その日、宮本由梨子は珍しく長風呂をしていた。
 意図的なものではなく、少々考え事をしていたら、そうなってしまっただけの事だった。
 勿論、昔はどうあれ、今の由梨子がそれほどまでに思い悩む事柄といえば、大凡一つに決まっていた。
(……先輩、どうしたんだろう……)
 湯船に肩まで浸かりながら、由梨子は小さくため息をつく。
 最近、月彦から声がかかることがめっきり減ってしまったのだ。その代わり、とでもいうかのように、休日になるとやたらと真央から遊びの誘いがかかるようになった。
 単純に考えれば、あくまで級友と遊びたいだけの真央に気兼ねして、月彦が誘いを自重しているだけ、という事になる。――邪推をするならば、自分と月彦との関係に疑念を持った真央が、二人が会う時間を作らないために先手を打ってきているのではないかと、そういう結論になる。
(大丈夫……バレてない……)
 少なくとも、そんなに致命的なヘマはしていないはずだ。とはいえ、真央には何処か超感覚的な異様なカンの鋭さがあるから、安心は出来ない。
 ちゃぷっ……そんな水音を立てて、由梨子は無意識のうちに自分の肌を撫でる。十代の肉体は、恐らく日に日に成長しているのであろうが、身近にいる級友があまりにも規格外なプロポーションのためか、水面の向こうにある自分の体が酷く貧相なものに思えてならない。
(昔は……そんな事、気にもしなかったのに……)
 町中でグラマーな女性を見かけても、そういう人も居るのだ、と。個性は人それぞれであると、割り切って考えていた。しかし今は、どうすれば真央の様になれるかと、そういう事ばかり考えてしまう。
 勿論、真央が月彦にとっての一番であるのは、単純にプロポーションによるものではないという事は解っている。しかし、その点において自分が真央に劣っている事は間違い無いのだ。
 それほど長い付き合いというわけではないが、由梨子も由梨子なりに月彦の好みというものをそれとなく察してはいた。
 月彦は、巨乳が好きなのだ。――そして自分は、そうではない。
(嫌だ……私、また……真央さんを出し抜く事を考えてる……)
 一番は真央に譲る、自分は二番でいいと、月彦にそう言った筈なのに。気がつくと、どうすれば月彦の一番になれるか――そればかりを考えている自分が居る。
 強欲だ――と、胸の内で誰かが囁く。それに対して、別の誰かが反論をする。好きな人に一番想って貰える様、考え努力する事の何が悪いのかと。
(ダメ……分相応って言葉が……ある……)
 二番で良いのだ。一番を狙って、二番の地位すら失うくらいなら、永遠に二番で良い。それが、概ね由梨子の持論だった。
(でも、もし――)
 何かの巡り合わせで、一番を狙えるような機会が舞い込んできたとしたら。自分はそれでも二番のままで良いと思い続ける事が出来るだろうか。一か八かを絶対に狙わないと言えるだろうか。
「……ふふっ、私……何を考えてるんでしょうね、先輩……」
 つい、独り言を漏らしてしまう。そんな、来るかどうかすらも解らないチャンスの事など考えて一体何になるというのだろうか。取らぬ狸の皮算用とはまさにこの事、いい加減頭ものぼせてきたという事だろうか。
 湯船から上がり、バスタオルで体を拭く。髪を乾かして脱衣所を出る際、風呂が長すぎると弟に嫌味を言われたが、生返事しか返さなかった。どうやら彼女と頗る巧くいっているらしい弟に、少しばかり嫉妬をしているのかもしれなかった。
 自室に戻るなり、すぐに編み物を再開しようとしたが、思いの外体が温まり過ぎてしまったらしく、じっとしていると汗が噴き出しそうだった。
 由梨子はエアコンを切り、少し窓を開けて換気をすることにした。ガラス戸を開けるなり、ひゅうと、夜の寒気が舞い込んできて、火照った肌にはそれが何とも心地よかった。
(夜空……か……)
 冬の夜空は空気が澄んででもいるのか、夏場のそれよりも綺麗に見えた。特に星座に詳しいわけでもないから、そうして眺めていても特別面白い事など何も無い筈なのだが、今夜に限って、由梨子は自分でも奇妙な程に目を凝らしてしまう。
 そう、まるで何かを捜すかのように。
 しかし、何もかもがそうそう巧く行くはずもない。十分ほどそうして目を凝らし続けても、捜し物など見つかる筈もなく。由梨子の体の方が冬の寒気に堪えられなくなってくる。
 いい加減窓を閉めねば、また風邪をひいてしまうかもしれない――由梨子が諦め気味に窓を閉めようとした瞬間、視界の端で、何か白いものが動いた。
「あっ……」
 由梨子は窓ガラスから手を離し、慌てて指を組んだ。そして、ほんの瞬きほどの間だけ光ったそれに向けて、三度、願いをかける。目を瞑り、ぎゅうと両手の指に力を込め、強く、強く願った。
 しばしそうして、恐る恐る目を開けた夜空には、当然流れ星の跡など残っている筈もない。自分が見たのが見間違いでなかった事を祈りながら、由梨子は再度、そして今度こそ窓を閉めた。
(……こんな事で、叶うわけなんか、ないのに)
 たった今までの自分の行動に苦笑が漏れそうになる。この年にもなって流れ星に願いをかけたなど、他人に知られでもすればいい物笑いの種だ。
 そのくせ、肝心の願い事の方はといえば、到底叶いそうもない事をさけた、ひどくささやかなものなのだから、二重にみっともないとも言えた。せめて世界平和でも願っていれば、ある意味体裁を保てたかもしれないのに。
(先輩の一番になりたいなんて、そんな大それたことは言いません、ただ――)
 ただ――由梨子は左手に巻いた時計を右手で握りしめ、目を瞑り、再度、願う。
(願わくば……聖夜を、先輩と二人で……)
 閉めた窓の向こう、まるで“何か”が由梨子の願いに応えるかのように、ちらりと。夜空に白い光が走った。


 
 


 

『キツネツキ』

第二十五話

 

 

「母さん。あたし、クリスマスは友達とスキーに行くから、前後二、三日家を空けるわ」
 その日は珍しく霧亜を含めたフルメンバーが食卓に揃っての夕食だった。食事そのものは和やかに進み、一番先に食事を終えた霧亜がそう言い残して席を立って尚、月彦はああいつものことだな、としか思わなかった。
 その後に続いた、葛葉の「困ったわぁ……」の一言さえ無ければ。
「……困ったって……姉ちゃんが居なくて困る事なんかあるの?」
 何となく、嫌な予感を感じながらも、月彦は聞かずにはいられなかった。聞かなければ、後日もっと困ったことになりそうな気がしたからだ。
「実はね、母さんも知り合いから旅行に誘われてるの。二十四日のお昼から二十七日までの三泊四日の温泉旅行なんだけど」
「そんなの、行ってくればいいだろ? 別に俺も真央も止めたりなんかしないよ」
「でも、霧亜も居ないのに私まで旅行に行っちゃったら、家には月彦と真央ちゃんだけになっちゃうでしょ? 四日間も二人きりで大丈夫?」
「大丈夫も何も……」
 そもそも、葛葉が言っていることはおかしい、と月彦は思う。葛葉の言い方ではまるで、月彦と真央二人だけだと心配で、霧亜を含めた三人であれば安心して出かけられるという意味に聞こえてしまう。
(姉ちゃん一人家に残ったからって、一体何が変わるっていうんだ)
 霧亜が自分に代わって炊事洗濯をしてくれるとでも思っているのだろうか。少なくとも月彦は、霧亜がそういった家事の手伝いをしている所など殆ど見たことが無かった。
「俺だって、自分の事くらいは自分で出来るし、第一、二十四日の昼で学校も終わりだから、母さんが旅行に行ってる間くらいどうとでもなるよ」
「そう? 月彦がそう言うなら、母さん旅行行っちゃおうかしら」
「それが良いと思うよ。母さんにはほんと、いつも世話になってるから、たまの旅行くらい楽しんできてもらわないと」
 なぁ真央?――話をふると、真央もこくりと頷いた。
「うん、私もいっぱい父さまの手伝いするから、義母さまは心配しないで」
「あらあら、真央ちゃんまで。……ふふっ、じゃあ二人ともお留守番お願いね?」
「任せといて」
 月彦は快諾するが、一抹の不安――気がかりはあった。それは、葛葉が温泉旅行行きを決めるなり、隣の真央の方からただならぬオーラが発せられ始めたからだ。
「……そっか、じゃあ……クリスマスは父さまと二人きりなんだ」
 ぼそりと、まるで独り言の様に呟かれたその言葉に、月彦は背筋に冷たいものを感じるのだった。
 


 クリスマス――そう、言わずもがな、十二月の二十五日を指して呼ばれる単語だ。これまでも大して気に止めていなかったせいか、月彦自身、夕飯の際に霧亜が口にしなければ、今がそういう時期であるという事すら気がつかなかった。
(……ていうか、むしろまだ過ぎて無かったんだな……クリスマス……)
 今年の冬は例年になく長く感じるのは気のせいだろうか。初雪が降ってから、もう半年近くは経っているような錯覚すら覚える。
(成る程、道理で真央が編み物なんかに手を出す筈だ……)
 月彦はちらり、と部屋の端。ベッドと壁の隙間にこっそりと置かれている紙袋(真央は隠しているつもりらしい)に目をやる。中身は、真央が制作中の毛糸のセーターだ。
(俺用……なんだろうなぁ、これは……多分……)
 月彦はそっと紙袋に手を伸ばし、既に七割方出来上がっているらしいセーターを取り出す。白の生地に胸に大きくピンクのハートマークが描かれ、その下に同じくピンクのアルファベットで“love”と書かれている。
(……貰ったら、これを着なきゃならんのか……)
 とりあえずセーターらしい形はしているものの、左袖よりも三割増しの右袖などはなかなかエキセントリックなセンスが迸っていると言わざるを得ない。右腕に伸縮自在の寄生生物でも居れば、きっと良く似合ったのであろうが、生憎月彦の右手は生身のままだった。
(しかも、なんで前面だけ白で、背面はきつね色なんだ……?)
 そして何故袖の肘から先だけが黒いのだろう――疑問が尽きることなく湧き出てくる不思議なセーターだった。きっと暇な哲学者あたりに見せれば、何か面白い答えが聞けるのかもしれないが、これまた月彦にそんな知り合いは皆無だった。
「おっと、真央が風呂から上がったか」
 トトトトトッ……そんな軽快な足音が階段を駆け上がってくる。月彦は慌ててセーターを紙袋の中に戻し、さも雑誌を読んでいたとでもいうような風体を取る。
「お待たせ、父さま」
「おう、真央。何もされなかったか?」
「うん。姉さまは優しく体を洗ってくれたよ?」
「そうか、ならいいんだが……油断はするなよ?」
 ぴったりと身を寄せるようにしてベッドに座り、早速その巨乳をぎゅうと押しつけてくる。
「ねぇ、父さま……もうすぐクリスマスなんだよね?」
「あ、あぁ……そうだな」
「クリスマスは……二人きりなんだよね?」
「そういうことになるな」
 遺憾ながら――と、語尾につけたくなるのは何故だろうか。
(ていうか、なんで既にそんなに息が荒いんだ、真央……)
 フーッ、フーッ……まるで血の滴る獲物を前にして興奮を隠せない肉食獣のようななま暖かい吐息が先ほどから首筋にかかりっぱなしなのだ。
「そ、そうだ真央……折角だから、白耀と菖蒲さんを呼んで四人でわいわい仲良く騒ぐっていうのはどうだ?」
「嫌」
 月彦の提案は、即刻切り捨てられた。
「折角父さまと二人きりなのに、どうして兄さま達を呼ばなきゃいけないの?」
「それは……く、クリスマスだぞ? みんなで騒いだ方が楽しいに決まってるじゃないか」
「絶対、嫌。父さまと二人きりがいいの」
 ちゅっ、ちゅっ、ちう……首筋に吸い付く様なキスをされる。ああ、もうどうにもならないんだな――月彦が観念するように、真央に押し倒されたその時だった。
「ちーーーーっす、サンタですけどー、プレゼント如何っすかー!」
 突然ぐわらっ、と。部屋の窓を開けて何か赤いものが転がり込んできた。
「な、なななな何だ!?」
 真央と二人、ベッドの上で後ずさるようにして辛くも身構えるも、部屋の中央で無様に転んでいる人影を見るなり、警戒心というものが一気に薄れていく。
「あいたいたた……ったくもー……机の上くらいちゃんと片づけておきなさいよね……」
 泣きそうな声を上げ、鼻をさすりながら立ち上がった人物は、赤い帽子に赤い服、白いタップリのヒゲと大きな袋を持った、どこからどう見ても――。
「おい真狐、何やってんだ?」
 ひどく冷ややかな目と声で、月彦は言い放った。
「うっ……この変装を一目で見破るなんて……目が肥えたわね、月彦」
「だってなぁ……?」
「……うん」
 真央と二人、頷きあいながら改めて真狐の格好を見る。確かに、付けヒゲといい、赤い服といい、ざーとらしいくらいにサンタクロースなのだが。
「そんなに太股を出したじーさんが何処にいるんだよ」
「ふん、悪かったわね。これしか手に入らなかったのよ」
 ぺりぺりと、恐らく粘着テープかなにかで貼り付けていたらしい白ヒゲを外しながら、真狐が不満たらたらといった顔をする。白髭の無くなったその格好はもう完全に、年末ケーキ屋の前でサンタの格好をして客引きをしているミニスカサンタ娘そのままだった。
(しかし、まぁ……これはこれで……)
 じゅるりと。うっかりすれば涎を零してしまいそうになる。サンタ服ミニスカバージョンはこれまた真狐のスタイルに良く似合っており、恥知らずな巨乳は露わにこそなってないまでも、たっぷりとしたその質量はサンタ服の上からでもありありと解る。
「ってぇ! こ、こら! 真央っ、抓るな!」
 じろじろと舐める様に真狐の体を見ていたからだろう。いきなり真央が太股を抓ってきて、月彦は悲鳴を上げながら真央の手をはね除ける。
「……母さまの方ばっかり、見ないで」
 折角の甘い一時に水を差された恨みも相まってか、いつになく、真央はぶすーっと頬を膨らませる。
「いやな、別に俺は見とれてたわけじゃなくてな……そ、そうだ真狐! お前には言いたいことが山ほどあるんだ、今日という今日は――」
「はーい、悪いけど、こっちの用件が先ね。まずはぁ、月彦に……はい、プレゼント」
 ごそごそと、袋を漁って真狐が取り出したのは、黒い丸薬がつまった小瓶だった。
「……なんだこりゃ」
「避妊薬よ。男性用の」
「……何で俺がそんなモン貰わなきゃならんのだ?」
「だって、必要でしょ?」
 ニヤニヤと、意味深な笑みを浮かべる真狐に、うぐと唸る事しか出来ない。
(こいつ……何処まで知ってやがるんだ……)
 由梨子から聞いた話では、どうやら自分と由梨子との関係についてはそこはかとなく知っている様なのだが、どうやら真央にそのことを漏らす気はないらしい。そうでなければ、今頃とっくに由梨子との浮気は真央の知るところになっている筈だ。
「……ま、まぁ……そうだな。真央もいつ生理が始まるかわからないしな」
 じぃーっ、と疑惑の目を向けてくる真央にそのように言い訳をしながら、月彦は渋々避妊薬を受け取る。
(つっても、これが本当に避妊薬かどうか、それがまず怪しいけどな)
 この女の事だ。避妊どころか、精子の活動を活発化してより妊娠率を高める薬である可能性も否めない。
「でぇ、次ははい、真央にもプレゼント」
「……? 母さま、これは……?」
 てっきり、流れから真央には強力な媚薬の類でも渡されるのかと思いきや、真狐が取り出し手渡したのは一枚の紙だった。
「何って、願書よ。国暇延長手形発効の願書。まあ要するに、今年は人間様の荒波に揉まれながらも悪いことは何一つせず、無事に過ごしました。来年も同じように過ごしたいのでよろしくお願いします〜っていう旨をお役所に伝えて、許可証貰うための願書」
「……なんだそりゃ。随分と面倒くさそうな代物だな……」
「真央、あんたも最初に里を出る時似た様な誓約書書いて手形貰ったでしょ?」
「うん、書いたけど……」
「あんたが来年も月彦と一緒に暮らしたいのなら、さっさとこれを書いて年内のうちにどっかの里のお役所に届けないと、大変な事になるわよ」
「大変な事って……どうなるんだ?」
「人間の社会と一緒よ。あんたたち、“不法入国者”を見つけたら、どうしてる? 真央の場合は“不法出国者”になるわけだけど、結果は似た様なものね」
「……連れ戻される、って事か」
「そういう事ね。百年前とかはこんな面倒な手続きなんか一切無かったんだけど、人間にかぶれたどっかのバカが始めた事よ。まあ紙切れ一枚提出するだけで来年一杯は安泰なんだから、ちゃちゃっと書いて出しちゃいなさい」
 やれやれ、とばかりに真狐は机に腰を下ろす。きちんと椅子に座れば良いのに、必ず決まって机に腰掛けるものだから、月彦としては尚更真狐の方に――特に胸元と、組まれた脚のほうへと目が吸い寄せられてしまう。
「……にしても、意外だな」
「何がよ」
「お前が、こんなもんわざわざ持ってきたことがだよ。そういう“人間みたいな真似”は嫌いなんじゃなかったのか?」
「そりゃあ嫌いよ。現にあたしはそんなもん出した事ないし、出す気も無いわ。でもね、真央の場合、出すしか無いでしょ」
「まぁ、そう……なるかな」
 暗に、真狐は言っているのだ。自分一人ならば、何者かが連れ戻しにきたところで返り討ちに出来るが、真央には無理、と。
「母さま、これ……今すぐ書かなきゃいけないの?」
「年内に出せるなら、別にいつ書いたっていいわよ? ただ、二十六日の夕方には役所が仕事納めになっちゃうから、事実上の締め切りは二十六日の夕方って事ね」
「二十六日……ってことはギリギリクリスマスの後か……」
 当然、真狐が言っている“役所”というのは人の世のそれではない、妖狐の社会でのそれのことだろう。
「ちなみに、郵送は不可。必ず本人が提出しないとダメらしいわよ。面接とか色々面倒くさそうな手続きもてんこ盛りね。特にあんたの場合、あたしの事をいろいろ聞かれるだろうから、長引くと思った方がいいわね。まー、さすがにあんた自身が悪さしたわけじゃないから、手形が発効されないって事は無いと思うけど、最悪の場合それも覚悟しといたほうがいいかもね」
 けらけらけら。まるで人ごとの様に真狐は笑う。
「待って、母さま。二十六日までに何処かの里のお役所に提出……でしょ?」
 それって――真央が口を噤み、みるみる青ざめる。
「なんだ、真央。どうしたんだ?」
「この辺りで唯一、役所があるくらい発展してた里がさー、今年“ある事件”で消滅しちゃったじゃない? ってことは、どこか役所が在る里まで遠出をしないといけないってワケ。そうねぇ、真央の足なら頑張って片道四日って所じゃないかしら?」
「片道四日……って事は……」
「明日出発したとしても、帰ってくるのは二十七日って所かしらね。何かの審査で引っかかりでもしたら、さらに延びるわけだけど、まあ良いじゃない、締め切りには十分間に合うんだから」
 良かった、これで万事解決とばかりに真狐は頷く。
「なぁに? 暗い顔して。まさか、二十五日になにか予定でも入ってたの?」
 そして、何とも態とらしく、娘の青ざめた顔を見てそんな言葉を漏らす。
「予定……って程のモンじゃないが……まあ、俺たちはその、二人きりでだな……」
「良いじゃない、別に。しょっちゅう二人きりになってるんだから」
 けらけらと、何がおかしいのかと尋ねたくなるくらいに真狐はよく笑う。
「……しっかし、普通そういうのって役所の方から通知が来るもんじゃないのか? 何もこんなギリギリになって……」
 少なくとも人の社会であれば、年内に提出せねばならない書類があれば、その旨を知らせる通知が来るものだ。
「普通は来るわよ。でも真央、あんたこっちで住む場所が決まってから、住所登録しにいってないでしょ?」
 真央が、控えめに頷く。確かに、住所が解らなければ通知が来る筈も無いだろう。
「良かったわねー、あたしが気がつかなかったら、来月には強制送還になってた所よ? しっかり感謝しなさいよね」
「……で、でも……どうして、もっと早く教えてくれなかったの?」
「何言ってるのよ。この格好を見なさいよ、本当ならきっかり二十五日に持ってくるつもりだったのよ? でもそれじゃあ間に合わないから、予定を繰り上げて持ってきてあげたんじゃない」
 心外だわ、と今度はプンスカ怒り出す。
(……はて?)
 どうにも、真狐の様子が変であると、月彦は不意に思う。何が変であるか、具体的には解らないのだが、とにもかくにも“何か”が引っかかるのだ。
(良く笑うのはいつもの事なんだが……)
 しかし今日に限ってどうにも引っかかるのだ。
(そもそも、真央には甘いこいつが、真央が楽しみにしているクリスマスを潰す様な真似をするもんなのか?)
 たまにはそういうこともあるだろう、とも思える。何せこいつは真狐だ。人の嫌がる事をするのが何より楽しみ、生き甲斐というどうしようもない奴なのだ。その対象に真央が選ばれたからといって、何の不思議があるだろうか。現に実の息子の白耀でさえ酷い目にあっているではないか。
「ねぇ、母さま……」
「なぁに?」
「母さまに……代わりに出してもらうのは……ダメ?」
 うるうると両目にいっぱいの涙を溜めての、真央のおねだり。勿論、真央に化けて、という意味なのであろうが、もしねだられているのが月彦であれば、二つ返事でOKしてしまいそうな程に、強制力を持ったおねだりだ。
 しかし、さすがにそれも真狐には通じないのではないかと、月彦は思う。
「いいわよ、別に」
「いいのか!?」
 てっきり断るだろう、と思っていた月彦は、真狐の返事に逆に驚いた。
「ただ、あたしってそういうカタいの苦手だからさー。途中でキレて大暴れしちゃうかもしれないけど、それでもいいなら行ってあげるわよ?」
 勿論、良い筈などは無い。性悪笑み混じりにそう言われては、真央はもう尻尾までしゅんと萎れさせるしかなかった。
「真狐、本当に何とかならないのか?」
「無理なんじゃない?」
「お前がちょっと我慢すれば済む話だろ」
「イヤよ。なんであたしが真央のためにそこまで骨折らなきゃいけないのよ」
「なんでって……お前は真央の母親だろ?」
「だから、ちゃんと願書持ってきてあげたじゃない」
「それにしたって、もうちょっと早く持ってくれば、何の問題も無かったんだ」
「あーあー、やだやだ。たまに親切をするとこれだわ、どうしてあたしが文句言われなきゃいけないのよ」
 付き合ってらんない――そう残して、真狐はするりと窓から外へと飛び出していく。
「あっ、こらっ、待て! まだ話は――」
 しかし、月彦が後を追おうと窓から身を乗り出した時には、既に遠くの家の屋根の上を駆けていく犬の様な影がちらりと見えただけだった。到底、人の足で追えるような相手ではない。
「ったく、あいつはいつも面倒ばかり背負い込ませて、自分はさっさと逃げやがる……白耀の分の文句だって、まだ言ってねぇのに」
 真狐が来た時様にと、机の引き出しに入れておいた食塩をぱっ、ぱと屋根の上に撒いて、月彦は窓を閉める。ベッドに視線を戻すと、この世の終わりのような顔をした真央が願書を握りしめて茫然自失としていた。
「ま、真央……大丈夫か?」
「父さま……どうしよう……私、私……」
「だーっ、泣くな、泣くな真央! たかがクリスマスだ、そうだろ?」
「でも、でもぉ……せっかく、父さまと二人きりで……ふぇぇぇ……」
 ああ、ダメだ……“一線”を越えてしまった。よしよし、と月彦は真央の背中を撫でながら、必死に泣く子をあやす。
(しかし、よっぽど楽しみにしてたんだな……)
 せめてもの救いは、“クリスマスは二人きり”という事になってまだ間もない頃に告知されたという事だろうか。否、それでも真央には十分過ぎる程にショックなのだろうが。
 そして、月彦は気がつく。クリスマスを真央と二人きりで過ごす事が無理になったばかりだというのに、さほど気落ちをしていない自分に。確かに、全くガッカリしていないと言えば嘘にはなるが、真央のように泣くほどショックというわけでもない。
 それが何故であるか、この時の月彦には解らなかった。少なくとも、自覚は無かった。
「……真央、少しは落ち着いたか?」
 えぐえぐと嗚咽を漏らしていた真央が、少し呼吸を整えるような息づかいに代わり、月彦は優しく声をかける。
「願書の件はしょうがない。真狐の言い方は腹立つが、出さなきゃ一緒に居られなくなるんだろ?」
「……うん」
 ぐしぐしと、パジャマの袖で涙を拭きながら、真央は頷く。
「だったら、行かなきゃな。クリスマスは、真央が帰ってきてから、二人でやり直せばいい」
「やり直す……?」
「ああ。勿論二人だけで……な。さすがに家には母さんか姉ちゃんが居るだろうから……どこか、二人で泊まりがけの旅行とか、な」
 勿論、二人で何処かに泊まりに行くような金などは持ち合わせていないから、その資金をどうにかして捻出する所から始めねばならないだろう。
「学校も休みになるし、まず二人でバイトでもして金を貯めるのもいいかもな。クリスマスは無理でも、年末年始って手もあるし。よっぽど不人気な所じゃなきゃ予約で一杯だろうが……」
「私、父さまと一緒なら、どんな所でもいいよ?」
「俺もだ。だから真央、きちんと書いて、出しにいってくるんだぞ?」
 明日から学校は休む羽目になるが、この際であるから仕方がない。何らかのトラブルで提出が遅れてしまえばそれまでなのだから。
 もぞもぞと、なにやら真央が手を這わせてくる。いつの間にかすっかり泣きやみ、ぐいぐいと押し倒そうとしてくる真央の動きに、苦笑を漏らしてしまいそうになる。
「どうした? 真央」
 月彦も、全てを解った上で、そんな事を尋ねてみる。真央はもう、吐息を乱しながら、ずずいっと、月彦を完全にベッドの上に押し倒し、跨る形だ。
「あの、ね……明日から……しばらく、出来ないでしょ? だから……」
「わかった、今夜の内にたっぷりシたいんだろ?」
 うん、と控えめに頷く真央を抱き寄せて、唇を重ねる。そしてその日は、いつになく激しく、濃い夜となった。
 


