「いいか、真央。ここに一本の矢がある」
「うん」
「一本の矢では――」
 と、月彦は木製のその矢を真央の目の前でへし折ってみせる。
「この通り、脆い」
「うん」
「では二本ではどうか。一本よりはマシだが、やはり――」
 べきっ、と月彦はへし折ってみせる。
「しかし矢も三本になれば――」
 月彦は矢を三本束ね、同様に力を込める。――が、三本の矢は撓むばかりで折れることはない。
「この通り。つまり、一本より二本が、二本より三本のほうが良い、ってことだ」
「それがどうかしたの? 父さま」
 真央はにこにこと笑みを絶やさない。その笑顔にうぐと圧されながらも、月彦はコホンと咳をつく。
「真央、俺は真央が好きだ」
「うん」
「……でも、由梨ちゃんも好きだ」
「…………」
 真央はにこにこと笑みを浮かべている。浮かべているが、その笑みは張り付いたような形のまま止まってしまっている。
「つ、つまりだな……俺が言いたいのは、三本の矢然り、真央と二人きりより由梨ちゃんも入れて三人のほうが――」
 そこまで言ったところで、ばきんっ、と凄まじい音が月彦の言葉を遮断した。三本の矢が、真央の手の中でへし折られていた。
「……三人の方が……何?」
「あ、いや……ええと……」
「父さま……由梨ちゃんとエッチしたんだ?」
 ゆらり、と真央が立ち上がる。
「ま、待て……そこまでは言ってないだろ!」
「したんでしょ?」
「いや、まぁ……したというかなんというか……限りなくそれに近い行為はしたような覚えが無きにしも――」
 だんっ、と何かが月彦の首を掠めた。真央の手に握られた半分ほどの長さの矢が、まるで影でも縫いつけるようにベッドに叩きつけられていた。
「父さま、言ったよね? 『由梨ちゃんとは、真央の友達として接しているだけだ』って。そう言ったよね?」
「ううぅ……た、確かに言った――が……」
「だから、焼き餅やくなって。邪推するなって。俺を信じろって。そう言ったよね?」
「そ、それは……うぐ……」
 魔が差した――とは言えなかった。それは由梨子に対する冒涜だ。
「た、確かに……結果的にだが、嘘をついた形になったのは謝る! でも、信じてくれ、真央と同じくらい由梨ちゃんも好きなんだ!」
「……じゃあ、雛森先生も同じくらい好きなの?」
「え……」
 どきり、と月彦の胸が跳ねる。真央は、それはもう恐いほどの笑顔で青筋を浮かせている。
「私が知らないとでも思った? 父さまが私に黙ってエッチしてるの、由梨ちゃんだけじゃないよね? 雛森先生ともだよね?」
「いや、あれは違う! 由梨ちゃんのケースとは全然違う、なんていうか……不可抗力というか――」
 だんっ、とまた矢が月彦の脇腹を掠め、床に突き立てられる。残る矢は一本――。
「……雛森先生とも、エッチ……したんだよね?」
 戯言などどうでも良い。その事こそが肝心なのだとばかりに、真央は問いつめてくる。
「真央……待ってくれ、俺が一番好きで、大切なのは真央だ。それは変わらない、だから――」
「父さま、三人も好きな人が居て大変だね。……体が三つあればいいのにね」
「ま、真央……俺の話を――」
「父さま、言ったよね。一人より三人の方がいいって。……ねえ父さま、私が父さまの体三つに分けてあげようか?」
 そう言う真央の手には、矢ではなく刃物が握られていた。肉厚の、骨斬り包丁だ。
「ま、待て……真央――」
 刹那。ダンッ、と凄まじい衝撃が月彦の胸を貫いた。


「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」
 悲鳴と共に、月彦は飛び起きた。
「はあっ……はあっ……はあっ………………ゆ、め…………?」
 脂汗を流しながら、月彦は慌てて己の胸に触れる。無論穴など空いている筈もない。
 室内はまだ暗く、時計を確認すると“事”が済んで寝入ってから二時間も経っていない事が解る。
「真央……」
 月彦の腰に腕を絡ませ、すうすうと眠る狐娘は先ほどの絶叫にもかかわらず眼を覚ます気配すら無い。それもその筈、由梨子との件があってからというもの、月彦は前にもまして真央に優しく(そして夜は激しく)接しているのだ。無論、罪悪感を誤魔化す為に、だ。
 このような悪夢を見るのは初めてというわけではない。夢は心を映す鏡だというが、まさにそうだと月彦は思う。
 今、月彦が最も恐れ、危ぶむのは他でもない、由梨子との逢瀬が真央に露見する事だ。由梨子とも口裏を合わせ、可能な限り平生を保ってはいるが、その手の事に関しては疑り深いことこの上ない真央の事、いつまで隠し通せるか知れたものではない。
 かといって、今更全てを忘れて由梨子との関係を白紙に戻す事も出来ない。ならば――道は一つしかない。
(でも、言えるわけがない……)
 由梨子と三人で仲良くしようなどと、“あの真央”が承知する筈がない。実の母親の真狐ですら嫉妬の対象とするくらいだ。
(何か……手はないのか……)
 月彦は悩む。しかし、どれほど考えても良い手は浮かばなかった。


 

『キツネツキ』

第十六話

 

 


  嬉しくもあり、同時に物憂げでもある。月彦にとって朝の登校時、由梨子と顔を合わせる時はまさにそんな心境だった。
「おはようございます、先輩」
 由梨子の挨拶はごく自然だ。何も知らない者が見れば、それこそただ挨拶しているだけの様にしか見えない。その演技力は完璧で、あの疑り深い真央ですら騙しきってしまう程だ。
「おはよう、由梨ちゃん」
「おはよう」
 挨拶を交わした後の動きが、これまた巧みだった。さも自然に、そうなるのが当然の成り行きのような動きで真央とは反対側、月彦の隣へと位置どる。時には、月彦が内心どきりとする程に距離を詰め、そっと手を握ってきたりする。
(由梨ちゃん、今はまずい――)
 月彦がハラハラしながらそんな事を思うと、由梨子は心でも読んでいるようにこれまた自然な仕草でついと離れ、真央の手を引いて昇降口へと向かってしまう。月彦の心に、安堵と落胆が同時に沸き起こり、自然とため息が漏れてしまう。
 毎日が危うい綱渡り。自分で選んだ道とはいえ、それが月彦が歩まねばならない道だった。

 そのような目に遭いながらも、食欲だけは普通以上にあるのが不思議なもので、その点においては月彦は無神経な己の消化器官に感心せざるをえなかった。尤も、由梨子との事があってからというもの、前以上に真央の機嫌をとるようになった事でより多くの栄養分が必要となってしまい、四の五の言っていられる状況ではないという要因もあったりする。
 普通それだけやればさすがに飽きそうなものなのだが、そこが真央の恐ろしいところ。母親譲りの極上の体は、抱くほどにその具合が良くなり、飽きるどころか中毒症状に近い形でますますのめり込んでしまう始末だ。
 そして皮肉な事に、そういった発情したケダモノのような交尾を繰り返せば繰り返すほどに、由梨子の側に行ってまったりと安息の日常を過ごしたい、と思ってしまうのだ。そう、それは喉の渇きにも等しい衝動となって、月彦を日増しに苛んでいた。
 だから、母親から持たされた弁当だけでは食い足りず、ふらふらと頼り無げな足取りで売店へと向かう途中、由梨子とばったり会ってしまった時には心が舞い上がってしまった。
「……あれ、先輩は今日はパンですか?」
 売店へと向かう途中の廊下で、由梨子はそっと月彦の隣に身を寄せてくる。
「いや、弁当食ったんだけど……物足りなくて。由梨ちゃんこそ、どうしてこんな時間に売店に?」
「私はちょっとノートを買いに……それで先輩に会えるなんて……凄い偶然ですね」
「確かに」
 月彦は苦笑する。仮にどちらかが数分後れただけで、こうして顔を合わせることは無かっただろう。由梨子の言うとおり、これはなかなかの偶然だ。
「……ちなみに、真央さんなら教室です。他の女子と一緒にお弁当を食べている最中だと思います」
 今ならば真央の目は届かない――そのことを暗に示唆するような由梨子の言葉。息がかかるほどに身を寄せられ、じぃと上目遣いで見られ、月彦は思わずごくりと喉を鳴らしてしまう。
「……でも、由梨ちゃんが売店に行ったまま戻って来なかったら、怪しまれたりしないかな」
「少しくらい遅れても、誤魔化しきる自信はあります」
 確かに、由梨子ならば誤魔化しきるだろうと思う。そういった演技力は、自分よりも遙かに卓越していると見えた。
「…………えーと……」
 月彦は悩み、そして結局、衝動に負ける形で由梨子と共に踵を返した。人気の無い場所へ人気の無い場所へと向かった先はいつぞや雪乃に連れ込まれた資料室だった。
 本来ならば鍵をかけられて然るべきその戸は容易く開き、そして相変わらずの埃とかび臭さ。しかし、その様なことは気にもならなかった。
「んっ……!」
 後ろ手で戸を閉めるなり、由梨子を抱きしめる。由梨子もまた、脱力気味に月彦に体を預けてくる。
「先輩……」
 由梨子は上目遣いに、物欲しげに唇を動かす。一も二もなく月彦は吸い付き、舌を絡め合う。
「んっ、んっ……ふっ……んちゅっ……んっ……」
 くっ……と、由梨子がブレザー越しに背中に爪を立ててくる。それに応えて、月彦は両腕に力を込め、ぎゅううっ、と強く抱擁する。
「んぁっ……」
 由梨子が苦しげに呻く。が、尚も力は緩めない。唇を重ね、互いの息を吸い合うようにして密にキスを続ける。
「あふ……っ……」
 何度も、何度も。執拗にキスを重ね、そして漸く唇を解放する。同時に腕の力を弱めると、途端に由梨子のからだがするりと落ちてしまいそうになる。月彦は慌てて支え、由梨子を自分に持たれさせるような形で、己もまた資料室の壁にもたれ掛かる。
「ごめん……ちょっと強すぎた?」
「いえ……少し、頭がくらっとしましたけど………………」
 それはキスのせいですから、とひどく小さな声で付け足す。
「それにまさか、いきなりキスされるなんて…………先輩って、結構大胆なんですね……」
 と、少し頬を上気させて、嬉しさ半分照れ半分といった顔。
「……自分でも驚いてる。自覚してた以上に、由梨ちゃんに飢えてたみたいだ」
「キスなんて……真央さんといっぱいしてるんじゃないんですか?」
「だから、キスに飢えてたんじゃなくて、由梨ちゃんに飢えてたんだって」
 諭すように言いながら、月彦はそっと、今度は優しく由梨子を抱きしめる。
「あ、あの……先輩?」
「うん?」
「抱きしめてくれるのは……凄く嬉しいんですけど……もう少し、自重してもらえると……」
「自重?」
 由梨子の言葉をオウム返しに呟き、そしてさらに、なにやら腹部の辺りを浮かすような仕草をしている由梨子を見て、あっ、と月彦は声を出す。
「ご、ごめん……!」
 制服ズボンの上からでも明らかに解るほどの怒張に、月彦は今更ながらに気がつき、慌てて由梨子の肩を掴んで引き離す。
「いやその、これは……別に由梨ちゃんを抱きしめながらいやらしいことを考えてたとかじゃなくて、体が勝手に――」
 なんとか言いつくろうとするも、出てくるのはなんとも説得力のない言葉ばかり。由梨子に対して淫らな思いなど微塵も考えていなかった“筈”なのだが、なかなかどうして。年頃の男というのは頭と下半身がそれぞれ独立している生き物らしい。
「……ちなみに、最初抱きしめられた時からだったんですけど…………もしかして、先輩気づいてなかったんですか?」
 由梨子は伏せ目がちに、それでも月彦の股間の怒張を見ながらそんな事を言う。今度は月彦が顔を真っ赤にする番だった。
「そ、そんな前から……」
「はい……。お腹の辺りにぐいっ、ぐいっ……って押しつけられて……てっきり、態とかと……」
 絶句。真央相手でさんざん染みついてしまった習慣とでも言うべきか。無意識のうちにそんな大胆な事までしてしまうようになってしまった己の体に、月彦は些か恐怖を覚えてしまう。
「あ、でも……別に、そうされるのが嫌とか、そういうんじゃないですから……」
 慌てて由梨子がフォローを入れてくるが、もう遅い。月彦は自己嫌悪の湖に深く身を沈めた後だった。
「ただ、学校でそんなにあからさまにされると……その、私の方まで…………」
 と、またしても由梨子は頬を染め、黙り込んでしまう。人気のない資料室で、二人。互いの顔を見ないようにして黙り込んだまま、悪戯に時だけが経過していく。
「ええと……先輩。そのままだと、教室帰れません、よね……」
 沈黙を破ったのは、由梨子のその一言だった。



「いや、由梨ちゃん。それは――」
 と、月彦が制止に入ろうとした刹那、その口を由梨子の唇が塞いだ。
「……建前です。察してください」
 一瞬のキスの後、由梨子はそんな言葉を呟いて、自ら床に膝を突く。
「た、建前……って……うわっ……」
 すっ、とズボンの上から由梨子の手が撫でてきて、月彦はうわずった声を上げてしまう。
「先輩、静かにしないと……人が来ちゃいますよ?」
 さす、さすと怒張を撫でながら、由梨子は辿々しくもズボンのチャックを下ろしていく。ここまで来れば、最早由梨子が何をしようとしているのかは疑うべくもない。
「ま、待ってくれ……由梨ちゃん、そんなこと、しなくても……はぅ……!」
 抵抗を試みるも、由梨子の手が直接剛直を撫でた瞬間、月彦の動きは止まってしまう。その隙にかちゃかちゃとベルトを取り外され、完全に剛直が露出させられる。
「ふふっ、学校でこういうことをするなんて、ちょっとドキドキしますね」
 剛直を握りしめながら、ぺろりと先端を舐める。そんな由梨子の小悪魔的な笑みに、月彦はぞくりと背筋が冷えてしまう。
「っ……うわ……ぁ……」
 つ、と由梨子が剛直の根本に唇を付け、そのままちろちろと筋沿いに丹念に舐め始める。ぞぞぞぞぞっ……そんな快感に触発されて、月彦はついつい背を反らせてしまう。
「んはっ……先輩、こうして欲しい、とか……そういうのがあったら、言ってくださいね。……んっ……んちゅっ……」
 由梨子はそんな事を言うが、月彦としては文句があろう筈が無かった。たとえ舌使いがぎこちなかろうが、剛直をなでさする手つきが慣れていなかろうが、そんなもの、“制服姿の由梨子が口でしている”という光景の興奮に比べれば微々たるものだった。
「んぁ……先輩……また、グンッ……って…………興奮しちゃったんですか?」
 唾液でてらてらと光沢を放つ剛直に頬をつけながら、由梨子は妖しい笑みを浮かべる。
「そりゃあ……っ……」
 月彦が口を開くのを待っていた、というタイミングで、先端部が由梨子の口に含まれる。そのままぬろり、ぬろりと先端部を嘗め回され、月彦は思わず声を上げそうになってしまうのを歯を食いしばって堪えた。
「ちょっ……由梨ちゃん……そんなに、したら……っ……く……!」
 声を出したら人が来る――そう言ったくせに、由梨子の口戯はまるで月彦に声を出す事を迫るように激しさを増す。
「うあっ、ダメだ……っ……」
 ぬぅっ……ぬぬぅっ……!
 由梨子が剛直を深くくわえ込み、頭を前後させる都度、腰が抜けそうな程の快感が月彦を襲う。両足から力が抜け、ずりずりと背中が下がりはじめた所で、由梨子は唐突に口を離した。
「……ゆ、由梨ちゃん……?」
 にゅりにゅりと、唾液を潤滑油に指で剛直を弄り回しながら、由梨子はじぃと熱っぽい眼で見上げてくる。普段の礼儀正しい由梨子からは些か逸脱しているように見えるその仕草に、月彦は俄にたじろいでしまう。
 一瞬、ほんの一瞬だけ由梨子の手が止まった。何かを思案し、そして取捨選択をするような、その間の後。
「……すみません、先輩。……イきたい、ですよね」
「え、いや……その、ええと……ぅくッ……!」
 ゾゾゾ、とまた根本から舐められ、そして先端を咥えこまれる。
「んぷっ、んふっ……んくっ、んっ……!」
 由梨子が頭を動かす都度、淫らな水音が資料室内に響き渡る。その音があまりに大きいから、月彦は慌てて周囲を見渡して人が居ないか確認したほどだ。
「くはっ……由梨、ちゃ……もう…………!」
 がくがくと足が震え、力が抜ける。ずりずりと尻餅をついてしまいそうになるのをなんとか足を踏ん張って堪える。由梨子の口戯から逃げようにも、背後は壁だ。月彦はただただ由梨子の髪に手を当て、爪を立てそうになってはそれを我慢するといった動作を繰り返す。
「うっ、わっ……ちょっ……っ、や、ばっ…………っっ……!」
 どくんっ、と。重い反動と、そして途方もない快感を伴って白濁の固まりが打ち出される。
「んくっ……!」
 由梨子が俄に眉根を寄せる。その髪に月彦は手を乗せてはいるが、決して押さえつけてはいない。しかし、由梨子は顔を引こうとはしなかった。
「んっ、く……んく……んっ、……んっ……………んくっ………」
 由梨子が喉を鳴らすのが、剛直越しに振動で伝わってくる。月彦は一頻り射精をし終わると、そのままずりずりと崩れ落ち、尻餅をついた。
「ん、ぷっ……」
 至極、由梨子の口から剛直が引き抜かれる形になる。引き抜かれる刹那、とろりとした白濁の一部が口の端から漏れ、由梨子は慌ててそれをハンカチで拭った。
「んっ……!」
 恐らく、まだ口の中に残っていたであろう牡液を飲み干し、ふぅと息をつく。その隙に、月彦は慌ててズボンの前を仕舞っていた。
「……飲んじゃいました」
 まるで、捕らえた鼠を見せに来た猫のような、悪戯っぽい笑み。月彦が返事に窮していると、ごろにゃーんとばかりに由梨子が身を寄せてくる。月彦は対応に困り、結局無言のまま由梨子を抱き寄せてキスをした。
「……先輩、このままここで、最後までしちゃいましょうか」
「えっ……」
 驚き七割、期待三割といった声を月彦が上げると、由梨子はくすくすと声を漏らして笑った。
「冗談です。さすがに、そこまでする勇気はないです。……それにもう、昼休みも終わっちゃいますし」
「あ……あぁ、そうだな……もう、こんなに時間が……」
 月彦は左手の腕時計の文字盤を確認して、些かぎょっとする。由梨子と一緒に居るときは時間の進みが加速してしまうのは既に体験済みだが、それでも驚かざるを得ない。
 月彦は立ち上がり、続いて由梨子の手を引いて立つのを補助する。
「なんだか、話らしい話もろくに出来なかったけど……」
 月彦は再び時計を見る。昼休み終了のチャイムが鳴るまでもう二分とない。これというのも全て、己の(特に下半身の)不徳の致すところであるから泣くに泣けない。
「真央さんへの言い訳も、少し難しくなりましたね」
「ごめん……俺もなんとか、もう少し由梨ちゃんとの時間をとれるように、考えてみるから」
「それは……嬉しいですけど、あんまり無理はしないで下さいね?」
 由梨子はそう言うが、多少無理をせねばそんな時間は取れないであろうことは明白だった。だから、月彦はあえて無理はしない、とは返さずに微笑のみを返した。
「そうだ、先輩」
「うん?」
「お弁当が足りないって……そう言ってましたよね?」
「ああ……でも今からじゃ――」
 時計を見る迄もなく、売店に行く余裕はない。
「ひょっとして、いつも足りないんですか?」
「いつもってわけじゃないけど……ほら、冬になると、体温上げなきゃいけないから夏よりお腹空くだろ?」
 まさか真央に体力と精力を吸い取られているからだと言える筈もなく、月彦は適当な理由をでっち上げる。
「なるほど……わかりました」
 そんな理由でも、どうやら納得してもらえたらしかった。
「じゃあ、先輩」
「うん」
 別れ際だけは、何故かよそよそしく。そしてそろそろと資料室の戸を開けて、そっと辺りの様子を伺いながら外に出る。それを待っていたかのように、丁度チャイムが鳴った。
 一年の教室の方へと歩いていく由梨子を見送って、月彦も自分の教室の方へと歩き出す。――その刹那、月彦は背筋にただならぬ気配を感じた。
「っ……!?」
 慌てて、気配がした方――階段の踊り場の方角――を見るが、チャイムが鳴って尚、がやがやと立ち話をする生徒ばかりで特に誰がどうという事はない。
「……気のせい、か……?」
 首を捻って、月彦は再び教室の方へと歩き出した。


