長島愛生園と私
           その1       その2
学生時代にFIWC(フレンズ国際労働キャンプ)に参加したことがきっかけで長島愛生園に行くことになり そして 愛生園に住む友人達と出会うことになった私。その頃の思い出 その後のこと そして 今の思い を 少しづつ書いてみようと思います。(2003年11月27日)

ハンセン氏病や療養所に関する知識は↓で
長島愛生園  長島愛生園入園者自治会
1 FIWC関西委員会
1968年の夏 うわついた議論に終始する学生運動に疑問を感じていた私は 「言葉より行動を」という大学祭のパネル展示にひかれFIWCに興味を持ちました。
FIWCは当時 「ハンセン氏病を理由に宿泊を断られた」ことをきいた学生の呼びかけで奈良の地に 「誰でも泊まれる家 交流の家」を建設していました。
地元の反対運動もあり その頃には療養所からも何人かの人達が建設作業や 討論会に参加しておられたようでした。
大阪市内で療養所のメンバーで構成された「青い鳥楽団」の演奏会も開かれていました。
私はこの 交流の家で はじめてハンセン氏病というものを知り、療養所を知り 療養所の人達と実際に出会うことになったのです。
一番最初に出会ったのは 誰だったか といわれても 思い出せません。
私自身は いわゆる「らい」に対する予備知識がほとんどなく 特別な差別意識や拒否感覚はなかったと思います。ただ 外見からくる緊張感といったものが大きかったことは事実でした。
週末や春 夏 冬休みの数日間を既に竣工を終えた交流の家に合宿し、管理人住宅の建設のかたわら 今後の運動を模索する日々でした。

2 囲碁将棋大会
交流の家は 誰でも泊まれる家であると同時に ハンセン氏病回復者の社会復帰を支援する家としての役割も果たそうとしていました。
その ひとつの 試みとして 囲碁将棋大会が企画されたのです。
男性が中心となっていた 当時のキャンプにはめずらしく女性が「女将」となって 療養所からの戦士達を迎えたのでした。迎えうつのは関西の大学の囲碁倶楽部 将棋倶楽部の学生達でした。双方20名づつぐらいのメンバーによるリーグ戦だったように思います。
碁石をスプーンにのせ さっと碁盤にすべらせて 相手を追い詰めるといった 真剣勝負もみられました。
その頃の私は 差別を考える場にあって なお女性が料理や接待の役割を期待されることに 抵抗を感じていたものでした。
かといって 選手として 囲碁や将棋をうつ才能もなく ただ うろうろとしていたようにも思います。
ともかく この囲碁将棋大会はその後数十年続くことになったのです。

3 長島愛生園
FIWCに参加するようになって 半年ぐらいたったころだったろうか。長島愛生園で「沖縄列島」という映画を上映する計画がもちあがったのです。
私自身がその計画にどのような役割を与えられていたのか 全く記憶にないのですが ともかく それが わたしのはじめての愛生園訪問となったのでした。
大阪から山陽線で姫路まで行き播州赤穂線に乗り換えて日生でおりる。
そして 日生港から森丸という小さな船で40分ぐらいかかって愛生園につきました。
上映したのは愛生会館という いわば 島民ホールのような建物でした。
今ではすっかり建て直された愛生会館も当時は 木造の小学校の講堂のような雰囲気だったように憶えています。
その時だったのか 別の機会だったのか 愛生園内の高校 新良田教室の生徒達と座談会をもったような記憶もあります。
高校生とはいえ「らい」という大きな運命の中でいきなければならなかった若者にとってとつぜんやってきた苦労知らずの大学生達の姿はどのようにうつっていたのでしょう。
そんなことにさえ 思いいたらない 私でした。
その新良田教室も新入学者が皆無となった昭和62年に閉鎖されたということです。
先日 一部の建物を残した教室の跡地に立った時 学生だったころの 何かが出来ると思っていた そして 何もわかっていなかった自分自身の姿ががよみがえり、 はずかしく なつかしく思い起こされたのでした。

