それは、かつて月彦が入院した場所に比べて遙かに見劣りをする建物だった。外観はやや黒ずんだ白の四階建て。医者の腕を病院の外観で決めるのは浅はかだとは解っていても、余程危急の場合でない限り、出来れば忌避したくなるような印象だった。
何より、あの姉ならば、独自のコネクションでいくらでも豪奢な病院に入れるのではないか。この見窄らしい、僻地も僻地に立っている病院を見れば見るほど、姉らしくない場所だと、月彦は思う。
「……父さま?」
「ああ、悪い。……行こう、真央」
こうして立ち止まり、見上げていてもらちがあかない。些か反応の悪い自動ドアを潜り、受付で部屋番号を聞く。霧亜が入院しているのは、三階の角部屋の個室、そういうところは姉らしいな、と思う。
エレベーターを三階で下り、まるで監獄かなにかのように薄暗い廊下を抜けて角部屋の前に立つ。ネームプレートに誰の名前も書かれていないのは、病院側のミスか、それとも本人の希望なのか。
不意に、真央がきゅっ……と袖を掴んでくる。
「どうした、真央?」
「……この病院、何か怖いの」
確かに、廊下は薄暗く人気も無い。まるで廃墟ではないかと疑いたくなるような場所ではある。
(姉ちゃんも、寄りにも寄ってこんな所に入院しなくてもいいだろうに……)
震える真央の肩を抱きながら、月彦は改めて眼前のドアへと視線を戻す。
「姉ちゃん、俺だけど」
コンコンと軽くノックをしてみるも、返事は返ってこなかった。月彦は再度、隣に居る真央の方へと目をやる。真央もまた、月彦を見上げていた。
もう一度ノックをして、三十秒ほど間を空けて月彦はドアノブを捻った。鍵などはかかっておらず、ドアを開けるなりすぐに仕切りのカーテンが目に入った。
「姉ちゃん、入るぞ」
掌に汗をかくのを感じながら、月彦は静かに足を踏み入れた。恐らく、暖房は効いているのだろうが、部屋の外と中とでは五度ほど温度差があるように感じた。
そっと、まるで盗賊のアジトの洞窟にでも忍び込んでいるかのような足取りで、月彦はカーテンの向こう側へと回り込んだ。
「…………っ……」
当然、覚悟はしていた。“重傷”で入院したのだから、それなりの傷は負っているのだろうと。
カーテンの向こう、ベッドの上に横になっているのは紛れもない霧亜だった。明らかに男物のパジャマ姿で、左腕をギブスで固められ、右足も同様に固められてつり下げられていた。それは、どこか既視感を覚える姿だった。
「姉ちゃん……」
しかし、霧亜の怪我はそれだけではなかった。右の二の腕にも包帯が巻かれ、頭――額の辺りにも包帯が巻かれていた。
月彦の呟きに、霧亜は返事を返さなかった。枕に深々と頭を預け、目を閉じたまま。呼吸の度に、静かに胸元が上下するその姿に月彦は思わず見とれてしまった。
「ぎゃアッ!」
だが、そうして姉の寝姿に見とれていられたのは、幾ばくも無かった。娘の鋭敏な嫉妬センサーは速やかに月彦の心の動きを察知し、まるで杭でも打ち込むように踵で思いきりつま先を踏みつけたのだ。
月彦が鵞鳥の断末魔のような悲鳴を上げた刹那、霧亜は静かにその眼を開けた。
『キツネツキ』
第二十七話
はたしてどうしたものか――眼前にずらりと並んだ年賀ハガキを眺めながら、月彦は自室で首を捻っていた。
紺崎家に届く年賀状は同人数の一般家庭に比べて多い。その大半は姉、霧亜に向けてのものであるのだが、それに関してはこの際どうでもよかった。
母葛葉に向けて出されたものも別段問題はない。また、級友から自分に向けてのものもこれは例年通りであるから問題などあろう筈もない、同様に真央の級友から真央に対して出されたものも、だ。
それらのなんら問題のないハガキをより分けて残ったものが、今月彦の前に並んでいる五枚のハガキだった。
どれも、紺崎月彦に対しての年始の挨拶として出されたものであるのは内容的に間違いはなさそうだった。しかし、そのどれもが差出人不明――少なくとも、フルネームは書かれていない代物なのだ。これらは全て、真央に見つからぬよう一足先に郵便受けをチェックしてこっそり抜いてきたものだった。
月彦は五枚のハガキのうちの一枚を手に取る。お年玉クジがついていないハガキをわざわざ使っているのは嫌がらせのつもりなのだろうか。他の四枚に比べてあまりにも下手な文字で書かれた文言。宛先の“紺崎バカ彦様”という文字を見るまでもなく、大凡差出人の検討がつき、月彦はため息をついてハガキを机の上に戻した。
続いて、二枚目。一枚目に比べれば常識的な字体をしていて、内容も平凡。年賀状の見本のような文面であり、ただ単に差出人の名前を書き忘れただけではないかとも思える。 これだけならば、真央や葛葉の目に触れさせても良いように見えるのだが、問題なのは“匂い”だった。まるで、“気づいて”と言わんばかりに嗅ぎ覚えのある香水の香りを立ち上らせるそのハガキ――なんともグラマラスな胸元とお尻が頭に浮かび、月彦は静かにハガキを机に伏せた。
三枚目のハガキは、字面、文面共に問題は無く、これまた一見普通の年賀状のように見えるのが罠だった。本来差出人の名前が書かれて然るべきスペースにイニシャル“Y.H”と、意味深に書かれたそれに月彦は頭痛すら覚えた。消去法など使う迄もなく、送り主の名が解り、月彦は静かにハガキを伏せた。
四枚目のハガキ。明らかに毛筆と思われる字体は群を抜いて達筆であり、またハガキ自体も市販のものとは明らかに違う、上質の紙で出来ている様だった。しかもどうやら、桜の花びららしきものが埋め込まれているらしいそのハガキは、鼻を近づければどこか懐かしい――しかし決して思い出したくはない類の――記憶が呼び覚まされかけて、月彦は慌てて顔から離した。本来切手があって然るべき場所には、何故かネコの足形のような判が押されており、新年の挨拶に続いて“またの御来訪、心よりお待ち申し上げます”の文字。月彦は背筋に冷たいものを感じて、そっとハガキを伏せた。
そして、五枚目――。
「月彦、ちょっと良いかしら?」
こんこんと扉をノックする音に、月彦は慌ててハガキを隠した。
「何? 母さん」
月彦の返事を受けて、葛葉がそっと顔を覗かせる。ああ、厄介事だな――と、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべている葛葉を見て、月彦は俄に覚悟した。
「ちょっとお使いに行ってきて欲しいんだけど、良いかしら?」
「……何をすればいいの?」
「これをね、妙子ちゃんに届けて欲しいの」
中身はおせちよ、と葛葉が風呂敷包みのようなものを差し出す。ああ、やっぱりな――月彦はつい苦虫を噛みつぶしたような顔になってしまう。
「えーと……そういえばちょっと出かける用事が……」
「あら、だったら丁度良いじゃない。妙子ちゃんのアパートはすぐ近くなんだし、何処に行くにしても寄れない事はないでしょう?」
「いや、でも――」
「月彦」
あくまで渋る月彦に、きらりと。葛葉が笑顔のまま、どこか迫力のある視線を送ってくる。
「クリスマス……妙子ちゃんを呼ばなかったらしいわね」
「……え?」
「妙子ちゃん、クリスマスは家で一人だったそうよ? 妙子ちゃんに電話かけなかったんでしょう?」
「いや……俺はちゃんと……」
「月彦、ちゃんと私の顔を見て答えなさい。……電話、かけなかったんでしょう?」
睨むような視線に晒されて、月彦は渋々頷いた。嘘を突いても仕方のない事だし、突いたところで葛葉に看破される事は容易に想像がついたからだ。
(……でも、どうして母さんにその事がバレたんだ……?)
まさか、わざわざ妙子に電話をして確認をとったのだろうか。可能性はゼロではないが、しかしそこまでするとも思いにくい。となれば、妙子本人とは別のルートから情報を仕入れたという事だろうか。
しかし、だとすれば一体誰から……?
「月彦、貴方は男だから解らないでしょうけど、女の子の一人暮らしっていうのはとっても心細いものなのよ?」
「それは……何となく解る、けど……」
確かに、普通の場合は心細いだろう。しかし――あの妙子に限ってはどうだろうか。かえって勉強が捗ると、喜んでいるのではないだろうか。
(むしろ、俺が電話をかけたり、家を尋ねたりする事の方が妙子にとって迷惑だって事を、なんとか遠回しに母さんに解ってもらえないものか……)
さすがに、面と向かって「俺は妙子に嫌われてるから」とは言える筈がない。また、言ったところで、このおせっかいな母親は幼なじみ二人を何とか仲直りさせようと手を尽くす事だろう。
それが最早、手遅れだということも解らずに。
「解っているのなら、もっと妙子ちゃんの事を気に掛けてあげなさい。良いわね?」
「わ、解ったよ……母さん……ちゃんと、妙子の所に持っていくからさ……」
もう、この話はこの辺で――と、月彦は包みを受け取って葛葉を強引に部屋から追い出した。
恐らくは、妙子の父親によほど妙子の事を入念に頼まれたのだろう。そうでなくては、何事にも大らかな葛葉がここまで気にする筈がないのだ。
(現に……姉ちゃんの事なんて心配すらしてないもんな……)
霧亜が帰って来るであろう予定日を大きく過ぎているというのに、狼狽える素振りすらも見せない。完全に霧亜の事を信頼しているのか、ひょっとしたら自分が産んだ子供の数を忘れているのではないかとすら思える程に、霧亜の話は夕食時の話題にすら上らないのだ。
ただ、葛葉同様、月彦自身も別段心配はしていなかった。何事にもよく失敗する自分とは違い、姉は昔から失敗や挫折というものとは無縁の人間だった。だから、今度の事もただの気まぐれ、そのうちひょっこりと霧亜の部屋の明かりがついている――そんな事になるだろう、と月彦は思っていた。
「……月彦、ちゃんと届けるのよ?」
「っ……! わ、解ったって言ってるだろ!」
きぃ、と微かにドアの隙間から顔を覗かせ、釘を刺してくる葛葉に大声で返して、月彦は慌てて上着を羽織り、包みを持って部屋を出を後にする。居間でテレビを見ているらしい真央に見咎められぬ様、こっそりと玄関を出た。
葛葉はその様子を玄関まで見送り、ドアが閉まるや否や、にんまりとした笑みを浮かべる。年に似合わぬるんるんとした足取りで受話器を手に取ると、リズミカルにプッシュボタンを押した。
「もしもし、……妙子ちゃん?」
予想できた事態ではあった。前回がそうであったし、ならば今回も同様なのではないかと。
(押せない……)
どう頑張っても、インターホンのボタンに指が届かないのだ。重い足を引きずり、漸く妙子の部屋の前まで着たというのに、月彦には部屋の主を呼び出す手段が無いのだ。
(はて、何故だろう……?)
この怪現象について、月彦ははたと、少しばかり真剣に考えてみる事にした。何故自分は妙子の部屋の前まで来ることが出来ても、そこから先の事は何も出来ないのか。
(妙子の事が嫌いだからか?……いや、それはない)
嫌われる事はあっても、こちらから嫌いになったわけではない。それだけは間違いのない事実だった。
(なら……妙子にビビッてるのか?)
これが一応有力説ではある。が、しかし認めたくはない事だった。顔を合わせるたびに冷たくあしらわれ続け、正直言って妙子の相手をするのは苦手と言わざるを得ない。しかし、それでも――やはり惚れた弱み、たとえどんな罵声を浴びせられようと、心の何処かで妙子に言葉をかけてもらえる事に対して喜びにも似た感情が沸いてしまうのもまた事実。
つまり、苦手ではあるが……会いたい相手というのが、現在の所紺崎月彦の中での白石妙子のポジションなのだ。
しかし、だとすればなぜ――会うこと自体を体が拒否するのだろうか。
(わからん……)
というのが、正直な感想だった。ここから先の分析は、カウンセラーの領分かもしれない。そんな事を考えながら、月彦はすらすらと、予め用意してきたメモ用紙に文言を書き込む。
(えー、母に頼まれて持ってきましたが、どうやら留守の様なのでここに置いておきます……っと)
如何に妙子といえど、何日も家から出ないという事はないだろう。外とはいえ、この寒さならば冷蔵庫の中で冷やしているのと同じ、そうそう腐りはすまい。
月彦は風呂敷包みをドアの横の辺りに置き、そっとメモ用紙を差し込んでその場を立ち去ろうと背を向けた。
その時だった。
「……………………っ……だからッ!!!」
ばむっ、と。凄まじい勢いでドアが開け放たれる音を月彦は背中で聞いた。
「どうしてそこで帰るのよ!」
「……ッ! た、妙子ッ!?」
心臓を大きく跳ねさせながら、月彦は距離をとりつつ振り返った。
「な、何だ……居たのか……」
「居たのか、じゃないわよ! あんた一体どういうつもりなの? 葛葉さんに言われてお使いに来たんじゃなかったの?」
「……お使いに来たが、どうも留守っぽかったからな。だからちゃんとメモを残しただろ」
まさか、顔を合わせるのが恐くてつい二の足を踏んでしまった――などとは言える筈もない。月彦は平生を装いつつ、それらしい言葉で言いつくろう。
「インターホンも鳴らさず、ノック一つせずにどうして留守だって解るのよ」
「……妙子こそ、インターホンもノックもしてないのに、なんで俺が来たって解ったんだ?」
「……っ……話をすり替えないで。質問してるのは私の方よ」
うぐ、と月彦は言葉に詰まった。経験上、こういう時の妙子は決して引かないのだ。
「…………解ったよ。正直に言うとだな、年始から大嫌いな俺の顔なんか見たくないだろうと思って、気を遣ってやったんだよ」
「……何よ、その言い方……恩着せがましいにも程があるわ」
月彦の言い方が余程気に入らなかったのか、妙子がムッと眉を寄せる。
「私に会うのがそんなに嫌なら、お使いなんか最初から断ればいいじゃない」
「待て、待て……妙子、俺はお前に会うのが嫌だなんて一言も言ってないぞ?」
俺に会うのが嫌なのはお前の方だろ?――視線でそう言い含めると、漸く妙子自身も己の発言の間違いに気がついたらしく、途端に顔を赤くする。
「とにかく……あんたの図々しさなんて百も承知なんだから、今更変な気使ったりしないで。逆に気味が悪いわ」
初恋の相手に気味が悪い、とまで言われては、さすがの月彦もがくりと肩を落とさざるを得なかった。
「…………とりあえず、確かに渡したからな」
じゃ、と手を振ってさりげなく月彦は背を向ける。とにもかくにも目的は達成した、後はこれ以上怒鳴られないうちに妙子の視界からさっさと退散しようと、月彦は踵を返した。
「……待ちなさいよ」
が、三歩と歩かずに、月彦は呼び止められた。
「ん?」
「何か……用事でもあるの?」
この後、と蚊の鳴くような声で妙子は付け加える。
「うんや、特に予定はない。帰ってもゴロゴロ寝るくらいだ」
「……だったら、ちょっと寄っていきなさいよ。飲み物くらいは出すわ」
「……へ?」
月彦は、文字通り絶句した。そう、何とも形容の仕様のない衝撃に、よろよろと数歩後ずさってしまった。
(何……だと……?)
我が耳を疑うとはこの事だった。
(妙子が、自分から部屋に上がるよう誘うなんて……)
一瞬、天にも昇るような気持ちになりかけた月彦の頭を冷ましたのは、脳裏に浮かんだある女の顔だった。
(まさかっ……)
ある一つの可能性を思いついて、月彦は咄嗟に眉に唾を塗った。そしてじいと、懐疑の目で妙子を見る。
「……勘違いしないで。あんたにちょっと聞きたいことがあるから部屋に上げるだけ。話が済み次第、とっとと帰って貰うわ」
吐き捨てるように言って、妙子は風呂敷包みを手に取ると一足先に部屋に入ってしまう。どうやら先ほどの疑念は杞憂だったらしい――苦笑を漏らしながら、月彦も後に続いた。
妙子が“お茶”とやらの準備をする間、月彦は居間で一人待たされた。妙子の部屋に来るのもこれで三度目。炬燵でくつろぐのもそれとなく慣れはしたものの、やはりテレビも何もない部屋では手持ちぶさたである感じは否めなかった。
こんな静かな部屋に一人で居て、寂しくはないのだろうか。それとも、妙子の様に勉強漬けの毎日を送っていれば、そのような事も気にはならないのだろうか。
(相変わらずラジオは聞いてるみたいだが……)
机の下に、まるで隠すように置かれたラジカセからイヤーホンが机の上へと延びていた。さらに、如何にも勉強中だった、とでも言わんばかりにその周囲には参考書やノートが開かれたままの状態で放置されていた。
程なく妙子がマグカップを手に戻ってきた。その片方を月彦の前に置き、無言のまま対面の席へと座る。座るなり、いきなりふぅ……と大きなため息を一つ。そして、じろりと睨め付けるような視線。
(何だ……? ひょっとして機嫌が悪いのか?)
自分から部屋にあげてくれるということは、実は相当に機嫌が良いのではないか――そんな甘い幻想は妙子のひと睨みによって脆くも崩れ去った。機嫌が良い人間は、こんな……人を凍てつかせるような目はしないものだ。
「……クリスマス」
ぽつりと、独り言でも呟くように、妙子が切り出した。
「どうして、千夏達の誘いを断ったの?」
今度は一体“何”で怒られるのだろうと半ば恐々としていた月彦は、思わぬ切り出しに些か面食らってしまった。
「年末、千夏が遊びに来たのよ。その時に、あんたが来なかったって話、聞いたわ」
「あぁ……そのことか」
どうやら、怒られるわけではないらしい。月彦はホッと胸をなで下ろした。
「去年はちょっと家でゆっくりしたかった。そんだけだ」
「……千夏達と騒ぐより、家に一人で居る方が良いって言いたいの?」
しかし、ホッとしたのもつかの間、再びジトリと責めるような目を向けられる。
「そ、そうは言ってないだろ! だいたい妙子だって、千夏達とは一緒じゃなかったんだろ?」
「私は良いのよ。でも、あんたはダメ」
「だから、何でそうなるんだよ!」
「あんたが居た方が、千夏も和樹も楽しいのよ。だから、もっとちゃんと付き合ってあげなさいよね」
「……そりゃ単にイジる奴が居ないとつまらないってだけの話だろ」
事実、悪ノリを始めたあの二人を止めるのは容易ではないのだ。病院での事や、妙子の引越をダシにさんざんおちょくられた事を思い出し、月彦はつい歯ぎしりをしてしまう。
(そうか……千夏の謀略だな、こりゃ……)
恐らくは、クリスマスの集いをすっぽかした事を根に持って、それとなく妙子に密告したのだろう。勿論、イジる相手が居なくてつまらない等というストレートな言い方はせず、如何にも妙子の同情を買うような方向に話を持っていったに違いない。
(そして、真面目な妙子は千夏のお涙頂戴の話を真に受けて、俺に釘を刺してるわけか……)
成る程、そういう流れか――月彦は納得がいったとばかりに頷く。
「妙子、これだけは言っとくが……あんまり千夏の言葉を真に受けない方がいい」
「……どういう意味? 千夏が嘘ついてるって言いたいの?」
「そうは言ってない。けど、あいつは嘘はつかないが……物事を大げさに言ったり、態と聞き手が誤解するような言い方をしたりするだろ」
「そうね。確かにその通りだわ」
妙子と千夏は幼なじみにして無二の親友でもある。当然、親友の性格については熟知しているとばかりに妙子は頷いた。
「でも、大げさな事は言うけど、滅多に嘘はつかない千夏と、嘘ばかりついてるあんたと……私はどっちの言葉を信用すると思う?」
うっ、と。月彦は思わず絶句した。返す言葉が見つからなかったのだ。
「しょうがないわよね。あんたって昔からそういう人間だったもの。約束事なんて、守った回数より破った回数の方が多いんじゃない?」
「ちょ、ちょっと待て、妙子! いくらなんでそこまで俺は人間腐ってねえぞ!」
「何よ、あんたはいつもそんな事言って――」
さすがにそこまで言われる筋合いはないとばかりに月彦が身を乗り出して弁明し、それに応える形で妙子も大仰に声を荒げる。――が。
「…………………………。」
まるで、時でも止められたかのように、妙子は言葉を途中で切り、そのまま固まってしまう。
(……あれ?)
てっきりいつもの言い争いに発展するものだとばかり思っていた月彦としては、些か拍子抜けする思いだった。そっと、妙子の反応を伺いつつ、再び炬燵の中に足をしまう。
「…………何でもないわ。忘れて」
「………………ん?」
妙子の口から漏れるとすれば、凄まじい罵倒か冷ややかな嘲笑かのどちらかであろうと予測していた月彦には、一瞬妙子の言葉が理解できなかった。
「……何よ、その目は」
「いや……妙子、熱でもあるのか?」
額を触ろうと差し出した手は、冷たく打ち払われた。その辺りの対応は、やはり妙子と言わざるを得ない。
「……熱なんか無いわよ」
ぷいと、そっぽを向くようにして妙子はマグカップに口を付ける。はてなと首を捻りながら、月彦もそれに倣うが、カップの中に満ちている液体は黒々とした無糖コーヒーであり、頭が痺れてしまうほどに苦かった。
しばしの間、二人して無言のまま交互にマグカップに口をつけるだけの時間が流れた。月彦が口を開かなければ、妙子も開かない。そんななんとも微妙な“間”に先に堪えかねたのは、月彦の方だった。
「なぁ……妙子」
「何?」
「話……っていうのは、そのクリスマスの件だけか?」
「…………そうね」
また、会話が終わってしまった。二人して、ちびりちびりとマグカップに口をつける時間が続く。
(…………これはもう、話は終わったから帰れ……っていうことなのか?)
確か、妙子は「話が終わったらとっとと帰ってもらう」と言っていた筈だ。月彦の方としても、とりあえず品物さえ渡せばお使いの用件は済んだわけであるから、長居する理由もない。
とはいえ、このまま帰るにしてはなんとも中途半端――そう、肝心の“話”とやらがあまりにもあっさり終わってしまった為、ここで自分から帰ると切り出せば、今度は「そんなに帰りたいの?」と嫌味を言われるのではないか。
しかし、長居をすればこれまた妙子に良く思われないであろう事は間違いない。せめて、何か切っ掛けがあれば――“○○だから、そろそろ帰る”的な一つのキリでもあれば、多少は体裁も繕えるのではないか。
そう思ったからこそ、マグカップに残っていた無糖コーヒーの半分ほどを一気飲みしたのだ。後はマグカップを置き、「お茶も飲み終わったし、そろそろ――」と切り出すだけだったのだが。
「……コーヒー、まだ飲む?」
「え、あ……あぁ、じゃあ……もらおうかな」
マグカップを置くなり、間髪入れずに妙子にそんな事を切り出され、条件反射的に月彦は頷いてしまった。妙子が月彦のマグカップを手に席を立ち、程なくして居間へと戻ってくる。再び置かれたマグカップには、ぐらぐらと煮えたぎる程に熱々のコーヒーがなみなみと入れられていた。
(しかもまたブラック……苦すぎる……)
砂糖はおろか、ミルクすら入っていない熱々のコーヒーを迅速に飲むのは不可能だった。さすがに黙り込んだまま延々コーヒーを飲むというわけにもいかず、それとなく話題をふってみるも、会話のキャッチボールは長くは続かない。嫌がらせではないかと思いたくなる程に飲みづらい&時間もかかる、苦さを極めたようなコーヒーが余計に苦く感じるような重苦しい空気に、月彦が堪えかねた頃だった。
「……ねえ」
まだ帰らないの?――如何にもそう続きそうな程、物憂げな顔で妙子が切り出した。丁度四杯目のコーヒーを四苦八苦しながら口に含んでいた月彦は、妙子の言葉にマグカップをテーブルの上に置いた。
「霧亜さん……どうして入院したの?」
「……ん?」
月彦は首を捻った。妙子が何を言っているのか理解が出来なかったからだ。
「待て、妙子。姉ちゃんがどうしたって?」
「だから…………霧亜さん…………怪我して、入院……してるんでしょ?」
「………………。」
月彦はじぃと妙子の顔を見る。冗談を言っているようには見えない。そもそも、妙子がこういったタチの悪い冗談を言うとは思えなかった。
「姉ちゃんが……入院、してる……?」
「違うの? だって、葛葉さんが――」
「母さんが……言ったのか? 姉ちゃんが入院してるって」
問われた妙子自身、困惑しているといった風だった。それもであろう、置かれた立場が逆でも、月彦とて同じように感じるだろう。
「…………悪い、妙子。急用が出来た」
「えっ、ぁ……ちょっと、月彦!」
引き留める妙子の声を振り切るようにして、月彦は炬燵から飛び出ると大あわてで靴を履き、妙子の部屋を後にした。
妙子は月彦を追いかける形で台所までは足を運んだが、そこまでだった。家を飛び出してまで追いかける気にはならず、その場でため息を一つ。
「……なによ。そんなに慌てて帰らなくたっていいじゃない」
バカ月彦――呟いて、妙子は静かに玄関の鍵を閉めた。
まさか。
そんなバカな。
妙子からもたらされた情報は、月彦の中で幾度と無く否定された。しかしそれでも尚、月彦は息を切らせて自宅へと駆け戻り、玄関で帰りを待っていた真央の脇をすり抜け、直接台所に立つ葛葉の元へと詰め寄った。
「あら、月彦。随分早かったのね」
「母さん! 姉ちゃんが大怪我して入院してるって本当!?」
あら……、と。葛葉は微笑を浮かべながら微かに首を傾げる。
「言ってなかったかしら」
「言ってなかったかしら、じゃないって! なんでそんな大事な事を言い忘れるんだよ!」
道理で霧亜の事が夕食の話題にも上らない筈だと、月彦は思った。本人は既に言ったつもりであれば、確かに話題にはならないだろう。
「入院って言っても、そんなに酷い怪我じゃないのよ? 左手と右足と肋骨が少し折れて、あと火傷が少しあるくらいなんだから」
命に別状があるわけじゃない、と葛葉はさもけろりとした顔で言う。
(……これを大らかと言っていいのか?)
