月夜には血が沸く。闇夜にはさらに胸が躍る。
 ひらり、と。
 本能のままに闇から闇へと跳梁し、目的の場所まではいくらもかからない。
 足を止め、見上げる。
 窓には明かりはない。――地を蹴り、音もなく、屋根の上へ。
「………………」
 窓の向こうはカーテンが下がっており、盗み見る事などは出来ない。しかしこうして、手を当てれば――。
 すぅ、すぅと。
 窓硝子の振動で、確かに二人分の呼吸音は感じられる。
「……っ……」
 思わず、指先に力がこもる。完全に己を律しているつもりでも、時として――否、こうして“この場所”に来てしまっている事自体、己を律し切れていない証拠ともいえるのだが。

 かり……かり……きぃ……

 例えそのつもりが無くとも、自慢の爪は容易く硝子に後を残してしまう。
 きぃ……きキき……。
 力など微塵も込めていない。そんな事をすれば、たちまち硝子は割れ、中に居る者達にも気づかれるだろう。
 それは本意ではない――が、いっそそうなってしまえば。

 き……き……っ……

 硝子にめり込んだ爪の先が貫通するその寸前で止め、指を引く。傷だらけになった硝子にはぁと吐きかけた息は、信じられない程に湿っぽく、艶を帯びていた。
 引き裂きたい――と。欲情にも似たその衝動は、凍るような寒気の中において尚、身を火照らせる。
 引き裂きたい。
 引き裂きたい。
 引き裂きたい。
 あの憎たらしい小娘の、羨むほどに白い肌を。胸から腹に掛けて、縦一文字に裂いてやりたい。
 臓腑を掻き出し、ぽっかりと空いた空洞に、切り落として細切れにした四肢を詰め直してやりたい。
 ああ、それよりも、それよりも。
 ひと思いに汚れた女陰から腕を突っ込み、子宮を引きずり出してやろうか。痛みで気を失わぬ様、正気を無くさぬ様、うまくやるのは難しそうではあるが、無様に藻掻き命乞いをする様を眺めるのも悪くはない。
「あぁ……」
 つい、声を漏らしてしまう。ぶるりと、身を震わせたその刹那――不意に、ちりんと。
「……っ……!」
 尾につけられた鈴の音に、まるで冷水でも浴びたかのように頭が冷静になる。
 そうだ、今の自分はもう、昔の自分ではない。律さなければならない。――その為の、鈴だ。
 雲間に沈んでいた月が、再び顔を出す。――それよりも早く、再び闇の中へと降り立つ。
 まるで、月の光から逃げるかのように、闇から闇へと。

 ――猫は、塒に戻る。
 
 
 


 

『キツネツキ』

第二十三話

 

 

 土曜日の昼下がり。
 紺崎月彦は大仰な荷物を背負い、電車で七駅ほど離れたさる街の端――山の麓に来ていた。
「ここか……」
 眼前にある――まるで天を目指すように延びる石段を見上げ、月彦はゴクリと唾を飲む。
 一段一段、踏みしめながらゆっくりと登る。石段の左右は林となっており、季節のせいか緑は極端に少なかった。
(うん、これだ……この感じだ……)
 ただこうして、石段を登っているだけで己の中の“良くないモノ”が掃き清められていくような気がするから不思議だった。
 程なく――登りはじめは霞さえかかって見えた――寺院の門が見えてきた。見上げれば反って見える程に巨大な門扉に些か気後れするものの、月彦の決意は固かった。
(今のままじゃ、本当にダメになっちまう……)
 特に、先日の雪乃との事は月彦としてもショックだった。“ああいう事”に関してしばしば己が暴走してしまう事は自覚していたが、それにしても一度つけた避妊具を自ら外してしまうとは、明らかに症状が悪化しているとしか思えなかった。
(少し、真央から離れないと……)
 このまま、ヤり続けたら、本当のケダモノにされてしまうのではないか。そんな懸念も、今はもう笑い飛ばすことができない。それほどに、月彦は己の精神構造に危機感を懐いていた。
 だからこそ、“修行”が必要であると。――否、実はそれほど大仰な決心ではなく、それとなくクラスメイト達の会話から“体験修行をやっている寺がある”という話を漏れ聞いて、衝動的に思い立っただけなのだが――とにもかくにも、一旦今の怠惰な生活から離れなければと。そう思った次第なのだ。
(……とりあえず、一週間!)
 そのくらいならば、なんとか学校も休めるだろう。一週間の修行でどれほど己の悪癖が改善できるかは解らないが、何もやらないよりはマシな筈。とにかく、今の内になんとかせねば、今度こそ雪乃を――或いは由梨子を孕ませてしまうかもしれないのだ。
「……よし!」
 月彦は軽く気合をいれ、力一杯門戸を叩いた。
「ごめんくださぁい、どなたかいらっしゃいませんかー」
 そこまで声を張り上げた時だった。
「はぁ〜い」
 なんとも間延びした、そして気の抜けるような返事が聞こえた。
 程なく、門戸の隅にある潜り戸が開き、そこからにょきりと。
「どちら様でしょうかぁ? 新聞なら要りませんよ?」
 眠そうに目を擦り擦り顔を出したのは、頭を丸めた修行僧でも無ければ和尚でもない、どこからどう見ても二十歳そこそこの黒髪長髪の女性だった。
 月彦は、己の胸の内ですこぶる悪い予感が沸くのを感じた。
「……ええと、此方で“体験修行”が出来ると聞いて来たんですけど……橘さんはいらっしゃいますか?」
「橘は私ですけど…………はて、体験……?」
「じゃあ、貴方が……橘……道雪さん、ですか?」
「道雪……道雪……ああっ!」
 唇に指を当て、たっぷり三十秒ほど考え込んだ後、女性は漸く心当たりに思い至ったらしく、手をぽむと叩く。
「多分父の名前ですねぇ、それは。ごめんなさい〜、今、父は行方ふめ――じゃなかった、所用で出かけておりましてぇ……」
「……はぁ、そうなんですか」
 ツッコんだら負けだ――何故か月彦はそう思った。
「ああ、私は千代……橘千代と申します。父から留守を預かっているのですけど……どうしましょう、今は雲水さん達もみんな居なくて……」
「……つまり、今はやってないって事ですか?」
「そういうわけじゃないんですけどぉ……」
「やってるんだったら、是非お願いします。この通り、ちゃんと料金も持ってきましたし、着替えだって」
 月彦は背負ったリュックを示すように体を捻り、熱弁するが、うーん、と千代は唸るばかり。間延びした話し方といい、実の父の名前をなかなか思い出せない辺りといい、どうやらあまり頭の回転が速い方ではないらしかった。
 それがまた、月彦の胸中に“ある種の不安”を呼び覚ますわけなのだが。
「ええと……あの……念のため、言っておきますけどぉ」
「はい?」
「アニメとかのせいで、若い方はよく勘違いなさってるみたいですけど……修行って、面白くもなんともないですよ?」
「……修行ってそういうものじゃないんですか?」
 月彦の切り返しに、もっともだとでも思ったのか、千代は納得しているような顔をする。
「こう、めっちゃくちゃ厳しいのでお願いしたいんです。座禅組んで“喝ァーつ!”みたいなのとか、滝に打たれたりとか、スペシャルハードなコースで。もう人の道とか外れてもいいですから、一匹の獣を調教するくらいの気持ちで、徹底的にいじめ抜いて欲しいんです」
「……ああっ!」
 ぽん、とまた手を叩く。どうやら彼女のクセらしかった。
「すみません〜、うちはそういう性癖の方のお相手とかはぁ、ちょっと……」
「違います!」
 声を荒げると、千代はひぃと肩をすくめる。
「そういう目的じゃなくて……純粋に“煩悩”を消し去って欲しいんです」
「はぁ……煩悩ですか。……でも、見たところまだお若いみたいですし、煩悩なんて少しくらい有り余ってる方が〜」
「……少しじゃないから、困ってるんです。お願いします」
「うぅーん……わかりました。そこまで仰るなら、こき使っても訴えられる事は無さそうですしぃ……父からも“拾える金は拾っておけ”って言われてますし……、それじゃあ、やるだけやってみます?」
「……お願いします」
 なにやら釈然としないものを感じながらも、月彦は千代に促されるままに潜り戸を通る。
(……うわぁ……)
 と、思わず声に出してしまいそうになったのは、立派な門扉の裏側に斜度二桁を記録しそうな程に、文字通り傾いた社屋が建っていたからだ。
(いやいや、別に建物の善し悪しは関係ない。むしろ、こういった所の方が修行が厳しくて精神が鍛えられるじゃないか)
 と、咄嗟にポジティブシンキングをするも、しかし――この寺が“体験修行”というものをやり始めたのは、偏に世の民の世知辛さを嘆いての仏心ではなく、“早急な現金収入”が欲しかったからなのだろうな、と察しがついてしまうのは否めなかった。
「ええと……それじゃあ、私はマニュアルを捜してきますから、その間に着替えて、お掃除あたりからお願いしてもいいですか?」
「解りました」
 マニュアル?と月彦は首を傾げつつも、それとは別の疑念を口にした。
「……ええと、つかぬ事をお伺いしますけど」
「はい?」
「さっき留守番をまかされているって仰ってましたけど……ひょっとして、千代さんお一人でですか?」
「ええ……その、本当は雲水さん達が居る筈なんですけど、父の不在を良いことにみんな麓の方へ遊びに行ってしまって……今は私一人なんです」
「はぁ……そうなんですか」
 雲水、というのは恐らく修行僧かなにかの事なのだろう。寺社に関する知識など無いに等しい月彦は、勝手にその様に分類した。
(……しかし、女性一人……か)
 この寺の経済状態や風紀にも些か問題はある様だが、それよりなにより女性一人と一緒という点のほうが引っかかって仕方がなかった。
(しかも、無駄に綺麗な人だし……巨乳気味だし……)
 所謂、“少し年上のお姉さん”的な風貌は、きっと――そう、二匹の狐によってドロドロの淫らな生活に引きずり込まれる以前の清らかな自分であれば、心ときめいていた事だろう。
 それが今は――自分をさらなる破滅へと導くフラグにしか思えてならない。
(大丈夫、どんなフラグでも立てなきゃいいんだ)
 むしろ、“そういった状況下”で修行をすることによって一掃精神が掃き清められるのではなかろうか。状況が状況だけに、月彦はいつになく前向きだった。
 ――が、そんな前向きな月彦をあざ笑うかの様に。
「……きゃんっ!」
 社屋の方へ戻ろうとした千代が、突然悲鳴を上げて派手にすっ転んだ瞬間、月彦はぎょっと目を剥いた。何故なら、千代が転んだ辺りは一面石畳で、凹凸など微塵も無かったからだ。
「あいたたた……」
「だ、大丈夫ですか!?」
 駆け寄り、抱き起こしながらも、ざわざわと胸の奥が揺れ続ける。
(……うわ、この人……今、何も無い所で転んだ……)
 しかも、転ぶ際にロングのスカートがご丁寧にまくれ上がり、パンチラまで披露してしまう見事さだった。
(ドジッ娘だ、この人……絶対ドジッ娘だ……)
 凄まじく嫌な予感を感じながらも千代を抱き起こす――が、その際、またしても。
「す、すみません……私、おっちょこちょいで……っきゃあっ!」
 一体彼女の中に平衡感覚というものは存在するのだろうか。今度は助け起こそうとした月彦を巻き込んで派手にすっ転んでしまう。
「うぷっ……」
 月彦は咄嗟に、自分の体が下になるようにして千代の体を堅い石畳から守った。――代わりに、その顔面にとても柔らかい二つの塊がむぎゅっ、と。
「ご、ごめんなさいっ! 大丈夫ですか!?」
 慌てて飛び退いて、またしても尻餅&パンチラのサービスカット。ここまでやられては、月彦は“悪い予感”を通り越して顔面蒼白になってしまう。
(ダメ、だ……ここに居ちゃ、……この人と一緒に居ちゃだめだ……!)
 得体の知れない“力強い流れ”に、明日の朝まで眼前の女性と“他人のまま”で居る自信が無くなっていく。勿論、月彦は慌てて千代から距離をとった。
「……すみません、橘さん。やっぱり、体験修行の件……無しでお願いします」
「え……? そ、そんな……まだ何も……」
「本当にすみません! でも、俺――……これ以上フラグ立てられたら、マジで破滅なんです! ごめんなさい!」
 月彦は何度も頭を下げ、逃げるように門扉を潜り、寺院を後にした。


 



 佐々木円香にとって、そもそも望んで飼うことになったわけでもないコジローとの散歩という作業が楽しい時間となったのは、偏に白石妙子の存在によるものが大きかった。
 平日の夕方、コジローにねだられて渋々散歩に行くと、必ずといって良いほどに学校帰りの妙子と遭遇し、ついついその場で話し込んでしまうのだ。回を重ねる毎に親密度は増し、最近では近くの公園に移動してたっぷり一時間近くは話し込むという事もザラだった。
 そして、今日も今日とて――休日の昼下がりという時間帯は“元”クラスメイト達との遭遇の可能性がある為、円香としては極力外出したくない時間帯ではあったのだが――あまりにコジローが急かしてくるから、やむなくリードを手に取り、散歩に出かけたのだ。
 そして案の定――買い物帰りらしい妙子と遭遇したのだった。
(臭いで解るのかしら……?)
 どう考えても、この遭遇率は尋常ではない。散歩に行く、というよりは妙子に会いたがっているコジローに引っ張られていく、というのが正しいのではないか。
「コーギーやダックスフンドみたいな胴長短足の犬種は、特にヘルニアに気を付けてあげないといけないんです」
 妙子と二人、ベンチに座り――コジローは妙子の膝の上にアゴを乗せるようにして、うっとりとした顔で愛撫を受け続けている。円香が見る限り、妙子の撫でる手つきが特別変わっているという様には見えないのだが、同じように円香が撫でても決して同じ結果にはならないのだから不思議だった。
「本当は、コーギーにもふっさふさの尻尾があるんですけどね。牧羊犬だった頃の名残で、子犬の頃に切っちゃうケースが多くて……私は、あまり好きな風習じゃないんですけど」
「どうして牧羊犬だと尻尾を切るの?」
「尻尾が長いと、牛や羊に尻尾を踏まれちゃう事が結構あったらしいんですよ。あとは狩猟犬として使われた時に、毛皮の色とふさふさした尻尾がキツネと間違われて撃たれちゃう事があったから、っていう説もあります。どちらにせよ、ペットとして飼う分には断尾はする必要の無い事なんですけどね……子犬の頃にやっちゃうとは言っても、子犬だって痛いわけですから……」
 恐らく、心の底から犬が好きなのだろう。そして、その愛情が伝わるからこそ、コジローもここまで妙子に懐き、無防備に腹を晒してなでつけられたりしているのだろう。
(……ちょっと、妬けるなぁ……)
 さすがに自分の飼い犬なのに、他人に自分以上に懐かれると心穏やかではない。――が、最近ではどうやらコジローの頭の中で「この女は“あの人”の所に連れて行ってくれる奴」というインプットが行われたらしく、家族の中では円香に一番懐くようになってきたから、まんざら悪くも無かった。
(それに……妙子ちゃん、良い子だし……)
 回を重ねる毎に、円香は強くそう思う様になった。犬の話をする時の妙子は本当に嬉しそうで、事実そうして教えてもらえる豆知識やアドバイスは円香としても興味深かった。
 終始にこにこと人なつっこい笑顔を崩さず、コジローをモフる時などは女の円香ですら思わず胸がキュンとなってしまう程に可愛く見えてしまうくらいだ。妙子が怒る所など――否、人を睨み付ける所すら、円香には想像することが出来ない。
 その笑顔の元となる容姿も、凡そ自分の及ぶ所ではない。きっと、学校でも人気者だろう。……願わくば、こういう形ではなく、学校で――それも、きちんと如学に受かった後で、クラスメイトとして出会いたかった。
(って言っても、学年が違っちゃうから無理かな)
 見事如学に受かった自分、そして妙子と友達になっている自分を想像して、円香は僅かに口元を緩ませる。例え叶うことのないただの夢だと解っていても、ほんの数秒、幸福を感じるには十分だった。
(……でも、良いんだ。私には……武士君がいるから)
 確かに、“そういう未来”もあったのだろうが、そうなればきっと武士とは出会えなかっただろう。円香にとって確かに妙子は貴重な友達だが、さすがに武士とは比べられない。
(妙子ちゃんも……誰かと付き合ってるのかな? そういう話は全くしないけど……)
 案外、妙子のような才女に限って、ろくでもないダメ男と付き合っていたりするのではなかろうか――などと失礼な事を考えて、思わず笑みを漏らしてしまいそうになる。
 今度、機会があったら“そういう話題”も振ってみよう――そして、さりげなく武士との事をノロケちゃったりしてしまおうと、円香が思った時だった。
「……コジロー…………?」
 “その異変”に最初に気がついたのは、恐らくコジローだった。びくっ、と体を震わせると、逃げるように妙子の側から飛び降り、円香を盾にするようにくるりと回り込んで来る。
「……え?」
 突然の事に、円香は己の気がつかぬ内に、隣に座っている人物が入れ替わってしまったのではとすら思ってしまった。それほどに――隣人の、妙子の様相が一変していた。
 先ほどまでのニコニコとした笑顔とはうって変わって、張りつめた糸の様に緊迫した顔で、まるで親の敵でも見るような目で公園の外を睨み付けていた。
「あ、あの……妙子、……ちゃん?」
 恐る恐る声をかける円香を完全に無視して、妙子は無言のままに立ち上がり、公園の出口の方へと歩み出す。慌てて円香も後を追おうとするが、コジローが頑としてその場から動かず、やむなくその背を見守る事しか出来ない。
(急にどうしたんだろう……)
 何か不機嫌にさせるようなことをしてしまったのだろうか。不安に苛まれながらも、円香は妙子が睨み付けている先を見た。丁度、大仰な荷物を背負った、如何にもさえなそうな男が、如何にも気落ちしているという歩き方でとぼとぼと公園の外を歩いており、どうやら妙子はその男を睨み付けている様だった。
 程なく、男の方も妙子の視線に気がついたらしく、妙子の方へと顔を向けて――そしてなにやらぎょっとするように身を竦ませた。どうやら、二人は知り合いであるらしかった。
「……よ、よぉ……妙子、奇遇だな」
 男はなんとも引きつった――例えるなら、自分がこさえた借金のせいで離縁せざるをえなくなった元妻と偶然邂逅してしまった時に元夫が浮かべるような――笑みを浮かべ、辿々しく挨拶をする。
「……どういうつもり?」
 思わず耳を疑いたくなるほど、妙子の声には迫力が籠もっていた。
「どういうつもりって言われても……」
「何ジロジロ見てるのよ。気安く話し掛けないでって言ったでしょ」
「いや別に、ジロジロ見てたわけじゃ……」
 男は余程妙子に負い目があるのか、おろおろと戸惑うばかり。最初こそ、妙子の迫力に及び腰だった円香も、いつの間にか野次馬根性を刺激され、完全に成り行きに見入ってしまう。
「全く……よく私の前に顔なんて出せたわね。この間あんたにされたこと、私が忘れてるとでも思ったの?」
 一体何をされたんだろう――と、円香はとてつもなく好奇心を擽られるも、会話に入っていけるわけもないから、耳をそばだてるしか術がない。
「あ、あれは……確かに、俺が悪かった。けど、今日お前に会っちまったのは完全に不可抗力だ。あの時のことは……いつか改めて謝りに行こうって思ってた」
「いつかっていつ? 言っておくけど、謝りになんて来なくていいから。もしあんたに少しでも罪悪感っていうモノがあるのなら、金輪際私の前に顔なんて見せないで。それがどんな謝罪よりも嬉しいわ」
「ぐ……っ……」
 男はそこまで言わなくても――とさも言いたげな顔をするが、やはり、そう言われるだけの心当たりがあるのだろう。ぐっと言葉を飲み込み、反論しなかった。――そしてどうやらそれが、妙子の怒りをさらに買ったらしい、と完全に第三者視点で傍観している円香には解った。
「情けない男ね。反論も出来ないの?」
「あのなぁ、俺だって……………………もういい。とにかく、今日の所は……大人しく帰る。友達と一緒の所、邪魔して悪かったな」
 じゃっ、と男は手を挙げて踵を返そうとするが。
「待ちなさいよ。……言うだけ言って逃げる気?」
「なっ、逃げるって……お前なぁ」
「勘違いしないで。私だってあんたなんかとの会話は今すぐにでも止めたいわ。……でもね、私は“金輪際顔を見せないで”って言ってるの。解ってる? “今日の所は帰る”なんて言って欲しくないわけ」
「……解った。もう金輪際お前に話し掛けないし、お前の前にも顔を出さない。これでいいか?」
「………………………………やっと解って貰えたみたいで嬉しいわ」
 妙子の返事までは、ずいぶんと間があった。その間、心の中でどんなやり取りが行われていたのかは、円香には想像することしか出来ない。
「……そうは言っても、バカなあんたの事だから明日には忘れてるんでしょうけどね」
 まるで“それ”を望んでいるかのような口ぶりに――に聞こえた。
「顔を見せないっつったら絶対見せない! それでいいんだろ!」
 だがどうやら、男の方はそうは取らなかったらしい。
「何勝手にキレてるの? 言っておくけど、怒っているのは私の方なんだからね」
「解った、解った……何でもお前の言うとおりにする……頼むからもう家に帰らせてくれ。…………色々あって疲れてるんだ」
 色々って何よ――如何にもそう言いたげな妙子の背中だが、結局言葉が発せられる事はなかった。
「じゃあな、妙子――じゃなかった。見ず知らずの他人の誰かさん」
「……っ…………!」
 挑発的な男の物言いに、妙子は髪をザワつかせるが、今度は止めなかった。
 なんだ、もう終わりか――すっかり昼ドラを観賞する主婦モードに入っていた円香はがっくりと肩を落とした。
「……ごめんね、円香さん。変な所見せちゃって」
 くるりと、円香の方を振り返った妙子は――逆大魔神とでも言うべきか、いつもの愛くるしい笑顔に戻っていた。
「今の男の子って、もしかして妙子ちゃんの元カレ?」
 ぴくっ、と妙子の眉が揺れ、一瞬さっきの――“恐い顔”に戻りかけるも、すぐに愛想笑いに戻った。
「ううん、“ただの”幼なじみ」
 ただの、の所がことさら強調されていた。
「私に構わないで、っていつも言ってるのに、つっかかってくるから難儀してるの」
「ふぅん……」
 円香の記憶が正しければ、最初に目につく位置にまで歩いていったのは妙子の方であったし、会話を切って帰ろうとする男を呼び止めたのも妙子の方だった筈だ。
(……そっか、妙子ちゃんって“そういう子”なんだ)
 なるほどなるほど、と頷きながら、依然妙子に近づけないままのコジローの顎の下を丁寧に撫でつける。
(ニヤニヤしそうになるのを無理矢理噛みつぶすと、“恐い顔”になっちゃうわけだ)
 妙子自身にその自覚があるのかどうかは解らないが、少なくとも円香にはそう見えた。
(あんな如何にも冴えなそうなのが良いなんて、妙子ちゃん趣味悪いなぁ……)
 才女はダメ男に引っかかるの法則はあながち間違いではないのかもしれない。
(でも、好きになっちゃったらしょうがない、か……)
 釈迦も大仏も惚れたらそれまで。妙子のこの恋を応援してやるべきか、それとも目を覚まさせてやるべきか――判断に苦しむ円香だった。

 



