「じゃあ、これ……夕飯代」
 差し出した千円札を、武士は無言で受け取り、ポケットに仕舞う。
 今日は、“彼氏”が来るから遅く帰れ――それが武士との間に生まれた暗黙の了解だった。
 ちらりと、武士の目がテーブルの上へと動く。未だ蓋のされていない弁当箱が二つ。一つは、由梨子の分。もう一つが誰の分であるかも、既に武士の知る所だ。
 人並みの――所謂姉弟としての及第点以上でも以下でもない、その程度の関係。しかし、それも月彦との事があってからは、やはり武士の態度はどこか奇妙なよそよそしさがあった。
(或いは――)
 自分の方こそ、武士に対してそう接しているのかもしれない。家の中では出来うる限り今まで通りの自分で居ようと努めてはいるが、こうして武士に家を空けるように促している時などは否が応にも自分は“姉”ではなく“女”なのだと自覚させられる。
 不意に、くすりと武士が口元を歪めた。
「……何で笑ったの」
 まるで心の底を見透かされたような気がして。由梨子はつい尋ねてしまう。
「いや、別に」
 武士は一瞬、そのまま踵を返して玄関に向かおうか――というそぶりを見せ、しかしその動作を途中で止める。体半分を由梨子に見せるような体勢で、ぽつりと。
「やっぱり姉貴も、あの女の血が入ってるんだな、って思った。そんだけ」
「……っ……武士、それどういう――」
 武士からの返答は無く、今度こそくるりと背を向けるとそのまま一気に玄関の方へと抜けていった。由梨子には武士を追うことも、それ以上声を掛ける事も出来なかった。
(私が……母さんに似ている…………)
 その事実が、息苦しいほどに鋭く胸の奥に突き刺さる。ばたんっ――玄関のドアが閉まる音が、ひどく遠く聞こえた。


 

『キツネツキ』

第十八話

 

 


 
 武士は時折、母親の事を“あの女”と呼ぶ。一体いつからそう言い始めたのかは解らないが、部活の朝練の件で揉めた後からその割合がいっそう多くなったのは間違いがない。
 由梨子は一度たりとも武士に確認を取ったことはないが、“あの女”が母親の事を指す単語である事は解っていた。何故なら、由梨子にも武士がそのように呼ぶ気持ちが理解できたからだ。
 武士の朝練の件だって、早起きするのが辛いのは偏に夜の帰りが遅いからに他ならない。初期の頃こそ家に電話を入れたりしていたが、由梨子達が特に不平不満を言わぬ事を幸いと思ったのか、最近ではその電話すら無いばかりか家にすら帰らない事もある程だ。
 しかし由梨子も、そして武士も何も言わない。由梨子にしてみれば――少し前までならば兎も角――母親の帰宅が遅い方が月彦を招きやすくもあるし、そんな由梨子が家事をやっているうちは武士としても特に不便を感じないからだ。
 そう、都合はよい。しかしそのことと、親として尊敬できるかという事は別問題だ。父親が家を空けている隙に他の男に現を抜かし、子育てを放棄する母親を好く子など居るはずがない。無論由梨子も、ああはなるまいと、そう思いながら生きてきた。
 それだけに、今朝の武士の言葉がショックだった。否、それがただの言いがかり――一食分の金で追いやられる弟の苦し紛れの不満であったならば、由梨子もそこまで心を揺らされはしなかったかもしれない。
 そう、由梨子自身、武士に言われて気がついたのだ。自分がやっていることはまさしく、母親がしていることと同じなのだということに。
 月彦と会うには武士が邪魔だから、金を与えて追い払う。ただ、男と会う場所が家の中か外かという違いだけで、やっている事は同じ。武士は由梨子に対して表立って文句は言わない。無論、最初に切り出したのが武士の方から――というのもあるだろう。しかし、心の内では――やはり呼ばれているのだろうか。“あの女”と。
(違う、私は……)
 武士の母親ではない。普通の高校生だ。好きな相手が出来て、一緒に居る為に努力をする事の何処が悪い――そう必死に自分に言い聞かせる。しかしそれでも、由梨子の心は晴れない。
 “あの母親”も、昔はそうだったのではないか。
 自分も母親になったら、ああなってしまうのではないか。
 そんな不安が始終由梨子の心を締め付けてくる。故に――折角月彦と会える日だというのに――由梨子は憂鬱だった。


「由梨ちゃん、今日は朝からずっと元気ないけど、どうしたの?」
 真央に声をかけられたのは、三時限目が終わった直後だった。一応、普段通りに振る舞っていたつもりでも、やはり……伝わってしまうものらしい。
「……ちょっとお腹が痛くて」
「大丈夫? 保健室行く?」
「いえ、その……そっちじゃなくて……」
 アレです、と小声で囁くと、さすがに真央も察した様だった。
「あっ……ご、ごめんね……私、まだだから……その、よく分からなくて」
「……生理痛なんて、無いなら無いままの方が良いですよ」
 真央の“まだ”の意味は生理痛を感じた事が無いという意味だと、由梨子は理解した。
(……本当の理由なんて、言えない)
 ただでさえ、由梨子は真央に負い目がある。自分の無理な願いで、月彦に二股をかけさせている立場上、常に真央を騙している事になるからだ。
(いっそ、真央さんが……)
 円香のような、自分にとって嫌いなタイプであれば、そのような負い目も感じずに居られるのに。――そして、その思考こそ“あの女”の血を引いた自分らしい、酷く歪んだ考え方であると気づいて、また自己嫌悪が沸く。
「……真央さん、一つ聞いてもいいですか?」
「なに?」
「真央さんは……真狐さんの事が、お母さんの事が好きですか?」
「えっ……」
 真央はまさに虚を突かれた――という顔で、しばし言葉を失ってしまう。
「うーーーーーーん…………条件付きで好き……かな……」
「条件付き?」
「うん。……母さま、ああいう人だから……時々無茶するの。だから……普通にしてくれてるときは好きなんだけど……」
「ああ……」
 由梨子は先日のボウリングでの件を思い出して、ふふふと笑みを漏らしてしまう。
「あとね、時々……とう――月彦先輩にもちょっかい出したりするの」
「……出し――てましたね」
「だから、そういう事をしない時は……好き」
「そうですか……」
 羨ましいです、と続けてしまいそうになって、由梨子はハッと息を呑む。自分は一体、何故真央にこのような質問をぶつけているのか。
(同意が、得たいのかもしれない……)
 母親が嫌いなのは、自分だけではないと。同じく放任(?)されている真央からそれを確認して安心したいのかもしれない。
 しかし、真央は母親の事は条件付きだが好きだと言った。そのことに安堵と、落胆の両方を由梨子は感じる。
「じゃあ、真央さんは……真狐さんに似てるって言われたら、嬉しいですか?」
「うーーーん…………それも、条件付きで…………嬉しい……かなぁ…………」
 真央にとってよっぽど難しい質問だったのか、眉根を寄せてこれ以上ないくらい唸った後、そんな解答。
「あのね、先輩は……大きなおっぱいが好きなの」
「大きい――」
 ハッと、由梨子は反射的に胸元を左手で隠しそうになるも、辛うじて動きを止める。
「それも、母さまくらい大きいのが一番いいんだって。だから……“そこ”だけは似てほしいんだけど……」
「……大丈夫ですよ、真央さんなら、きっと……」
 由梨子はちらりと、真央の胸元を見る。そこには既に、高校生離れした巨乳が、さも重たげにゆさりと制服の形を歪めている。
(……先輩は……真狐さんくらい大きな胸が…………)
 一度は止めた筈の左手が、いつの間にか由梨子の胸元を隠すように押さえつけていた。


 真央から聞いた話で、午後の授業はさらに憂鬱な気分で過ごした。最早由梨子の心の支えは放課後の月彦との逢い引きだけだった。
(今日は……先輩に甘えちゃおう……)
 週に何日とない、月彦と二人きりの時間を持てる日なのだ。その時間が間近に迫っているというだけで、陰鬱な気分も幾分は晴れやかになるというものだ。
「それじゃあ、真央さん。帰りましょうか」
 HRが終わり、教室中に椅子を引く音が響く中、由梨子は笑顔で声をかける。いつもなら、そこですぐに同意の声が帰ってくるのだが、今日に限って――
「……あのね、由梨ちゃん。ずっと、言おうと思ってたんだけど……」
「はい?」
「やっぱり、毎日家まで送ってもらうのって、由梨ちゃんに悪いから……その、今日からは……」
 ぞくんっ……。
 そんな悪寒めいたものが、由梨子の体を突き抜けた。それは虫の知らせよりも痛烈な衝撃をもってやってきた――そう、所謂“嫌な予感”と呼ばれるものだ。
「少し待てば、先輩のクラスも終わると思うし……今日から先輩と一緒に帰ろうかなって――」
「それ、は――」
 ダメだと、由梨子には言えなかった。反対する理由を見つけられなかった。真央は、月彦の“彼女”だ。その真央が月彦のクラスが終わるのを待って帰りたいと言い出すのはごくごく自然な行動だ。それを止めようとする由梨子の方にこそ“不自然”が生じてしまう。
(……それに、そんな事をしたら)
 真央に自分と月彦の関係を気取られるかもしれない。由梨子は決して真央を侮ってはいない。むしろ、そういった“女のカン”は他の女子よりも遙かに鋭いと見ている。だからこそ、由梨子は軽々に反対をしなかった。
(でも、なんで今頃……)
 それも今日、この日に限って――と思ってしまうのは勘ぐりすぎだろうか。由梨子は思い出す。確か前にもこういう事があったと。そう――月彦に初めて弁当を作っていった日にも、真央に聞かれたのだ。何人分作ってるの?――と。
 あの時も、思った。何故今日に限ってと。ひょっとして真央は感づいているのではないかと。しかし結局は杞憂――そう結論づけた。――しかし、偶然も二度続けば偶然では無いとも言える。
 いや、それこそ勘ぐりすぎだ。心に疚しいことがあるから、何でもないことでもすべて疑わしく思えてしまうだけだ。そうに違いない――由梨子は必死に、己の心を宥める。
「由梨ちゃん、どうしたの?」
 長らく黙っていたからだろうか。真央がさも不審そうに顔を覗き込んできていた。
「あ、いえ……考えてみれば、確かに真央さんにはその方がいいかもしれませんね」
 ハッと我を取り戻すと同時にそんな言葉が口を飛び出す。真央の不審そうな目に晒されて、由梨子は冷や汗をかくが、表面上は悟られないように必死に取り繕う。
「由梨ちゃん……もしかして、私が月彦先輩と帰るのに反対なの?」
 真央の言葉が、凍った手となって由梨子の心臓を鷲づかみにする。反射的に、由梨子は右手で己のスカートを握りしめていた。
「そんなわけ無いじゃないですか。……私はただ、真央さんと二人きりで帰れないのが残念なだけです」
 そう、もし真央に見破られたのならば。自分が真央が月彦と帰るという事に対して難色を示していると悟られたのならば、それは“真央と帰れないから”であると思わせなければならない。
「そう……なんだ。ごめんね……私も由梨ちゃんの事好きだけど、でも……やっぱり先輩の事が――」
「ええ、解ってます。私の事は気にしないで下さい」
 そう言って笑って、この場は終わり。――由梨子の予測では、その筈だった。
「ねえ、由梨ちゃんも私達と一緒に帰る?」
 踵を返して話を切ろうとした瞬間、真央からそんな言葉を投げかけられて由梨子はハッと身を固めた。
(……先輩と、一緒に帰れる……?)
 その響きが、甘い波紋となって由梨子の心を揺らす。
(いや、でも――)
 これは罠だと、瞬時に思った。それは殆ど直感に近いものとなって、由梨子の頭を満たした。
「……いえ、遠慮しておきます。真央さんと先輩の邪魔をしたくはないですから」
 由梨子は再度微笑んで、そして足早に教室を後にした。教室を出ても、廊下を曲がって階段を下りても、後ろを振り返れなかった。振り返って、もし真央と目があったら、今度こそボロを出してしまいそうだったから。
(真央さんは、私を疑ってる……)
 真央の最後の言葉を聞いて、由梨子はそう感じた。理由は分からない。しかし、最後のあの問いかけは間違いなくカマをかけてきたのだと確信した。
 由梨子は対外的には平生を装い、昇降口で靴に履き替える。が、しかし踏み出したその歩みは重い。気のせいだと、今まで何度も誤魔化してきたものが、一気に首を擡げ、不可視の蛇となって体に絡みついて来ているかのように。
(違う、私は……完璧に演じきっている……)
 ボロは出していない筈だ。いつもの邪推だと己を宥めながら歩き続け、校門に差し掛かる所で、由梨子は不意に後ろを振り返った。視線の先は、先ほどまで己が居た教室――そのベランダに真央の姿を見つけて、由梨子は肝を冷やした。
 真央はさも自然に、二階のベランダの柵に乗り出すようにして由梨子に手を振っていた。そう、まるで由梨子がそこでそうして振り返ると知っていたかのように、至極当たり前の仕草で。
 由梨子も軽く手を振り返す。真央もまた、笑顔で手を振り返してくる。しかし――距離があるからだろうか――由梨子には真央のその笑顔が、ひどく作り物じみたものに見えた。