 午後の授業は何がどうということもなく、いつも通り恙なく終了した。帰りにどこか遊びに行こうという和樹の誘いを第六感的な理由で断り、月彦は一人で帰路につく。
(…………よし、今夜……真央に言おう!)
 午後の授業の間、ずっと悩んだ挙げ句、月彦が出した結論はそれだった。いつまでも、こそこそと隠れるように逢瀬を重ねるというのは、心臓にも悪ければ真央にも悪い。それよりもいっそ打ち明けて、そして命がけで説得した方が良いと判断したのだ。
(いくら真央でも、きちんと誠心誠意説得すれば、なんとかなる筈だ……)
 多少殴られたり、噛まれたり、引っかかれたりするのは覚悟の上。それくらいで由梨子とおおっぴらに会えるのなら安いものだ。
(まずは真央の怒りを一身に受けた上で、頃合いを見て説き伏せる!)
 もう泣き落としでもなんでも構わない。何が何でも真央に由梨子との関係を認めさせてみせると月彦は意気込み、その際のシミュレーションなどを行いながら家路を辿る。
「あれ……?」
 と首を捻ったのは、玄関の鍵が開いていなかったからだ。いつもなら先に帰っている筈の真央も、そして葛葉も留守という事になる。
「…………まあ、姉ちゃんは居るかもしれないけど」
 それはそれで、あんまり関係がないことだと思いながら、月彦は靴を脱いで二階へと上がる。
 微かな違和感を覚えたのは、階段を上がりきった時だ。月彦は最初、その違和感の正体が解らず戸惑ったが、やがて自室の方角から流れてくる暖かい空気に気がついた。
「暖房……切ってなかったっけか……」
 朝の出来事を振り返りながら、そんな筈はないと思う。ならばやはり真央が帰ってきているのか――それなら何故玄関に鍵をかけていたのか。
 月彦は微かに警戒心を懐きながら、そろり、そろりと自室のドアへと歩み寄る。まずは耳を当てて室内の様子を伺うも、ごぉごぉと唸るエアコンの音以外は何も聞こえてこない。
 そっとドアノブを握り、音を立てないように回す。慎重に室内の様子をうかがいながらドアをゆっくりと開いていく。――その途中で、月彦は全ての元凶を見つけて、がっくりとその場に膝を突いた。
「……おい」
 月彦は目眩を覚えながらもなんとか立ち上がり、ベッドの上で寝入っている“それ”に声を掛ける。
「おい、真狐。起きろ!」
 机の上に荷物を下ろし、再度呼びかけるが、てんで起きる気配がない。月彦はため息をついて、些か過剰に設定されていたエアコンの温度設定を適温に戻す。
 ベッドの上の真狐は普段着の――にしてはあまりに派手だが――胸元の大きく露出した着物を着ていた。が、どうやら寝ているうちに暑くなったと見えて、掛け布団の大半がベッドから蹴落とされてしまっていた。
「……ったく、人の部屋に勝手に入りやがって…………」
 これからは窓の鍵もきちんと閉めないといけないな、と月彦は決意を新たにする。
「ヤバいな……今真央が帰ってきたら――」
 変な疑いをかけられるかもしれない。月彦は部屋の窓から家の周囲を見るが、幸い真央の姿はない。
 ホッと息をつくのもつかの間、早くこの疫病神を追い払わねばと、月彦は真狐の肩を掴んでがくがくと揺さぶる。
「おーーーーい、真狐! 起きろーーーーーーー! 起・き・ろ!!」
 しかしどれほど揺さぶろうとも、そして声を荒げようとも真狐は起きる気配がない。余程疲れているのか、はたまた安心しきっているのか、それとも神経が図太いのか、或いは狸(というのも変な話だが)寝入りなのか。
「ええい、かくなる上は!」
 鼻と口を塞いでしまえば否が応にも目が覚めるだろう、と月彦は真狐の顔を覗きこむ。――そこで、はたと手が止まった。
「………………………………」
 そのまま、じぃと寝顔に見入る。くかー、すぴー、ぴるぴるー……そんな奇妙な寝息を立て、もごもごと口を動かして真狐が寝返りを打つまでの間、月彦は魅入られたように固まっていた。
「………………そういえばこいつ、顔の造作は悪くないんだよな……」
 いつも小憎たらしい笑みを絶やさないせいで忘れがちだったが、娘の真央がそうであるように、真狐も美人の類ではあるのだ。こうして寝顔を見ると、ねじ曲がった性格が現れていない分、ハッと息を呑んでしまう程に綺麗な顔立ちに見えてしまう。
(……こいつの寝顔見るのなんて、初めてじゃないのか)
 大体いつも気がつくと消えている――というのがザラであり、体は重ねれど朝まで同じベッドに居た試しは無し。故に、月彦は文字通り珍しいものでも見るような目で、じぃと真狐の寝顔に見入ってしまう。
「うぅん…………」
 また、もぞもぞと真狐が寝返りをうつ。それで掛け布団が完璧にベッドからずり落ちてしまった。
「………………はぁ……」
 月彦はため息を一つついて、掛け布団を拾い上ると真狐の上から丁寧にかけ直した。
「……起きたらすぐ帰れよ」
 自分と真狐が同室に居なければ、真央も有らぬ疑いは掛けないだろうと、月彦は部屋を後にする。――が、ドアを閉めようとした刹那、かけたばかりの布団がぽーんと蹴飛ばされ、またしてもベッドから落とされてしまう。
「……なんつー寝相の悪さだ」
 呆れて物も言えないとブツブツ文句を言いながら、月彦は部屋に戻って掛け布団を拾い上げる。それをまたかけ直そうとした瞬間、うーんと唸って真狐が寝返りを打つ。
「………………」
 むぎゅっ。
 そんな音が聞こえてきそうな程に、横になった真狐の腕の下で巨乳が圧迫されていた。
 そもそも、今までそこに眼が行かなかったのがおかしな程に、真狐の巨乳には途方もない存在感があった。一度そこに目が止まれば、寝顔がどんなに可愛かろうが関係ない。月彦の目はひたすら胸とその谷間に釘付けになってしまう。
 ゴクッ……。
 そんな音が、喉から聞こえる。手から握力が消え、ぱさりと掛け布団が落ちる。
「…………おい」
 今までとはうって変わった小声で、月彦は呟く。
「真狐、本当に寝ているのか?」
 返事をするな、と言わんばかりの音量。月彦は白い巨乳を凝視しながらも、視界の端でつぶさに真狐の寝顔を観察する。
「起きろよ。……起きないと襲っちまうぞ。いいのか?」
 これまた、起きるなと言わんばかりの音量の声。じぃ、と巨乳を睨みながら、またごくりと生唾を飲む。
 決して、欲求不満なわけではない。否、肉欲にのみ関して言えば、過剰供給気味だと言っても良いくらいに満ち足りている。足りている筈なのに――
「ちく……しょう……」
 真狐の巨乳を見ているだけで、月彦は鼻息荒く猛ってしまう。これ以上大きいのはさすがに――と思うギリギリのボリュームを見事に体現しているかの如き造作は、まさに神懸かり的と言っても良い程だ。
「なんで……こんな女に……」
 こうまで興奮させられなければならないのか――そのことに例えようのない屈辱を感じながらも、月彦はベッドの側に膝を突き、そろそろと手を伸ばしてしまう。
 最早月彦の頭の中は、この腹立たしい迄に大きな白い固まりをどうしてやろうかという妄想でいっぱいになっていた。じき帰ってくるであろう真央への対応や、その危惧すら念頭にも浮かばない程に。
 まるで、甘い蜜の香りに首っ丈の蜜蜂の様。ハァハァとケダモノのような息づかいで、手を伸ばし、今まさにその指先が触れんとした矢先、またしても真狐がうーんと寝返りを打ってしまう。
 月彦は慌てて手を引っ込めた。寝返りをうった真狐は今度は仰向けになり、胸元のたわわな塊がこぼれ落ちてしまいそうにたゆんと揺れる。
 何度もの寝返りで着崩れた着物。
 それでなくとも、元々が露出の大きい造作。
 そのくせ肝心の先端部分に限っては、巧い具合に着物の影となって見えない。
 仰向けになって尚十分な弾力、それでいてあまりのボリュームが些か重力に負ける形で撓んだその形が――逆に形を全く崩さない美乳よりも月彦を猛らせる。
 月彦はしばし――といっても、ほんの数秒――真狐の様子を観察し、そして再びそろそろと手を伸ばす。別に真狐が起きたら起きたでどうという事はない筈なのだが、寝込みを襲っているという後ろめたさから、どうしても慎重になってしまう。
(……いっそ、こいつが眼を覚ませば――)
 目覚めるなと願う反面、そんな事も考えてしまう。起きて、そしてぎゃあぎゃあと騒ぎ立てれば、月彦も開き直ってここぞとばかりに押し倒し、屈服させてやるのだが。ここまで無防備に寝入られるとそうもいかない。普段とは同一人物なのかと疑いたくなるほどに邪気のない顔立ちも相まって、そういう不意打ちじみたことが良心的に出来ないのだ。
 とはいえ、これほどの巨乳を目の前にしてただ指を咥えて見ているというのも、巨乳フェチを自認する月彦としては不可能な事だった。その辺りの論理的破綻は、彼に限ってしまえばもうしょうがないとしか言いようがない。
 ゆっくり、ゆっくり手を伸ばす。その動作は鳥の巣に忍び寄り卵を狙う蛇の如く。月彦の右手は慎重に、しかしよどみなく、真狐の着物の内側へと滑り込む。
「う、わ……」
 たわわな乳にそっと手を当てる。初めて触ったわけではない――しかし、それでも尚、背筋が冷えるほどの圧倒的な柔らかさと、弾力。黄金律に従って作り上げられたかの如き途方もない感触に、月彦の理性は捻子の二,三本と共に吹っ飛んだ。
「す、げぇ…………」
 真央の胸ならば、毎日のように触り、もみくちゃにしている。それですら、一般の女子高生の体躯から言えば非常識なまでに発達した巨乳なのだが、真狐のそれはさらに一線を画している。
 月彦はちらり、と真狐の顔を盗み見て、起きる様子が全くないのを確認してから、のそりとベッドの上に身を乗り出す。今度は両手で、真狐の双乳を揉む。
「はぁ…………はぁ…………く、そ……指が、埋まっちまう…………!」
 揉めば揉む程に、得体の知れない苛立ちが沸き起こる。ついつい手に力がこもり、ぎゅううううっ、と指の間から白い肉が盛り上がる程に強く握りしめてしまい、そしてハッと手を引く。――が、真狐は相変わらず起きる様子がない。すぴすぴと奇妙な音の寝息を立てるのみだ。
 視線を、再び乳に戻す。また、ごくりと喉が鳴る。今度は両手で、円を描くように、すくい上げるように揉む。
(たまん……ねぇ…………)
 沸々と沸き起こる、牡の衝動。それはたわわな巨乳とその持ち主に対する苛立ちと相まって、徐々に抑えがたいものになる。
(あぁ、そうだ……こんなモノ、これ見よがしに見せびらかしてる方が、悪いに決まってる……)
 襲われても文句は言えないと。このふしだらな巨乳に仕置きをしてやらねばと。月彦の頭の中が欲望一色に染まる。
 ふーっ……ふーっ……そんな息づかいをしながら、月彦は巨乳をもみくちゃにする作業を名残惜しげに一端止め、ベルトを外しにかかる。既にズボンの内側でがちがちになっていた剛直は、ほんの少しベルトを緩めただけでズボンのホックをはじき飛ばす勢いでぐんと姿を現す。
(さて、まずは……この巨乳で……)
 ごくり、と月彦が唾を飲んだ刹那だった。背後で、ドアが開く音が聞こえた。
「……父さま、何……してるの?」
 


 
 真央の声でハッと我に返った月彦は、慌ててズボンの前から飛び出しているものを隠そうとした。――が、あり得ないほどに膨張、ガッチガチに屹立したそれは到底下着の中に収まらず、月彦は部屋の入り口に立つ真央に背を向ける形で隠すしか術がなかった。
「ま、真央か……お、遅かったな」
 可能な限り平静を装いつつ、首だけで振り返るような形で真央に声を掛ける。が、内心はもうパニック寸前。
 真央はといえば、怒るでもなくヒステリックに喚き散らすでもなく、ただただぽかんと部屋の入り口に立っているだけだ。唖然としている――と言い換えても良い。
「いや、あの……これはだな、帰ってきたら真狐のバカタレが昼寝をしていて、追い出そうかとも思ったんだが全然起きないから、なんとか起こそうと苦心した結果というか――」
 月彦は慌ててマシンガンのように言い訳を連発するが、それでも真央は不思議そうに首を傾げるだけだ。
「……母さまが居たの?」
 挙げ句、そんな事を言い出す始末。えっ、と思ったのは月彦。視線を真央からベッドの方に戻すと――そこには真狐の姿は無く、代わりに丸められた古毛布が置かれていた。
 ――化かされていたのだと、月彦は漸く気がついた。
「あの野郎!」
 では今まで自分が触っていたのはただの古毛布だったのか――そう思った途端、股間の強ばりも見事なまでに力を無くす。
「道理で何をやっても起きないはずだ……いや、ひょっとすると途中で起きて……畜生、危うくハメられる所だった!」
 危ない、危ないと先ほどまでの自分の行いとケダモノ思考は完全に忘れて、月彦は被害者の側に入る。その背中でひらひらと揺れている紙を見つけた真央が、漸く部屋に入ってきてぺりぺりと剥がす。
「うわ……き、もの」
「……何、だと」
「これ……父さまの背中に張ってあったよ」
 真央から手渡されたのはノートの一頁を破ったものらしかった。幼稚園児が泣きながら書いたような字で大きく“浮着者”と書かれている。
(……相変わらずヘタクソな字だ……しかも間違っている)
 やれやれ、しょうがない奴だと、まるで同意を求めるように真央の方を見るが、返ってきたのは火も消せそうな程に冷たい真央の視線だった。
「これ、母さまの字だよね」
「……だな」
「……母さまが来てたんだ」
「俺が見た時は、ここで寝てたんだ。お、俺は起こして、追い出そうとしたんだぞ!?」
「…………じゃあどうして、ズボン脱ごうとしてたの?」
「うぐ……!」
 しっかり見られていたか――月彦は一気に断崖絶壁に追いつめられる。
「父さま、“うわきもの”ってどういう事?」
「ま、待て……真央、落ち着け、落ち着くんだ。これは罠だ」
「罠?」
「そうだ。真狐が俺と真央の仲を裂くために仕掛けた卑劣な罠だ。怒ったら真狐の思うつぼだぞ?」
 何とか説得を試みるが、真央はジト目を止めない。
「お昼寝をしていた母さまを父さまが襲おうとして、母さまは父さまを化かして逃げただけじゃないの?」
 鋭い。さすがとしか言いようのない名推理。何故真央はこの手の事に関してはことごとく神懸かったカンの良さを発揮するのか。
「そ、そういえば真央! 今日はどうして帰りが遅かったんだ?」
 月彦は窮し、力業で話題を変えにかかる。
「あれ、そういやなんか匂いが……これは香水か?」
「…………由梨ちゃんと一緒に買い物に行ったりしてたの。香水ってあんまり好きじゃないけど、つけた方が“月彦先輩”が喜ぶって言われたから由梨ちゃんと同じのを買ってつけてみたの」
「そ、そうだったのか……うん、こういう甘い香りは俺も好きだぞ。真央の魅力がぐんと引き立つって感じだな!」
「それで、“うわきもの”ってどういう事?」
 大魔王からは逃げられない――昔読んだ漫画の文句がふと月彦の頭に浮かんだ。どうやら、どれほど話題を逸らそうとしても、真央は逃がすつもりは無い様だった。
「……真央、冷静になってよく考えるんだ」
 月彦はベッドに座り、隣に真央を座らせ、神妙な顔つきで説得を再開する。
「真央が知っている真狐は、どんな奴だ?」
「それは……エッチが大好きで――」
「そうだ。その真狐が、だ。俺に襲われたくらいで逃げると思うか?」
 説得力がある、と思ったのか、真央は反論が出来ないようだった。
「むしろ、逆に襲い返すくらいの事はするだろう、アイツなら」
「で、でも……本当に調子が悪い時だったのかも……」
「だったら、こんな所で寝たりしないだろう。普段何処で何をやってるのかは知らないが、アイツにだって寝床くらいはあるんだろうし。……にもかかわらず、ここで寝ていた理由はただ一つ。さっきも言った様に、俺と真央にちょっかいを出すためだ」
「それ、は……」
「怒ったら負けだぞ、真央。それこそ、今も影で見ているかもしれないアイツの思うつぼだ。実際問題として、俺は何かしたか? ただ自分の部屋で服を脱ごうとしただけだ。確かに真狐の書き置きは残っていたが、それだけだ。第一、俺はさっきまで学校に居たし、浮気をするような時間的余裕も無いぞ?」
「………………」
 真央はまだ納得がいかないのか、釈然としない顔をしている。
「真央、こういうのは結局は水掛け論なんだ。最終的に、俺の言い分を真央が信じるか、信じないか。その二択しかない」
「……うん」
「真央は俺を信じるって言ってくれただろ? あの言葉は嘘だったのか?」
 先ほどまでの強い口調ではない。優しく、幼子に諭すように。真央を抱き寄せ、その髪を撫でながら真摯に説得する。
「……わかった、父さまを……信じる……」
「そうか、ありがとう、真央」
 月彦はホッと安堵の息をつき、甘えるように頬ずりしてきた真央の唇にそっとキスをする。
「……父さまは、母さまのおっぱいが好きで、ちょっと触ろうとしただけだったんだよね。……浮気じゃ、無いんだよね」
 なにげに説得できたようで、出来ていない。バレる所はしっかりバレているんだなと月彦は内心ドキリとする。
「でも……浮気は……エッチはしないでね?」
「もちろんだ。俺には真央が居るからな。浮気なんかするわけないだろ?」
「絶対だよ?」
「ああ、無論だ」
 そっと真央の背中ごしに手を伸ばし、脇からすくい上げるように真央の巨乳を掴む。母親のそれに比べれば大分ボリュームダウンしてしまうが、それでも巨乳としては申し分ない。
「あんっ……」
 真央が甘い声を上げて、くたぁ、ともたれ掛かってくる。前髪がさらりと揺れ、微かな風に乗って体臭とは違う、甘い香りが運ばれてくる。由梨子が使わせたという香水の香りなのだろう。決してキツ過ぎず、ほんのりと甘いそれは確かに月彦が嫌いではない類の匂いだった。
 そう、それは真央が言った通り、由梨子がいつも使っている香水の香りだった。
(ん……由梨ちゃん……?)
 その時、はたと月彦の脳裏に由梨子の顔が浮かんだ。そして――月彦は目前の災禍を避ける事に囚われすぎて、己が取り返しのつかない間違いをしてしまった事に漸く気がついた。
「あっ、あぁっ、ああああああああああああああああああああああああっ!!!」
 絶叫に近い声を上げて、月彦はふらりとベッドから崩れ落ち、両膝と両掌を絨毯の上に突く。
「と、父さま……どうしたの!?」
 真央が驚き慌てて声をかけてくるが、月彦の耳には届かない。そう、この瞬間、“真央に浮気の事実を打ち明けて、三人で仲良く”という夢は費えたのだった。