 

 翌朝、月彦が学校へと行くのとほぼ同時刻に、真央は出発することになった。勿論、葛葉には事情を話し、学校を休む許しも得た。
「なぁ、真央。俺、考えたんだが……」
 玄関先で靴を履いている真央に、月彦はふと自分の思いつきを口にした。
「その里へ行くのって、電車とか飛行機とか使って近道とか出来ないのか?」
 真狐は“真央の足では片道四日”と言った。ならば、乗り物を使えばもう少し時間が短縮できるのではと思ったのだ。
 しかし、真央は静かに首を振る。
「ダメなの、父さま。こっちから里に行く時は、秘境を通らなきゃいけないから、そこを越えるのにどうしても時間がかかっちゃうの」
「秘境……か。じゃあしょうがないか……」
 月彦としては、何かと真央の話に出てくるその秘境とやらにはどうやったら行けるのか、甚だ気になる所だったが、朝の忙しい時間帯にのんびりと話し込むゆとりはなかった。
「一人で大丈夫か? やっぱり俺もついていったほうがいいんじゃないか?」
「ううん、大丈夫。それに、多分父さまと一緒だと、四日じゃあ着けなくなっちゃうし……」
 父さま、“人間”だから――意味深な呟きだったが、月彦としては納得せざるをえなかった。そう、人に似た形はしているが、真央はあくまで半妖、妖狐なのだ。
「そっか。……ちなみに、ずっと歩きなのか?」
「ううん、まずはバスに乗って狐美姫峠に行くの。この辺りからだと、あそこからが一番近いから」
「狐美姫峠……」
 月彦にしてみれば、忌まわしい因縁の土地と言えなくもない場所だった。その名を聞くだけで、微かだが震えに襲われる。
「解った。じゃあ、バス停までは見送らないとな」
 真央と二人、近場のバス停でバスを待つ。平日の朝ということもあって、十分と待たずにバスは来た。
「じゃあね、父さま。……浮気、しないでね?」
「あ、あぁ……勿論だ。真央も気を付けてな」
 条件反射的に答えて、月彦は手を振る。程なくドアが閉まり、バスが発進する。
(……真央、本当に大丈夫……なのか?)
 真央の姿が見えなくなるなり、不意に正体不明の不安に襲われる。こうして見ている分には、バスは滞りなく走り、そして視界の端でくるりと向きを変えて曲がり角を曲がっていく。何も問題などは無い、万事恙なく進行していると思える。
(でも、なんだ……この胸のザワつきは……)
 何か、良くない事が起きる前触れのような、そんな予感なのだろうか。かつて経験したことのない類の直感に、それを警告と受け取れば良いのか、それとも娘を一人で遠くにやらなければならない父親としての不安に過ぎないのか、月彦には判断が付かなかった。
「……大丈夫だ。いざとなったら、真狐の奴がなんとかするだろう」
 なんだかんだで、末っ子の真央にだけは甘い奴だからな――うんうんと頷き、月彦は踵を返すと一人、通学路へと戻るのだった。
 


「ふぅ……よいしょっ、っと」
 バスに乗るなり、真央は背負っていたリュックを膝の上に置くようにして座席に腰掛けた。出来れば窓際の席に座り、父親に手を振りたかったのだが、生憎と空いている席は全て通路側だった。
 バスは、真央の想像以上に混んでいた。辛うじて座る事は出来たが、リュックからセーターを取り出すような余力は皆無だった。
(どうしよう……これじゃあ、編み物の続きも出来ない……)
 由梨子に教えてもらいながら、こつこつと。父親にプレゼントするためにこっそり編んできたセーターも、既に八割は完成している。本来ならば、クリスマスまでには何の問題もなく完成する筈だった代物だが、予定外の長旅のせいで帰ってくるまでに完成できるかどうかも怪しくなってしまった。
(母さまも、もっと早く……教えてくれたらよかったのに……)
 つい、そう不満を漏らしてしまいそうになる。本来ならば、きちんと間に合うだけの余裕を持って知らせてくれた母親に感謝をするのが筋なのであろうが、楽しみにしていたクリスマスが台無しになってしまったせいで、ついつい逆恨みをしてしまいそうになる。
 ただ、それでも心の支えが全くないというわけではなかった。戻ってきたら、二人でクリスマスをやり直そう――月彦の言葉が、暗澹とした真央の心の中に一筋の光を差し込んだのだ。
 その時のためにも、セーターは絶対に完成させなくてはならない。それも、こっそりと、直前までバレないように。
 バスも一度降り、山の方へと向かうものに乗り換えると、途端にがらりと乗客が減った。真央は座席二つ分空いている席へと座ると、こっそりとリュックの中から編みかけのセーターが入っている紙袋を取り出した。
 人目を気にしながらも、真央はせっせと編み物を続ける。動いている車内で編み物をするのは想像していたよりも大変で、時折休憩を挟まなければ車酔いで吐きそうになった。
 作業を中断して山の景色を眺める事は簡単であったが、真央はそうしなかった。乗り物移動ができるうちに可能な限り完成させておかないと、後々どうなるか解らないのだ。
(編み物は、毛糸じゃなくて想いを紡ぐものだって、由梨ちゃん……言ってたっけ……)
 何となく解る気がする、と真央は思う。こうして想いを込めながら時間をかけて編むからこそ、相手にも気持ちが伝わるのだろう。
「ちょっと、一人で座席二つも取らないでくれる?」
「えっ、あ……ごめんなさい……」
 突然頭上から、怒ったような女性の声が聞こえて、真央は慌ててセーターを紙袋の中に仕舞うと、リュックの上に乗せるようにして自分の膝の上に戻す。それを見届けてから、女はどっかりと、乱暴に腰を下ろした。
(……席、もう埋まっちゃったのかな……?)
 編み物を始めた段階では、客は四,五人しか居らず、空席だらけだった筈だ。
(あれ、でも……)
 真央はそっと顔を上げて、車内を見回してみるが、やはり空席は大量にある。どう考えても真央が荷物をどけなければならない理屈が見つからず、ただの嫌がらせかと、真央がこっそり席を立って、空席の所に移動しようとした時だった。
「なーに黙って行こうとしてんのよ。あんた、親の顔も忘れたの?」
「えっ……か、母さま!?」
 言われてみてみれば、隣に座った図々しい女は紛れもなく洋装をした母親に他ならなかった。
「えっ、だ……だって、声が……」
「声がどうかしたの?」
 と、真狐は“真央の声”で返してくる。
「ったくもう、これ見よがしにバスの中でセーター編んだりなんかしちゃってさ。悲劇の少女でも気取ってるつもり?」
「そ、そういうわけじゃ……これ、父さまにあげるクリスマスプレゼントだから……」
「だーかーら、クリスマスにはもう間に合わないんでしょ? 女々しいったらありゃしないわ」
 ふんっ、と真狐は鼻を鳴らし、一体何が気に入らないのか、前の座席を蹴り飛ばすようにして足を組み直す。
(でも、どうして母さまが……)
 もしかして、気が変わってくれたのではないか――真央がそんな淡い期待を胸に抱き始めるのと、
「真央、あんまり甘えるんじゃないわよ?」
 真狐から釘が刺されるのはほぼ同時だった。
「あたしはただ、暇だったからちょっと見送りに来ただけ。行くのはあくまであんた自身」
 そして、腕を組む――と見せかけて、ぴっ、と真央の方に小さな紙切れを指に挟んで差し出してくる。真央は恐る恐る紙切れを受け取り、開いた。
「母さま、これって……」
「ふん、あんたの足でも二十五日の夜までに帰って来れる道を調べといてあげたわよ。それなら片道三日でなんとか帰ってこれるでしょ」
「えっ、じゃあ……」
「二十四日は無理だけど、二十五日なら何とか間に合うんでしょ?」
 クリスマスとやらに、と母狐はまるで仇の名前でも口にするような忌々しい声で呟く。
「う、うん……母さま、ありがとう……」
 ふん、と鼻で笑って、真狐は窓枠のボタンを推し、席を立つ。どうやら、次の停留所で降りるつもりらしかった。
「そうそう、真央?」
「なぁに? 母さま」
 先ほどまでの不機嫌そうな声とはうってかわって、急に猫なで声に変わった母親に、真央は少しだけ警戒心を働かせながらも尋ね返す。
「あんたが早く帰れる様になった事、月彦に言っといたほうが良い?」
「父さまに……?」
 しばし、真央は悩んだ。この朗報を少しでも早く父親に知って欲しいという思いと、ぎりぎりまで隠しておいて、いきなり帰ってびっくりさせたいという思いが真央の中でせめぎ合う。
 そして結局。
「ううん、父さまには黙ってて。……いきなり帰って、びっくりさせたいから」
 人を驚かせる事、裏をかく事に愉悦を感じるという狐の本性。そしてなにより、母親には感謝はするが、自分の居ない所で父親とイチャイチャして欲しくないという悋気も絡み、真央はそう結論を出した。
「……月彦には言わない方がいいのね?」
 うん、と真央は満面の笑みで頷き返した。もし、真央が浮かれていなければ――不可能だと思っていたクリスマスを過ごせるという天佑に心を奪われていなければ。
 或いはこの時真狐が浮かべた笑みの意味に気がついたかもしれない。――尤も、気がついた所で、真央にはどうにも出来ない事ではあるわけだが。
「そう、解ったわ」
 にやりと。真狐はこれ以上ないというくらい、意地の悪い笑みを浮かべる。
「それじゃああたしは帰るけど、あんたも頑張ってクリスマスの夜までに帰ってくるのよ?」
「うん! 母さま、本当にありがとう!」
 真央はどこまでも無邪気に、バスから降りる母親を手を振って見送るのだった。


 


「紺崎くん、ちょっと……いい?」
 午前中の授業を恙なく終え、さあ購買でも行こうかと教室を出た所で、月彦は雪乃に呼び止められた。見れば、まだ両手に教材をかかえたままだ。つまり、何処かのクラスで授業をやった後、職員室に戻る暇も惜しんで来たらしかった。
「何ですか?」
「ちょっと……ね? 解ってるでしょ?」
「はぁ……、とりあえずついていけばいいんですね」
 雪乃に続いて案内されたのは、生活指導室だった。
(指導室っていうより、殆ど密談室だな……)
 月彦は雪乃に勧められるままにパイプ椅子へと腰掛け、テーブルを挟んで雪乃と対面する形になる。そう、形だけを見るなら、指導する教師と指導される生徒という図式なのだが。
「とりあえず……まずは謝らせて。紺崎くん、この間はごめんなさい!」
 ぱむっ、と両手を合わせて、雪乃がいきなり頭を下げてくる。全く予想していなかった雪乃の行動に、月彦はしばし、時を忘れた。
「……えっと、一体何の事でしょうか。俺、先生に謝られるような事なんてされましたっけ」
 実際には、ある。指を折って数えられるくらいにあるが、それを雪乃が自覚していたとは思わなかったから、雪乃の謝罪は本当に意外だったのだ。
(……なんか、前にも似た様な事があった様な……)
 既視感も相まって、月彦はいつになく警戒心を働かせながら、雪乃と対峙する。
「本当に私、どうかしてたみたい……。折角、紺崎くんがちゃんと避妊してくれるって言ってたのに…………」
「……ああ、そのことですか」
 確かに、多少気にはなってはいたのだ。失神してしまった雪乃を部屋に残して帰ってしまった手前、その後のケアはきちんとしたかどうかを聞きたくてもどうにも気まずく、聞くに聞けなかったのだ。
「ちゃんと……“処置”はしたんですよね?」
「え、えぇ……それは、多分……大丈夫だと思うわ」
 つつい、と視線を泳がせる雪乃に一縷の不安を覚えるも、雪乃とて妊娠は本意ではないだろうから、避妊に手を抜くという事は無いだろう。
「……ほんと、紺崎くんのお陰で産婦人科への通院が慣れっこになっちゃいそうよ。……ピルが薬局で買えれば良いんだけど……そういうわけにもいかないし……」
「……ええと、前回に限っては、俺のせいだけとも言えないような……」
 月彦はさりげなく反論をするが、前々回、さらにその前に関しては確かに雪乃の言うとおりであるから、耳が痛いのは確かだった。 
「ま、まあでも、なんかあの時の先生……すごく積極的でしたよね。……何か、あったんですか?」
「…………別に、何も無いわよ。ちょっと……欲求不満気味だっただけ」
 またしても、目が泳ぎ、決して合わせようとしない。
「前は、フラストレーション溜まった時とか、よく走りにいってたんだけど、車買い換えちゃったから……そのせいかも知れないわ」
「……って事は――」
 間接的ながらも自分のせいという事になる――月彦はきゅうと胃の縮まる思いだった。
「あっ、別に紺崎くんのせいって言ってるわけじゃないのよ? 私だって、いつまでも馬鹿やってられないし、捕まっちゃったりしたらそれこそ事だから、走るのを止めるいい切っ掛けだったって言えなくもないし」
「でも、止めたせいで……欲求不満になっちゃうんですよね?」
「そ、それは……紺崎くんが……たまにでも協力してくれれば、どうとでもなるんじゃないかしら」
 頬を赤らめながら、小声でそんな事を呟く。暗に、もっと頻繁にデートをしろと言われているようで、月彦は苦笑しか返せない。
「そう、したいのは山々なんですが……いろいろと都合が……欲求不満になっちゃう前に、適度な運動で発散しちゃえばいいんじゃないですか? たとえば、早朝のジョギングとかどうです?」
 欲求不満を理由に、会う回数を増やされてはたまらない。何とか他の方法で、と月彦は思いつくままに提案をしてみる。
「早朝のジョギングって、確か心臓に悪いんじゃなかったかしら?」
「ジョギングがダメなら、ウォーキングでもジム通いでも何でもいいじゃないですか。……とりあえず、フラストレーションが溜まったらセックスで発散っていうのもどうかと思いますよ?」
「……た、確かに……そうあけすけに言われちゃうと、身も蓋もないけど……私は別に……エッチだけがストレス発散だとは一言も……」
 雪乃がごにょごにょと唇を尖らせる。どうやら、あまり気乗りはしないらしい。
「そうですか……残念です。先生さえ良ければ、俺も時々一緒に走ったり、歩いたりさせてもらおうかと思ったんですが」
 やむなく、月彦はエサを撒くことにした。
「……紺崎くんも一緒に走るの?」
「いつも、というワケにはいきませんけど、たまには。早朝なら、人目も無いでしょうし、先生と一緒に走ったり歩いたりしてても、変な噂が立っちゃう事もないと思うんですよ」
 それに――と。月彦はさらに付け加える。
「実はですね……友達に、先生との関係を怪しんでる奴がいるんです」
「えっ……それって、私と紺崎くんの事がばれちゃったって事?」
「いえ、そこまで具体的なネタはつかんでないみたいですが。……俺と先生は仲が良すぎる、みたいな事は言ってましたから……全く疑っていないというわけでも無いと思います」
 その友達、というのは勿論千夏の事だ。この際であるから、再度千夏に詰め寄られた際の口裏合わせもやっておくのが良いかもしれない。
「ほら、俺が入院した時、先生が見舞いに来たじゃないですか。あの時居た友達ですよ」
「……担任でもない私が、見舞いに来るのはおかしいって……そういう流れかしら?」
「ええ、まぁ……概ねそんな感じです。ですから、もし先生がジョギングをしていて、俺もやっていたら――仲がいいのは、早朝のジョギングで知り合ったから、っていう言い逃れが出来るわけですよ」
 成る程、と雪乃は頷きながら一応納得している様だった。
「そうね、そういうことなら……悪くないかもしれないわ。ちょっと始めるには寒すぎる時期だけど…………紺崎くんも一緒なら……」
「いえ、ですから俺は時々で……そうですね、ストレス発散や、運動不足が気になった時にやりますよ」
 そこを誤解されては堪らないから、月彦は念入りに説明をした。
「……紺崎くんの話を聞いてると、まるで私と会うのが嫌みたいに聞こえるんだけど…………」
 しかし、些か熱心に説明をしすぎたらしい。“真相”に気づき始めた雪乃を慌てて遠ざけるべく、月彦はさらなる手を打たざるをえなかった。
「いえ、そんなことは……。ただ、二人きりで会った時に先生がまた“あんな風”になっちゃったらどうしよう、って俺はそれが心配なんです」
「あ、あんな風って…………もう! 早く、忘れて欲しいわ……あの時の事は」
 ぼんっ、と湯気を噴くようにして雪乃の顔が真っ赤になる。やはり、雪乃自身そうとう恥じているのだ。
「ええ、ですからそうならないためにも適度なストレス発散をですね……」
「紺崎くんの言いたいことは解るけど、……でも何か、釈然としないわ。どうしてかしら」
 むぅ、と雪乃は考え込んでしまう。月彦もここでさらに下手に早朝ジョギングを押すと、また何か裏があるのではと勘ぐられそうで、下手なことは言えなかった。
「とにかく、その件は保留。ただ、もしその友達にまた私との事で聞かれたら、そういう風に答えてもいいわ。私も口裏合わせる事にするから」
「解りました。その時はお願いします」
 とりあえず、最低限の目的は達成できた。これで再度千夏に詰め寄られても、事の露見だけは抑えられるだろう。
「さてと、じゃあ話も済んだみたいですし、俺は教室に戻りますね。昼飯も食わないといけませんし」
 では、と席をたちかけたその腕を、がっしりと雪乃に掴まれた。
「ダメよ、紺崎くん。本題はこれからなんだから」
「…………今までのは本題じゃ無かったんですか」
 姉妹揃って前置きの長い事この上ない、と月彦はため息をつきそうになってしまう。
「紺崎くん、十二月の二十五日が何の日かは勿論知ってるわよね?」
「……天皇誕生日でしたっけ」
 月彦は惚けるが、雪乃はにこりとも笑わなかった。
「……単刀直入に聞くけど、紺崎くん……クリスマスに何か予定とかある?」
 うぐっ、と。月彦はつい唸ってしまった。
 いつもの様に「予定がぎっしりです」と即座に答えられなかったのは失敗だった。何故なら、答えにつまった事で、雪乃の目に妖しい光が灯ったからだ。
「いや、ええとその……あるといえばあるような、無いような……」
「“無い”んでしょ?」
 断定するような、雪乃の物言いについ気圧されてしまう。
(ヤバい……このままじゃ、クリスマスは先生と過ごすって事になっちまう……)
 それはそれで、決して悪くはない。どうせ家族は誰もいないのだ。この間の様に雪乃を家に呼んで、そして今度こそ全く気兼ねする事無く、たっぷり、じっくりと。雪乃の体を堪能するのも決して悪い選択ではないのだ。
(でも……なんか、嫌だ。せっかくのクリスマスなのに……)
 そう、悪くはないが、決して良くもない。
 それでは、いつもとすることが大して変わらないではないか。具体的に何をしたい、というのは思いつかないが、そんないつもと変わらないグダグダな休日のような過ごし方は嫌だった。
「……だったらさ、私の家に来ない?」
「せ、先生の家に……ですか?」
 てっきり、また家に行ってもいいかと聞かれると思っていた月彦は、些か虚を突かれた。
「うん。うちさ……盆と暮れと正月とクリスマスは、家族みんな揃って祝うのが鉄の掟なの。だから……紺崎くんも一緒に……」
「……え?」
 なにやら、話が予想だにしない方向へと広がっているのを感じて、月彦は疑問の声を出した。
「ま、待ってください。先生……まさか、“私の家に”って、先生の実家って意味ですか?」
「そうよ。……この際だから、紺崎くんの事……お父さん達にも紹介しとこうかなぁ、って」
「なっ……!」
 ぽっ、と頬を染めながらとんでもない事を言い出す雪乃に、月彦は絶句してしまう。
「ああ、大丈夫よ? ちゃんと紺崎くんの事は大学生って事にしておくから。お姉ちゃんもそれで口裏合わせてくれるって約束してくれたし。……その代わり、絶対紺崎くんを引っ張って来なさいって言われてるんだけど……」
「そんな……い、いきなり実家なんて勘弁してください!」
 冗談ではない、と月彦は声を荒げる。ただでさえ、雪乃と矢紗美の二人でさえ手を焼いているというのに、そこへさらにその育ての親まで加わって、一体全体どういう目に合わされるというのか。想像するにも恐ろしかった。
「だ、だいたい……“家族”で過ごすのが鉄の掟じゃないんですか? 俺、思いっきり部外者なんですけど」
「そんなに堅く考えないでも大丈夫よ? お父さんもお母さんもお爺ちゃんもお婆ちゃんもみんな気さくで人見知りしない性格だから、紺崎くんもきっとすぐ慣れるわ」
「い、いいえ……先生の家族が大丈夫でも、俺の方が大丈夫じゃないです。すみませんけど、クリスマスは家で普通に家族と過ごす事にします!」
「あっ、ちょっと……紺崎くん!」
 これ以上話をしていてもしょうがない。呼び止める雪乃の手を振り切って、月彦は逃げる様に生活指導室を後にした。


