長島愛生園と私
その1   その2(2002年〜2005年日記から) 
7月19日(火) 社会復帰

長島愛生園のAさんから電話がかかってきた。

「今 帰ってきたで〜 よう見えるわ 祭りに備えて しばらくこっちの病院で養生しよう 思って」

Aさんは 前回 白内障の手術を 「そと」の病院で受け
今回も また もう片方の目を 「そと」の病院で手術したのだ。

ハンセン病療養所の中には いわゆる病院が あり
ほとんどの 病気やけがは そこで治療を受けられるようになっている。

「そとの病院」で 手術を受け 入院生活を送ることは
Aさんに いわせると

「社会復帰のひとつ 」なのだ。

「そとの病院」から凱旋してきたAさんは
さっそく報告の電話をしてくれたのだ。

「よく見えるようになってよかったねえ。無理したらあかんよ」
と いうと 

「おう わかっとるよ〜」と いつになく あっさり電話を切った。

お酒をのんでいないAさんは いたって おとなしい人なのだ。


6月26日(日) 世代を結ぶ会

FIWCと 関係しているNPOの集まりがあって
めずらしく 電車で 大阪へ出た。

ハンセン病回復者が宿泊を拒否され
誰でも 泊まれる家として 交流の家が建設された。

40年後 あのときと 同じように
ハンセン病回復者が宿泊を拒否される事件が起きた。

世代を継いで 運動を継続してきた私たちは 
40年間 いったい何をしてきたのか

何が 足りなかったのか
そんなことを 考えさせられた一日。

2005年6月9日(木) 差別禁止法

全療協ニュース(全国ハンセン病療養所入所者協議会)
を読んでいると

熊本の菊地恵楓園で
ハンセン病市民学会設立総会が開催されたことが載っていた。

ハンセン病に対する偏見や差別を解消し、ハンセン病に関する歴史の教訓をこれからの社会のあり方へ引き継ぐことを 目的としている。

2日間に渡って開かれたこの設立集会では
記念講演やシンポジウムの他に

四つのテーマで「検証」と「提言」がなされている。

「温泉宿泊拒否事件を総括する」の中で
恵楓園の自治会副会長さんの言葉が載っていた。

「宿泊拒否事件のあと ひどい投書がたくさんきたが、
投書した人には、差別はしても法律を犯してはいない、という言い分がある」

「差別されている者が差別はいけない。差別はしないで下さい、というのは
空しい。」

そして 「差別禁止法の制定」が必要である と 提言している。


「差別をしても 法律を犯してはいない」
「差別をしても 法律を犯してはいない」?

あらためて 思い知らされた気がした。



2005年4月19日(火) 人にやさしい社会

10mの高さから 落下することで
一万mからの落下体験ができるという遊具で
転落事故が起きた。

体格が大きくて安全ベルトが締められない人だったようだ。
そして 下半身に障害があって 車椅子を使われていたという。

「障害者を差別してはいけない」という気持ちが 係員の判断を鈍らせたのではないだろうかと私は思う。

こんな場合 係員は 心を鬼にして
「安全が保証されませんので ご遠慮ください」と いうべきだったのか?

確かに現状ではそうだろう。

でも 本当は
「障害のある人も 安全に楽しめる遊具」であればよかったのだ
と 私は思う。

人にやさしい社会は 善意に頼っているだけでは実現しない。


2005年4月16日(土) 中国の人

ほんの半年間ぐらいだったが
留学生に日本語を教えていたことがあった。

1クラス20人ぐらいの教室で
そのほとんどが 中国の人だった。

上海に家族をおいて来日していた青年は
大学の建築学科をめざしていた。

両親が芸術家だった彼は
大学に進むことを 許されず
西域へ 下放されていたのだそうだ。

中国に残してきた奥さんに五千円のスカートを
買って帰ったら ひどく しかられた と 苦笑していた。

上海に来たら 僕の家に来てください と 言ってくれていた。

実は 親戚にも 中国から 来た おば が いる。
日中の国交が回復するまで 一度も実家に帰らなかった。
今でも美しく たくましくて やさしい おば だ。

知人の奥さんは 「恐ろしい日本人」に
家族の反対を押し切って嫁いできた中国の人だ。

そして 愛生園の Aさんは実は 子供の頃に
日本に来て ハンセン病になった 朝鮮の人なのだ。

国に対する反感と 差別や偏見は 
似たような構造を持っている。


2005年4月14日(木) ハンセン病検証会議

長島愛生園に住む友人の配慮で
我が家にも
全療協ニュース という 機関紙が届いている
(全国ハンセン病療養所入所者協議会が発行)