4 交流(むすび)祭り
「現地」へ出かけて行き 現地に学ぶ といったFIWCの活動は 交流の家が完成したことによって いつのまにか 交流の家を中心とした活動になっていました。
そんな時 計画されたのが 1969年夏の交流(むすび)祭りでした。 
かつては 愛生園でも 行われていたという 夏祭りを園外の人々も巻き込んで盛大に開催しよう というものでした。
愛生園からも実行委員を募りました。
呼びかけに応じて 名乗りでたメンバーの中に KさんやOさんMさんAさん達がいたのです。
盆踊り 夜店 舟遊び 花火大会などが企画され そのたびごとに園当局から注意をうけることになったのでした。
国立療養所の中で 外部から不特定多数の人間が入所者といっしょに「お祭り騒ぎ?」をするなどと 今から考えると 注意ぐらいですんだのが 不思議なくらいでした。
盆踊りは愛生園側で音頭取りもそろっており 経験もあるということでしたが
夜店については 食べ物を扱ってはならない という 大きな障害がありました。
実行委員長だったMさんが「くやしいが ここは 涙をのもう」と逆に私達学生をなだめてくださったことを憶えています。

夜店で販売するものなどを 全て用意しなければ と あせっていた私に
上級生の女性が「わたしたちは 慰問にいくのじゃないでしょ 」
と 言葉少なにたしなめられたことも ありました。

「たった一発でもいい。大きな打ち上げ花火を愛生園の夜空に」
という 大望も 学生ゆえの資金不足と療養所である という ことから
実現できませんでした。 

祭りにむけての案内チラシをつくり 園内をかけめぐりました。

2日間だったのか3日間だったのか のべ100人ぐらいの学生がその祭りに参加したのでした。

後日 この祭りは 療養所の秩序を大きく乱した ということで 批判をうけることになったのですが

私達とMさんKさんAさんOさん達との現在にいたる交流は この「交流まつり」での共有体験が原点となっていると 私は思っています。

5 リユニオン
交流祭りが終わった その年の秋 私たちは療養所の仲間から タコ釣りに招待されました。愛生園の浜から数人ずつ 船にのせてもらって沖にでました。
釣り道具は釣り糸と釣り針 わたのようなものをつけたかもしれません。
釣り糸をおろしていくと つぎつぎにイイダコが鈴なりになってあがってきました。
陸揚げしたあとは 船倉いっぱいにとれた タコをてんぷらや 煮物にして
宴会がはじまりました。

