3月       4月のリビング     5月 
4月30日(土) 大極殿正殿復原

平城宮跡で特別公開中の
大極殿の復原工事を見学してきた。

こんな巨大な建築物を
よく作ったものだと思う。

広々とした 草原のむこうには
朱雀門が見えている

2010年には平城遷都1300年ということで
歴史や文化の祭典が計画されているそうだ

それにしても 
かつては都だったところが

こんなに 「何もない」状態になるとは
不思議で仕方がない。




4月29日(金) 記念すいか20000記念!

私の部屋 20000アクセス 
記念すいか の育ち具合を見に
Yさんの畑に 行ってきました。

まだ 小さいので ビニールハウスで
大切に 育てられていました。
もうすぐ 畑に移されます。


さやえんどう スナップえんどう
キャベツ うまいな 収穫中

じゃがいも たまねぎ いちご 
実エンドウ 収穫まじかです。


4月28日(木) 今日一日を

無事で過ごしていることが
申し訳ない気がする。



4月27日(水) 犠牲者


刻々と増えつづける犠牲者の数
身元が判明した人達のひととなりや

電車に乗っていたいきさつ などが
ニュースで流れている

23歳の運転手の姿は
激突した先頭車両の奥に見えているという。

自分も 「乗っていたかもしれない」 と 感じ
自分の子供も 「乗っていたかもしれない」と 思い

そして 自分の子供が 「あの運転手だったかもしれない」
と 思ってしまう。

みんな 一生懸命生きていただけなのに。

4月26日(火) 人生のレール

脱線事故の犠牲者が70人を超えてしまった。

一人の人間のミスが
このような事故のきっかけになりうるとしたら

その荷物はあまりにも重過ぎる。

失敗のない人間など ありえない

「少しぐらいまちがっても 大丈夫」
それが 本当の安全対策なのではないか。

「少しぐらい遅れても 大丈夫」
人生のレールはそういうもので
あって欲しい。



4月25日(月) JR脱線事故


「JR尼崎付近で脱線事故が起こり
列車が大破 けが人が多数出ている模様

仕事に向かう車のラジオから
突然 事故のニュースが流れた。

500人以上の乗客を乗せた列車が
カーブを曲がりきれず 脱線しマンションに衝突した

列車に問題があったのか レールに問題があったのか
運転に問題があったのか。

いずれにせよ 驚いたのは
500人以上もの命をあずかっていたのが
たった一人の23歳の青年だったということだ。


4月24日(日) 自動車保険 最終回

「やっぱりそうですか〜」
と 素直に納得したのを 気の毒に思ったのか

担当者は申し訳なさそうに言葉を続けました。
「これは 損害賠償責任保険ですので 身内同士では賠償責任が発生しないということでねえ(すみませんねえ)。同居親族はだめなんですよ」

「はい わかりました。どうも すみません」と電話を切った
その 直後

(同居親族?。。。と 今 たしか 言いましたね)

