「真央さんを僕に下さい」
 眼前の男が口にしたその一言は、鋭い衝撃となって月彦の額を貫いた。
「…………え?」
 殆ど反射で、そんな間抜けな返事。月彦は咄嗟に隣に座る真央の顔を見た。真央もまた同様に、戸惑うように月彦の方を見ていた。
 改めて、月彦は眼前の男を見た。柳茶色の髪は女性のそれのように細く、しなやかであり、青磁のような瞳は揺るぎない意志の光に満ちている。
 そのことからも、男が決して伊達や酔狂で言っているのではないという事は解る。そう、極めて真剣なのだ。それは、月彦にはよく分かる。
「貴方が真央さんの父親であると、先ほど伺った筈ですが……」
 月彦からの返答が無いからか、男が確認するように尋ねてくる。
「それは……確かに、そうなんだが――ええと……」
 当の月彦はといえば、困惑の一言に尽きた。通常の発汗とも冷や汗とも違う類の汗をしとどにかきながら、今度は男が座るソファーの背後に立つ従者へと視線を向ける。
「…………」
 和装の男とは正反対と言ってもよいその姿。漆黒のスカートの上から純白のエプロンドレス、カチューシャを身につけたそれはどう見てもメイド服にしか見えない。茶色がかった黒髪は背後で一本のおさげに纏められ、瞼を閉じたまま微動だにしないその姿はまるで置物かなにかの様だった。
 年の頃は人で言う二十台の半ば――丁度男と同じくらいに見えるだろうか。しかし、妖狐とその従者の年齢が外見通りにはいかないことは月彦もよく知っていた。
「……わかりました」
 そんな月彦の態度に全てを察したのか、男は静かに呟く。その声は憎らしい程に凛としており、深い英知と落胆を如実に含んでいた。
「確かに、突然の訪問者からこのような申し出を受け、即答は出来かねるでしょう。後日、改めて伺う事にします。お義父様、お返事はその時にでも」
 男はすっくと立ち上がり、紺崎邸の居間より出て行く。その戸を開けた従者もまた、一礼を残して主の後に続く。
 月彦も、そして真央もその一部始終をただ見送るしかなかった。突然の訪問、突然の申し出、全てが現実離れし過ぎていて、まるである種の劇でも見せられているような気分だった。
「おっ……」
 渇いた舌の根が、漸く動く。
「お前は一体誰だああああああああああああッ!!!!」
 月彦が叫び声を上げた時には、男と従者が紺崎邸を去ってからたっぷり五分は経過していた。
 


 

『キツネツキ』

第二十話

 

 


 
 

「真央、あれは誰だ! いつ知り合った!」
 自室に戻るや、月彦は当然のように真央を詰問した。
「し、知らない……父さまの知り合いじゃないの?」
 しかし真央もまた動揺しているのか、狼狽えながらそんな返答。
「俺の知り合いの筈がないだろ。……あいつは……真央と同じ妖狐なんだから」
 そう、男と従者が紺崎邸にやってきたのはほんの三十分前。
 平日の夜、夕食が終わりそろそろ風呂でも――といった時間をまるで狙ったかのように、インターホンが鳴った。
 玄関を開け、そこに立っていたのは紋付き羽織を着た長身の男。
 年の頃は自分と同じかやや上に見えた。茶髪というよりは灰色に近い髪の色に加え、肌の色も病人の様に白い。女かと見紛うような細面だが、次の瞬間発された声で、眼前に居るのが紛れもない男だとわかった。
『初めまして、僕は“こういう者”です』
 そう言って、男の輪郭が赤い光りを放つ。その姿が俄に揺らぎ、次に焦点が合った時には、あっ……という声が月彦の口から漏れていた。
 見覚えのある形の獣耳と、男の背後で揺らいでいる三本の尾。それが、男の出自を十分に物語っていた。
 その後はなし崩しに居間へと上がられ、真央を呼ばされ、そして突然の求婚。事態の理解に月彦の頭が追いつくよりも先に男とその従者は帰ってしまった。
「ったく、平日の夜にいきなりやってきて“真央さんを下さい”だと!」
 非常識にも程がある、と月彦は今頃になって怒りを露わにする。
「それとも何か、妖狐ってのは、いつもあんな風にいきなりプロポーズするのが当たり前なのか!?」
「そんなの、知らないよ……私だって、あんな事言われたの、初めて……だし…………」
 真央はふるふると首を振りながら、まるで悪事を咎められた子供のように呟く。その態度が、“まんざら嫌でもない”という風に見えて、月彦はぴくりと眉を寄せてしまう。
「で、でも……凄く、かっこいい人……だったね」
「……真央、ずいぶん嬉しそうだな」
「え……」
「確かに、美形だったな。ちょっと線が細すぎる気もするが、そうか……真央はああいう顔が好みか」
 男のイケメン面を思い出し、月彦は吐き気にも似た感情を覚える。声さえ出さなければ“美女”としても十分通用しそうな造型は、到底太刀打ちが出来る類のものではなかった。
 無論、男の魅力は顔で全てが決まるわけではない。わけではないが、しかし――それでも月彦は男の顔を思い出すたびに歯ぎしりをせずにはいられない。
「水くさいな、真央は。彼氏が出来たなら出来た、ってちゃんと言ってくれれば、俺だって驚かされなくても良かったのに」
 嫉妬とも羨望ともいえる感情が、月彦にそんな言葉を吐かせる。
「そんな……酷い。……父さま、私は――」
 真央が泣きそうな声を上げ、じわりと目尻に涙を浮かべた時だった。まるで、その種の話題に引き寄せられたかのように、
「何、何、なんの話? あたしも混ぜなさいよ」
 突然がらりと机の側の小窓を開けて、好奇心に目を輝かせた女がにょきりと現れた。
「……母さまっ!」
「真狐……!」
 久しぶりに見るその顔は相変わらず意地悪げで、些かも変わっていない。桃色の着物から今にもこぼれ落ちそうな見事な巨乳も相変わらずであり、たゆんっ、と揺れるたびに月彦の目はそこに釘付けになってしまう。
「お前には関係ない話だ」
 なんとかその乳揺れから目を逸らしながら、ぶっきらぼうに呟く。
「つれないわねー、良いじゃない。教えなさいよ」
 くるんっ、と身を翻して真狐が部屋の中に降り立つ。自分が入ってきた窓をきっちり閉めた所をみると、単純に外が寒かったから寄り道しただけらしい。
(……だとしても、絶妙なタイミングで顔出しやがるな……)
 ひょっとして先ほどの訪問自体、真狐の仕込みではないかと訝しみながら、月彦はあくまで非協力的な体勢を崩さない。
「あのね、母さま……」
「真央!」
 真狐にそっと忍びより、耳打ちしようとする真央を月彦は言葉で制すが、しかし真央は一旦躊躇しただけで結局真狐の狐耳の中にぼしょぼしょと事情を説明し始める。
「ふんふん、へぇー……なーる程ぉ……それで月彦の機嫌が悪いわけ」
 ニヤリ、としたり顔。月彦はぎりりと奥歯を鳴らす。
「それで、なんて返事したの?」
「するわけねぇだろ! いきなりやってきて、そんな無茶な要求してくる奴なんて言語道断だ!」
「どうしてよぉ、面白そうじゃない。付き合ってみたら?」
 なんともあっけらかんとした真狐の良い様。
「いきなり婚約は無いにしても、まずはお友達から〜とかさ。人間社会じゃよくある事じゃない」
「冗談じゃない! あんなワケわかんない奴との交際なんて認められるか!」
「問題なのはあんたの意見じゃなくて、真央がどう思うか、でしょ?」
 そして、二人分の視線が真央へと集まる。
「え……」
「真央はどうしたいの?」
「聞かれるまでもないよな、真央?」
「えっ、えっ……あの……母さま、私は――」
 狼狽しきっている真央を、真狐はちょいちょいと手招きして抱き寄せる。そしてその狐耳の中に唇を忍ばせ、なにやらぼしょぼしょと囁く。
「ぁっ……」
 そんな甘い声と共に、真央はちらりと月彦の方を見る。そして――
「……少し、考えてみよう……かな」
「なっっ……馬鹿っ、真央!」
 にやりと。真央を抱きすくめたまま真狐が笑う。
「さっすが、あたしの娘だわぁ。月彦、あんたも父親として、真央の交際を認めてやったら?」
「そんなコトできるか! 真央、真狐に何を言われたかしらないが、はっきり言っておく。お前は騙されてるんだ。解るだろ? 今までずっとそうだったじゃないか、悪いことは言わないから、ここは俺の言うとおり、きっぱり断るんだ」
 月彦は必死に説得を試みる――が、しかし真央は依然母親の手から離れようとしない。それどころか、またしてもぼしょぼしょと囁く真狐の言葉にうんうんと頷きすら返しているくらいだ。
「で、でも……父さま……相手の人のコトをよく知らないのに、いきなり頭ごなしに断っちゃったりするのも悪いし……」
「何を言ってるんだ! それでもし極悪人だったらどうするんだ! 取り返しのつかないコトになっちまったら――」
「じゃあ聞くけど、月彦。あんたはどういう男なら、真央の彼氏に相応しいって思うの?」
 にたにたと、まるで他人事の様に――というより、真央と月彦を完全に生きた玩具扱いしきっている目で――真狐は呟き、これ見よがしにベッドに座って脚を組む。
「どういう男とか……そういう次元じゃない。そもそも、真央にはまだ彼氏だのなんだのは早すぎる!」
「あーあー、自分はちゃっかり真央にやることやっちゃってるクセに。男女交際はまだ早いとか、どの口で言ってるのかしら」
「そ、それとこれとは話が別だ!」
 なんとか抗弁するも、その言葉には力がない。なにより月彦自身、己の言い分にはあまりに説得力が無いと痛感していた。
「そもそも、“父親”と“娘”の間に“関係”があるコトの方が異常なんだから。いいじゃない、この際だからこれをきっかけに“普通の父と娘”に戻ったら?」
「なっ……!」
 一番痛い所を突かれて、月彦は胸を押さえてぐうと唸る。そのまま膝をついてしまったのは、真狐の言葉がそれほど正鵠を射ていたからだ。
(ま、真狐のくせに……なんて正論を……)
 お前にそれを言う資格があるのか!――そう抗弁したかった。だが鋭い胸の痛みは月彦から言葉を奪い、意味不明な呻きに変えてしまう。
「ま、真央……」
 月彦は胸を押さえ、息も絶え絶えに愛娘に助けを求める。しかし、愛娘は月彦の思惑とは裏腹に、ぴたりと母狐に寄り添い、月彦を一瞥して一言。
「……ごめんね、父さま」
 瞬間、月彦の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。



 “その日”から三日間、月彦にしてみれば、まるで悪い夢でも見ているかの様だった。“男”の訪問以来、そうとしか思えない程に真央の態度が急変したのだ。その第一歩として、寝床を葛葉と共にすると言い出したのだ。それは暗に、月彦とはもう寝ない――抱かれたくない――と言われているのに他ならない。
(……どういう事だ、真央――)
 過去にも、似たような事はあった。しかしそれは、発情期に入った真央が意図的に月彦を遠ざけようとしたものだった。しかし、今度は――。
「……んぱい、先輩!」
 がくがくと揺さぶられて、月彦はハッと我に返る。眼前やや下に、戸惑った由梨子の顔があった。
「大丈夫ですか? さっきからずっと上の空ですけど……」
「あ、あぁ……大丈夫、何でもないよ」
 微笑を浮かべて返事をするも、依然思考は囚われたままだ。
 学校での昼休み。偶然と呼ぶにはあまりに作為的な出会いからの、秘密の逢瀬。人気のない校舎の片隅で、由梨子と二人きりでひっそりと和む――その筈だったのだが。
「ちょっと最近寝不足寝でさ……それで由梨ちゃん、話ってなに?」
「はい……そのことなんですけど――」
 由梨子は微かに目を伏せ、そして訥々と語り始める。しかしその声も、次第に月彦の耳には届かなくなっていく。
「…………実は――の後、――が破れてて――」
 月彦は思い出す。三日前の、真央と真狐のやり取りを。自分がどれほど声を荒げても、真央は聞こうとはせず、真狐の言葉を従順に受け入れていた。
 それが、月彦には解せない。自分の言葉と、真狐の言葉。その二つを天秤に掛けて、どちらを信じるべきか――真央はそこで母親を選んだのだ。
(アイツの言うことなんてデタラメに決まってるじゃないか!)
 真央とてそれは身に染みている筈だ。なのに、何故。
「――から、――が来ないんです。だから――」
 真狐の言葉を全面的に受け入れ、そして自分から距離を置き始めた真央の行動が、月彦は信じられない。
(まさか、本当に一目惚れでもしたのか――あの男に)
 確かに、美形だった。単純に外見的な魅力という点で判断するならば、己など足下にも及ばないだろう。――だからこそ、月彦は不安で堪らない。
 少し距離を置いてみたい――葛葉の所で寝ると言い出した真央は、その様に言い訳をした。それならば、良い。ただ距離を置くだけならば。
 月彦が本当に懸念しているのは、さらにその先。真央が、自分の手元から――
「……あの、先輩……ちゃんと聞いてくれてますか?」
 不意に耳から入った、そんな声に月彦は再度我に返る。眼下には、久しく見ない程真剣な顔の由梨子。その鋭い眼差しに、月彦は俄に肝を冷やしてしまう。
「あ、うん……勿論、聞いてるよ」
 ただならぬ由梨子の剣幕に、咄嗟に、そう返してしまうも、しかし両の掌は冷や汗に濡れていた。
「本当ですか? ……じゃあ、先輩は……どう思います?」
「え……」
 どきんと、心臓が跳ねる。
(やば……今更、聞いてなかったなんて――)
 余程重要な話をしていたのだろう。由梨子の真摯な眼差しに見据えられ、月彦は沈黙のままごくりと生唾を飲む。
(由梨ちゃんが、こんなに真剣に相談してるのに、俺は――)
 いくら真央の事が気がかりだったとはいえ、ありえない失態だと、己で己を殴りつけたかった。しかし今はそれよりも、由梨子の“相談の内容”を探る方が先決だった。
(まてよ、確か前に――)
 由梨子から相談じみたことを持ちかけられたのを、月彦は思いだした。
(そうだ、由梨ちゃんがこんなに真剣に相談する事なんて、そのことしか――!)
 月彦は意を決し、ままよ――と口を開く。
「そ、そうだな――やっぱり俺は、一度きちんと弟さんと話し合った方がいいと思うよ」
 ハラハラしながら、微笑混じりに答えた刹那、月彦は三度肝を冷やした。
「……………………そう、ですか。解りました、そうしてみます」
 まるで、信じられないモノでも見るような由梨子の目――そして今にも泣き声に変わりそうな程にか細い声。くるりと踵を返し、歩み去るその背に、月彦は己が取り返しのつかない間違いをしてしまった事に漸く気がついた。
「あ、あの……由梨ちゃん、待――」
「先輩、」
 月彦が呼び止めようとした瞬間、由梨子の方がはたりと足を止め、三分の一ほど振り返る。――昼休みの終了を告げる予鈴が鳴りだしたのは、その時だった。
「……大丈夫です。もし……してても、ちゃんと自分で……しますから」
 運の悪いことに、月彦が立っていたのは校内放送用のスピーカーの真下だった。予鈴の音が由梨子の言葉に重なり、いくつかの言葉を消し去ってしまう。
「えっ……ちょっ、由梨ちゃん!」
 そして同様に、月彦の声すらもかき消し――或いは聞こえているのに、聞こえていないフリをしているのか――走り去る由梨子の足取りには僅かな迷いすら感じられなかった。
「くそっ、……っ……!」
 後悔がやり場の無い怒りを生み、月彦は拳を力任せに校舎の壁に叩きつける。勿論、そうして殴られねばならないのが他ならぬ自分自身なのだという事も、月彦には解っていた。