 


 失意半分疑念半分で家に帰った後、由梨子は自室で呆然と過ごした。机に鞄を置いたまま、着替えもせず、ただベッドの上に仰向けに寝て天井を見る。――否、目を開けてはいるが、何も見えていない。そんな状態で、頭の中を巡るのは月彦と真央の事ばかり。
 そうして一時間ほど過ごした頃、不意に携帯が鳴った。体を起こしてスカートのポケットから携帯を取り出してみると、液晶画面には“紺崎真央(自宅)”と表示されていた。無論由梨子はすぐに通話ボタンを押した。
『もしもし、由梨ちゃん?』
「先輩っ……!」
 待ちこがれた声に、由梨子はつい大声で返してしまう。
『ごめん、なんか真央が気まぐれ起こしたみたいで』
 どうやら月彦にとっても寝耳に水の出来事だったらしいというのは、その狼狽した声から嫌でも想像がついた。
(真央さんは“前から言おうと思ってたんだけど”って言ってたけど……)
 やはりあれは方便だったのかと、由梨子は月彦と話を続けながら思案する。
『今もなんとか部屋を抜け出してきたんだけど……ごめん、今日はちょっと無理かもしれない』
「…………仕方ないですよ。真央さんだって、先輩に甘えたい日もあると思いますし」
 明るい声とは裏腹に、由梨子は左手でベッドシーツを握りしめていた。仕方がない事など無い。真央の事は何が何でも振り切って、自分に会いに来て欲しい――そんなエゴが、むくむくと由梨子の中で膨れあがる。
「先輩が真央さんを優先させるのは至極当然だと思います。私の事なんで気にしないで、今日はいっぱい真央さんに構ってあげて下さい」
 己の中で暴れようとするその“怪物”を、由梨子は理性という刃で必死に押さえ込む。……押さえ込もうとする――が、それでも、言葉の中には毒が交じってしまう。それを自覚して尚、由梨子はどうすることも出来ない。
『…………本当に、ごめん』
 月彦の立場としては、そうとしか言えないのだろう。それは由梨子にも痛いほどに解る。それでも、由梨子は心の奥底で待ち望んでいた。やっぱり逢いに行ってもいいかな――その類の言葉を。
 しかし。
『……ごめん、あんまり長電話すると、真央が降りてくるかもしれないから』
 由梨子が望む言葉が出ることなく。
『明日は絶対――あっ』
 ブツッ、と唐突に通話は終了した。恐らく、真央の足音かなにかを聞きつけて、慌てて電話を切ったのだろう。由梨子もまた中折れの携帯を閉じ、そのままベッドの上に投げ捨てる。ぱふんっ、と再び仰向けになって、天井を見る。
「明日……」
 普段ならば、明日こそはと舞い上がっている所だった。しかし、今の由梨子にはとてもそのような気力はなかった。
(明日は絶対――)
 大丈夫――そう思いたかった。しかし、同時に思う。また、真央に邪魔をされるのではないか。
(……先輩に、会いたい…………)
 まるで気落ちした由梨子の隙に入り込むように、その悪寒は唐突にやってきた。


 無愛想なオヤジの視線に見送られて店を後にすると、外は身を切るような寒さ。しかし、雪が降ったいつぞやの晩よりはマシだと武士は思う。それでも尚スポーツバッグからマフラーを取り出してしまうのは、寒がり故だ。
 とはいえ、今更背後のラーメン屋に戻るわけにもいかない。“部活の後、友達と飯を食う”というのは建前で、大抵の場合は誰も彼も家に帰れば夕飯が待っているものだ。ましてや、このように寒い日に外を出歩いてまで外食して帰ろうという心も懐も暖かい中学生などそうそう多くはない。
 部活帰りに一応声はかけたものの色よい返事はなく、仕方なしに一人でラーメン屋へと赴いた次第。それでも、長い時間をつぶせるものではない。
(…………まだ、帰っちゃマズイよなぁ)
 携帯を開いて時刻を確認すると、本来帰り着く時間から一時間も過ぎていない。やはりもう少し調理に時間のかかる料理を夕飯に据えるべきだったかと後悔しながら、武士は夜道を歩く。
 武士自身、姉に――由梨子に彼氏が出来たという事実をどう受け止めて良いのか解りかねていた。からかえば良いのか、我関せずを通せば良いのか。そのどちらを由梨子が望んでいるのか計りかねるのだ。
 無論、家に男を連れ込むなんて――と軽蔑したくなる気持ちも少なくはない。しかし、だからといって本当に軽蔑してしまえるほど、幼くもない。
(姉貴だって人間だ……)
 人を好きになることだってあるだろう。その相手と二人きりになりたい時もあるだろう。ならば、帰りを少し遅くするくらいは手を貸してやってもいいかな――そう思ったからこそ、由梨子に夕飯の件を切り出したのだ。
 だが、そのような善意で言い出した事も、由梨子にそうするのがさも当然のように金を渡されては、嫌味の一つも言いたくなる。――しかしその一言が、どうやら思った以上にショックだったらしい事は、由梨子の反応から嫌でも解った。
(……まぁいいか。今頃は彼氏とイチャついて、機嫌も治ってるだろ)
 今日はいつもよりさらに遅く帰るか、と武士は一人ごちる。
 さて今日はどうやって時間を潰そうかなと思案しながら歩き、大通りに出る。中央に分離帯を含んだ道路の向こう側に出来たばかりの古書店を見つけ、武士の腹は決まった。しかし左右を見ても手近な所に横断歩道は見あたらず、その代わりとでもいうように歩道橋が目に入った。
 特に急ぐ理由もないから――そもそも時間を潰さねばならないのだから――のんびりと歩道橋の根本まで歩き、いつもは二段とばしで上がる階段も一段ずつゆっくりと上がる。人用の段差と、自転車用の斜面が交じった階段を中程まで上り、狭い踊り場に差し掛かった頃、漸く武士は気がついた。
「あれは……」
 歩道橋の半ばよりやや対岸よりの場所に人影があった。柵から上半身を乗り出すようにして、流れる車のライトを何処か夢うつつの目で見つめるその顔に、微かな見覚えがあって、武士ははてと首を傾げて記憶を探る。
「ちょっ、マジ――」
 しかし、武士が記憶を探り当てるよりも早く、その口から声が飛び出た。咄嗟にスポーツバッグをその場に落として、三段とばしで残りの階段を駆け上がる。
 武士が歩道橋の最上部にまで上がりきった時、人影は柵の上についた手を伸ばし、さらに足を乗せようとしている所だった。一も二もなく武士は走り、半ば以上タックルするようにして飛びつき、柵から引きはがした。
「はあっ、はあっ、はあっ…………あ、ぶね……」
 縺れるようにして歩道橋の上に倒れた後、先に立ち上がったのは無論武士の方だった。左膝の辺りに微かに痛みが走るのは、倒れ込む時に地面で擦ってしまったからだろう。
「痛っ……くそっ……おい、あんた……一体どういう――」
 と、そこで漸く、武士は己が助けた相手の顔を見た。それが誰であるのかも――そして、武士の知っている姿からどれほど変わってしまっているのかも、人目で解った。
「……円香、さん?」
 佐々木円香は、抜け殻のような目でただ虚空を見つめていた。



 本当に悪い事をしてしまったと、月彦は一晩中心を痛めた。無論、由梨子との事だ。
(今日こそは、絶対に……!)
 朝、家を出る際の月彦の決意は固かった。由梨子との逢い引きを邪魔する唯一にして最大の障害の真央に対しても「今日は用事があるから一緒に帰れない」とにべもなく言い捨てるほどの強固な意志だ。これは月彦の性格上(そして真央に対しての甘さ上)まれに見る強引さと言わざるを得ない。
「どうして? 父さまは私と一緒に帰りたくないの?」
「今日は友達と遊びに行く予定なんだ。だから真央とは一緒に帰れない」
「……父さまは、私が一人で帰って、知らない男の人達に攫われちゃってもいいの?」
「そういう時のために姉ちゃんに携帯を貰ったんだろ? それに俺じゃなくても、家が近い子と帰ったりすればいいじゃないか」
 朝の登校途中、真央が何度も駄々をこねたが月彦はぴしりと言い放った。真央のほうも月彦の強固な意志を感じ取ったのか(或いは浮気ではないと納得したのか)渋々引き下がった。
(さあ、これで今日こそ由梨ちゃんと……)
 ただでさえ、先だってのデートの件が雪乃の強引な割り込みでおじゃんになっているのに加えて今回の一件だ。さすがの月彦も、最早弁明の言葉が無く、電話口で平謝りするしか無かった。
 帰ってきた由梨子の言葉の、なんと潔かった事か。それが逆に、月彦の罪悪感を倍増させ、今日の意志の堅さを産んだとも言える。何が何でも由梨子の元へ馳せ参じるという決意が、まるで不可視のオーラの如く身を包んでいるかの様だった。
 しかし、家を出る際には漲っていたそのオーラが、校門に差し掛かった辺りで俄に揺らいだ。というのも――
「あれ……」
「どうしたの?」
「いや、だって――」
 いつもなら、と月彦は続けそうになって、ハッと口を閉じる。口を閉じたのは、真央の目に気がついたからだ。心の底を透かすような目に、月彦はゾクリと肝を冷やす。
「そもそも、今までが変だったんだよ」
 口を閉じても、尚。まるで月彦が言わんとした事が解るかのように、真央が続ける。
「私はもう学校に慣れたし、由梨ちゃんが校門で待ってる必要は無いよね?」
「……それはまぁ、そう……なのかな」
 もしかして、真央が何か言ったのだろうか――そのような推測をたてながらも、月彦はそれとなく周囲を見渡して、由梨子の姿を捜す。しかし、視界の何処にもその姿を見つけられなかった。
 そんな月彦の腕に、ひしっ、と真央がしがみついてくる。途端、周囲から向けられる殺気の量がそれまでの十倍近いものになる事など、真央はお構いなしらしい。
「……これで、行きも帰りもずっと二人きりだね、“先輩”」
 真央に合わせてその事を喜ぶそぶりを見せようとするも、掴まれている腕に爪を立てられている事の方が気になって、月彦は苦笑しか返せなかった。