「何度もすみません。家族ですが同居ではないんですが。。。」

返ってきた答えはこうだった。
「同居ではないんですか〜。それなら他人の車にぶつけたのと同じですから
保険対象です。いえ もちろん 被害車両のほうですけど」

つまり こういうことなのです。
契約約款によると 
保険金支払いができない場合 として
対物賠償の場合

@ 記名被保険者
A 契約車を運転中の者 その同居の父母 配偶者 子
B 被保険者または その同居の父母 配偶者 子

が所有、使用または管理している財物が滅失、破損、汚損された場合の損害 と なっているのです。

こうして 片方の車だけは 保険修理できることに
なったわけです。

二世帯住宅にお住まいの皆様
車をあてるなら 家族以外の車にするよう
気をつけましょう。

おわり


4月23日(土) 自動車保険その後


けがはなかったものの
車体の前部がへこんでしまった車をそのままにするわけにいかず
まずは修理工場へ 運転していきました。

追突された車は 後部バンパーだったこともあり
運転に支障はないので あきらめることにしました。

しかし よく見ると かなりのダメージを受けていたので
多分 だめだとは思いながら
保険会社に電話をしてみました。

「家族の車が自宅に置いたあった車にぶつかったのですが
保険が使えるでしょうか?」

担当者は即座にこう言った。
「ご家族間の事故に 保険は使えません」

つづく

4月22日(金) 自動車保険

ある日のことです。
車で5分 に住んでいる家族が

車に乗ってやってきて
あなたの自宅の裏庭にとめていた車に追突しました。

幸いけがは ありませんでしたが
双方の車に傷がつきました。

自動車保険には 入っていますが
どちらも車両保険(自損事故補償)には 入っていません。

ここで 問題です。
さて あなたは どのようにして この2台の車を
修理しますか?

(この問題は事実にもとづいて作られたものです)

4月21日(木) 他人事

福岡地震のニュース報道で

「日本は地震国なので いつ自分の住んでいる地域に地震が起きても
不思議ではないわけですから 他人事ではないですね」

と 解説しているのをきいた。

どう説明したらいいかわからないけれど
「どう説明したらいいかなあ〜」と思った。


4月20日(水) 伽羅先代萩

お楽しみ 文楽鑑賞

夜の部の出し物は
「伽羅先代萩」(めいぼくせんだいはぎ)
「傾城反魂香」(けいせいはんごんこう)
「道成寺入相花王」(どうじょうじいりあいざくら)

先代萩は かの有名な伊達騒動を題材にして
時代を鎌倉に設定したもの。

幼い主君を陰謀から守るために
自分の子供を犠牲にする乳母の話だ。

毒を盛られるのを恐れて
自らご飯を炊く 乳母 政岡

幼いながらも 自分の立場を理解して
健気に がまんする主君 鶴喜代と
政岡の子 千松。

米をとぎ 洗い 火にかけるしぐさが
まるで 茶道の所作のようだ。

毒を盛られた饅頭を
母のいいつけを守って 真っ先に口にする千松に
敵方は陰謀を見破られまいとして懐剣を突き刺す

主君を守りながら冷静を装う政岡。

だがしかし。。

思わぬどんでんがえしで
敵方の正体があばかれて

見事 政岡がわが子の仇を討つ
と いう話。

ゆったりと静かに進行していた場面が
千松の死 によって 急加速していく。

浄瑠璃も 三味線も
まさに たたみかけてくるのだ。

初演は1785年 
松貫四 吉田角丸 高橋武兵衛による合作と書いてあった。

あなたがたは すごい!


4月19日(火) 人にやさしい社会

10mの高さから 落下することで
一万mからの落下体験ができるという遊具で
転落事故が起きた。

体格が大きくて安全ベルトが締められない人だったようだ。
そして 下半身に障害があって 車椅子を使われていたという。

「障害者を差別してはいけない」という気持ちが 係員の判断を鈍らせたのではないだろうかと私は思う。

こんな場合 係員は 心を鬼にして
「安全が保証されませんので ご遠慮ください」と いうべきだったのか?

確かに現状ではそうだろう。

でも 本当は
「障害のある人も 安全に楽しめる遊具」であればよかったのだ
と 私は思う。

人にやさしい社会は 善意に頼っているだけでは実現しない。


4月18日(月) 記念樹庭の八重桜満開!

息子@の木→樫の木 枝広がり放題

息子Aの木→樅の木 幹伸び放題

娘@の木→八重桜 遅れて咲きます。






4月17日(日) 造幣局桜の通り抜け

家族の祝い事があって天満橋に出かけた。

一帯は 造幣局の桜の通り抜けで
お百度参りのような人出になっている

「立ち止まらないでください」

「場内での飲食はできません」
太鼓饅頭の人 連れ戻されている。

「立ち止まっての撮影は しないでください」
撮影に夢中の人 見つかってるよ

「植え込みには 入らないでください」
「桜を守るため 植え込みに入っている人をみたら
みんなで注意しましょう〜〜〜」

などと 係員がマイクで 叫んでいる前を
かたぐるま の 親子が 流れてきた。

「かたぐるま は きけんです」
かたぐるま親子 きこえているのかいないのか。。。

「昨日 かたぐるまのお子様が転倒し 救急車で運ばれました。」
かたぐるま 親子 きこえていない??