 



 宮本由梨子の朝は早い。それは偏に弟、武士の部活動に朝練というものがあるからであり、さらに言うならば、それが理由で母親が朝食を作らなくなった事が上げられる。
 冬場の朝は寒く、けたたましく鳴る目覚ましで意識自体は覚醒しても、暖かい布団の魅力から逃れる為に途方もない精神力が必要となる。にもかかわらず、由梨子がいつもよりも颯爽と布団から出ることが出来たのは、新しい目的が出来たからだった。
 ベッドから出るなり部屋の明かりをつけ、靴下を履く。外はまだ暗く、日の出の兆しすらない中、屋内用のスリッパを履いてしずしずと階下へと向かう。
 朝食のメニューと弁当の内容については、既に昨夜の買い出しの段階で決めているから、今になって迷うという事はない。包丁を使う時は寝ぼけて怪我をしない様、細心の注意を払う事もいつも通り。
 調理を始めて三十分ほど経つと、大あくびをしながら武士が降りてくる。他愛のない挨拶を交わし、武士が洗顔している間に手早く朝食の用意を済ませる。武士が朝食を摂っている間に、今度は弁当の用意をする。由梨子は忙しい。
「あのさ……」
 比較的無口で、不必要な時には殆ど口を利かない弟が、珍しく口を利いて、由梨子は洗い物をする手を止めてはたと振り返った。
「俺、別にパン食でもいいんだけど」
 つまり、無理に起きて朝食と弁当の用意をする必要はないと、武士は暗に言っているのだ。そのくらいの機微は由梨子にも解る。
「姉貴も毎日この時間に起きるのキツいだろ」
「別に。もう慣れたしね」
 本音を言えば、少し辛い。特に冬場は、いつまでもぬくぬくと布団の中に潜っていたいものだ。
 もし仮に、一日前に同じ提案をされていたら、或いは受けてしまったかもしれない。しかし今は――。
「あれ……」
 その差異に、武士も気がついたようだ。
「なんで……弁当が三つ……」
 別に隠すのも変だし、とはいえおおっぴらにするのもおかしいから、丁度武士の座席からは死角になる様に――食卓の上の調味料類が収納されている棚の裏側に――置いて冷ましていたのだが、それでも見つかってしまった。
 普段由梨子が作るのは、自分用と武士用の二つだけ。しかし今日は三つ。それが由梨子が弁当作りを止めない一番の理由だった。
「姉貴、これ……誰の弁当なんだ?」
「………………」
 由梨子は聞こえなかったフリをして、洗い物を再開した。奇妙な後ろめたさと、そして照れが、由梨子にそのような態度を取らせてしまう。
「……こないだのあいつか」
 しかし沈黙も意味を成さず、武士は正解へとたどり着いてしまう。無理もない、“あの日”以来、武士との関係がどこかぎくしゃくするほどに、強烈な出来事だったのだから。
「あいつのなんだろ。姉貴の入院先聞きに来た……一個上の先輩」
 由梨子は答えない。態と洗い桶の中に皿を落としたりして音を響かせ、あくまで聞こえないフリを続ける。ちっ、と武士が小さく舌打ちをする。
「姉貴はどういうつもりか知んねーけど、あいつ……姉貴の事は彼女じゃないって言ってたぜ」
 えっ、と思わず声を出してしまいそうになり、がしゃんと流し台に皿を落としてしまう。ドキリと跳ねた心臓がそのまま、不定期な脈を刻み続ける。
(……でも、それは本当の事だ)
 月彦の本命はあくまで真央だ。だから、自分は彼女ではない。その理屈は正しい。なのに、何故だろう。由梨子は不覚にも涙を滲ませてしまいそうになる。
 そして、改めて自覚する。自分は、あくまで“二番目”なのだと。
 一体いつ、月彦とそんな話をしたのか。他にどんな事を言っていたのか――そう問い正したかった。しかし、由梨子はそれをしない。それは姉としての矜持故にだ。もし全てが出任せで、武士にからかわれただけだと解ったとき、由梨子は安堵と引き替えに姉としての面目を失ってしまう事になるからだ。
「手、止まってるぜ」
 武士に指摘されて、由梨子は慌てて洗い物を再開する。くつくつと笑う声が背後から聞こえて、由梨子は顔を真っ赤にしながら態と派手に音を立てて皿を洗う。
「わからねーなぁ。あんな奴の何処がいいんだか。…………ごちそーさん」
 不貞不貞しく言って、武士は食器を重ね、流し台へと放り込んでくる。由梨子は無言で、武士の方を見ずに洗い物を済ませる。素早く手を拭き、武士が部屋で着替えて降りてくるまでに弁当の包装を終える。それはもう、殆ど習慣と言ってもいい作業だった。
「じゃ、行ってくる」
 通学鞄代わりのスポーツバッグに弁当を入れ、玄関へと向かう途中ではたと、武士は足を止める。
「……そうだ、姉貴」
「何?」
「金くれたら、俺、部活の後友達と飯食ってから帰ってくるけど」
 一瞬、弟が何を言っているのか解らなかった。母親が不在になることが増えてからというもの、普段の食費などは基本的に由梨子が管理することになっていた。が、部活の帰りに外食をするから金が欲しい、などという要求を武士がしたのは初めてだった。
 勿論、その不自然さ故に、弟が言っている意味を由梨子もまた即座に理解した。しばしの逡巡――しかし結局、由梨子は食器棚の引き出しから財布を取り出し、弟に千円札を渡した。
「ケチ」
 武士は口を尖らせて千円札を受け取ると、そのままぷいと台所を出て行く。いつもなら玄関までは見送るのだが、今日に限ってはそんな気になれず、由梨子は玄関のドアが閉まる音を背中で聞いた。
「……先輩」
 武士が要らぬ気遣いを――でも、嬉しくないと言えば嘘になる――したせいで、月彦への想いが急速に燃え上がる。壁掛け時計を見上げると時刻は六時半を少し過ぎた辺り。――登校まで、時間はまだ十分にある。
「よしっ」
 一度は外したエプロンを再度つける。もしかしたら、全ては無駄になるかもしれない――それを覚悟の上で、由梨子は“準備”を始めた。


「父さま、大丈夫?」
「あぁ、大丈夫だ。問題ない……」
 枯れ木が撓ったような声を出しながら、月彦は鞄を手に紺崎邸から出る。途端、ひゅうっ、と北風に煽られ、そのまま回れ右をしてドアを閉めてしまいたい衝動に駆られる。
「真央、やっぱり今日は寒い。マフラーつけた方がいいぞ」
「マフラーかぁ……、父さまと……一緒に使うんだったら――」
「いや……外だとさすがにそういうのは……」
 歩きながら、すりすりと身を寄せてこられて、月彦は遠回しに窘める。ただでさえ真央と並んで歩いていると周囲の視線が痛いというのに、これ以上睨まれる原因を増やしたくなかった。
「……わ、私は……もっと父さまと、腕組んで歩いたりとか、したい、な……」
 じぃ、と上目遣いにそんな事を言われるも、月彦には是という返事はできなかった。真央と腕を組んで歩きたくないといえば嘘になるが、さすがに朝、人通りの多い往来でそんな真似が出来る程に恥知らずではない。
「っ、とと」
 よそ見をして歩いていたせいか、道路のなんということのないくぼみに足をとられ、転びそうになってしまう。
「父さま、やっぱり今日は休んだ方が……」
「いや、熱はない。ちょっと疲れが貯まってるだけだ」
 月彦としては、暗に“真央とヤりすぎてるからだ”と含めたつもりだったのだが、伝わったかどうかは怪しい。
「そうだよね……昨日もたった三回しか……」
 正確には“中出ししたのは三回”だけどな、と月彦は心の中で抗議する。相変わらずの貪欲っぷりに、気を抜けばため息をついてしまいそうになる。
 ため息といえば、例の件を真央に切り出し損ねたのも失調の原因の一つだった。真狐に悪戯している所を運悪く真央に見られたものの、なんとか誤解(?)はといた。しかしそのせいで、月彦は由梨子との件を切り出すタイミングを見事に失ってしまった。
 浮気などするもんか――そう宣言した直後に「実は由梨ちゃんと――」等と言える筈もない。噂に聞くドツボとは、まさにこのことだろうと月彦は思う。
(まさかアイツ……それを狙って昼寝してたんじゃないのか)
 と疑ってしまう程に、見事な罠だった。しかし、いくらなんでもあの性悪狐が自分と由梨子の関係を知るわけはないから、ただの偶然だろう。
 元はといえば、巨乳に目が眩んで手を出してしまった己が悪いのだ。いい加減己を律し自我を強く持ち、欲望をコントロールする術を身につけねばと切に思う。
「あっ、由梨ちゃんだ。おっはよ〜っ!」
 真央が元気よくぴょんと跳ねて手を振る。ああ、考え事をしながら歩いていたらもう学校についてしまったかと、月彦がぼやけていた焦点を校門前に合わせた。――瞬間、月彦の眉間を不思議な衝撃が貫いた。
「おはようございます。……先輩?」
 怪訝そうに、由梨子が首を傾げる。月彦の異常に気がついた真央もまた、ん?と首を傾ける。
(く、黒タイツ……!)
 今朝は寒かった。由梨子は寒がりだと言っていた。だからだろう。鼻下までマフラーに埋めるようにした由梨子はスカートの下に黒のタイツをはいていた。
「……あ、あぁ……おはよう、由梨ちゃん」
 たっぷり七秒ほど時を止められ、月彦は漸く返事を返す。気を抜くと視線がすぐ黒タイツへと向かってしまうため、酷く挙動不審になってしまうのはもはや愛嬌の領域だった。
 回りを見れば、黒タイツをはいている女子などいくらでも居る。今日に限らず、今まで何度も履いている女性は見た。――しかし、何故か今日に限って、月彦は鼻血が出そうな程に興奮を覚えてしまう。
(や、破りたい……!)
 そんな動物的な破壊衝動さえ芽生えるほどに、黒タイツ姿の由梨子は月彦の“ムラムラ”をかき立てた。うずうずと指が蠢き、手が勝手に伸びてしまいそうになるのを、月彦は“自称、強固な自我”で押さえつける。
「っぎゃあッ!」
 刹那、月彦の左つま先に激痛が奔った。見れば、真央の踵に力一杯踏まれていた。
「真央! いきなり何すんだ!」
「えっ……あっ、ごめんなさい! とう――先輩!」
 てっきり態とかと思ったその行動は、意外にも無自覚。真央自身言われて初めて気がついたとばかりにつま先から飛び退き、謝り出す。
(っ……まさか――)
 自分が真央意外の女に欲情してしまったのを、超感覚的に捕らえて無意識に釘を刺したとでもいうのか。そういえば、以前の幽霊の時にも似たような事があった事を思い出し、月彦はあまりの恐怖に鳥肌すら立った。
(ひょっとして、俺はとんでもないことをやろうとしているんじゃないのか……)
 この真央相手に、はたして浮気の事実を隠し通す事が出来るのだろうか。途方もない不安に、胃痛すら覚えてしまう。
 その胃痛が、不意に和らぐ。――気がつくと、由梨子に手を握られていた。
「大丈夫ですか? 先輩」
「え、あぁ……大丈夫。ちょっと踏まれただけだから」
「一応靴下を脱いで確認したほうがいいと思います。爪が割れてたりすると後々恐いですし」
「……私、そんなに重くないよ」
 由梨子の言葉がやや気に障ったのか、或いは由梨子が月彦の手に触れているのに気がついたからなのか、真央がやや不機嫌そうな声を出す。ドキッ、としたのは勿論月彦だ。
「……その割には、先輩、すごく痛そうに声を上げてましたけど」
「由梨ちゃんは私が態と踏んだって言いたいの?」
「ちょ、ちょ、ちょ……二人ともすとーーーーっぷ!」
 ただならぬ気配を感じて、慌てて月彦が止めに入る。
「真央が態と踏んだんじゃないのは解ってるし、別にそんなに痛くもなかったから爪も割れてない。大丈夫だから、二人とも落ち着いて――」
「私は冷静です」
「私も、怒ってなんかないよ」
 体は月彦の方を向きつつ、しかし視線は互いを牽制しあうように火花を散らす。そんな光景を目の当たりにして、月彦は胃の痛みが止まらなくなってしまう。
(足より、胃の方が数倍痛い……)
 こんなにあからさまに衝突したら、真央に気づかれてしまうのではないか――その不安も、胃の痛みを倍増させるのに一役買っていた。
 そんな月彦の狼狽ぶりに先に気がついたのは、やはり由梨子の方だった。
「……ごめんなさい。やっぱり私、少しムキになってたかもしれません」
 真央さん、すみませんでした――そう言って、由梨子は神妙に頭を下げる。由梨子の突然の謝罪に、真央の方も毒気を抜かれたようにきょとんと表情を緩め、そして慌てて――
「わ、私こそごめんね。……由梨ちゃんは、先輩を心配してくれただけなのに」
 自分も謝罪し、ぺこりと頭を下げた。その影で、月彦はホッと安堵の息をつく。
「じゃあ、真央さん。そろそろ教室に行きましょうか」
「うん」
 すっかり仲直りしたのか、手を繋いで小走りに一年の昇降口へと向かう後ろ姿は、微笑ましい程だった。
 二人の姿が見えなくなるまで見送って、月彦は漸くポケットの中に隠していたメモ用紙を取り出した。由梨子が手を握ってきたのは、勿論それを渡す為だったのだ。
「えーと……何々……教室のロッカーの中を見て下さい……か……」
 一体何だろう。月彦は期待と、ほんのちょっぴりの不安を感じながら昇降口へと向かった。
 


 



 教室の後ろ、自分のロッカーの中に入っていたのは弁当包みだった。教室に着くまでの間、月彦なりに昨日の由梨子とのやり取りを思い出してそれとなく当たりをつけていたから、そこまで驚きはしなかった。――しかし、だからといって嬉しくない筈がない。
(……由梨ちゃんは、女の子だなぁ…………)
 他の生徒の目を盗みながら、こそこそと弁当包みを鞄に仕舞う。こういった気遣いが真央にもあれば――などと考えかけて、真央が作った弁当など恐くてとても学校では食えないと思い直す。
 午前中の授業は長いようであっという間だった。勿論考えるのは由梨子の弁当の事ばかり。おかずは何だろうか、ご飯の割合はどれくらいだろうか、そんな他愛のない事を考えているうちに四時限目終了のチャイムが鳴った。
「飯だぁああ!」
 三時限目に体育があった為か、恐らくいつも以上に腹が減っているらしい友人和樹の恥ずかしい叫びを聞きながしつつ、月彦はそっと手招きをする。
「和樹、ちょっとこっちに来い」
「ん、今日はどこで食う?」
 最早食い物の事しか頭になさそうな友人に、月彦はそっと弁当箱を差し出す。
「悪い、俺ちょっと用事があるんだ。弁当はお前にやるから、千夏と二人で食ってくれ」
「用事? 力仕事か?」
 なら手伝うぜ、と言わんばかりに腕まくりをする友人の厚い志に胸を打たれながらも、月彦は神妙に首を振る。
「いや、忘れ物したんだ。昼休みのうちに取りに帰ってくるから、飯もついでにそんとき食う」
「午後の授業って英語と現国だろ? そんなの隣のクラスの奴に借りりゃ――」
「和樹、弁当要らないのか?」
 余計なところで頭を使うんじゃない、とばかりに月彦は力押しにかかる。じゅるり……そんな音を立てて和樹が涎を拭う。
「わかった、千夏には俺から言っとく」
「頼んだ」
 言うや、月彦は鞄を抱えて教室を出る。勿論本当に帰ったりはしない。こっそりと、周囲を気にしながら屋上へと上がる。
 さすがにこの寒さの中、屋上で食事をしている生徒は居なかった。月彦にはそれが逆にありがたく、物陰に座るといそいそと弁当の包みを開く。
 和樹に渡したのは勿論葛葉に貰った方の弁当だ。悪い、とは思ったが、昨日から――特に夕方のあの件以来――胃の調子が思わしくない。今の体ではとても二つも弁当を食べる事は出来ないと判断して、ならば残すよりも食いたい奴に食わせた方が食材達も報われるだろうと思ったのだ。
 和樹達を遠ざけたのは、由梨子の手作り弁当を一人でじっくり堪能したかったからに他ならない。
「さてと……」
 ごくりっ……生唾を飲みながら、弁当箱の蓋を開ける。
「おおおっ……!」
 やや大げさに声を上げ、月彦はまず中身に見入る。想像とは違って、ご飯の部分は俵状のおにぎりが四つ、所狭しと詰められていた。それぞれ白米、わかめご飯、しそご飯、五目ごはんといった具合に違う味のものが丁寧に海苔で巻かれていた。これはさぞかし手間がかかった事だろう。
 おかずの方もニンジンやインゲンの肉巻き、切り干し大根とほうれん草の和え物、きんぴらゴボウに卵焼きと等々と家庭の味満載で、メインの総菜である(少なくとも月彦はそう感じた)蟹クリームコロッケに至っては、明らかに冷食とは違う味に軽いカルチャーショックを受けた程だ。
 そしてなにより。手作り弁当の王道とも言うべきタコさんウィンナーの出来は見事の一言だった。由梨子が一生懸命作っている姿を想像し、月彦は感涙しむせび泣きそうになる。
 一口一口、味を噛みしめながら食べていた筈が、気がつくとご飯一粒たりとも残さずに弁当箱が空になっていた。
 しまった、もっとゆっくり食えば良かった――と思っても後の祭り。そもそも“食い足りない時用”として作られた由梨子の弁当は葛葉のそれにくらべて一回り小さく、それが余計に月彦の飢餓感を倍増させる。たったいま弁当を平らげたばかりだというのに、きゅうと腹が鳴るほどだ。あれほど悩まされた胃痛も何処へやら、改めて由梨子の存在は己にとって“癒し”そのものであると痛感する。
「……でも由梨ちゃん、これは生殺しだ…………」
 例えるなら、砂漠で迷った旅人がおちょこ一杯だけの水を飲まされた時のような。ひょっとして、食べる前よりも腹が減ってしまったんじゃないかと疑いたくなる程の強烈な飢餓感に苛まれながら、月彦は泣く泣く弁当箱を包み直す。
「うん……?」
 その時だった。弁当箱の下に隠れるようにして、何かの紙が挟まれているのに気がついたのは。言わずもがな、それは由梨子がいつも“秘密の連絡”に使っている水色のメモ用紙だった。
 四つ折りにされていたそれを開き、月彦は読む。
「…………今日は、弟も帰りが遅いみたいです」
 メモ用紙の中央、いつになく小さな字でそう書かれていた。
「……弟“も”」
 そこだけ二度読み返した時、水色の余白の中にぽたりと赤い花が咲く。朝方、自分を律し欲望を封じ、自我を強く持つと誓った男の頭の中は、黒タイツで一杯になっていた。
 
