【蕎麦のうんちく雑学】


  Coarse study of soba

第1章 蕎 麦 彼 是

蕎麦の名称
玄そば 脱穀後の、まだ黒っぽい殻(黒皮)をかぶったままのそばの実の事
剥き身 殻(黒皮)をとりのぞいた中身のこと
打ち粉 打ったそばを延ばしたり切ったりする時、そば同士がくっつかないように振るでんぷん質の多い粉の事そばの実の芯辺りから採れる
更科粉 更科そばと呼ばれる真っ白なそばを打つときに使う。一番粉と混同される場合もあるが製法からして違う。更々しているが味も香りもない。
一番粉 そばの実の胚珠が粉になった物
二番粉 そばの実の中層から採れる淡黄色から淡緑色をしており、香りや甘みがある。
三番粉 表層粉ともいい、色と香と味がある。
並み粉 普通粉とも言う。一番粉から三番粉まで程良く配合したそば粉
挽きぐるみ(丸挽き粉) 殻を除いた玄そばを製粉した物。黒っぽい田舎そば打つのに使い香りが強い
割粉(つなぎ粉) そば粉はそば同士つながる力が弱い。それを補強するために入れる小麦粉のこと。
「夏蕎麦」VS「秋蕎麦」
蕎麦の出荷時期で「夏蕎麦」「秋蕎麦」と分けて呼ばれ、蕎麦の初物は夏蕎麦をいう。この夏の暑い盛りに収穫される夏蕎麦は、高温下でもよく結実する品種を使用し、初夏にまく種は比較的短期間で開花するのが特徴である。
秋蕎麦は、比較的温暖な地域で冷涼な気候という条件下で栽培する。 蕎麦栽培は、高冷地の気候に適しているので、信州の高原地区では良質の蕎麦が採れる。とくに「霧下そば」の産地は、蕎麦栽培に適している。霧下とは高原の山裾地帯のことで、昼夜の温度差が大きく、晴れた日の朝は霧が発生することが多い。霧は、夜の冷え込みと日中の気温上昇との差を和らげ、蕎麦の生育や結実期に良い効果が得られ味、栄養とも優れた蕎麦となる。


蕎麦にまつわる言い伝え
【朝とろ 夕そば】 
 朝はとろろ汁をすすり、夕食にはそばを食べるのが、かっての信州におけるご馳走だった

【饂飩一尺 蕎麦八寸】
 手打ちの原則で、一番食べやすいとされている長さを表した言葉。

【饂飩三本 蕎麦六本】
 うどんは太いから一度に三本ぐらいずつ、そばは細いから六本ぐらいずつ口に
運ぶのがちょうど良い、という。

【饂飩蕎麦より 嬶のそば】
 女房のそばにいるのが、一番気楽でよいとの戯言。

【紺屋の明後日 蕎麦屋の只今】
 紺屋(こんやともいう)はその仕事が天候に左右されるため、 染め物の仕事が遅れがちで、客が催促すれば明後日になれば出来るといってその場をしのぎ、 実際はあとにのばすのが紺屋の常套手段。 そば屋の出前で「ハイ只今」も同じ。あてにならぬ約束の譬え。

【蕎麦食ったら 腹あぶれ】
 福島県会津若松市、新潟県北蒲原郡中条町荒井浜地方の言い伝え。
あぶれは、温めろの方言。会津地方では、昔から 「蕎麦食って風呂に入らない馬鹿はいない。餅食って寝ない馬鹿はいない」と言われてきた。 唐橋宏(会津若松市「桐屋」)によれば、新そばの時期になると、 冷たい洗いたてのそば(水そば)を汁をつけずにすする食べ方があり、 満腹するころには芯から冷え切ってしまうので、風呂に入って温まるのが仕来りだ、 と言う。逆に、江戸や群馬県利根郡では、そばを食べてすぐ風呂にはいると中気になる、 との俗信がある。ともあれ、そばを食べたら、そば湯を飲むのは理にかなっている。