「救急車は一台しか 用意していません。もどってくるのに1時間半はかかります」

一同 おもわず 苦笑。

「笑い事では ありません!」

さすがのかたぐるま親子 
さりげなく 子供を おろす。

次は 大人むけ
「〇〇の〇〇さまから〇〇の〇〇さまへ 待たずにお先に帰ります」

次は どんなんかなあ〜

笑い満開 大阪の 通り抜け

4月16日(土) 中国の人


ほんの半年間ぐらいだったが
留学生に日本語を教えていたことがあった。

1クラス20人ぐらいの教室で
そのほとんどが 中国の人だった。

上海に家族をおいて来日していた青年は
大学の建築学科をめざしていた。

両親が芸術家だった彼は
大学に進むことを 許されず
西域へ 下放されていたのだそうだ。

中国に残してきた奥さんに五千円のスカートを
買って帰ったら ひどく しかられた と 苦笑していた。

上海に来たら 僕の家に来てください と 言ってくれていた。

実は 親戚にも 中国から 来た おば が いる。
日中の国交が回復するまで 一度も実家に帰らなかった。
今でも美しく たくましくて やさしい おば だ。

知人の奥さんは 「恐ろしい日本人」に
家族の反対を押し切って嫁いできた中国の人だ。

そして 愛生園の Aさんは実は 子供の頃に
日本に来て ハンセン病になった 朝鮮の人なのだ。

国に対する反感と 差別や偏見は 
似たような構造を持っている。


4月15日(金) 反日デモ

中国や韓国で起きている反日デモのニュースを見ていたら
40年ほど前 世界に広がった学生運動を思い出した。

ヘルメットをかぶり 角材や鉄パイプで武装した学生たちと
盾と警棒姿の機動隊との衝突が
日本のあちこちで 繰り広げられていた。

反戦 反米帝 反日帝が スローガンだったように思う。

米国の一般の人たちに 「反米」を叫ぶ日本の学生たちの姿は
どう 写っていたのだろう 

「反米」と いいながら アメリカ好きな日本の若者たちだった。

そんな ことを 思いながら 「反日」を叫ぶ中国や韓国のデモの
映像を見ていた。

「お国のために りっぱに死んで来ます」と出征する兵隊の映像
のかげで 本当は 「生きて帰ってきてほしい」と 願う家族がいて
本当は 死にたくなかった兵隊は たくさん 居た。

「毛沢東 万歳」と 声をそろえる 紅衛兵の映像のかげで
学校から 農村に追いやられて ひたすら 解放を待ち望んでいた
中国の若者もいた。

「反日」の映像の かげにも そんな 普通の人たちが
たくさん いると 私は思う。

そして スローガンは
「反日」とせず 「反日帝」にしたら 
日本の良識ある若者の支持も得られるのでは
ないかと 思ってみたりするのです。


4月14日(木) ハンセン病検証会議

長島愛生園に住む友人の配慮で
我が家にも
全療協ニュース という 機関紙が届いている
(全国ハンセン病療養所入所者協議会が発行)

2005年4月1日号 を 読んでいると
ハンセン病検証会議の最終報告書について
主な検証成果 という 記事があった。

これで終わりではない と しながらも
これまでの 成果が列記されている

医学的根拠がないままに隔離が続けられた

日本国憲法は患者や家族を守らなかった。

国 自治体 は 根拠のない隔離を積極的にすすめ
宗教 教育 司法 報道 社会 は 抗議もしなかった。

次号につづくようだが
簡単に言うと 以上のようなことなのだと 思う。

今になってみれば こんな あたりまえのことを
なぜ誰も 「間違っている!」 と 気づかなかったのか。


「福祉界も隔離政策に依存し、そこに逃避し、そこに働く人々を美化して、
問題の深刻さを十分に認識するということはなかった。」

そのとおりだと 思った。


4月13日(水) 光が来ない

玄関のチャイムで外にでると
NTTの工事の人だった。

「NTT〇〇と申します。このたびお宅の。。
(やったあ〜 申し込んでいた光がとうとう来たぞ〜)