「……はぁ…………」
 泣きっ面に蜂。今ほどこの諺が似合う状況は無いだろう。月彦は文字通り足を引きずる様にして帰路を辿っていた。
 禅寺での事は非常に残念だった。寺で精神を鍛え直して貰えば、きっと真人間に戻れる――その希望も、見事に打ち砕かれてしまった。
(どうしてこうなるんだ……)
 正確に言えば、完全にダメになったというわけではない。少なくとも、先方から断られるといった類の事は無かった。無かったのだが――告げたのだ。第六感が、ここは危険だと。
 体験修行といえば、基本的に泊まり込んで行うものだ。にも関わらず、若い女性と二人きり――しかもドジ属性つきではどんな“間違い”が起こるとも限らない。
 そう、最早人里離れた山奥――といっても大した距離ではないが――で女性と二人だけでしばらくの間寝食を共に、というシチュエーション自体、何者かに仕組まれた罠としか思えないのだ。
(また何処か……違う所を捜すか……?)
 しかし、別の寺に行ったとしても、何故だか最終的には“同じような結末”になってしまう気がしてならなかった。
(しかも、帰り道によりにもよって妙子に会っちまうなんて……)
 ヘコんでいる所をさらにヘコまされて、ぐうの音も出ない状態とはまさにこの事。妙子との関係悪化は月彦としても望む所ではない。可能な限り穏便に事を収めねばならない所であったのに、つい憎まれ口まで叩いてしまった。
(寺の事といい、妙子との遭遇といい、“流れ”がちょっと悪すぎないか……?)
 きっとこういう状態の事を、“憑かれる”――と、古人は表現したのだろう。否、事実その表現がシャレにならない状況ではあるわけなのだが。
(……しょうがない、今日の所は大人しく帰って、真央に小言を言われるか……)
 黙って出てきたから、さぞかし立腹している事だろう。真央の尋常ではない詰問攻めを想像するだけで、背負っている荷物が二倍にも三倍にも重く感じられ、歩くのすら億劫になるが、先送りにすればするほど事が面倒になるのもまた事実。
 はあ、と大きくため息をつき、月彦は玄関のドアを開けた。
「……ただいま」
「あら、お帰りなさい、月彦。今日はお寺に泊まるんじゃなかったの?」
 てっきり、真央が玄関で待ち伏せしているとばかり思いこんでいただけに、葛葉の出迎えに月彦は少々面食らってしまった。
「あ、あぁ……いや、ちょっと、なんか今混んでるみたいで。ダメだった」
 さすがに、留守役の女性とヤッてしまいそうだから、とは言える筈も無い。
「あれ、そういえば……母さん、真央は?」
「真央ちゃんなら、由梨子ちゃんの家に行くって、出かけたわよ?」
「……珍しい」
 と、つい口から出てしまう程に、実際珍しい出来事だった。あの真央が、自分から一人で出かけるなんて。
(まさか、俺が由梨ちゃんちに行ったかどうか確かめる為に……とか、そんなわけはないよな……)
 杞憂、杞憂、と月彦は頭を振ってそれ以上考えないようにする。
 とりあえずかさばる荷物を部屋に置いてひと心地。本棚の上に目立たぬ様置いてある鹿人間風貯金箱に些か気を重くなるが、折角貰った物を押入に入れておくわけにもいかない。
(まあ、あそこなら真央からも見えにくいだろう)
 身長的に、という意味だが、仮に見つかったとしても友達の土産と言って誤魔化しきるつもりだから、それはそれで構わない。
 むしろ、見つかってはいけないのは――月彦は机の引き出しを開け、使わなくなった筆箱の中に隠してある小さな包みを取り出す。掌に収まる程度のその包みには、はっきりと先日行った遊園地のロゴがプリントされていた。
「……せめて、これをさっき持ってたらなぁ……」
 自分用としても、そして由梨子や他の級友に対しても土産を買うのは危険――しかし、妙子ならば、真央に漏れ伝わる事は無かろうと。折を見て過去の詫びも含めてこの土産を渡そうと思っていた。
 だが、それも最早困難。面と向かってはっきりと“顔を見せるな”と言われた後では――。
(……まぁ、そのうちきっかけもあるさ)
 妙子と、まだ“縁”があるのならば。
「……ん?」
 不意に、ぱたぱたと階段を駆け上がってくる足音が聞こえて、月彦は慌てて包みを筆箱の中に戻し、引き出しを閉めた。
「月彦、入るわよ?」
「……なんだ、母さんか」
 足音的に、真央が帰ってきたのかと思って慌ててしまったのだ。最近は特にそうして、真央の一挙手一投足にびくびくしてしまっている自分が情けなくも思えてしまう。
「今、真央ちゃんから電話があって、夕飯は由梨子ちゃんの家で食べてくるんですって」
「……由梨ちゃんちで?」
 これはまた、珍しい事が重なったものだ。
「霧亜も今夜は遅くなるって言ってたし……このままじゃ夕飯は二人だけになっちゃうわねえ」
 困ったわぁ――と頬に手を当て、首を傾げる葛葉。月彦には何故夕飯が二人だけだと“困る”のかが理解できなかった。
「今夜はね、とっておきのビーフシチューを作る予定だったの。折角良いお肉が手に入ったから……」
「シチューなら、別に少しくらい余っても次の日食べればいいんじゃない?」
 むしろ、一晩寝かせた方が味が熟成してより美味しくなるのではないか。つまり、どう考えても“困る”ことは無い筈なのだが、葛葉はまるでそのことには触れようとしない。
「そうだわ、月彦。お夕飯に妙子ちゃんを呼んだらどうかしら」
「……へ?」
 葛葉の言葉が、まるで異星の言葉のように月彦には理解できなかった。
「妙子ちゃん、確かビーフシチュー大好きだったわよね? この間のお礼もしなきゃいけないし、丁度良いじゃない」
 これは名案だと言わんばかりに、葛葉はぱむと手を叩く。
「ちょ、ちょっと待って、母さん! 夕飯に妙子を呼ぶなんて……そんな、急に――た、妙子の方だって、きっと都合ってものが……」
「あら、前はよくうちに呼んで一緒に食べたじゃない。妙子ちゃんだって一人暮らしなんだもの。たまにはみんなで和気藹々なご飯食べたいって思ってる筈だわ」
 ちなみに、葛葉が言っている“前”というのは幼稚園ないし小学校低学年の頃の話だ。
「それに、妙子ちゃんのお父さんからも“娘をよろしくお願いします”って頼まれちゃってるから、ね? 月彦。それでいいでしょ?」
「…………………………。」
 さて、なんと言えば葛葉の気を変えさせる事が出来るだろう。
(……母さんは、俺と妙子……そして姉ちゃんとの事とか、何も知らないからな……)
 きっと、昔のままの――それこそ典型的幼なじみのままであると思っているに違いない。そうでなければ、夕飯に妙子を呼ぶなどという発想自体、出てくる筈が無かった。
(まぁ、もし知ってて言ってるんだったら……間違いなく母さんはドSだ……)
 笑顔の意味も変わってくるわけだが、血の繋がった母親の事だけに、間違いなくそれは無いと月彦は信じたかった。
(それに……呼んでも、来るはずがない……)
 たとえ霧亜が居ないと解っていても、妙子は来ない。来る筈がない。あの妙子が、わざわざ出向いてまで、自分と夕食を共にするとは到底思えなかった。
(いや、それは良い……妙子が断って済む話なら、別に構わないが――)
 月彦が一番恐れるのは、それが“小細工”であると、妙子に思われる事だった。そう、即ち――“紺崎月彦”が母親の口を使って妙子を夕飯に呼ぼうとしたと。そう誤解されるのが一番恐かった。
「……月彦は妙子ちゃんを呼ぶ事に反対なの?」
「いや、反対……ってわけじゃないけど――」
 考えに考え抜いた末、結局口から出たのは。
「実は今日、帰り道に妙子と偶然会って……ちょっと口げんかみたいな事したから、顔併せづらくて」
「あらあら……」
 しょうがない子ね、とでも続きそうな葛葉の微笑み。
「だったら、仲直りする良い機会じゃない」
 そうなのだ。紺崎葛葉のものの考え方というのは、えてしてそうなのだ。
「いや、でも……やっぱりすこし時間を空けた方が良いと思うし……」
「月彦、そういうのはね。時間を空けるとかえって拗れるものよ? それに、この間熱が出た時も妙子ちゃんのお世話になったんでしょう? 会いづらいのは解るけど、ここは貴方が折れるべきよ?」
 そう、その時の事もあるから、尚更顔が併せづらいのだが、真相を言えるわけもない。さすがの葛葉も、自分の息子が幼なじみの布団で夢精した等という事実を知れば、あまりの情けなさに泣き崩れるだろう。
「か、母さんの言ってることは解るし、そのほうが正しいとは思うんだけど…………やっぱり、こういう事って、自力で解決したいから――」
「月彦……」
「そ、それにほら…………姉ちゃんも帰りが遅いって言って、早く帰ってくる事もたまにあるし……無理に妙子を呼ばなくてもいいんじゃないかな」
 はっきりと、妙子と霧亜を会わせるのはマズイと言ってしまえれば楽なのだが、言った所でこの脳天気な母親に“この世に死んでも顔を合わせたくない相手がいる”という感覚自体が理解できるかが怪しかった。
「……解ったわ。月彦がそこまで言うのなら、妙子ちゃんを呼ぶのはやめることにするわ」
 良かった、解ってもらえた――ホッと安堵の息をついたのもつかの間。
「うちに呼んで母さんと三人で、じゃなくて妙子ちゃんの部屋で二人きりの方が良いのね。もう、それならそうとはっきり最初から言えばいいのに、照れ屋さんなんだから」
 やっぱりこの母親は、全然解っていなかったのだった。



「……何で、こうなるんだ」
 夕暮れ時、妙子のアパートの前で月彦はしばし呆然と立ちつくしていた。
 その右手にはプラスチック製のバスケットが握られている。中身は葛葉が作ったビーフシチューが入った小鍋と、近所のパン屋で買ったフランスパンだ。
「何でだ、何で……昨日の今日……じゃない、“さっきの今”でこんな事になるんだ……!」
 そして、“それ”を拒みきれなかった自分が何とも歯痒い。一旦“葛葉モード”に入ってしまった母親はそれはもう強引で、なし崩し的に料理を持たされ、家から出されてしまったわけだが、その“流れ”のなんと強烈だった事か。
「……妙子が留守だった事にして、このまま帰っちまうか……?」
 しかしそれもどうであろうか。家に帰るなり、葛葉が妙子の家に電話をかけて「今なら居るみたいよ?」――そう言われ、今度こそ逃げが許されない状況で再度出撃させられる己の姿が目に浮かぶ様だった。
「いやいや、何を嘘をつく必要があるんだ。普通に会って、母さんに持っていけって言われた、ってこのバスケット渡して、速攻帰って来りゃいいんだ」
 何もバカ丁寧に夕飯を一緒に食う必要など無い。要は妙子に“お詫びの品”を渡して、そしてさりげなくこの間の事を詫びさえすれば、葛葉に命じられた用件も済むというわけだ。
(……まぁ、それでも……本当に留守だったら仕方ないよな……)
 出来ればそうであってほしい――などと思いながらも、月彦はぺちんと己の頬を叩く。
「よし……、行くぞ……!」
 軽く気合を入れ、アパートの階段を上り、妙子の部屋の前へ。震える指でインターホンを押――したつもりだったが、すんでのところで異様な密度の空気に阻まれ、指はボタンに触れていなかった。
「ぐぬっ……!」
 再度腕を振りかぶり、指を押しつける――が、どうしてもボタンを押すことが出来ない。二度、三度と、何度試しても、数センチの隙間を残して指がボタンに触れる事は無かった。
「ふーっ……ふーっ……落ち着け、落ち着け……ただこれを渡すだけ、渡すだけだ……」
 まさか、結界などというものが存在する筈もない。あるとすれば己の心の内側だけだ。月彦は深呼吸をし、荒い呼吸を整える。
「……よし!」
 と再度気合を入れたのもつかの間、突然ドアノブが回る音が聞こえ、月彦は慌ててその場から走り去ってしまう。
「……なんだ、隣のドアじゃないか」
 廊下の突き当たり、階段の入り口まで引き返してそっと顔だけを覗かせ、漸くその事に気がつき、ホッと胸をなで下ろす。どうやら隣の住人らしい、如何にも浪人生といった風貌の男には変な顔をされるが、知ったことではなかった。
 再度妙子の部屋の前まで移動し、ボタンを押――そうとするが、どうしても巧く行かない。バスケットを置き、人差し指を立てた右腕に左手を沿えて、両足で踏ん張って押し出してもボタンには届かない。
「何故だ!」
 声を荒げても、答えが返ってくる筈もない。
(……そうだ、何もインターホンに頼らなくても、普通にドアをノックすればいいじゃないか)
 そうだそうだ、その手があった。うんうんと頷きながら、月彦はさもフレンドリーに、軽く右拳をドアに叩きつけた――つもりだった。
「……またか!」
 しかしやはり、ドアには届かない。なんど振りかぶって振り下ろしても、拳がドアに触れる事は無かった。
「はぁ……はぁ……はぁっ……畜生……」
 まさか本当に見えない壁があるのでは――そんな疑念にかられて、こんどはそっと、ゆっくり指先をドアに近づけていく。――結果、あっさりと指はドアに触れることが出来た。
 しかし、ノックをしようと振りかぶると――やはり届かない。
「落ち着け、落ち着け……ただ、妙子に会うだけだ。妙子が恐いわけじゃないぞ、うん、恐くない、恐くない……」
 己に暗示を刷り込むようにして深呼吸をしていると、今度は階段の方から足音が近づいてきた。
 慌ててバスケットを手に妙子の部屋の前から離れ、口笛などを吹きつつさりげなく目をやると、やってきたのは先ほど部屋から出て行った浪人風の男だった。口に煙草をくわえている所を見るに、どうやら煙草を買いに出ただけらしかった。
 ジロジロと奇異に視線にさらされながらも口笛で耐え抜き、男が部屋の中へと消えるのを待ってから、三度妙子の部屋の前へ。
「……そうだよ、何もドアを叩かなくたって、普通に呼べばいいじゃないか」
 それならば、例えどんな空気の壁があろうとも問題はない。そうだ、その手でいこう――月彦は思いきり空気を吸い込み、一気にそれを吐き出した。
おーい、妙子ー! 開けてくれー!
 しかし、実際に口から出たのは、死にかけの蝉の囁き声かと聞き紛うような掠れた声。ここに来て、月彦は否が応にも不可視の結界などではなく、全ての原因は己の心の内に潜んでいるのだと思い知らされた。
おーい! 妙子ーっ!!
 再度叫んで見ても結果は同じ。声を発している自分ですら、聞き取るのが難しいほどの音量では、到底ドアを開ける事など叶わないだろう。
「………………。」
 さてどうしたものか。
 ボタンを押すのも無理、ノックをするのも無理、呼んで開けてもらうのも無理となれば、もはや万策尽きたといっていい。
(うん、俺は努力した、頑張った、感動した!)
 これだけ手を尽くしたのだ。最早葛葉とて責めないだろう。
「……うん、そうだ。何も俺が直に渡す必要は無いじゃないか」
 袖すり合うも多生の縁。先ほどのお隣さんにお願いして、妙子に渡して貰えば済む話ではないか。
 むしろ何故そのことに気がつかなかったのだろう。それならば、妙子と顔を合わせて気まずい思いをする事も無い。
 “母の遣い”を口実に自分に会いに来たのではないのかと、痛くもない腹を探られる可能性も無い、最高の手ではないか。
 思い立ったが吉日。月彦は早速お隣さんのインターホンを押そうと、スキップに近い足取りで歩き出した――その時だった。
 がっしりと。かなり強烈な手応えで、肩を掴まれた。
「……君、ちょっと良いかな」
 振り返ったそこには、日本の治安を守る事が仕事の――あの青い制服の男が立っていた。


「ぎゃはははははははははははははっ!!!」
 今にも転げ出さんばかりの勢いで、耳を劈く笑い声を上げているのは、月彦が知る限り日本で一番“青い制服”が相応しくない女だった。
「あ、あ、アパートの前で、工具箱もった怪しい男が……う、うろついてるって通報があったから、来てみたら……ブフーッ!」
 台詞も半ばで吹き出してしまい、壁をばんばん叩きながら笑い出す始末。“上司”のその体たらくに、恐らく部下だろう二人の警官も困った顔をして立ちつくすのみだ。
「工具箱じゃありません! ただのプラスチック製のバスケットです!」
「知ってるわよぉ、さっき確かめたもの。……それにしても、紺崎クンが不審人物……ぷ、ぷ、ぷ……だめ、しばらくは思い出しただけで吹き出しちゃいそう……」
「……そんなに、おかしい事ですか!」
 当の月彦としては、腹立たしい事こそあれ、笑い事ではなかった。
(……通報したのは、さっきの人だな)
 それはほぼ間違い無いだろう。生憎、この騒ぎの中でも部屋から出てきてはいないが、いくらなんでも早合点が過ぎるのではかろうか。
(……そんなに怪しかったのかな、俺……)
 確かに、部屋の前で奇行を繰り返しながら独り言を呟いている男が居たら、気味が悪いと思うかもしれない。にしても、即座に通報というのはいかがなものだろうか。
 おかげで、またしても。
「……そ、それで……貴方も、確かに……知り合いなのね?」
「………………はい。認めたくはないですけど」
 未だ笑いを堪えきれない矢紗美の質問にぶっきらぼうに答え、文字通り刺すような視線を向けてくる妙子の方をまともに見る事ができない。
「だーかーら、何度も言った通り、俺は母に頼まれてこのバスケットを届けに来ただけなんですって!」
 警官に呼び止められ、時間差で矢紗美が現れ――そして大笑いをされて――何度となく言った事だった。
「そうは言われても、こっちもお仕事だから。まあでも、良かったじゃない。もし私が居なかったら、ひょっとしたら任意同行くらいにはなってたかもよ? 紺崎クン」
 目尻に浮かんだ涙を拭いながら、矢紗美が意味深に体を寄せてくる。
「ねぇ、このこと雪乃には黙ってた方が良い?」
「……できれば」
「しょうがないわねぇ。……じゃあ、これで貸し一つね」
「……なるべく早く忘れて下さい」
 途方もない悪寒に背筋を凍らせながら、後ずさりして矢紗美と距離を取る。月彦のそんな対応すらおかしい、とばかりに矢紗美は笑みを浮かべ、
「帰るわよ」
 呆然と立ちつくしていた警官二人に声をかけ、颯爽と引き上げていった。後には、またしても醜態をさらした男と、それを見せつけられた幼なじみの二人だけが残された。
「………………」
「………………」
 しばしの沈黙。五分ほどそうして突っ立っていただろうか。不意に妙子が自室のドアを開けた。
「…………入れば?」
「……あ、あぁ……」
 深く考えもせず、誘われるままに妙子の部屋へと入る。ああ、どうやら怒ってはいない様だと安堵したのもつかの間。ドアが閉まると同時に、肩を掴まれ、ドアに押しつけられた。
「……っっ……あんたって男は――記憶力無いの!?」
「ぐっ……いや、なんつーか、その……」
「私が顔見せるなって言って、あんたなんて答えた? 日にちが空いた後なら兎も角、まさかその日のうちにのこのこやってくるなんてさすがの私も見くびってたわ、あんたの馬鹿さ加減を」
「し、仕方ないだろ! 母さんに……これ持っていけって言われたんだから! じゃなきゃ、誰がこんな所、好きこのんで来るかよ」
 ぴくぴくぴくっ……妙子の眉が怒りに震える。
「だったら、さっさと用事を済ませて帰ればいいじゃない! 人の部屋の前でうろうろうろうろ……あんな事してたら警察呼ばれて当たり前よ!」
「あ、あれはだなぁ……お、俺だって……好きで、うろうろしてたわけじゃ……」
 そこまで答えて、はたと。
「……待てよ、妙子。なんでお前がそのこと知ってるんだ?」
「…………!」
 ハッと。妙子が息を呑む。
「……何言ってるの? さっき警察の人が言ってたじゃない。“工具箱もった怪しい男が部屋の前をうろついてるって通報があった”って。だから、うろついてたんじゃないの?」
「……まあうろついてたって言われればそうなんだが……」
 まるで妙子の口ぶりが、“直に見ていた”かのようで、どうにも月彦には引っかかるのだ。
「全く……あんたってどうしていつもそうなの? 少しは男らしくしようとか、格好つけようとか思わないの?」
「……妙子の方こそ、もうちょっと女らしくしようとか、淑やかになろうとか思わないのか?」
 完全に売り言葉に買い言葉。――ああ、これじゃあ昼間の焼き直しだなと。頭の隅だけが冷静で、そんな事を思う。
「……もういいわ。あんたなんかと口論したって不毛だって分かり切ってるんだし、時間の無駄よ、こんなの」
「そうだな。俺だって、嫌われてるって解ってて長居するほど無神経じゃない。用事済ませたらさっさと帰る」
 んっ、と口をへの字に噤んで、ぶっきらぼうにバスケットを差し出す。やや間を空けて、妙子は受け取った。
「……一応、礼は言っておくわ。あんたじゃなくて葛葉さんにね。……ありがとう」
「どういたしまして。……今の言葉は俺個人としてじゃなくて、母さんの代わりとしてな。……じゃあな、俺は帰る」
「……待ちなさいよ」
 後ろ手にドアノブを捻るが早いか、妙子の言葉がその動きを止めた。
「なんだよ、口論は不毛なんだろ?」
「そうね、口論は不毛だわ。…………でもね、私は嫌な事は一度に済ませてしまいたい質なの」
「……どういう意味だ?」
「今、あんたが帰ったら、私は後でこのバスケットを返しに行かなきゃいけないわ。そうなると、またあんたと会っちゃうかもしれないでしょ?」
「……俺が留守の時に来ればいいじゃないか」
「あんたがいつ留守かなんてどうして私に解るの? 第一、そんなこと調べたくもないし、気に掛けたくもないわ」
 相変わらずの言われようだが、さすがにもう慣れてきた。このくらいでは、最早腹も立たない。
「じゃあ、どうしろって言うんだ? まさか、お前が食い終わるまでここで待ってろって言うのか?」
 ぐっ、と。まるで痛いところを突かれたかのように、妙子は突然黙った。
「……あんただって、夕飯まだなんでしょ」
 それまでの“嫌味”とは些か違う、トーンダウンした声。まるで独り言の様に、目を逸らして妙子は呟く。
「こんなにたくさんのシチュー、私一人じゃ食べきれないわ。だから、あんたも手伝いなさいよ」
「……まあ、お前がそう言うなら、手伝ってやらなくもないけどな」
「……っ……!」
 恩着せがましい言い方が気に入らなかったのか、キッと妙子が目をギラつかせる。
「勘違いしないでよね。私はあくまで――」
「解ってるって。“紺崎月彦との接触を一秒でも短くするためにはどうすればいいか”――を突き詰めていくと、俺と一緒に晩飯を食うのが一番の近道だと、そう言いたいんだろ?」
「…………あんたにしては、物わかりが良いじゃない」
 だが、どこか忌々しそうな顔は相変わらず。最も、月彦はもう長いことこの幼なじみの心の底からの笑顔というものを見ていないわけだが。
(しかしまさか、本当に妙子と晩飯食う羽目になるなんて…………)
 明日は槍が降るかも知れない。
(そして、形はどうあれ……またしても母さんの目論見通り……か……)
 時々、あの母親はアカシックレコードでも読んでいるのではないかと、疑いたくなる月彦だった。



 妙子が電気コンロでシチューを温め直す間、月彦は炬燵に入って待つことになった。
(……成る程、布団を敷く時は炬燵は片づけるわけか)
 記憶と違う部屋のレイアウトに、なるほど――などと頷いたりもする。なにげに着席する前に妙子が座布団を出してくれたわけなのだが、
「……座布団は汚さないでよね」
 と一言釘を刺されたのが、地味に心に痛かったりもする。
「俺は躾のなっていない犬か!」
 と反論したいのは山々だったが、現にその様なことを言われても仕方がない事を過去にやらかしてしまっているだけに、何も返せなかった。
(……俺だって、好きで妙子に憎まれ口を効いてるわけじゃあ、ない……)
 現に“再会”してからは、なるべく下手に、妙子の機嫌を損ねない言動に努めてきた。しかし、関係は回復するどころか悪化の一途を辿る始末。そして絶え間ない妙子の悪口に我慢の限界を超えてしまえば、あとは泥沼の口論が待っているというわけだった。
「……しっかし、この部屋……テレビも何も無いんだよな。あいつ、一人で暇にならないのか……?」
 ぐるり、と部屋を見回しても凡そ娯楽といえるような類のものが何もない。強いて上げるならば文庫小説(恐らく時代物)とラジオだが、どちらもうら若き花の乙女にはあまり似つかわしいとは思えない。
(まあでも、妙子だからなぁ……)
 “あの”妙子の部屋に鏡台や化粧品が置いてあるほうが逆に驚くかもしれない――そう考えると、やはり妙子の部屋はこれで良いのだと思ってしまう。
「……なに人の部屋ジロジロ見てるのよ」
 気がつくと、鍋を持った妙子が台所から戻ってきていた。
「……暇なんだからしょうがないだろ」
「悪かったわね、テレビも何も無い部屋で」
 ふんっ、と鼻を鳴らしながらも、妙子はてきぱきと支度を進めていく。テーブルの中央には輪切りにされたフランスパンの盛られた皿とお冷やの入ったボトルが置かれ、それぞれの席の前にはコップと葛葉特製“じっくりコトコト煮込んだビーフシチュー”が用意される。
「………………」
 全ての準備が整った段階で、はたと。妙子が立ちつくしたままなにやら思案するように顎に手を当てた。
「……何だよ、食べないのか?」
「……んー…………やっぱり、こうかな」
 そして、自分の皿を月彦の対面席から、左側の席へと移動させ、自らもその席へと着席する。
「何の真似だ?」
「気にしないで。なるべくあんたの顔が視界に入らない様にしてみただけだから」
「……お前なぁ」
 この期に及んでまだ言うか、とくってかかりたいのは山々だったが、確かにこの状況で妙子と二人きり――真向かいのまま食事をするというのもなかなかどうして、胃に負担をかけるかもしれない。
(……そうだな、口げんかするより、さっさと喰って帰っちまおう)
 相手をするから、口論もエスカレートするのだ。あくまでクールに、さらりと流せば妙子とてさらにくってかかったりはしないだろう。
「……葛葉さん、いただきます」
 まるで当てつけのようにそう言って手を合わせる妙子につい眉を揺らしてしまいそうになるが、月彦はなんとか深呼吸で堪えた。
「……いただきます」
 そっちがその気ならこっちだって――と、月彦はなるだけ妙子の顔が視界に入らないように体を傾けながらシチューを口に運ぶ。
(……きっと、もの凄く美味しいんだろうけどなぁ……)
 それだけに、この緊迫した状況下で食さねばならないのがもどかしい。しかし、そんな気まずい沈黙も長くは続かなかった。
 何故なら。
「……――ねぇ」
「……なんだよ」
 視界の外から不意にかけられた言葉に、月彦は視線を固定したまま返す。
「さっきの婦警さん、知り合いなの?」
「関係ないだろ、妙子には」
「…………!」
 視界の隅で、妙子の手がぎゅうとスプーンを握りしめるのが見えて、月彦は妙子から見えない側の口元を微かに綻ばせる。
(……一矢報いた――かな?)
 散々憎まれ口を叩いた罰だ、これくらいの反撃は構わないだろう。すっかり止まってしまっている妙子のスプーンを尻目に、月彦は事務的に、黙々とシチューを口に運ぶ。
(相手にしない相手にしない。相手にするとまた口論になっちまうからな)
 クールに受け流すのが一番であると。月彦はあくまで食事に専念する。
 ――が。
「……随分、親しいみたいに見えたわ」
「気のせいだろ」
 フランスパンを手にとり、もしゃもしゃと口に運ぶ。葛葉が贔屓にしているパン屋の目玉商品なだけに、シチューとの相性も抜群だった。
「…………“ゆきの”って誰よ」
「……気になるのか?」
「……〜〜〜〜っ!!!」
 おいおい、そんなに握りしめたらスプーンが曲がるぞ、と。うっかり忠告をしてしまいそうな程に妙子の右手はぷるぷる震えていた。
「無駄話は嫌いなんじゃなかったのか?」
「……そうね、無駄だわ、こんな話」
 ふんと鼻を鳴らして、あくまで平生ぶった妙子がスプーンを握り直した所を見計らって。
「うちの学校の先生だよ」
 ぼそりと、まるで独り言の様に。
「“ゆきの”って人が?」
「何だ、まだ無駄話を続けるのか?」
「……っ……私はあんたと違って、気になった事ははっきりさせておきたい主義なの。例え、どうでもいい事でもね」
「それって、どうでもいい事って言わないんじゃないのか?」
「……私はあんたの屁理屈が聞きたいわけじゃないの。……“ゆきの”って人は、あんたの高校の先生なのね?」
「ああ。そしてさっきの婦警さんはその先生の姉な」
「……いやらしいわ」
 はっきりと、軽蔑の交じった声だった。
「…………何がだよ」
「どうしてあそこでその先生の名前が出てくるの? あれじゃあまるで恋人か何かみたいじゃない」
「…………妙子、何か勘違いしてないか?」
 はあ、と大きくため息を一つ。
「“ゆきの”先生は男だぞ?」
「えっ……?」
「本名は雪野権蔵、ゴツい体育の先生だよ。生活指導もやってて、すげー厳しいんだ。だから不審者と間違われたなんてバレたら困るってだけ」
「…………じゃあ、さっきの婦警さんとはどうなの? いくら厳しい先生でも、そのお姉さんとまで知り合いなのって変だわ」
「前に体育教官室の大掃除を手伝った時、家に呼ばれて夕飯喰わせて貰ったんだ。その時、たまたま顔合わせただけだ。疚しいことなんか何も無い」
 まだ納得がいかないのか、妙子は渋い顔をしている様だった。――勿論、なるべく視界に入らないようにしているから、はっきりと見たわけではないわけだが。
「……それでも変だわ。弟のことを名字で呼ぶなんて」
 ぎくり、と胸が跳ねそうになる。さすが妙子、そこに気がつくとは。
「さあな。世の中そういう人も居るんじゃないのか? そんなに俺と“ゆきの”先生の事が気になるなら千夏にでも聞いてみればいいだろ」
「……冗談じゃないわ。なんで、私が……そんな事……」
 ブツブツと口を尖らせながら、妙子は漸く食事を再開する。表面上では平生を装っているが、月彦は密かに胸中で安堵の息を吐いていた。
(……よしよし、こう言っておけば、間違っても千夏に確認をとったりはしないだろう)
 妙子の性格上、それは出来ない筈だ。何故なら、確認をとってしまったら――それはイコール“気になってしまった”と認めてしまうことになるからだ。
(……俺もすっかり、平気で嘘が言える体になっちまったな…………)
 誰のせい、とは言えなかった。
(全く……矢紗美さんが余計な事を言うから……妙子にまで嘘をつく羽目に……)
 そして、“貸し一つ”という矢紗美の言葉が、よりいっそう月彦の心を重くする。あの人の事だ、またぞろ近い未来、唐突に“返済”を要求してくるに違いない。
 はぁ、とため息をついても、それで腹が満たされるわけでもない。早々に空になってしまった平皿をお代わりのシチューで満たし、フランスパンをもしゃもしゃ。
「…………妙子って、喰うの遅いのな」
 ちらり、と見た妙子の皿が殆ど減っておらず、ついそんな一言が口を飛び出してしまう。
「餓鬼みたいにがっついてるあんたと比べられたら、誰だって遅いわよ」
「俺のスピードが標準。千夏は遅い、和樹は異常、妙子は――ああ、減らず口が多い時はいつも遅かったっけか」
「……昔の事を、いつまでも引き合いに出さないで」
「ほら、また手が止まってる。早く鍋が空にならないと俺が帰れないだろ」
「ふん、……いざとなったら器だけうちの食器に換えれば、いつだって空に出来るわよ」
「…………じゃあなんで最初からそうしなかったんだ?」
「……っ……!」
 ぴくりと、妙子の動きが止まる。
「そうすりゃ、俺もすぐ帰れたし、一緒に晩飯を食う事も無かったし、お前にとっても万々歳だったんじゃないか?」
「…………そ、そうね……その、通りだわ……」
 “そのこと”を思いつけなかった事が余程口惜しいのか、妙子の顔は蒼白にすら近く見えた。
「まあ、“今更”だけどな。三杯目貰うぜ?」
「……本当によく食べるわね。遠慮ってものを知らないの?」
「元々、俺が持ってきた物をどうしようと俺の勝手だろ」
「作ったのは葛葉さんよ」
「……妙子、どうでもいいが、とりあえず喋るのは食べ終わってからにしたほうがいいんじゃないのか? シチューが冷めちまうぞ」
「っ……五月蠅いわね! あんたなんかに言われなくったって……そのくらい解ってるわよ」
「解ってるんだったら、その通りにしような。俺だって早く帰りたいんだ」
「〜〜〜〜っっっ…………!」
 きっともの凄い表情で睨まれているのだろうが、月彦は妙子の顔を視界にいれない事でそれを凌ぐ。
(“視界に入れない為”に対面席を避けたのに、これだけガン見されてたら効果ゼロだな)
 むしろ見ないようにしているのが自分の方ではまさに本末転倒ではないか。くつくつと含み笑いを漏らしながら、月彦はあくまで自分のペースで三杯目を平らげるのだった。
 