 放課後、月彦は一人教室に残っていた。理由は、昇降口や校門で万が一にでも由梨子や真央と顔を合わせたくないという、酷く子供じみたものだった。
(俺は……どうすりゃいいんだ……)
 真央は、段階をおいて確実に自分の手元から離れていこうとしている。少なくとも月彦にはそう思えてならない。それが、文字通り我が身を切り取られるが如く苦しくて堪らない。
 同様に、昼の一件で由梨子との間にも致命的な亀裂が入ってしまった事を月彦は痛感していた。痛感せざるを得ない程に、あの時の――由梨子の目が、月彦には衝撃的だった。
(……由梨ちゃん、何を言おうとしてたんだろう)
 真央の事と同様に、そのことも気にはかかるが、月彦には確かめる術がない。由梨子に会わせる顔が無いからだ。
「はぁ……」
 口を出るのはため息ばかり。このまま椅子に座したまま朽ちてしまうのが一番楽なのではないかと思える程、胸が苦しくてたまらなかった。
「……もう、日が落ちる――か」
 冬の日没は早い。既に教室内には己一人だが、空は橙を通り越して青紫に変わろうとしている。完全に日が落ちてしまっては寒さが厳しくなる。帰るならそろそろか――と月彦が重い腰を上げようとしたその時だった。
 がらりと、教室の戸が開いた。
「あっ」
 まるで目当ての昆虫を見つけた、子供のように嬉々とした声。
「まだ靴があったから、もしかしたら〜って思って。何してたの?」
 タイトスカートが弾けんばかりにお尻をぷりぷり振って、雪乃が近づいてくる。
「いえ、別に」
 月彦は持てる力の全てを使って愛想笑いを浮かべる。
「ひょっとして、私を待っててくれたとか? それはちょっと思い上がりすぎかな?」
「いえ……本当にただぼーっとしてただけで……そろそろ帰ろうかな、って思ってた所なんです」
「んもう、紺崎君ったら無駄に正直なんだから。こういう時は例え嘘でも、“先生を待ってました”って言うべきよ?」
 雪乃は月彦の後ろの席の机にもたれ掛かりながら、そんな事を言う。
「はぁ……すみません」
 抗弁する力もなく、月彦は力無く謝罪する。そこで漸く、雪乃にも月彦の様子が変であると解ったらしかった。
「どうしたの? 紺崎君。具合でも悪いの?」
「……まあ、悪いと言えば……悪いような、そうでもないような」
「大丈夫? 帰り、送ってあげようか?」
「あぁ、大丈夫です。自力で家に帰るくらいなら、何の問題もないです」
「遠慮しないで。この前は授業中で無理だったけど、今日は大丈夫。私も今から帰る所だから」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
「遠慮しないでって言ってるでしょ。それとも何? 私の車に乗りたくない理由でもあるの?」
 ジトリと睨め付けられて、月彦は苦笑を返す。
(先生の車に乗りたくないんじゃなくて、先生に借りを作りたくないだけなんだけど……)
 そうでなければ、またいつ厄介事に巻き込まれるとも限らない。理屈ではなく、自己防衛本能が反射神経で雪乃の申し出を断ってしまうのだ。
 とはいえ、その様なことを雪乃本人に言える筈もなく。
「……ちょっと、先生の運転が苦手で」
 仕方なく、月彦は適当な理由を見繕う。
「えっ……」
 しかし、雪乃の反応が意外にも大きく、月彦は慌てて言葉を足す。
「いやほら、運転っていうか……先生の車って音も凄いし、スピードも出るし、ちょっと苦手かなぁ……っていうくらいなんですけど」
 言いつくろう間も、雪乃は固まったまま瞬き一つしない。月彦の焦りはどんどん大きくなる。
「ああいや、ええと……そうじゃなくて、色! 色が苦手なんです、俺、赤は苦手で――」
 焦りのあまり、自分でも何を言っているのかわからなくなってしまう。
(やばい、もしかして車の話題は禁句だったのか――)
 得体のしれない不吉なものが、ぞわぞわと胸中で大きくなるのを感じる。由梨子に続いて、雪乃まで失ってしまう――そんな不安が、月彦の手足を痺れさせる。
「そ……っか、そうだったんだ」
 ぽつりと、悟ったような雪乃の呟き。背筋がゾクリと震える程に、致命的な何かを含んだ声だった。
「いや、先生、その……違うんです。今言ったことは忘れてください!」
「ううん、いいの。考えてみたら、紺崎君の言うことももっともだわ」
「待って下さい、先生……俺は――」
「そんな事よりさ」
 言葉が、雪乃の強い声に遮られる。
「紺崎君、この間の話、煮詰めてくれた?」
 雪乃はころりと笑顔を零し、強引に話題を変えてくる。
「先生……」
「私、待ってるから」
 張り付いたような笑顔のまま、雪乃はそう零してすっと机の角から腰を上げる。
「紺崎君の都合が良い日、ずっと待ってるから」
 もう一緒に帰ろう――とは言わず、雪乃はそっと教室を出て行った。数拍置いて、ごんっ……と教室内に鈍い音が響く。
(……だめだ)
 机に打ち付けた額から、鈍い痛みがじくじくと走る。
(真央と巧く行かなくなっただけで、なんでこんな――)
 まるで、疫病神かなにかに取り憑かれたかの様。否、むしろ今までが幸運過ぎたのか――月彦は自嘲気味に苦笑し、のろりと教室を出る。
 既に日が落ちた校内には殆ど人気が無く、部活棟の方から微かに声が聞こえるのみだ。暗い廊下を幽鬼のような足取りで進み、昇降口を出て校門に差し掛かった辺りで。
「今晩は、お義父さん」
 月彦は、己の次に一番殴りつけたい男に声をかけられた。


「良い月夜ですね」
 男は飄々とそう言ってのけ、しずしずと月彦に歩み寄ってくる。紋付き羽織でこそないものの、純和服を着た男は苦々しいまでに朧月夜に似合っていた。
「……お前にお義父さんと言われる筋合いはない」
 気を抜けば、言葉より先に殴りかかってしまいそうだった。月彦はぐっと右拳を握り、睨み付ける。
「先ほど、真央さんにお会いしました」
「っ――!」
「恥ずかしい話ですが、真央さんに問われて、初めて気がつきました。僕がまだ、あなた方に名すら名乗っていない事に」
 苦笑。
「白耀、と申します。人の世での便宜上の性は真田。真田白耀、というのがこちらで名乗っている名です」
「……月彦、紺崎月彦だ」
「では、改めて。……月彦さん、真央さんとの婚約を認めて頂けますか」
 きらりと、青磁色の瞳が光ったような気がした。
「……真央にはまだ早い」
 月彦は男の――白耀の瞳を正視できず、目を逸らしてしまう。
「それは“今は”認めない――という返事と受け取っても良いのでしょうか」
「……ずっとだ」
 は、と白耀が不可思議そうな声を出す。
「誰がお前みたいな素性の知れない怪しい奴の所へ真央をやるかってんだ! 解ったならとっとと帰れ!」
 一日の鬱積が一度に噴出したような罵声だった。白耀は俄に顎を引き、瞳を細める。
「怪しい、ですか」
「ああ。名前を名乗ったからって、それが何だ。俺が知ってるのは、お前がいきなり家にやってきて“娘さんを下さい”なんて言い出す非常識な野郎だって事だけだ。そんな奴の所に真央をやれるか!」
「では、僕の素性がはっきりし、尚かつ問題が無ければ了承して頂けるのでしょうか」
「さあな。言っておくが、例えお前がどんなに立派な素性だろうが、真央が少しでも嫌がるそぶりを見せるなら、俺は絶対に承諾しないからな」
「真央さんなら、既に了承の返事を頂きましたが」
「な――」
「いきなり婚約、という事ではなく、まずは友人からなら――と」
 微かに、口の端を持ち上げて白耀が笑む。
「……馬鹿な」
「さらに言えば、お義母さまからの許可も頂いたと。つまり、後は月彦さん、貴方の了承待ちというわけです」
「っ……!」
「確かに、いきなり婚約――というのは我ながら急きすぎているのかもしれません。ならば、こう言えば月彦さんは了承して頂けますか」
 白耀は一旦言葉を切り、そしてその青磁のような瞳で月彦をしっかりと見据える。
「婚約を前提に、真央さんとおつき合いをする旨を了承して頂きたい」
「……嫌だ」
 まるで憎たらしい子供のような口調。
「誰が認めるか。……諦めてとっとと失せろ」
 何より、そんな幼稚な言葉を口にしている自分自身に吐き気がする。吐き気がするほど嫌悪して尚、月彦は己の口を止められない。
「……困りましたね。一体どうすれば認めてもらえるのでしょうか」
「何をしようが無駄だ。いいか、お前が現れて、妙な事を言い出すまでは俺たちは普通に親子として巧くやれてたんだ。それが――」
 そこで、月彦は言葉を枯らしてしまう。そこから先の言葉は、果たしてこの眼前の男に対してぶつけるべきものなのかどうか、判断しかねるのだ。
「僕が壊した――そう仰りたいのですか?」
 月彦は返事を返さなかった。ただ、確かな敵意を込めた視線を送り続けた。
「……解りました」
 やれやれ、とでも言いたそうな白耀のそぶり。
「すんなりと了承して頂けるとは思ってませんでしたが、これほど嫌われるとも予想してませんでした。――半妖の娘を持つ貴方なら、妖狐に対する偏見も無いだろうと思ったのですが」
「妖狐が気に入らないんじゃない。“お前”が気に入らないんだ」
 半ば以上八つ当たりだ。解っていても、止まらない。
「解りました。……貴方がそういう所存ならば、僕の方もそれなりの対応を取らせて頂くまでです」
「……それなりの対応?」
「ええ」
 白耀の輪郭が、仄かに輝く。赤い絹糸のような光りは月彦の焦点を暈けさせ、再び揃った時には見事な狐耳と、そして三本の尾が揺らめいていた。
「もし、僕がその気になれば、今すぐにでも貴方の元から真央さんを攫う事が出来るということは、留意しておいて下さい。無論、その様な真似はしませんが」
「恫喝か」
「何と受け取ってもらっても結構です。…………例え貴方がどれ程邪魔をしようとも、僕は決して真央さんを諦めません」
 そして、白耀の輪郭が再びぼやけ始める。それは丁度、靄のような雲に包まれて消える月のように、男の姿をあやふやにしていく。
「待て」
 はたと、ゆらぎが止まる。
「一つだけ、聞きたい。どうしてだ……どうして、真央なんだ」
「一目惚れでは、理由になりませんか?」
 最早顔も解らぬ程にあやふやになった口元を確かに歪めて、白耀は月彦の前から姿を消した。