 クリスマスを雪乃と一緒に――という選択肢は消えた。そして同時に、矢紗美と過ごすという選択肢も。尤も、こちらは最初から考えても居なかったが。
(……参ったな……まさか真央がいきなりダメになるとは思わなかったから……何も考えて無いや……)
 むしろ雪乃に言われるまで、クリスマスを誰かと過ごす――という選択肢すら、頭に沸かなかった。去年一昨年と、普通に家族で祝い、ケーキを食べるのが慣習だったからだ。
(むぅ……となると、うちに和樹や千夏を呼んで、みんなでワイワイやるか?)
 それはそれで、決して悪くない選択に思えた。ただ、問題はそこにもう一人の幼なじみが加わる事になった場合だ。千夏と和樹の事だから、クリスマスに騒ごうと声をかけた段階で、「じゃあ妙子も呼ぼう」という流れになるのはほぼ間違いない。
 月彦自身も、妙子を呼ぶ事には決して反対はしない。しないが……楽しい筈のクリスマスが一気に砂を噛むような苦々しいものに変わってしまう可能性が生まれてくる事は否定しきれなかった。
(……この前も、気まずい別れ方したしなぁ……)
 思い出すだけで、左頬がジンジンしてくる。毛布のお詫び、そして仲直りの道への第一歩として、精一杯選んだプレゼントであったのに、結局逆効果にしかならなかったのだから涙が出そうになる。
 やはり、妙子とは縁が無いのだろうか。真央や由梨子という存在がありながらも、妙子との縁を未練がましく捜してしまう自分が、月彦は少し嫌になる。
(……そうだ、由梨ちゃん……)
 はたと、我に返る。そうだ、雪乃や千夏達に打診する前に、一番最初にクリスマスの予定を聞かねばならない相手が居るではないか。
 何故その事に思い至らなかったのか、己で己を殴りつけたい気分だった。これでもし、僅差で別の予定でもいれられてしまっていたら、泣くに泣けないところだ。
 月彦はHRが終わるなり、すぐに由梨子の教室へと向かった。しかし、既に授業もHRも終了しているらしく、教室内にはまばらな生徒しか居なかった。そして、その中には由梨子の姿は無かった。
 すぐさま月彦は一年の昇降口へと向かうが、由梨子の靴は無かった。ならば、帰り道を追いかけるまでだと、月彦は己の昇降口へと向かう。
「先輩っ」
 大急ぎで靴を履き、外へと飛び出したその背中に声がかかったのはその時だった。振り返ると、そこには両手で鞄を持った由梨子が照れる様な笑みを浮かべて立っていた。
「すみません、今日……真央さんが休みみたいでしたから、一緒に帰れるかと思って……」
「由梨ちゃん……!」
 月彦はなんだかもう感極まってしまって、由梨子に駆け寄ると人目も憚らずに抱きしめてしまった。
「えっ、あ……ちょっ、せ、先輩!?」
 驚きと嬉しさがふんだんに混じり合ったような、そんな悲鳴に月彦はハッと我に返り、慌てて抱擁の手を緩めた。回りを見ると、下校中の生徒四、五人がひどく冷めた目をしているのがわかった。その中に知った顔は居なかったのがせめてもの救いと言うべきか。
「あ、あの……こういうのは、人前では……困ります……先輩だって……」
「ご、ごめん……久々に由梨ちゃんに会えたから、嬉しくって、つい……」
 互いに顔を赤くしながら、その場に立ちつくしてしまう。そんなに長い時間ではないとはいえ、真央に阻害されて出会えなかった期間が、僅かに二人の距離を遠くしてしまったように、月彦は感じた。
「と、とりあえず……何処かに移動しようか。ここは……人目があるし」
「そう、ですね。先輩に……任せます」
 つかず離れずの距離で揃って校門を出て、向かった先は先日矢紗美と一緒に入った喫茶店だった。立ち話で済ませるような事ではなかったし、何より久方ぶりの由梨子との逢瀬だ、落ち着ける場所でゆっくり過ごしたいという思いもあった。
「……学校の近くに、こんなお店があったんですね」
「うん。俺もこの間見つけてさ。静かだし、あんまり人も来ないからゆっくり話をするのにはいい店だよ」
 小声で言ったつもりだったが、なにやらちらりとマスターのほうから意味深な視線を送られた。どうやら“あんまり人も来ないから”の部分が気に障ったらしい。
 お詫びのつもりで普段ならば絶対に飲まないブルーマウンテンなどを注文するが、果たして月彦の意図がマスターに伝わったかどうかは不明だった。ちなみに由梨子はアールグレイを注文した。
「先輩、今日は真央さん……どうしたんですか?」
「ん、ちょっと……な。今里帰りしてるんだ。しばらくは戻ってこないよ」
「しばらくは……って」
「うん。だから今学期中はもうずっと休み。こっちに戻ってくるのは二十七日だったと思う」
「二十七日……じゃあ、クリスマスは……」
 そこで由梨子は言葉を噤み、寡黙なマスターが運んできた紅茶にそっと口を付ける。月彦もまた生まれて初めて飲むブルーマウンテンに口を付けるが、生憎缶コーヒーとの美味さの違いなど毛ほども解らなかった。値段は五倍ほども違うのだが。
「由梨ちゃんは……さ」
「は、はい……何で、しょうか……」
 はて、と月彦はつい首をひねりたくなってしまう。紅茶が届いてから――否、正確には紅茶が届く少し前から、由梨子の動きが些か不自然なのだ。まるで、“何か”に心を奪われて、そのせいでそれ以外の動作に気が回っていないような、そんな印象を月彦は覚える。
「クリスマス……もう何か予定あったりする?」
「いえ……何も……。多分、普通に家で、一人で過ごすと思います」
「そっか。何も無い……のか」
 ふむ、と月彦は再びコーヒーに口を付け、ずずずと口に含む。心なしか、最初に口をつけた時よりも、僅かだがうま味が増しているように感じられた。
「あの……先輩」
「うん?」
「先輩は何か……その、もう……クリスマスは……予定、入ってたり、するんですか?」
「いや、真央が里帰りしてるからさ。俺も今のところ何も予定無し」
「そう……ですか。先輩も……何も、無いんですか……」
 意味深に呟いて、由梨子は両手でカップを持って紅茶に口をつける。きっと由梨子に獣耳と尻尾があれば、そわそわと落ち着き無く蠢いている事だろう。
「……あ、あの……先輩、私……クリスマスは予定が無いって言いましたけど、本当は……ちょっとだけあるんです」
「えっ……あるの……?」
「いえ、あの……正確には、無いってことになるのかもしれませんけど……どうも、弟が彼女を家に呼びたいみたいで……出来れば、家を空けてくれないか、みたいな事は言われてるんです。……でも、そんな……クリスマスの夜に一人で出かける所なんて、ありませんから……」
 ちらり、と。縋る様な上目遣いを向けられる。由梨子の方にそこまで水を向けられては、月彦としても意を決して切り出すしかなかった。
「そっか……じゃあ、由梨ちゃん、良かったら……うちに来る?」
「えっ……せ、先輩の家に……ですか?」
 その提案は予想していなかった、とばかりに由梨子が素っ頓狂な声を上げる。
「で、でも……真央さんが居なくても……」
 由梨子がそこで言葉を詰まらせる。勿論月彦には、由梨子が言わんとする事はよく解った。紺崎家には、由梨子にはどうしても顔を併せづらい人物が住んでいるからだ。
「姉ちゃんはクリスマスは友達とスキーに行くってさ。クリスマスの前後二、三日は留守にするらしい」
「……ぁ……」
 きゅっ、と。由梨子が肩を抱くようにして制服の袖を握りしめる。
「ついでに言うなら、母さんも温泉旅行で家を空けるから、二十四日の昼から二十六日まではずっと俺一人」
「じゃ、じゃあ……」
「うん、二十四日、二十五日の夜は由梨ちゃんがうちに泊まっても、誰にも見つからないし、誰にもバレないと思うよ」
「……っ……!」
 ぎゅうっ、と。由梨子がさらに強く、制服に爪が食い込むほどに肩を抱く。
「由梨ちゃん? どうしたの……?」
 ひょっとして寒いのかと、月彦が自分の上着を脱ごうかとした時だった。
「いえ、大丈夫です……ただ、ちょっと……」
 嬉しすぎて――そう零す由梨子の声はひどく掠れていた。
「まさか、本当に叶うなんて……」
「叶う……?」
「いえ、こっちの話です。忘れてください」
 そう言って微笑む由梨子の目尻には、うっすら涙すらにじんでいるように見えた。
「……本当は、由梨ちゃんを誘うの、ちょっと躊躇ったんだ。真央がダメになったから、代わりに由梨ちゃん――みたいな選び方、失礼かなとも思ったからさ……」
「そんな……そんな事、無いです。……元々、先輩と真央さんが付き合ってる所に、私が無理矢理割り込んだんですから……私は、先輩に誘ってもらえただけで、本当に嬉しいです」
 ああ、本当に良い子だ――と、月彦は思う。由梨子の顔を見れば、その言葉に一片の偽りも無いということは誰の目にも明らかだった。
(そんな子に……愛人の真似事なんかさせてる俺は……極悪人だな……)
 自覚があって尚、止める事が出来ない。真央も、由梨子も、どちらも手放したくない。強欲だと言われようが、死後に地獄に落とされようが、こればかりは譲れなかった。
 しばし由梨子と談笑をかわし、喫茶店の外に出た時にはすっかり日が暮れていた。そのまま家まで送っていき、これまた門扉の前で名残惜しいとばかりに十分ほど話し込んでしまって漸く由梨子と別れた。
 クリスマスを由梨子と二人で過ごす事に、僅かながらも素直に喜べない部分もある。が、しかしそれも、全体の喜びに比べてしまえば些細と言わざるを得なかった。
(……あぁ、冬の夜空は……こんなに綺麗だったんだなぁ……)
 ここのところ、あまり気の休まる事が少なかったせいか、どうという事のない辺りの景色すらも真新しく感じてしまう。まるで、由梨子と共に過ごせるというだけで心にゆとりが生まれ、視野が広がったかのようだった。
(今まで見えなかった、北斗七星の脇の星まで見えるなんて……俺、また視力が上がったのかな……?)
 視力、というよりは夜目が利く様になった――というのが正しいのかもしれない。真央が来る前に比べて、明らかに暗い寝室内での活動時間が増えて、目が悪くなるというのならばまだ分かるのだが、逆に良くなっている気すらするのが不思議だった。
(まぁ、細かい事は気にしないに限る……今はとにかく、由梨ちゃんの事だけ考えよう)
 きっと、今回のことはただの偶然ではないのだ。今まで何かと不遇を強いられつづけた由梨子の為に、天が帳尻を合わせよと配慮してくれたに違いない。
 ならば、あとはこの千載一遇のチャンスをどう生かすか――全ては己の双肩にかかっているのだ。
(由梨ちゃんの為に……)
 由梨子のために、クリスマスを一生忘れられないくらい楽しい日にしよう。月彦はそう、心に誓うのだった。


 
 

 

 長い様で短い一週間が終わり、とうとう二十四日、終業式の朝がやってきた。
(今日、学校が終われば……)
 その後に待っているものを想像するだけで、月彦はつい顔がにやけそうになってしまう。
 この一週間、学校でちょくちょく由梨子と会っては、来る日に向けての計画を練り続けてきたのだ。
(今日の夜は由梨ちゃんの手料理……かぁ……)
 既に、友達とパーティをやるから――葛葉にはそう伝え、それらしい食材を買っておいてもらってある。足りないものがあれば、改めて由梨子と二人で買い物に行けば良いだろう。
(和樹達にも、ちゃんと断りを入れたし……)
 いきなり抜き打ちで家を尋ねられては堪らない。クリスマスはきちんと家族で祝う旨をそれとなく二人に伝えたから、これで二人だけの時間に邪魔が入る余地も無くなった。
「よし! 一丁気合い入れていくか!」
 まるでいまから一戦やらかすかのように、月彦はぺちんと頬を叩き、気合を入れて玄関へと向かう。
「あっ、月彦、ちょっといい?」
 が、突然葛葉から待ったがかかり、前につんのめる形で月彦は立ち止まる。
「なに? 母さん」
「今夜、千夏ちゃん達を呼んでパーティやるんでしょ?」
「そのつもりだけど、何かマズかった?」
 この土壇場でNGを出されては堪らない。月彦は神妙に尋ね返した。
「ちゃんと、妙子ちゃんも誘ったの?」
 誘った――そう、平気な顔で嘘が付けるほど、月彦は器用な人間ではなかった。そもそも、何故ここで妙子の名が出てくるのかすら理解ができなかった。
「ダメじゃない、ちゃんと呼ばなきゃ」
 月彦の沈黙を否定、と受け取ったのか、葛葉が“めっ”という顔をする。
「妙子ちゃん、お父さんと離れて一人暮らしなんだから。きっとクリスマスは一人きりで寂しい筈よ?」
「いや……でも、学校が違うし、それに妙子は妙子で向こうの友達とワイワイやるんじゃないかな」
「ちゃんと妙子ちゃんに聞いてみたの?」
 うぐ、と月彦は言葉を飲み込む。何故だろう、何故、葛葉はここまで妙子に拘るのだろう。
「もう、また妙子ちゃんとケンカでもしたんでしょう。 しょうがないわねぇ。じゃあ、母さんが代わりに聞いてあげる」
 葛葉は百%善意の笑みを浮かべ、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら早速受話器を手に取ろうとする。――刹那、月彦は全身から血の気が引くのを感じた。
「ま、待って、母さん!」
 月彦は土足になるのも構わず、両手で受話器を押さえつけた。
「た、妙子には……ちゃんと俺が自分で聞くからさ……母さんは、自分の旅行の事だけ考えててよ」
「……本当ね? 月彦。きちんと妙子ちゃんを呼んで“みんなで”パーティをやるのよ? いいわね?」
 葛葉はいつになく真面目な面持ちで、ことさら“みんなで”の部分を強調してくる。
「大丈夫、ちゃんとやるからさ。母さんが電話かけたりなんかしたら、俺があとで妙子に笑われるよ。“遊びの誘いすら、自分一人じゃできないの?”ってさ」
 月彦の言う事ももっともだと思ったのか、漸く葛葉が受話器から手を離す。
(……危ない危ない、母さん本気で妙子に電話するつもりだったな……)
 間一髪。ここで下手に妙子に情報が漏れ、さらに千夏、和樹へと伝達でもしようものなら、由梨子と二人でという計画が水泡に帰してしまう所だった。
「……月彦はもう少し、妙子ちゃんがどうして大好きだった犬達やお父さんと別れてまでここに残ったのかを考えた方が良さそうね」
「な、何だよ……母さん。妙子はちゃんと誘うって言ってるだろ?」
 まるで胸の内を見透かされたような葛葉の言葉に、ドキリと、月彦は後ずさってしまう。
「と、とにかく……学校に遅れるから――」
 そのまま、葛葉の無言の圧力に耐えかね、逃げ出すようにして月彦は踵を返し、玄関から飛び出した。が、その矢先突如靴ひもが切れてしまい、月彦は泣く泣く玄関へと引き返して靴を履き替えねばならなかった。
(何だよ、まるで、由梨ちゃんを誘ったらロクでもない事が起きるみたいに……)
 普段であれば――或いは、葛葉の言葉を忠告と受け取り、素直に聞いたかもしれない。しかし今回だけは、例え葛葉の忠告であろうとも聞くわけにはいかなかった。
(今更、由梨ちゃんにダメになったなんて、言えるわけない)
 打ち合わせをするときの、由梨子のあの笑顔が忘れられない。葛葉の言うとおりにすれば、あの笑顔が泣き顔に変わってしまうかもしれないのだ。
(大丈夫、何も起きやしない。そうそう母さんの言う事が当たってたまるか……!)
 由梨子に話を持ちかけた時点で、退路などは無くなってしまった。そう、賽は投げられたのだ。

 終業式、大掃除、HRといつになくソワソワした状態で過ごした月彦は、そのまま一人で家路についた。これも、予め由梨子と打ち合わせしておいた事だった。
 本音を言えば、学校が終わるなり即座に由梨子を抱きかかえ、自宅へと招きたい所だったのだが、いろいろと準備をするものがあるから迎えに来るのは三時にしてほしいと言われたのだ。
(由梨ちゃんは女の子だもんな……泊まりに行くにしても色々準備するものも多いだろう……)
 うん、と己を納得させるようにして月彦は家路を急いだ。学校の行きと帰りで四度も黒猫に横切られた事など、由梨子の事を考えれば気にはならなかった。
 家に帰った月彦は、改めて家中の大掃除をした。既に、前日、前々日もやってはいるのだが、どこか掃除し忘れた所は無いかと、入念にチェックをして回った。自室の掃除機がけも特に念入りにやった。
「あっ……」
 机の引き出しの中を片づけようとして、はたと、月彦の手が止まった。黒い丸薬の入った透明な瓶を手に取り、月彦はしばし考え込む。
(真狐の奴が持ってきた……避妊薬か……)
 本物であれば、きっと効果は絶大だろう。しかし、もし罠だったら、取り返しのつかないことになる。
(……いくらアイツでも、そんな洒落にならん事は……)
 確かに何かと油断ならない、タチの悪い女ではあるが、最低限の良識くらいはあるのではないか。
(……まぁ、ほんと……最低限中の最低限の良識だけどな……)
 身内を襲ったり、男を食ったりはしても、悪戯に人の人生を狂わせたりはしないだろう――そんな事を考えながら、月彦はそっと瓶の封を解く。中には但し書きらしい一枚の紙片が入っていた。
(一回一錠、効果が現れるのは服用後三時間経ってから、持続時間は二十四時間――か)
 幼稚園児が泣きながら書いたような文字をなんとか解読すると、月彦は丸薬を一つだけ手にとり、封を元に戻した。
 台所へと降り、水と一緒に丸薬を喉へと放り込む。媚薬を口にしたときのような目立った変化は無かった。尤も、“三時間後”にどうなるかは解らないが。