 真央と別れた後、やはり由梨子の事が気になって、月彦はこっそりと調べてみる事にした。できれば前回のように雪乃に頼みたい所だったが、さすがに同じ生徒を二度も(それも女子生徒)となれば、雪乃も勘ぐり始めるかもしれない。故に、月彦は真央に気取られないようにしながらも、己の力のみで調べねばならなかった。
 休み時間、何気なく移動教室のフリをしながら教室の前を通ったりして観察した結果、どうやら今日は休みらしいという推測を得た。
(……まさか、昨日のことで…………)
 と考えてしまうも、さすがにいくらなんでもあの由梨子がへそを曲げて学校を休むという事は考えられない。ということはやはり、順当に考えると体調不良という事だろうか。
 出来れば出席簿を見て欠席理由を確認したかったが、他クラスの出席簿を見せて貰う理由がどうしても思いつかず、それは断念した。
(……見舞いに行けば、その理由も分かるか)
 学校が終わったらすぐ行こうそうしよう、と心に決めていたのもつかの間。“それ”は昼休みの始まりと共に、不吉な足音としてやってきた。
「おい、さすがに今日は付き合うよな?」
「……ああ、昼飯だろ。解ってるって」
 和樹や千夏は、月彦の普段の弁当を見慣れている。故に、由梨子が弁当を作ってきた時は何かと理由をつけて昼食を別途取るようにしていた。
「いや、そうじゃねえ」
 しかし、どうやら友人の用件は違うようだった。その口元が、意味深に歪む。
「今日の放課後。千夏達と一緒に遊びに行くんだが、勿論お前も来るよな?」
「……悪い、行きたいのは山々なんだが、今月はもう金が――」
「心配するな、千夏がバイト代出たからアイツの奢りだ」
 断ろうとした矢先、ばんと背中を叩かれる。そしてそのまま、ぐいと首に腕を巻き付けられて、これでもかという程に顔を近づけられる。
「行くよな? 行くだろ? 行くに決まってるよな?」
「ま、待て……和樹、今日は――ぐっ……」
「前に断った時、お前なんつった? 次は絶対付き合う、そう言ったよな?」
 和樹はいつになく強引だった。首に巻き付いた手から否が応にもその意志が伝わってくる。それはもう、“断るというのならば、殴って気絶させてでも連れて行く”と言わんばかりの強引さだった。
(……確かに、最近はずっと断りっぱなしだ)
 そのことに、月彦も負い目は感じていた。由梨子も大事だが、昔から苦楽を共にしてきた友人もまた疎かに出来る相手ではない。
 しかし何故、よりにもよって“今日”なのか。否、昨日であっても同じ事を思っただろうが、とにかく何故こうも由梨子との逢瀬に邪魔が入るのか。
(まさか……真央の祟り……)
 友達と遊びに行く等と嘘をついたから、そのせいでは。いや、さすがにそんな事はない筈、ただの偶然だと月彦は己に言い聞かせる。
「行・く・よ・な?」
 行くと言わなければこのまま締め落とす――と言わんばかりの腕力で、ぎりぎりと首が締め付けられる。ニシキヘビ級と言っても過言ではないその圧力に、月彦はとうとう屈した。
「……わ、解った。少しだけ……少しだけ、だぞ?」
 承諾の意を表した途端、不意に首に絡んでいた腕が解かれた。
「そうか! 悪いな、無理言っちまったみたいで。千夏がどうしても連れてこいって言うんでな……まあ気にすんな!」
 豪快に笑いながら、ばんばんと背中を叩いてくる和樹はそれはもう嬉しそうだった。 
(……これだけ喜んでもらえるなら、確かに行く甲斐もあるってもんだ)
 由梨子には悪いが、今日付き合う事で今後しばらく気兼ねなく会えるようになると思えば、由梨子にとってもプラスになるのではないか。
 うんうんと、月彦が一人頷いていると。
「そうそう、今日はもう一人スペシャルゲストが来るからな。楽しみにしてろよ」
「え……?」
 和樹はさらりと、まるで独り言のようなトーンでそんな事を言い、弁当を片手にすたすたと教室から出ていってしまう。
「もう、一人って……まさか――」


 昼食をとっている間中、月彦は和樹と千夏に何度も問いただした。しかし、二人から帰ってくる返事はどうとでも取れる返事と、わざとらしい口笛のみだった。
(まさか、まさか、まさか……)
 五時限目、六時限目の授業の内容などろくに頭に残っていない。月彦の頭脳は常時フル回転で“それ”以外の可能性を見いだそうとするも、どの可能性にも十分な説得力を持たせる事が出来なかった。
「さて、学校も終わった事だし、行くか」
 ばんっ、と和樹に背中を叩かれて、月彦はハッと我に返る。気がつくともう帰りのHRすら終わり、教室内の人数も半分ほどになっていた。
「な、なぁ……和樹。もう一人って……妙子なんだろ?」
「ん〜……俺の口からは何とも言えんな」
 クックック、とニヒルな笑みではぐらかされる。
「解った、じゃあこれだけ教えてくれ。そのゲストってのは、俺が今日来ることを知ってるのか?」
「さぁ、どうだったかな。何せセッティングしたのは千夏だからな」
「千夏、か……」
 一体どういうつもりなのか。月彦にもその心中が計りかねる。何故今頃、自分と妙子を会わせようとするのか。
(妙子とは、もう終わったんだ……)
 顔を合わせてもばつが悪いだけだ。妙子の方も、それが解っている筈だ。
(そういえば、前に逢った時は……)
 忘れもしない、真央が家に来たその日だ。ほんの半年ほど前の事なのに、まるで何年も昔の事のように思えるのは、毎日がそれだけ“充実”しているからだろうか。
(あの時は、確かにまだ……妙子のことが好きだった。でも今は――)
 真央が、由梨子が……そして雪乃が、順次に脳裏に浮かぶ。しかし、それらの想いを消し去りかねない勢いで、急速に膨れあがる想いがあることもまた事実。
(まさか、俺は、まだ……妙子を……)
 まるで“それ”を肯定するかのような鋭い胸の痛み。ぐっ、と月彦は胸に爪を立て、呻く。
「……? どうした、早く行こうぜ」
「あ、あぁ……」
 まるで半病人のような足取りで、月彦は和樹の後に続く。

 どうやら“スペシャルゲスト”とやらとは駅で待ち合わせをしているらしく、月彦と和樹は千夏のクラスが終わるのを待ってから、その足で駅へと向かった。
「隣町にな、ええ店見つけたんや」
 先導するように歩くのは千夏。手には程々の厚みがある茶封筒を持ち、どうやらそれが件のバイト代とやららしく、さも自慢げにひらひらさせている。
「へへぇ、お代官様が行くところなら何処でもお供しますぜ」
「うむうむ、苦しゅうない。良きに計らえ」
 ノリの良い友人はすっかり従者気取り。今にも千夏を肩車して歩きかねない勢いでヘイコラと太鼓を持ち続ける。平時であれば、或いは月彦も和樹に便乗して千夏を持ち上げ、その手元でだぶついている御利益に少しでも肖ろうと思ったかもしれないのだが。
(妙子……)
 この気分をどう形容すればよいのか。喜怒哀楽のどれとも似つかないモヤモヤとしたものが胸中を支配し、月彦の顔は晴れない。
 千夏や和樹は、まだ良い。妙子とは純粋に“長らく顔を合わせていない幼なじみ”なのだから。しかし、自分は――。
「ッ……」
 一瞬、霧亜の姿が暗い閃光となって頭をよぎる。いや、姉を恨むのは筋違いだ、そもそもの原因を作ったのは――。
 渦のような思考から抜け出せないまま歩き、ついた先は見慣れた駅前。雑多とした人混みをかき分けながら、和樹と千夏にやや遅れて月彦も切符の販売機に並ぶ。
「……紺崎?」
 どこか懐かしい響きを含んだその声に、月彦はハッと振り返る。
「ん……あっ――」
 知人――であることはすぐに解った。しかし、名前がすぐに思い出せない。口を開いたまま言葉が止まっている月彦の焦燥を悟ったかのように、眼前の“幼なじみ”は自ら名乗り出た。
「ヒラマサだよ。小六の時に転校した」
「あーーーーーっ! モンちゃんか!」
 漸く合点がいったとばかりに月彦は手を叩く。
「懐かしいなぁ……いつこっちに戻ってきたんだ?」
「先月。親が離婚してさ、んでお袋と一緒に実家に戻ってきたってワケ」
「ああ、それは……」
 悪いことを聞いた、と言うよりも早く、幼なじみは「気にするなよ」と笑みを零す。
「でも、変わったなぁ……一瞬マジで誰だか解らなかった」
「こんな頭してるからな」
 と、生え際以外が金色に染まった髪をかき上げ、苦笑。唇と耳にはピアス、さらにジャンパーの襟元からはタトゥーらしきものが覗いているその姿はさすがに月彦の知っている“モンちゃん”とはかけ離れていた。
(もしかして、スペシャルゲストって……)
 てっきり、妙子だとばかり思っていた。しかし思い返せば、千夏も和樹も一言もそれを思わせるような事は言っていない。
(……だとすれば、合点がいく)
 和樹や千夏がああまでゲストの正体を明かそうとしなかったのは、あまりにも自分が“妙子ではないか”と疑うから、逆に言い出しづらかったのではないか。
(妙子じゃ……ないのか……)
 小さな安堵と、深い失望。その二つを対比した時、月彦は己の本心を確信した。自分は、妙子に会いたかったのだと。
(馬鹿な……俺には真央が……)
 そして由梨子が、雪乃が居る。今更妙子への想いなど復活しても、枷になるだけだ。
「今日、これから遊びか?」
「ん? ああ……」
 何を言ってるんだ、お前も一緒だろうと言うよりも早く、眼前の幼なじみは苦笑した。
「そっか、呼び止めて悪かったな。じゃあ、俺も使いの途中だから。またな、ツッキー」
「えっ、あっ……おい……っていうかツッキーって呼ぶな!」
 忌まわしきあだ名を口にした幼なじみを追いかけようとするも、その足は新たな疑念によって絡め取られ、止まった。
(モンちゃんじゃ……ないのか?)
 戸惑いながらも切符を買い、列から離れる。先に切符を買った友人達に呼ばれたのは、丁度その時だった。
「おーい、月彦。こっちだ!」
 和樹の声を頼りに再度人混みをかき分け、二人に合流する。否、二人ではなかった。和樹と、千夏――二人の向こうに立つその人影を視界に入れたその刹那、月彦の心臓は凍り付いた。
 


