寒がりに加えて元々体が強くもない由梨子にとっては、冬場に引く風邪は殆ど通過儀礼と言っても良いものだった。それ故本人も家族も特に気にも止めず、“いつものことだから”と市販の風邪薬を飲んで家で安静にしているだけで別段病院に行ったりはしない。
だから今日も、朝に母親が作ってくれた粥を食べて――朝とはいっても、九時過ぎだが――薬を飲んで横になり、そのまま夢うつつのまま過ごしていた。
「んっ……」
日が昇り、気温が上がってきたせいで掛け布団とその下の毛布二枚が寝苦しくて堪らない。しかしそれをはね除けるほどの元気もなく、だくだくとかき続けた汗が許容量を突破して漸く、毛布の一枚をけたぐるようにして押しやり、ベッドの下に落とす。
(今……何時…………)
熱に魘されながら、由梨子はそっと上体を起こす。頭がひどく重く、すぐに枕に突っ伏してしまう。顔だけ半分枕から上げる形で枕元の時計を確認すると、二時を少し過ぎた辺りだった。
(まだ……二時……)
落胆。由梨子の経験上、この手の風邪はだいたい三日過ぎた頃には治るのだ。それまではただひたすら食事と、安静にしている事以外由梨子にはやることがない。
昼も夜も寝ているから、至極眠気は薄れてくる。しかし起きて何かをやるほどには体力が無い。
だから、ベッドに横になり続ける。寝返りすらも億劫に感じるほどに気怠く、目を開けていることすら苦痛を覚える。
無論由梨子は自覚している。風邪を引くこと自体はいつもの事。しかし、いつになく体が怠く、症状が重く感じられる。――その理由も。
『先輩、今日は友達と遊ぶから一緒に帰れないって――』
昨夜の真央との会話を由梨子は思い出す。名目上は学校を休んだ由梨子の安否を気遣っての電話だった。しかし、その本当の目的は“何故月彦が来なかったのか”を由梨子に教える為だったのではないのか。
無論、そうなると当然真央は月彦が由梨子の家に行くと約束していることを知っているという事になる。何処で情報が漏れたのかなど解らない。しかし由梨子には、“真央なら知っていてもおかしくはない”と思えて仕方がないのだ。
(超能力者じゃあるまいし……)
けほっ、と咳をついて目を瞑る。物事を悪い方へと考え過ぎてしまうのは悪癖だ。由梨子もそれに気がついている。それでも止めることができないのは、それが長年の習慣となってしまっているからだ。
(真央さんだって、本当に心配して電話をしてくれたに決まってる……)
そしてそのついでに、一緒に帰ってくれなかった月彦のことを由梨子に愚痴っただけだ。由梨子とて、月彦が真央と付き合っていなったら、或いは月彦に対する愚痴を真央に漏らしたかもしれない。
(先輩……本当はもう、私のことなんて……)
その先を、由梨子は考える事が出来ない。それは深い闇を孕んだ崖に立ち、片足を浮かせてつま先でその底を探ろうとするようなものだった。
一度霧亜に捨てられている由梨子には、“月彦にまで飽きられたかもしれない”と想像すること自体が体が震えるほど恐ろしいことだった。
考えてみれば、予兆はあった。休みの日のデートのキャンセルがそれだ。そして今回の二日連続のすっぽかし――初日こそ、真央の“妨害”のせいだと思えたが、それも二日続けば勘ぐりたくもなる。そしてその理由が“友達と遊ぶから”では、落胆を通り越して俄に怒りすら覚えた。
そして我慢できずに、由梨子は電話をかけてしまった。真央に全てが露見してしまう可能性を鑑みても尚、堪える事が出来なかった。
一夜明けて――否、夜中のうちにはもう、由梨子はそのことを痛烈に後悔した。何故自分はあんな電話をかけてしまったのだろう、と。
自分は二番でいい。気が向いた時にだけ相手をしてもらえればそれでいい――そう、月彦に言ったのはどの口だと。自己嫌悪で震える程に由梨子は後悔し続けた。あのような電話など、百害あって一利無しだというのに。
もし全てが由梨子の思い過ごしであり、昨日の事も本当に友人の誘いを断り切れず――その辺りに関しては由梨子もじつに月彦らしいとは思うのだが――否応なしに由梨子の元に来れなかったのだとすれば、あのような恨みがましい電話をした由梨子に対して月彦は“厄介な女だ”という意識を持つだろう。
逆に、由梨子が危惧した通り――月彦の心が由梨子から離れようとしていた場合。あんな電話を受ければ月彦は“やはり早々に縁を切るべきだ”という風に考えるだろう。どちらにしても、由梨子にとっては自分の首を絞める結果にしかならないのだ。
時間を戻せるものなら戻したい。月彦に電話を掛ける一瞬前でもいいから戻りたい。夜中に何度そう念じて目を閉じたか。しかし――世界は由梨子に独善的な奇跡を起こすことを許さなかった。
ふう……、と再び肩まで布団を被ってため息をつく。同時に、由梨子の耳に微かな電子音が響いた。
立て続けに、もう一度。それは間違いなく、宮本家のインターホンの音だった。
「……お母さん、居ないの?」
掠れた声で言うも、返事は無し。どうやら由梨子が眠っている間に母親は出かけたらしい。階下に人の気配は無く、ただただインターホンの音のみが鳴り続ける。
由梨子はしばし思案して、無視して布団に潜る事にした。一瞬、月彦がと淡い期待も抱いたが、時間的にあり得ないからだ。
どうせセールスの押し売りや宗教あたりだろう。或いは犯罪者の類かもしれない。今の体力でそれらの相手が出来るとも思えない。
しかし、インターホンはなかなか鳴りやまず、しばし間隔が開いたかと思ったらまたなり出す始末だった。そのしつこさから、由梨子の心に別の疑念が沸く。
(もしかして……武士が――)
鍵でも忘れていって、家に入れないのではないか。いや、それにしても時間が早すぎる。
(武士も、具合が悪くなったんじゃ――)
自分の風邪が武士に伝染り、学校で発症したのでは。そして早退してきたのでは。鍵も、携帯も運悪く忘れて、インターホンを鳴らすしか手がないのでは。
一度そう考えれば、そうとしか思えなくなってくる。今、こうしている間にも玄関の前で武士が膝をつき、苦しげに咳をしている姿が目に浮かぶ。
「……っ……」
怠い体と、痛む関節に歯を食いしばりながら、由梨子はベッドから這い出る。杖があれば手を伸ばしてしまいそうな程に体が弱っていた。
ぐにゃぐにゃと歪む視界に吐き気を覚えながら、由梨子はゆっくり一段ずつ階段を下りる。
階段を下りきった所で、ぴんぽーん、とまたインターホンが鳴る。同時に由梨子はがくりと膝をついた。ただ、階段を下りる――その作業が思ったよりも辛く、体力を消耗してしまっているようだった。
目眩だけではなく、頭痛も酷くなっている。心臓が脈打つ度にズキズキと痛み、時折気が遠くなる程だ。
素足のまま玄関に下り、かちゃんと鍵を外す。
「あっ……」
ずきんっ、と一際酷い頭痛に襲われ、由梨子は再度膝をついてしまう。その際、ドアに軽く頭をぶつけてしまうも、それよりも遙かに頭痛の方が酷くて立ち上がる事が出来ない。
(だ……め、……あたま、痛い…………)
視界がぐにゃぐにゃと歪んで、モノクロになる。遠のいていく意識の中で、由梨子は微かに、玄関のドアが開かれる音を聞いた気がした。
「う……ん……」
意識を取り戻すとそこは自室のベッドの上で、掛け布団の重みを感じながら由梨子が最初に思ったのは全ては夢だったのかという事だった。
そう、夢に決まっている。由梨子は身じろぎをして時計を確認して尚更そう思う。時刻はまだ三時前。あり得る筈がないのだ。
(先輩を……見たような気がしたけれど……)
たとえ来たとしても、こんな時間に来るはずがない。だから、あれは夢だったのだ。自分があまりに想いを募らせるから、都合の良い夢を見てしまっただけだ。そう、都合の良い――リアリティの欠片もない夢を。
だから今、眼前に月彦の姿が見えてもそれは熱に魘されての幻覚に違いない。そう思って、由梨子は再び目を閉じる。
「っって、先輩!?」
バネ仕掛けのように由梨子は掛け布団をはね除け、上体を起こす。ベッドの側、若干距離を開けて座っているのは紛れもなく月彦だった。
「んっ、あっ……目、覚めたんだ」
壁掛け時計のほうを睨みながら考え事をしていた――様に由梨子には見えた――月彦は由梨子が声をかけるなり、笑顔を浮かべる。
「ごめん、悪いかなとは思ったんだけど……由梨ちゃんをあのままにもしておけないし、勝手に上がらせてもらったよ」
「それは……いいんですけど、先輩、どうして――」
由梨子は再び枕元の時計に目をやる。時刻は丁度三時を指した所。普段ならば、学校に居て然るべき時間帯だった。
「ああ、学校は……サボッちまった」
「なっ……」
「俺も今日、ちょっと調子悪くてさ。本当はまっすぐ家に帰ろうかなって思ったんだけど……どうしても由梨ちゃんの顔が見たくなっちゃって」
「調子が悪いって……先輩、大丈夫なんですか?」
「……まあ、精神的な問題だったみたいで、由梨ちゃんの顔が見れてからはほぼ全快したよ。ああそうそう――」
と、月彦はテーブルの上に置いてあった紙袋を手に取る。
「リンゴ買ってきたんだけど、今食べる?」
「そんな……先輩――」
どうして、と由梨子は胸を押さえる。
あんな、嫌がらせのような電話をかけた自分にどうしてこうも優しくしてくれるのか。
(どうして、昨日は来てくれなかったんですか――)
もし、同じ事を昨日されていたら、自分はもう飛び上がって喜んだだろう。しかし今は違う。月彦の優しさを“恐い”とさえ感じてしまう。
(……だめだ、私……どうして素直に喜べないんだろう……)
折角先輩が来てくれたのに――悪い方向へばかり考えてしまう自分が情けなくさえ思える。
「……由梨ちゃん、昨日は本当にごめん。いや、一昨日も……その前も。ここのところずっと由梨ちゃんとの約束破ってばっかりで、ほんと申し訳ないと思ってる」
「……それは、仕方ないです。先輩にだって……予定は、あるんですから…………」
そしてまた、上っ面だけの“良い子”を演じる自分にも嫌気が差す。
「それでも、三度続けてはさすがの俺でも自分が許せない。出来れば、横っ面の一つも張って欲しいところなんだけど……」
「そ、そんな事……私に出来るわけないじゃないですか!」
「……やっぱり、由梨ちゃんはそう言いそうな気がしてた。でも、それじゃあ俺の気が済まないんだ」
「……今日、お見舞いに来てくれただけで十分です。私も、先輩の顔を見ただけで、大分楽になった気がします」
本当にそうだと、由梨子は思う。あれほど重かった頭も、己の体ではないみたいに気怠かった体も嘘のように軽い。ひょっとしたらもう全快してしまったのではと思うほどに調子が良くなっていた。
「本当にそうなら良いんだけど……熱、計ってみる?」
「そう……ですね。多分……大分熱も下がってると思います」