 家中の大掃除を終え、由梨子を迎えに紺崎邸を出たのが午後二時半。宮本邸への距離とかかる時間を考えれば、些か早すぎる出発だった。
(うーん、先生もこんな気持ちだったのかな……)
 早すぎると解ってはいても、ついつい家を出てしまう。とはいえ、雪乃のそれはあまりに過剰過ぎると言わざるを得ないわけだが。
「あれ……紺崎先輩?」
 ニヤニヤしそうになる顔を必死に引き締めながら宮本邸への道を辿ること数分、不意に視界の外から声をかけられ、月彦は振り返った。
「どうも、ご無沙汰してます」
 まるで、体育会系の先輩に出会いでもしたかのように、宮本武士はハキハキとした声で頭を下げてくる。
「いや、こちらこそ久しぶり、武士くん」
 元気そうで何より――とでも、続けようかと思った月彦ははたと、武士の斜め後ろ、武士の体を盾にするようにして立つ女性を見た。
(おっ、これは良い巨乳――じゃない、この人が武士くんの“彼女”か……)
 何よりも先に乳のサイズを確認してしまう己の目の構造を恥ながらも、月彦はついまじまじと女性の姿に見入ってしまう。その視線を察してか、女性はさらに、武士の後ろへと隠れてしまった。
「あ、円香さん。この人だよ……ほら、前に言った――」
「…………初めまして、佐々木……円香です」
 どうやら随分と人見知りをする娘らしい。控えめに呟いて、ぺこりと頭を下げてくる。
「初めまして、紺崎月彦です」
 つられて、つい月彦もぺこりと頭を下げてしまう。そして、はて?――と首を傾げる。
(本当に初対面か……? どっかで会ったような気がしなくも……)
 月彦はじぃ、と円香の乳を凝視して、必死に記憶を探る。これほど見事な巨乳っ娘ならば、一度見ればそうそうは忘れない筈なのに、脳内データバンクには該当する巨乳娘は皆無だった。
(他人のそら似か……しかし、それにしても武士くん……いい彼女捕まえたなぁ……)
 恐らく、年は武士よりも――或いは自分よりも上かもしれない。とっても大人しそうな、それでいて巨乳でしかも年上の彼女というのは、月彦にとって経験の無い相手なだけに尚更羨ましく感じてしまう。
(巨乳の年上は何人か居るけど、みんな……大人しくはないもんなぁ……)
 隣の芝生は青く見える、というのはまさにこの事だろうか。
(いやいや、いくら年上の巨乳でも、由梨ちゃんの可愛さには敵うまい、うん、絶対敵わない)
 例え一時でも武士を羨んでしまった己を恥じつつ、月彦は頭の中で由梨子に謝罪をした。
「あの、紺崎さん……ひょっとして、今から――?」
「ああ、丁度お姉さんを迎えに行く所だけど」
「そうでしたか。……紺崎さん、姉貴を、よろしくお願いします」
 そしてまたぺこりと、武士は律儀に頭を下げてくる。
「いやいや、よろしくお願いしたいのは俺の方だから……じゃあ、あんまり二人きりの所邪魔するのも悪いから、俺は行くよ」
「いえ、邪魔だなんて、そんな――」
 引き留める様に手を出す武士を振りきって、月彦はやや強引に宮本邸への道を急ぐ。
(ごめんな、武士くん。本当は俺自身が、由梨ちゃんに会いたくて堪らないんだ)
 心の内で謝罪をしながら、月彦は息を弾ませ宮本邸への道を急ぐのだった。
 



 武士と話し込んでしまったせいで、結局宮本邸への到着は予定時間丁度となってしまった。
 逸る気持ちを抑えながらインターホンを押すと、二秒と経たずにドアが開かれた。
「先輩っ……!」
「うわっ、と……ゆ、由梨ちゃん……早かったね……」
 玄関から飛び出してくるなり、いきなり抱きつかれてしまい、さすがの月彦も面食らってしまう。
「も、もう……“準備”の方はいいの?」
 はい、と由梨子は抱きついたまま頷く。
「そ、そっか……じゃあ、出発しようか」
 はい、と頷くも、由梨子はなかなか離れなかった。たっぷり一分ほど抱きついた後、漸く離れた時には顔が真っ赤になっていた。
「っと、すみませんでした……先輩……我慢、できなくて……つい……」
「い、いや……別に構わないけど……ええと、荷物はこれで全部?」
 月彦も照れ混じりに笑いながら、玄関の所に用意されているキャリーバッグと紙袋に手を伸ばす。
「あっ、先輩! 私が自分で持ちますから」
「いいっていいって。荷物持ちくらいしないと、迎えに来た意味がないからさ」
「そんな……じゃ、じゃあ……そっちの袋は私が持ちますから」
 と、半ば無理矢理に紙袋が奪われる。
「やっ、べつにそんなに重い物でもないし、俺は構わないんだけど……」
「わ、私が……構うんです。だって、先輩の両手が塞がっちゃったら……」
 ちらり、と。意味深な上目遣いを向けられる。
(ああ、成る程――)
 鈍い月彦も、さすがにそこで合点がいった。そう、今日はクリスマス・イブなのだ。
「……そっか、解った。じゃあ荷物は半分ずつ持とうか」
「はい……ぁっ……」
 月彦は右手にキャリーバッグの取っ手を持ち、左手で由梨子の右手をそっと握る。
「す、すみません……先輩……その、出る前に……鍵をかけないと……」
「あ、あぁ……そうだったね。ごめん、気がつかなくて」
 慌てて手を離し、由梨子が施錠をするのを見届けてから、改めて手を握る。
「じゃあ、行こうか」
「は、はい……」
 並んで、宮本邸を出、紺崎邸へと向かう。
(あぁ……由梨ちゃん、本当に可愛いなぁ……)
 並んで歩きながらも、チラチラとつい隣を盗み見てしまう。白のダッフルコートからすらりと延びた黒タイツの足に、情欲よりも何よりも純粋に胸がときめいてしまうのだ。
(ヤバいくらい可愛いなぁ……今すぐ食べちゃいたいくらいだ)
 じゅるり、と溢れそうになる涎を嚥下しつつ、チラチラと盗み見を続けていると。
「あの、先輩……私の格好、何か変ですか……?」
「えっ、あ、いや……全然変なんかじゃないよ。むしろ……」
「むしろ……?」
 首を傾げながらその続きを催促され、うぐと月彦は言葉に詰まってしまう。
(ええい、何を躊躇う事がある。“事実”をそのまま口に出せばいいだけじゃないか)
 嘘をつく必要も、誤魔化す必要も無いのだ。コホン、と月彦は軽く咳をつく。
「……はっきりいって、滅茶苦茶似合ってる。ヤバいくらい可愛いよ、由梨ちゃん」
「ぇっ……あ……ありがとう、ございます……」
 ぷしゅーっ、と真っ赤な耳から湯気を出しながら、由梨子はマフラーの中に顔を埋めてしまう。ぎゅうっ、と強く手を握り替えされたのは照れ隠しだろうか。
(……イカン、会話が止まってしまったか)
 このまま二人ともだんまりで歩き続けるのもなんだか勿体ない気がして、月彦は必死に話題を捜した。
「ああ、そうだ。さっき、武士くん達に会ったよ」
「えっ……弟に……ですか?」
「うん、彼女と一緒だった」
「……どんな、女の子でした?」
「どんな……って、由梨ちゃんは会った事ないの?」
「はい。武士が家に彼女を呼ぶ時は、予め私が家を空けてましたから」
「そっか。大人しそうな、綺麗な人だったよ。結構年上に見えたな……高校三年か大学生くらいじゃないかな」
「年上……なんですか。てっきり、同じ中学生だとばかり思ってました」
 武士の彼女は年上らしいと聞くや、由梨子が浮かない顔をする。
「年上だと、何かマズイの?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……単純に、私自身……“年上の女性”と巧く行った事が無いから、そう感じてしまうのかもしれません」
「そ……っか。そういや、姉ちゃんの前に付き合ってたって人も……」
「はい。二つ上の……先輩でした」
 いつぞや、病院で泣いていた子だ――記憶を振り返るなり、月彦ははてと首を傾げる。
(んん? もしかしてさっきの人って――)
 病院で見た娘に似てはいなかったか。
(似てる……気はする……けど……)
 雰囲気が明らかに違い過ぎて、やはり同一人物とは思えない。何より、“乳スカウター”の示す数値があまりに違いすぎるのだ。
(やっぱり気のせいか。他人だけど似てる、っていう人なんていくらでも居るもんな)
 第一、同一人物だったから何だというのか。世の中、死んだ夫の弟と再婚する人だって居るのだ。宮本武士が誰と付き合おうが、自分にはそれを咎める権利も義務も無いのだ。
「……先輩?」
「ああ、いや……何でもないよ。とりあえず一旦うちに荷物置きに行こうか。必要なものの買い出しとかはその後って事で」
「そう、ですね。……なんだか、凄く緊張します」
 ぎゅう、と繋いだ手が由梨子に握りしめられる。
「そんなに強張らなくていいって。うちには俺しか居ないんだから」
「はい、それは……解ってますけど……」
 苦笑しながらも談笑に花が咲き、程なく紺崎邸に到着した。
「ささっ、遠慮せずに上がって
「はい、おじゃまします……」
 そろりと、まるで足音を消すような足運びで、由梨子も月彦の後に続く。キャリーバッグを抱え上げるようにして階段を上がり、月彦は自室へと足を踏み入れる。
「よっと。とりあえずこの辺に置いておけばいいか……由梨ちゃん?」
 何故か部屋の入り口で固まってしまっている由梨子にちょいちょいと手招きをする。
「あ、はい……し、失礼……します……」
「由梨ちゃん、そんなに堅くならないで。自分の部屋だと思って、もっと気楽に、さ」
 家に入る前よりもガチガチになってしまっている由梨子に、月彦はついつい苦笑を漏らしてしまう。
「由梨ちゃん」
「ぇっ、っきゃっ……!」
 部屋の真ん中で立ちつくす由梨子を、そっと抱きしめる。
「せ、せんぱ……んっ……」
 指先で顎を上げさせ、唇を奪う。抱きしめたまま由梨子の後ろ髪を撫で、そのまま肩、背中へと。まるでガチガチに固まってしまっている由梨子の体を解きほぐすように。
「んっ……ぁ……」
 多少は効果があったのだろうか。ガチガチだった体からふっ、と力が抜けるのを感じて、月彦はそれを受け止めるようにしてそっとベッドに腰を下ろす。
「……どう、少しは体の力抜けた?」
 くたぁ、と脱力しきってもたれ掛かってくる由梨子の肩を抱いたまま、月彦は囁きかける。
「は、はい……力は、抜けました、けど……」
「……けど?」
 気になる語尾を尋ね返すや、由梨子はいきなり顔を赤くする。
「な、なんでもありません! もう、大丈夫ですから……」
 ばっ、と。月彦の手をはね除けるようにして由梨子は立ち上がり、距離を取った。
「由梨ちゃん?」
「ほ、本当に何でもないんです! そ、そうだ……先輩、冷蔵庫貸してもらえますか?」
「冷蔵庫? 別に構わないけど……」
「こ、これ……冷やしておかないといけないんです……だ、台所行ってきます!」
「あっ、ちょっ……由梨ちゃん待っ――」
 差し出した手も空しく、由梨子は紙袋を抱えるや、逃げる様に部屋を後にしてしまう。
「……キスは、ちょっといきなり過ぎたかな……」
 思いの外、由梨子と離れていた時間によって生まれた溝は深いのかもしれない。こつん、と己の頭を軽く小突いて、月彦もまた由梨子の後を追った。
 


 “紙袋の中身”を冷蔵庫にしまうなり、由梨子はその場にぺたりとしゃがみ込んでしまった。
(だめ、だめ……浮かれちゃ、だめ、なのに……)
 ふぅ、ふぅと無駄に荒い呼吸を整えながら、ぎゅうと。スカートの上から下着を押さえつける。
(先輩の部屋に入れてもらえただけでも、嬉し過ぎて倒れちゃいそうだったのに……)
 その上、さらにあんな奇襲までされるとは思わなかった。そのままベッドに押し倒されることを多少なりとも期待してしまった自分が恥ずかしくて、由梨子は部屋を逃げ出してしまったのだ。
(……先輩に、絶対……変に思われた……)
 あの退室の仕方は、明らかに不自然だった。しかし、あの時は頭に血が上ってしまって、ろくに考える事も出来なかったのだ。
 とにかく、早く月彦から離れなければと。そうしなければ、由梨子自身、自分を抑える自信が無かった。
(私だって、先輩にずっと会えなくて……寂しかったんですから…………)
 それは一体誰に対する言い訳か。由梨子は胸の内で呟いて、部屋に戻ろうとそっと立ち上がる。
(下着……代えなきゃ……)
 つくづく、己の体質が恨めしかった。折角お気に入りの下着を上下セットで身につけてきたというのに、それが早速崩れてしまうのだ。肩を落としながら階段を上っていると。
「あっ、由梨ちゃん。もう冷蔵庫にはしまった?」
「せ、先輩……は、はい……もう、大丈夫、です……」
「そっか、良かった。それじゃあ早速買い出しでも行く?」
「え、っと……そ、そう……ですね……ぁっ……」
 由梨子が踊り場で躊躇っていると、またしてもぎゅうっ、と抱きしめられた。
「それとも、少し部屋で休む?」
「せ、先輩……ぁっ……」
 今度は、キスまではされなかった。されなかったが、月彦の両腕から受ける圧力に、由梨子は思わずぎゅうと太股を閉じた。
(やだっ……だめっ、だめっ……!)
 必死に抑えようとしているのに、抑えきれない。下着が濡れ、ぴったりと張り付いていく感触に由梨子は耳まで顔を赤くする。
「由梨ちゃん、大丈夫? 随分顔赤いみたいだけど」
「だ、大丈夫です……本当に何でもないですから……」
「そうは見えないけど……熱でもあるのかな?」
「せっ、先輩!?」
 とんっ、といきなり額を重ねられ、由梨子はもう目眩すら感じた。
「んー……やっぱり少し熱があるみたいだ。由梨ちゃん、少し部屋で休んでなよ、買い出しは俺が一人で行ってくるからさ」
 そこで漸く抱擁が解かれた。由梨子はふらつきながらも、階段の壁にもたれるようにして何とか立つ。
「だ、大丈夫ですから……私も、一緒に……行きます」
「でも、熱があるのに無理は良くないよ。もし悪化でもしたら、折角のクリスマスが台無しになっちゃうし」
「熱なんかありませんっ」
 そこを誤解されて、変に遠慮をされたり病人扱いされては堪らないから、由梨子はついつい声を荒げてしまった。
「か、顔が赤くなるのは……先輩に、抱きしめられたからです……体温が上がっちゃうのも、同じ理由、です……だから、病気じゃ……ないんです……」
 そして、皆まで言わねば解ってくれない、鈍い先輩に対して恨みがましい目を由梨子は向ける。
「ご、ごめん……俺、てっきり……ほ、ほら……由梨ちゃん寒いの苦手って言ってたし……」
 さすがに自分が勘違いをしていたことに気がついたのか、月彦もまたばつがわるそうに頭を掻く。
「そ、そっか……病気じゃないんなら……じゃあ、予定通り――」
 買い出しに、と月彦が階下へと降りようとする。由梨子もそれに続こうとして、はたと立ち止まる。
「どうしたの? 由梨ちゃん」
「すみません、ちょっと……忘れ物しちゃって」
 早足に部屋に戻ったのは、勿論忘れ物をしたからではなかった。こんな事もあろうかと、少し多めに持ってきておいた下着に急いで履き替え、由梨子は月彦の後を追う。
「お待たせしました、先輩」
「ん、じゃあまずはどこに行こうか」
 今度は手を繋ぐだけではない。しっかりと腕を組まれ、由梨子はもうそれだけでどうにかなってしまいそうだった。

 月彦と二人、今まで会えなかった分の寂しさを埋めるように話をしながら商店街を歩いた。古書店やレンタルショップ等々、食材の買い出しには無用の店にまで足を運んだりもしたせいで、本来の用事を終えた頃にはもう辺りはすっかり暮れていた。
「じゃあ、そろそろ家に戻ろうか」
 月彦に促されるまでもなく、既に二人とも手荷物で一杯一杯だった。
「そうですね、ご飯の準備もしないといけませんし」
「俺も手伝うよ。由梨ちゃんと料理するのは楽しいし」
 それは、由梨子もまた同感だった。前に二人でクッキーを作った時の事を思いだして、由梨子はつい微笑みを盛らしてしまう。
 やや早足気味に紺崎邸へと帰るなり、早速調理に取りかかった。
(あぁ……本当に夢みたい……先輩と家で、一緒に……)
 二人して手を洗い、エプロンなどをつけて台所に立っていると、まるで本当の恋人同士になったのではないかと錯覚してしまいそうになる。
「えーと、とりあえず俺は何をすればいいかな?」
「あ、はい……そうですね……じゃあ、タマネギをみじん切りにして炒めてもらえますか?」
「了解、まかせといて……ハンバーグ作るんだよね?」
「はい、タマネギは色が茶色っぽくなるまでしっかり炒めて下さいね」
 月彦が些か慣れぬ手つきでタマネギをみじん切りにし、炒めている間に由梨子は他の料理の準備を進める。サラダ用のマカロニ、ジャガイモを茹でながら、同時にメインであるハンバーグの準備の方も勧めていく。
 勿論、夕飯のメニューにハンバーグを選んだのは月彦の大好物であるからだ。そして同時に、由梨子の得意料理でもあった。何度か作った弁当のおかずの中でも、ハンバーグの評判だけはことさら良かったのだ。
「由梨ちゃん、これくらいでどうかな?」
「ん……良い感じですね。じゃあタマネギをこっちのボウルに移して下さい」
 差し出したボウルに、月彦が炒めたタマネギを移す。そこにさらに牛挽肉、豚挽肉を入れて由梨子はしっかりと捏ねる。
「母さんのも美味いんだけど、由梨ちゃんのは別格だからなぁ……。作り方をきちんと見ておかなきゃ」
「だめです、先輩は次の仕事、キャベツの千切りの方をちゃんとやっててください」
 苦笑をしながら、由梨子は塩こしょうと醤油少々、つなぎに家から持参した特製のパン粉と、牛乳を混ぜ合わせる。
「そのパン粉が美味さの秘訣とみた!」
「……見られちゃいましたか。でも、パン粉の正体までは教えませんからね?」
 と、もったいぶってはみたものの、実は近所のパン屋で買ったフランスパンを乾燥させておろし金ですり下ろしたものだ。確かにパン粉には拘っているが、本当に拘っているのはその前、調理直前に牛挽肉と豚挽肉を合わせたことだ。しかし、どうやら其方の方には、月彦は気がつかなかった様らしかった。
「もう、先輩。私の方ばかり見てないで、きちんと手元を見ながら切らないと怪我しちゃいますよ?」
「大丈夫だって。こう見えて結構母さんの手伝いとかで家事はやってるんだから。キャベツを切るくらい――痛ッ……!」
 言う側から月彦が悲鳴を上げて、慌てて包丁を置き、左手の人差し指を咥える。
「先輩、大丈夫ですか!?」
「大丈夫、ちょっと指先切っちゃっただけだから……ほら、もう血は止まったよ」
 もう大丈夫、と示す様に月彦が人差し指を見せるが、みるみるうちに赤いものが滲み、つつつと雫が堪っていく。由梨子は一も二もなく、月彦の左手を掴み、その指先に唇をつけた。
「ゆ、由梨ちゃん!?」
 ぎょっとした様な月彦の声にも構わず、由梨子はちゅっ……と指先に溜まっていた血を舐め取り、後ろ手てティッシュを一枚手に取ると唇を離すなりそっと巻いた。
「ん……先輩、救急箱はどこですか?」
「やっ、別にそんな……こんなの舐めてたら治るって」
「ダメです! きちんと消毒して、絆創膏を貼って下さい。料理の方は私一人でやりますから」
「いやでも……」
「先輩、包丁でも使い方を間違えると人間の指くらい簡単に落ちちゃうんですから。私も、先輩と一緒に料理を出来るのは嬉しいんですけど、怪我にだけは気を付けて下さいね?」
 めっ、とまるで聞き分けの悪い子供に言い聞かせるように言って、月彦がきちんと消毒をして絆創膏を貼るまで、由梨子はじいと無言の圧力をかける。
「よし、ちゃんと絆創膏も貼ったから料理の続きを――」
「ダメです。もし雑菌とかが入っちゃったらどうするんですか。料理の方は私が一人でやりますから、先輩はお皿を出したりとか、そっちの方で手伝って下さい」
「そ、そんな……」
 ちょっぴり泣きそうな顔になる月彦に態とつれなく背を向けて、由梨子は調理を再開する。
(厳しい事を言ってすみません、先輩……でも――)
 一緒に料理をするのは楽しい。しかしこうして、月彦のために料理をする自分をしっかり見て貰えるというのも、なかなか侮れない嬉しさがあるのだ。
(料理なら、真央さんにも……絶対負けないんですから)
 張り合うまいとしても、気がつくと抜きん出ようとしている――そんな自分を、由梨子は徐々に抑えられなくなっていた。
 