 もう一人の幼なじみとは違い、白石妙子は変わっていなかった。否、外見的なもので言えば変化はあるのだが、少なくとも“特徴”と言える部分に関しては大凡月彦の記憶通りだった。
 スカートを嫌い、ジーンズを好む点も。
 豊かな胸元を恥じるように、冬場に男物のブルゾンを羽織る点も。
 トレードマークとも言うべきポニーテールも。
 そして、月彦へと浴びせられる、冷ややかな目も。
「丁度電車も来たことやし、行こか」
 積もる話は道すがら、と小悪魔のように笑いながら、千夏が早足にホームへと向かう。
「月彦、セクハラは自重しろよ」
 その太鼓持ちも、ぼそぼそとそんな事を呟いて後に続く。後には、心臓が凍り付いたままの月彦と、そしてその元凶ともいえる冷ややかな視線の持ち主だけが残る。
「行かないの?」
「ああ……行く、か……」
 ギギギ……間接からそんな軋みが聞こえてきそうな程、月彦はぎこちない足取りで歩き出した。その後ろから、妙子がついてくる。
 そんな歩みだから、電車に乗れたのは扉が閉まる寸前だった。当然、空いている座席などというものはなく、しっかりと己の席を確保している千夏と和樹を尻目に、妙子と並んでつり革を掴むより仕方なかった。
「ふう……」
 とため息を尽きたくなる所を堪えて、口を閉じて鼻からそっと息を逃がす。ちらり、と目だけの動きで隣に立つ妙子の様子を伺い、妙子が気づかぬうちにまた戻す――というような事を無意識のうちにやってしまう。
(……眼鏡、かけるようになったのか)
 それが月彦の知る妙子と、最も大きな外見上の相違点だった。しかし違和感はあれども、これはこれで似合うかもしれないと、横目で見ながらそんな事を思う。
(久しぶりに会ったってのに、ずっと黙りってのも変だよな……)
 丁度眼鏡という話題もあることだし、と月彦は覚悟を決める。心の中で「眼鏡かけるようになったんだな」と十二回ほど繰り返してから、ゆっくりと口を開く。
「め、めがッ……」
 しかし、肝心の本番で舌が縺れ、挙げ句パニックになって慌てて舌を噛んでしまう。周囲から不審そうな視線を槍襖のように突きつけられながら、月彦は口元を抑えて一度仕切直す。
「め、眼鏡……かけるようになったんだな」
「うん」
 しかし、折角の覚悟から繰り出された話題も、たった二文字の返事で終了してしまった。……無論、このくらいのことは月彦も予測済み、次弾の用意は出来ているとばかりに口を開く。
「やっぱり、勉強が大変なのか?」
「うん」
 “まあね”くらいは返ってくるかと思ったが、甘かった。無視はせず、それでいて必要最低限の文字数で会話を終了させられるのは、話し掛けるなという暗黙のサインなのだろうか。
(いや、だったら……無視すりゃいいだけだ。返事をしてるってことは……)
 まだ脈はあると、月彦はめげない。
「せ、制服じゃないんだな。わざわざ家に帰って着替えてきたのか?」
「うん」
 やっぱりダメか……と、月彦は密かに項垂れようとした時だった。
「うちは私立だし、校則厳しいから。制服のまま遊びになんて行けないの」
 “うん”以外の言葉が聞けた――たったそれだけであるのに、月彦は天にも昇るような心持ちだった。
(そうだ、半年会ってなかったんだ。妙子の方にだって、話したいことは多い筈だ……)
 そうに違いない、と月彦が楽観的に考えていると頭上から車内アナウンスが鳴り響いた。降りるべき駅が近い旨が告げられ、車内にゆるやかな制動がかかる。
 月彦は俄に、妙子に寄りかかられるシチュを期待したが、そのような事はなく。隣に立つ幼なじみは頑健に“男の世話になどなるか”とばかりに己の腕と足のみで体を支え、月彦の方に微塵も体を触れさせなかった。
 やがて電車が完全に停車し、扉が開く。月彦達が乗った駅とは降り口が逆だった為、必然と降りる順番は後になってしまう。
 さてそろそろ降りるか――と月彦が思った瞬間、妙子の方が僅かに早く足を踏み出した。無論月彦は順番を譲り、妙子の方を先に行かせる。――その刹那。
「嘘つき」
 小声だが、しかし耳に届く程にははっきりと。呟き越えが聞こえた。
「……えっ?」
 突然のことでろくに吟味する猶予も無く、月彦は発車ベルに急かされるようにして大あわてで降りねばならなかった。そんな月彦に先に降りた幼なじみは冷ややかな視線すら向けず、ただ小さな背を向けて遠ざかっていった。

 奇縁、に含まれるのだろうか。千夏に案内されてついた先は以前来たボーリング場と同じ場所だった。
 バイト先の先輩に教えてもらった店なのだと、千夏は説明した。無論月彦は千夏の顔を立てる為に、既知であることは黙っていた。というより、先ほど降車際に妙子が漏らした一言が気になってそれどころではなかったというのが正しいのだが。
 さっきのはどういう意味だ?――と、正面切って聞ければいいのだが、それが叶わない。電車を降りてからというもの、妙子は月彦との会話を意図的に避けるような位置取り、或いは千夏達と唐突に会話を始めたりとそのような調子なのだ。
 一方、千夏達はといえば、逆に妙子と月彦をくっつけようとしているそぶりが見えたりする。たとえば店について最初にやったボウリングでは、久々にタッグ戦をやろうと千夏が言い出し、和樹がそれに大賛成。タッグを決めるグーパージャンケンでは終始和樹と千夏が同じ手しか出さないといった具合だ。
 これは接待か!――と突っ込みたくなるようなその露骨ぶり。それはボウリングに限らず、その後に向かったゲームセンターでのハイパーホッケーでも同じで、月彦は妙子とのペアを組んで千夏・和樹ペアと対戦したが結果はボロ負け。実力差というより、チームワークの差での完敗だった。
 無論月彦はなんとか白石帝国との国交を回復させようと様々な努力を試みたが、紺崎王国に対しては完全に鎖国を決め込む腹のようで全く色よい反応が得られない。そんな相手と終始組まされるのだから、なんともばつが悪いことこの上なかった。
「したら、次はアレやろか」
 と、今日のしきり役の千夏が指さしたのは対戦型のカーレースゲームだった。またしてもペア戦の臭いを感じて、月彦はさすがに千夏に詰め寄った。
「おい、千夏」
「ん?」
「話がある、ちょっと来い」
 他の二人にはジュースを買ってくる――という事にして、月彦は無理矢理ゲームセンターの隅に千夏を連れ込む。
「……どういうつもりだ?」
「何の話や?」
 千夏はあくまでしらばっくれるつもりなのか、けろりと言い返してくる。
「全部だ、全部。どうして妙子を呼んだ、そして何で俺と組ませようとするんだ」
「……そんなの、偶然――」
「じゃあないだろ。お前が喋らないなら和樹に問いただすぜ。……アイツの方が口は軽いだろうしな」
 ぐっ、と千夏が唸る。そう、四人同じ風呂にも入った事があるほどの幼なじみなのだ。千夏とて、和樹の事は知り尽くしている。
「……しゃーないな。妙ちゃんから、ヒコには絶対言うなーって言われてんけど」
「…………俺にだけ、か」
 ズキリと、胸が痛む。やはり……妙子はまだ――。
「……妙ちゃんな、引っ越すんやて」
「……な……に……?」
「親父さん、転勤で海外行くんやって。ヒコも知っとるやろ? 妙ちゃんの親父さん、デカイ会社勤めとるやん?」
「……そんな、転勤なんて――」
 親父さん一人で行けばいい――と言いかけて、月彦はハッとする。妙子の家は母を早くに亡くして父一人娘一人だ。
「……いつ、だ…………親父さんは、いつ海外に……」
「明日、らしいわ」
「明日!?」
 月彦の予測よりも、あまりに早い“別れ”の刻限に思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「そんなっ……いくらなんでも急すぎだろ! なんでもっと早く――」
「……あのなぁ、うちらの誘いを断り続けたんは誰や?」
「……うぐ」
 それを言われては、月彦は最早黙るしかなかった。そうなのだ、和樹達は前々から何度も“誘って”いたのだ。
「そ、そうじゃなくて……俺だって、妙子が引っ越すっていうんなら、いくらでも都合を――」
「せやから、それは妙ちゃんに口止めされてたて言うたやろ? だからうちら、妙ちゃんが自分からヒコに言うよう、さりげなーくサポートしようとしてたんやない」
「……そう、だったのか」
 これで和樹の強引さもなにもかもが合点がいった。この幼なじみ達は、“今日”しかないから、あそこまで頑なだったのだ。
「うちな……ホントはずっと迷ってたんや」
「……何をだ?」
「………………絶対言うな、って事は、“絶対言って欲しい”って意味やないかって」
「…………」
「妙ちゃんて、昔からそういう所あったやん?」
「…………ああ、そうだな」
 苦笑。あの真面目で強情張りの幼なじみには、確かにそういった天の邪鬼な一面があった。
「……でも、そういうときに本当に言うと、絶対怒るんだよな、アイツ」
「……やな」
 千夏も苦笑する。
「送別会とか、そういうのはいらん、無意味やーゆうて。ぜーんぶ妙ちゃんに却下されてもうたから、それならせめて最後くらいみんなで楽しく騒ぎたいやん?」
「……そうだな」
 それもまた妙子らしい、と思う。昔から、誕生会や表彰式等々、そういった“祝われ事”の類が妙子は苦手だった。
(環の中心にいるのが苦手な奴なんだ……)
 そんな不器用な幼なじみだからこそ、惹かれた――というのもある。護ってやらねばと、そういう気にさせられた。
(いや、確かに……胸もデカかったが……)
 それは二次的要因に過ぎない、と月彦は慌てて首を振る。
「……話は分かった。じゃあ俺は……あくまで知らない振りをしたほうがいいのかな」
「んー……うちをここに引っ張ってきた時点で手遅れやない?」
 それもそうか、と月彦は思う。胸の大きな幼なじみは、頭の良さと勘の良さにかけても四人の中で随一なのだ。
「……そうだな。よし、じゃあ、そろそろ戻るか。一応ジュースだけは買っておかないとな」
 バレているとはいえ、体裁は整えねばならない、と月彦は自販機へと向かう。その背中に、ヒコ、と千夏が声をかける。
「元気が出る情報、教えたろか?」
 月彦の返事を待たず、千夏は続きを喋る。
「本当はな、うちらも妙ちゃんに会うのは今日が久々なんや。ヒコに声かけた数と同じ数だけ妙ちゃんにも声かけてんけど、いっつも引っ越しの準備で忙しいーゆうて断られたんや」
「……本当に忙しかったんじゃないのか?」
 海外赴任ともなれば、その準備も並大抵のものではないだろう。
「でも、越すのは明日やで? 忙しいゆうなら断然今日の方が忙しいやろ。でも今日は妙ちゃん来とるなぁ〜何でやろなぁ〜」
 小悪魔のようにニヤニヤと笑いながら、千夏は一足先に戻っていってしまう。
「……まさかな」
 “あの”妙子の事だ。前もって既に準備は万端。多少早く済ませすぎてたまたま時間が空いていただけだろう。月彦は決して楽観的には考えず、再び自販機に向かう。
「……あっ」
 そこで、気がついた。
「あいつ、俺一人に四人分買わせる気か!」
 体は子供でも頭脳は大人。四人組の中で最も悪知恵の回る幼なじみに、まんまと逃げられたということに。


