相模の古代史探索記


相模国の古代寺院跡を訪ねて…… (宗元寺  千代廃寺 下寺尾寺院跡

 宗元寺  (横須賀市) 〜古代の東海道に面した寺〜
 三浦半島の真ん中JR衣笠駅の近く、宗元寺。この寺は「行基が開創」と
の言い伝えがあるようです(行基は人気がありますね〜)。横須賀高校のあ
たりに法隆寺式伽藍の広大な寺があったそうですが、今はその裏山の薬
師堂があった場所に曹源寺という曹洞宗のお寺として残っています。少し
古い本では「この寺の創建は平安初期くらい」と書いてあるものが多いので
すが、最近では出土する瓦から7世紀末から8世紀初頭くらいにこの土地
の豪族が建てたものとされているようです。
 1995年2月に三浦半島ドライブの最初に地元の人に道を尋ねつつここを
訪れたのでした。今は住宅地の中の丘の上にこじんまりとあるお寺でした
が、当時は幹線道路に面していたそうです。古代の東海道というのは鎌

現在の曹源寺前
倉から葉山、そして三浦半島を横切る。宗元寺を真東に行くと走水。ここから海を渡って房総
半島に出て北上するというのがルート。走水といえば日本武尊の話で有名ですがあそこで弟
橘姫が入水してまで海を渡るのはそういった背景があったんですね。そういえば、この日のドラ
イブ、ペリーの上陸地やら、咸臨丸の出航地やらへ行って、最後に寄ったのが走水神社でし
た。
(2003年5月記)

 千代廃寺 (小田原市)    〜あの道鏡が……?〜

 小田原、というと今では箱根へのアプローチタウンで相模の端の方にある感じがしますが、
江戸の町ができる前は関東の中心地だったわけですし、古代においても東海道は足柄峠
越えてきたので、相模に入って最初に開けるのが足柄平野。JR御殿場線が走り、梅林で有
名な曽我のあたりは現在は市の中心からも離れてのどかなところですが、古代は栄えたところ
で、相模の国の最初の国府、国分寺はこのあたりにあったという説もあるほどです。だとすると
国分寺だったのでは?とされるのがこの千代廃寺。おそらくは豪族の氏寺でという見方のほう
が強いと思いますが、ここも7世紀後半に遡れる可能性もあり、周辺から郡衙跡と思われる

 礎石が残る千代廃寺。石碑はあんまり
関係ないみたい……。
遺跡や木簡なども出土してます。
 ここを訪れたのは1993年12月。車で走ってもどこかわからず、近くの理髪店で「千代廃寺ってどこですか?」と聞いたらお店の人からお客さんまで「どこだっけ?」「あそこじゃない?」と店中大騒ぎになっちゃった……とはオオアマさまの述懐。地元の人でもわからないくらいひっそりと、道路から一段あがった丘の上のその跡はあったのでした。どうもここは塔のあった跡らしいのですが。
 ここより少し南に勝福寺というだるま市でも飯泉観音という坂東三十三札所のひとつとしてもこのあたりでは有名なお寺があります。(写真が見あたらないんです。スミマセ
ン……)。この寺の縁起によれば、平安時代に今の地に移転されたものであり、それ以前の場
所が千代、つまり勝福寺の前身が千代廃寺ではとも考えられているのです。そして縁起には
興味深い話が。この寺はあの道鏡が称徳天皇の死後左遷されて下野薬師寺に下る途中で、
称徳天皇に賜った観音さまを安置するお堂を建てたことに始まる、と書いてあるのです。下
野へ行くなら東山道を通るのでは?とも思いますが、縁起がずっと後世に書かれたものとはい
え、寺の開基を行基とか聖徳太子とかいうならともかく、女帝をたぶらかした妖僧として在世直
後からつい最近にいたるまで評判のよろしかったためしのない道鏡をわざわざ開基にしたてる
か? それに千代あたりの土地は道鏡の出身である弓削氏とが全くつながりがなかったわけ
でもないらしい、という話もあり、この寺が7世紀の創建と考えれば時代的なズレが生じますけ
ど、何らかのゆかりはあったのかも……などと、考えてしまうわけです。
 ちなみに里中満智子先生は「女帝の手記」で道鏡をとってもいい人に描いています。呉女も
そんなに悪い人だったとは思っていません。さしたる根拠はないのですが……。
(2003年5月記)
 