「あっ、父さまっ。おかえりー!」
 家に帰り着くや、どこか空々しい声の真央に出迎えられる。
「ただいま、真央」
 微笑を零して、ぽむと頭を撫でる。
「随分遅かったけど、どうしたの?」
「んー、別に。ただその辺をぶらぶらとな」
「ふぅん……」
 真央の追求がなんとも緩い――と月彦は思う。いつもならば、帰宅が遅いというだけで敏腕検事顔負けの凄まじい言及にさらされ、月彦の述べた“理由”に僅かでも疑わしい要素が交じっているだけで寿命が三日ほど縮む思いをするハメになるというのに。
(それが“ふぅん……”か)
 既に己が、真央の中で“男”の範疇から除外されつつあるのだと嫌がおうにも悟らされる。
「……そういや真央、“あいつ”とまた会ったのか?」
「えっ……」
 ハッと、真央が身を固くする。
「ど、どうして……?」
「……いや、別に。ひょっとして俺の見てない所で真央にちょっかい出してるんじゃないかと思ってな」
「……会ってないよ」
 僅かに身を固くしながら、そんな言葉。
「本当か?」
 こくりと、真央は頷く。
「だ、だって……父さまが、会っちゃいけないって言ってたから……」
「そうか」
 月彦は笑みを返し、そして真央を階下に残して階段を上る。
(……とうとう、嘘までつかれるようになったのか)
 最早、苦笑しか出てこない。一歩一歩、まるで死刑台にでも登るような足取りで階段を上がり、月彦は自室の扉を開く。
「あっ、父さまっ。おかえりー!」
「うるさい、黙れ」
 部屋に入るや、真央の声色をそっくり真似てふざける真狐ににべもなく吐き捨てる。
「そしてさっさと帰れ、部屋から出て行け」
「なによぅー、機嫌悪いのね」
 真狐はベッドに腰掛けたまま、ぶうと頬を膨らませる。
「誰のせいだと思ってんだ」
「あたしのせいなの?」
「……っ!」
 月彦は口を開こうとして、それが真狐のニヤニヤ顔を見た途端止まる。
「案外、自業自得だったりして」
「どういう事だ」
「あんた、こう思ってるんでしょう。“真央がまた真狐の虚言妄言に騙されてこんな事になっちまった”って」
「その通りじゃないか」
 何ら異論はない、と月彦は前面肯定をすると、真狐がふんと鼻であざ笑う。
「……成る程、真央に見限られるわけね」
「何だと……!?」
「あんたさー、物事を人のせいにする前に、まずは自分の胸に聞いてみたほうがいいんじゃない?」
 にったらにったらと笑いながら、真狐は組んだ脚の先をぷらぷらさせる。
「いくらあたしが唆したからって、あの子があんなに簡単にそっぽを向くわけないじゃない」
 いつもなら――と、真狐は意味深に付け加える。
「どういう意味だ」
「言葉の通りよ。身に覚えがあるでしょう」
 無い――とは、言えなかった。
「たとえば〜、そうね。浮気をしたとか」
 うぐ、と月彦は呻く。
「それも何人も」
 ざくり。真狐の言葉が、鋭いナイフとなって切り込んでくる。
「何日もほったらかしにしたとか」
 ざくざくと胸の奥が抉られ、月彦はその場に膝を突く。
「病気の時に側に居てあげなかったとか」
「ぐっ」
「肝心な時に頼りにならないとか」
「………………わかった、もういい――」
 がくりと、絨毯の上に額を擦りつけるようにして、月彦は呻く。
「なぁに? あたしは適当に言ってみただけだけど、心当たりでもあったの?」
 ぺしぺしと後頭部を足で叩かれるも、反撃する気力すら無い。
「まー、いいじゃない。女なんてそれこそ星の数ほど居るんだからさ。真央が居なくなって寂しいって言うんなら、あたしが慰めてあげよっか?」
「……うるさい、一人にしてくれ」
 まるで土下座をしているような格好で呟く。真狐の方も、これではからかい甲斐が無いとでも思ったのか、ぺしぺしと後頭部を叩くのを止めてついと立ち上がる。
「んじゃ、あたしは真央の彼氏の面でも拝んでくるわ。ちゃあんと真央の旦那に相応しい男かどうかチェックしなきゃ」
 がらりと窓が開く音がし、同時に真狐の気配が室内から消える。開けっ放しにされた窓から容赦なく寒風が入り込んでくるが、月彦にはそれを締める気力も無く、ごろりとそのまま横になる。
(自業自得――か)
 全ては、真央をほったらかした自分が悪いのだ。なればこそ、こうして凍えているのが己には相応しい様にすら思えて、月彦は静かに瞼を閉じた。


 

 真央に見限られたのが自業自得ならば、翌朝当然のように風邪を引いたのも自業自得だった。
 無論、それで学校を休めるわけもない。
「父さま、大丈夫?」
 真央のそんな言葉すら、形だけのひどく便宜的な声に聞こえて、月彦は咳を繰り返しながら手だけで大丈夫、と示す。
 熱を測ると、三十八度を越えていた。全身が気怠く、口も鼻も息苦しく、頭痛も酷かったが、それらが有り難くさえ思える程に、月彦は己を罰したくて仕方がなかった。
 とはいえ、己が勝手に引いてしまった風邪のせいで他人まで巻き添えにするのは心苦しいから、マスクだけは二重にして家を出る。真央が不安そうな顔をして後ろをついてくるが、月彦には最早言葉をかける余裕はなかった。
 歩くたびにゆらゆらと視界が揺れ、まるで海の底でも彷徨っているかの様だった。漸くの事で校門へとたどり着き、手振りだけで真央と別れて昇降口へと向かう。
「おーっす、って……月彦、お前……大丈夫か?」
 怪訝そうな顔をする幼なじみに視線だけで健康を示し、ごほごほと咳を突きながら階段を上がる。
 やっとの事で教室へとたどり着き、倒れ込むようにして己の席に座るや、後はもう夢うつつ。
 きちんと授業を受けたのかどうかすら定かではないまま、気がつけば放課後という有様。ただ、英語の授業の際のもの言いたげな雪乃の顔だけは、奇妙な程印象に残っていた。
 途中、何度かクラスメイトに保健室を勧められたような記憶もあるが、こうして席に座り続けている所を見るにどうやらその申し出の全てを自分は断ったらしい――などと、マスクの奥で自嘲気味に笑ってみたりもする。
「おい、帰らないのか?」
 ひどくエコーのかかった声で話し掛けてきたのは友人和樹だった。一体いつのまにそんな特技をと笑おうとして、げほごほと咳が出て妨害される。
「ああ、帰る……帰るともさ」
 ゆらりと立ち上がり、一歩一歩踏みしめるようにして歩き出す。
「おい、鞄!」
「ああ……悪ぃ……」
 和樹の手から鞄を受け取り、昇降口へと歩く。途中、廊下で書類をかかえた雪乃と遭遇したが、月彦は無論のこと雪乃も何も声をかけてはこなかった。授業の時と同じ、ひどくもの言いたげな表情――その裏に、昨日教室でかわした会話が起因していることは、月彦にも解っていた。
(俺が……無責任な事……言ったから――)
 雪乃は気にしているのだ。そう思うだけで、月彦は胸が苦しくてたまらない。雪乃を正視することが出来ず、その脇をすり抜けるようにして、階段を下りる。
 よほど危なげに見えるのか、いつもは校門の前で別れる和樹が暗黙のうちについてくる。その心遣いが嬉しくもあり、申しわけ無くもある。
「じゃあな、調子悪ぃ時は無理すんなよ」
「ああ、カズ……悪かったな」
 玄関先でかるく手を振って別れる。家の中に入るや、どっと疲れが出て、立っていることすらままならなくなる。
(やべ……もう、寝よう……)
 鞄を持って上がる気力も無く、玄関先に置いたままフラフラと階段を上がる。壁にもたれながら、一段一段踏みしめるように上がっていくと、なにやら自室の方から真央の話し声が聞こえてくる。
(……誰と、話してるんだ?)
 怪訝に思いながら自室のドアを開けた刹那、ベッドに座っていた真央が「あっ」と声を漏らした。
「ごめんね、父さまが帰ってきたから――」
 小声でそう言い、真央は慌てて手に持っていた何かを隠す。その動作から、真央が誰かに電話をかけていた事は一目瞭然だった。
「……真央、誰に電話してたんだ?」
「えっ、ゆ、由梨ちゃん……だよ?」
 おろおろと明らかに動揺している真央の姿を見るまでもなく、嘘だと解る。
(“父さまが帰ってきたから”なんて、由梨ちゃん相手には絶対言わないだろう)
 真央が隠している携帯を無理矢理取り上げ、履歴を調べれば誰と話をしていたかは瞭然となるが、今の月彦にはそれほどの体力気力は無かった。何より、それをやることで自分と真央との間に致命的な亀裂が走ってしまいそうで怖かった。
(……これが、娘を持った父親の気持ちってやつか…………)
 幼い頃はあれほど懐いていた娘が、年頃になるにつれ自分から離れていく。それが緩やかにしろ急にしろ、苦痛であることには代わりがない。
 げほ、がほと途端に咳が酷くなる。血を吐きそうな程に胸が痛く、その場にも居たたまれなくなって月彦は踵を返した。
「あっ、父さま……」
 真央がばつの悪い声を上げてついてくるが、月彦は無視をして階段を下りる。玄関へと向かい、靴を掃き終えた所で一度だけ背後を振り返る。
「ついてくるな」
 不安げな顔で玄関マットの上に立ちつくす真央に吐き捨て、月彦は家を出た。



 悪い夢を見ているのでは無い。むしろこれが現実で、今までの事が全て夢だったのではないか。
 寒空の下を彷徨いながら、月彦は自嘲気味にそんな事を思う。
 父さま、父さまと後ろをついてくる真央のなんと愛しく、可愛らしかった事か。ほんの数日前までそうだったというのに、まるで五年十年昔の出来事のように思えてならなかった。
 以前の真央ならば、月彦が風邪など引こうものならばこれ幸いとばかりに“お薬”を作り、そんな顔を娘にされたら猛毒だと解っていても飲まざるを得ないという類の上目遣いをしてくる筈だった。間違っても父親の居ぬ間に――確定したわけではないが――男に電話を掛けるような娘ではなかった。
(真狐の言うとおり……なんだろうなぁ……)
 真央の態度が不変であると、太陽が東から昇り西に沈む事が変わらないように、いつまでもそうであると思っていた己が悪いのだ。
 もっと話をするべきだった。
 もっと撫でてやるべきだった。構ってやるべきだった。一緒に出かけるべきだった――後悔の種はいつまでも尽きない。
 げほ、ごほと咳をつきながらあてど無く歩く。居たたまれなくなって家を出ただけで、特別行く先があったわけではない。
 ひょっとしたら真央が追いかけてきてくれるのでは――という甘い期待はものの十五分で打ち砕かれた。きっと今頃はこれ幸いとばかりに電話を再開しているのかもしれない。
「……で、俺はここに来るわけか。性懲りもなく」
 目の前に聳える高層マンションを見上げて、月彦はマスクの下で歪んだ笑みを浮かべる。
 無意識にただ歩いていた筈だった。しかしついた先は雪乃のマンション。由梨子が駄目ならば雪乃に甘えようという己の腐った性根が垣間見えて、最早笑うしかない。
 さすがの月彦もそこまでのクズには堕ちる気がせず、踵を返して歩き出す。とはいえ、他に行く場所があるわけもなく、無駄に右往左往を繰り返しているうちに完全に日のほうが暮れてしまった。
(……このまま、俺が帰らなかったらさすがに真央も心配するだろうか)
 まるで家出少年のような思考。無論月彦もその様な子供じみた事は考えこそすれ実行するほど愚かしくはなく、いい加減区切りをつけて帰路につこうと思い立ってほんの数歩。
「あっ……」
 愚かだったのは子供じみた発想ではなく、病気の体で寒風吹きすさぶ中を歩き回った事だと気がついた時にはもう遅かった。まるで骨を抜かれたように足の踏ん張りが用を為さず、かくんと膝をついてしまう。
 慌てて立ち上がろうとするも、がくがくと震える両足はおよそ自重を支えられそうもなく。民家の塀に持たれるようにして漸く立ち上がるも、そこから一歩踏み出すのは至難の業だった。
 げほ、がほと咳が止まらず、呼吸もままならない。歯の根が合わぬ程の悪寒が、体感気温以上に月彦を凍えさせ、四肢の自由すら奪っていく。
 前方をまともに見るゆとりすら無く、当然のように躓き、倒れ込んだ月彦の体は意外にもクッションじみたものに包まれた。――それが不法投棄されたゴミ袋の山だと解ったのは、凄まじい腐臭が鼻を劈いたからだ。
「……はは、は……」
 ひどく臭う汚液が付着したマスクを脱ぎ捨て、笑う。もはや立ち上がる気すら失せ、ごろりとゴミの山に寝ころぶように仰向けになると、ぽたりと冷たい滴が頬を打った。
「ははは、は……」
 滴の群れはあっという間に雨となり、これでもかと降り注いでくる。このまま体温を奪われ続ければ、確実に死ぬと分かり切って尚、指一本動かせない。否、動かす気にすらならなかった。
(真央……)
 そう、心で念じたからか。月彦の耳が不意にぴちゃぴちゃという微かな足音を拾った。それは小さく、しかし確実に近づいてくる。顔を向ければ、白い幕のような雨の向こう、赤い傘を差した人影が見えた。
「ま……お、か……?」
 もしそうであれば、自分と真央は見えない何かで繋がっていると、月彦は確信できただろう。しかし、人影が不法投棄されたゴミの山に――否、その中に無様に埋もれた死にかけの男を認めて傘を上げたその刹那、月彦の期待はそれ以上の驚きによって裏切られた。
「……月彦?」
 傘の持ち手は、白石妙子だった。



