「真央ちゃん、ちょっと部屋まで来てくれる?」
脱衣所から出たばかりの所で、霧亜に声をかけられる。真央は頷き、霧亜の後に続いた。
「やっぱり、学校には行くのね」
「うん、由梨ちゃんも退院したし、もう大丈夫だよ」
そう、と返事を返して霧亜は自室に入る。真央も続いて入ると、霧亜は机の上にあった小さな紙袋を手に取った。
「本当は真央ちゃんが学校に行き始める時に渡してあげられれば良かったんだけど、気が回らなかったわ。ごめんね」
「姉さま、これは……?」
真央は紙袋を受け取り、中を覗き込む。中にはピンク色の携帯電話とその説明書、充電器らしいものが入っていた。
「携帯……電話?」
「真央ちゃんの為に特別に作ってもらったのよ。学校に行くときや、外に出るときはかならず持ち歩いて」
「貰って、いいの?」
「もちろん。真央ちゃん専用だもの」
笑って、霧亜は紙袋の中から携帯電話を取りだし、真央に見せる。
「いい、真央ちゃん。身の危険を感じたら、すぐにこのボタンを押すのよ。そうしたら、すぐ私が行くから。私が行けなくても、一番近くに居る子が助けに行ってくれるから」
「一番……近くに居る子?」
「私の友達。信用できる子にだけ、特別な携帯を配ったわ。真央ちゃんがそのボタンを押すと、みんなに真央ちゃんの居場所が伝わるって仕組みよ」
「そんな……姉さま、そこまで、してくれなくても……」
「普通に使う分には、真央ちゃんが何処に居るかとか、会話の内容とかが漏れたりすることはないわ。あくまで非常時は、って事」
「でも……」
「真央ちゃんが受け取ってくれないなら、学校に行くことを許すわけにはいかないわ。……大丈夫、みんな真央ちゃんを守る事には了承済みだから」
受け取って、と霧亜は携帯電話を差し出してくる。真央は渋々それを受け取った。
「ありがとう、姉さま……。大切に、するね」
「耐熱、対衝撃、防水処理もばっちりだから、大切にしなくても大丈夫よ。でも、絶対肌身から離しちゃだめよ?」
うん、と真央は頷く。霧亜は微笑み、そっと真央の肩を、そして首、頬を撫で、髪を撫でてくる。
「通話料とかは気にしなくていいわ。よっぽど無茶なかけ方をしない限りは基本タダだから。……尤も、真央ちゃんはそんなに使ったりしないと思うけど」
霧亜はさらに真央の狐耳を撫で、このお耳じゃあ携帯は使いづらそうね、と苦笑する。
「一度目は守れなかったけど、もう二度と真央ちゃんに恐い思いなんてさせないわ。あの愚図が頼りにならないなら、私が必ず真央ちゃんを守ってあげる」
『キツネツキ』
第十五話
「紺崎君っ!」
二時限目と三時限目の休み時間。移動教室の最中に突然月彦は声をかけられた。振り返って、些かギョッとする。声の主は雛森雪乃だった。
「ちょっと、ちょっと」
雪乃は階段へと続く廊下の切れ目から上半身の三分の一ほどを覗かせてちょいちょいと手招きする。月彦は気がつかなかった振りをして、そのまま次の授業がある理科実験室へと向かおうかと悩んだが、結局雪乃を無視しきれずきびすを返した。
雪乃はそのまま屋上へと続く階段を上がり、人気の無い踊り場まで来てようやく月彦の方へと向き直る。
「紺崎君さ、携帯持ってないの?」
「ええ、言ってませんでしたっけ」
「ひょっとしたら……買ったかもしれないって思って念のため聞いてみたの」
「残念ながら持ってないんです。……昔、一度親に買って貰ったんですけど、その……姉に取られてしまって」
「そうなの。……新しく買う予定はないの?」
「うーん……何度か悩んだんですけど、そんなに必要もないかな、って。大体友達とは学校で話をするだけで事足りますし」
それに帰ったら帰ったで真央の相手をしなければならず電話をかける余裕などないし、と月彦は心の中で補足する。
「じゃあ、別に携帯電話が嫌いってわけじゃないのね」
「ええまあ。あっても邪魔にはならないけど、無くても困らないというか……」
「……私が……買ってあげようか?」
「へっ……?」
月彦が首を傾げると、雪乃はやや赤い顔でこほん、と咳をつく。
「だって家の電話にかけたら、お家の方が出たりいろいろ面倒じゃない。紺崎君だって家の電話じゃあ、色々話にくい事もあるでしょうし、携帯もってたらそんな事もないでしょう?」
「えーと、その……別に、そんな……先生としょっちゅう電話で話す必要もないかな、と俺は思うんですけど」
「あら、そんな事はないわよ? 紺崎君が勉強で解らないところとかがあっても、すぐ教えてあげられるじゃない」
「いや、俺は……家であんまり勉強しませんし……」
「……勉強以外の話でも、私は構わないんだけど」
雪乃はぷいとそっぽを向いてそんな事を呟き、そして月彦の反応を伺うようにちらりと盗み見てくる。ははは、と月彦は苦笑いを浮かべ、すり足で少しずつ後退を始める。
「……そういえば、最近テレビの調子が良くないの。良かったら紺崎君、一度見てもらえないかしら」
「先生の家のテレビってプラズマテレビですよね? そんなもの、一介の高校生にどうこう出来るとは思えないんですが」
「……調子が悪いのはDVDプレイヤーだったかも」
「……どっちにしろ俺には修理なんか出来ません。業者を呼んでください」
「お風呂の排水溝が少し詰まりやすい気もするの」
「それくらい自分で直してください」
「紺崎くん!」
いきなり大声を出されて、月彦は逃げるように階段を下り――ようとしたが、雪乃に腕を掴まれ、阻止される。
「……あんまり構ってくれないと、私自分でも……何するかわからないんだからね」
「わ、解りました……近いうちに必ず、排水溝直しに行きますから離して下さい。早く行かないと次の授業理科なんですよ!」
よろしい、とばかりに雪乃は手を離す。
「解ればいいの。…………携帯電話の件、考えといてね」
「……善処します」
雪乃の目を見ないように答えてから、月彦は逃げるようにその場を後にした。
「真央さん、携帯買ったんですか?」
昼休み。教室で昼食をとりながら真央は携帯を手にいれた旨を由梨子に話した。
「うん、買ったというよりは、貰ったっていう方が正しいんだけど……」
姉さまから、と断って、真央は由梨子に見せる。
「可愛い携帯ですね。……見たことのないデザインですけど」
貸してもらえますか、と由梨子に言われ、真央は携帯を手渡す。
「お古……というわけではなさそうですね。ちょっと弄ってみてもいいですか?」
「うん、由梨ちゃんの番号はもう入れてあるよ」
「電話番号だけですよね。メールアドレスもいれておきますね」
由梨子が携帯を弄るのを、真央は弁当を食べながら興味深く見る。さすがに慣れているのだろう、ボタンタッチも自分の辿々しいそれとは雲泥だった。
霧亜が携帯をくれたのは、正直に嬉しい。特別欲しいとは思ってなかったが、由梨子や他の友達が持っているのを見ると自分だけ仲間はずれになっているような気がしたからだ。
(使い道はあんまり無さそうだけど……)
昨日、あの後霧亜に簡単な使い方についてレクチャーされた時に言われたのは“電話としてじゃなく、お守りとして持ち歩けばいい”ということだった。成る程、と真央は納得した。
「終わりました。私の携帯にも真央さんの番号とアドレスを登録しておきますね」
「あれ、紺崎さん携帯買ったの?」
由梨子と真央の会話が聞こえたのか、二人の周囲にぞろぞろとクラスメイトが集まってくる。
「紺崎さん、私にもアドレス教えてよぉ」
「あっ、でも男子にはバレないようにしないとね」
「あいつらケダモノだから」
真央の回りに集まった女子達がじろり、と教室内に残ってる男子達をねめつける。何人かは真央携帯を持つ、の報を聞きつけたのか、散歩を待つ犬のように耳をぴくぴくと動かしている。
「淺野と大石が学校来ないのって、三年の先輩襲ったからなんでしょ?」
「っていう噂だけどねー」
「えっ、私は先輩の方が男子達誘ってたって聞いたんだけど」
やいのやいのと騒ぎ立てる女子達に、真央は苦笑を返すしかない。真央は当事者に近い立場だが、顔を見たわけではないのだ。
「私が休んでた間にそんな事があったんですか……」
由梨子もまた、何かを悼むように目をつむり、黙り込む。由梨子にだけは言うべきだろうか、その“レイプ事件”とやらに円香が関わっていたという事を。
(由梨ちゃんの親友って言ってたけど……)
円香自身の告白によれば、円香はレイプされたのではなく、真央を襲わせる取引材料として男達に身を委ねたのだ。少なくとも真央はそう聞いた。
(それって、私のせいってことになるのかな……)
真央は迷い、そして結局口を閉ざす事にした。由梨子に子細を話すということは、何故真央がそのことを知っているのかまで教えねばならなくなるからだ。病み上がりの由梨子には余計な心配はかけたくなかった。
五時限目は体育で、由梨子は真央と共に更衣室へと移動した。授業内容はマラソンということだったが、由梨子はまだ本調子ではないということで見学することになっていた。とはいえ、見学者も体育着のジャージに着替えねばならないから更衣室には行かねばならない。
真央はいつも更衣室の隅でこそこそと着替え、由梨子はその盾となるようなポジション取りで着替えることにしていた。真央がこっそりと着替えるのは何も他の女子に体を見られるのが恥ずかしいという理由だけではないことを由梨子は知っているからだ。
(また、あんなに……)
いけない、とは思いつつも盗み見てしまう。真央の胸元や、腹。太股などに残る唇の痕。真央にそれをつける事が出来る相手を、由梨子は二人しか知らない。
(昨夜も、先輩と……)
霧亜とは、風聞ほど仲むつまじいわけではないと真央は言っていた。ならば、候補は一人に絞られる。
二人はそういう仲なのだから仕方がない――何度自分に言い聞かせたか。それでも、やはり由梨子は羨ましいと思わざるを得ない。
更衣を終え、グラウンドに出る。クラスメイト達が体育教師の指示の元整列し、準備体操を行う様子を由梨子は見学者用のベンチから一人見ていた。一人、明らかに浮かない顔をしているのは真央で、マラソンは苦手だという旨を由梨子は既に聞いていた。
胸が重すぎるのでしょう、と由梨子は笑って返した。真央は持久力自体はさほど劣っているわけではなさそうだが、さすがにあんなに大きいものをゆっさゆっさと揺らしながら走ればバテるのも早いだろうと思う。
準備体操を終え、マラソンの距離の長い男子達が先に出発する。遅れること数分、女子達が出発し、真央がこっそり手を振ってきたから由梨子も手を振り替えした。皆がマラソンコースを回ってくる間、由梨子はベンチで一人待つことになる。先日などは一緒に見学をする女子が居たから退屈はしなかったが、さすがに一人では間が持たない。
由梨子はベンチから立ち上がって、軽く周辺を歩いてみることにした。じっとしていると余計に寒い、見学者だからといって、体を全く動かしていけないという法はないだろう。グラウンドと校舎の間にある花壇などを眺めながら、ぶらぶらと時間を潰す。
二十分も経つと、足の速い男子達がちらほらと戻ってくる。続いて女子も戻ってくるが、やはり真央の姿はない。
(男子、か……)
こうして見ている限り、あくまで普通の、日常の風景にしか見えない。しかし、確かに二人減っている筈なのだ。
淺野と、大石。はっきり言って良い印象の無い男子だった。居なくなったからといって、何がどうという事もない。――本来なら、その筈だった。
(襲われたのは、三年生の女子……)
淺野達は集団で一人の女子をレイプして捕まったらしいと、そういう噂があった。その割りには事が全然表沙汰になっていないから、真偽は怪しいと由梨子は思っていた。……あのような場所で、円香を見るまでは。
尋常ではない様子に見えた。何かあったのかもしれない――そう考えた瞬間、由梨子の中で件の事件と円香が繋がった。そして思った、襲われたのは円香なのではないか、と。
どうして、と思わざるを得なかった。確かに、大別すれば美人寄りではあるだろうが、男達にそこまでさせるものがあるとも思えない。それとも、相手は女なら誰でも良くて、たまたま円香が選ばれたのだろうか。
(私には、関係ない……)
襲われたのが本当に円香だとしても、自分には関係ないと由梨子は思う。なまじ様子を見に行ったりすれば、また関係が拗れるだけだ。
由梨子はベンチに戻り、冷え切った手にはぁぁと息を吐きかける。入院している間に脂肪が落ちたのか、今年の冬は例年よりも遙かに寒く感じた。朝見たニュースでは今夜からさらに冷え込むのだというが、寒がりの由梨子としては手柔らかに頼みたい所だった。
グラウンドの方を見ると、殆どの生徒がもう戻ってきていた。真央も遅れてふらふらと戻ってきて、ゴールラインを越えるやぺたりと座り込んでしまう。深呼吸をしながら、真央は由梨子の方を見て力無く手を振ってくる。由梨子もまた、微笑んで手を振り返した。
「うーっ……さみいぃぃ……こりゃあ今夜は冷えるなぁ……」
夕方、月彦は自宅の物置を漁っていた。葛葉に台所用の石油ストーブを出してくるように言われたのだ。
寒風吹きすさぶとはまさにこのこと。月彦は小刻みに足踏みをしながら記憶を頼りに石油ストーブを探し出し、それを勝手口から台所へと運ぶ。
「灯油、灯油はっと」
灯油が燃料なのに石油ストーブとはこれ如何に、等と思いながら物置にとって返し、灯油の入ったポリタンクを出して物置の戸を閉める。うんしょと抱えて台所に戻ると、葛葉が出迎えてくれた。
「ご苦労様、はいお茶よ」
「ありがと、母さん」
月彦は湯飲みを受け取り、両手を暖める。
「早速使いたいけど、埃とか掃除してからのほうが良さそうね」
「一応ビニール被せてあったけど、やっぱり拭いたほうがいいかな」
月彦は勝手口から上がり、雑巾を湿らせてストーブを拭く。ついでに給油をし、早速点火する。
「ん、ちゃんと使えるな」
よしよし、と声をかけて月彦は薬缶に水を入れ、ストーブの上に置く。赤熱した石油ストーブの中心を見て、あぁ……もう冬なのだなぁとしみじみ感じる。
「ありがとう、月彦。これで大分助かるわ」
葛葉は微笑んで、いそいそと晩飯の準備を始める。春菊に椎茸、焼き豆腐にネギ、白菜に牛肉という具合に次々に冷蔵庫から食材が出され、もしやと月彦は思う。
「母さん、ひょっとして――」
「ええ、今夜はすき焼きよ」
やった!、と月彦は快哉を叫ぶ。およそ日本人の中ですき焼きが嫌いな者など居ないだろう。勿論、月彦も多分に漏れず大好物だった。
「あら、いけない……」
「どうしたの?」
「卵買い忘れちゃったみたい。……古いのも二個しかないわ」
「そんなの、俺がダッシュで買ってくるよ。一パックでいい?」
「ええ、ごめんね、月彦」
葛葉は申し訳なさそうに自分の財布から千円札を取り出し、月彦に渡す。お釣りはお駄賃ね、と付け加えて。
月彦は一端部屋に戻り、上着を羽織る。父さま出かけるの?――と、声をかけてきたのは真央だ。
「真央も行くか?」
「どこ行くの? お散歩?」
「お使いだ」
真央は外の天気と月彦とを交互に見て、うーんと唸る。
「行かない。外、寒いもん」
まあそれが普通の反応だろうな、と月彦は苦笑して家から飛び出す。久しく自転車に乗って、最寄りのスーパーまで立ちこぎで飛ばす。
「うううぅ……寒ぃぃぃいっ」
急げば急ぐほど風圧は増し、体温は奪われる。しかしその分寒風に晒される時間は減るのだからまんざら悪いことばかりではない。
スーパーの駐輪場に自転車を止め、月彦は小走りに店内へと入る。さすがに店内は暖房が効いており、歯が鳴るということはない。
(卵、卵っと……)
おぼろげな記憶を頼りに、店内を練り歩く。思ったよりも店内は混雑しており、どうやら割引されたお総菜目当ての主婦が多いのがその原因の様だった。……その中に、月彦は見知った顔を見つけてはたと足を止める。
「……由梨ちゃん?」
「え……先輩?」
由梨子の方も信じられないものを見た、というような顔。そして慌てて、自分が下げていた篭を後ろに隠すような仕草をする。
「へぇ〜、由梨ちゃんもここ来るんだ」
私服だから、学校帰りというわけではないのだろう。男物のようなジーンズにトレーナー、さらに男物のジャンパーという出で立ちだ。
「あっ……これ、弟の、です。その……まさか、知り合いに会うとは、思ってませんでしたから」
「いやぁ、これはこれでなかなか似合ってると思うよ」
気を遣って言ったつもりが、由梨子はますます顔を赤くしてしまう。いかん、やぶ蛇だったかと月彦は話題を切り替える。
「ゆ、由梨ちゃんも夕食の買い出し?」
「ええ……まぁ……」
由梨子の歯切れは悪かった。依然買い物篭は後ろに隠したままだ。
(隠さなきゃいけないようなものなんて、ここには売ってないと思うが……)