 


「由梨ちゃん、どうしたの? ボーッとして……」
「えっ……あ、いえ……何でもないです」
 ハッと我に返って、弁当箱に視線を落とす。気がつけば、真央も他の女子達も全員食べ終わっている。
 急いで食べるのは得意ではなかったが、このままでは要らぬ心配をかけてしまう、と由梨子は可能な限り食事のペースを上げる。
(……先輩、今頃食べてくれてるのかな)
 箸を動かしながら、そんな事を思う。例え場所は離れていても、同じ弁当を食べている――そう考えるだけで、胸の奥がぽかぽかと暖かくなってくる。
 とはいえ、同じ内容ではあっても由梨子の弁当にはコロッケはコロッケでも失敗したコロッケやら、焼いている最中でばらけてしまった肉巻きのインゲンやらが入っているため、見た目としてはあまり宜しくない。
(やっぱり、もう少し肉類を増やした方がよかったかもしれない――)
 野菜が多めになってしまうのは、偏に由梨子の好みだ。しかし、男の月彦ならば野菜よりも肉が食いたかったのではないかと、今頃になって後悔が募る。献立を考えたり、作っている最中は月彦を喜ばせたい、驚かせたい一心で手を尽くしたが、いざ渡してみると準備不足だった感が否めない。
 決定的だったのが、やはり好物とそうでないもののデータが不足している事だった。もし、自分がいれた総菜の中に、月彦が親の仇より疎んじているものが交じっていたらどうしよう――などと、今更どうしようもない不安に苛まれたりもする。
 幸せになったり、不安になったりと、由梨子の内面は忙しかった。そして気がつくと、箸を持つ手が止まっていて、級友達から怪訝そうな目を向けられているのだ。そんな中、ただ一人だけ、違う目で由梨子を見る級友が居た。真央だ。
「由梨ちゃん……お弁当自分で作ってるんだよね」
「ええ、そうですけど」
「何人分作ってるの?」
「えっ……」
 どきっ。そんな音と共に心臓が跳ねる。
「弟と、私の……二人分ですけど」
 動揺を隠しながら、さも平然とそう答える。答えながら、頭の方では真央の質問を吟味し続けていた。何故急に、それも今日に限って“何人分作っているのか”等と聞くのか。
 それがどうかしましたか?――そう聞き返すのが何故か恐くて、由梨子はただただ“普通の状態”を装った。聞けば、“今日は三人分だよね?”と、笑顔で切り替えされそうな、根拠のない気配に恐々としながら。
「そうなんだ。大変だね」
 しかし真央は由梨子が危惧したような事は言わず、笑顔でそう返してきた。由梨子も笑顔で「慣れればそうでもないです」と返した。そこで、そのやり取りは終わった。
(……勘ぐりすぎも、良くない…………)
 と思う。事の露見を恐れる余り、なんて事のない発言にまで過敏に反応してしまうのはかえって良くない。あくまで普通、そう……普通が一番安泰なのだ。
「由梨ちゃん、良かったら今度……私にも料理教えてくれる?」
「ええ。それは構いませんけど――」
 と、言いかけてハッと一言付け足す。
「あ、でも今日は……ちょっと。用事が……」
「うん、それじゃあ。今度教えてね」
 絶対だよ――そう念を圧す真央。由梨子にはそれが、“言質をとったぞ”という確認に聞こえた。

 



 五時限目の現国、六時限目の英語を経て、月彦は漸く学業から解放された。特に、六時限目は教師不在の自習であった為、月彦はよっぽど教室を抜け出してしまおうかとさえ思ったが、さすがにそれは思いとどまった。
 久々にボウリングでも――という友人和樹の誘いを風水的な理由で断って、月彦は早足に学校を後にする。気を抜けばスキップを始めてしまいそうな程に、月彦の心は浮ついていた。
「……っと、その前に……」
 直接宮本邸に向かいたいのは山々であったが、月彦にはその前に行かねばならない場所があった。――薬局だ。
「万が一、万が一……」
 呪文のように繰り返しながら、スキンを購入する。制服姿で堂々とスキンをレジに持ってきた月彦に、中年の店員は露骨に怪訝そうな顔をするが、浮かれている月彦は気がつかない。
(別に、エッチが目的で由梨ちゃんちに行くわけじゃないぞ、うん)
 一体誰に言い訳をしているのか。しかし頭は朝に見た黒タイツ姿の由梨子で一杯になっており、両手の指はうずうずと蠢く始末だ。
 月彦自身、己にその様な性癖があった事に驚いていた。否、黒タイツ姿であればだれでもいい――という単純なものであれば、きっともっと早くに開眼していたのだろう。
 今の月彦はあくまで、“由梨子の黒タイツ姿”に魅了されてしまっていた。たとえば真央が同じように黒タイツを履いたとしても、同じように興奮してしまうかどうかは計りかねる。
(そうだ……念のため……)
 万が一の時の為に、月彦は――今はすっかり少なくなってしまった公衆電話から――自宅に電話をかける。真央が出たらどう誤魔化そうかと思案しつつ、幸いにも電話口に出たのが葛葉であったから月彦はホッと安堵する。
「あ、もしもし? 母さん?」
 俺、俺と月彦は時期が時期ならば無用の誤解を招きそうな文言から、“これから”の事を葛葉に話す。
 友達が委員会の仕事で居残りすることになっちゃって――。
 図書室で調べ物をするっていうからその手伝いをやることになって――。
 なるべく早く帰るつもりだけど、もしかしたら少し遅くなるかもしれないから――。
 葛葉はいつもの通り、二つ返事で了承した。但し、あんまりにも遅くなるようだったらもう一度連絡を入れる様言ってきた。
(……まあ、さすがに今日はそこまで遅くはならないだろう)
 そんな事を思いながら、月彦は受話器を戻し、一路宮本邸へ。
 自然と早足になり、気がつくともう門扉は目の前。月彦は躊躇無く、インターホンに指を押し込む。
 ぱたぱた、と足音が近づいてくる。
「先輩……!」
 人違いだったらどうするのだろう、という早すぎるタイミングで由梨子は歓喜の声を上げ、ドアを開けた。既に着替えた後なのだろう。制服ではなく白のパーカーとスカートの上に、可愛らしいエプロンを付けている。そしてさらに下に視線を這わせると――黒タイツが!
「ええと……上がっても、いいかな」
「……はい。来てくれると、信じてました」
 由梨子に誘われるまま、宮本邸の中へ。そこでふと、芳香が鼻を擽り、おやと思う。
「クッキーを焼いてたんです。良かったら如何ですか?」
「丁度良かった。俺、腹ぺこなんだ」
「えっ……?」
 と、由梨子がはたと足を止め、振り返ってくる。
「ああ、……俺、今日は由梨ちゃんのお弁当しか食べてなくて」
 胃痛云々の話は抜きにして、自分の弁当を家に忘れたから――と、月彦は誤魔化した。
「そうだったんですか……。あんまり多くてもいけないと思って……」
「ああ、うん。由梨ちゃんが気にする事じゃ…………その、とっても美味しかったよ」
「あ……ありがとう、ございます」
 月彦は鞄から空の弁当包みを取り出し、由梨子に返す。素直に感想を述べただけなのに、由梨子は弁当包みを受け取るやぎゅうと両手で抱きしめ、顔を真っ赤にして下を向いてしまう。そのままくるりと台所の方に向き直り、ぱたぱたと早足に行ってしまった。
 月彦も、その後に続く。


 宮本邸のリビングは、中央に食卓用のテーブルが一つ。それを挟むように椅子が二つずつという、紺崎邸のそれと似た形をとっていた。
 月彦は手を洗った後、由梨子の勧めに従ってそのうちの一つに座り、てきぱきと動き回る由梨子の後ろ姿を見ていた。
(こういうの……なんか良いなぁ……)
 とっても新鮮だと、月彦はしみじみ和んでいた。一時期はあれほど猛らされた黒タイツへの妄執も何処へやら。由梨子から発せられる癒しのオーラにただただ身を任せるのみだ。
 ぴーっ、とオーブンから電子音が響き、内部の光りが消える。由梨子がオーブンを開けると、ふわりと台所中が芳香に満ちた。
「うー、良い匂いだ。涎出そう……」
 世辞でも大げさでもなく、月彦はそう思った。現に、先ほどから何度も唾を飲み込み続けている始末だ。
「もう少しですから、我慢してくださいね」
 由梨子は手に鍋掴みを填めて、オーブンの中から円形の二重構造になっている鉄板を取り出す。こんがりきつね色に焼けたクッキーを、フライ返しでキッチンペーパーを敷いた皿へと移していき、さらに同時進行で湯を沸かし、紅茶(だと思われる)の準備をする。何から何までてきぱきとこなせるのは、それだけ普段料理をやっているからなのだろう。
「出来ました」
 月彦の前に皿に盛られたクッキーとティーカップが置かれ、とぽとぽと紅茶が注がれる。さらに自分の分のティーカップにも注いで、由梨子は月彦の正面の席に座る。
「ど、どうぞ……多分、そんなに味は悪くないと……思います」
「……えと、じゃあ……いただきます」
 妙に畏まった形になりつつも、月彦はクッキーを一つ手に取り、口に放り込む。さくっ、となんとも小気味のよい食感と共にほどよい甘さが口いっぱいに広がる。市販のクッキーとは明らかに違う、手作りの味に涙すら滲んでしまう程だ。
「……どう、ですか?」
「…………滅茶苦茶美味しい。世辞じゃなく、生まれて初めてこんな美味いクッキー食べたよ」
「……ぁ……あ、ありがとう、ございます。……気に入って頂けて、その……嬉しい、です」
 素直に感想を言っているだけなのに、またしても由梨子は顔を赤くして下を向いてしまう。どうやら、料理を作るのは慣れていても、味を褒められるのは慣れていないらしい。
「……でも、よく作る時間あったね。クッキーって結構時間がかかる料理だと思ってたんだけど」
 由梨子が黙り込んでしまったので、月彦はなんとか場を和ませようと話題を振る。
「生地だけは、朝のうちに作っておいたんです。後は生地をのばして焼くだけでしたから」
「朝……弁当の準備しながらクッキーまで作るなんて、由梨ちゃんは凄いなぁ……」
 うんうんと感心しながら、紅茶に口を付け、クッキーを囓る。見れば、普通のきつね色のクッキーの他にも、チョコかココアを生地に混ぜたらしい黒いクッキーや、それらが合わさったチェック柄のクッキーなどが交じっている。チェック柄のクッキーなんてどうやって作るの?――などと、料理に関する質問でしばらく話題には事欠かなかった。
「っと、いけない――」
 最後の一つのクッキーに手を伸ばしかけて、月彦は慌てて手を引く。
「俺一人で全部食っちまう所だった……ごめん、由梨ちゃん、たった一個っきりだけど……」
 ずい、とクッキーが乗った皿を由梨子の方に向けて差し出す。
「全部食べてしまって大丈夫ですよ。元々先輩の為に焼いたんですから。……それに、まだ生地の残りがありますから、焼こうと思えばすぐ焼けますし」
「本当? …………本音を言えば、もう少し食べたい……かな」
 そっと、まるで母親の機嫌を伺うような目で由梨子を見る。苦笑しながら、由梨子が立ち上がる。
「そんなに気に入って頂けて、私も嬉しいです。すぐ焼きますね」
 由梨子は冷蔵庫からラップに包まれた生地を取り出し、てきぱきと準備に入る。その後ろ姿を見ながら、月彦は最後の一欠片を囓り、その甘さを噛みしめる。
「……そうだ!」
「はい?」
「由梨ちゃん、俺にも何か手伝えないかな」
「大丈夫です。一人で慣れてますから」
「……由梨ちゃんと一緒に、料理をしてみたいんだけど」
 ダメかな、とねだってみる。由梨子はほんの少し逡巡した後、照れるように微笑を浮かべた。。
「……じゃあ、生地の延ばしと型抜きを手伝ってもらっていいですか?」
「よしきた!」
 上着を脱ぎ、ネクタイを緩め、シャツの袖ボタンを外して腕まくりをして由梨子の隣に立つ――が。
「まずは手を洗ってからですよ、先輩」
 いきなり生地に手を伸ばそうとした手を、めっ、と止められる。その仕草が妙に可愛くて、月彦はつい反射的に抱きしめてしまう。
「えっ、きゃっ……せ、先輩?」
 由梨子の声で、月彦ははたと我に返る。
「……と、ごめん! す、すぐ手洗ってくるから!」
 逃げるようにして、わざわざ――先ほど由梨子に教えてもらった――洗面台まで行って、丹念に手を笑う。
「いかん、いかん……邪念は捨てろ、月彦」
 鏡を見ながら、まるで暗示でも掛けるように呟く。来る途中にスキンまで買ってしまっていることなどすっかり忘れて、月彦はあくまで純情ぶるのだった。