テーブルの上に置いてあった体温計を月彦にとって貰い、由梨子はパジャマの襟元を開いて脇に体温計を差し込もうとして、はたと視線に気がつく。
「あ、あの……先輩、そんなにジロジロ見られると……」
「ご、ごめん!」
月彦は慌てて背を向け、由梨子は苦笑しながら体温計をセットする。
(……何度も裸を見られてるのに…………)
ちょっと胸元が覗くだけで恥ずかしがる自分も自分ならば、それを悪いと思う月彦も月彦だ。つまり、絶対的に足りないのだ。互いの距離を詰める経験と時間が。
(きっとこれが真央さんだったら……)
体を拭いて貰ったりもするのだろうな――と考えてしまう。ならば自分ならばどうか、と想像して、由梨子は顔から火が出そうになってしまう。
(う、わ……絶対、無理……)
そんな事をされたら、恥ずかしさのあまり死んでしまうかもしれない。由梨子はぶんぶんと首を振って、その強烈すぎる妄想を必死に打ち消す。
仮に由梨子が頼めば、月彦は間違いなく拭いてくれるだろう。しかしそれを頼むには、まだ二人の距離が遠すぎた。
「……由梨ちゃん、もういいかな?」
「えっ……あ、はいっ!」
気がつくと、脇に挟んだ体温計からぴーぴーと電子音が鳴っていた。由梨子は慌てて取り出し、そして液晶画面を見てぎょっとする。
「何度だった?」
「ええと……ちょっともう一回計り直した方がいいみたいです」
液晶画面には、39度7分と表示されていた。
「本当に大丈夫ですから、これは、その……誤差で高くなっちゃってるだけですから」
「誤差って言ったって、いくらなんでも39度は高すぎだって! しっかり寝てないと」
由梨子は半ば強制的にベッドに寝かされ、そして布団をかけられる。
(私が、あんな事を考えたから……)
勝手に体が熱くなってしまったとは、口が裂けても言えなかった。
具合自体は、一人で寝ていた頃よりも格段に良くなってきているのに。こうして横になってジッとしていなければならないことが逆に辛かった。
「薬とかは……ちゃんと飲んでるの?」
「ええと……はい。朝、お粥を食べた後に飲みました」
「朝……じゃあ昼は飲んでないんだ。だから熱が……」
「あの、先輩……私、本当に大丈夫ですから」
「強がらないでいいって。そんなに熱があって辛くない筈がないだろ? 薬――はここにあるか。じゃあ水を持ってくるよ」
月彦が部屋から出て行ったのを見計らって、由梨子は残っていた毛布までも足下に押しやり、掛け布団のみをかぶり直す。そうしなければ、熱くてたまらなかったからだ。
程なく、コップに水を入れて月彦が戻ってきた。が、月彦は目ざとくけ落とされた毛布に目をやる。
「駄目だよ、由梨ちゃん。ちゃんと毛布もかぶらないと」
「で、でも……ちょっと、熱くて……」
「汗をかいた方が熱は下がる! 三十九度もあるんだから水分をとってどんどん汗を出さないと」
と、半ば強制的に毛布を二枚かけられ、さらに掛け布団をのせられる。
「あとは薬だけど……確かいきなり薬を飲むよりは何かお腹にいれてたほうが良かった筈……由梨ちゃん、リンゴ食べられる?」
「は、はい……一応、お腹は空いてますけど」
「そっか。じゃあ、果物ナイフも借りるね」
とたとたと、再度台所に降りた月彦が皿と果物ナイフを手に戻ってくる。
「あんまり自分で剥いた事はないんだけど」
月彦はリンゴを四つ切りにし、丁寧に皮をむき始める。確かにその手つきはお世辞にも慣れているとは言い難く、何度も指を切りそうになって由梨子はその都度ハラハラせねばならなかった。
「剥けたのからどんどん食べちゃっていいよ」
「は、はい……じゃあ、頂きます」
些かいびつな形をしたそれに由梨子は手を伸ばし、シャクシャクと頬張る。些か酸味の強い、固いリンゴだったが、それでも月彦が買って来、剥いてくれたものだと思えば至上の甘味に思えてならなかった。
「後は薬だね」
由梨子は手渡された錠剤を、水と一緒に飲み込む。ふう、と一息をつき、再びベッドに横になり、月彦に布団をかけてもらう。
「……本当にすみません。何から何まで」
「俺だって、入院してた時は由梨ちゃんに散々世話焼いてもらったんだから。お互い様だろ?」
「でも……それだったら、私も入院中に随分先輩に――」
「いいから、由梨ちゃんは何も気にしないでくれ。…………俺はこうして、由梨ちゃんの側に居られるだけで幸せなんだから」
「……先輩…………」
例え建前だと解っていても、その言葉に由梨子は涙が出そうになってしまう。しかし、強烈な感激は同時に、強烈な疑念までも呼び覚ます。
(先輩、もしかして……真央さんと――)
真央と、何かあったのではないか。喧嘩か、或いはその先――。由梨子は掛け布団の下で、ぎゅっとシーツを握りしめる。
「せ、先輩……」
「うん?」
「あの、もしかして――」
尋ねようとして、舌が凍り付く。もし、本当に月彦と真央が喧嘩をしているのだとしたら。その原因は一体何か。
(私の電話だ……)
今日の月彦の態度を見るに、由梨子にはそうだとしか思えなかった。あの電話が原因で、きっと真央との間に何らかの軋轢が生まれたのだ。
(そうじゃなかったら――)
いくらなんでも早退はしない筈だ。月彦は精神的に参っていると言っていた。ならば、月彦をそこまで参らせることが出来る相手とは。
「……由梨ちゃん?」
「……いえ、なんでもないです」
聞いて、どうするというのか。そんな事より、今自分が何をすべきかを由梨子は考える。月彦が、自分の側に居るだけで癒されるというのなら、黙ってその役に殉じるべきだと。
(私は、二番なんだから……)
自分を抑え、真央を立てなくてはならない。しかしそのことが、前にも増して由梨子には辛く感じられるのだった。
「由梨ちゃん、親御さんは今日は何時くらいに帰ってくるのかな」
「そ――う、ですね。昨日は確か……九時過ぎくらいだったと思います」
「そんなに遅いのか……武士君も同じくらい?」
「武士は……そうですね。最近は特に帰りが遅いです」
そのことを、由梨子は多少気にはしていた。あの日、月彦が来るから外食して帰れと促したその日から、武士の帰宅が目に見えて遅くなっていた。
(でも、弟たちの帰宅を気にするなんて――)
もしかして、もしかして……と、由梨子はまた変な期待を抱き、心拍数を天井知らずに上げてしまう。しかし、月彦から帰ってきた言葉はそんな由梨子に対して冷水をかけるようなものだった。
「そっか……そろそろ帰ろうかと思ったんだけど、武士君達はそんなに遅いのか……」
「えっ……?」
帰る――?
月彦の言葉が、由梨子にはまるで異世界の言葉のように理解しづらかった。
「先輩……帰っちゃうんですか?」
「うん。そうしようかなって思うんだけど……俺が居ると、由梨ちゃんもゆっくり休めないだろうし」
「……そんなことありません!」
由梨子自身も、そして月彦もぎょっと目を剥くほどの大きな声だった。あまりの声に、由梨子はけほっ、けほと咳き込んでしまう。
「先輩が来てくれてから、すごく具合がよくなってきてるんです。だから……」
「いや、でも……風邪の時はやっぱり寝た方が……」
「……一人は、嫌なんです。寂しいんです。……先輩と、一緒に居たいんです」
由梨子は手を伸ばし、月彦の手を握りしめ、縋るように訴える。
普段ならば、絶対にそこまでストレートな“弱音”は吐けない所だった。病気で体が弱っているからこそ、言える言葉だった。
「由梨ちゃんがそう言うなら、俺は構わないんだけど」
「……ありがとう、ございます」
ぎゅっ、と握った月彦の手は冷たかった。きっと、それだけ自分の体は熱を持っているのだろう。
(だめだ……私……先輩を独り占めしたいって思ってる…………)
真央の所に返したくないと。いつになく強く思い始めている自分に気がつく。その為ならば、例え、どんな事でも――。
「あの、先輩――」
由梨子の意志とは無関係に、勝手に唇が開く。
「抱いて……くれませんか?」
えっ、と月彦に声を返されて、初めて由梨子は己の大胆な発言に気がついた。
「ち、違います……あの、抱きしめて欲しいって意味です……」
何が違うものか、と。頭の中で声が響く。
「ああ、そういう事か」
了解した、とばかりに月彦はベッドに腰掛け、ぎゅっ、と由梨子の体を抱きしめてくる。それだけで、声が漏れてしまいそうなほどに心地よかった。
「……由梨ちゃん、少し強くするよ」
「は、はい…………ぁっ………………!」
最早口にするまでもなく、由梨子がして欲しい事をされる。ぎゅうっ、と上半身が圧迫されて、まるで搾り出されるかのように下半身が湿り気を帯びてくる。
(ずっと……このまま――)
抱きしめられていたい。由梨子は両手を月彦の脇から背中へと回し、指先を肩に引っかけるようにして密着する。
(ぁ……先輩の、匂いだ……)
香水とも、整髪料とも違う。体そのものから発せられる微かな香りを、由梨子は胸一杯に吸い込む。――そして同時に、由梨子は気がつく。
(……っ……私、……お風呂……入ってない…………)
昨夜、体を拭いたっきり、シャワーも浴びていない。そのことを思い出して、由梨子はハッと身を固くする。
「うん?」
「あ、あの……先輩、もう……いいですから」
「もういい、って……遠慮なんかしなくていいよ。……俺も、由梨ちゃんとこうしていたいから」
「わ、私も……そうしたいのは、山々なんですけど……あの、その……私、風邪引いてて…………お風呂に、入ってませんから…………」
顔を真っ赤にしながら、由梨子は蚊の泣くような声で告白をする。理由をきちんと話さなければ、月彦が離れてくれそうになかったからだ。
「……? それがどうかしたの?」
「どうかしたの、って……先輩っ あぁっ、やっ……!」
抱擁はゆるまるどころかいっそう強く、さらに――。
「やっ、ダメです! 先輩、やめて、下さい……」
月彦は由梨子のうなじのあたりに顔を近づけ、くんくんと鼻を鳴らしてくるのだ。
「俺は、由梨ちゃんの匂い好きなんだけどな。……もっと、嗅ぎたい」
「だ、だめ……です、先輩……本当に、恥ずかしい、ですから……っきゃっ!」
抵抗するも、男の力には叶わず、ベッドに押し倒される形になる。月彦は由梨子の両手を封じながら、今度はパジャマ越しに胸元に顔を埋め、すーはーと呼吸を始める。
(っ……先輩の、息が……)
パジャマの生地越しにかかり、由梨子は顔から湯気が出そうになってしまう。
「……だめだ、由梨ちゃんの匂い嗅いでたら……なんか、我慢できなくなってきた……」
ふうふうと、月彦の息づかいが若干荒くなっていた。その“変化”に、由梨子は見覚えがあった。
「っきゃあッ!?」
突然、首筋をぺろりと舐められ、由梨子は素っ頓狂な声を上げてしまう。しかし月彦は動じず、相変わらず由梨子を押さえつけながらぺろ、ぺろと首の辺りを舐め続ける。
「せ、先輩っ……やっ……ダメです、汚い、ですから……」
「汚くなんかない」