「さてと、じゃあ……帰るか」
 無駄に長居をする理由など無い。洗った鍋をバスケットに収めるなり、月彦は颯爽と玄関へと向かった。
「じゃあな、妙子。もう会う事も無いだろうが――」
 まるで今生の別れの様に言いながら、ドアノブを捻ったその矢先。
「待って」
 またしても声がかかった。
「っ……と。何だよ……今日はよく呼び止められるなぁ……」
「勘違いしないで。帰るなって意味じゃないわ。私も用事があるから、一緒に出るってだけ」
「……用事で出かけるにしても、何も俺と一緒に出なくてもいいだろ」
「光栄に思いなさいよね。外は夜で、私は女。一応あんたみたいなのでも男は男だし、案山子よりは役に立つと思ってあげてるんだから」
「……それはまた、身に余る光栄な事で」
 苦笑しながら一足先に外に出る。程なく、白のダウンジャケットを着た妙子が出てきて、施錠をする。
「で、何処に行くんだ?」
「ポストよ。ハガキを出すだけだもの」
「ハガキ……ああ、ラジオのか」
 ムッ、と妙子が目をつり上げる。
「そういう言い方は止めて。バカにされてるみたいで腹が立つわ」
「それはお前の受け取り方がねじ曲がってるだけだろ。俺はバカになんかしてない」
「……昔はよく、バカにされたわ」
「昔の事を引き合いに出すなって言ったのは、お前の方だろ?」
「それは、さっきの話!」
 プイッ、とそっぽを向き、ずかずかと早足に歩き出してしまう。やむなく、月彦もその後に続かざるを得ない。
(……本当にバカになんかしてないんだが)
 それでも、確かに言い方、或いは発音、ニュアンスが悪かったのかもしれない。コミュニケーションとはなんて難しいんだろうと首を捻りながら歩いていると、早くもポストが見えてきた。
(……なんだ、五十メートルも離れてないじゃないか)
 この距離なら“頼りない用心棒”など要らないだろうと思っていると。
「……今、“随分近いな”って思ったでしょう」
 くるりと、妖怪サトリが振り向いた。
「……思った」
「正直でよろしい」
 何が愉快なのか、妙子はふふんと鼻で笑って、ハガキの束をポストの口に入れる。
「こんな距離でもね、夜は不安なのよ。……男のあんたには解らないでしょうけどね」
「そんなに不安なら、帰りもついていってやろうか?」
「それは遠慮するわ。送り狼なんてシャレにならないもの」
「…………襲う気なら、さっき襲ってる」
 憮然として言うと、珍しく――
「……それもそうね」
 妙子はふふふと笑った。その笑顔があまりに物珍しくて呆気にとられていると、まるで思い出したかの様に、
「……尤も、そんな事になったらあんたを刺し殺すか、舌をかみ切るけどね」
 キッと、親の敵を見るような顔。何故かは解らないが、妙子に限っては――笑顔よりも、そういう張りつめた顔のほうが安心して見ていられるから不思議だった。
(いや、“何故か”じゃない。…………理由は、多分……)
 惚れているからだろう。だから、笑顔を見せられると、途端に心臓を掴まれた様にドギマギして、舞い上がってしまいそうになる。だから、そうならないで済むキツい表情だと、逆に安心していられるのだ。
(……どう、するかな…………)
 上着のポケットに手を突っ込み、指先で“包み”を弄ぶ。渡すとしたら、今がラストチャンスだと言えなくもない――が。
「……何よ、まだ何か用があるの?」
「それはこっちの台詞だ。お前こそ帰らないのか?」
「先に帰ると、あんたがついてきそうで嫌なのよ」
「成る程」
 妙子がそう言うのならば、このまま無駄に突っ立って互いに凍えるのも馬鹿馬鹿しい。
「じゃあな、妙子。月のない夜は気を付けろよ」
「大丈夫よ。誰に、どんな不意打ちをされても、ダイイングメッセージにあんたの名前だけは書いてみせるから」
 こやつ……と、苦笑いを浮かべそうになる口元を隠すように、月彦はくるりと背を向ける。
「……月彦」
 そして三歩と歩かずに、四度、呼び止められた。
「……なんだよ」
 足を止めたまま、振り返らずに問う。
「……シチューのお礼、まだ言ってなかったわね」
「玄関先でしたろ」
「味のお礼よ。……とっても美味しかったわ、ごちそうさま。………………ありがとう」
「どういたしまして」
 あんたに言ったんじゃない――てっきりそう返ってくるかと思ったが、妙子はそのまま踵を返した様だった。
「…………〜〜〜〜っ……!」
 途端、何かが、急に。
「……あぁっ、そうだ」
 胸の奥から、強烈に突き上げてきた。
「妙子、待て」
 頭で考えるよりも先に、呼び止めていた。
「……何よ」
 不審そうに振り返る妙子の元へ、ぎこちなく歩み寄り、右手を差し出す。
「忘れる所だった。……この前の毛布の詫びってわけじゃないけど、土産だ」
「土産?」
 妙子はまるで爆弾でも受け取るような神妙な手つきで、掌よりも小さい包みを受け取る。
「このマーク……って……確か、隣の県の……」
「ああ、この間の休み……友達と、ちょっと……な」
「千夏達と?」
「いや、あいつらとじゃない。別の友達とだ」
「ふぅん……開けていいの?」
「出来れば開けずにそのまま家宝にでもしてくれ」
「………………。」
 どうやら冗談は通じなかったらしく、これ以上無いというくらい乱暴な手つきで包みは破られた。
「あっ……」
 と、一瞬漏れた声は、妙子には珍しく裏返ったような声だった。
「な、何よ……これ……」
「見ての通り、犬のキーホルダーだ」
「それは、見れば解るわ。私が言いたいのは、どうして遊園地に行ったお土産が犬のキーホルダーなのか、って事よ」
「和樹と千夏には言うなよ。あいつらの土産は買ってないんだから」
「答えになってないわ! せめて、マスコットキャラとかなら解るけど、こんな……犬の、しかも……よりにもよって……こ、コーギーのキーホルダーなんて………さ、最悪のセンスね、相変わらず……」
 キーホルダーを持つ手も、そして声も震えていた。
「そう言うなよ。あそこのマスコットのキモいシカ人間よりはマシだろ? かといって猫の方は嫌いだろうと思って、わざわざ犬のを捜したんだぜ?」
「……お、お土産っていうのはね、“○○に行ってきました”っていうのが解らなきゃ意味がないのよ? こんな、何処にでもありそうなっっ……か、かわっ…………っっ……可愛くも、無い…………」
「……妙子? 大丈夫か? 顔が顔面神経痛みたいになってるぞ……」
「う、五月蠅い! バカ! 何でこんなの買ってくるのよ、信じらんないわ!!」
 ばちこーん!
 訳も分からぬうちに、左頬に痛烈なビンタをお見舞いされる。
「ッてぇ……た、妙子……おい、ちょっと待て……!」
 手をさしのべた所で届く筈もなく、妙子は一目散に走り去ってしまった。
「……なんだありゃ…………あいつにも嫌いな犬が居たのか……」
 てっきり、犬ならば何でも喜ぶだろうと。そう思ったのに。
 待ったをかけるように手を伸ばしたまま、呆然と立ちつくした後、月彦はがっくりと肩を落とした。
(……もしかしたら、何か辛い別れ方をした犬とかだったのかもな…………)
 まさか激昂してビンタされるほど嫌いな犬だったとは。またしても裏目ってしまったという事だろうか。
(修行はダメになるわ、矢紗美さんには貸しを作るわ、妙子には罵られるわビンタされるわで散々な一日だった……)
 これだけ悪いことが重なったのだ。明日はきっと良いことがあるに違いない。そう前向きに考えながら、月彦は漸く重い足を自宅の方へと向けた。
 しかし、得てしてそういう時ほど――どうやら新たな災厄というものは舞い込んでくるものらしく。
「……ん?」
 妙子のアパートから、紺崎邸まではそう離れてはいない。少しばかり考え事をしながら歩けば、それこそものの一瞬で着いてしまう距離だ。
「家の前に……誰か……」
 人影が。もしや妙子か――と思うが、違う。微かな街灯の明かりに照らされたその姿は、どう見ても女性――そして、ロングスカートのようなものを履いていた。この時点で、妙子という線は消えた。
 一歩進む事に、その輪郭が徐々に鮮明になる。やがてその姿が記憶の中のある人物と重なった瞬間、歩くことも声をかける事も出来なくなってその場に立ちつくした。
 “人影”は紺崎邸を真正面に見据え、呆然と――何か思案に耽る様に二階の辺りを見上げていた。その口元が微かに動いているように見えるが、何を言っているのかは聞き取れない。
 やがて、その大きな耳が、ぴくぴくと――月彦の方へと揺れた。
「……っ!」
 蛇に睨まれたカエル――まさにそんな気分だった。
 闇夜の中、きらりと光るのは、人の物ではない――ケモノの目。
「……こ、今晩は……?」
 月彦は辛うじて掠れた声で挨拶を放つ――が、返事は皆無。代わりに、鈴が……ちりん、と。
「……え…………」
 鈴の音に気を取られたほんの一瞬の事だった。眼前から“人影”は消え、気がついた時には背後から、遠ざかっていくような足音。
 左の頬の辺り、はらりと舞っている数本の髪の毛は、ただの抜け毛か、それとも。
「……………っ……」
 背後で、もう一度ちりんと、鈴の音が鳴った。その後は、最早足音すらも聞こえなかった。

 



 


「父さま、おっかえりぃーーーーっ!!」
「おう、真央……ただいマ゛フッ」
 たっぷりと加速をつけた真央のフライング抱きつき&頭突きを腹に受け、背中をドアで強打しながらも、尻尾をぶんぶんと振る愛娘の頭を優しく撫でつける。
「あのね、今日ね、由梨ちゃんちでお料理教えてもらってたの」
「……お料理?」
 どきりと、嫌な予感が脳裏を走ってしまい、笑顔を返してやることが出来ない。
「だから、今度は私が父さまのお弁当作ってあげるね!」
「……あ、あぁ……そうだな……なるべく、学校の無い日に頼むな」
 ぽむ、と頭に手を乗せて、さりげなくその脇をすり抜けようとした矢先。
「――それで、父さまは何処にいってたの?」
 先ほどまでのきゃぴきゃぴとした声とはうって変わった――とても同じ口から発せられたとは思えない程に――迫力に満ちた低い声で呼び止められる。
「………………母さんから聞いてないのか? お使いにいってたんだ」
「“白石さん”の家に?」
「そうだ」
「ふぅん…………」
 恐らく、葛葉から遣いに出た事自体は聞いたのだろう。だが果たして“白石さん”と“妙子”が同一人物である事まで知っているのか。尋ねる事など出来なかった。
「そ、そうだ真央! そんな事より、お前に聞きたい事があったんだ」
「私に聞きたいこと?」
「ああ、俺は母さんにこれ返してくるから、先に部屋に戻って待ってるんだ」
 うん、と頷いて、真央はトトトッと階段を駆け上がっていく。
「さてと……母さんは……台所か」
 台所の方から、水の出る音とかちゃかちゃという食器の音が聞こえれば、最早迷う事も無い。
「ただいま、母さん」
「あら、お帰りなさい。……随分早かったのね」
「はや……い、かな…………?」
 月彦は振り返り、台所の入り口の上の壁掛け時計に目をやる。――午後九時を過ぎていた。
(……自覚は無かったけど、結構長居しちまったんだな)
 妙子の部屋に行った時は、まだ日が暮れていなかった筈だ。ということは、遅くても六時前には部屋の中に入った事になる。
(……妙子の奴、随分ちんたら喰ってたからなぁ)
 結局、なんだかんだで月彦がお代わりも含めて五杯食べる間に一杯半しか食べなかったのだ。
「てっきり、“お泊まり”になると思ってたのに。……“仲直り”は巧く行かなかったのかしら?」
「……母さん」
 この母親は何かを根本的に勘違いしている――そうとしか思えない。月彦は一日の疲れが、ずしりと両肩に襲いかかってくるのを感じた。
「…………じゃあ、俺……上に戻るから。ああ……妙子がシチュー美味かったって、伝えてくれってさ」
「あらあら、妙子ちゃんもお上手ねえ。……それじゃあまた今度、月彦に届けてもらおうかしら」
 にんまりと意味深な笑みを浮かべる母親に返す言葉も思いつかなくて、月彦はふらりと台所を出、二階の自室へと戻る。
「待たせたな、ま――お……?」
 そしてドアを開けるなり、寝間着姿ででベッドの上に座っている真央を見て、月彦は力無くその場に崩れた。
「……父さま?」
「真央……その格好は何だ?」
「うん……父さまが話があるって言うから、急いでシャワー浴びて着替えたんだけど……」
 何が悪いのかが理解できない、という首の傾げ方。
(……部屋に戻ったのは、着替えを取りに行く為か)
 にしても、自分が葛葉と台所で話をしていた数分の間になんという早業だろうか。髪こそまだ湿ってはいるが、仄かに香るのは正しくシャンプーのそれに他ならなかった。
「それで父さま、話って何?」
 腕を掴まれ、ぐいとベッドに座らされる。ぴたぁ、と体が接触するのは当然のこと、月彦の腕を巻き込むようにして寄せ、ぎゅうと……顔立ちの割には発達しすぎた胸元を押しつけてくるその仕草、仄かに香る色気――慣れた者でなければ一発でケダモノと化してしまうだろう。
「あ、あぁ……その事なんだが……真央、“あの後”白耀には会ったか?」
「兄さまに?」
「あぁ。俺もすっかり忘れてたんだが……あいつ、どうなったんだろうな」
「私も、全然会ってないけど…………兄さまがどうかしたの?」
「……いや、ちょっと……気になって、な……」
 月彦は思い出す。先ほど、門扉の前で出会った相手を。
 特徴のあるケモノ耳、独特のデザインのロングスカートに猫尻尾。そしてあの目。間違いなく、白耀が連れていたメイドに他ならなかった。
 一体、うちに何の用――軽い挨拶の後、そう尋ねようとした。しかし、その“間”は与えられなかった。あの女からは、そういった“友好的な気配”というものが微塵も感じられなかったのだ。
(いや、“好意が感じられなかった”どころじゃない。あれは――)
 敵意というのも生ぬるい。殺意――そう、その寸前にまで到達している
「ひょっとしたら、だが……真央、俺たちはとんでもない誤解を受けているかもしれないぞ」
「誤解……?」
「ああ……」
 そうでなければ、“あの殺気”は。
「……もしかして、俺たち……真狐の共犯だって思われてる……かもしれない」
「……………………?」
 月彦の神妙な口調にもかかわらず、真央はきょとんと、それこそ無垢に首を傾げたままだ。
(そういえば――)
 共犯と思われている、も何も真央は事実共犯だったではないか。
「それがどうかしたの? 父さま」
「……いや、つまりだな……俺たちは白耀に恨まれてるかもしれないって事だ」
 あの真狐の事だ。きっと“強烈なネタばらし”はしたのだろうが、その後のケアまでしてくれたとは思えない。
 即ち、“このドッキリは企画原案は自分で協力は真央ただ一人。紺崎月彦は何も関係はありません”等という気の利いた補足まで伝わっている可能性は絶無なのだ。
「兄さまに恨まれると、何か困るの?」
「……真央、解ってないな……相手はまがりなりにも“あの真狐”の息子だぞ?」
 どれほど善人そうに見えても、その体には間違いなくあの女の血が交じっているのだ。いつ、どういうきっかけで“化ける”とも限らない。
「あいつは……良い奴だった。少なくともそう見えた…………それが、ひょっとしたら、――いや、俺の考えすぎだといいんだが……」
 恐らく、白耀の事を普通に思い出しただけでは、こんなにも不安にはならなかっただろう。そういえば、アイツは今頃どうしているのかな?――などと、お気楽に考え、真央と雑談をして、それで話は終わった筈だ。
 であるのに、ここまで月彦が懸念を懐いてしまうのは、やはり。
「……近いうちに……一度様子見にいった方がいいかもしれないな。真央、あいつの家の場所は解るか?」
「うん、一応……兄さまに教えてもらったけど」
 真央は気乗りしないのか、それとも興味が無いのか、うーんと渋い顔をする。
「……真央はあいつに会いたくないのか?」
「会いたくないわけじゃ、ないけど…………」
 ちらり、と上目遣い。
「私は、兄さまに会いに行くより、普通に……父さまとデートとかするほうが、良いなぁ……」
「……そういうわけにもいかないだろ? 真央だって、一度きちんと会って、謝っておいたほうがいいぞ? 仮にも、真狐の共犯だったんだから」
「……父さまがそう言うなら、謝るけど…………」
「……真央、もしかして……白耀の事、あんまり好きじゃないのか?」
 演技とはいえ、べたべたと腕を組んだり一緒に食事をしたりという様を見せつけられた月彦としては、こうまで露骨に興味のない素振りをされると逆に裏があるのでは、と思ってしまう。
「兄さまの事は嫌いじゃないよ? 嫌いじゃないけど……やっぱり、父さまの方が好きだから……」
「それは……嬉しいんだけどな。やっぱり、ほら……兄妹は仲良くしたほうがいいと思うんだ」
 自分と霧亜がそうできないから、余計に――そう思ってしまうのかもしれない。
「うん、だから……父さまがそういうなら、私……兄さまとも仲良くするよ? でも……それは、父さまに言われたからそうするだけだから……父さま、ヤキモチ焼いたりとかはしないでね?」
「……ま、まぁ……仲良くするにしても、あくまで“普通の兄妹として”な?」
 こくり、と。頷きながら真央がさらに身をもたれさせてくる。
(……話はもう終わり――ってことか)
 僅かに湿り気を含んだ真央の髪を撫で、額にそっとキスをする。
「ぁっ……」
 ちゅっ、ちゅっ、ちぅ……目尻、頬、そして唇へと。愛でるようにキスをしながら――
「あぁっ……!」
 そっと胸の膨らみに手を這わせる。パジャマの上からでもはっきりと解る程に堅くしこった先端を、こしゅ、こしゅと指先で弄ると、たちまち真央は喉を震わせ始める。
「と、とう……さま、や、だ……ぁ、ぁ……」
「やだ、じゃあないだろ。全く、人が真面目な話をしてるってのに……」
 ベッドに腰掛けた時から――否、部屋に入った時から。視線で、仕草で、匂いで――“シたい”と。強烈にアピールしてくる愛娘に、最早苦笑しか出ない。
「はぁ、ぁっ……ぁっ……ぁぁぁあっああっ!!」
「……相変わらず、感度がいいな。真央は」
 パジャマのボタンを二つほど外し、弾けんばかりにゆさりっ、と。質量を誇示する膨らみへと手を差し込み、直に触れる。――そう、ただ直に触れ、やんわりと揉むだけで、真央は忽ち肩を震わせ悶え出す。
(由梨ちゃんもかなり感度は良い方だけど……やっぱり真央は別格だな……)
 尤も、真央の場合は単純に感度が良いという事に加えて、“想像力が豊か”という事もある。そう――もう解っているのだ。こうして胸をこね回される事が、“何”に繋がるのか。これから何をされるのか――そういった“先”を想像し、或いは妄想してしまうから、こんなにも。
(……だろ? 真央)
 直接聞かなくても、こうして毎晩の様に体を重ね、愛撫をする度にその反応を観察すれば、否が応にも解る。
 だから、ほら――こうして、少し強めに“先端”を摘んだだけで。
「ああっっ、ぁっ……だ、めっ……父さま、私、もう…………」
 真央はギュウッ、と太股を閉じ、濡れた目でこれでもかと訴えかけてくる。
 “欲しい”――と。
(予想通り……だな)
 勿論、そんな真央の事が――それこそ、目の中に入れても痛くないとばかりに――可愛くてたまらない月彦としては。
「……さて、と。それじゃあ……俺も風呂に入ってくるかな」
 そこまで切実に訴えられたら、含み笑いの一つも漏らして、一切の愛撫を止めざるを得ない。
「ぇ……」
「いや、ほら……俺はさっき帰ったばっかりで、風呂まだだからさ。だから“続き”はその後な?」
「うぅぅ、ぅぅ……」
 完全に発情モードに入った真央に恨むような目を向けられるが、当然ここで甘やかしたりなどはしない。
「いいか、真央。俺が風呂から上がるまで……ちゃんと待ってるんだぞ? もし我慢出来ずに……自分でシたりなんかしたら、今夜はもうこれで終わりだからな?」
「そん、な……父さま、酷い……」
 フーッ、フーッ……そんなケモノじみた息を吐きながら、真央は不自然に右手の指を引きつらせる。恐らくは――すぐにでもパジャマズボンの下へと入れてしまいたいに違いない。
(……くす、せいぜい長湯をするかな)
 その方が、最終的には真央も喜ぶ筈なのだ。
(……それに、真央は焦らした方が……“良く”なるしな、具合も)
 そう。たっぷりと焦らした後のあの感触がまた堪らないのだ。それこそ、病みつきになるほどに。
(うん、だから……焦らした方がいいんだ……)
 本音を言えば、月彦としても……今すぐ真央を押し倒してしまいたかった。押し倒して、パジャマごと――母譲りの、腹立たしいまでに育った巨乳を揉みくちゃにしてやりたかった。
 その後は、左右の耳を奥まで舐め尽くし、散々声を上げさせた後――猛り狂った剛直を口にねじ込んでやるのだ。
 たっぷり三十分はしゃぶらせて――イかされそうになったら一旦引き抜き、勝手に舌を動かすなと窘めながら頬に擦りつけ――そしていい加減、我慢できなくなった所で。
(……はっ、イカンイカン……こんな事考えてたら……)
 本当に辛抱堪らなくなってしまうではないか。真央を、焦らしてやらなくてはいけないのに。
「……じゃあな、真央。ちゃんと俺が風呂から上がるまで我慢してるんだぞ?」
 そして、俺も我慢だ――と。ベッドから立ち上がって歩き出そうとしたその刹那。
「だめっ……」
 いきなり尋常ではない力でズボンの裾が掴まれ、月彦は思い切り前につんのめって転んだ。
「なっ、ま……真央、何を……」
「父さまがお風呂から上がるまでなんて……待てない……」
 そのまま、足を掴まれてずりずりとベッドに引きずり込まれる。
「私が……綺麗に、してあげる……」
 ふぅ、ふぅと肩を弾ませながら――ぬろりと、頬を舐められる。
「ま、待て……真央、おちつけ……うぁっ……ぁ……!」
 おごる平家は久しからずや――月彦の誤算は、己以上にすさまじい性欲を持ち、己以上に自制心の無い相手が世の中には居るのだという事を見抜けなかった事だった。
 こうして、今日も今日とて――紺崎父娘は“普通の父娘以上に仲良く”してしまうのだった。



 白耀の様子を見に行こう――とは言ったものの、具体的な日時まで決めたわけではなかった。
 にもかかわらず、話をした翌日にすぐに出立する気になったのは。
「うん? なんだ……いやに朝日が……」
 いつものように、やることをやった後の泥のような眠り――にもかかわらず、カーテンの隙間から漏れる、妙に瞼を刺すきらきらとした光に誘われて、月彦はいつになく早起きをした。
(何だ……また雪でも降ったのか……?)
 眠い目を擦りながら、しゃっ――とカーテンを開ける。が、しかし、想像したような白銀の世界などは無かった。
 代わりに。
「……なんだ?」
 月彦は己の目が信じられなくて、幾度か瞬きを繰り返し、軽く擦ってもみた。眼前で一体何が起きているのかが、自分の目で見て尚理解できなかったのだ。
 そう、言うならば――“窓がおかしい”の一言に尽きる。窓越しに見える景色が微妙に歪んで見えるのだ。
 その原因を探ろうと、月彦は目を凝らし――そして、ゾッとした。
「……っ…………!」
 “違和感”の正体は恐ろしく微細な“ひっかき傷”だった。それも、ただの傷ではない。ただ、刃物かなにかで引っ掻いただけならば、はっきりとその痕が残るだろう。しかしこの傷は――そういう類ではない。――そう、目を凝らさなければ気づきもしない、“透明なひっかき傷”とも言うべき傷が、無数につけられているのだ。
(何だ……これ、一体“何”で窓を引っ掻けば……こんな風になるんだ……?)
 月彦は慌てて飛び起き、もう一つの窓――机の前の窓の方にも目を凝らしてみた。矢張り、そちらにも同様のひっかき傷が無数についていた。
 そう、まるで――凶悪な魔物が、獲物を前に結界に阻まれ、やむなく引き下がったかのような痕が。
「……一体、誰が……こんな真似を――」
 同時に呼び覚まされる、昨夜の記憶。紺崎邸の前に立ち、虚ろな目で部屋のある辺りを見上げながら、ぶつぶつと呟きを放つ女。そのスカートから、にょきりと生えた長い猫のような尻尾と、その先についたリボンと鈴。
(……“猫のような尻尾”?)
 そして、窓につけられた無数のひっかき傷。
 最早、答えは一つしかなかった。
「……真央、起きろ!」
「……ふぇ? 父さま……?」
「シャワーを浴びて出かける支度をしろ! 今日中に白耀の誤解を解きにいくぞ!」
 