【蕎麦と坊主は田舎がよい】
 ソバと僧侶とは、都からよいものが出ない。


【蕎麦で首くくる】
 出来るはずがないこと。
蕎麦の生育

そばは一年草で、茎は中空で赤味を帯び、葉は三角形をしている。花は白色で(淡紅白もあり)、乾燥した土地でもよく発育し、生育が速く、2・3ヶ月で結実し、しかも土質を選ばず、養分を吸う力も強いので、どんなにやせた土地でも実る。
蕎麦のつなぎ
卵やヤマイモ(自然薯)は地域を問わず各地で見られる。
「ふのり」フノリを煮てノリ状にして打った蕎麦「へぎそば」は、この地域の名物で、独特の歯触り、薄く青味がかったそばの色合いが特徴である。
長野「オヤマボクチ」(キク科)はヤマゴボウ・ゴボウパ・ゴンボッパの方言のようにゴボウの葉によく似ている。干した葉を蒸して草餅に入れたり、干した葉をもんでもぐさ状にしたものを蕎麦を打つ時のつなぎとして珍重してきた。オヤマボクチのボクチは火口(ほくち)。
長野・新潟 〜ヨモギ
津軽の記録〜青森県の弘前地方ではかつて大豆(大豆汁や大豆粉)をつなぎに使った独特のそば打ち技法があったと伝わっている。
「豆乳」「豆腐」を使う方法は古い
さるごま(黄蜀葵・とろろあおい) 〜根の部分を使う
蕎麦粉を「糊」状にしてつなげる・・・友つなぎという。
酒つなぎ(酒を加えて打つそば) 〜太打ちの角が煮崩れないための目的であるが、酒の香りが強く一般向けしない
第2章 蕎麦屋のきまり事
蕎麦の日
毎月最後の日は蕎麦の日
1983年「日本麺類業団体連合会」が毎月最後の日は「蕎麦の日」にしようと決定した。年の締めくくり12月31日は「年越しそば」で終わる。
毎月十八(そば)の日を蕎麦の日とした地域もある


もりそば VS ざるそば

そば屋の品書きに「ざる」と「もり」がある。一般的に海苔の有無で決められているようだ。 しかし、以前はざるソバは、高級・良質なそばとして一番だしを使ったつゆを使用する。もりは、やや落ちたそばで二番だしを使うと言われた。
今で言う「かけそば」すなわちぶっかけそばが流行り出したのは、江戸の元禄の頃からです。
それまでの汁につけて食べるそばをもっと簡単に「食いてぇ」という江戸っ子の気の短さから産まれたメニューともいえます。
流行るにつれて、それと区別するため、汁につけ食べるそばを「もり」と呼び、ぶっかけを「かけ」と呼ぶようになりました。
「もり」とは、そばを高く盛りあげる形から生まれた呼び名ですが、その盛りつける器から「せいろ」「皿そば」など、店によって器の名前が転じて呼ばれるようにもなりました。
その中で、「ざるそば」は、江戸中期、深川洲崎にあった「伊勢屋」でそばを竹ざるに盛って出したのが始まりとされています。
その後の「ざるそば」は、専用の”ざる汁”を用いたり、薬味などにも工夫をこらしたりして従来の主旨を離れて、単なる付け蕎麦から高級感を味わう食べ物と変化していきました。
海苔がかけられるようになったのもその中のひとつで広まったのは明治以後です。
 いまでは”ざる汁”を特別に作る店は少なくなっており、海苔の有無だけが「もり」「ざる」の違いとなっているようですが、この海苔の香りやパリパリ感の優越が蕎麦の旨みを、左右することもあり、侮れない食材には間違いありません。

※ざる汁・・・ざるそばだけに使用される鰹節や色合い深み辛さなどを調合した特別の汁
※薬味・・・・うずら卵、本わさび、ネギ、胡麻、など


通は硬めが好み

蕎麦のタンパク質は水溶性のものが多いので、ゆでたらなるべく早く食べないと味が落ちてしまう。  そばはやや硬めの物がよいとされて、昔の川柳にも「そばとオバケはこわいもの」と言う物がある(こわいとは硬いと言う意味もある

蕎麦屋の通し言葉(符丁)
つく 一つのこと。「天つき三杯のかけ」は、てんぷらそば一杯、かけそば二杯にの意味
まじり 二つのこと。「天まじり三枚もり」・・・・天そばが二杯ともり一枚。
かち 二種類の出物が五個以上の奇数で多いほうの出物を先にして「かち」をつける。「てんぷら勝って七枚おかめ」また偶数の時は「と」 が使われる「てんぷらとおかめで六杯」
さくら 蕎麦の量を普通より少な目に盛って出すことをいう「ざるお代わり、台はさくらで願います」別名「きれい」
きん 大盛りの意味。「もり一枚きん」・・・大盛り一枚
おか 岡に上がっているという意味から、種ものの種を別の器にもってだすこと。「岡で天ぷら」
おかわり 一人の客で二杯の注文の場合に使う。
お声ががり そばを出すのは客の声がかかってからと言う意味
まくで 出物が三種類以上の場合は「まくで・・・」と続け、一緒の客だから同時に出して欲しい云う意味を持つ。「おかめが勝って七杯天ぷら、まくでうどんとそばかも四杯」
土用 熱盛りのこと(夏の土用で暑い)
土用・寒・もり二枚・・・・熱盛りと冷たい盛り各一枚