2005年4月1日号 を 読んでいると
ハンセン病検証会議の最終報告書について
主な検証成果 という 記事があった。

これで終わりではない と しながらも
これまでの 成果が列記されている

医学的根拠がないままに隔離が続けられた

日本国憲法は患者や家族を守らなかった。

国 自治体 は 根拠のない隔離を積極的にすすめ
宗教 教育 司法 報道 社会 は 抗議もしなかった。

次号につづくようだが
簡単に言うと 以上のようなことなのだと 思う。

今になってみれば こんな あたりまえのことを
なぜ誰も 「間違っている!」 と 気づかなかったのか。


「福祉界も隔離政策に依存し、そこに逃避し、そこに働く人々を美化して、
問題の深刻さを十分に認識するということはなかった。」

そのとおりだと 思った。


2005年3月27日(日) 交流の家

会議出席のため
久しぶりに 奈良の交流の家に行く

68年頃 FIWCのキャンプに参加した〇〇です」
と 自己紹介をしたら

「99年 キャンプ参加の〇〇です」
と 隣の青年が続けて自己紹介している。

「31年 違うやないか〜」と 言われてしまった。

私としたことが 座る席を まちがったね。


2005年3月3日(木) 差別から脱却へ

ハンセン病問題検証会議報告書関連で

報告書をまとめたという大学教授と
ハンセン病文学全集の編集に携わった作家の
インタビュー記事を読んだ。

精神科医でもあるという 作家さんのインタビュー記事で
ー差別を減らすのに大切なことは何か
という 編集委員の質問に対して

「結局は相手の気持ちになって考える、ということではないか。
ハンセン病で言えば、せっかく彼らの書いた小説や詩歌の
豊かな世界があるのだから、
まず読んで彼らの状況や心理をよく知ることが先決だと私は思う」

と 答えておられた。

私は 「それは ちがう」 と 思う。
「相手の気持ちになって考える」というのは いいとして

その 「相手の気持ち」が
「彼らの書いた小説や詩歌を まず読んで」
「彼らの状況や心理をよく知る」
ことによって 理解できるとは 思わないし

「相手の気持ちになって考える」ことで
差別が減らせる とも 思わない。

「彼らの書いた小説」「彼らの詩歌」
と いうその表現こそ

「差別意識」から 脱却していない その人を表現している。


「もう いいかげんに ハンセン病 や らい を 超えた作品をつくりたい」
愛生園の肝っ玉かあさん K夫人は こう言っていた。

差別 を 過去のものとして 感じていく心
差別のない今 を 積極的にイメージしていく心が

差別から 脱却する ということだと
私は 思う。

きょうも 重くて ごめんなさい。


2005年3月2日(水) ハンセン病検証会議報告

ハンセン病問題に関する検証会議が
最終報告書を提出した。

朝日新聞 3月2日 の記事に

国が差別を拡大し、必要なくなった隔離を
惰性のように続けてきたと指摘、
医学界、報道機関、法曹界などの責任も免れないと
結論づけた。
厚生労働省は、報告書に盛り込まれた提言を具体化するための組織を
夏までに設置する予定だ。

と あり 特集記事が掲載されていた。

国立ハンセン病療養所 長島愛生園に住む友人Kさんは
以前 こんなことを 言っていた。

「予防法が廃止され 療養所を出て 生活することも 可能になった。
苦労を覚悟で実際に そういう決断をした人もいる。

自分も そうやって社会に出てみたいという気持ちがないわけではないが
みんな 年を取り 外(療養所の外)に出たくても
もう その力がない人が ほとんどなのだ。

自分はその中では まだ 若いし(と いっても70歳を過ぎている)
まだまだ 園内では 動けるほうだから

これからも 園に残らざるを得ない人達を ここにいて
助けていかねば と 思っている」

私は そんな Kさん達の思いを
伝えていきたい と 思っている。



2005年2月17日(木)「招かれざる客」

衛星放送で かの有名な映画「招かれざる客」を見た。

リベラルな家庭に育った白人の女の子が
黒人のエリート青年と恋に落ち

両親に結婚することを打ち明ける

両親は ショックを受け
先進的な思想の持ち主だったはずの父親は

娘の結婚相手が黒人であることにこだわり
そして こだわる自分に悩む

という 話

最後は 青年の両親も登場して
めでたし めでたし で 終わるのだけれど

女の子の家に やとわれている黒人のお手伝いさんが

「私が小さい頃から お育てしてきた お嬢さんに あんたは なんてことしてくれたの!」と 青年に抗議する場面があった

(あれっ?)