最早冷酷、無情の類ではないかとすら月彦は思う。確かに、葛葉が細かい事に拘らない性格であるお陰で今までも随分と助かってきた。しかし、それはこういった事態が起きる可能性をも孕んでいるのだ。
「……姉さまがどうかしたの?」
やや遅れて台所へと入ってきた真央が首を傾げる。
「……姉ちゃんが怪我して入院してるらしいんだ」
「えっ……姉さま、死んじゃうの……?」
「いや、そこまでは――」
ちらり、と月彦は葛葉の方へと視線を送る。
「大したことはないのよ、真央ちゃん。ただちょっと、スキーで怪我をしちゃっただけ」
「骨が二本も三本も折れてるのは“ちょっと怪我した”とは言わないと思うんだけど……」
すかさず月彦は突っ込むが、葛葉はにこにこと、いつもと変わらない笑みを浮かべるのだった。
夕食の後、月彦は真央と相談して翌日霧亜の見舞いに行くことに決めた。何より、直に見ない事には霧亜が怪我をして入院したという事実を信じられなかった。
(姉ちゃんに限って……)
そう思いたいが、葛葉がああ言っている以上、間違いなどではないのだろう。
「スキー……か」
年末は友達とスキーに行く――確かそう言っていた。ならば、怪我というのは恐らくスキーでのものだろう。
確かに、スキーで転倒して骨折してしまったという話はよく聞く。霧亜とて人間だ、失敗もするだろう。
だがしかし――。
「父さま、姉さまの事が心配なの?」
「ん、あぁ……そうだな」
ベッドの端、となりに座っている真央の不安げな言葉に、月彦は頷いた。
「母さんも酷いよな。こんな大事なこと言い忘れるなんて」
酷い、とは思うものの、日頃から葛葉の大らかな部分の恩恵を受けてもいる為、おおっぴらに非難することが出来ないのも事実だったりする。
「大丈夫だよ。ちょっと骨が折れて入院してるだけなんでしょ?」
「そうだな。……そうだ、真央。俺が骨折した時と同じ薬作れるか?」
勿論、“ちゃんとした薬”だぞ?――と、月彦は念を押す。
「えっ……と……材料は多分まだあったと思うから、すぐ作れると思うけど……」
「そうか。確かちゃんとした薬だったら、三日くらいで骨折は治るんだったよな……明日の見舞いまでに作れるか?」
真央の髪を撫で耳を撫で尻尾を撫でながら、「失敗せずにちゃんと作れたらご褒美だぞ?」と囁きかける。
「うん……父さま、私……頑張るね」
ぽう、とほんのり赤い顔をして、真央が頷く。
「だから、父さま……先に、“ご褒美”もらっちゃダメ?」
「……しょうがないな」
苦笑して、真央の腰へと手を回し、抱き寄せる。後はもう、いつもの通り、なるようになるのだった。
翌日、真央が骨折に効く薬を完成させ――月彦が飲んだそれとは明らかに違う、丸薬のような形だったが、もちろん突っ込まなかった――霧亜の病室を尋ねたのは昼過ぎの事だった。
「よ、よぉ……姉ちゃん。元気だったか?」
痛々しい姿でベッドに横になったまま、瞼だけを開けている霧亜に月彦はやや裏返った声で挨拶をする。
霧亜は無言でむくりと上体を起こし、そして月彦と、真央の方へと目をやった。そして、ため息をひとつ。
「……言わないで、って頼んだのに。母さんったら本当に口が軽いんだから」
「……っ……! 姉ちゃんが口止めしてたのか」
成る程、道理で――と月彦は納得した。如何に大らかな葛葉とはいえ、家族の一大事を家族にも黙っている筈が無いではないか。霧亜に口止めされていたからこそ喋らなかったのだ。
(……でも、妙子に喋ったんじゃ、俺にバレるのは時間の問題だったろうに)
それとも、霧亜に対して義理を果たしつつ、自分と真央に真相を伝えようとしたのだろうか。
(まさか……な)
たまたま、偶然そうなっただけだろう。第一、妙子に漏らしたとして、妙子がその話題を振るとは限らないではないか。
「……母さんの為に言っておくけど、母さんが俺にバラしたんじゃない。俺が姉ちゃんの事を知ったのは、別の人からだ」
「誰から漏れたかなんて、どうでもいいわ」
ふぅ、と小さくため息をついて、霧亜が深くベッドに体を沈める。
「生憎、凄く眠いの。用がないならさっさと帰って欲しいんだけど」
「よ、用ならあるって! 真央、ほら、薬を……」
「えっ、あ……うん」
月彦の隣で棒立ちになっていた真央が弾かれたように動いて、手提げ袋から丸薬のつまった小瓶を取り出す。
「薬……?」
さも面倒くさそうに、霧亜は再び上体を起こすと包帯の巻かれた右手で小瓶を受け取る。
「骨折に効く薬だ。骨なんか三日もすればくっつく。すぐ家に帰れるんだぜ」
「それは便利ね。……一粒飲めばいいの?」
「うん、一日一粒飲んで、三日目には家に帰れるよ、姉さま」
「そう。ありがとう、真央ちゃん」
霧亜は静かに微笑んで、側にあった水差しとコップで少し水を口に含むと、早速丸薬の一つを口に入れた。
「…………まだ何か、用がある?」
「いや……その、ええと――」
出来れば、怪我の詳細などを尋ねたい所だったが、露骨に眠そうな霧亜の姿を見ているとそれは躊躇われた。
(……まぁいいか。明日あたり出直して、その時聞けば……)
どうせ冬休みで学校はないのだ。今日の所は大人しく帰って、霧亜を休ませてやろう。
「とりあえず、これ……母さんに頼まれた着替え、ここに置いとくぜ。……真央、姉ちゃんに言っときたい事とかあるか?」
「……ううん」
真央はふるふると首を横に振ると、そのまま月彦の後ろへと隠れてしまう。真央のそんな態度に首を捻りつつも、特に疑問には思わなかった。
「じゃあ、今日の所は帰るけど、もし何か持ってきて欲しい物とかあったら――」
月彦の言葉などまるで無視するようにして、霧亜はベッドに体を横たえ、瞼を閉じる。ぽりぽりと頭を掻き、やむなく月彦は真央を伴って病室を出た。
「っ……」
ズキリと走る右腕の痛みに唇を噛みながら、再び上体をベッドに預ける。後はただ、悪夢を見ぬ様、祈りながら目を閉じるのみだった。
「……父さま、またお見舞いに行くの?」
翌朝、霧亜の見舞いに行こうと真央を誘った時の事だった。
「なんだ、見舞いに行くの嫌なのか?」
「…………だって、昨日……行ったばかりだよ? 着替えも持っていったばかりだし……」
「そりゃそうだが……あんな姉ちゃんでも、一応家族だからな。……怪我した時くらい、ちゃんと見舞いしてやりたいんだ」
「……今日、デート行く約束だよ?」
「あれ……そういやそうだっけか………………悪い、真央。先に姉ちゃんの見舞いに行ってからでもいいか?」
見舞いに行くとは言っても、そんなに長い時間をかけるつもりは無かった。ただ、どうしても一つだけ聞きたいことがあるから、それの確認に行きたいだけなのだ。
「…………いい。姉さまの所いくなら、私……行かない」
「えっ、行かない……のか?」
不満を漏らされる事は覚悟しても、まさか行かないという返事は全く予想してなくて、月彦はつい声をうわずらせてしまった。
「うん、行かない。父さま一人で行ってきて」
ぷいっ、と。真央はそっぽを向いて拒絶の意を示す。
「急にどうしたんだ、真央。……姉ちゃんに会うのが嫌なのか?」
嫌われている自分は兎も角として、少なくとも真央は霧亜に可愛がってもらっていた筈なのだ。
「……そうじゃないの。巧く言えないんだけど……あそこに行くのが嫌なの」
不吉なの――と、真央は小声で付け足した。
「不吉……?」
「うん。多分、母さまも同じ事を言うと思う」
「真狐が……? どういう事だ?」
解るように説明しろ、と月彦は真央に詰め寄る。
「父さまもそういうの……感じた事無い? 何でもないように見える所なのに、ここは嫌な場所だ、って思うような事……」
「あるにはある……かなぁ。何となく近寄りたくない、っていう場所は、確かにある」
理由は分からないが、この道は通りたくない。或いは、この場所には長居したくない――そう感じる事は、確かにある。勿論、原因など分かる筈もなく、そう感じた事すらそのうち忘れてしまうわけなのだが。
「多分だけど……あそこ、そういう場所なんだと思う。人間の父さま達には何でもない場所だけど、私とか母さまは不吉、近寄りたくないって思う場所……」
「妖狐にとっての鬼門……みたいなモンって事か?」
「私にもよく分からないけど……とにかく嫌なの。だからお願い、父さま一人で行って」
「……解った。一人で行ってくる」
病院に行くのが嫌なら、真央だけ外で待ってても良いんだぞ?――そう声をかけてやろうか、月彦は少しだけ迷った。しかし結局、拗ねるように部屋を後にした真央の背に何も言ってやる事はできなかった。
(…………なんだかなぁ、真央のやつ……ひょっとして姉ちゃんに嫉妬してるんじゃないだろうな)
病院が不吉な感じがする――という真央の言葉も、何処まで信じたものか。本当なのかもしれないが、或いは全くのデタラメなのかもしれない。
(……確かに、ちょっと雰囲気が独特な病院ではあるが……)
一人で病院の前までやってきて、建物を見上げながらしみじみとそう思う。最初はただの寂れた陰気な病院だと思っていたが、真央の話を聞いた後では単純にそうは思えなくなった。
(確かに、“何か”は感じる……でも――)
不吉な感じはしない、と月彦は思う。しかしその“何か”が自分と真央とでは恐らく感じ方が違うのだろう。同じ香水の匂いを嗅いでも、良い匂いと思う人間も居れば、限りなく苦痛だと感じる人間も居る様に、人間にとっては大したことはなくとも妖狐からすれば耐え難いと感じる事もあるかもしれない。
(まぁいいさ、どうせ二,三日で退院するんだ)
霧亜が家に帰ってから、真央はしっかり甘えれば良いのだ。そうなれば、変な嫉妬もしなくなるだろう。
薄暗い廊下を通り、死神のような顔をした医者や、幽鬼の様に生気を感じない陰気な看護婦とすれ違いながら、月彦は霧亜の病室へとやってきた。
「姉ちゃん、俺だ。入るぞ」
ノックをするが、返事はなし。少しだけ待って、月彦は病室の中へと入った。衝立の向こう側へと回ると、昨日とはうって変わって霧亜はベッドを斜めに起こし、そこに凭れるようにして雑誌を読んでいた。
起きているのなら返事をしてくれれば良いのに――などとは、月彦は思わない。むしろ、こうして冷たくあしらわれればあしらわれる程に安心感すら感じてしまうのだ。
ああ、いつもの姉ちゃんだ――と。
「……姉ちゃん、ここ座ってもいいか?」
来客用の椅子を手に、ベッドの側の辺りを示す。霧亜は良いとも悪いとも言わず、ただ僅かに顔を上げて月彦の方へと目をやり、そしてすぐに雑誌へと視線を落とした。
月彦はやむなく、己の判断で霧亜の答えを想定し、椅子を置いてそこへと腰掛けた。
「具合はどう? 真央の薬でかなり骨折の方は治ってる筈なんだけど」
「昨日と変わらないわ」
膝の上の雑誌に雑誌に目を落としたまま、霧亜は右手でページをめくる。。
「そんな筈ないだろ? ちゃんと今日の分は飲んだのか?」
「さぁ。目が覚めたらあの小瓶が何処にも無かったのよ。寝ている間に看護婦さんが捨てちゃったのかもしれないわね」
「捨てた……って――」
ざわりと、月彦は全身の毛が総毛立つのを感じた。
「あれは……真央が、姉ちゃんの為に一生懸命作った薬なんだぞ!?」
「私が頼んだわけじゃないわ」
霧亜は雑誌を置くと、枕元から煙草を取り出し、口にくわえる。
「待てよ、病室で煙草なんか吸っていいのか?」
月彦の言葉を無視して、霧亜はベッドの側の窓を開け、煙草に火を付けた。そのまま、己が吐き出した白い煙の行く末を見守るように、虚空を見つめる。
「……姉ちゃん、今日はどうしても聞きたい事があって来たんだ」
「何?」
「その怪我……本当にスキーで転けた時の怪我なのか?」
「そうよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないわ」
「いいや、絶対嘘だ」
月彦は譲らない。霧亜は面倒臭そうに、ふぅ、と白い煙を吐き出す。
「どうしてそう思うの」
「姉ちゃんが、スキーで骨折なんかするわけがない。……運動神経だって良いし、第一スキー得意だったろ。転けるにしてもそんな大怪我するわけがない」
「はっ。何を言うかと思えば。オリンピックに出るようなスキー選手だって、膝から骨が飛び出すような大怪我する事もあるのよ?」
「それじゃあ、その右手の火傷は何なんだよ。それも“スキーで転んで”なのか?」
月彦の言葉を鼻で笑っていた霧亜が、ピタリとその笑みを止める。
「これは別。前の晩、友達と一緒にコテージでお酒を飲んでて、酔っぱらって暖炉の近くで転んで火傷したのよ。で、次の日、火傷した手でスキーをして、二日酔いも相まって転倒、大怪我したってワケ」
これで納得したかしら?――ひと息に言って、霧亜は煙草を口へと戻す。
「……それも嘘だ。怪我した手で、二日酔いのままスキーだなんて、そんなバカなこと姉ちゃんがやるわけがない」
「……今現在私はこうして実際に骨折してるの。そしてその原因はスキーで転んだから。他ならぬ私がそう言ってるのよ」
「……じゃあ、証人に会わせてくれ」
「証人?」
怪訝そうに、霧亜が眉根を寄せる。
「スキーには“友達”と一緒に行ったんだろ。だったら、怪我をする所をその“友達”も見てる筈だ。その人に会いたい」
「バカ言うんじゃないわよ。どうしてアンタ如きを納得させる為だけに、私がそこまでしてやらないといけないの」
第一、と。霧亜は強い語気で続ける。
「私が適当な女の子を言い含めて、“友達”としてあんたに証言させたらどうするの? その子の言葉の真偽なんか、アンタには解らないでしょ」
「……っ……」
確かにその通りだと、月彦は思う。霧亜は、その気になればいくらでもそういう女性を呼べるだろう。そうして嘘の証言をされてしまったら、確かに真偽の判別などつく筈がない。
「勿論、私はそんな面倒くさい事なんてしないわ。アンタが納得いかないっていうのなら、勝手に自分で調べればいい。散々無駄な時間を費やした挙げ句、結局私が言ってた事が本当だったって解って馬鹿を見るだけなんだから」
「……っ……じゃあ、本当、なんだな。姉ちゃん……本当に、スキーで……」
「本当よ。嘘じゃないから………………だから、安心しなさい」
えっ、と。霧亜の最後の言葉を聞くなり、月彦は思わず息を飲んでしまった。いつもの、威圧的で冷ややかな口調ではない、懐かしささえ憶えるような、優しい霧亜の声だったからだ。
「姉ちゃん、今――」
自分の耳が信じられなくて、月彦はおろおろと椅子から立ち上がる。しまった、と言わんばかりに舌打ちをしたのは霧亜だ。
「月彦、お手」
「えっ」
頭で考えるよりも早く、条件反射的に右手を出してしまう。そこへ、じゅっ……と火がついたままの煙草が押しつけられる。
「あギャあッ」
「それ、アンタが捨てといて。医者に見つかると少しだけ面倒だから」
言うだけ言って、霧亜はベッドを元に戻し、ぽふんと横になる。
「っっぐ……このっ……俺の手は灰皿じゃねえぞ!」
煙草を握りしめたまま月彦は声高に叫ぶが、霧亜は最早何の反応も返さなかった。
「……父さま、姉さまの様子……どうだった?」
真央が些かばつが悪そうにそんな事を聞いてきたのは、夕食を済ませて自室でまったりしている時だった。
「いつも通りだった。……薬は、なんか効かなかったみたいだった」
だから、入院は長引くかもしれない――月彦は虚空を見ながら、まるで独り言のように呟く。
恐らくは、何らかの理由があって薬は霧亜が意図的に破棄したのだろうという事は想像に易い。が、しかしその事は真央には伏せておいたほうが良いと思ったのだ。
「…………姉さま、お薬飲まなかったんだ」
しかし、勘の鋭い娘には通用しなかった。
「いや、ちゃんと飲んだのは真央も見ただろ? 飲んだけど効かなかっただけだろうな。…………ひょっとしたら、“不吉な場所”っていうのも何か関係してるのかもな」
真央は何かを言いかけて、そして言葉を飲み込むように口を噤んだ。
「……姉さま、どうしてあの病院に入院したんだろ」
間を空けて、ぽつりと。真央がそんな言葉を呟く。
「どうしてって……たまたまじゃないのか?」
「……私に、見舞いに来て欲しくないからじゃないのかな」
「真央……」
何を馬鹿な、と月彦は笑みを浮かべて、真央の頭を撫でてやる。
「何言ってんだ。姉ちゃんにはいつも可愛がってもらってたろ? 考えすぎだ」
第一、と月彦は言葉を続ける。
「あの病院が真央にとって……妖狐にとって不吉な場所だなんて事、姉ちゃんが知ってるわけないだろ? 俺だって、真央に言われるまで全然気づきもしなかったんだから。姉ちゃんだって知らないさ」
「……今日、母さまに聞いてみたの。そういう風に感じるのは、“狐除け”がしてある場所だからなんだって」
「狐除け……?」
「多分、そういうおまじないがしてあるんだと思う。……偶然、なのかなぁ……」
「偶然に決まってるだろ。姉ちゃんが真央を嫌うわけがない」
俺なら兎も角――と月彦は心の中で言葉を付け足した。
(全く、何に対しても真央は疑り深いんだな……)
真央だけがそうなのか、それとも妖狐自体がそういうものなのだろうか。尤も、月彦もまた幾度と無く謀略にかけられ、疑り深くなりつつあるのも事実ではあるのだが。
(姉ちゃんの事だって……疑いだしたらキリはない……)
気がかりな事は、いくつもあった。第一に、あの怪我は本当にスキーで転んでのものなのか。第二に、何故真央の薬を破棄したのか。第三に、何故同じ入院するにしても、もっときちんとした病院にしなかったのか。
第一の疑問については、十中八九霧亜は嘘をついているのではないかと月彦は見ている。そもそも、霧亜が重傷で入院した――と聞いて真っ先に思い浮かんだのが、色恋沙汰が刃傷沙汰になっての負傷だったのだ。
そう、かつて由梨子を捨てたように、自分の知らない所で数多の女子達を弄び、手酷く捨てている筈なのだ。それらの女子達がいつ思い詰め、刃を手に戻ってくるとも限らない。無論、姉の事であるから、その辺りの身の振り方は考えているのかもしれないが、スキーで転んだ等と言われるよりも、捨てた女の子に刺されたと言われた方が遙かに説得力があるのは事実だった。
(でも、あんな声で……嘘じゃないから安心しろだなんて言われたら……っ……)
九分九厘嘘だと解っていても、それ以上追求しようという気にならなくなってしまった。そうやって“真相”を知ろうとする行為そのものが、重傷の姉の負担になってしまう気がして、身動きがとれなくなってしまったのだ。
第二の疑問については、皆目見当がつかないというのが正直な所だった。自分の様に、幾度と無く真央の“お薬”によって酷い目に遭っているのならばいざ知らず、可愛がっている姪っ子が一生懸命作った薬を破棄する必要が一体どこにあるのだろう。
第三の疑問は、姉独特の気まぐれなのかもしれないというのが、今のところ一番有力な説だった。それに、しっかりした大病院ともなれば当然人の出入りも激しいだろう。そういう場所では、霧亜のファンである女子らが次から次に見舞いにかけつけ、ゆっくりと休むことも出来ないのではないか。
(……そうだよ、姉ちゃんが入院したっていうのに……誰も見舞いに来た様子は無かった)
姉の事であるから、一度入院などしようものならその病室は見舞いの花で埋まって然るべきではないか。それどころか、昨日行った時も、そして今日行った時も花束一つ病室には飾られてなかった。
矢張り、霧亜が意図的に情報を遮断しているのだ。葛葉にも口止めをしたように、自分が負傷した件が外部に漏れぬ様。そういう意味では、ああいう寂れた病院の方が身を隠しやすいのかもしれない。
「……ふむ、とりあえず……大事は無い……か」
ざっと考えてみて、姉に危険が迫っている――という可能性は無い様に思えた。一番警戒せねばならないのは矢張り、逆恨みをした女の子に負傷させられていたという場合なのだが、それならばあのような骨折や火傷といった怪我ではなく、刺し傷や切り傷が主体になるのではないだろうか。
(……それとも、俺の偏見……なのか?)
嫉妬、或いは憎悪に怒り狂った女性は須く刃物を手に襲いかかってくるというのは、自分の偏見なのだろうか。なまじ我が子に包丁で斬りかかられた事があるだけに、月彦としてはどうしてもそれが当たり前だと感じてしまうのだ。
(包丁じゃなくて鈍器で……いや、でもそれくらい姉ちゃんなら……)
運動能力や反射神経に関しては自分よりも明らかに姉の方が上なのだ。そして恐らくは、頭の出来も。ならば、刃物や銃器で不意を突かれたならばいざ知らず、それ以外の方法で襲われたのならば余程の人数的不利が無い限りは独力で十分切り抜けられるのではないか。
そして、逆に人数的不利でどうにかされてしまった場合、逆にあの程度の怪我で済むとは思えないのだ。
(第一、復讐に骨を折る……っていうのが、なんか女の子の仕業っぽくないしな……)
やはり、霧亜が言う通りただの事故だったのだろうか。むうう、と唸る月彦の寝間着の袖を、くい、くいと何者かが引き始める。
「んっ、あぁ……悪い、真央。ちょっと考え事をしてたんだ」
「……父さま、姉さまの事が心配なの?」
「まあ、な。真央だってそうだろ?」
「そうだけど…………」
口籠もりながら、真央はそっと体を寄せてくる。それだけで、月彦は真央がどういう言葉を続けたいのか分かってしまった。
(……そういや、今日は本当は真央と出かける予定だったんだよな……)
露骨な“押し倒されたいオーラ”を溢れさせている愛娘に苦笑しながら、月彦はそっと真央の体をベッドに押し倒し、その唇を奪う。奪いながら、真央の胸元へと右手を這わせ――た、その刹那。
「痛っ……!」
「父さま……どうしたの?」
不意に、ズキリと右手が痛んで、月彦ははたと我に返る。昼間、姉に煙草を押しつけられた右掌は火傷薬を塗ってガーゼを当て、包帯を巻いてあるのだが、今までさして痛まなかったそれがここへ来て急激に痛み出したのだ。
「……悪い、真央。やっぱり今夜は無しでいいか?」
「えっ……父さま、火傷……痛いの?」
だったらお薬を――とベッドから出ようとする真央を、月彦は慌てて止める。
「く、薬はいい! 大丈夫だ、こんなの一日もすれば痛くなくなる。……たまには、普通に寝るのも悪くないだろ?」
「…………普通に、寝るだけ…………?」
あからさまに欲求不満そうな顔をして、真央はぶうとむくれてしまう。
(……悪い、真央)
本当は、決して行為そのものが不可能な程に痛んでいるわけではなかった。さらに言えば、例え同じような怪我を――或いは、もう少しばかり酷い火傷を負っていたとしても、それが霧亜に負わされたものでなければ、このまま続けていたかもしれない。
(…………“そういう気分”になれないんだ)
気がかりが多すぎるからか、それとも火傷が痛む度に重傷の姉の姿が脳裏にチラつくからか、はっきりとした“理由”は月彦自身にも解らなかった。
(……そういや、前にも似たような事があったな)
すっかり機嫌を損ねてしまった真央の横に添い寝をして、よしよしと頭を撫でてやりながら、月彦はしみじみと右手を見る。まだ、真央が家にやってきていくらも経っていない頃にも、同じように霧亜に煙草を押しつけられ、火傷をした事があった。
(……あの時は確か、真央の“お薬”で……)
懐かしい、ほんの一年足らず前の話なのに、十年も昔のように思えてしまう。
(……姉ちゃん)
霧亜に受けた仕打ちは、煙草を押し当てられただけではない。思い返せば、殴る、蹴るは当たり前、階段から蹴り落とされ、今の霧亜と似たような怪我を負わされた事もあった。
(……つっても、アレは俺が……真央とやりすぎて骨密度やらなにやらがヤバかったっていうのもあるんだろうけど)
そうでなくては、いくら何でも家の階段を落ちた程度で二カ所も三カ所も骨折はしないだろう。或いは、常識では考えられない鈍くさい落ち方をしたからなのかもしれない。
(本当、懐かしい……な……)
ふあぁ、と欠伸をして、真央を抱きマクラにするようにして月彦は瞼を閉じた。
「えっ……霧亜先輩……入院してるんですか!?」
「うん。年末スキーにいって、そこで怪我したらしいんだ」
重い口調にならぬ様苦慮しながら、月彦はお冷やへと口をつける。
「入院って言っても、怪我は外傷だけ。骨は折れてるけど、命がどうこうっていうわけじゃないから、そこは安心なんだけどね」
「霧亜先輩が、スキーで、ですか……」
信じられない、とでも言いたそうな由梨子の呟き。月彦も全く同感だった。
隣町に新しくショッピングモールが出来たから、一緒に行ってませんか――という誘いを由梨子に持ちかけられたのは昼前の事だった。月彦としても、折角の冬休みであるし、久しぶりに由梨子にも会いたいし、何より霧亜の事で滅入りかけている気分を一新させたいという意味でも、由梨子の誘いに快く乗った。
駅で由梨子と合流し、ぶらぶらと店内を見て回る事四時間。いい加減小腹が空いたという事で手頃な喫茶店に入り、遅めの昼食か早めの夕食を摂ろうという話になったのだった。
「ほら、オリンピックに出るようなスキー選手でも、酷い怪我したりする事はあるらしいし……今回の事は猿も木から落ちる、って奴じゃないのかな」
おどけた口調で言って、月彦はまたお冷やへと唇をつける。火傷の件は、由梨子にはあえて伏せた。そこまで言ってしまえば、間違いなく由梨子もおかしいと気がつくだろう。
「まあ、姉ちゃん本人も今回の事はそうとう恥ずかしいって思ってるみたいでさ。母さんに口止めとかしてたらしくて、俺も真央も、姉ちゃんが入院してるって知ったのは一昨日になってからなんだ」
「…………それは、きっと……恥ずかしかったからじゃなくて、先輩に心配をかけたくなかったからですよ」
由梨子の優しい笑み――しかし、どこか寂しさを孕んだ笑顔を見て、月彦はハッと心臓が縮むのを感じた。
(……そう、だ。そういや、由梨ちゃんは姉ちゃんと……)
少なからず因縁――確執があったのだ。そのことをすっかり失念して、いけしゃあしゃあと霧亜の話題を振ってしまった己の無神経さに月彦は腹が立った。
(……そして、“そういう相手”の事なのに……)
悪し様に言うどころか、庇いさえする。何故、こんなに良い子を捨てたのだと、姉に対して憤りさえ沸いた。
(でも、姉ちゃんが由梨ちゃんを捨てなかったら……こうして由梨ちゃんと仲良くなる事も無かった)
霧亜に捨てられ、入院するほどに心に傷を負った由梨子が相手であったからこそ、なんとか力になりたいと頑張れたのだ。ただ、真央の級友であるというだけでは、ここまで仲良くなる事はできなかっただろう。
「……先輩」
はたと、由梨子の声で月彦は思考の渦から脱し、そして顔を上げた。
「先輩が今考えてる事、なんとなく解ります。……だから、先に言っておきますね」
それは、憂う様な――しかし、心に響く笑顔だった。
「私、今……とっても幸せです。先輩の事を好きになって、そしてこんな風に一緒の時間を過ごす事が出来て、本当に幸せなんですから」
「っ……由梨ちゃん」
自分もまた、由梨子と同じであると言いかけて、その言葉が喉奥で止まる。改めて言い直そうとした矢先、店員が注文した料理を運んできて、月彦は完全に機を逸した。
腹ごしらえをした後は、モール内のまだ見ていない場所を見て回り、最後にゲームセンターで軽く遊んで外に出た時には夕暮れになろうとしている頃だった。
「先輩、良かったら……これからカラオケとか、行きませんか?」
そっと、手を握りながらの誘い――月彦はすぐに、その真意に気がついた。歌うのは苦手と自称する由梨子がカラオケに誘う理由は、一つしか考えられないからだ。
(……どうするかな)
実際、かなり心の動く誘いではある。久しぶりに由梨子と二人きりでイチャイチャしたい。落ち着ける個室でじっくりと、まだまだ未成熟な体を心ゆくまで楽しみたいという気持ちは、少なからずある。
しかし、“そちら”へと傾きかけた心が、不意にズキリと痛む右手によって引き戻される。
「…………ごめん、あんまり遅いと……真央がまたヤキモチ焼くからさ」
「……ぁ……そう、ですよね。すみません……忘れて下さい」
しゅん、と悄気る由梨子の姿に、月彦は思わず前言を撤回したくなるも、結局言葉は出なかった。
最寄り駅へと戻り、由梨子を家へと送っていく――その途中で、月彦ははたと足を止めた。
「……先輩?」
「あっ、いや……そういえば、姉ちゃんの病室……花とか、何も無かったなぁ、って思ってさ」
辺りはもう暗くなり始め、月彦が見ている前で店員が早々と店じまいの準備を始めていた。
「確かに……病室なのに花も何もないのは寂しい……ですよね」
「やっぱ……そうだよな。…………何か、買って持っていくか」
すみません、と店じまいに忙しそうな店員に月彦は声をかける。その背後で、由梨子が寂しげに視線を逸らしている事には、無論月彦は気がつかなかった。
花屋の前で由梨子と別れ、些か奮発して買った見舞い用の花束(完全に店員にお任せで選んでもらった)を手に、月彦は三度霧亜の入院してる病院へと足を運んだ。
(面会時間は確か……八時までだった筈だよな……?)