断定するように呟いて、また舐められる。ちゅっ、ちぅっ……時折キスをされながら首を舐められた後は、パジャマのボタンを一つ外され、鎖骨のあたりを舐められる。さらに、ボタンを一つ、肩口まで露出して、舐められる。
「っっっ……わ、解りました……先輩、舐めても、いいですから……その前に、シャワーを……ひゃんっ!」
とうとう胸元まで露出させられ――ブラはつけていなかった――先端をぺろりと舐められる。既に固く尖ったそこは信じられない程に敏感で、軽く舐められただけで由梨子は背を仰け反らせてしまう。
「ダメだ。今……舐めたい」
「せ、先輩…………んっ!」
ぬろりっ、ぬっ、ぬっ……周囲の膨らみも余すところ無く、月彦の舌が這ってくる。由梨子はもう、抵抗をしても無駄だと悟り、ただただ静かに羞恥に堪え続ける。
やがてパジャマの上のボタンが全て外される。腹部、臍まで丹念に舐められるのを、由梨子は目を瞑って堪えた。
嫌――というわけではない。ただ、とにかく恥ずかしい。まだ月彦の前で肌を晒す事すら慣れていないというのに、今日はさらにシャワーすら浴びていないのだ。
「……由梨ちゃん、手、抜いて」
「は、はい……」
言われるままに右手を、次に左手をパジャマの上着から抜く。上半身を隠すものは何も無くなり、由梨子は咄嗟に胸元に手をやろうとするが、無論月彦が許す筈もない。
「手、上げて」
「えっ……あの、先輩……まさか――やっ……!」
右手を強引に挙げさせられ、そのままぺろりと脇を舐められる。
「ひっ、あっやっ……んっ……やっ、先輩っっ……だめっ、そんな、所……ぁぁああっ!」
脇の下をはい回る、ぬろぬろとした舌の感触に、由梨子は頭を振って制止を懇願する。勿論、それで止まるわけもないのだが。
「せ、先輩……後生ですから、そんな所、舐めないで下さい……んんっ!」
抵抗する手を腕力でねじ伏せられ、強引に脇を開けさせられ、舐められる。身を焦がすほどの羞恥と、くすぐったさと、そして微かな快感に由梨子は何度も背を反らせ、暴れる。
「んっ……すごく美味しいよ、由梨ちゃんの汗」
「っぅぅぅ…………お、覚えてて、下さいね?」
漸く脇の下から顔を上げた月彦に、由梨子は涙混じりの目で訴える。
「…………次に先輩が風邪を引いた時に、そっくり同じ事を仕返してあげますから」
「楽しみにしてるよ」
と、月彦は余裕タップリに笑いながら、パジャマのズボンに手をかける。ああ、やっぱり――と、由梨子は半ば諦めながら、体を僅かに浮かせて潔く脱がされる。
パジャマズボンは脱がされ、色の変わってしまった薄いブルーのショーツが月彦の目に晒される。そこに月彦は鼻を押しつけ、すんすんとならしながらスリットをなぞり上げてくる。
「っっっ〜〜〜っ……!」
由梨子は両手で月彦の髪に爪を立て、形ばかりの抵抗をしながら唇を噛む。止めて、と言ったところで止めてくれる筈はないのだ。ならば、この些か常軌を逸した――変態的ともいう――行為に月彦が飽きるまで、由梨子は堪えるしかない。
しかし、意外に月彦が飽きるのは早かった。ショーツから顔を上げ、再び由梨子に被さるようにむぎゅっ、と抱きしめてくる。
「……由梨ちゃん、挿れたい」
「……先輩…………」
ショーツの上あたりに、固く、熱いものが辺り、擦りつけられていた。その熱を腹部で感じて、由梨子もまた疼いてしまう。
「だめ……って言っても、するんですか?」
「しないよ、由梨ちゃんが嫌なら」
「っっ……せ、先輩は……卑怯、です……んっ……」
はむはむと耳を食まれ、由梨子は月彦の背に爪を立てる。
「ぁっ、ぁっ……わ、私、も……先輩の……欲しい、です……ぁっ……!」
強張った部分をショーツの上から擦りつけられれば、由梨子にはそうとしか答えられない。
(だ、め……今、されたら……死んじゃうかもしれない…………)
熱に茹だった思考でそんな事を思う。だからといって止める事など、出来る筈もないのだが。
月彦も服を脱ぎ――半ば以上由梨子の希望で――二人で共にベッドに入る形になる。由梨子は恐る恐る、ベッドの枕元の小棚に隠してあったスキンを手に取り、月彦に手渡す。が、月彦は何かを思案した後、
「……今日は、由梨ちゃんにつけて欲しいな」
と言って返してきた。しかし別段、異論がある筈もなく。
「わ、わかりました……んっ……」
二人ともベッドに入り、掛け布団を被っているから由梨子はスキンを手に、手探りで剛直を捜して装着する。
(……う、わ……うわっ……うわぁっ……!)
そしてそうやって触れば触るほど、とても入る筈がないと思ってしまう。なまじ視覚情報が無い故か、掛け布団の下で触る剛直が余計に大きく感じられてしまう。
(私の腕くらいあるんじゃ……)
さすがにそんな筈はない、とは思うものの、竿などをさすさすと触っているとそんな気がしてくる。
「……由梨ちゃん、今日はずいぶん積極的だね」
「えっ、あっ……!」
苦笑混じりに言われて、由梨子は慌てて手を引く。
「す、すみません……つい――」
「別に謝るような事じゃないよ。俺だって……由梨ちゃんに触るし」
「んっ……!」
月彦の手が、太股の辺りに触れる。そのまま、さわさわと撫でて、先ほどにもまして湿り気を帯びたショーツへ。
「やっぱり、早いね」
濡れるのが、という意味だろう。
「……先輩が、側に居ますから」
「俺も、由梨ちゃんと一緒に居るから、こんなになってる」
ぐっ、と先ほどよりも強く、ショーツに剛直が押し当てられる。それだけで、じわりと。ショーツのシミが濃くなってしまう。
「せ、先輩っ……ぅっ……」
剛直が引いたかと思えば、今度は指。それも、ショーツの中へは入らず、ぴったりと張り付いている部分を生地越しに愛でるように、やんわりと愛撫してくる。
「あっ、ぁっ、あっ……んっ……ぁぁっぁ…………」
秘部を指で愛でられるたびに、自然と足が開く。指の動きに合わせて腰がうねる。
(やっ……)
はあはあと、息を荒げながら。
(欲し……い……)
月彦の背に手を回し、由梨子は催促をする。
(先輩に……挿れて、欲しい――)
もう、十分過ぎるほどに準備は出来ているのに。ひどくもったい付けたような指の動きに由梨子は焦れる。
「んっ……っ……!」
指が、ショーツの内側に潜り、そっと入り口をまさぐってくる。程なく、ゆっくりと――太さ的に恐らくは――中指が入ってくる。
「あっ、ぁっ、あっ……」
声を上げながら、由梨子は腰をくねらせる。まだ、月彦とはそれほど体を重ねたというわけではない。しかし、“そこ”への愛撫の経験は遙かに豊富だ。
円香に、そして霧亜に開発された体が、由梨子の意志に反してひく、ひくと指を締め付ける。
“欲しい”――と。
「んっ……まだ、そんなにしてないのに……由梨ちゃんは、真央より慣れるのが早いみたいだね」
「それ、は――」
私は、先輩が初めてじゃないですから――と、言いかけて、由梨子は唇を噛む。それは今更口に出しても、悔やんでも仕方がない事だ。
「……大丈夫、俺はそういう所もひっくるめて、由梨ちゃんが好きなんだから」
「先輩……んっ……」
優しくキスをされて、由梨子も応じる。互いの唇を食むようにして、さりげなく舌を絡ませる。
「んっふっ……」
同時にショーツを脱がされ、月彦よりも由梨子の方が積極的に動いてショーツから足を抜く。
「んっ、ぷ……んっ……はっ……由梨ちゃん……いく、よ――」
「は、はい……んんんっ、ぁっ……あぁっ……!」
固く、巨大なものが下腹を突き上げてくる。そうしまいと思ってはいても、それでも由梨子は圧迫から逃げるように、体を枕側へと逃がそうとしてしまう。――が、やはりそれは月彦に押さえつけられ、阻止される。
「くっ、ひぃっ……!」
弓なりに背を反らせながら、なんとか巨塊を飲み込んでいく。とうとう先端部が膣奥に届き、そこからさらにぐいっ……と押し込まれ、由梨子は息を詰まらせる。
「か、はっ……せ、先輩、の……大きすぎ、です……」
もう少し小さければ、純粋に快感だけを感じられるのに――と、由梨子は涙混じりの目で訴えかける。
「……ごめん、俺なりに、精一杯加減はしてるんだけど…………由梨ちゃんがあんまりに興奮させるから」
「わ、私は……何も……先輩が、勝手に……ん!」
ずっ、と唐突に腰を使われ、由梨子は舌を噛みそうになる。
「んっ……熱がある、から……かな…………由梨ちゃんのナカ……すごく、熱い…………」
まだろくに腰も使ってないというのに、月彦の息は荒々しい。ふうふうと、先ほどよりも格段にケダモノに近い息づかいだ。
「今更、こんな事聞くのもなんだけど……本当に大丈夫?」
もう今すぐ腰を使いたくて、快感を貪りたくてたまらないという顔と声を出しながらも、それでも精一杯由梨子を気遣ってくる。そういう所が、じつに月彦らしいと、由梨子は思う。
「んっ……本当に、今更……です、ね……」
はっ、はっ……と浅く呼吸をしながら、由梨子は微笑む。
「何度も、言って……ますけど、先輩と、一緒に居ると、……私も、すごく……調子がいいんです。……それに、汗を掻いた方が……っ……熱も下がるって言ったのは、先輩ですよ?」
むしろ――と、由梨子は続ける。
「こんな、ことをしちゃって……先輩に、風邪が伝染ってしまう事の方が……、心配、ですけど……」
「んー……人に伝染した方が治りが早いって言うし。俺が風邪引いたら由梨ちゃんが看病してくれるみたいだから問題はないかな」
微笑み、そしてちゅっ……と吸うだけのキス。それが、抽送開始の合図だった。
「せ、先輩に……された、事を……んっ……ば、倍返し、で――あんっ!」
「……さっきは、そっくりそのまま返すって言ってなかった?」
「んっっ……ぁっ、それ、はぁっ……んっ、あんっ……! ぁっ、やっ……せん、ぱっ……ずる、いっ……ですっ……ひんっ……」
「何が、ズルい?」
ぎしっ、ぎしと。ベッドが軋む程強く、剛直を由梨子のナカに打ち込んでくる。
「ああっあああっ……やぁっ……ぁっ……!」
早くも、由梨子には答える余裕が無くなる。
「っ……由梨ちゃんのナカ……ほんっと熱くって……マジ、たまんねっ……」
「せ、せんぱっ……くひぃぃぃいいっ!!!!」
ぐぐぐっ、と腰をベッドに沈められるようにして奥まで挿入され、そのままグリグリと膣内で捻るように腰を動かされる。
「確か……由梨ちゃんは“ココ”が好きだったよね?」
まるで小悪魔のような声でそんなことを囁かれる。同時に、剛直が――まさに由梨子の急所とも言うべきポイントにぴたりと当たる。
「やっ……先輩っ……そこはっ……あぁぁぁあっあっ!」
びくんっ、と腰が跳ねる。
「ココ擦ると、由梨ちゃん……すっごい良い声で鳴くよね」
「ひっっ……だ、だめっ……せんっ、ぱっ……そこ、私っ弱っっ……あっあぁぁぁぁぁぁぁぁっぁあっぁぁぁぁっっっ……あぁぁぁぁぁっぁっ、あっ!!」
びくんっ、びくっ、びくっ!