 と、大急ぎで準備をして家を出たのが朝の八時前。真央から聞いた白耀の自宅は思ったよりも近く、三十分も経たない内にそのすぐ側へと来てしまった。
「……しまった、詫びの菓子でも用意してくるべきだったかな」
 眼前に聳える豪奢な高級料亭――その裏口を前にして、はたと、月彦は冷静になる。
(いや、待て待て……確かに誤解を解きには来たが、俺が謝るのも変な話だよな……)
 自分とて、白耀と同じく“ドッキリ”にかけられた被害者なのだ。あまりへりくだるのもおかしい。
(……でも、その仕掛け人の一人は真央なわけだから、“この度はうちの娘が……”ってな流れになるのか?)
 しかしそれを言うのならば、白耀はその兄なわけだから、監督不行届というのならば立場は似たようなものの筈。さらに言えば、黒幕は白耀の母親なわけで、こうなってくると自分が謝るのは完全に筋違いな気がしてくる。
(……なんつー複雑な人間関係だ)
 母と娘がしでかした不始末を(一応)父である自分が、“兄”の元へ謝りに行く。但し“兄”と“父”の間には血縁関係は無く、どちらも被害者である――まるで意地悪ななぞなぞを解かされているような気分だった。
「父さま、どうしたの?」
 頭を抱えている横で、真央はきょとんと首を傾げている。恐らく、母の悪事に荷担して実の兄を騙した事に対する罪悪感などは毛ほども無いのだろう。それが幼さ故なのか、生粋の性悪狐としての素質なのか――できれば前者であって欲しいと月彦は願うばかりだった。
「……いや、なんでもない。土産かなにか持ってくるべきかと思ったが……こんな時間じゃあ店も開いてないか」
 そもそも、午前九時前という時間帯はアポ無しで他家を訪れるような時間ではない。が、一刻も早く誤解を解く必要がある以上、そうも言ってられなかった。
(……一体どういうつもりなのかも、聞かないとな)
 何故、メイドに遠回しにプレッシャーをかけるような真似をさせているのか。事と次第によっては――当然、こちらから出来るコトはハッタリをかます事くらいなのだが――いくら相手が白耀とはいえ、容赦はしない所存だった。
「……っと、何だこの門……インターホンは無いのか……?」
 さあいざ参らん――と、門扉の前に立ったのもつかの間。古風で簡素な門にはどこにもボタンらしきものは見あたらない。
「この紐を引くんだよ、父さま」
「ん、これか……?」
 言われてみれば、なにやら先端に環のついた糸が垂れ下がっており、それを引くとちりちりと鈴のような音がした。
 そして待つこと数分。裏口の戸は依然閉ざされたまま、一向に開く気配が無い。
 月彦がもう一度呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばし掛けたその時だった。
「何か御用ですか」
「……っっ!!」
 突然背後から声を掛けられ、月彦は危うくその場に飛び上がってしまいそうになる。慌てて背後を振り返って、そして再度――心臓が縮むような思いをしたのは、そこに“出来れば会いたくない相手”が立っていたからだ。
「びっくりしたぁ……」
 心臓を抑えながら、目をぱちくりさせる真央に、月彦も全く同感だった。しかし、いつの間にか後ろに立っていたメイドは、そんな二人の様子に眉一つ動かさなかった。
「何か御用ですか」
 まるで機械か何かのように、全く同じ発音でそう繰り返してくる。冷ややかな目も、凡そ同じ人間――否、知性ある人型の生物に向けられるものとは思えない。
(……敵視、されているな。間違いなく……)
 それは間違いない。疑いようもない。何故なら。
「いや、ちょっと……白耀に用があって来たんだけど」
 こうして話し掛けても、真央がちっともヤキモチを焼かない。つまりそれが、髪の毛の先ほども好意を寄せられていないという証だ。
「白耀様は約束の無い方とお会いにはなりません」
「そんな堅いことを言わずに、さ。“実の妹”が会いに来たって、伝えてもらえないかな?」
 ぴくりと。鉄仮面メイドの眉が初めて揺れた。
「白耀から聞いてないか? 真央は白耀の妹だったんだ」
「……それは存じております」
「だったら――」
「先ほども申し上げました通り、白耀様は約束のない方とお会いにはなりません」
 とりつく島もない、とはまさにこの事だった。
「……実の妹が会いに来たって言っても、ダメなのか?」
「白耀様はお忙しい方ですから」
「忙しい――か」
 段々、この従者の物の言い方に腹が立ってくる。
「その割には、その付き人は随分暇そうなんだな」
「それはどういう意味でしょうか」
「どうって――」
 人んちの窓にひっかき傷作ってるのは何処の誰だ――そう言ってやろうと大きく息を吸い込んだ時だった。
「何をしているんですか」
 眼前の従者が鋭く声を荒げた。その視線の先では、真央がしきりに戸を叩いたり、がたがたと揺らしたりしていた。
「お、おい……真央……?」
「にーさまーーーー! 開ーけーてー!」
 耳を劈く真央の大声に交じって、月彦は微かに背後で、舌打ちにも似た声が漏れるのを聞いた。
 程なく、向こう側からがちゃりと。重厚そうな音が響き、ゆっくりと戸がスライドしていく。その向こう側に立っていたのは――。
「あれ……? え……?」
 月彦は慌てて“背後に居る筈”の人影を捜すが、どこにも見あたらなかった。
「…………中へ、どうぞ」
 これ以上無いというくらいに苦々しい笑みに招かれて、月彦と真央は真田邸内へと足を踏み入れるのだった。


 概ね予想通りの屋敷――というのが、最初に月彦が懐いた感想だった。塀の外を歩いていた時から、およそこのくらいの広さの屋敷で、庭はこんな感じなのだろうなと。その範疇にぴったりと収まるような、和風の邸宅。
 二階は無く――どうやら料亭部分にだけはあるらしいが――中央部分の母屋からまるで蜘蛛の足の様に渡り廊下がいくつも延び、その先にぽつんと個室のようなものがついているという形式が、なんとも月彦の既視感を刺激して止まない。
(ちょっと小さめの春菜さんち……って感じだな)
 そう、まさに春菜の屋敷の構造にそっくりなのだ。とはいっても、庭に池は無く、枯山水も無い。ましてや温泉などあるはずもないから、そもそも比べること自体烏滸がましいのかもしれない。
「そういや、真央は白耀んちに上がったことあるのか?」
「ううん。だって、上がろうとしたら父さま達が……」
「ああ、そういやそうだったか」
 “あの時”の事を思い出すと、苦笑しか出てこなかった。
「あっ、兄さまーーーーっ!!」
 どうやら一足先に白耀の姿を認めたらしい真央が、ぴょんと飛び跳ね、ぶんぶんと手を振ってみせる。
「よぉ、はく――よう?」
 真央の視線の先へと顔を向けながら、月彦も気さくに挨拶をする――が、その声が途中で掠れてしまった。
「……真央さん、それに……お義父――月彦さんも。よく、いらしてくれましたね」
 そこに居るのは、見るも無惨――そう。痛々しいまでの白髪、痩せこけた体を車椅子に凭れさせ、疲れた笑みを浮かべたその様には、到底かつての超絶美男子の面影は皆無だった。
 そしてその車椅子を押しているのは勿論、件の猫メイドだ。
(……さっきまで、俺たちを先導して歩いていたのに)
 またしても、いつのまに消え、そして白耀の元へと移動したのか。その手口はさっぱり解らなかったが、どうせ何かの妖術の類であろうと、月彦は適当に結論づける事にした。
(……そういや、春菜さんも似たような感じだったなぁ……)
 あの人も気がつくと、背後に回っていた――どうも妖猫という生き物自体が“そう”なのかもしれない。
「……立ち話も何ですから、どうぞ。奥に上がってください」
「そうだな……真央、行くぞ」
「えっ、あ……うんっ」
 真央はなにやらしゃがみ込み、木の人形のようなものを弄んでいた。それも、どうやらただの人形ではない。うねうねと、真央の手の中で生き物の様に藻掻いていた。
(……使い魔とか、なんかそういう類の代物かな?)
 知っていなくとも、想像をすることは出来る。見れば、屋敷の至る所で、真央の手の中にある木人形と同じ物が忙しく動き回っていた。
「……可愛い」
 真央はぽつりと呟き、木人形をそっと地面に置く。たちまち人形は“仕事の遅れ”を取り戻そうとするかのように、飛ぶような早さで縁の下へと消えていった。
「父さま、行こっ」
「あ、あぁ……」
 今度は月彦が真央に手を引かれる形で、母屋の方へと上がる。
(……真央、白耀のあの様を見ても無関心――か)
 ベタベタされたらされたで、きっとムッとしてしまうのだろうが、ここまでスルーされると白耀が哀れに思えてならなかった。

 通された先は、和室ではなく板張りの洋室だった。部屋はさほど広くはなく、中央にガラス張りのテーブルがあり、それを挟む形で籐椅子が二つずつ並んでいた。
 周囲には抽象画らしい絵画がかけられていたり、いくつものボトルシップが飾られた棚があったりと、純和風の邸宅には凡そ似つかわしくない調度品が並んでおり、入り口の障子戸とのギャップが奇妙な趣を醸し出していた。
「どうぞ、掛けて下さい」
 進められるままに、真央と二人、並んで籐椅子に腰掛ける。対面席に座っているのは、勿論白耀だ。
(あれ、あのメイドは……)
 部屋の中に白耀と共に入ったのは見た――が、後に続いて部屋に入った時には既にその姿はなく、白耀も車椅子から籐椅子へと腰掛けた後だった。部屋には他に出口は無いらしいから、部屋から出たのであれば自分か真央とすれ違う筈なのだが。
(まぁ、いいや。考えても始まらん……)
 そういった“不思議な事”には慣れている。今更驚くような事でもなかった。
「……菖蒲なら、茶の用意をしている筈です。すぐに戻って来ると思いますよ」
「ああ、菖蒲――さんっていうのか、あの娘は」
 はい、と。涼風のように――様相が以前のままであれば、だが――白耀は微笑む。
「今日は、どういったご用件でしょうか」
「いや、用件……って程の事は無いんだが……色々気になって、な……お前の事とか、真狐の事とか」
「……という事は、月彦さんも聞かれたんですね。僕と、真央さんの関係を」
「……ああ。多分、お前と同じくらいの時期に――な」
 ちらり、と二人分の視線が真央の方へと集まる。が、当の“共犯者”はといえば、話の方は全く上の空で、調度品のボトルシップやら、壁掛け時計やらを物珍しそうに見るばかりで気づきもしない。
(おいっ、真央……!)
 小声で囁き、ぐいと肘で脇を小突く。
「えっ……父さま、何……?」
「ほら、白耀に言う事があるだろ?」
「兄さまに言うこと……」
 三秒ほど真央は黙り、漸く“場”の流れを理解したらしく。
「兄さま、この前はゴメンね。……私も、母さまに騙されてたの」
「………………。」
 しれっ……と、さも自然に嘘をつく真央に、月彦はついうっかりツッコミを入れそうになってしまう。
(……確かに“そういう事”にしておいたほうが波風立たなくて良いだろうが……)
 それにしても、“真相”さえ知らなかったら、うっかりそうであると信じ込まされそうな程に、完璧な演技だった。
 事実、白耀は。
「やっぱり、そうだったんですか……。あの人らしいと言えば、それまでですが……」
 真央の言い分を完全に信じたらしく、同情の目すら向けてくる始末だ。
「お前は……あの後、どうなったんだ? 真狐に何かされたのか?」
「ええ、まぁ……そうですね。真央さんに化けてやってきたあの人に……いろいろと……」
 ふっ……と白耀が遠い目をし、そして震えを抑えるように肩を抱く。
(あぁ……解る、解るぞ……すごく、よく分かる……)
 人目さえ無ければ、白耀の手をがっしりと掴み、涙ながらに励ましてやりたい所だった。
「お陰で病気の方も悪化してしまって……今では外を出歩く事すらままならず……月彦さんの所には、一度ご挨拶に行かなければ、とは思っていたのですが……」
「病気? どこか悪かったのか?」
「ええ、といっても……肉体的なものではなく、どちらかというと精神的なものですが。……女性恐怖症――と言えば良いのでしょうか。とにかく、大人の女性に体を触れられると、悪寒、発汗、目眩に頭痛、酷いときには気を失う事もあります」
「そりゃまた…………大変、だな……生まれつき、なのか?」
「……いいえ。その……やっぱり、“あの人”が原因で――」
「……ああ」
 もう解った、みなまで言うな――月彦は掌を向けて白耀の言葉を止めた。
(解る、解るぞ……白耀……辛い目に遭ったんだな……)
 月彦は何度も頷きながら、目尻に浮かんだ涙をそっと拭う。
「そして、“あの晩”以降……それがさらに顕著になって……手足からは痺れが抜けず、車椅子無しでは立つことは出来てもまともに歩くことすら出来ません。そればかりか、視界に女性が入るだけでも、目眩がして震えが止まらなくなるんです」
「ま、待て……視界に女性が居ると――って……」
「ああ、真央さんは大丈夫です。実は、触れられるのも……真央さんだけは大丈夫だったんですよ」
「…………もしかして、お前が真央に求婚した理由って……」
「そういう理由も、確かにありました。……無論、それだけではありませんでしたが」
 そしてまた、二人分の視線が真央へと集まる。当の“元フィアンセ”はとうとう席を立ち、よほど気になるのかボトルシップを穴が開く程に見つめていた。
(……なんて、不幸な奴だ……)
 実の母親に襲われ、女性恐怖症というトラウマを植え付けられ、それでもやっとこさ大丈夫な女性を見つけて求婚をすれば、それは血の繋がった妹で。
(……一時はこいつのイケメンっぷりを妬みもしたが……)
 今では、羨むどころか同情の念しか沸かなかった。
「……にしても、どうして真央だけ平気だったんだ? やっぱり血が繋がってるからか?」
「いえ、それは無いと思います。……だって、それなら“あの人”も――」
「……ああ、成る程な」
 真狐相手にははっきりと拒絶反応が出る――と言いたいのだろう。
(だったら、真狐の血が入ってる真央にも拒絶反応が出そうなもんだが……ああ、それを言うなら白耀だって同じなのか)
 真狐と真央の違いは何だろう――考えてみるも、逆に違いがありすぎて絞り込めなかった。
「……他に、大丈夫だった女の子とかは居ないのか?」
「成人した女性は、絶対に無理です。……そうですね……まだ“女性”とも呼べない、幼い子供なら、なんとか」
「……ああ」
 なるほど、謎は全て解けた。
(真央はこう見えてもまだ五歳だもんな……)
 五歳にしてはちょいとばかし育ちすぎだが。特に胸の辺りが。
「……お茶をお持ちしました」
 月彦が実の娘の胸元を見ながらううむと鼻の下を伸ばしていると、またしても背後からそんな声が。
「……あぁ、菖蒲。早かったね」
 恐らく、対面している白耀ならば、いったいいつのまに部屋に入り、自分たちの後ろに立ったのかが見えたのだろうが――しかし。
(…………白耀?)
 月彦は気づいた。“早かったね”――そう、声をかけた。かけはしたが――白耀のその目は、決して自分たちの背後の方へは向いていなかった。
(まさか……)
 月彦が思案をしている間に、従者は静かに動き、配膳を始める。まずは白耀の前に湯気の立つコーヒーカップを下皿ごと。次に、月彦。
(……うわ、なんだこれ…………)
 月彦は、自分の前に置かれたコーヒーカップを見てぎょっとした。確かに、白耀のものと同じように“湯気らしいもの”が立ち上っているが、それは決して湯気ではなかった。
(……この寒いのに、コップまでキンキンに冷えてやがる……)
 恐らく入っている液体はアイスコーヒーか何かなのだろうが、まるで液体窒素でも吹き付けられたかのように、コップも下皿も凍結してしまっているのだ。
「あら……」
 茶の次に茶菓子の豆餅(これまた、コーヒーとはあまり合いそうにない)を配膳し終わった所で、はたと。そんな白々しい声が聞こえた。
「申しわけありません。私としたことが……お客様は二人だったのですね」
「……菖蒲っ」
「すぐにお持ち致します」
 白耀の咎めるような声にも白々しく答えて、従者はまたしても――障子戸を開けた痕跡すら残さずに室内からいつの間にか消えてしまう。
「……すみません、月彦さん、真央さん。……いつもは、もっと愛想が良い娘なんですが……」
「あ、ああ……俺は別に何とも。メイドさんだって人間――じゃなくて猫か。まあ、うっかりすることだってあるさ、なぁ真央?」
「うん、兄さま。私は気にしてないよ」
 真央はどこまでもあっけらかんと、ハブられたという自覚すら薄いらしかった。
(いや、きっと……“どうでもいい”んだろうな、うん……)
 真央の顔を見れば解る。既にその心は、家を出る前に約束した――“白耀との事が片づいたら、その後はデート”という、真央を少しでも早く連れ出すために撒いた餌のほうに囚われてしまっているのだ。
(……重ね重ね、哀れな奴よ……白耀……)
 男として、惚れた女に相手にして貰えないこと程悲しい事はそうそうない。真央のこの素っ気なさはきっと白耀にも伝わっている筈だ。それが、ますます月彦の同情の念をかき立てる。
「…………お待たせ致しました」
 突然の背後からの声も、三度目ともなればさすがに慣れるというもの。それになにより、声をかけられる寸前、ふいっ……と白耀がまるで視線を逸らすように、斜め下を向いたから、そろそろ“来る”だろうとあたりを付けることもできた。
「……どうぞ。――あっ」
 そして、またしても白々しい声が聞こえたその刹那。月彦は確かに見た。下皿を持つ従者の手が、露骨にくいと傾いたのを。
「っきゃあッ!」
 途端、真央が悲鳴を上げて飛び上がる。見れば、セーターとスカートにはっきりと黒褐色の染みがついてしまっていた。
「菖蒲! なんてことを……」
「申しわけありません。すぐに拭くものをお持ちします」
 ぺこりと、あくまで儀礼的に頭を下げて従者は消える。
「ううぅ、父さまぁ……冷たぁい……」
「っ…………何か、拭くもの……って、ホントに何もないのかっ」
 高級な調度品ばかりが並ぶ部屋には、箱ティッシュはおろか、それに類するものは一切無かった。まるで、予め全て撤去されたかのように。
「と、とりあえず……スカート、は無理だから……セーターを脱ぐんだ、真央」
「でも、私、この下……何も着てないよ?」
「…………………………。」
 何故だ、真央。何故そんなに薄着なんだ。
(ってことは、上着とセーターの二枚だけでここまで来たって事か)
 “自称”寒さには強い真央だが、そこまでの薄着は珍しい事だ。しかし、真央が薄着をする目的は――容易に想像がつく。
(…………今更だが思う。これでいいのか?……俺の育児方針……)
 今度からは出かけるとき、真央がきちんと着込んでいるかどうかを確認せねばと、月彦は思う。
「……月彦さん、真央さん、重ね重ねすみません。後で、よく叱っておきますから」
 呻くように良い、白耀が頭を下げる。
「いいって、このくらい。……それよりも、白耀」
「はい」
「さっき、“女性が視界に入るだけで――”って言ってたけど、まさか」
「……はい、菖蒲でも、そうです」
「でも、あの人は……」
「ええ、仰りたいことは解ります。……しかし、ダメなんです。頭では解っていても、菖蒲の方を……見れないんです」
「……そんなに酷いのか」
「酷い……ええ、そうですね。酷い男です、僕は」
「いや、俺が言いたかったのはお前の事じゃなくて、病気の方で――」
「っくちゅん!」
 弁解しようとした矢先、今度は真央が盛大にくしゃみをする。
「だ、大丈夫か真央! 寒いのか?」
「うん、寒いけど……でも大丈夫」
「……菖蒲さんはまだ戻ってこないのか……?」
 何か拭く物を――そう言ったきり、全く音沙汰がない。茶を用意するよりは遙かに簡単である筈なのだが、既にその数倍の時間が経過していた。
「すみません、代わりに僕が――」
「いや、その体じゃ無理だ。場所さえ教えてくれりゃ、俺が取ってくる」
「……すみません。……そう、ですね、だったらこの廊下の先の――」
 白耀がそこまで口を開いた時、珍しく堂々と、障子戸を開けて従者が現れた。
「……大変お待たせ致しました」
 極めて儀礼的、事務的に頭を下げ、そして手にしたふきんで真央の服の染みを拭うが、既にたっぷりと浸透しきった後らしく、大した効果はない。
「本当にすみません、真央さん。……菖蒲、何か代わりの服を」
「……代わりの服?」
 きょとんと、まるで信じられない言葉を聞いたかのように従者は首を傾げる。
「あっ……」
 そしてすぐに、この聡明な主も“そのこと”に気がついたらしかった。
「すみません、真央さん……そういえば、うちには、女物の服は……」
「ううん、大丈夫だよ、兄さま。ずっと着てたら、乾くから」
「そういうわけには……そうだ、菖蒲。僕の襦袢か何かを――」
「全て洗濯中です」
「……な、に……?」
「白耀様の衣類は先ほど全て洗濯したと、そう言っています」
「……菖蒲!」
 さすがの白耀も、従者の態度に業を煮やしたらしい。らしいのだが――相変わらず、その視線は従者を外したままだ。
「待て、待て……白耀。俺たちなら別に気にしてないから、そんなに菖蒲さんを責めるなって」
「……しかし、全ての衣類を洗濯した等と……」
 そう、それは間違いなく嘘だろう。それは、月彦にも解る。しかし、体の自由が効かぬ白耀には確かめる事すら困難だ。そして勿論、この従者もそれが解ってて言っているのだ。
 それが白耀にも解るから、この温厚な主はこれほどまでに――声を荒げてしまうのだろう。
「……解った、菖蒲。それなら、君の服はどうだ?」
「私の服……ですか?」
「ああ。それも全て洗濯している、と言うのか?」
「…………いえ。しかし私服は……どこに仕舞ってあるか――」
「なら、その給仕服でいい。それを真央さんに貸してあげるんだ」
「………………解りました。すぐ……お持ち致します……」
 不満を全面に押し出しながらも、従者はぺこりと頭を下げ、再び部屋から姿を消す。ふぅ……と息を吐いて椅子に体をもたれさせたのは白耀だ。
「……本当にすみません。先ほどから、見苦しい所ばかり……」
「いや、何度も言うけど……俺たちは気にしてないって。……解るだろ? 俺もお前の母親にいろいろと迷惑かけられてるんだ。それに比べりゃ、な」
「……そう、でしたね」
 くすりと、白耀が口元だけで笑う。
「それに、あの人――菖蒲さんっていったっけ。…………いつもは違うんだろ?」
「いつもは、というより――“前は”と言ったほうが正しいかもしれません。……前に一度、真央さんを家に招く時に、暇を出す、出さないの話になって……結局戻ってきてはくれたんですが、それから、どうも巧くいかなくなってしまって」
「……成る程な」
 確かに、昔はもっと可愛げがあった――少なくとも、不慣れな変装までして、白耀と真央のデートをストーキングするくらいの可愛らしさはあったのだ。
「……きっと、菖蒲は今でも……僕が真央さんに襲われたと思ってるみたいで……いえ、ちゃんと説明はしたんです。あれは真央さんじゃない、真央さんに化けた、僕の母親だと。……しかし、言葉の上では納得してくれましたが……信じては貰えなかった様で……」
「そりゃあ、な……」
 何処の世界に実の息子をレイプする母親が居るだろうか。そんな話、いきなりされても到底信じる事など出来る筈がない。――その張本人を目の当たりにでもしない限り。
「でもな、白耀。……“巧く行かなくなった”のは、多分だが……そのせいだけじゃないと思うぞ?」
「……どういう意味ですか?」
「……んー、巧くは言えないが……俺の“友達”がな。昔言ってたんだ。“目”を見るのが大事だって」
「目……ですか?」
「ああ」
 月彦は尤もらしく頷く。
「……まあ、犬を躾る時の話なんだけどな。犬は言葉を喋れないし、人の言葉も殆ど理解出来ない、だから代わりに人間の目を見て、何を考えているかを探ろうとする。だから、犬との信頼関係を築くには、こっちもきちんと犬の目を見てやらなきゃダメなんだって」
「……菖蒲は、ペットではありません」
「そんなことは解ってる、みなまで言うなって。ただな、目に限らず――人の顔を見て話せない様じゃ、コミュニケーションだって巧く行くはずがない。そう思わないか?」
 良いながら、はて――と。月彦は心の内では首を傾げていた。
(……何で俺、こんなに菖蒲さんの事庇ってるんだ……?)
 さほど好意を抱いているわけでもないのに。むしろ、一時はくってかかりかける程に腹を立てたというのに。
「……月彦さんが仰りたい事も解ります……しかし、僕の体は……っ……」
「……そうだな。何のアドバイスにもならなかった、すまない」
「いえ……本当は、僕も解ってるんです。このままでは、ダメだと……でも……」
「っくちゅん!」
 真面目な話を割る様に、突如くしゃみが舞い込んでくる。
「あ、あぁ……真央。菖蒲さん遅いな、ホント……」
 そう、きちんと目を見て話すことが大事なのだ。そして真央の目は“退屈な話は早く終わらせて、デートに行きたい”とこれ以上ないほどに雄弁なのだった。