敷地内にある電柱に〇〇ケーブルを引かせていただくにあたりまして
ご了解をと。。

「なに?光 ? では なく?」

「はい NTTの電柱を使用しますが ひくのは〇〇ケーブルなんです
すみませんねえ」

「あの 光は なかなか こないですよねえ。どうして?」

その担当者の説明によると
光をひくにも 何をひくにも 電柱を伝ってくるので

途中で 「うちは 工事しないでほしい」
という 家(敷地内に電柱が建っている家)が一軒でもあると

迂回して線をひくことになり 大変なコストになる
ということなのだそうだ。

つまり
電気がなかったころから 人が住んでいたような
車がなかったころから 道 だったような

敷地か 道か はっきりしないようなところに
電柱が建っている地域では

光は 当分 こないだろう という ことでした。
(どこまで きているかは なに色かは 忘れましたが
電柱のそばの 箱の色をみたらわかるらしい)

ここで 一句
「電柱は みんなのために 立っている」


4月12日(火) タブーの教育


キリスト教の一派を名乗る教団の代表が
信者の少女に暴行していたらしいという

「罰があたる」と言う言葉をきかなくなった
と 思っていたら

そんな狭いところで 乱用されていたのだ。

公教育から 宗教色が遠ざけられて以来

子供たちは 非科学的な表現や 宗教的表現を
正しく理解することができなくなっているのではないか
と 思う。

キリスト教や仏教や神道や イスラム教や
人間は 様々な「 かみ 」を 信じたり信じなかったりして
生きているし

人をだます人もあり だまさない人もある

貧乏な人もいれば 金持ちもいる

不運な人もいれば 運のいい人もいる

大人になれば 仕事をしなければ 生きていけないし

自分の身は 自分で守らなければならない。


そういう 「現実的なこと」を もっと教えていくべきだと

私は 思うのです。




4月11日(月) 紀伊半島をあなどるな

紀伊半島を南北に縦断する道は
海岸沿いの道路のほかに

主なルートだけでも
吉野から熊野(海)
下市から 天川(山中)
五條から十津川を経て新宮(海)
橋本から高野山 竜神村を経て南部(海)

といった 山岳ルートがある。
西海岸以外は高速道路ではない ので

どの道を 選んでも
予想以上に時間がかかり

ルート変更は ほぼ不可能に近い。
(東西をつなぐ道は 旧林道秘境ルート状態なのだ)

何度もひどい目にあいながら
同じ 過ちを繰り返してしまうのだ。

全国地図をあらためて 見てみると
大阪→新宮 210km だった。

210kmというのは
大阪→鳥取
大阪→名古屋
と 同じ!だった。

紀伊半島をあなどるな! とは きいていたけれど

本当に 紀伊半島をあなどってはいけない。

*東京から210kmではだいたいどのあたりかと言うと
長野・松本で230kmと なっています。



4月10日(日) 椿の育ち方

きのうの 疲れも なんのその
桜吹雪の中を 植木のうえかえに いそしむ夫

「ちょっと来てくれ」と 声がかかったので
庭に出ると 
根土をつけた つつじ を 一輪車に乗せる手伝い
だった。(これは ちょっと の 範囲だと 思う)

しばらくして また
声がかかった

今度は 太い柿の木の枝運び
だった。(ちょっとやそっとでは 運べない)

家に入ろうとしたら 
枝いっぱいに咲いている乙女椿が目に入った。

「なんにも してないのに なんで 咲けるんやろ」
と 素朴な疑問を口にしたら

チェーンソーの手をとめて
「椿は 愛情で咲く て いうんや(と いわれている)」
と 答えが返ってきた。

「ほんまなん?(ほんとうなのですか)」

「そうや ほんまや 夕焼けが秋だけ と いっしょや」

夫。。。。。気にしているみたいだ。


4月9日(土) 春の夕焼け

絶好の桜日和に 十津川方面へドライブ

「桜を見ながらお弁当を食べる場所」を求めて
どんどん 山の中に入り込んでいく。(夫運転)