 突然の抱擁に面食らい、由梨子の思考回路は半ばショートしてしまった。手足から力が抜けてしまって、フラフラと座り込んでしまいそうになるのを、食卓の椅子をつかんで堪え――ようとしたのがまずかった。
「きゃんっ!」
 どったーん!――そんな音を立てて、椅子ごと派手に転んでしまう。慌てて立ち上がり、椅子を立て直して、一緒に床に落ちた月彦のブレザーを背もたれに掛け直す――その時、小さな包みが床に落ちた。
「……これは……?」
 薬局の包みであることはすぐに解った。大きさから目薬か何かと思って手に取り、ハッと一つの推測が念頭に浮かんだ。
 殆ど剥がれかかっているシールをそっと剥がし、包みの中を覗き見た――瞬間、慌ただしく月彦が戻ってきた。
「由梨ちゃん、今の音は――」
「な、何でもありません!」
 大あわてで包みを体の後ろに隠し、由梨子はぶんぶんと首を振る。
「そう? なんか凄い音が聞こえたんだけど……」
「き、気のせいじゃないんですか?」
「そんな筈はないと思うんだけど……あ、手は洗ってきたよ」
「あ……そ、そうですね。じゃあ……始めましょうか」
 月彦に背を向けないようにブレザーの掛かっている椅子に接近し、ポケットにそっと包みを戻す。中を見たのはほんの一瞬だったが、それが何であるか、由梨子にはすぐに解った。
「由梨ちゃん、どうしたの? ずいぶん顔が赤いけど」
「え……そ、それは……先輩がいきなりあんな事をするから、です……」
 抗議の視線を送って、由梨子はもう一度手を洗う。本当は、抱擁よりもスゴいモノを見てしまったからなのだが、言える筈もない。誤魔化しながら、由梨子は普段武士が使っている男物のエプロンを月彦に差し出す。
「それで、どうすればいいのかな?」
「そう……ですね。じゃあ、まずこの生地をのし棒で延ばしてもらえますか? ほどよい厚さになったら、この金型で型抜きして、鉄板の上に乗せて下さい」
 と、由梨子は二〇個ほどもある金型を見せる。
「抜くスペースが無くなったら、一度生地を丸めて、またのし棒で延ばして下さい。あ、最初に少し小麦粉を振っておいたほうが、棒に生地がつかなくて延ばしやすいですよ」
「なるほど。こんな感じかな」
「はい。じゃあ、そっちはお願いしますね」
 生地の方を月彦に任せ、由梨子は鉄板の上を一度クッキングペーパーで拭いてから、再度バターを塗る。その上に、月彦が辿々しい手つきで切り抜いたクッキーを並べていく。
「あ、先輩。金型は尖っている側を使うんですよ。端が丸くなっている方は、手を当てる方です」
「ああ、そうか。道理で切れ味が悪いと思った」
「すみません、最初に言うべきでしたね」
 苦笑しながら、由梨子は一生懸命型を抜く月彦を見る。こうして隣にならんで、一緒に作業をしているだけで楽しく、そして幸せだった。
 しかし、同時に不安にもなる。ひょっとして、楽しいのは自分だけなのではないか――と。
(本当は……先輩、エッチがしたいんじゃ…………)
 だから、スキンを買ってきたのではないか。由梨子も、年頃の男子はとにかくエッチがしたくてたまらないという話はよく耳にするし、実際彼氏持ちの女子から――写真すら見せようとしないから出任せの可能性も捨てきれないが――猿のように求められて鬱陶しいという愚痴も聞いたことがある。
(……先輩が、したいのなら…………)
 由梨子には断る理由はない。こうして二人きりの時間がとれる事自体希なのだし、ならばより濃密に繋がりたい――という欲求は由梨子にもある。しかし同時に、月彦と共にこのような“日常”を楽しみたいという想いもある。
 どちらの方が重要――という事ではない。ようは今現在、月彦がどちらを望んでいるか、それが重要なのだ。
 つまらない女だと、空気の読めない女だと思われたくない。由梨子には、自分が女性としての魅力で真央に著しく劣っているという負い目がある。故に、不安でたまらないのだ。
「こんな感じでいいのかな?」
「あ、はい。……えと、もう少し間を詰めた方がいいとおもいます。クッキーはパンと違って、そんなに生地が膨張しませんから」
「そっか、んじゃあもう少し詰めて……と……」
 月彦が辿々しい手つきで型抜きされたクッキーを寄せ、鉄板の上にスペースを作る。由梨子の目には、月彦も楽しんでやっている様に見えるが、それでも一縷の不安は拭いきれない。
(先輩は、優しいから……)
 自分に合わせてくれているだけなのではないか。本当は料理などやりたくもないのではないか。
「あ、の……先輩は、料理とか……好きなんですか?」
 不安に弾かれるようにして、ついそんな言葉を口にしてしまう。
「んー……家では殆どしたことないけど」
 やっぱり、好きではないのだ――と、由梨子が沈みかけた時、月彦が言葉を続けた。
「でも、由梨ちゃんと一緒にやるんなら、毎日でも良いかもなぁ……」
「えっ……」
 月彦と一緒に、毎日料理をする――そんな幸せすぎるシチュエーションをつい想像してしまい、由梨子は目眩すら覚えてしまう。ドキドキと高鳴る鼓動に、僅かずつだが不安の方も消えていく。
 単純な型抜きの方は月彦に任せて、由梨子の方はアイスボックスクッキー(チェック柄のクッキーの正式名称)の準備に取りかかる。一足先に型抜きを終えた月彦に、乾燥したフルーツゼリーやナッツ、チョコチップでの装飾などを提案しつつ、程なく二枚の鉄板両方に生クッキーの布陣が完了した。
 余熱を済ませておいたオーブンへと鉄板を入れ、蓋を閉める。
「後は焼き上がりを待つだけですね」
「うはぁ……待ち遠しすぎる!」
 涎を零さんばかりに声を上げる月彦に苦笑して、由梨子は余った生地をラップで包み、冷蔵庫へと仕舞う。
「どれくらいで焼き上がるの?」
「だいたい二十分くらいです。待つ間に後かたづけをしておくと、後々面倒が無いんです」
「なるほど、俺も手伝うよ」
「じゃあ、私が洗ったのを、ふきんで拭いて食器入れに移してもらえますか?」
 合点承知、と月彦は腕を捲り直し、由梨子と共に後かたづけを始める。二人の強みか、はたまた生地は既に作ってあったからか、さほどの時間もかからずに後かたづけは終了してしまう。
「まだ、結構時間ありますね。……どうしましょうか」
「え、どう……って」
 はたと、月彦と目が合う。途端、場の雰囲気が奇妙な変化を遂げる。
 しまった、と思った時にはもう遅い。二人して流し台の前で立ちつくし、互いに視線を合わせたり、合わせなかったりと挙動不審な有様だ。
 わざわざ“どうしよう”等と言うことはなかったのだ。先ほどまでのように、ごく自然に談笑をすれば、十分や二十分の時間はすぐに経つ。
「ええと……」
「は、はい……?」
「とりあえず、座ろうか」
「そ、そうですね……」
 月彦の提案に賛成しつつ、椅子に座る。が、しかしここでまたしても由梨子はミスをしてしまう。先ほどまで自分が座っていた対面席ではなく、月彦の隣に座ってしまったのだ。
 無論すぐにそのミスには気がついたが、かといって今から立って座り直すのも二重に失礼な気がする。先ほどまで口をつけていた紅茶のカップも手が届かず、由梨子はなんともばつが悪い思いをする。
(何とかしないと……)
 場の空気がどんどん重苦しいものへと変貌していく。なんとかしなければと由梨子は大あわてで思案を巡らせた。
「せ、先輩…………き――」
 そしてその結果。
「き?」
「キス……しませんか?」
 己の最も素直な欲求が口から出てしまった。えっ、と月彦が意外そうな声を出して、由梨子は途端に顔を真っ赤にする。
「ああ、いえ……その、ただ、待っているのも、アレですし……だから、あの、その……」
 何とか取り繕うとするが、全く取り繕えていない。むしろどんどんドツボに填っていくだけであると悟り、由梨子は頭の中が真っ白になる。
「……由梨ちゃん」
「は、はい……!?」
 月彦は何も言わず、少し椅子を引くと自分の太股の上をぽんぽんと叩いた。どういう事だろう、と由梨子は数秒頭を捻ったが、やがてその意味に気がつき、今度は耳まで赤くする。
「キス……するんだろ?」
「は、はい……じゃあ――」
 失礼します、と由梨子は席を立ち、恐る恐る、月彦の太股の上に腰を下ろす。丁度月彦の足と直角になるように座り、右手にはテーブル、左手には月彦の体、という形。
 遠慮がちに座っていた由梨子の肩がぐいと、月彦の右手に引き寄せられる。そして、そのまま唇を奪われた。
「んっ……!」
 少し、紅茶の味がするキス。しかしそれも初めだけ。唇を食むようにして舌を絡め、互いの唾液を吸い合う。――そんな大胆なキスになるのに、数秒もかからなかった。
「んっ、ちゅっ……んっ……あっ……んっ……んっ…………!」
 何度も、何度も。片方が唇を離したら、もう片方が追う。そのたびにキスの主導権が移り変わり、舌を吸い唇を舐め、くちゅくちゅと唾液が混ざり合う音が台所中に響く。
(あぁっ……先輩っ……!)
 月彦の体にもたれながら、由梨子は夢中でキスをする。じんと痺れるような快感が口元から全身に広がり、まるで体がとろとろのバターにされているかの様だった。
(先輩に……食べられてるみたい……)
 こうしてキスをしながら、自分の味を見てもらっているのだと。そんな錯覚すら、由梨子は覚える。ぎゅうと抱き寄せられ、補食される――しかし、それが幸福でたまらない。
 霧亜とも、そして円香ともしたことがないような濃密なキスの終わりは、無慈悲なオーブンの電子音によって訪れた。
「んっ……は…………」
 とろりと糸を引いて、どちらともなく唇を離す。そのまま押し倒されることをほんの少しだけ期待して、しかし実際は数秒と待たずに由梨子は立ち上がった。些か頼りなげな足取り、手つきでオーブンから鉄板を取り出し、皿にクッキーを移す。再び椅子に座った時には、月彦との間にきっかり計ったかのように拳一つ分の隙間。
 二人とも、しばし無言。目の前には、ほかほかと暖かいクッキーの山。そして少し冷めてしまった紅茶。
「じゃ、じゃあ……先輩」
「お、おう!」
「た……食べましょうか」
 うん、とぎこちない返事をして、月彦がクッキーに手を伸ばす。由梨子もまた、沈黙に堪えかねてクッキーを手にとったが、先ほどのキスの印象が強烈過ぎて味が全く分からなかった。
(どうして……私はあんな事を……)
 本当に唐突に、月彦の側に行きたくなって、そしてキスがしたくなって、ねだってしまった。今更ながらに、数分前の自分の行動の大胆さに由梨子は顔を真っ赤にする。
「……うん、本当に美味しいよ、由梨ちゃんのクッキー」
「そ、そうですか?」
「ああ。持って返って真――」
 と言いかけた所で、月彦がハッと口を噤む。
「ま、また明日も食べたいくらい美味しいよ、うん」
 慌てて言いつくろうが、由梨子には月彦が本当は何と言おうとしたのかがすぐに解った。“真央にも食べさせてやりたい”――恐らく、そう言おうとしたのだ。
「そんなにまで気に入っていただけて、私も嬉しいです」
 どこか渇いた声で、由梨子はそんな合いの手を入れた。月彦がほんの一瞬漏らしかけた、真央への気遣いの言葉。それが由梨子の胸に黒い澱を落としたのが原因だ。
 それは、俗に“嫉妬”と呼ばれる感情に他ならなかった。

 



  クッキーを食べながらの談笑に花が咲き、気がついてみれば時刻は六時前。外はもう日が落ちて、クッキーが無くなったのを一つの区切りとして月彦は立ち上がる。
「さて、と。もうこんな時間か……由梨ちゃん、今日はごちそうさま」
 今度は俺が何か奢るよ――そう言いながら、月彦は上着を肩にかける。えっ、と由梨子が珍しく大きめの声で疑問符を漏らした。
「うん?」
「あ、いえ……」
 由梨子もまた落ちつきなく立ち上がるも、視線をキョロキョロと奔らせ、言おうか言うまいか――悩んでいるようだった。
「先輩、ひょっとして今日……何か用事とかあるんですか?」
「いや、後は家に帰るだけだけど……」
 と、そこまで言った所で、鈍い月彦もさすがに由梨子が言わんとしている事が解る。
「ああ……ほら、あんまり遅くなると、真央が勘ぐるからさ。これくらいの時間なら、どうとでも言い訳できるし。俺も名残惜しいけど……」
「で、でも――」
 そう言いかけて、由梨子はハッと口を噤む。右手で、ぎゅっと左手を抱くようにして、何かを堪えるようなその仕草。
「……ごめんなさい。こんなに楽しい思いをしたのに、これ以上望んだら、罰が当たっちゃいますよね」
「いや、楽しかったのは俺の方もだよ。由梨ちゃんとたくさん話せて、一緒に料理できて、凄く……楽しかった」
 楽しい思いをしたのは二人とも同じ。そして自分には家に帰っても真央がいる。しかし、由梨子は一人。そのことを考えると、きっと真央とは楽しい時間は過ごせないだろう――そんな事を、月彦は思う。
「また、近いうちに遊びに来るからさ。それにほら、例の時計。あれも一緒に買いに行かないといけないし」
「そう、ですね。私、すごく楽しみにしてますから」
 精一杯笑顔を作って、明るい声を出そうとしているのだと解ってしまう。永久の別れというわけではない。ほんの十数時間、或いは一日二日の離別。であるのに、由梨子と離れるというのがまるで身を引き裂かれるように辛かった。そしてそれは、由梨子も同様なのではないかと思う。
「……由梨ちゃん。今日は本当にごちそうさま」
 これ以上話をしていたら、由梨子の顔を見ていたら、本当に帰れなくなりそうだった。鞄を手に、重い足取りで玄関へと向かい、靴を履く。
「じゃあ――」
「はい」
 振り返り、玄関マットの上に立つ由梨子に声をかける。由梨子も一言、返事を返しただけで、後に続く言葉はない。月彦はその場の空気に堪えかね、ドアの方へと体を向けた。
 ドアノブを捻り、開ける。外に踏み出そうとして――その足が止まった。
「由梨……ちゃん?」
 背後の気配と、腰に回された手が、月彦が外に出るのを阻害していた。月彦は外に出ようとする動作を止め、ドアから手を離した。
「……ごめんなさい」
 背中から、消え入るような声が聞こえた。
「ごめんなさい、先輩…………もう少し、もう少しだけ…………一緒に居てくれませんか」
「……解った」
 月彦はその場に鞄を置き、向き直って由梨子を抱きしめた。由梨子も、改めて月彦の背中に手を回し、きゅう、と抱きついてくる。
(……さっきのキスといい、今日の由梨ちゃんはいやに甘えるなぁ……)
 とはいえ、何ごとにも遠慮がち。真央と衝突したときは必ず最後に真央を立てる由梨子がそのように自己主張するからにはよっぽどなのだろう。ならば月彦としては、その想いに報いねばならない。
「……我が儘言って、ごめんなさい。先輩…………」
 月彦の胸に額を擦りつけたまま、由梨子が呟く。
「ん、これくらい我が儘でもなんでもないよ。……少しは落ち着いた?」
 はい、と由梨子は呟き、さらに額を擦りつけるようにして甘えてくる。
「今日の私……少しおかしい、ですよね。……自分でも、解ってるんですけど……」
「確かに、いつもとはちょっと違うかな」
 苦笑。でも別段悪い気はしない――その旨を月彦が口にするよりも早く、由梨子が次の言葉を紡いだ。
「……先輩。帰ったら……真央さんとエッチするんですか?」
「えっ……!?」
 由梨子の口から出たとは思えないストレートな言葉に、月彦はギクリと身を固くする。
「私、さっき見ちゃったんです。先輩の上着のポケットに……その、アレ、が……入ってるのを」
 ぎくぎくぎくぅ!
 反射的に左ポケットに手を入れ、包みを確認しながら、月彦は冷や汗をかく。
「真央さんと、するんですか……?」
「……多分、ね」
 嘘を突いても仕方がない。月彦は正直に答えた。
「……嫌、です」
「え……」
 ぎゅうっ、と由梨子の手に力がこもる。
「真央さんと、エッチして欲しくないんです」
「いや、でも――」
「私じゃダメなんですか?」
 顔を上げた由梨子の目には、涙が溜まっていた。
「私だって、女の子です。先輩が真央さんとしたい事の代わりくらい、私にだって出来ます」
 月彦は答えに窮し、ただただ狼狽するばかり。そんな月彦を見かねたよに、由梨子は再び月彦の胸に顔を伏せる。
「…………ごめんなさい、嘘です」
 殆ど涙声に近い声で、由梨子は続ける。
「私、そんなに欲張りじゃありません。先輩の気が向いた時だけ、相手をしてもらえたら、それで十分幸せですから」
 さっきのは忘れて下さい――そう呟いて、由梨子はぐりぐりと顔を月彦のシャツに擦りつける。まるで涙を拭くようなその仕草の後、ぴょんと軽いステップで離れ、玄関マットの上に戻った。
「すみません、私、ちょっと見苦しかったですね。もう立ち直りましたから大丈夫です」
 痛々しいくらい、文句のない笑顔。それが、月彦に一つの決心を起こさせた。
「えーと、由梨ちゃん?」
「はい?」
「今日は何時くらいまで一人なのかな」
「それは……少なくとも武士は、この間より帰りは遅いと思います。親も、多分同じくらいかと」
「そっか。……十分だな」
 人ごとの様に呟き、月彦は靴を脱ぐ。えっ、と戸惑いの声を漏らす由梨子を、まるで捕獲でもするように力強く抱きしめる。
「……帰るのは後回しだ。その前に……由梨ちゃんの部屋に行きたい。いいかな?」
 


「あ、あの……先輩、本当に、私はもう――」
 月彦に強引に背中を押されるようにして、由梨子は自室の中に入る。
「さっきのは、本当に違うんです。私はただ――」
 そこで、言葉が止まる。
 ただ――何なのか。
 クッキーを食べ終えて、月彦が帰ると言い出したときに由梨子の胸に湧いたあの気持ち。
 自分は二番なのだと。
 あくまで真央の次なのだと、そう自覚している筈だった。
 それなのに。月彦が持っているスキンが――自分にではなく、真央との行為に使われるものであると解ったとき、由梨子の心に黒い澱が沸いた。
 なまじ、自分との事に使ってもらえるものだとばかり期待してしまっていた分、そうではないと解った時の失望も大きかった。そして――なるべく考えないようにしていた――月彦と真央がそういう関係であるという事実が、スキンという媒介を通してリアルなものになってしまった。
 一度は、その気持ちを抑え込んだ。しかし、玄関で月彦を見送ろうとした刹那――心が決壊してしまった。
 本音、或いは弱音とも言える吐露。後悔はすぐにやってきた。ハッと我を取り戻し、取り繕ったがもう遅い。
(……先輩、少し……怒ってる…………)
 そう感じた。
 玄関での抱擁も、その後の部屋に上がる強引さも、由梨子の知っている月彦とは違うものだった。荒々しく、そしてどこか余裕がない。
(私が、あんな事を言ったから――)
 自分は二番で良いと。あくまで月彦が真央の側に居る事に疲れた時だけ、来てくれればいいと。そう言ったのに、我が儘を言って、引き留めてしまった。厄介で嘘つきな女だと思われたに違いがない。
 明かりのスイッチに手を伸ばした瞬間、由梨子は背後から抱きしめられる。ぎゅう、ときつく、息が詰まるほどに。
「由梨ちゃん、さっきの話なんだけど」
「は、はい……」
 耳に息が触れる程に、月彦の唇が近い。由梨子は頬を赤くしながら、次の言葉を待つ。
「あのスキンは、真央とエッチする為に買ったんじゃない」
「えっ……」
「由梨ちゃんの家に行く前に、もし……万が一って思って、買っただけだ。今日はたまたま、“そういう事”にならなかったから、そのまま持って帰ろうと思ってた」
 思ってた――その過去形に、由梨子は過敏に反応してしまう。
「俺だって男だ。女の子の家に、それも好きな子の家に行くときは、いやらしい事だって期待する。今日も、本当は由梨ちゃんとそういう事がしたくてたまらなかった。……少なくとも、ここに来て、由梨ちゃんに会うまでは」
「どういう、意味ですか?」
 それではまるで、自分と会ったからエッチをする気が失せた――そのように由梨子には聞こえた。
「どうでもよくなった――とでも、言えばいいのかな。確かに、由梨ちゃんに会うまでは、したくてしたくてたまらなかったけど、実際顔を合わせてみると、ただ側に居れるだけで、話が出来るだけで楽しかった。それで、満足してしまった」
「先輩……」
「だから、エッチはまた今度でもいいやって思ったんだ。……でも、気が変わった」
 えっ、という由梨子の声はひどく掠れた。尻と、背中の辺りに、ひどく固い、熱い塊が押しつけられる。
「由梨ちゃんと、エッチがしたい。無茶苦茶したい。……嫌だって言われても、襲っちゃいそうなくらい、したくてたまらないんだ」
 尻と背中に当たっている強ばりが、さらにグググと膨張する。そのあまりの力強さに、由梨子は悲鳴にも近い声を漏らしてしまう。
「い、嫌だって言っても、私……襲われちゃうんですか?」
 ドキドキと、胸が高鳴る。あの優しい月彦が、それほどまでに自分を求めてくれている――それが、由梨子には嬉しくてたまらない。
「嫌だって言っても、襲う。逃げようとしても、絶対逃がさない」
 ぎゅう、とさらに圧迫され、軽く爪を立てられる。あぁ、本当に逃がす気はないのだと、その力強さから嫌でも解る。
「……いい、ですよ。先輩になら……」
 由梨子はそっと、月彦の手の甲に己の手を重ねる。
「先輩になら、襲われてもいいです」
「……っ……由梨、ちゃん」
 ふうふうと、ケダモノのような息づかい。強ばりが、ぐいぐいと押しつけられて、由梨子も色めいた声を漏らしてしまう。
「んっ……!」
 抱きしめるだけだった手が、さわさわと由梨子の体をはい回る。パーカーをまくり上げられ、ブラごしに胸元をまさぐられる。
「え、先輩……きゃんっ……!」
 月彦にぐいぐいと押され、バランスを失う形でベッドに押し倒される。由梨子はなんとか仰向けに向き直ろうとするも、なかなか叶わず、尻にこれでもかとばかりに強張りを押し当てられ、顔が真っ赤になってしまう。
「んっ、ぁ……!」
 はむっ、と耳を唇だけで噛まれ、ゾクリと背筋が震える。そのままぞぞぞと舐められて、勝手に甘い声が出てしまう。
「ぁっ、ぁ…………せんぱっ……んんっ!」
 何とか体の向きを変えて仰向けになった途端、唇を奪われる。
(あぁぁっ、ああああああっ………………)
 ぞくぞくぞくっ……!
 ただ、キスをされただけだというのに、頭の奥がジンと痺れてしまう。まるで、麻酔針でも打ち込まれたかの様。全身で月彦の体重を感じながら、由梨子は己の体から一切の力が抜けていくのを感じた。
 くちゅ、ちゅくっ、ちゅっ……半ば無意識にキスに応じながら、由梨子は反射的にきゅっ、と足を閉じた。――しかし、そんな事で止まる筈もない。
「ん、ぁ…………」
 キスが終わり、火照った息が寒気に白く濁る。先ほどまで無人だった部屋は暖房など入っていない。なのに、由梨子はもう全身が熱くてたまらなかった。
「やっ……先輩……!」
 必死に閉じていた足を無理矢理開かされ、そこに月彦の体が割り込んでくる。由梨子は咄嗟に腰を引くような仕草をしたが、勿論それを月彦が許す筈もない。
「あぁぁっ……!」
 スカートの上から、強張りがぐいいっ、と押し当てられる。
「だ、だめっ……ンァあっ!」
 否、押し当てられるだけでは済まなかった。ぐいぐいと、スカートの上から擦りつけるように腰を使われ、由梨子は一際高い声を上げてしまう。
「せん、ぱい……だめ、です……そんな風に、されると……私、すぐ、に…………」
 ぐいぐいと強張りを擦りつけられるたびに、下腹の奥がじんと痺れ、由梨子の意志とは無関係に溢れさせてしまう。その量が、やや人並を外れてしまっていることをなまじ自覚しているから、由梨子は尚更恥ずかしい。
「お願い、です……先輩、……先輩の服、まで……汚れてしまいます、から…………んんっ……!」
 両手でなんとか月彦の動きを阻害しようとするも、逆に押さえつけられる。さらに乱暴にキスをされ、由梨子の“お願い”は途絶する。黙れ――そう、言われた気がした。
(……先輩は、怒って、たんじゃない…………)
 興奮しているのだと。猛っているのだと。由梨子は遅まきながらに気がつく。勿論、己が身につけているものの一つが、その興奮を大いに助長していることなど由梨子は知るよしもない。
「んんンっ!」
 キスをされたまま、パーカーが捲し上げられる。露出したブラをさらに上に押し上げられて、そこに月彦の手が触れる。
「んんっ、んんんっ、んっ……ぁっ、んんっっ!!」
 つんっ、と先端が尖っているのは、決して寒さの為だけではない。膨らみを掌で揉まれながら、先端をくりくりと弄られ、由梨子は口を塞がれたまま喉奥だけで噎ぶ。
 びくんっ、と勝手に背が弓なりに反り、腰が持ち上がった瞬間、ぐいぐいと強張りを押しつけられて反射的に月彦の腰に足を絡めてしまう。
「ぁっ、ぁっ……んぁっ、ぁっ……ぁぁぁぁぁぁ……!」
 唇が離れたかと思ったら、ちゅっ、と胸を吸われた。ちゅぱっ、ちゅぱっ、ちゅっ……尖った先端を特に重点的に舐められ、さらには唇に含まれぬりぬりと舌で嘗め回され、由梨子はもう声を上げることしかできない。
 はーっ……はーっ……そんなケダモノじみた息づかいは、もはや月彦だけのものではなかった。自分の口から漏れているのだと気づくも、もはや羞恥すら感じない。
「先輩……」
 きゅっと、月彦の背に手を沿える。ちゅぱ、ちゅぷっ……胸を嘗め回される度に、微かに喉を振るわせながら。
「私、もう……溶けちゃいそうです…………欲しい、です…………」
 由梨子にできる、精一杯の“おねだり”だった。ちゅっ……と、乳を吸っていた月彦が一端頭を離したかと思えば、もぞもぞと両腕が由梨子の背とベッドの隙間に潜り込んできた。
 あっ……と思ったときには、抱きしめられていた。強く、肺の中の空気すら、絞り出される程に。そして、キス。酸欠とキスの両方で頭がくらりとする。
(あぁ、ぁ……ぁ…………)
 息苦しさの中で、由梨子はまた溢れさせてしまう。それが思わずどきりとしてしまう程の量で、一瞬本当に漏らしてしまったのかと勘違いしてしまった。ジワリと、熱いものが黒タイツを伝っていくのを感じる。
 自分はひょっとしたら、そうされるのが好きなのかもしれない――或いは、好きにさせられたのかもしれないと、由梨子は思う。
(本当に……溶けちゃいそう……)
 足の付け根を中心として、下半身がトロトロにとろけてしまったかの様。絞り出されるようにして、たっぷりと愛液を溢れさせてしまった後で、抱擁は唐突に緩んだ。
「んっ……!」
 もぞもぞと、月彦の両手がスカートごしに尻をまさぐる。すぐにスカートが捲し上げられ、直に――といっても、黒タイツと下着ごしに――尻が揉まれる。
(やっ……そこ、は――)
 月彦の指が何度か、“触れられたくない場所”に触れて、その都度由梨子は身を固くする。びっ……と、何かが破れるような音が耳を劈いたのは、その時だった。
「えっ……」
 立て続けに、びっ、びっ……と音が聞こえる。黒タイツが破かれているのだと、由梨子は漸く理解する。
「あ、あの……先輩……んっ……!」
 破れたタイツの隙間から、月彦の指が侵入してくる。下着の下にまで指が潜り込み、尻を直に、揉まれる。
「ごめん、由梨ちゃん……」
 ふうふうと、荒い息の合間にそんな言葉。
「俺、もう……我慢できなくて…………」
「が、我慢って――」
「ちゃんと、弁償、する、から……」
 だから、破らせてくれ、と言わんばかりにまたびりっ、という音。
(先輩って、もしかして――)
 黒タイツフェチ――その推測に行き着いた瞬間、由梨子もまた顔を赤くする。今日は朝から履いていた。つまり……月彦はずっと我慢をしていた、という事になる。
(だから、こんなに……)
 前の時よりも、激しく求めてくるのだと。それは、嬉しくはあったが、僅かながらも由梨子の心中に怒りの感情を芽生えさせた。月彦が興奮していたのは由梨子自身ではなく、黒タイツなのだということに、奇妙な嫉妬が芽生えたのだ。
「……先輩、待ってください」
 尻を触る手を引き、微かに上体を持ち上げようとしていた月彦に、そんな声をかける。
「スキン……私につけさせてもらえませんか?」
 自ら月彦のブレザーのポケットに手を差し込み、包みを手に取る。照れの交じった笑顔を浮かべてはいるが、内心では、ささやかな復讐の計画が組み立てられようとしていた。