 しょんぼりと、悪さをして叱られた犬の様な心持ちで由梨子の背を眺める月彦であったが、これはこれで悪くない、等と徐々に思い始めていた。
(あぁ……いいなぁ、こういうの……新鮮で……)
 真央が料理をする所など、恐くてまともに見る事ができないか、いつポケットから派手な色の液体が入った小瓶を取り出すかと見張っていなければならないかのどちらかだ。
 当然の事ながら、由梨子が料理している様を眺める分にはその手の危惧は皆無であり、それどころか次第に完成していく料理を見るにつれて期待に胸が高鳴るのだから、手伝いが出来ないくらいの不満などとっくに吹き飛んでしまった。
(……それに、自業自得だしな…………)
 由梨子と二人きり――そのシチュエーションに、自分でも思っていた以上に浮かれてしまっていたらしい。今ですら、慣れた手つきでてきぱきと調理を勧める由梨子の後ろ姿を見ているだけで、背後からそっと忍びより、抱きしめてしまいたくなるのを我慢しているくらいだ。
(まだ、ダメだ……おあずけ、おあずけ……)
 今、そんな事をしたら一気にネジが吹っ飛んでしまいそうだった。ただでさえ、真央が故郷へと旅立ったせいで、ずいぶんとご無沙汰なのだ。
(焦るな、焦るな……今はただ、由梨ちゃんと一緒に居られるこの楽しい時間を満喫する事だけを考えるんだ……)
 胸の内で素数などを数えながら、月彦は由梨子の後ろ姿に見入る。が、少しでも気を抜くと、由梨子の後ろ姿がぼんやりと肌色に変わり、気がつくと裸にエプロンというひどく好戦的な姿に切り替わってしまうのだ。ハッとかぶりをふり、頬をぺちんと叩いて見直せば、当然そんな幻影は消えて失せるのだが、幻だと解っていてもタチが悪かった。
(ヤバいな……俺、相当欲求不満みたいだ……)
 水垢離でもして頭を冷やしてこようか――とも思うも、ここでこのまま料理をする由梨子の姿を見ていたいという誘惑もまた強烈であり、結局月彦は時折下される由梨子の言葉通りに皿を用意したり、コップを用意したりと、終始台所から離れることは無かった。
「あと少しで完成ですから、もうちょっとだけ待って下さいね」
「もう少しで完成って……それで終わりじゃないの?」
 眼前のハンバーグはどう見てもきちんと焼き上がっているのだが、どうやらまだ続きがあるらしかった。
「表面に焦げ目をつけた後、最後に少しソースで煮るんです。本当にもう少しですから」
 欲求不満で由梨子の体の線ばかり追いかけている月彦は、己の腹の虫がどれほど由梨子の調理を急かしているのか全く自覚していなかった。
「そうだ、先輩。さっき買ったツリーの準備お願いしてもいいですか? 私は先に後かたづけ済ませちゃいますから」
「しまった、ツリーの事すっかり忘れてた!」
 由梨子の尻を眺めている場合ではなかった。先ほど買い出しの際に二人で買った簡易ツリーの組み立てという仕事があったではないか。
 月彦は大あわてで玄関に起きっぱなしになっていたツリーの箱を開け、組み立てを始める。ツリーの構造は思ったよりも簡単で、ものの数分で組み立てを終える事が出来た。付属の綿と色とりどりの電球を飾り付け、小さなサンタの人形をぶら下げ、てっぺんに星の飾りをつけて、台所へと戻るや否や。
「う、わ……」
 月彦は思わず感嘆の声を漏らしてしまった。
「ツリーの場所は空けておきましたから、ここに置いちゃって下さい」
 言われるままに、月彦は由梨子が予め空けておいたテーブル上のスペースに小さなツリーを置く。付属のコンセントを刺すと、イルミネーションがちかちかと光り始めるが、月彦の目は違うものに釘付けになっていた。
「あの、先輩……?」
「あ、いや……ごめん、ちょっと驚いて……そのケーキ、いつ買ってきたの?」
 様々な料理が並ぶ中で、一際異彩を放っているのが他ならぬケーキだった。通常の白くて丸い、苺の乗ったオーソドックスなケーキとはうって変わって、横倒しになった木の幹のような形のそれは、普段あまり目にしないものだった。
「買ったんじゃなくて、作ったんです。ほら、冷蔵庫貸してくださいって言ったじゃないですか」
「え……これ、由梨ちゃんが作ったの?」
 世辞でもなんでもなく、心底月彦は驚いた。ケーキの出来を見るに、どうみてもプロの菓子職人が作ったとしか思えなかったからだ。
「ブッシュ・ド・ノエルっていうケーキなんです。折角のクリスマスですから、普通のケーキよりはこっちの方がいいかと思って」
 なるほど。だから買い出しの時にケーキ屋に寄ろうとは言わなかったのだ。てっきり、冷蔵庫の中に葛葉が買ったケーキがあったからだとばかり、月彦は思っていただけに、本当に言葉が出ない程に面食らった。
「あ、あの……見た目は木みたいですけど……味は、ちゃんとしてますから…………」
 ケーキを見るなり、月彦が茫然自失としているのを悪い方に受け取ったのか、由梨子が不安げにそんな事を言ってくる。
「あぁ、ごめん……ちょっと驚いてて……由梨ちゃんが料理上手なのは知ってたけど、ここまで巧いとは思ってなかったから……」
「ぁっ……い、いえ……そんな……」
 ぎゅう、と由梨子は顔を赤くして、エプロンを握りしめる。
「何回も失敗して、やっと巧く出来たのを持ってきただけですから……」
「それでも、凄いよ。食べるのが勿体ないくらい上手に出来てる」
「そんな……褒めすぎです、先輩……」
 由梨子は顔を赤くしたまま、ふいと視線を逸らしてしまう。そんな仕草がいじらしくて、月彦はついつい由梨子を抱きしめてしまう。
「きゃっ……せ、先輩……ぁ……」
「ありがとう、由梨ちゃん。俺、クリスマスを由梨ちゃんと過ごす事に決めて、本当に良かったって思うよ」
「あぁ……先輩……わ、私も……んっ……!」
 由梨子の言葉を聞きたいという想いよりも、その唇が欲しいという想いの方が強かった。舌は絡めず、純粋に唇のみ触れるキスは、たっぷり十秒ほどに及んだ。
「ん……もっとキスしたいけど、折角の由梨ちゃんの料理が冷めちゃうといけないから……」
「ぁ……は、はい……そうですね……」
 名残惜しみながらも離れ、椅子に腰掛けた。買い出しの際に買ったシャンパンを開けて、互いのグラスに注ぎ、それらをかちんと合わせる。
「メリークリスマス、由梨ちゃん」
「メリークリスマス、先輩」
 そして、二人きりの聖夜が幕を開けた。
 


 静かな夜だった。
 窓の外から聞こえるのは微かな風の音、そして隣の部屋に住んでいるであろう一家の笑い声。しかし、それらの音は両耳につけているイヤホンによって殆ど遮断されていた。
 とはいえ、イヤホンの先に繋がっている大仰なラジオは起動していない。ただ、習慣としてそうしていると落ち着くというだけなのだ。
 きりの良いところまで問題を解き終え、不意に壁掛け時計に目をやる。時刻は午後八時をやや過ぎた辺り、今日の勉強はこの辺りにしておこうと、妙子は問題集と筆記用具を片づけた。
「…………」
 いつもなら、ラジオでも聞きながら読みかけの小説の続きを楽しむ時間帯なのだが、今日に限ってはどうもそういう気分にはなれなかった。
 ふう、とため息をついて妙子は部屋着のポケットから家の鍵を取り出した。少し前までは、不動産屋から鍵を渡された時のままのプラスチックのプレートがついていたそれには、今はなんとも可愛らしいコーギーのキーホルダーがついていた。
 そして、それを見る度に、妙子はなんとも複雑な気分になるのだ。
(バカバカしいわ……なんで私がアイツに謝らなきゃいけないのよ……)
 複雑な気分になるのは、負い目のせいだった。以前の場合は兎も角として、このキーホルダーに関しては、思わず手を出してしまった己を悔やんでいた。
(適当にありがとうって言って、受け取れば……それで済む事だったのに)
 “謝る必要など無い”――そう言う自分と、“でもひっぱたく事は無かった”そう言う自分の鬩ぎ合い。そのせいで、もう何日モヤモヤした気分のまま過ごした事か。いっそあんなどうでも良い男との事などさっさと忘れてしまえれば気が楽なのだが、それが出来る程、妙子は不真面目で不義理な性格ではなかった。
(全く……良い迷惑だわ)
 そう、迷惑千万だ。早いところ一言謝って、スッキリしておきたいというのに、そういうときに限ってあの男は全顔をみせないのだ。
(さっさと来ればいいのに)
 半ば苛立ち紛れにそんな事まで思ってしまう。いっそこちらから電話でも掛けて――否、それだけは駄目だ。
(甘やかすと、すぐつけあがるんだから)
 昔はそれが解らず、随分と苦労をした。だから、此方から電話をするなどもってのほかなのだ。……そう、向こうからかけてくるのならば、兎も角として。
「………………」
 不意に、携帯の中折れを開き、既に着信済みのメールの一つを開く。それは四日ほど前に千夏から届いた――イヴの夜に一緒に遊ばないかという内容のメールだった。
 勿論、返信は既に返していた。イヴの夜はこちらの友達と集まって遊ぶから、そちらには行けない――そのような旨を。それは事実ではないのだが、他にうまい口実が思いつかなかったのだからしょうがない。
(今頃……三人で集まってるのかな……)
 それはさぞかし楽しい宴になっているだろう。何故なら、自分が参加しないのだから。幼稚園以来の幼なじみである四人だが、その中で自分だけが浮いた存在であることは、妙子自身自覚していた。
 四人で集まり、遊び、騒ぐのは本当に楽しい。それは妙子も認めていた。しかし、四人のなかで自分だけが――まるで一つだけ形の違う歯車が交じっているかのように――かみ合わせが悪くなる事も否めないのだ。
 偏に、妙子自身の性格――性分といってもいい問題だった。およそ、羽目を外すという事が出来ない性格、特にクリスマスといったイベントの際に集まると、それがいつも場の盛り上がりの足を引っ張ってしまうのだ。
 だから、身を引いた。大切な友人達の宴を邪魔しては悪いから。より楽しんで欲しいから。誘惑に負けて誘いに乗ってしまった場合の気まずさ、申し訳なさに比べれば、一人で過ごす夜の寂しさなど大したことはなかった。
(そうよ、私が居ない方が……あいつもギクシャクしないもの)
 だから、これで良いのだ。後日、千夏あたりから宴の様子さえ聞ければそれでいい。友人達の楽しい話を聞くだけで、まるで自分もその場に居たかのように楽しむ事が出来るのは、昔からそういった事を繰り返してきたからだ。
(……一人は、慣れてるわ)
 月彦、千夏、和樹……皆、兄なり姉なり妹なりといった兄弟が居るが、自分は一人っ子だ。さらに言うならば、母親も居ない。仕事で家を空ける事が多かった父は、ある日一頭の子犬を貰ってきた。
 今だからこそ解る。あれは父親の配慮だったのだ。昼間、友達と一緒に居れる間は良い。しかし、家に帰って――自分も毎日早くに帰る事は出来ないから――妙子が一人にならないようにと。
 父親にとっても、妙子にとっても誤算であったのは、二人ともこの新しい小さな家族が思いの外気に入ってしまったという点だった。それからは半年に一頭のペースで家族は増え続け、今では犬を飼っているのだか犬の群れのなかに自分達が交じっているのか解らなくなってしまっていた。
 そんな生活も、父親の転勤という形で一月ほど前に終わった。
 恐らく、その頃の自分であれば、一人で過ごすイヴの夜がこれほどまでに耐え難くは感じなかった事だろう。寂しい気持ちも、我先にと群がってくる犬達の相手をしているだけで紛れるからだ。
 そう、紛らわさなくてはならない。そうしなければ……いつか孤独に耐えられずに取り返しのつかないことをしてしまいそうだった。それは、ひどく簡単な手順ではあるのだ。
 即ち、“こっちの集いが思いの外早く終わったから、今からなら合流出来る”という旨を、千夏にメールで送るだけでいいのだ。それだけで、あの面倒見の良い幼なじみは息を弾ませて駆けてきて、渋る自分の腕を引いて無理矢理宴の地へと連れて行ってくれる事だろう。
 しかし、そのような事は考えこそすれ、決して実行には移さない。妙子は、己の性格というものをきちんと知っている。白石妙子は、決してそのような“弱音”や“妥協”はしない女なのだ。
 そう、“自分から”は絶対に出来ない――だから。
「……っ……!」
 机の上に置いてあった携帯がぶるぶると震え始めた時は、本当に驚いた。乱れそうになる鼓動を抑えながら、震える手で手に取ったその携帯の外側の液晶画面に映し出されていた名前を見た刹那。妙子は軽い落胆と、そしてそれを遙かに上回る安堵を感じずにはいられなかった。
 妙子は携帯の中折れを開き、通話ボタンを押した。
「…………もしもし、父さん?」
『もしもし、妙子か?』
 本人の携帯にかけておいて“妙子か?”もなにもないと思うが、久方ぶりに聞いた父親の声に懐かしさがこみ上げて、そんな些細な事などどうでもよくなってしまった。
『ちょっと、声が聞きたくなってな…………元気にしているか? そっちは寒くないか?』
「うん、大丈夫。こっちは相変わらず寒いよ。今夜は雪が降るみたい。……そっちは? みんな元気にしてる?」
『まあ、少なくとも雪が降る――という事はないな。……みんなに関しては……聞いての通りだ』」
 父親は在宅中なのか、その声の向こうからたくさんの犬達の声が聞こえた。犬達もひょっとしたら、電話越しに妙子の声が解るのか、吠え声が加速度的に大きくなり、父親の声を聞き取る事すら困難になってくる。
『ちゃんと飯は食ってるか?』
「ちゃんと食べてるよ。葛葉さんもよくしてくれるし……父さんこそ、外食ばっかりじゃ駄目だよ?」
『あ、あぁ……それは解ってるんだが……こ、こらっ……!』
 父親からの返事が、次第に悲鳴混じりになってくる。聞こえてくる声や鼻息から察するに、セントバーナードのギャプランや、アイリッシュ・ウルフ・ハウンドのガブスレイ辺りに体当たりを喰らっているのだろう。
 すまない、これ以上話していたら服がズタズタになりそうだ――父親のそんな悲痛な声を最後に、通話は切られた。程なく、父親から届いたメールには、携帯のカメラで撮影したと思われるやや興奮気味の犬達の画像が添付されていた。文章の方はたった一言、“メリークリスマス、妙子”。
「……メリークリスマス、父さん」
 独り言と同じ内容のメールを返信して、妙子は静かに携帯電話を置いた。
「……メリークリスマス、かぁ……」
 咄嗟に己の口から出た呟きに、思わず苦笑してしまったのは、不意に昔の事を思いだしてしまったからだ。母親が居らず、父親も家を空けがち。文字通りの鍵っ子だった妙子は、長らくそういった“家族の団らん”めいたイベントが嫌いだった。
 何のことはない、ただのやっかみ――所謂“酸っぱい葡萄”だったのだ。そんな妙子がこうして、無意識のうちにでも微笑み混じりに“メリークリスマス”と言えるようになったのには、幼なじみのお節介があったからだ。
「ふふっ……」
 ひねた子供だった自分――今でこそ、そう思えるわけだが――の腕を引き、半ば無理矢理に自宅のクリスマスに参加させた少年の顔を思い出して、不覚にも笑みまで漏らしてしまう。
 そう、まだ霧亜との確執も何もない、小学校も低学年の頃の話だ。――しかし、忘れられない思い出だった。
「……やっぱり、断るんじゃなかったな」
 後悔めいた呟き、しかし手にとったのは携帯電話ではなく、鍵の方――コーギー犬のキーホルダーの方だった。そのキーホルダーを見つめる妙子の目は、想い人からの贈り物に向ける眼差しそのものなのだが、勿論妙子自身にその自覚は無いのだった。
 


「あぁー、美味かった! 最高に美味しかったよ、由梨ちゃん」
「……本当は、明日の朝の分まで作ったつもりだったんですけど……」
 苦笑しながらも、由梨子は呆気にとられているようだった。確かに、月彦としてもまさかあの量を一気に食べきれるとは思ってもいなかった。
(由梨ちゃんの料理じゃなかったら絶対無理……だったな……)
 愛しい相手の手料理だからこそ、米粒一つ残すものかと、ただならぬ底力を発揮出来たのだろう。そうに違いない。
「先輩、ひょっとして……足りませんでした?」
「いやいや、そんな事ないよ。どっちかっていうともうギリギリ、腹十八分目くらいなんだけど、美味しいから食べ過ぎちゃったって感じで」
「そんなに無理して食べなくても……食べ過ぎは体に良くないですよ?」
「大丈夫、俺もまだまだ育ち盛りだからさ」
 本気で心配するような由梨子の言葉に、ついついそんな虚勢をはってしまう。さすがに「真央にいつも搾り取られてるから、食える時に食いだめしないと……」等と、“本当の事”は言えるはずもなかった。
(さてと、飯も食い終わったし……後はいつ“コレ”を渡すかだな……)
 かさりと、月彦は部屋着のセーターの腹部に密かに隠し持っている紙袋の感触を確かめるように、そっと手を這わせる。
(風呂入った後……とか、変だよな。やっぱり今しかないか)
 うむ、と覚悟を決めて、セーターを捲ろうとした瞬間だった。
「あの……先輩、ちょっと待っててもらえますか?」
 由梨子が不意に席を立ち、小走りに二階へと消えていく。完全に出鼻を挫かれた形の月彦としては、大人しく由梨子が戻ってくるのを待つしか術が無かった。
 由梨子は、すぐに戻ってきた。その手には綺麗に包装された紙袋が握られていた。
「クリスマスプレゼント、いつ渡そうか迷ってたんですけど……あんまり遅くなるのも変ですから」
「あ、ありがとう……由梨ちゃん。そうだ、俺も、これ……由梨ちゃんにと思って」
 照れながらも由梨子から紙袋を受け取り、そして腹部に隠しておいたプレゼントをお返しにと由梨子に手渡す。
「そんな……先輩にはこの間腕時計をもらったばかりですから……プレゼントなんて……」
「あれは、約束だったからだよ。クリスマスはクリスマスでちゃんと別にやらなきゃ」
 返却は受け付けない、とばかりに月彦は掌を見せる。由梨子は苦笑して、
「……ありがとうございます。本当に、嬉しいです」
「俺もだよ。早速開けてみてもいい?」
「はい、私も……開けちゃいますね」
 二人して、がさごそと包みを解き、そして全く同じタイミングで感嘆の声を漏らした。
「これ……は、マフラーだね。しかも、……手編み?」
「はい、なんとか……マフラーっぽい形にはなってると思うんですけど……先輩のは手袋ですね。ありがとうございます、丁度今つかってるのが古くなってたんです」
「俺のは手作りじゃなくて申し訳ないけど……」
 苦笑。きっと寒がりな由梨子の事だ、冬場の手先の冷えは辛かろうと思ってのプレゼントだった。以前スーパーで偶然に出会った際、つけていた手袋があまり暖かそうではなかったというのも理由の一つだった。
「しかし、由梨ちゃんって……編み物も得意なんだね……これ、そのまま店で売れるよ」
 毛糸で丁寧に編まれたマフラーを紙袋から取り出し、早速首に巻いてみる。長さといい、毛糸の感触といい、まるでオーダーメイド品のようにベストフィットだった。
「本当は、セーターを編もうかと思ったんです。でも、先輩のサイズが解らなくて……こっそり調べようかとも思ったんですけど、なかなか機会もありませんでしたから……」
「うぐ……」
 なかなか機会が無かった――それは暗に、何度もキャンセルになった由梨子とのデートの事を揶揄されている様で、月彦は胸が痛かった。
(確かに、由梨ちゃんとのデートって、キャンセルが多かったかもしれない……)
 自分の予定をあくまで強引に貫こうとする雛森姉妹や真央に比べ、性格的にも控えめな由梨子がその分割を食ってしまうのは自明の理ともいえる。
(いや、だからこそ……俺が由梨ちゃんとの予定を優先しなきゃいけないんじゃないか……)
 しかし、過去の事例を紐解くに、どの場合も不可避の災難であったように思えるのもまた事実。結果として、これからは気を付けよう、という無難な結論に落ち着くのだった。
「……あれ、由梨ちゃん……これ、もう一つ入ってるみたいだけど……」
「あっ、それは真央さんへのプレゼントです」
「真央への……?」
「はい。……あの、先輩にだけマフラーを送ったら、真央さんが変に思うかもしれないじゃないですか」
「確かに……でも、由梨ちゃんからだってばれなきゃ問題ないんじゃないかな」
「私も、そう思ったんですけど……でも、真央さんってそういうの敏感そうですから。だったら、真央さんと先輩の二人にプレゼントっていう形にすれば、堂々と送れますし、それに……」
「それに……?」
「真央さんのと色違いのマフラーなら、きっと……使う機会も多くなるんじゃないかと思って……」
「……由梨ちゃん…………」
 ズキリと、月彦は胸の奥が鋭く痛むのを感じた。恐らくは、真央用という事になっているこのマフラーは由梨子自身が一番使いたい筈なのだ。それをあえて恋敵である真央に譲り、自分は二番手へと身を引く――紺崎月彦が好きになった由梨子という女の子は、そういう娘なのだ。
(っ……本当に、良いのか……このままで……)
 この問答を、過去何度繰り返しただろうか。由梨子のような女の子をいつまで二番手の位置に縛り付けておく気だ、と。真央を捨て一番に引き上げるか、或いはいっそ己という呪縛から解放してやるべきではないのか。
 そんな月彦の苦渋が顔にでも表れていたのだろうか。
「……先輩、そんなに困らないで下さい。……私は、本当に二番で良いんです。それ以上なんて絶対望みませんし、先輩と真央さんの関係も壊したくないんです」
「でも、由梨ちゃん……」
「先輩は、真央さんと居るときは、真央さんを一番大切にしてあげて下さい。それ以外の時に、ほんの少しだけ……私の事を想ってくれたら、それだけで……私は幸せですから」
「……由梨ちゃん、本当にごめん…………」
 最早、謝ることしか出来なかった。真央と、由梨子。そのどちらも本命と言えるほどに想いをよせているにもかかわらず、一つに選ぶことができない己が不甲斐なくすら思えた。
(……だったら、せめて……今日と明日くらいは……)
 由梨子に二番手という状態を忘れさせてやりたい――それが、月彦なりに考えた、由梨子への謝罪の方法だった。