由梨子が何を買うのか気にはなるが、無理に見るのも悪い気がする。
「そっか、俺は卵買いに来たんだ。今夜すき焼きらしくてさ」
「すき焼きですか、豪勢ですね」
「うん、そういうわけだから」
このままでは由梨子が買い物が出来ないと判断して、月彦は早めに会話を切り上げることにした。パックの卵だけを買って、店から出る。
「ぅぅぅっぅぅさびぃぃい」
日が完全に落ちたからか、余計に寒く感じる。月彦はそそくさと駐輪場へと行き、篭に買い物袋を入れて、はたと思う。
(由梨ちゃん、この寒い中帰るのかな……)
徒歩で来たのだろうか、と思って駐輪場に目をやる。前後に篭のついた原付が数台、自転車もあるにはあるが、どうにも由梨子には似つかわしくない気がする。何より、寒がりな由梨子が自転車に乗るには、防寒着としてやや心許ない格好だったように思う。
「ふむ……」
月彦は篭に買い物袋を乗せたまま、しばし待つことにした。
月彦が視界から消えてから、由梨子は改めて総菜コーナーに目を落とした。残り少ないものの、半額引きと書かれた唐揚げや揚げ出し豆腐といった総菜がちらほらと目につく。
(どうして、先輩が……)
見られたくない所を見られてしまった――由梨子は赤面を禁じ得ない。がやがやと騒ぐ主婦達に揉まれながら、手早く値引きされた総菜を篭に放り込んで、その場を離れる。
月彦に、篭の中身を見られただろうか。否、たとえ見られてなかったとしてもこんな時間に総菜のコーナーに居たということで何が目当てかはすぐ解ってしまうだろう。
(違うんです、先輩……)
弁解したかった。値引きされた総菜を狙って買い物に来るような女だと思われたくなかった。せめて店に入る前に会っていれば、カレーの材料でも買って見栄を張ることも出来たのに。
(もう、消えてしまいたい…………)
買うものが買うものなら、服も服だった。もう暗いのだし、近所だし、こんな時間のスーパーに知り合いなど居ないと思った。何より、夜道では男物の服の方が安全だと思ったというのもある。
本当に間の悪い、先日のボウリングの時といい、由梨子が一番見られたくない所へ、あの先輩は来るのだ。――縁が、無いのかもしれない。そう感じてしまう。
レジで支払いを済ませ、店を出る。頬に当たる風は痛く、吐く息は白い。由梨子は買い物袋を肘にかけて、ポケットから手袋とマフラーを取り出す――そこで、声をかけられた。
「由梨ちゃん、歩きできたの?」
「えっ……ぁ、先輩!?」
帰ったのではなかったのか。由梨子は慌てて買い物袋を後ろに隠す。はめようとしていた手袋が地面に落ち、月彦が苦笑しながら拾ってくれる。
「ど、どうも……」
「良かったら自転車の後ろに乗っていかない? 家まで送るよ」
「え、あの……大丈夫、です。すぐ近くですから」
「遠慮しないで。俺が風よけになるから、そんなに寒くもない筈だし」
さあと急かされ、由梨子は腕を引かれる。断り切れなくて、そのまま駐輪場へと連れて行かれる。
「由梨ちゃん、荷物貸して。篭に乗せるから」
「いえっ、これは……」
「持ったままじゃ上手く乗れないだろ?」
由梨子は渋々買い物袋を月彦に手渡す。月彦は軽く中身を見て、最初に篭に入っていた卵を一端どけてそこに買い物袋を入れ、その上から卵の袋を乗せた。
「よし、じゃあ乗って」
「は、はい……」
自転車の荷台の部分に由梨子は横向きに座り、遠慮がちに月彦の服を掴む。
「危ないから、もう少ししっかり捕まった方がいいよ」
はい、と由梨子はしっかりとしがみつく。程なく、月彦が自転車をこぎ始める。
(先輩の背中……暖かい……)
直接肌を触れ合わせているわけでもないのに、そう感じてしまう。由梨子は腕に力を込めて、月彦の背中にもたれるようにして身を寄せる。
「由梨ちゃん、あのスーパーにはよく来るの?」
「……はい。母の帰りが遅い時とかは、代わりに買い物に行きます」
「そうなんだ。料理も代わりに?」
「そうですね、さすがに夜は毎日ではないですけど……」
そしてたまには手を抜いてお総菜で済ませようかとも思ってしまう。その僅かな日に、出会ってしまったのだ。
「夜は、って事は、朝は由梨ちゃんが作ってるの?」
「最近はそんな感じです。母は朝が弱いみたいで、作ったり作らなかったりの繰り返しで、それで弟と喧嘩になって……。母は怒って、それっきり朝は起きてきてくれなくなったんです。だから、私が代わりに」
「……大変だね」
「いえ、もう慣れました」
そっか、と言って月彦は黙ってしまう。母の話などするべきじゃなかった、と由梨子は後悔した。
「でも、いいなぁ……料理が出来るって。真央もそうだといいんだが……こっそり何混ぜるかわからんからな」
ぼそり、と月彦はそんな事を呟く。理由は分からないが、どこか切実なものを含んでいるように由梨子には感じられた。
「真央さん、料理だめなんですか?」
「いや……やらせてみたら案外巧いのかもしれないが…………毒味が必要になるだろうな」
「……真央さんに毒を盛られるような覚えがあるんですか?」
由梨子は、月彦が冗談を言っているのだと思った。しかし、月彦は至って真面目に「毒のほうがマシかもしれない……」と呟く。
「ぁ……」
流れる町並みに、由梨子はこの会話がもうすぐ終わってしまうことに気がつく。程なく、きぃぃ、とブレーキの音がして月彦は自転車を止めた。
「着いたよ、由梨ちゃん」
「……ありがとうございます、とっても助かりました」
由梨子は荷台から降りて、ぺこりと辞儀をする。
「いいって、こんなの寄り道にも入らないよ」
月彦は卵の入った袋をどけて、由梨子の買い物袋を手渡してくる。由梨子は袋を受け取り、もう一度ありがとうございます、と返した。
「じゃあね、由梨ちゃん。また明日学校で」
「――あっ、先輩!」
月彦がこぎ出そうとした瞬間、由梨子は自分でも驚くほどの大きな声で殆ど条件反射的に呼び止めてしまっていた。
「あの、良かったら少し寄っていかれませんか。外は寒いですし……その、暖かい飲み物でも……」
「んー……今日はやめとくよ。母さんが待ってる筈だから」
ごめん、と謝って月彦は自転車をこぎ出す。由梨子はその後ろ姿が見えなくなるまで見送り続けた。
「ただいまーっ」
寒い、寒いと零しながら月彦は玄関に駆け込み、そのまま台所に飛び込む。
「母さん、卵買ってきたよ」
「ありがとう、月彦。助かったわ」
「あと、お釣り。ここに置いておくよ」
「あら、お釣りはあげるって言ったでしょう?」
「いいよ、今日は良いことがあったし。最近小遣い貰いすぎだから、ちょっとは自制しないと」
ふふ、と葛葉は微笑む。
「たまにはお使いも悪くないでしょう?」
「……そういうわけじゃないけど。ただ、夕飯の買い物ならいつでも行くよ」
月彦は後ろ髪を掻いて苦笑する。
「あら怪しい。ひょっとして好きな子にでも会ったのかしら」
「いや、そんなんじゃ――」
月彦が弁解しようとした所で、玄関のドアががちゃりと開いた。黒のコートをがっちり着込んだ霧亜が靴を脱ぎ、すたすたと台所の方に来て月彦は渋々道を空けた。
「ただいま、母さん」
「おかえり、霧亜」
「今日、すき焼きなの?」
「ええ。もうすぐ出来るから待っててね」
頷いて、霧亜はとんとんと階段を上がっていく。その後ろ姿を見上げる月彦に、「今夜は霧亜も機嫌が良さそうね」と葛葉が囁いた。
久しぶりのすき焼きは格別の味だった。真央はすき焼きを食べるのは初めてらしく大はしゃぎで、明日の夜も食べたいと言って葛葉を困らせた。
「真央、このすき焼きのタレがしみこんだ卵をご飯にかけて食うとまた美味いんだぞ」
と、月彦が実践してみせようとすると、対面に座っている霧亜がじろりと睨んでくる。
「行儀が悪いから真央ちゃんは真似しちゃだめよ」
「何言ってんだ。姉ちゃんだって昔やってたくせに」
「……いい年してみっともない、って言ってるのよ」
すき焼き鍋を挟んで、月彦は霧亜とにらみ合う。それを見た葛葉があらあらと困ったような声を出す。
「いいじゃない、霧亜。家族の食事なんだもの、一番美味しいと思う食べ方をすればいいと思うわ」
「母さんがそうやって甘やかすから、こいつがつけあがるのよ」
「俺は箸で人を指さす方が行儀が悪いと思うけどな」
ふんと鼻を鳴らして、月彦は卵をご飯にかけてかきこむ。隣にいる真央がそれを見てごくり、と喉を鳴らした。
「……私、まだ子供だから……ちょっとやってみようかなぁ……」
霧亜の機嫌を伺うようにしながら、真央はそろそろと自分のご飯に卵をかける。
「どうだ、真央。美味いだろ?」
「うん、美味しい……」
はぐはぐと真央は夢中になってご飯をかきこむ。はぁ、とため息をついたのは霧亜、微笑んだのは葛葉だ。
「ふふ、今日は霧亜の負けね」
「……母さんは甘すぎるわ」
ごちそうさま、と言い残して霧亜は一足先に二階へと上がる。真央はよほどすき焼きのタレつき卵かけご飯が気に入ったらしく、霧亜の残した卵を使って二杯目を食べた。
賑やかな紺崎家の食卓と違って、宮本家のそれはひどく静かな、慎ましやかなものだった。ご飯は自前で炊き、おかずは由梨子が買ってきた総菜を暖めたもの。それを、姉弟二人で食べるのだ。
弟の武士は部活帰りということもあって食欲旺盛、喋るより食べるのが先だとばかりにがつがつと飯を喰らっている。反面、由梨子の箸は一向に進まなかった。
「姉貴、喰わねーのか?」
「ん……」
武士に催促されて、由梨子はそっと箸を動かし、白飯を数粒つまんで口へと運ぶ。咀嚼をするが、味など分からない。
(先輩の背中……暖かかった……)
頭を巡るのは、月彦と一緒に自転車に乗った時の事ばかり。はぁ、と食事が始まって何度目か知れないため息が出る。
「食事中にため息なんかつくなよな。辛気くせぇ」
さすがに嫌気が差したのか、弟からもそんな事を言われる。由梨子は反論しようとしたが、言葉になる前にその気力が萎えた。
「食えよ、姉貴。腹は減ってんだろ?」
ずい、と武士がポテトサラダの容器を由梨子の方に勧めてくる。由梨子はそれを箸の先で少しつまんで、口の中に運んで咀嚼する。ちっ、と舌打ちが聞こえた。
「勘弁しろよな、まさかまた飯が食えなくなったのか?」
乱暴な口調だったが、それは自分の体を気遣った言葉であると思った。大丈夫、とまるで他人事のように由梨子は呟く。
「……全然大丈夫じゃねえよ」
うんざりしたように言い残して、武士は一足先に席を立ち、二階の自室の方へと向かう。それを見て、由梨子はそっと箸を置いた。
(……先輩…………)
きゅうぅ、と胸の奥が苦しくなる。食欲がないのはそのせいだ。霧亜の時と似ているようで、違う感覚だった。あの時よりも切実で、そして堪えがたい。
「先輩……」
とうとう直に呟いてしまう。右手を胸に当てて、軽く掻きむしるように爪を立てる。それでも、苦しさは全然収まらなかった。
(先輩に……会いたい……)
その衝動が、由梨子の中でどんどん強くなる。がたん、と音がして、由梨子は自分が席を立ったという事に気がついた。視界の端に、着替えを手に降りてきた武士が見えた。
「お、おいっ……姉貴、どこ行くんだよ」
「ちょっと」
とだけ言い残して、由梨子は玄関へと向かう。靴を履き、鍵を開けて外に出る。――途端、身を切るような寒風に煽られ、由梨子はきゅっと肩を抱いた。
部屋着のジャージの上からドテラだけを羽織った格好。寒がりな由梨子には家の中ですら心許ない防寒着だった。それでも、寒さよりも遙かに強い衝動に煽られて由梨子は歩き出す。
「先輩……」
吐く息が霧のように白い。瞬く間に指先の感覚が無くなり、由梨子はドテラの袖の先を折り曲げて指先を寒風から庇う。次第に足の指先からも感覚が無くなってきて歩くのも辛くなるが、歩み自体は止まらない。
四肢の先は凍るように冷たい。それなのに、胸の奥は、体の芯だけはぽかぽかと暖かかった。まるで、歩を進める先にある“何か”に体が反応しているかのように、歩けば歩くほど胸の奥が熱くなる。
ハッと気づけば、由梨子は月彦の家のすぐ側まで来てしまっていた。寒風にさらされ続けて頭が冷えたのか、次第に自分が何をやっているのかを理解し始める。
(会えるわけなんて、無いのに……)
それでも歩みが止まらない。とうとう家の側、月彦の部屋があると思われる側の塀の前まで来て、由梨子は漸く足を止めた。
見上げる。霧亜の部屋の隣ならば、月彦の部屋はあそこの筈だ。窓からは明かりが漏れていて、部屋の主が在室しているだろうことを暗に仄めかしていた。
先輩、と由梨子は蚊の鳴くような声で呟いた。呼ぼう、と思ったわけではない。そんなに大声を出す勇気も無かった。それでも、ひょっとしたら想いが、願いが通じて月彦が顔を出してくれるのでは――そんな身勝手な希望を抱いてしまう。本当に月彦が顔を出したら、困るのは自分だというのに。
(……帰ろう)
そう思うも、由梨子はその場から動けなかった。杭を打ち込まれたように、足が地面から離れない。呼吸の度に火照っていた体も冷え、次第にがちがちと歯が鳴り出す。
(……帰ろう)
再度思うが、やはり動けない。由梨子は窮して、助けを求めるかのように部屋の窓を見た。煌々と明かりのついた窓がとても無慈悲なものに見えた。
「……ぁ……」
窓を見上げていた由梨子の目に、ひとひらの欠片が降りてきた。それは静かに地面に降り立ち、煙のように消えた。その後を追うように、はらり、はらりと白いものが振ってくる。
「ゆ、き……?」
由梨子はそっとドテラの袖から凍えた掌を出し、白い欠片を受け止めた。欠片は由梨子の掌に落ちるや、しんと染み入るように溶けて、消えた。
月彦には最近不満な事が一つあった。それは真央が全然一緒に風呂に入ろうとしてくれないことだ。
(いや、俺と入らないだけなら、まだいい)
真央は霧亜と入りたがるのだ。それが解せない。何故霧亜と、と邪推をしてしまいそうになる。
(そういや、姉ちゃんもなんか機嫌がいいんだよな……)
気のせいかとも思っていたが、どうやら葛葉もそう感じているらしいから、多分本当に機嫌が良いのだろう。ということは、真央と霧亜は風呂で一体何をしているんだろう――と勘ぐってしまうのは当然の事だった。
「姉さまとは普通にお風呂に入ってるだけだよ?」
真央に何度問いただしても、返ってくるのはいつもその答えだった。怪しい、と月彦は思う。真央ほど可愛い娘があの霧亜と一緒に風呂に入って、何もされない筈はないと、そう思ってしまう。
何のことはない。真央には邪推をするなと言っておきながら、月彦にもまたその気があるのだ。明らかに似たもの同士なのだが、月彦は全く自覚がなかった。
(……覗いてみるか)
何度か想ったが、さすがにそれは気が引けた。入っているのが真央だけならばよいが、霧亜も一緒なのだ。さすがに実姉の入浴を覗くというのは、人としてかなり危うい行為ではないかと月彦は思うのだ。無論、手遅れという自覚も微塵もない。
とはいえ、さすがにこの寒風吹きすさぶ中外に出るのは躊躇い、もう少し寒さが和らいだ頃に決行しようと心に決めて、今日の所は大人しく自室で真央の帰りを待つことにした。程なく、トトトと音を立てて真央が駆け上がってくる。
「父さま、お待たせっ」
部屋に入るなり、真央はベッドに座っている月彦に飛び込んでくる。すりすりと家猫のように体をすりつけながら、これでもかと甘えてくる。
「父さま、寒い日のお風呂って、とっても気持ちいいね!」
気持ちいい、という単語に月彦は引っかかってしまう。まさか、矢張り――という勘ぐりが顔に出たのか、真央がふるふると首を振る。
「姉さまとは、何もしてないよ?」
「ああ、勿論俺は真央を信じてるさ」
苦笑して、まだ乾ききっていない真央の髪と、肩、そして背を撫でる。んっ……と、真央が声を漏らして、心地よさそうに鼻を鳴らす。
「父さま……寒い……」
「寒い? 風呂に入ったばかりだろう?」
「うん、だけど……寒いの」
「そうか。暖房もうちょっと強くするか?」
と、月彦がリモコンに伸ばしかけた手を、真央が掴んで引き寄せる。
「そうじゃなくて」
真央は月彦の手をそのまま己の胸元へと沿え、ぐい、と押しつける。
「父さまに、暖めて欲しいの……」
そういうことか、と月彦は苦笑して、真央と口づけをする。蛍光灯の紐を引いて灯りを消し、そっと真央を押し倒す。月彦の下で、愛娘が至福の喘ぎ声を漏らした。
月彦の部屋の明かりが消えた瞬間、由梨子を縛っていた呪縛も解けた。はぁ、と大きく息を吐いて、由梨子は失意のまま踵を返す。――刹那、由梨子は固まった。
「えっ……」
由梨子が立っていた場所から三メートルほど離れた場所に長身の女が立っていたのだ。胸元の大きく開いたスーツに、きつね色のロングコートという出で立ち。片手に茶色の紙袋のようなものを抱え、もう片手には湯気の立つ焼き芋を持ち、はふはふと食べながらじぃ、と由梨子の方を見ていた。