 月彦が妙子の事情を知っても(そしてそのことが妙子に悟られても)特に二人の仲には変化が無く、時間だけが過ぎていった。
 否、一つだけ変化はあった。ただ、それは月彦にとってあまり喜ばしくない変化だった。
(…………機嫌が悪いな)
 と、妙子を見ていて具に思う。それも徐々に、そして確実にゲームセンターへ入った時よりも悪くなっている。表面上は、さして変化が無いように見える――が、幼なじみにだけ解る微かな挙動で妙子が相当にイラついているのが月彦には伝わってしまう。
(俺の……せいなのか……?)
 千夏から話を聞いた後も、特にその事については触れず、それまで通り普通に妙子に接し続けた。それがいけなかったのだろうか。それとも他の何かで妙子の燗に障ってしまったのだろうか。
 月彦は平生を装いつつも、内心ビクビクしながら妙子の一挙手一投足を伺う。この幼なじみはイラついているからといって、無造作に物に当たったりはまずしない。ギリギリまで貯めて貯めて、そして最後は必ずその“イライラの原因”に対して的確に爆発するのだ。
 それを何度も目の当たりにしている月彦としては、妙子のイライラの原因が自分でないことを祈るのみだった。
 とはいえ――月彦は腕時計に目をやり、時間を確認する。時刻は既に七時を過ぎている。平日、しかも制服姿ともなれば、そろそろ“遊ぶ”場所を変える必要が出てくる刻限だ。
 誰ともなく、そろそろ帰ろうか――と言い出しても良い頃合。しかし、誰もそれを口には出さない。或いはそれが、“四人”が揃う最後の時を終わらせる引き金になるかもしれないからだ。
 口を開いたのは、妙子だった。
「……もう、帰るの?」
 その言葉が、月彦にしてみればあまりにも意外だった。この幼なじみが別れを惜しむという事が、それまでの経験則からはみ出しているからだ。
(……いやでも、妙子だって本当に最後って時になったら…………)
 多少は情に流されるのではないかと、そう思った矢先の事だった。妙子がついと、ゲームセンターの端を指さした。
「最後にあれで勝負しない? ペアは今まで通りでいいから」
 妙子の指の先にあるのは、うらぶれた――そして誰も使用していない古びた卓球台だった。周囲を網のようなもので覆われた、最新のゲームばかりが並んでいる店内にはあまりに似つかわしくないその設備の側には張り紙で“無料”と書かれていた。
 その瞬間、その場にいた他の三人全員が理解し、そして思い出した。この真面目で、意地っ張りで天の邪鬼な幼なじみのもう一つの性格――そう、“極端な負けず嫌い”を。
(……深読みし過ぎていた)
 月彦は俄に肩を落とす。妙子の機嫌が悪かったのは、単純に負けが込んでいたからなのだ。
 三つ子の魂百まで――とでも言うべきか。白石妙子はこの別れ際になっても白石妙子のままであり、感傷に流されて己のスタイルを崩したりはしないのだ。そのことが微笑ましくもあり、落胆を禁じ得なかったりもする。
 妙子の誘いに、月彦を含め三人はすぐに同意した。断ったり逃げたりすればその後どうなるのか、これまた身をもって知っているからだ。
(そして、八百長も絶対してはいけない……)
 もし妙子の機嫌を取ろうと態と負けたりしようものならば――月彦はその先に起きる事を思いだしてゾッと肝を冷やす。最早月彦に出来る事は全力で妙子を補佐し、勝利に導く事のみだった。
「……絶対勝つわよ」
 卓球台へと移動する間際、ぼそりと妙子が呟く。過去の私怨、蟠りを越えて今この時ばかりは勝利のために結束しようという申し出。月彦は無言で頷き、静かにラケットを握る。
「卓球か……俺は苦手なんだよなぁ……」
 勝負には応じたものの、和樹は些か気乗りしなそうにラケットを握る。物事を力ずくで解決するのは得意でも、細かく俊敏な動きは大の苦手なのだ。
「うちがサポートするから、心配あらへん」
 反面、千夏は得意げに素振りなどする始末。月彦はちらり、と隣の妙子を見る。狙うのは和樹が居る側――視線に込めると、妙子は無言でこくり、と頷く。
 ジャンケンの結果、最初のサーブ権は千夏&和樹ペアが取得した。サーブをするのは勿論千夏、その球を月彦が返す――が、球は呆気なくネットに引っかかってしまう。
「あっ……」
 と、ラケットを振った体勢のまま、月彦は固まってしまう。横目でちらり、と妙子を見ると、いつもよりも幾分穏やかな表情。しかし、月彦は見逃さなかった。ぴくぴくと怒りに痙攣する、細い眉を。
 妙子は静かに、中指でくいと眼鏡を上げる。
「1−0や」
 ゲームセンターの設備にはスコアボードの類はなく、代わりとでもいうように小さなホワイトボードが下げられていた。千夏がそこに意気揚々と1−0と書き込む。
「………………絶対、勝つわよ」
 些か怒りに震えた声で妙子が呟く。月彦はもう、“はい”としか答えられなかった。


 勝負は、終始千夏&和樹ペア優位のまま進んだ。否、殆ど千夏VS月彦&妙子ペアと言っても良い程に千夏しか球を打っていなかった。本来、ダブルスというのはペアが交互に球を打たねばならないのだが、全員が卓球初心者ということもあって誰も指摘できなかったのだ。
「ちょっと、真面目にやってくれる?」
 さすがに堪えかねたかのように、気炎を立ち上らせながら妙子が呟く。スコアは15−7という圧倒的大差。その原因の殆どが月彦にあるのだから、妙子の怒りは当然と言えた。
「真面目にはやってるんだが……」
 少なくともやろうとはしているのだが、と月彦は横目でちらり、と妙子の方を見る。3点先制された段階で、妙子は邪魔だからとブルゾンを脱ぎ捨てて薄手のセーター姿になっていた。……それが、奇しくも月彦&妙子ペアの仇となっていた。
 横に一歩動けばたゆんっ。
 球を打てばたゆんっ。
 薄手のセーターによってくっきりと浮き出た巨乳のラインが妙子の一挙手一投足によって揺らぎ、その都度月彦アイに内蔵された超高感度センサーがばっちり巨乳をロックオンしてしまうのだ。
 至極、球などまともに追える筈がない。月彦は空振り、ミスショットを重ね、ダブルスコアという憂き目をみているのだ。
「……妙子、上着を着てくれないか?」
「どうして?」
「その……」
 胸が、とは月彦は言えなかった。今そのようなセクハラまがいのことを言えば、真面目な幼なじみは間違いなくキレるだろう。
(仕方ない、ここは――)
 自力で煩悩を抑えるしかない。月彦は軽く深呼吸をし、そして今までで最も鋭い振りでサーブを繰り出す。
 とにもかくにも、月彦の渾身の一撃は理想的なバウンドを刻んで対面の千夏の前へと躍り出る。千夏がそれを打つ――が、奇妙な回転のかかった打球はちょうど月彦と妙子の中間のような辺りへと戻ってくる。
「私が打つわ!」
「いや俺がッ!」
 本来ならば妙子が打つ番――という本来のルールは月彦の頭の中にはない。妙子の前でとにかく汚名返上、名誉挽回せねばという思いから、ただひたすらに目の前にバウンドしてきた打球に対して機敏かつ正確な返球動作をする――そのことにのみ専念しようとした矢先、またしても目の焦点が勝手に妙子の巨乳をロックオンしてしまう。
「くっ……」
 自分の意志とは無関係なその動きをなんとかねじ伏せながら、月彦は渾身の力でラケットを握り、そしてスイングをした。
 その手に、確かな手応えが返ってくる。ぱこんと。とても卓球の球を打ち返したとは思えない――そう、言い換えれば野球の軟球でも打ち返したかのような強烈な手応えが。
「あっ」
 と思った時には、再び目が妙子の胸元に釘付けになっていた。その動きはまるでカチカチボールのようにたゆたゆと左右に揺れ、妙子自身何が起きたのか理解ができていないという感じだった。
 ただ、確かなのは、本来打ち返さねばならない筈のボールが二人の足下にかつーん、かつーんと寂しげなバウンドを刻んでいるということだ。
「ま、待て! 妙子、今のは態とじゃ――ぐほっ」
 そして、問答無用のヤクザキックが月彦の腹を直撃した。

 真面目にやる気がない、という理由で月彦はペアから外され(負傷退場とも言う)、ならばと相手ペアからも和樹が抜け、結局勝負は妙子と千夏のガチバトルになった。月彦はその様子を、和樹と共に横から眺める。
「いちち……本当に態とじゃねえのに……あいつ本気で蹴りやがった」
「……通るわけねーだろ、そんな言い訳」
 と、隣に立つ和樹もあきれ顔。確かに卓球でダブルスをしていて、ペアの横乳を偶然はたいてしまう等という事故は月彦も聞いたことがない。
(病気なんだよ、これは……)
 と、説明したところで解ってもらえる筈がない。猫じゃらしに反応してしまう猫同様、月彦もまた“月彦じゃらし”には己の意志とは無関係に反応してしまうのだ。
「まあでも、いいんじゃねーの。最後までお前等らしい幕切れじゃねえか」
「幕切れ……ね」
 言われて、なるほどと思う。確かに自分は――少なくとも真央と出会うまでは――妙子に対してセクハラまがいの事を続けてきた。小学校の頃は毎日のようにスカートをめくり、胸が育ってきてからは背後からの不意打ち揉み等々、それこそありとあらゆる事を。
(……若かった、あの頃は)
 被害者の妙子としては、恐らくそんな一言では済まされたくないだろうが、とにもかくにも自分はあのころに比べて“落ち着いた”と月彦は思う。成長した、とも。
(“あのころ”はエネルギーが有り余ってたんだろうなぁ……)
 単純な“体力”だけではなく。しかしそれは今や――主に愛娘一人に注がれてしまっているからこそ、こんなにも落ち着いて(?)いられるのだ。
「なあ、月彦」
 和樹の声は月彦にしか聞こえない程度の声だった。至極、月彦の返事も同等の音量になる。
「ん?」
「お前、妙子に告れよ」
「…………どういう意味だ?」
「もう今日が最後なんだぜ?」
 千夏から聞いたんだろ、と付け加えられる。
「………………何回も言ってる筈なんだけどなぁ……」
 好きだ、と。しかし、一度も色よい返事が帰ってきた事はない。
「そりゃあお前、本気で言ってないだろ?」
「…………どうだかな」
「グダグダのまま別れていいのか?」
「………………」
 和樹の問いに、月彦は沈黙しか返せない。騒々しいゲームの音の上に、ぱこんっ、ぱこんと球を弾く音がしばし乗り続ける。
「なあ月彦」
「……何だよ」
「ふと思ったんだが……卓球って一回の勝負は何分なんだ?」
「何言ってんだ。サッカーじゃあるまいし、卓球は時間じゃなくて点数――」
 そこではたと、月彦も思う。卓球は一体何点とれば勝ちなのか。
 ホワイトボードに書かれている点数は、“32−26”となっていた。