腕時計で時刻を確認すると、まだ六時をやや過ぎた辺り。記憶が間違っていなければ、十分花を飾る時間はある筈だった。
念のため受付でも面会時間を確認してから、月彦は霧亜の病室へと向かった。
「姉ちゃん、入るぞ」
ノックをして、少し待ってから入る。仕切の向こうの霧亜は、ベッドを斜めに起こした状態で窓から外を眺めていた。
(……我が姉ながら…………)
横顔が絵になる――などと、月彦は思ってしまう。霧亜に惹かれ、集う女子達の気持ちが少しだけ分かる気がした。
そしてすぐさま、反射的にその場から飛び退いたのは、つま先への一撃を裂ける為だった。無論、その一撃をいつも入れてくる愛娘はこの場に居ないわけなのだが、それが来ると錯覚してしまう程に、月彦は見とれてしまったのだ。
「……また来たの」
窓の外へと目をやったまま呟いて、霧亜はカラカラと窓ガラスを閉める。
「余程火傷の痕を増やして欲しいみたいね」
酷い言われ様だったが、これがデフォルトであるのだから仕方がない。むしろ、「良く来たわね」「待っていたわ」等とでも言われようものならば、目を凝らして耳と尻尾がついてないかどうか確かめねばならない所なのだ。
「……この寒い中、窓なんか開けて何見てたんだよ」
「星」
まるで独り言の様に呟いて、霧亜は枕元から雑誌を手に取るとそれへと視線を落とす。
「…………で、何か用?」
「……花、持ってきた。この部屋、全然飾りっ気とか無いだろ」
「そう、ありがと」
てっきり嫌がるかと思いきや、霧亜はあっさりと比較的無事な右手を伸ばして、花束を受け取った。
「もうすぐ看護婦さんがゴミの回収に来るのよ。丁度良かったわ」
そして、ろくに花も見ずにゴミ箱へと放り投げる。
「っ……姉ちゃんッ!」
「何よ、なんか文句あんの?」
怒りの声を上げる月彦だが、それを遙かに凌駕する気迫で睨み付けられ、うぐと退いてしまう。
「……忘れてるみたいだからもう一度教えてあげるわ。私はね、アンタみたいな愚図でバカな弟と今更仲良くなんてするつもりはないのよ。それに第一、私は花っていうものが大嫌いなの。何の役にも立たない、すぐ枯れて醜く萎れてゴミになる物を眺めて何が楽しいのかしら」
霧亜は読んでいた雑誌を丸めると、トドメとばかりにゴミ箱に放り込む。くしゃりと、花束の包み紙が拉げる音が甲高く響いた。
「……そうかよ。よく分かった。姉ちゃんの趣味じゃなくて、どれだけ人の気持ちを考えられない、冷血人間なのかが、な」
そうだった、姉はそういう人間だったと、月彦は今更ながらに思い直した。
(そうだよ、そういう女じゃなきゃ、由梨ちゃんを捨てたりなんてする筈がないじゃないか)
昨日霧亜が不意に漏らした一言で勘違いをしてしまう所だった。三つ子の魂百まで、怪我を負っていようと、霧亜は霧亜なのだ。
「そういう事よ。解ったのなら早く出て行きなさい」
「……解ったよ。誰が、二度と見舞いになんか来るか!」
売り言葉に買い言葉。吐き捨てるように声を荒げて、月彦は乱暴にドアを開けて病室を後にした。
全くもって無駄な時間と金を使ってしまったと、月彦は帰り道で憤慨していた。
(こんな事なら、花屋なんか寄るんじゃなかった)
そのまま由梨子の家まで一緒に行くべきだったと。否、そもそも由梨子の誘いに乗っておくべきだったと、今更ながらに後悔していた。
(ひょっとしたら……なんて……思った俺がバカだった)
普段とは違う。負傷している霧亜はベッドから満足に身動きも出来ないのだ。至極、いつもとは勝手が変わってくる。ひょっとしたら――そう、もしかしたら……かつて由梨子が言っていた様に、元のように戻れるのではと、そう思った。
(……姉ちゃんに歩み寄る気がまるで無いなら、こっちだって……)
淡い期待など抱いたりはしない。そもそも霧亜の態度が不変であると解っていれば、失望することも無いのだ。
「……ただいまー」
憤りながらも、凡そ我が家の玄関を潜るような仕草ではない。まるで妻に無断で外泊した夫がこっそり帰って来た時のような足取りで、月彦はドアを開け、靴を脱ぐ。
(……変だな、いつもなら……)
玄関マットの上でこれ以上ない笑顔で皮肉混じりに「今日は早かったね、父さま」と笑いかけて来るか、階段の所で体育座りをしたままじぃぃ〜〜ともの言いたげな視線を送ってくるのが常であるというのに、真央の気配をまるで感じないのだ。
(……かなり拗ねてるんだろうなぁ……)
今朝、家を出る際に真央とかわしたやり取りを月彦は思い出す。さすがにおおっぴらに由梨子とデートをしてくる、とは言えず、また霧亜の病室に見舞いに行く、という事にしたのだが。
『………………そんなに毎日、姉さまのお見舞いに行かなきゃいけないの?』
最早あからさまに不満の声を漏らして、真央はぶうと頬を膨らませていた。夜、全く抱いてやらなかった事も、真央の不満に拍車を掛けていた。
だからこそ、今日は由梨子とのデートは早めに切り上げ、その分真央とイチャイチャしてやろうと思っていたのだが。
「……どっか出かけてるのかな?」
首を捻りながら二階へと上がると、自室の方からなにやらぶつぶつと話し声が聞こえてきた。
(なんだ、やっぱり家に居るんじゃないか)
それが他ならぬ真央の声だとすぐに解ったが、肝心の相手の声の方はまるで聞こえなかった。電話でもしているのかな、と月彦は一瞬部屋に入るのを躊躇った。
(……真央にだってプライベートはあるんだしな…………でも、一体誰と電話を……?)
月彦はこっそりと側耳を立ててみるが、真央の方もぼそぼそと小声で話しているせいでうまく聞き取る事が出来ない。
(なんだ……触媒……材料……呪いのかけ方?)
辛うじて聞き取れた単語があまりに物騒であったから、月彦は思わずドアを開けて中へと入ってしまった。
「真央ー、今帰ったぞ。一体誰と電話を――……」
「しっ! 静かにして、父さま」
部屋に入るなり、鬼のような顔で睨まれ、しぃっ、と人差し指を立てられる。見れば、真央は電話などしていなかった。勉強机の上になにやら紙を広げ、それを睨みながらブツブツと喋っているのだ。
(何だ……一体何を……)
そっと真央の肩越しに覗き込むと、真央が睨んでいるのはA2用紙ほどの大きさのチラシの裏に“あ”から“ん”までの濁音を含んだあらゆるひらがなと0から9までの数字が書かれた紙だった。さらに中央上側の辺りには鳥居のようなマークがかかれており、その紙の上を凄まじいスピードで十円玉が動き回っていた。
「げっ……ま、真央っ……一体何やってんだ!」
「静かにして! 今、母さまと大事な話してるんだから」
「真狐と……話?」
見ていると、十円玉が素早く動き、ば、か、つ、き、ひ、こ、と順番に止まる。
勿論、十円玉には糸も何もついていないし、真央は紙を抑えているだけで触れてもいない。
「それで、母さま。他には何が必要なの?」
ま、ん、ど、ら、ご、ら、と十円玉が動き、真央はそれをメモ用紙に書き留める。
「ま、真央……それ、もしかして……電話みたいなモンなのか?」
「父さま、静かにしてて! すごく集中しなきゃいけないんだから!」
、恐る恐る尋ねると、またしても真央に睨み付けられ、月彦はひとまず部屋の外に退散することにした。
(……とにかく、今は話をしないほうが良さそうだな)
真央の操作を見ていた限りでは、どうやらこちらからの入力は声で、相手側の声は十円玉によって文章にされて伝わる仕組みらしかった。つまりは、あの用紙の側で喋ると相手側に巧く声が伝わらないのだろう。
(……でも、これで謎が一つ解けた)
いつもいつも、自分の知らぬ間にどうやって真央が真狐と連絡を取っているのか、長年の謎ではあったのだ。下手に聞くと、「母さまに会いたいの?」等と詰め寄られる為、聞くに聞けなかったのだが、その謎が漸く解明した。
(……見た目は、まんま狐狗狸さんだが……)
或いは、あの通話(?)方法が妖狐にとってのポピュラーな通信手段なのだとすれば、それをたまたま盗み見た誰かが真似をしたのが狐狗狸さんではないのだろうか。
(……しかし、材料がどうとか言ってたな……まさか、姉ちゃんに飲ませる薬をまた作る気なのか?)
以前の薬が効かなかったから、もっと強力なのを作る気なのかもしれない。
(……作っても、どうせ姉ちゃんは飲まないだろうが…………)
それを伝えようとしたところで、また真央に睨み付けられるだけだろう。月彦が自室のドアの前から立ち去ろうとしたまさにその時だった。
「父さま、ちょっと向こう向いて!」
「ん?」
ドアを開けるなり、急いた様子で言う真央に促されて、月彦は背中を向ける。
途端――
「痛っでッ……! 何すんだ真央!」
ぶちぶちぶちっ、と後頭部の髪の毛が力任せにむしり取られ、怒鳴り散らした時にはもう真央は部屋に引っ込んだ後だった。
「こらっ、真央! どういうつもりだ!」
声を荒げ、ドアを開けようとするが開かない。向こう側で抑えられているとか、そういう類ではない。物理的にドアノブが回らないのだ。
「真央っ、開けろ!」
力任せにドアを叩くが、開く気配は微塵も無かった。中からは相変わらずぼそぼそとした独り言にしか聞こえない真央の声が聞こえるのみ。
「……なんだってんだ…………」
結局月彦は根負けし、一人階下へと降りるのだった。
結局、真央は夕食時になっても下りて来なかった。その為、夕飯は葛葉と二人きりという、なんとも静かなものになった。
(……真央の奴、一体どういうつもりだ)
確かに、昨日、今日とあまり構ってやらなかったし、昨日の夜もただ添い寝しただけだ。だからといって、拗ねて部屋から一切出てこないというのはいかがなものか。
「真央ちゃんもお年頃って事かしら」
葛葉は葛葉で、一体何が楽しいのかニコニコしっぱなしだったりする。
「冗談じゃないよ。このままじゃ俺、廊下で寝る羽目になる」
事実、真央があのまま籠城を続ければ、自室以外で寝なければならない。さすがに来客用の布団くらいは在るのだろうが、この年になって葛葉のとなりで寝るような事は避けたかった。
「あら、それなら霧亜の部屋で寝ればいいじゃない」
至極当然の事のように言われて、月彦は思わず頬張りかけていた里芋の煮っ転がしを吹き出してしまった。
「そ、そんな事したら俺が姉ちゃんに殺されるって!」
「霧亜は今居ないんだし。黙ってれば解らないわよ」
名案だ、とばかりに葛葉は頷く。
「それとも、久しぶりに母さんと一緒の布団が良いかしら?」
「……普通に来客用の布団で寝るよ」
母さんなら別に構わないわよ?――といやに乗り気の葛葉に気圧されるようにして、月彦は首を横に振る。
(……母さん、いつになくテンション高いな……)
不意に、そんな事を思う。変な所でノリが良かったりするのはいつもの事なのだが、今日の葛葉はまたそれとは別。まるで遠足を前にした子供のようであると、そう感じるのだ。
「……そうそう、月彦?」
「なに、母さん」
夕飯も進み、おかずも残り僅かとなった頃だった。
「真央ちゃんにはもう言ってあるんだけど、母さん、明日からまた少し家を空けることになったから」
「……どうしたの?」
「ちょっとね、友達の家の留守番を頼まれちゃったの。夫婦で親戚の結婚式に出席する間、子供の面倒を見てて欲しいって」
「俺なら全然構わないよ。学校が始まる前に戻ってきてくれれば」
「ごめんね、月彦。またお土産買ってくるから。そうそう、霧亜の着替えとかも、明後日くらいには持っていってあげてね」
「……うん、解った」
正直、しばらくは姉の顔すらも見たくはなかったが、葛葉が家をあけるのでは仕方がない。感情を挟まず、極めて事務的にやるべき事だけをやって帰れば良いだけの話だ。
夕飯が終わり、風呂から出ても、真央の籠城は続いていた。いよいよ他に寝る場所を作らねばならないという段階になって、葛葉がとんでもない事を言い出した。
「変ねぇ……確かにここに仕舞っておいた筈なんだけど……」
寝室の押入を漁りながら、葛葉がはてなと首を傾げる。
「どうしたの?」
「来客用のお布団が見つからないのよ。月彦、あなた何処にやったか知らない?」
「俺が知るわけないよ。最後に使ったのはいつ?」
「いつだったかしら。真央ちゃんがしばらく一緒に寝たいって言ってた頃だったから、秋頃かしら……」
うーん、と首を捻りながら葛葉はぱたぱたとあちらへ行っては押入を開け、こちらへ来ては箪笥を開けと右往左往を繰り返す。
(そんなに広い家ってわけでもないのに、なんで布団なんてデカいものが無くなったりするんだ……)
首を傾げながら、月彦も葛葉にならって押入を捜すが、確かに布団は見つからなかった。
「しょうがないわね、月彦。貴方やっぱり霧亜の部屋で寝なさい」
「ええっ!?」
「良いじゃない。昔はよく一緒に寝てたでしょ? それとも、母さんの布団の方がいいかしら?」
勿論、葛葉の言う“昔は一緒に”の昔というのは十年以上は昔の事だったりする。
「……毛布だけでも余ってないかな。とりあえず毛布があれば一晩くらいは……」
「月彦。明日からしばらくは真央ちゃんと二人だけなのよ? 貴方がそれで風邪でも引いたら、誰が真央ちゃんの面倒を見るの?」
ぐっ、と月彦は唸る。確かに、葛葉も居らず、真央と二人きりという状態で風邪を引いているというのは如何にも危険なシチュエーションだ。そう、風邪がどうとかというよりも、風邪を引いている事によって飲まされる“薬”が何よりも危険なのだが。
「…………解ったよ。じゃあ、今夜一晩だけ……姉ちゃんのベッドで寝る」
何度も何度も葛葉に口止めをして、月彦は二階へと上がる。ダメもとで自室のドアを開けようとするが、当然の如く開かなかった。
(……なんだ、この匂いは……)
香でも炊いているのか、ドアの隙間からなんとも言えない匂いが漏れだしていた。さらに耳を澄ませば、念仏とも祈りともつかないものを唱える真央の声が微かに聞こえた。
(……何をやってるのか知らんが、明日顔を見せたら少し叱ってやらないとな)
いくら拗ねているとはいえ、限度というものがある。さすがにこれは容認出来ない、と思いながら、月彦は霧亜の部屋へと入る。
「……――っ!?」
入り口でギョッと固まってしまったのは、相も変わらずその部屋が雑然としていたから――ではなかった。
むしろ、その逆。いつも散らばっているCDケースやらは綺麗に整頓され、誰のものとも知れない女物の下着などは見あたりもしない。ベッドシーツから掛け布団に至るまで、まるでプロのメイドか何かが掃除をしたのではないかと疑いたくなる程に片づけられていた。
「……母さんが片づけたのか?」
霧亜の入院を機に、葛葉が掃除したのだろうか――最初に浮かんだその考えを、月彦は即座に否定した。母、葛葉の言う事には滅多に逆らわない霧亜だが、唯一部屋の中を弄られる事に関しては異様な迄に反発するのだ。
だから、常識的に考えれば部屋を片づけたのは霧亜自身であるという事になる。
(……縁起でもない)
そう、月彦は感じた。これではまるで身辺整理ではないか。
「…………。」
悪い、とは思いつつも、月彦はそっとクローゼットの中を盗み見た。前に見た時はごちゃごちゃと、適当に物を押し詰めただけであったその中までもが、綺麗に整理整頓されていた。
「えっ……」
そんな馬鹿な、何故これが――月彦は徐にその黒い塊を手に取った。それはかつて、由梨子に頼まれて捜した“黒い、時計塔を模した置き時計”に他ならなかった。
「……捨てたんじゃ、なかったのか」
確かに、霧亜は捨てたとは一言も言っていなかった。しかし、前に見た時には間違いなく無かった筈なのだ。
(……いや、考えてみりゃ、ちゃんと隅々まで捜したわけじゃない)
押入の中やクローゼットの中を全てひっくり返したわけではない。霧亜が奥まった場所に隠していたとしたら――見逃した可能性は十二分にある。
(……由梨ちゃんに、言うべきか……?)
あの時は無い――と言ったが、実はあったと。しかし、それは由梨子を戸惑わせるだけではないのだろうか。
「……っ……」
月彦は置き時計を元の場所へと戻し、クローゼットを閉めた。主の留守中にその秘密を盗み見るその行為自体に嫌気が差し、部屋の明かりを消してベッドへと潜り込んだ。
(……姉ちゃんの、匂い……だ)
葛葉の言った通り、まだ二人で一緒に寝たりしていた頃は、この香りに包まれるだけでどんなに不安な夜もすぐに寝付けたものだ。そのことを、十年以上経った今となっても、体は憶えていた。
自分でも驚くほどにあっさりと、月彦の意識は眠りの谷へと落ちていった。
とても変な夢を見た。
気がつくと、なにやら草原の様な場所に寝かされていて、しかも全身を全く動かす事が出来なかった。それもその筈、首から下、手足の先に至るまでロープと地面に打ち付けられた杭によって完璧に固定されているのだ。
さながら、ガリバー旅行記の小人の国のような状態。そして、そんな自分の回りを、小人大でネイティブアメリカンの様な格好をした何十人もの真央がくるくると踊りながら回るのだ。
すぐ隣にはキャンプファイヤーの様な焚き火があり、さらに首を動かして頭上側の方を見れば、招き猫のようなポーズをした巨大な狐の石像があった。やがて宴も酣となると、沢山の真央が月彦の体を切り刻み、石像に捧げたり或いは焚き火で肉を焼いて食べ始める。不思議と痛みは無く、血も出ず、綺麗サッパリ骨だけになった所で、月彦ははたと眼を覚ました。
「う……」
寝ぼけ眼のまま、寝汗でぐっしょりになった掛け布団の下からはい出す。変な夢を見たせいか、寝覚めもまた変な気分だった。
「……ん、なんだ……?」
ずるずると、ベッドから出るというよりは落ちるような形で転がり出る。寝汗のせいか衣類の感触もおかしく、首を捻りながら立ち上がろうとする――が。
「およっ……おっ……?」
何故か巧く立てない。不思議と、何もかもが違和感だらけだった。まるでまだ夢の中に居るかのように視界が安定せず、まるで自分の体ではないかの様だった。
「ああ、そうか。尻尾を仕舞ったままだから立ちにくいんだな」
トランクスの中で巻くように仕舞われていた尻尾を解放し、さわりと動かすと驚くほど簡単に立ち上がる事が出来た。
「成る程、こうやって尻尾でバランスを――……ん?」
そしてはたと。寝ぼけた頭が覚醒する。
「……尻尾?」
体を捻り、己の尻を見る。そこには見事に、真央のそれのような狐の尻尾が生えていた。
「んなぁあああああっ!?」
奇声を上げて部屋を飛び出そう――とした所で、脱げたトランクスで躓いて月彦は盛大に顔面を床で強打した。よく見れば、異変は尻尾だけではない。いつぞやのように体までもが縮んでしまっていた。
「な、なんだ……一体何が起きたんだ……?」
ずり落ちそうになるトランクスを手で押さえながら、月彦は部屋から出る。身長が低くなっているせいか、ドアノブを回すのも一苦労だった。足の長さに対して階段の一段一段が異様に高く感じて、手すりにつかまりながら辛うじて一階へと下りる。目指すは洗面所の鏡――だがしかし。
「……高い!」
洗面台の前につも、普通に身長が足りず鏡を覗く事が出来ない。やむなく、洗面台によじ登り、そこで初めて月彦は己の姿を見た。
「なんじゃこりゃあああああああああ」
年は、恐らく五歳児といった所だろうか。それだけならば、以前真狐に盛られたキノコをまたぞろ何らかの飲食物に混ぜられて飲まされたのかと諦めもつく。
が、しかし。
「耳が……」
ぴこ、ぴこと蠢く、耳。見覚えが無いようであるそれはどう見ても狐のそれだった。そして、尻から生えた尻尾――。
「一体、何が……」
呟く声もまた、声変わりをする前の少年のそれだった。何が起きたのかは解らない。解らないが、“誰の仕業か”だけは、すぐに解った。
「真央ぉぉおぉおおお!!!」
縮んでしまった体をばたばたと動かして、四つ足で駆けるようにして自室の前へとつくなり、ばむばむとドアを叩きながら叫ぶ。が、反応が無い。
「こらっ、寝てるのか! 真央っ、起きろ!」
ガチャガチャとドアノブを捻ると、意外なほどあっさりと回った。月彦はそのまま倒れ込むようにして室内へと転がり込む。
そして――
「なんだこりゃ……」
自室の目を覆わんばかりの惨状に唖然とした。まず目につくのは部屋の中央に広げられた古びた羊皮紙。そこに書かれているのはどうみても魔法陣としか思えないような模様であり、その中央にあたる部分に昨夜毟られたと思われる髪の毛らしきものが置かれていた。そのシンボルを囲むように異形な形をした燭台がいくつもあり、それぞれ違った色の細い煙を立ち上らせ、さらには動物の骨のようなものを組んで作られていると思われる祭壇のようなものまである始末だった。くみ上げられた白とも黄色ともつかぬ骨片の一番上には、これまた動物の頭蓋骨のようなものが置かれていた。
壁を見れば、血のように赤い、文字とも模様ともつかないものが羊皮紙から放射状に広がっており、どういう塗料なのか。それはカーテンから漏れて入る陽光を受けた部分だけ赤い霧のようになって霧散していた。
そして、そのような有様の部屋の中、肝心の真央はといえば――。
「くぉら、真央! 起きろ!」
一人、ベッドですやすやと横になっている真央の狐耳をつまみあげ、月彦は腹の底から絞り出した大声でたたき起こす。
「ひゃんっ……と、父さま……?」
真央が寝ぼけ眼で、バネ仕掛けのように飛び起きる。これまた、邪悪な様相の部屋になんとも似つかわしい格好だった。頬と、額の辺りには壁や絨毯の上に書かれている模様と同じような赤い塗料で入れ墨のようなものが走っており、黒い生地の踊り子のような服と小さな髑髏に紐を通したネックレスというその姿は、中世であれば一目で魔女裁判にかけられるであろう出で立ちだった。
「一体何をやったんだ! 見ろ、俺のこの姿もお前の仕業か!」
と、月彦は己の姿を誇示するように真央に見せつける。最初こそきょとんと、目をぱちくりとさせていた真央の顔が、徐々に満面の笑みへと変わっていく。
「やったぁああっ! 父さま、ちゃんとちっちゃくなってるっ!」
「ぶっ、こ、こら……真央っ……何すっ……むぎゅ」
忽ち、月彦は真央に抱え上げられ、その豊満な胸元へと顔を強制的に埋めさせられる。
「母さまに言われた通りにやったけど、不安だったの。私、ちゃんとした呪いとかかけるの初めてだったから」
「むがっ……の、呪い……って何だ! この耳も、尻尾も……全部それのせいなのか?」
「うん。…………だって、父さま…………姉さまの所にばっかり行って、ちっとも構ってくれないんだもん」
だから――と。真央は背筋が凍る様な黒い笑みを浮かべる。
「……だからね、どうすれば良いか母さまに相談してみたの。そしたら、“こうすればいい”って」
真央は自分の格好と、そして黒魔術の儀式場のような部屋を指し示す。
「な、何ふざけた事言ってんだ! さっさと戻さないと――むぐっ」
「だぁめ。戻したら、また父さま……姉さまの所に行っちゃうでしょ?」
もう逃がさないんだから――黒い声で囁く真央に、縮んでしまった四肢の力では抗う事など出来なかった。
大変な事になってしまった――食卓の椅子に座ったまま、月彦は絶望的な面持ちで状況把握に努めていた。
まず、解っている事は自分は真央によって“呪い”なるものをかけられてこのような姿になってしまったという事だった。外見上はどう見ても四、五歳児、それに加えて狐耳と尻尾。どこからどう見ても妖狐の子供という出で立ちだった。
(……真央の奴、いくら構ってやらなかったからって、これはやりすぎだろ)
じろり、と睨み付けた先には、るんるんとした足取りで朝食の用意に勤しむ真央の姿があった。勿論月彦は、真央が余計な材料を使わぬ様にとその手元へはより一掃の注意を払っていた。
(……一応、料理はちゃんとしているみたいだな)
由梨子の元へ料理を習いにいっていたというのは嘘ではなかったのだろう。瞬く間にトーストと簡単なサラダ、スクランブルエッグに焼きウインナーなどが食卓に並ぶ。
「おまたせ! さ、一緒に食べよ?」
エプロンをつけたまま、真央が隣の椅子へと座る。月彦は渋々ながらもトーストへと手を伸ばすーが、思ったよりも体が小さく、椅子の上に立たねばテーブルの上には届かなかった。
「はい、あーん」
そうして縮んでしまった体に四苦八苦していると、真央の方からマーガリンとジャムがたっぷり塗られたトーストが差し出され、月彦は渋々受け取り、かぶりつく。
「美味しい? まーくん」
「むぐっ……むっ…………げほっ、げほっ……なんだ、“まーくん”って!」
「父さまの事だよ。父さまはね、私の弟になったの。真央の真と、月彦の彦で、“真彦”。だからまーくん」
「なんだそりゃ……俺を弟扱いする気か!」
「…………父さまがいけないんだよ?」
語気を荒げ、真央を睨み付ける――が、対する真央はひやりとするような黒い笑みを帰してくる。
「それに、姉さまよりも私の方がずーーーっと良い“お姉ちゃん”なんだから。いっぱいいっぱい可愛がってあげるね」
「……………………。」
ふざけるな、元に戻せ!――そう言いたいのは山々だったが、言ったところで真央が素直に聞くとも思えなかった。
(……適当に話を合わせて、真央の気の済むまで付き合ってやった方が、早く戻れる……かな)
或いは、手のかかる弟っぷりを発揮してやるのもいいかもしれない。一体全体何をどう勘違いして“お姉ちゃん”になりたい等と思ったのかは解らないが、それが甘すぎる幻想にしか過ぎなかった事を思い知れば気も変わるだろう。
(……とにかく、元の体に戻る事だ。戻りさえすれば……二度とこんな真似をしない様、徹底的に仕置きをしてやらないとな)
それまでの我慢だと、月彦は密かに決意を固める。
「……ちなみに、真央は……一体俺の体に“何”をしたんだ? さっき、“呪い”とかなんとか言ってたが――」
「だめ!」
発言も半ばに、真央に“めっ”と叱られる。
「私の事は、ちゃんと“真央お姉ちゃん”って呼ぶの!」