「あ、お構いなく。続けて」
と、女は興味津々、面白い動きをする虫でも見るような目で由梨子を見る。
途端、由梨子の顔は真っ赤になった。女の顔には見覚えがあったのだ。
「ま、真央さんの……お母さん……」
いつから、と由梨子は掠れた声で呟く。真狐はちらり、と左手の腕時計を見る。
「んー、三十分くらい前から。雪が降り出した後くらい」
「っっっ……!」
由梨子は居ても立ってもいられなくなって、その場から走り出した。どこへ行くかなど、全く念頭に浮かばなかった。とにかく逃げ出したかった。
息の続く限り走って、人気のない路地にさしかかった辺りで由梨子は漸く足を止めた。コンクリートの壁に手をつき、はあはあと呼吸を整える。張り裂けそうなほどに心臓が高鳴り、肺も足も悲鳴を上げていた。
「お疲れ様。はい、飲み物」
「どうも……っっっって、真狐さんっ!」
てっきり振り切ったと思った真狐が真後ろに立っていて、満面の笑みで缶のお茶を差し出してくる。そんな馬鹿な、と由梨子は後退る。追ってきている気配は全くなかったのだ。
「冷たいのと暖かいのがあるけど、どっちがいい?」
「っっっ……」
「そうそう、逃げても無駄よ。あたし、足にはちょいとばかり自信があるの」
にぃ、とまるで狐のように笑う。由梨子は観念して、暖かい方のお茶を受け取った。
「何かワケアリみたいね。良かったら話してみない?」
新しい玩具を見つけた子供のような笑顔だった。それは暗に“話さないのなら、さっきの事を月彦と真央に言うわよ”という脅迫を含んでいるように由梨子には感じられた。
「そう警戒しなさんなって。こう見えてあたし、人助けが大好きなの。昔から困ってる人を見ると放っておけなくってさぁ」
力になるわよ?――甘い声でそう囁かれて、由梨子はつい頷いてしまった。まだ頭が混乱から完全に立ち直っておらず、傍らに居る狐がにぃっ、と意地の悪い笑みを浮かべた事には気がつけなかった。
どこか座って話せる場所へ移動しようということで、真狐に先導されて由梨子は住宅街の中にある小さな公園に連れてこられた。ドテラだけじゃ、ということで真狐にコートを貸して貰い、それがびっくりするくらいに暖かくて鳴りっぱなしだった歯がぴたりと止まった。
(まるで……生き物みたい……)
ふっさりとした毛皮のコート自体が熱を持っているかのように暖かく、さぞ高いものなのだろうと由梨子は想像する。こないだの事といい、ひょっとしてお金持ちなのだろうかと思って、はたと真央の言葉を思い出す。
(確か、借金があって一緒に暮らせないって……真央さんは……)
いや、でも借金があるのは父親の方だと月彦は言っていなかったか。気にはなるが、人の家の内実にあまり首を突っ込むのも失礼だと由梨子は思う。
「由梨ちゃん、お腹は減ってる?」
公園のベンチに座るや、真狐ががさごそと紙袋を漁る。いえ、と答えようとした由梨子の鼻を焼き芋の芳醇な香りが擽り、途端にきゅうとお腹が鳴ってしまう。真狐は苦笑して、見慣れない紙に包まれた焼き芋を一つ手にとって由梨子に手渡してくる。
「皮ごと食べても美味しいわよ」
「ありがとう、ございます」
焼き芋はこの寒さの中だというのに不思議なほどに熱を持っていた。由梨子はお茶の缶を横に置いて、そっと焼き芋に口を付ける。皮ごとでも美味しい、の言葉通り、皮の上からかぶりつき、口に含む。途端、ふんわりと芳醇な香りが口腔内に満ち、二口、三口と立て続けにはふはふと食べてしまう。
「どう、美味しいでしょう?」
「はい、すごく……美味しいです」
瞬く間に半分ほど食べてしまい、由梨子はそこでやっとお茶に口を付ける。焼き芋の中は見たこともないような黄金色で、自然な甘味と皮に残る僅かな塩味と相まっていくらでも食べられそうだった。
「でも、私が食べてしまっていいんですか? これ、本当は真央さん達に……」
「んーん。この間の仕返しに目の前でむしゃむしゃ食べてやろうと思って、わざわざ春菜んちの菜園から極上の芋を盗――おっと」
真狐は急に言葉を止め、そして自分も芋を食べ始める。
「仕返しって……この間の罰ゲームの事ですか?」
「そうよ。あんな屈辱を味わったのは久しぶりだわ」
「何を……させられたんですか?」
真狐は答えず、はふはふと芋にかじりつき、あっという間に一つを食べきってしまう。ふう、と息をついてお茶をごくごくと飲み干す。
「あたしの事はどうでもいいの。問題は由梨ちゃん、あなたでしょう」
「わ、私の事は……別に、相談するような事じゃ……」
「ふーん、雪が降るような寒い夜に人んちの前に三十分も立ってるのが相談するような事じゃないんだ。ひょっとしてそれが日常なのかしら?」
「あ、あれは……今日が、初めて、です」
由梨子自身、どうして自分があんな事をしてしまったのか説明が出来なかった。とにかく月彦の顔が見たい、側に居たいと思って、気がついたらあそこに立っていた。そうとしか説明が出来なかった。
「ほらぁ、自分でも解らないんでしょ? いいからおねーさんに相談してみなさい」
にっ、と真狐が意地悪く微笑む。明らかにおもしろがっているようなその笑顔がちょっと恐くて、由梨子は二の足を踏んでしまうのだ。
(……でも、確かに…………)
今の自分にはこのような事を相談するような相手は居ない。もう、打ち明けてしまおうか――そう、考えてしまう。
「………………真狐さん、狼少年という話をご存じですか」
由梨子は、訥々と騙り始めた。
「はぁ……はぁ……父さまの、凄く……暖かい……」
自分の腹の辺りをさすり、真央は呟く。先ほど中出しされたものがべっとりと膣内に張り付き、それを特大の剛直でさらに強く塗りつけられて、真央は喉を震わせて喘いでしまう。
「こりゃあ、本当に暖房いらねぇな……大分体も温まったし、部屋が寒い方が、もっと真央とくっつきたいって思うし」
月彦がリモコンを操作して暖房を消し、そのまま被さってきてぎゅう、と抱きしめられる。あぁ、と声を漏らして真央も月彦の背中に手を沿えて抱きしめる。
「真央はいいな、そうやってすぐ体が火照って寒くなくなるから。それに、真央は俺のが暖かいって言うけどな、真央のナカだって無茶苦茶暖かいぞ」
「そ、そう……? 父さまに挿れられると、それだけで……じんっ……って来て、すごく……熱くなっちゃうのかも……」
ひょっとしたら真央が熱い、と感じているのは剛直の熱そのものではなく、それによって反応、発熱してしまう自らの膣肉のほうではないおかと思ってしまう。――尤も、そのような理屈も次第に首を擡げる獣欲の前では段々どうでもよくなってくる。
「真央となら……雪山とかで遭難しても絶対凍死しない気がするな……」
と、月彦が苦笑する。雪山で遭難、山小屋の中で月彦と二人きり――そんなシチュを想像して、真央は顔を赤くしてしまう。
「……尤も、凍死はしなくても真央に搾り取られまくって飢え死にしちまうかもしれないがな。…………真央、次は後ろからしたい、いいか」
内耳を舐められながら、そんな事を囁かれる。うん、と頷いて真央は四つんばいになり、尻を差し出すように高く上げる。
「やっ……父さまっ……」
高く上げた尻を月彦が掴み、ぐにぐにと揉み捏ねる。さらに、両手の親指でくいっ、と秘裂を広げられ、真央は羞恥に悲鳴を上げる。
「凄いな……真央のここ。ひく、ひくってして、湯気が立ってるぞ」
「い、嫌……見ないで……」
しかし真央の懇願は聞き入れられず、月彦はぐいと秘裂を開いたまま鼻がつきそうな距離でまじまじと見てくる。あぁ、と声を漏らして真央は身震いする。
(だ、め……そんなに見られたら……また熱くなっちゃう……!)
月彦の視線に答えるかのように、下腹が熱を持ち始める。じっとりと、まるで汗が滲むようにして恥蜜が分泌され、とろとろと溢れ始める。……くすりと、笑い声が聞こえた。
「見られてるだけでこんなに溢れさせて、全く……」
「ぇっ、ぁっ、やぁっ……!」
広げられた場所に、ちゅっ、と月彦が吸い付く。
「やっ、だめっ……父さま……そんなところっ……」
「ダメじゃない。俺が……真央のここにキスしたいんだ」
ちゅっ、ちゅっ……と立て続けにキスをされ、媚肉が吸われる。その都度、下腹がさらに熱を帯び、真央は身震いして蜜を溢れさせてしまう。
「だめ、だめ……父さま、そんな所にキスされたら……私……」
「そうか、真央がそんなに言うなら……」
と、月彦は唐突にキスを止めた。代わりに、とてつもなく堅いものがグリグリと押しつけられる。
「あっっ、やぁっっひぃっ……ンンンンン!!!!」
腰を掴まれ、ごちゅんっ――と奥まで一気に貫かれる。
「あぁぁぁぁぁああっッ!!」
ベッドシーツを握りしめ、真央は下腹部を襲う圧迫感に耐える。何度されても、慣れない。そして、この息苦しさが身が蕩けるほど気持ちよくて、たまらない。
「ふーっ……ふーっ……やっぱり、熱いのは真央のナカの方だ。……動く、ぞ……」
月彦の息づかいが人のそれからケダモノのそれに変わっていくのを感じながら、真央もまたケダモノのようにサカり声を上げる。既に月彦の操作によって部屋の暖房は止められていたが、熱く滾る体を求め合う二人にはなんら関係のない事だった。
「狼少年って、イソップのあれでしょ。おぉーかみがでたぞぉー!ってやつ」
ええ、と由梨子は頷く。
「私はその狼少年なんです」
「どういうこと?」
真狐は興味津々という具合に、ずいと身を寄せてくる。
「……私、前に一度……月彦先輩に好きだ、って言って、騙そうとしたことがあるんです。理由は、聞かないで下さい」
「気になるけど、まあいいわ。それで?」
「その頃は……私、先輩の事……好きでも嫌いでもなくて……いえ、どちらかといえば、嫌いな方でした。だから、そういう嘘も、平気でつけたんです」
「でも今は違う……ということかしら?」
はい、と由梨子は頷く。
「へぇえ、あの朴念仁に二股がけする器量があったとはねぇ」
「いえ、その……先輩は関係ないです。私が、勝手に……」
「そう? この間のボウリングの時に見た感じじゃ、結構仲良さそうに見えたけど」
「それは……先輩は、優しいですから」
ふぅん、と頷いて真狐はまたさらに新しく芋を取り出してはむはむと食べ始める。由梨子も勧められたが、断った。
「つまりぃ、由梨ちゃんは月彦の事が好きになっちゃったと。でも、前に一度好きって言って騙しちゃったから、それも言えないと。そういうこと?」
「あ、いえ……」
そうあけすけに言われるとさすがに恥ずかしく、由梨子はうなずけなかった。でも、否定はしない、それが精一杯の意思表示だった。
「それで、こんな寒い中飛び出して来ちゃうくらい思い詰めちゃったんだ」
「…………………………………………はい」
否定出来ず、こくんとうなずく。正確には、言い出せないのはそれだけの理由ではなかったが、否定すれば嘘になってしまう。ふむふむ、と真狐も頷く。
「言っちゃえばいいのに」
「え……」
「好きなら好きって言えばいいじゃない。遠慮する事なんか無いわ」
事も無げに真狐は言う。その目は何をそんなに悩んでいるの?と言わんばかりだ。
「で、でも……私……前に……」
「だからって待っててもしょうがないでしょ? だーいじょうぶ、由梨ちゃんが気にしてるほど、アイツは気にしてないって。このあたしが保証するわ」
待っていても仕方がない――その言葉が、由梨子の胸に突き刺さる。確かに、そうかもしれない。
「あ、あの……真狐さんは、真央さんのお母さん……なんですよね?」
「そうよ」
「真央さんと、先輩の関係は……知ってるんですか?」
「勿論」
何を今更、とばかりに真狐は胸を張る。それを知っていて、娘の男に告れという真狐の神経が由梨子には些か理解できなかった。
「なーんだ、そんなこと気にしてたの?」
「だ、だって……真央さんは、友達、ですし……真央さんを、裏切るなんて……」
「じゃあ、我慢できるの?」
どきん、と胸が跳ねる。我慢、出来るのだろうか。このままずっと気持ちを抑え続けて、やがて風化してしまうまでおくびにも出さず過ごす事が出来るだろうか。
(無理だ……出来ない……)
そんなの地獄だ。気が狂ってしまう――由梨子は想像して、ゾッとした。
「寝取っちゃえばいいじゃない」
真狐の言葉が、由梨子の心の隙間を狙うようにするりと入り込んでくる。
「我慢なんかしないで、本能のままに動けばいいのよ」
文字通り悪魔の囁きが、由梨子の耳を擽る。寝取っちゃえ――さらに由梨子の背を押すように、真狐が唆してくる。
「で、でも……」
「踏ん切りがつかない? だったらいい物をあげるわ」
そう言って、真狐はごそごそとスーツのポケットを漁り、小さな巾着袋のようなものを取り出し、由梨子に手渡してくる。由梨子は巾着の紐を解いて、中身を取り出してみる。黒い丸薬のようだった。
「惚れ薬よ」
「え……」
「一粒でも十分効くけど、数が多い方が効果は覿面よ」
にぃっ、と真狐は意地悪な笑みを浮かべる。
「何にでもすぐ溶けるから、二人きりの時にジュースにでも混ぜて飲ませるといいわ」
「そん、な……私、こんなもの――」
「真央は使ったわよ」
薬を返そうと差し出しかけて、それが真狐の言葉で止まる。
「まさ、か……そんな、真央さんが……」
「信じるも信じないも由梨ちゃんの自由。あたしは出来る限りのアドバイスはしたし、手も貸したわ」
すっ、と真狐は立ち上がり、スーツのお尻をぱんぱんとはたく。
「そうそう、心配しなくても由梨ちゃんの事、あいつらにチクったりしないわ。……兎も角これで、ボウリングでの貸しは無しね」
「真狐さん、待っ――」
由梨子が呼び止めようとした時、不意に背後できぃっ、と自転車が止まる音が聞こえた。
「姉貴ッ!」
由梨子は振り返る。血相を変えた武士が自転車から飛び降り、由梨子の方に駆けてくる。
「こんな所で何やってんだよ! 死んじまうぞ!」
「何って……話を……」
「話ぃ?」
武士がうんざりしたような声を出す。由梨子はハッとして後ろを見た。ベンチにも、公園内のどこにも真狐の姿は無かった。由梨子が着ていた毛皮のコートすらいつの間にか無く、手の中に残る布袋の感触が無ければ夢でも見ていたのではと疑ってしまう所だった。
「姉貴……しっかりしてくれよ……」
狐にでも化かされたのかよ、と武士は毒づく。案外そうなのかもしれない――由梨子は布袋を握りしめながら、そんな事を思った。
早朝、窓の外の異様な輝きで月彦は目が覚めた。そろそろと体を起こして、結露した窓をきゅっ、きゅっと手で拭う。
「おおっ! 見ろ、真央!」
窓を開けるや、月彦は叫ぶ。ベッドで寝ていた真央は目を擦りながら体を起こし、ふらふらと月彦の隣に来て外を見る。
「わぁあ……積もってる!」
「ちょこっと、だけどな」
道理で寒いわけだ、と月彦は苦笑する。手を伸ばして屋根瓦の上に二センチほど積もった雪を掴み、握りしめてみる。当たり前のことだが、じんと痺れるほどに冷たかった。
「もーちょっと積もれば雪だるまでも作れたんだけどなぁ、残念だ」
「作れないかなぁ……」
月彦の真似をするように、真央も瓦屋根の上の雪を手に取り、握りしめる。
「そこら中からかき集めまくれば作れるかもしれないけどな。……残念な事に、今日は平日だ、そんな時間的余裕はない」
シャワーを浴びるぞ、と月彦に誘われて真央はうんと頷く。もちろん、風呂場でもやることをやってしまうから、ますます時間が無くなってしまうのだ。
いつものように朝食と支度を終え、家を後にする。そのころになると、道路に積もった雪は殆ど通行人によって見るも無惨に踏み固められていた。
「もっと降ればよかったのにね」
「でも、積もったら積もったでいろいろ大変だけどなぁ」
そうはいっても、やはり残念ではある。さすがに雪だ雪だとはしゃぎ回る年ではないが、心が浮かれてしまうのを禁じ得ない。
(……なんか、今日は良いことがありそうだな)
漠然とそんな事を思いながら歩を進める。程なく見慣れた校門が見えてきて、その側に立つ少女の姿が目に入る。
「おーっす、由梨ちゃん」
「由梨ちゃん、おはようー」
声をかけると、由梨子も月彦達の方を見た。一瞬、まるで恐い物でも見たかのように怯えの色を見せたが、月彦がそれを気にとめる前に笑顔に変わった。
「おはようございます」
さあ行きましょう、真央さん――そう言って、いつもならすぐに真央の手を引いて一年の昇降口へと歩いていってしまう筈だった。しかし、今日に限って校門を潜っても月彦の隣をぴったりと歩き、異変に気がついた真央が首を捻る。
「ぁ……じゃ、じゃあ真央さん、行きましょうか」
そしてこれまた唐突にうわずった声を出して、由梨子は真央の手を引いて昇降口へと走り去ってしまう。
(ん……?)