「11点先にとったのはうちらやから、勝負はうちらの勝ちやな」
 全員卓球初心者の悲劇とでも言えばいいのか。誰一人正確なルールを知る者が居なかった事がそもそもの発端だった。
「待てよ、それを言うなら、ダブルスってのは二人交互に打たなきゃいけないんだろ? そっちは殆ど千夏一人で打ってたじゃねーか!」
 ゲームセンターからの帰り道。本屋で卓球のルールを立ち読みするや否やの口論だった。
「そもそも、言い出しっぺは妙子だろ? てっきり俺は妙子がルール知ってると思ってたんだが」
「…………私が知るわけないじゃない」
 無駄な勝負をしてしまった責任の一端が自分にもあると感じているのか、妙子の口調は些か弱々しかった。
「まあまあ、勝ち負けなんてどうでもええやん。楽しかったんやし」
 と、最初に勝ち名乗りを上げた本人がそのように纏めてしまい、他の三人はもうぐうと唸るしかない。
(最後だってのに……)
 なんとも締まらない感じになったもんだと、月彦は小さくため息をつく。
「……時間が遅いわ。私、そろそろ帰らないと」
 言われて、月彦も腕時計を見る。時刻は八時を回ろうとしていた。
「そうだな、俺もそろそろ……」
「よし、じゃあ帰るか――うっ」
 月彦に同意を示した和樹が、不意にくぐもった声を上げる。見れば、脇腹に千夏のひじ鉄を食らっていた。
「そ、そうだった。月彦、俺たち寄るところがあるからよ、妙子送ってってやれよ」
「そういうわけやから、妙ちゃん。…………またなー」
「……うん」
 またね、とは返さず、妙子は寂しげに返事をして、一人でさっさと歩き出してしまう。
「ほら、ヒコ!」
「早く追いかけねーか!」
「くっ……わーったよ!」
 有り難いんだか有り難くないんだか解らない友人達の好意を受けて、月彦は妙子を追いかける。
「ったく、あいつら……変に気ぃ回しやがって…………」
 漸く妙子の横に月彦は追いつく。そのまま、並んで駅までの道を歩く。
「……千夏から聞いたんでしょ」
 先に沈黙を破ったのは、意外にも妙子だった。
「ああ、聞いた」
「…………」
 そして沈黙。それがまるで“だったら言うことがあるんじゃないの?”という無言の圧力に感じられて、月彦は言葉に迷う。
「俺も一つ聞いて良いか?」
 駄目、という言葉は返ってこなかった。
「嘘つき、ってどういう意味だ?」
 妙子の横顔が、俄に強張った――ように見えた。
「半年ぶりに会っていきなりそれじゃ、俺だって意味が分かんないだろ」
「……じゃあ、忘れて」
 吐き捨てるように言って、妙子は歩調を早める。
「おいっ、待てよ! だから意味が分かんねえって――」
「忘れてって言ってるでしょ」
 月彦が早歩きで追いつくと、妙子はさらに歩調を上げる。月彦も張り合い、殆ど走っているのと変わらない程になった時、不意に妙子が速度を落とした。
「……バカみたい」
 本来の歩速にまで落として、呟く。それが己に対してなのか、月彦に対しての言葉なのかは解らない。
「………………なあ、妙子。本当にこれでよかったのか?」
 視線で、次の言葉を促される。
「明日、越しちまうんだろ。もっとこう……ちゃんとした送別会とかやらなくて良かったのか?」
 聞きながら、無駄な質問だったかな――と月彦は思った。返ってくる言葉が容易に想像できたからだ。
「意味が無いわ」
 そしてやはり、千夏から聞いた通りの反応。
「向こうにはどれくらい居るんだ?」
「さあ。家を売っちゃったくらいだから、もう戻る気はないんじゃない」
 まるで人ごとのような言いぐさだった。その言い方からも、突然の転勤を妙子が快く思っていない事は明白だ。
「……犬もみんな連れて行くのか?」
「当たり前じゃない」
「………………」
「……もう質問は終わり?」
 妙子が足を止め、月彦の方を向く。いつのまにか駅についてしまっていたのだ。言葉を返せない月彦を振り切って、妙子は一人販売機へと向かう。
(…………やっぱり、告るって雰囲気じゃないな)
 そもそも月彦自身、己の気持ちを測りかねているのだ。この胸の強烈な痛みの原因が単純に幼なじみと離ればなれになる事に対するものなのか、それ以上のものなのかを。
 月彦も切符を買い、妙子と共に電車に乗る。月彦達の地元へは、電車でたった一駅。その間、どちらも一切口をきかなかった。
「なあ、妙子」
 と、漸く月彦が声をかけられたのは、ホームに降り立ち駅を出た直後だった。
「明日は、何時の便だ?」
「……聞いてどうするの?」
「見送りに行くに決まってるだろ」
「見送りに来て、どうするの?」
「どうするの、って……あのなぁ、お前――」
 月彦の言葉を待たずして、妙子はさっさと歩き出してしまう。無論月彦も慌てて後を追う。
「ついてこないでよ」
「仕方ないだろ、千夏達に送っていけって言われたんだから」
「千夏と和樹の言うことなら何でも聞くの?」
「なっ、バカ、お前……そんなガキみてーな……」
「ついてこないでって言ってるでしょ!」
 思わず、足が止まる。それほどの大声だった。立ち止まった月彦から、さらに数歩歩いて、妙子も足を止める。半身だけ振り返る形で、妙子は吐き捨てる。
「………………もう、私に構わないで。口先だけの心配なんて迷惑なだけだから」
「口先だけって……あのなぁっ、俺は――」
「うるさい!」
 歩み寄ろうとしたその足は、妙子の大声によって止められた。
……こんな奴の言葉を真に受けて、あんな土手に毎日通ってたなんて……バカみたい
「……えっ……?」
 妙子の呟きが聞き取れなくて、月彦は再び歩み寄ろうとする――が。
「……馬鹿ッ! 嘘つき! あんたの言葉なんて二度と信じないんだから!」
「妙子、待――」
 走り出した妙子の背に言葉を紡ぎ出す刹那、半年前の土手での会話が強烈にフラッシュバックする。あの日、真央と初めて会った日の、土手での妙子との会話。その一字一句までもが。
「…………っ……」
 延ばしかけた手が途中で止まり、踏み出した足も止まる。今ここで追わねば、二度と会えないかもしれないということを知りながらも、それでも。月彦は妙子を追うことが出来なかった。



「あら、おかえりなさい、月彦。ずいぶん遅かったのね」
 ドアを開けるなり、葛葉がぱたぱたと子気味の良い足音を立てて出迎えてくれる。
「そうそう、さっき妙子ちゃんのお父さんがいらっしゃって――」
「知ってる。海外行くんだろ。…………妙子から直接聞いた」
 ぶっきらぼうに言って、月彦は靴を脱ぐ。恐らくは引っ越しの挨拶に来たのだろう。月彦と妙子が幼なじみという関係上、その親も知らぬ仲というわけではない。
「あらあら、帰りが遅かったのはそういうこと。でも、その割には機嫌が悪いのね」
「……別に。真央は?」
「真央ちゃんなら丁度お風呂よ」
「……そっか」
 呟いて、月彦は自室への階段を上がる。
「月彦、晩ご飯は?」
「いらない。明日食うから、ラップしといて」
 階段の途中でかけられた言葉に振り向きもせずに応えて、月彦はそのまま自室に入ると鞄を置くなりベッドに倒れ込んだ。
(……妙子)
 嘘つきっ――別れ際に聞いたその言葉が、月彦の頭蓋の中で何度も反芻していた。
(……忘れていた、わけじゃない…………)
 ただあの後、あまりにも衝撃的な事があったから。
(……それに、妙子だって――)
 散歩のルートに先回りしていた自分に対し、酷く鬱陶しそうに話をしていたから。
(……それに、そもそも最初に一人だけ違う高校に行ったのはアイツじゃないか――)
 “あのこと”で本当に嫌われてしまっているのなら。
(だったら――)
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっ!!!!」
 月彦はうなり声を上げて、ベッドに向かって思い切り拳を打ち付ける。何度も、何度も。しかし、それで気が晴れる事は決してない。
 何故なら、月彦が殴りたいのは――過去の自分自身だから。
「馬鹿な、俺は妙子と寄りを戻したいのか――っ……」
 それこそ“今更”だと、己の独り言に対して苦笑する。
「あぁぁっ……クソッ……だめだ、頭ン中……ぐちゃぐちゃだ……」
 ぼふっ、と今度はベッドに頭を打ち付けて、そのまま月彦は呼吸すら止める。いっそこのまま息を止め続ければ、この胸の痛みからも解放されるのでは。
 そんな馬鹿げた考えさえ沸く。
 無論、そんな事が出来る筈もなく。一分と経たずに月彦は呼吸を再開してしまう。
「…………はぁぁ……」
 そして、ため息。二,三度繰り返すも、無論そんな事で胸の痛みも、そして頭の中の“モヤモヤ”も消え去るわけはない。
「………………風呂、入るか」
 何となく、風呂に入れば少しはスッキリするのではないか――そう思う。葛葉は真央が入っていると言っていたが、構うものか。
(でも、さすがに――)
 風呂に入る以外の事はやる気が起きないな――と自嘲気味に笑って、月彦は着替えの用意をする。
 自室を出て、剣呑そうに階段を下りる途中で――はたと、葛葉が階下に顔を出した。
「丁度良かったわ、月彦。電話よ」
「電話?」
 まさか――と、月彦の脳裏に気まずい別れ方をした幼なじみの顔が浮かんだ。しかし、葛葉から受け取った受話器から聞こえてきた声は、それとはある意味正反対の人物だった。
「もしもし?」
『もしもし……先輩、ですか』
 ぱさりと、静かな音を立てて着替えが足下に落ちた。



 受話器を持ったまま、月彦は固まっていた。
『もしもし……私です。……由梨子です』
 月彦の舌が凍り付いていても、受話器からは一方的に由梨子の声が流れてくる。
『私……今日、ずっと待ってました』
 風邪でも引いているのか、由梨子の声は微かに鼻声だった。
 そう、由梨子は今日は学校を休んでいた。だからこそ、月彦は放課後、見舞いに行こうと思っていた。なのに――。
『明日は絶対……先輩、そう……言ってくれましたよね?』
 確かに言った。昨夜自分が言った言葉だ。忘れるわけがない。
『……さっき、真央さんがお見舞いの電話をくれました。……その時に先輩が真央さんと一緒に帰らなかった事も聞きました。……その、理由も』
「由梨ちゃん、それは――」
『解ってます。仕方……なかったんですよね』
 先輩の性格は解ってますから――そう、今にも消えそうな声で由梨子は続ける。
『……でも、少し……ショックでした』
「由梨ちゃん……」
『……すみません、こんな電話……迷惑ですよね。すぐ、切りますから』
「待ってくれ、由梨ちゃん! 俺は今日、本当に――」
 ぶつっ、と月彦の言葉を待たずに通話は切られた。月彦は脱力し、静かに受話器を置いた。
「父さま、電話終わったの?」
 背後から聞こえたその声は、膝から落ちそうになっていた月彦の体を仰け反らせるには十分な衝撃を持っていた。
「っっっっ……真央!? い、いつからそこに――」
「たった今、お風呂から上がったばっかりだよ」
 ほかほかだよ、となんとも可愛らしいパジャマ姿で無邪気な笑みを返してくる。
「父さま、元気ないね。どうしたの? “友達”と喧嘩したの?」
 すりすりと身を寄せてくる真央はいつも通り。それが逆に、月彦の胸に疑念を呼ぶ。
(……いつもなら大抵拗ねてる筈なのに)
 由梨子との浮気に関係なく、月彦の帰りが遅いというだけでへそを曲げてしまう真央が今日に限って普段通り――否、上機嫌といっても良い程だ。
(……偶然、だ……)
 半ば逃げるように、月彦は適当に結論づけた。保身を考えるのも億劫なほどに心が消耗していた。
「……父さま、今からお風呂……入る?」
 じいと、何かをねだるように真央が上目遣いをしてくる。今までならば真央にそんな仕草をされただけで月彦はなんでも聞いてやりたい気にさせられたのだが。
(いつから――)
 と、思う。くりくりきらきらとした可愛らしい目に、純粋さとは別の光りが交じっているように感じられたのだ。そう、“純真無垢な女の子の目”ではなく、“男を騙す女の目”だ。
(馬鹿な、騙しているのは……俺の方じゃないか)
 自分が騙しているから、相手も騙そうとしているように感じられるだけだ。そう思い直せば、眼前にあるのはあくまで可愛い愛娘のおねだり顔に他ならない。
「ああ……今日は疲れたからな、ゆっくり浸かりたいところだ」
「じゃあ、私も一緒に入っていい?」
「真央は今入ってきたばっかりなんだろ?」
「父さまが疲れてるなら、背中流してあげたいの。……だめ?」
「……そうだな。じゃあ、今日は真央に背中を流してもらうか」
 本音を言えば、一人でゆっくりと浸かりたい所だったが、最早月彦には断る気力すら無かった。


