も……じゃない。ちゃんとここに明記してあるぞ。教科別の点数勝負で俺が勝った場合、勝った教科×三十分揉んでいいってな。勿論、総合点数で負けてたら成り立たないって条件つきだったが……それも満たしてる」
「くっ…………わ、解ったわよ。約束は……約束、だわ……六十分、好きに揉みなさいよ」
 妙子はぺたりと、コタツの脇に座り込み、両手をだらりと下げて月彦に対して無防備な姿勢をとる。
 そう、確かに月彦の言うとおりなのだ。賭はそういう条件だったし、そのための条件も確かに月彦は満たしている。ここで変にゴネるというのは道理に合わない行動という事になる。
「なんだ、意外に素直だな。……まあ、そういう約束だったしな。……じゃあ早速、遠慮無く、っと――」
「って、こらぁっ!」
 ばちこーん!
 いきなりセーターの裾を持ち上げようとした月彦の横っ面目がけ、妙子は痛烈なビンタを放った。
「ぶっ……い、いきなり何しやがんだ!」
「それはこっちのセリフよ! 何どさくさに紛れて脱がそうとしてるのよ!」
「脱がさなきゃ揉めねーだろうが!」
「揉めるでしょ、服の上から、いくらでも!」
「服の上から……だと?」
 信じられない言葉でも聞いた――とでも言わんばかりに、ゆらりと。今度は月彦が立ち上がった。
「ふざけんな! 服の上からだと!? そんなもんで揉んだと言えるか!」
「あんたまさか、最初から直接触る気だったの? 私が、そんな事をはいそうですかと認めると思ってたの!?」
「認めるも何も、乳を揉むっつったら直揉みに決まってんだろうが!」
「それはあんたの常識でしょうが! 自分の常識を私にまで押しつけるんじゃないわよ! 直接触りたいなら触りたいで、最初にそのことを厳格に決めておかなかったあんたのミス! はいこれでこの話は終了!」
「ふざけんな、そんな話飲めっか!」
 うがーっ、と。先ほどまで亀のように身を縮めていた男とは思えないほどに、月彦は声高に叫んだ。
「妙子、お前はみかんを食うっつったら皮ごと食うのか!? 違うだろ、ちゃんと皮をむいてから、中身の果実だけを食うだろ? 物事には正しい手順、相応しい形式ってもんがあるんだ! 俺が言ってるのはつまりそういう事なんだよ!」
「うっ……み、みかんはみかんでしょ! 下らないこと言って問題をすり替えようとしないでよ!」
「すり替えてなんかねえ! 俺は賭けに勝ったら乳を揉ませろ、と言ったんだ。それを勝手に“下着と、服の上から”なんつー余計なもんを付与しようとしてんのはお前の方だ! お前が言ってるのは、“お菓子を食べたいなら、包装紙ごと食え”ってのと同じ事なんだよ! 道理にあわねー事を言ってるのはどっちだ、答えろ妙子!」
「なっ……くっ……」
 咄嗟にうまい反論が思いつかず、妙子は俄に口を噤んでしまった。
(何なのよ……コイツ……言ってることはメチャクチャなのに……なんで正論みたいに聞こえるのよ)
 しかも、突然のこの強気は一体どうした事だろう。とてもほんの数分前まで土下座し、謝罪していた男と同一人物とは思えない。
(……こいつ、どんだけ………………おっぱい、好きなのよ……)
 思い返せば、そもそも今回の賭が始まったのもこんな感じのやりとりからだった。この男はグズで甲斐性なしの根性なしで、肝心なときほど大ポカをやらかすどうしようもない奴だが、事“おっぱい”に関わる事だけは甘く見ないほうがいいのかもしれないと、妙子は少しだけ月彦に対する認識を改めた。
「っ……わ、かったわよ……確かに、あんたの言う事も一理あると思うわ…………だけど、やっぱり最初にきっちり決めておかなかったのはあんたの落ち度よ。……だから――」
「だから?」
「……半分だけ譲歩してあげる。あんたの言う通り、触るのは直接……で、いいわ。……その代わり、あんたも半分譲歩しなさい。……つまり、時間は半分よ!」
「ぐっ……三十分か」
「そうよ。それか、服の上から一時間か。好きな方を選びなさい」
「ぐぬっ……ぬ……」
 どうやらこの二択はこの男にとって凄まじい難問らしい。月彦は正月にモチが喉にからまった老人のような奇妙なうめき声を延々五分以上漏らしながら悩み続け、そして最終的には。
「……わ、わかった……三十分で、いい……」
 それが断腸の思いで導き出された決断らしいということは、端で見ている妙子にも解った。だからといって時間を伸ばしてやるなどの恩情をくれてやるほど、妙子は月彦に対して好意を感じてはいなかったが。
「……じゃあ、ちょっと向こう向いててよ。準備……するから」
「わかった。……ああ、ちなみに……脱ぐのはブラと、あと着ているのならインナーまででいいぞ」
「……? どういう事?」
「部屋の中とはいえ、セーターまで脱いだら寒いだろ。ブラとインナーだけ脱いでくれたら、あとはセーターの中に手を入れて、揉む!」
「……はいはい。解ったわよ」
 妙子は一度セーターを脱ぎ、ちらりと背後に目をやって月彦がちゃんと約束通り自分に背を向けている事を確認してからインナー代わりに着込んでいたシャツを脱ぎ、ブラを外して再びセーターを着た。
「……もう、いいわよ」
「終わったか。…………正直、待ちかねた」
 両手の指をわさわさと動かしながら、意外にも真剣な顔立ちで月彦はそんな事を言った。
「ああ、妙子は向こう向いたままでいい」
「……? どうして?」
「後ろからの方が揉みやすい」
 なるほど、言われてみれば服の下に手をいれて揉むという事を鑑みると、正面向かい合ったままではやりづらいだろう。妙子は素直に体の向きを変えてぺたりと座り込み、月彦に対して無防備な背を晒した。
(……はぁ、まったく…………ほんっと、スケベなんだから)