 由梨子が食事の後かたづけをする間に、月彦は一足先に風呂の用意を始めた。とはいえ、事前に顔が映るほどにピカピカに磨き上げてあるから、そんなにやることも多くはなかった。
(待てよ……風呂……か……)
 湯を出しながら、はたと。浴室で月彦は考え込む。
(……折角、二人きりなんだし……)
 いっそのこと、由梨子と一緒に入ってみるというのも手ではないのか。無論、由梨子が承知すれば――なのだが。
(由梨ちゃんに聞いてみるか……)
 何となく、由梨子も断らないのではないか――そんな事を思いながら台所へと戻ると、既にあらかたの片づけは終わっていた。
「由梨ちゃん?」
 はてと、月彦が首を傾げたのは、由梨子が見慣れない事をしていたからだ。
「ああ、先輩……すみません、どうしても気になっちゃって」
「ええと……もしかして、包丁を研いでたの?」
 手には包丁、目の前のテーブルには濡れ布巾が敷かれ、その上に裏返しになった茶碗が置かれていた。包丁を持っているのが由梨子ではなく真央ならば、茶碗を食おうとしている様にしか見えない絵だった。
「切れない包丁って、逆に危ないですから……すみません、勝手に研いじゃいました」
「それは全然構わないんだけど……大丈夫なの? 茶碗の底なんかで……」
 包丁を研いだ事こそ無いが、刃物を研ぐ時は砥石を使う――という常識だけは知っている月彦としては、茶碗の底などで到底磨ける筈がないと思ってしまうわけなのだが。
「大丈夫ですよ。私も小さい頃、祖父母に教えてもらってから、ずっとそうしてきましたから」
 苦笑を浮かべながら、由梨子はさらにしゃーこしゃーこと研ぎ、最後に水洗いをして布巾で丁寧に拭く。切れ味の鈍った家庭用万能包丁は、蛍光灯の光を受けてまるで日本刀かなにかのようにキラリと刀身を輝かせていた。
「凄い……指くらいなら簡単に切り落とせそうだ」
「切れますよ? だから先輩、もうふざけ半分で包丁を使ったりしないでくださいね?」
「うぐ……肝に銘じます」
 別にふざけて使ったつもりはないまでも、そう見えるような振る舞いをしてしまったのは事実であり、結果として怪我までしてしまったのだから抗弁の余地すら無かった。
「そ、そうだ! 由梨ちゃん、お風呂の事なんだけど」
「お風呂……私はまだ片づけが少し残ってますから、先輩先にはいっちゃって下さい」
 さらりと言って、由梨子は洗い終わったばかりでまだ濡れている食器を布巾で丁寧に拭き始める。
「そういう訳にはいかないよ。由梨ちゃんはお客様だし、片づけは俺がやるからさ」
「でも……」
「それとも……一緒に片づけをして、一緒に入る?」
 ぼそりと囁くと、由梨子ははたと皿を拭く手を止めた。
「い、一緒って……先輩と一緒って意味ですよね……?」
「うん。由梨ちゃんさえ良ければ、俺は一緒に入りたい」
「ぅ……」
 かぁっ……と、見ていて面白いくらいに由梨子が顔を真っ赤にする。
「……そ、それなら…………私は……一緒が、良いです……」
「そっか、んじゃ一緒に入ろうか」
 はい、と掠れた声で頷く由梨子と共に手早く後かたづけを終わらせ、一端二階の自室へと戻る。互いに着替えを手に脱衣所へと移動し、月彦は当然のように颯爽と服を脱ぐわけだが。
「……由梨ちゃん、脱がないの?」
「あ、いえ……脱ぎます、けど……」
 既に下着一つになっている月彦とはうって変わって、由梨子の脱衣はなんとも辿々しく、もどかしい。
「あの、先輩……向こう向いてて貰えませんか?」
「どうして?」
「ど、どうしてって……そんな風に見られたら……私……」
 ふむ、と月彦は思案して、由梨子の提案を呑むことにした。
(確かに、真央みたいにスパーンと脱ぐわけにはいかないか……一緒に入るの始めてだもんな)
 仮に真央ではなくても、相手が雪乃であれば。きっと提案は聞き入れずにじゃあ俺が脱がしてあげますよとばかりに無理にでも脱がせる所だったが、由梨子相手ではそんな気が起きるはずもなく。
「わかった、じゃあ俺は背中向けてるよ」
「すみません、先輩」
 由梨子の言葉を背中で聞いて、月彦はそのまま仁王立ちになる。見ない、とは言ったものの、しかし両耳に全神経が集中してしまうのは否めず、ちょっとした衣擦れの音一つ拾っては、瞼の裏に由梨子の肢体を描き出してしまう。
(ん、今の音はタイツを脱いだ音かな? あ、今ブラを外したかな……?)
 なまじ絵で見るよりも、音を聞いて妄想を膨らませてしまうほうが興奮してしまうのだから皮肉だった。
「あの、先輩……もう、大丈夫です」
 由梨子の言葉に嬉々として振り返ると――期待とは裏腹に、体にはバスタオルが巻かれてしまっていた。
「せ、先輩!」
「ん?……あっ」
 そして当然の事ながら、“音”で由梨子の肢体を想像している間に愚息はすっかり元気になってしまっているわけで。
「大丈夫、気にしないで」
 “そういった反応”をされるであろうことは、雪乃との事で経験済みだった月彦はひどく慣れていた。
「き、気にしないでって……どうして……先輩、ひょっとして見てたんですか?」
「いいや、断じて見てないよ。……想像はしたけど」
「想像だけで……そんなになっちゃうんですか?」
 呆れた様な、それでいてどこか嬉しい様な、複雑な表情を由梨子は浮かべる。
「まあまあ、堅いことは気にしないで。とにかく早く入ろう、こんな所で裸で突っ立ってたら風邪ひくよ」
 スパーンと最後の一枚を脱ぎ捨て、由梨子の手を引く様にして浴室へと入る。
「んじゃ、まずは俺が由梨ちゃんの背中流すよ」
「えっ、でも……」
「いいから、いいから」
 戸惑う由梨子を無理矢理風呂椅子に座らせ、お湯を掛ける。
「由梨ちゃん、熱かったら言ってね」
「大丈夫、です……んっ……」
「よし、んじゃバスタオル取るよ」
「えっ、そんな……先輩、待っ――」
「取らないと、前を自分で洗えないだろ?」
 問答無用、とばかりにバスタオルを剥ぎ取り、ぽいと脱衣所の方に放り投げる。勿論、これをやってしまうために、半ば強引に“先攻”をとったのだ。
(本来なら、ここでいろいろ悪戯しちゃいたいけど……)
 事実、雪乃の背中を流した時はいろいろ悪さもしたものだ。
(でも今日はクリスマスだし……それに今下手に手を出したら……それこそ歯止めが利かなくなりそうだもんな……)
 ただでさえ“溜まっている”のだ。“寝た子”には今しばらく寝たままでいてもらわなくてはならない。月彦はあくまで、通常通りに背中を流した。
「ついでだから、髪も洗っちゃっていい?」
「は、はい……お願いします」
 あまりに何事もなく背中を流されたからか、逆にそのことが信じられない様な由梨子の声だった。勿論月彦はそんな由梨子の態度には気がつかないフリをして、あくまで普通に髪を洗い、泡を流す。
(俺だって、本当は手で直接触ったり、もにゅもにゅしたり、くりゅくりゅしたりしたいんだ……!)
 しかし、血涙を流す思いでそれを堪えているのは、全ては夜の為だった。
「よし、終わり! じゃあ次は俺の背中をお願いしてもいいかな?」
「解りました……あの、先輩?」
「うん?」
「普通に背中を流すだけで……良いんですよね?」
「勿論」
 まるで、“普通じゃない”パターンがあるかのような由梨子の言い方に、うずうずと心が揺れたが、月彦は我慢した。
(まだまだ……“摘み食い”をしないほうが、メインディッシュは美味しいんだ)
 自分がやったのと同じように、あくまで普通に背中を流してもらい、そして髪を洗ってもらって、最後は二人して湯船に浸かった。
「あの……先輩……?」
「うん?」
 紺崎家の湯船は決して大きくはない。至極、体操座りに近い体勢の由梨子を月彦が抱き込むような形で浸かる事になるわけなのだが。
「あ、あの……ずっと、先輩のが……私の背中に……当たってて……」
「ああ、そのことか。気にしないで」
「き、気にしないなんて……無理、です ……あの、先輩……別に、私……口とかでしても、いいですよ?」
「いや、大丈夫だから。そんな事より、今はこうして由梨ちゃんと一緒にお風呂に浸かっていたい」
 ぎゅうっ、と由梨子の体を抱きしめ、そのうなじに鼻先を擦りつけるようにして匂いを嗅ぐ。
(由梨ちゃんって、ほんと良い匂いがするよなぁ……シャンプーとか、そういう人工的な匂いじゃなくて……なんていうかこう、“女の子”の匂いが)
 くんくんくん……。
 すーはすーは……。
 つい夢中になって鼻を鳴らして、なんともいえぬ“甘い香り”を胸一杯に吸い込んでしまう。
(肌もすべすべだし……あぁっ……もっと触りたい……!)
 こうしてただ抱きしめているだけなど拷問に近い。今すぐ両手を胸元に這わせて、張りのある乳房と、堅く尖った先端をくにくにしてやりたかった。
(でも、我慢、我慢……今は我慢……)
 すんすんすん……鼻先を濡れた髪に触れさせながら匂いを嗅いでいると、不意にムクリと剛直が反応してしまう。すると決まって由梨子が悲鳴ともつかぬ声を挙げて身を強張らせるのだ。
「せ、先輩……?」
「うん?」
「そろそろ……出ませんか? 私、もう……のぼせちゃいそうです……」
「あれ、もうそんなに浸かってたっけ……」
 まだほんの五分か十分くらいじゃなかったかなと首を捻るも、確かに由梨子の顔は赤い。顔だけでなく、全身が紅潮しきっている様だった。
(名残惜しいけど……上がるしかないか……)
 ここで由梨子に湯当たりでもされてしまっては元も子もない。月彦は渋々、湯船から上がるのだった。



 のぼせてしまいそう――その言葉は、必ずしも間違ってはいないが、月彦の解釈通りというわけでもなかった。
(あんなの、拷問です……先輩……)
 愛しい相手との一緒の入浴。それは女性ならば――否、きっと男性でもそうなのであろうが――誰でも夢見る至福の一時だ。由梨子も、そのこと自体はなんら不満は無く、文字通り夢にまで見た事の一つが叶ったと胸が一杯になる筈だった。
 問題なのは、入浴の最中ずっと――月彦が臨戦態勢だった事だ。気にするな、と言われても、どうしても目はそちらに向いてしまう。グンッと痛々しいまでにそそり立った男性器が目に映るたびに、心はかき乱され、なんとかしなければという気にさせられる。
 挙げ句、抱きしめられるようにして湯船に収まった後は、始終背中に押し当てられる始末だ。膨張した海綿体から伝わる熱に否が応にも体は火照り、時折びくっ、びくと震えるたびに過去の交接を思い出してしまった。
(だめ、だめ……今、下着なんか履いたら……)
 脱衣所で体を拭きながら、必死に心を落ち着けようとするが無駄だった。火照った肌は冬の寒気に晒されて尚紅潮が止まない。完全に、“男”を受け入れる体勢になってしまっているのだ。
 こんな状態で下着など履いたところでどうなるかは火を見るより明らかだった。しかし、服を着ないわけにもいかない。由梨子は渋々下着を履き、ブラをつけ、パジャマを着る。
 髪を乾かし、一足先に脱衣所を出た月彦の後を追うと、居間で映画観賞の準備を始めていた。
(ぁ……そうだ、映画……見るんだ……)
 夕方レンタルショップに寄って今宵見る映画を選んだ事などすっかり忘れてしまっていた。というより、最早ベッドに入った後の事しか考えられなくなっていた。
「由梨ちゃん、大丈夫? 本当に湯当たりしちゃった?」
「あ、いえ……大丈夫、です……映画、観るんですよね……」
「うん。どれから観る?」
 正直、どれでもよかった。レンタルショップで月彦と一緒に選んでいる時点では、どれもこれも一緒に観たら楽しいだろうと思って選んだものなのに。
 しかし今は――そうして選んだ映画すら、どうでも良く思えてしまう。
「そう、ですね……じゃあ――」
 三本の中から一本を選び、月彦に手渡す。内容で選んだのではない、その映画だけが単純に他の二本より再生時間が三十分短かったからに過ぎない。
「ん、じゃあこれから観ようか」
「はい……」
 月彦がDVDをデッキにセットし、ソファに座る。由梨子もまたその隣に座ると、腰に右手を回されてぐいと抱き寄せられた。
(ぁっ、だめ……)
 ジュワァ……まるでそんな音が下腹部から聞こえてくるかの様だった。由梨子は慌てて、座り直すフリをしてパジャマのズボンをショーツの生地から離した。そうしなければ、ズボンにまでしみ出てしまいそうだったのだ。
「由梨ちゃん、映画始まるよ」
 言われて、あわてて視線をテレビの方へと戻す。丁度、オープニングが始まる所だった。しかし、その映像も音も、由梨子の中を素通りするばかりで何も頭には残らなかった。
(先輩……)
 抱き寄せられた体勢のまま、くったりと月彦に凭れる様にして、由梨子は懸命に顔をテレビの方へと向ける。そうしなければ、すぐにでも月彦の上にのしかかり、無理矢理唇を奪ってしまいそうだった。
(先輩に……触れたい……キス、したい……)
 親友という名の恋敵に邪魔されて、長らく会えなかった寂しさが、ここにきて爆発しようとしていた。
(もう、映画なんて……どうでもいいんです……今すぐ、先輩と…………)
 酷く身勝手な言いぐさであるのは、由梨子自身重々理解していた。だからこそ、口に出せないのだ。純粋にクリスマスの夜を楽しもうとしている月彦に対して、淫らな娼婦の様に体を求める事は羞恥の極みだった。
(お願い……早く、終わって……じゃないと…………)
 ジンジンと、痺れるような下腹部のうずきを我慢するように、由梨子は太股をすりあわせる。最早、由梨子は画面ではなくデッキの再生時間の方しか見ていなかった。
(そんなっ……あぁ、まだたった五分、なんて……)
 もう数時間は焦らされているかのように感じるのに。五分ではなく五時間の間違いではないのかと、そんな事まで考えてしまう。
(ぁ、だ……めっ……ソファまで、汚しちゃう……)
 つくづく、己の体質が恨めしかった。行為の最中ならばともかく、ただこうして抱き寄せられ、一緒に映画を観ているだけで――こうまで溢れさせてしまうなんて。
「……由梨ちゃん?」
 大丈夫?――そんな月彦の声がひどく遠くで聞こえた。反射的に、月彦の方を見る。ここで初めて、由梨子は先ほどから耳障りで仕方なかった酷く荒い呼吸音が己の口から発せられているのだと気がついた。
(先輩……)
 呟きは、声にならなかった。ただ口だけ、その通りに動かして由梨子は膝立ちになるようにして、月彦の上に被さる。
「ゆ、由梨ちゃん……?」
 戸惑う月彦を尻目に、半ば以上強引にソファに押し倒し、その唇を奪った。
(先輩……先輩っ……先輩……!)
 頭の中はもう、愛しい相手の事で一杯になっていた。上品な、それでいて想いのこもったキスを信条とする由梨子にしては珍しい、貪るようなキスだった。
(先輩っ……先輩っ……先輩、先輩……ッ!)
 じっくりたっぷり、唇に噛みつくようにして心ゆくまでキスを続けて漸く、由梨子は唇を離した。ぜぇぜぇと呼吸が乱れているのは、息をするのも忘れてキスに熱中していたからだ。
「……由梨ちゃん、落ち着いた?」
「ぁっ……私……っ……」
 苦笑を浮かべられて、途端にかぁ……と顔が赤くなるのを感じた。
「ち、違うんです……あの、これはっ……ぁっ……」
 言い訳をする間もなく、ぎゅうと抱きしめられた。その抱擁のあまりの心地よさに、由梨子はもう弁解をするのも忘れて月彦の胸の中に顔を埋めてしまう。
「気づかなくって本当にごめん。まさか、由梨ちゃんが……その、そんなに溜まってたなんて思わなかったから」
「ち、違います!」
 それは違う、と。そこだけははっきりさせておかねばならないとばかりに、由梨子は上体を持ち上げて声を荒げる。
「そうじゃ、なくて…………性欲とか、そういうんじゃないんです……私は……」
 確かに、キスやその他の事をしたいと、強く願った。しかしその根元にあるのは、決して性欲だけではない――そう説明したいのだが、うまく言葉が選べない。
「溜まってたんじゃなくて……せ、先輩に……飢えて、たんです………」
 口に出した後で、その二つにあえて否定せねばならない程の違いはないのではないか――そんな事を思ってしまって、由梨子はますます顔を赤くしてしまう。
「だ、だって……今までは、真央さんが居て……その、先輩とあんまり……一緒にいられませんでしたし、キスとかも……ぁっ……ンっ……」
 言葉は、途中でキスに遮られた。月彦の手が背中へと回ってきて、ぎゅう……と抱きしめられる。くちくちと唇を食むようなキスに、由梨子もまた夢中で月彦の唇を、舌を吸った。
「はぁっ……んぁっ……んっ……」
 しばし、時を忘れるようにしてキスに没頭した。月彦が僅かに唇を引くような仕草を見せても、構わず由梨子は追い、キスを続行する。
(あぁ……先輩っ……先輩、先輩、先輩っ……!)
 呼吸も忘れて、とはよく言ったもの。酸素不足で頭痛を感じて漸く、由梨子は唇を離した。しばし、力の入らない体を月彦に預け、ぜえぜえと呼吸を整える間、月彦は何も言わず、優しく由梨子の体を抱きしめていた。
「由梨ちゃん、もう上に行く?」
 後頭部越しに振ってきたその優しい言葉に、耳よりも先に下腹部が反応した。羞恥と見栄、焦燥と矜持――様々なものが由梨子の中で対立し、凌ぎを削り、その結果。
「はい……私、もう……我慢、出来ません……」
 次の瞬間には、由梨子は汗ばんだ手で月彦の寝間着を掴みながら、濡れた目で訴えるように見上げていた。
「解った、じゃあそうしよっか」
 苦笑混じりに、月彦がリモコンでデッキとテレビの電源を落とすや否や、ふわりと由梨子の体が宙に浮き上がった。
「きゃっ……せ、先輩……?」
「由梨ちゃん、一つ言っておくけど……」
 さも軽々と、由梨子の体を抱き上げながら、月彦ははにかむように言った。
「真央が里帰りして約一週間……俺、ずーっとシてないんだ」
「えっ、えっ……先輩、それって……」
「うん。古くさい言葉で申し訳ないけど、一応宣言しておくよ。……“今夜は寝かせない”よ、由梨ちゃん」