 じりじりと、足下の方で電気ストーブが首を振っていた。。
 熱で茹だった頭では、今自分が布団に寝かされているらしいという事しか解らず、それすら何処か曖昧に思える。
 丁度、海で一日泳いだ後、布団に戻っても体が揺れているような――それの感覚に近いが、それとは比較にならぬほど心地よい。
(いや、違う……これは――)
 その心地よさの源泉が布団ではなく、人肌であると気がついた時、月彦は反射的に真央だと思いこんだ。
(……真央)
 月彦は目を閉じたまま寝返りをうち、添い寝をしているらしい真央の体をそっと抱きしめる。その時の肌の触れ合った感覚で、自分も真央も下着のみの格好らしいと解る。
「……ッ!」
 腕の中で、微かに真央が藻掻く。いつになく反応が固い――それも仕方ないか、と思って、何故仕方がないのかを月彦は考え始める。
(あ……れ……)
 ここ数日の記憶が急速に蘇り、意識が覚醒する。違う、これは真央ではない――月彦はどきりと肝を冷やしながら、恐る恐る目を開いた。
「……誰と間違えてるのよ、バカ」
 眼前からやや布団の中に潜る形で、じろりとねめつける目。途端、月彦の頭はフリーズした。
「た、妙子っ……」
「起きたんなら、手……離して」
 ぐいと、抱きしめている手を妙子が力任せにふりほどこうとしてくる。が、頭がフリーズしていようが、一度抱きしめた半裸の女子は容易に手放さないのが月彦の首から下だった。
「えっ……な、何で……俺……」
「いいから、離して」
 ぎゅう、と爪を立てられて尚、月彦は手を離さない。――否、最早頭からも“絶対離すな”という命令が出始めていた。
「た、えこ……」
「バカッ、何勘違いしてんのよ、離して!」
 大声を上げて暴れる妙子を押し倒し、組み敷く。
 記憶が、霧が晴れる様に戻ってくる。熱で朦朧としながらも妙子に肩を借り、見知らぬアパートの一室へと入った。解熱薬を貰い、布団が敷かれるや倒れ込むように意識を失った。そして、今――
(…………ごくり)
 自分も、妙子も下着姿。常識的に考えれば、冬の雨で冷え切った体を温めてくれていたのだろう。それは、勿論月彦にも解っている。解ってはいるが――
「妙子……!」
 噛まれるのを覚悟の上で、唇を重ねる。
「んっ……!」
 噛まれこそしなかったものの、妙子は首を振ってキスを拒絶。月彦は構わず、妙子のブラをずらしにかかる。ブラはいとも簡単に上方へとずれ、たゆんっ……と形の良い巨乳が誘うように揺れる。
(妙子の……胸っ……)
 興奮度の比較対照を出すならば、真狐のそれを目の当たりにした時と同等かそれ以上。既に、股間はトランクスを突き破らんばかりに強張っている。
「いやっ……」
 吐き捨てるように言って、なんとか月彦の支配下から逃れようと妙子が腕をばたつかせる。――しかし、か細い手の全力はたかが知れており、その倍以上の力でねじ伏せると、途端に妙子は抵抗を止めた。
「ふーっ……ふーっ……」
 文字通り、ケダモノにでもなってしまったかのようだった。ふうふうと息を荒げながら、組み敷いた妙子の肢体を矯めつ眇めつする。――しかし、首から上を見る事だけは、本能的に拒否した。
「あむ、んっ……ちゅっ……」
 桜色をした突起を咥え、唇で吸いながらちろちろと嘗め回す。吸いながら引っ張り、ちゅぽんと糸を引いて離し、反対側も同様に吸う。
 てらてらと唾液に光る先端を指でこね回しながら、巨乳をこね回す。その手つきは酷く慣れていて――そう、まるで似たような大きさの乳房を何千回何万回とこね回してきたかのような――情欲丸出しの動きには揉まれる相手への配慮などは皆無だった。
(……少し、堅い……か)
 その様に感じるのは、恐らくそれだけ触れられた事が無いからなのだろう。男に触らせた事は無論のこと、この真面目な幼なじみの事だから、自慰すらもしたことが無いに違いない。
(妙子っ……!)
 人形の様に抵抗を止めた妙子。その体を獣欲のままに貪れば貪る程、綺麗に手入れされた花壇を土足で踏み荒らしているような罪悪感が襲ってくる。
(でも、俺は……!)
 月彦は止まらない。ショーツを脱がせる段階になって尚、妙子は身じろぎ一つ、呻き声一つあげなかった。足を広げ、感動にも近い興奮で罪悪感をくるみながら、俄に湿り気を帯びたそこを指で開き、舌を差し込む。
「……っ……!」
 びくんと、微かに妙子が腰を震わせ、押し殺したような吐息を漏らす。月彦は構わず、飢えた獣のように妙子の秘裂を嘗め回す。
 ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ……。
 蜜が溢れてくるというよりは、己の唾液を塗り込み、無理矢理潤わせているという状態。それでもなんとか挿入には堪えられるだろうという状態になって漸く、月彦も下着を下ろす。
 一瞬、ちらりと妙子の顔を見ようとして、止める。見れば、正気に戻ってしまいそうだった。ケダモノと化した自分ではなく、正気の自分であれば、きっと堪えられなくなってしまうだろう。
(……もう、どうなっちまおうが、知ったことか…………)
 ここまでやってしまったのだ。今更止めて紳士ぶっても決して妙子は許さないだろう。ならば、人間の屑らしく、やることをやり通してしまったほうが良い。
 月彦は開いた足の間に体を入れ、剛直を宛うとそのまま迷わず腰を突き出した。
「いっ…………ッ……!」
 それまで脱力しきっていた妙子の体が大きく跳ね、腕がびくんと持ち上がり、月彦の背を引っ掻く。剛直の先端が確かな抵抗を突き破り、そのまま最奥を小突く。
「……かっ……ッ!」
 声にならない声とは、こういう声を言うのだろう。初恋の幼なじみのそんな声ですら――今の月彦を止める事は出来なかった。
(……妙子…………)
 悪い、とは思わない。そう思うくらいならば最初からやらなければいいのだ。悪い、と思わない事こそ、最低限の礼儀と心得て、月彦はゆっくりと抽送を始める。
(ずっと……好きだった……)
 こうなりたいと、繋がりたいと願っていた。例えどんな形であろうと――そんな“雑念”を振り切るように月彦は首を振り、下半身から突き上げてくる快感に身を委ねる。
「妙子っ……妙子っっ……!」
 被さり、抱きしめながら剛直を突き入れる。背中に立てられた爪の痛みなど、何処かに消え失せていた。今はただ、妙子を感じていたかった。
「たえ、こ……ぉ………………ッッ!!!」
 そして、“最後の瞬間”もまた唐突に訪れた。一切の加減無く、真剣に抱いた結果――びゅぐりと、先端が破裂したのではないかという勢いで、白濁が溢れる。
「……ぁっ……!!」
 びくんと、妙子が仰け反り、掠れた声を上げる。ぎりぎりと、背中にまた爪が食い込むが、月彦は抱きしめる手を微塵も緩めなかった。そのまま、幼なじみの一番深い場所で、びゅぐり、びゅぐりと子種を吐き出していく。
「はぁっ…………はぁっ…………はぁっ…………」
 途方もない絶頂の余韻と共に頭の中に霧がかかり、それが幾分月彦を冷静にさせる。考えてみれば、もう何日も真央と寝ていないのだ。“だから”欲情を抑えられなかったのだと、そんな卑怯な言い訳が頭の中に沸いて出て、月彦は自己嫌悪に唇を噛みしめる。
「……気が済んだ?」
 今の今まで交わり――否、たったいま犯されたばかりの女子が盛らしたとは思えない程冷ややかな声だった。それは凡そ同じ人類に向けられる口調ではなく、虫けらか何かにでも語りかけているかのように、月彦には聞こえた。
(……まさしく、その通りだ)
 己の下半身も抑えられない、惨めな生き物だ。人間と呼ぶのもほど遠いと、自嘲気味に口の端を歪めた――その時だった。
 月彦は、自分のものではない笑い声を聞いた。
 くすくすと、含み笑いをするような女の声。それが、妙子の方から聞こえてくる。なのに、“女の声”と言うのは、月彦の知っている妙子はその様な笑い方はしないからだ。
 そんな妖艶な――そして、壊れた笑い方は。
「本当に――」
 一音ごとに、“声”が変わる。それは妙子の声から、“よく知っている声”へと変わっていく。
「父さまは、“この人”の事が好きなんだね」
「…………っ……!」
 雪女に心臓を鷲づかみにでもされれば、こんな気分になるのだろうか。
「父さまがそんなだから――」
 月彦は、妙子の顔を見れない。――否、今自分が抱きしめている女の顔を、見ることが出来ない。
「私は、父さま以外の男の人を捜さなきゃいけなかったんだよ?」
 さわさわと、女の手が背中を這う。先ほど付けた爪の後を、いとおしげに撫で――がりっ、と肉を抉られる。
「あがッ……」
 くすくすと、さも愉快そうな声を上げて、女がついと身を起こす。顔を背けたまま固まったままの月彦の左耳に、そっと口づけでもするように唇を寄せ。
「……私、父さまの事嫌いになって……本当に良かった」


「うわあああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!」
 奇声と共に、月彦は飛び起きた。
「はぁっ…………はぁっ…………はぁっ……」
 ばくん、ばくんと肋骨を折らんばかりの勢いで鳴る心臓を掻きむしるようにして押さえつける。
「はぁっ…………はぁっ……はぁっ…………はーっ…………はーっ…………」
 見慣れぬ部屋に見慣れぬ布団。足下には首振り式の電気ストーブ。また夢の続きかと思って周囲を見回し――その先で、月彦はなんとも怪訝そうな顔つきの幼なじみと目が合った。
「……うるさいわ」
 くいと、眼鏡を上げながらそんな苦情。ごめん、と月彦が反射で謝った時にはもう、妙子はくるりと椅子を回転させて勉強机に向かっていた。
(……夢、だったのか――)
 脂汗の下から、どっと冷や汗が出る。それが熱を下げてでもくれたのか、頭は意識を失う前よりも――そして夢の中よりも――かなりクリアになっていた。
(そりゃ……そうだよな、妙子が添い寝なんて……)
 してくれる筈がない。その段階で夢だと気がつかねばならなかったのだ。
(でも、これは……本当なのか……)
 いくら風邪で弱っていたとはいえ、“あの”妙子が自分を家に入れてくれたということが信じられなくて、月彦は己の頬を抓ってみる。――痛いだけで、何も変わらなかった。
 どうやらこれは現実らしい、と得心がいって、改めて周囲を見回す。部屋の広さはおよそ六畳。なのにそれほど狭く感じないのは、家具らしい家具が殆ど無いからだ。本棚には辞書、参考書の類がぎっしりと並び、漫画本の類など一冊もない。真面目な優等生然としているのは外見だけではない見本のような部屋だった。
 勉強机と反対側の壁には妙子の制服がハンガーで掛けてあり、その隣に半分濡れた自分のブレザーとカッターシャツ、ズボンがが掛けられている事に例えようのない違和感を感じてしまう。
 妙子本人はといえば、上下そろいのジャージ(しかも恐らく体育用)の上からドテラという女っ気の欠片もない格好で一心不乱に机に向かっていた。
(はて、あのドテラは……)
 何処かで見たような――と月彦は記憶を探り、いつぞや由梨子が着ていたものとデザインがそっくりだということに気がつく。ただ、由梨子のそれとは違い、妙子のものは背中に“商”の字が書かれていた。
(……まぁ、ドテラなんてどれも似たようなもんだよな)
 うんうんと納得しながら、月彦はじぃと妙子の後ろ姿を見る。トレードマークとも言うべきポニーテールも相変わらずで、例え後ろ姿といえど見ていて飽きることがない。
(……話しかけない方がいい……のか…………?)
 聞きたいことは山ほどあったが、どう見ても妙子は勉強中だった。しかもご丁寧に耳にはイヤホンまでついている。にもかかわらず「うるさい」と言われたのは、それほど自分の奇声がやかましかったからなのだろう。
(……まずは、礼……だよな…………)
 命すら危うい所を助けてもらったのだ。まずは礼が基本だと――その恩人を夢の中で犯した事などすっかり頭の隅に追いやって――月彦は常識人ぶる。
「あの、さ……妙子?」
 恐る恐る、まるで思春期の娘に話し掛ける父親の様な声色。
「さっきは……その、ありがとう。……助かった」
 多分無いだろう――とは思っていたが、矢張り返事はない。カリカリと、シャープペンの動きもよどみない。
「……ええと、やっぱり迷惑、だよな。……悪ぃ、すぐ……帰るから」
 掛け布団を退かそうとしたのと、独り言の様な返事が返ってきたのはほぼ同時だった。
「……もう、具合はいいの」
 まるで問題文かなにかを読み上げたのではないか――そう思える程に、無感情な口調だった。それ故、月彦は最初それが自分に向けられた言葉だと気がつかなかった。
「え、あ……あぁ…………大分マシになった。熱ももう無いんじゃないかな」
「そう」
 シャープペンの動きがピタリと止む。
「夕飯の買い出しなんか行かなきゃ良かったわ」
 てきぱきと机の上を片づけながら、独り言ととれなくもない苦情。暗に“余計な荷物を拾わされた”と言われている様で、月彦は肩を縮こまらせる。
「ううん、例え気がついても……他人のフリをすれば良かった」
 ふぅ、と妙子はため息をつく。
「何があったのかとか、いちいち聞かないわよ」
 ああ、妙子ならそう言うだろうな、と月彦は内心苦笑する。どのみち人に話せる内容でも、話すような事でもない。
「……雨の日に、傘を差さずに踊る人間が居てもいい。それが自由って事なんだって、ある人に教わってな」
「冬場や熱があるときはやらないほうがいいって事も、一緒に教えてもらえば良かったのにね」
 折角の軽口も、食いつきは皆無。クスリとも笑わず、妙子はさらりと返して参考書類を本棚にしまい始める。
(……やっぱり、昔みたいにはいかないか)
 といっても、月彦の記憶の中には眼前の幼なじみと仲むつまじく談笑をした記憶など皆無だった。辛うじてあるのは、今と同じように見ようによっては不機嫌ともとれる仏頂面で仕方なさそうに返事を返す様だけだ。
(妙子も学校とか……俺の居ない場所だったら、普通の女子みたいに笑ったりするのかな……)
 にこにこ笑う妙子を想像しようとしてみるが、出来ない。素材となるデータが少なすぎるのだ。
(……まあでも、すぐに帰れって言われなくて、良かった……)
 だからといっていつまでも居座るのも悪い。しかし、折角会えたのだから、少しくらい話もしたい。月彦は悩んだ結果、もう少しだけ幼なじみとの距離を縮める為に尽力する事にした。
 さて何か話すきっかけをと辺りを見回し、丁度勉強机の下、縦に並んだ引き出しに隠れるようにして置かれている灰色の塊に目がとまる。
(あれは……)
 月彦は布団から身を乗り出し、手を伸ばそうとしたところで――まるでそれを阻止するように天から分厚い英和辞書が降ってくる。
「あぶねっ……!」
 すんでの所で手には当たらず、英和辞書は絨毯の上にどすんと落ちる。
「部屋にあるものに勝手に触らないで」
 事も無げに妙子は辞書を拾い、本棚に戻す。その際、さりげなく足先で“それ”を引き出しの影に押し込んだのを月彦は見逃さなかった。
「な、なぁ……妙子、そのラジカセってあれだろ。ガキの頃、誕生日に親父さんに買ってもらったやつだろ?」
 返事はない。
「懐かしいよなぁ……確か買って貰ってすぐに和樹のバカが壊して、ラジオしか聞けなくなったんだよな」
 幼なじみだからこそ、この手の話が出来る。『そんな事もあったわね』――とでも言ってくれれば、その後の展開もやりやすいと月彦がささやかな希望を懐いたその刹那。
「壊したのは和樹じゃなくてあんたよ」
 希望は、灰燼と帰した。
「えっ、いや……俺じゃないだろ? 俺の記憶だと確か和樹が――」
「和樹はアンテナを曲げただけ。千夏はテープ詰まらせただけ。勝手に外に持ち出した挙げ句、庭石の上に落として再生できないようにしたのはあんた」
 キッ、と見据えられて、月彦は何も言い返せない。言われてみれば、確かにそうだった気がしてくる。
(……そうだ、んでなんとか直そうと分解して……取り返しがつかないほどぶっ壊しちまったんだ……)
 そしてカセットテープに纏わるあらゆる機能を失った、巨大なラジオが誕生したのだ。
「やったほうは忘れても、やられた方は覚えてるものよ」
「……悪ぃ」
 矢張り、自分と妙子の間には見えない――そして大きく、高く、冷たい壁がある。それを悟らざるを得ない程に、含みを持たされた言葉だった。
「……で、でも……捨ててないってことは、まだラジオは聞いてるのか」
 返事は無し。
「そうだよな、元々……妙子がラジオ好きだったから、親父さんが買ってくれたんだしな。ま、まぁ……面白いラジオはホント、面白いよな、うん」
「初耳ね。あんたがラジオ好きなんて」
 返事を返してもらうだけでこんなに嬉しい気持ちになる相手は、恐らく妙子だけだろう。
「いや、まぁ……好きって程でもないけどな。勉強してる時とか、たまに聞くくらいで――」
「私は嫌い」
 やっと微かに和みかけた場の空気が一気に凍り付くような、氷の微笑。
「小学校の頃、“ある男子”に深夜ラジオ聞いてる女なんて気持ち悪いって言われてから、それからずっと嫌い」
「……ごめんなさい」
 月彦にはもう、謝る以外に選択肢が無かった。
(でも、じゃあ何で捨てないんだ……)
 別に形見というわけでもない。妙子の父親はちゃんと生きているし、少し前まで同居もしていた。しかもよく見れば、先ほど妙子がつけていたイヤホンのコードはそのラジカセへと繋がっていた。再生機能は失われているのだから、それは最早巨大でかさばるただのラジオに他ならない。
(……今時、こんなばかでかいラジカセ使ってるのなんて、日本中で妙子くらいじゃないんだろうか)
 とにかく、ラジオの話では駄目だ。他に何か話題は――と月彦は脳をフル稼働させる。体調が回復してしまった今、話が終わってしまっては最早妙子の部屋に居続ける理由が無くなってしまうからだ。
 しかし、その努力も。
「あのね、月彦。無駄話の途中、悪いけど。……もうすぐ葛葉さんが迎えに来るわよ」
 妙子の冷酷な一言によって中断される。
「え……?」
「あんたが寝てる時に電話したの。うちで死にかけてるって。夕飯の支度が終わったら迎えに来るって言ってたわ」
 月彦は反射的に壁掛け時計に目をやる。時刻は夜七時をやや過ぎた辺り。ならばそろそろ、夕飯の支度を終えた葛葉がやって来てもおかしくない。
(にしても……母さん、相変わらずマイペースだな……)
 具体的に妙子が何と言ったのかは解らないが、息子が死にかけているという電話を受けてこれだけ暢気に構える母親はそうは居ないだろう。
「……もう治ったから、迎えなんて要らないんだが」
「じゃあ電話でそう言ったら?」
 一人でさっさと帰ってくれるのなら、それに越したことはない――と急かされている気がして、月彦はしばし言葉を失う。
「………………と、とりあえず……帰り支度するか」
「そうしてもらえると助かるわ」
 見れば、妙子は再び椅子に腰掛け、文庫小説を読み始めている。狭い部屋に二人しか居ないこの状態で小説を読むという事は、もうコミュニケーションをとりたくないという意思表示に他ならない。
(……まぁ、由梨ちゃんの時とは……違うよな。なんたって妙子なんだから)
 ひょっとしたら万に一つくらいの確立で、妙子の態度が多少は軟化するのではないかと思ったが、甘すぎた。自分が望んだことは万に一つどころではない、優曇華の花すらも遙かに凌駕する、烏白馬角だったのだ。
 友好を深めようと昔話に花を咲かせようとしても、ことごとく地雷原に踏み込む始末。しかも、どれも過去の自分が仕掛けたものだから情けないことこの上ない。
 好かれることが無いのならば、せめてこれ以上は嫌われないように迅速克つ後を濁さない様帰るのが吉とみて、月彦はいそいそと帰り支度を始める。
 まずはその第一段階として布団から出ようとした所で――はたと、月彦は固まった。
「た……妙子っ」
 返事はない。
「妙子!」
「……何?」
 ひどく面倒くさそうな声だが、目は文庫小説から離れない。離れていれば、蒼白になった月彦の顔が見れた事だろう。
「俺を殴ってくれ」
「……何言ってるの?」
 ここで漸く幼なじみは顔を上げた。くいと眼鏡を上げながら、不審そうに月彦を見る。
「頼む、殴ってくれ」
「殴る理由が無いわ」
「……いや、ある。十二分に、ある。……毛布、汚しちまったかもしれない」
「…………あんた、まさか――」
「違う! 寝小便なんかしてない! 俺はただむせ――ぶッ」
 口の中が切れる程、強烈なビンタだった。


「……私があんただったら、舌噛んで死んでるわ」
 冷ややかどころか液体窒素級の冷言を背中から浴びながら、月彦は洗面台でいそいそとトランクスを洗う。
 上はカッターシャツの下に着ていたTシャツ一枚(脂汗と冷や汗でしっとり)、下は借りたバスタオルを巻いただけという出で立ち。そのバスタオルも既に返さなくていい、と吐き捨てられていた。
「全く、信じられないわ。あんた熱が出て寝込んでたんじゃないの?」
「……はい、その筈でした」
 勿論、寝込んでいた間に「お前を犯す夢を見ていた」等と言える筈もなく。
(真央とヤれなくて、溜まりに溜まっていた所に妙子の布団、だもんなぁ……)
 無理もないかな、と思ってしまう自分が情けない。下半身の躾が出来ていないのは多少自覚していたが、ここまで無節操だとは思わなかった。
「……毛布まであんなに汚して……どの面下げてクリーニング屋に持っていけばいいのよ」
「…………面目ない」
 情けなさと悔しさとみっともなさで、か細い声しか出ない。
「……厄日だわ」
 ため息混じりに漏らして、妙子は洗面所を後にする。月彦の方もトランクスを洗い終え、しっかりと搾ってからとぼとぼと居間に戻る。丁度妙子が無事だった敷き布団と掛け布団、そして毛布の一枚を押入に仕舞い終えた所だった。
「………………」
 妙子は無言で刺すような視線を向けると、汚れた毛布を躊躇無くベランダに放り出した。外は夜、しかもどうやらまだ雨が降っているらしい。そんな状態でも、部屋の中に置いておくよりはマシだと判断されたのだろう。
(ううぅ……)
 妙子の視線が痛い。針のむしろどころではない。鋼鉄の処女にでも入れられた気分だった。
(…………今の俺よりも情けない状態の男なんて、日本中に一人も居ないんじゃなかろうか)
 電気ストーブの前に立ち、トランクスを乾かしながらそんな事を考える。少なくともラジカセ愛好者の方が数が多いのは間違いないだろう。
 頼むから今しばらくの間は迎えに来ないでくれと祈りながら、月彦は手の爪がちりちりと焦げんばかりの距離でトランクスを持ち続ける。
 しかし、祈りは届かず。やがて無機質なインターホンの音が室内に鳴り響いた。
「……くっ……」
 月彦はちらり、と妙子の方を見た。妙子は無言で文庫小説にしおりを挟み、席を立つと玄関の方へと向かった。
 月彦はもう覚悟を決め、生乾きのトランクスを履いてハンガーに掛けられているカッターシャツとズボン、ブレザーを大急ぎで着る。ガラガラと引き戸を開けて、妙子が蒼白な顔で戻ってきたのはその時だった。
「……妙子?」
「迎え、来たわよ」
 胃液を吐くような苦しげな声だった。
「いや、それは解るが……お前、どうしたんだ?」
「いいから、早く帰って」
 妙子に背中を押されて居間から追い出され、ぴしゃりと引き戸を閉められる。
「妙子!」
 月彦は軽く引き戸を開けようとしてみたが、渾身の力で締められているのかびくともしなかった。それは単純に月彦と離れたいというより、何か怖いものを封じ込めたいとでもいうような力の込め様だった。
「まさか……」
 月彦の胸に、たった一つの可能性が沸く。――否、そうでなくては、“あの”妙子が“ああ”はならない。
 月彦は玄関まで歩み、そしてドアを開けた。
「野垂れ死ねば良かったのに」
 顔を合わせるなり、痛烈な一言。
「……どうして、姉ちゃんが…………」
 霧亜は答えず、くるりとそっぽを向いて歩き出す。
「ま、待てよ!」
 月彦も慌てて靴を履き、霧亜の後に続く。通路を通り階段を下り、アパートから出た所でしとしとと降る冬の雨に阻まれる。霧亜は手にしていた傘を差し、一人先に歩き出すが、当然月彦は己の傘など持っている筈もない。
(……入れてくれなんて、言えるか!)
 しかもよく見れば、霧亜は傘を二本――つまり差している傘とは別にもう一本持っているのだ。しかし、それを月彦に渡すそぶりは微塵もない。やむなく、雨に濡れながら霧亜に続く。十歩ほど歩いた所で一度振り返り、妙子のアパートの外観と、その部屋番号を密かに心に刻んだ。
(……でも、また来る事はあるんだろうか)
 その時、どの面下げて来れば――と月彦が雨に打たれながらとぼとぼ歩いていると、霧亜が唐突に足を止めた。
「ひどい臭いだわ」
「臭い?」
「あんたよ」
 閉じている方の傘で、ばしんとこめかみをどつかれる。
「痛ぇッ! 俺のどこが――って……あれ……」
 くん、と鼻を鳴らせば、確かに臭う。饐えた、生ゴミの腐ったような臭いがどこからか。
「……俺の制服、か……?」
 くんくんと袖口を嗅いでみると、針で刺されたような刺激臭に涙が出た。見れば、上着もズボンも至る所に茶色っぽいシミが付着していて、どうもそれらが強烈に臭っている様だった。
「妙子ちゃんもさぞかし迷惑だったでしょうね」
「……っ!」
 月彦は思い出す。妙子は、体育用のジャージに着替えていた。あれは部屋着というわけではなく、もしかしたら生ゴミに汚れた自分に肩を貸して服が汚れたからだったのではないか。
「今頃、見て見ぬふりしてたら良かったって思ってるんじゃないかしら」
 きっと普段であれば、霧亜の言葉が深く胸を抉っていた事だろう。
(生憎だったな……そんなの、面と向かって言われたぜ)
 既に抉られようも無い程抉れていれば、霧亜の言葉とて痛くも痒くもなかった。
「全く。なんであんたみたいなのが私の弟なのよ。馬鹿で、幼稚で、考えが足りなくて、おまけに愚図で」
「………………俺だって、好きで姉ちゃんの弟に生まれたわけじゃない」
「何をやるにも無様過ぎるのよ、あんたは」
 くっ、と月彦は唇を噛みしめる。こればかりは、本当に返す言葉が無かった。
「今回の事だって、真央ちゃんが他の男に靡きそうだから、態と風邪引いたり、家を飛び出したりセコい手で必死に同情引こうとしてるんでしょ。それでも追いかけてもらえなくて、本当に死にかけてるんだから処置無しね」
「……違う」
「違わないわ。本当は元気なクセに、わざわざ迎えを頼んだりして。真央ちゃんが来てくれるとでも思ったの? 残念だったわね、私で」
 くすくすと愉快そうな含み笑いを残して、霧亜は月彦の言葉を待たずに再び歩き出してしまう。
「……俺が、頼んだわけじゃない」
 苦々しく呟くも、霧亜からの返事は帰ってこなかった。
(悔しいけど、姉ちゃんの言うとおりな部分も、確かに……ある)
 己に猛省を促しながら、月彦もまた無言で霧亜の後に続く。
 霧雨の中を五分ほど夜道を歩き、見慣れた通学路の交差点に差し掛かった辺りで。
「母さんに夕飯は要らないって言っといて」
 霧亜は家路とは九十度違う方向に一人歩き出した。別れ際、使っていなかった方の傘を放って投げたのは、単純に荷物になるからだろう。
(……本当に、うちと妙子の部屋は近いんだな)
 霧亜と別れて、月彦が真っ先に考えたのはその事だった。
(……って事は、直接俺を家まで連れて行くっていう選択肢も当然あったわけだよな)
 件の不法投棄場所と自宅、そして妙子の部屋の場所の相互の距離を計算した結果、むしろ紺崎邸に直接向かう方が近いのではないかという結論に達した。
(にもかかわらず、妙子が俺を自分の部屋に連れて行ったのは――)
 実は俺に気があるからだ――などと、月彦は楽観的には考えなかった。純粋に、妙子は紺崎邸に近づきたくなかったのだ。あれほど毛嫌いしている相手を自分の部屋に招く羽目になっても、絶対に遭遇したくなかったのだ。
 紺崎、霧亜と。
「……っ、妙子……」
 うだうだと悩みながら歩き続け、気がついたときには自宅の玄関が目の前に迫っていた。
 ため息を一つついて、ドアを開ける。
「ただいま……」
「あら、月彦……一人で帰ってきたの?」
 玄関を開けるや、今まさに外へ出ようとしていた葛葉と鉢合わせになる。
「丁度、今から迎えに行くところだったのよ?」
 はて、と月彦は首を傾げる。
「……母さんが姉ちゃんに迎え頼んだんじゃないの?」
「あら、そういえば霧亜の靴が無いわね。……じゃあ、メモは霧亜が持って行っちゃったのかしら」
 葛葉の話では、妙子からの電話の際に住所をメモした紙が無くなってしまい、それで迎えに行くのが遅れてしまったのだという。
「妙子ちゃんに電話しても出てくれないし、しょうがないから妙子ちゃんのお父さんにまで電話して住所教えてもらったんだから」
「そうだったんだ……。妙子がちょっと大げさに言ったみたいだけど、俺はもう大丈夫だから」
「あらあら、そんなにすぐに治っちゃうなんて……本当に具合が悪かったのかしら?」
 葛葉がなにやらにんまりと笑みを浮かべる。まるで“月彦もそんな小技を使う年頃になったのね”とでも言いたげな顔だ。
「母さん、俺は本当に体調が悪かったんだけど……」
「それにしても、どうしてあの子が……迎えとかお使いとかすごく嫌がる子なのに」
 しかし折角の弁明も、マイペースな母親は聞いちゃいない様子。
「……さあ、死にかけの俺の顔でも見たかったんじゃないのかな。……風呂入ってくる」
 これ以上葛葉と話をしていたらまた熱がぶりかえしてしまいそうで、月彦は着替えをとりに自室へと上がる。
 結局、月彦が風呂から上がっても、夕食の時間になっても、真央は一度も顔を見せなかった。