 やれやれと、妙子は思わずため息を漏らしてしまう。正直なところ、妙子には月彦が――否、男というものが何故そこまで女性の胸元に執着するのかまったく理解できなかった。
(こんなの……無駄に大きくて……邪魔なだけなのに)
 むしろ、千夏のように小さかったらどんなに良かった事か。胸のラインが如実に出てしまうのがどうしても嫌で、気に入った服を諦めねばならなかった思い出も一度や二度ではないというのに。
「……? どうしたの? やるならさっさと済ませてよ」
「いや、その前に……妙子、何かタイマー代わりになるもの持ってないか?」
「タイマー……あんたってば、変なところできっちりしてるのね。……じゃあ、あの壁の時計でいいわ。丁度もうすぐ四時半だから、長針が6の所にきてから五時まででいいわね」
「了解した」
 背後で、ぽきぽきっ……と指の骨が鳴る音が聞こえた。はぁ、と妙子は再びため息をついた。
(……なんでこんな事…………でも、こいつには丁度良いご褒美かもしれないわね)
 先ほどはあまりにあり得ない大ポカが心底頭に来て怒鳴りつけてしまったが、考えてもみれば確かに月曜日の時点の学力からは想像もできない程に点数を伸ばしてきたのは事実なのだ。その努力に免じて、少し胸を触らせるくらいなら許してやってもいいかなと――無論、賭けの対象になっていなければ、思うだけで留めて触らせはしなかっただろうが――妙子は思った。
「……時間だ、いくぞ」
「どうぞ。…………んっ」
 もぞりと、服の中に異物が入ってくる感触に妙子は僅かにうめき声を上げてしまった。
「やだ……月彦、あんたの手冷たい……」
「悪い。でも大丈夫だ、すぐ慣れる」
「すぐ慣れるって……んんっ……」
 むぎゅう、と強く捏ねられて、妙子は咄嗟に手の甲を唇へと当てた。
(やだ……何、これ……)
 ただ、胸を触られる事などどうという事もないと、そう思っていた。おっぱい、おっぱいと男共は無駄に騒ぎ立ててはいるが、つまるところ脂肪の塊に過ぎないのだから。腕や、足などを触られるのと大差はないと。事実、過去に触られた時も――おぼろげに思い出せるだけの、遠い昔の話だが――ただただ不快な感じがしただけで、それ以上の事は何も感じなかった。
 だが。
「…………っ……」
 ぎゅうと、強く捕まれるとその度に勝手に顎が浮いてしまう。くっ、と唇をきつく結ばねば声が漏れてしまいそうで、その保険の意味でも妙子は唇から手の甲をはずせなかった。
(違う……)
 と、思わざるを得ない。まがりなりにも、自分の体の一部なのだ。風呂に入った際などに、興味本位で少し触ったりしてみたことは、無論ある。だから、例え自分以外の者が触ったとしても、それとさして変わらないだろうという先入観が妙子にはあった。
「ふむ……なんつーか、やっぱり大きいよな。未だに俺、同年代で妙子より胸が大きい女子、見たことないし」
「っ……何よ、それ……まさか、褒めてるつもり?」
「褒めてるっていや褒めてるわけだが…………今、いくつくらいあるんだ?」
「さぁ……どうでもいいでしょ、そんな事……いいから黙って……揉みなさいよ……っ……」
 妙子は俄に顔を上げ、壁掛け時計へと目をやった。まだ、時計の針は時間が五分と経っていない事を示していた。
(っっ……こんな、事を……三十分、も……あぁっ……)
 もっぎゅ、もぎゅ。
 むぎゅ、むぎゅ。
 セーターの下ではい回る月彦の手は、およそ遠慮というものを知らないらしかった。時には痛みすら感じる程に強く握りしめられ、その都度妙子は背後の月彦の脇腹に思い切りひじ鉄をたたき込み、もう終わり!と叫んでやろうかと本気で考えた。それでも必死に我慢をして、大人しく堪えているのは偏に“きちんと約束をした”という負い目が大半、残りはこれは紺崎月彦という駄犬に対するご褒美なのだから、多少不愉快でも耐えなければという義務感だった。。
 しかしそれも、少し考え直さねばならないのではないかと、妙子は思い始めていた。
(ぁぁ、ぁっ……!)
 捏ねるように動いていた手が、一転その動きを止め、胸の表面をなで回すような動きに変わり、妙子はあわてて唇を噛みしめた。
 息が、僅かだが荒くなり始めていた。
「っ……やっ、ちょ……やだっ……そんな、耳元、で……」
「……? 耳元で、何だ?」
「っていうか、……ちょっと、っくっつきすぎ、なのよ! もうちょっと、離れてっ……」
 気がつけば、いつの間にか背後にぴったりと張り付かれ、耳の裏にはあはあと荒い息がかかっていた。
(そん、な……耳元ではぁはぁ言われたら……っっ………………)
 しかし、妙子の折角の抗議も空しく、月彦は一向に離れる気配がない。
 それどころか。
「…………〜〜〜〜〜〜〜っっっ!」
 月彦の指が、それまで一切手つかずだった先端部分へと触れ、堅くそそり立ち始めた先端部をつまむようにして弄び始めた。
(…………っ……やっ……ダメッ……そこ、ちょっと……弱い…………)
 体が、僅かに跳ねた。月彦の指は、そのまま立て続けに先端部を弄ってくる。その度に背骨がとろけてしまいそうな“何か”が体を貫き、妙子はもじもじと身もだえをしてしまう。
「っ……くっ………………ふっ、ぅ…………」
 まるで、体が浮き上がるような、そんな奇妙な感覚。気がつくと、唇が手の甲から離れていて、そんな艶めかしいともとられかねない吐息を漏らしてしまっていた。無論、そのことに気がつくや、妙子は慌てて再び手の甲を押し当てた。
(やだ……やだっ……何よ…………これ、っ…………)
 月彦に弄られている胸の先端を中心に、シビレのようなものが全身へと伝播していく。同時に、下半身に感じる――尿意にも似た“何か”。
(嘘……でしょ……? こんなやつに……胸、触られたっ……くらい、で……)