差別というのは
差別する側も される側も 
不思議なことに

同じ幻影を 見ているのだなあ〜 と
考えさせられる 映画だった。

2005年1月30日(日) 「らい」とハンセン病

愛生園のKさんから 寒中見舞いの電話がかかってきた。
「最近 どうしてるね。元気にしてるかね〜」

お互いの近況を話すうちに 「らい」と ハンセン病 の話になった。
「この前 私のホームページで Kさんのこと ちょっと 使わせてもらったよ
『らい』とハンセン病 の 話  ほら あの 〜〜〜〜〜〜〜」

「ああ そうやなあ〜 『らい』 と 言うと わたしらにとっては
やっぱり 過去のつらい想い と 切り離しては考えられんもんやからなあ

遺伝病と いわれたり 治らん病 と いわれたり ともかく存在そのものがひどい扱いを受けたわけやから そのイメージはなかなか ぬぐいされんもんなんや。

ハンセン病 は その点でわれわれも 「治る病気 」 のイメージで 使えるし
そういうふうに 使っていこう と 考えてるわけやわな」

「そういうふうに 使っていこう」

「らい」を「ハンセン病」と 言い換えたとしても 差別意識がなくならない限り
同じことなのだ と 思っていたけれど

これからは 私も 言葉 というものを
「そういう風に 使っていこう」 と 思います。



2005年1月11日(火) らい

きょうの朝日新聞に
南野法相が 島根県議主催の新年会で
ハンセン病について 言及し、
差別発言である旧病名の「らい」という表現を繰り返したとして
回復者や療養所の自治会長から 抗議されたという記事があった。

「らい」という 言葉を絶対に誰も使ってはいけない とは
思わないが 法相が このような場で使うべきではないことは
確かだと 思う。基本的なルールだろう。

ただ 法律による 差別がなくなり
「ハンセン病」と 言いかえられたとしても

人々の心に 差別意識がある限り
「らい」が「ハンセン病」にかわるだけのことなのだ。

最近 園外で講演を頼まれるという愛生園の友人は
こんなことを言っていた。

「高齢者相手に話をする時は 『ハンセン病療養所の〇〇です。〜〜〜』
と 話をはじめて 最後の方で 『昔はらい というとりました』と いうんじゃ
そんでないと なんのことか わからんからな。 そしたら 『え〜っ 』となるんじゃ
(笑)」

