半島に出て北上するというのがルート。走水といえば日本武尊の話で有名ですがあそこで弟 橘姫が入水してまで海を渡るのはそういった背景があったんですね。そういえば、この日のドラ イブ、ペリーの上陸地やら、咸臨丸の出航地やらへ行って、最後に寄ったのが走水神社でし た。
(2003年5月記)
小田原、というと今では箱根へのアプローチタウンで相模の端の方にある感じがしますが、 江戸の町ができる前は関東の中心地だったわけですし、古代においても東海道は足柄峠を 越えてきたので、相模に入って最初に開けるのが足柄平野。JR御殿場線が走り、梅林で有 名な曽我のあたりは現在は市の中心からも離れてのどかなところですが、古代は栄えたところ で、相模の国の最初の国府、国分寺はこのあたりにあったという説もあるほどです。だとすると 国分寺だったのでは?とされるのがこの千代廃寺。おそらくは豪族の氏寺でという見方のほう が強いと思いますが、ここも7世紀後半に遡れる可能性もあり、周辺から郡衙跡と思われる
所が千代、つまり勝福寺の前身が千代廃寺ではとも考えられているのです。そして縁起には 興味深い話が。この寺はあの道鏡が称徳天皇の死後左遷されて下野薬師寺に下る途中で、 称徳天皇に賜った観音さまを安置するお堂を建てたことに始まる、と書いてあるのです。下 野へ行くなら東山道を通るのでは?とも思いますが、縁起がずっと後世に書かれたものとはい え、寺の開基を行基とか聖徳太子とかいうならともかく、女帝をたぶらかした妖僧として在世直 後からつい最近にいたるまで評判のよろしかったためしのない道鏡をわざわざ開基にしたてる か? それに千代あたりの土地は道鏡の出身である弓削氏とが全くつながりがなかったわけ でもないらしい、という話もあり、この寺が7世紀の創建と考えれば時代的なズレが生じますけ ど、何らかのゆかりはあったのかも……などと、考えてしまうわけです。 ちなみに里中満智子先生は「女帝の手記」で道鏡をとってもいい人に描いています。呉女も そんなに悪い人だったとは思っていません。さしたる根拠はないのですが……。
(2003年5月記)
下寺尾西方A遺跡と下寺尾寺院跡 (茅ヶ崎市) 〜高市皇子一族との関係?〜 2004年正月早々に初詣とオオアマさまの原稿の取材目的で訪れたのが茅ヶ崎の西方A遺跡 と下寺尾寺院跡。その後パソコンを壊して写真が消滅してしまったので、二月に再度訪れまし た。私たちは車で行きましたが、電車ならJR相模線の香川駅下車徒歩10分くらい。
…ちょっと感慨深くなるのでありました。
(2004年5月記)
相模の古代史といえば「お・ま・つ・り。」の「国府祭」もこれに入るかな? |