膣内の、特に由梨子が弱い場所を執拗に擦り上げられ、まるで陸に揚げられた魚のように不規則に腰が跳ねる。
「やぁぁぁあっ、だめっ、だめっ……せん、ぱいっ……そこ、ばっかり……あぁああっんっ! ぁあっ、ぁっ……あぁぁぁぁぁぁあぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
跳ねていた腰が、徐々に反りっぱなしになる。上気した肌に玉のような汗をいくつも浮かべて、由梨子は月彦の背に爪を立てる。
「あっ、あっあぁぁぁぁッッ!!」
「由梨ちゃん、もう……イきそう?」
はい、という返事は言葉にならず、ただただ喘ぎを漏らすばかり。
「そう。……でも、俺はまだなんだ」
意地悪な声。そして唐突に、剛直が由梨子の弱い場所から外れ、緩やかな動きになる。
「んぁっ……せんぱっ……んんっ!」
途端、襲ってくる強烈な焦れ。由梨子ははしたなく腰をくねらせながら、ねだる。もっとして欲しい――と。
「ダメだ。……俺も、由梨ちゃんと一緒にイきたい」
「せんぱっ……んっ……んっ、ふっ……んっ、んっ…………」
腰を使われながらキスをされて、今度は由梨子の方から積極的に舌を絡める。こうなってしまえば、最早熱が何度あろうが関係がなかった。ただただ、夢中になってキスをした。
「んっ、ふっ、んっ、んんっ、んっ……!」
最初は苦痛さえ感じた剛直が、絶頂へと近づくにつれてこれ以上なく甘美なものに思えてくる。ぐっ、と挿入され、膣を押し広げられるたびに、つま先を反らせて由梨子は喉奥で喘ぐ。
「んはっ、ぁっ……せんぱっ…………せんぱっい……んぁっ!!」
月彦の動きに腰を合わせ、下腹部に力を込めて締め付ける。そうすればするほど、眼前の月彦の顔がまるで何かを堪えるように歪むからだ。
「っ……っくっ……」
舌打ちにも近い声を上げて、月彦の動きが余裕のないものに変わる。由梨子にも無論、それがイきそうな時の月彦の動きであると解っている。
(先輩っ……!)
一緒にイきたい――ただその一念のみを頭に、由梨子は体の動きはもとより呼吸すら月彦に合わせる。――しかしそれすら、徐々にどうでもよくなってくる。
「んっ、ぁっ……あぁっ、ぁっ……やっ、せんっぱ……も、っ……私っ……んんっ……ぁっ、やっ……あぁっぁッ!!!」
「おれ、も……だ、由梨ちゃんっ……あぁぁっ……たまんねっっ……ッ!」
ぎっし、ぎっし、ぎっしっ。
ベッドが壊れんばかりに軋み、それ以上の声で由梨子は喘ぐ。ひょっとしたら、不意に母親が帰ってくるかもしれない等とは、考えもしなかった。
ただただ愛しい男の愛撫を体の芯まで受け入れて、歓びの声をあげるのみだ。
「あぁっあぁぁぁあっあっ! 先輩っ……先輩っ……ぁっゃっ、そこ、だめっっあっ、あっやっ、イ、イくっ……イくッ……あッッッあァーーーーーーーッッッ!!!!!!」
最後の仕上げ、とばかりに弱い場所を擦り上げられ、由梨子は背骨が軋むほど背を反らせ、イく。
「っ……由梨、ちゃんっ……!」
その体を、月彦がぎゅうと抱きしめてくる。どくんっ!――そんな衝撃が、同時に下腹部に走る。
どりゅっ、どくっ、どくっ……!
スキン越しとは思えぬ程熱い液体の奔流。同時に、下腹部から消えていく圧迫感。――そうしなければ、漏れだしてしまうからだ。
(あぁぁ…………)
まるで体の一部が失われていくかのようなその感覚に、由梨子はつい嘆息を漏らしそうになってしまう。もっと感じていたいのに。余韻に浸りたいのに、それが叶わない。
「ふーっ……ふーっ…………ふーっ…………」
快感の波が引いていくと、耳に当たるケダモノのような息づかいに由梨子は気がついた。ぎゅっ……と爪を立てるようにして抱きしめてくる“ケダモノ”には、たった一回で満足する気は微塵も無い様だった。
「っ……由梨ちゃん、スキンは……あといくつある?」
息も絶え絶えに、まるで瀕死の患者の遺言のような声で尋ねられる。
「た、確か……五枚くらいは……あったと思います、けど……」
「五枚か……」
足りるかな――と、月彦の耳を疑うような呟き。無論、こうなってしまえば――由梨子がいくら制止をせがんだところで宥められる筈も無かった。
「あっ、あぁあっあっ、ぁっ、んっあっ、やっ、ぁっ……せんぱっ、もっう……ゆるしっ……あぁぁあっあっ!」
四つんばいにされ、背後から。両手をまるで手綱のように引かれて、由梨子は戦慄かされる。
「ひぃっ、んっ……あぁっ、やっ……んんんっ!!! はぁぁっ、やっ、やぁっ……んんんんんっっんんっ!!!」
突然手が解放されたかと思えば、腰のくびれを掴まれ、ごちゅんっ、と最奥を小突かれる。
由梨子は上体を伏せ、月彦に持たれている腰と尻だけ持ち上げる形で、ただただ突かれる。
「はーっ…………はーっ…………んんっ、ぁっ、はぁぁっあっ……!」
両手はあてど無く、枕をつかんでは離し。例えようのないほどの快感は一時的にとはいえ、由梨子から確実に正気を失わせていた。
(死んじゃうっ……)
ベッドの側のゴミ箱には、破られたスキンの袋がもう五枚。。
(このままじゃっ、先輩に……殺されちゃうっ……)
体が普通の状態の時ですら、事が終わった後はまともにあるくのも辛いほどに消耗するのに、風邪で弱った体で――しかもこうも続けざまにされては――さすがに持たない。
(でも……)
何度制止を訴えかけても、月彦は止まらなかった。まるで、今まで出来なかった分を一気に取り戻そうとするかのように、いつになく貪欲に、由梨子の体を求めくるのだ。
「あっ、あっぁっ……んっ、あっ、ひぃぃっっんんんっ!!」
両手でしっかりと腰を持たれ、体を逃がすこともできないようにされた上で、ぐりんっ、ぐりんと膣内をかき回される。苦痛と、それを遙かに上回る快感に、由梨子は枕を引きちぎらんばかりにつかんで堪える。
(そうやって……私の、弱いトコ……捜してるんだ……)
それを知られてしまえば、先ほどのようにそこばかりを責められ、一方的に喘がされるハメになる。かといって、弱いところを刺激されて我慢すること等できる筈が無く。そうやって手当たり次第に捜されては、由梨子はもう……月彦の愛撫に屈服するしかなかった。
(先輩に、なら……)
そう思おうとした矢先、いきなり剛直が由梨子の弱点を小突く。
「ひぁっ……!?」
そして、そこを特に重点的に、責め上げてくる。
「あはぁっ! あっ、あっあっ、あぁぁぁぁぁッ!!!!!!」
顔は見えないが、月彦がにやりと意地悪な笑みを浮かべている気がして、由梨子は前言を――といっても、口には出していないのだが――撤回したくなった。
(先輩ばっかり、ズルい……)
自分は、月彦の弱いところを“そんなに”知らないというのに。月彦ばかりが、一方的に由梨子の弱い場所を知り尽くし、そこを的確に責めてくるのは割に合わない、とも。
「んぁぁあああっああっ、ひぃっ、……ひぅっ……んんんっ……ぁあああっ!」
とはいえ、そんな思考も、快感の波が高くなれば次第にどうでも良くなり。
「ぅんっ! あっ……あっ、あっ、あっ……!」
月彦の動きが“イきそうな動き”になれば、由梨子もまたイくことしか考えられなくなってしまい。
「んんっ! ………ぁっ………うっ、はーっっ………はーっ………んんっ、ぁっ、んんっぷっ………」
背後から被さられ、ぐりゅんっ、ぐりゅとかき回されながら、顎に手をやられて後ろを向かされ、キス。
「んんっ、んっ、んんっ!」
身も心もとろけるようなキスをうけ、快感に身を委ねながらも、それでも由梨子は、頭の隅で考えてしまう。こうして、月彦がキスをしながら腰を使うのは、果たして月彦自身が好きだからなのか。或いは――そうすると真央が喜ぶからなのか。
そんな、無駄なことを。
「んはぁっ………はぁっ………せん、ぱい………んっ、あんっ………!」
とろりと糸を引いて唇が離れ、ぱんっ、ぱんと尻が鳴るほどに強く突かれる。
「ぁっあっ、あっ………んっ………あっ、ぁっあっあっあっあんっ、あっっ!!」
再び、ぎゅうっ………と枕を掴む。それだけでは快感に堪えられず、由梨子は無意識的に枕を噛んで、怒濤のように押し寄せてくる“波”に堪える。
「ダメだよ、由梨ちゃん。枕噛まないで、ちゃんと体起こして」
しかしそれは月彦にダメ出しをされ、由梨子は肩を掴まれてむりやり上体を起こされる。
「由梨ちゃんがイきそうになってる声……聞きたいんだ。だから、手はちゃんと突いて、伏せないで」
「で、でもっ………んんっっ、あんっ!!」
ベッドに手をつき、上体を起こした所で三回も突かれればそれだけで腕が震え出してしまう。
「……そう、肘じゃなくてちゃんと掌で。もし、勝手に言いつけを破って伏せたりしたら、由梨ちゃんだけイかせるよ?」
「そんっなっ………あッ………!」
由梨子は泣きそうな声を上げながらも、それだけは嫌だと、渾身の力を振り絞ってしっかりと手を突く。しかし、月彦に突き上げられるたびに腕が笑い、何度も、何度も伏せそうになってしまう。
「由梨ちゃん」
「っひんっ!」
ぱしんっ、とまるで尻でも叩くように強烈に突かれ、由梨子は背を反らせて腕を突っ張り直す。それがまるで、何度も腕立て伏せをしているような動きで、今度は疲労でそうしているのが辛くなってくる。
「はぁっ………はぁっ………んっ、あんっ、あっ、あっんっ、あっ、あっあっ、あっ!!」