と、月彦が首を傾げたのは、由梨子が走り出す寸前にその手が月彦の手に触れたからだ。手を握った――というほどのものですら無く、すぐに離れてしまったが手の中には異物感があった。見てみるとそれはメモの切れ端のようだった。
放課後、裏門で待ってます――メモにはただ一言そう書かれていた。ハッとして顔を上げると、同じく後ろを振り返った由梨子と目があった。
(……なんか、前にも似たようなことがあったような…………)
不思議な既視感を感じながら、月彦はメモをポケットに仕舞い、自らも昇降口へと向かった。
一日そわそわして過ごして、放課後。月彦は昇降口を出るなりすぐに裏門へと向かったが、由梨子の姿は無かった。
(真央を先に送っていったのかな)
これで三人一緒に帰る、という選択は無くなった。ならば、一体何の用なのだろうか。
(前は確か……)
こうして裏門で待ち合わせて、そして家に呼ばれた。そこで、由梨子に告白されたのだ。無論、虚偽のものだったが。
思い返せば、由梨子とそんなにぎくしゃくすることが無くなったのはあの時からだと気がつく。雨降って地固まるの典型かもしれない。
「すみません、先輩。遅れました……」
はあはあと肩を揺らして由梨子が走ってくる。方角的にやはり一度真央を送って行ったのだろう。
「いや、今来たばかりだけど。今日はどうしたの?」
「用……というほどの事じゃないんですけど……」
ちらり、と由梨子は周囲を見渡す。釣られて月彦も見るが、さほど人が多いというわけではない。
「ここじゃ、ちょっと……家まで来て頂けますか?」
「いいけど……そんなに込み入った話?」
はい、と頷いて、そして由梨子が歩き出してしまうから月彦も後に続かねばならなかった。
由梨子の家に着くまでの間、会話らしい会話は殆ど無かった。月彦が何か話し掛けても生返事で、どうも何か重大な心配事があって、そのことにばかり由梨子は気を囚われているようだった。
「……お母さん」
不意にぼそりと、由梨子のほうから話し掛けられる。
「うん?」
「真央さんのお母さん、不思議な方ですね」
「いきなりだなぁ……もしかして、また会ったの?」
「はい、昨日」
「マジか……何かされなかった?」
「お芋を貰いました。とっても美味しかったです」
げっ、と月彦は口を引きつらせてしまう。
「美味しかったって……体は大丈夫? 何ともない?」
「別に……いつも通りですけど。どうしてですか?」
不思議そうな顔で返されて、月彦は言葉に詰まる。まさか、発情を促すような食べ物を持ってきた前科がある、とは言えない。
「……いや、あいつは古くなった食べ物を人に食わせた前科があってな」
「そうなんですか……でも、お腹が痛くなったりとかはしてませんから、大丈夫だと思いますよ」
「そうか。でも、次も大丈夫とは限らないから、何か食べ物をもらったら絶対口をつけないほうがいい」
大げさですね、と由梨子は微笑む。全然大げさじゃないんだ、と月彦は心の中で返した。
程なく宮本邸に到着し、月彦はまたしても貸し付けられた猫のような神妙さで上がる。由梨子に連れられて真っ先に二階の由梨子の部屋へと通される。部屋に入るなり、女の子の部屋特有の甘い香りがふわりと鼻を掠めた。
「……私、飲み物とってきますね」
そう言って、由梨子は月彦を部屋に残して一人階下へ降りていってしまう。月彦は手持ちぶさたになって、とりあえず部屋の中を見回すことにした。
(これは……)
月彦は勉強机の上に置かれている白い置き時計に着目する。以前来たときはなんとも思わなかったが、由梨子から話を聞いてしまった以上、どうしても気になってしまう。
(由梨ちゃん、まだ姉ちゃんの事……)
それは、あまり考えたくない事だった。由梨子が、まだ霧亜の事を想っている――その事実が、以前にも増して月彦には耐え難く感じられる。
月彦は置き時計を手に取る。時計塔を模しているという事以外に特別なギミックなどはない様だった。何のことはない、安物の置き時計だ。アラーム機能すらない、ただの置き時計。
(由梨ちゃん……)
これは、霧亜の呪縛だ。そう思うと、途端に置き時計が憎くて堪らなくなる。ひねり潰してしまいたくなって、月彦は置き時計を掴む手に力を込める。
みしっ……と、そんな音が聞こえて、ハッと力を緩める。慌てて罅などが入っていないかを確かめ、ホッと胸をなで下ろす。
(……俺は、何をやってるんだ)
人の部屋で、勝手に人の物を壊そうなんて何様のつもりだと、己で己を叱咤する。立っていると嫌でも時計が目に入って気分が悪くなるから、月彦は絨毯の上に腰を下ろして由梨子を待つ事にした。
冷蔵庫からパックのオレンジジュースを取り出し、二つのコップに注ぐ。氷を入れたものか迷ったが、ただでさえ寒いのだから要らないだろうと由梨子は思った。
(後は……)
スカートのポケットから布袋を取り出し、紐を解いて中身を掌の上に乗せる。黒い、糖衣のようなもので包まれた丸薬だ。それを数粒まな板の上に置き、すりこぎの先で糖衣を割り、潰す。中に入っているのは何かの植物を干して挽いたものに黒っぽい液体を混ぜて練り合わせたものらしかった。由梨子は丹念に潰し、それを片方のコップの中へと入れる。ストローでよくかき混ぜ、隣のコップと比べて色の変化がないことを確認する。問題は味だったが、少しだけ口に含んで味見をした限りでは差異は感じられなかった。
コップの縁をキッチンペーパーでふき取り、後かたづけをする。まな板を洗い、すりこぎを洗い、それらをしまった後で、はたと頭が冷えた。
(……私、最低な事をしようとしてる…………)
惚れ薬なんて、在るわけがない。薬で左右されるほど人の気持ちは単純ではない。何度もそう思った。それなのに、気がつくと使ってしまっている。
(……恐い)
自分の気持ちが、自分で制御できない。それはとても恐ろしい事に思えた。
ぎゅっ……と、肩を抱く。惚れ薬なんて嘘だ。今すぐこのコップの中身を捨てて、新しくジュースを注ぎ直すのだと、自分に命令する。でも、出来ない。
(真央さんだって、使ってる……)
己の罪悪感を誤魔化すための、卑怯な理論だった。人がやっているから、自分もやっていい。真央が使っているところを自分の目で確かめたわけでもないのに。
(それにどうせ、効かないに決まってる)
だったら、使っても問題がない。大丈夫、惚れ薬なんて無い――由梨子は己の中の良識を必死に誤魔化しながら、コップを二つ、盆に乗せる。震える手でそれを持ち、二階へと戻る。
「おっ、由梨ちゃん。遅かったね」
すみません、と微笑を返して、由梨子は一端盆をベッドの上に置く。折りたたみ式のテーブルを出して、その上にコップを並べる。無論、惚れ薬入りのものを月彦の目の前に。
「気なんて遣わなくていいのに」
月彦が苦笑する。由梨子も釣られて愛想笑いをする。気を遣ったわけではない、自分のために必要だからやっただけなのだ。
(本当に、最低だ……)
一度目は好きだと嘘をつき、騙した。そして二度目は――。
「由梨ちゃん、どうしたの?」
「あ、いえ……何でもないです。どうぞ、飲んで下さい」
無理矢理笑顔を作って、由梨子は自分のコップに口を付ける。月彦は訝しそうにしつつもコップを手に取り、持ち上げる。
「本当に大丈夫? なんか顔色悪いみたいだけど」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
しかし、月彦はなかなか口に運ばない。コップを手に取ったまま、由梨子の心配ばかりしてくる。
(心配される価値なんて、無いのに……)
愛想笑いをしながら、その実、月彦が惚れ薬入りのジュースを飲むのを虎視眈々と伺う。それが自分の正体だ。
かつて、月彦は言った。由梨子は躾が行き届いている、行儀正しいと。それは本当に誤りなのだ。本当にそうだったら、どんなに良かったか。由梨子自身、切に願わざるを得ない。
(先輩に、想ってもらえるなら……)
汚い女になる事さえ、厭いはしない。たとえ真央に泥棒猫と罵られても構わない。
(……私にはその覚悟が、ある)
そう、思っていた。その筈だった。なのに――。
月彦がコップを持ち上げ、口をつけようとしたその瞬間、体が動いていた。
「先輩、駄目ですッ!」
身を乗り出し、由梨子はコップをはじき飛ばす。えっ、という月彦の顔。かたん、と音を立ててコップはテーブルの上に転がり、オレンジジュースがそこら中に飛び散った。
あぁ、と由梨子の口から声が漏れた。同時に、溢れる涙。
「ちょっ、由梨ちゃんどうし――ってああ、絨毯が」
月彦が慌てて立ち上がり、箱ティッシュから中身をむしり取ってジュースを拭き始める。意気地なし――そんな幻聴を心の中で聞いた気がした。
「拭ける限り拭いたけど……これは後で水洗いとかしたほうがいいかもなぁ……」
月彦はオレンジジュースが零れた絨毯をティッシュで念入りに拭き、それをゴミ箱へと放る。一体全体なんでこんな事に――と、思わざるを得ない。
由梨子に家に呼ばれ、飲み物を出され、飲もうとしたら駄目だと言われ、コップをはじき飛ばされたのだ。ひょっとして何か自分に落ち度があったのかと思って記憶を探るも、とんと心当たりが無かった。
かといって由梨子に理由を尋ねようにも、ぐすぐすと泣いてしまっているのだ。とても声をかけられる空気ではなく、やむなく月彦は由梨子が泣き止むまで待たねばならなかった。
「ごめんなさい、先輩……」
やっと由梨子が喋ったと思えば、そんな謝罪の言葉だった。
「いきなり謝られてもな……ちゃんと説明してくれないか?」
ほら泣かないで、と出来るだけ優しい声で由梨子にティッシュを差し出す。由梨子はそれで涙を拭い、またごめんなさい、と言う。
「……さっきのジュースには、薬が入ってたんです」
「薬……って、何の?」
「……それは」
きゅっと、由梨子はスカートの上で拳を作る。
「惚れ薬、です。……そう、聞きました」
「ほれ、ぐすり――?」
はい、と由梨子は頷く。
「待てよ、そう聞いたって、まさか由梨ちゃんにその薬を渡したのって……」
「……真狐さんです」
「な……」
なんで――、と呟くと同時に、月彦の胸に湧いてきたのは紛れもない怒りだった。誰に向けて、という具体的なものではない。ただ、漠然とした怒りだけが沸く。
「……由梨ちゃん、説明してくれ。場合によっちゃ、本気で俺は怒るぜ」
自然と、恐い声になる。それを聞いた由梨子が酷く悲しそうな顔をする。あぁ、やっぱり――そう言われているような気がした。
「……当然、ですよね。前と、合わせて……二回目、ですし」
確かに、と月彦は既視感を感じざるを得ない。この不愉快な感じはあの時、由梨子に無理矢理抱かされようとした時に感じたものにさも似ていた。
「……先輩は、狼少年という話を知っていますか?」
「ああ」
「散々嘘をついて、村人達に愛想を尽かされた少年は最後、本当に狼に襲われますよね。その時……少年はなんて言えば助けてもらえたんでしょうね」
月彦には、由梨子が何の話をしているのか解らなかった。何故今、そんな童話のたとえ話をする必要があるのだろうか。
由梨子は、月彦の無言の疑問を無視して、続ける。
「村人達は少年の言うことを信じないわけですから、狼なんて来ていない――そう言えば良かったんでしょうか。それとも、熊が出たとでも言えばよかったんでしょうか」
「由梨ちゃん……」
「私はきっと、少年がもう何を言っても村人は動かなかったと思うんです。それが嘘つきの代償、末路なんじゃないでしょうか」
「……解らない。何が言いたいんだ、由梨ちゃん」
「つまり、こういうことですよ、先輩」
由梨子は目尻に涙を浮かべたまま微笑む。
「私は先輩の事が好きなんです。今日家に呼んだのもそれを伝えたかったからなんですよ」
あぁ、言ってしまった。我ながら最低の告白だと、由梨子は思う。
勝手に家に呼んで、勝手に薬を盛って、勝手にそれをバラして、自暴自棄になって。挙げ句、この最低の告白だ。
良い娘ぶろうとしてもなりきれず、ならば卑怯者になろうとしても、臆病風に吹かれて最後の一歩を躊躇う。最低だ、性根の芯まで最低だと、由梨子は己に毒づきたくなる。
「……由梨ちゃん、俺はそういう冗談は嫌いだって、前に言った筈だ」
だから、そう言って月彦が席を立ったのは当然だと思うし、むしろ心が晴れる思いだった。これで、間違いなく自分は嫌われた。妙な希望を抱かずにも済む、真央を裏切らずにも済む。
さあ、早くこの最低な女を見限って、真央さんの所に帰って下さい――由梨子はそう願うが、しかし月彦の足は立ったまま一向に動かなかった。
「帰る……って言いたい所だけどな。生憎、俺は由梨ちゃんが何の理由も無しにそういう事を言うような子じゃないって知ってるからな」
ふぅ、とため息をついて月彦は座り直す。
「ワケがあるんだろう? そういう嘘をつかなきゃいけない理由がさ」
そして、微笑みかけてくる。だめ……と、由梨子は声にならない声を出す。
「あのバカに何か吹き込まれたのか? それともまた姉ちゃんか? 俺でよかったら相談にのるぜ」
「……だめ」
由梨子の呟きに、ん?と月彦は首を傾げる。
「だめ、です……優しく、なんて……しないで下さい……」
震える声で、由梨子は呟く。月彦がさらに不思議そうな顔をする。
「どうして、そんなに私に優しくしてくれるんですか……先輩には、真央さんが居るのに……」
「いや、この際真央は関係無いだろう。俺はただ、由梨ちゃんの役に立ちたいと――」
「帰って下さい!!」
気がついたら叫んでいた。あまりの大声に月彦は仰け反り、目を丸くしていた。
「……お願いします、今日は帰って下さい…………」
「由梨ちゃん……」
月彦は困ったように後ろ髪を掻く。そして嫌だ、と言った。
「どうしてですか」
「由梨ちゃんが放っておけないからだ」
悪いか、とばかりに月彦は胸を張る。そんな月彦が、由梨子には憎くさえ感じられてしまう。
(どうして、帰ってくれないんですか……)
一緒になることが出来ないのなら、いっそ嫌われてしまったほうが楽だと、そう思ったのに。それすら叶わない。叶えさせてもらえない。
「頼むから俺を信じて、話してくれ。どうしてあんな嘘をつくんだ?」
「…………っ……」
その時点で、既に間違っているのだ。月彦の言うことは前提からおかしい、だからもう、由梨子には何も言えない。
(嘘じゃ……ないんです……)
この苦しさが形に出来たら。胸の痛みを伝えられたら。でも、由梨子の口は由梨子が言いたい事を何も喋ってはくれない。仮に言えても、由梨子の意志に反して月彦が勘違いをするような言い方ばかりしてしまう。
思えば、由梨子の体は由梨子の意志に逆らってばかりだ。食事を取りたいと思っても取れず、今は想いを伝えたいと思っても伝えられない。決定的な齟齬があるのだ。まるで、生まれてくる体を間違えてしまったかのように。
(嘘じゃ、ないって……)
言いたい、でも、言えない。由梨子はスカートの上で拳を作る。その手に、ついと何かが触れた。
「ぁ……」
「大丈夫だから。秘密なら絶対護るし、真央にも言わない。俺を信じてくれ」
月彦に触れられて、由梨子は自分の手がどれほど冷え切っていたかを知った。寒がりな由梨子は冬場はすぐに四肢が冷えてしまう。そんな手に、月彦の体温がじんと暖かい。
「嘘じゃ……ないんです……」
不意に、言葉が出た。
「本当に、先輩の事が好きなんです。だけど、先輩には真央さんが居て……それに私は……前に先輩に酷いことをしたから――」
だから、と言いかけて、また目から涙が溢れる。続きを促すように月彦に手を握られて、由梨子はハッと息を呑んだ。何かが、胸の奥で解けた気がした。由梨子の言葉を遮っていた、黒い氷のようなものが。
「だから、もう……好きだって言っても、信じてもらえないと思って……真狐、さんに……」
「そうか、解った」
月彦は頷いて、そやや強引に由梨子の腕を引いた。由梨子は引かれるままに月彦に身を預け、そしてぎゅうと抱きしめられた。そして――
「……俺も、由梨ちゃんの事が好きだ」
由梨子は、一生忘れられない言葉を耳にした。
由梨子の事が好き――それは、驚くほど自然に口から出た言葉だった。黒い物を見て黒。白い物を見て白というのが極当然のように、何の違和感も抵抗もなく言えた。
「えっ……」
と、由梨子が疑問を口にしたのは当然だろう。自分には、真央が居るのだから。
「誤解が無いように言っておくけど、真央の事も好きだ。由梨ちゃんの事が100好きだとすると、真央は105くらい好きだ」
「そんな……先輩、それは……卑怯、です」
「……かもしれない」
でも、言わずにはいられなかった。由梨子の告白を聞いて、月彦もまた胸の内につかえていたものが消えたのだ。イライラも疑念も、不思議なほど綺麗サッパリ消え失せていた。
「でも……嬉しいです」
由梨子は月彦に体を預けたまま、そっと手を握り替えしてくる。
「真央さんの次でも、二番でもいいんです。それで、十分です」
「こんな事を言っても仕方ないと思うけど、真央と会う前に由梨ちゃんと出会っていたら、きっと今以上に好きになってたと思う。それは……間違いない」
或いは、親子の情を抜いて純粋に異性間の好意という点で判断すれば、由梨子の方が上かもしれないと、月彦は思う。
「……でも、まさか先輩に好きって言ってもらえるなんて……本当に意外でした……。てっきり、私は嫌われているものだと」
「それは俺だって同じだよ。なんたって“霧亜先輩に嫌われるから話し掛けないで下さい”って言われたもんな」
「それは――」
由梨子が絶句して、顔を真っ赤にする。
「や、やめてください……そんな、昔の事……」
「それにこの部屋に入ったとき見つけたんだ。机の上に置いてあるあの置き時計、姉ちゃんにもらったやつなんだろ?」
「……はい」
「捨てたりせずにあんな風に置いてあるって事は、まだ姉ちゃんの事が好きなのかなって思った」
「……未練が無いと言ったら、嘘になります。けど……今はもっと好きな人が居ますから」
じっ、と不安げに見上げられて、月彦はうぐと呻いてしまう。
(やばい、滅茶苦茶可愛い……)
最初は、冷たい娘だと思った。次第に可愛いなと思うようになって、最近になって特に強く思い始めた。しかし、今ほどそれを痛感したことは無かった。
「本当は、この間だって先輩をボウリングに誘おうとしたんですよ? それなのに……」
「……そうだったのか」
そういえば真央がそんな事を言っていたような覚えがあった。つまり、真央のカンは正しかったのだ。
「真央さんとのデートの約束とか、もうどうでもいいんです。それよりも、先輩とこうして……一緒に居られる事の方が何倍も嬉しいです」
「俺も、由梨ちゃんと一緒に居るのは好きだ。真央と一緒の時は……なんていうか、ハラハラビクビクって感じで、気が休まらないんだけど、由梨ちゃんと一緒にいると、凄く和む。安らぐんだ」
「真央さんと一緒だと、落ち着かないんですか?」
「落ち着かないっつーか疲れるっつーか……いや、あれはあれでいいんだが……その、やっぱりたまにはゆっくりしたいって思うだろ? そんなときに、由梨ちゃんの側に行きたいなぁ、って思うんだ」
「そうなんですか……じゃあ、これからはいつでも来てくださいね。好きなだけ和ませてあげますから」
「うん、その時は……よろしく頼む」
はい、と呟いて、由梨子はかくんと月彦の胸に頭を乗せてくる。これが真央だったら、早速鼻息荒く股間に手を伸ばしてくる所なのだろうが、由梨子はそんなことはしない。
「……なんだか、あんなに悩んだのが馬鹿みたいです。もっと早く、先輩に打ち明ければよかった…………」
「そうだよ、もっと早く言ってくれりゃ……いや、俺が言うべきだったのかな」
「どうでしょう。真央さんって彼女が居るのにそんな事を言われたら、逆に先輩の事を軽蔑してしまったかもしれません」
「……普通、そうなるか」
月彦はがっくりと肩を落とす。ふふ、と由梨子が笑みを零した。
「……冗談です。先輩にそんな事言われたら、きっと私……舞い上がっちゃったと思いますよ」
「でも、由梨ちゃん。俺には真央が居るんだ……悪いけど……」
「解ってます。今日は先輩に気持ちを伝えられて、返事が聞けただけで十分です。これ以上望んだら、罰が当たっちゃいます」
ごめん、と月彦はもう一度謝る。
「さっきも言いましたけど、私は二番でいいんです。先輩が真央さんと居るのに疲れた時に、少し私の所に来てくれれば、それでいいんです。余計な気なんて使わないで下さい」
「……でも、それじゃあ、あまりにも――」
由梨子に悪い、と思う。それではまるで、良いところ取りの二股がけではないか。
「もし、私に悪い……そう思ってくれるんでしたら、一つだけ我が儘を聞いてもらえませんか?」
「何でも――ってわけにはいかないけど、出来る限りの事はするよ」
さあ言ってみて、と月彦は促す。由梨子はしばし逡巡したあと、きゅっと月彦の手を握ってきた。
「その……強く、抱きしめて欲しいんです」
「そんなことでいいの?」
「は、はい……お願いします、ぎゅうっ、って……」
「解った」
月彦は両手で由梨子の体を抱き、ぎゅうと抱きしめる。ン、と由梨子が声を漏らして、慌てて力を緩めた。
「ご、ごめん……苦しかった?」
「いえ……もう少し、強くても大丈夫です」
「そ、そうか……じゃあ……」
月彦は改めて由梨子の体を抱きしめる。真央の体よりも細く、華奢に感じる由梨子の体はあまり力を込めると折れてしまいそうだった。
「先輩……もっと、強く……」
「わかった、これくらいかな?」
月彦はさらにぎゅう、と両腕に力を込める。由梨子がやや苦しげに呻いて、不意にその唇が月彦の方を向いた。物欲しげな唇に、ゾクリと……悪寒に近いものが走る。
(ぁ、やば……い……)
そう思った時には、由梨子と唇を重ねていた。ン、と由梨子が喉を鳴らして、月彦の背中に手を回してくる。
(真央……すまん……)
心の中で真央に頭を下げながらも、それでも月彦は唇を離す事が出来なかった。
「ン……」
それはあまりに自然な仕草で、由梨子には拒む暇も、理由も無かった。身を包む心地よい圧迫感。そして、唇に当たる感触――それは由梨子が長い間待ちこがれたものに他ならなかった。
(いけない……!)