日帰りの限界 「十津川温泉ホテル昴」の
川べりで やっと 昼食にありつく。(夫ビール飲む)

新宮は あきらめて 竜神温泉経由で帰ることにしたのが
まちがい というか いつものことというか。

ガードレールなし すれちがい不可 という
山道を 回転しながら 突き進むこと1時間半(妻運転)
(あとで 地図をみたら 旧林道秘境ルート と 書いてあった)

竜神温泉に入る余裕もなく
高野竜神スカイラインに突入。(ここから夫運転)

「ああ きれいな 夕焼けが。。」と 思っていると(妻おもう)
「秋しか 夕焼けにならんのは なんでか知ってるか?」と(夫言う)

「夕焼けは いつでも 夕焼けやん」と 妻抗議。
「なんも 知らんのか 夕焼けは秋だけや」と 夫断言。

「ゆうやけ こやけで 日が暮れて〜 〜〜〜〜あかん 
季節が出てこんわ」

「ゆうやけ こやけ〜の あかとんぼ! ほれみい 秋や」

確かに 秋の夕焼けは きれいだろうけど
「春も ゆうやける わ!」

家に帰って 辞書を調べても
「夕焼けるのは 秋だけです」とは 書いていませんでした。

どうなんだろう。
しかし とにかく 疲れた。

4月8日(金) ことわざ検索

「きょうは ちょっと飲んで帰る」。。。
きのうの夜 めずらしく 電話連絡が入った。

チャングム見てるし その後 初恋 あるし。。。
こちらも めずらしく あっさり 電話を切って

5分ほどしたら 電話の主が 家に入ってきた。

あれっ? (裏の田んぼで 飲んでたのか?)

もうすぐ 自宅 というところまで 来てから
「いつも 連絡しない!」と いわれていたことを
思い出したので 

「連絡した!」(何を えらそうに。。。)
のだそうだ。

なんたることだ!

こういうの なんと 言えばいいのだ?

ごはんたべてから「いただきます」みたいじゃないか!
それとも 帰る時 「こんにちは」か?

胸のすくような ことわざが あれば 
ぜひ 教えていただきたい と 思う 妻 なのだ!

4月7日(木) 極楽では

極楽では 皆が自分の口に入れずに、
向かい側の人、お隣の人の口にいれていた。

いとこのREYANが 大正解!

「どうするんかなあ?」と ぼんやりしていた私

「短くもって食べるんや」と 自分はしっかり食べる夫。


全く ジゴクな夫婦だ。

「手で食べたらいいやん(いいのではないですか)」という
ワイルドな答えも あったりして

当分 極楽には いけないね。



4月6日(水) 地獄 極楽

罰あたりの 話をしていたら なんと
きょうは ご回在 だった。

天得如来の掛図を お迎えして
みんなで 念仏を唱えながら
先祖への感謝や 家内安全をお願いする

と いうような 行事だ。

以前は大きな掛図の箱をかついだお坊さんの列が
村から 村へと かねを たたきながら
駆け巡っていた。

掛図がかけられて 如来が姿をあらわし
行事が とどこおりなく終了すると
掛図は 再び くるくると 巻き取られて
箱に 入れられ 運ばれていく。

出張仏教講座 みたいなものなんだ
などと 昔の人の 知恵に感心しつつ

配られたパンフレットを読んでいると
こんなことが 書かれていた。

「地獄の世界に行きますと、食事の席には長いお箸が付いています。
あまりにも長いので、ご馳走が口に入らずに皆落ちてしまいます。

次に極楽の世界に行きましたが、やはり同じように長いお箸が置かれています。

ところが〜〜〜〜〜〜〜〜た。」

う〜ん なるほど!