たべきれないほどの タコと 飲みきれないほどのアルコールに酔いしれて私たちは 交流祭りの思い出を語り合いました。

楽しい共有体験こそが 差別をのりこえるものと 信じていたように思います。
そして できるだけ多くの人を その体験に引き込んでいくことが私たちの活動なのだと。

らい予防法が あっても それは なしくずしにすればいいのだと。

6 反戦のための万国博

話が前後しますが 私たちが愛生園での交流祭りを準備していたころ
日本中が沸き立っていた万国博に対抗し 反戦のための万国博という企画が実行されていました。

大阪城公園で開催された この催しは当時の平和的反戦運動家や団体が
様々な形で 反戦の意志をアピールするというものでした。

FIWCの仲間だった徳永さんは療養所の人達の声を集めた はがきで作った家を出していました。

「語れなかった思い」が一枚一枚のはがきに記されていたのだと思います。

交流祭りにかかわっていた私は どのような 想いがそこに語られていたのか 今 思い出すことができません。

漠然とした 問題意識のまま ただ 動いていただけだったと思います。

7 長島愛生園紅白歌合戦
  
交流祭の翌年の1970年 私たちは長島愛生園と共催で紅白歌合戦を開催しました。

会場は愛生会館でした。

手作りの獅子舞と仮装パレードで園内を宣伝してまわった時の写真が私のアルバムに残っています。

私は赤組歌手として出場し なぜだか「長崎ブルース」を歌ったという記憶があります。裏地でつくった青いドレスを着て大きなワッカのイヤリングをしました。

司会は愛生園きってのプレイボーイと謳われていたKさんと今はりっぱなお医者さんになっている徳永進さんでした。

他にどんな出演者がいたのか どんな曲が歌われたのか そして どちらが勝ったのか 全く憶えていないのが残念です。

ともかく その頃の私たちは交流祭をきっかけとして 急速に親しくなった愛生園のメンバー達との宴に酔いしれていたのでした。
 
8 愛生園の7人の侍

学生時代も終わり 社会人になった私はFIWCのキャンプ活動に参加する事も少なくなり 愛生園のメンバーとは 個人的なつきあいをするようになっていました。

そのような経緯もあり 私たちの結婚式に愛生園から7人のメンバーが列席してくれたのでした。

学生の仲間との宴会にはなれっこになっていた7人のメンバー達も 私たちの家族や親戚 職場の友人達が参加する披露宴への出席は緊張この上ないものだったようです。

愛生園を出発した7人のメンバーはなれない行程にとまどい 時間に遅れそうになったことも あとで知りました。

「なんとしてでも会場につかないといけないと思い トラックの前に進み出て
障害のある手を広げてとめようとしたんや」

今でもAさんの武勇伝になっている。

「自分の中にも壁を作ってしまっていた。」
私たちをいつもあたたかく迎えてくれるKさんは その頃のことを なつかしそうに 語ってくれる。

「愛すること」という詩を祝辞にしてくれたMさんは らい予防法の廃止を知ることなく亡くなられた。

歌合戦の司会をしていたKさんも亡くなられ そして積極的に外にでて 活動していたGさんも亡くなられたときいている。

いつも静かに笑っていたMさんが大きな油絵を描かれることは ずいぶん後になって知りました。

80歳を超えた今も元気に 不自由な足で全国をかけめぐるOさん。

私たちの結婚式に決死の?覚悟でかけつけてくれた7人は

今でも愛生園の「7人の侍」と呼びあっているのです。

9 愛生園の愉快な女性達

侍達に負けてはいないのが愛生園の女性達です。
一番若くて元気もののK夫人。

みんなの世話に走り回りながら川柳も創る。
時々 受賞されていたりして

電話の向こうから
「今 宴会〜 あんたも くるかい〜」
と 呼びかけられたこともありました。

泊めていただき ふとんを並べて眠ったときのこと
「妹はあんたと同じくらいなんよ。。。」

「どんなおそろしいところかと不安やったけど まあ
 よく 考えたら 鬼がすんでるわけでなし 人間がすんでるわけやから 」

と 笑いながら 話してくれたのは そのK夫人だったのか それともO夫人だったのか。

「砂の器 ありゃちょっと くらすぎるわなあ〜」
「まあ そういう時代もあったちゅうことやけど」
話がはずむと 夫たちはそっちのけになる。


みんな 普通の人なのに 普通じゃない。
明るくて 思いやりがあって おちゃめなおばさんたちなのです。

10 心の中の差別

学生時代の私達が活動の中で よく 口にしていた言葉
「内なるらい」

心の中の差別意識をみつめること

法律や政治が掬い取れない「差別」という人間の心の問題に
取り組んでいる

そんな 自負をこめた 言葉だったように思います。

それは 言葉をかえれば 法律や政治の問題をそのままにして
「らい」であることによって 法律や政治から 理不尽な差別をうけたままであった友人達をそのままにして 

「理解しあえている」「交流している」
と 思い込んでいたのでは なかったのか

らい予防法が廃止され 国賠訴訟が和解に至った現在
急激に社会全体のハンセン病に対する認識が変わったことを目の当たりにして

私達の活動が見過ごしてきたものの大きさを思い知らされた
たかが 法律 されど 法律 だったのです。

「内なるらい」が「法律によって作られてしまったらい」でもあったことにもっと早く 気付くべきだったと思うのです。

 「自分自身が高齢になり 名乗り出て迷惑をかける親族もいなくなった」
ことが 裁判にふみきった人たちの内心でもあるときいている。

「もう いいかげんに「療養所の句」を 超えた作品をつくりたい」
と K夫人は 言っていた。

もう いいかげんに 「内なるらい」を 超えた関係をつくらなければ と 私は思うのです。