 本当の親友というのは、調子が良い時は少し距離を取って見守り、本当の窮地にこそ現れて助けてくれるのだという。
 ならば、調子が良い時は全く姿を見せず、最も落ち目の時に現れて執拗に追い打ちを加えてくる相手は、何なのだろうか。
「ねえねえ、今日は何回真央としゃべったの?」
「うるさい、帰れ」
 夕飯を終えて部屋に戻るや、にやつきながら話し掛けてくる真狐を冷たくあしらいながら、月彦は机に鞄を置く。
(……毎日のように来やがって)
 “妙子の布団で夢精事件”からさらに数日が経ち、真央との仲も相変わらずの陰々滅々とした日々。そこへさらに、ことある毎に真狐が現れて“途中経過”を尋ねてくるのだから堪らない。
(今日は……朝に『父さま、おはよう』『学校行ってくるね』、んで帰ってから『晩ご飯だよ』『ごちそうさま』くらいか、真央の言葉を聞いたのは)
 はぁ、とため息が出る。
「ふんふん、たったの四回かぁ〜、順調にダメになってるわね」
「人の心を読むんじゃねえ! この妖怪変化!」
「なによぉ、真央とうまく行かないからってあたしに当たらないでくれる?」
「黙れ、もう帰れ」
 吐き捨て、真狐に背を向けて椅子に座り、机に向かう。が、とても勉強などする気分ではなかった。
「荒れてるわね〜。まっ、それもそっか。あんなイケメンが相手じゃあ、あんたなんか勝ち目ゼロだもんねぇ。しかも相手は金持ちだし」
「………………」
 聞きもしないのに、聞きたくもないのに、真狐はこうして相手の男――白耀の情報を持ってくる。
「ほーんと、月日が経つのは早いわねぇ。とーさま、とーさまってあんたの後ろをついて回ってたあの真央が、今はもう他の男にゾッコンなんだから」
「……ただの友達として、ちょっと電話で話とかしてるだけだろ」
 少なくとも、月彦は真央からそう聞いていた。
「それを鵜呑みにしてるの?」
 背を向けていても、背後に居る狐がにやにやしているのが解ってしまう。
「あたしが知ってるだけで、あの子達三回は会ってるわよ。……あんたの目を盗んでね」
「……ッ」
「四回目がいつか知りたくない?」
「帰れ」
 吐き捨て、月彦は意味もなく教科書を取り出して机の上に広げる。
「……ねえ、月彦」
 ふわりと、背後からそよ風が来る――首の付け根の辺りに柔らかいものが押し当てられるのと、真狐の両手が首に絡んでくるのはほぼ同時だった。
「今からエッチしない?」
 なんとも艶めかしい声が、耳の裏を擽る。
「もう何日も真央とシてなくて、溜まってるんでしょ?」
 真狐の右手が、さわさわと喉を這い、胸元、そして股間へと下りていく。
「……やめろ」
「強がっちゃって。本当はヌいて欲しくてたまらないくせに」
 真狐の手が、寝間着ズボンの下に入り込む。
「ほら、もう堅くなってる」
「……っ」
「ねぇ、口でシてあげよっか?」
 さわ、さわと剛直を撫でさすりながら、耳の裏を舐めてくる。
「それともやっぱり、ナカがいい?」
「……やめろって言ってるだろッ!」
 真狐の手が寝間着ズボンを下ろし、剛直を取り出そうとした瞬間。月彦は強引に立ち上がり、真狐をはね除ける。
「お前が……お前と真央が、そうやって――…………だから、俺はっ……あんなっ…………!」
「何の話をしているの?」
 真狐は一瞬目を丸くしたものの、すぐにいつもの艶笑を浮かべる。
「……もう、俺に関わるな」
 月彦は再び真狐に背を向け、机の上に両手をつく。まるで、見えぬ何かに許しを媚びるように。
「“普通”に、戻りたいんだ……」
「普通ねぇ……。少なくとも、幼なじみの布団で夢精しちゃうような情けない目にはもう遭いたくない――っていう事かしら?」
「……っっ……お前っ……なんで――」
 言葉を失い、月彦は色も失う。真狐はただ、くすくすと笑うのみだ。
「ヤッちゃえばいいのに」
 それは文字通り、悪魔の囁きだった。
「無理矢理犯して、そのままあの子もオトしちゃえばいいのに」
「何、言って――」
「あの子だって、本当はそうされるのを望んでいるかもしれないわ」
「……っ……!」
「なんなら、“良く効く薬”でもあげよっか? 一粒飲ませるだけで、あの子がハァハァ言いながらにじり寄ってくるような強力なやつ」
「――ッ……五月蠅いッ! 黙れ!」
 真狐の言葉が、怖い程にするりと心の芯まで入り込んでくる。このまま聞き続けたら、本当にどうにかなってしまいそうで、月彦は自ら耳を塞いだ。
「お前の言葉にはもう、絶対に耳を貸さない」
「ふーん、後悔するわよ?」
 しかし、耳を塞いでも尚、真狐の言葉は些かも防げない。手が汗ばむほどに耳を押さえつけているのに、背後で漏れるくすくすという声すら遮断できない。
「明日の夕方、また来るわ。……真央が家を出た後にね」
「……明日、なのか!?」
 しかし、月彦が振り返った時にはもう、真狐の姿は無かった。
「……くそッ」
 舌打ちをした途端、微かに狐の笑い声が聞こえた気がして、月彦は苦虫を噛みつぶす。
(これじゃあ、アイツの思うつぼじゃないか――)
 思わせぶりな言葉で人心を惑わし、右往左往する様を見て笑いたいだけなのだ。
(そうだと、解っているのに――!)
 月彦は首を振って雑念を払い、階下へと降りる。冷水でも飲んで気を落ち着けようと台所へ向かうその途中で、偶然湯上がりの真央と遭遇した。
「父さま……」
 まるで、遭いたくないものにでも遭ってしまったような――そしてそれを必死に隠そうとしているような、真央の無理矢理の笑み。
 それが、どんな刃物よりも鋭く、月彦の胸を切り刻む。
(……真央が明日、あの男と会う約束をしてる……だと……)
 そんなものは嘘っぱちだ。そう、真狐のいつもの出任せだ。
 だから。
「……真央、明日学校が終わったら、久しぶりに買い物にでも行かないか?」
「えっ……」
 真央の表情が、露骨に曇る。
「で、でも……私、別に買いたい物とか無いし……」
「俺が、真央と一緒に行きたいんだ」
「……ごめんなさい、父さま。……明日はもう、由梨ちゃんと遊びに行く約束しちゃったから」
「…………そうか。先に約束があるんならしょうがないな」
 心に、澱が溜まるのを感じる。真央は、月彦と決して目を合わせようとしないのだ。
「じゃあ、父さま……私、義母さまの部屋に戻るから」
 背を向ける真央を、無論引き留めることなど出来る筈もなかった。