* さて 極楽の人たちは どうしていたのでしょう。


4月5日(火) 罰あたり

私は どちらかというと
悪いことが できない人だ

「立ち入り禁止」の芝生に入ったりはしないし
誰かの お弁当を こっそり食べてしまったり
したことも ない。
( と 書いていたら 誰かのかわりに 返事をしたことを
思い出してしまった。しまった!)

俗にいう おもしろくないやつ なのだ。

それは ともかくとして
最近の 子供たちは 「罰があたる」と言う言葉を
知っているだろうか。

私の小さいころ うちには おばあちゃんがいて
「そんなことをしたら 罰があたるよ」と よく言っていた。

誰かが みていなくても
誰かに いわれなくても

「神さんが みてる」
「悪いことをしたら 罰があたる」のだ。

相手が 神さま なので
いつでも どこでも お見通し なのだった。

最近は 学校や家庭から 神さまが 
すっかり 姿を消してしまったので 

子供たちが こわいものは
人間だけに なっているようだ。 

たまには 神さまに 見張ってもらおう。

4月4日(月) 野の花カルテ

4月3日の 朝日新聞に
徳永 進さんの 本「野の道往診」 が紹介されていた。

診療所を開設してからも
休むことなく 野の花医療を模索し
活動してきた 徳永さんは

いったい いつ 本を書いているのだろう

そんなことを 考えていたら

今朝の新聞に
あの なつかしい まあるい顔が載っていた
野の花 カルテ その1
連載が はじまるみたいだ。

みなさま 読んでみてね。
そして 本も 買ってあげてね。

4月3日(日) 今 行基

雨の中 竹之内峠を越えて 九品寺へ行く
たくさんの人が 雨宿りできそうなほどに
枝垂桜が枝を 広げていた。

発掘されたという 千躰の石仏が
裏山全体をおおっている。

葛城の道案内を見ながら
一言主神社→高鴨神社→高天彦神社→極楽寺
を 行ったり来たりする。

最後は五条への 通り道で
五條文化博物館 というのが あったので
入ってみた。

天誅組の話 のほかは
よくわからない歴史だった。

ただ 驚いたことに
またしても そこは 安藤忠雄さんの 設計
だった。

役小角か 行基 みたいだ。

4月2日(土) 願はくは花の下にて春死なむ

休みがとれたということで
友人が訪ねてきた。

桜には まだ 少し早いが 
車で 弘川寺へ 向かった。

地元の行事があるということで
寺周辺は 桜祭りの 準備で忙しそうだった。

西行法師の古墳がある 裏山に上り
西行記念館を見学した。

あすの 桜祭りに向けて
庭園は 掃き清められ 
本坊には 四季折々の写真が展示されていた。

準備万端整った 境内を
うぐいすの 声をききながら
のんびりと 散策。

願はくは 花の下にて 春 遊ばむ
 そのきさらぎの 望月のころ〜

なんちゃって!


4月1日(金) 飛鳥博物館地区

時間切れで行くことのできなかった飛鳥資料館は
正式には 奈良国立文化財研究所飛鳥資料館というそうだ。

まちがって 失礼したのは 
奈良県立万葉文化館

それと よく似た名前で
犬養万葉記念館 が ある。

石舞台があるのは
国営飛鳥歴史公園石舞台地区

高松塚古墳は
国営飛鳥歴史公園高松塚周辺地区にあり
高松塚に隣接する 高松塚壁画館では
壁画の現状模写などが展示されている

国営飛鳥歴史公園館 というのも ある。

明日香村埋蔵文化展示室 というのも あるし
明日香民族資料館 というのも ある。

そして かの 有名な
橿原考古学研究所付属博物館 と いうのが ある。
これは 国立と思っていたら 県立 だった。

淡路島夢舞台 花桟敷 明石海峡公園 県立公園 
を 思い出した。

国営も国立も県立も村立も できれば
博物館地区 というところに かためて
それぞれ の 展示分野を分担して 
わかりやすい名前を つけてほしい。です。

やぶつばき

2004年4月