不意にそう感じて、由梨子は咄嗟に月彦を突き飛ばした。抱擁を無理矢理解き、俄に距離を取る。
「だめ、です……先輩。それは……真央さんへの裏切り、です」
「……ごめん、なんか……スイッチ入っちゃって」
月彦が申し訳なさそうに後ろ髪を掻く。
「……抱きしめて、くれるだけでいいんです。……それ以上、されたら………………」
とくん、とくんと心臓が波打つ。それ以上されたら、どうなってしまうのだろう。“その先”の事を考えて、由梨子は赤面してしまう。
「……解った、もうしないよ」
約束する、と月彦が頷くや、由梨子は微かな落胆を覚えてしまう。――そう、本心では、手を出される事を望んでしまっているのだ。真央よりも、自分を選んでくれることを。しかし由梨子の中にある良識が、それを拒む。だから、キスを拒絶しつつも抱擁だけは望むという、ちぐはぐな要求になってしまう。
「ン……っ……」
由梨子は再び月彦に体を預け、ぎゅうっ、と抱きしめられる。
(……ぁ……)
じゅんっ……と、下腹部がとろけるような感じがして、由梨子は慌てて腰を引く。それを由梨子が逃げようとしていると見たのか、月彦がぎゅう、とより強く抱擁してくる。
「ぁ、……ぁ……」
息苦しいほどの抱擁だった。その圧力に絞り出されるように、下腹部が湿り気を帯びてくる。
「ん、ぁ……ぁ……!」
ぎゅぅぅぅ、とさらに圧迫され、由梨子はとうとう息を詰まらせる。月彦の背中に爪を立て、苦しいです――そう言おうとした途端、急に抱擁が解かれた。
「由梨ちゃん、声出すのは……反則だ」
ヤバかった、と呟いて月彦は苦笑する。でも約束は守ったぞと言わんばかりに得意顔だ。
「……ぁ………………」
頭がくらりとして、由梨子は絨毯の上に手をついた。驚くほど肌が上気していて、四肢の先までぽかぽかと火照って暖かい。
「由梨ちゃん、大丈夫? 顔、赤いけど」
「……先輩」
ごめんなさい、と呟いて由梨子は月彦の肩に手をかける。そして、胡座をかく月彦の膝の上に乗るようにして身を寄せる。
「私も、その……スイッチ、入っちゃいました」
「えっ……」
と呟く月彦の唇に、由梨子はキスをする。じゅん……と、また下半身が蕩けるのを感じた。
月彦は拒まず、そして何も言わず、再び由梨子を抱きしめてきた。そのまま二人、無言でキスをし続けた。
好き合った男女が密室に二人。なるようになってしまったという形の典型だった。
「先輩……」
物欲しげに呟く由梨子の唇に、月彦はキスをする。唇を離すと、今度は由梨子の方からキスをしてくる。何度も、何度も。互いの想いを確かめ合うように。
もう、真央の事はどちらの口頭にも登らなかった。今、この時だけはそれには触れないと、暗黙のうちに二人とも了解していた。
「先輩……先輩っ……」
次第に、由梨子の方からキスをする回数が増えてくる。ぐいぐいと上体を押され、月彦はとうとう絨毯の上に押し倒された。
「……由梨ちゃんって、意外と積極的なんだな」
苦笑すると、月彦の上に乗る形の由梨子は顔を真っ赤にする。
「そんな……そういう、わけじゃ………………」
ああ、そういえば初めてじゃないんだったか――月彦はそのことを思い出して、少しだけ落胆する。好きになった子の“初めて”は自分でありたい、という、男特有の我が儘だ。
「違うんです、先輩……あの、私、いつもは……こんなじゃ………………」
由梨子は顔を真っ赤にしながら、それでも手を月彦の制服に這わせてくる。
「さっき、先輩に抱きしめられてから……体が凄く、熱くて……」
「体が熱い、って……由梨ちゃん、ひょっとして……」
「はい……?」
「さっき、ジュースに真狐からもらった薬を入れたって言ったけど、味見か何か……した?」
「は、はい……ほんの少しだけ、ですけど」
「……それが原因だ」
恐らく、惚れ薬というのはいつものアレに違いない。そして少量とはいえ、それを接種してしまった由梨子は、いつぞやの雪乃と同じように発情してしまったのだ。
「真狐の薬ってのは、惚れ薬なんかじゃない。あいつが持ってるのは……強力な催淫剤だ」
つまり媚薬だ、と月彦は苦々しく説明する。
「……やめよう、由梨ちゃん。薬の勢いでこういうことをするのは良くない」
雪乃と同じ轍は踏まない、と月彦は苦渋の決断をする。由梨子の事が愛しくて、体を触れ合わせたくてたまらなかったが、肝心の由梨子が正常な状態でなければそれも意味がない。雪乃の時のように、事後に惨めな気分になるだけだ。
「……薬なんか、関係ありません」
ぎゅうっ、と。由梨子は月彦の制服を握りしめ、呟く。
「飲んだのは、ほんの少しです。それに……これは私がずっと願ってた事なんです。一時の気の迷いなんかじゃありません」
「いや……でも、やっぱりここは、一度頭を冷やして……後日……むぐっ」
言葉の途中で、月彦は由梨子に唇を塞がれた。ちろり、と小さな舌が出てきて、唇を舐められる。
「ダメです。……先輩にその気がなくても、もう……私が襲っちゃいますから」
はあふうと荒い息を吐いて、由梨子はノースリーブのセーターを脱ぎ、さらに制服のリボンを外す。
「ゆ、由梨……ちゃん?」
「先輩も……脱いで下さい」
由梨子はもどかしげに自ら月彦のネクタイを解き、ブレザーを左右に押しのけ、カッターシャツのボタンに指をかける。
(この感じ……やっぱり、真狐の薬だ)
と、月彦は直感する。止めねば――と思うが、頬を紅潮させてはあはあと荒く息をする由梨子がゾクゾクするほど可愛くて、つい見入ってしまう。
雪乃の時と同様、押しのけて強引に逃げることは出来る。出来るが――。
(やっぱり、俺は――)
由梨子が欲しい――そう、思ってしまう。カッターシャツのボタンが二つ目まで外された所で、月彦は由梨子の背に手を回してぐいと抱きしめた。
「せ、先輩……? あぁっ……!」
後ろ髪を撫で、さらに由梨子の耳に舌を這わせる。月彦の腕の中で由梨子は小さく震え、そしてぎゅうっ、としがみついてくる。
「せん、ぱい……ぁんっ! ぁっ、ぁっ……」
由梨子の可愛い声がもっと聞きたくて、月彦は丹念に耳を舐める。塗りつけた唾液でてらてらと光るほどに舐めた後は頬に軽くキスをし、絨毯に手をついて上体を起こした。
「由梨ちゃん……ベッドに上がろうか」
囁いて、はむはむと耳を甘く噛む。由梨子は顔を赤らめ、こくりと頷いた。
二人分の体重に、ベッドがきしりと悲鳴を上げる。由梨子は月彦に持たれかかるようにして座り、体を預ける。
(先輩……)
衣擦れの音を立てて、さわさわと体をまさぐられる。そんな愛撫の一つ一つが心地よくて、由梨子は喉を鳴らしてしまう。
ちゅっ、ちゅっ……と小刻みにキスをしながら肩を、腕を、背中を撫でられる。
(やっぱり、随分と違う……)
悪いとは思っても、比べてしまう。円香の、そして霧亜のそれと。どちらが巧いとか、そういう事ではなく、女のか弱い手と、男の手の違い。それが愛撫に如実に表れていた。
月彦の手が尻の方にまで伸びてきて、由梨子は軽く膝立ちをするようにして尻を浮かせた。月彦はスカートの上から尻の丸みを確認するような手つきで、さわさわと撫でてくる。
(あぁ……先輩、先輩……!)
由梨子もまたキスをしながら、月彦の体を撫でる。既にブレザーを脱ぎ、カッターシャツとその下に着ているTシャツ越しに月彦の体格を感じ取り、女と男の体はかくも違うものかと思う。
腕も太く、力強い。先ほど抱きしめられた時に、これだと感じた。女性同士では決して得られない、息が詰まるほどの包容。体の芯までとろけるような心地よさにじぃんと手足が痺れてしまったほどだ。
月彦の指が、由梨子の制服のボタンにかかる。真央とのそれで慣れているのだろう、月彦は片手で難なく外してしまった。そのまま上着が脱がされ、今度はブラウスに手がかかる。
(前の時と、全然違う……)
以前もこうして制服を脱がされた。その時は男の無骨な手で脱がされることに嫌悪しか感じなかった。それが今は月彦の指がブラウスのボタンにかかる度に胸がどきどきと高鳴り、自分の体と月彦とを隔てるものが減っていくことが嬉しくてたまらない。
由梨子は自らブラウスの裾を引っ張り出し、スカートの外に出す。ボタンが外された時に、すぐに脱がしてもらえるようにだ。自分がそんな大胆な事をしてしまうというのにも由梨子は驚いた。
ブラウスのボタンが外され、前がはだける。既に見せたことがあるとはいえ、由梨子はつい胸元を隠すような仕草をしてしまう。
「隠さないで」
胸を隠した手に、月彦の手がそっと添えられる。
「由梨ちゃんの胸を見たい」
月彦の手に押される形で、由梨子は胸元を隠した手を下ろす。決して強引ではなく、由梨子の意志を尊重するような力加減だった。
「グリーンのブラ、とってもよく似合ってるよ」
「……ありがとう、ございます」
月彦の手が背中に回り、ブラのホックが外される。ぁ、と声を漏らして由梨子は再び隠そうとしてしまうも、月彦に止められる。
「先輩……は、恥ずかしい……です」
決して、誇れるような大きさではない。特に由梨子は、毎日のように真央の巨乳を目の当たりにしているから、自分のものが余計に小さく感じてしまう。それが今、月彦の目に晒されているのだ。
「恥ずかしがる必要なんて無い。由梨ちゃんの胸……凄く、綺麗だ」
「そん、な……嘘です。真央さんに比べたら……」
「真央と比べたりするもんか。いや、たとえ比べたとしても、甲乙つけがたい、嘘じゃないよ」
「でも……」
「由梨ちゃんは、俺が信用できない?」
肩を掴まれ、真顔でそんな事を言われる。とくん、と一際高く、胸が高鳴るのを感じた。
「先輩、狡いです。……そんな風に言われたら、嘘だと解ってても信じちゃうじゃないですか」
「正直に言ってるだけなんだけど……まあでも、お互い様かな。俺だって、“姉ちゃんと比べられてたらどうしよう”ってビクビクしてるんだぜ?」
「……安心してください。先輩の方がずっと上手ですよ、本当です」
どうかな、と月彦は苦笑する。それで、由梨子の真央に対するコンプレックスは少しだけ楽になった。
由梨子は真央と比べられるのが不安だったが、月彦は霧亜と比べられるのが不安なのだ。そして由梨子が霧亜と月彦を比べないように、月彦もまた由梨子と真央を比べない。そう考えると、とても納得が出来た。
(でも先輩、本当に嘘じゃないんですよ?)