もはや口を閉じる事も出来ず、唾液を飲み込む余裕もなく、喘ぐたびにとろとろと涎が零れ、シーツにシミを作る。が、それ以上に大きなシミを由梨子自身が溢れさせたもので拵えてしまっているから、今更その程度で頓着する筈もなく。
「あっあっあっ、あっっ、やっ、先輩っあっあっあっ、あっあぁっ、あっ、あぁぁあっ、あっあっぁっあっ!!!!」
月彦が腰を使うたびにばちゅんっ、ばちゅんと飛び散るものなどどうでも良く。
「っ………由梨ちゃん、……そろそろっっ――」
「んんんっあんっ!! あっあんっ! あっあっあっ……せんっぱっ……あっあっあっぁっあっ!!」
震える腕で必死に体を支えながら、ただひたすらに快感を貪り。
「あっ! あっ! あっ! あっあっ、あっんんっぁっはっ、あぁァ! あっ、あんっ、あっ……あぁぁぁんんっ、あっ!!」
「っっ……由梨ちゃんッ……!!」
抽送が、一際早く、強くなる。
「やっ、だめっ……せんぱっ、それっ……んっ……早っ、すぎ――ぁああァ!!! あぁっ、あっ、やっ……だめっ、だめっだめっっそこだめっっダメッぇえ!!!!」
ぎりっ、とベッドシーツに爪を立て、由梨子はイく。一拍遅れて、背後からぎゅうと抱きしめられて、どくんっ――と。
「ふぅっ……ふぅっ……ふぅ……」
耳の裏に月彦の息が辺り、肉欲の塊が由梨子の膣内に吐き出される。しかしそれらは、薄いスキンに隔てられて由梨子のナカへと到達することは決してない。
疎ましい――と、感じてしまう。“それ”さえ無ければ、もっと直接月彦を感じられるのにと。回を重ねる毎に、由梨子はそのことが段々焦れったくなってくる。
「はーっ…………はーっ…………はーっ…………」
月彦に抱きしめられたまま、呼吸を整え、突っ張りっぱなしだった手が突如力を失い、かくんと倒れる形で伏せてしまう。
(だめ、だ……体に力が入らない……)
辛うじて蓄えてあったエネルギーを全て使い果たした――そんな感じだった。
(もう、次は絶対無理……死んじゃう……)
そうはっきりと月彦に告げて、必死に懇願すれば、いくらなんでも聞いてくれるだろう――そんな甘い幻想を由梨子が抱いた時だった。
「由梨ちゃん……すごく、良かったよ」
耳たぶを食むような甘い声で囁き、月彦が上体を起こす。そして、その手が――由梨子の最も恥ずかしい場所に触れる。
「………………そういえば、由梨ちゃんとは、こっちでしたことは無かったよね」
「わ、私とはって……どういう意味ですか?」
「もちろん、真央とはしてるって意味だけど」
「ま、真央さんと………」
一瞬想像してしまって、由梨子は顔を赤らめる。そして、その場所を触る月彦の指の感触に、さらに顔を赤くする。
「む、無理です……先輩のなんて、絶対入りません!」
「大丈夫、少しずつならしていけばいいよ。それに――」
つぷ、と突然指先を入れられ、ひっ……と由梨子は悲鳴を漏らす。
「由梨ちゃん、こっちでも結構感じるみたいだし」
「そ、それは……違います! せ、先輩……やめて下さい、指をっっ……んんっ!!」
嘆願空しく、指は根本まで挿れられてしまう。丁度月彦に対して尻を差し出すような格好だから、そのようにされてしまっては由梨子には抵抗の術がない。
(どうして、こんな意地悪を……)
由梨子は唇を噛みながら羞恥に堪える。これでは霧亜と同じではないか。
(今日の先輩……少し、変だ……)
思い返してみて、そう思う。いつになく意地悪――余裕が無いとも言える。
(やっぱり、真央さんと……)
何かあったのだろうか。もしそうだとすれば、自分のかけた電話が原因なのかもしれない。――ならば、由梨子には、月彦に逆らう権利など無い事になる。
「一本くらいなら……割と簡単に入るね。二本目は……まだ、無理かな」
「っ……んっ……」
ゆっくりと指を出し入れされ、うっかり喘ぎを漏らしてしまいそうになる。由梨子自身、認めてはいるのだ。“そこ”もまた、弱い場所であるのだと。
(でも、お尻なんて……)
それを嫌がる自分のほうが正常の筈だ。しかし。
「どう? 由梨ちゃん。やっぱり無理そう?」
指を出し入れされながら尋ねられるも、当然そのような事を由梨子が承伏する筈もない。
「せ、先輩……そこ、触られるの……本当に恥ずかしいんです。ですから……」
「そっか、まだ無理なんだ……」
至極残念そうな声。“まだ”という言葉が由梨子には妙に気にかかってしまう。
「っひゃっ!?」
唐突に指が抜かれたかと思えば、その倍以上も太さのあるものが押しつけられ、ぐいぐいと侵入しようとしてくる。
「ちょっ、先輩っ……無理っ、無理っです……!」
一体いつのまにスキンを処理したのか。暴れる由梨子の両腕の付け根を抑え、月彦は無理矢理に侵入しようとしてくるが、当然入るはずもなく。
「んー……やっぱり無理、か」
「だから、そう言いました……んんっっ!!」
残念だ、と呟きながら、今度は竿を擦りつけてくる。
「先輩……お願い、ですから……普通に、普通に……してください……」
「普通に……か。仕方ないな……」
由梨ちゃんの“初めて”を貰いたかったのに――ぽつりと漏れた月彦の呟きを拾って初めて、由梨子は何故月彦がそうまで強引に“後ろ”に拘ったのかを理解した。
(私の……初めて……)
確かにそれは貰って欲しいと、由梨子も思う。思うが……しかし今はまだ、後ろを責められる事に対する拒否反応の方が大きかった。
「じゃあ、由梨ちゃん。最後の一個……使うよ」
「は、はい…………あっ――」
ハッと、由梨子は思い出す。
「せ、先輩……待って下さい」
「うん?」
「その……私、今日は、もう……無理みたいなんです……」
両手を押さえつけていた手が退かされたから、由梨子は仰向けに寝返りを打って、そして月彦を見据えながら懇願する。
「わ、私も……本当は、先輩ともっとしたいんですけど……体調が、万全じゃなかったですから」
「でも、もう袋破っちゃったから……あと一回だけ」
しかし、通じない。月彦は平然とスキンを付け替え、由梨子を押し倒してくる。
「ま、待って下さい! 先輩、私……今、激しくされたら、本当にもう――」
「大丈夫、優しくするから」
「く、口で……口でしますから、だから……それで……」
許して下さい、と由梨子は必死に訴えかける。さすがに心動かされたのか、月彦の方もしょうがないな……という苦笑の顔をする。
「うーん……却下」
「きゃ、却下って……先輩っ、強引すぎま――ぁあああ!」
言葉も半ばで挿入され、由梨子は背を仰け反らせる。
「こうして……最後は由梨ちゃんと抱き合いながらしたい、って決めてたから。いまさら変更なんかしたら消化不良になるよ」
抱きしめられ、胡座をかいた月彦の上に座るような形にさせられる。
「そん、なっ……先輩……本当に、私……もう、無理……んぅっ!」
尻を持たれ、軽く上下に揺さぶられる。由梨子は反射的に足を閉じて月彦の腰に絡め、両手でしがみつくような形になる。
「……真央も、よくそう言うけど、でも……なんだかんだで――」
「ひぁっ……! わ、私は、真央さんとはっ……んっはっ……あっ!」
「んっ……由梨ちゃんのナカ、きゅんっ、きゅんって締まって……すげえ……気持ちいいよ……」
最早、由梨子の抗弁など聞く耳持たず、月彦は完全なケダモノモード。ぐにぐにと由梨子の尻を触りながら、徐々に激しく、上下に揺さぶられ始める。
「やっ、嫌っ……せんぱっ……んんっ、ぁっ……やっ……あっ!」
ごちゅん、ごちゅんと固い先端が膣奥に当たるが、騎乗位に比べれば、まだマシ。しかし、完全に月彦のペースで体を揺さぶられる為、快感の調節が一切出来ない。
「や、ぁうっんっはっ……ぁああっ、ぁっ……せん、ぱっ……もっと、っゆ……くりっ……んんっ! ぁあっ……はあっ……!」
「んっ、……由梨ちゃん、手に、あんまり力が入ってないけど…………もしかして、本当に……もう、ヤバい?」
辛うじて指先だけ、月彦の肩にかかっているという状態。だがそれも、今にも力尽きそうだった。
(最初から、そう言ってるのに――)
しかしこれで漸く止めてくれる――ホッと安堵の息をつこうとしたのもつかの間。
「でもごめん、由梨ちゃん。……俺、もう止まらない……」
由梨ちゃんのナカでイきたい――そう漏らして、由梨子の体を揺さぶる動きがいっそう激しくなる。
「そ、んなっ……先輩っ……やっ……ひっ、ぁっ、ぁあっあっ……!!」
とうとう指からも力が抜け、左手がだらりと下がる。続いて、右手も。それでも月彦は動きを止めない。
「由梨ちゃんっ……由梨ちゃんっ………………由梨ちゃんっ………!」
はあはあと荒げる息の合間に由梨子の名を呼びながら、月彦は自身も腰を使い始める。その様が、由梨子には何故か――何かを必死に振り切ろうとしているように見えてしまう。
「んんっぁっい………せ、先輩っ………先輩っ………!」
由梨子も、最後の力を振り絞って再び手を挙げ、月彦にしがみつく。ぎゅうっ、と両足も腰に絡めて、密着する。
「由梨ちゃん……」
「先輩っ………」
目が、合う。そして、どちらともなくキスをする。作法もなにもない、ただお互いを求め合うような、泥臭いキスを。
「んんっ、んんっ、んふっ、んんっ、んっ、んっ!!」
由梨子は目を瞑り、月彦の舌と、下半身を突き上げる肉塊にのみ意識を集中する。
(先輩っ……先輩っ……先輩っ!)