「………………………………真央お姉ちゃん。呪いって一体何の事?」
月彦は苦笑いを浮かべながら、外見に相応しい言葉遣いで改めて聞き返した。
「うんとね、父さまにかけたのは“獣化”の呪いと“幼化”の呪いを複合させた特別な呪いなの。二つの呪いを組み合わせるのって、本当はものすっごく難しいんだよ?」
「へー…………」
褒めて褒めて!と言わんばかりに得意げに喋る真央に、月彦はあきれ顔で相づちをうつしかなかった。
「母さまに色々儀式の成功率を上げる媒体とか憑代とか教えてもらったんだけど、それでも私の力じゃ七割は失敗って言われてたの。だから、ちゃんと出来てホッとしちゃった」
「……ちなみに、失敗してたらどうなってたんだ?」
「どっちの呪いが失敗するかにもよるけど、例えば“獣化”の方の調整で失敗しちゃってたら、半牛半人とか、九割ネズミで一割人間とか、そういうことになっちゃってたかも……」
成功して良かったね、父さま――そう言って微笑む真央に、月彦は渇いた笑みしか返せなかった。
(九割ネズミ……だと……なんつー恐ろしい事を……)
それが一体どういう姿なのか、想像するのも恐ろしい。人間社会で暮らす事半年以上、真央にも人並みの常識、良識が備わってきたと思っていたのは思い違いだったのだろうか。
「あっ、でも大丈夫だよ? ちゃんと母さまに呪いの解き方も教えてもらったから。……うん、九分九厘ちゃんと解けると思う」
「ちょっと待て、百%じゃないのか? じゃあ、ひょっとしたらずっとこのまま……」
「…………まーくん、ベーコンとかスクランブルエッグも食べてみて。由梨ちゃんに教わった味付けを試してみたの」
月彦の質問には答えず、真央は露骨に話題を逸らしてくる。
「こ、こら……話を逸らすな! 本当に元に戻れるんだろうな?」
「…………まーくん。“お姉ちゃん”の言うことを聞かないと、ずーっとそのままだよ?」
ニコニコ顔で、ぼそりと。黒い声で言われては、月彦には最早逆らう事はできなかった。
「うーん、確かここにしまってあるって……義母さまが言ってたんだけど……」
真央は葛葉の寝室の押入、本来布団が仕舞われている上段ではなく、下段の方へと潜り込み、衣装ケースを引っ張り出す。
「あっ、あったあった! これだよね、父さまがちっちゃかった頃の服!」
真央が衣装ケースから引っ張り出したのは、なんとも懐かしいことこの上ない、月彦が六歳頃に実際に着ていた子供用の冬服だった。
「……母さん、こんなものまだとってたのか」
最早着る事など永遠に無いであろうに、衣装ケースの奥に丁寧にたたまれ、仕舞われていたそれを見ると、なんとも複雑な気持ちになる。
「うわぁ、小っちゃーい……父さま、こんなに小っちゃかったんだ……」
「……今まさに目の前に小さくなった俺が居るだろ……」
しかもこれで二度目じゃないか。月彦はぶかぶかの寝間着がずりおちてしまわぬよう手で押さえたまま、はあ、とため息をつく。
「まーくん、とりあえずこれに着替えて」
衣装ケースから、真央がシャツ、ズボン、靴下、下着、上着などひとそろい出して促してくる。そして、これまた一体どこから引っ張り出してきたのか、小さな靴まで。
「……こんな、十年以上前の戦隊物がプリントされた靴下を履けってか」
恥ずかしいとか、みっともないとか感じる段階を通り越し、“もうどうにでもしてくれ”という境地に達していた月彦は言われるままに下着を履き替え、服を着替える。
「…………これで満足か? “真央お姉ちゃん”」
尻尾の関係で、どうしてもズボンを本来の位置まで上げる事が出来ず、履き心地に違和感を拭えない。一体真央や真狐はどのようにしてこの不具合を解消しているのだろうと、月彦が疑問に思った時だった。
「まーくん、尻尾と耳隠してみて」
「どうやったら隠せるんだ?」
「うーん、言葉では説明しにくいけど……“お腹を引っ込める”様な感じだよ」
「……お腹を引っ込める……」
月彦は言われたとおりに、“お腹を引っ込める”様な感じで耳と尻尾を仕舞おうとしてみる。
すると――。
「おっ……?」
しゅるりっ……と奇妙な感触がして、月彦は己の尻へと手をやった。そこには、余計なものはついておらず、いつもの通りの尻があった。
「耳も……大丈夫――か」
成る程、耳と尻尾を隠すというのはこういう感じなのか。大して負担には感じないが、少し気を抜くと、しゅるりっ、とまた尻尾が出てしまう。
「ふむ、ふむ……真央もこういう感じだったのか」
うむ、うむと頷きながら、尻尾を出したり引っ込めたりしていると、真央がぽつりと呟いた。
「これで、一緒にお外に行けるね」
「……なんだと!?」
驚きのあまり、ズボンの下でしゅるりと尻尾が出てしまう。
「この姿のまま外に出ろってのか!?」
「姉弟なら、一緒にお散歩とかするでしょ?」
「……いや、しないぞ。うん、しない。絶対にしない筈だ。俺と姉ちゃんはしなかった!」
「でも、私はまーくんと一緒にお出かけがしたいの。……すぐ着替えてくるね!」
「なっ、待て! 真央!」
制止の声むなしく、真央はきゃぴきゃぴと二階へ駆け上がっていってしまう。
「……違う、違うぞ……真央……“お姉ちゃん”っていうのは……そんなに我が儘じゃあダメなんだぞ……」
真央を諦めさせる為に、ダメ弟っぷりを発揮したいのに、その隙すら与えられず、月彦はがっくりと膝をついた。
「……で、何処に行くんだ?」
「いろいろ。うふふっ」
いつもより若干気合の入った格好の真央に腕を引かれる形で、月彦は渋々歩く。体が縮んでしまったせいで、いつも見慣れている筈の景色であるというのに、まるで異世界にでも迷い込んだような気分だった。
「こ、こらっ、真央……もうちょっとゆっくり歩け!」
お前とは歩幅が違うんだと、月彦は声を荒げるが。
「……“真央お姉ちゃん”」
ぽつりと、真央は歩くペースを全く緩めず、独り言のように呟く。
「…………真央お姉ちゃん、少し歩くのが速いよ」
「そう? ごめんね、まーくん」
忽ち、真央は歩速を緩め、ごめんねと謝る。違う、“こんなの”は姉ではないと、月彦は心の中で何度も呟いた。
そのまま、真央に腕を引かれるままに歩いていると、突然――
「あっ」
と声を漏らし、真央が唐突に足を止めた。おかげで月彦はその尻に思いきり顔をぶつけ、危うく転びそうになってしまった。
「いって……いきなり止まる――な……?」
そして、月彦もまた前方を見て、はたと動きを止めた。
「……真央さん?」
前から歩いてきたのは、手提げ袋を下げた由梨子だった。咄嗟に、真央が月彦を隠すように体をずらす。
「こんにちは、由梨ちゃん。今からお買い物?」
「はい。母に頼まれてスーパーに行くところですけど……そっちの男の子は……?」
「私の弟だよ。……まーくん、由梨ちゃんにちゃんと挨拶して?」
「えっ……真央さんの……弟?」
訝しむような由梨子の目に晒されながら、月彦はそっと真央の影から体を覗かせる。無論、ぎゅうう〜と強く握られた手から“余計な事は言うな!”というオーラは、ひしひしと感じていた。
「……初めまして。真央お姉ちゃんの弟の真彦です」
「初めまして、マサヒコくん。私はお姉さんの友達の由梨子です。よろしくね」
由梨子がやや前屈みになり、優しく頭を撫でられる。
(……真央と違って、由梨ちゃんのほうは本当に“お姉ちゃん”っぽいな)
考えてみれば、由梨子には武士という歴とした弟がいるのだ。至極、年下の男の子の扱いは慣れている事だろう。
(うん、誰がなんと言おうと、正真正銘“由梨子お姉ちゃん”だ…………)
ちょっとこの小さな体で思いきり甘えてみたいな――などと、月彦が邪な事を考えていると、由梨子は徐に体を起こし、そっと真央に耳打ちをするように身を寄せる。
「……あの、真央さん。ひょっとして、この子も先輩の……?」
恐らく、本来ならば聞こえなかったであろう由梨子のひそひそ声だが、不思議とはっきりと聞き取る事が出来たのは、“獣化”の呪いとやらで半人半狐となっているからだったのかもしれない。
「…………ごめんね、由梨ちゃん。私達、ちょっと急いでるから」
「えっ……あの、真央さん……?」
由梨子の問いには答えず、真央はぐいと手を引いてその場から早足に遠さかる。
「……まーくん」
そして、由梨子から十分に距離をとった所で、些か歩みの速度を落としつつ、冷ややかな声で呟く。
「あんまり、お姉ちゃん以外の女の子にデレデレしちゃダメだよ? わかった?」
「………………わかったよ、真央お姉ちゃん」
逆らっても無駄――月彦にはそれが解っていた。だから、今は我慢する。
(……元に戻ったら、憶えてろよ、真央?)
臥薪嘗胆の念を胸に、月彦は真央のおままごとに付き合ってやるのだった。
一通り真央の気の済むまで付き合ってやり、最速で元の体へと戻させる手はずだったのだが、その目論見は些か甘かった事実を月彦は感じ初めていた。
「どう? 楽しい? まーくん」
真央に連れてこられたのは、最寄りのデパートの屋上。チャチな遊園地のような場所だった。
そこで月彦はワンコイン三分間の単調な動きしかしない象の乗り物に乗せられ、ガコガコと揺さぶられながら必死に愛想笑いを浮かべていた。
(……楽しいわけがないだろ)
リアル五歳児ならまだしも、高校生にもなってこのようなものに跨って何が楽しいというのか。しかし、楽しくない等と言おうものならば真央の機嫌を損ねてしまうであろう事は間違いない。
「うん、とっても楽しいよ。真央お姉ちゃん」
だから、月彦は笑顔でそう返した。
「他にも乗りたいのがあったら言ってね。好きなだけ乗せてあげる」
そんなモンはねえ!――と怒鳴り散らしたいのを堪えて、月彦は笑顔のまま次はあれが乗りたい、その次はあれ、と真央のママゴトに付き合ってやった。
(……一体真央は何がしたいんだ。こんな事をして、あいつ自身は楽しいのか?)
人を無理矢理幼児化させて、体に似合った遊びを無理矢理させて、それで楽しいのだろうか。そんな疑問は、真央の嬉しそうな顔を見て、やはり楽しいのだろうなという答えで落ち着いた。
(そうか、真央は末っ子だもんな……自分より幼い誰かの面倒を見る……っていう体験自体、したことがないってワケか)
しみじみとそんな事を思うも、当の月彦としては楽しいどころの話ではなかった。まるで溜まりに溜まった鬱憤を晴らすかのように、最後に乗ったゴーカートでは思いきり加速をつけて他の車両への体当たりを繰り返したが、当然その程度の事で気が晴れるわけもない。
「真央お姉ちゃん、僕、喉が渇いちゃった」
いい加減乗り物は良い、という月彦からのサインだった。じゃあ、少し休憩をしようという事になって、真央に手を引かれて屋上の売店へと連れてこられた。
「真央お姉ちゃん、僕ホットコーヒーが飲みたいなぁ」
「コーヒーなんて子供は飲んじゃダメ。先にお姉ちゃんと一緒にアイス食べよ」
「えっ……この寒いのに……アイス食べるの?」
月彦の疑問の声は無視され、真央は勝手にチョコ味のソフトクリームを二つ注文してしまう。
「あっ、僕……ストロベリー味の方が……」
「だめ。まーくんはお姉ちゃんと同じのを食べるの」
月彦の申し出に一瞬店員が躊躇うも、真央の再注文によってオーダーが強制決定されてしまった。
(なんだそりゃ……ふざけるなよ、真央!)
そもそも、自分は喉が渇いたとは言ったが、アイスを食べたい等とは一言も言ってない。それなのに強制的にアイスを食べる事にされ、挙げ句その味まで勝手に決められては堪らない。
(こんな時、姉ちゃんだったら――)
そこではたと、月彦は思い出した。そういえば、昔――“似たような事”があったと。葛葉が買い物を済ませるまでの間、屋上で二人で遊んでいるようにと言われ、少ないながらも小遣いも貰った。
(そうだ、あの時は……)
確か、葛葉に貰った五百円玉を速攻で落として無くしてしまい、いきなり遊ぶどころの話では無くなってしまったのだ。
(そしたら、姉ちゃんが……)
自分が貰った五百円玉をまるまる月彦へと渡し、それが何を意味するのかをまるで考えず狂ったように遊び呆ける弟を霧亜はベンチからじっと見守っていた。何の計画性もない放蕩はほんの小一時間で終わってしまい、その後は姉と二人、ベンチでジュースを飲みながら葛葉の買い物が終わるのを待った。
そのジュースも、二人分ではなく一人分を二人で分けたのだった。ハイテンションで遊び終えた月彦が喉の渇きを訴え、仕方ないとばかりに霧亜が売店で割高に売られているメロンソーダを買ってきたのだ。
最初こそ仲良く二人で飲んでいたものの、途中で月彦は気がついてしまった。何故、姉がジュースを買うような金を持っているのかと。月の小遣い等という制度が導入される以前の事であるから、霧亜が“自分のお金”を持っている事はおかしいのだ。しかし、答えは簡単だった。最初に貰った小遣いの額が月彦よりも単純に二百円多かっただけの話だった。
(……あの時は、マジで姉ちゃんばかり狡いって……思ったもんだが……)
考えてみれば、霧亜は葛葉に貰った小遣いの全てを弟の為に使ったのだ。それなのに、馬鹿な弟に狡いだの詐欺師だのと罵られ、今思えばさぞかし不愉快であった事だろう。
(……確か、姉ちゃんが小二くらいの頃……だったよな)
仮に自分が小二の時に、二つか三つ年下の弟にそんな理不尽な事を言われたらどうするだろうか――少し考えて、間違いなく殴り飛ばしているだろうな、という結論に達した。
「……まーくん、どうしたの?」
「……ああ、悪い。ちょっと考え事を……な」
真央の一言で懐かしい記憶の中から辛く苦しい現実へと引き戻され、月彦は否が応にもため息をついてしまう。
(……こっちの“お姉ちゃん”に比べたら、天と地だったよな……本当に……)
“今”は兎も角、昔は――苦笑しながら、真央が両手に持っているソフトクリームへと手を伸ばす、が。届く前にひょいと、真央が手を挙げてしまう。
「……ありがとう、真央お姉ちゃん」
「うん。あっちで一緒に食べよ」
即座に、真央が求めているであろう言葉を察して、月彦は白々しい程の笑顔でお礼の言葉を述べる。
真央に手を引かれ、二人ならんでベンチに腰掛け、チョコソフトを食べるその姿は、恐らくは遠目に見れば高校生の姉に連れられた幼稚園児、という様に見えることだろう。皮肉なことに、その実年齢は真逆であったりするのだが、この際それは問題ではなかった。
「美味しい? まーくん」
「うん、とっても美味しいよ。寒空の下、木枯らしに吹かれながら食べるアイスクリームは最高だね、お姉ちゃん」
事実、食べれば食べる程に体が凍え、味など既に解らなくなっていた。体が縮んだ事で、寒さに対する耐性も落ちているようだった。そういえば、寒冷地に済む動物はマンモス然りシロクマ然り、体が大きいものが多いという話を月彦は思いだした。
「……お姉ちゃん?」
はたと気がつくと、一足先にソフトクリームを食べ終わった真央がじいと、なにやら不満そうに月彦の方を見ていた。もしや、一つでは食い足りなかったのだろうか。だとすれば僥倖、これも真央に食べてもらおうと、そんな事を月彦が思った時だった。
「……えいっ」
ぱしっ、とソフトクリームを持つ手がいきなり真央の手によって叩かれた。完全に不意を突かれた月彦は呆気なくソフトクリームをズボンの上へと落としてしまう。
「うわ、ちべてっ……いきなり何すんだよ!」
「もう、まーくんったらお行儀がわるいんだから。お洋服汚したら義母さまに叱られちゃうよ?」
ソフトクリームを拾ってくずかごへと放り投げ、ハンカチでズボンに付着したチョコソフトを拭いながら、さもしょうがないんだからと言いたげな口調の真央。
「ふざけるな! だいたい今、“えいっ”って……」
「でも大丈夫。お姉ちゃんが新しいズボン買ってあげる」
さっ、お洋服売り場に行こう?――真央に手を引かれ、月彦は屋上遊技場を後にする。
(……成る程、“それ”が言いたかったんだな……)
しょうがないわね、お姉ちゃんが○○してあげる――その一言が言ってみたかったのだろう。
(……全く、しょうがないな……真央は)
本当にしょうがない娘だと。きちんと躾てきたつもりだったのに、ここまで傍若無人な娘だったとは思わなかった。
月彦は、不意に立ち止まり、強引に真央の手を振り切った。
「……まーくん?」
「さすがに限界だ。これ以上ママゴトに付き合ってられるか! 俺は先に家に帰る!」
吐き捨てるように言って、月彦は人ごみに紛れるようにして駆けだした。遙か後方で真央が何かを叫んだが、月彦は足を止めなかった。
勢いよくデパートを飛び出した月彦だったが、その実、行き先に少々困ってしまった。
(……真央を懲らしめる為には、少し遅く帰った方がいいよな)
先に家に帰る、とは言ったが、言葉の通りに帰り、遅れて戻ってきた真央とまた二人きりになってしまっては元の木阿弥となる可能性が高い。
それよりもむしろ、“先に家に帰っている筈なのに、帰ってない”方がより不安でやきもきし、反省するのではないか。
しかし、その場合問題となるのはそれまでの時間の潰し方だった。体さえマトモであれば、級友の家を尋ねたり、或いは適当な本屋なりゲームセンターなりで時間をつぶせるのだが、生憎と月彦の現在の外見年齢は五歳だった。
「どうしたの? ママとはぐれたの?」
デパートから出る前に、二度もそのような感じで声をかけられた。二人とも結構年齢の高い主婦だったから、完全に善意で声をかけてくれたのだろう。無論、月彦は五歳児にはあるまじき丁寧な口調でその申し出を優しく断った。
そう、それだけならばまだ良かったのだが、問題はその後。デパートを出てからだった。どうやら五歳児の一人歩きというのは余程目を引くらしい。その上、ズボンには大仰なチョコの染みだ。それがいっそう一目を集めるらしく、或いは“何かあったのかな?”と思わせる様で、驚くほどの人数に声をかけられた。
中には、明らかに異質な優しい笑みを浮かべた中年男性や、浪人風の若い男も居て、露骨に逃げ道を塞ぐような動きをされた時などはさすがに背筋に悪寒が走った。辛くも人が通りかかったから無事逃げおおせる事ができたものの、一人歩きは危険だと思い知るには十分な出来事だった。
(……変質者ってそんなに多いのか? それとも、俺がそういう連中の心を擽る外見をしてるのか?)
人を見たら変質者と思え――そんな事を肝に銘じながら、さてどうしたものかと月彦は悩んだ。家には帰りたくない、しかしこのまま街をうろうろするのは危険だ。とはいえ、知り合いの所には行ける筈もない。
(………………姉ちゃんの顔でも、見に行くか)
行き先に困り、何故真っ先に霧亜の病室が念頭に浮かんでしまったのか、月彦自身にも解らなかった。後付けで推測するならば、先ほどの真央のあまりに酷い“お姉ちゃん”っぷりに“本物”の顔が些か恋しくなってしまったのかもしれない。
(……ンなバカな)
己の胸の中に沸いたその思いを鼻で笑いながらも、月彦の足は霧亜が入院している病院へと向かっていた。
(……昔は昔。今は今……だ。姉ちゃんに何回殴られたり、階段から蹴り落とされたり、火傷させられたと思ってんだ)
怪我をして入院して、少しは大人しくなったかと思えば、相変わらずの人を人とも思わぬあの所業だ。極力関わり合わないのがお互いの為なのだ。
(……いくら花が嫌いだからって、花に罪はねえだろうが)
目を瞑れば、無惨にゴミ箱に捨てられ、丸めた雑誌まで叩き込まれて無惨に拉げた花束が嫌でも目に浮かぶ。……そんな無体をする姉なのに、何故自分は会いに行ってしまうのだろうか。
(…………真央よりはマシ、だからか?)
いや、暴力を振るわない分真央の方がマシだろうか――ううむ、と悩む月彦の背筋に、不意にゾクリと悪寒のようなものが走る。
「……っ……なんだ?」
咄嗟に周囲を見渡すが、特に悪寒を促しそうなものは見あたらない。気のせいかと思って歩を進めると、またゾクリと、悪寒が走る。
(なんだこれ……姉ちゃんの病院に近づくと……嫌な予感がする……?)
悪寒に堪えながら歩き、はっきりと病院の前までやってきた時には、悪寒に加えて目眩まで加わった。
(なんだ……前来たときは、何とも無かったのに……)
何故、今になって――そこではたと、月彦は思いだした。確か真央も、同じような事を言ってはいなかったか。不吉だと、近づきたくないと。
(狐化……しているから、か……?)
だからこのように感じてしまうのか。
(そういえば、真央が狐除けの呪いがしてあるとか……そんな事言ってたな……)
成る程、妖狐はこう感じるのか。真央が近づきたがらないわけだと、月彦は納得した。
(……っ……こんな所に入院して、姉ちゃん……本当に大丈夫なのか)
恐らくは、“これ”は妖狐――狐に対してだけ働きかけるものなのだろう。裏を返せばただの人間には何の意味も無いものだと解釈することも出来る。
(…………でも、不安だ。一応様子を見に行ってみよう)
何より、病院の中ならば変質者に声をかけられる事も無いだろう。目眩や悪寒を堪えながら、ほんの一日前に二度と来るものかと誓った事も忘れて、月彦は病院へと向かうのだった。
目眩に悪寒――それらは、病院との距離が縮まる程により顕著になっていた。さらに病院の正面玄関を潜った頃には、吐き気に頭痛まで追加された。
(っ……なんだって、こんな病院に……)
果たして“これ”は霧亜が意図したものなのだろうか。それによって、意味合いは大きく変わる事だろう。或いは、本当に真央を近づけたくないという可能性も否定できない。(でも、どうして……?)
あんなに仲が良かったではないか。事実、真央が学校に行けるほどの学力を身につけられたのも霧亜の指導によるものだし、真央が学校に行き始めた後も何かとケアをしていた事も由梨子から聞いた。
それほどまでに可愛がっていた姪っ子を何故今になって――?
(……わからん)
考えた所で仕方がない事のようにも思えた。元々、あの姉が普段何を考えているかなど誰にも解るワケがないのだ。
月彦はそっと、外来客と共に正面玄関を潜り、受付嬢に見つからぬ様病院の中へと侵入する。人ごみを巧みに利用して待合室をすり抜け、エレベーターは避けて階段から霧亜の病室へと向かう。
(……そうだ、考えてみたら俺……今……)
そこではたと、月彦は己の“現状”を思い出した。
(……この姿で、姉ちゃんの前に出ても大丈夫だろうか)
さりげなく遠目から無事を確認して、さりげなく去る――そのつもりだった。しかし考えてみれば、病室の中に居る霧亜をさりげなく見る事など出来るのだろうか。
現実的な案としては、とにかく入室してしまい、その後部屋を間違えたという事にして速やかに去る――これがベストな様に思えた。
(まさか……バレやしない……よな?)
霧亜は決して勘の鈍い方ではない。鈍い方ではないが、まさか前日喧嘩別れした弟が十歳以上も若返った姿で見舞いに来るとは思うまい。
(うむ、大丈夫だ。絶対バレない。バレる筈がない)
何故ここまで、体調不良に堪え危ない橋を渡ってまで姉の顔を見ようとしているのか。己の胸で沸くそんな疑問に無理矢理蓋をしつつ、月彦は背伸びをするようにして病室のドアノブへと手を伸ばした――その時だった。
完璧なプランを立てたつもりだった。自分の体格、身長も十分に考慮し、背伸びをすればドアノブを回す事も可能だと、そう思った。
しかし、まさかドアを開けようとしたその刹那、手を触れるよりも先にドアノブが回り、廊下側へと開かれるとは夢にも思っていなかった。
「わぶっ……」
結果、勢いよく開かれたドアによって月彦は額を強打。体格さえ十分であれば、そこで踏みとどまる事も出来ただろう。しかし、五歳児の体はそのまま後方へと弾かれ、月彦はさらに床で後頭部を強打した。
視界に火花が散り、急速に意識が遠のいていく中、何か言葉をかけられた気がしたが、無論答える事など出来なかった。
最初に感じたのは、つんとした薬の匂いだった。次に、髪を撫でる手の感触。それがあまりに心地よくて、意識が完全に覚醒するまでの間、月彦は全身の力を抜いたまま至福の愛撫に身を委ねていた。
(……ん?)
そしてはたと。一体誰の手だという疑問と共に、月彦はびくりと体を起こした。
そこは病院の一室であり、さらに付け加えるならば昨日、一昨日と続けて通った場所でもあった。
「え……あれっ……え……?」
すぐ側でベッドに腰掛けている相手が一瞬誰だか解らなくて、月彦は困惑した。
くすりと、背後で笑みが漏れた。
「目、覚めたのね」
そのなんとも優しい声の響きに、月彦は背後を振り返って尚、そこに居る人物が誰なのかすぐには解らなかった。
「ごめんなさいね。ドアの外にまさか子供が立ってるなんて思わなかったから。頭の瘤、痛む?」
「なっっ……え……」
見覚えのある男物のパジャマに、左手と右足のギブス。頭の包帯はもうとれたらしく、優しい微笑を浮かべているのは、何度目を擦っても姉の霧亜に他ならなかった。
(じゃあ、俺っ……姉ちゃんに膝枕されてたのか……っ!?)
そのことに、絶句するほどのショックを受けたのは、寝起きで体が縮んでしまっているということを失念していたからだった。挙げ句、ベッドから転げ出ようとして、思いの外短い己の手足に無惨に尻餅をついてしまう。
「あんまり動かない方が良いわ。それに……その格好じゃあ何処にも行けないでしょ?」
苦笑混じりに差し出された霧亜の右手を、少しばかり警戒しながら月彦は握り返し、引っ張ってもらう形で霧亜の隣へと腰掛ける。
(その格好……って……うわっ……)
そして、下着一つになってしまっている自分の下半身に驚くのと、苦笑混じりに霧亜が毛布をかけてくれるのは殆ど同時だった。
「今、看護婦さんが洗って渇かしてくれてるから。それまではこうしていると良いわ」
そしてそのまま、なし崩しに体を倒され、霧亜の膝の上に頭を乗せる形にされてしまう。恐らくは、先ほどまでもこうして寝かされ、そして髪を撫でられていたのだろう。
(なんだ、これ……一体、何が起きてるんだ……?)