確かに、霧亜は慣れていた。愛撫の仕方も、衣服の脱がし方も、それぞれの技量では月彦を遙かに凌ぐかも知れない。……けど、それだけだ。
今なら解る。霧亜の愛撫には感情が籠もってなかった。少なくとも、愛情と呼べるようなものは何も。可愛い、好きよといった言葉さえ、今思えば空々しい響きだった気さえしてくる。。
(霧亜先輩は、本当に最初から、私のことなんてどうでも良かったんだ……)
舞い上がっていた自分にはそれが解らなかった。ただ、霧亜に声をかけてもらえるだけで、触ってもらえるだけで嬉しくて、勝手に相思相愛になった気でいた。
月彦の愛撫は無骨でぎこちないが、その分想いが感じられた。服の脱がし方一つとっても、自分は今大切に扱われているのだと身に染みる。
「……そうか、俺が言ったとき、由梨ちゃんはこんな気分だったのか」
「どういう気分なんですか?」
「同じさ。“嘘だと解ってても、信じてしまう”……ありがとう、由梨ちゃん」
ふふ、と由梨子が微笑むと、くいと肩を押された。由梨子は何の抵抗もせず、そのままベッドに押し倒される。
「似合わないかもしれないけど、もし……こういう時が来たら、言おうと決めていた言葉があるんだ」
由梨子は少しだけ上体を浮かせて、月彦に短くキスをする。――聞かせて下さい、唇の離れ際に、そう囁く。。
「俺が、由梨ちゃんの中から姉ちゃんの影を追い出してやる。姉ちゃんの事なんて、忘れさせてやる」
胸に刺さる言葉――とはこういうものを言うのだろう。
「……もう、先輩……やめて下さい」
ほろりと、勝手に涙がこぼれ落ちた。
「折角止まってたのに、どうしてくれるんですか」
「……ごめん、嫌だったかな」
逆です、と由梨子は呟く。あまりに嬉しくて、拗ねたような口調になってしまう。
「……先輩、責任取って下さいね?」
「え……責任?」
何を勘違いしたのか、月彦が驚いたような顔をする。由梨子はふふふと微笑む。
「霧亜先輩の事を忘れてしまったら、あれはもうただの置き時計です。責任とって、先輩が新しい時計買って下さいね?」
「……そう来たか」
月彦は後ろ髪を掻いて苦笑いをする。
「任せとけ、ちゃんと邪魔にならない時計を買って、由梨ちゃんにあげるから」
「ン、ン、んっ……」
由梨子の唇を啄み、逆に由梨子に啄まれたりしながら、月彦はそっと由梨子の胸元へと手を伸ばす。ボリュームこそ薄いが、仰向けになって尚お椀型に盛り上がったそれはなんとも月彦を魅了して止まない。
とはいえ、なんだかんだで巨乳ばかり相手にしてきた月彦としては、いざこういう胸を前にしたとき、どのように触っていいかよく解らなかったりする。頭の中にマニュアルが存在しないのだ。
美乳貧乳の類に触れた事が無いわけではないが、それでもやはり巨乳に触れた回数に比べれば圧倒的に少ない。自然と、遠慮がちな手つきになる。
「……ぁっ」
さわさわと障り、先端に触れた途端由梨子が声を出す。
「ごめん、痛かった?」
「いえ、その……」
逆です、と由梨子は顔を真っ赤にして答えた。そんな仕草が可愛くて、月彦はそのまま被さるようにして由梨子を抱きしめてしまう。
「えっ、あの……先輩……ン、ぅ……!」
抱きしめたまま、由梨子の唇を奪う。呼吸が出来ぬほどに締め付けて、シャツの背中に爪を立てられながら、唇を吸う。
「あっ……ふ……」
唇を離し、包容を解くと由梨子はそんな蕩けた声を出した。気のせいか、由梨子の体が先ほどより熱くなったようだった。
「もう、先輩……毎回そんな風にキスされたら、私……壊れちゃいます……」
拗ねたような口調。でもまんざらではなさそうな顔だから、嫌というわけではないのだろう。
「由梨ちゃんがあんまり可愛くて、つい……」
「……い、一応病み上がりなんですから、ああいうのは……その、いつもじゃなくて、時々にしてくださいね?」
「……そうしたいけど、由梨ちゃんがまた可愛い声上げたら、我慢できなくなるかもしれないから、その時はごめん」
言うだけ言って、由梨子が反論する前にその口を塞ぐ。最初は拗ねたように唇を閉ざしたままだったが、月彦が執拗に舌先でノックし続けると漸く由梨子も舌を出してきた。
「ン、んっ……」
由梨子の舌使いは真央とは明らかに違った。月彦も最初は戸惑ったが次第に由梨子の動きに合わせられるようになってくる。
(……ヤバい、由梨ちゃんって……すげぇキス巧い……)
そう感じてしまう。真狐のそれともまた違う、優雅な動きに月彦はリードされっぱなしだった。由梨子の舌使いを受けて、自分がどれほど雑なキスを重ねて来たのかを思い知った。
やられっぱなしは癪――とばかりに、月彦はそっと由梨子の胸元に触れた。んっ、と由梨子が喉を鳴らして微かに舌の動きが鈍る。控えめな膨らみをそっと円を描くように優しく揉み、先端を指の腹でくりくりと弄る。――耐えかねたように、由梨子が月彦の背に爪を立ててくる。
「んンっ、んっ……ンンっ……!」
丹念に先端を弄り続けると、由梨子はあからさまに取り乱してそれはそのまま舌の動きの乱れへと繋がった。これを機として、月彦はたっぷりと由梨子の舌を嘗め回し、嬲る。
「んは、ぁ……」
銀の糸を引いて唇を離し、胸の先端を摘む。
「んんっ……ぁっ、ぁっ、ぁっ…………」
はあはあという呼吸の合間に、可愛い声が混じる。それがなんとも耳に心地よくて、月彦はより丹念に由梨子の胸を愛撫する。
「あっ、あっンッ……ぁ、あのっ、先輩っ……んっ! そんなに、胸、を……ぁっ……」
「胸を、何?」
「む、胸、ばかり……っ……あっ、……ぁっ、……だ、だめっ、です、そんなっ……」
なるほど、胸の小さな子は感度が良いというのはやはり本当だと月彦は納得し、指の腹を突起の上に乗せてレバーでも動かすようにくいくいと前後左右に動かしてみる。
「せ、先輩っ、遊んで、ぅ……ません、か……ぁッ……?」
くっ、と唇を噛んで由梨子が抗議の目を向けてくる。
「いやその、どう触って良いかわからなくて」
「だ、だからって……きゃっ……!」
指でたっぷり弄ってピンピンに尖った先端を月彦は口に含み、吸う。ぬろぬろと舌先で転がすと、由梨子は背を反らせて声を上げる。
「せ、先輩っ……ぁ、あんっ……!」
ぱっ、と口を離すと、反っていた背が元に戻り、由梨子は脱力してはあはあと息を荒げる。何かを言いたそうな顔で抗議の目を向けてくるが、月彦は気がつかない振りをした。振りをして、そっと由梨子の太股に触れる。
「あっ……」
と、由梨子が声を漏らして身を強ばらせる。月彦が何をしようとしているのか、一瞬で察したようだった。
「あ、あの……先輩……」
「なに?」
「その……絶対、驚かないで……下さいね?」
「驚く?」
尋ね返しても、由梨子は顔を真っ赤にするばかりで答えない。ひょっとして色っぽい下着でも履いているのかなと勝手に想像をつけて、月彦はさわさわと由梨子の太股を辿り、スカートの中へと手を入れる。
「えっ……」
という声を、由梨子に予め驚くなと言われてなければ漏らしてしまっていただろう。しかし、口には出さなくても、顔には驚きが表れてしまったようで、由梨子があぁ、と声を出して手で顔を覆うのが見えた。
「えーと、あの……」
月彦の頭は軽い混乱に陥った。
「由梨ちゃん、ひょっとして……トイレ我慢とかしてた?」
「漏らしてません!」
壁が震えるような大声だった。月彦は気圧されて、少し上体を反らしてしまう。
「いや、だって……」
「お願いですから、言わないで下さい……気に、してるんです……」
気にしてる――そう言われては、月彦は黙るしかなかった。由梨子はそっと上体を起こして、自らスカートの端を掴み、恐る恐る持ち上げる。
「……やっぱり、変ですよね。霧亜先輩にも言われたんです……他の子に比べて、随分濡れやすいのね、って……」
由梨子が晒したその場所。ブラと同じくグリーンのショーツは色がすっかり変わっていた。さらに、その周辺、太股の付け根の辺りまでもが濡れ、てらてらと光沢を放っていた。
「先輩にぎゅうってされた時から、ずっと……なんです。ごめんなさい、軽蔑、しますよね…………」
由梨子の泣きそうな声に月彦はハッと混乱から立ち直った。そして遅蒔きながら、自分はなんという失言をしてしまったのかと反省する。
「……軽蔑なんてするもんか」
そして、月彦は今まで巧みに隠し続けた己の股間をここへ来て誇張するように示す。
「…………先輩……それ……」
「ズボンがあるからこんなもので済んでるけど、本当はもうガチガチなんだ。どう、軽蔑する?」
ここにきて、由梨子にも月彦が言わんとする事が解ったようだった。呆れと、安堵が混じったような笑みを浮かべる。
「……軽蔑なんて……する筈ないじゃないですか」
「うん。俺も全く同意見だ」
二人、同時に笑い合って、そしてどちらからともなく身を寄せる。月彦は由梨子の肩をしっかりと抱いて、逆の手でスカートの辺りに触れる。
「むしろ、そんなになるまで感じてくれたんだなぁ、って俺は嬉しくて堪らない」
「わ、私も……です。……先輩、私の体で……こんなに、なって……くれたんですよね?」
恐る恐る、という手つきで、由梨子が股間の膨らみに触れる。そして訪れる、無言。かちかちと、時計の音だけが室内に木霊する。
「……由梨ちゃん」
「は、はい……」
「由梨ちゃんが欲しい……いいかな」
まるでプロポーズでも申し込むような真剣な声で、月彦は囁く。数拍間を置いて、由梨子ははい、と答えた。
あぁ、とうとう――スカートを脱がされながら、由梨子は感極まって涙をにじませてしまいそうになる。
どれほど、この時を待ち望んだことか。決して叶わない、儚い願いだと決めつけて諦めかけていたことが今、現実になろうとしていた。
(……夢なら、醒めないで)
スカートが月彦の手によってベッドの外へと落とされる。もう、由梨子の体を包むものは下着しかない。
暖房などはつけていない。それなのに、微塵も寒くなかった。むしろ、体中が火照ってしまっていて、多少の寒気ならば心地良いくらいだった。
「……じゃ、じゃあ……由梨ちゃん」
「はい……」
月彦の手が、ショーツに添えられる。くっ……と、脱がされていく感覚に、由梨子はつい目を瞑ってしまう。
月彦の手つきはひどくゆっくりで、由梨子が三度呼吸をする間に一センチも進まなかった。尤も、それは由梨子の呼吸がそれだけ速い、という事の表れでもあるのだが。
「あっ……」
月彦の手が足の付け根の辺りにさしかかった時、由梨子の耳は不審な物音を聞いた。咄嗟に体を起こして、由梨子は下げかけられたショーツを無理矢理引き戻す。
「弟が帰ってきました」
「え……弟さんが……?」
微かに聞こえた玄関のドアの開閉音。それに続くぎし、ぎしという音。窓の外は暗く、時計は死角になって確認できなかった。
「弟さん……武士君、だっけ。まさか……相部屋……じゃあないよな……」
「となり、です……」
言っている側から、ぎしぎしという足音が近づいてきて、そして隣の部屋へと入る。どさっ、と鞄を置く音まで聞こえて、二つの部屋の間の壁が決して強固な物ではないことが嫌でもわかる。
「ど、う……しようか。俺は……帰ったほうがいいのかな」
月彦の声は至極残念そうだった。無論、それは由梨子とて同じだ。ここまで来て……という思いで胸が一杯だった。
(武士は、絶対に先輩の靴を見ている……)
つまり、客が来ているという事には気がついているはずだ。そして、それが男物の靴であることにも。
だったら、もう――隠すことは無いのではないか。
「……止めないで、下さい」
月彦の手に触れて、由梨子は小声で呟く。
「でも……」
「いいんです。遅かれ早かれ、気づかれる事だと思いますし……」
それに、と由梨子は月彦の股間をそっと盗み見る。今にもズボン生地を突き破りそうなほどに、ぱんぱんに張りつめてしまっている。
「……先輩も、その……したいんじゃ、ないんですか?」
「そりゃあ……でも、由梨ちゃん、考えてみたら……俺、スキン持ってないんだ」
「この間の残りならありますけど……」
「いや……あれじゃあ、ちょっと……途中で外れてしまうと思う。だから、どっちにしろ……今日は……」
そんな、と由梨子は呟いてしまう。折角夢が、願いが叶うと思ったのに。一つになれると思ったのに。
「……だったら私、買ってきます」
「えっ……」
「先輩はそのままじゃ歩けないでしょうから、私が行ってきます」
「ちょっ、由梨ちゃん……!」
スカートに伸ばした手を、月彦に掴まれる。
「由梨ちゃんだって……その、そんな状態で……外なんか出たら、風邪ひくよ」
そんな状態――月彦の視線を意識して、由梨子は慌てて足を閉じ、上からスカートを押しつけて隠す。
「でも、今度なんて……私、待てません……」
「俺だって待てない。だけど……」
方法が――、と月彦も苦々しく呟く。
(本当は……ある……)
決して安全とは言えない。それでも、今この場で別れる事に比べたら――そう、思ってしまう。
「……先輩、つけずにしませんか」
由梨子は月彦の顔色をうかがうように、恐る恐る申し出てみる。
「つけずに、って……」
「その、最後だけ……外に出してもらえれば……」
どきどきと心臓が高鳴る。自分がどれほどとんでもない事を言っているのかは、百も承知だった。たとえ中に出さないからといって、妊娠の可能性はゼロではないのだ。それなのに――それをねだってしまう。
「お願いします、先輩……それに、多分……大丈夫な日だと思いますし……」
「でも……」
「お願いします」
月彦の手を握って、由梨子は懇願する。勝手な想像かもしれない。それでも、ここで月彦を逃がしたら、確固たる絆を作る前に別れたら、月彦は二度と自分を抱いてくれない。そんな気がした。
(……一時の迷いは、私じゃなくて先輩の方かもしれない)
何となく、そう感じてしまう。ここで月彦が帰って、真央の顔を見れば思うに違いないのだ。ああ、やっぱり真央の方がいい――と。
(狡い、女だ……)
それはいつもの自己嫌悪。ただ、今回は踏みとどまれなかった。
「先輩と、一つになりたいんです。だから、お願いします。……もし、万が一……妊娠してしまっても、絶対に先輩の名前は出しませんから」
「それは、だめだ、由梨ちゃん」
月彦が手を握り替えしてくる。顔には、僅かながら怒りの色すら滲んでいた。
「……由梨ちゃんの気持ちはわかった。でも、最後のはだめだ。……もし、そうなったら、俺も男として責任はとる。約束する」
何となく、月彦ならばそう言ってくれるような気がしていた。ひょっとして、自分はそれを見越して言ったのだろうか――だとしたら、本当に狡い女だと、由梨子は思う。
(卑怯な女でも、酷い女でも、いい……)
今、抱いてもらえるのなら、その後にどんな苦難が待っていようと構わない。そのことで後悔など絶対にしない。何故なら――これほどまでに人を好きになったのは、生まれて初めてなのだから。
(もう、止まらない……)
とくん、とくんと高鳴る心臓。月彦に抱かれたくて、体の隅々まで火照ってくる。それは決して、薬のせい等ではないと確信できる。
「じゃあ、先輩……」
じっ、と月彦の目を見る。月彦はもう、何も言わず由梨子の体を抱きしめ、そしてベッドに押し倒した。
外はもうすっかり日が落ち、完全に夜となっていた。夕方ならば室内灯をつけずとも良かったが、日が落ちてはそうもいかない。
(それだけ、由梨ちゃんに夢中だったって事か……)
部屋はもう殆ど真っ暗と言ってよかった。微かに窓から入る月明かりでおぼろげに解ることは解るが、それも十分ではない。とはいえ、月彦は毎夜々々の“訓練”で常人より遙かに夜目が利くから、それでもさして問題はないのだが。
「だめです、先輩」
蛍光灯の紐に手を伸ばしかけた月彦を、由梨子が止める。
「その、恥ずかしい、ですから……」
「そっか。解った」
由梨子の心情を理解して月彦は蛍光灯の紐から手を離し、由梨子の方に向き直る。そして、そのショーツにそっと手をかけた。
そろそろと、慎重に脱がしていく。由梨子が僅かに体を浮かせて、脱がし易いようにしてくれたから苦はなかった。太股を越えてしまえば、するするとさしたる抵抗もなく足を抜ける。
(……やっぱり、結構……くるな)
異性の下着を脱がすという行為は男としてかなり興奮を禁じ得ない。それも、相手が由梨子であれば尚更だ。
真央相手だと興奮しないというわけではないが、由梨子ほどの緊張はない。それに、どちらかというと真央相手の場合はドキドキというより、ムラムラのほうが勝ってしまう。勿論、それはそれで月彦は気に入っているのだが。
「……足、開くよ」
はい、と小さな声で由梨子が返事をする。月彦はそっと由梨子の足を開き、ショーツに隠されていた部位を見た。部屋が暗いからか、真央よりやや恥毛が濃いように感じた。
(いや、あれは真央が薄いのか……)
むしろ由梨子が標準なのではと思う。はて雪乃はどうだったかと思い出そうとしたところで、あの……と由梨子が話し掛けてきた。
「どう……ですか? 私、変ですか?」
「そんな事無いって。……すごく綺麗だよ、由梨ちゃん」
そして、月彦も脱衣する。シャツを脱ぎ、ズボンのベルトを外し、靴下も脱ぐ。あれ、そういえば由梨子の靴下はと思って見ると、由梨子も靴下を履いていなかった。脱がした覚えは無かったから、いつの間にか自分で脱いだのだろう。
トランクス一枚だけの格好になって、月彦は残る一枚も脱いだ。全裸になる必要性は必ずしも無いのだが、せめて今日この時だけは、由梨子と同じく一糸まとわぬ姿でまぐわいたかった。
「わっ……」
と、由梨子が声を漏らしたのは月彦の股間を見たからだ。
「相変わらず凄いですね……その、気のせいか……この間よりも、大きく見えます、けど……」
「それは部屋が暗いのと、緊張してるからじゃないのかな」
苦笑して、月彦は由梨子に被さる。由梨子の足の間に体を入れて、そっと手を伸ばし、由梨子の恥毛に触れた。
「あっ、ま……待ってください、先輩……」
「うん?」
「……凄く、月並みな言葉で……申し訳ないんですけど……その、……私、初めてなんです。……だから、優しく、してくださいね?」
「え……だって前に――」
「お、男の人とするのは……初めてなんです!」
そんなこと言わせないで下さい、とばかりに由梨子が大声を出す。そして、隣の弟の事を思い出したのか、はたと手で口を塞ぐ。
「……じゃあ、男では……俺が初めてなのか」
「はい……ただ、……処女、というわけではないんです。最初に、付き合った相手に、その……」
道具で、と由梨子は消え入りそうな声で沿える。
「……すごく、後悔してます。もっと大切にして、そして……先輩に……貰って欲しかったです」
「……由梨ちゃん、大丈夫。その気持ちだけで十分、俺は嬉しいよ」
月並みな言葉だけど、と月彦は沿え、笑む。そして、止まっていた指を動かし、由梨子の恥毛をかき分け、秘裂に触れる。
「ぁ……」
月彦の肩に添えられた指が、かるく爪を立てる。月彦はそろそろと指を動かし、由梨子の秘裂の形を調べるように撫でる。
「あ、あのっ……先輩? んっ……!」
十分に潤っているのを確認してから、つぷりと人差し指を埋める。暖かい媚肉が、きゅっ、きゅっ……と指に絡みついてくる。
「ぁっ、ぁ……先輩、その……もう、私、大丈夫、ですから……ぁンッ!」
「大丈夫かどうかなんて、由梨ちゃんには解らないだろ? 男とするのは初めてなんだから」
でも――と由梨子が言うのを無視して、月彦はじっくり丹念に由梨子の秘裂を愛撫する。純粋に由梨子の媚肉に触れたいという思いもあるが、本当の目的は別の所にある。
(初めてなら、十分にほぐした方が良いはずだ……)
大人の雪乃はまだ大丈夫。真央は生まれつきのエリートとして、真狐は論外。つまるところ、月彦はまだ発育しきっていない“人間の”女の子とするのは初めてだった。
(処女じゃないからって、いきなり挿れたら……痛いかもしれない)
少なくとも、絶対痛くはないという保証がない以上、月彦は最善を尽くすつもりだった。由梨子の“初めての男”となる以上、間違っても痛い思い、嫌な思いはさせたくなかった。
「あっ、やっ……せんぱっ……ちょっ…ぁっ、ぁっ………だめっ…………ンッ……!!」
大分こなれてきたところで、指を二本に増やす。くちゅくちゅと音を立てて出し入れし、由梨子のナカをほぐしていく。
(由梨ちゃん……本当に濡れやすいんだ……)
ひょっとすると真央以上かもしれない。体質なのかなと思いながら、二本の指を徐々に、奥の方まで入れて丹念に愛撫する。
「せ、先輩……その、本当に、もうっ……っ…………ぅ……!」
気がつくと、由梨子が両手で月彦の右手を掴んで切ない声を上げていた。月彦ははたと指の動きを止め、ぬろりと引き抜く。
「由梨ちゃん、ごめん……痛かった?」
「違い、ます……その、あんまり、丁寧にされると…………」
指だけで、とこれまた蚊の鳴くような声でぼそぼそと呟く。ひょっとして濡れやすいだけじゃなく、感じやすいのかな――と月彦は納得する。
(そうだよな……指で触られるのは、由梨ちゃんだって初めてじゃないんだ)
霧亜や、その前に付き合っていたという女子にも、こうして丹念に愛撫されたのだろう。その事を考えると、メラメラと悋気がわき起こる。
(もう、絶対……誰にも渡すもんか……!)