 翌日、月彦が学校から戻ると、家には誰も居なかった。
「待ちくたびれたわよ」
 珍しく洋装をした、招かれざる客以外は。
「……真央は?」
 黒のロングコートにケープ、ロシア帽を被っている真狐に突っ込むのも帰れと言うのも面倒くさくなって、月彦は己が知りたい事のみを口にした。
「ついさっき出かけたわよ。ずいぶんめかしこんで」
「友達と遊ぶ約束があるって言ってたな。そういえば」
「勿論、信じてるワケじゃないんでしょう?」
 くすくすと笑う真狐を無視して、月彦は階段を上がり、自室に鞄を置く。
「お前はなんでそんな格好してるんだ?」
「決まってるじゃない。あんたと一緒に尾行するためよ」
「俺は行かない」
「あら、どうして?」
「友達と遊びに行く真央をつけ回す必要が無い」
「無理しちゃって。本当は気になって気になって仕方がないクセに」
「お前と違って、俺は真央を信じている」
 口にした己自信、寒々しいと痛感するほど力のない声。
「……あっそう、じゃーあたしだけで見に行くことにするわ」
 くすくす。月彦の建前と本音、心の底まで見透かしたような笑いを残して、真狐はいともあっさり月彦の部屋から出て行く。
「……っ……!」
 真狐が去ったからといって、途端に胸中が穏やかになるというものではない。
(めかしこんで、出かけた……だと……?)
 本当は、解っている。真央が嘘をついていることも、そして本当は誰に会いにいくのかも――大凡見当がついている。
 真央を信じているわけではない。ただ、認めたくないだけなのだ。
「っ……くそっ!」
 だんっ、と机に拳を叩きつけても、何も解決はしない。しかし、何もせずただ座って真央の帰りを待つのも耐え難い。
 気がついた時には制服を脱ぎ、そして目立たない私服に着替えていた。机の引き出しから、かつて和樹らと共に買い物に行った際に衝動買いしたまま一度も使っていないサングラスを手に取り、部屋を出る。
「……行くんでしょ?」
 ドアの脇に立っていた真狐がくすくす笑う。
「ああ」
「だったらそのサングラスは止めた方がいいわ。余計に目立つから」
 銀河鉄道にでも乗るような格好をしている女には言われたくない、という言葉を飲み込み、月彦はサングラスをポケットに仕舞う。
(……結局、俺はこいつに踊らされるのか)
 解っていて尚、一足先に歩き出した真狐の後に続かずにはいられない。
「お前、真央の行き先を知ってるのか?」
「勿論」
 言うが早いか、真狐は颯爽と歩き出す。やむなく、月彦も後に続く。
「……真狐、一つ聞きたい」
「何よ」
「俺のサングラスは兎も角として、お前の服も絶対尾行向きじゃないと思うんだが」
「暗いところに居る事が多くなるから、これでいいの」
「……どこの剣士の理屈だ、それは」
 とはいえ、おっぱい丸出しの普段着(?)に比べれば、確かに胸が仕舞われている分慎ましいと言えなくもない。
(…………どっから調達してきたんだか)
 案外値札でもついてるんじゃないかと、しげしげと見ながら歩いていた矢先、真狐が唐突に立ち止まって危うく鼻面が追突しそうになってしまう。
「隠れて!」
 真狐に腕を引かれ、月彦は路地裏に引っ張り込まれる。
「何だよ、急に……真央が居たのか?」
「静かに」
 しぃ、と人差し指を立てられ、月彦は仕方なく黙る。
「…………」
 月彦が黙ったのを確認してから、真狐はそっと路地裏から大通りの方を盗み見る。月彦も好奇心を擽られ、真狐の顔のやや下から大通りの方を見る。
 真狐の背中ばかり見ていて気がつかなかったが、どうやら既に駅前の辺りにまで来ていた様だった。背広を着た男達や、電車通学の学生達でごった返す駅前のロータリーの一角に、明らかに異質な光を放つ人影があった。
(……真央!)
 めかしこんでいた――という真狐の言葉は嘘ではなかった。かつて由梨子を含め三人で出かけた時よりも明らかに気合いの入ったその服装に、めらめらと怒りすら覚える。
「どう見ても、“友達と遊びにいく格好”じゃあ無いわねぇ」
「……そうか? あんなの普段着だろ」
「あんなにソワソワして、誰を待ってるのかしら」
「……友達だろ」
 苦々しく呟いた月彦の言葉を全否定するように、“それ”は現れた。
「……白耀ッ!」
 和服の男が、文字通り振って沸くように現れ、真央に声をかける。かつて月彦の前に現れ、そして消えた時と同じ、何らかの術だ。
 突然現れた男に真央は驚くが、しかしすぐにその顔は笑みに変わる。
「……縮地、じゃあないわね。何の術かしら」
「お前でも解らないのか?」
 真狐は答えず、ふんと鼻を鳴らしただけだった。
「……意外と、曲者かもしれないわ」
 いつになく真剣な声に、月彦は咄嗟に真狐の顔を見た。真狐は瞬きもせず、白耀と真央を見据えていた。
「ヤバそうなら、お前が真央に言って聞かせりゃいいだろ」
「……それは無理ね。見てよ、あの顔」
 ついついと真狐に促され、月彦もそれを目にする。
「……っ、真央……!」
 二人が何を話しているのか、読唇術の心得が無い月彦には解らない。しかし、屈託のない笑みで、時折頬を赤らめながら指をもじもじさせている真央の浮かれ様だけは、嫌と言うほど確認できた。
「完璧にイカれちゃってるわ。もうゾッコンね」
「んなっ……」
 馬鹿な――そう思いたかった。しかし、こうして遠目に真央を見れば見るほど、眼前の男にどれほど心を奪われているのかを思い知らされる。
「……そうか、解ったぞ」
「うん?」
「真央はあの男に騙されてるんだろ? そうに決まってる!」
 そうでなくては、“あの”真央が他の男になど。
「術か、薬か。或いはその両方で、真央が自分に惚れるようにしてるんだろ。アイツならやりかねない!」
 二度しか会ってない、少し話しただけの相手をこれほどまで悪人だと思いこむのは、月彦としても初めての経験だった。
「……んー、可能性はゼロじゃないかもね」
「真央は正気じゃないんだ。だったら、最近の素っ気なさにも説明がつく!」
 むしろ、そうでなければならないと、月彦は自説を強烈に信じ込もうとする。
「まあでも、もしそうだったとしても、どうしようもないわね」
「え……」
「当たり前じゃない。相手はあたしが知らない様な術まで使う相手なのよ? 太刀打ちなんかできるわけないわ」
 文字通り、月彦は信じられないものでも見るような目で真狐を見る。今まで、この女が弱音を吐く所なんか見たこと無いからだ。
「勝てない喧嘩はしない主義なの。……アイツ、ヤバそうな臭いがプンプンするわ」
「そ、んな――」
「せいぜい、真央が正気で惚れてる様祈るのね」
 そんな事、死んでも祈りたくない――しかし、あの自信家の真狐がこれほどまでに怖じ気づくのだ。
(あの白耀って奴、そんなに凄い奴なのか……)
 そう思えば、遠目の後ろ姿にすら得体の知れないプレッシャーを感じてしまう。真狐も同様なのか、狭い路地裏の入り口はぴりぴりとした空気に包まれていた。
「……何処かに移動するみたいだわ」
「らしいな」
 話し込んでいた二人が、駅の入り口の方へと歩き出す。月彦は咄嗟に後を追おうとして、真狐に腕を掴まれる。
「まだ早いわ」
「でも、見失っちまうぞ」
「いいから、もう少し隠れてなさい」
 ぐいと腕を引かれ、路地裏に連れ戻される。文句を言おうと口を開き掛けた所で、ついと真狐が駅の方角を指さした。
「なんだ……?」
 真狐の人差し指の先を辿ると、そこにはずんぐりむっくりとした――あからさまに妖しい出で立ちの男が居た。否、男かどうか、性別すら定かではない。明らかに丈の合っていないトレンチコートにカンカン帽、サングラスにマスクをつけたその人影は、とてとてと今にも転びそうな頼りない走りで駅の中へと消えていく。
「ほら、ね。……尾行なんて、慎重すぎるくらいで丁度いいのよ」
「……なんだ、お前の知り合いなのか?」
 真狐からの返事はなかった。ただ、にたにたと。実に性悪狐らしい笑みを浮かべるだけだ。
(……こういう顔をするときのコイツは、頼りになる)
 月彦は経験から、そのことを知っていた。



 真央と白耀が電車に乗ったのを遠目に確認し、たっぷり三両間をとってから月彦と真狐も同じ電車に乗り込んだ。電車の混み具合はまずまず、座る席こそ無いが、まばらに立って乗っている人間がいるおかげで巧い具合に人混みに紛れる事が出来る。
「見て、あの子も乗ってる」
 真狐に促され、隣の車両――真央と白耀が乗っている車両の二両となり――に乗っている例の“着ぶくれ”を見る。丁度月彦達に対して背を向けるような形で、おかげで月彦にも“その子”の後ろ髪を見る事が出来た。
(……あの髪の色と、おさげは……)
 どこかで見覚えがある――しかも、そう遠い記憶ではない。月彦がかつて自宅を尋ねた、“非常識な二人組”の一人にまでたどり着くのに、それほど時間はかからなかった。
「あの時のメイドか!」
「なにやら複雑な事情がありそうじゃない。……フフフ」
 隣でつり革を持つ性悪狐がくつくつと笑む。きっと今、この微笑の奥では凄まじい悪巧みが計画されているのだろう。
(……そういう顔だ)
 大人しくしていれば美人なのに、と不謹慎ながらも月彦は思ってしまう。
「大きなお世話だわ」
「……だから心を読むな!」
「あんたは考えてる事が顔に出すぎてるの。……ほら、下りるわよ」
 気がつけば電車が止まり、真央も白耀も下りてしまっている。そして無論、あの変装メイドも。
 月彦も昇降する客に揉まれながら真狐の後に続き、真央達とは絶妙な距離をとりながら後をつける。
(そういや俺、なんで真央達の後をつけてんだ……)
 はたと、思う。
 既に真央が自分に嘘を突き、白耀と会っているのは確認済みだ。当初の目的は既に達成されている。
(……いや、待てよ。こういうのって、漫画とかでよくあるパターンじゃないか)
 主人公が自分の彼女は浮気をしているんじゃないかと疑い、後をつけた先で自分の親友と隠れて会っている所を目撃する。当然のように激怒し、主人公は間に割って入るが、しかし。実は彼女は主人公へのプレゼントは何が良いか、親友に相談していただけだった。
(……的なパターンとか…………無理だな)
 先ほど遠目に見た、白耀と話す時の真央の笑顔が忘れられない。あれは、ただ相談をしているとか、世間話をしているだけの顔ではなかった。
(……そいつのことが、本当に好きなのか)
 惰性で真狐の後に続いて、駅から出る。日は既に傾き、空には星すら煌めき始めている。日没と共に急速に気温が落ち、吐く息も白い。
「こんな寒い中、何処に行く気かしら」
「さあな。……真狐のそれ、暖かそうだな」
「あげないわよ」
 もう一枚上着を着てくりゃよかった――そんな後悔が頭をよぎる。
(帰っちまえばいいんだ……)
 真央が嘘をついた件なら、帰ってきた時に問いただせばいい。何も寒い中、物陰から物陰へ溝鼠の様に隠れて尾行することはない。
 しかし、どうしても踵を返す事が出来ない。真央の後ろ姿から、目が離せない。
「あ、止まったわ」
 真狐に言われるまでもなく、月彦は見ていた。二人が立ち止まったのは、長い塀に挟まれた、いかにも高級料亭でござい、といった風の建物の玄関口。戸惑い、躊躇う真央の手を引き、白耀が一足先に中へと消えていく。
「……ッ!」
 物陰から飛び出す一歩手前で月彦が止まれたのは、白耀の手を振り払った真央が外に出てきたからだ。後に続いて、白耀もまたばつが悪そうに顔を出す。
(見たか、真央は見ず知らずの男と料亭なんかに入る娘じゃないんだ!)
 月彦がホッとなで下ろすのもつかの間、今度は真央の方が白耀の腕を引き、やや離れた場所にあるファミレスのチェーン店へと入っていく。
「んなっ……」
「あらあら、真央も大胆ねぇ」
 絶句している月彦とは対照的に、真狐の呟きには感心すら込められていた。
「ば、馬鹿を言うな……たかが、ファミレスだ。……べ、別に……ホテルに男を連れ込んだわけじゃ、ない……」
 そう、たかがファミレス。しかし月彦の受けたダメージは大きく、支えなくしては立っているのも難しい程だった。
 不幸中の幸いは、二人が座ったのが窓際の席だったという事だ。尾行とはいえ、さすがにファミレスの中に入っていくには真狐の格好は目立ちすぎる。窓際の席ならば、外からの監視も容易い。
(……そしてあの子も)
 電柱に体の三分の二ほど隠すようにして、そっとファミレスの方を盗み見るその姿が、月彦と真狐の場所からは丸見えだった。さながら、トランペットのショーケースに張り付く少年のように、その後ろ姿は同情をかき立ててならない。
「なぁ、真狐……あの子……」
「んむ……?」
 一体いつ買ってきたのか、背後では真狐が肉まんを頬張っていた。
「…………いや、なんでもない」
 月彦は再び前を、窓際の席で談笑する二人とそれを見守る一人に目を向ける。
(……こんな時によく飯なんか食えるな)
 真央が他の男と一緒に居るというだけでむかっ腹が立ち、食欲どころではない。
(……まあ、こいつにしてみりゃ、真央が誰とくっつこうが面白けりゃそれでいいって事なんだろうが)
 そもそもこの尾行にしても、真央と白耀の様子を観察するというより、二人を見てやきもきする自分を見るのが一番の目的なのではないか。月彦は遅まきながらにそのことを懸念し、またちらりと背後を盗み見る。
「何よ、欲しいの?」
「…………いらん」
 食いかけを差し出そうとする真狐を残して、月彦は不意に物陰から歩み出る。特に考えての行動ではなかった。というより、本当に衝動的な――いうなればただの“なんとなく”――それが理由だった。
「あの……」
「……ッッ?!」
 月彦が声をかけた瞬間、トレンチ娘は文字通り飛び上がった。丁度、獲物を狙ってじりじりと尻を振っている猫の背中を不意にちょんと突いたときのような、見事な飛び上がり方だった。
「…………違ったらすみません。もしかしたら貴方は、白耀と一緒にうちに来た――」
 月彦は最後までしゃべることができなかった。トレンチ娘は月彦の顔を見た瞬間、言葉など全く耳を貸さずに一目散に逃げていったからだ。
「……そんなに、必死に逃げなくても、いいんじゃないかな」
 悪意など全くなかっただけに、一目散な逃走は月彦の心をちょっぴり傷つけた。
「何してるのよ。見つかるわよ」
「大丈夫、ここは死角――だ?」
 ちらりと窓際席の方を見て、月彦は色を無くした。先ほどまでそこに居た筈の二人の姿が消えていたからだ。
 ほぼ同時に、ファミレスの入り口の戸が開き、月彦は慌てて真狐の居る物陰へと戻った。
 恐る恐る振り返ると、ファミレスから出てきたのは真央と白耀に他ならなかった。
(……飯じゃなかったのか!)
 それにしては早すぎる。どうやら少し茶でも嗜んで出てきたらしいと月彦が推測するのもつかの間。
「あらあら、なんか雲行きが妖しくなってきたわよ」
 何かを提案しているらしい白耀と、それを渋る真央。二,三度そんなやりとりが続き、不意に白耀が真央に歩み寄り、その手を握った。そのままぐいと腕を引き、真央を抱き寄せる。
「あの野郎ッ!!!」
 その瞬間、月彦は我を忘れて物陰から飛び出していた。