 “今夜は寝かせない”――はっきり何処で見た、何処で聞いた、とは言えない文句だが、酷くありふれた、それでいて月並みな、安っぽく、古くさい言葉であることは否めない。
 しかし、実際に自分の想い人から聞かされると――体の芯まで痺れてしまう言葉だった。
(だめ、だめ……そんなの、絶対……だめ……です、先輩……)
 一段、一段。月彦に“お姫様だっこ”をされた状態で階段を上がるにつれて、由梨子はまるで死刑台を登っているかのような緊張感を覚えた。
(先輩、普段でもスゴいのに、そんな……)
 “真央とシてなくて溜まってる”――そんな事を宣言されては、嬉しさよりも何よりも不安が先立ってしまう。
(だめ、ちゃんと言わないと……“普通にしてください”って……)
 今まででさえ、足腰立たなくなるまでイかされたり、失神させられたりしているのだ。
(じゃないと……私、先輩に……壊されちゃう……)
 比喩や冗談ではなく、本気でそう思った。思ったのだが――
(でも……“先輩の一番”になるには……)
 そういった全力の月彦を受け止める事くらい出来なければならないのではないか。ついそんな事を考えてしまう。
 そして、そうして由梨子が思案を重ねているうちに、いつしか階段は終わり、部屋の扉が開かれ、由梨子の体はベッドへと横たえられた。
 部屋の明かりは、最初からつけられていない。暗い室内で、自分を見下ろす男の眼光だけが、まるで獣のそれのようにギラギラと異彩を放っていた。
 予め足下の方へと折りたたまれていた掛け布団と毛布がかけられる。愛しい相手と密室に二人きりでベッドの中という、これ以上ないくらいに幸せなシチュエーションの筈なのに、まるでのど元にナイフでも突きつけられているかのように緊張してしまうのは何故なのだろうか。
「由梨ちゃん」
 ぎゅうっ、と抱きしめられるが、しかし――体を密着させることはできなかった。ぐい、と由梨子の腹部の辺りを押す堅い物体のせいだ。
「せ、先輩……んぅ……!」
 あぁ、これは――いつものキスだと。由梨子は思った。いつもの――そう、普段学校でこっそり会った時にかわすような優しいキスではない。ケダモノのような息づかい、舌使いの……。
「んぁ、んぅ……んむっ、んくっ……んんっ……!」
 貪る様なキスと連動して、月彦の手が由梨子の胸元をはい回る。いつもならば、すぐにでも衣類のボタンを外し、ブラを押し上げ、直接触れてくるその手も、今日ばかりは焦れったいほどにパジャマの上からしか触ってこない。
(あぁっ……先輩、早くっ……!)
 と、思わず願ってしまう。もう、自分から脱いでしまおうかとさえ思ってしまう程に、月彦の手つきは焦れったかった。折角、月彦に脱がされ易いようにと、冬場はパジャマの下にもう一枚着て寝る所を、あえて着なかったというのに。
 たっぷり十分ほどはパジャマの上からなでつけられただろうか。漸く月彦の指がボタンにかかった時には、その間の絶え間ないキスのせいで由梨子はもうすっかり息を弾ませていた。
「あぁっ……!」
 ボタンが外され、月彦の指が素肌に触れただけで、そんな声が出てしまう。
「ぁっ、ぁっ、ぁっ……せん、ぱい……ぁっ……!」
 今度はその指が、ブラの上から成長途中の胸元を撫でる。既にブラの中で堅く尖りきっているその場所を、ブラ越しになぞられ、擦られ、由梨子は喉を震わせて声を上げてしまう。
(や、だ……こんなっ……こんなにっ……)
 ブラ越しでさえ、これほどまでに感じてしまうとは思わなかった。ならば、ブラを取り去られ、直に触られたら、一体どうなってしまうというのか。
「はあ、はあ……先輩っ、もっと……触って……触って、下さい……」
 しかし、不安な胸中とは裏腹に、由梨子はまるでそれを求めるかのように声を荒げていた。自ら背を浮かせ、月彦の手を招き入れるようにして、ブラのホックを外させる。
 つん、と。ホックが外れるや否や、尖った乳首がブラを押し上げるような感覚。それが錯覚だったのかどうか確かめる前に、ブラが押し上げられた。
「ぁっ……あんっ……!」
 柔らかい果肉が、ぐにっ……と揉まれるなり、弾かれるように声が出てしまった。恥ずかしい――と感じるよりも先に、もっと触って欲しいと、強く願ってしまう。
「由梨ちゃん、頬ずりしてもいい?」
「えっ……」
 そんな事、一々断るまでもないのに――と、思ったその刹那。
「ああっぁっ!」
 己の胸元から走った、電撃のような快感に、思わず由梨子は大声を上げてしまった。
「んっ、思った通り……由梨ちゃんの肌……すべすべで、乳首はコリコリしててすっげぇ気持ちいいよ」
「ぁっ、ぁっ……やっ……あっ!! ぁっ、だめっ、ぁっ……!」
 ただ、胸元に頬ずりをされているだけなのに。堅く、尖りに尖った先端が頬で擦られるたびに、まるで電気ショックでもされているかのように体が跳ねてしまう。
「ほんと、こんなに堅くなって……由梨ちゃん、痛くない?」
「い、痛くは……ひっ……!」
 痛くない?――そう聞いておいて、由梨子が返事を返すよりも先に、あむっ……と先端が口に含まれる。そのまま、唇で押しつぶす様に挟まれた挙げ句、れろれろと舌で嘗め回されて、由梨子はもう歯の根が合わなくなってしまう。
「せん、ぱっ……やっ、だめっ……やめっ……ぁっ、ぁぁぁぁぁぁ………………ッ!!!」
 月彦の後頭部を掻きむしるようにして、由梨子は体を弓なりに反らせたまま甲高い声を上げる。既に、マグマのようにドロドロになってしまっている下腹部がヒク、ヒクと蠢き、さらに熱い液体が迸るのを感じて、耳まで朱に染めてしまう。
(まだ、直接触られてもないのに……っ……)
 きっと、失禁してしまったかのようになってしまっている事だろう。己の下半身の痴態を想像するだけで、由梨子はもう湯気が出る程に顔が赤くなってしまう。
「んっ、由梨ちゃんは本当におっぱいの感度が良いなぁ。折角だから、こっちも吸っちゃうか」
「えっ、ぇっ、ちょっ、先輩っ……やぅっ……あ、はぁぁぁぁ…………やっ、そんな、強く、……んぅぅ……!」
 またしても、背が勝手に仰け反り、そして月彦の後頭部に爪を立ててしまう。はあはあと悶えながらも、由梨子は必死に太股を閉じる。そうすることで、溢れてしまうものを少しでも抑えようとしているのだが、しかしそうそう巧くはいかない。
 既に、下着をつけていることが不快なほどに溢れさせてしまっていた。パジャマの染みはきっとお尻側にも、そして太股側にも広がってしまっていることだろう。
「っっっ……やだっ、先輩っ……!」
 いつかはバレる――そう、それは分かり切っているのだが、しかしその瞬間は由梨子が想像していたよりも、そして覚悟が決まるよりも早くやってきた。
 乳首を吸いながら、月彦の右手がもぞもぞと南下、パジャマのズボンの下へと潜るのを感じて、慌てて由梨子はその手を制しにかかる――が、しかし。いつもの事ながら、力が巧く入らない。
「ま、待って……待って下さい……!」
 由梨子の必死の声が通じたのか、ぴたりと、月彦の手が止まった。ちゅぱっ、と同時に乳首を咥えていた唇も離れる。
「……どうしたの? 由梨ちゃん」
「ええと、その……あの……すみません、先輩……いつもの、事、なんですけど……」
 かああ、と。赤い顔がさらに赤くなるのを、由梨子は止められなかった。
「も、漏らしたみたいに……なってますけど、ほ、本当に漏らしたわけじゃ……ないです、から……」
 月彦からの返事は、何もなかった。代わりに、まるで“その事”を確かめるかのように手が進み、そして濡れそぼったショーツに指先が触れた。
(あぁっ……)
 分かり切ってはいたことだが、やはり恥ずかしい。右手がショーツに触れたまま、不意に左手だけで、ぎゅうっ……と包み込まれるように抱きしめられた。
「……今日は、いつもよりスゴいね、由梨ちゃん」
「やっ……い、言わないで、下さい……んっ……」
 泣きそうな声を上げると、慰めるようにキスをされた。
「恥ずかしがる事なんてない、すっごく可愛いよ、由梨ちゃん」
「そん、な……ぁっ、やっ……んっ……!」
 右手が、もぞりとショーツの中へと入った瞬間、制止の言葉は唇によって塞がれた。
(あぁっ……先輩っ、先輩っ……!)
 由梨子はもう、夢中になって月彦を抱きしめた。むしろ、足を開くようにして、月彦の右手を受け入れる。
「……あァッ!」
 キスで、口を塞がれていた筈だった。それなのに、指が濡れた恥毛をかき分け、秘裂へと到達するなり、由梨子は思わず弾かれた様に声を出してしまっていた。
「……ドロドロだね、由梨ちゃん」
「やっ、言わな……ぁぁぁぁぁあッ!!」
 ぬぷりと、二本の指が由梨子の膣内へと挿入ってくる。ドロドロ――そう、月彦のその言葉を表しているかのように、二本の指はありあまる潤滑油によってみるみるうちに根本まで由梨子の膣内に収まってしまう。
「はあ、はあ……せん、ぱい……んっ……ぁ、……はあ、はあ…………」
 指を根本まで入れるなり、月彦は一切の動きを止めてしまった。まるでそのことに焦れるように、由梨子は月彦の体に抱きついたまま、ぜえぜえと荒い呼吸を整える。
「本当に凄いよ……由梨ちゃんのナカ……まるで俺の指をしゃぶるってるみたいに、グニグニ動いて、締め付けてくる」
 本当に飢えてたんだね――苦笑混じりに、そして特に“飢えてた”の所を強調するように囁かれ、由梨子は顔から火が出そうになってしまう。
「やぁっ……先輩っ……い、苛めないで、下さい……」
「苛めてるつもりはないんだけど、……由梨ちゃんは本当に恥ずかしがり屋だなぁ」
 苦笑、そしてゆっくりと指が動き始める。
「ぁっ、ぁっ」
 そう、初めはゆっくり。
「ぁっ、ぁっ、ぁっ、ぁっ……」
 やがて、徐々に早く。うねるような動きに。
「ぁうっ、やっ……先輩っ……そこはっ……!」
 思わず、背に回した手が爪を立ててしまう。月彦の指が、由梨子のことさら弱い場所へと触れたのだ。そこからは、特に――その場所を重点的に攻めてくる。
「やぁぁぁあっ、だめっ、だめぇっ……先輩っ……そこっはっ……だめっ、です……!」
 指の動きに連動するように、くねくねと腰が動いてしまう。はあはあと息を乱し、濡れた目で月彦を見上げ、懇願するが、返ってくるのは困った様な笑みだった。
「由梨ちゃん、もう指は動かしてないんだけど」
 動かしたのは、ほんの最初だけだよ――そう囁かれて、由梨子は気がついた。指の動きに連動して、腰が動いてしまっているのではない。腰の方が――まるで、由梨子が一番弱い場所を指に擦りあてるように勝手に動いてしまっているのだ。
「えっ、ぁっ、やぁっ……そん、な……」
 そして、それに気がついて尚、止められない。むしろ、より大胆に、月彦の指をしゃぶるように腰をくねらせてしまう。
「ち、違っ……こんなっ、違うんです……先輩っ……やぁぁぁっ……か、勝手に、動いて…………ひぅぅっ……と、止まらない、んです……」
「解ってるよ。由梨ちゃんは指を入れられただで、一番弱い場所に指が当たる様に腰を振っちゃうようないやらしい娘じゃないって事くらい。……でも、今日だけは特別……そうなんだよね?」
 不意に、にゅぐりっ――と。
「ひィあッ!?」
 それまで不動だった月彦の指が、擦りあてていた場所をまるで抉るように動き出して、由梨子は声にならない声を上げた。
「……由梨ちゃんの体も大分火照ってるし、もう布団なんか要らないよね?」
「えっ、あの……せ、先輩?」
 稲妻に打たれたような快感に痺れ、由梨子が動けないうちに、月彦は気前よく掛け布団をはね除け、ベッドの下に落としてしまう。
(先輩、急にどうして……)
 と、思わざるを得なかった。そもそも、体など最初から火照りきっている。体が温まったから掛け布団をはね除けるというのなら、そもそも最初から被る必要すら無かったのだ。
(でも、先輩がこういう事言い出す時は……)
 必ず何か理由がある筈なのだ。それも、必ずと言ってもいい程に、由梨子としては素直には喜べない類の理由が。
「やんっ……!」
 ぬぷりと、唐突に秘裂から指が抜かれた。ドロドロの愛液ですっかりふやけてしまったその指は、秘裂から抜いて尚、とろとろと糸を引いて雫が落ちる程に濡れそぼっていて、由梨子は思わず目を背けた。
 そんな由梨子の耳に、ぼそりと。
「……脱がすよ、由梨ちゃん」
「えっ……きゃあッ!」
 あまりにもあっさりと、パジャマのズボンが膝下まで脱がされた。続いて、すっかり色の変わってしまったショーツが、今度は焦らすようにゆっくりと、同じく膝下まで脱がされる。
「あぁっ……先輩っ……」
 見ないで下さい――等と、心にも無い言葉は言えなかった。僅かに閉じようと力を込めた足を押しのけるようにして、その間に月彦が体を入れてくる。
 ちゅっ……最初にそんな、軽いキス。次に頬、首筋、胸とその先端、臍回り、下腹――順番に、ちゅっ、ちゅっと吸いながら、月彦の唇が徐々に南下していく。
(ぁっぁっ……先輩っ……恥ずかしい、です…………)
 裸など、何度も見られているというのに。抱かれてもいるというのに、こうして秘裂に顔を近づけられる事には、いつまでたっても慣れない。ちゅっ……と、月彦の唇が恥毛の生え際にまで達した所で、由梨子の羞恥は頂点に達し、とうとう目を開けていられなくなった。
「凄い……湯気立っちゃってるよ、由梨ちゃん」
「そん、な……そんな……嘘、です……っ……」
 嘘、とはいいつつも、それを確認するために瞼を開ける事はできない。それでも、ヒクつく己の秘裂の動きと、そこにかかる吐息だけは、否が応にも感じずにはいられなかった。
(あぁ……先輩に、見られてる……ぁっ、やっ……そんなっ、ぐぃって……ッ……)
 月彦の指が、秘裂をぐいと押し広げる。あまりの羞恥に足を閉じようとしても、既に月彦に体を入れられているから、肩幅よりは決して閉じる事は出来ない。
(ぁっ、ぁっ……先輩の、息が、かかって……ぁあっ、そんなっ……ああああっ!!)
 広げられた媚肉にちゅっ……と唇をつけられたかと思えば、そのままれろり、れろりと嘗め回され、由梨子は声を上げるのも忘れて快感に体を爆ぜさせた。
「んじゅっ……じゅずずっ……んぷっ……」
「ひぁっ……ぁあッ! やっ、先輩っ……またっ、そんなっ……ぁっ、……やぁっ、お、音……立てないで、下さっ……ああぁぁぁ……」
 はあはあと悶えながら、快感に堪えるように月彦の髪を掻きむしる。
「音が出ちゃうのは、由梨ちゃんがそれだけ溢れさせてるからだよ」
「せ、先輩が……そうやって、な、舐める、から……あ……溢れちゃうん、です……ぁあッ!」
 ちゅっ、と。舌の動きが止んだかと思えば、勃起した淫核のほうが刺激される。はむはむと唇で食まれているのだろう、それだけで由梨子は両足を痙攣させるようにして仰け反ってしまう。
「はあはあ……せん、ぱい……おねがい、です……そんなに、されたら……それだけで……私、くたくたになっちゃいます……」
「……でも由梨ちゃん、嫌、嫌って言ってる割には……こうして口でされるの、好きだよね?」
 うっ、と。由梨子は言葉に詰まらざるを得なかった。月彦の言葉は確かに的を射ていて、それでいて――由梨子の忘れたい過去に触れるものでもあったからだ。
(だって、しょうがないじゃないですか……)
 いくら月彦と逢瀬を重ねたとはいえ、それでもまだ大した数ではない。が、しかし“女性相手”の事であれば、話は別だ。至極、“男にしか出来ないやり方”で抱かれるよりも、“女性でも出来る愛で方”の方に強く反応してしまうのは否めないのだ。
(それに、先輩に……そうされていると……)
 舌使いは全く別だというのに、何故か霧亜の事を思いだしてしまいそうになるのだ。そう、あの……女性の体を知り尽くしているかのような指使い、舌使いを。そしていけないとは解っていても、二つの愛撫を比較してしまいそうになって、由梨子は罪悪感すら感じてしまう。
(そう、比べたりなんかしちゃ……駄目……それに、先輩の、方が……)
 例え未熟ではあったとしても――否、未熟故に、逆に由梨子は嬉しいのだ。霧亜のそれは、百の実力がありながら、十の力しか使っていないようなものだったが、月彦からは十の実力を十一にも十二にも近づけようとするような熱意、想いを感じるのだ。
「はぁ、はぁ、んっ……やぁっ、先輩っ……もう……本当にっ……おね、がいですから……」
 そして、そんなに熱意の籠もった愛撫を丹念にいつまでもいつまでもされては、由梨子の方が堪らなくなってしまうのだ。
「駄目だよ。俺だって……由梨ちゃんとするのは久しぶりなんだから。もっと舐めたい」
「そ、そんなぁ……やっ……せ、先輩……ゆ、指……はっ……ぁぁああっ……!」
 れろ、れろ。
 ちゅば、ちゅば。
 淫核をこれでもかとしゃぶられ、嘗め回されながら、今度は秘裂に指まで挿れられ、由梨子は快感よりもなにより背筋が冷えた。
「はあ、はあっ……やぁっ、先輩っ、だめっ、です……そんなっ、やぅぅっぅ……そこ、そこだめっ……ホントにだめですっ……やぁっ、だめっ、だめっ……だめぇっ…………」
 はあはあ、ぜえぜえ。
 息をきらしながら、由梨子は悶え、ベッドシーツを掻きむしる。
「駄目? 何が駄目なのかな」
 まるで、由梨子の心を見透かしているような、そんな意地悪な声だった。しかし、快感と焦燥に支配されている由梨子には、そこまで察するゆとりはなかった。
「だ、だめっ、です……先輩っ……そんなの、続けられたら、私……またっ……」
「また……何?」
 答えを促す様に、月彦の指先が巧みに由梨子の弱い場所を刺激してくる。
「やぁぁぁぁっ……ま、またっ……びゅっ……って、出ちゃい、ます……だからっ……」
「その“びゅって出ちゃう”時の由梨ちゃんの可愛い声が聞きたいって言っても、駄目?」
「えっ……せ、先輩……それって……」
「うん。……由梨ちゃんが潮吹きしながらイく時の声が聞きたい、って事だけど」
 かあ、と。顔が真っ赤になってしまったのは、今日だけで何度目だろうか。
「だ、ダメッです……先輩、止めて下さい! あ、あれは……ほ、本当に、恥ずかしいんですから……」
 前回の、カラオケボックスでの事を思いだして、由梨子は珍しく頑健に異議申し立てをする。
 が。
「でも、聞きたい。ついでに言うなら、イく時の顔も見たい。由梨ちゃんが嫌だって言っても、見たいし聞きたい」
「そん、な……」
 他ならぬ月彦に、そこまで言われては、最早由梨子には断る事など出来なかった。
(先輩……本当の本当の本当に恥ずかしいんですからね?)
 だから、由梨子に出来るのは、そんな念を押す様な目で見る事だけだったが、月彦は意に介さずとばかりにけろりとしていた。
「んじゃ、由梨ちゃんの同意もとれた事だし……」
「ど、同意なんて……ぁっ、やっ……ぅぅっぅっぅ……」
 最早、「止めてください」と口に出した所で無駄なのは分かり切っていた。由梨子に出来ることは、身も心もとろけてしまいそうな至高の愛撫にさらされながらも歯を食いしばって堪え、“その瞬間”が来るのを一秒でも遅らせる事のみだった。
「ぁっ、ぁっ、ぁっ、ぁっ……!」
 しかし、そんなやせ我慢も、下腹から突き上げてくるえもいわれぬ快楽によって、次第に。
「やっ、ぁ、あっ……せんっ、ぱいっ……もうっ、やっ……ほ、ホントに……あっぁっぁっ……」
 がくがくと、体が揺れるのは愛撫によるものか。それとも己の体の方が痙攣でも起こしているのは、由梨子にはもう解らなかった。
「だめっ、だめっ……出るっ……出ちゃっ……っ……せんぱっ……見なっ……あっ、あっ、あっ、あーーーーーーッ!!!!」
 びゅるっ!
 びゅっ、びゅっ、びゅっ!
 体が、まるで己のものではないかのように痙攣し、目の前に火花が散った瞬間、由梨子はケモノのように声を荒げていた。
「はーーーーっ……はーーーっ……はーーーーっ……」
 四肢に痺れすら感じ、くたぁ……とベッドに力無く横たわったその体が、優しく抱きかかえられる。まるで貧血の時のように視界がはっきりとしなかったが、それも呼吸が整うと同時に徐々に、愛しい――それでいてとっても意地悪な相手の顔へと変わった。
「せん、ぱい……」
「由梨ちゃん」
 ちゅっ、と頬にキスをされた。
「無茶苦茶可愛かったよ、由梨ちゃんがイく時の声。もう、ほら……ビビンって来てこんなになっちまった」
 と、寝間着ズボンの下でギンギンになってしまっている剛直を誇張するが。
「……な、何、言ってるんですか! せ、先輩……最初から、そんな風になってるじゃないですか」
「ううん、由梨ちゃんのせいで二割り増しって所かな。……ほら、見える?」
 そう言われて、上半身を抱き起こされ、ベッドの外の方へと顔を向かされる。
「まさか、ベッドの外まで飛ばすとは思わなかったよ」
「えっ、ぇっ……」
 言われてみれば、月明かり星明かりに照らされて、絨毯の一部が他とは違う光沢を放っているように見えなくもなかった。
「あんまり可愛いから、もっと見たくなっちゃったな……由梨ちゃんが“潮吹き”でイく所」
「え……?」
 ぽつりと呟いた月彦の言葉に、由梨子は血の気が引いた。
「先輩……冗談、ですよね?」
「うん、冗談」
 いけしゃあしゃあと、月彦は言った。
「由梨ちゃんが知っての通り、俺もそんなに我慢強い方じゃないからさ。あんな可愛いところ見せられたら、もう我慢なんか出来ないよ」
「ぁっ……」
 ぎゅう、と抱きしめられる。抱擁ではない、そう――まるで、肉食獣が獲物を逃がすまいとしているような、そんな手つきだった。
「せ、先輩……んんぅ……!」
 しかし、月彦のそんな手つきに感じた恐怖も――そしてその前の意地悪も――優しいキス一つで帳消しにされてしまう。
(本当に、ズルい……です、先輩……)
 あんなに意地悪をされたのに。それこそ、見られている相手が月彦でなければ、舌をかみ切らねばならない程の辱めを受けたばかりだというのに。
(私……もう、先輩を許しちゃってる……先輩に、もっとキスして欲しいって……思ってる……)
 そんな自分の心の動きに、由梨子はもう苦笑するしかなかった。