 認めたくはない。認めたくはないが、妙子はその尿意にも似たモノの正体が何で、どういった時に出るものかという事を、知識として知っていた。それ故に、恥辱に歯を食いしばる羽目にもなったわけだが。
「つ、月彦……!」
 堪りかねるように、妙子は声を上げていた。
「ちょ、ちょっと……待って。少し……休憩、入れさせて」
「何故だ?」
「な、何故……って……」
 なんと言えばいいのだろうか。妙子自身、己が一体何に堪えかねて、そんな事を言い出したのか、本当の所を理解していなかった。
「い、痛いのよ! ずっと、同じ所を強く掴まれつづけて……だから、続きをしたいなら、三十分くらい休憩をいれさせてよ」
「……変だな。痛くはしてない筈なんだが」
「男のあんたに痛いかどうかの加減なんか解るわけないでしょ! 私が痛いって言ったら痛いのよ! だから、早く手を――」
「悪いが、中断というのは飲めない」
「の、飲めないって…………」
「が、譲歩ならしてもいい」
「譲歩……?」
「残り二十分。揉むのが痛いっていうのなら、代わりに吸わせてくれ」
「なっっ…………」
「その変わり、時間はさらに半分の十分でいい。どうだ、悪くない取引だろ?」
「で、でも……吸う……って……」
「嫌なら無理にとは言わない。このまま残り二十分間、好き放題揉むだけだ」
 きゅっ、と。先端が一際強くつままれ、妙子はとうとう手の甲ではなく掌で己の口を覆った。
「っっ…………〜〜〜〜〜〜〜っっっ!」
 キュッとつままれたまま、親指の腹で扱くようにして刺激され、二度、三度と妙子は体を跳ねさせた。
(や、やだ……こんなの……あと、二十分もされたら………)
 されたら、一体どうなるのだろうか。その先が、妙子にも見当がつかない。ただ解ることは、こうして胸を弄られ続ける事に対して我慢しかねるものを自分が感じている事だけは間違いがなかった。
「……ッかった、わよ……その、条件、飲む……わ」
「ふむ?」
「そ、その代わり……残り十分……だからね。あ、あと……胸、以外の所、触ったりしたら、即蹴り飛ばすわよ」
「了解した。その条件、飲もう」
 月彦の手が、セーターの下から引き抜かれる。と、同時に妙子はころりとコタツの脇に仰向けに寝かされた。それは極めて自然な流れであり、そういう体勢にされるまで、妙子自身全く違和感を覚えなかった。
(…………こいつ、なんか……慣れてない?)
 と、そんな事をちらっと思いはしたが、すぐにそれどころではなかった。仰向けに寝かされれば、自ずと月彦と正対する形になってしまう。妙子はとてもその顔を正視できず、ふいと逃げるように顔を背け、視線を部屋の壁の方へと向けた。
 ぐいと、セーターが捲しあげられるのが、肌の感触で解った。ひやりとした空気が、セーターに包まれていた素肌に触れたと思ったのもつかの間。
「……っっ……ぅんっ…………!」
 露わになった胸が、むぎゅうと寄せられる。そして、何かが埋まってくる感触、妙子は恐る恐るちらりと視線を走らせると、己の胸元にすっかり顔を埋めてしまっているスケベ男の頭だけが見えた。
(っっ……くっ、このっ…………やりたい放題っっ……調子に、乗って…………ッ……)
 その生意気な横っ面をひっぱたいてやろうかと、妙子は右腕に力を込めた。――が、結局ひっぱたくまでには至らなかった。悔しいが、この男は今のところ“約束違反”は何もしていないのだ。この男が約束を守っている間は、自分が先に破るという事は、少なくとも妙子には出来なかった。
「っ……ひッ!?」
 と、思わず声を上げてしまったのは、れろりと。谷間を舐め上げられたからだ。
「ちょっ、バカッ……舐めるの、反則……」
「吸う、っていうのは即ち、口を使っての愛撫ってことを示してるんだ。当然舐めるのも含まれる」
「そんな、事……誰が……あんっ!」
 反論の最中にはむ、と胸の先端をくわえ込まれ、油断していた妙子は声を抑えるのが遅れて、つい甘い声を上げてしまった。勿論、あわてて両手で口を押さえたが、その後は一切反論をすることが出来なくなってしまった。
(やっ……ちょっ……これっ……ヤバっ…………)
 むぎゅっ、と先端部を盛り上げるように握りしめられた後、さらにその突端を口に含まれ、れろれろと舌でなめ回され、妙子は弓なりに背を逸らせるようにして必死に声を押し殺した。
(ちょっ……バカッ……そこ、ばっかりぃ…………)
 てろてろと、舌先で先端部を転がすようになめ回され、“痺れ”がさらに増す。妙子は右手を口に、左手でコタツ布団を引っ掻くようにしながら必死に“それ”を堪える。
 ぎゅうっ、と太股を堅く閉じ、身を固く強ばらせる――その閉じた太股の間を無理矢理開くように、月彦の膝が割り込んでくる。
(なっ、ちょっ…………)
 閉じようとする力よりも、上から膝が割り入ってくる力の方が強い。妙子は半ば強引に月彦の膝の太さ分足を開かされた。
(や、やだっ……ちょっ……こらっ……!)
 偶然か、それともわざとか。月彦の膝頭がジーンズのジッパー部分に当たり、そのまま擦り上げるようにして刺激してくる。妙子はたまらず逃げるように腰を引き、体を上方へと逃がそうとしたが、胸を捕まれ執拗に愛撫をされているせいで思うように逃げる事が出来ない。
「っっ、ちょっ……つ、月彦っ……ひ、膝っ……」
 口を開くのは危険だったが、堪りかねて妙子は声を上ずらせながら悲鳴のように叫んだ。
「膝?」
「ひ、膝っ……ぁっ……膝っ、がっ……こ、こらっぁ…………だめっ、だめっぇ……」
 ちゅぱ、ちゅぱと露骨に音を立てて胸元を吸われ続け、妙子は全身が弛緩していくのを感じた。
(……っ……まだ、十分過ぎないの……?)