膝枕をしてもらい、優しく髪を撫でられるという状況が、月彦は体が震える程に恐ろしかった。
(誰だ……こんなの、姉ちゃんじゃない……)
まだここは夢の中なのだろうか。或いは、こうして完全に油断させた後、首でも絞められるのではないか。
「……どうしたの? 寒いの?」
ガタガタと震えていたからだろうか、髪を撫でられながら、怖いほどに優しい声がかけられる。
「……さ、寒くは……ない、です」
そう、と呟いて、霧亜は月彦にかけていた毛布を肩口のあたりまでかけなおし、ぽんぽんと優しく叩いた。そのまましばらく、霧亜は無言で月彦の髪を撫で続け、月彦もまた下手な動きは出来ないとばかりにじっと息を押し殺した。
「……お家の人のお見舞いに来たの?」
髪を撫でながら聞かれ、月彦はしばし逡巡した挙げ句、小さく頷いた。
「そう、大変ね。……お母さん? お父さん?」
「…………お母さん、です」
そう、と呟いて霧亜は黙り込んでしまう。さわさわと髪を撫でられながら、月彦はそっと、“上”の方を覗き見た。
「うん?」
「……っっっ……!!!」
瞬間、霧亜と目が合ってしまい、月彦は慌てて視線を壁の一点へと戻した。
(一体なんだってんだよ! なんで、こんな……っ……)
悪い夢なら覚めてくれと祈るばかりだった。
(……ひょっとして、姉ちゃんって……相手が女の子じゃなくても“俺以外”には結構優しい……のか?)
あり得る話かもしれない。何故なら、姉と年端もいかない男児との絡みなど、月彦は一度たりとも見たことがないからだ。即ち、幼い男児を前にした霧亜がどういう行動に出ても、不思議ではないのだ。
(……って事は……もし、“俺”だってバレたら……)
“その時”を想像して、月彦はゾクリと背筋を震わせ、弾かれたように身を起こした。
「……どうしたの?」
「ぁっ……いえ……もう、頭は大丈夫……ですから」
いきなり膝枕を拒絶する適当な理由が思い至らず、月彦は咄嗟にそのように言い訳した。
(すぐ逃げたい……だけど、ズボンが……)
さすがにパンツ一丁でここから家まで帰る事は出来ない。つまり、ズボンが乾いて戻ってくるまではこの病室に居るしかないわけなのだが。
(……姉ちゃんの事だ、いつ……“俺”だって気がつくか……)
一目や二目見られたくらいでは見破られはすまい。しかし、コミュニケーションをとればとるほどに、霧亜に正体を知られる可能性が高まるのは間違い無かった。
「……キミの名前、聞いてもいいかな?」
「えっ、名前……ですか?」
ドキリと、月彦の心臓は撥ねた。探りを入れられているのではないか――そう思ったからだ。
「えと……紺――」
偽名を言わねばならないと解っているのに、うっかり本名を口走りそうになる。途中で舌を噛んでしまったのは僥倖と言わざるを得なかった。
「こん……今野……真彦、です」
「……マサヒコ君、ね」
えっ、と月彦が体を硬直させた瞬間、霧亜の右手に巻かれるようにして、体を凭れさせられる。
「……あ、あのっ……」
月彦はそれとなく拒絶するような挙動を示したが、それは通らなかった。丁度、霧亜の隣に座って、上体だけがもたれ掛かるような体勢にされられる。そこにさらに霧亜が被さるように首を傾げてきた。
(何でだ……何で、こんなに密着させられるんだ……)
離れよう、離れようとしているのに、それが叶わない。なし崩し的に身を寄せられ、月彦はますます余裕を無くしてしまう。
(……なんか、前にも……こんな事があった……ような……)
恐慌状態に陥りながらも、はてと月彦は思う。昨日、今日という話ではない。恐らく、真央との屋上遊園地での事が無ければ、思い出す事も無かったであろう昔の事だ。
そう、あれもまだ小学校に上がるか上がらないかの頃。葛葉にお使いを頼まれ、姉弟で遠出をした時などは、帰りのバスの中などで疲れ果てて寝転けてしまい、こうして霧亜にもたれ掛かるようにして眠ったものだ。
(でも、いつも必ず下りるバス停の一つ前で、姉ちゃんが起こしてくれたんだよな……)
お陰で、届け物などのお使いを頼まれても、一度たりとも時間通りに帰って来れなかった事は無かった。霧亜とて、さほど年の変わらない子供だったのだ。疲れて眠ってしまいたいのは同じであったろう。
(ああ、だから……母さんは……)
月彦は思い出した。恐らく葛葉はそういった事をきちんと憶えていて、「とにかく霧亜が居れば大丈夫」という印象を持っているのだろう。だからこそ、クリスマス前に家を空ける時も、霧亜が家に居ない事を気にしていたのだ。
(……いや、でも……俺一人……でも別に問題は無かった……よな……?)
一人で使いにいける年になってからは、幾度となく一人で買い物や届け物などの使いに行かされた。時には買い物の際に目移りしてしまって余計な菓子などを買ってしまったり、届け物の際にも先方に歓迎されてついつい長居してしまったり、はたまた帰りのバスの中で寝過ごしてしまって家に帰るのが何時間も遅れてしまったりという事は少なからずあった。そのうち一人で使いに行かされる事が無くなったわけだが、当時の月彦はそのことを幸いだと思っていた。当然だ、誰しも親の使いなど好き好んでで行きたがるわけがない。
しかし、お使いを頼まれる回数が減った理由が“機会”そのものが減ったからではなく、頼りにならない、使えないという認識を持たれたからというのでは話がまるで変わってくる。。
(……………………ヤバいぞ、なんかすっげぇヘコんできた……)
昔の事を思い出せば出す程に、赤面してしまいそうになる記憶ばかりが蘇ってきて、月彦はそこで思考を中断した。
(そもそも、姉ちゃんが悪い!)
こんな事を思い出させるようなシチュエーションを作り出してしまっている姉が悪いと、月彦は己の恥多き記憶から逃げる意味でも無理矢理責任を転嫁させた。そう、こんななんとも懐かしい愛撫と、懐かしい匂いで……。
(姉ちゃんの、匂い……か)
昨夜から今朝にかけて、布団の中で嗅いだ匂いに比べて、些か薬臭く、煙草臭い匂いであったが、十分だった。ほんの数分前までガチガチに緊張しきっていた全身がほぐれて、リラックスしていくのを、月彦は感じた。
(……この感じ……由梨ちゃんに似てる……)
否。由梨子のそれが霧亜に似ているのだ。月彦は何故自分が由梨子の側にいると和み、安心出来るのかを悟った。かつて、姉の霧亜の側に居る時に感じていたものと近しいものを由梨子から感じ取っているからなのだ。
(そ……か。由梨ちゃんも一応、“お姉ちゃん”だもんな……)
“本物”の匂いに、まるで睡眠薬でも嗅がされているかのように、意識がぼやけていく。このまま眠ってしまうのは容易いのだが、万が一寝言で正体がばれるような事になってしまっては二度と日の目を見ることは出来ないだろう。
「あ、あのっ……」
眠らないためには話をすればいいと、月彦は弾かれたように声を出した。
「お姉さんは……どうして、け、怪我……したんですか?」
「私の怪我?」
こくりと、月彦は頷く。
「……ちょっと、雪山で……ね」
「雪山……」
矢張り、骨折はスキーによるものという事だろうか。
「あの、じゃあ……火傷は……」
「火傷……?」
怪訝そうな霧亜の声に、月彦は己が万死に値する失態を犯した事に気がついた。
「どうして、右手の怪我が火傷だって解ったの?」
優しい目に、疑惑の光が混ざる。月彦はあわわ、あわわになりつつも、幼い脳をフル回転させる。
「おっ……おねえさんの、右手の包帯……お母さんの包帯と……同じ、薬の匂いがする、から……だから、火傷かな……って」
「……そう。マサヒコ君のお母さんも火傷で入院してるのね」
どうやら、咄嗟の嘘を信じてもらえたらしい。月彦がホッと胸をなで下ろしていると、間髪入れずに今度は病室のドアがノックされた。
「紺崎さん、入りますよ」
明るい声を上げて、看護婦が病室へと入ってくる。手には先ほどまで月彦が履いていた子供用のジーンズを抱えていた。
「一応洗って渇かしてみたんですけど……なんとか目立たないようにはなりました」
「ありがとう、無理言って悪かったわね」
いいえ、と顔を赤らめ、モジモジとする若い看護婦を見て、月彦は即座に思った。相変わらず、姉ちゃん手が早ぇな――と。
(ていうか……こんだけ怪我してるのに……まさか?)
首を捻りながら、月彦はズボンを受け取り、足を通す。なるほど、確かに完璧ではないまでも目立つことはない、という汚れの落ち具合だった。
「それから、花瓶もやっと大きいのが見つかったんで持ってきました。早速移し替えますね」
花瓶?――その単語に聞き捨てならない響きを感じて、月彦は咄嗟に看護婦の手元を見上げた。その先には、元々はインスタントのコーヒーだかが入っていたと思われる茶色の瓶の口に窮屈そうに収まっている、見覚えのある花の束があった。
「あっ、それっ――」
思わず、咄嗟に大声を出してしまった。それは、昨日自分が持ってきて、そして霧亜が無惨にゴミ箱に捨てたはずの花束ではないのか。
「……花がどうかしたの?」
看護婦が花束が刺さった瓶と新しい花瓶を手に病室を出た後、またしても霧亜の怪訝そうな声。ええと、ええとと月彦の脳もまたフル回転をする。
「よ、幼稚園で今育ててる花と同じだなぁ……って…………お、お姉さんも……お花、好きなんですか?」
「……そうね、私は花は嫌い」
ああ、やっぱり花は嫌いなのだ。こんな幼子にまでそう言うのだから、恐らく本当に嫌いなのだろう。
嫌いならどうして――などと月彦が思っていると、先ほどの看護婦が花瓶を手に慌ただしく戻ってきた。
「移し替えて、ついでに水も新しく入れてきました。置くのはここで良いですか?」
「そのことだけど、美奈。その花瓶……ナースセンターか何処か……あまり人目につかないところで飾ってくれない?」
「やだ、もう……お姉様ったら、名前で呼ぶのは二人きりの時だけって言ったじゃないですか。…………どうしてですか?」
一瞬デレデレと、緩みきった顔を見せた看護婦――どう見ても霧亜よりも年上に見える――だったが、幼子の冷たい視線に気付くや否やビシリと顔を引き締め、極めて事務的な口調で問い返す。
「……ちょっと、ね。とにかく、お願い」
「よく、わかりませんけど……任せて下さい。……ああ、そうそう……灰皿の灰も捨てておきますね。あんまり吸っちゃダメですよ? バレた時大変なんですから」
解ったわ、と霧亜は微笑を浮かべる。が、しかし――月彦はその笑顔に違和感を感じた。
(違う……さっきの姉ちゃんじゃない……)
自分に微笑みかけてくれた時の霧亜の笑みとは違う。そうか、これが女を騙す時の霧亜の笑顔なのだ。そして、恐らくそのことに気がついていないらしいこの女は――体よく使われるだけの捨て駒なのだろう。
「そうそう。この子も親御さんの所に連れて行ってあげて。お母さんが火傷で入院してるみたいなの」
「えっ……火傷の、入院患者ですか?」
はてな、と首を傾げる看護婦に、月彦は拙い、と思った。
「だ、大丈夫! ボク、一人で戻れるから……お姉ちゃん達、ズボン洗ってくれてありがとう!」
「あっ、ちょっと――」
引き留める声を無視して、月彦は病室から飛び出した。飛び出した途端、今度は目眩と頭痛、吐き気に襲われた。
「がっ……」
そういえば、ここはそういう場所だったと。むしろ何故今まで平気だったのか、その事が不思議だった。
(何で、姉ちゃんの側に居た時だけ……)
背後で、ぱたぱたと追いかけてくる足音が聞こえて、月彦は歯を食いしばって走り、階段を駆け下りてそのまま病院を後にした。
体の不調は、病院から離れるにしたがって徐々にだが治っていった。十分に距離をとった所で、ふうと安堵のため息。あまりに気を抜きすぎて、耳と尻尾までしゅるりと出てしまい、月彦は慌てて気を張り直し、尻尾と耳を隠した。
(……そういや…………)
病院の中では特に意識もしなかったのに――する余裕もなかったのだが――よく耳も尻尾も出さずに済んだものだと、今更ながらに疑問に思った。
(それも……狐除けとやらの効果……なのか?)
所謂、結界のようなものだったのかもしれない。きっと体に不調が起こるのも、耳や尻尾が出せない事に多少なりとも関係しているのだろうが、今考えるべき事はそのことではなかった。
(……姉ちゃん、どういうつもりだ)
花は嫌いだと、無惨にゴミ箱に捨てたのは霧亜だ。しかしその実、懇ろになった看護婦を密かに使って花瓶を用意させたりしている。
(でも、花が好きなわけじゃない……って言ってたな)
実は、花は好きだが“愚弟が持ってきた花は嫌い”という理由で在れば、月彦としても納得が出来るのだ。しかし、霧亜は花自体が嫌いであると言う。ならばなぜ、花瓶など用意したりするのだろうか。
(嫌いだけど……花も生き物の一つだから、無惨に扱うのは気が咎める……とかか?)
そんな繊細な心を姉が持っているとは思えなかったが、そうとでも考えねば納得が行かなかった。
(…………まぁでも、顔を見に行った収穫はあったかな。……姉ちゃん、相手が俺じゃなかったら……普通に笑ったり、優しくできるんだな)
あんなにも、優しい霧亜の笑顔、声を聞くのは本当に久しぶりだった。ある意味、とっくに絶滅してしまった野生動物を偶然見かけたようなものだ。
(……結局、俺だけが……姉ちゃんに徹底的に嫌われてるんだよな)
それは最早仕方のない事ではあるのだが、だから別に辛くないと言えば嘘になる。
(…………帰る、か)
なんだか無性に人恋しくなってしまって、月彦は家路へとつくことにした。家に帰った所で、傍若無人なお姉ちゃんこと躾の行き届いていない娘しかいないわけなのだが、それでもいいかと思ってしまったのだ。
(……俺もちょっと大人気無かったか……真央はまだ五才なんだもんな)
人間の女の子でいえば、丁度オママゴトなどにハマる年頃ではないだろうか。そう考えると、真央の傍若無人っぷりも多少は微笑ましく思えてくる。
(……まぁ、とはいえ元に戻れたら、それなりにお仕置きはしなければならないだろうが)
そこはそこ、きちんとけじめをつけなければならない。その為にはまず元に戻らなくてはならないのだ。
さて、どうやって元に戻ったものか――思案を重ねながら帰路につく月彦の背に、はたと見知った声が届いた。
「あれ……、えと……マサヒコ……くん?」
「っっっ……由梨ちゃ――じゃなかった、由梨子お姉ちゃん!?」
由梨子との遭遇は全く予期していなかっただけに、月彦は軽く混乱した。
「丁度良かった。今から家に行くところだったの。真央お姉さんは家に居るのかな?」
「え、ええと……どうだろ……ボク、わかんないや」
果たしてなんと答えたものか、月彦は困ってとりあえず愛想笑いで誤魔化した。由梨子も釣られてふふふと笑みを零す。
「…………先輩ですよね?」
そしてはたと、笑顔のまま由梨子がそんな事を言う。
「えっ……?」
予期せぬ由梨子の一言に、月彦は完全に固まった。そしてどうやら、そのリアクションが由梨子に確信を持たせた様だった。
「ゆ、由梨子おねえちゃん……何言ってるの?」
「……やっぱり、そうなんですね」
月彦の否定の言葉などまるで聞こえてないかのように、由梨子は困ったような笑みを浮かべる。
「最初から、ヘンだなって思ってたんです。真央さんから弟の話なんて聞いたことなかったですし、それに……先輩に似すぎでしたから」
これはもう、しらばっくれた所で無意味だと、月彦は思った。
「……それだけで、俺だって解ったの?」
「そうですね。……多分、街で先輩一人だけを見かけただけだったら、きっと解らなかったと思います。先輩に似てる男の子がいるなぁ、って思って、それで終わりでした。でも、その“先輩にすごくよく似た男の子”が真央さんと一緒に歩いていたら、もしかして……って思っちゃいますよ」
真央さんや真狐さんが“普通じゃない”のは良く知ってますから――由梨子は何かを思い出すようにして微笑む。
「でも、確信が持てたわけじゃなかったんです。だから、その辺の事を真央さんや先輩にしっかり聞いてみようって思って、家に帰ってから電話してみたんですけど、誰も出なくて。真央さんの携帯にかけてもダメでしたから、先輩の家に直接行く所だったんです」
それに、と由梨子は小声で言葉を付け足す。
「もし本当に真央さんの弟だったら、“父親”が誰なのか……すごく、気になりますから」
「……ぅぐ」
ちらり、と微かに責めるような目で見られ、月彦は唸る。
「た、たとえ真央に本当に弟が出来たとしても、父親は俺じゃないって! 第一、真央がデキちゃった時の経緯とかも全部由梨ちゃんには説明したろ?」
「はい……そうですけど……」
何処か納得がいってなさそうな由梨子の顔。
「………………とにかく、本当に先輩なんですよね。変な言い方ですけど、……ちょっと安心しました」
「……俺は正真正銘、紺崎月彦だよ」
幼児の憮然とした顔が余程面白かったのか、由梨子がくすくすと笑みを漏らす。
「……なんだか、すごく変な感じです。背もちっちゃくて、どう見ても小学校に入る前の男の子で、声も可愛いのに、喋り方だけ先輩そっくりだなんて」
「……真央のせいだ。真央が……俺に何か“呪い”とやらをかけたらしい。そのせいで、こうなっちまった」
「呪い……ですか?」
「ああ。おかげでこのザマだ」
月彦は一瞬だけ、ちらりと由梨子に“耳”を見せる。
「それって……」
「とにかく、一刻も早く元の体に戻りたい。そして、戻し方は……真央しか知らない。由梨ちゃん、真央の説得に協力してくれないか?」
「はい。私に出来ることだったら、何でも言って下さい」
「……ありがとう、由梨ちゃん」
心強い協力者を得て、月彦は文字通り百万の味方をも得た気分だった。……勿論、ほんの数十分後にその協力者に裏切られる事になろうとは、夢にも思っていなかった。
月彦は、由梨子と共に紺崎邸へと向かったが、真央はまだ帰っていなかった。やむなく、由梨子と共に自室で真央の帰りを待つことにした。
(まさか、由梨ちゃんと一緒に待つ事になるとは……)
出かける前に部屋を片づけておいて良かった、としみじみ思う。
(……真央の奴、俺を捜してるのか)
玄関の靴の乱れ具合から、どうも一度帰ってはきたらしいというのは想像がついた。それで月彦が居ないから、改めて外に探しにいったのだろう。
(散々捜して、心配して、そして反省しろ、真央)
寒空の下、自分を捜しているであろう愛娘を不憫に思うような気持ちは、月彦にはなかった。あるのはただ、一刻も早く元の体に戻りたいという思いだけだった。
「真央さん、なかなか帰ってきませんね」
「そうだな。……さすがにそろそろ帰ってこないと……」
あまり、無駄に由梨子に長居をさせてしまうのも悪い――と、月彦は時計に目をやる。時刻は午後四時。六時までに真央が帰ってこなかったら、由梨子に説得を頼むのは後日にするかと、月彦は密かにリミットを決めた。
「先輩、ちょっと……抱っこしてみてもいいですか?」
「えっ……俺が、由梨ちゃんに……?」
「はい。逆は……無理だと思いますし……折角ですから」
確かに、“機会”という意味ではそれは今しか出来ない事だろう。月彦はやむなく由梨子にされるがまま膝の上に乗せられ、背後からぎゅうっ、と抱きしめられる。
「ふふ、本当に不思議な感じです。先輩の方が、私よりちっちゃいなんて」
「……この体は本当に不便なんだ。一人でおちおち外も歩けないんだぜ?」
月彦は真央と別れた後、二度ほど変質者風の男に声をかけられ、危うく捕まりそうになった経験談を由梨子に話した。
「……ちょっと外を歩いただけで、二回も……ですか?」
「勿論、完全に変質者って決まったわけじゃないけど……あの目は絶対、俺にイタズラをしようとしてる目だった」
そう、“あの時”の真狐や矢紗美のような目だった――と、月彦は思い出すなりぶるりと身を震わせる。
「それは災難でしたね。…………でも、先輩にイタズラしたくなる気持ちって、ちょっと解る気がします」
すりっ……と。月彦の首の辺りに鼻先を擦りつけるようにして、由梨子が呟く。
「先輩、体が縮んじゃってから鏡は見ましたか? もし見てたら、私が言ってる事が解ってもらえると思うんですけど」
「……いや……見たけど、ごめん……解らない」
さわさわと、体を撫でる由梨子の手つきに不穏なものを感じて、月彦は俄に体を強張らせる。
「……先輩」
俄に逃げようとしたところを、由梨子にぎゅうっ……と抱きしめられる。
「……ちょっと、キスとか……してみてもいいですか?」
「……え?」
拒む間もなく、月彦は由梨子に唇を奪われる。
「んちゅっ……ちゅっ……んっ……」
恐らくは、月彦の唇がまだ小さいからなのだろう。ひどくぎこちない――しかし、情欲と好奇心に溢れた舌使いだった。
「ン……なんだか、すごく……いけない事……しちゃったみたいですね」
キスを終えた由梨子が、照れ混じりに笑う。その気持ちは解る、と月彦も内心頷いた。以前、小さくなった真央を抱いたときに、月彦も同じ事を感じたからだ。
「……そう、いけないことだって……解ってるんです。……でも、先輩を見てると……」
「ゆ……由梨ちゃん?」
あからさまにウズウズしているような由梨子の声を示すように、その手が月彦の尻の方へと伸びてくる。そこには――屋内という事で出しっぱなしの尻尾があった。
「ひゃっ……!?」
「あっ、すみません……痛かった……ですか?」
「いや、痛くはないけど……なんていうか、もの凄くくすぐったかった」
「尻尾……くすぐったいんですか?」
そっと、今度は先ほどよりも優しく、由梨子の手が尻尾へと触れる。
「一応生え立てだから、ってことになるのかな。まあ、真央も耳を舐めたり、尻尾こしゅこしゅしてやるとすっごいハァハァ言うから、元々そういう場所なのかもしれないけど」
「尻尾をこしゅこしゅ……ですか」
その言葉の通りに、由梨子の手が尻尾の付け根の辺りを優しく擦り始める。途端、ムズッ……と股間が反応し始めてしまい。
「ちょっ、由梨ちゃん! そんな事試さないで!」
「す、すみません……やっぱり……先輩も……?」
「……ちょっとだけ、ね」
だからもう尻尾は触らないで欲しいと、月彦は視線で必死に訴えかけた。本当は、“ちょっと”どころではなかったからだ。
(なるほど……真央がハァハァ言うわけだ)
“あんなの”を続けられたら、自分とてどうなるか解らない。一つ賢くなった月彦だった。
「って、由梨ちゃん! ダメだって!」
言ってる側から尻尾をサワサワされて、月彦は由梨子から尻尾を隠すように体を捻る。
「……どうしてもダメですか?」
「……どうしても、ダメだ」
しゅんっ、と由梨子がこの世の終わりのような顔をする。
「そ、そんな顔をしてもダメ! 本当にくすぐったいんだから」
「……なんだか、先輩を見ていると……すごく変な気分になるんです。……凄く……触りたい……って……」
「さ、触りたい……って……何処に……?」
「全部、です……」
言うが早いか、またしても由梨子に唇を奪われる。同時に、さわっ……と、由梨子の手が月彦が着ているセーターの下に着ているシャツをズボンから引っ張り上げ、その下へと潜り込んでくる。
「ちょ、ちょっと……由梨ちゃん!?」
「少しだけ……少し触るだけですから」
月彦の抵抗も空しく、由梨子の手はシャツの下、肌着のさらに下へと入り込み、腹部の辺りを直接なで始める。
(えっ……ひょっとして、俺……由梨ちゃんに“イタズラ”されてるのか……?)