「若い人相手の時は『むかしは らい といって たいそう差別がひどかった』と まず
そこから はいらんとな なにも 知らん人もおるから(笑)」

なんでも いいから 〇〇さん。
ヨンさまに 負けないで がんばれ〜


2004年11月16日(火) 二つの拉致


日常生活の中から突然拉致され
北朝鮮に連れ去られた人達

死亡という情報だけが確かなもののように
何度も 繰り返し告げられる

そんなニュースをみていると

日常生活の中から 「らい」であるという理由だけで
突然拉致され 人里離れた
国立療養所に連れ去られた人達が重なってみえる

故郷では 死亡とされてきた人も多い

ハンセン病であっただけで
その拉致は 日本の法律によって 維持された。

くに に 帰ることができないままの
ハンセン病拉致被害者に

「家族会」は ない。


2004年8月5日(木) 長島愛生園 夏祭り

今日は長島愛生園の夏祭りの日
夜店や盆踊り 花火もあるときいている

春一番コンサートでカミングアウトした秋山さんが
今ごろは やぐらの上で得意ののどを披露しているにちがいない

何度も誘われながら
もうしわけないことに
まだ 一度も 祭りに参加したことがない

らい予防法が廃止されていらい
ハンセン病療養所には
日本の各地から 来訪者があり
学識経験者や 弁護士の方も多く来訪されている

学生時代 やみくもに実現させた
あの「交流まつり」を思うと 隔世の感がある

今年こそ と 思いつつ
断りの電話もできないでいる
不埒なわたしをお許しください。



2004年6月26日(土) 森井克子さんの詩

「一度 行ってみない?」と誘ったのがきっかけで
去年の11月 森井克子さんは はじめて愛生園を訪問した

ハンセン病については「ほとんど知らんけど いいかなあ」
と 遠慮がちだった。

その日は 実は 病院への お見舞いが目的だったのが
私達が 愛生園に到着した その時
その方が 亡くなられたのだった。

森井さんと詩の仲間 そして 私は
そのまま その方の 通夜に参列することになったのだった。

はじめての 愛生園
そして そこでの 突然の訃報
通夜式

森井さんにとっては 初対面の
Kさん夫婦 Oさん夫婦のあたたかいもてなし

愛生園から の帰途
森井さんは 何か すごく 感動しているようだった

その時の思いが
詩になった

今も愛生園に住む友人達のことを
少しでも 多くの人に 知ってもらいたいと思う


2004年5月3日(月) 秋山さんのカミングアウト

長島愛生園の秋山さんから
呼び出されて
服部緑地公園に行ってきた

春一番というコンサートで
江州音頭を唄うということだった

春一番がどんなものか
全くわからず会場へ

昔ヒッピーみたいな人達が
野外音楽堂に集まっていた

いよいよ出番だ
「ハンセン病療養所長島愛生園から やってきました。
江州音頭 長島エレジーをうたいます」

ハンセン病。。のところで
会場が一瞬 静まった

ハンセン病啓発講座や
ハンセン病ボランティアの集まり
では なく

歌詞カードを 何度も落としながらも
普通の人達の前で
見事に唄いきった秋山さん

こういうのを
カミングアウト と いうのだろう。

見なおしたよ
秋山さん


2003年11月12日(水) 長島愛生園訪問

仕事仲間だった友人と ホームページがきっかけで知り合った友人と
3人で 岡山にある長島愛生園に行って来た

療養所内にある病院に入院している知人を見舞うということと
もうひとつは 詩をつくる2人の友人を愛生園に住むKさん夫妻に
引き合わせたいということだった。

Kさんの奥さんも 川柳や詩をかいている
はじめての 療養所訪問 そして 初対面にもかかわらず
ふたりの友人は Kさん夫人と すっかり意気投合!

Kさんの案内で今年8月にオープンした歴史館
納骨堂 監房跡 収容桟橋 など 療養所内を見学した

その夜はOさん夫妻も参加して瀬戸内の美味をいただきながら
女中心のおしゃべり大会になった

「「療養所」を超えた作品をつくりたい」というKさんの奥さん
「壁をつくっているのは 社会でもあり自分自身でもある」というKさん
むかしばなしや 苦労話 出会ったころの話

Kさん宅で 私は むかしと かわらぬ いつもの私に もどる。


2003年9月1日(月) いつもの庭にまた 秋が来た

PL花火 お盆 地蔵盆 と夏の行事が 終わると
もう 秋の気配だ

先週末 長島愛生園から Aさんが来阪
焼肉屋さんで
「障害者同士 力をあわせなあかん!」
と いつもの如く 熱弁をふるう

その後  参加した 祝賀会で
今度は 江州音頭を熱唱!

私は 途中で 失礼したが
Aさんの 友好活動は
おそらく 深夜まで続いたにちがいない。

まちがいなく 続いたのだった。
(昨夜 興奮さめやらぬ Aさんから 電話がはいった)

2003年7月25日(金) 「らい」という言葉

学生時代にかかわっていたフレンズ国際労働キャンプから
毎月 活動報告が 送られてきている。

封筒には 小さくではあるが
「交流(むすび)の家はFIWCの建設したらい復権の家」
と 印刷されている

最近 療養所や社会復帰者の方から「らい」という言葉をはずしてほしい
という 意見が 出たそうだ。

療養所の中にも 「ハンセン氏病」という表現を拒否し あえて 「らい」にこだわりつづける人もいないことはない。

「私たちが問題とするのは 病気 ではなく 差別である」といったような ことだったと思う。

差別にかかわる 運動が 差別を きわだたせてしまう という 逆説

個人的な関係の中で 馴れ合いになっていたことの 反省

いずれにせよ

「やめてほしい」という人が一人でも いる以上 郵便物への印刷をやめる
べきだろう。

「交流の家」は すべての人にとっての 「人間復権の家」なのだから


2003年2月6日(木) 交流の家

Yさんの米作りが2年目を迎える。

「農業をやってみたい」
「じゃあ ウチで練習してみたら?」から出発して一年。
Yさんの夢がすこしづつ形になってくる。

私達は「交流の家」建設運動の仲間だった。ハンセン氏病「らい」の回復者が宿泊を拒否されたことをきっかけとしてその運動がはじまった。

学生を中心としたボランティア。療養所から参加した「らい回復者」もいた。
そして「だれでも泊まれる家」が奈良に完成した。

「交流の家」は今も奈良の地で「人びとをむすぶ家」として存在しつづけている。

「家」から遠く離れてしまった人。いつまでも「家」に通っている人。関わり方は様々だ。それぞれの「交流の家」があっていい。と 私は思う。

Yさんの夢 それは農業をしながら
Yさんの「交流の家」をつくることなのだと私は思っている。

2002年10月19日(土) Aさんのこと

長島愛生園のAさんからお土産が届いた。
故郷へのお墓参りツアーでこちらにきたそうだ。

Aさんとは私が学生だったころに出会った。
らい予防法は厳然として存在していたが若者の無鉄砲さがAさんや療養所の人たちとのつながりをつくりだした。

Aさんの部屋で歌い、飲み、騒いだ私達はそのころのAさんの年齢をはるかに超え、日々の生活にあけくれている。

Aさんは今でもかわらずに情熱と夢をもちつづけ私達に語りかけてくる。
「最近また若いキャンパーが来だしてなあー」と。

私はその情熱につきあいきれず曖昧な返事をしてAさんをおこらせてしまうこともあった。
そんなことも含めて個人的なつきあいが続いている。

私の部屋で伝えたいと思っていたこと。そのひとつは実は今もらい(ハンセン氏病)療養所で暮らすAさん達のことでもあったのです。