 服を脱ぎ、風呂場に入った所で着替えを終えた真央が戻ってきた。
「父さま、お待たせっ」
「……っ……!」
 ぴょんっ、と兎のように浴室に飛び込んできた真央を見るなり、月彦は目を剥いた。
「……父さま、どうしたの?」
「……真央、その髪……」
「また濡れるといけないから、縛ってみたの。……変かな」
「いや……」
 濡れてもいいようにと、上は白のTシャツ下は薄茶のハーフズボン。そしてその長い髪はポニーテール状に纏められている。
 きっと昨日、真央が同じ髪型をしても、月彦は特に何も感じなかっただろう。ただ、今日だけは――。
(真央が……妙子に見えちまうなんて……)
 余程神経がすり減っているのか、危うく名を口にしてしまいそうになる程に似て見えた。無論、軽く頭を振って冷静に見れば、髪型と胸の大きさ以外は似ても似つかないのだが。
(クソッ……いい加減にしろ、月彦……!)
 自分でもどうにもならない想いに振り回され、月彦は首を振る。
「……父さま、どうしたの?」
「…………なんでもない。その髪も似合ってるぞ、真央」
 頭を撫でて、そして風呂椅子に腰掛ける。まるで、幼なじみを彷彿とさせてしまうその姿から目を逸らすように。
「じゃあ、お湯かけるね」
「ああ」
 真央が洗面器に湯を汲み、ざばあっ、と背中にかけられる。湯気である程度の気温には保たれているとはいえ、冬場の浴室だ。早くも冷え切ろうとしていた体が、一気に暖められる。
「っ……!」
「ごめんなさい、父さま……熱かった?」
「いや、大丈夫だ。どんどんかけてくれ」
 うん、と元気よく頷いて、真央は二度、三度と湯をかけてくる。月彦の方も、肌が漸く温度に慣れてきたのか、最初は熱すぎると感じたお湯が心地よいと思える程になってくる。
 そして、四度目。
「きゃっ……!」
 背後から聞こえる小さな悲鳴。と同時にばしゃあっ、と浴室の床に広がるお湯。
「真央、大丈夫か!?」
 月彦は慌てて振り返り――そして、見た。
「あいたた……」
 尻餅でもついたのか、頭に洗面器を被った状態で呻く真央。そのTシャツはお湯で見事に透けまくり、豊かな胸の形を如実に浮きだたせてしまっていた。
 その光景に、月彦はいとも簡単にごくりと喉を鳴らしてしまう。一端思考がケダモノ化してしまえば、お湯を汲み、背中からかけているだけで何故そうも盛大に転べるのか――という疑問の入る余地など皆無だった。
 恐らくは、“襲ってもらう”為の真央のいつもの手口――普段の月彦ならばそこまで看破した上で、真央の望み通りに襲ってやる所だった。――しかし、今日は。今日だけは、勝手が違った。
 幼なじみとの突然の再会。それによって大きくかき乱された心。それでもギリギリ……断崖の先で月彦は留まっていた。愛娘の手が、その背を押した。
「たえ……こ……」
 ぷつんと、頭の奥で何かが切れる音。呟き声と同時に、月彦の意識は飛んだ。



「えっ……とう……さま?……っきゃあっ……!」
 呟くが早いか、月彦は真央を浴室の床に押し倒してくる。戸惑い気味に抵抗する真央の両手は頭の上で交差させられ、それを片手で押さえつけたうえで、空いた手で強引に濡れたTシャツを捲し上げられる。
「ふーっ……ふーっ……!」
「やっ、やぁっ……とう、さまっ……どうし――ンンッ!」
 捲し上げられたTシャツの下、現れた白い固まりに月彦はむしゃぶりついてくる。ケダモノのようなその仕草はいつもの月彦そのもの。だが――。
「ぁっ……やっ、いた、いッ……!」
 早くも固く尖り始めた先端を噛まれ、舌で転がされる。吸われ、そして再び噛まれた後、にゅぱぁと糸を引きながら口を離したかと思えば、逆側の乳房が同様に吸われる。
「んぷっ、ぷふーっ……ふーっ……たえ、こ……んんんっっぷ、はっ、ぁっ……!」
「ぁっ、んんっ! ぁっ、い、嫌っ……ぁっ……とう、さまっ………違っ……私っ……んんんっ!!!」
 真央の言葉など一切耳に入っていない様だった。ケダモノのような息づかいの合間合間に真央ではない女の名を漏らしながら、今度は真央の唇まで奪ってくる。いつもならば月彦の動きに合わせるように舌を絡ませる真央ですら、この時ばかりは戸惑いが先行してただただ蹂躙されるのみだった。
「嫌っ……嫌ぁっ……父さま、とう、したの? おね、がい……正気に……ぁっ――」
 やがて胸を弄んでいた手が下方へと伸び、ハーフズボンの前が外される。ジッパーが下ろされ、その隙間から蛇のように入り込んできた指が、下着の上からスリットをなぞる。
(父さま……)
 真央は体の力を抜き、月彦の愛撫を受け入れる。しゅっ、しゅっ……とスリットをなぞっていた指は程なく下着の脇からその下へと潜り込み、潤い始めた場所に直に触れてくる。 
「んっ……ぁ、ぁっ……!」
 普段よりも、些か荒々しい愛撫に俄に眉を寄せながらも、真央は一切抵抗をせずにされるがまま。ハーフズボンを脱がされ、そして半ば破り捨てられるようにして下着を脱がされる間も軽く悲鳴はあげはしたものの無抵抗だった。
「ふーっ……ふーっ…………たえ、こ……挿れる、ぞ……」
 まるで真央の背後に立つ誰かに焦点を合わせているような目で、月彦が呟く。抵抗する気がない――という事を月彦も本能的に悟ったのか、真央の両手を押さえつけていた手をどかし、真央の両足を抱え上げるようにして腰を突き出してくる。
「んっ……くっ、ぅ……!!」
 潤いは十分、とはいえまだ十分にこなれていなかった膣内は軋みをあげながら肉柱を飲み込んでいく。
(父さまの……いつもより、大きい……)
 本当にそうなのか、それとも愛撫が足りなかっただけなのか。真央にはもう、そのことを考える余裕は無かった。
「くっ……あっ、はっ……だめっ、父さま……もっと、ゆっくり……!」
 悶え、腰をヒクつかせながら真央は両手を月彦の肩に、首に絡める。しかしまたしても真央の言葉は届かず、ぐんっ……と膣奥が押し上げられると同時に、月彦は抽送を始めてしまう。
「はあっ、はぁっ……妙子っ……妙子っ…………!」
 腰を使いながら、感極まった声で月彦が呟く。
「妙子……好きだ…………!」
 その言葉が、ざくりと真央の胸を抉る。
「好きだ……妙子、妙子……っ……!」
「……っ…………」
 真央は唇を噛み、己に被さる月彦から目を逸らす。喘ぎ声すらもかみ殺し、ただただされるがまま。
(……こんなに一杯……名前を呼んで貰った事なんて無い………………)
 妙子、妙子と連呼する月彦に対して、そんな事まで思ってしまう。
「妙子っ……!」
 月彦が被さってきて、ぎゅうっ、と抱きしめられる。真央もそれに応じ、両手を背に回して抱きしめる。
「んっ……!」
 そのまま執拗に腰を使われて、唇を噛んでいて尚声を上げてしまう。
(父さま、イきそうなんだ――)
 月彦の動きから、それが嫌でも解る。体を重ねたまま、じっくりたっぷりと真央の膣の形を探るかのように剛直でかき回した後、先端をぐいぐいと押しつけるような動きに変わった瞬間――。
「たえ、こっ……ッ……!」
 ぎゅううっ、と一際強く抱きしめられた刹那、真央の下腹部にどくんっ……と熱の固まりが打ち込まれる。
 どくんっ、どくっ。
 どびゅっ、どぷっ。
 びゅっ、びゅるっ、びゅっ……。
 その“衝撃”を、真央はしっかりと受け止める。
(……父さまに、中出しされてるのに――)
 処女を奪われてからというもの、幾度と無く体を重ねてきた。しかし、小細工無しの交接で、しかも中出しされてもイけなかったのは初めてだった。



「あっ……」
 そんな声と共に、月彦は体を起こす。
「俺……あれっ……ま、真央……?」
 まさに夢の途中でたたき起こされたかのような気分。自らが組み敷いていた真央の体を見ながら、月彦は慌てて現状把握に努める。
「……父さま、気がついたの?」
「気がついたのって……俺、どうなってたんだ…………どうして、真央を――」
 真央を抱き、そして中出しした――そのおぼろげな手応えはある。しかし、何か致命的な間違い、勘違いをしてしまっていたような、そんな“錯覚”もまた付随していた。
「父さまは……疲れて、寝ちゃってたんだよ」
 いつもの笑顔で、真央がにっこりと微笑む。
「それで寝ぼけて――」
「いや、違う!」
 真央の言葉を、月彦は強引に遮断する。
「俺は今、今……真央に………………――」
「父さまっ」
 きゅっ、と真央の両手が絡んできて、月彦の頭をそっと引き寄せる。
「いいの、父さま……疲れてたんだよね。疲れてたから……いつもの父さまじゃなかっただけなんだよね」
 ちゅっ、と触れるだけのキス。そして、全てを許すかのような笑み。
「私、いつも言ってるよね。父さまになら何されてもいいって。だから、平気。 父さまが他の女の子とエッチするより、全然平気だよ」
「真央……」
「父さまの為だったら、他の女の子の代わりくらいいくらでもするから。だから父さま……私だけを、真央だけを見て?」
 首を引き寄せられて、キス。軽く舌を触れさせた後、またしても真央の手によって引き離される。
「私が、あんな女の事なんて忘れさせてあげる」
 最後のキスは、とびきり濃厚なものだった。そしてその晩だけは、月彦は確かに真央のお陰で妙子の影に心を惑わされずに済んだのだった。



「三十七度五分……か」
 月彦は体温計から視線を外し、ベッドの方へと向ける。そこには、起き抜けにしては珍しくしっかりとパジャマを着込んだ真央が寝ていて。
「っくちゅん!」
 と、くしゃみをしてはずずずと鼻を啜っていた。
「……こりゃあ完璧風邪だな」
 原因はやっぱりアレだろうな――と、月彦は昨日の事を振り返る。
 あの後、浴室で真央を抱き、体もろくに拭かずに部屋でその続きをした。そのツケが、どういうわけか真央にだけ出てしまったのだ。
「……どうして父さまは大丈夫なの?」
 じろり、と何故か恨みがましい目で見られる。確かに、同じような事をしたのに月彦だけ風邪を引かないというのは真央にしてみれば納得できないことなのかもしれない。
「…………真央のほうが髪が長いからじゃないのかな。髪、ちゃんと拭かなかっただろ」
 もう一つ考えられる要因としては、冷たい風呂場の床に真央を押し倒してエッチをした――というのがあるが、こちらのほうはどちらかというと月彦側の責任だから責めるわけにもいかない。
「……父さまがケダモノみたいに迫ってきて、拭かせてくれなかったからなのに」
 ぷいっ、と真央がそっぽを向く。月彦はばつが悪そうに髪を掻き、そして態とらしく。
「おっと、もうこんな時間か」
 腕時計を見、切り上げに入る。
「じゃあな、真央。母さんの言うことを聞いて大人しくしてるんだぞ?」
「……父さま、待って!」
 部屋から出かけた月彦の足が、背後からの声によって止められる。
「……なるべく早く帰ってきてね?」
「…………ああ、努力はする」
「あっ……待って!」
 再び出ようとするも、またしても真央に止められる。
「…………何だ?」
「あ、あのね………………」
 もじもじと、真央は熱で赤い顔をさらに赤くする。
「お、お出かけのキス……して?」
「……おでかけの…………」
 そんな新妻みたいな――と口にする時間も惜しく、月彦はベッドの傍らに腰を下ろすと真央の体を抱き寄せてキスをする。
「んっ……!」
 ちゅくっ、ちゅく、ちゅっ……。
 軽く唾液が爆ぜる音を響かせ、にゅぱあと唇を離す。
「ぁ、ふぅ……」
 魂まで蕩けたような声を出して、月彦の腕の中でくたぁ……と脱力する。
「…………これでもし俺に風邪が伝染ったら、真央のせいだからな?」
 責任とれよ――と言いかけて、止める。そんな事を言えば、“お薬”を飲まされる口実を自ら作るようなものだ。
「父さまぁ……」
「何だ?」
「……すごく、したくなっちゃった…………」
 熱に魘されたような声で、もじもじと身を揺すりながらそんな“おねだり”をされ、月彦の理性はぐらりと揺らいだ。
「……い、今は駄目だ。帰って、真央の具合が良くなってたら、その時考える」
「本当? 私、頑張って治すね……」
 もぞもぞと、真央が布団に潜るのを見て、月彦は漸く自室を後にし、階下に降りる。
(……俺も真央くらい、自分の欲求に素直になれたら…………)
 どんなに楽かと思いながら、月彦はいそいそと靴を履く。
「行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
 葛葉の笑顔に見送られて、玄関を出る。冬の空は、月彦の心とは裏腹に晴れ晴れとしていた。