 特に断る理由もなく、月彦はの上にベッドに座って、由梨子のしたいようにさせてみることにした。――後に、凄まじく後悔することになるとも知らずに。
 由梨子がベルトを外す――途端、ぐんと自らの存在を誇張する剛直。由梨子は俄に怯えるような仕草をしたが、さすがにもう慣れたのか、悲鳴の類は漏らさない。
「……少し、濡らした方が……付けやすいですよね」
 えっ、と疑問符を上げるよりも早く、由梨子がぐいとトランクスのゴム部分をずり下ろし、剛直に唇を近づける。
「うぉあっ……!」
 本当にただ付けてもらうだけだと思っていた月彦にしてみれば、不意打ちに近い口戯だった。
「ん、く……」
 初手でいきなり先端部をくわえ込まれ、てろてろと口の中でたっぷりと嘗め回される。既に先ほどの黒タイツ破りでこれでもかという程に興奮が高まっていた月彦は、それだけで早くも達してしまいそうになる――が。
「んはっ……どう、でしょうか。もう少し……濡らした方がいいですか?」
 危うくイきそうになった所で、由梨子がついと唇を離してしまう。快感の供給が突如立たれた月彦のほうは、何ともむず痒いような焦燥感に駆られてしまう。
「あ、あぁ……もう少し、濡らしたほうが……いいかも……」
 最早、スキンを付けるというのは建前。由梨子の口でイきたいと思うも、それは口に出さない。――くすりと、由梨子が妖しい笑みを浮かべて、そして剛直に舌を這わせてくる。
「んっ……」
 ぞぞぞと、根本から先端まで舌先で舐めるようにして、唾液が塗りつけられる。しかし、それは先ほどされたような強烈な刺激とは違い、気持ちよくはあるが到底イける類というものではない。
「ゆ、由梨ちゃん……もっと……」
 由梨子の頭に手を這わせ、ほんの少しだけぐいと、剛直に押しつけるように力を込める。それで解って欲しい、この焦燥を感じ取って欲しいと、月彦なりのジェスチャアだった。しかし――。
「こんな感じで、大丈夫でしょうか」
 口戯を激しくするどころか、由梨子ははたと全ての動きを止めてしまう。
「も、もう少し……濡らしたほうが、いいんじゃないかな」
「そうですか?」
 包みを開き、スキンの箱を開けようとする由梨子に月彦は食い下がる。
「解りました。じゃあ、もう少しだけ濡らしますね」
 ああ、さすがはちゃんと機微が読める子だと、月彦はほっと安堵するのもつかの間。つっ、と唇が先端に触れたと思った時には、いきなり深くくわえ込まれる。
「うっっ……っくっ……」
 ぬぷっ、ぐぷっ。
 くぐもった音を立てながら、由梨子がゆっくりと頭を前後させる。飲み込まれる時は、由梨子の唇と舌の感触にゾワリと背筋が冷えるほどに気持ちよく、引き抜かれる時は強烈な吸い付きがたまらない。
「ゆ、由梨ちゃん……俺、もう……出――」
 と、そこでまたしても唇を離される。あとほんのちょっとでイけるのに!――というギリギリの所で口戯をやめられ、月彦はぎこちない悲鳴を上げる。
「……これでもう、ばっちりですよね?」
 剛直には、滴らんばかりに唾液が塗りつけられている。確かに、最早文句の付け所はない。――が。
「どうしたんですか? 先輩」
「……い、いや……」
 口で最後までしてほしい――何故かその一言が言えず、月彦は引き下がってしまう。
(……それに、付けたら付けたで………………)
 別に悪い事があるわけでもない。月彦は改めて、由梨子の姿を見る。白のパーカー(半脱ぎ)にスカート、そしてその下には……所々円形に破れて肌が露出した黒タイツ。
 その光景にごくりと、生唾を飲まざるを得ない。
「……付けますね」
 箱から連なった袋を取り出し、破く。薄い黒色をしたスキンがぬうっ……と剛直に取り付けられる。スキンのサイズについては申し分ない。何故ならば、雪乃が持っていたものと同じものを買ったからだ。
(さあ、これで――)
 じゅるりと、涎をたらさんばかりの勢いで由梨子ににじり寄る。血走った目はもう由梨子にではなく、破れた黒タイツに釘付けになっていた。
「じゃあ、私も脱ぎますね」
「なっ……!」
 由梨子がさも慣れた手つきでスカートのホックを外し、足を抜く。そこまでは、良い。問題はその後。黒タイツまで脱ごうとした所だ。
「ま、待って……由梨ちゃん!」
「はい?」
 と首を傾げつつも、由梨子は黒タイツに手をかける。
「…………それは、脱がなくてもいいんじゃないかな」
「どうしてですか?」
「いや、だって……ほら、ね……」
「脱いだらいけない理由でもあるんですか?」
 ぐいっ、と太股の辺りまで下ろされ、月彦は慌てて止める。
(やばい、由梨ちゃんちょっと……変だ……)
 今頃になって、月彦も気がつく。先ほどから、妙に由梨子が意地悪であるということに。
(もしかして、破いた事怒ってるのかな…………)
 黒タイツへの興奮が急速に収まり、代わりにハラハラと不安が増大する。考えてみれば、いくらなんでも破るのはやりすぎだと、今更ながらに後悔する。
「先輩……ひょっとして、黒タイツ好きなんですか?」
「うっ……」
 いきなり正鵠を射抜かれ、月彦は戸惑う。
「……うん、実は、好きなんだ」
 破ってしまったばつの悪さも相まって、月彦は素直に頷く。
「そうなんですか。私とエッチしたいって思ってくれたのも、私がこれを履いていたからなんですね」
 一転して、拗ねるような口調。やはり、由梨子は怒っているのだ。
「いや、それは違う! 黒タイツだから、じゃなくて、俺は由梨ちゃんだから……」
「じゃあ、脱いでもいいですよね?」
「うぐっ……」
 痛恨の一撃だった。
「わ、解った……脱いでも、いい…………」
 そう責められては、月彦はもう全面降伏だった。先ほどは“嫌と言っても襲う”などと強気に出たが、本当に嫌がるのを無理に襲うほど人面鬼畜ではなかった。
 がっくりと肩を落とす月彦の肩に、そっと由梨子が手を乗せる。うん、と顔を上げたところで、ちゅっ……と優しくキスをされた。
「……冗談です。先輩がそんなにしたい、って言ってくれてるのに、私が脱ぐわけないじゃないですか」
「えっ……いや、でも……」
「先輩があんまりにも黒タイツに拘るから、少し意地悪してみたくなっただけなんです。……ごめんなさい」
 そう言って、由梨子は身を寄せてくる。月彦の右手を取って、自分の太股の辺りに沿える。
「好きなだけ破いていいですよ。どうせもうお古で、近々捨てようとおもってたものですから」
 いや、それは嘘だと月彦は思った。色、艶共にそんなに古い代物ではない。恐らくは、今冬新しく買ったものだろう。それは月彦にも解ったが、あえて由梨子の言葉を信じるフリをする。それが由梨子の気遣いに報いることだと信じて。
「それに、私……もう、さっきから限界で…………その、脱ぐまで、待てそうに、ないです、から……」
 太股に添えられた手が、さらに由梨子に導かれて、足の付け根――ショーツの辺りへと誘われる。直接触れなくても解る程に、その辺りはひどく湿気を帯びていた。その月彦の指先に、由梨子が自らタイツ越しにショーツを擦り当ててくる。
(うわ……)
 こしゅっ、こしゅと指先にタイツの湿った生地が擦り当てられ、月彦はごくりと唾を飲む。由梨子自身もそのような真似をしてしまう自分に驚き、そして恥じているのか、顔を真っ赤にして、それでも尚、擦りつけてくるのを止めない。
「由梨ちゃん、そんな事、したら……」
 折角、落ち着きを取り戻しかけていたのに。前の時みたいに、“普通のエッチ”が出来そうだったのに。そんな事をされてしまっては。
「いいんですよ、先輩。…………ケダモノに、なっちゃってください……」
 きっと、深い意味があって言った言葉ではないのだろう。怖じ気づくように動きを止めた月彦をなんとか焚きつけたくて、ケダモノ、という単語を使ったに過ぎない。――しかし、それがスイッチになった。
 きゃあっ、という悲鳴。同時に月彦は強引に由梨子をベッドに押し倒し、足の間に体を割り挿れる。
「せ、先輩?……っきゃっ……!」
 さらに黒タイツの太股の辺りを掴み、力任せに破る。ビィィ、と何度も鋭い音がして、太股周辺と、そしてショーツ部分が露出する。
「ふーっ……ふーっ……」
 月彦は鼻息荒く、文字通りケダモノのようにショーツの上からスキンに包まれた剛直を押しつける。ぐいぐいと、まるで何故入らないのかが解らない――とでも言うかのように、強引に擦りつけ、そして漸く、ショーツを横にずらすという知恵が働く。
「……せ、先輩……あの、ええと…………ぁっ……やっ…………んんンッ!!」
 ぐっ、と先端部を押し込む。由梨子の悲痛めいた声を聞きながら、月彦はさらに剛直を押し込んでいく。
「やっ、ひっ……せんぱっ……も、ちょっと……ゆっく…………んぁああッ!!!」
 制止をせがむように、由梨子が胸板を押してくるのをものともせず、月彦は己の衝動のままに剛直を根本まで押し込む。
「ひっ……ぁっ、ぁっ…………!」
 剛直から逃げようとするかのように、背一杯に体を弓なりにする由梨子の腰を掴み、小癪なとばかりにぐりぐりと膣奥を擦る。
(すっげぇ……気持ち、いい…………)
 ひくっ、ひくと締め付けてくる由梨子の膣肉の感触をスキンごしに感じながら、月彦は俄に理性を取り戻す。気がつけば、眼下の由梨子は、はっ、はっ……と浅い呼吸を繰り返し、目尻に涙すら浮かべていた。
「ごめ、ん……由梨ちゃん……痛かった?」
「いえ……痛くは、ない、んです、けど――」
 もう少し優しく――その言葉は「動くよ」という月彦の言葉に飲み込まれた。
「んっ! ぁっ……せんっ……ぱっ……あんっ、ぁっ、ああっ、あっあっ……」
 由梨子の腰を掴んだまま、月彦はゆっくりと腰を使う。少ない理性を総動員して、なるべく由梨子を労るように。そして――黒タイツを見ない様に。
(見たら……また理性が吹っ飛んじまう……)
 所々破れ、円形に白い肌が露出した黒タイツは凶器だ。ある意味、真狐の乳と同等かもしれない。
(ただでさえ、由梨ちゃんのナカ……気持ち良すぎなのに……)
 体格の差か、由梨子の膣は真央のそれよりも狭く感じる。その機構的限界も相まって、ただでさえキツい締め付けが余計にキツく感じてしまうのだ。
「あっァッ! あんっ……ぁっ……せん、ぱい……ン! ぁっ……き、気持ちいい、です、か? あっ……ぁっ……」
 愚問、、としか言いようのない質問を、辿々しくも由梨子が漏らす。
「……あぁ…………由梨ちゃん、のナカ……すっげぇ、いい…………」
 例えスキン越しであっても、そのようなものはいくらでも脳内で誤差修正が可能だった。
「由梨ちゃんは、……どう? もし、痛かったら、すぐに――」
「わ、私、はっ……んっ……ぁっ……あんっ! そん、なの……うっ……い、言わなく、ても……ンッ! はっ、ぁ、んっ……あんっ!」
 前後させるだけだった腰の動きを、微妙にグラインドを混ぜるようにしながら、月彦はベッドに肘を突き、そっと由梨子の頬にキスをする。
「言わなくても――じゃなくて、由梨ちゃんはどうなのか、はっきり聞きたいな」
「やっ、せん、ぱい…………ぁっ……!」
 催促をするように、くりくりと由梨子が敏感な乳首を弄る。
「ぁっ、ぁっ……っ……き、気持ちいい、です……先輩、のっ……にっ、あぁっ! いっぱい、んんっ!!! ぁっあっっッ、ひっぃ……!!!」
「俺のに、何?」
 ぐぷっ、ぬぷっ……。
 態と卑猥な音が出るように腰を使い、催促。由梨子にもそれが解るのか、耳まで顔を赤くする。
「いっ、やっ……せ、先輩っ……そんな、風に――ぁうッ!」
「そんな風にもなにも、由梨ちゃんがすっごい溢れさせるから、音が出ちゃうんだけど」
 ううぅ、と由梨子がさらに顔を赤くして泣きそうな声を出す。
(少し……悪のりし過ぎたか……)
 すぐ溢れさせてしまう体質は、自分が思っている以上に由梨子にとってコンプレックスらしい。
 月彦は慰めの意味も込めて、由梨子の目尻にそっとキスをし、溜まっていた涙を舐め取る。
「ぁ、せん、ぱい…………んんっ……!」
 由梨子に視線でキスをねだられ、月彦はその通りにする。ちゅく、ちゅくと舌と唇を絡め合いながら、剛直を何度も由梨子の中に打ち込んでいく。
「んっぁ、んはっ……んっ……んんんン!!」
 キスをしながらも、由梨子の反応をつぶさに観察し、弱いところを捜す。そして、そこを重点的に責める。
「んぁっ……やっ……先輩、そこ、はっ……あぁあっ!!」
「うん?」
 ぬぐっ、ぬっ……惚けながら、さらに剛直を押し当てる。
「せ、せん、ぱっ……そこ、だめっ……あっっ、やっっ……あっ、うっ……あっ、あぁっ、あっ……!」
 由梨子の手が、シャツの背中を掻きむしってくる。そのただならぬ変化に、月彦の方までゾクゾクと快感が高まってくる。
「由梨ちゃん……イきそう?」
 由梨子が弱いところばかりを責めながら、尋ねる。一瞬の逡巡、そして羞恥――しかし、由梨子は控えめに、こくりと頷いた。
「……良かった、俺も、もうかなりヤバい…………」
 月彦の方も、余裕ぶった仮面が剥げかけ、腰の動きが徐々にせっぱ詰まったものに変わる。
「あっ、ぁっ……んんっ! ひっ、ぁっ、せん、ぱい……先輩っ……!! ぁっ、ひっ、ぃっ……ぁっ……うんっ、 あっ、あぁぁっ! ぁっ、……あんっ!! あっ、あっ…………!」
「んっ……大丈夫だから。イく時は……ちゃんと、一緒に――」
 だから、由梨ちゃん早くイッてくれ――そんな情けない事を思いながら、月彦は今にもイッてしまいそうなのを我慢する。本来ならばとうに果ててもおかしくない程の快感だったが、そこはそこ、後輩に対する最後の矜持で月彦は踏みとどまる。
(真央相手だったら、中出しすれば確実にイくんだが――)
 だから、我慢などする必要はない。しかし、由梨子は違うだろう。先輩として、きちんとイかせてやらねばと、月彦は射精を我慢する意味でもぎゅうっ、と由梨子の体を強く抱きしめる。
「んんっ……ぁっ、せんぱっ……やっ、ぅっ……それ、だめっ……ぁっ……ぁっ、やっ……ぁっ、だめっ、だ、めっ……ぁっ、やっ……ぁああっあっ、ああぁあああァァッ!!!!」
「っっっ…………くっ、はッ――……由梨、ちゃ……俺、も……!!」
 びくんっ。
 由梨子の膣が尋常ならざる収縮をした刹那、月彦もまた果てた。
「うっ、くっ……は、ぁっ……ぁ……!」
 まるで何かから庇うように、両腕で由梨子を抱きしめながら、月彦は射精の快感を堪能する。とはいえ、やはりスキンをつけているといつもの中出しとは具合が違い、なんとも奇妙な違和感は感じずにはいられない。
「う、あ……やべぇ……すげえ……出てる…………」
 ひょっとして漏れたり、或いは破裂してしまうのではないかという危惧から、月彦は押し込んでいた腰を徐々に引いていく。同時に、抱擁(というより拘束に近かった)から由梨子を解放する。
 由梨子はかくんと、力無くベッドの上に項垂れた。
「……? 由梨ちゃん?」
「え……?」
 月彦に声をかけられて初めて気がついた――或いは目覚めた、というくらい、気怠い声だった。
「ぁっ、わた、し…………今……」
 焦点があやふやな目。しばしの逡巡のあと、漸く意識がはっきりとしたらしい。
「ぁっ……すみ、ません……ちょっと、意識、飛んじゃった、みたい、で…………」
「……きつく抱きしめすぎたかな」
 それで酸欠になってしまったのでは、と月彦は心配する。
「いえ、その……息苦しかったからじゃ、なくて…………」
 気持ちよすぎて――と、いつもの小声で由梨子は呟く。
「うん……俺も、凄く……良かった」
 ベッドの上で、再び体を重ね合い、優しいキス。ちゅっ、ちぅ……ちゅっ……互いに絶頂の余韻を楽しむかのように。時を忘れて、唇を重ね続けた。