由梨子の手が、今度は胸元の方へと伸びてくる。そのまま乳首の辺りを弄ぶように触られて、そのあまりのくすぐったさに月彦は思わず声を出して笑ってしまった。
「先輩、すごく……可愛いです」
頬や額、鼻などにキスの雨を降らせながら、由梨子が頬ずりしてくる。
「このままお持ち帰りしちゃいたいくらい……可愛いです」
お持ち帰りしたい――そんな言葉を言いつつ、由梨子の手が今度はズボンの方へと這ってくる。慌てて月彦は両手で由梨子の手を掴み、その動きを制した。
「はは、は……それはなんていうか……とっても光栄な事だけど……」
そろそろ、服を直してもいいかな?――と、月彦は視線で由梨子に訴えかける。何より、真央が帰って来たときにこんなイチャイチャを続けていたら、纏まる話も纏まらなくなるに決まっているのだ。
「そう、ですね。……すみません、我が儘言っちゃって……」
「いや、別に……真央に比べたら由梨ちゃんの我が儘なんて……」
シャツをズボンにしまいながらの愛想笑いをしていた時だった。ドンピシャ――とでも言うべきか、或いは“浮気”を第六感で感知でもされたのか、前よりもより鋭敏になった耳が、玄関のドアが開閉する音を拾った。
「ゆ、由梨ちゃん! 真央が帰ってきた!」
「えっ……」
恐らくは、玄関で靴を見て、事態を察したのだろう。どどどどどどっ、と地響きにも近い足音が瞬く間に接近してくる。
「まーくん!」
ばむっ、とドアを開けるなり、真央は般若の様な形相で由梨子の膝に抱かれていた月彦を引きはがす。
「私のまーくんに触らないで! 人攫い!」
フーッ、と野良猫が威嚇するときのような息づかいで、にじり、にじりと真央は由梨子から距離をとる。
「ひ、人攫い……って、あのな、真央?」
「ごめんね、まーくん。怖かったよね、もう大丈夫だから」
今度は真央の腕に抱かれ、よしよし、と頭を撫でられる。
「真央、茶番はもういいんだ。……由梨ちゃんには、全部バレてる」
「……どういう事?」
じろり、と真央は月彦を見、そして由梨子を見る。
「先輩から全部聞きました。真央さん、先輩にかけた“呪い”を早く解いてあげて下さい」
先ほど、一瞬垣間見えた黒い由梨子とは違い、あくまで冷静に真央に詰め寄る姿を見て、月彦はホッと胸をなで下ろした。
「……呪いなんて知らない。由梨ちゃんは部外者なんだから、早く帰って」
「な、何言ってんだ! 今更それは通らないぞ、真央!」
「そうですよ、真央さん。下手な嘘なんてつかないで、早く先輩を元に戻してあげて下さい」
「まーくんは私の弟なの! これから一緒にごはん食べたり、お風呂に入ったりするんだから、邪魔しないで!」
ヒステリックに喚く真央を見て、月彦は怒りを通り越して呆れてすらいた。
(なんて我が儘で意固地で、頑固な……)
これでは“真央お姉ちゃん”どころかただの駄々っ子ではないか。
(そうか……真央も実年齢はまだ五歳とちょっと……だったな……)
普段は素直な良い子を演じてはいるが、精神的にはまだまだ幼いのかもしれない――などと、真央の腕に抱かれたまま、月彦は一人で分析を始める。
「……そうか。あくまで真央が呪いなんか知らないってしらばっくれるならしょうがない」
ふう、と月彦は大仰にため息をつく。
「由梨ちゃん、俺……由梨ちゃんの家に居候してもいいかな?」
「えっ……」
と、驚きの声を漏らす由梨子に、月彦は片目をつぶってウインクをする。
「……そうですね。小さな先輩一人くらいなら、なんとか家族を説得できると思います」
「……何、言ってるの? まーくんは私の弟なの! 何処にも行かせないんだから!」
「俺は真央の玩具にされるのなんかまっぴらだ。元の体に戻してもらえないなら、由梨ちゃんちで元の体に戻るまでのんびり十二年待つ事にする」
月彦は無理矢理に真央の胸中から脱すると、ベッドに座る由梨子の隣へと移動する。
「真央より、由梨ちゃんの方が断然“お姉ちゃん”だしな。同じ甘えるなら、由梨ちゃんの方が甘え甲斐もある」
「そんな事ない! 私の方が由梨ちゃんなんかより――」
「真央さんは“お姉ちゃん”には向いてません。だって……真央さん、自分の事しか考えてないじゃないですか」
えっ、と。真央が息を飲む。
「そ、そんなこと……」
「先輩の事を……いえ、“まーくん”の事をちゃんと考えてるなら、元の体に戻りたいっていうお願いを聞いてあげるのが“お姉ちゃんらしい事”じゃないんですか?」
「で、でも……そんな事したら……父さまがまーくんじゃなくなっちゃう……」
「そりゃそうだ。そもそも、俺は真央の弟なんかじゃないんだからな」
うぅぅーっ!――そんなうなり声を上げて、真央が地団駄を踏む。
「由梨ちゃんも父さまも、どうしてそんな意地悪を言うの? 私だって……姉さまや由梨ちゃんみたいに、弟が欲しいだけなのに」
「弟が欲しいなら、素直に真狐にねだれ。それ以外の方法で手に入れようとするから、話がややこしくなるんだ。それに第一、真央にはまだ当分“お姉ちゃん”は無理だ」
我が儘過ぎる、と月彦は断言する。身をもって体験した事だけに、自信に満ちあふれた一言だった。
「……それに真央さん。弟がいる、っていうのも結構大変なんですよ? どうして真央さんが急に弟が欲しいって思ったのかわかりませんけど、多分……弟が居るっていう事の良い面しか知らないからだと思います」
成る程、実際に弟が居る由梨子の言葉もまた説得力がある――と、月彦は思う。
(……でも、武士君はそんなに手がかかるタイプには見えないけどなぁ……)
むしろ、中学生にしては随分落ち着いている印象を受けた程だ。自分が中学生の頃などは、如何に妙子の鉄拳をかいくぐってそのスカートの下を拝むか、或いは巨乳の感触を楽しむかしか頭に無かっただけに、余計にそう思えるのだ。
(弟としての手のかかる具合は……間違いなく武士君より、俺の方が上……だったろうな……)
冷静に分析して、そう思える。そして、その手のかからない武士でさえ大変だと由梨子は言っているのだ。はたして、霧亜の労苦はいかほどであっただろう――月彦は少し考えて、それ以上考えるのを止めた。
「………………わかった」
ぽつりと、真央が呟いて、そしてごそごそと勉強机の引き出しを漁り始める。
「父さま、これ飲んで」
「……これが呪いを解く薬か?」
小瓶に入った、虹色に発光する液体を見て、月彦は露骨に眉を寄せる。
「“儀式”の前準備に必要な薬なの。父さま、飲んで」
「儀式の前準備……なんか、すごーく嫌な予感がするんだが……真央?」
「なに、父さま」
さも、不本意。説得されて嫌々呪いを解くのだと言わんばかりの真央の態度。
であるのに。
(……なんで、尻尾がそんなにサワサワ動いてるんだ?)
そのことがどうしても気がかりで、月彦は問わざるを得ないのだ。
「その儀式……って……まさか、エロい事じゃないよな?」
「………………由梨ちゃん、もう良いでしょ。早く帰って」
月彦の問いには答えず、露骨に背を向けて由梨子に帰宅を促し始める。ますますもって怪しい――と、月彦は思う。
「あの、先輩……私、帰った方が……良いんですか?」
「ちょっと待って。……真央、その儀式ってのは、やっぱりエッチなんだな!?」
些か語気を強めて、月彦は真央に詰め寄る。
「……だって、母さまが……そうしないと元に戻れないって……」
ぼしょぼしょと、さも仕方なさそうに言う真央ではあるが、口元が些か緩んでいるのを月彦は見逃さなかった。
「ぜってー嘘だ! 他にもっとまともな方法があるのに、あいつがその方法しか教えなかったか、或いは真央がそういう方法を教えてと言ったんだろ!」
「そ、そんな事言ってない! 本当にそうしないとダメなの!」
「あ、あの……」
言い争いをする月彦と真央の間で、由梨子がそっと挙手をする。
「よく解らないんですけど、……私が帰ったら、真央さんと先輩……エッチ……するんですか?」
「………………由梨ちゃんには関係ない事だよ」
ぷいっ、とそっぽを向くようにして、真央がぶっきらぼうに呟く。その一言に、由梨子もまたかちんと来たらしかった。
「私、帰りません」
「……何言ってるの? 父さまが帰って欲しいって言ってるんだよ?」
「いや、言ってない。少なくとも俺は由梨ちゃんにそんな事は一言も言ってないぞ?」
帰れと言ってるのは真央だけだろ?――そう口を挟むが、父さまは黙ってて!とばかりに睨み返され、月彦は数歩後ずさった。
(ぐっ……体格さえ、元のままなら……)
例え相手が女子とはいえ、身長が倍ほどの相手に睨まれればひるみもするというものだった。
「そもそもだな、この体じゃエッチなんて無理だろ! 前の時みたいに小学校低学年くらいならまだしも――」
「だから、秘薬を飲むんだよ、父さま。……さっき、お薬渡したよね?」
「……そういうコトか」
恐らくは、体の(一部分の)成長を早める効果でもあるのだろう。真央といい真狐といい、無駄な所で用意の良い事だ。
「その呪いはね、対象者の“精力”を使って呪いの効果を持続させてるの。だから、一瞬でも精力が枯渇すれば……呪いが解けるんだよ」
「五歳児に精力もくそもないと思うんだが……」
確かにそういった原理であれば、射精回数をこなして精力を枯渇させるのが最も手っ取り早い方法だと思える。
(でも、絶対他にまともな方法がある筈なんだ……!)
しかし、真央は絶対にその方法は教えないだろう。何故なら、その呪いの解除までも含めて、真央の“目的”だろうからだ。
「……その理屈なら、別に……エッチをする相手が真央さんじゃなくても良いわけですよね?」
ぼそり、と呟いた由梨子の言葉に、聞き捨てならないとばかりに狐耳をぴこぴこさせたのは勿論真央だ。
「……由梨ちゃん、まだ帰ってなかったの? 父さまの呪いは私がちゃんと解くから、安心して帰っていいよ」
「そうしたい所ですけど、そもそも先輩がこんな風になっちゃったのは真央さんの仕業なんですよね。……だとしたら、また何かやらないとも限らないじゃないですか」
由梨子もまた、笑顔でさらりと返す。笑顔ではあるが、その背中から決して譲らぬ意志の強さを月彦は感じ取った。
「先輩。呪いを解くのは私に任せて下さい。真央さんに任せたら、今度は何をされるか解りませんし」
「何言ってるの? “呪い”の解除はとってもデリケートなんだから。由梨ちゃんには絶対無理だよ」
「無理かどうか、試してみないと解らないじゃないですか」
「試さなくても解るの! いいから由梨ちゃんは早く帰って!」
「じゃあ、先輩に決めてもらいましょうか」
真央と話をしていても埒があかない――そう思ったのか、不意に由梨子がくるりと月彦のほうへと向き直る。遅れて、真央も。
「先輩。先輩は私と真央さん、どっちに治して欲しいですか?」
「えっ……どっち……って」
「勿論私だよね、父さま」
すかさず、真央が月彦の手をとり、抱き寄せ、むぎゅうっ……とその巨乳をアピールするように頭を埋めさせられる。
「っ……私を選んでくれますよね? 真央さんに任せたら、また何をされるか解りませんよ?」
真央の胸の中から強引にひったくられ、今度は由梨子にぎゅうっ、と抱きしめられる。
「っっっ……私だよね、父さま!」
「私ですよね、先輩」
真央に睨まれ、由梨子は笑顔こそ浮かべているものの、無言のプレッシャーをこれでもかと注がれ、月彦は逡巡した。
「うーん……そうだなぁ………………どっちか…………っていうと、やっぱり由梨ちゃん、かな」
少し、迷いはした。が、その迷いは決して長いものではなかった。途端、ぱぁっ……と花開くように由梨子が微笑む。
「ありがとうございます、先輩っ」
「どうして! どうして由梨ちゃんなの? 父さま!」
むきー!と地団駄を踏む真央に、月彦はため息しかつけない。
(……悪いな、真央。今朝からの印象が悪すぎるんだ)
それに加えて、先ほどからソワソワしっぱなしの態度を見れば、シたくてシたくて辛抱堪らない状態であるのは明白だった。ならば、ここはあえて由梨子を選ぶのが真央に反省を促す意味でも正解であると、月彦は判断したのだ。
(勿論、俺自身……由梨ちゃんに優しく元に戻してもらいたい、っていうのもあるが)
こんな縮んでしまった体で、真央にメチャクチャにされたらそれこそ体が戻る前に命が尽きかねない。そういう意味でも、やはりここは由梨子一択なのだ。
「じゃあ先輩、私の部屋に来ますか?」
それともここで?――と、由梨子は月彦を抱きしめながら横目でちらりと真央を見る。まるで、敗者でも見るようなその目に、ぎりり、と真央は歯ぎしりをする。
「…………貧乳のくせに」
それは、驚くほど黒い声で呟かれた。
「ひんっ……って…………何を言ってるんですか! 私は“普通”です!」
真央の呟きに、由梨子は過剰に反応して声を荒げる。
「真央さんが……非常識なだけじゃないですか! 私は……ちゃんと標準はクリアしてます!」
「だから何? 由梨ちゃんの胸じゃ、こんな風に挟んだりとか出来ないでしょ?」
真央はむぎゅっ、と己の乳を寄せ、まるで見せびらかすように揺さぶる。なっ……と絶句したのは由梨子だ。
「父さまはね、大きなおっぱいが好きなんだよ? 口でするときも、こうして挟みながらしてあげると、すっごく喜んでくれるんだから」
「……そうなんですか? 先輩」
わなわなと唇を震わせながら、由梨子に睨まれるようにして尋ねられ、月彦は肯定も否定も出来ずにタジタジする。
「……例え、そうでも……口でするのは私の方が上手、って言ってくれました。真央さんが胸を使ってするより、私が口だけでする方が先輩は感じてくれるんです」
えっ、俺そこまで言ったっけ?――という言葉を漏らすよりも早く、真央が金切り声を上げた。
「嘘つかないで! 口でするのは私が一番上手っていつも褒めてくれるんだから!」
「それはお世辞でそう言ってくれてるだけじゃないんですか? 先輩は優しいですから」
「お世辞を言われてるのは由梨ちゃんの方でしょ? 私と一緒の時はいつも由梨ちゃんの相手をするのが面倒くさいって言ってたよ?」
「なっっ……ちょっと待て! 俺はそんなコト一言も――」
「あら、奇遇ですね。私と一緒の時も、先輩零してましたよ。真央さんが毎晩しつこくて辟易する、って」
ちょっ、由梨ちゃんまで――月彦はもう、全身から血の気が引いていくのを感じた。
「……由梨ちゃんなんて、後から無理矢理割り込んできた“二号”のくせに。私が父さまの“一番”なんだから邪魔しないで!」
「真央さんに“一番”の資格がないから、私がこうして先輩に選ばれたんですよ? ……“二号”なのは真央さんの方じゃないんですか?」
ゴゴゴゴゴ……。そんな岩のような字体の擬音が宙に浮かぶ部屋で、月彦は痛いほどに強く由梨子に抱かれながら、恐る恐る切り出した。
「あ、あのさ……二人とも、もうその辺で――」
忽ち、キッ……と射殺す様な視線で、二人同時に睨み付けられる。
「……真央さん、この際ですから、はっきりさせちゃいましょうか」
「そうだね、由梨ちゃん」
「えっ、な……何……どういうコトだ……?」
おろおろと狼狽える五歳児の体が、そっとベッドへと下ろされる。
「どっちが、先輩を感じさせられるか」
「私が絶対勝っちゃうけどね」
そして、その体が二人の女子高生によって押さえつけられ、組み敷かれる。
「ちょっ、ちょ……なんだそりゃ、何でそうなるんだーーーーーーー!」
勿論、昂っている二人の耳には、そんな哀れな子羊の叫びなど届かないのだった。
「ま、待て、二人とも落ち着けって! 話せば解る!」
「由梨ちゃん、そっち抑えてて」
「真央さん、早く薬を」
最早月彦の叫びなど右から左。二人はまるで息のあった姉妹のように、由梨子が月彦の両手を押さえつけ、真央が腹の上に跨る形で薬を手に取る。
「父さま、口開けて」
「こらっ、真央……人の話を……むががっ……」
顎を掴まれ、ぐいと強制的に口を開けさせられ、ドロリとした粘液が口の中へと流し込まれる。
「がはっ、がっ、んがっ……」
気管の方へと流れ込もうとするそれを、月彦は噎せながらもなんとか飲み干した。飲み干さざるを得なかった。
たちまち――。
「うあっ、ぁっ……」
かぁっ、と全身が熱くなるのを、月彦は感じた。
(なんだこれっ……すげぇ……ムズムズする……)
股間の辺りが熱を帯び、疼く。痒いようで痛いような未知の感触に藻掻いていると、ぺろりと。自分を見下ろしている二人の後輩が舌なめずりをした。
「“お薬”効いてきたみたいだね、父さま」
「そんなにすぐ効くんですか?」
「うん、母さまはすぐだって言ってたよ」
では早速、とばかりに真央がズボンを脱がしにかかってくる。
「こ、こらっ……よせっ、真央っ……由梨ちゃん、真央を止めてくれ!」
「……すみません、先輩。……私も、真央さんには負けられないんです」
「そんな……」
月彦が絶句している間に、ズボンと下着が瞬く間に下ろされてしまう。
「うわぁっ、ちっちゃーい! 父さまのって、昔はこんなにちっちゃかったんだ」
「あ、当たり前だろ! ……っ……」
一も二もなく、まだ幼い生殖器が真央の手によって撫でつけられる。
「……先手は譲ってあげます、真央さん」
「今から負けた時の言い訳? 由梨ちゃん」
「常識的に考えて、“二回目”の時の方が時間はかかりますよ。……でも、それでも私は真央さんに勝つ自信ありますから」
「口で早く父さまをイかせた方が勝ち?」
「どっちが先輩を感じさせてあげられたかを計るには、それが一番だと思いませんか?」
「…………じゃあ、あの時計の針が十二の所にきたら、始めるね」
真央もまた、張り合うように不敵な笑みを浮かべて、徐にシャツの前をはだけ、ブラを外す。
「じゃあ、いくよ? 父さま」
「ま、真央……ぅおっ……」
目覚まし時計の秒針が十二につくや否や、半立ちの剛直――と呼ぶには、些か頼りないが――をむぎゅっ、と真央が巨乳で挟み込む。
「あんっ……父さまのがちっちゃすぎて、これじゃ舐めてあげられないね」
苦笑混じりに、むぎゅ、むぎゅと真央は両側から乳を圧迫し、優しく上下に扱いてくる。
(……小さい、だと……!?)
真央の一言に俄にプライドを傷つけられたものの、肉体的な限界は精神力では如何ともしがたかった。
「ふふっ……父さま、気持ちいい? 真央のおっぱいの間でぴくっ、ぴくってなってるよ?」
「……っ……」
素直に気持ちいい、と認めてしまうのは“何か”に負けてしまう気がして、月彦は必死に唇を噛みしめた。
「一分経過です」
極めて事務的に、由梨子が時間読みをする。
「残念だね、父さま。おっぱいでぎゅっ、ぎゅってシながら舐めてあげたかったのに。……じゃあ、次は口でシてあげるね」
真央が体をずらし、幼い性器が忽ちその口の中へと咥えこまれる。
「っ……くっ……」
その舌使いはさすがは真央――と言った所だった。大きさは変われど、あくまで月彦は月彦。回数的には最多の数をこなしている真央の口戯は、的確に弱い所ばかりを責めてきて、月彦は忽ち脂汗を滲ませる。
「ンふふ……父さま、可愛いっ」
つぅ……と、糸を引きながら唇を離すや、悪女のように呟いて、再び口戯を再開させる。ぐぷ、ぐぷと卑猥な音を立てながらの強烈なバキュームフェラに、月彦は徐々に堪える事が出来なくなる。
「くっ……あっ……ぁあッ……!!」
それは、幼い体にはあまりに強烈すぎる快感だった。どくんっ、と腰が撥ねた刹那、つま先まで剃らせるようにして、月彦は盛大に射精した。
「んぷっ……んんっ……!」
口腔内に溢れたそれを、真央はもどかしげに舌で絡め取り、嚥下していく。いつもよりも数段早く唇を離したのは、それだけ“量”が少なかったからなのだろう。
「由梨ちゃん時間は?」
「……二分三十秒くらいです」
「いつもと違うから、少し時間がかかっちゃった。由梨ちゃんは“二回目”だから、ハンデで二分くらいあげてもいいよ?」
余裕綽々の真央に不敵な微笑を返して、由梨子は真央と体の位置を入れ替える。
「針が十二の所にきたら、始めていいよ、由梨ちゃん」
五分経ってもダメだったら、私と交代だよ?――恐らく、己の勝利を確信しているのであろう。そんな真央を一瞥して、由梨子は月彦へと微笑みかけてくる。
「……先輩、私……必ず勝ちますから」
「いや、えと……由梨ちゃ――んぐっ……?!」
言葉の途中で、時計の秒針が十二時を回り、刹那の内に月彦は由梨子に唇を奪われた。
「んぁっ……んくっ……んぅっ……」
同時に、にゅり、にゅりと射精したばかりの性器が由梨子の手によって弄ばれる。
(っ……やっぱ、由梨ちゃん……キス、巧い……)
キスの興奮も相まって、忽ち幼い性器は由梨子の手の中で“剛直”に変化する。すると、唐突に由梨子の唇が離れた。
「ひぁっ……!?」
予想だにしない場所――狐耳を突然ハミハミされ、月彦は素っ頓狂な声を上げてしまった。
(うっ、ぁっ……耳、されるっ……とっ……こんな風になるのかっ……!)
いつも、自分が真央にしていた事なのだが、人のそれにされるのとは雲泥の感触だった。チロチロと舌先で内耳の細い毛まで弄ばれながら剛直を扱かれ、忽ち息が荒くなってしまう。
「……まだです、先輩」
ぼそりと呟いて、今度は空いている左手が尻尾の付け根へと這う。
「うぁああっ……!」
そのまま、こしゅ、こしゅと尻尾の付け根と剛直を同時に擦られて、月彦は思わずブリッジをするように仰け反ってしまう。
(やっべ……こんなの、続けられたらっ……ッ……!)
あまりの快感に、ガクガクと腰が痙攣するように震えた。それほどに、尻尾との“同時こしゅこしゅ”の快楽は強烈だったのだ。
にゅり、にゅりと剛直をシゴかれ、同時に生えたての尻尾までイジられている所に、トドメとばかりに剛直が由梨子の口へと咥えこまれる。
「うっ、ぁっ、ああっ……ァアッ!!」
由梨子に咥えられると同時に、月彦は悲鳴にも近い声を上げて射精をしてしまった。どくり、どくりと真央の時よりも明らかに多い量を、由梨子の口腔内へとまき散らす。
「んっ……」
由梨子はやや苦しげに眉を寄せながらもそれらを嚥下し、ぺろりと唇を舐めながら口を離す。
「……真央さん、何分ですか?」
「………………由梨ちゃんズルい! 口でする勝負じゃなかったの!?」
「真央さんだって胸を使ったじゃないですか。……何分ですか?」
ぐっ、と真央は歯ぎしりをして、そして耳を澄まさなければ聞こえないような声で呟いた。「五十八秒」と。
「……私の勝ちですね、真央さん」
「由梨ちゃんがズルしたからでしょ!? 口でするだけなら……絶対私の方が上手だったのに」
立て続けに二度も射精させられ、完全に虚脱状態の月彦を挟むようにして、ギャアギャアと口論が始まる。
「由梨ちゃん退いて! 今度は私がもっと早く父さまをイかせてあげるんだから」
「真央さん、往生際が悪いですよ。負けたんですから、大人しく引っ込んでて下さい」
二人、肩を押しつけ合うようにして月彦の股ぐらへと顔を寄せる。
「ちょっ……二人、とも…………」
醜くも可愛らしいキャットファイトを繰り広げる後輩達を止めようとするも、体が巧く動かなかった。あの秘薬とやらは、生殖器の発育を促しはするものの決して超人的な精力を授けてくれたわけではないらしかった。
「んむっ……んぷっ……はぷっ……ちょっと、由梨ちゃん邪魔しないで」
「真央さんこそ、負けたくせに往生際が悪いですよ」
押し合いへし合い、二人の後輩の間で月彦は文字通り揉みくちゃにされた。真央に唇を奪われたかと思えば、すぐに由梨子にも奪われる。すると次は真央により濃厚なキスをされ、その後はより濃密なキスを――といった具合だった。
四つの手で体中をまさぐられ、手で、口で幾度と無く射精させられた。
(っっっ…………いい加減にっ…………ッ!)
そして、“それ”は、まるで月彦が怒るのを待っていたかのようなタイミングでやってきた。
「うっ……」
ドクンッ、と。心臓が大きく跳ねるのを月彦は感じた。
「がっ、ぁぁぁ……ぁっ……ァア……!」
ドクン、ドクン、ドクン――そう、それは心音の様で、心音ではなかった。心臓よりももっと大きくて、巨大な何かの、鼓動――。
「父さま……?」
「先輩……?」
そして、二人の後輩は同時に、衣類の裂ける音を耳にした。
「ふしゅぅぅぅぅ………………」
体から白煙にも似た水蒸気を迸らせながら、ゆっくりと体を起こす月彦を見るなり、由梨子は途端に冷静さを取り戻した。
「あっ……」
本能的に危険を察知して、由梨子は後退るようにしてベッドから下り、ぺたんと尻餅をつく。ベッドの上には、逃げ遅れたのかそもそも逃げるつもりがないのか解らない親友と、完全に元の体躯を取り戻した月彦が居た。
「ありがとう、由梨ちゃん。お陰で元に戻る事ができた」
「ぇ……ぁっ、はいっ……良かったですね、先輩……!」
一点の曇りもない、夏の空のような月彦の笑顔を見るなり、由梨子は逆に肝が冷える思いだった。かつて、こういった笑顔を向けられた時、どういう目に遭ったか。体が覚えているのだ。
「父さま、違うよ! 由梨ちゃんはズルしただけ、私の方が頑張ったんだよ?」
「……そうか。真央もありがとな」
社交辞令のように言って、月彦は真央の頭を撫でる。そしてその目が、再び由梨子の方へと向けられた。
咄嗟に、由梨子は軽く悲鳴を上げそうになってしまった。およそ、同じ人間を見るような目ではなかったからだ。そう、まるで肉食獣が獲物を品定めするかのような――。
「あ、あの……先輩も元に戻れた事ですし、夕飯の支度がありますから……私はそろそろ帰りますね」
このままここに残り続ける事に命の危険すら感じて、由梨子は早口に言って部屋の出口へと向かう。――が、その手が月彦によって掴まれた。
「待って、由梨ちゃん。その前にお礼をさせてもらえないかな」
「い、いえ……お礼なんて……」
由梨子はさりげなく手を振り払おうとしたが、月彦に掴まれたままの左手はぴくりとも動かす事が出来なかった。
「由梨ちゃんがどうしても帰るっていうのなら、由梨ちゃんの分も真央にあげるけど」
それでいいかな?――そう微笑みかけられて、由梨子ははたと体の向きをベッドの方へと戻した。
月彦の言う“お礼”が何であるか、由梨子には解らない。解らないが、ベッドの上で体はモジモジ、尻尾はソワソワ、頬を染めながら目は期待に濡れきっている真央を見れば、何であるか想像もつくというものだった。
「そん、な……」
先輩、ズルいです――危うくそう漏らす所だった。
(そんな言い方されたら……私、帰れないじゃないですか)
先ほどまで、自分と真央がやっていた事を鑑みれば、“お礼”と称してお返しをされるであろうことは想像に易い。確かに由梨子自身、月彦が幼児化して抵抗できないのを良いことに、普段は絶対できないあんなコトやこんなコトをやってしまった手前、やり返されてもそれはそれでしょうがないとは思う。
しかし、それもあくまで“死なない程度になら”の話だ。
(……先輩、ちょっと……キレちゃってます……よね?)