「蕎麦八徳」

江戸または明治の頃に、「蕎麦」の宣伝をした漢文。

・非穀美於穀
(こくよりうるわしく)
五穀ではないが五穀よりおいしい
穀類の中で重要な米・麦・粟(あわ)・豆・黍(きび)を五穀という。
・膳中備天地
(ぜんちゅうにてんちをそなえ)
お膳の中に広がる大自然の全てが入っている
・器少饗応厚
(うつわすくなくしてきょうおうあつし)
器は、小さなものだが、中には大きく厚いもてなしがある。
・雖食後能進
(しょくごといえどもすすめてよし)
どれほどの食事をしようが、その後に蕎麦くらいは食べられるだろうと薦められる。
・多食腹耗易
(おおくたべてもはらこなれやすく)
蕎麦はどんなに沢山食べようともとても消化がよいものだ。
・和湯防寒気
(わとうはかんきをふせぎ)
蕎麦湯を飲めば寒さを防げる。
・毎日食無飽
(まいちにしょくすれどもあきない)
蕎麦は、毎日食べても飽きることはない。
・実是仙家食
(じつはこれせんけのしょくなり)
仙人はかすみを食べて生きていたという。
実は、霞とは蕎麦のことなのではないだろうか?

 「土三寒六常五杯」

うどんを打つ際の四季の温度変化に対する「塩加減」を表現した古くからの口伝で、「どさんかんろくじょうごはい」と読む。
「土」は夏の土用、「寒」は寒中、「常」は春・秋のこと。つまり、土用の頃の暑中には塩一杯を水三杯に溶かした濃い塩水で小麦粉を練り、寒中は逆に六杯の水で溶かした薄めの塩水を使い、春と秋は塩一杯を水五杯で溶いた塩水で丁度良い、という。
小麦粉を水で捏ねて作る生地は、温度変化に対して非常に敏感で、暑いと生地はダレた状態になりやすく、反対に寒いと生地が硬くなりすぎてしまう。そこで、夏は食塩の量を多くして生地を締め、冬は食塩の量を減らして生地が硬くなりすぎないように調整するわけだが、塩分濃度をコントロールしているだけでなく、塩を溶く水の量を変えることで、小麦粉への加水量自体も調整していることになる。
うどん打ちは一見、簡単なように見えるが、温度や加水量、熟成時間といった変動要因が多く、しかも塩がそれらの要素に対して、微妙なコントロール機能を果たすなど、色々と複雑な要素が絡み合って常に関連しあいながら変動している。 これらの要素を体系的に把握していなければ、一定の品質のうどんを作ることは難しい。
そば打ち技術は難しいが理論は比較的簡単といい、うどんは技術的にはそれほど難しくないが、製麺理論が難しいと言われてる。
うどんは室町時代から既に現在とほぼ同じ作り方がされている。 「土三寒六常五杯」とは、長いうどん作りの歴史の中で先人が経験上会得した、一つの教えである。
この「土三寒六」の比率をボーメ計で測定すると、「土三」では24ボーメ、「寒六」では15ボーメ、「常五杯」では17ボーメとなり、現在の塩水比率からいってかなり濃いようだ。  
<参考資料>そば・うどん百味百題

 蕎 麦 湯

蕎麦を食べた後に蕎麦湯を飲む風習は、先ず信州で始まり、それが江戸に広まったとされている、。年代は明らかではないが、元禄以降と推定されており、もともと蕎麦湯ではなく「ぬき湯」と呼ばれていたといわれる。元禄十年(1697)刊の『本朝食鑑』は早くも蕎麦湯を取り上げ、蕎麦を食べた後にこの湯を飲まないと必ず病にかかる、とも解釈される内容のことを書いている。
 なお蕎麦湯をいれる湯桶は口が正面についていないで横の方に長く突き出ているが、ここから、人が話をしている最中に横から口出しするのを「蕎麦屋の湯桶」というようになった。


第3章 蕎麦と蕎麦屋の歴史話

蕎麦切りの起源

日本におけるソバ栽培は、五世紀の中ごろといわれているが、蕎麦切りとしての歴史は比較的浅い。庶民に普及したのは、江戸時代も中ほどになってからで、農村においても一般化したのは同時期以降である。ただし、農村での「蕎麦切り」は振舞いのための御馳走だったという。「そば米」や「そばがき」から「蕎麦切り」に移る起源は確定されていない。享保十九年(1734)刊『本朝世事談綺』巻一、飲食門の蕎麦切りの条には、「中古二百年以前の書、もろもろの食物を詳かに記せるにも、蕎麦切りの事見えず。ここを以て見れば、近世起こる事也」と、室町時代の文献には蕎麦切りの記事が見当たらない。室町中期の通俗辞書ともいえる節用集の、慶長二年(1597)改訂版『易林節用集』には、饂飩、索麺、斬麥など10種類余の麺類が記されているが、「蕎麦切り」に関する項は無い。現在のところ、蕎麦切りの初見とされるのは、長野県木曽郡大桑村須原にある臨済宗妙心寺派の定勝寺の文書の中から、天正二年(1574)の仏殿の修理工事に蕎麦切りを振舞ったという記録がある。