 キスが終われば、月彦はもう帰ってしまう――そんな想いが、由梨子に執拗にキスをねだらせ続けた。とはいえ、それでも永久にそうしているというわけにもいかない。
(……嫌だ、もっと……先輩と一緒に居たい…………)
 その衝動は、不思議と前よりも強く。抑えがたいものとして由梨子の胸中に居座り続ける。だが、それでも由梨子には……体を起こそうとする月彦を引き留めることは出来なかった。
(先輩が、帰ってしまう…………)
 その由梨子の想いは、ある意味杞憂に終わった。というのも――
「由梨ちゃん……少し待ってて。すぐ、新しいのつけるから」
「え……?」
 月彦の言葉の意味がすぐには分からなかった。それがスキンの事を示しているのだと、月彦の行動で解った。
「せ、先輩……あの……」
 まだ、するつもりなんですか――その言葉は、唾液とともにごくりと飲んだ。
 嬉しさ半分、残りの半分は不安と驚きが半分ずつ。由梨子は顔を赤くして、おろおろとただ狼狽するばかり。
(また、さっきみたいに………)
 意識を飛ばされるまでイかされるんだ――僅かな恐怖と、それよりほんのちょっぴり多い期待。じゅんっ……と、由梨子はまた己の内側がとろけてくるのを感じる。
「……さてと、由梨ちゃん」
「は、はい……」
 準備万端とばかりに振り向く月彦に、由梨子は些か怯えるような声を出してしまう。
「今度はさ、由梨ちゃんが上になってみてくれない?」
「え……私が、ですか?」
「うん。由梨ちゃんがしたいようにしてみて」
 月彦はごろり、と仰向けに寝そべってしまう。
(どうしよう……)
 由梨子は逡巡した。月彦がまだ居てくれるというのは、嬉しい誤算だった。しかし、自分が上になるというのは、男性経験に乏しい由梨子には些かハードルが高かった。
(でも、先輩の為なら……)
 やるしかなかった。由梨子はベッドの上で膝立ちになり、恐る恐る月彦の腰を跨ぐ。
「んっ……くっ……」
 ぐんっ、と臍の方を向いている肉柱を掴み、ショーツをずらして秘裂に宛う。ちゅく、と先端部が触れた時の感触で、またどれほど自分が溢れさせてしまっているかを自覚し、由梨子は顔を赤くする。
「そのまま、腰を落として……」
「は、はい……ぁ、ぁっ、ぁっ……!」
 月彦の誘導に従い、由梨子は腰を落とす。が、あまりに巨大な肉塊になかなか作業は捗らず、逆に太股の方ががくがくと震えて体を支えきれなくなる。
(ぁ、やっ、だ、だめっ……!)
 突然、足から力が抜け――ごちゅんっ、と。肉柱の根本まで一気に腰を落としてしまう。
「かっ……ひッ……!」
「由梨ちゃん、大丈夫?」
 大丈夫です――という言葉は、声にならなかった。由梨子はすぐさま両手を月彦の胸につき、それを支えにして俄に腰を浮かす。
「はぁっ……はぁっ…………せ、先輩の……大きすぎ、です………………」
「ご、ごめん……」
 由梨子にしてみれば、体を串刺しにされているような心持ちだった。愛しい相手の体の一部でなければ、拷問と言っても良いほどに、その質量は暴力的に由梨子の体を圧迫していた。
「頑張って小さくする……って言いたい所だけど……由梨ちゃんが相手だと、無理かな…………」
「……こんなの、で……いつも、され、たら……私、壊されちゃいそうです……」
 誇張ではなく、由梨子は本当にそう思った。月彦のそれは、未成熟な由梨子の体に比べてあまりにも暴力的過ぎるのだ。
「ええと……動けば……いいんですよね……」
「うん」
 焦れったそうな、欲しいモノを強請りたいが言えない――そんなもどかしそうな月彦の顔を見ていなければ、とても出てこない言葉だった。由梨子はゆっくりと、腰を動かし始める。
(ん、ぁ……かた……い…………)
 ぐんっ、と聳える肉柱の硬度は凄まじく、下腹に力を込めなければ動かせない程だった。それでなくとも、常に臍の方へ臍の方へと突っ張られて、軽く身じろぎをしただけでも由梨子は甘い声を漏らしてしまう。
「はっ……あんっ……」
 軽く、前後に揺するだけの動き。互いの恥毛をすりあわせるような仕草。はっ、はっ……と小刻みに肩を弾ませながら、由梨子なりに精一杯動く。
「んっ……いいよ、由梨ちゃん……続けて」
「は、い……んっ……ぁっ……ぁっ…………ぁっ…………」
 言葉とは裏腹に、焦れったそうな月彦の顔が、由梨子を焦らせる。開いた足、太股の上のあたりに当てられた月彦の手が、時々何かを我慢するようにぐっと力が込められる。
(もっと……動かなきゃ……)
 快感を得たい――というよりは、月彦に感じて欲しい。その衝動が動力源となって、徐々に動きを大胆なものにしていく。
「あっ、あっ……ぁっ、うっ……ぅっ……!」
 前後させるだけだった動きに、ひねりが加わる。そうしようと思ってやったわけではない、半ば無意識的な動き、本能だ。そうすればより快感が得られる事を、体が知っている。
「んっ……!」
 ずり落ちてきたパーカーが、再び月彦の手によって捲し上げられ、胸元を触られる。いっそ脱いでしまおうか――そう思うも、意識が下半身の方にばかり向かって、次第にどうでもよくなってくる。
「っ……由梨ちゃん、もう、いいよ。……動き、止めて……」
「え……?」
 月彦に制される形で、突如由梨子は腰の動きを止める。
「考えてみれば、今日でまだ二回目だもんな。……いきなり無理言ってごめん」
「あ、あの……私、まだ、大丈夫です……」
 こんな形で中断されるのは嫌だと、由梨子は珍しく自己主張をする。――しかし、それもまた杞憂に終わった。
「いや、そういう意味じゃなくて……」
 月彦が、ぐっと上体を起こし、あぐらをかくようにしてその上に由梨子を乗せる。
「え……」
「今日はやっぱり、俺が動くって事。……由梨ちゃんにリードしてもらうのは、また今度の楽しみにする」
 月彦の両手がさわさわと尻を掴んでくる。その動きに、由梨子はびくりと震え、途端に身を固くする。
「……前から思ってたんだけど」
「は、はい……?」
「由梨ちゃんって……もしかして、お尻……弱い?」
 かぁっ、と頬が上気する。
「ち、違います! 弱くなんて、ない、です……」
「本当に?」
 月彦の指が蠢き、ショーツ生地の上からその場所を探り当ててくる。由梨子が最も触れられるのが恥ずかしい場所を。
(どうして、先輩まで……)
 と、由梨子は思わざるを得ない。姉弟そろって同じような結論、同じようなことをやってくるというのは、血なのか。それとも……本当にそのように見えてしまうのか。
(お尻、なんて……)
 ショーツの生地越しに触られているだけでも恥ずかしくてたまらない。見られたり、ましてや直接触られたりした時には――。
「ンッ……せん、ぱい……だめ、です……そこ、触らないで、下さい…………」
 はあはあと、自分がどれほど切ない吐息を漏らしているかも自覚せずに、由梨子はそのような事を言う。
「どうして?」
「ど、どうしてって…………」
 汚いですから、と由梨子はそれこそ玉の入っていない鈴の音のような声で呟く。
「由梨ちゃんの体で、汚いところなんてあるもんか」
「で、でも……うっ……!」
 月彦の指がショーツの下に潜り込み、直にその場所を撫でてくる。由梨子は羞恥の余り絶句し、顔を月彦の胸に埋めるようにして身を固くする。
「だめ、です……先輩…………そこ、触られるの……本当に、恥ずかしいんです………………」
「恥ずかしくて、嫌?」
 卑怯な質問だと思った。月彦に触れられて、嫌な事など有るはずがない。嫌でもないのに、嫌だと言えるほど器用でもない。
「……由梨ちゃんは正直だな」
 手が、ショーツの中から消える。代わりに、両手で尻を持たれて、ぐっ……と体が持ち上げられる。
「んっ……! あっ……!」
 こちゅっ、と揺さぶられる。そのまま、こちゅこちゅと、上下に揺すられ、由梨子はその都度吐息混じりに声を漏らす。
「さっきまで随分苦しそうだったけど、お尻触ってから少し声の質が変わったね」
「っっ……そんな、ことは……あんっ……!」
 体を持ち上げられ、急に落とされて、由梨子はまた声を上げてしまう。
(ぁ、また…………)
 さわさわと、ショーツの上から撫でられる。由梨子の意識がそちらに行きかけると、今度はぐんっ、と剛直が押し込まれる。
「あっ、ぃ……!」
「……由梨ちゃん、気づいてる?」
 少し、月彦の声は意地悪な響きを含んでいた。
「こうやってお尻触ってる時、由梨ちゃんすっごいハァハァ言ってるよ」
「っっっ……!」
 嘘だと否定しようとした――しかしその言葉は、甘い声に変わりそうになって、由梨子は咄嗟に唇を噛んで押し殺した。
「それに触ると、由梨ちゃんの中もキュウッって締まって、俺も凄い気持ちいい……」
 だから触りたいんだとばかりに、月彦は先ほどよりも大胆にショーツの中に指を忍ばせてくる。
「だ、だめです……先輩、こんなの……普通じゃ、ないです…………」
「普通? 由梨ちゃんは俺以外の男とエッチした事あるの?」
「そ、それは――」
「普通男は、好きな女の子の裸は全部見たいって思うもんだし、余す所なく触れたい……って思うものなんだけどな」
 じゃあ、真央さんにも――と、由梨子は言いかけて口を噤む。それは、タブーだ。今、この時に限っては。
「だから、俺は触りたい。……その方が由梨ちゃんも気持ちよくなれるみたいだし」
「わ、私は……そんな、変態じゃ――ウッ……!」
 つぷっ、と月彦の指先が侵入してきて、由梨子の言葉を途絶えさせた。
「やっぁっ、ぅ……せ、せんぱ…………だめ、です……うっ、く……」
 ぎゅうっ。
 両手を月彦の背に回し、肩に指を引っかけるようにして由梨子はしがみつき、その“侵入”に堪える。
「ほら、やっぱり。……すっごいハァハァ言ってる……」
 指摘されて、気がつく。慌てて由梨子が呼吸を抑えると――
「あぁぁぁっ、あっひっぃ……ぁっ……! やっ、ゆ、び……ぁあっ……!」
 指が、由梨子の中に侵入してくる。
(やっ……霧亜先輩のより…………!)
 そして、気がつく。あの時、霧亜はなんと言っていたか。“由梨子が一番恥ずかしい場所で、一番感じられるようにしてやる”――そう言っていなかったか。
(まさ、か――)
 そういう風にされてしまったのではないのか。自分はこんな、尻を責められて感じるような変態ではない筈だ――その思いが、余計に霧亜の仕業であるという可能性を強める。
「っ……本当に、由梨ちゃんお尻弱いな……ぎゅうぎゅう締め付けられて……俺の方も、なんだか……っ……」
 止まっていた腰の動きが再開する。両手で尻を持たれたまま、ずんっ、ずんと突かれ、さらに尻を持つ手の指の一つが尻穴を刺激し、由梨子はもう蕩けた声を上げることしかできない。
「ひっ……んっ! せ、先輩……やっ……ゆ、び……指、ぬい、て……あんっ! ぁっ……ぁあっ、あっ……ひっ……ぁっ……やああっ、そん、なっ……深く、ぁぁぁあぁぁ……!」
 ぞぞぞぞぞ……!
 下半身から突き上げる抗いがたい快楽に、由梨子は身をよじって堪える。
(い、や……こん、な……違う、違う……!)
 月彦の指から逃げようとすればするほど、逆に剛直を深くくわえ込む形となってしまう。反射的にぎゅう、と締め付けると、尻を掴む月彦の手にも力が籠もる。
「っ……由梨、ちゃ……俺、もう……――」
「んっ、ぁっ……せんぱっ……あんっ!」
 ぐっ、ぐっ、とまたしても由梨子の弱いところばかりを攻められる。
「あっ、あぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁっ…………!!!」
 由梨子はもう腰砕け。訳も分からず月彦にしがみつき、指での愛撫と剛直の動きにただただ甘い声を漏らし続ける。
(やっ……溶け……ちゃう…………)
 快感と羞恥に理性をトバされ、本能のままに由梨子は自ら腰をくねらせる。うおっ、と月彦がただならぬ声を上げたが、最早由梨子の耳には届かない。
(あぁっ……先輩っ……先輩っ……!)
 捻るように腰を動かし、さらにくいくいと前後させ、己がもっとも弱い――つまり、ゾクゾクするほど快感が得られる場所に擦り当てる。
「あぁあっ! あんっ、あっ、あっあっ……あぁぁっ……せんっ、ぱいっ……ぁああっ……!」
「っ……ちょっ、っ……くぁっ……ま、マジかっ…………由梨、ちゃっ……こ、腰、そんなに……っ……」
 月彦の動きが、唐突に止まった。ただただ、何かを堪えるようにぎゅう、と由梨子の尻を掴んだままだ。
(い、やっ…………もっと……欲しいっ…………)
 白く粘っこい霧のかかった頭で、由梨子は漠然とそんな事を思う。とろりと潤んだ目で月彦の顔を見上げ、自ら腰を振って、快感を貪る。
「や、ヤバいって……由梨ちゃんっ、それ……んっ!」
「んんっ!」
 本能のままに、両手で月彦の首を絡め取り、唇を重ねる。そのままくいくいと腰を動かし続けると、唐突に――何かが爆ぜた。
「んぁあぁァッ!!!」
 途端、由梨子は唇を離し、大声で喘いだ。
 びゅくっ、びゅくっ、びゅるんっ……!――体の内側で何かが凄まじい勢いで爆ぜ、膣壁を押し返してくる。
「あぁぁあっ、ぁっ、ぁぁあっ! あっ……ひっ………ぁあああうッ…んっ……! ぁ…………ぁっ…………」
 そのうねりを受けて、由梨子もまた――それを自覚する余裕も無かったが――イく。ぎゅうっ、ぎゅうと搾る取るように締め付け、腰をくねらせた後、糸が切れたように脱力して月彦の体にもたれ掛かる。
「はーっ………………はーっ……………………はーっ………………」
 甘味が全身に行き渡るような途方もない快楽、そして余韻。びゅくっ、と最後に剛直が脈動した後で、ようやく月彦の――由梨子の尻を掴み、ぐいっ、と剛直を押しつけていた――手が緩んだ。
「く、はっ…………暴発しちまった…………」
 月彦もまた、ぜえぜえと荒く息をしながら、それでも脱力してずりおちそうになる由梨子の体を抱き留める。
「はぁ……はぁっ…………由梨ちゃんって、時々……大胆、だよな、うん……」
 後ろ髪を撫でられ、ぽんぽんと軽く背中を叩かれる。が、しかし未だ絶頂の余韻に酔いしれている由梨子の意識は、その言葉を理解する事が出来ない。
「さっきの由梨ちゃん……無茶苦茶エロかった………………ヤバいな…………」
 由梨子の意識が漸く思考が出来るレベルにまで回復する。何が“ヤバい”のだろうか――由梨子がそんな事を思った時、ぐっ、と尻を掴む手に力がこもる。
「もう、帰らないといけないのに…………俺、もっと由梨ちゃんとしたくなってきた」
「……え?」
 勿論、ケダモノモードに入りかけている月彦を前に、腰砕けになっている由梨子に抵抗する術など有るはずがなかった。
 


 