下寺尾西方A遺跡と下寺尾寺院跡 (茅ヶ崎市) 〜高市皇子一族との関係?〜

 2004年正月早々に初詣とオオアマさまの原稿の取材目的で訪れたのが茅ヶ崎の西方A遺跡
と下寺尾寺院跡。その後パソコンを壊して写真が消滅してしまったので、二月に再度訪れまし
た。私たちは車で行きましたが、電車ならJR相模線の香川駅下車徒歩10分くらい。
 茅ヶ崎といえば、サザンで有名なあの茅ヶ崎ですが、この
あたりは牛や馬もいるのどかなところで、相模川の支流にあ
たる小さな河川がいっぱい流れていて、ちょうどその河川工
事を大々的にやっている最中。その工事現場西の丘をのぼ
ると県立茅ヶ崎北陵高校があるのですが、平成14年にここ
の立替工事に際してグラウンドの発掘調査を行ったとこ
ろ、旧石器時代から中世までの複合遺跡が見つかったので
す。「発掘された日本列島展」の中では弥生時代の環濠集
落跡として紹介されていましたが、私たちが注目するのは7
世紀から8世紀にかけてのかなり大きく整った建築と思われ
る掘立柱の跡などが多数みつかり、ここが相模国高座郡の
郡衙跡(市役所みたいなもの)であると考えられることです。

あの丘の上に郡衙跡、手前に寺院跡。縄文時代はこのあたりまで海(貝塚もある)。相模川の堆積で今の湘南海岸ができたらしい。

「七堂伽藍跡」碑
土台が礎石だったの
に撮りわすれた!
 また、再度丘を下りて南に少し歩くと(ここで牛や馬に会える)住宅の前に「七堂伽藍跡」という石碑を見つけることができます。ここは古くから寺院の跡として知られていたようで、最近の発掘調査で伽藍の範囲などもわかってきたとのこと。だいたい律令期には郡衙と寺院がセットであったらしいことが知られてきましたが、この場合も高座郡衙とこの下寺尾寺院がセットであったと考えられ、7世紀後期の創建、9〜10世紀くらいまでは存続したことがわかっています。

 さて寺は存続したのに、郡衙は8世紀前期までしか続かなかったらしい。高座郡はかなり広いから人口とか交通とかの都合でどこかに移転したのだろう、というのが一般的な考え方ですが、ここに興味深い仮説が。
 これは2003年の11月に専修大学の公開講座で伺った荒木
敏夫先生の説。この講座では律令期における税の徴収方法
やそこから見える都と地方の関係……みたいなことを「長屋
王木簡」などいろいろな史料から検証していたのですが、その
中で、長屋王家、というか高市皇子一族と相模国との間に
なんらかの直接的な人的な関係……つまり高市一族に直
接遣えていたような人物(一族)の存在が想定できるというの
です。この遺跡が8世紀で断続していることと、同じ時期に長
屋王の変で高市一族の栄華が一応の終焉を迎えることとに
何かつながりがあるのかも……ということをおっしゃりたいよう
なのでした(学者さんははっきりしないことははっきり言えない

下寺尾西方A遺跡(高座郡衙跡)
今はただの校庭ですが……。
ところが苦しそうでしたが)。それを思い出してもう一度先ほどの高校のグラウンドを見ると…
…ちょっと感慨深くなるのでありました。
(2004年5月記)



相模の古代史といえば「お・ま・つ・り。」「国府祭」もこれに入るかな?




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