表情こそ笑顔そのものだが、幾度と無く肌を重ねてきたからこそ解る機微というものがある。月彦は怒っている、それもかつて無い程に。
「…………由梨ちゃん、晩ご飯の用意があるなら、暗くなる前に早く帰った方がいいよ」
可能ならば、今すぐこの部屋から逃げねばならない。なのに、由梨子にそれをさせてくれないのがこの親友の存在だった。自分が去れば、それこそ“お礼”と称してここぞとばかりに二人きりで濃密な夜を過ごすのだろう。由梨子にとって、それは容易には許せない事だった。
だから。
「…………先輩、私もお礼……欲しい、です」
由梨子はそう答えてしまった。
「そっか。それじゃあ由梨ちゃん、……携帯電話、持ってるよね?」
「はい、持ってますけど……」
横であからさまにぶうと頬を膨らませている真央を尻目に、由梨子はスカートのポケットから携帯電話を取り出す。
「まず、家か武士君の携帯辺りに電話をかけて。そして『今夜は友達の家に泊まる』って言ってもらえるかな」
「えっ……せ、先輩……それって……」
「父さま! そんなのダメ! 由梨ちゃんを泊めるなんて――」
「真央は黙ってろ」
月彦はひと睨みで真央を黙らせ、そして再び由梨子に笑顔を向ける。
「……勿論、どうしても今日中に帰りたいっていうのなら、それでもいいんだけど……ただほら、由梨ちゃんってシた後いっつもフラフラしてるから。いっそ泊まりの方がいいんじゃないか、って俺は思うんだけど」
「っっ……そ、それは……先輩が何回もっっ…………」
両手の指の数では足りない程にイかされ、散々喘がされて失神に近いような目にまで遭わされれば、足下もフラついて当然というものだ。そうならない真央の方がおかしいのだというのに、月彦はまるで由梨子が虚弱であるかのような言い方をするから堪らない。
「わ、解りました……電話、します……」
由梨子の背中を押したのは、またしても親友の存在だった。「早く帰ればいいのに……」という目を露骨にされれば、意地でも残ってやろうという気にもなろうというものだ。
由梨子は携帯電話を取り出し、早速弟へとかけた。
「……あっ、もしもし……武士?」
気怠そうな声で電話に出た弟に、由梨子は早口で今日は“友達の家”に泊まる旨を伝えた。恐らくは、本当は誰の家に泊まるかは武士は気がついただろうが、母親にはきっと巧く誤魔化してくれる事だろう。
ぴっ、と由梨子が通話を終えるのと、腕を引かれて抱きしめられるのは同時だった。
「きゃっ……せ、先輩っ!?」
「ありがとう、由梨ちゃん。これで時間を気にせず、たっぷり“お礼”が出来る」
「ぁっ……」
ぐいっ……とスカート越しに押しつけられた強張りに、ついそんな声が出てしまう。そう、結局の所――由梨子もまた、“お礼”のような事をするのが嫌いではないのだった。
「由梨ちゃん、下着を脱いでベッドに上がって」
「ぇっ……い、いきなり……ですか?」
いきなり下着を脱げ――そんな事を言われたのは初めてだった。由梨子はちらりと、ベッドの隅に押しやられた親友の方へと目をやる。嫉妬混じりの、羨むような真央の視線に晒されながら、由梨子は月彦の“命令”通りに下着だけを脱ぎ、ベッドに上がった。
「きゃあッ!? せ、先輩っ!?」
上がるや否や、月彦に押し倒されるような形で両足を開かされる。
「由梨ちゃん、足……自分で支えてて」
さらに、有無を言わさず自分で膝裏を抱えるように命じられ、由梨子の顔面は忽ち羞恥の赤に染まった。
(いきなり、こんな……格好……っっ……)
スカートは履いたままだが、到底隠しきれるものではない。月彦にも、そして真央にも丸見えになってしまっているであろう。叶う事ならば今すぐ両手を離して、スカートで秘部を隠したかった。だが、それをやってしまったら最後、もっと酷い事を命じられるのではないか――その恐怖に、由梨子は手を離す事が出来なかった。
「……さっき、由梨ちゃん達……面白い事をやってたよね」
羞恥に堪えるように下唇を噛む由梨子の耳に、そんな月彦の呟きが聞こえた。
「ぇ……あの、先輩……?」
「俺もやってみていいかな」
由梨子の返事を待たずして、さわりと太股が撫でられ、そのまま秘部へと手が這わされる。
「な、何を……ンッ……」
心なしか、いつもよりもやや乱暴な手つきで秘裂が弄り回され、自ら広げるような体勢である羞恥も相まって、由梨子は忽ち溢れさせてしまう。己の秘裂から聞こえてくる音があからさまに水音を含んだものへと変わり、由梨子はその音から逃げるように顔を背けた。
くすりと、由梨子のそんな反応を楽しむように月彦が笑う。
「真央。よく見てろよ」
「っ……せ、先輩っ……やっ……っっ……ンっ……」
月彦に促され、真央が文字通り覗き込むようにして由梨子の秘部を見入る。かぁ……と熱いものが頬から額にまで広がると同時に、月彦の指に絡む水音がさらに大きくなる。
「うわぁ……由梨ちゃんの…………ヒクッ、ヒクッってして……父さまの指をしゃぶってるみたい……」
「っっ……ぅ……………くっっ……」
親友の呟きに、羞恥のあまり手が離れてしまいそうになる。
「由梨ちゃん。もし勝手に手を離したら…………今夜はずっとお尻でイかせ続けるからね」
そんな由梨子の微かな指の動きを見切って、まるで天気の話でもするようなさりげなさで月彦がぽつりと呟く。由梨子は慌てて指に力を込め、膝裏を持ち直した。
(……先輩は、やる……手を離したら……本当に……)
だから、例え死ぬほど恥ずかしくとも、足を広げ続けるしかない。
「っ……くっ……せん、ぱい……もう……はぁっ……ンっ……ぁあっ、ぁっ……」
ちゅぐ、ちゅぐと秘裂をかき回す指の動きに、次第に声を抑えるのが難しくなってくる。
(先輩は……一体何を……)
このまま、真央の見ている前でイかせるのが月彦の言う“お礼”なのだろうか。そんな生やさしいもので終わらせてくれるものなのだろうか――。
そう、由梨子がそんな危惧を抱いたのを、まるで見透かしたように、またしても月彦は――笑う。
「……そろそろかな」
「ぇ……やっ……あンッ……!?」
突然、月彦の指の動きが変わる。かき回し、蜜を混ぜるような動きをしていたのが、突如激しく、掻き出すかのような動きに。
「やっ、せっ……せんぱっ……そ、そこっ……やっ……あっ、あっ、あッ、あ、あ、あッ……!」
ガクガクと腰を振るわせるようにして、由梨子は声を荒げる。ここに来て、由梨子は漸く理解した。月彦が狙っていたのは――。
「やっ、せんぱっ……止めっ…………ぁっ、ぁっ、ッ……やぁぁァァうッ!!!」
堪える事など出来なかった。強力なバネ仕掛けのように腰が撥ね、ビュウと凄まじい勢いで恥蜜が迸る。うわっ……と、真央が驚いたような声を上げるのが由梨子の羞恥をよりかき立てた。
「だ、めっ……真央さんっ……見なっ……ぁっ……ぁっ、……ぁぁぁ……ッ!」
まるで、射精でもするかのように、びゅっ、びゅっ……と立て続けに蜜が迸る。同時に襲い来る、頭が痺れるような快楽に、由梨子は思わず膝裏を抱える手を緩めた。
「由梨ちゃん」
しかしそれも、月彦の一言で持ち直した。はあ、はあと呼吸を整えながら、由梨子は涙すらにじんだ目で、天使のような笑みを浮かべた月彦を見上げる。
「……真央、どこまで飛んだ?」
「えっと…………うわっ、椅子の背もたれにまで飛んでるよ、父さま」
「そんなに飛んだか。……さすが由梨ちゃんだ」
「っっ……せ、先輩っ!」
“さすが”の意図するところが一体何なのか、甚だ気にはなったが聞くことは出来なかった。
「も、もう……良い、ですよね? 手を……離しても……」
「さてと……じゃあ、次は真央だな」
由梨子はそれが、次は真央がされる版という意味で言っているのだと思った。しかし、それは大きな勘違いだった。
「真央には……そうだな、二回目だからハンデ三十センチをやる。椅子の背もたれの三十センチ手前よりも飛ばしたら、真央の勝ちだ」
「えっ……あの、先輩……?」
月彦との会話にかみあわないものを感じながらも、由梨子は同時に不思議な既視感を憶えていた。そう、前にもこのような会話を聞いたような、したような――。
「ほら、真央?」
「う、うん……」
月彦に促されて、渋々……という形で真央が由梨子の足の間へと座り、手を伸ばしてくる。
「そん、な……せ、先輩っ……止めて下さいっ……!」
月彦相手ならば兎も角、真央にまで潮吹きをさせられるなんて――想像するだけで髪の毛の先まで羞恥に染まるその未来に、由梨子は懇願せざるを得なかった。
「……俺が止めてくれって言った時、由梨ちゃん達は止めてくれたかな」
しかし、帰ってきた言葉はある意味、由梨子が予想した通りのものだった。ニコニコと、まるで日曜日の教会で子供達にお菓子を配る神父のような顔でそう言われては、由梨子はもう何も言い返せなかった。
「……ごめんね、由梨ちゃん……父さまの命令だから」
つぷっ、と。月彦のそれよりも細く、しなやかな指が秘裂の中へと入り込んでくる。最早由梨子に出来る事はただ、快楽に身をよじる事だけだった。
一体、何度目だろうか。
「はぁ……はぁ……はぁ……ンッ……ぁっ、ぁあっ……!」
勃起した淫核をちろちろと嘗め回され、挿入された人差し指と中指でにゅぐにゅぐと肉襞を愛撫され。
「ァ、ァアっ、ぁッ……!!」
びくんっ、びくっ。
腰を撥ねさせるようにして、由梨子はイく。最早何度目かも解らない絶頂に、身も心も溶けかけていた。
意識は白濁として、時間の感覚などとうになく、この快楽とも拷問ともつかない行為が永遠に続いているかの様だった。
「……真央、ダメだ。それじゃただイかせてるだけだ」
月彦の声に、はたと愛撫の手が止められる。由梨子には、止まっていた時が漸く動き出したように感じられた。
「ご、ごめんなさい……父さま……私、頑張ったんだけど……」
「まぁ、そうだな。九十分もやってダメならしょうがない。じゃあ、真央の記録は0センチって事で……この勝負は俺の勝ちでいいな?」
どちらでもいい、この快楽という名の責め苦から解放されるのなら――由梨子がぼんやりとそんな事を考えていると、不意に影が被さってきた。
「……先輩……?」
「じゃあ、由梨ちゃんは俺のモノって事だな。……確か、そういう勝負だったよね……由梨ちゃん?」
“そういう勝負”というのは、由梨子と真央が月彦を挟んでやった勝負の事を言っているのだろう。確かに、より感じさせた方が月彦にとっての一番になれる――そういった内容ではあったが。
「ま、待って……下さい……私、もう……くたくたで……ッ……ンっ……」
そんな由梨子の悲痛な叫びは、唇ごと塞がれた。同時に、散々弄り回された秘裂に当たる、熱い塊。それが、一気に――。
「くひぃぃッ……!」
そのあまりの質量、圧迫感に思わずキスを中断して声を荒げてしまう。
(っ……先輩の、いつもよりっ……)
そんな筈はない、と思いつつも、そうとしか考えられない。そういえば――と、由梨子は思い出す。
いつだったか、真央が話していなかったか。怒った時の先輩はスゴい――と。
「ンッ……相変わらずキツキツだ」
「っ……ぁっ……くっ、はっ……ぁ……」
浅い呼吸を繰り返しながら、由梨子はちらりと真央の方へと目をやる。やはり、嫉妬と羨望の入り交じったような目で、じい……と由梨子を見るその姿に、奇妙な違和感を憶えた。
(真央さん……どうして……?)
少し、大人しすぎるのではないか。そもそも、“この流れ”に一度や二度の抗議をしても良い筈だ。現に前回などは“由梨ちゃんばっかりズルい!”と声を荒げていたではないか。
「どうした、由梨ちゃん。真央がそんなに気になる?」
「そ、それは……だって……こんなっ……」
二度目だからといって平気なわけでもない。由梨子は真央の視線から逃げる様、必死に身をよじる。
「置物とでも思えば良い。気にしないで」
「そんな、事っ……ンくっ……せ、先輩っ……あぁ……っ……!」
月彦が本格的に動き出し、否が応にも声が漏れてしまう。
(いやだ……真央さん……そんなに、見ないで……っ……)
じぃと、それこそ食い入る様に見る真央の目。顔を背けていても、その視線が体に絡みつき、由梨子の肌を上気させる。
「あぁっ、ぁァッ……!」
声も抑えたい。しかし、敏感な粘膜を擦り上げる極太の肉柱がそうさせてくれない。何度も何度も弾かれたように声を上げてしまい、唇を覆う手も役に立たない。
「……由梨ちゃん、いやらしい…………」
視界の外での呟きは、まるで耳元で囁かれたかのようにはっきりと聞こえた。体が燃えるような羞恥に、由梨子はさらに蜜を溢れさせてしまう。
「……由梨ちゃんは、真央に見られてる方が興奮するのかな」
「っっ……!」
月彦の呟きに、由梨子はハッと身を固くする。
「真央、由梨ちゃんが随分暑そうだ。セーターを脱がしてやれ」
うん、と頷くや、由梨子の枕元へと回った真央の手によって、まずはあっさりとノースリーブのセーターが脱がされた。
続いて、ブラウスのボタン――これは月彦によって瞬く間に外された。露わになったブラのホックが外され、上へとずらされる。忽ち、痛い程に尖った乳首が二人の眼下に晒された。
「凄いな……コリッコリだ。……噛んだらどんな味がするかな」
「やっ……止めっ……ぁぁぁァァッ!!」
片方は掌で転がすように愛撫をされ、もう片方を口に含まれ、舌で転がされながら甘く噛まれる。堪らず由梨子が声を荒げた所で、ごちゅんっ、と剛直が一際強く突き上げられる。
「ひはァッ! ……あぁっ、ぁっ、ぁっ、ぁぁっ……!」
そのまま、胸を愛撫されながらごちゅごちゅと奥を小突かれ、由梨子は徐々に声を抑える事も――否、その気すら起きなくなる。
「随分気持ちよさそうだね、由梨ちゃん。……でも、まだまだ」
ぐいっ、と月彦に片足が抱えられる。抵抗など、出来るわけがなかった。
「ああァァッ!! あっ、ひっ……ぁあっ、ひぁッ……!!」
片足を肩に掛け、残った足を跨ぐようにして腰を使われ、由梨子はあられもない声を上げる。
「……この体勢、ほんっと由梨ちゃん好きだよね。……そんなに良い?」
腰を使いながら聞かれて、由梨子には頷く事も返事をする事も出来なかった。そんな由梨子の痴態を満足げに見下ろしながら、月彦は抱えた由梨子の足に舐めるようにキスをする。
「ぁあっ、あんっ……あァァァッ! ぁっぁ……せんっ……ぱいっ……もっ、……わたっ……私っ…………っっ……」
行き場の無い手が遮二無二ベッドシーツを掻きむしる。その手を握りしめたのが月彦の手なのか、それとも真央の手なのかすら、もう由梨子には解らなかった。
「あぁ、イッていいよ。由梨ちゃんがイッたら、俺もイくから」
抽送が、徐々に激しく、荒々しく変わる。
「ぁっ、ぁっ、ぁあっ、ぁっ……あぁッ……やっ……早っ……ぁあっ、あっ、ぁっ、ぁっ……あぁッぁッ!」
ぎゅううっ、と誰のものとも知れない手を握りしめながら、由梨子は己の下腹部から突き上げてくるそれに、身を任せ、声を荒げた。
「あっ、あッ、アッ……ぁぁっ、あッ、ああアァーーーーーーーーーーッ……!!!」
腰を撥ねさせ、サカり声を上げながら由梨子はイく。痙攣するように締まる膣越しに、どくりと、まるで胎動のような振動を感じたのはその時だ。
「あァァッ!!」
奥まで押しつけられた剛直の先端から迸る、灼熱の塊に、由梨子はさらに声を荒げずにはいられなかった。
びゅぐり、びゅぐりと次々に打ち出されるそれは忽ち由梨子の中を満たし、これ以上行き場がないとばかりに結合部から汚らしい音を立てて漏れだしていく。
「はぁぁ……ぁぁっ……せん、ぱい……………………」
下腹部を満たす、熱い白濁液――その感触に、由梨子はうっとりと脱力する。経過はどうあれ、好きな男の精液を己の最も大事な場所で受ける事ができたのだ。それは、至福以外の何物でもなかった。
「ひっ……」
“それ”で全てが終わりなら――の話だが。
「やっ……せ、先輩……まだ……っ……」
「一回出したくらいで、満足出来るわけないよ。……由梨ちゃんだってそうだろ?」
抱えていた足を元に戻し、今度は由梨子の体そのものを抱きかかえるようにして胡座をかく月彦は、本当に眩しいばかりの笑顔だった。
「そ、そんな事無いですっ……もう、“お礼”は十分受け取りましたから……っ……」
次は真央さんに――その言葉は、キスによって塞がれた。
「……その、慎み深い所が、由梨ちゃんの良いところだよ」
「ち、違います! 私はもう、本当にっ……あぁっ、ぁぁ……っ!」
問答無用とばかりに尻が掴まれ、体が上下に揺さぶられる。
(だ、めっ……こんな事、続けてたら……いつか、本当に――)
後で悔いると書いて後悔。矢張り大人しく“お礼”を真央に譲り、早々に逃げるべきであったと。由梨子は己の命が削られる音を聞きながら、文字通り後で悔いるのだった。
それは、とても奇妙な感覚だった。
眼前で抱かれている由梨子に対して、身の燃えるような嫉妬を感じつつも、同時に膨れあがる期待感。それらがない交ぜになり、真央は父親に抱かれ続ける親友から目を逸らす事も出来ず、そして身動きも出来ないままただただ時間だけが過ぎた。
「……由梨ちゃん?」
既に日はとっぷりと暮れ、月彦は漸くにして己が抱いていた相手がまるで人形かなにかのように反応を返さなくなってしまっている事に漸く気がついたらしかった。
「……ちょっと、やりすぎたかな?」
首を捻りながら、月彦は由梨子をベッドにそっと寝かせ、掛け布団をかける。
(……全然ちょっとじゃないよ、父さま)
その様子を背中から見守りながら、真央は心中でそんな事を呟く。もう無理、お願いですから許して、真央さん助けて下さい――そんな由梨子の悲痛な叫びを何度耳にしただろうか。端で見ている真央にも、自分の父親が悪魔かなにかに見えたくらいだから、抱かれている由梨子としてはそれ以上だっただろう。
(……でもいいなぁ、由梨ちゃん……)
お礼という名のお仕置き、仕返しとも言える――それを受ける由梨子が哀れでもあり、それ以上に羨ましく思える。否、主犯である自分はきっともっと酷い事をされるだろう――その事を想像するたびに、真央はゾクリとしたものが尾の付け根から奔るのを感じた。
「……さてと、待たせたな、真央」
くるりと、月彦が振り返るなり、真央は小さく悲鳴を漏らして壁に張り付くようにしてベッドの端へと寄った。
あぁ、とうとうこの時が来たのだと。全身が喜びに震えるのを悟られまいと、真央は脅えて震えているかのように振る舞う。
「由梨ちゃんには“お礼”だったが、真央は……解ってるな?」
こくりと、真央は無意識のうちに小さく頷いた。
(解ってる……悪い子にはお仕置き、だよね……父さま)
はぁ、はぁと息が乱れそうになるのを、必死に押し殺す。期待しているのを悟られてはいけない。“お仕置き”が待ち遠しくて堪らないという事を知られてはならない。
「ほら、真央……こっちに来い」
「う、うん……」
飛びつきたくなるのを堪えて、さも脅えて容易には近寄れないというフリをしながら、真央はおずおずと月彦の方へと身を寄せる。期待と興奮で、全身が火照りきってしまっている事に気付かれやしまいかと、伏せ目がちに。
「真央、何でお仕置きをされるのか……解るな?」
腰に手を回される形で問いかけられる。ちらりと横を見れば、已然屹立しっぱなしの剛直が嫌でも目に入った。
(あぁ……父さま、凄く怒ってる……だから、あんなに……)
はぁ……と、感嘆のため息を漏らしてしまいそうになる。『舐めろ』と、今すぐ耳に囁いてくれないだろうか。一言命令さえしてもらえれば、心おきなく食らいつく事が出来るのに。
「ご……ごめんなさい、父さま……もう、勝手に呪いなんかかけたりしないから……」
脅えた口調で、真央は呟く。
「……それだけじゃないだろ?」
「……だって、父さまがちっちゃくて可愛かったから……だから……」
「……まぁ、今更真央に自制心を期待するのは無理な話か。俺の教育方針が間違ってたって事でもあるから、一概に真央を責めるわけにもいかないな」
でも――と、月彦は真央の耳に唇を近づける。
「真央が“悪いこと”をした事は間違いないわけだからな。仕置きだ、尻を出せ」
はい、父さま――真央はうっとりと瞳を濡らしながら、月彦の方へ尻を差し出すようにして四つんばいになる。
はらりと、スカートがめくられ――そして。
「ひんっ!」
ぴしりと、強かに尻を打たれた。
「あぁっ、ぁっ……!」
ややもすれば、嬌声ともとられかねない極めてグレーな悲鳴を上げながら、真央は幾度となく尻を叩かれる。
ざっと二十は叩かれただろうか。ひりつくような痛みは決して不快ではなく、それ以上の快感をもって真央は全身をとろけさせ、はぁはぁと悶えながら尻尾を高く高く上げる。
そして、半ばベッドに伏せるようにしながら、濡れた目で月彦を見上げる。さぁ、次はどうするの? 父さま――そういう目だ。
しかし。
「……まあ、こんなとこか。これに懲りたら、真央……もう二度と悪さはするんじゃないぞ?」
えっ、と。声に出して呟いてしまう所だった。見れば、父親はいそいそと箪笥を漁り、部屋着を着ようとしているではないか。
そんな――と思う。
「どうした、真央。いつまでそうしてるんだ?」
もうお仕置きは終わったぞ――部屋着の長袖シャツに手を通しながらにこやかに言う父親は、普段通りの父親に見えた。真央が期待して止まない、怒っている片鱗など微塵もない、極々普通の状態だ。
(そんな……父さま……これで終わりなの……?)
たかだか尻を十数回叩いて、それで終わりにできるような生やさしい怒りだったのか。それとも、その前の由梨子との事で、大半の気晴らしは済んでしまったのか。
「ぁ、ぅ…………」
真央は身を起こしながら、尻を叩かれる前よりも遙かに強い焦燥に身をくねらせる。こんな筈では無かった。今までならば、こんな生殺しのような事はされなかった。
「と、父さま……?」
はぁはぁと、最早隠すことも出来ずに悶えながら、真央は己の身を襲う疼きに堪えかねるように言葉を続ける。
「私……ね、本当に悪いことをしたと思ってるの…………だから、もっと……」
「その反省する心があれば、お仕置きなんか要らないだろ」
違う――と、真央は言いたかった。そうじゃない、それは、いつもの月彦の言葉ではないと。
(父さま……本当に怒ってるんだ……)
そう、今まではなんだかんだと言いながら、月彦は真央の意図する所を汲んでくれたのだ。しかし、今回はそれがない。気がつかないのではない、解っていてあえて無視しているのだ。
(それが……お仕置き………………っ……)
“何もしない”という事自体が仕置きなのだ。確かにそれは、真央にとって最も辛く、苦しい仕置きだった。
「父さまぁァ……」
気がつけば、真央は這うようにして月彦の足に縋っていた。
「ん? どうした、真央」
白々しくきょとんとした顔をする月彦を見上げて、真央は息も絶え絶えに続ける。
「お願い、父さま……もう、本当に悪いことはしないから……だからっ……」
お仕置きをして――言外にそう言い含める様に、真央は哀願に満ちた目で月彦を見上げる。
「…………やれやれだな。全く」
ため息混じりに、月彦が呟く。まるでそれがスイッチであったかのように。
「……本当は、真央にだけ何もしない――そういう仕置きをしようと思ってたんだけどな」
月彦はベッドに腰掛け、それとない仕草だけで真央を招き寄せ、絨毯の上にぺたんと座らせる。
「真狐に似て悪知恵が働くな、真央は…………………………保険をかけたろ?」
えっ――と、真央はつい声に漏らしてしまった。そんな真央の反応を楽しむ様に、月彦はくつくつと笑う。
「万が一“悪い子”としてのお仕置きがシてもらえない時の為に、“良い子”としてのご褒美もねだれる様……態と途中から由梨ちゃんとの事の邪魔をしなかったんだろ?」
「と、父さま……」
そういうつもりではなかった――そう言いたかった。純粋に、悪魔の様に微笑みながら由梨子を抱く月彦に近寄りがたく、声もかけられなかっただけだと。そういう“建前”を言いたかった。
(あぁ……父さまァ……)
心の底まで見透かすような月彦の物言いに、真央は尾の付け根からゾクリと痺れが迸る。
全ては、正しく月彦の言う通りだった。綿密に考え、練ってそう振る舞ったわけではない。ただ、由梨子と自分どっちを選ぶかという所で、あまりにあっさりと月彦が由梨子を選んだ瞬間、女狐としてのカンが不意に告げたのだ。『このままでは拙い』――と。
故に、月彦に示す必要があると思ったのだ。“悪い子”として振る舞うのはあくまで演技であると。本当は素直で聞き分けの良い――そう、目の前で他の女を抱かれていても、大人しく見守るくらいの辛抱強さはあるのだという事を見せれば、“最悪のケース”だけは免れるだろう――半ば無意識的にそう目論んだ。
「さて、どうしたものかな……俺は“仕置き”をすればいいのかな。それとも、“ご褒美”をあげればいいのかな」
さも迷っている風を装い、月彦は真央の顎、頬、そして髪から耳へと優しく撫でつける。そうされているだけで、真央は火照った全身を持て余し、今すぐ月彦に飛びかかって押し倒したい衝動に駆られる。
(あぁ……父さま……意地悪しないでェ……)
“お仕置き”にしろ“ご褒美”にしろ、どうせやることはさして変わらないのに。そうやって迷っているフリをして、焦れに焦れる娘の様を眺めるのが心底好きなのだろう、この父親は。
「俺としては、今回の事は……真央がどこまで“演技”だったかが分かれ目だと思うんだが。……真央、どうだ?」
「ン……どういう、意味……? 父さま……」
髪や耳を撫でられながら、真央は熱に浮かされたような声で答えた。
「例えばだ……真央。“弟が欲しい”っていうのは、恐らく本音だろう。でも、我が儘っぷりは半分演技じゃないのか?」
「えっ……あンッ……!」
それとなく膝立ちにさせられ、上体を半ば月彦に凭れるようにさせられて、不意に尻尾が掴まれる。
「俺も、最初は騙された。でも今考えてみると、いくらなんでもわざとらしいくらいに我が儘だったからな。俺を怒らせたくて、態とそういう風に振る舞ったんだろ?」
「ぁっ、ぁっ……やっ……とう、さまぁ……尻尾っ……はぁぁンっ……」
真央にはもう、月彦の言葉など届いていなかった。尾の付け根を弄られて、身も心も蕩けるような快感に全身からすっかり力が抜けてしまい、くたぁ……ともたれ掛かりながらただただ艶めかしい吐息を漏らし続ける。
(やっ……父さま、また上手になってる……)
それまでも、決して下手というわけではなかった。しかし、今ほど的確に、真央がより声を抑えがたいような刺激を絶えず加えてくるという事は無かった。
(父さまも……尻尾が生えたから……?)
そう考えるのが、最も妥当だろう。自らも一度尻尾を生やし、どういう感じ方をするのか解れば、触るコツも解るというものだ。
「……こら、真央。ちゃんと聞いてるか?」
「ぇ……ぁ……ご、ごめんなさい、父さま…………」
つい、反射的に謝りはしたが、それだけだった。最早月彦の言葉の意味すら理解できていない。真央はただただ、己の尻尾に加えられる至福の愛撫の虜となり、甘い声を出すだけだ。
「……全く、本当にしょうがないな、真央は」
薄笑いを噛み殺したような、そんな声と共に、尾の付け根がやや強く擦り上げられる。
「ぁっ……とうさまっ……ァァ……」
「人の話もちゃんと聞けないような悪い娘には、やっぱりご褒美よりも仕置きだな」
冷たい父親の声にゾクリと身を震わせ、立て続けに尻尾を弄られ、真央は辛抱堪らず声を震わせる。
「ぁっ、ぁっ、ぁっ……やっ……父さまァ……そんな風にされたらっ……私っ……すぐにっっ……」
早くも真央がイきかけた瞬間、あっさりと愛撫が止められ、尻尾から手を引かれる。後を追ってやってきたのは、体が燃えるような凄まじい焦燥。
父さま、どうして――真央のそんな目に、月彦は笑顔で答えた。
「真央がシて欲しいのは……エッチじゃなくて“お仕置き”だろ?」
そして、イかない程度にぎゅうっ……と。尻尾の付け根が握られる。
「お仕置きだったら……簡単にイかせちゃダメだよな。真央?」
あぁぁ……――そんな声を漏らしながら、真央はうっとりと目を細める。これだから、父親に怒られると解っていても、良い子にならなければならないと思っていても、つい“悪さ”をしてしまうのだ。
(あぁ……父さま、好き……父さまにお仕置きされるの、好きぃ…………)
ゾクゾク……ッ!