「……へぇ、菖蒲さんも昔は春菜さんちに居たのか」
「ええ、ただ……少々不祥事を起こしてしまいまして……その後、僕が引き取る形に……」
「不祥事……」
 何故だろう。あまり聞きたいという気にはならなかった。
「しかし、意外ですね。月彦さんがまさか桜舜院殿とも知り合いだなんて」
「……知り合いって程でも無いけどな。二,三日家に泊めて貰った事があるってだけで……それよりも、その“月彦さん”っていうのを止めてくれないか? そっちの方が年上なんだし、第一俺だって白耀、って呼び捨てにしてるんだから、そっちもそう呼んでくれると気が楽なんだが」
「はは……僕は呼び捨ての方がかえって呼びづらいんです。だから、出来れば今のままでお願いしたい所ですが」
 なるほど、だから妹だと解っても“真央さん”なのか。
「……そうですね、僕にとって……名前そのままで呼べるのは、菖蒲くらいのものです」
「菖蒲さんか……もう随分長いこと一緒に居るんだろ?」
「百七十年……くらいになります」
「ひゃくななじゅ……」
「ええ。恐らくそれくらいになります。……この病気のせいで、まともに触れてやる事もできないのに、本当によく仕えてくれていると思います」
「……まともに触れてやる事も出来ないって……じゃあ……つまり、その……」
「男女の仲になったか――という質問でしたら、否。と答えるのが正しいと思います」
「………………。」
 同情の念が、白耀ではなく、菖蒲の方へと傾くのを月彦は感じた。
(……百七十年一緒に居て、何も無し、か……)
 菖蒲の態度を見れば、白耀にベタ惚れなのは火を見るよりも明らか。それほどまでに恋いこがれた相手と百年以上も一緒にいて、何も無し。肌に触れてもらう事すらも。
(……そりゃあ、真央に嫉妬するわけだよ、うん……)
 白耀を襲ったのが本当に真央か、そうでないかに関わらず。自分が惚れた相手に唯一まともに触れられる、そして姿を見て貰える女なのだ。
 さぞかし憎くて憎くて仕方が無い事だろう。
「白耀、ちょっと下世話な話になるんだが……」
「はい?」
「なんつーか、こう……ムラムラしたりとか、しないのか?」
「性欲はないのか……という質問ですか?」
「ま、まぁ……そうだな」
「無い、と言えば……嘘になりますが、それでもこういう体ですから。諦めの方が先に出てしまうと言えばいいのでしょうか」
「……淡泊だなぁ。とても真狐の息子とは思えん……生まれる時に逆に煩悩を吸い取られたんじゃないのか?」
「ははは、案外そうかも知れませんね。……でも、見たところ真央さんもそういう事には不慣れな様に見受けられますが」
「……白耀、一つ言っておく」
「何でしょうか」
「……もっと女を見る目を養わないと、また痛い目に遭うぞ?」
「はは……、肝に銘じます」
 きっと、冗談だと受け取られたのだろう。涼やかな笑いで軽く流されてしまった。
(違うんだ、本当の本当に……違うんだ、真央は……)
 他の男は皆、あのあどけない顔立ちと、純真そうな行動に騙されてしまうのだ。
 きっと白耀には、真央が息を荒げながらにじり寄ってくる様など想像できないに違いない。
(菖蒲さんも可哀相に。白耀がもう少しばかり……真狐に似てりゃ、二百年近くも寂しい思いせずに済んだろうになぁ……)
 愛想こそ足りないが、素の顔は美人なだけに、尚更可哀相だと思ってしまう。
「……しかし、真央さん達……遅いですね。そろそろ戻ってきても良い筈ですが」
「そうだな……着替えてんの、隣なんだろ?」
 あの後、着替えを手に戻ってきた菖蒲に連れられて、隣の部屋へと真央が消えたのがかれこれ二十分は前の事。白耀との談議に思いの外花が咲いた為、つい時間が立つのを忘れてしまっていたが、さすがに少々不安にもなる。
(まあしかし、おかげで白耀と腹を割って話し合えるっていうのはあるが……)
 まだ出会ってそれほど時間は経っていないというのに、不思議と十年来の友人のように話が弾んでしまうのは、やはり“同じような目”に合っているからなのだろうか。
(いや、“同じような目”じゃあないな……明らかに、こいつの方が苦しんでる……)
 白耀の痛々しい様を見ているだけで、なんとかしてやらねば――そんな気持ちが沸々と沸き起こってくるのだ。
「白耀、話を混ぜっ返すようで悪いが……その“病気”って本当にどうにもならないのか?」
「……どういう意味ですか?」
「いや、だからさ……たとえば医者にかかるとか……」
「一応、やれる事は全てやってきたつもりです。しかし……」
 白耀が苦渋の顔をする。恐らく、本当にどうにもならないのだろう。
「むぅ……確かに俺も真狐――お前の母ちゃんに襲われてから、ちょいとばかし似た症状に悩んだ事はあったけどなぁ……」
「……月彦さんも? どうやって治したんですか?」
「それはまぁ……ちょっと、な。でも、ようは心の病なんて気の持ち様一つじゃないのか?」
「気の持ち様……」
 うむ、と月彦は頷く。
「たとえば、白耀はいつもこう思ってるんじゃないのか? “女には触れられない、触ったらまた発作が出る。だから絶対駄目だ”って」
「……否定は、出来ません」
「そこで、発想を変えるんだ。そうだな、たとえば――“女はダメだ”じゃなくて、“菖蒲さんだから大丈夫”っていう風に思う様にしてみるとか」
「“菖蒲だから大丈夫”ですか……いつも、そう思っている筈なのですが」
「じゃあ、念じ方が足りないんだ」
 月彦はキッパリと言い放った。
「黒い物が白く見えるくらい、己の中の固定観念を突き崩すくらい、強く思うんだ」
「しかし……」
「菖蒲さんの事が本当に好きなら、出来るはずだ」
「……っ!」
 突然、白耀が雷に打たれたように体を震わせた。やはり、と月彦は思う。
「好きなんだろ? 菖蒲さんの事が」
「いえ、その……菖蒲とは……そんな……」
 顔を紅潮させてしどろもどろになる白耀を見ていると、顔がにやついてしまいそうになるのを噛み殺さねばならなかった。
「恋人とか、そういうものではなくて……どちらかというと家族という感じですから……」
「恋人ではなく、家族――か。それはつまり、俺が菖蒲さんに手を出しても構わないって事か?」
「なっ……」
 まさしく絶句。白耀は言葉を失い、信じられないものでも見るかのような目で、月彦を見る。
「な、何を言って……月彦さん、貴方には、真央さんが……」
「ああ、真央が居る。でも、真央は娘だしな。母親が“アレ”である以上、真央にはちゃんとした母親が欲しい、って思うのも事実だ。その点、菖蒲さんなら家事も巧そうだし、それに何より綺麗だしな。悪くない」
 ニヤリ、と月彦は態と悪い笑みを浮かべる。その視界の端で、わなわなと白耀の拳が震えるのを見て、よしよしと心中では頷いていたりする。
「……許しません」
「許さない? どういう意味だ?」
 月彦の言葉に、白耀はハッと、虚でも突かれたように表情を緩めた。
「お前にとって、菖蒲さんはただの家族なんだろ? 家族が誰と付き合おうがお前にはさして関係が無いんじゃないのか?」
「し、しかし……」
「それとも、相手が俺じゃあ不服だってのか? 心外だな、俺は白耀の事を認めて、一時は真央を嫁にやってもいいとまで思ったのに。そうか、そんな風に思われてたんだな……」
「そ、そういう意味では……僕はただ……」
「ただ、何だ?」
 ぐっ、と白耀が唇を噛みしめる。そして、漸く観念したかのように、口を開いた。
「……月彦さんの、仰る通りです。僕は……菖蒲の事が……」
「最初から素直にそう認めればいいんだ」
 相手の方が遙かに年上であるにもかかわらず、月彦はまるで人生の先駆者のように大仰な態度でうむ、と頷く。
「し、しかし……真央さんへの想いも、決して一時の気の迷いだったわけでは……そこだけは、誤解しないで下さい」
「なんだ、そんな事を気にしてたのか」
 相変わらず真面目な奴だと、月彦は苦笑を漏らしてしまう。恐らくは、二股がけをするなんてと自分が怒るとでも思っていたのだろう。
「まあ、とにかくだ。菖蒲さんの事が好きなら好きで、しっかり捕まえておかないとどうなっても知らないぞ? 菖蒲さんだって、一人で眠る布団が広く感じる夜もあるだろうし。いつまでも触れてくれないお前に見切りを付けて出て行かないとも限らないんだからな」
「…………そん、なっ……」
「百七十年、だろ。見切りを付けられるには十分すぎる時間だ。現に、一度は出て行こうとしたんだろ?」
 白耀は顔を蒼白にしながら、こくりと頷く。菖蒲に見切りをつけられるかもしれない――月彦のその“脅し”が余程堪えている様だった。
(悪いな、白耀……。しかし、そうやって尻に火をつけてやらなきゃ、お前も、そして菖蒲さんも不憫だからな)
 真狐の悪事の後始末はおれがする!――と、そこまで殊勝な心がけなわけではないが、目の前に明らかに好き合った男女二人。しかし不器用故互いの距離を縮められない様を見れば、お節介も焼きたくなるというものだ。
「菖蒲が……他の男の、所に……」
「いや、まぁ……そうと決まったわけじゃあないけどな。……白耀?」
 ゴゴゴと、白耀の体からなにやら赤い光が立ち上る。ゆらゆらと揺らめき立つそれは三本の尾のようにも見える。
「ちょっ、あくまで仮定の話だ、落ち着けって!」
 これはまずい、と月彦は慌てて宥めにかかる。
(さすが、真狐の息子だ……嫉妬深さは真央並か……)
 どう、どうと宥めるに従って、白耀の体から立ち上る光も消えた。
「……すみません、少し……取り乱してしまいました」
「あ、あぁ……俺も少し言いすぎた。悪かったな……ああ、念のため言っておくけど、俺が菖蒲さんを狙うってのも冗談だからな?」
 真に受けられて恨まれては本末転倒、とばかりに月彦はしっかり弁明をした。
「と、とにかく……好きなら好きで、しっかり捕まえておけと、そう言いたかったわけだ。うん……いや、しかし本当に真央達遅いな……」
 月彦は時計に目をやる。ただの着替えだけでこれほどまでに時間がかかるものだろうか。
「……ちょっと俺、見てきてもいいかな? いや、着替えが見たいとかじゃなくて、普通に様子を――」
 と、立ち上がった所で、またしても。まるで人がそういう行動を起こそうとするタイミングを狙っているかのように、鉄仮面な従者によって障子戸が開けられた。
「お待たせ、父さまぁっ!」
「うわっぶっ……こりゃまた……随分可愛くなったなぁ、真央」
 障子戸が開け放たれるなり、メイド姿の真央に飛びつくようにキスをされ、慌てて引きはがしにかかる。
「メイド服もぴったりじゃないか……髪もポニテにしたのか……」
 うんうん、やはりポニテは良いものだ――月彦は感慨深く頷く。
「でもね、これ……胸がちょっと苦しいの」
 ビキッ。
 部屋の何処かで、何かそんな音が聞こえた。
「……た、確かに……ばっつんばっつんだな……」
「そうなの。腰のところは大分あまっちゃってるんだけど……」
 ビキビキッ。
 またしても、そんな――致命的な何かが。決して壊れてはいけない壁のようなものに凄まじい勢いで罅が入っていくような音が。
「あとね、むぐ――」
「もういい、真央。何も言うんじゃない」
 真央の後ろで漆黒のオーラを立ち上らせている従者に気兼ねして、月彦はしぃ、と人差し指を立てる。
「本当に、よく似合ってますよ、真央さん」
「ありがとう、兄さま。髪型もね、この人が変えてくれたの」
「そうなのか、菖蒲」
 意外そうな白耀の声に、月彦もまた同感だった。
「……白耀様の妹君に、無様な格好はさせられませんから」
「例え義務感でも何でも良い。君が真央さんの事をきちんと認めてくれたのが、僕は嬉しいよ、菖蒲」
「……どんな些細な事でも、白耀様に喜んで頂ける様ご奉仕するのが……私の仕事ですから」
 責務と憎悪の板挟み――そんな言葉が似合いそうな、張りつめた顔。形だけの辞儀を残して、菖蒲は部屋を後にする。
(……あぁ、そうか。そうだったのか!)
 ここに来て、月彦は漸く――己の内に巣くっていた違和感の正体に気がついた。何故、白耀と菖蒲の二人を見て、節介を焼きたくなったのか。そして何よりも、“昔、妙子から聞いた話”など持ち出してしまったのか。
(あの人が、妙子にそっくりだったからだ……)
 勿論外見が、ではない。つれない素振りや、鉄仮面のように張りつめた顔。そして、本当は好きでたまらない筈の白耀に、態と食ってかかる所といい――。
(……うん?)
 そして同時に、矛盾にも気がつく。その論法でいけば、やはり白石妙子は紺崎月彦に――。
(いやいや、無い無い。それは無い、それだけは無い)
 淡い希望を即否定して、やはり妙子と菖蒲は全然似ていない、という結論に達する。
(うんうん、片や二百年近く生きてる化け猫、片や普通の犬好きの女子高生、全然似ていないじゃないか)
 期待に膨らみそうになる胸の内を、なんとか否定材料を捜しては漆喰を塗り込めるようにして押さえ込む。――そう、本当ならば月彦とて信じたいのだ。両想いであるという事実を。
 しかし、どうしてもそれが出来ない。
「……ねぇ、父さま。“用事”はもう済んだの?」
 気がつくと、痺れを切らしたらしい真央がじぃ、と上目遣いに覗き込んでいた。
「ん、あ、あぁ……そうだな……白耀の無事も確認したし……」
 恨まれていない事も確認したし。
「でも、真央の服がなぁ……」
「……本当にすみません。きちんと洗って、汚れを落として、菖蒲に届けさせますから」
「……ってことは、やっぱり今日はその格好……か」
 ううむ、と月彦はついつい渋い顔をしてしまう。
(……似合ってない……わけじゃあない)
 しかし、さすがにこの格好の真央を日中連れ回すのは気が引けた。ただでさえ真央とのデートの時は衆目に気を遣うというのに、格好までこれでは。
(……ロリ巨乳メイドを地でいってるもんなぁ……)
 勿論外に出る時は隠させるが、今はさらに狐耳と尻尾がそれに付随する。ちなみに菖蒲の着ていたメイド服には予め“尻尾穴”があるらしく、今もきちんとふさふさの尻尾がぶんぶんと振られていた。
「父さま、服なら……お家に帰ればいっぱいあるよ?」
「……そうだな。そういやそうか……じゃあ、家に帰るまでの辛抱だな」
 多少時間のロスにはなるが、メイド服姿でうろうろと街を練り歩くよりは数倍マシだろう。
「良かったら、車で送らせましょうか? 店の者を呼べば――」
「いや、いいって。お前は自分の体を治す事だけを――って真央、何してるんだ?」
 衣紋掛けに掛けておいた上着を羽織り、さあ帰るか――という段階 になって、真央がまたしてもボトルシップが飾られている棚を眺めているのだ。
「良かったら、差し上げましょうか?」
「……いいの?」
「はい。衣類を汚してしまったお詫びです。どうぞ、お好きなのを」
「白耀、そんなに気を遣わなくても――」
「んーと……じゃあ、これがいい!」
 と、真央が手にとったのは、“santamaria”と書かれている棚の中では一番大きなボトルシップだったりする。一瞬、白耀の笑顔がヒクつくのを、月彦は見逃さなかった。
「そ、それ……は――」
「ダメ? 兄さま」
 渋る白耀に、まるでトドメをさすような上目遣い。端で見ていた月彦ですら、ぐはぁと心臓を刺し貫かれたその仕草に、白耀も。
「い、いえ……沮喪をしたのはこちらですから……どうぞ」
「本当に良いのか? 高い物なんじゃないのか?」
「ははは……。真央さんにああもお願いされたら、断れませんよ」
「……白耀、長生きしろよ」
 巨大なボトルシップを両手で抱え、一足先に部屋を飛び出していった真央に続いて、月彦も静かに部屋を後にした。


 車椅子の白耀と、相変わらず仏頂面の従者に見送られて、月彦と真央は真田邸を後にした。
「えへへ、お土産いっぱい貰っちゃった」
 両手にさげた紙袋とその中身のお土産に(ボトルシップも梱包してもらって紙袋にいれてもらった)真央はすっかりご満悦の様だった。
「兄さまも、早く体良くなるといいね」
「ああ、そうだな……にしても意外だな。真央が帆船模型が好きだったなんて」
 愛娘の意外な趣味に、ついそんな感想を呟いてしまったのもつかの間。
「んーん、別に好きじゃないよ?」
 帰ってきた答えのほうがさらに意外だとは、夢にも思わなかった。
「なぬっ、じゃあ、なんであんなにじーっと見てたんだ?」
「こんな瓶の中にどうやって入れたのかなぁ、って。ずーっと考えてたの。そしたら兄さまがくれるっていうから」
「……だったらせめて、もう少し小さいのにすれば良かったろうに」
 月彦も帆船模型の事などはまったく解らない。が、しかしあの棚の飾り方からして、最上段に置かれていた事、最も大きな船であることを鑑みれば、コレクションの中でも中核を担う存在であるのは素人目にも明らかだった。
(単純に、もらえるんだったら大きいのがいい――って思っただけなのか……)
 それとも、その身に流れる性悪狐の血が、より相手にダメージが大きい選択肢を選ばせるのか。
(…………最近、真央の行く末に不安を感じてばかりだな、俺……)
 最早、苦笑しか出来なかった。

 帰りの電車の中でも、矢張り――とでも言うべきか。真央はよく目立った。
(……そこら中から、変な音がしやがるな……)
 その殆どが――否、恐らく全てが、カメラ付き携帯のシャッター音であろう。趣のある洋館や、某電気街ならば兎も角、何でもないただの電車にメイド姿の美少女(親ばかと罵られても構わない)が乗っているのだ。周囲の反応も当然と言えた。
 無数に聞こえるシャッター音の全てに対して抗議を行える筈もなく、月彦に出来る事はといえばせめて己の体を盾にしてやることのみだった。
 とにかく、一刻も早く家へと帰り着き、真央を着替えさせねばならなかった。電車を降りた後も、真央の手を引いて早足に歩き、軽く息を弾ませながら自宅にたどり着いたのは丁度昼前。
「あれ……鍵が……母さん出かけてるのか」
 仕方なく自前の鍵でドアを開け、家の中に入る。矢張り、葛葉は出かけているのだろう、家の中はシンと静まりかえっていた。
「…………義母さま、出かけてるんだ」
 真央の何気ない呟きに、不意にゾクリと。背筋に冷たいものが走り、月彦は思わず背後の真央を振り返った。
「父さま、どうしたの?」
「……いや、なんでもない……そ……っか。母さん居ないのか……」
 真央の一言のせいで、月彦の方まで妙にそのことを意識してしまう。
「二人きり、だね。父さま」
「ああ、そうだな……姉ちゃんも居ないみたいだし……」
 どこか余所余所しい会話。じぃ……と、妙に熱を帯びた真央の視線から逃げるように、月彦は態と視線を外す。
「……ねぇ、父さま」
「な、なんだ……真央!?」
 びくりと。まるで悪事を見つかった子供のように肩を弾ませながら、月彦は慌てて真央の方へと目をやる。
「あの人、菖蒲――さんって、兄さまのメイドさんなんだよね?」
「……みたいだな」
「…………いいなぁ」
「いい、ってどういう意味だ? 真央」
「だって、メイドさんになったら……いっぱい、命令してもらえるんだよね……?」
「真央……」
 期待と熱の籠もった目でじぃと見られながらそんな事を言われては、頷けばいいのか叱ればいいのか解らなかった。
「わ、私も……父さまのメイドさんに……なりたい、な……」
「ま、待て、真央……おちつけ。これからデートするんじゃなかったのか?」
 どう、どう……まるで気性の荒い馬を宥めるように両手を出しながら、文字通り月彦は諫めにかかる。
「だって、せっかく……義母さまも姉さまも居ないんだし……」
 そういう“普段出来ないようなプレイがやりたい”と、視線で訴えかけられる。
「し、しかしだな……真央。いくらなんでも借り物の衣装でそういう事をするのはどうかと思うぞ? そういう服って汚したりしたらきっと洗うのも大変だろうし」
「でも、私の服も汚されちゃったし……」
「そりゃまあ、そうだが……」
「それとも、父さま……私が“メイドさん”になったら、服が汚れるような事させるつもりなの?」
 じぃと。もはや見るまでもない……真央の熱っぽい視線。ふぅ、ふぅと微かに肩まで弾ませてしまっているから始末に負えない。
(真央、お前が考えているような“仕事”は普通のメイドさんはやらないんだぞ?)
 そう諭してやりたかったが、すっかり鼻息荒くしてしまっている真央には、きっと通じる説得ではないだろう。
(料理とか、掃除とか、洗い物とか、普通に服が汚れるような事が、本来のメイドさんの仕事なんだからな!)
 だから、せめて――心の中だけでもそう付け足しておく。勿論、何の意味も無い事なのだが。
「ねえ、父さま……私、父さまのメイドさんにして欲しい、な」
「うぐ……」
 また、例の――そう、白耀にボトルシップをねだった時の、あの仕草。しかも今度は自分が受けるとなっては、もはや。
「わ、解った……真央。今日だけ……今日一日だけだぞ?」
 兄同様、この父親もまた、娘には甘々なのだった。


 

 なんとも妙な事になったものだと思わざるを得ない。
(まさか、“メイドさんごっこ”がやりたいなんて言い出すとは……)
 相変わらず、真央の考えている事は読めない。――否、常にある一種の欲求を満たすためだけに行動しているというのは分かり切っているのだが、それにしても読み切れない。
(また、無駄に似合いすぎてるから……始末に負えないよな……)
 以前着たようなバッタもんのメイド服ではない、正統派メイド服は勿論胸元が開いているという事など無く、色気という意味ではそれは皆無と言ってよかった。
(だが、それが逆に良いじゃないか!)
 胸元が開いていたり、スカートが短かったりと無駄に色気があるメイド服よりも、質素な服を着て――あくまで機械的に淡々と仕事をこなすメイドを、“雇い主の特権”をカサに無理矢理押し倒す事こそが男のロマンであり、そもそも中世ヨーロッパにおいては領主には初夜権なるものが――
「ハッ……俺は一体何を考えてるんだ…………」
 いかん、いかんと首を振りつつ、中断していた“作業”を再開する。
「早いところ“こいつ”をどこかにやってしまわないとな……真央が下で料理しているうちに……」
 メイド宣言をした真央への最初の命令は、“昼飯の用意”だった。もちろん、あの真央に食事の用意をさせるのは危険極まりない。故に、月彦が命じたのは昨夜の残り物であるビーフシチューを温め直すことだけなのだが、そんな些細な事をわざわざ命じたのには当然理由があった。
 それは、白耀の家からの帰り道でのこと――

「そういや真央。その模型、どこに飾る気なんだ?」
「……父さまのお部屋じゃだめ?」
「俺の部屋にはもう、そんなデカいもの置く場所は無いぞ?」
「本棚の上とか……ダメ、かな?」
「本棚の上……」
 
 そして、月彦が今やっている作業こそ、“本棚の上に置いてあったモノ”をどこかに移転させる作業に他ならなかった。さらに言うならば、この作業は真央には極秘裏に行わなければならず、出来ることなら移動させた後も真央に見つからない場所が望ましいのだ。
(……だって、先生に買ってもらった土産だもんな……)
 その外見はシカ人間型貯金箱と言えばもっとも適切だろう。迷惑なことに――否、有り難いことにその全長は台座も含めて三十センチ近くにもなる代物だ。これを真央の目の届かぬ場所に、人知れず飾るには――身長的に見づらいであろう本棚の上しかなかったわけなのだが。
(……他にどこか、隠せるような場所は……)
 いっそ押入に仕舞ってしまおうか――そんな考えが頭をよぎるが、土産を選んでいる時の雪乃の楽しそうな顔が頭から離れず、それが最良の手段だと解ってはいても行動に移すことが出来ない。
(……仕方ない、もう……ここしかないか)
 悩みに悩んだ結果、月彦が選んだ場所は勉強机の下。本来ならば足を置くことになる板の上だった。
(ここなら、立ってる時には見えないし、机の下を覗き込みでもしない限りは大丈夫だろう)
 そして何より、“ちゃんと部屋に飾る”という雪乃との約束も守っている事になる。
「よし、ばっちりだ」
「何がばっちりなの?」
 突然背後から声をかけられ、机の下に潜り込んでいた月彦は反射的に立ち上がろうとして強かに後頭部を打った。
「っ……つぅぅ……なんだ、真央か……飯の支度はできたのか?」
「うん、父さま呼んでも降りてきてくれなかったから……」
「そ、そうか……呼ばれてたのか。悪い、全然気がつかなかった」
「……机の下で何してたの?」
「ん、いやぁ……ちょっと十円玉を落としてな」
 気にするな、と真央の背を叩き、共に階下へ降りる。
(うんうん、母さんのシチューの匂いだ)
 鼻をひくひくさせながら階下へと降り立った月彦の第一声は。
「なんじゃこりゃーーーーーー!」
 いつも見慣れている筈の食卓が見るも無惨――もとい、見事に改変されていた。食卓には純白のテーブルクロスがかけられ、所々置かれた三つ又の燭台と蝋燭が一般家庭の食卓ならぬコアな雰囲気を醸し出していた。
「こんなモンどこにあったんだ……」
「さっ、父さま座って」
 首を捻っていると、肩を掴まれて強制的に席に着かされる。そして――これまたどこからもってきたのか――真央がうやうやしくクロッシュを持ち上げると、スープ皿に盛られた葛葉のシチューが――。
「ってちょっと待てーい!」
「なっ、何? 父さま」
「……真央、何だこれは」
「な、何……って義母さまが作ったシチュー……だよ?」
「母さんの作ったシチューを温め直しただけ……の筈だよな?」
「う、うん……そうだよ……?」
「……それは嘘だ、真央」
 毎日毎日、良い子に育つ様、丹誠込めて教育しているというのに。何故、その心が解って貰えないのだろう。
「じゃあどうして、この皿に盛られているシチューと、鍋に入ってるシチューの色が違うんだ!」
 鍋に入っているのは、焦茶色をした普通のビーフシチュー。一方、皿に盛られているのは紫がかった色合いのシチュー(?)だ。
「き、きっと……お皿の色素がにじみ出ちゃったんじゃないかな」
「真央、この期に及んでまだ言うか。…………解った、そこまで言うなら、このシチューは真央が食べろ」
「えっ……で、でも、これは……父さまの……」
「俺はこっちのシチューを自分で盛って食う。真央はそっちだ、……ちゃんと残さず食べろよ」
「そん、な……酷い、父さま……」
 酷いのはどっちだ――月彦は胸の内で呟きながら、食器棚から皿を出し、自分の分のシチューを盛る。
「……待て、真央。何をしている」
 さあ食おうと、振り返るなり月彦はぎょっと目を剥いた。真央が紫がかったシチュー皿を地べたにおこうとしていたのだ。
「え、だって……父さま、これを食べろって……」
「確かに、食べろとは言ったが……何故皿を地べたに置くんだ?」
「これを食べろ、って……“地べたで犬みたいに手を使わずに食べろ”って意味じゃないの?」
「人の指示を勝手に曲解するな!」
「……なーんだ」
 つまんないの、とでも続きそうな、真央の興ざめっぷり。
(真央、やっぱり違うぞ……そういうのは“正しいメイド”の姿じゃあない)
 一体真央はどういうソースからメイドに関する知識を得ているのか、小一時間問いつめたい気分だった。
「と、とにかく、食事はちゃんとテーブルの上でするんだ。じゃないと行儀が悪いだろ?」
「う、うん……解った……」
 そう言って、月彦の対面席へと真央は座り、スプーンを握るが。
「どうした、真央。食べないのか?」
「……う、うん……ちょっと、食欲が無くて……父さま、代わりに食べるなら……」
「いや、俺は自分の分があるからな。真央もちゃんと自分の分は食べるんだぞ」
「で、でも……これ……うぅぅ……」
 真央は泣きそうな声を上げながらも、ゆっくりとスプーンでシチューを掬い、そして口へと運ぶ。
(……泣きそうになるくらい食べたくない薬を俺に盛ろうとしたのか)
 我が娘ながらなんと末恐ろしい事か。
(……一体どうやれば、勝手に“薬”を盛る事はいけない事だと教え込むことが出来るんだろうか)
 一刻も早く、その方法を見いださねばならない。でなければ、いつか本当に――。
「ぁっ……」
 シチューを半分ほど平らげた頃だろうか。不意に、真央がスプーンをテーブルの上に落とした。
「ぁっ、ぁっ……ぅっ……」
「どうした? 真央。まだ半分残ってるぞ」
「う、うん……ねぇ、父さま……ホントに全部食べなきゃ……ダメ?」
「当たり前だろ。母さんがせっかく作ってくれたシチューだ。残したら罰が当たる」
 じろりと。真央がスプーンを拾うまで睨み付け、食べ始めて漸く視線を戻す。
(真央、そういうのを自業自得って言うんだぞ?)
 そうして、昼食を食べ終わる頃には――真央はすっかり“出来上がって”しまっているのだった。