霧亜にも、そしてその前の女子にも出来なかった事が、月彦には出来る。男として、男にしかできない方法で、由梨子を自分のモノにしたいと思う。
「わかった。……由梨ちゃん」
最早多くの言葉は要らない。左手を由梨子の右手と合わせ、指を絡めるようにして握り合う。
「はい、……来てください」
月彦は左手を合わせたまま、右手で剛直を掴み、由梨子の秘裂に宛う。くっ……と、由梨子の右手に力が籠もる。
「大丈夫、ゆっくりやるから」
安心して――そう囁いて、月彦は言葉の通りゆっくりと腰を埋めていく。
「うっ、ン……ぁっ、ぁっ、ぁっ…………」
ぎゅうううっ、と由梨子が右手で握りしめてくる。月彦は応じるように握り返しながら、剛直を進めていく。
「ぁっ、っくっ……だ、だめっ、です……先輩、もう……無理……」
「もう少し、もう少しだから……っ……」
自由な由梨子の左手が月彦の肩を掴み、一度離れては腕を掴み、爪を立ててくる。やっぱり、初めてだからか、愛撫が足りなかったのかと思案しながらも、月彦は腰を埋めていく。
(由梨ちゃんと……繋がりたい……)
その思いが、由梨子の体を気遣う気持ちよりも強くなってしまっていた。
「だめっ、だめっ……先輩……お願い、ですから……」
由梨子が悲鳴を上げるのも聞かず、月彦はとうとう剛直を根本まで埋没させた。先端からぐいっ、と由梨子の膣奥を押し上げる感覚が伝わってくる。
「かっ……ふっ……」
余程苦しいのか、はっ、はっ、と酷く浅い呼吸を繰り返す。由梨子の右手は依然、力がこもったままだ。
「由梨ちゃん……大丈夫?」
さすがに苦しそうだと思って、月彦は僅かに腰を引く。それだけで大分楽になったのか、由梨子の顔には安堵が走り、右手からも力が抜けた。
「大丈夫、です……苦しいですけど、我慢は、できますから」
「苦しいなら、無理しなくていい。こうして由梨ちゃんと一つになれたんだから、俺はもう満足だよ」
月彦も、左手は握ったまま、空いている右手で由梨子の頬を撫で髪を撫で、そして短くキスをする。繋がる前と、後ではキスの味まで変わった気がした。
(由梨ちゃんと……一つに、なれたんだ……)
それは、感動――と言っても決して大げさではない衝動だった。月彦は不覚にも落涙してしまいそうになって、咄嗟に瞼を閉じた。
「……先輩、嬉しいのは……私も一緒なんですよ?」
月彦の咄嗟の仕草の意味が分かったのか、由梨子もふふと微笑む。その目尻には、月彦同様涙がにじんでいた。苦笑して、月彦は由梨子の涙を舌先で舐め取り、そして由梨子も月彦の目尻を舐める。そして――キス。
「ン…………塩味のキスなんて、初めてです」
「俺もだ」
くすりと、由梨子が笑う。
「私達……本当に気が合いますね。…………先輩、いっそ私と――」
そこまで言いかけて、由梨子ははたと口を噤む。そして、ごめんなさいと呟いた。月彦には、何も答えられなかった。
「先輩…………このままでも、十分すぎるくらいに幸せなんですけど……」
「うん?」
「やっぱり……その、最後まで……してくれませんか?」
最後まで――その言葉の意味はもう言わずもがな。わかった、と月彦は頷いた。
「先輩……お願いします、手は、このままで…………んンっ!」
ゆっくりと、月彦が動く。由梨子の中に入れられた異物もまた、ずっ……と引き、そして押し込まれる。
「あっ、あっ……!」
体が跳ねて、勝手に声が出てしまう。声を出すまいと、或いは抑えようとしても、次に月彦が動いた時にはその思考ごと吹き飛ばされて、また声を出してしまう。
(だ、め……とな、り……武士が居る、のに……)
部屋から出て行った様子はないから、居るに違いないのだ。さすがに姉として、男に抱かれて喘ぐ声など、弟に聞かれたくないと思う。
「あ、あぁっ……んンンッ!!」
とうとう抑えきれなくなって、由梨子は自由になる左手で口を覆ってしまう。それを見た月彦が、動きを止めた。
「やっぱり、隣が気になる?」
だったら止めようか――そんな含みを孕んだ言葉だった。
「大丈夫、です……先輩は気にしないで下さい」
精一杯の笑みを浮かべて、月彦に動くように促す。武士に声を聞かれるのは嫌だが、ここで止められるのはもっと嫌だった。
「うちの壁……ああ見えて結構厚いんです。だから、大丈夫だと思います」
そんな筈はない。隣で荷物を置いただけで、その音が伝わるような粗末な代物だ。それでも、由梨子はそう言わざるを得なかった。
「そうか、解った」
そんな拙い言い訳でも月彦は納得したのか、それとも納得したフリをしてくれたのか、ゆっくりと抽送を再開する。
「ぁっ、……ぁっ、ぁっ……んっ……ぁっ……」
しかし、その動きは先ほどよりも明らかに緩やかな、そして辿々しいものだった。気遣ってくれている――それが痛いほど伝わってきて、由梨子は胸が苦しくなる。
「……先輩、遠慮なんて、しないでください」
「いや、別にそんな……」
「霧亜先輩を忘れさせてくれるんじゃなかったんですか?」
「っ……」
月彦の顔が、僅かに歪む。ごめんなさい、先輩――由梨子は心の内で謝罪する。
(……でも、本当に遠慮なんてして欲しくないんです)
せめて、初めて繋がった今日、この日くらいは。由梨子は精一杯月彦を感じたかったし、月彦にも感じて欲しかった。
「……由梨ちゃんが、そう言うなら。……加減無しで、いくからな?」
やや恐い――ともとれる声で月彦は宣言して、そして由梨子に被さってくる。
「んンぅ……! んっ、んんんっ!!!」
いきなりのキス。そのままぐぐっ、と剛直を根本まで挿れられ、ごりゅ、ごりゅと奥を擦られる。由梨子は咄嗟に右手を強く握ったが、小賢しいとばかりに倍以上の力で握り替えされる。
「ぁっ、いやっ……あっ、あっあっ……ぁああっあっッ!!!」
唇が離れたかと思えば、今度は耳を舐められる。月彦の右手が由梨子の脇から背中へと回り、肩に引っかけられる形で抱きしめられ、そのままずん、ずんと突かれる。
「ひぅぅうッ!! ぁっ、あぁッ、んっ! ぁっ……あぁっあっッ!!!」
抑えようとしても、とても抑えられなかった。太く、堅い塊が由梨子の中をえぐるたびに、背筋がゾクゾクするほどの快感が走り抜けるのだ。
(これ、が……先輩、の…………男の人のっ…………)
女の華奢な指など全く問題にならない、圧倒的な存在感。膣内をみっちり隙間無く埋められたかのような圧迫感に、歯の根が合わないほどにとろけてしまう。
「っ……由梨ちゃん……」
囁かれて、また耳が舐められる。
「もっと、由梨ちゃんの声が……可愛い声が、聞きたい」
腰を動かすということは由梨子が思ったよりも疲れるのか、それともそれ以外の原因があるのか。月彦の呼吸はひどく荒かった。荒々しい呼吸の合間に、そんな事を囁かれる。
「せ、先輩……そんなっ……あっ……ンッ!!!」
耳を舐められたまま、胸に触れられ、さらにぐりんっ、と膣内をかき回された。途端、由梨子は弾かれたように大声を出してしまう。
(やっ……絶対、聞こえた……)
びぃん……と、壁が震えるような声だった。由梨子は羞恥に顔を真っ赤にしてしまう。
「っ……ヤバい、な……由梨ちゃんの、そういう声聞くと……すげえ、ゾクゾク、する……」
「え、あ、あの……先輩……?」
なんかキャラが変わってませんか――その言葉は、口から出る前に月彦の手によって嬌声に変えられた。
「あぁっッ、あっ、あっ、あっ、ンッ……あっ、やっ……せ、せんぱっ……イッ……あんっ……!」
ごちゅっ、ぐちゅっ、ごちゅっ……!
月彦の剛直が出入りするたびに体の内から響いてくる音で、自分がかつて無いほどに濡らしてしまっているのを由梨子は知る。……そして徐々に、その音が自分だけではなく、月彦にも聞こえていることにも、気がつく。
「やっ、だっ……せんぱ、い……音っ……音、がっ……あっ、あぁぁぁっあっ!」
ぐじゅぐじゅと抽送の度に蜜が溢れ、ベッドを汚してしまう。そんな事よりも、この音が隣にまで聞こえてしまいやしないかと由梨子は気が気でなかった。
「先輩っ……せんぱ、い……あぁぁンッ……あっあっ!!!」
月彦は器用に片腕で由梨子の左足を抱え上げ、己の肩にかける。そして由梨子の右足をまたぐようにして、ごちゅごちゅと突き上げてくる。
(ひっ……す、ごい…………ッ!)
正常位の時よりもさらに深く、由梨子の中に剛直が入ってくる。ずんっ、ずんと突き上げられ、小突かれるたびに膣奥が熱を帯び、じぃんと痺れてくる。
(やっ……声……)
声の事も、音の事も次第にどうでもよくなってくる。目の前の月彦の事しか、月彦に抱かれる事しか、念頭に浮かばなくなる。
「あっ! あぁっ! あっ、あんっ! あっ、あっンッ……先輩、あんっ……!」
月彦が、急に由梨子の右手を振り払った。あっ……と思った時には、くりんと由梨子の体は俯せにされていた。挿入されたままの剛直のせいで膣内がねじれるように擦れて、ひぃと由梨子が声を出した時、漸く自分が四つんばいにされたのだと気がついた。
「あっ、あっ……あんッ!」
ぱんっ、ぱんと尻が鳴るほどに強く突かれ、由梨子はたまらずベッドに肘を突き、ベッドシーツを握りしめる。
(あぁっ……先輩っ……月彦、先輩っ……!)
尻を叩かれているような音が断続的に、何度も鳴り響く。同じ数だけ由梨子は突かれ、はしたない声を上げさせられた。ひとしきりそうして突かれた後はぐっ、と被さるようにして深く挿れられ、ベッドシーツを握りしめたままの手の上からぎゅっと握られる。
「せんぱ、い……っきゃ、ぁっ……!」
一瞬の浮揚感――そしてずんっ、と下から突かれる感触。気がつくと由梨子は月彦に背中を向けて跨っている形になっていて、そのままずんっ、ずんと突き上げられる。
「せんぱっ……やっ、激し、すぎ、ます……ンッ、あっ……あんっ、あっ、あっ……!!」
由梨子は懇願するが、月彦の手は一切緩まない。下からさんざんに突き上げられ、声を上げさせられた後またぐりん、と今度は月彦の方を向かされる。
「はーっ……はーっ…………せん、ぱい……もう、許し……んっ……!」
くたぁ、と月彦に倒れかかった所を抱きしめられて、そのままキス。両手でしっかりと抱きしめられ、後頭部を掴まれて身を起こす事も出来ず、そのままずんっ、と下から突き上げられる。
「んんっ! んんんっ! んっ、んふっ……あ、ン……んむっ、んんんっ!!」
舌を絡め合いながら、由梨子はたっぷりと膣奥を突かれる。由梨子はたまらず、月彦の背中に爪をたて、引っ掻いたが、それでも月彦は止まらない。
「……ぷはぁっ」
漸くキスが終わったかと思ったら、今度は月彦が胡座をかき、その上で包み込まれるようにして突かれた。
「あぁあっあっ、ああっんっ! あんっ、あんっ! あぁぁっ……先輩っ……せんぱ、いっ…………!」
もう、声を抑える事など念頭にも浮かばなかった。身を溶かすほどの快感に翻弄され、由梨子はただ好きな男の為に淫らな声を上げ続ける。
「きゃっっっ、せ、先輩っ……そ、そこはっ……やぁっ……ひっ……!」
尻を掴み、揉んでいた月彦の指の一つが由梨子が一番恥ずかしい場所に触れ、途端に声を上げてしまう。由梨子が嫌がった――そう感じたのか、指はすぐに離れ、しっかりと尻の肉を掴み直した。
「あぁぁっぁあっあっ、んっ……あっ……せんぱっ、い……も、う、私……あっ、いぃッ!!」
「……ほんと、由梨ちゃんとは気が合うな。……俺もそろそろ、……限界、だ」
苦笑い――に、見えた。月彦は再び由梨子を押し倒して、左手をしっかりと由梨子の右手と合わせて握り直すと、ずんっ、ずんと何かに追い立てられるように腰を打ち付け始める。
「あっ、あっあっ、あぁっあっあっ、あっっ、せんぱ、いっ……先輩っ、先輩っっっ!!!!」
ぎゅうううっ、と右手は爪が食い込むほどに月彦の左手を握りしめ、左手はベッドシーツを掻きむしる。快感漬けになった頭では、もう何がどうなっているのかもわからなかった。ただただ、愛しい男の事を呼び続ける。
「先輩っ……先輩っ……あぁっあっ、やっ……あっ、んっ、あっ、あっ!……ひっあっ、あんっ、あんっ、あっ、ぁっ、あっあっあっあっあぁっぁっあぁッ、あっ!!!!」
抽送のスピードがどんどん小刻みになる。応じて、由梨子の声も小刻みに、断続的になる。
「先輩っっ、せんっ、ぱいっ……一緒に、一緒、にっ…………お願い、ですっ、先輩っ、せんぱいっ、と一緒、にっあっっんっ、あっあぁあっあ!! あぁァーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!」
ぐっ、と一際深く挿入された瞬間、由梨子は叫び声を上げていた。――同時に、下腹部を襲っていた圧迫感が瞬時に消える。
「っ……由梨、ちゃんっ……!」
そんな呻き声を、由梨子は聞いた気がした。刹那、びちゃっ……と、何かが頬に張り付いた。
「ぁっ……」
ぜぇ、ぜぇと呼吸を整える由梨子の胸、腹、太股に次から次へと熱いものが降りかかり、張り付く。酸欠と過度の快感のせいで、それが月彦の精液であるということに由梨子はしばらく気がつくことができなかった。
「こ、れ……先輩、の……?」
鈍った頭でなんとか考えて、由梨子はそっと右手で胸元に張り付いたそれを触る。熱く、冷え切った室内では湯気すら立つそれが酷く愛しいものに思えた。
「はあっ……はあっ…………はぁっ………由梨、ちゃん……ごめん、慌てて、抜いたから……」
顔に――と、月彦はぜえぜえと息を吐きながら謝罪をする。言われて、由梨子は己の頬に張り付いた白いものに気がついた。
「すぐ拭くから……ええと、ティッシュは確か――」
「先輩、……っ待って、くださいっ」
ベッドの下を探ろうとする月彦の手を、由梨子は止める。
「いい、……んです。……しば……らく、この、ままで……居させて、ください…………」
「えっ、でも……」
いいんです、と由梨子は再度言った。そして改めて、自分の胸元に出されたそれに手を当て、感触を確かめるように指をそっと動かす。スキン越しではない男性の精液を見るのも触れるのも由梨子は初めてだったが、微塵も汚らわしいとは思わなかった。
(……だってこれは、私と先輩が一つになれた事の証なんですから)
故に、由梨子にはたまらなく愛しいと感じられるのだった。
何故か嫌がる由梨子を無理矢理説得してティッシュで体を拭き、二人体を寄せ合うようにして座る。
「……先輩、元気ですね」
くたぁ……と月彦にもたれ掛かってひたすら呼吸を整えていた由梨子の、第一声がそれだった。
(……なんか、いっつも同じ事を言われている気がする)
と、さすがの月彦もそんな事を思ってしまう。ひょっとして、出したばかりで尚ギンギンにそそり立っているというの、はかなり異常な事なのではないかと不安にすらなってくる。
「ひょっとして……先輩、まだ……したいんですか?」
「いや、べつに……そういうわけじゃ」
本音を言えば、したかった。したくてしたくて堪らなかった。むしろ、こんなものは準備運動、これからが本番だと言いたかった。
勿論、相手が真央であればそう言ところだが、由梨子の様子を見るに、とてもそんな事は言えなかった。
「すみ、ません……私、もう……くたくたで……」
「解ってる。コレだって、しばらく放っておけば収まるから」
「先輩……真央さんとも、あんなに激しくしてるんですか……?」
「…………たまにね」
月彦は苦笑する。まさかケダモノのように迫って、さんざんに突きまくって中に出して前も後ろも口もドロドロになるまで犯りまくる等と言える筈もない。
(……由梨ちゃんにそんな事したら、本当に壊れちゃいそうだ)
同じ人間でも、雪乃のような大人の女性相手であれば手加減の必要など無いように思える。むしろ、年上相手ならば全力を出さねば相手にならない可能性すらあるが、由梨子は年下で、しかも病み上がりだ。あまり無茶はさせられない。
「……先輩のこれ、本当に凄いですね。性教育で、男性の体は性交時には勃起するとは習いましたけど、聞くと見るのとじゃ、大違いです」
「何言ってんだ、由梨ちゃんは前に一度見てるじゃないか」
「あ、あの時は……すぐにスキンを被せてしまいましたし、その……正直、あまりまともに見れませんでしたから」
「じゃあ、今は見れる?」
「……はい」
やや頬を染めながら、由梨子は剛直に手を這わせてくる。がちがちにそそり立った竿を愛しげに撫でながら、興味深そうにじぃ、と見る。
「熱くて、堅くて、時々びくって震えるんですね。……これが、さっきまで……私の中に……」
「ふ、震えるのは……由梨ちゃんが触ってるからだよ……っ……」
こうして改めて見られ、触られるとなんとも恥ずかしいものだった。
「……由梨ちゃん。そうやって触られてると……いつまでたっても収まらないんだけど……」
「ぇ、ぁ……す、すみません……!」
由梨子は慌てて手を引き、そしてまたじぃ……と剛直を見る。あぁ、触るだけじゃなくて見られててもヤバい――月彦がそう言おうとした時だった。
「あの、先輩……私、口で……しましょうか?」
「え……」
「その……こんなになっちゃってるって事は……先輩はやっぱり、まだ……したいって事ですよね。だから、せめて口で……」
「いや、大丈夫だよ。本当にすぐ収まるから。それに、帰ったら真央も居るし」
どうやらその一言が禁句だったようだった。由梨子はむっ、と眉を寄せるとがっしりと剛直を掴む。
「えっ、ちょっ……由梨ちゃん……?…………うっ……」
由梨子は無言で月彦の股ぐらで顔を埋め、ちゅっ……と剛直の先端にキスをする。そしてそのままちろちろと小さな舌を出して舐め始める。
「由梨ちゃんっ……だめ、だって……そんな事まで、しなく、て、も……っ……」
ちろ、ちろと舐めていた舌が徐々に大胆に、ぞわり、ぞわりと張ってくる。さらに、ちゅっ、ちゅっ……と吸うようなキス。つっ、と唇だけで剛直の根本を咥えられ、そのままちろちろと舌先を動かしながら先端までゾワゾワと舐め上げられる。
「……私、頑張りますから」
ちゅっ、と先端を吸った後、由梨子が少し怒ったような口調で言う。
「真央さんほど巧くないかもしれませんけど、それでも……一生懸命やりますから」
くっ、と剛直を持つ手に力が込められる。
「だから、もう……真央さんにしてもらうから大丈夫、なんて……言わないでください」
「……ごめん」
月彦は素直に謝った。そうなのだ、相手の体を気遣っている筈が、逆に傷つけてしまうことだってあるのだ。
「本当は……すごく、してほしいんだ。由梨ちゃんの口で……イきたい」
「……最初から、そう言ってくれればいいんです。あんな悲しい事、もう絶対に言わないでくださいね?」
由梨子は機嫌を直したのか、微笑んで再び剛直に唇をつける。そのままぬっ……と先端部が飲み込まれて、月彦はうわずった声を上げてしまう。
「うっ、わっ…………っ…………」
ぎこちない動きが逆にたまらない。月彦は由梨子の頭を、髪を撫でながらうわずった声で気持ちいい、と呻いた。
「由梨ちゃん……凄く、いい……よ…………気持ちいい、……」
真央のように月彦の弱いところを知り尽くした動きではない。様々な所に舌を這わせ、弱いところを探るような動き。時折上目遣いに月彦の顔を見るのがまたたまらない。
「んっ、は……本当、ですか? 本当に……気持ちいいんですか?」
「あぁ、嘘じゃない。……頼むから、由梨ちゃん……焦らさないでくれ」
そんなつもりは、と言って、由梨子は再び口戯を始める。それがゾクゾクするほど気持ちよくて、月彦は両手で由梨子の頭を掴み、軽く爪を立ててしまう。
(なん、で……こんなに、いいんだ…………)
理由が分からなかった。特別舌使いが秀逸というわけでもないのに、気持ちよくてたまらない。前にしてもらった時とは、雲泥の差だった。
(や、べぇ……これ、いい…………)
腰が浮きそうになるほど気持ちい良かった。ただ、由梨子がしてくれているというだけで、月彦はたまらなくなってしまう。
「ゆ、りちゃ……やべっ……もう、俺――」
「えっ、ぁ…………も、もう、……ですか?」
もう――その言葉に、月彦は多少プライドを傷つけられてしまう。恐らく、前に口でしたときより――という意味なのだろうが、暗に早漏と言われた気がした。
(っっ……由梨ちゃんに、こんな事、されて……我慢なんか、出来るか……!)