 はあはあと。最早荒くなった吐息を隠す余裕もなくなり、そのたわわな胸元を大げさに揺らすようにして呼吸をしながら、妙子はちらりと壁掛け時計の方に目をやった。時計の長針は本来タイムリミットである筈の10の文字を通り過ぎ11の手前へとさしかかっていた。
「ちょっ……つ、月彦!」
 ばんばんと、妙子は月彦の背を叩く。が、月彦からの返事がない。
「月彦ってばっ、時間! もうっ、過ぎてる!」
 聞こえていない筈はない。ということは、意図的に無視しようとしているのだ。この瞬間、妙子はこれまでし続けていた一切の我慢を止める口実を手にいれた。
「こ、こらっ……もう、時間、がっ……ぅっ……」
 言っても聞かない月彦の頭を無理に引きはがそうと、その後ろ髪を掴み、思い切り引っ張った――が、そんな事はまるで意に介さないとばかりにれろり、れろりと胸の先端部を舐め続けられ、むしろ後頭部を掴んでいる妙子の握力の方が萎え始めた。
「こ、こらっ……ぁ……あんた、いい加減、に…………あふっ、ぅ…………」
 ゾゾゾゾゾッ……!
 唾液に濡れた乳首をくりくりと指先で弄られ、さらに揉まれ、捏ねられ、再び吸われ――そんな事を繰り返されて、妙子はもう全身が痺れたようになってしまっていた。ただただ、右手だけが最後の抵抗の意志を示すかのように月彦の後ろ髪を申し訳程度に掴んでいているが、それを強引に引きはがすだけの力は、最早残っていない。
(だめ、だめっ…………だめっ…………)
 このままでは、流されてしまう――それは解っているのだが、妙子には抵抗をするすべが思いつかない。いっそ強引にはね除け、蹴りの二,三発を見舞ってやれればいいのだが、全身を襲う痺れにも似た不思議な感覚のせいでとてもそんな荒技が繰り出せそうにない。
(やっ……抵抗……出来ない…………気持ち……良い……?)
 “それ”を認めてしまった瞬間、最後まで月彦の後ろ髪を掴んでいた右手から握力が消えた。
 後はもう、流されるだけだった。


 これは、ひょっとするとイケるんじゃないか?――そんな直感を抱いたのは、どの辺りからだったろうか。
 最初こそ六十分の持ち時間をいきなり半分に減らされ、どうなることかと思ったがそんな不満は数回乳を捏ねる間に霧散してしまった。
 そう、“コレ”だ。“コレ”こそ自分が長らく追い求めてきたモノなのだと。最初の五分は夢中になって揉み続けた。そして次の五分は妙子の反応を伺いながら、丹念に先端を責めた。そして、月彦は一つの事に気がついた。
(…………妙子って……胸メチャクチャ弱くないか)
 特に、先端部分。堅くそそり立った乳首を弄ってやると、必死に声を押し殺しながら小刻みに体を震わせるのだ。
(はてな、昔はそんなことはなかった筈なんだが……)
 とはいえ、昔というのは中学以前の話だ。女子の第二次性徴が何歳くらいだったかなど月彦はおぼろげにしか覚えていないが、その辺の関係もあるのだろうと推測した。そして何よりも――
(俺の……スキルか!?)
 今まで何かと巨乳を揉み捏ね、磨き上げてきた揉みスキルが知らず知らずのうちに達人の域にまで達していたのではないだろうか。もしくは、単純に妙子がたまたま胸が弱かっただけか。
(どちらにしろ……この反応……ひょっとして最後までイケるんじゃないのか?)
 特にそれを確信したのは、妙子が“時間半分にする代わりに、吸わせろ”という提案を飲んだ時だった。
(普通、ありえないだろう)
 と、月彦ですら思う。いつもの妙子ならば、痛烈なビンタ二,三発もらうのを覚悟する提案がなんと殆ど二つ返事でOKされたのだ。
 その時点で、月彦は己の最終的目標がほぼ達成されるであろう事を確信していた。さりげなく妙子の体を仰向けに寝転がし、縦セタをまくしあげた時などはもう、興奮を通り越して感動すら覚えた。
(くっ…………!)
 眼下でたわわに実った幼なじみの白い巨乳は、輝きすら放っているように見えた。月彦は目尻に熱いモノがこみ上げてくるのを感じて、一も二も無くその谷間に顔を埋めた。
 すう、はあ。
 すう、はあ。
 甘いミルクのような香りを肺一杯に吸い込むと、それだけでもう死んでもいいやという気分にさせられた。顔面の皮膚全てをつかっておっぱいの柔らかさを余すところ無くたっぷりと堪能し、最後に谷間を舌で舐め上げた。
(あぁ……おっぱいはなんてすばらしいんだ。そして、戦争はなんて無意味なんだ)
 興奮と感動がない交ぜになり、月彦は己でもわけのわからない事を思った。思いながら、今度は夢中になって巨乳をこね回し、その先端を吸った。
 そうして愛撫をすればするほど、幼なじみの強ばった体から力が抜け、脱力していくのが解った。月彦はさらに巧みに膝を使い、むりやり妙子の太股の間へと入れ、ジーンズの股間部分を擦り上げるようにして刺激した。
(……まだだ、まだ……“おっぱい条約”を破るのは早すぎる。偶然を装わなければ……)
 おっぱい条約――それは、『おっぱい以上の事は絶対しないから!』と、男が女に誓う条約の事だ。そして、歴史上一度も守り通された事のない条約としてあまりにも有名な条約でもある。
 そう、月彦はあくまで偶然を装いつつ、着々と準備を進めた。さすがに妙子もおかしいと思ったのか、途中から慌てて抵抗を始めたがそんなものは最早何の意味も持たなかった。
(いける……俺の経験上、間違いなくヤる所まではいける!)