 久方ぶりの一人での登校。校門にはやはり由梨子の姿はなく、軽い失望を覚えながら歩を進める――そこで、背後から足音が近づいてきた。
「おーーーーーっす、月彦!」
 隣で立ち止まると同時に、ばんっ、と背中を叩いてきたのは和樹だ。低血圧とは無縁の友人である事は月彦も知っているが、今日に限ってはさらにテンションが高い。
「おっす、カズ」
「なんだ、元気ねーな。……さては、フラれたな?」
 ずきん、と胸の奥が痛む。月彦は返事を返さず、無言のまま歩速を上げた。
「おっ、怒ったってことは図星なのか?」
「うるせえな……どうでもいいだろ」
「どうでもいいわけねーだろ? 折角俺たちがお膳立てしてやったんだ。結果くらい聞かせろよ」
「…………ねーよ」
「は?」
「告ってねーって言ってんだよ」
 半ば苛立ち紛れに言うと、ぴたりと和樹の足が止まった。
「…………マジか?」
「マジ」
「マジのマジのマジでか?」
「大マジ」
「馬鹿野郎!」
 突然襟首を掴まれて、月彦はぐえっ、と悲鳴を上げる。
「なんで告らなかったんだよ! お前、気は確かか!? どう考えても妙子はお前に惚れてんだろうが!」
 がっくがっくと揺さぶられ、月彦は危うく舌を噛みそうになる。
「……事は、単純じゃないんだ。それに、それはお前等の思いこみだ」
 月彦は低い声で呟き、そして無理矢理和樹の手をふりほどく。
「かーーーーーーーっ……マジかよ、信じらんねぇ、あり得ねえ! お前がそこまで空気読めない奴だとは知らなかったぜ」
「空気読むとか、そういうのは関係ないだろ。…………妙子とは、終わったんだ」
 そう、終わった。そう“思いこむ”のが一番楽なのだと、月彦は知っている。
「お前なぁ、俺たちがどんだけ――」
「悪い、カズ。お前と千夏にはすげー感謝してる。なんたって、最後の最後に妙子に会えたんだからな」
 でも――と、月彦は親友の目を見据えて続ける。
「その最後の最後で未練がましい真似するのも格好悪いだろ。第一、俺たちがあの晩だけでくっつくほど仲がいいんなら、今までにとっくにくっついちまってるって」
「……それは…………いや、でも……」
 和樹はなにやら言いたい事がある様だったが、月彦は議論はもう終わりとばかりに歩き出す。
(…………妙子の事で感謝してるってのは本当だぜ、カズ)
 だからもう惑わさないでくれ――そう、心の中で念じながら。


「えー、ヒコが告らんかったゆーことはぁ、つまりぃ……どういうことや?」
 千夏は腰に手を当て、にぃ……と小悪魔笑みで和樹に詰め寄る。ぐっ、と和樹はうなり、後退りするも、その分だけ千夏が距離をつめるからまるで意味がない。
(……こいつら、信じらんねぇ)
 その光景を見ながらあきれ果てているのは無論月彦。
 昼休み、こっそり理科室に忍び込んで昼食をとろうとしていた矢先の出来事だった。“その口論”が始まるまで、月彦は眼前にいる悪魔達を無二の親友だと信じて疑わなかった。
(一瞬でもこいつ等に感謝した俺がバカだった……)
 はあ、とため息まで出る始末。
「っっっ……クソ! お前の勝ちだよ畜生!」
 持ってけ泥棒、とばかりに和樹が財布から五千円札を取り出し、千夏に投げつける。
「うふふふふー、悪いなー、カズ。おおきに」
 悪徳商人のような笑みを浮かべて、ひらひらと空中を舞う五千円札を千夏はびしっと指で挟み、財布にしまう。
「ああああああああくっそ……ゼッテー告ると思ったのによおおおおおおおおおお」
「まだまだ甘いなぁ、カズ。ヒコとの付き合いはうちが一番長いんや、相手が悪かったなぁ」
 駄々っ子のように地団駄を踏む和樹の傍らで、千夏が高らかに勝利の笑い声を上げる。その様を、月彦は酷く冷めた目で見ていた。
(……こいつらは俺が告るかどうかで賭けていた。つまり――)
 昨夜のあの集いも。ジュースを買いに行った時の千夏の言葉も。卓球の時の和樹の言葉も。月彦と妙子の事を想っての事ではなく、“賭け”の為だったのだ。
(いやでも、待てよ――)
 それならば一つだけ腑に落ちない点が残る。月彦はその疑問を千夏にぶつけてみる事にした。
「……千夏、一つ聞いていいか?」
「何や?」
 とうとう床の上を転がり始めた和樹を放って、千夏が隣の椅子に座る。
「お前は、俺が告らない方にかけてたんだろ? だったら、どうして俺に告白を煽るような事を言ったんだ?」
「……そう言ったほうが、ヒコは告らんやろ?」
 けけけ、と千夏が小悪魔笑みをする。
「逆に、“妙ちゃんはもうヒコの事はなんとも思うとらん。嫌われとるでー”ゆうたら、ヒコ……告っとったやろ?」
 軽い気持ちで、と妙に低いトーンで千夏は付け加える。
「……軽い気持ちって……どういう事だよ」
「そのまんまの意味や。生半可な気持ちでそないな事言われたら、妙ちゃんが可哀相やからな。発破かけたったわけや」
「……さすがは幼なじみだ。俺の事をよく知ってるんだな」
 行動を見透かされた月彦の、精一杯の強がり、嫌味だった。しかし千夏は、それすらもふんと鼻で笑う。
「あのな、ヒコ。“幼なじみ以上”になるのが恐いんはヒコだけやない。妙ちゃんの方かて同じゆうこと、ちゃんと解ってるかー?」
「……違うな。俺と妙子は、そんなんじゃない」
「違わんと思うけどなー。うちには二人とも怖じ気づいとるだけに見えるで」
「……違う!」
 説得力の無さを声の大きさでカバーするような、そんな叫びだった。その声量に些か驚いたのか、千夏はくいと顎を引くような仕草をする。
「ま、ええわ」
 ひょいと立ち、和樹の方へと数歩歩む。
「ヒコがそない迷惑がるんやったら、金輪際仲立ちはせーへんから」
「……っ……」
「カズ、起きぃ。ヒコ機嫌が悪いみたいやから、昼はよそで食うで」
 どすっ、と脇腹に蹴りを居れて無理矢理和樹を立たせ、千夏は後ろも見ずに理科室から出て行く。
「……妙子……っ……」
 一人残され、呟く。初恋の相手の名を呼ぶには、その声はあまりに苦渋に満ちていた。


 昼休みが終わり、五時限目が始まっても、依然心が晴れる事はなく。月彦の胸には重い塊が残ったままだった。
(どうして、惑わすんだ……)
 教師の声など聞こえるわけもない。頭を巡るのは妙子の事ばかり。それに対して“今更何を”と憤る自分がいる。
(もう、今頃は――)
 とうに日本を発っているかもしれない。しかし、そうじゃないかもしれない。今すぐ席を立ち、空港へと駆けつければ或いは最後に一目会えるかもしれない。
 見送りなど意味がないと、妙子は言った。果たしてその言葉をそのまま受け取って良かったのか。
(……違う、妙子は――)
 自分の知っている妙子ならば、こういった別れ際に間違っても弱音など吐かない。
(つまり、本当は――)
 無理にでも聞きだして欲しかったのではないか。追いかけてきて欲しかったのではないか。
(俺は、また……同じ事を――)
 繰り返す所だった。そう、あの土手の時のように。
(でも、今の俺には――)
 妙子の方へと向こうとする気持ちを、別の気持ちが阻害する。そのどちらもがあまりに強大で、火花を散らしてぶつかり合うたびに胸の奥に鋭い痛みが走る。
「……っ……!」
 制服のシャツの上から胸に爪を立て、ぎりぎりと掻きむしる。無論、そんな事で痛みが和らぐ筈もない。
 キィィィン――不意にそんな音が耳に届いて、月彦は窓の外に目をやった。恐らく、今まで気にもならなかった、旅客機が通り過ぎていくエンジン音。それが今日に限って、体を切り刻んでいるかのように生々しく聞こえる。
 旅客機も、その姿自体は見えない。ただその音だけが微かに窓を震わせ、そして止む。
(……何を考えている、月彦)
 胸元に、さらに爪を立てる。動悸と息切れ、しかしそういった事すらどうでも良い程に、月彦の心中は揺れていた。
「どうしたの? 紺崎君。顔色が悪いわよ?」
 問いかけられ、教壇に目をやって、気がつく。ああ、自分は五時限目の授業が英語であることすら、雪乃がそこに居ることすら気が付けないほどに思案に耽っていたのだと。
 大丈夫です――そう言おうと思った。しかし、口から出た言葉は――。
「……すみません、ちょっと具合が悪いみたいで」
「大丈夫? 保健室に行く?」
 どうやら端から見ても明らかな程に顔色が悪いらしく、何人かのクラスメイトが月彦の方を向いては憐憫の視線を向けてくる。
 チャンスだ――もう一人の自分がそう呟くのを感じながら、月彦は必死に“それ”に抗おうとする。が――。
「……いえ、ちょっとヤバい感じなんで……出来れば歩けるうちに帰りたいんですけど」
 早退してもいいですか――その旨を視線に乗せて雪乃に訴える。きっと、これが他の教師であればそんな甘い事は許されなかっただろう。しかし雪乃ならば。
「そ、そう……確かに顔色も悪いし、紺崎君がそう言うなら……」
「……すみません」
 月彦は簡単に帰り支度をし、席を立つ。
「無理して帰らなくても、授業が終わった後なら車で送ってあげられるわよ?」
 教室を出る際、雪乃がさりげなく身を寄せてきてそんなことを囁いてくる。月彦は一瞬考えて、やはり断った。
「大丈夫です、今ならまだ歩けますから」
 不安げな雪乃の瞳に見送られて、月彦は本来ならばあり得ない時間帯に学校外へと出る。
(……ッ……俺は、やっぱり――)
 どれほど忘れようとしても。考えないようにしようとしても、妙子の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
(今から空港に向かったって……)
 十中八九無駄足だろう。それは月彦自身が一番良く解っている事だった。
 妙子が一体どの空港から旅立つのかも解らず、仮に最寄りの空港であったとしても行き先も便の出発時刻すら不明なのだ。妙子が空路以外の手段で日本を離れる可能性を鑑みれば、このまま空港へと駆けつけて出会える可能性は限りなくゼロに近いだろう。
 それでも、行かねばならない。行って、決着を付けねば、けじめを付けなければいつまでもこの苦しさからは逃れられないだろう。
(もし、俺と妙子に……まだ“縁”があるのなら……)
 きっと、再び出会える筈だ。
 ――しかし。
「…………っ……………………」
 月彦は空を見上げる。キィィィン――そんな音を立てて、また一機。小さな影が頭上を飛び去っていった。



 

 

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