 いざ、行為に及ぶ前に、月彦にはどうしても聞かなければならない事があった。
 それは。
「由梨ちゃん……一つ聞くけど」
「は、はい……」
「今日は……大丈夫な日?」
 えっ、と。由梨子が息を呑むのが解った。賢明な由梨子には、恐らくこの質問だけで、自分が言わんとしている事が伝わってしまったのだろう。
「もし、大丈夫な日なら……今日は、由梨ちゃんと……生でシたい」
 それでもあえて、月彦は口に出した。
「せ、先輩……それは――」
「勿論、危ない日ならそんな事絶対しないし、危なくなくても、由梨ちゃんが嫌ならしない」
 そこは、はっきりさせておかねばならない。由梨子が気を遣って嘘の答えを言うような事だけは、避けねばならないからだ。
「嫌だなんて……それは、それだけは……無いです、絶対に」
「じゃあ、危ない日?」
「……でも、ないと思います。……多分、今日は……大丈夫な日、です」
「そうか、良かった」
 真央が留守で、たまたま二人一緒になれた日がこれまた都合良く安全日という、そんな偶然にもしやという疑念が沸きかけるが、由梨子に関してはそんな嘘はつかないだろう。
(実際、前に一度……生理が遅れたりしたしな……)
 それだけに、きっと避妊には過敏な筈なのだ。それでも月彦がこんな無茶を言い出したのは、やはり真狐の薬の後押しがあった。
(頼むぞ、真狐……信じてるからな?)
 いい年して悪さばかりするどうしようもない女だが、洒落にならない様な悪事だけはしない女だと、その筈だと、月彦は勝手に信頼を寄せていた。
(俺は兎も角、由梨ちゃんを泣かせるような事だけはするなよ……?)
 念じた所で、相手に伝わる筈もない。しかしそれでも、願わずにはいられなかった。
「じゃあ、由梨ちゃん。もう一度だけ聞くけど……本当に良いの?」
「はい。……私も、先輩に直接……抱いて欲しいですから……それに、“万が一”が起きても……先輩の子供なら……」
「由梨ちゃんとの子供……かぁ……」
 今の段階ではまだ早すぎると、解ってはいるのだが、しかし想像してしまうのは止められなかった。
 ベビーカーを押す自分と、既に“二人目”を身ごもっている由梨子の“四人”で公園などを散歩している様を。そして、そんな幸せ絶頂の自分達を密かにつけねらう不審なケモノの影――
(待て、待て、最後のは居らないだろ! 消去、消去)
 ついつい余計なものまでくっついてしまった妄想を打ち消し、“余計な事”を考えてしまう頭をこつんと小突く。
(今は、今だけは……由梨ちゃんの事だけ、考えてあげないと……)
 他ならぬ由梨子に失礼ではないか。
「ま、まぁ……でも、多分、そんな事にはならないと思う。一応……これは由梨ちゃんの合意がとれた後に言おうと思ってた事なんだけど……実は、男性用の避妊薬ってのは飲んでるんだ。ただ、持ってきた奴が持ってきた奴だから、イマイチ信用できないんだけど……」
「男性用の避妊薬……その薬をもってきたのって、ひょっとして真狐さんですか?」
「……よく分かったね」
「私も、前に真狐さんに薬を貰いましたから……」
 ああ、そういえば前にそんな話を聞いたなと、月彦は思いだした。
「大丈夫ですよ、先輩。真狐さんの薬なら、きっと効きますよ」
「……意外だ。由梨ちゃんがアイツの事信用してるなんて」
「だって……真狐さん、とってもいい人じゃないですか。先輩や真央さんが言うみたいに、悪い人だなんてとても思えません」
「由梨ちゃん、それは――」
 完璧にダマされているぞ、と諭してやりたかったが、少しばかり状況が悪い。今真狐の凶悪性を説明し、解って貰えたところで、結局の所その真狐がもってきた避妊薬の信頼度ががた落ちになるという効果しか得られないからだ。
「それに、先輩だって……真狐さんの薬があるから、つけずにしたいって……思ったんじゃないんですか?」
 それは、確かに否めなかった。真狐の薬さえなければ、自分は間違いなく由梨子にこのような事は持ちかけなかっただろう。
「……先輩、あの……一つ、聞いてもいいですか?」
「うん……?」
「前から、ずっと気になってたんですけど……先輩って、どうして真狐さんの事、呼び捨てにするんですか?」
「…………それは――」
 確かに言われてみれば――いくら真央が従姉妹で同居人とはいえ、その母親の名前を呼び捨てにするのは不自然極まりないかもしれない。
「いやほら、アイツ……いい年して、ガキみたいな悪さばっかりするからさ……怒鳴ってるうちに、つい呼び捨てにする癖がついちまったっていうか……」
 些か苦しいが、そんな形でしか言い訳ができなかった。まさか自分が真央の父親である等と名乗れるはずもない。
「そうなんですか……確かに真狐さんって、親しみやすいというか、不思議な感じの方ですよね。ひょっとして――」
「ひょっとして……?」
「あぁ、いえ……なんでもないんです。ちょっと……変な事考えちゃっただけですから」
 それよりも、先輩――そんな呟き声と共に、由梨子がそっと身を預けてくる。
「その……続き……しないんですか?」
「えっ、あっ、あぁ……するよ、もちろん」
 まさか由梨子の方から促されるとは思わなかった。どきり、と胸が弾むのを感じながら、月彦は抱き上げていた由梨子の体を優しくベッドに横たえた。
「じゃあ、由梨ちゃん――」
「は、はい……」
 良いかな――その呟きが漏れるよりも早く、由梨子はこくりと頷いた。
 月彦は再び由梨子の体をベッドの上に横たえ、己も身一つになるなり、由梨子の足の間へと体を入れる。
「……先輩っ……あのっ……」
「大丈夫、ちゃんとゆっくり、優しくやるから」
 そう、気を落ち着けて、平常心にならねばならない。そうでなければ、溜まりに溜まった性欲のせいで、うっかり“対真狐モード”に入りそうになってしまうからだ。
(相手が、真狐本人や、真央……矢紗美さんとか、先生なら、それでも良い……でも、由梨ちゃんだと……)
 ひょっとしたら、“壊して”しまうかもしれない。そんな危惧が、暴走しそうになる性欲に辛うじて歯止めをかけているのだった。
(あぁ……駄目だ、こんなの……由梨ちゃんに入れたら、裂けちまう……)
 下半身に血が行きすぎるのを、なんとか意志の力で抑制できてしまう辺り、ある意味超人ではあるのだが、もちろん自覚などある筈もない。
「じゃあ、いくよ……由梨ちゃん、力……抜いて……」
「は、はい……あっ、んぅ……!」
 ぐい、と先端部が由梨子の秘裂に触れただけで、思わず暴発させてしまいそうになるのを堪えながら、ゆっくり、ゆっくりと。先端部を由梨子の膣内へと埋めていく。
(う、わ……す、げ……由梨ちゃんのナカ、めちゃくちゃキツくて……トロットロだ……)
 ゆっくり、優しく入れねばならないのに。この成長途中の媚肉の味を早くしゃぶりつくしたいとばかりに焦りばかりが募り、いつしか挿入のペースが速まり始める。
「やっ、せん、ぱ……は、早っ……もっと、ゆっくり……あぁぁっ……」
「ごめ、ん……由梨ちゃんのナカ……すっげぇ良くて……っ……」
 止まらない――そんな掠れ声と共に、月彦は由梨子の肩を掴み、体を逃がす事が出来ない様にした上で、剛直を根本まで押し込んだ。
「かっ……ひィッ……うっ……!」
 由梨子の悲痛な声に心を痛めながらも被さり、月彦はぜえぜえと呼吸を整える。
「由梨ちゃん……大丈夫……?」
「は、い……なん、とか……すこ、し……苦しい、ですけど……」
 それはいつもの事ですから――そう言って、照れ笑いを浮かべる由梨子がたまらなく可愛くて、思わずぎゅううっ、と抱きしめ――
「んんっ!」
 咄嗟に唇を奪ってしまった。
「んんっんぷっ、んっ、んっ、んっ……」
 唇を奪ったまま、ちゅこちゅこと小刻みに腰を使い、膣奥を擦るようにすると途端に由梨子が体を跳ねさせ、喉奥で噎ぶ。が、その叫びすら飲み込むようにキスを続け、くい、くいと腰をくねらせ、“初めて”の時以来の由梨子の膣内の感触を堪能する。
(あぁぁっ、すっげ……たまんねっ……溶かされてるみたいだ……)
 由梨子の噎びにも、そして爪が食い込むほどに力が込められた背中の手にも頓着せず、月彦は文字通り貪るようにキスを続けながら、ゆっくりと剛直をピストンさせる。
「んんぅっ、んんっ!! んんンーーーーーーーッ!!」
 びくっ、びくっ、びくぅ!
 立て続けに痙攣させるように体を震わせて、同時にぎゅぬ、ぎゅぬと痛いほどに剛直を締め付けられ、たまらず月彦は唇を離した。
「ちょっ……由梨ちゃん……締めすぎっ……くっ……」
 月彦の抗議が通じているのかいないのか、まるで痙攣のように締め付けた後、途端に由梨子はくたぁ……と脱力してしまう。
「せん、ぱ……酷い、です……優しく、してくれるって……言った、のに……あんな、いきなり……」
 ぜえぜえと、息を整えながら、涙すらにじんだ目で恨みがましく見上げられる。
(……全然激しくしたつもりなんか無かったんだが……)
 ただ、キスをして、ゆっくり腰を使っただけであるのに。そのように恨むような目を向けられるのは心外だった。
「つ、つけないで……いつもより……気持ちいいのは、先輩、だけじゃ……ないんですから……だから、本当に、優しく……して、くださいね?」
「そう、してるつもり……なんだけど……」
 出来るだけ由梨子を気遣うように、ゆっくりと腰を引き、再び入れる――が。
「んぅ……!」
 それだけで、由梨子は体を俄に跳ねさせ、くっ……と月彦の背中に爪を立ててくる。
「あっ、やっ……せん、ぱい……まだ、動かなっ……あっ、あっあっ……!」
「ごめん、由梨ちゃん……でも、俺ももっと……由梨ちゃんのナカを感じたい……」
 由梨子の言葉の通りにしていたら、それこそ何も出来なくなってしまう。月彦は心を鬼にして、由梨子の肩を押さえるようにして腰を使い始める。
「あっ、あっ、あっ……やっ、せ、先輩っ……ぁあっ、ンぁっ……せ、先輩の……私の、中、で……ムクムクって、大きくっ……ああぁあッ!」
「っ……それは、由梨ちゃんのナカが、良すぎる、から……だよ……」
 必死に体を逃がそうとする由梨子を押さえつけるようにして、月彦は慎重に腰を使う。そうしなければ、すぐにでも理性が吹っ飛んでしまいそうだった。
(ああ、くそ……駄目だ……こんな、手加減なんて……思い切り……犯りたいっ…………)
 相手が由梨子でなく真央ならば。それこそサカり狂ったケモノのように犯し尽くせるのに。手加減無しの剛直で突きまくり、何度も何度も中出しをして散々戦慄かせた挙げ句、制止を懇願するその顔にまで、びゅくりっ……と、白濁の刻印を塗りつけてやれるのに。
(だめだ、だめだ……由梨ちゃん相手にそんな酷い事なんて……素数だ、素数を数えるんだ……)
 暴走しそうになる己の気を紛らわすかのように、月彦は夢中になって由梨子にキスをし、抽送の度にたゆたゆと控えめに揺れるお椀型の膨らみに手を伸ばしたり、舌を延ばしたりするも、それらの行為はかえって己の獣性を高める結果となってしまう。
「はあ、はあっ……せん、ぱい……わた、し……もう……んんっ!」
「あぁっ……俺も……もう……由梨ちゃん……由梨ちゃんっ……っ……!」
 久方ぶりの、射精前の高揚感に頭が痺れ、視界が歪みすらする。段々、由梨子に対する気遣い際も念頭から消え、眼前の牝に種付けをする事以外、何も考えられなくなっていく。
(あぁっ……イきそうになってる由梨ちゃん……マジ、可愛い……由梨ちゃんに、中出し……したい……)
 今にもホワイトアウトしそうな頭でそんな事を考えながら、ぐりぐりと、腰を捻るようにして腰を使う。
「あァッ! あっ……ひぁっ……せんっ、ぱっ……ほんとに、もう……私っ……い、イくっ……あぁぁっ……」
「待って……由梨ちゃん、俺も……本当に、もう少し、だから……」
 ぜえぜえ、はぁはぁ。
 互いに耳障りなまでに呼吸を荒げながら、月彦は由梨子の背に、由梨子は月彦の背に互いに手を回し、抱きしめる。
「や、べ……由梨ちゃん……すげぇ……濃いの……出そう……だ……」
「ひっ……せ、先輩の……また、大きく……やっ、だ、だめっ……です……私っ……んぅぅっぅっ……〜〜〜〜〜っっっっ!!!!」
「っ……由梨ちゃん……!」
 びくんっ、と由梨子の体が一際大きく跳ね、ぎちぎちと膣内が強烈に締まったその刹那、月彦は全てを解き放った。
「やうぅ……! あっ、あっ……あっ……熱っ……い…………せん、ぱっ……やっ……お、なか……苦しっ……パンク、しちゃいます……ぁぁあっ、ぁっ……」
 どりゅっ、どりゅっ、どりゅ!
 まるで、己の血肉がドロドロの液状になって打ち出されているのではないかという程の反動。
「く、はぁっ……や、べ……止まんね……っ……」
「せ、先輩っ……抜いて、抜いて……下さい……あぁっ、ぁ……まだ、出て……あっ、ぁっ……えっ、やっ……先輩っ……何、を……」
 ふーっ、ふーっ……そんなケモノじみた息を吐きながら、月彦は無意識のうちに由梨子の下腹の辺りを押した。途端、ごぼごぼと汚らしい音を立てて、ぎちぎちの結合部から白濁液が飛び出すようにして溢れてくる。
「あぁぁぁぁぁっ……せん、ぱい……やっ、恥ず、かし……んんっ……!」
 絶頂の余韻ですっかり蕩けきってしまっている由梨子の唇を塞ぎ、月彦は当然のようにいつものアレを始める。
「んんっ!? んんっ、んんっ……んふっ……んんっ、んんっ……んっ…………」
 最初こそ戸惑うような声を上げ、身を強張らせた由梨子だが、すぐにその行為を受け入れ、色っぽく喉を震わせては四肢を月彦の背面へと絡めてくる。
(はーっ……はーっ……由梨ちゃん……由梨ちゃん……)
 “初めて”の時は中出しまでは出来なかった。だから――とでもいうかのように、特に入念に、白濁液を刷り込むように、月彦はマーキングを行う。
(俺の、モノ、だ……誰にも、渡す、もんか……)
 ぬちゅ、ぬりゅっ、ぬりゅっ……。
 たっぷり十分以上はかけてマーキングを行い、そして漸く月彦は唇を離した。
「あっ、はぁ……せん、ぱい……あぁっ……あふ……んっ……!」
 とろりと、糸を引いて唇が離れるなり、由梨子の口から漏れたのは、そんな何とも甘い声。
「由梨ちゃん……このままもう一回……いい?」
「ぇ……そん、な……先輩、少し、休ませ……あんっ!」
 由梨子の言葉が終わるよりも先に、月彦は我慢できないとばかりに抽送を初めてしまう。
「やっ、だめっ……待って、下さッ……私、もうっ……あぁぁっ!」
 由梨子の腰を掴み、持ち上げるようにして己の膝の上へと乗せ、そのまま執拗に突く。「あひィッ! ひうっ! あっ、くふっ……やっ、お、奥っ……まで、ずん、ずんって……ひっ……だ、だめっ……またっ…………ッ……あぁっ、ぁっ、あァァッ!!!」
「……ッ……!」
 突然、ぎち、ぎちと由梨子の膣内が収縮し、その体が陸に打ち上げられた人魚の様にビクビクと跳ねる。
「……由梨ちゃん、またイッた?」
「う、ぅ……酷い、です……先輩、休ませて、下さいって……言ったのに……」
 くったりと脱力したまま、由梨子が涙目で睨み付けてくる。
「さ、さっき……キス、されたまま……ゆっくり、動かされてた、だけで……もう、い、イきそうに、なっちゃってたんですから……だから、私……」
「そっか……でも、俺はまだイッてないよ」
 脱力しきっている由梨子の体を抱き上げるようにして、月彦は胡座をかき、その上に由梨子の体を乗せる。
「えっ、やっ……先輩っ……ンぁあ!」
 突如再開された抽送に、由梨子は驚くように月彦の体にしがみついてくる。
「何回でも、由梨ちゃんが好きなだけイッていいよ。俺も……いっぱい由梨ちゃんのナカでイきたいから」
 囁きそのものはひどく優しい。しかし、その響きは――まるで死刑執行人が死刑囚に耳打ちをするかのように冷淡だった。
「やっ、先輩っ……そんなっ……い、嫌っ、です……私は、先輩と、一緒にっ……ンッ! 一緒が、良いんです……あっ、やぅ!」
「うん、俺も出来ることなら由梨ちゃんと一緒にイきたい。……だから、由梨ちゃんももう少し、イくの我慢して」
 由梨子の尻を掴み、上下に揺さぶるようにして、こちゅこちゅと突き上げると、たちまち背中に回った手が爪を立ててきて。
「ひはぁぁっ、ひぅっ……んぅ! ぁっ……そん、な……我慢、なんて……無理、ですぅ……先輩、の……良すぎて……ひぃうっ……やっ、またっ……イくっ……イくぅ……!!」
「っ……由梨ちゃん、耳元でそんなヤラしい声出されたら……俺の方まで……」
 本来ならば、まだ少しは持つ筈だったというのに。真央といい由梨子といい、どうしてこう男を堪らなくさせるような声を出すのだろうか。
(特に、由梨ちゃんは普段が普段だから……乱れた時の変わり様は、マジ……堪んないんだよな……)
 その“比率”で言えば、真央のそれよりも興奮させられると言っていい。
 事実――。
「っ……由梨ちゃん、ダメ、だ……出すよ……」
「は、い……んっ……!!!」
 ぎゅっ、と一際強く由梨子がしがみついてきた刹那、月彦は再び己の性欲の限りを解き放った。
「んんぅッ! ぁっ、ぁっ……先輩の、熱っ……ぁっ、ぁっぁっ〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!」
 どりゅっ、どりゅ、どりゅっ……!
 再び、溜まりに溜まっていた夥しい量の精が凄まじい反動を残して打ち出されていく。月彦は由梨子の尻を握りしめるようにして、最後の一滴まで、それらを由梨子の膣内に絞り出す。
「くはーっ…………はーっ……はーっ…………」
 呼吸を整えながらも、やることは一つ。にゅぐり、にゅぐりと、尻を掴んでいる手で由梨子の膣内を抉るように動かし、白濁液を肉襞の隅々まで塗り込めていく。
「ぁっ、ぁっ……やぁっ……せん、ぱ……やっ……んんっ……」
「……由梨ちゃん?」
 マーキングの手を休めず、月彦は己の肩に顎をのせたままの由梨子に優しく問いかける。
「せ、先輩……それ……っ……んぅ……や、止めっ……て、下さい……」
「止める? どうして?」
「だ、だって……あぁぁぁ……ッ……!」
 まるで、色めいた声が出てしまうのを慌てて口を噤む様な、由梨子の仕草。
「なんか、変……なんです……イッて、すぐの時に、そう、されると……ぁぁっ……やっ、止め、て……止めて、下さい……!」
 制止をせがむように、ぎゅうっ、と由梨子がしがみついてくるが、勿論月彦はそんな事でこの大事な儀式を止めたりはしない。
「由梨ちゃんが嫌だっていうのなら、止めるけど……嫌?」
「い、嫌なわけじゃ……で、でも……だめなんです! せ、先輩に、そう、されると……からだが、熱くなって……また、すぐイきそうになっちゃうんです……」
「……そんな事を言われたら、尚更止めるわけにはいかなくなったよ、由梨ちゃん」
 ぼそりと、これ以上ないというくらいに優しい声で囁いて、それまで以上に入念にマーキングを再開する。
「ひぅっ! やっ、やぁぁぁぁぁっ……だめっ、それ、だめぇえっ……ぁぁぁぁぁぁっ!!」
 由梨子の悲鳴など聞こえない、とばかりに月彦は尻をつかんだ手を揺さぶり、執拗に剛直を由梨子のナカに擦りつける。
「だめっ、だめっ……だめぇっ……せん、ぱい……おね、がい、ですからぁ……それ、続けられたら……私の体……変になっちゃいそうなんです……だからっ……ひぅぅぅぅぅぅ……!」
「由梨ちゃんの体がエッチな方に変わっちゃう、っていうだけなら、俺は全然OKだよ。だから、続ける」
「せ、先輩が良くても、私は――……あ、あんっ! あぁっ、やぁあぁっ、せ、先輩っ……本当に……ぁあっ、あっ、あぁぁぁっ…………」
 にちゅっ、ぬちゅっ、ぬちゅっ……。
 執拗に繰り返すうちに、次第に由梨子の抵抗はか細く、弱々しいものになっていく。
「は、ぁんっ……あぁっ……んぅっ……はぁっ……だめっ……やぁっ……んんぅっ…………」
 そしてその言葉まで、拒絶の言葉が少なく。代わりに色めいた息づかいばかりが目立つようになる。
(あぁ……ほんと、ハァハァ言いながらやせ我慢してる由梨ちゃんも可愛いなぁ……)
 可愛い過ぎて、ついつい悪戯をしてしまいたくなる程に。
(今のままでも、十分エロ可愛いけど……)
 もっともっと、自分好みに由梨子を染めてやりたい――ムラムラと、そんな黒い欲求すら、沸き起こってくる。
(そうだよ、折角二人きりなんだから……“手加減”なんかしたら、逆に由梨ちゃんに失礼じゃないか)
 むしろ手加減しないべきだ――などと、最初に思った事とは真逆の方向に気持ちが傾いてしまうのは、偏に“もっとガッツリ犯りたい”という本能の呼びかけのせいに他ならなかった。
(そうだ……こんな機会なんて滅多に無いんだし……とことん由梨ちゃんを……)
 ぎらり、と。月彦が由梨子に向ける目は、はっきりと変わった。およそ好きな女性に向ける眼差しではない――そう、まるで捕獲した獲物に向けるそれのような。
「はぁ……はぁっ……んぅっ……ぅ……やぁぁ……んっ…ま、また……ぅぅぅ……せ、先輩っ…………ッ!?」
 はぁはぁと、目の前で悶えている由梨子にもう辛抱堪らなくなって、月彦はその胸に吸い付いた。ツン、と堅く尖りきったそこを強く吸い、舌先で転がすと――。
「だ、だめっ……です、ぁあっ、吸わなっ……――あぁあァッ!!」
 イくのを堪えるように、ぎちぎちと膣内が締まり、そこを軽く一突きするだけで、由梨子は容易く達してしまった様だった。
「……由梨ちゃん、イッたね」
 己の腕の中でびくっ、びくと小刻みに痙攣するように震える由梨子を優しく抱きながら、月彦が呟いた言葉は、その口調の優しさとはあまりにも不釣り合いな内容だった。
「でも、休んでる暇なんか無いよ」
「ぇ……ひゃうッ!」
 イッたばかりで敏感になっている由梨子の膣内を、月彦は優しく突き上げる。
「今夜は寝かせない……そう言っただろ?」
「せ、先輩……それは……」
「寝かせないし、休ませない。勿論“口で代わりに”なんて提案も却下する。…………今まで出来なかった分、今夜は全部……由梨ちゃんのナカでイかせてもらうから、そのつもりでね」
 


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