例えどんなに意地悪でも。どんなに性欲に従順でも。その為に由梨子の意向が無視されても。それでも由梨子の想いは揺るがない。
(先輩……好きです……好きです……!)
言葉ではなく、体で。由梨子は必死に伝える。伝えようと、努力する。
「んはっ、あっ……!」
唐突にキスが終わり、由梨子は月彦の肩に顎を乗せる形で、しっかりとしがみつく。
「由梨ちゃん……俺、もう……イきそう、だ……」
「私も、です……先輩……一緒に…………一緒に、イきたい、です……んっ、あんっ!」
ずんっ、と子宮が持ち上がるほど強く突かれる。
「あはぁッ! あっ、ひぁっ! あっ、あっ、あっ、せんっ、ぱっ……あんっ! あっ、んっ、あんっ、あっ、あぁっあっあっあっ!!」
気がつけば、自分から腰を使っていた。剛直が、一番弱い場所に当たるように、まるで娼婦のように腰をくねらせ、由梨子は悶える。
「ぁっ、やっ……だめっ、だめえっ……せんぱっ……いっ……やっっ、腰、止まらなっ……ぁっやっ、あっ、あっ、あっあっ、あっあっあっあっあぁぁぁァ〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっっっッッ!!!!!!!!!」
「っっっっっっ………………!!!」
今度は、一拍遅れたりはしなかった。由梨子がイくと同時に、剛直がぐんと押しつけられ、どりゅうと熱塊が吐き出される。
「あンっ……!」
まるで、直接ナカに出されたのではと錯覚するほどにそれは熱く、由梨子の中を満たしていく。
「フーッ……フーッ……フーッ……!」
月彦は肩で息をしながら、ぐりぐりと、剛直を擦りつけるような動きをしてくる。未だ月彦に中出しをされたことのない由梨子には、それが真央や雪乃相手では定番ともなっている“マーキング”である事など知るよしもない。
「ぁ、……ぁ…………」
波が引くように快感が消えていき、後に残るのは絶頂の余韻。だがそれも、強烈な脱力感と共にあやふやになっていく。
なんとか肩にかかっていた指から、再度力が抜ける。それが合図だったかのように、由梨子の全身が脱力した。
「由梨……ちゃん?」
「すみ……ません、先輩…………」
意識が、急速にブラックアウトする。貧血にも似たそれは、あまりに唐突だった。
「ちょっと、少しだけ……眠らせて、下さい……すぐ、起きます、か……ら……」
辛うじてそれだけを言い残して、由梨子は眠りに落ちた。最愛の男の胸に、抱かれながら。
どれほど時間が経っただろうか。由梨子が自我を取り戻したとき、その目はすでに開かれていて、ぼんやりと天井を見つめていた。
「先輩っ……!」
慌てて体を起こす。月彦の姿は何処にもない。由梨子自身もきちんとパジャマを着ていた。ベッドにも乱れはなく、無論室内にも人の影は皆無。
ちらり、と枕元の時計に目をやり、由梨子は目を剥いた。時計の針は午後三時を示していたからだ。
「えっ……」
どういう事なのだろう。
まさか――と、その先を考えて、由梨子は身震いをするほど恐ろしくなった。
まさか、全て夢だったというのか。
コンコンと、ノックの音が響いたのはその時だ。キィ……と微かな軋みを上げてドアが開かれる。その向こうに立つ人影に、由梨子は叫んでいた。
「先輩っ……!」
しかし、ドアの向こうから現れたのは――武士だった。
「……目、覚めたかよ、姉貴」
「たけ……し……?」
「……俺で悪かったな」
ぶすっとした顔で部屋へと入ってきて、ベッドの傍らに腰を下ろす。
「ったく、人が部活道具忘れて取りに帰ってみりゃ、玄関で姉貴は倒れてるし意識は戻らねーし。おふくろも何処行ってるかわかんねーから、部活サボるしかなかったんだぜ?」
「そんな……」
違う。あの時ドアの向こうに居たのは武士ではなく、月彦の筈だ――由梨子は必死に、その記憶にすがりつく。
「姉貴が男にサカるのは勝手だけどさ、頼むから俺には迷惑かけないでくんねーかな」
男にサカる――武士の言葉が、ナイフのように由梨子の心を切り刻む。
「だいたいあの先輩、すげー美人の本命が居るんだろ? ぶっちゃけ姉貴じゃ敵わないって。横恋慕はみっともないぜ」
「っっっ……」
きっと、部活に行けなくて苛立っていたのだろう。武士の言葉が、いつになくとげとげしく、由梨子の心を突き刺す。
(弟のくせに……)
お前なんかに何が解る。私と先輩は好き合っている、横恋慕じゃない――そう言ってやりたかった。
そして、まるでそんな由梨子の胸中を見透かしたかのように、武士が続ける。
「それに、さっき電話かかってきたぜ」
「……電話?」
「その“月彦先輩”から」
「……っ……」
「なんか知らねーけど、無茶苦茶怒ってたみたいだぜ? 二度と家に電話なんかかけんなって、姉貴とはもう終わりだってさ」
「そん、な――」
ざわりと、全身の毛が際立つ。風邪の悪寒など問題ではない、裸で吹雪に晒されているかのような強烈な悪寒に、由梨子はぶるぶると身を震わせる。
「もう諦めろよ、姉貴。しつこい女は嫌われるぜ」
その言葉を最後に、不意に目の前から武士の姿が消える。同時に、部屋の至る所から、クスクスと……まるで由梨子をあざ笑うような笑い声が上がる。
「ちが、う――先輩は――」
肩を抱き、震えながら……由梨子は涙を零す。後から後から涙が溢れて、止まらない。気がつけば、部屋も、ベッドも何もかもが消えていた。辺り一面の闇の中で、ただただ――由梨子を嘲笑する笑い声だけが響き続けた。
「……ちゃん、由梨ちゃん!」
体を揺さぶられながら声を掛けられて、由梨子はハッと眼を覚ました。
「由梨ちゃん、大丈夫? なんか無茶苦茶魘されてたみたいだけど」
目を開けば、眼前に月彦の顔があった。これ以上ないというくらいの心配そうな顔を見て、由梨子は“また”涙を零してしまう。
「あっ……」
と、気がつく。夢を見ながら、本当に涙を零してしまっていた自分に。
「せん、ぱい……?」
月彦と二人で、添い寝をする形。月彦の体温を肌で感じながら、それでも由梨子は確かなものを求めるように、手探りで月彦の手を捜し、ぎゅうと指を絡ませる。
「何か、悪い夢でも見たの?」
「……はい」
隠してもしょうがない。由梨子は手を握っていない方の手で涙を拭きながら頷いた。
「……先輩に、捨てられる夢……でした」
「…………なんでまたそんな夢を見るかなぁ。……俺がちゃんとここに居るのに」
月彦は困ったように苦笑し、由梨子もうっかり釣られて笑いそうになってしまう。さっきは、夢の中ではあれほどに絶望したというのに。
「眠いなら、もう一度寝てもいいよ。今度はちゃんと……良い夢をみられるように、手を握っててあげるから」
「いえ、もう……大丈夫ですから。……あの、私……どれくらい寝てました?」
「んー……一時間くらいかな。具合はどう? 少しはよくなった?」
「はい……大分、楽になりました」
まだ体が重く、気怠かったが、それは多分病気のせいではないだろう。
「良かった。……またやりすぎちゃったかなって、少し心配してたんだ」
「……やりすぎたのは、本当だと思います」
どうしてその仏心を行為の最中に発揮してくれないのか。月彦を相手にした女性ならば一度は思う事を、由梨子もまた例外なく思う。
「本当にごめん。……でも、由梨ちゃんも、無理なら無理ってちゃんと言ってくれないと」
「何度も言いました! でも、先輩が聞いてくれなかったんじゃないですか!」
つい、声を荒げてしまう。
「ん、どうやら本当に元気になったみたいだね」
よかったよかった、と軽く済ませようとする月彦に、由梨子は少し目眩を覚えてしまう。
「でもほんと……どうしてそんな夢を見ちゃったのかな。……由梨ちゃん、もしかして心配事とかある?」
「……それは……たくさんあります」
指を折って数えていけば、足まで使わねばならないくらい、由梨子には心配事がある。その半分以上が、眼前の男に関する事だ。
「……俺に捨てられるような夢を見るってことは、まだまだ由梨ちゃんに信用されてないって事なんだろうなぁ…………」
「いえ、先輩のせいじゃ……ないと思います。私が臆病で、疑り深い……だけです」
月彦に捨てられる夢を見たのは、これが初めてではない。とはいえ、あれほど強烈に、ストレートに“絶望”させられたのは初めての事だったが。
(先輩が側に居なかったら、堪えられなかったかもしれない)
もし、一人で居る時にあんな夢を見てしまったら、夜中に家を飛び出してしまうかもしれない。裸足のまま、紺崎邸へと駆け込んでしまうかもしれない。
それほどに、由梨子にとって“恐い”夢だった。
「疑り深い――か。じゃあさぞかし……俺に聞きたい事とかいっぱいあるんじゃないかな」
まるで、疑われるのは慣れているというような口ぶり。その原因が、由梨子にはなんとなく分かる気がした。
(きっと、真央さんだ……)
あの独特の勘の良さと、巧妙な誘導尋問のような話術に、由梨子も何度ボロを出しそうになったことか。考えてみれば、そんな真央の側に、月彦は四六時中居るわけなのだ。