 ただ、その後どういう事になるのか――そこまでは考えが至らなかった。だが、この千載一遇の機会を逃せば、後日必ず血の涙を流して後悔するであろうことは直感として理解していた。
 だから、時間がオーバーしてしまっているのを承知で、夢中になって妙子の乳を吸った。そして、己の後ろ髪を掴んでいた妙子の右手から握力が抜けた瞬間、“条約”を破る時がきた事を悟った。
 ――そう、恐らくは……月彦の直感も、判断も間違ってはいなかった。妙子はもう、殆ど抵抗の気力を無くしてしまっていたし、逆に月彦の方は真央との“日課”すらも我慢し続け、やる気も犯る気もほぼゲージMAX、今ならば飛んでくる銃弾を指先で掴み、その反対側に回り込むことすらやってのけるのではないかという程に、気力体力精力全てが充実しきっていた。
 そう、月彦は間違いなくその望みを遂げることが出来たのだ。――インターホンさえ、鳴らなければ。

 ぴんぽーん――そんな音が室内に響いた瞬間、月彦も、そして妙子も全ての動きを止めた。呼吸すら止めて、互いに顔を見合わせた。
 再び、ぴんぽーんと、インターホンの音が鳴り響く。程なく、コココンとドアをノックする音。
「このノックの仕方……千夏……だわ……」
「えっ……なんで、千夏が……」
 再度、インターホンの音と、ノック。「たえちゃーん、居るんやろー?」――そんな幼なじみの声が、月彦の耳にも聞こえた。
 よし、居留守を使おう――月彦がそう提案をしかけた瞬間、玄関の方からがちゃがちゃと、なにやら不審な音が聞こえ始めた。どすっ、と腹部に思い衝撃が走ったのはその時だった。
「ごふっ……」
「あんたもいつまで私の上にのってんのよ! 時間とっくに過ぎてるって言ってるでしょ!」
 完全に油断していた所に、みぞおちに膝をモロに入れられて月彦はのたうち回るようにして呻く。その隙に妙子は月彦の下から抜け出し、大あわてでまくし上がっていたセーターを戻した。
 かちゃん、と鍵穴が回る音が聞こえたのはその時だった。
「妙ちゃーん、模試返ってきたんやろー?」
 ドアが開かれると同時に、千夏の黄色い声が居間まで届いた。悶絶している月彦をまたぐようにして飛び越えて、妙子が居間の戸を開けて千夏に顔を出した。
「ごめんね、千夏。今出ようと思ってた所だったんだけど」
「あっ、妙ちゃん…………あれ、ヒコも来とるん?」
 玄関の靴を見るなり、千夏がぽつりと呟いた。
「う、うん……丁度、模試の結果見せ合ってた所」
「ふぅーん……ところで妙ちゃん、どうしてそないにハァハァ言うとるん?」
「えっ……べ、別にそんな事ないわよ?」
「…………ま、ええわ。うちも上がってええ?」
「あ、当たり前じゃない。一人であのバカの相手するのに嫌気さしてた所よ、丁度良かったわ」
「ほな、おじゃましまーす」
 千夏の軽い足音がとたとたと居間に近づいてくる頃になって、月彦は漸く呼吸が整った。慌ててコタツに入り、さも普通に模試の結果を見せ合っていた――というような体裁を取り繕う。
「お、おう……千夏。今日はバイトじゃなかったのか?」
「急に先輩がシフト変わって欲しいーゆうて、今日は休みになったんや。…………………………?」
「ち、千夏……? どうしたの?」
「千夏……?」
 居間に入るなり、なにやら怪訝そうに眉を寄せ、うっ、と口元を抑えた幼なじみに、月彦も、そして妙子も狼狽した。
「何や……このエロい空気…………もしかして、妙ちゃんとヒコ、二人で乳繰りおうてたん?」
「ば、バカ言うなよ!」
「そ、そうよ! 私が……なんでこんな奴と……!」
 二人して大声で否定する――が、どうやらその声は千夏の耳には届いていなかった。千夏はただただ己の斜め下方一点をじぃぃ、と注視しており、その視線の先をたどるや、先に妙子が、そして次に月彦が顔を青くした。
「ちっ――」
 慌てて妙子がそれを――放り出されたままになっていたインナーとブラジャーを拾い上げる。
「違うのよ! こ、これは……さっき洗濯物干そうとした時に落としちゃったやつで……」
「あー………………ごめん、妙ちゃん! 来たばっかやけど、うち用事思い出したわ。大急ぎで帰らなあかんから、詳しい話はまた今度聞かしてなー?」
「あっ、ちょっ……ち、千夏!?」
 妙子が止める間もなく、小柄な幼なじみはぴょんと跳ねるようにして玄関へと向かい、靴を履くのももどかしいとばかりにそそくさと外へと飛び出していった。
「…………行っちまったな」
 これは恐らく、千夏なりに気を利かせた――という事なのだろう。
(…………ふむ、そういうことならば遠慮無く、先ほどの続きを――)
 と、月彦が妙子に忍び寄ろうかとした瞬間、気配を察知でもされたのか、くるりと妙子が振り返った。
「……あんた、何モタモタしてんのよ」
「あ、いや別にモタモタしてたわけじゃ…………大丈夫、すぐ続きを――」
 ばちこーん!