そんな訳の分からない憤慨をしながら、月彦ははあはあと息を荒げ、由梨子の髪を掻きむしる。由梨子が剛直を咥え、頭を前後させるのに合わせて月彦も僅かながら腰を使ってしまう。
「はあっ、はあっ……ゆ、りちゃ……で、出る……っ……!」
情けない声で呟いて、月彦は咄嗟に由梨子の頭を掴もうとして、それを無理矢理止める。指が引きつったように間接が反り、激痛を伴ったが同じ愚を二度犯したくはなかった。
「んんんンッ!!!」
どくんっ――そんな反動を残して、白濁が打ち出される。由梨子はぎゅっと目を瞑り、眉を寄せたが剛直から唇を離さなかった。頭は押さえつけていないのだから、自分の意志でいくらでも逃げられる筈だった。
どくっ、どぷっ、どくっ……びゅっ、びゅっ、びゅっ……!
由梨子の口腔内に白濁を放つたびに、せっぱ詰まっていた月彦の呼吸は和らいでいく。腰がとろけそうな快感にうっかり呆けてしまいそうになるのを、必死に踏みとどまる。
(すっげぇ……気持ちいぃ…………)
真央にしてもらった時でさえ、ここまでの満足感を得られたのは数えるほどだった。月彦は引きつっていた右手の主導権を漸く取り戻して、そっと由梨子の頭を撫でた。
「由梨ちゃん、ありがとう……凄く、よかったよ」
「んっ……ぷ……」
由梨子はそっと剛直から唇を離す。その口の中には、たっぷりと出された白濁が溜まっていて喋れないのだろう。月彦が気を利かせてティッシュ箱を取ろうとした時、由梨子はそれをごくん、と飲んだ。
「ゆ、由梨ちゃん……?」
由梨子はまたもごもごと口を動かして、ごくん……と喉を鳴らし、ふうと息を吐く。
「苦いって……本当なんですね」
「由梨ちゃん、何も飲まなくても――」
「でも、美味しかったです。……先輩の、ですから」
そう言って微笑む由梨子が、月彦は無性に愛しいと感じる。強引に抱き寄せて、そしてその唇を奪う。
「ぁっ、だめですっ……今は、……んんっ!」
嫌がる由梨子の強引に唇を奪い、舌を愛でる。最初は戸惑い、月彦から離れようとしていた由梨子も次第に腕から力が抜け、そして逆にしがみつくように手を回してくる。
「由梨ちゃん。……俺、由梨ちゃんの事を好きになって、本当に良かったって、そう思うよ」
ちゅっ、と音を立てて唇を離し、そして由梨子の右目の泣き黒子を愛でるように吸うと、由梨子が擽ったそうに笑う。
「……先に、言われちゃいましたね。……私も、先輩の事を好きになって、本当に良かったです」
今、とっても幸せです――そう呟いて、由梨子は額を擦りつけるようにして甘えてくる。月彦はその額にキスをして、そして由梨子の髪を優しく撫でた。
このまま時が止まってしまえばいいのに――由梨子がそう思った時だった。
「……由梨ちゃん、ふと気になったんだけど……今、何時だろう」
ひょっとしたら、月彦も同じことを考えて、そして時間という概念を思い出したのかもしれなかった。由梨子は暗い室内に手を伸ばして――電気をつけるのは恥ずかしかったから――スカートを探し出すと、そのポケットから携帯を取り出し、液晶を覗き込む。
「……十時過ぎ、です」
「げっ……」
月彦が驚いたのも無理はない。部屋に着いた時にはまだ外も明るく、どんなに遅くても五時前だったのだ。つまり、六時間近くもの間、抱き合ったりキスしたりといちゃいちゃしていた計算になる。
まさか、そんなに時間が経っていたなんて。由梨子の体感時間ではまだ七時過ぎくらいの感覚だっただけに、ショックも大きかった。
「……ごめん、由梨ちゃん。さすがに帰らないと」
「そ、そうですね…………あっ、先輩、灯りはまだ待ってください」
蛍光灯の紐に手を伸ばそうとする月彦を必死に止めて、由梨子は暗闇の中で下着を捜す。先に見つかったブラを慌ててつけて、濡れたショーツに足を通す。ひぃ、と声が出るほどに冷たかった。自分の部屋なのだから、無理に同じショーツを履くことはなかった――と、履き終わった後で気がつく。
「もういい? 由梨ちゃん」
「は、はい、どうぞ……」
ぱぁっ、と視界が明るくなり、目に僅かな痛みすら感じる。見れば、月彦はまだ全裸だった。
(う、わぁ……)
今更ながら、由梨子は顔を真っ赤にしてしまう。月彦の方はといえば、そんな由梨子の反応に首を傾げる始末だ。
由梨子は月彦に背を向け、いそいそとブラウスを着、さらにスカートを履く。さらにリボンをつけて靴下を履き、制服の上着を着てその上からノースリーブのセーターを着ようとしたところで、そこまで着る必要はないという事にまたしても遅まきながらに気がつく。
「由梨ちゃん……その、慌ただしくなっちゃったけど……」
由梨子が再び振り返った時には、月彦はきちんと着替え終わっていた。由梨子の胸に安堵と失望がない交ぜになったような不思議な感情が沸く。
「……今日は、凄く楽しかったよ。……多分、一生忘れられない日になると思う」
「わ、私も……です。一生……忘れません」
忘れられるわけがない。初めて好きになった男に抱かれた日なのだから。
「ぁ……」
部屋を出ようとする月彦に続いて立とうとすると、驚くほど足に力が入らずぺたんと尻餅をついてしまう。
「由梨ちゃん、大丈夫?」
「えっ、ぁ……その、ちょっと……腰、抜けちゃってるみたいで……」
全く力が入らないというわけではないが、それでも立って歩くのは難しかった。月彦に手を伸ばされ、それを支えにして漸く立ち上がる。
「すみません」
「由梨ちゃん、無理しなくても……」
「いえ、……せめて、玄関まで送らせて下さい」
月彦に持たれるようにして、ふらふらと階段を下りる。
(……あんなに激しくされたから、かな………………)
だから、腰が抜けてしまったのだろうか。由梨子は先ほどまでの事を思い出して、かぁと顔を朱に染めてしまう。
「じゃあ、由梨ちゃん。また、明日学校で」
「はい。気をつけて帰ってくださいね」
どちらも、さようならという類の言葉は使わなかった。月彦は手を小さく手を振ってドアを開け、そして出て行く。ばたん、とドアが閉じると同時に、由梨子はぺたんと玄関マットの上に座り込んでしまった。
(……夢、みたい…………)
月彦が去って尚、とくん、とくんと胸が高鳴る。今夜は眠れないかもしれない。
(喉……渇いた……)
ふらふらと台所にいって、立て続けに冷水を二杯飲んでふうと息を吐く。そのまま壁にもたれるようにして、階段を一段ずつ登って二階に上がる。
あっ、と思ったのは、自室のすぐ側。武士の部屋の前に着た時だった。ドアの隙間から僅かに灯りが漏れていて、部屋の主が中に居ることを示していた。
(……もう、十時過ぎなのに)
いつもなら、八時前には夕食の準備をしている筈だった。自分は兎も角、武士はもう何か食べたのだろうか。
「……武士、居る?」
急に弟が不憫になって、由梨子はこんこんとノックする。しかし、返事はない。
「もう、何か食べた? まだなら――」
突然、バンッ!と何かがドアにぶつけられた。雑誌か何かのようだった。由梨子はびくっ、と体を揺らして、後ずさる。
「……ごめんね」
由梨子は、逃げるように自室に戻った。
「月日が経つのも夢の内……かぁ」
宮本邸からの帰り道、月彦はため息ばかりついていた。腕の中にはまだ由梨子を抱きしめた時の感触が残っていて、それが何とも名残惜しかった。
(俺には、真央が居るのに……)
その事を思うと、憂鬱でならなかった。既に月彦の中で、真央と両天秤にかけてもゆらゆらと揺れるほどに由梨子の存在は大きくなっていた。
(真央には言えない、よなぁ……)
由梨子と寝た、などととても言えない。少し話をしただけでジト目、或いは拗ねられたり、或いは太股を抓られたりと真央の嫉妬は凄まじい。これで友達の由梨子と寝た、等と言えば――最悪、家を飛び出してしまうのではないか。
「あぁ……どうすりゃいいんだ!」
月彦は狼狽して、道の端の塀にごつごつと頭をぶつける。無論、そんな事で名案が浮かぶわけもない。はぁ、とため息をついて、またとぼとぼ歩く。
(……由梨ちゃんちって、本当に親御さんの帰りが遅いんだな)
ふと、そんな事を思う。月彦の常識上、父親は兎も角母親が十時過ぎまで帰って来ないということは滅多に考えられなかった。それこそ、知人友人の結婚式だとか、そういう場合で無い限りは皆無、と言ってもいい。
(由梨ちゃん……苦労してるんだろうなぁ……)
先日自転車に乗りながらした話を思い出す。母親は朝が弱いから、朝食は自分が作っていると言っていた。それも月彦には考えられない事だった。葛葉が弁当を作り出したのは真央が学校に行くようになってからだったが、それ以前も朝食はきちんと用意していた。それが当たり前なのだと思っていた。
(あんまり、人の親のことは悪く言いたくないけど……)
由梨子が不憫に思えた。由梨子自身が自分の境遇を嘆いていないのが、余計に不憫だった。――護ってあげたいと、そう思う。
(でも、俺には真央が……)
そして、結局そこに戻ってきてしまう。あぁあと呻いて、月彦は頭を抱えてとうとう座り込んでしまった。
「そうだ、家には真央が居るんだ」
このまま帰るのはまずい――直感でそう思う。由梨子としっぽりと濡れてから、自分はシャワーすら浴びていない。犬並み――とまではいかないが、真央はそれなりに鼻が利く。由梨ちゃんの匂いがする――などと言われようものなら、一気に事が露見してしまう。
「それに、時間もやばい……」
今まで何をしていたのかと聞かれても困る時間だった。友達の家に寄ってついついこんなに遅くまで――いや、苦しいか。そんなことはしないとは思うが、万が一真央に電話確認でもされたらと思うと気が気でない。
「……かくなる上は」
こんな事もあろうかと密かに考えておいたあの手でいくか――月彦はポケットから財布を取り出し、じっと睨み付けた。
「ただいまー」
「父さま、お帰りー……って、どうしたの!?」
玄関を入るなり、出迎えた真央が仰天する。予想通りの反応だ――と思いつつも、月彦はそれをおくびにも出さない。真央に遅れて、葛葉までがぱたぱたと玄関にやってくる。
「あらあら、一体どうしたの? 随分遅いと思ったら……」
「ごめん、母さん。ちょっとふざけてたら用水路に財布落としちゃって……今まで捜してたんだ」
制服ズボンを脛上まで捲り、上着は鞄の中。白いカッターシャツには適度に黒いシミ、汚れた両手両足泥まみれの靴に、全身からはドブの匂い。どうだ真央、これが浮気をして帰ってきた男の姿には見えないだろう、と月彦は無駄に胸を張る。
「とにかく、すぐにお風呂に入りなさい。そのままじゃ風邪をひくわ」
「ああ、そのつもりだけど……真央、タオル持ってきてくれるか。足だけでも拭いて上がりたいんだ」
「う、うん……」
真央はぱたぱたと脱衣所に駆けて、すぐにタオルを取って戻ってくる。月彦は礼を言ってタオルを受け取り、丁寧に足を拭いて上がる。
「ついでで悪いんだけど、真央……鞄を部屋に持っていってくれないか?」
うん、と真央は素直に頷いて鞄を手に二階へと上がっていく。入れ替わりに降りてきた霧亜が階段の途中から月彦を見るなり「まるでドブ鼠ね」と吐き捨て、そのまま自室に戻っていった。どうやら下での騒ぎが気になってちょっと降りてきただけらしい。
「着替えは出しておいたから、すぐにお風呂場に行きなさい」
「ありがとう、母さん」
月彦は汚れた制服を直接洗濯機に放り込み、脱衣を済ませる。さあトランクスもと下ろしかけた所で、葛葉が脱衣所に入ってきて慌てて上げる。
「もう、月彦。本当に心配したのよ? 真央ちゃんなんて、電話帳にある月彦の友達の家全部に電話かけたんだから」
「えっ、真央が……!?」
この場合の電話帳というのは、自家用の知り合いの番号ばかりを纏めたメモのようなものだ。無論それには月彦の主な知り合い、友人の連絡先が全て書かれている。
「あと三十分経っても戻らなかったら、探しに行こうって言ってたところだったんだから。次からはちゃんと連絡入れなさいね?」
「わ、わかったよ。わかったから……母さん、その、早く……」
出て行ってくれないと脱げない、と月彦は目で訴える。葛葉はうふふと悪戯っぽく微笑んで、本来の用事であったらしいバスタオルの補充を済ませ、脱衣所を後にする。
「………………危なかった。まさか本当にかけるなんて」
心配したのではなく、浮気をした月彦が戻ってきてそう言い訳した時に見破る為なのではないか――そんな気がして、月彦は己がとんでもない危機に立たされていたことを自覚したのだった。
一夜明けて、朝。
月彦はいつものように真央と一緒に登校し、そして校門で由梨子と顔を合わせた。
「おはようございます。先輩、そして真央さん」
由梨子の笑顔はいつもと変わらなかった。敢えて言うなら、いつもよりやや眠たそうに見えたが、それでも笑顔の魅力は微塵も損なわれていなかった。
「由梨ちゃん、おはよっ」
「おはよう、由梨ちゃん」
挨拶をして、由梨子が真央の手をとって一年の昇降口へと向かう。いつもと全く変わらない、自然な仕草だった。――ただ一つを除けば。
「……うん?」
月彦は己の手の中に残る異物感に気がつき、まさかと思う。それは昨日握らされたメモ用紙と同じもので、ただ中に書かれている文言だけが変わっていた。
「あの時計は捨てました。新しい時計、楽しみにしてます…………」
メモ用紙にはそう書かれていた。月彦は反射的に顔を上げ、由梨子の後ろ姿を見た。想いが通じたのか、由梨子も月彦の方を振り返り、そして微笑んだ。
月彦の迷走の日々は、こうして幕を開けるのだった。
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