「真央ッ!」
 己の一言が時間を止めた――そう錯覚してしまいそうな程に、真央も白耀も見事に動きを止めた。
「と、父さま……」
 真央は怯えるような声を上げ、白耀の手を振り解く素振りをする。が、しかし――白耀の方は真央を離す気は微塵も無い様だった。
「……丁度良かった」
 怯える真央とはうって変わって、白耀にはなんら悪びれる様子もない。むしろ、言葉の通り手間が省けたとでも言いたげな態度。
「今から真央さんを送って差し上げようと思っていた所です。お義父さまも一緒にいかがですか」
「嘘つけ。嫌がる真央を無理矢理連れて行こうとしてただろ」
「僕が? 真央さんを無理矢理?」
 何を馬鹿な事を――とでも言いたそうな、人を小馬鹿にした笑み。
(妖狐って連中は……!)
 真狐といい、白耀といい、つくづく人の神経を逆なでするのが得意らしい。
「……真央、いつまでそんな奴の側にいるんだ。こっちに来い」
「で、でも……」
「でもじゃない。来いって言ってるんだ」
 声に怒りすら含ませて促す。が――
「なっ……ま――お?」
 月彦の元に戻るどころか、その逆。まるで怖いものから逃げるように、そして助けを乞うように、真央はしっかりと白耀の元に体を寄せる。
「真央……どうして……」
「どうもこうも……これが真実ですよ、お義父さん」
 我が目を疑い、立ちつくす月彦の前で、白耀は真央の腰に手を回し、しっかりと抱き寄せる。
「ぁっ……」
「真央さんは、貴方よりも僕の側が良いと、そう言ってるんです」
「そんな馬鹿なことがあるか! 真央、眼を覚ませ!」
 悲痛な叫びは、しかし――真央の哀れみの視線しか呼ぶことが出来ない。
「……ごめんなさい、父さま」
「……真央……」
 ひしっ、と。真央は両手で白耀の和服にしがみつく。
「だって、父さまより……この人の方が――」
 そこで言葉を切って、ほんのりと頬を赤らめる。――瞬間、月彦はあまりのショックに嘔吐しそうになった。
「つまり、そういうことです。…………理解して頂けましたか?」
「……そだ、嘘だ! 真央が……そんな……お前が真央に何かしたんだろっ! でなきゃ――」
「……やれやれ」
 処置無し、とばかりに白耀は首を振る。
「何もしていない、と僕が言っても、決して信じてはもらえないのでしょうね。……真央さん、貴方の口からお義父さんを説得してもらえませんか?」
「……父さま、私は正気だよ。正気で、そして本気で……この人の事が好きなの」
「……ッ……!」
「父さまより……好きなの」
 がくりと、月彦は両膝をつく。
「嘘……だ……」
 月彦の呟きに、真央は首を振る。
「嘘じゃないの。……お願い、父さま……解って」
「嘘だ!」
 叫び、月彦はだんと地面に両手を叩きつける。痛みなど、毛ほども感じなかった。
「……真央さん、どうやら今日はここまでにしておいたほうが良いみたいです」
 頭の向こうから、白耀の声が聞こえた。
「お義父さんにも現実を見つめる時間が必要でしょう。今日の所は家に帰られて、そしてお義父さんと二人でしっかりと話をされた方が良いと思います」
 真央の返事は聞こえなかった。恐らく、頷くか首を振るか――言葉以外のもので返事をしたのだろう。
「では、真央さん。……また会える日を楽しみにしてます」
 足音も立てず、白耀の気配が消える。例の、真狐も知らないと言っていた術を使ったのだろう。
 程なく、小さな足音が近づいてくる。
「父さま。…………帰ろ」
「……ああ」
 墓石をずらした音と聞き紛うような、嗄れた声で返事をして、月彦はゆらりと立ち上がる。
 どちらともなく駅へと歩き出す。途中、月彦も真央も一言も口を利かなかった。
「……真央、俺に嘘をついたな」
 月彦がその一言を漸く絞り出したのは、最寄りの駅を下りて自宅が見えてきた頃だった。
「……うん」
 さすがに悪いとでも思っているのか、真央の返事は小声だった。
「今までにも、何度か会っていたのか、あいつと」
「うん」
「……好き、なのか」
 間が、すこし空いた。その間が、月彦にささやかな期待を持たせたが、しかし結果的に、月彦は裏切られた。
「うん、好き」
「……そうか」
 帰宅するまで、月彦はもう口を開かなかった。当然、どこぞに消え失せた真狐の事など、念頭にも無かった。


 



 それはかつて、朧身の術と呼ばれたものだった。己の体を粒子――不可視の霧と変じ、雲が月を隠すように身を消す。幻術と組み合わせれば“敵”の目を欺き逃げる事も、そしてその背後を取ることも容易。
 しかしその様な術も平時、ましてや妖の身同士での争いが禁忌とされた人界においてはただの移動手段にしかならない。
 白耀が朧身から本来の体へと転じたその場所は、最初に真央を連れて入ろうとした高級料亭のさらに奥、その庭園だった。何故なら、その料亭の奥にある屋敷こそ人間としての“真田白耀”の邸宅に他ならないからだ。
 無論、料亭の中で働いている者達は白耀の正体など知るよしもない。彼らはごく普通の、ただの人間であり、彼らにとって白耀というのは料亭を取り仕切る若旦那以外の何者でもないからだ。
 そして彼らは――彼ら自身は自覚すらしていないだろうが――白耀が施した戒めによって、料亭のさらに奥、母屋とも言うべき部分には決して足を踏み入れない。唯一、そこに居るのは――。
「……おかえりなさいませ、白耀様」
 ちりんと鈴を鳴らして一匹の猫が――否、日本庭園にはあまりに似つかわしくない、洋装の従者が姿を現す。その背後には、白耀のものとは違う、猫のような長い尾がゆらゆらと立ち、その先端に結ばれているリボンについている鈴が、ちりちりと鳴る。
「どちらに、行ってらしたのですか」
「真央さんに会ってきた」
 従者は、ぎゅうとエプロンドレスを握りしめる。
「……嘘も、ついて下さらないのですか」
「どうして僕が嘘をつく必要がある、菖蒲?」
「それは……」
 立ちつくす従者――菖蒲の脇を抜けて、白耀は母屋に上がる。その足下を小人のような影がとてとてと駆けていく。生物ではない、白耀の妖気を受けて動く雑事用の木偶人形だ。
「食事の用意はまだの様だな」
「申しわけありません……外で、済まされるものだとばかり」
「その予定だったが、真央さんに断られた」
 白耀は苦笑する。
「だが菖蒲。君が何故そのことを知っている」
「…………」
「あれはお粗末な尾行だった。……変装をするなら、もう少し丈にあった服を選んだ方が良い。君があまりに目立つから、おかげで紺崎氏の追跡にまで気が回らなかった」
「……酷で、御座います」
 背後で呟かれたその言葉に、白耀は身を翻す。
「どういう意味だ」
「私は、百七十年……白耀様にお仕えしてきました」
「……もう、そんなになるか」
「今でも克明に覚えています。同族殺しの罪で、桜舜院様の元に居られなくなった私を……白耀様は優しく迎えて下さいました。……あの時のご恩は、片時も忘れておりません」
「あれは……君の責ではない。君を手放さねばならなかった桜舜院殿もさぞ辛かっただろう」
「……百七十年で、御座います」
 洋装の従者は、きゅうと唇を噛みしめる。
「言葉では、幾度と無く褒めて頂きました。労って頂きました。……でも、一度たりとも触れて貰った事は――ありません」
「それは……解っているだろう。菖蒲、君も……僕の体の事は」
「あの娘には、触れてらっしゃいました」
「……それも、何度も言った事だろう。真央さんの事は、君も納得してくれたんじゃなかったのか?」
「……納得など――」
「あの娘だけなんだ。……触れられても、大丈夫だったのは」
 白耀は思い出す。約一月前――所用で街に出たときに、曲がり角でたまたまぶつかった相手が、他ならぬ真央だった。その時は何もなく、真央もごめんなさいと頭を下げてそそくさと走り去っていった。恐らく、真央はそのことを覚えてもいないだろう。
 だが、白耀は覚えている。何故ならば、彼にとって真央との出会いは一つの衝撃だったからだ。曲がり角で女性とぶつかり、そのまま何事も無かったように別れる――それは本来ありえない事だった。
「君でも駄目だった。ましてや、他の娘など論外だった。……でも、あの娘は」
 女体恐怖症。女性には触れる事の出来ない体――それは己の宿命だと、白耀は思っていた。否、たとえ直接触れられなくとも、視界に女性の姿が映るだけで心はかき乱され、心臓が逸る。さらに近づかれれば脂汗が滲み出、顔面は蒼白。例え衣服越しであろうとも触れられようものなら呼吸すら困難になり、金縛りの様に手足が動かなくなる。
 そんな体質を呪った年月よりも、最早諦め、共存を考えた年月の方が長かった。
「……真央さんなら、僕のこの体を、治してくれるかもしれないんだ」
 暗雲の中に差し込んだ、一筋の光明。その所在を突き止めるのにかかった時間の分、想いが募った。住む家が分かったその日の内に求婚を申し込んだのは、それだけの決意が既に固まっていたからだ。
「解ってくれ……菖蒲」
 出来ることなら、そっと抱きしめ、髪を撫でながら諭してやりたかった。しかし、白耀の体は、彼がそれ以上従者に近づくことを許さなかった。
 従者からの返事を諦め、白耀がくるりと踵を返し、数歩廊下を歩んだ時だった。突然背後から、その心臓が差し貫かれた。
「……ッが……!」
 そう錯覚してしまう程に、凄まじい衝撃だった。何が起きたのかを理解しようと、己の体を見下ろした時。白耀は見慣れた袖と手が、己の胴にしがみついていることに気がついた。
「あ、菖蒲……」
 まさか、と思う。白耀の体がどういうものか、長年仕えたこの従者が一番解っている筈だった。
「……私では、駄目なのですか」
 細腕に、ぎゅうと力が籠もる。
「あんな……昨日今日現れたような小娘に……白耀様を取られるなんて、我慢……できません」
「っ……はな、せ、菖蒲――」
 ばくん、ばくんと心臓が高鳴る。呼吸も難しく、全身から脂汗が溢れ、高熱の時の様に震えが止まらない。
「はや、く……僕は、君を……突き飛ばしたくは、ない――」
 しかし、従者は一向に離れる気配がない。それどころか、ますます両腕に力を込めて密着してくる始末だ。
「あや、めぇえッ!!」
 意識を失しかける寸前、白耀は渾身の力で従者の腕を振り払った。小さな悲鳴と共に、従者の体が廊下に叩きつけられる音を聞きながら、白耀自身もがくりと膝をつく。
「はぁっ、はぁっ……はぁっ…………」
 あれほど苦しかった呼吸が、徐々に楽になる。発汗も収まり、震えも取れる。
「……酷で、御座います」
 廊下に伏したまま、従者がぼつりと呟く。
「…………噛み殺して、やりたい」
「……菖蒲?」
 従者の、ぞっとするほど暗い声に、白耀は肝を冷やす。
「この爪で胸を引き裂いて、肝を握りつぶして……のど笛を噛みちぎってやりたい」
 かりかりと、廊下を引っ掻く従者の爪。それは白耀が普段目にする、きちんと形の整えられたいつもの爪ではなかった。異様なほど鋭く尖った――妖猫の、爪。
「僕が憎いと、そう言いたいのか」
 菖蒲は答えず、ただ首を振る。が、しかし……その指はもの言いたげに蠢き続ける。
 かりかり、かりかりと。
 漸く廊下を掻く指が止まった時には、その爪も丸みを帯びた、従者らしいそれに戻っていた。
「お見苦しい所を。…………どうか、お許し下さい」
 すっくと立ち上がったその立ち様は、いつもの。貞淑な従者然とした、白耀が最も見慣れた姿だった。
「……湯の加減を、見て参ります」
 しかし、目元だけは。前髪の下に伏せたまま、決して白耀に見せようとはせず、菖蒲はしずしずと廊下の闇に消えていく。
「菖蒲……」
 呟き、白耀は従者の消えた廊下から、外へと目を移す。夜空には、痩せこけた三日月が一つ。それが庭園の池に映りこみ、ちゃぽんと音を立てて鯉が水面を揺らす。
 水面の波にゆらゆらと揺れる月を、白耀はいつまでも見ていた。

 

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