「じゃあ……一つだけ、聞いてもいいですか?」
さっき聞けなかった事を、由梨子は聞く事にした。
「うん。一つと言わず、好きなだけ聞いていいよ」
「……先輩、真央さんと何かあったんですか?」
「………………どうして、そう思う?」
そう言った後で、月彦はぺちん、と己の額を軽く叩く。
「質問に質問で返すのはいけないんだったな……。先に由梨ちゃんの質問に答えると――……特に由梨ちゃんに言うような事は無かった」
「そう、なんですか……」
「それで、由梨ちゃんはどうしてそう思ったのかな」
「…………今日の先輩、少し、変でしたから」
「どこが、変?」
「色々、です。何となく、余裕が無さそうな……そんな風に見えました」
「…………由梨ちゃんには隠せないな」
自嘲気味に、月彦は笑う。
「何でも聞いてくれって言っちゃったからな……嘘をつくのも悪いし……もしかしたら、不愉快な話になるかもしれないけど、それでもいいかな」
「はい。……聞きたいです」
「…………俺には、好きな子が居たんだ」
思わぬ語り出しに、由梨子はえっ……と声を上げてしまう。月彦は静かに笑って、そして続けた。
「その子とは幼なじみで、家はそんなに近くなかったけど、よく遊んだ。はっきり好きだって意識したのは……小学校の四年くらいだったかな」
由梨子は言葉を挟まず、月彦の声に耳を傾ける。
「俺はそのころ、どっちかっていうとガキらしいガキ――まあつまり、ふざけて悪戯をよくやっちゃあ先生に叱られる。毎日そんなだった。そして決まって俺の悪戯を注意するのが学級委員やってたその子だった」
苦笑して、月彦は続ける。
「そんなこんなで、学校じゃあ半ば敵対するような感じで、隙を見ちゃーその子にちょっかいばかり出してた。ほら、好きな子には意地悪をしたくなるっていう、良くある話だよ。まあ、それも小学校までで中学に上がる頃になると今度は――ええと、その――」
ゲフン、ゲフンと態とらしく咳をつきながら「胸が大きくなってきたから」と小声で言う。
「だから、それからはもっぱら胸を触っちゃー逃げた。時々捕まって辞書の角とかで頭ブン殴られたりもしたけど、俺は全然懲りなかった。好きだったから」
「…………」
話を聞きながら、やはりと由梨子は思う。月彦は、巨乳が、大きい胸が好きなのだと。
「……それで、まあ……中学の時に“いろいろ”あって、結局その子は俺や他の幼なじみとは違う高校に行っちまった。如水学院って知ってるだろ? あそこに行ったんだ」
「如学って……確か、偏差値60くらいないと入れない高校ですよね」
確か、円香も受験して落ちたという話を前に聞いた。――どうでも良い事だが。
「63……って言ってたかな、俺たちの代は。まあ、そういうわけで離ればなれになって……その後、真央に会ったわけなんだけど」
「……そんなに、遅かったんですか。真央さんとは――」
「ああ、いや……ええと、従姉妹だからな。五年ぶり……に会って、見違えたっつーか、それで、コロリとやられたっていうか」
何を焦ったのか、あたふたと月彦が聞きもしないことまでしゃべり出す。それを月彦自身自覚したのか、こほんと咳を突き、閑話休題。
「まあ、それで正直……つい最近まで、その子の事は忘れていた。……忘れようと、努力していた」
「…………でも、会っちゃったんですね」
「うん」
月彦と手を繋いでいない方の手が、無意識のうちにぎゅうと毛布を掴んでいた。まるで、“その子”の首にそうしてやりたいとでもいうように、爪を立てて。
「……それが、昨日の事なんだ。……父親が海外に赴任するとかでさ、その送別会が急に入ったんだ」
「そう、だったんですか――」
それならばしょうがない。由梨子の心の重荷が、少しだけ楽になる。やはり、昨日月彦が来なかったのは、相応の理由があったのだ。
「まあ、送別会って言っても、その子はそういうのが嫌いなやつだから……ただ仲間同士で遊んで、それで終わりだったけどね」
「…………強い、人なんですね」
「うん」
微笑む月彦の顔は、はっきりと解るほどに、無理をしていた。
「昔から強かった。真面目で、なんでも一人でやろうとして、危なっかしいけど、結局やり遂げてしまうから、俺の手も要らない。見てるこっちはしょっちゅうハラハラするけど、あいつにしてみたらそういう心配すら邪魔でしかなかったんだ」
由梨子は、さらに強く毛布を握りしめる。確かにこれは――愉快な話ではない。月彦がいつのまにか“その子”ではなく、“あいつ”という言葉を使い始めているのも、由梨子の神経を揺さぶり続ける一因となっていた。
「多分、あいつからしたら……俺たちの方が危なっかしくて放っておけなくて、見てられなかったんだろうな。……だから、あの時も――」
月彦は唐突に口籠もる。そしてそのまま、何かに堪えるように、苦渋に満ちた顔をする。
「……もう、良いです」
由梨子は、そっと月彦の頭に手をやり、自らの胸元に押しつける。
「…………先輩は、その人の事が……本当に好きだったんですね」
震える唇で、しかしそれとは悟られないように、由梨子は呟く。
「うん、…………好きだった」
ぐっ、と月彦の方から、由梨子の胸に顔を押しつけてくる。
「好きだったんだ」
嗚咽と共に溢れるものを、由梨子はその胸で受け止める。身を焦がすような嫉妬を内に秘めながらも、由梨子はただ、赤子にそうするように月彦の髪をなで続けた。
宮本邸を去る時の月彦の胸中は実に晴れやかだった。
(……由梨ちゃんを選んで良かった…………)
まるで、ずっと背負い続けた荷物を一気に下ろしたように肩が軽かった。王様の耳はロバの耳――ではないが、口に出す事で減る重荷があるのだと、月彦は思い知った。
“昔の女”の話など、由梨子にとって面白かろう筈がない。それでも、由梨子は嫌な顔一つせず、月彦が気の済むまで話を聞き、そして――慰めてくれた。
(もし、あれが真央だったら……)
怒り、ふて腐れ、拗ね……と、確実に機嫌が悪くなる事だろう。とても由梨子の様に、優しく慰めてくれるというわけには行くまい。
(妙子とは……もう終わったんだ)
一時は、空港に行こうかとも思った。しかし、悩んだ挙げ句――月彦が選んだのは由梨子の家だった。
無論、最初から妙子の事を吐露しようと思っていたわけではない。ただ、純粋に三度も約束を反故にしてしまったことを謝ろうと来訪したに過ぎない。
しかし、由梨子に水を向けられて、月彦は我慢が出来なくなった。
(悪いこと……したな……)
ただでさえ風邪で調子が悪い所へ半ば強引にエッチをして、一方的な懺悔までしたのだ。今頃になって、月彦は由梨子が不憫でならなくなる。
(風邪を引いてる時まで、親御さんの帰りが遅いなんて……)
月彦が宮本邸を退去したのが午後七時過ぎ。月彦の常識からいえば、勤めをしているにしてもパートであるにしても、我が子が病床に居る時くらいは早く帰ってくるのが当たり前ではないかと思う。
(武士君も遅いって言ってたしなぁ……)
本当は月彦も、もう少し居て下さいとせがまれたのだ。しかし、由梨子の胸で泣いてしまった手前、ばつも悪く、何よりそうして一緒にいるとまた襲ってしまいそうだったから、自重して退去してきたのだ。
(何とかならないかなぁ……)
月彦は己の悪癖が疎ましくて仕方がない。一体いつから、自分はこんなに制御の利かない人間に成り下がってしまったのだろう。
(勿論、真央のせいだ)
たっぷり半年という時間をかけて、真央なしでは生きられない体にされてしまったのだ。
確かに、雪乃の言うとおりかもしれないと思う。もし、何らかの事情で真央と長期に渡って離ればなれとなり、雪乃や、由梨子とも会えなかったら。ひょっとしたら自分は犯罪に走ってしまうかもしれない。
何故か今日に限ってそんな事を考えて、月彦はゾッとしてしまう。
(でも、妙子なら……)
そんな自分を“治して”くれたかもしれない。あの真面目で、下世話な話には目くじらを立てて怒る融通の利かない性格ならば。
(……もし、妙子とうまくいっていたら…………)
今頃、全く変わった自分になっていただろう。例え奇跡的に関係を結べても、あの妙子の事だ。そうそう軽々にはヤらせてくれないだろう。
(……毎日悶々としてるんだろうな)
“妙子と巧くいっている生活”を想像しかけて、月彦は慌てて首を振る。ダメだ、これでは何のために見送りに行かなかったのかわけがわからなくなってしまう。
(……忘れるんだ、妙子のことは)
時間はかかるだろう。しかし、真央が、そして由梨子がいればいつかは――そう思って、月彦は空を仰ぐ。
微かに聞こえる、キィィンという音と共に、点滅する光点が夜空に消えていく。
(…………さようなら、妙子)
まるでその機に妙子が乗っているかのように、月彦は見送り、そして歩き出した。
歩きだしたはいいが、数歩とかからず、月彦は立ち止まってしまった。それというのも。
(……このまま帰って、大丈夫――か……?)