 今までで一番鋭く、重いビンタに月彦は思い切り吹っ飛び、部屋の壁にしたたかに頭を打ち付けた。
「なぁにバカな事言ってんのよ! さっさと千夏を追いかけて! そして、何も無かったって、しっかり弁明してきなさい!」
「えっ、いや……でも……つ、続きは……?」
「ああそう、時間オーバーしても止めなかった分の蹴りを今すぐもらいたいのね。解ったわ、望み通りに――」
「わ、わかった! 帰る! 今すぐ千夏を追いかけて、何も無かったって弁解してくる!」
 これはもう、“続き”どころではないと、月彦は荷物をまとめて逃げるようにして妙子の部屋を後にした。


 妙子の部屋を後にして、さて千夏は何処にいったのかなと。思案をしながらアパートの敷地から出ようとした時だった。
「おっす、ヒコ。やっぱり追い出されたんやな」
「千夏……」
 まるで、月彦の――そして、妙子の行動までも読んでいたと言わんばかりのタイミングで、アパートの入り口の小脇に立っていた千夏に声をかけられた。
「したら早速、何しとったのか、聞かせてもらおかな?」
 月彦の隣に並ぶようにして歩きながら、千夏がにぃ、と意地の悪い笑みを浮かべる。
「べ、別に……本当に何もしてないぞ? っていうか、しようとしたらお前がインターホン鳴らして邪魔したんだろうが!」
「あははー、せやったんか。そら悪いことしたなー…………ん、てことはヒコ、妙ちゃんより良い点とったん?」
「まぁな。俺はやるときはやる男だ。……っていうか千夏、お前……妙子との賭の事知ってたのか?」
「ふっふー、うちの情報網を舐めるんやないで? 全国模試で妙ちゃんより良い点とったら、おっぱい揉ませてもらう約束やったんやろ?」
「……まぁ、そういう感じだ」
 その話は葛葉にすら漏らしていないから、自分ルートでバレるという事はまずない。という事は、妙子が千夏に話したという事だろうか。
(……しかし、千夏も千夏だ。……賭の事を知っていたのなら、俺が結果が出るや否や妙子の部屋に行く事くらい予想できそうなものなのに)
 あのような空気の読めない所行は千夏らしくない――とは思うも、責める気まではおきない。
「で、ヒコと妙ちゃんの点数、何点だったん?」
「俺が325点。……妙子が312点だったかな」
「妙ちゃんが……さんびゃくじゅうに……?」
「ああ、俺も低すぎるとは思った。……ただまー、なんか試験前日に風邪ひいて、まともに問題解ける状態じゃなかったらしいからしょうがないっちゃしょうがないかもな。しかも国語は回答欄一行ずつ間違えたせいで酷い点数だったらしい」
「へぇー……? 勝負した時に限って、妙ちゃんが熱出してまともに問題解かれへんとか、ヒコ、随分強運やなぁ」
「運っつーか……執念だな。ていうか、俺は運はそんなに良くないぞ!? むしろ悪い方だ。なんたって名前書き忘れて一教科まるまる0点にされての325点なんだぞ!? しかも、一番得意な日本史が0点なのに、だ」
「……それはヒコが間抜けやっただけやろ?」
 運はまったく関係がないと、千夏にきっぱり切り捨てられ、月彦はぐうの音も出なかった。
「……なぁ、ヒコ? 中学の後藤の事件……覚えとる?」
「後藤って…………いきなりまた懐かしい名前出してきたな。勿論覚えてる、数学教師の後藤だろ? 宿題は多いし説教は嫌みったらしくてネチネチ長くて、おまけに教え方もヘタクソで効率悪くて、ありゃ中学の教師の中で一番嫌われてたよな」
「せやな。おまけにセクハラも酷かったわ。スカートの丈が短すぎるー言うて、うちも何度足触られたかわからへんし」
「千夏のは間違いなく短かったけどな。…………そういや、クラス代表であいつに文句良いに言ったのって、妙子だったっけか」
「妙ちゃん、クラス委員長やったもん。……その後どうなったか覚えとる?」
「んーと、待てよ。今思い出す…………確か、教え方が悪いって言うんなら証拠を見せろ、とか言って後藤がキレて……次のテストまでの間、授業のボイコットを黙認してやるからクラス全員数学のテストでA評価とってみせろー、それが出来たら自分から申し出て他の教師の授業受けられるように頼んでやるーとか、そんな流れになったんだっけか?」
「せや。あの時は大変やったなぁ。まぁ、一番大変やったんは妙ちゃんやろうけど」
「……だな。殆ど一人でクラス全員の勉強見てたもんな」
 ふっ、と。月彦が思わず笑みを零しそうになってしまったのは、何となく今度の賭けと話の流れが似ているからだった。無論、月彦は後藤という教諭ほどに妙子を憎んでいたわけではないが。
「あれ、そういやあのとき……テストが終わった後、妙子三日くらい学校休んだよな? あれって何でだっけか」
「風邪拗らせたからや。テスト当日、妙ちゃん熱が三十九度もあったんやで?」
「うげっ、マジかよ……いや、でも……あんな事やってりゃそら体調も崩すわなぁ」
 クラス全員の勉強を殆ど一人で見ていた、というのは決して誇張ではない。後藤の授業を受けるのは嫌だというのは殆どクラス全員の総意と言ってもよかったが、元々後藤の授業がイマイチだったせいもあり、クラスメイトの約半数が『数学? なにそれ、美味しいの?』状態に近かったのだ。それを、全員が評価Aを受けられる程に学力を向上させねばならないとなると、その労苦は並大抵のものではないと、月彦にすら想像がつく。
「……でも、俺や和樹の前じゃ、別にそんな辛そうな顔はしてなかったぜ? 第一、あんとき妙子は満点とってたろ? 熱があったってのは別の何かの時と記憶が混同してるんじゃないのか?」
「間違えるわけあらへん。……だって、うちが妙ちゃんに風邪移してしもたんやもん」
「……あぁ、そういや千夏もケホケホやってたなぁ。…………あれ、そういや千夏に移したのは俺じゃなかったっけか?」
 そして、幼なじみ四人の中でただ1人風邪を引かなかった男については、月彦はあえて触れなかった。
「しっかし、妙子も妙子だな。今回の模試も、あのときくらい根性見せりゃー、もうちょっとマシな点数とれたろうにな」
 とはいえ、嫌いな教師を排斥できるかどうかの瀬戸際のテストと、単なる全国模試とではその重要度はまるで違う、とも言える。
(…………模試如きで体調崩してまで頑張る、ってのが賢いとは言えないか)
 むしろあの妙子の事だ。賭けさえなければ、潔く模試を辞退して体調を戻す方を優先させたのではないだろうか。そういった自己管理能力、判断の誤らなさにかけては月彦は自分よりもあの巨乳の幼なじみの事を遙かに信頼していた。
「…………ヒコ、それ…………本気で言っとるん?」
「ん? なんか冗談に聞こえるような事言ったか?」
「………………あかん。妙ちゃんも妙ちゃんやけど、ヒコもヒコや」
 処置無し、とでも言わんばかりに千夏に首を振られて、月彦はむっと眉を寄せた。
「何だそりゃ、どういう意味だ?」
「別にぃ、何でもあらへん」
 ぷい、と千夏が顔を背けてしまい、結局月彦はそれ以上の追求が出来なかった。
(……なんだってんだ…………そもそも何で急に後藤の話なんか持ち出したんだ?)