 なんとか無事食事を終え、後かたづけをして部屋へと戻る――その途中の階段で、尋常ではないほどに息を弾ませた真央が妙な事を言い出した。
「あの、ね……父さま……へ、部屋に……戻る前に……お願いが、あるの」
「お願い? 何だ、言ってみろ」
 当然、内容次第では聞いてやる気など微塵も無かったりするのだが。
「……ベッドの下は、見ないで欲しいの」
「…………どういう意味だ?」
「と、とにかく……見て欲しくないの!」
 そんな事を言われたら、月彦としてはベッドの下を見るしか無かった。
(……なんだこりゃ?)
 ベッドの下の暗がりに鎮座しているのは、なんとも不審な黒のアタッシュケースだった。とりあえず引っ張り出して、蓋を開けてみる。
「…………真央、何だこれは」
 ケースの中にはいやに黒光りをする様々な“革製品”が鎮座していた。
「だ、だから……見ちゃだめ、って……言ったのに……」
「それはもういい! なんでこんなモノが俺の部屋にあるんだ!」
「……か、母さまがね、前に……くれたの。“メイドさん折檻グッズ”だって」
「……真狐の奴……」
 前言撤回。やはり、真央は甘やかされ過ぎだ。
(なるほど、“これ”があったから、あんなにも“メイドさんプレイ”に拘ったのか)
 真央がデートより優先する事には、やはりそれだけの理由があったのだ。
「……しかもなんだ? 奥に未だ二つも似たような箱が……」
「そ、そっちはダメ!」
 引っ張り出そうとする手を、尋常ではない様相の真央に止められる。
「ダメ、だよ……父さま。そんなに、いっぺんに全部されたら……私、壊れちゃう……」
「……まだ、コレを使うなんて俺は一言も言ってないんだが」 
 壊れちゃう、とは言いながらも、真央の期待に濡れた目に月彦は怖気が走ってしまう。
(……今度のゴミの日に、真央には黙って捨てよう。そうしよう)
 何より、こんなもの葛葉にでも見つかった日には何を言われるか解った物ではない。
(……矢紗美さんとかなら欲しがりそうだけど、あの人の場合既にこういうの持ってそうだし……)
 そして自分に使われるかもしれないし、とやはり捨てるのが最良に思えた。
「ん、これは何だ……」
 ケースの中、怪しげな革製品の中に黒いカバーの文庫本が交じっているのを見つけて、月彦は手に取ってみた。
「ぁっ……」
 真央が一瞬止めるような手を出すが、勿論月彦は頓着しない。そのままぱらぱらと、ページをめくってみる。
(…………なるほど、真央の偏った知識はこの本のせいか)
 それはメイドもののエロ小説だった。ぱらぱらと斜め読みした限りでは、父親が残した借金のせいでさる金持ちの屋敷へと身売りされた主人公の少女が、自分よりも年下の少年の世話係となるも、何かとマセたその少年に夜な夜な調教を受け、身も心も蹂躙されていく――というものだった。
「そ、それもね……母さまがくれたの。日本文化の勉強になるって……」
「日本にこんな文化はない!」
 あまりのデタラメっぷりに、つい声を荒げてしまう。
「……いいか、真央。これから先、もし真狐に何か貰ったりしたら、必ず俺に報告するんだ。いいな?」
「で、でも……父さまには内緒、って言われてるから……」
「真央は俺と真狐、どっちの味方なんだ?」
「それ、は……」
 はっきり父とも母とも答えないということは、心の天秤が揺れている証拠だ。ならば、その片方に重石を乗せてやれば済む話だ。
「……じゃあ、こう言ってやろうか? “御主人さま”の言うことが聞けないのか?」
「……ぁっ……」
 ぴくんっ、と。真央が体を震わせて、甘い声を上げる。
「で、でも……」
「“でも”? メイドのくせに主人に口答えをするのか?」
 態と、威圧的な声を出してやる。その方が、真央を説得しやすいからだ。
「返事は“はい”のみだ。そうだろ?」
「……は、い……わかり、ました…………」
 さすがは真央、とでも言うべきか。ぼぅ、と熱に魘されたように頬を赤くして、こくりと頷く。
(……ついでだ、この“差し入れ”も捨てる前に……少し使って、真央を喜ばせてやるか)
 真狐と自分とどっちのほうが“良い”かを、この際徹底的に思い知らせてやる必要がある。
「……真央、これを付けろ」
 そう言って、“革製品”の一つを手に取り、真央に渡す。
「ぇ……これ、付けるの?」
 戸惑い、不安――そして期待。その表情の変化を見ているだけで、ゾクリと加虐心が刺激される。
「ああ、そうだ。……きっとよく似合うぞ」
 何せ、真狐が用意したものだからな――そういう事にかけては、月彦は妙に信頼しているのだった。



「これで、いいの? 父さま」
「ああ、思った通りだ。……よく似合う」
 正規品のエプロンドレスに、革のアイマスク――その相性は確かに、月彦が想像していたよりも良かった。――否、良すぎた。
(……なんていうか、無茶苦茶……エロい、な……)
 目隠しをされ、ベッドの上に座るメイド――その絵が、胸の内にある何かをすこぶる刺激するのだ。
 それが隠れた嗜好のせいなのか、それとも生き物としての何か根元的な衝動なのか。月彦には判断がつかない。
「どうした? 真央。目隠しをしただけで随分苦しそうじゃないか」
 自分の興奮は棚に上げて、月彦はさも平然とした声で、真央の呼吸の荒さを指摘する。
「だ、だって……これ、本当に、何も見えない、から……」
「別に、口が塞がれたわけじゃないだろ? なのになんでそんなに息が荒いんだ?」
 事実、真央の呼吸の荒さは異常だった。はぁ、はぁ、ぜぇ、ぜぇ……肩を弾ませ、見えもしないのに時折左右に目配せをしては、ひっきりなしに耳を動かしている。
「と、父さま……何処にいるの? 側に、いるの?」
「ああ、側にいる。真央のすぐ側に……な」
 真央の不安を宥めようと、そっと頬を撫でる。――が、指先が触れた瞬間、真央はびくりと身を引いてしまう。
「どうした? 真央。何を怖がってるんだ?」
「やっ、だめ……何か、変……なの……ぁっ!」
 今度は軽く髪を触っただけで、いつになく真央は過敏に反応する。
(媚薬のせいか……或いは……目隠しの効果……か?)
 五感の一つを塞ぐことで、残りの四感――その中でも触感が強化されているという事なのだろうか。
(ふむ、面白い……)
 まるで、実験でも試みるように、月彦は真央の体の至る所を、できるだけ不規則に、それも唐突に触ってみる。
「ぁっ、やっ……やんっ! ぁっ……だめっ……と、さまっ……ぁっ……ぁあっ!」
 さわ、さわとただ体を撫でつけているだけなのに、真央は大げさに身をくねらせ、悶えさせる。
「い、嫌っ……こ、れ……何か、変、だよぉ……これ、やだぁっ……」
「……待て、真央」
 堪えかねたかの様に、真央が勝手にアイマスクに手を伸ばすのを、月彦は咄嗟に制す。
「真央、誰が勝手に取って良いと言った?」
「だ、だって……これ、つけてると……恐いの……だから――」
「真央が恐いかどうかなんて、俺には関係が無い。そうだろ?」
「で、でも……」
「また、“でも”か。どうやら真央には今ひとつメイドである自覚が足りないらしいな」
 仕置きだ――耳元でそう囁き、月彦はさらに別の“器具”を手にとる。アイマスクと同じく革製の――拘束具だ。
「ぇっ……やだ、父さまっ……」
「これで、自分で取るのは無理だな、真央」
 両手を後ろ手に拘束され、真央はなんとか自力でそれから脱しようと藻掻くが、無駄に頑丈な拘束具はその程度の抵抗ではびくともしない。
(どうした? 真央。“こういう風”にして欲しかったんじゃないのか?)
 望み通りにしてやっているのに、何故怖がったりするのだと。黒月彦はいつになく意地の悪い笑みを漏らす。
「ついでだ、“これ”も使ってみるか」
「えっ……な、何? 何を、使うの……?」
 まるで本気で怯えているかのような真央の声。しかしきっと――アイマスクで見ることは出来ないが――その目は期待に濡れている事だろう。
「ひぁっ、やっ……な、何……ぁっ、ぁあっ……!」
 そう、真央には月彦が“何”を手にとったのか解らない。解るはずがない――だから、月彦は、“それ”が何であるかを解らないように、まずは軽く真央の頬の辺りに触れさせ、すぐに離す。
「どうした、真央。随分嬉しそうだな?」
 ちょい、ちょいと真央の頬を突き、或いは髪をそっと撫でる――そう、月彦が手にとったのは、白い、大きな羽根だった。
「やっ、やぁっ……とう、さま……これ、何っ……ひっ……モゾモゾ、するっぅ……ぁあっ……!」
 そりゃあするだろう、羽根なんだからな――月彦はあえて真央の問いには答えず、無言のままさわさわと、真央の体中を羽根で愛撫する。肌の上からは当然のこと、服の上から撫でただけでも、真央は大げさに体を震わせ、声を荒げた。
(なら、尻尾はどうだ?)
 胸中の不安を指し示すように、頼りなくざわめく狐尻尾をそっと羽根で撫でつける。
「ひァッ……!?」
 真央は素っ頓狂な声を上げ、ぴんと尻尾を逃げるように動かす。――勿論、月彦はそう簡単に逃がしたりはしない。
「どうした、真央。“こんなもの”で尻尾を撫でられるだけで感じるのか?」
 意地悪な笑みを浮かべながら、さわ、さわと。執拗に尻尾を撫でつけ、付け根の方が良い声を上げるとわかると、そこばかりを重点的に責め始める。
「ぁぁぁァ……だ、めっ、父さまっ……それ、ゾワゾワってして……ひぃっ……ぁっやっ、み、耳っ……!?……ぁっ、ぁぁっあァーーーーッ!!!」
「ん? 尻尾ばかりじゃ飽きると思ったんだが…………耳もダメなのか?」
 さわさわと。狐耳の表面を撫でつけ、内部に生えている白い毛を弄ぶと、真央はそれだけで背を反らせ、甲高い声を上げる。
「……くす、真央。そんなに派手に動いたら、胸のボタンがはじけ飛ぶぞ?」
 ただでさえサイズが合わなくてばっつんばっつんなんだからな――月彦はじゅるりと、舌なめずりをしながら呼吸の度に大きく弾む胸元を凝視する。
(全く……似なくても良い所ばかり真狐に似やがって……)
 いや、確かに胸は大きいに越したことはないのだが、せめてもう少し――年齢や体躯に見合った成長具合であれば、こうも、ムラムラさせられることは――無かっただろうに。
「ぇっ、ぁっ……んんっ!」
 気がついたときには、両手で真央の胸を揉みしだいていた。
「なんだ、今日はブラつけてるのか?」
「だ、だって……本当は、父さまとデートする、筈だったから…………」
「準備が悪いな。俺のメイドになりたいなら、ブラなんかつけるな。……そうしたら、いつでも好きなときに、真央の巨乳が楽しめるだろ」
 ぼしょぼしょと囁きながら、月彦はブラごと好き勝手に真央の両乳をこね回す。
「んぅ……ぁっ、ぁふっ……やっ、やぁっ……とう、さま……そんなに、乱暴に、されたら……本当に、ボタン、とれ、ちゃうよぉ……」
「それは真央の胸がデカすぎるだけで、俺の揉み方のせいじゃあないな。つまり、自業自得って事だ」
「そん、なっ……っきゃうっ……!」
 態とボタンに負担がかかるよう、強く揉むも、その辺りはさすが純正の給仕服。そう易々とボタンが飛んだりはしない。
(ええい、まどろっこしい……)
 月彦は白のエプロン部分を下方へとズラし、瞬く間にボタンを外す。たちまち、圧力から解放された双乳がブラごと、その隙間から飛び出してくる。
(ブラもいらん……!)
 ぐいと、力任せに上へと押し上げ、見慣れた――そしていつまでも見飽きない――巨乳が顔を覗かせる。
(うむ、黒のメイド服のせいか、色白の肌がよく映える……堪らん!)
 襟元のリボンがまた良い具合にデコレイトの役割を果たし、いつもの月彦ならば、そこで真っ先にしゃぶりついているところだった。しかし、今回は。
(……そうだ、折角だし…………)
 にぃ、と。およそ、実の娘に対して向けられたとは思えぬ程の悪い笑み。
「と、……とう、さま? ……ひっ……!」
 まずは軽く、白の果肉部分をさわさわと撫でつける。
「やっ、やぁっ……またっ……んっぁっ……だめっ、とう、さま……やめっ……ぁあっァ!」
 こんな美味そうな巨乳を見せつけられて、止まれる男など居るはずがない。人並み外れて煩悩が強い男であれば尚更だった。
「んー? 尻尾や耳よりこっちのほうが“良い”みたいだな、真央?」
 さわ、さわと軽く撫でつける度に真央が大げさに体を跳ねさせるから、その都度たゆんっ、たゆんと誘うように巨乳が揺れる。
「やぁっ、やぁぁっ……とう、さまっ……それ、本当に、ダメっ、なの……おっぱい……ゾワゾワって、してっ……ひぁっ……ぁっ、やあぁっ!!!」
 いい加減真央の声が切なげになってきた頃を見計らって、堅く尖った先端部をさわ、さわと撫でつける。
「あッ、ァッ、アッ、あァぁーーーーーーッ!!!!!」
 びくんっ!
 一際甲高い声を上げ、ブリッジでもするように、仰け反った後、くたぁ……と。
 まるで魂が抜け出てしまったかのように真央は脱力した。
 はぁ、はぁと。存在感たっぷりの巨乳をたゆたゆ揺らしながら必死に呼吸を整える真央を、月彦は舐めるような視線で見下ろす。
「……随分良い声を上げるな、真央。ひょっとして、俺が普通に指で触るより、羽根で撫でられた方が感じてるんじゃないのか?」
「……ぇっ、……は、ね……だった……の?」
「なんだ、まだ解ってなかったのか?」
 これだけたっぷりと撫でつけてやれば解りそうなものだが――しかし、目隠しをされた状態では、それも難しいのだろうか。
(……鼻摘んだままジュースを飲むと味が分からないようなもんかな?)
 それならそれで、もう少し――“正体不明”のまま弄んでやればよかったか。――くつくつと、またしても悪い笑みを浮かべる。
「ね、ねぇ……父さま……お願いが、あるの……」
「何だ?」
「あ、あの……ね、もう……羽根でするのは……止めて、欲しいの……」
「何故だ?」
 威圧感たっぷりの声で問うと、真央はしばし逡巡、沈黙してから。
「羽根、で……触られると、ゾワゾワってして、変な、感じになっちゃうから……」
「変な感じ……か。嘘が下手だな、真央は」
「えっ、ぁっ、あァッ!!」
 ピン立ちしたままの乳首を、月彦は容赦なく羽根で撫でつける。
「こうやって胸を撫でられただけで、簡単にイッた癖にな。……本当はもっとシて欲しいんだろ?」
「ち、違……うっ……イッてなんか……ひっ……!」
「真央、ベッドから下りて――立て」
 さわさわさわ――真央の胸から首、頬までを撫でつけながら、“命令”する。
「目が見えなくて両手が使えなくても、立つことくらいはできるだろ?」
「で、でも……ふやァあッ!!」
「口答えはするな。……安心しろ、真央がちゃんと俺の言いつけを守れたら、その時はアイマスクも外して、羽根でするのも止めてやる」
「……ほ、本当? 父さま……」
「ああ。俺は真央と違って嘘はつかないからな」
 だから早く立て――急かすように撫でつけると、真央は辿々しくも――両目と手が塞がっているからその辺りはしょうがないのだが――月彦の言いつけ通りにベッドの側に立つ。
「くす……真央、動くなよ?」
 月彦はスカートの裾を掴み、ゆっくりと持ち上げる。
「……ロングスカートの下はガーターベルトか。こんなものまで菖蒲さんに借りたのか」
 下着そのものは真央のものだが、ガーターベルトとそれがつり上げているニーソックスは間違いなく借り物だった。
(……成る程な、こんなものまで付けるんじゃ、わざわざ別室に行くわけだ)
 ニーソックスは兎も角、ガーターベルトを付けるためには一度下着を脱がなければならない。問題は、ただ着替えが欲しかっただけの真央にそこまでする必要は無い――という事なのだが、これに関しては着せた本人に聞いてみるしかない。
「と、父さま……?」
「ああ、すまないな……真央のスカートの中があまりに魅力的で、つい見入っちまった」
 苦笑しながら、月彦はさらにスカートの裾を持ち上げ、真央の口の側まで運び。
「真央、これを咥えろ」
「ぇ……んむっ……」
「俺が離して良いと言うまでそのままでいるんだ。もし勝手に口を開いて裾を落としたら、明日の朝まで羽根でなで続けてやる。……解ったな?」


 暗闇の中、唯一聞こえる――父親の声は、真央にとって“絶対”の響きを孕んでいた。
「ふ、ふぁい……ほうはは……んんぅッ!!」
 生地を口で噛んだまま、辛うじて返事を返したのもつかの間。
「んっ……んふぅぅ…………んんっ! んんっン!!!」
 いきなり、太股の辺りをさわさわと撫でられ、いきなり口を開いてしまいそうになる。
「どうした? 真央。今にも裾が落ちそうじゃないか。もうちょっとしっかり噛んだほうがいいんじゃないのか?」
 月彦の言う通りだった。もっと強く噛まなければ――“何か”をされた途端、うっかり落としてしまいそうだった。
「……それとも、本当はこうして、ずっと羽根でして欲しいから……態と落とそうとしているのか?」
「んっ……フぅうっ、ンフッ……!!」
 勿論真央は必死に首を振り、“否”の意を示す。
「さて、本当かな。真央はよく嘘をつくからな……」
 月彦の意地悪い呟きに、尻尾の付け根からゾクゾクとしたものが走る。そう、この父親は解っているのだ。解っていて――意地悪をしているのだ。
(だめっ……父さま……私、羽根でされるの……本当に、ダメ、なの……)
 そう口にしたくとも、スカート生地を噛んだままでは美味く喋ることが出来ない。それどころか、うっかり口を離してしまう危険性もある。
 そうなれば――宣言通り、この父親はやるだろう。一晩中、アイマスクと手枷で抵抗できない自分の体を、羽根で嬲り続けるだろう。
「ンフぅぅううッ!! んっ、んっふ……んんっ!!」
 さわさわさわっ……!
 愛撫が止んだと思えば、唐突に撫でられ。撫でられる――と気を張れば焦らされ。短い間にも、真央の神経はどんどんすり減らされていく。
「くす……真央、そんなにつま先立ちばかりで疲れないのか?」
 あざ笑うような声に、反論も出来ない。仕方がないのだ。視覚を奪われ、次に何をされるか、何処を触られるか解らない状態では、常に全身に気を張っていなくてはならない。――それが、皮肉にも感度を飛躍的に上げる事になってしまうわけなのだが。
(だ、めっ……羽根で、さわさわってされる、だけで……体……ビクンって、なっちゃう……!)
 それは最早、真央自身にもどうしようもないこと。そして残酷な父親は、娘のそんな有様を楽しむように、さわ、さわと羽根での愛撫を続ける。
「……真央、一応言っとくが……もし膝を突いたりして、スカートの裾が地面――絨毯についても、やっぱり“羽根責め”だからな?」
「……っっ……!」
 途端、真央が両足に力を込め、しっかりと立つ。しかしそれでも、さわさわと足を撫でられる度、条件反射的にしてしまうつま先立ちのせいで、徐々に立ち様も怪しくなってきていた。
「フゥ……フゥ……フゥ……んんっ、んぅぅううっ!!!」
 太股を撫でる羽根の動きに変化が現れたのはそんな時だ。ただ、さわさわと撫でるだけではない――まるで、“何か”をすくい取るような動きを。
「……真央、解るか?」
 さわっ……と太股を撫でた羽根の感触が不意に途絶える。次は何処を触られるのか――胸を弾ませながら、“その瞬間”に備えていた真央は、思わぬ場所への愛撫に危うく生地を離してしまう所だった。
「これでも、羽根では感じてない……変な感じがするだけって言い張るのか?」
 ぬらりとしたものが、羽根で頬へとなすりつけられる。無論、羽根の先に絡んでいる“それ”が何であるか、当の真央が解らぬ筈もない。
「どうした? 真央。……答えられないのか?」
 くつくつと、意地悪な笑みが聞こえる。そしてまた――太股にまで垂れた蜜を拭う様な、羽根の動き。
「んフぅぅううッ!!!」
「ここも、さっきから立ちっぱなしだな。……興奮しているのか? 真央」
 今度は、痛いほどにそそり立った胸の先端に蜜を塗りつけられる。そのまま、さわ、さわと……円を描く様に愛撫され、またしても真央はつま先立ちになり、くぐもった声を上げる。
「……っンくっ……ふぅ! フゥ……フゥ……んフゥゥゥぅうう!!!」
 乳首への愛撫が漸く止み、真央が踵を下ろそうとしたその瞬間を見計らったかの様に、唐突に下着――ショーツを掴まれ、ぐいぃっ……と持ち上げられる。
「クク……凄いな、真央。透け透けだぞ? それにこうすれば……形までくっきりだ」
「…………っ……フゥぅぅ……!」
 目をふさがれている真央には、その様子を確認する事は出来ず、ただ想像するしかない。そう――自分が、秘裂の形すら浮かび上がらせてしまう程に、しとどに下着を濡らしてしまった様を。
「……ンんっ!! ふぅぅ…………んんっ!!!!!」
 自らの痴態を妄想して、赤面するような時間は、真央には与えられなかった。何故なら――。
「んんっ! ンッ!! んっ、ふぅっ……んんんっ!!!」
「なんだ? 下着越しに撫でられただけで気持ちいいのか?」
 さわ、さわと。割れ目をなぞる様な羽根の動きに、つま先立ち、体を弓なりにして真央は悶え続ける。
(やっ、父さまっ……ダメっ……それ、ダメぇええっ!!!)
 そう、叫びたかった。しかし、ひりつくような快感の中、真央に出来るコトといえば父親の言いつけ通りにスカートを落とさぬようにすることだけ。あとは、ひたすら堪えるしかなかった。
「……すごいな、真央。こうしているだけで……あっという間に羽根がびしょびしょだ。これじゃあ使い物にならないな……どうしてくれるんだ? 真央?」
 ぺし、ぺしと湿った羽根で頬を叩かれる。
「ご、ごえんなふぁい……ほうはは…………ンんんッ!!?」
 息も絶え絶えに謝ったのもつかの間、今度は一息に――下着が膝までずり下ろされる。
(や、だ……父さまに、見られてる……)
 羽根でなで回され、これでもかと溢れさせてしまっている自分を。
「……まったく、関心を通り越して呆れるな。俺に直接触られたわけでもないのに、こんなに濡らすか……真狐の血を引いているだけはあるな」
 淫乱だな、真央は――そんな囁き声に、ぴくんと体が揺れてしまう。
(やっ、違う……違う、の……父さま、だから……なのに…………)
 例え撫でるものが何であれ、相手が月彦だから“こう”なってしまうのだと。真央は弁明したかった。しかし、不自由な口は真央にその機会を与えてくれない。
 それがもどかしく――そして、焦れる。
「……羽根もダメになった事だし、そうだな……今度は“これ”を使ってみるか」
 淫乱でマゾな真央にはぴったりだ――そんな独り言のような月彦の呟きに、ゾクリと。尾の付け根から電流のような快感が走ってしまう。
(ぇ……何? 今度は、何を……使うの? 父さま……)
 不安と、期待。最早真央にとって、この二つは表裏一体、分かつことの出来ないものだった。
 暗闇の中、フゥ、フゥとケダモノの様な息づかいを響かせながら、真央は“その時”を待ち続ける。
(いきなり……鞭で打たれるのかな……ううん、それとも蝋燭……)
 どちらも、“メイドさん折檻グッズ”の中に入っているのは確認済みだ。真央は早くも――視界を塞がれ、抵抗も出来ない状態のまま、いきなり鞭で打たれる自分を想像し、ぶるり……と身を震わせる。
(……痛いのなんて……嫌、なのに……でも、父さま、なら…………)
 悪い子だな、真央は――そう囁かれながら鞭打たれる自分を想像し、ジュン……と、またしとどに溢れさせてしまう。
(やっ……こんな……あ、足首まで……垂れちゃう……は、早く……)
 鞭にせよ、蝋燭にせよ、早く使ってほしかった。何故突然黙り、そして何もしてこないのか。
「くす……どうした、真央。待ちきれないのか?」
 そんな意地悪な声が聞こえた瞬間、真央は悟った。全ては見透かされていたのだと。
「このニーソックス……借り物なんだろ? 良いのか? こんなに汚して」
 そう、既にソックスまで染みてしまっているのは、感触で解っている。しかし、真央にはどうすることも出来なかった。
「……まあ良いか。真央だって、服汚されたんだもんな……こっちだって、汚れた服をそのまんま返せば、おあいこだ」
「……っ……!」
「どうした、何を驚いてるんだ? 真央が自分で言ってたことだろ? “服が汚れるような事をシて欲しい”って」
 違う、そんな事は言ってない――真央は首を振るが、勿論意地悪な父親がそんな嘆願を聞き入れる筈もない。
「安心しろ、真央。ちゃんと望み通り……たっぷりと汚してやる。勿論、汚れた服は真央が自分で返しにいくんだぞ?」
「ふぅっ……んふっ、んふぅうぅ……――んんんンッ!!!!」
 いや、父さま、それだけは許して――そう懇願しようとした刹那だった。“何か”が、突然――秘裂を舐めた。
「……やっぱり、思った通りだ。羽根が好きなら、“これ”も好きだろうと思った」
「んんっ!? んっ、ふっ……んふぅうっ、んんっ!!」
 ぬろり、ぬろりと。“何か”が割れ目にそって上下され、真央はつま先立ちになりながらくぐもった声を上げ続ける。
(な、何……これ、……羽根、じゃない……もっと……ひぃっ……!)
 “それ”は羽根よりも強く、しっとりとまとわりつくようにして、真央の媚肉を刺激してくる。
(やっ……!)
 ぐいと――突然秘裂を指で左右に広げられる。そして広がったその場所を、ぬろり、ぬろりと。
「ふ、うぅぅぅ〜〜〜〜〜〜ッッ!!!!」
 つま先立ちのまま、がくんがくんと体が揺れる。――スカートの下から、意地の悪い笑い声が聞こえてきたのはその時だ。
「凄いな……もう字が書けそうなくらい濡れたぞ、真央?」
 そしてそれを示す様に、ぺたぺたと……太股に何かが触れた。
(字……? 筆……なの?)
 確かに、そんなものもケースには入っていた。しかし、そんなもので、まさか――これほどまでに。
「ンンンッ!!!! んんっ!!! んんんーーーーーーッ!!!」
 そう、やはり筆だ――真央は確信した。柔らかい筆の先が、広げられた媚肉をなぞるように動き、もぞもぞとはい回っているのだ。
(やっ……とう、さま……これっ……ひぁっあぁああッ!!!!)
 ゾクゾクゾクッ!!
 指や剛直とは全く違う、新鮮な刺激に、真央は尻尾を反らせながら容易くイッてしまう。
「フゥーッ……フゥーッ…………フゥーッ……ンンンッ!!!!」
 しかし、筆の責めは真央が一度イッたくらいで緩む事はない。断続的に、ねちっこく、執拗に――粘膜を撫でつけてくる。
(ダメッ……ダメぇっ……父さま、これっやっ……こんなの、続けられたら…………クセにっ、なっちゃうよぉ…………)
 ゾクッ、ゾクゾクッ……!
 何度も、何度も体を反らしてイかされ、すっかり筆の愛撫の虜になった所で、今度は唐突に――秘裂を広げていた指が消え、刺激も止む。
(ぇっ……ぁっ……やっ、ぁぁ……)
 消えてしまった筆の感触を捜す様に、腰が、勝手にうねってしまう。
(だめっ……父さま、お願い……止めないでぇっ……!)
 口にスカート生地さえくわえていなければ、そう懇願している所だった。
「……どうやら、“筆”は随分気に入ったみたいだな、真央?」
 その声は、背後から聞こえた。えっ――と、真央が振り返ろうとした矢先、今度は尻尾が。
「ンンンーーーーッ!!!」
 根本を強く掴まれ、そのままこしゅ、こしゅと……小刻みに擦り上げられる。
「んふっ、んんっ、んっ、ふっ……んふっ……!!」
「……正直、少し妬けたぞ。ほんのちょっと撫でてやっただけで、あんなに簡単にイくんだもんな……」
 耳を舐めるような囁き声――とはまさにこの事。その優しい口調が、逆に真央には恐ろしく――そしてゾクゾクさせられるわけなのだが。
「……もう口を離してもいいぞ、真央。よく頑張ったな」
「ふぁ……父さま……? あんっ……!」
 スカート生地が優しく引かれ、真央は恐る恐る口を離す。そしてまた、こしゅ、こしゅと尾の付け根を擦られる。
「とう、さまぁっ……あっ、ぁっ……尻尾……あんっ……!」
「どうした、真央……尻尾じゃ物足りないのか?」
「そ、そんな事……無い……けど……ぁぁっ、んっ……ぅう!」
 確かに、こうして尾を擦られるのも堪らないほどに気持ちいい――が、あの筆の感触には、僅かに及ばない――そう思ってしまう。
「……全く、真央は気持ちいいことに関しては正直だな…………はっきり言ったらどうだ? “筆でされる方が良かった”ってな」
「そ、そんなっ……あウッ!!」
 尻尾から手がどけられた――その刹那、今度はぎゅうと、背後から抱きしめられた。
「でも、ダメだ。……お遊びは、もう終わりだ」
 ふぅ、ふぅと――自分のものではない、ケダモノじみた息づかいが、狐耳を擽る。
「真央のエロ可愛い所……たっぷり見せつけられて、俺の方がもう我慢出来ないからな……解るだろ? 真央……俺が、どれだけ興奮しちまってるか」
「と、とう……さまぁ……ぁぁっ、ぁ……やっ、すご、い……本当に……」
 興奮している――スカート越しに、尻に擦りつけられる剛直の堅さと熱で、それが解ってしまう。
(あぁっ……父さまの、欲しい……)
 先ほどまであれほど切望した筆の愛撫すら、どうでも良くなってくる。そう、この剛直による快楽に勝てるものなど、在るはずがないのだ。
「くす……浮気者だな、真央は。もう“筆”から鞍替えか?」
「ンむ……んっ……」
 余程、物欲しげな口をしていたのだろう。月彦の指が、二本――口腔へと差し込まれる。勿論、真央はその指を丁寧に、そして意志を込めて舐め上げ、主張する。
 自分が、どれだけ“欲しい”かを。
「そうだな、真央……そうするか」
 指を抜き差ししながら、くつくつと――笑い声が。
「まずはそのエロい唇と舌で――たっぷりと“ご奉仕”してもらうか」
 勿論、真央に異存が在る筈も無かった。