 そばの長さ

江戸時代のソバは8寸(約26cm)もある長い物だった。ソバの入った蒸籠を畳の上に置き、お猪口を手に持った状態で食べたためで、近年はテーブルの上に蒸籠をおいて食べることが当たり前になり、長さはそれに見合った長さになった。

 蕎麦麺の歴史

大昔のソバは粉にした物を練ってそれを食べていた。現在のように細長く切って麺として食べるスタイルが登場したのは1596年〜1615年頃[慶長年間]だと考えられている。このスタイルが定着したのは江戸時代。 この時代、江戸の町造りにと全国から沢山の労働者や職人が集められた。そこで簡単に安く食べられる食べ物は「蕎麦」ということで甲州(山梨県)や信州(長野県)から大量にそば粉を取り寄せ、労働者たちに振る舞い歓迎されたという事に始まる。この当時のソバは、細く切った物を蒸し上げた物で、いわゆる盛りそばで、汁につけた物では無かったようだ。

 種物の始め

江戸時代の末期に書かれた『守貞漫稿:もりさだまんこう』と言う随筆の中では「だし汁かけたるを上略して掛(かけ)と云ふ」と記されているように、江戸末期になって汁かけそばが一般的になった。その随筆の中には、細かく揉んだ海苔を乗せた『花巻:はなまき』や、狐の好物だと言われる油揚げを乗せた『きつね』などが紹介されている。 

そば・うどんの上に焼玉子、かまぼこ、椎茸、クワイの類をのせた食べ方を『しっぽく』と言う。 内容的には現在の『おかめ』と呼ばれる物に近いが、呼び名は中国の食事スタイルを表す『卓袱料理:しっぽくりょうり』から取られている。 これは江戸時代中期以降に中国趣味が流行したことによる命名だと考えられる。

 江戸は蕎麦、上方は饂飩

江戸の風俗を書いた「むかしむかし物語」によると、寛文四年(1664年)には、めん類をを扱うほとんどの店の看板が「うどん・蕎麦切り」だったとあり、うどんが主だったことを示す。
ところが、時代が移り天保十四年(1843年)に江戸の戯作者、柳亭種彦が書いた髄筆「用捨箱」には、「昔は温飩おこなはれて、温飩のかたはらに蕎麦きりを売る。今は蕎麦きり盛んになりて、其傍に温飩を売る」とあり、地位が逆転している。
江戸後期の京阪・江戸の風俗生活を記録した「守貞漫稿」でも江戸では、うどん屋よりそば屋が多くなった。と記している。
その一因として、うどん、そばの原料とする粉の値段にある。三井大阪両替商の帳簿など様々な記録から調べてみると、文政元年(1818年)の小麦は玄そばの2.1倍、安政六年では2倍と、うどんの原料は蕎麦より常に高値で流通していたようだ。
商業の中心地であった上方では高価な小麦粉が手に入れやすく、商人も好んでうどんを食べ、一方、江戸でそばが広まっていく時期は、町の急成長期と重なる。
そばの一大産地である信州をはじめ、周辺かち大量の労働者流れ込んだ.そばは手っ取り早く食せる庶民のファースト・フードとして好まれたと考えられる。

 日本初のそば屋は大阪から

日本最初のそば屋が大阪で誕生したとの説がある。 老舗「砂場」の源流となった店「いずみや(天正十二年1584年)」、秀吉の大坂城築城に使う砂利置き場に開いたので、その名で呼ばれるようになった。寛政十年(1798年)に刊行された上方の名所旧跡ガイド「摂津名所図会」にも「砂場いずみや」として紹介されている。

 江戸の汁は辛口

江戸時代中期以降の品と思われる猪口は、今よりサイズが二回りも小さい。それは、つゆが辛かったんだという。砂場の猪口左側が江戸時代のもの



 ○○庵という屋号が多い理由

浅草・吉原の近く浄土宗称往院の院内にあった道光庵の庵主は信州松本出身のそば打ち名手で、寺でありながら振る舞うそばが評判になり、まるでそば屋の如く大繁盛するという
寛延の頃(1750頃)で、道光庵の評判と繁昌振りにあやかろうと店名に庵をつけるそば屋が増えた。
その後天明六年(1786年)、道光庵は蕎麦禁断となるが、屋号に庵の付くそば屋はそのまま現在に至っている。



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