宮本邸に思いの外長居をしてしまった。思い返せば、今日は真央もまた風邪を引いて伏せっているのだ。
(……どうして遅かったのか、問いつめられるだろうなぁ)
立場が逆だったとしても、自分はそう思うだろう。事実、入院していた時などは何故真央が来ないのかと随分気を揉んだものだ。
(手みやげが必要だ)
と思うも、由梨子に買っていった果物で財布はほぼスッカラカンと来ている。小銭をかき集めても、千円に届くか否かという状態。
(専門店じゃなくて、コンビニのケーキとかなら……)
二つ入りのショートケーキでも買って、真央と二人で食べてやれば少しは癇癪も和らぐだろう。
そう思って、何のけなしに入ったコンビニ。真央に土産を買っていってやるという用事が無ければ、絶対に入らなかったそのコンビニの入り口で、月彦は“再び”凍り付いた。
ちょうどレジで会計を済ませ、出口へと向き直った客が、紛れもない――白石妙子その人だったからだ。
「たっ、妙子っ……!?」
つい衆目も憚らず、月彦は大声を出してしまう。ジーンズに白のダウンジャケットという出で立ちの幼なじみは、そんな月彦の愚行に露骨に嫌な顔をする。
「……人の名前をいきなり大声で呼ばないで」
「だ、だっておまっ……お前っ……」
完全にテンパってしまってる月彦に巻き添えを食う形で妙子にまで客達の目が集まる。
「ちょっと、こっち来て」
それに堪えかねる形で、月彦は妙子に腕を引かれ、店から出る。そのまま歩いて、住宅街の真ん中にある申しわけ程度の公園の中に入って、漸く立ち止まる。
「どうしたのよ。人を見るなり、いきなり幽霊でも見たような声を出して」
「ど、どうしたもこうしたも無いだろ! お前、海外行くんじゃなかったのかよ!」
「私がいつそんなこと言ったのよ」
「昨日だよ! いや、正確には千夏か……じゃあ、千夏が嘘ついたってのか?」
「…………あのねぇ、月彦。誤解があるようだから断っておくけど」
はあ、と妙子はまるでチンパンジーに算数を教える博士のようなため息をつく。
「確かに、父さんは海外赴任になったわ。でも、私もそれについていくとは一言も言ってないわよ」
「なっっ……」
月彦は千夏と、そして妙子とのやり取りを思い出す。確かに、妙子自身も海外に行くとは、一言も言っていなかった。
「でも、お前っ……あんな言い方されたら、普通お前も海外に行くって思うだろ!」
「それはアンタが勝手に勘違いしただけ。……それに、千夏と和樹にはちゃんと言ったわよ。私は日本に残るって」
「なっ……あいつらぁぁああああ」
これで月彦は確信した。そもそも、おかしいとは思っていたのだ。いくらふざけ好き、賭け事好きのあの二人とはいえ、幼なじみの一人が海外に行くという時にまでそれをネタに賭けるというのはさすがに不謹慎ではないのかと。
しかしそれも、妙子は日本に残ると知っていれば話は別だ。そして連中は間違いなく、“賭け”を成立させる為に、月彦にはあえて誤解を招くような言い方をしたのだ。
「……それに、アンタの所には父さんが挨拶にも行ったんでしょ。葛葉さんから聞かなかったの?」
「…………いや」
葛葉は、言おうとしていた。しかし、それを他ならぬ月彦自身が突っぱねたのだ。妙子から既に聞いた――と。
「ふぅん……だから、見送りに行くとかズレた事言ってたんだ? 道理で、やっと納得がいったわ」
妙子が“見送りなど無意味”と言うのも道理だ。何処の世界にいくら幼なじみとはいえその父親が海外赴任する際に見送りを申し出る人間が居るだろうか。ましてや、高校入学以来ろくに顔も会わせていない相手なのに、だ。
「妙子、一つ聞きたい」
「何?」
「どうして、一人で日本に残ったんだ? 家も引き払ったって言ってたよな。ってことは当然犬も親父さんが連れて行ったって事なんだろ?」
「そうね」
「……そこまでして、どうして――」
「……あのねえ、いくら父さんと犬が一緒だからって、いきなり英語でも通じるか怪しい国に行こうって言われて、はい行きますなんて言える? あんなに勉強して、折角如学に入ったのに、大学があるのかどうかも解らない国になんて行こうと思う?」
「……おもわ――ないな、うん」
頷きながら、はて妙子の親父さんは一体どこの国に行ったのだろう、とささやかな興味が湧いてしまう。
「まてよ……家は引き払ったんだよな。じゃあ……今はどうしてるんだ? アパートかなにか借りて一人暮らしなのか?」
「どうしてあんたにそこまで教えないといけないの?」
と、冷ややかな目でじろりと見据えられ、うぐと月彦は呻いてしまう。
「これが何度目か解らないけど、解ってくれるまで何遍でも言ってあげるわ。もうあんたとは何の関係もないの。友達面するのもいい加減止めてくれない?」
「ぐっ……」
容赦のない言葉が、ざっくざっくと月彦の胸を抉る。
(人の気も知らないで――)
と思うも、わけの解らない安堵感のようなものが先だって、いまいち妙子に対して怒れない。
「さっきみたいにいきなり人の名前を大声で呼んだりとか、金輪際しないで。迷惑だから」
「あれは……悪かった」
すまん、と月彦は素直に謝る。
「……もう、用は無いでしょ。寒いから私、帰るわ」
「ああ、またな……妙子」
幼なじみとの“予期せぬ再会”に月彦は戸惑いを隠せず、ただ呆然と立ちつくし、見送るしかなかった。しかし何故か、妙子は三歩と歩かず踵を返してきた。
「な、何だよ……帰るんじゃなかったのか?」
そしてそのまま、ずいと、月彦の顔を覗き込んでくる。互いの鼻が触れそうな程の距離、唇に微かに妙子の吐息を感じて、月彦は身を固くする。
「……月彦、ちょっとこっち来て」
強引に手を引かれ、連れてこられたのは街灯の真下。そこで改めて、ずいと顔を覗き込まれる。
「……目、どうしたの」
「え?」
「目よ、目。充血して真っ赤じゃない」
「ああ――」
一体なんと説明すればいいのか。まさか、“お前ともう会えないから泣いたんだよ!”等とは口が裂けても言える筈が無く。
「……昨日ちょっとゲームで徹夜したからな。そのせいだろ」
自分自身に100点をやりたくなるほどの完璧な演技と台詞回し。――しかし、共に風呂にも入ったこともある幼なじみの目はごまかせなかった。
「……泣いたの?」
どこか神妙そうな口調。
「な、泣くわけないだろ! なんで俺が泣くんだよ!」
赤面して、妙子の顔をまともに見れなくなり、月彦はぷいとそっぽを向く。だから、月彦は気がつかなかった。冷ややかな、まるで鉄仮面のような幼なじみが、ほんの一瞬だけ、口元に笑みを浮かべた事に。
「ふうん、泣いたんだ」
「……泣いてないって言ってるだろ。しまいにゃ怒るぞ?」
「泣いたくせに。強がって……バッカみたい」
「お前なぁっ……」
と、月彦がつかみかかろうとした矢先、妙子はぷいと背を向けてしまう。
「帰るわ」
寒いから、と言い残して、今度はよどみなく歩いて、さっさと公園から出てしまう。月彦は一瞬後を追おうかとも思ったが、また泣いたのなんだのと蒸し返されるのも嫌だから、黙って見送ることにした。
(……さすがに、高校生にもなって――)
涙の跡を見られるのは男としての沽券に関わると、奇妙な意地を張っての仁王立ち。
「……そうそう、月彦」
公園から、一歩外に出た所で妙子が立ち止まる。くるりと振り返って、月彦との距離は約十歩。
「あんまり言いたくないんだけど、私の新しいアパート、あんたの家のすぐ近くなの」
「……なん……だと?」
「勘違いしないでね。安いところがそこしか無かっただけだから。……だから、もしかしたら……朝とか夕方とか、登下校の際に会うかもしれないけど、絶対声をかけたりしないでね」
迷惑だから。――そう吐き捨てて、妙子は早足に去っていく。その後ろ姿を呆然と見送りながら、月彦は思案に耽る。
(……絶対声をかけるな、と妙子が言ったって事は――)
自分は一体どうすれば良いのか。宮本邸で一度は下ろした重荷が、倍近い重さになってずしりと肩に乗るのを月彦は感じた。
月彦が帰った後の部屋はそれこそ火が消えたような静けさだった。
(シャワー……浴びなきゃ)
由梨子は布団に潜ったままそんな事を考えるも、それが酷く億劫に感じる。それよりも、月彦の体温が残っている布団の中にいつまでもくるまっていたかった。
ただ、何もしていないわけではない。月彦が帰った後、しばし茫然自失として、思い出したように手に取った体温計を脇に挟んでいるのだ。
程なく、ぴーっ、と電子音が響いて、由梨子は体温計を取り出した。液晶には、36度8分と表示されていた。
平熱からすればまだ若干高めだが、熱はもうほぼ無いと言っていいだろう。
(……本当に、治ってる)
月彦と会い、体を重ねただけで。まるでそれ自体が特効薬だったかのように。
(先輩に伝染ってなければいいけど……)
月彦が風邪を引いたら、自分が看病する――そうは言ったが、現実には無理だろう。何故なら、月彦の側にはいつも真央がいるからだ。
本来ならば、それで由梨子は真央に対して負い目を感じる筈だった。しかし、今は違う。
(先輩は……私の所に来てくれた……)
初恋の幼なじみと別れ、傷心の月彦が向かったのは真央の所ではなく、自分の所なのだ。それが、由梨子には嬉しくてたまらなかった。
決して愉快ではなかったあの告白も、今にして思えばそれだけ月彦に頼られているという証だ。
(真央さん……貴方は……泣いている先輩を見たことがありますか?)
きっと無いだろう――何の根拠も無しに、由梨子はそう断定する。月彦があのように無防備な姿を晒すのは、自分の前だけなのだと。
(先輩の……一番になりたい……)
由梨子は気がつく。いつの間にか“二番”では我慢が出来なくなっている自分に。
(だって、先輩は……私を選んでくれた……)
それは一つの岐路だ。それまで、真央に対して勝っているものなど何もないと思っていた由梨子にとって、唯一の自信のより所だった。
(真央さんには、負けない……)
負けたくない。そう念じれば念じるほど、沸々と体の内側から力が湧いてくる。昼まで意識朦朧と寝込んでいた体とは思えない程に、活力に充ち満ちていた。
「……よしっ」
決意の声を出して、由梨子は布団をはね除ける。一応、月彦を見送る際に替えのパジャマに着替えてはいたが、一度シャワーを浴びてさっぱりしたかった。
「あっ……」
そして、勢いよく布団をはね除けたせいで、側に置いてあったゴミ箱までうっかり倒してしまう。中に入っていたゴミがちらほらと部屋に散らばってしまい、由梨子は渋々しゃがんでそれらをゴミ箱に戻していく。
その中には、ティッシュに包まれた使用済みのスキンも含まれていた。たぷたぷと、中にたっぷりの白濁液を蓄え、根本が縛られたそれらを見ていると、由梨子は奇妙な悪戯心を刺激されてしまう。
(……先輩、出し過ぎ……です)
仄かに顔を赤らめながら、由梨子は散らばったそれらを再度ティッシュでくるみ、ゴミ箱に戻していく。その時、ふと――手にぬるりとした感触が走った。
「え……?」
見れば、スキンの一つが破れ、とろとろと中身が零れだしていた。由梨子は慌ててティッシュで絨毯を丁寧に拭いた。
きっと、ゴミ箱が倒れた時に破れてしまったのだろう――そう楽観的に考えることは出来なかった。スキンとは、そんなにあっさりと破れるものだろうか。
(そういえば……)
由梨子が思い出したのは、月彦と最後にした時の事だった。由梨子は錯覚だと思ったが、あの時、もしや本当にスキンが破れていたのでは。
ゾクリと、風邪の時とは違う悪寒が走る。由梨子は恐る恐るショーツのなかに手を入れ、下腹部に指を差し込む。
「んぅっ……」
中はまだ、とろりとした液体に満ちていた。それが月彦の精液なのか、或いは由梨子自身が溢れさせたものなのか、指先だけでは判断が付かない。
由梨子は液体を絡め取るように指を動かして慎重にショーツから抜く。恐る恐る目をやったそこには、白いゼリーのようなものが付着していた。
「……っ……」
途端、血の気が引く。万全だと思っていた避妊の失敗――由梨子にはそれがまるで、分を弁えようとしない自分への鉄槌のように思われてならなかった。
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