 跪け――身震いするほど低い声で言われ、真央は言われたとおりに膝を突き、そして月彦が居るであろう場所を見上げる。
「父さま……これ、外しちゃダメなの?」
「ああ、そのままでするんだ」
 かちゃ、かちゃとベルトを外す音、ジッパーを下ろす音がいつになくクリアに聞こえる。視覚が遮られているせいか、それ以外の感覚が鋭くなっているのだ。
「っきゃんっ!」
 そして、異常なまでに堅く熱い、肉の塊がぺちんと真央の頬を叩く。
(ぁ……父さまの、匂いだ……)
 くんくんと鼻を鳴らしながら、ふらりと――まるで蜜に吸い寄せられる蜂のように、真央は視界が塞がれているにもかかわらず、正確に剛直に口づけをする。
「ンむ……んくっ……」
 待ちこがれた剛直の味に、ついつい鼻息荒くむしゃぶりついてしまう。
「ンむっ、んくっ、じゅるっ……じゅぷっ、んぷっ……!」
 唾液を絡め、剛直の味がしみこんだそれを啜り、ごくりと嚥下する。その度に、あの濃くて熱い――白濁の奔流の味を思い出して、ジィンと尾の付け根から痺れが奔る。
「んぷっ、んぷっ……ぁっ……!」
 しかし、そうやって口戯に躍起になっていたのもつかの間、唐突に頭を掴まれ、引きはがされる。
「最初から随分とハイペースだな、真央。そんなに欲しかったのか?」
 暗闇の中、剛直の感触を捜す様に唇を、舌を踊らせるも、手応えは皆無。真央はアイマスクの向こうの月彦の顔に向かって、こくりと頷いてみせる。
「“奉仕”の内容は文句なしだ。――だけど、真央、メイドなら……ちゃんと主の体に触れる時はことわらないとな?」
「え……、父さま、それは……」
 月彦からの返事は無く、ただ――意地の悪い笑みだけが帰ってくる。つまり、それがヒントなのだ。
「……舐めさせて、下さい」
 そして考えるよりも早く、真央は懇願していた。
「“誰に”だ?」
「わ、私に……父さまのメイドの……真央に、舐めさせて、下さい……」
「“淫乱でマゾな”が抜けてるぞ、真央?」
「……っ!」
 ああぁ……!
 そんな声が、つい漏れてしまう。
 父親の、ゾクゾクするほどに低い声に、じぃんと尾が痺れ、身震いするほどに感じてしまう。
「い、淫乱……で、マゾ……な、いやらしい……メイドの、真央に……ご、御主人サマ、の……を、舐めさせて……しゃぶらせて下さい……どうか……お願い、します……」
「……“的確な自己紹介”だな、真央。……良いだろう、舐めさせてやる」
 くっ、と。頭を掴んでいた手がどけられると同時に、再び真央はむしゃぶりついていた。先ほどまでよりも、より貪欲に、はしたなく。
「っ……く、ま、真央……また、そんなっ……くはっ……」
 月彦が腰を引く――ならば、真央はより体を前に出してむしゃぶりつく。両腕を拘束された状態では、満足な愛撫も出来ないが、それでも唇を、舌を駆使して、月彦の弱いところこれでもかと。
「ま、真央……待て……!」
 しかし、またしても頭を掴まれ、無理矢理剛直が引き抜かれる。
(あぁっ、そん、な……もう少し、なのに……)
 唇と舌で感じた、びくびくと震える、剛直の痙攣は月彦がイきそうな証なのだ。もう少しで、あの熱くて濃い牡汁の味が――堪能出来たというのに。
「ふぅ……ふぅ……ちょっと、口でさせるだけの筈が……危うくイかされる所だった……」
 それの何がいけないのか、真央には解らなかった。むしろ、抗議しようかと、そう思った矢先――ぐいと体が持ち上げられ、ベッドの上に転がされた。
「悪いな、真央。……最初の、一番濃いのは……口じゃなくて真央のナカに出してやろうって、そう決めてたんだ」
「ぇ……と、父さま……ンぅ……!」
「その方が、真央だって嬉しいだろ? ……ほら、膝を立てて、尻を上げろ」
 背後から組み敷かれ、肉欲丸出しの手つきで乳を捏ねられながらも――真央は言われたとおりに膝を立て、尻を上げる。
(あぁ……そんな……父さま……“一番濃い”のを、いきなり……ナカで、なんて……)
 口に出してもらえなかった不満は、一気に消えた。それどころか、期待に胸膨らみ、異常な早さの動悸が止まらない始末だ。
(やっ……そんなの、想像しただけで……イッちゃう……!!)
 ぎゅう、と背後から抱きすくめられ。生乳をこれでもかと揉みしだかれ、唾液と先走り汁の滲んだ剛直をスカート生地に擦りつけられながら、真央はフゥフゥと荒い息を上げる。
「まだだ、まだだぞ……真央。妄想するのは勝手だが……俺の許しも無くイッたりしたら……その時は即座に止めるからな?」
「ひゥ……そ、そんな……父さま……無理、だよぉ……今、挿れられたら……それだけで、私……」
「なら、我慢しろ。……いいか、勝手にイくなよ?」
 しがみついていた手が離れたかと思えば、すぐにスカートの裾がまくり上げられる。さらに尻尾までもがスカートの穴から抜かれ、今後は逆にスカートがずり落ちない為の支えにされる。
「ふーっ……ふーっ……真央、綺麗だ……いつ見ても、飽きない……」
 尻を掴まれ、ぐいっ……と親指で広げられる。既に、下着は先ほど膝下まで下ろされたままだ。だから、そう――今度は、いきなり。
「あっ、ぐぅッ!! ひ、ぃぃいいいッ!!!」
 広げられた場所へと、何かが触れたと思った次の瞬間には、強引に最奥までねじ込まれていた。
「ぁ、ぁ、ぁ……ぁひっ、ぁ……やっ、こんなっ、ひぃ……すご、……すごい、のっ……ぁあ、ぁ……!」
「ふぅ……ふぅ……何がスゴいもんか。……スゴいのは、真央のナカの具合のほうだ……ッ……こうして、挿れただけで、イッちまいそうに、なる――」
 ケダモノの息づかいが、耳の裏へとかかる。ぐっ……と背後から体重をかけられると、同時に剛直の方も。
「ぁ、ぁあっ、ぁっ……やめっ、……らめっ……と、さまっ、……そんな、ひぃぃいいッ!」
 びくっ、びくぅ……!
 膝立ちだった足が痙攣でもするように、真央の意志に反してピンと延びる。持ち上がろうとする尻をさらに押さえつける様に組み敷かれ、真央はもう掠れた声しか上げられない。
(ぁああっぁ、父さま、の……堅い、のがぁ……ごりゅごりゅっってぇえ……ひぁあっ!!!)
 イくな――そう命令されていなければ、挿入された段階で即座にイッていた。その上、さらに――最も弱い“奥”を責められては。
「ふぅぅ……真央っの、ナカ……たまんねっ……ふぅ、ふぅ……こうして、挿れてる、だけで……すっげぇ締め付けてきて、絡みついてくる……」
「ぁ、ぁあっ……それ、はっ……と、さまのが……おっきぃ、からだよぉ……だから、ひゥぅ!!」
 ぐりゅんっ!――と。
 一際強く腰を押し出される。
「他の男と比べた事も無いクセに……適当な事を言うな、真央」
 それともあるのか? 他の男と寝た事が――否、と答える事が宿命づけられた質問。真央はあえて黙り、答えを返さなかった。
「あ、る、の、か? と聞いている。真央」
「ひぁアあァァッ!!! な、無いっ……無いっ……れすぅ……真央、はぁ……父さまと……父さま、しかっ……ひぃぃぃいッ!」
 ぐり、ぐりと執拗に奥を責められ、真央は舌を突き出すようにしながら漸く答えを返す。
(スゴい……こんな事、されても……私、イけないんだ……イかせて、貰えないんだ……)
 “命令”があるからだ。この、優しくて意地悪な父親に、その様に“調教”されてしまったのだ。
「無いなら無いと、すぐにそう答えろ。……不安になっちまったじゃないか」
 全く――憤慨したように呟きながらも、その両手はもにゅもにゅと真央の巨乳をこね回し、口は耳をはむっと。
「ひィう!……ぁ、ぁぁ……やぁっ、み、みみ……らめぇっ……きゃふ、ぅ……」
 視覚が塞がれているせいか、耳への愛撫もいつになく感じてしまう。勿論、そんな真央の都合は月彦には関係がない。
 だから――。
「やっ、やぁぁっぁっ……み、耳っ……ゾクゾクってしちゃうのぉっ……ぁあっ、あっ、あっ、ぁあァ〜〜〜〜ッッッ!!!!」
 真央がどんなに声を荒げ、体を跳ねさせても、耳をねぶる舌と唇の動きを止めない。はむはむと甘噛みをしたかと思えば、ゾゾゾと内耳と白い毛が唾液でしっとりするまで舐め続け、何度も何度も真央に声を上げさせる。
「んむっ……こうやって胸をもぎゅもぎゅしながら耳舐めると、キュゥッ、キュッ……って締まって、すっげぇ……気持ちいいな……」
 真央もそうだろ?――囁かれながら、また唇で甘く食まれ、毛を舌でチロチロされる。
(やっ、だめっ……挿れられた、まま……おっぱいと……耳、そんなにされたら……イッちゃう……イッちゃぅぅう!!!)
 ゾクゾクゾクゥ……!
 尾の付け根から凄まじい快感が奔る――が、しかしイけない。
「ひはっ!……ひぃッ!……ふぇえッ……ひぅっ、ぅ……」
 絶頂に達するには十分過ぎるほどの快感を与えられているのに、イけない。その“不自然”さは単純に何度もイかされるよりも体力を消耗する。
 両の耳がへたへたになるまでたっぷりと嘗め回され、漸く月彦が愛撫を止めた時には――もう、尻尾の毛まで萎れるほどに真央は消耗しきっていた。
「くす……どうしたんだ? 真央。まだ一回もイッてないのに……汗びっしょりじゃないか」
「へぁあ……それ、は……とう、さまが……」
「ああ、解ってる。俺がちっとも動かないから、焦れたんだよな。悪かった、真央」
「やっ、ち、違っ……ひアぁッ!!!」
 ゆっくりと腰が引かれ、ずちゅんっ!
「あっ、あぁっ、あっ、あっ、あんっ……あっ、やぁっ、ンッ、ああっ!!」
 その一撃を皮切りに、ずちゅ、ずちゅと断続的に突き上げられる。
「……相変わらず、真央は良い声で鳴く……もっと、聞かせろ、真央っ……!」
「あっ、んぁっ……と、父さま、ぁっ……ひぁっ、ひぃっ、あひっ、いっ……んぁっ、ああっ!!! あぅっ、んっ、あっ、あぁッ、ぁッ!!」
 月彦に二の腕を掴まれ、体を無理矢理起こされながら執拗に突かれる。
(ぁああっ、ぁっ……と、父さまっ……そん、な……おっきぃの、で……ごちゅごちゅってされたらっ……頭の中、真っ白になっちゃうよぉ……)
 百――否、二百は突かれただろうか。腕を掴んでいた手が離れたと思ったその時には、たゆたゆと揺れていた両胸が、しっかりと掴まれていた。
「ふぅ……ふぅ……そろそろ、出す、ぞ……真央」
「と、父さま……やっ、そんな事、言われたら……私……」
 想像してしまう。そして、想像しただけで――。
「イくのはまだ早いぞ、真央。……イくのは、俺が出した後だ。……いいな?」
 こくりと、真央は無言で頷いた。――が、しかし。
「返事はどうした?」
 ぐりゅんっ、と。一際強くかき混ぜられる。
「あヒぃッ!! …………は、はいぃ……わかり、ました……。い、淫乱で、マゾなメイドの真央は……ごしゅ、じんサマに、中出し、されて……イき、ます……」
「……良い“挨拶”だ。真央……それでこそ、俺のメイドだ」
 くすりと、耳の後ろで笑む声。同時に、むぎゅうっ、と。まるで搾るように双乳が揉まれる。
「あぁッぅっ……と、とう、さまっ……ンッ!」
「ッ、く……締まる、な……でも、その方が、いい……こじ開けてやる、真央ッ……」
 ぱん、ぱんと尻が波打つほどに強く、小刻みに突き上げられる。
「ああぁっ、あっ、ああっ、あっ……やっ、ぁっ、とう、さまっ……もう、らめっ……やっ、イくっ……イくっ……イくッ……ゥ!!!」
「まだ、だ……真央……イッていいのは、俺が出した後――だッ……!」
 ずちゅんっ!
 一際強く、子宮を揺さぶるその衝撃に、真央は舌を突き出すようにして仰け反る。
 その刹那。
(ぁっ……父さまの、膨らんで――)
 ごびゅるっ……そんな汚らしい音が“振動”で響いた。
「あっ、あっ、………………あアーーーーーーーーーーッ!!!!!」
 狭い膣内を押し広げるようにして打ち出される濃厚な白濁液。その奔流に、真央ははしたなく声を荒げていた。
「くはぁ……ヤベッ……やっぱり口で一回出しとくべきだったか……すっげぇ、出る……ッ……」
 びくっ、びくっ……!
 尋常ではない痙攣を繰り返す真央の体をしっかりと抱きしめたまま、月彦は膣奥まで押し込んだ剛直を微塵も引かず、最後の一滴まで流し込んでくる。
「かっ……ひっ………………ぁっ……ッ!!……ぁっ…………ッ!!」
 びゅるんっ、びゅぐっ、びゅぐっ。
 直接子宮を揺さぶる様なその奔流に、真央はもう掠れた声しか出せない。十数回にも及ぶ、絶頂による派手な痙攣の後には、なんとも甘く気怠い、そして至高の余韻が残るばかり。
(あ、つい、の……いっぱい………………あふれ、て…………)
 ホワイトアウトした脳内で、辛うじてそんな事を思う。どろり、どろりと……溢れた白濁は太股を伝い、確実にニーソックスを、そしてスカートを汚している様だった。
「ふーっ……ふーっ……まだだ、……まだだぞ、真央。……こんなもんじゃ終わらないのは、解ってるだろ?」
 グンッ、と。真央のナカに収まったままのそれが力を取り戻す。
「ほら、ちゃんと膝を立てるんだ」
 じゃないと中出ししてやれないだろ?――そう囁かれれば、真央の体は。
「ぁっ、ぁっ……ぅ……」
 意志に反してでも、膝を立て、そして尻を差し出す様に、高く。
「……良い娘だ」
 そしてまた――淫らな子狐の悲鳴が木霊するのだった。