 まさか遠回しに、試験の点数結果で賭をするというのは愚かしいと、説教をしようという事なのだろうか。
「…………ていうか千夏。お前妙子になにか用があったんじゃないのか?」
 だからこそ、尋ねてきたのではなかったのか。
「んー……ちょっと。ヒコには言われへんやんごとない用件や。……まぁ、急ぎやないし、後日改めて妙ちゃんとこ行くから心配あらへん」
「……なんだそりゃ」
 そんないつでもいいような用件のせいで水を差したのか――と、月彦は思わずハンカチを噛みしめたくなる。
(……お前のせいで俺は千載一遇のチャンスを逃したんだぞ?)
 と、密かにそのことを根に持っていたりするのだが、しかしそれを口に出して責めるのはやはりお門違いと言わざるを得ない。
(ていうか、そもそも俺が名前さえ書き忘れてなけりゃ……)
 あのときの模試の手応え、あれは間違いなく95点以上は間違い無かった。妙子の五教科総合点数は312点、ならば名前さえ書き忘れていなかったら正真正銘百点差をつけることができたではないか。
(そうすりゃ……正々堂々、妙子に迫れたじゃないか)
 あんなセコい小細工をする事もなかった――月彦は今更ながらに、己のツメの甘さを悔いた。
(…………まぁでも、ある意味…………これはこれで良かったのかもな)
 考えてもみれば、やはり試験の点数如何で体を求めたりするというのは異常な事なのだ。むしろ、うっかり百点差をつけてしまって妙子を抱いてしまっていたら、その時は良いかもしれないが後々頭を抱えて後悔する羽目になったのではないか。
(……そうだよ。これで良かったんだ。…………その場の勢いとか、成り行きとかで……ヤるべきじゃないんだ)
 つい先だって、その“成り行き任せ”で一発やらかしてしまった月彦としては、そう思いこむ事で己のしでかしてしまった大失態のショックを和らげるしかなかった。
(確かに……ヤりたかった! ヤりたかったさ、そしてヤれば、多分……満足させてやれる自信もそれなりにはあるっ! …………だけど、なんつーか、ほら、……な?)
 何が“な?”なのか、月彦自身よく理解はできていなかった。
(…………いいんだ。今日の所は……多分、十年ぶりくらいに……妙子の乳に触れただけで俺は満足さ……血尿出るまで頑張った甲斐はあったってもんだ)
 否、ただ触っただけではない。揉んで、しかも吸ったのだ。世界に偉業をなした偉人は数あれど、妙子の乳を揉み、しかも吸った側の人間など自分しか居ないのではあるまいか。
「…………せやけど、ヒコ、ホンマすまんかったなぁ、ウチのせいで妙ちゃんのおっぱい触り損ねてしもたんやな」
「ん? まぁ、気にするなって。わざとじゃないってのは解ってる」
 返事を返しつつ、そういえば今俺たちは一体何処に向かって歩いているのだろうと。月彦はそんな疑問にはてなと小首を傾げた。
「……そのお詫びってワケやないんやけど、……ヒコ。明日から先週の中間テストの答案帰ってくるやろ? その合計点で今度はうちと勝負せーへん?」
「勝負って……どんな?」
 一体何を言い出すのだろう。月彦には千夏の意図が全く見えなかった。
(…………一体どの辺が“お詫び”なんだ?)
 確かに千夏は“お詫びというわけではない”ときちんと前置きはしている。が、普通そういった前置きは実際にはお詫びをするときに使う一種の謙遜ではないのか。
「せやから……ヒコが、妙ちゃんとしたみたいな………………う、うちが勝ったら、ヒコに“ぺち屋”の特玉モダン豚生姜メガミックス焼き奢って貰うわ!」
「ぺち屋か。久しく行ってないな……特玉モダンメガミックスって……三千円くらいだっけか?」
 千夏の話の持っていき方が多少強引すぎる気はしたが、賭けるモノ自体は少なくとも妙子とのそれよりもなんとも学生らしいと思える。
「やるのは構わないが……だが千夏、テストはもう終わって、あとは返ってくるだけなんだぞ? しかも、言っちゃなんだが、今回俺メチャクチャ模試の勉強頑張ったからな。多分、学校のテストもハンパねー点数で返ってくるぞ? いいのか?」
「…………勉強頑張ってたのは、ヒコだけやないーいうことを、うちの点数で思い知らせたるわ。……実はうちも、今回妙ちゃんに手ほどき受けてたんやで?」
「ほう、それは楽しみだな。……んで、俺が勝ったら何を奢ってくれるんだ? 千夏と同じのか? それともつるべーのたこ焼きか? 七市の串カツか?」
「んー………………同じの、と言いたいとこやけど、今月出費多くてキツいんや。……そやから、金のかからんもののほうがうちはありがたいんやけど……」
「金がかからないもの……難しいな」
「せ、せやから…………何かいっこ、ヒコがしたい事……うちにしてもええわ。……も、もちろんきっかり三千円分まで、やで? それ以上は……アカン」
「…………俺がしたいこと……」
 むう、と月彦は腕を組み、隣を歩いている幼なじみのつま先から頭の髪の毛の先まで具に観察する。
「………………なぁ、千夏。それって……俺じゃなくてもいいか?」
「えっ……?」
「いやな、前にカズがテレビのハンマー投げ見ながら零してたんだ。あんな風に千夏の足をもってブンブン回して投げたら、何メートルくらい飛ばせるかな、って。俺もちょっと興味あるから、それじゃあダメか?」
「………………うちが、ハンマーの代わり?」
「うむ。どっかその辺の広い温水プールとか行ってやれば、別段痛い思いとかしなくて済むと思うんだ。何なら、プール代くらいは俺とカズが持っても良い」
「…………………………。」