稲妻のような快楽が全身を貫くが、しかし月彦の言葉の通り、真央は決してイく事は出来ない。そういう風に躾られてしまったからだ。
一体、いつから――と、真央は不意に思う。自分の体は一体いつから、このように躾られてしまったのか。切っ掛けは間違いなく、稲荷誓紙による制約だろう。絶対にイけない用にと呪をかけられ、その状態で気が狂わんばかりに責められた――その時の快楽を、真央の体の方が気に入ってしまったのだ。
以来、真央の体は真央の意志よりも月彦の言葉を優先する事が多々あった。一度耳元で「勝手にイくな」と囁かれれば事実、その通りになってしまうし、「発情しろ」と言われれば、文字通り媚薬でも飲まされたかのように体が火照りだしてしまう。
「はぁ……はぁっ……ンぁぁ……ひぃっぅ…………とう、さまぁぁ…………」
真央はベッドに上体を伏せるようにして声を荒げ、ベッドシーツを掴む。尻尾から断続的に送られてくる快感はなるほど、見事なまでに真央がイけない用コントロールされていた。
「あぁッ……ぁァあッ……やっ、もっ……イかせてェェ……ああァァッ!!」
イきたいのに、イけない。そのもどかしさは快感を苦痛にすら変える。尻尾を弄る手の動きが止まるたびに、真央は泣きそうな声で愛撫の続行を願うが、それは一度たりとも叶わなかった。
「ダメだ。絶対にイかせない……イくなよ、真央」
尻尾を弄る手の主はそう言って、尻尾を擦りながら空いている手ではらりと真央のスカートをめくり上げる。
「くす……真央も由梨ちゃんの事は言えないな。下着がぴったり張り付いて、透け透けじゃないか」
「やっ……ひぁッ……ああぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
下着が張り付くほどに濡らしてしまっている秘裂を見られている――真央が視線を意識したその瞬間だった。突如下着の上からグリグリと二本の指で擦り上げられ、真央は素っ頓狂な声を上げながらあっさりと絶頂を迎えた――筈だった。
「ぁッ………………ぁッ………………!」
そう、与えられた快感の量は間違いなく絶頂に値するものだった。しかし、イけない。「イくな」と命令されているから。
「あっ、ぁ、あ、あ、あ、…………あァ……あッ……!」
ガクガクと、腰回りが不自然な痙攣を繰り返す。イきそうな程の快楽を与えられ続けているのに、体の方がそれを拒絶するからだ。
「……随分辛そうだな、真央。尻を叩くよりは仕置きになったか?」
尻尾をこしゅこしゅ、さらに下着の上から秘部を弄られ、真央は返事を返す事も出来ない。
「まぁでも、真央の事だからな。この程度の仕置きじゃあ全然もの足りないんだろ?」
人のそれよりも大きく、敏感な耳が、父親の悪い笑みを拾う。ゾクゥッ――途端、真央は反射的に身震いをした。
(あぁ……父さま、また……意地悪なこと考えてる……)
不安と、それに伴う恐怖――そしてそれを上回る期待に“ゾクゾク”が最高潮に達する。その瞬間が、真央は堪らなく好きなのだった。
さてさて、我ながら困ったものだと、月彦は思う。
(本当はもっともっと焦らしてやりたかったんだが)
どうやら“時間切れ”らしい――尻尾を弄る手をそのまま真央の尻へと宛い、グニグニと揉みしだく。余程辛抱堪らなくなっているのだろう、真央は不安げに振り返るようにして、聞いているだけでゾクゾクするような切ない声を漏らした。
「真央、立て」
月彦の言葉が、余程意外だったのだろう。え、と躊躇いの声を漏らして尚、真央はしばしの逡巡の後、おずおずとベッドから下りて立ち上がった。
まさか、また“これで終わり”と言われるのでは――そんな不安に満ちた真央の目。一瞬、本当に終わりにしてみるのも面白いかもしれないと、そんな考えが思い浮かぶ。
(……できるワケがない)
しかし、実行に移せるわけはなかった。これほど美味そうな極上の牝を前にしておあずけが出来るほど、紺崎月彦という男は自制心溢れる男では無かった。
「机に手をついて、尻を上げろ」
そこまで命じられて漸く、真央は得心がいったとばかりに微かな安堵の表情を見せて、言われたままに手をつき、尻を上げる。勿論、“命令されて仕方なく”という演技も忘れない辺り、思わず苦笑を浮かべてしまいそうになる。
「あぁ……父さまぁ……」
早く――そう言いかけて、慌てて唇を噛んだような真央の仕草。言われるまでもないと、月彦はメス猫のように尻をつきだした真央の背後に立つ。その体つきは顔に似合わず大人びていて、こうして見下ろしているとうり二つとまではいかないまでも、やっぱり真狐の血を引いているなと思わされる。
(……似なくても良いところばかり、真狐に似やがって)
お陰でこのザマだ――月彦は己の体を見下ろし、ガチンガチンにそそり立ってしまっている分身を見て苦い笑いを浮かべざるを得ない。
由梨子との事が途中で終わってしまった――と、月彦は思っている――とはいえ、尻尾を弄って喘ぎ声を聞いているだけでここまでになってしまうとは。
(……悪いな、真央。もっと焦らして焦らして、気が狂いそうになるくらいおあずけしてやりたかったんだが)
肝心の月彦の方が真央を犯したくて堪らなくなってしまったのだった。そう、『この性悪狐に早く“仕置き”をしてやらねば』といきり立つ分身を抑えきれなくなったのだ。
既に、ヘソにめり込みそうな程に反ってしまっている剛直を、月彦はぐいぐいと真央の尻に擦りつける。真央がなんとも焦れったげな、ため息にも似た声を上げて自ら尻を振り出した。
月彦は真央の下着に手をかけ、態と二,三度指先を引っかけただけでぱちりとゴム部分を鳴らした。そんな簡単な焦らしですら、真央はもう辛抱たまらないとばかりに泣きそうな声を上げる。
くすりと、意地悪な笑みを一つ。そして一気に下着を膝下まで下ろすと、猛り狂った剛直を真央の秘裂に押しつけた。
「真央、勝手にイくなよ?」
「……と、父さま……ぃッ――……ァァァッっっっッ!」
囁くが早いか、剛直を一息に埋める。途端、真央が声にならない声を上げ、痙攣するように剛直を締め付けてきた。
一瞬、言いつけを破ってイッたのかと思ったが、それにしては鳴き方が不自然だった。第一、この締め方は真央がイくときの――そう、精液を残らず搾り取ろうとするようなあの動きではないと、瞬時に解った。
「ッ……はッ……はっ、ぁぁ……ぁ……」
びくっ、びくと体を跳ねさせながら、真央が不規則な呼吸を続ける。愛娘の体にそういった負担を強いているのが紛れもない、己が課した“制約”のせいであると解っていても、月彦には罪悪感など微塵も無かった。
(勝手にイくな、って言われるの……好きだろ、真央?)
月彦にはそれが解っている。そうやって制約を加えられ、自由にイけない状態で好き勝手に動かれ、気が狂わんばかりに喘がされる事を真央は望んでいるのだ。
(何より、俺の方も――)
真央にそういった制約を与え、我慢をさせればさせる程に、どういうわけか“具合”が良くなるのだから月彦としてもついそうしてしまうのだ。
(今だって……)
ヒクヒクと痙攣混じりに吸い付いてくる極上の媚肉。その至高の感触は元祖性悪狐こと真狐のそれを彷彿とさせ、尚かつ程よく“狭い”と感じさせる真央のそれは正しく月彦専用に作られた鞘のようなものだった。
(由梨ちゃんのもキツくていいんだけど……)
今のような気分の時は、真央の方が良いのだ。そう、相手の体の事など一切気遣わず、欲望のままに犯したい時などは、真央でなければ。
「っ……真央、動くぞ」
真央の腰をつかみ、月彦はゆっくりと抽送を開始する。散々焦らした結果、あふれんばかりの蜜によって潤滑油は申し分ない筈なのに、剛直の動きを追うように吸い付いてくる肉襞の感触に思わず呻き声を漏らしてしまいそうになる。
「ぁっい、……ぁあっ、ぁっ……ぁぁぁぁっ……!」
真央もまた、不自然に体を揺らしながらこれまた不自然な喘ぎ声を漏らす。月彦の経験上、あれだけ焦らした後は挿れただけで軽くイッてしまうであろう所を、言葉で無理矢理縛っているのだ。恐らくそのせいなのだろうが、勿論“解除”してやる気もなかった。
「真央、どうした……さっきからヒクヒクってしっぱなしだぞ? 何度も言うが、俺がいいと言うまでは勝手にイくなよ。もしイッたら――」
そこで“仕置き”は終わりだ――震える狐耳にそう囁きかけながら、月彦は徐々に動きを早めていく。腰から尻、真央の体をなで回すようにして、服の上からその巨乳を揉みしだく。
(あぁっ……くそっ……なんで、こんなにっ……)
そうして巨乳を揉みくちゃにしていると、ますます下半身に血が集結する。ごり、ごりと真央の奥を削るようにして腰をくねらせると、たちまち――
「ァァァあァッ!!! ひぁっ、ひっ……ひぃッ…………!!」
真央がたまりかねたように背を逸らすようにして悲鳴を上げる。そのくせ、下半身の方はつま先立ちまでして尻を押しつけるようにして深く挿入することを望むのだから、月彦は三度苦笑をしてしまう。
「あぁっ、あぁぁ……と、さまっぁ……そこっ……そこイイっ……イイのっ……もっと、もっとゴリゴリってシてぇえッ……!」
「……そんなに“良い”のか? “ココ”が」
確認を取るように、月彦は腰をくねらせ真央がねだってくる場所を刺激してやる。返事は、言葉ではなく耳を劈く嬌声によって返ってきた。
「そんなに“良い”のか。……じゃあ、そこには一切触れないようにした方が“仕置き”になるかな?」
そんな事を囁いて、月彦は腰を引くような素振りをする。えっ、と真央が慌てたように背後を振り返った刹那。
「……真央、一度だけイッてもいいぞ」
不意打ちのように囁き、ずぬっ……!と一際強く膣奥を小突く。
「と、父さまっ……ぁッァァァァァ………………ッ!!!」
忽ち、枷が外れたように膣内が収縮し、剛直が雑巾搾りでもされているかのように月彦は身動きがとれなくなる。
「……っ……ふっ……」
そうやって絡みついてくる肉襞を無理矢理振り払うようにして、月彦は抽送を続ける。
「ヤはァァァッ……! ひっ、ぁっ、やっ……と、さま……動かなっ……ぁぁぁぁッ!!!」
イッた側から敏感な粘膜を剛直に擦り上げられ、真央が悲鳴を上げながら俄に暴れる。その体を抱きしめるようにして押さえつけ、巨乳をぐいと鷲づかみにしたまま。
「ひァッ! ひぃっ……やっ、出て……ッ……」
どくりっ、どくりと。月彦は真央の子宮口目掛けて特濃の牡液を吐き出した。
「ぁっ、ぁっ。あああァアーーーーーーーーーーーッ!!!!」
その白濁のうねりを受けて、真央は一際甲高い声を上げ、さらなる射精をねだるように、ぎゅぬ、ぎゅぬと搾り取るように肉襞が絡みつかせてくる。ふぅ、ふぅと息を荒げながら、月彦はぎゅうと真央の体を抱きしめる。
「真央。……一回だけって言ったのに、勝手に二度イッたな?」
「ひっ……ご、ごめんなさい……父さま……だって……あぅぅッ……!」
言い訳無用、とばかりにぐりゅぐりゅと、真央の膣奥に剛直の先端を擦りつける。
「勝手にイッたら仕置きは終わり……そう言ったよな。って事は、真央はもうお仕置きは止めて欲しいってことか?」
ぐりゅ、ぐりゅと膣内をかき回すように腰をくねらせる。真央は答えに窮したのか、ただただ切なげな吐息を漏らしながら静かに首を振った。
「……まぁ、止めて欲しいと言われた所で、止める気なんか更々無いんだけどな」
グググ……と、射精して尚殆ど衰えていなかった剛直が、さらに固く、真央の膣内で反り始める。
「と、父さま……!?」
「由梨ちゃん相手じゃ……ダメだ。やっぱり本気になれない……でも、真央なら…………大丈夫だろう?」
むぎゅ、むぎゅと乳を捏ねながら、ぼそぼそと狐耳に囁きかける。
「このままこうして後ろから……何度も何度も……しつこいくらいに中出ししてやる。……後ろからされるの好きだろ、真央?」
何より、月彦自身、そうしたくてしたくて堪らないのだった。
しつこいくらい中出ししてやる――父親から囁かれたその言葉に、真央の心は文字通り震えた。
(あぁぁ……父さま、父さまぁぁ……!)
事実、真央は言葉の通りにされた。机に手を突き、立ったまま何度も何度も、背後から好き放題に突かれ、胸などは粘土でも捏ねるような荒々しい手つきで揉みくちゃにされ、最後は子宮を押し上げるように極太の肉柱を奥の奥まで突き上げられた。
どくりっ、と。注入される牡液は濃く、マグマのように熱かった。どくっ、どくと際限なく注ぎ込まれるそれは真央の牝としての本能を十二分に刺激し、至福の愉悦を伴って幾度と無く感極まった声を漏らした。
許容量を超えて尚打ち込まれる白濁は結合部から汚らしい音を立てて漏れだし、太股を伝い脹ら脛を伝い、ついには絨毯にまで落ちた。
そんな、まるで種付けのようなセックスが一体どれほど続いただろうか。永遠のように長くも感じられたし、一瞬の出来事のようにも思えた。勝手にイく事は許されず、唯一中出しをされた瞬間にだけイく事を許され、それまでの間はさんざんに責め立てられ、イけない苦痛に真央は喘いだが、その苦痛の時間が長ければ長い程、あとからやってくる絶頂が身も心も蕩けるほどに甘く強烈だった。
やがて立ってられない程に両足が震え出すと、尻尾を掴まれ無理矢理に立たされた。真央自身、父親にそういった扱いをされる事に身震いするほどの興奮を憶えてしまう。そう、即ちあの優しい月彦がそういった乱暴をしてしまう程に、自分に対して興奮してくれているというのが真央は嬉しくて堪らないのだ。
そして、真央には解っていた。そうやって肉人形同然のような扱いをされた後は、決まって――
「ふーっ…………ふーっ………………真央、反省……したか?」
全身から湯気を立ち上らせながら、ややぐったりともたれ掛かるように被さり、月彦が不意にそんな事を呟く。真央もまた、さんざんに喘がされ、月彦に尻尾を掴まれなければもはや両の足で立つ事も出来ないほどに消耗していたから、言葉ではなく微かに頷く事で返事を返した。
そうか、と月彦は呟き、そして真央の体を抱えるようにしてふらふらとベッドの端へと腰を下ろす。月彦の背中の向こうからは、控えめな由梨子の寝息が微かに聞こえた。
「本当に……反省したんだな? もう悪さはしないな?」
念を押すような月彦の物言いに、真央はクタクタながらも心を躍らせずにはいられなかった。そう、この流れは――真央が待ちに待ったものでもあったからだ。
「うん……もう、絶対しない…………」
縺れた舌でそう言って、真央は月彦にしがみつくような体勢になる。それを受けて、月彦もまた真央の背中、尻の方へと手をやり、自然と座位の形になった。
「約束だぞ、真央。本当の本当にもう悪さはしないな?」
うん、と真央は頷く。全身クタクタの筈なのに、“アレ”をしてもらえると思っただけで、沸々と元気が沸いてくるのだから不思議だった。
「……解った。真央が反省したのなら…………最後はいつもの“アレ”だ」
ぐいと、尻を掴んだ手に体が持ち上げられ、そして萎え知らずの剛直によって真央の体はゆっくりと下から貫かれる。
「あぁぁ……とう、さまぁぁ……ンッ……んちゅっ……ンンっ……」
ゆっくりと子宮を押し上げられるその感覚に堪らず、真央はキスをねだっていた。両手を月彦の後頭部へと回し、しがみつくようにして唇を合わせ、舌を絡める。
(あぁァ……父さま、好きっ……大好きぃぃっ…………!)
勿論、“お仕置きエッチ”は背筋がゾクゾクするほどに好きだ。しかしそれも、終わった後の“これ”の良さの前には霞んでしまう。
(残念だね、由梨ちゃん)
真央はちらりと、横目で由梨子の寝顔を一瞥した。あの程度の責めで失神してしまっている由梨子には、到底この良さは理解できないのだと思うと、積もり積もった嫉妬の念も多少は晴れた。
(父さまはね……怒った時もスゴいけど、その後優しくしてくれるときはもっとスゴいんだから)
恐らくは、そのことを知っているのは自分だけだろうと真央は思う。そう、自分だけが知る父親の本当の良さなのだ。この“自分だけが”という部分に、真央はすっかり酔いしれていた。
「ンはぁぁっ……はぁン……父さまぁ……あンっ……あンっ……ンぅっ……んっっ……んちゅっ、んっ……!」
ずっと“後ろから”で一度もキスが出来なかった。その分を埋め合わせるように、真央は何度も何度もキスをねだり、ねだりながら腰をくねらせる。
確かに、“後ろから”されるのは良い。特に、怒り狂った月彦に押し倒され、犯される時などは背後からされるのが最も興奮する。が、しかしその後は――。
「ぁっ、ぁっ、やっ……とう、さま……まだっ……もっと、いっぱいキスっ……キス、したいぃ……」
尻を掴む月彦の手によって、真央の体が上下に揺さぶられる。それが徐々に早まっていくのは、月彦がイきそうな時なのだ。
「キスならいつでも出来るだろ。……今は……もっと、真央のナカを味わいたい……」
荒い息混じりにそう言われては、真央としては反対も出来なかった。顔立ちの割には発達しすぎた巨乳を月彦の胸板に押しつけるようにして密着し、自ら腰をくねらせて月彦がイくのを助けた。
(父さま、いいよ……好きなときにイッて……父さまがイッたら……私も……)
中出しされれば、イく――そういう風に躾られた自分の体を、真央は誇らしくすら思う。それは、それだけの回数月彦に抱かれ続けたからなのだから。
「ふーっ……ふーっ……真央っ……真央っ……」
尻肉を痛い程につかまれ、月彦が一心不乱に真央の体を揺すってくる。
「あっ、ぁっ……父さまっ……あンっ……父さまっ、父さまァっ……!」
互いに息を荒げ、見つめ合い、そしてどちらとも無く唇を合わせる。
「………………ンぅぅうッ……!」
どくりっ……と、下腹の奥で弾けるものを感じて、真央は唇を合わせたまま小さく噎んだ。
立て続けに、どくり、どくりと。この父親にしては随分と消極的な勢いの射精が続く。それをもどかしい、あるいは物足りない――とは、真央は思わない。既に、それまでに十分すぎる量を注がれたからだ。
「ふーっ…………ふーっ…………悪い、真央……さすがに、少し疲れた…………」
月彦に抱きしめられたまま、ぱふんと二人、ベッドに倒れ込む。荒い息を整えながら、真央もまた月彦にしがみつくように身を寄せる。
(あぁ……父さま、大好き……)
最愛の父親の腕の中で、真央は静かに眠りに落ちていった。
翌日、またしても虐待を受けたネコの様な目をした由梨子を家へと送った後、月彦は霧亜の入院している病院へと足を運んだ。勿論、『着替えを持っていくように』という葛葉の言葉にしたがった迄であって、他意は一切無かった。
そう、あくまで事務的、義務的と言ってもいい行動。不本意であるが、命令を受けた以上は従うしかない――そんな、上官の命令に不服のある下士官のような心持ちで月彦は病院へと向かうわけだが、その足がはたと途中にあるコンビニの前で止まった。何のけなしに中を覗くと、立ち読みをしている客の合間から見覚えのある雑誌名が目についた。月彦の記憶が正しければ、それは姉が定期的に読んでいた女性週刊誌の最新号の筈だった。
(……まぁ、別に良いか)
何が良いのか月彦自身にも解らなかったが、気がついた時にはその雑誌を手に取り、レジで会計を済ませていた。
(……こんな物持って行っても、またゴミ箱に叩き込まれるのがオチだ)
我ながら馬鹿なことをしたと苦笑しながら、コンビニを後にする。やがて件の病院が見えてきたが、先日の様に頭痛や吐き気に悩まされるという事は無かった。
些か高鳴り出す胸の鼓動を抑えながら、月彦は姉の病室へと向かう。やや早足になってしまうのは、この不愉快な任務を早く終わらせて返りたいからに違いないと月彦は思った。
「……姉ちゃん、着替え持ってきた」
ドアの前に立ち、軽くノックをする。矢張りというべきか、霧亜からの返事は無かった。やむなくドアノブへと手を伸ばした刹那、月彦の脳裏に先日の病室で見た霧亜の微笑みがフラッシュバックする。
(……馬鹿な)
実際に目の当たりにした月彦自身、記憶を疑いたくなる様な内容だった――しかし、それは紛れもなく見た光景なのだ。
(……あれは、例外だ)
何を期待しているんだ、月彦――高鳴る動悸に唇を噛みながら、月彦は震える手でドアノブを捻る。
「………………姉ちゃん?」
恐る恐る病室内へと入った月彦を迎えたのは、蛻の殻になったベッドだった。まさか、勝手に退院したのでは――という危惧は、ベッドの回りに僅かに残された私物によって否定された。
「……散歩でも行ってんのかな」
落胆したような、安堵したような、不思議な気分に苦笑しながら、月彦はベッドの側に着替えの入った紙袋を置き、コンビニで買った雑誌はベッドの枕元へと置いた。
「……まぁ、顔合わせない方がいいか」
さすがにそこまではしないとは思いたいが、あの姉の事だ。弟が持ってきたと知るや、着替えが汚れたと焼却処分するかもしれない。
(……帰るか)
このままグズグズと部屋に居残っているのも女々しい気がして、月彦はそうそうに病室を後にした。病室を出た後、あえて往路とは違うルートを通って一階へと下りたが、これも別段理由があっての事ではなかった。そちらから一階へと下りる事で、正面玄関へと抜ける廊下の途中で病院の中庭が一望でき、ひなたぼっこ中の入院患者や見舞客を見る事が出来たりするわけなのだが、それらも全くの偶然が産んだ副産物に過ぎなかった。
(……居ない、か)
捜した所でどうとなるわけでもないのだが、つい目を走らせてしまった。が、霧亜らしい人影は発見出来なかった。考えてみれば、あの姉が衆目の中でひなたぼっこしたり、にこやかに他の入院患者と歓談するわけがないのだ。そんな明らかに姉らしくない行動を密かに期待してしまったのは、ひょっとしたら先日垣間見た“夢”のせいかもしれなかった。
(……姉ちゃんだもんなぁ)
恐らく今頃は人知れず屋上の日陰などで一服しているか、或いはその手管で件の看護婦を喘がせているのだろう。それこそ姉らしい行動だと奇妙な納得を憶えながら、月彦が潔く正面玄関へと向かって足を踏み出した――その時だった。
「…………ッ……姉ちゃん!?」
中庭の方にばかり気を取られ、前方への注意を完全に怠っていた月彦は、突然視界に入ってきた姉の姿に、思わず足を止めた。。
(何……してるんだ?)
どうやら、霧亜の方はまだこちらには気がついていないらしかった。パジャマ姿に松葉杖をついて、先ほどまで月彦が見ていた中庭とは真逆の方をしきりに見ていた。まるで、“何か”を捜しているかのように。
月彦はそろり、そろりと近づき、そして漸く霧亜が見ているらしい“もの”を確認した。
(保育所……か?)
入院患者用か、はたまた見舞客用か。学校の教室ほどの広さの部屋の中では、所狭しと十人弱の幼児が遊び回っていた。
ほう、と月彦が思ったのは、自分の仮説が正しかった事を確認したからだった。
(……やっぱ姉ちゃん、子供には――)
優しいのだ。“あの時”の霧亜はあまりに現実離れをし過ぎていて、ひょっとしたら頭を強打した自分の夢だったのではないかと半ば疑いすらしたが、やはり現実だったのだ。
(そっか、…………やっぱり嫌われてるのは俺だけって事か)
姉の人間らしい一面が確認できて嬉しい反面、どうしようもない程に深い霧亜との間に走った亀裂を再確認して、月彦は複雑な面持ちになる。
今度こそ帰ろう――そう思って、月彦は忍び足で霧亜の後ろを通り過ぎる。幸い、霧亜は保育所の子供達に完全に目を奪われていて、月彦の存在には全く気がついていないらしかった。
――が。
「…………月彦?」
背後から聞こえた怪訝そうな声にハッと振り返ると、バッチリ霧亜と目が合ってしまった。先ほどまでとはうってかわった、それこそ汚い物でも見るような――具体例を挙げるならば、ゴキブリの死骸でも見るような目で睨み付けられ、月彦は思わず後退ってしまった。
「……………………。」
何しに来たのか?――という様な事は、霧亜は言わない。先日喧嘩別れした際に言うべき事は全て言った、と言わんばかりに無言で刺すような視線を向けてくる。そう、無言ではあるが、その視線が口以上に言葉を語っていた。
「……し、仕方ねえだろ! 母さんが、着替え持っていけって……だから、俺も来たくなかったけど…………」
無言のプレッシャーに堪えかねて、月彦は吐き捨てる様に言って踵を返す。そのまま走るようにして病院を後にする筈――だったのだが。
「月彦、」
霧亜に呼び止められた。
「子供、見なかった?」
「子供?」
意外すぎる霧亜の言葉に軽い混乱に陥りながらも、子供ならそこに沢山いるだろうとばかりに月彦はちらりと保育所に目をやる。
「ここには居ないみたいなのよ。……そうね、年は五才くらいの男の子で、丁度昔のアンタみたいな格好した――」
どんっ、という衝撃が、不意に霧亜の言葉を止めた。衝撃の正体は、中庭の方から走り込んできた元気一杯の男の子だった。これまた幼月彦に負けず劣らずの前方不注意っぷりで勢いよくギブスで固められた霧亜の足へと衝突し、盛大に尻餅をつくや泣き出してしまった。
「あちゃー……おい、大丈夫か?」
奇妙な既視感を憶えながら、月彦は尻餅をついたままわんわん泣いている男の子の側に膝を突いた。こら、泣くな。男の子だろ?――的なお決まりの文句で慰めにかかっていると、泣かせた(?)張本人である霧亜がずいと、男児の顔を覗き込んできた。
が、まさに一瞥という言葉通りにふいと視線を逸らすや、そのまま松葉杖を突きながら歩き出した。
慌てたのは月彦だ。
「お、おい! ちょっ……姉ちゃん!?」
子供が泣いてるんだぞ?――そう言外に含めて、月彦は呼び止めた。おかしい、霧亜が子供好きであれば、ここは優しい言葉をかけて然るべきではないのか。
「何よ」
「何よじゃねえって! 子供泣かせといて放っとく気かよ!」
「私が捜してるのはその子じゃないわ」
足も止めずにそう言って、霧亜はそのまま廊下の奥へと消えた。やがて泣き声を聞きつけてやってきた看護婦や保母に適当に事情をはぐらかしながら、はてと月彦は思う。
(……何だ……一体どういう事だ……?)
姉は、子供好きだと思っていた。しかし子供好きであれば、泣きじゃくる幼児を無視して放置したりするだろうか。
(まさか……俺の前だからか――)
軽蔑する弟の前だから、プライドが邪魔をして慰めてやりたくても出来ないのではないのか。
(或いは――)
もう一つの可能性を思案して、そのあまりのばかばかしさに月彦は即座に首を振って打ち消した。
やはり、自分が居たからいけなかったのだ。そうに違いない――月彦は幼児を看護婦と保母に任せて、一人病院を後にするのだった。
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