「はぁっ……はぁっ……真央っ……真央っ……!」
 腹の上に跨り、両手で巨乳を寄せ、その谷間を――剛直で嬲る。
(真狐、程じゃない――が……)
 それでも、十分過ぎる程のボリュームは剛直を容易く包み隠してしまう。潤滑油は、まとわりついていた白濁と蜜で十分。あとはただ、力任せに乳を掴み、腰を振るのみだった。
「ぁっ、ぁあッ……だめっ……父さま……そんな、乱暴に……おっぱい犯さないでぇっ……!」
 はっ、はっ……抽送に合わせるような、真央の呼吸。こくんっ……と、その喉が動いたのを月彦は無論見逃さない。
(クク……“想像”しているのか? 真央?)
 この、胸を犯している剛直が、口腔を、或いは膣を貫いている所を。
(さっきまで、あれだけ中出ししてやったのにな……)
 かれこれ、抜かずの七発。声が枯れる程に鳴かせてやったというのに。この貪欲さは一体誰に似たのだろう。
(……それとも、ちゃんと口にも出してやらないと、満足出来ないのか?)
 最初に口でさせはしたが、出してはいない。――その性で、焦れているのかも知れない。
(まあでも、それならそれで……別に俺が焦れてるわけでもないしな……)
 くつくつと笑いながら、むぎゅぅっ、と一際強く乳を掴む。
「ぁっ、あっ!」
「……真央、出す、ぞ――ッ!」
 ぎゅうっ、と圧迫した谷間から先端部を覗かせ、びゅるっ、びゅると真央の顔を白濁いろに汚していく。黒のアイマスク、そしてカチューシャにもたっぷりと白濁が――そしてもちろん、真央の顔にも。
「やっ……父さま……ンッ……!」
「“や”?……何が“嫌”なんだ真央?」
 ぁっ……そんな小さな呟きが、真央の口から漏れる。
「ど、どうして……口じゃなくて、顔、に……お、お洋服……汚れちゃう、のに……」
 それは、真央が口に欲しくて欲しくて堪らないって顔をしていたからだ。――と言ってやるのは簡単なわけだが。
「何だ、口に欲しかったのか? それは気づかなかった、悪いな、真央」
 さも、白々しく謝ってみせる。それでどうやら、真央の方も月彦の“意地悪”に気がついたらしい。
「と、父さま……お願い……ちゃんと、口で……最後まで、させて、欲しいの……」
「ん? メイドの癖に……主に“命令”するのか?」
 態と低い声で呟くと、びくりと真央が身を震わせる。
「……まぁいい、可愛い真央の頼みだ。口で……最後までさせてやる」
 月彦が体の上から退くと、真央はよろよろと身を起こす。そして、目が見えていないとは思えないほど正確に、剛直にむしゃぶりつこうと――。
「待て、真央」
 そんな真央のポニテをぐいと掴み、制止させる。
「っきゃっ……と、父さま……!?」
「口でするときはどうするんだった? ちゃんと教えただろう?」
「ぁ……は、はい…………わかり、ました…………」
 真央はおずおずとベッドから下り、膝立ちになる。
「これで、良い? 父さま……」
「そうだ。後は真央の好きにしていいぞ」
 いいぞの“ぞ”を言うが早いか、ちゅぷぷっ……と剛直が真央に咥えこまれる。
(ぅお……)
 咄嗟にそんな声が漏れそうになってしまう程に強烈な快感が電撃の様に、体を貫いた。
「んぷっ、んぶふっ……んぷ、んくっ、んんっ、んっ……!」
 両手が塞がっているとは思えないほどスムーズに、真央は頭を上下させ、的確に月彦の弱い場所ばかりを責めてくる。
(ぐ、ぁっ……くそっ……ゆ、由梨ちゃん、も……口でするのは、巧い、けど……やっぱ、真央のが……上、か……)
 そもそも、口でやらせた回数が二桁は違うから、それは当然なのだが。
(や、べっ……あんま、早く出しちまうのも……くっ、……)
 一旦休憩を――そう思って、真央の頭を掴み、引き抜こうとするなり、強烈に吸い上げられる。
「くぁッ……!」
 それはまるで、引き抜かれるのを嫌がる真央の抵抗――に思えた。強烈に吸い付かれたまま、無理に引き抜こうとすれば、その刺激だけで達してしまいそうだった。
「ま、待て……真央……ちょい、一旦離れっ……ぅあッ!!」
 完全に暴発としか言えないタイミングで、月彦は射精してしまう。
「ン゛……んくっ……!」
 引き抜こうとしていた手が、そのまま押さえつける手へと代わり、真央の喉奥目掛けてごぷっ、ごぷと白濁を溢れさせる。
「んくッ……ごきゅっ……ゴク……ン……ッ……!」
 喉の動きが、剛直を通して振動で伝わる。そしてどれほど、愛娘が“飢え”ていたのかも。
「くはぁぁ…………ま、真央……待てって、言ったのに……」
 完全に負け惜しみだった。月彦は唇を噛みながら、ゆっくりと真央の頭を上げさせる。
「……とう、さま……?……きゃあッ!」
 満足げで――そしてどことなく得意げにすら見える真央を、月彦は乱暴に絨毯の上へと押し倒す。
「全く……真央が、あんな舐め方するから……また、欲しくなっちまったじゃないか」
「ぇっ、ほ、欲しい……って……あぁゥ!!!」
 スカートを捲し上げ、ずぬっ……と一気に最奥まで突きこむ。
「やっ……父さま……そんな、いきなりっ……ひぅッ! ……んむっ……んんっ……!!」
 戸惑う真央の唇を奪い、これでもかと嬲りながら、ゆっくりと腰を使う。
「ンッ、ンンンぅぅう!!!」
 途端、真央が尋常でない暴れ方をする――が、勿論全て承知済みでやっている月彦は力づくでねじ伏せにかかる。
(……キスされながらだと……たまらなくなるんだよな? 真央は)
 ちゅっ、ちゅっ、ちぅ――強く、時には弱く、舐める様なキスをしながら、執拗に腰をくねらせ、真央に喉奥で噎ばせる。
(……さっきのお返し――だ)
 より、真央が堪らなくなる様、胸を掴み、むぎゅうとこね回す。
「……ッ……あッ!!!」
 とうとうたまりかねたかの様に、真央が顎を持ち上げ、声を上げる。
「くす……どうした、真央。俺とキスするのがそんなに嫌なのか?」
「い、嫌なんかじゃ……ひァッ! やっ……そんなっ、ぐりゅ、ぐりゅってぇええェ!! ぁっ、む、胸、だめっ……あ、ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!!!」
 びくんっ、びくっ……びくっ……!
 月彦の腕の下で、真央の体が派手に痙攣を繰り返す。同時にやってくるキュウッ、キュッ……と強烈な締め付けに、月彦は歯を食いしばり、堪える。
「……真央、今……イッたな?」
「ッ……い、イッ……て……ない……」
 息も絶え絶えになりながら、ふるふると首を振り、真央は否定をする。
「イッていいのは、中出しした後だけだって、俺は言ったよな?」
「い、イッて、ない……! 私、ちゃんと、父さまに言われた通り――ぃうッ!」
「素直に認めれば許してやろうかと思ったが……そうか、また嘘をつくんだな、真央は」
 耳元で“恐い声”を出し、ついと月彦は上半身を起こす。
「ぇっ……なに? 何、するの……父さま……ぁっ……!」
 無言のまま、真央を抱きかかえ、そのままベッドの端に腰掛ける。
「ぅ、ぁ……お、お腹の奥、に……ズンってぇ……ひゃあッ!!」
 そして、むんずと。真央の尻尾を掴み、こす、こすと付け根を撫でる。
「……本当に残念だな。真央が嘘を突かない、素直な良い娘なら、もうその目隠しも、手枷も外して――真央が一番好きな“アレ”で思う存分イかせてやろうと思ったのに」
「ぇっ……とう、さま……これ、とって、くれる……の? ンゥ……!」
「言っただろ。それは真央が“良い娘”だったらの話だ。……“悪い娘”の真央には、当然お仕置きだ」
 こしゅ、こしゅと尻尾を擦る手を徐々に早く、強くしていく。
「ひぃっ!?……やっ、父さま……尻尾、尻尾、やめっ……だめっ……ぁっ、ぁぁぁああッ!!!」
「……尻尾も、こうして挿れられたまま弄られると、堪らないんだろ? 真央?」
 びくんっ、びく、びくっ!
 月彦の言葉を肯定するように、真央は尻尾を刺激されるたびに体を震わせ、キュウキュウと締め付けてくる。
「やっ、やぁぁぁっ……とう、さまっ……そんなっ、付け根の方、ばっかりぃ……あぁぁあっやっ……また――」
「また――何だ? また約束を破ってイくのか?」
 ぼしょぼしょと囁きながら、より強く尻尾を擦る。たちまち――。
「ぁっ、ぁあっ、やっ、だめっ……だめっ……あっ、あぁぁッーーーーーーーッ!!!!!」
 びびびびびっ……!
 尻尾の毛を逆立てながら、容易く真央はイく。
(全く……いつも“こう”だな……真央は)
 最初はきちんと言いつけを守り、中出しされた時だけイくのに、回を重ねていく毎に――感度が上がるのか、それとも疲労が溜まると我慢が出来なくなるのかは解らないが――言いつけが守れなくなる。
「ひはぁぁぁ……はひぃぃぃ…………ひぁっ……やっ、も……尻尾嫌ぁっ……」
 月彦が再び尻尾を握る手に力を込めるなり、真央が泣きそうな声を上げる。
「……真央は嘘つきだからな。“尻尾はもう嫌”っていうのも、嘘なんだろ?」
 こしゅっ、と。擦りながら。
「やっ、と、父さま……お願い……もう、許してぇ……ぁっぁあっ……い、嫌ぁっ……尻尾、もう、嫌っ……なの……」
「……しょうがない、な」
 “恐い父さま”のフリもここまでだ――月彦は苦笑して、尻尾から手を離し、そのまま真央の手枷をとってやる。
「え……?」
 勿論、目隠しも。
「……悪かったな、真央。……さっき、口で速攻抜かれたのが悔しくて、ちょっと意地悪してみただけだ」
 それももう終わりだ――唇をそっと重ね、真央の目尻に浮かんでいた涙を、そっと指先で拭う。
「うん、目隠しされた真央もエロかったけど、やっぱり素顔の方が可愛いな」
「とうさま……ぁ、あんっ!」
「ほら、真央。折角手を自由にしてやったんだ、好きなだけしがみついていいんだぞ?」
 好きだろ? こうして向かい合ってするの――ぼしょぼしょと囁いてやると、真央は顔を赤くして無言のまましがみついてくる。
「……足は、こうだ。膝立ちじゃなくて……そう、解ってるじゃないか」
 足を胡座をかかせるようにして、背中へと回させ、そして月彦の手は真央の尻を掴み、ゆっくりと持ち上げ、落とす。
「あっ、んっ……あっ、あっ……あぁっ……!」
 そう、最初はゆっくり。そして徐々に……激しく。
「やっ、やぁっ……とう、さまぁっ……こんなっ、あんっ……あっ、またっ……すぐっ……イッちゃう……!」
「ッ……いい、ぞ。真央……今度は好きなだけイッて……んくっ……!」
 真央の髪を撫で、優しく囁いてから――たゆたゆと揺れる果実の先端に吸い付く。
「やっ……父さまっ……引っ張っちゃッ……ぁぅう!!!」
 くにっ、と優しく噛み、舐め、吸い――いい加減真央の吐息が荒くなった所で、再びキス。
「んんぅっ……んふぅ……」
 とろん、と。ただキスをしただけで――真央の全身から力が抜ける。そこを――突き上げる。
「んんぅッ!!」
 勿論、口を離すことは許さない。ポニテの下の辺りにしっかりと手を当て、くちくちと――“今日の分”を取り返すように、濃密にキスを重ねる。
「んっ、んんっ……ぁっ、ぁんっ、んはぁっ……んむっ……」
 ふぅふぅと、キスの合間合間に湿っぽい息を漏らしながら。いつの間にか真央の方から腰をくねらせ始める。
(うん、それでこそ……真央だ)
 関心、納得――互いに腰を逆回転させるようにしながら、徐々に快感を高め合っていく。そして、月彦の手は――尻尾へと。
「あっ、ぁあっ、ああッ!!!」
「ああ、悪い……尻尾は嫌なんだったか?」
「……ううん、今は……いいのぉ……もっと、シて……父さま……」
 淫らな笑顔――とはまさにこの事だろう。キスを、される。尻尾を弄れば、真央もまたもどかしげに月彦の背中をなで回してくる。
(くす……俺にも、尻尾があればな……)
 好きなだけ真央にイジらせてやるのに。
(だから、“これ”で勘弁な、真央?)
 尻尾を弄びながら、ずちゅんっ!――と。
「あヒッ!! あぁぁぁっ、そんな、父さま、ズル、い……急に、はゥッ!!」
「悪い……もう、イきそうなんだ…………そろそろ、出す、ぞ……真央」
 ぱちゅん、ぱちゅんっ、ぱちゅっ……。
 抽送の速度を徐々に早く、そして強く。
「あっ、ぅっ、やっ……だめっ、だめっ……私、も……一緒っ……一緒、にぃっ……あっ、あっ、あっ……あんっ、あっ、あっ、あっ、ぁぁぁっっっ!!!」
 がしっ、と月彦の肩に爪を立て、真央が淫らに腰を振る。
(一緒に、も何も……中出ししたら、それだけでイく癖に……)
 必死に自分に合わせてイこうとする真央に、つい苦笑を漏らしてしまう。つまり、“中出しされてイく”のでは嫌なのだろう。言葉の意味通り、“一緒に”真央はイきたいのだ。
(……そういう事なら、協力してやらないとな)
 今にも射精してしまいそうな、その瞬間――月彦は強く、真央の尻尾を擦る。
「ぁっ、やっ、尻尾……ひぁっ……あっ、あァァッ……………ァァあああッ!!!!!!」
 そして、真央の望み通り――“同時に”月彦も達する。
「くおっ………ッ………また、真央、そんな……」
 ぎち、ぎちと搾り取るような収縮に、怖気すら走る。このまま、真央のナカに飲み込まれてしまうのではないか――そう思わされるほどの、うねり、動き。
「あっ、ぁっ……ぁっ……とう、さまの、すごく………熱、いぃ……あったかぁい………………」
「……どっちだ、真央」
 苦笑して、そっと優しく、真央の髪を撫でてやる。
「お腹の、中は……熱、くてぇ、……溢れちゃったのは……暖かいの……」
「……成る程な」
 また苦笑。真央の顎に指を当て、そっと口づけをする。
「んちゅっ、んっ……んっ……」
 しばし二人、そうして絶頂の余韻を惜しむようにちろちろと舌を絡め合う。
「……父さま、もう……日が落ちちゃったんだね」
「ん? ああ……大分前にな」
 ずっと目隠しをしていた真央には解らなかったのだろうが、既に午後六時を回っていた。
「……義母さま、そろそろ帰ってくるのかな?」
「さぁな。案外、もう帰ってきてるかもな」
 月彦の方も、真央の体に夢中だったのだ。階下から自分たちを呼ぶ声がしても、聞き逃していた可能性は高い。
「あの、ね……父さま……」
「何だ?」
「か、義母さまが……まだ、帰ってこないのなら……その、もうちょっと……父さまのメイドさんで……居たい、な……」
「……真央」
 またそういう目をする――そう、“媚び”の究極とも言えるような、男心をなんとも擽る上目遣い。
「実はな、真央……」
 ああ、俺はまた真央を甘やかしてしまうのか――解っていても、それを止められないなんとも切ない限りだったりする。
「“嫌がるメイドさん”を立ったまま――後ろから犯したいって、前からずっと思ってたんだ」
「えっ……」
 ゾクッ――まるでそんな音が聞こえてきそうな、真央の身震い。
「真央は、立ったまま……後ろからされるの、嫌か?」
「…………う、うん……そんな、立ったままでなんて……絶対、嫌だよぉ……」
 そして、ちらりと。まるで“私の嘘を見破って”とばかりに、意味深な目を向けてくる。
「そう、か……真央は嫌、か。……じゃあ、“命令”するしかないな」
「……ぁっ…………」
「立て、真央。そして机に手をついて……尻をこっちに向けるんだ」


 夜も更けた頃、保科菖蒲は一人、屋敷の庭で佇んでいた。
 既に、今日の分の仕事は片づけてしまっている。そもそも、白耀の屋敷には大量の木偶が――主に仮初めの命を吹き込まれた小間使い達が――休まず働いているから、菖蒲がやらねばならない事は実は驚くほど少ない。
 だから、こうして夜も更け、主が床に入ってしまった後は本当に手持ちぶさたになってしまうのだ。せめて、気さくで人見知りをしない主の様に、“店の人間達”とも仲良くできれば、こういう事にもならないのであろうが、菖蒲は人間が苦手だった。
「……っ…………」
 何か、やらなければならない事があるうちは、良い。しかし、こうして手持ちぶさたになってしまうと――爪が。
(お許しさえあれば、今……すぐにでも……)
 憎たらしい小娘と、その母親の体を百と八つに分けてみせるのに。しかし、それは主に堅く禁じられた。あの日、“事”が起きてから三日後に目を覚ました白耀に“真相”を聞かされると同時に、一切の手出しは無用だと厳命された。
(いくら、母君と妹君とはいえ……っ……あんなっ……!)
 主の言葉であるから信じはしたが、そうでなければ到底聞き入れられるものではなかった。あれが、実の母のやることだとは、菖蒲の常識では到底思えないのだ。
(……例え本当にそうだとしても……白耀様は……優しすぎる)
 三本狐ともなれば、妖狐の中でも中堅の実力者だ。しかし、長年仕えてきた菖蒲には、自分の主には妖狐として決定的に欠けているものがあることも知っていた。
 そう、主の唯一にして無二の欠点――それは“妖狐らしくない”という事だ。奸計を張り巡らし、他者を陥れ、悦に入る――白耀にはそういった部分が皆無なのだ。
(……でも、そんな白耀様だから…………今まで、仕えて来られた……)
 もし、白耀が他の妖狐同様――奸智に長け、配下に対して不遜な態度をとり続ける男であったなら、きっとここまで心服は――心を奪われはしなかっただろう。
(……ッ……あの娘さえ、現れなければ……ッ……)
 あの娘――真央が現れるまでは、そして白耀の持病が悪化するまでは。触れることさえできないものの、側に居ることが出来た。きちんと互いを見て、話をすることも出来た。
 それが、今では。肌に触れるどころか目を合わせる事すらも叶わない。それどころか、うっかり白耀の視界に入ってしまおうものなら、途端に病状が悪化、昏倒することも珍しく無い。
 至極、他者の視界に入らぬ様――足を運ぶ癖がついた。元々、抜き足差し足忍び足の類は妖猫にとってお家芸とも言える特技。皮肉なことに、あれほど嫌悪した妖猫の習性が、今は役に立っていた。
(……引き裂いて、やりたい……っ……)
 ギリ、ギリと。両爪から軋むような音が響く。本来ならば、最も憎むべきは――白耀曰く、全ての黒幕である――母親の妖狐の方。しかし、菖蒲が最も引き裂きたいと望むのは、その娘、妹の方だ。
(……白耀様は、騙されている……)
 妖狐にしては異例なほど人の良い主は、自分の妹も被害者であると、そう思いこんでいる様だった。――しかし、菖蒲にはとてもそうは思えなかった。
(……あの娘は、白耀様とは違う)
 聞けば、人間との混血らしいが、その本性は――まさしく妖狐。人なつっこい笑顔の裏に汚い打算が見え隠れしているのに何故誰も気がつかないのか。
 そう、あの娘は被害者などではない。間違いなく、母狐と共謀して白耀を陥れたのだ。それによってあの母娘がどんな得をするかなどは問題ではない。ただ、人を陥れる為に、それだけの為に奸計を巡らす――それが妖狐という種族だからだ。
(……矢張り、殺すべき――か)
 例え、白耀の命に背く事になったとしても。主にとって害にしかならないのならば、いっそ――。
「……っ……?!」
 不意に、ぴくりと。その鋭敏な聴覚が何かを捉えた。菖蒲は思考を中断し、さらに両耳に神経を集中する。
 あやめ――微かだが、確かにそう聞こえる。菖蒲は咄嗟に主の寝室の方へと駆けた。
「菖蒲、居ないのか? それとも――」
「……ここに居ります、白耀様」
 音もなく、菖蒲は寝室の障子戸の前に降り立ち、膝を突く。
「何か、御用でしょうか」
 まるで、用が無いのならば呼ぶなと。暗に言っているような自分に嫌気が差してしまう。
(本当は、嬉しいのに……)
 例えどんな些細な用事でも――否、用事など無くとも、ただ名前を呼んでもらえるだけで、嬉しい筈なのに。
「……すまない。こんな夜更けに呼びつけてしまって……君ももう寝る所だったんじゃないのか?」
「いえ、寝付かれないので庭を散歩していた所です」
「この冬の最中に……か。君も物好きだな、菖蒲」
 冗談、とでも受け取られたのだろうか。障子戸の向こうから微かに微笑む声が聞こえた。――それも、ぴたりと止む。
「菖蒲……僕は、やっと決心がついた」
「白耀様?」
「……まずは……謝らせて欲しい。……今まで、君には本当にすまない事をしてきた」
 菖蒲には、主が一体何を言い出したのかが理解できなかった。昼間のことを咎められ、自分が叱られるのならば兎も角、逆に謝罪を受ける理由が見あたらないからだ。
「真央さん達との事があった後、君が戻ってきてくれた時は本当に嬉しかった。……それなのに、ろくに礼らしい礼も言わなかった。……許して欲しい」
「それは……」
 元々、勝手な都合で出て行ったのは自分の方だ。にもかかわらず、何の咎めも成しに再び受け入れてくれた白耀にこそ、菖蒲が礼を言わねばならない立場だというのに。
「……実は今日、紺崎氏に説教された。…………君が、可哀相だと」
 紺崎氏――とは、あの憎たらしい小娘の父親の事だ。高々百年も生きていない若造の癖に、齢二百を越える妖狐に説教をするとは、人間とはなんと厚顔不遜なのだろう。
「……菖蒲、僕は……変わろうと思う」
「変わる……?」
「ああ、時間はかかるかもしれない。……でも、変わってみせる」
 それは、“事件”の後の――あの弱々しい姿からは想像出来ないほどに、強い決意を孕んでいるように思えた。
「はっ、白耀様っ……!?」
 突然、障子戸がゆっくりとスライドし始め、菖蒲は慌てて己の姿が隠れる様、後ろに飛びずさる。
「逃げなくてもいい、菖蒲」
「しかし、白耀様は……」
「僕は、変わる……そう言った筈だ」
 そして、その僅かに開いた隙間から、女人の手かと見紛うような白い手がゆっくりと現れる。
「菖蒲、握って……くれないか」
「……っ……そんな、事をしたら……白耀様が……!」
「大丈夫だ、菖蒲。……僕を信じて」
「はくよう、さま……」
 主人にそこまで言われては、従者としては従わざるを得ない。菖蒲は恐る恐る手を伸ばし、白耀の手に触れる。
「……っ……」
 微かに指先が触れた途端、電流でも走ったかのように白耀が僅かに腕を引く。
「大丈夫、大丈夫だから……菖蒲、握って」
 再び、元の位置まで戻されたその手を、菖蒲はそっと握る。
「……は、白耀さま……大丈夫……ですか?」
「……ああ、大丈夫、だ……」
 大丈夫、とは言っているものの、握っている手ごしに白耀の体がどれほどの緊張状態にあるのか、痛いほどに伝わってくる。
(ダメ……このまま握っていたら、白耀様が……)
 菖蒲はそっと、手から力を抜く――が、それを察したかのように。
「ダメだ、菖蒲。……離さないでくれ」
「でもっ――!」
「言っただろう、僕は……変わる。……女性だから、ダメなんじゃない……菖蒲だから、大丈夫――そう、思う事にしたんだ」
「白耀、さま…………」
 菖蒲は瞳を潤ませながら、自分の右手の先を見る。確かに、確かに自分は白耀の体に触れている。それを何度も、確かめる様に。
「っ……すまない、菖蒲。……今はまだ、これが……精一杯だ……でも――」
 でも、いつか――そう掠れた声を残して、主の手は力無く垂れた。
「白耀さま!?」
 反射的に、菖蒲は障子戸を開けた。そこには、襦袢の色が変わるほどに脂汗を滲ませた主が――。
「大丈夫だと、そう言っただろ? 菖蒲……少し、疲れた、だけだ」
 きちんと、菖蒲のほうを見据えて――そしてあの、優しい笑みを。
「っ……菖蒲……すまないが、着替えを、持ってきてもらえるかな……このまま寝たら、風邪を引いてしまう」
「…………はい、すぐに……お持ち致します」
 滲んだ涙を見られぬ様、菖蒲はいつになく深々と辞儀をして、消える様に部屋を後にする。
 そして、その日を境に、紺崎邸の窓に付けられた“不可解な傷”が増える事も無くなったのだった。

 


 



「あー……空が青いなぁ、ホント」
 休み明けの月曜日。月彦は窓際の自分の席でのほほんと、ひなたぼっこに勤しんでいた。
 昼食も食べ終わり、後は残された時間を寝て過ごそうかどうしようかという段階。
(昨日は疲れたなぁ……ほんと、昼からずっとぶっ通し、か……)
 結局、“メイドさんと御主人さまごっこ”は葛葉が帰宅しても終わらず、そのまま夜中まで続いたのだ。メイド服を脱がしてしまってはメイドさんではない!の信念の元、極力脱がさずにプレイし続けた結果、借り物の衣装は酷く無惨な事になってしまった。
(……白耀には、無くしたって言うしかないなぁ……ありゃあ……)
 少なくとも、洗って返すよりは失礼が無い筈だと、月彦は思う。それほどに無惨な有様なのだ。
(……まあ、でも……たまにはあんな休日があってもいいよな……そう、たまには…………)
 うつらうつらと。冬場の日向特有の眠気に月彦が苛まれた、その時だった。
「よぉッ! 月彦!」
 ばむっ、と。入れ歯をしていたらマッハで飛びそうな勢いで思い切り背中を叩かれた。叩いたのは勿論――クラス一の力自慢だ。
「ってぇな……なんだよ、カズ」
 ひりついている背中には、ほぼ間違いなくモミジが残っているだろう。しかし、この男に力加減をしろと言う方が無理な相談なので、月彦は最早何も言わない。
「何処行ってたんだよ、千夏も消えてるから、昼飯一人で食ったんだぞ?」
「悪い悪い。詫びといっちゃなんだが、これをやろう」
「……なんだこりゃ」
「見てわかんねーのか? 茶っ葉だよ」
「いや、それは解るんだが……」
 月彦は掌よりやや大きいくらいのサイズの袋を見ながら、さらに首を捻る。
「どうして俺がお前に茶っ葉を貰わにゃならんのだ?」
「なに、昨日ちょっと街に繰り出してな。その土産だ」
「……その割には無茶苦茶古そうなんだが」
 叩けば埃が舞いそう、とはまさにこの事だろう。どう見ても長いこと家に眠っていたお歳暮かなにかを引っ張り出してきたとしか思えなかった。
「まっ、堅いこと言うない。“何処か遠出をしたら、土産を買ってくる”ってのはトモダチとして常識だろ?」
 ぎくり。
 親友の何気ない一言に心臓が跳ねそうになるも、数々の修羅場をくぐり抜けてきた男はそのくらいの事ではポーカーフェイスは崩さない。
「まあ、そうだな。人付き合いの基本だな」
「そうだよな、勿論お前も解ってるよな」
 いやに強く肩を叩きながら、ガハハと高笑いを残して和樹は教室を後にする。ホッと息をついたのもつかの間。
「おーーっす、ヒコー!」
 ばっしーん!
 どうやら助走をつけてきたらしい千夏の平手打ちが背中に命中する。
「ッ痛ぇな! 何すんだよ!」
「悪いなー、ヒコ。お詫びにコレやるわ」
「……なんだこりゃ」
 千夏が取り出したのは、これまた掌ほどの包みに入ったカステラだった。
「この間お姉ぇが遊びに来てな、その時の土産の残りや」
「土産……」
 また、ギクリと。
「せや。土産はきちんと渡さんとなぁ……人として当然の事やろ?」
 千夏はぴょんと机の上に腰掛け、にっこりと微笑む。
 その笑顔が恐い――の代表の様な笑顔に、月彦はうぐ、と椅子をやや後ろに引く。
「ま……まぁな……所で千夏?」
「何や?」
「……最近、妙子とは会ったか?」
「んーん、会ってへんよ?」
「ふむ……」
 なら、単なる偶然か――と月彦が思ったその矢先。眼下のグラウンドを見ていた千夏が突然両手を大きく振り出した。
「あっ、権蔵先生や! おーーーーい、権蔵センセ……ムガッ!!」
「ちょっ、待てぇええええ!!!」
 月彦は慌てて千夏を羽交い締めにして口を塞ぎ、そしてそっとグラウンドを覗き見る。――千夏が手を振った先には、頭から大きな“?”を出した雪乃が首を傾げていた。
「おいっ、ちょっと来い!」
 千夏の腕を掴み、そのまま人気のない――屋上へと通じる階段の踊り場へと引っ張ってくる。
「……やっぱり妙子に会っただろ!!」
「会ってへんって言うとるやろ?」
 心外な、という顔。
「…………ま、電話では話したけどな」
「やっぱりか!…………何を聞いた、何を話した、全部言え!」
「えーっ……そやかて、妙ちゃんにヒコには絶対言うなー言われてるしなぁ」
 くつくつと、千夏はまるでどこかの性悪狐のように笑う。
「……全く、ヒコも隅に置けんなぁ。ウチらに黙ってこそこそ妙ちゃんちに通うとるらしいやん?」
「通ってねぇ! 全ッ然通ってねえ! 誰がそんな大ボラ吹いてんだ!」
 誰が、と言うまでもない。千夏が知っているという事は、吹いている人物は一人しか考えられないからだ。
「土曜の夜、いきなり妙ちゃんから電話かかってきてなぁ。なんや声が震えとるから、何事かー思たら……クックック……見直したでぇ、ヒコ?」
「……土曜の夜……あの後すぐか!」
 強烈なビンタの感触が鮮明に蘇ってきて、月彦は思わず掌を宛ってしまう。
「安心しぃ。巧いこと話合わせといたったから、ヒコの“嘘”は妙ちゃんにはバレてへんと思うで?」
「………………いや、嘘っていうか……アレは……まあ、嘘っていや嘘か……うん」
 恐らく、嘘とは雛森雪乃=雪野権蔵説の事を言っているのだろう。
 確かに脳味噌まで筋肉の和樹に比べ、千夏ならば――妙子に何を言われ、聞かれたのかは解らないが――その意図する所を瞬時に理解し、巧く話を合わせる事も出来るだろう。そういう小賢しさにかけては、四人の中では一番なのだ。
「だけど、勘違いするなよ? ちょーっと説明が面倒くさくなりそうだったから、適当に誤魔化しただけだからな?」
「……そういえば、前にヒコが入院した時も、あの先生は見舞いに来とったなぁ」
 ギクリ。
 ここでそれを思い出すか――やはり、この幼なじみは油断ならない。
「なぁ、ヒコ。悪いことは言わんから、ウチにだけは本当のコトを言っといたほうがええと思うで? ウチとしてもその方が口裏も合わせ易いやん?」
 悪魔の囁き――とはこの事だ。にこにこと、さも親身になっているかのように装っているが、喋ったら最後。妙子はおろか和樹にまで簡単に漏れ伝わってしまうだろう。そう、妙子から千夏へと漏れた“土産の件”がいとも容易く和樹にまで伝わってしまったように。
(……っ……た、妙子のやつ……よりにもよってな相手にバラしやがって……! そんなに俺が憎いのか……!)
 土産の件は秘密だと、そう念を押した筈なのに。そして“ゆきの”先生の事も、気に掛けたら負けみたいな事を言っておきながらこの始末だ。
 恐らく、余程あの“土産”が気に入らなかったのだろう。だから、全てを千夏にバラしたに違いない。
 そして、千夏と和樹のこの行動――間違いなく、二人とも自分たちが土産を貰えなかった事を根に持っている筈だ。
「ヒ〜コ〜? 沈黙しとっても有利にはならんでぇ?」
 そう、確かに千夏の言う通り、沈黙していても決して有利にはならない。
 ならば――話を逸らすしかない。
「……ぐっ……わ、悪かった……千夏……あの時は、丁度持ち合わせが無かったんだ。誰か、一人分土産を買う金しか……お前と和樹の片方にだけ買ったら、角がたっちまうだろ? だから、仕方なく妙子の分だけ買ったんだ」
「ふんふん、成る程なー、そんなに妙ちゃんに本当のコトを言うて欲しいんやな? だったら今すぐ――」
「ま、待てぇええ!!」
 しかし、小悪魔のような幼なじみには通用しない。月彦は慌てて千夏の携帯を取り上げ、そしてやむなく――最後の手段をとることにした。
「な、なぁ……千夏……………きょ……今日の帰りにでも……どっか飯でも食いに行かないか? 勿論、俺の奢りだ」
「……カズも誘ってか?」
 こくこく、と月彦は頷く。
 しばしの沈黙。千夏の頭の中から、そろばんの音が聞こえてきそうな――そんな重苦しい沈黙だった。
「……………………まぁ、ええわ。今回の所は、それで勘弁しといたる」
 ひったくるようにして携帯を奪い返し、スカートのポケットに仕舞うと、千夏は一足先にすたすたと階段を下りていく。
(先生との事は追求しない――か。さすがは千夏、取引ってモンをちゃんと解ってるな……)
 一食分の食費で、このピンチを切り抜けられるのなら安いものだ。
(……まあ、しばらくの間はこのネタで揺すられるかもしれないが…………)
 折を見て雪乃に事情を話し、“知り合い”になってしまった経緯を捏造するしかない。それまでの辛抱だ。
「……せや、ヒコ。これだけは言うとくけどな?」
「なっ、何だよ!」
 去ったと思った千夏がにょきりと手すり越しに生えてきて、危うく尻餅を突きそうになる。
「ウチらにはいくら嘘ついてもええけど、妙ちゃん裏切ったら承知せぇへんで?」
 話はそれだけや。――そう言い残して、再び千夏の体は消える。その後を追うように、昼休みの終了を告げる予鈴の鐘が鳴り響いた。
(……悪いな、千夏……もう、手遅れなんだ…………)
 あのチビで胸の無い親友には、最早何をもって“裏切り”と呼べばいいのかすらも解らない、そんなドロドロの泥沼に足を踏み入れてしまっている事など解らないのだろう。
(時間が巻き戻せりゃ、な……)
 しかし、例えそれが可能になったとして――自分は一体どこまで遡りたいのか。その際に失うであろうものの大きさを鑑みて、月彦はその先を考えるのを止めた。

 


 
 


 
 


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