「それ以外だと…………今は思いつかないな。明日まで待ってくれりゃ、三つくらい笑える実験案を考えてくるが」
「…………………………あ、あはは…………うん、やっぱり無し! 止めとくわ! よう考えたら、全国模試で妙ちゃんに勝ったヒコに、うちが勝てるわけあらへんもん」
「ん、まぁ俺もそれが無難だと思うぞ。賭がやりたいならもうちょっと公平性の高いもので――」
「ごめんな、ヒコ。うち今日、本当に用事あってん。急いで帰らなあかんから、また明日な!」
「あ、あぁ……またな、千夏」
 なにやら顔を隠すような不自然な姿勢のまま突然の別れを告げる幼なじみに、月彦もまた遅れ気味に別れを告げた。


 些か釈然としないものを感じながらも、用事があるというのならば追いかけるのも悪いかと思い、結局月彦は一人帰路についた。
 家に着くなり、早速台所で夕飯の支度をしていた葛葉に模試の結果を見せた。
「頑張ったわね、月彦。これなら母さんも安心して見ていられるわ。……だけど、ツメが甘いのは何とかしなきゃダメよ?」
「解ってる。名前の書き忘れなんか二度とやらないよ」
「それと」
 葛葉は一歩進み、月彦との距離を詰めるや、軽く拳を握ってこつん、とその額を小突いた。
「っ……母さん?」
「理由は自分で考えなさい」
 葛葉はそう呟くなり、くるりときびすを返し、夕飯の支度を再開させた。はてなと、月彦は額をさすりながら葛葉の言わんとするところを自分なりに考えてみた。
(……どういうことだ? まさか、時間オーバーして余計に乳を揉んだ事を妙子が告げ口でもしたのか!?)
 少し考えて、さすがにそれはあり得ないと月彦は思った。
(……姉ちゃんの見舞いサボった件とか――これも無いか)
 ここのところ勉強漬けであったせいで、姉の病室には全く足を運んでいない。しかしこれも、葛葉に頭を小突かれて怒られるほどの事ではないと思える。
(むぅ……?)
 ならば一体どういう事なのだろうか――思案を巡らせるも、月彦にはどうしても葛葉が言わんとするところが解らなかった。
 やむなく、月彦は首を捻りながら自室へと上がった。
「……あれ、真央は……居ないのか?」
 いつもならば玄関でタックルのように飛びついてくるか、或いは部屋のドアを開けるなりとびついてくるか、はたまたややご機嫌斜めな様子でベッドの上で体育座りをしてジト目を送ってくる愛娘の姿が部屋の何処にも見あたらなくて、はて玄関に靴があったように感じたのは気のせいだったかと。月彦が部屋の中に足を踏み入れた――その時だった。
 ばたんっ、と。背後で勢いよくドアが閉まる音がした。月彦はびくっと振り返りながら後方へと飛び退くと、ドアにぴったりと背を合わせるようにして真央が立っていた。
「な、なんだ……真央、そんな所に隠れてたのか。びっくりしただろ?」
「……父さま」
 ゆらりと。制服姿のまま、真央が幽鬼のような足取りで一歩踏み出してくる。
「ま、真央……? どうした、着替えないのか?」
「父さま、私……」
 ゆらりと、また真央が一歩踏み出す。そのただならぬ気配に、月彦は後ずさりをした――が、すぐに本棚が背中に当たり、それ以上下がる事が出来なくなった。
(な、何だ……一体何をするつもりだ……!?)
 真央の狙いが解らず、月彦はただただ警戒した。ゆらり、ゆらりと真央が歩を進め、とうとう月彦との距離は約一歩というところまで来た瞬間。突如肉食獣のような動きで真央が飛びかかってきた。
「うわぁっ!?」
 月彦は情けなくも悲鳴を上げ、そのまま力ずくでベッドへと押し倒された。そして、背中がベッドにつくや否や、強引に唇を奪われた。
「ンッ……はっ…………父さまぁ……私、我慢……したよ?」
「え……我慢……?」
「ずっと、ずっと我慢して……我慢して…………だけど、もう…………もう…………」
 はぁ、はぁ。
 ふぅ、ふぅ。
 肌をピンク色に上気させ、真央は荒々しく息を吐きながら月彦の腕を掴み、自らの胸元へと導く。
「お願い……父さま、ぎゅうーーーって、シて……」
「あっ……えっ……?」
「おっぱい……ぎゅうって……シて?」
 少しずつ、頭が混乱から立ち直り始めていた。そう、即ちこれはいつものアレなのだ。
(ああ、そういや俺も随分――)
 ご無沙汰だったと。愛娘の乳を服の上からふんだんにこね回しながら――ブラだけ外してあるのはいつもの事だから月彦は驚かなかった――月彦は己がどういう人間でどういう日課を送っていたのか、久方ぶりに思い出した。
「…………そう、だな。真央、よく我慢した。えらいぞ」
 月彦は乳を揉む手をいったん休め、真央の頬、首を撫で、その体を抱き寄せるようにしてたっぷりと頭を撫でてやった。
「……じゃあ、今夜は久しぶりに……するか?」
 答えの分かり切っている問ほど無駄なものはない。が、しかし月彦はあえて尋ね、そして愛娘の返事を待ってから、その唇を奪った。そして一晩かけてたっぷりと愛娘の体を愛でてやり、本来巨乳幼なじみ用にと温存しておいた精力体力の全てを注ぎ込んだ。結果、真央ですら七度も失神するという凄まじい夜になったわけなのだが、勿論それを常人にぶつけた場合どういう結果になるかとか、そういう細かい事はケダモノ化した月彦には解らなかった。
 
 葛葉が用意していたであろう夕食を二人そろってガン無視してしまった事に遅まきながらに気がついたのは、翌朝になっての事だった。

 

 

 

 

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