「んァァアアっ!!! あああっあっ、ひ、ぃっ……ぁっ、ぁああああっああァッ!!!」
 由梨子が全身を震わせ、部屋の壁に響く程の声を上げ、イく。月彦は由梨子の中でたっぷりと――勿論スキンの内側に――射精しながら、痙攣にも似た締め付けを十分に堪能してから、ゆっくりと引き抜いた。
「はーっ…………はーっ…………はーっ……………………んっ…………ぁ…………」
 由梨子はベッドの上に仰向けのまま、激しく胸を上下させている。はしたなく開かれたままの足は――さらにタイツを破かれ、股間部分に至っては殆ど露出してしまっていて――太股から膝まで透明な蜜に濡れていた。それは“三回目”の時に、月彦に散々後ろから突かれたせいだ。
 同様にてらてらと光沢を放つ秘裂は、別の生き物かのようにヒクヒクと蠢き、白っぽく泡立った液体をとろとろと零していた。月彦は一瞬スキンに穴でも空いていたのかとぎょっとしたが、それはどうやら杞憂のようだった。
「……ぁっ、ぁ…………せん、ぱ、い…………も、私…………許…………て…………」
 喘ぐような吐息の合間に、由梨子はそんな言葉を交ぜてくる。もう無理、許して――その言葉は“三回目”の時にたっぷりと耳にしていたが、ケダモノと化した月彦は一切聞き入れなかったのだ。
 今ですら、ヒクヒクと蠢くその場所を見ていると、“六回目”の準備をしてしまいそうになる。ゴクリ、と生唾を飲みながらも、月彦は泣く泣くスキンの処理をする。
(……ちょっと、やりすぎてしまったかもしれない)
 破れた黒タイツがあんまりにも魅力的だったから。そして自分から腰を使ってくる由梨子がエロ可愛かったから。つい――と、月彦は己の過失を自分自身に弁明する。
「ごめん……由梨ちゃん……ちょっと、激しかったかな……」
 可能な限り優しく声をかけながら、そっと由梨子の上半身を抱き起こす。また続きをされると思ったのか、一瞬だけ由梨子がびくっと怯えるように震えた。が、すぐに“いつもの月彦”だと解ったらしく、恐る恐るながらも身を任せてくる。
 月彦は捲し上げたままになっていたパーカーをそっとお腹の辺りまで戻し、そっと労るように抱きしめる。下は――破かれてほとんど肌が見えてしまっている黒タイツだけだったので――ショーツは月彦が途中で脱がしたから――どうしようもなかった。
(……この格好も、なかなか――)
 エロいものがあるな、と思いつつも、辛抱する。そうして由梨子を抱き続け、優しくさすり続けていると、漸く呼吸の方も落ち着いてきた。
「大丈夫?」
「は、い……なんとか……」
 由梨子は微笑を零すが、やはり疲労困憊といった具合。あぁ、やっぱりやりすぎたと月彦は反省する。
「先輩……あの……」
「うん?」
「……お、お水を……持ってきてもらえませんか? 喉、カラカラで……」
「解った。すぐ持ってくるよ」
 そりゃああれだけ声を荒げて、汗を掻いて、いっぱい溢れさせたらなぁと納得しながら、月彦は上はカッターシャツ、下はトランクスという出で立ちでいそいそと階下へと降りる。台所で適当なグラスに水を注ぎ、部屋に戻って由梨子に手渡した。
「ありがとうございます」
 由梨子は辛うじて上体を起こし、それを一息で飲んでしまう。
「もっと欲しい?」
「いえ……大丈夫です」
 月彦は由梨子からコップを受け取り、とりあえず邪魔にならない勉強机の上に置く。くたっ……と、再び由梨子が体をもたれさせてくる。
「……今日の先輩、凄かったですね。…………私、本当に壊されちゃうかと思いました」
「ああ、うん……まあ、そうかな……」
「それってやっぱり……その、私がこれを履いていたから、ですか……?」
 ちらり、と由梨子は黒タイツだったものを見る。
「……それも一因ではあるけど、今日の由梨ちゃん……なんかすっごい可愛くて、そんで……暴走しちまった}
「……本当ですか?」
「無論。……じゃなかったら、いくらなんでもあんなにはならない」
 “あんな”になってる月彦を思い出したのか、由梨子は怯えの交じった顔で頬を赤らめる。器用な事をするなぁ、と月彦は興味深く見つめる。
「いや、ほら……なんて言うか、興奮しまくるとワケわかんなくなったりするだろ? 由梨ちゃんだって――」
「え……私も、何か……しましたか……?」
「……少しだけ、ね」
 キスをねだりながら、自らくねくねと腰を動かし、可愛く声を上げる由梨子の姿を思い出し、月彦はまたむくむくとトランクスの中で剛直を膨張させてしまう。
「……せ、先輩!」
 それを見た由梨子が怒ったような声を上げる。
「どうして、そんなに………………せ、先輩は絶対におかしいです!」
「そんな事はない。これが一般的な男子の平均、つまり正常な姿なんだ」
「……絶対に嘘だと思います」
 じぃ、と軽蔑すら交じった目。
「世の中の男性の大半が先輩みたいだったら、女の子は恐くてエッチなんか出来ません!」
 酷い言われようだった。さすがの月彦も胸にちくりと痛みを覚える。
「……そんなに、俺……恐かった?」
「はい。……少しですけど」
「ごめん……。……次からは……ちゃんと優しくするから」
「…………激しくするのは、時々にしてくださいね? いつもあんな事されると、その……私も、ヘンになっちゃいますから!!」
「うん、わかった」
 と返事をしつつも、内心では“ほほう、それは良い事を聞いた”とばかりに舌なめずりをしていたりする。
「…………先輩、また大きくなってるんですけど」
「……いや、これは――」
 まるで邪心を移す鏡のように、ぴーんとトランクスを破らん勢いで突っ張ってしまっていた。
「……まさかまた、真央さんが居るから大丈夫――なんて言いませんよね、先輩?」
 そっと、由梨子の手がトランクスの上から突っ張りを撫でてくる。
「……っ……由梨、ちゃん……」
「気にしないで下さい。…………私、口でするの……結構好きですよ」
 そう言って、由梨子はトランクスをずり下げ、ぐんと天を仰いだ剛直にそっと唇を着ける。
「うあぁ………っ……」
 由梨子の口戯は、回を重ねるたびに巧くなる。先ほど、スキン装着の時よりも、月彦はうわずった声を上げながら由梨子の髪をなで回す。
(…………なんか、だんだん……やっていることが真央と一緒の時と変わらなくなってきている、ような――)
 それは偏に自分のせいであると、月彦はまだ自覚していなかった。


 



 

 由梨子に口でたっぷりとヌいて貰って漸くひと心地。時計を見ればもう八時を回っているということで、月彦はさすがに帰る事にした。
「……先輩、これ……私が持っててもいいですか?」
 と、由梨子が申し出たのは残りのスキンが入った箱だった。
「もう……今日は……真央さんとも、エッチしませんよね?」
 だったら私が持っていても――と、由梨子は目で訴えかけてくる。そんなワケにはいかないだろう、とは思いつつも、そのスキンは由梨子の為だけに買ったというのもまた事実。
「……うん、由梨ちゃんが持ってていいよ」
 月彦の返事が余程嬉しかったのか、由梨子は両手でスキンの箱を握りしめ、顔を赤らめた。
 帰ろうとする月彦を、由梨子はスカートだけを履き、これまたふらふらと頼りない足取りで玄関まで見送る。その途中、くちゅんっ、と由梨子が唐突にくしゃみをする。
「由梨ちゃん、大丈夫?」
「あ、はい……大丈夫です。すぐ、着替えますから」
 言われて、月彦は気がついた。ずっと着っぱなしだったパーカーがたっぷり汗を吸い、そして外気によって冷やされているのだ。同様のことは月彦にも言え、由梨子に誘発されるようにしてくしゅんっ、とくしゃみをしてしまう。
(…………これからは、着替えも持参したほうがいいかもしれない)
 等と横着な事を考えつつも、とりあえず今日の所はこのまま帰るしかない。今から渇かすにしても、さらに帰宅時間が遅くなれば誤魔化すのも容易ではなくなるからだ。
「じゃあ、由梨ちゃん、風邪引かないように気を付けて。すぐお風呂とか入ったほうがいいよ」
「はい……先輩も、気を付けて帰ってくださいね?」
 またしてもさようなら、という類の言葉は使わずに、月彦は宮本邸を後にする。玄関を出た所で、見覚えのある人影を見てハッと足を止めた。
(あれは――)
 夜道で解りづらかったが、武士に見えた。それも、たまたま歩いてきたという類ではない。塀の前で待ち続け、月彦が出たから玄関へと向かう――そんな動きだった。
 何か言うべきか――と月彦は悩んだが、無言で家に入る武士の後ろ姿に圧され、結局何も言えなかった。

 体が冷えるとまずいと思って、ランニングなどしながら月彦は帰宅する。前回とは違い、今回は葛葉に連絡をいれてあるから、帰宅時間について問われてもなんとか逃れられるだろう。
(匂いについては、由梨ちゃんが解決してくれている――)
 由梨子が勧めて、真央に使わせている香水。無論それは由梨子と同じものだ。つまり、これで万が一真央に由梨子の匂いがする、と言われても真央の匂いではないのかと誤魔化す事が可能になったわけだ。
(でも、やっぱり気が咎めるなぁ……)
 ようは全て、真央を騙すための労力だ。自分がどんどん嫌な人間になっていく気がして、月彦は胸が痛い。ならばせめて、浮気の気配すら無い程に隠し通し、真央に一切の不安を与えない事がせめてもの報いだと居直るしかなかった。
(……今夜は、ちょっと頑張るか…………)
 薬に頼るのは嫌だが、由梨子と結構な回数をしてしまっている。万が一「いつもより薄い」などと言われたら――ろくでもない事になりかねない。
 “こんな時”の為に、“栄養剤”は常に備蓄してある。足りなくなれば、真央に言えばいくらでも用意してくれるだろうから問題はないのだが、己の寿命の方が足りなくなる可能性が否めないから多用は禁物だ。
(なんだかんだで、この生活にも慣れてきたなぁ……)
 ひょっとしたら、このまま巧くやっていけるかもしれない――そんな甘い幻想を抱きながら、月彦は玄関のドアを開けた。
「……ただいまー」
 靴を脱ぎながら、月彦は奇妙な違和感を覚えた。はて、何かがいつもと違う。何が違うのだろうと首を捻って、真央の姿が無いのだと気がついた。
(あれ、いつもなら……)
 帰りを待ちわびていた飼い犬のように真央が飛びついてくる筈なのに、それがない。真央にどうして遅かったのと詰め寄られた時の言い訳まで用意していた月彦としては、些か拍子抜けする思いだった。
(……なんだろう)
 同時に、奇妙な胸騒ぎを覚えた。真央が出迎えなかったのは、ほんの些細な事だが、それが何か、途方もなく悪い事の前触れのような――。
 靴を脱ぎ終えた辺りで、パタパタと足音が近づいてきた。葛葉だった。
「あら、おかえりなさい。随分遅かったのね」
「うん、ちょっと調べ物が長引いちゃって……真央は?」
「真央ちゃんならお部屋じゃないかしら?」
 と、言うなり、葛葉が僅かに首を捻る。
「でも、ちょっと変なのよ。学校から帰ってくるなり、ずーっと部屋に籠もりっぱなしで。さっきも一緒に夕飯の買い出しに行かない?って呼んだんだけど、返事も無くて」
「……わかった、俺が様子見てくる」
 ひょっとしてまた臍を曲げているのかなと当たりをつけて、月彦はしずしずと階段を上った。
(……なんだ、この感じ――)
 階段を一歩上がるたびに、ざわざわと嫌な予感が沸く。真狐の気配とはまた違う。途方もなく悪い予感――そう、最早取り返しのつかない様な、類の、何か。
(馬鹿な、何があるって言うんだ……)
 月彦は首を振って雑念を振り払い、祈るような気持ちでドアノブを握る。――刹那、何かの匂いが月彦の鼻を擽るが、さして気にも止めずにドアを開ける。
「真央ー、今かえっ――」
 ドアを開けるなり、“その惨状”が月彦の目に飛び込んできた。部屋中に満ちる濃密な匂いと、放射状に散った鮮血。その中心にいるのは、彼の愛しの娘に他ならなかった。
 月彦の手から、鞄が音を立てて落ちた。



 部屋中に散っている“赤”。よく見るとそれは鮮血ではなく、血のように赤い花びらであると解る。ベッドの上にも、絨毯の上にも、部屋中余すところ無く散った花びらの中心に、真央は月彦に背を向けるようにして座っていた。
「ま、まお……?」
「父さまは浮気をしている」
 あまりの異様な光景に月彦が掠れるような声を出すが、それに被せるように真央が呟く。ぎくり、と月彦は顔を引きつらせて後ずさる。
「父さまは浮気をしていない」
 再び、真央が呟く。それが独り言であると気がついたとき、真央がぽいっ、と何かを捨てた。
「父さまは浮気をしている」
 また呟き、ぽいと捨てる。真央が呟くたびに捨てているもの、それこそが部屋中に散っている――血のように赤い花びらに他ならなかった。
(こんな時期に――)
 これほど大量の花びらを一体どこから入手してきたのか。まさか花屋ではあるまいと思いつつも、月彦は恐る恐る声をかける。
「真央……何を、やっているんだ?」
「あっ……」
 真央は狐尻尾をぶんと振って振り返り、笑顔満面。
「父さま、お帰りー!」
 手に持っていた赤い花を放り出し、ちょんと飛び跳ねて月彦に抱きつき、すりすりと頬ずりをしてくる。月彦はよしよしと宥めながらも、血のように赤い花びらに埋め尽くされた部屋に背筋を冷やす。
 部屋中に満ちている濃密な匂いは、どうやらその花びらから発せられている様だった。
「お、遅くなって悪かったな、真央。……友達に付き合って、図書館で調べ物を手伝ってたんだ」
「うん、義母さまから聞いた」
 良かった、疑われてはいないようだと、月彦は一安心。
「……で、一体何をやってたんだ?」
「うんとね、ちょっと占いをやってたの」
「占い……?」
 うん、と頷いて、真央は先ほど放り出した花を拾い上げる。花とはいっても、茶の茎の先にちょこんと花びらがのこったそれはもはや花には見えない。
「昔、母さまに教えてもらったの。アンブロシアっていう花を摘んできて、こうして――“父さまは浮気をしていない”」
 ぷちん、と真央は花びらを一つ契って捨てる。
「父さまは浮気をしている……父さまは浮気をしていない……父さまは浮気をしている――ほらね、変なの」
 花びらの無くなった茎を月彦に指しだし、真央はうーんと唸る。
「な、何が変なんだ……?」
「だって、父さまは浮気なんかしてないのに、何度やっても“浮気している”になるんだよ? おかしいよね?」
 ぎくぎくぎくぅ!
 月彦は引きつってしまいそうになるのをなんとか笑顔に変えながら、はははと渇いた笑い声を上げる。
「た、たかが占いじゃないか。そんなに気にすることないんじゃないのか?」
「そうなんだけど……母さまは絶対当たる占いだって言ってたんだよ?」
「……ま、真狐の事だ。“絶対当たる”んじゃなくて、“絶対外れる”占いなんじゃないのか?」
 あり得ないほどに早まる鼓動に狼狽しながら、月彦はなんとか言い繕う。
「そっか、きっとそうだよね!」
 月彦の言う事なら間違いない、とばかりに真央は満面の笑みで頷き、体を擦りつけてくる。
「か、片づけるのは後にして、まずは晩飯を一緒に食うか。真央もまだなんだろ?」
「うん、お腹空いた!」
 真央と一緒に部屋から出、階下へと降りる。
「……私も、黒タイツ履いてみようかなぁ」
「えっ……?」
 真央の突然の呟きに、月彦はまたしてもどきりと胸を弾ませる。一方真央のほうは月彦の反応に“私何か変な事言った?”とばかりに首を傾げている。
「いや、いきなりそんなこと言うから……」
「明日も寒くなりそうでしょ? だから、私も由梨ちゃんみたいに履こうかな、って思ったんだけど」
「そ、そうか……姉ちゃんなら持ってるんじゃないかな」
 その話はそこで終わり、二人で仲良く晩飯を食べた。真央は終始上機嫌だったが、反対に月彦の方はといえば、砂を食むような心持ちだった。
(何処まで知っているんだ、真央……)
 解っていて言っているのか、それとも本当に当てずっぽうに言っているだけなのか。月彦には、判断が付かない。
「……父さま、明日はなるべく早く帰ってきてね?」
 自室へと戻る途中ではたりと、真央が階段の踊り場で足を止める。
「じゃないと私、また占っちゃうかもしれないから」
 月彦は背後の真央の顔を確認することが出来なかった。


 翌朝、月彦は久々に使った“栄養剤”の副作用に苛まれながら、息も絶え絶えに登校するハメになった。
 その横を歩く真央はいつも通り元気一杯。但しその服装は黒タイツではなく、普通のニーソックスだ。霧亜は黒タイツを持っておらず、葛葉にねだっても履けるのは翌日から――というのがその理由だった。
 杖が必要な程に頼りない足取りで月彦は校門へと向かい、そしてそこでいつになく厚着をした――そして口にマスクをつけた――由梨子と出会う。
「ぁっ……おはようございます」
「おはよう……由梨ちゃんひょっとして――」
 昨日の――と言いかけたところで、由梨子が慌てて人差し指を立てる。月彦は慌てて口を押さえ、真央に変な顔をされたが、辛うじて露見はしなかった。
「由梨ちゃん、風邪ひいたの?」
「いえ……ちょっと、微熱があるくらいですから。体育以外ならなんとか……」
 と、日課の“手繋ぎ”も今日は無く、真央と二人、いそいそと昇降口へと向かう。責任の一端を感じながらも、月彦もまたただならぬ状態な為、由梨子を気遣える状態に無かったりする。
(……せめて今日くらいは、平穏であってほしいもんだ…………)
 祈るようにして教室へと向かい、席に座る。たったそれだけで、十年旅をしてきた後のようにどっと全身が疲れていた。
「おーっす、月彦」
「おーっす……」
「なんだ、風邪か?」
 ならばどんなに良かったことか。少なくとも堂々と学校を休むことが出来る分、マシだろうと月彦は思う。
「そういや聞いたか? 一時限目また自習かもしれないぜ」
「どういうことだ?」
 月彦は今日の課目を思い出す。たしか、一時限目は英語だった筈だ。
「そういや、昨日もだったよな」
「ああ。英語の国東、なんか階段から落ちて両足骨折したらしいぜ。しかも頭まで打って意識不明って話だ」
「……マジか、学校でか?」
「って聞いたけどなぁ……」
 国東というのは、月彦のクラスの英語のグラマーを担当している中年の教師の名字だ。英語は決して得意ではない為、自習になるのは嬉しくもあるが、それが人の不幸に関わっているとなると素直に喜べない。
 程なく、担任の教師がやってきて、HRで改めて国東が入院した旨が知らされた。意識不明ではあるものの、幸い命に別状はなく、復帰するまでの間は別の英語教師が臨時に教える――という形になるらしかった。
(まさか――)
 臨時の英語教師――月彦はすぐさま“ある女性”の顔を連想するが、さすがにそれは無いだろうと思い直す。別に否定する材料は無く、単純に月彦が心身の健康を保つ為に“そうであって欲しくない”と願っただけに他ならない。
 そして、世の中というのはえてしてそういった個人の思惑とは全く関係なしに進むものであるのもまた事実で。
 がらりと。教室の引き戸を開けて入ってきたのは紛れもない、月彦が危惧した通りの人物な訳で。
 つかつかと教壇に上がった“臨時教師”はだんっ、と教卓に手を突き、教室内を見回す。まるで何かを捜すような目配せが、ある一点で止まった。
 月彦は咄嗟に教科書を立てて身を隠すが――遅い。教科書の向こう側で、臨時教師はニヤリと笑う。
「今日から臨時で、みんなに教えることになった雛森です。国東先生が戻ってくるまでの間だけど、よろしくね」
 “よろしくね”の部分がどうも個人的な意味合いで言われた気がして、月彦は痛む胸をぐっと押さえるのだった。

 

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