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【 蕎 麦 の はなし 】


 蕎麦のはなし
 
まえがき


「十割生蕎麦」という呼び名は、江戸時代、小麦粉を多用した蕎麦が横行したときにグレードの高いそばと俗にいう”愚そば”との差別化から生まれた言葉である。その「愚そば」の総称を「二八そば」と呼び、その安価や食べ安さから江戸庶民の気軽な食べ物として蕎麦は普及したという。

明治・大正を得てどの蕎麦屋でも売り文句として看板に「生蕎麦」を名乗るようになったが生粉打ち蕎麦など出す店はほとんど無く、今で言う偽装食品の走りのようだった。
戦後に至っては、蕎麦粉3〜4割、後6〜7割はつなぎの小麦粉というような配合で製麺機械のローラーで無理やり廼した「そばモドキ」を出すようなそば店が急増した。
これらの店は、社会の急成長を背景に庶民に根付いた食文化として大変繁盛した。
出前にしても、ピザや宅配寿司も無い時代で今にしてみれば一番出前に適さない「そば」が独占していたということ自体が不思議なことだ。(それほど伸びにくいそばだったともいえる)
しかし江戸における「そば文化」の発展という視点から見て、「愚そば・二八そば」が果たした役割(打ちやすさ、食べやすさなど)を無視することは出来なかった様に、昭和30年代の食の需要を支えたのは機械打ちそばだった。
ところ変わり現代の「二八蕎麦」は、そば粉8割/小麦粉2割の割合で蕎麦を打つことだとされている。 この割合は蕎麦粉の特性を失わずに程よいのど越しと旨みを出せる最良の方法だ。   二八そば倶楽部では、この良質な蕎麦を敷居の高い高級蕎麦店から安値で誰でも気軽に暖簾をくぐれる町場のそば店に取り戻そうというのが狙いです。
二・八(ニッパチ)倶楽部は、 衰退し続ける日本蕎麦の普及を願うそば店「蕎麦処・中野島丸花」が中心となって、蕎麦三ケ条(蕎麦麺の品質向上・蕎麦食の普及・蕎麦の啓蒙活動)を守り、さまざまな機会に日本蕎麦を食べてういただくために努力して行こうという趣旨で活動する集まりです。 【啓蒙】 人々に新しい知識を与え、教え導くこと。

歴史は、作為的に作りかえられる。

話題のイエスの秘密を暴いた「ダビンチ・コード」は、聖書を時の権力者が自分の統治しやすくするために、信仰者を欺く書き換えをしたり削除したという話を別な解釈でサスペンスにした物語だ。その後の聖書は間違った(?)解釈の元に人間イエスを神として崇め世界中に伝わったという。  忠臣蔵の討ち入蕎麦は、ストーリー性を重んじたために作られた話だ、歴史は都合の良い形にして伝えられることがよくある。正しいものや本当のことを知らなければ、常に虚無の危険にさらされている事が解かる。


昨秋から始まった「めん類飲食店の標準営業約款」の登録制度の登録条件の中にそば粉7割以上の蕎麦を提供することとある。 それは「そば粉」10割の生粉打ちが絶対であり、5割の同割はそばの紛い物であるかのようだ。
江戸に始まる蕎麦食文化。 よく二八そばということばを耳にする。粉の配分量だとする解釈が世間に多く語られているので、質問すればほとんどの人はそう答えるが間違ってはいない。 しかし当時は、小麦粉が大変な高級素材だった為に、おいそれと使えなかったという事実もある。2×8で16文というそば銭のことなどとする説などもあり、そばはそうあるべきのものという定義は、一概には言えそうに無い。
今や、そば粉も小麦粉も輸入物にたよらなくては、国内需要に追いつかない状況下で、小麦粉は蕎麦粉の1/3以下の価格で入荷される。そこから、そば粉は高級、小麦粉は低級というレッテルが貼られてしまった。
また、江戸時代には勿論蕎麦打ち機械などは無い。そば切りを作る方法は手打ちでしかない。その当たり前のだれでも出来る。田舎のおばぁさんにでも打てる蕎麦打ちを職人芸に変えて、さも技をひけらかすようにそのそば打ち技術に段位まで設定した。  
庶民の食べ物として蕎麦切りの文化は始まった、ファーストフードの草分けであるべき蕎麦が高級食となり庶民の「そば食堂」が低俗な蕎麦として格差をつけられてしまったのだ。
いまや、どちらかといえば町場のそば食堂の方が伝統文化を継承しているといっても過言ではない。


  秋の新そば


秋から冬にかけては「そば」が旬の季節。秋の新そばが出回り、歳時記でも「そば」は冬の季語と言われるように年末の「年越しそば」で最盛期を迎えます。
うどん、そうめん、ラーメン、パスタなど麺類は日本人にとって主食の一つとなっていますが、頭に「日本」が付くのは「そば」だけです。日本人の麺食文化において、「そば」の存在を欠かすことはできない大切な食文化と云えます。
そんな日本そばも、元をたどれば大陸伝来の食べ物となります。 原産地には二つの説が有ります。
説・其の一・・・シベリアの北方という説です。ロシアではバイカル湖から流れるアムール川、中国では黒竜江と呼ぶ川の流域一帯です。現在でもここは、世界一の主産地で我が国の中国からの輸入はこの地区から行われています。
説・其の二・・・ヒマラヤ山脈の山岳地を原産地とする南方説です。チベット、ネパール、ブータンから中国雲南省にかけての地域で科学的なDNA分析などからも現在ではこの説が有力になっています。
日本に伝来されたのは今から1万年以上前北海道が大陸に陸続きだった頃、北方民族が南下し、そば伝えたとされています。
日本でソバの栽培が始まった時期はかなり古く、日本史の中でも最も古い時代区分の縄文時代にたどり着き、高知県内で九〇〇〇年以上前の遺跡からソバの花粉が見つかり、当時からソバが栽培されていたと考えられています。その他にも五〇〇〇年前の青森県の三内丸山遺跡やさいたま市岩槻区でも三〇〇〇年前の遺跡からソバの種子が見つかっています。
 「蕎麦」が初めて、歴史的文献に上ったのは、七九七年に完成した史書『続日本紀』においてです。
奈良時代前期の女帝だった元正天皇(六八〇〜七四八)が出した詔の中に、次のような「蕎麦」の記述があります。
「今年の夏は雨がなく、田からとれるものがみのらず、よろしく天下の国司をして、百姓(おおみたから)を勧課し、晩禾(ばんか)、蕎麦及び小麦を植えしめ、たくわえおき、もって救荒に備えしむべし」
 日照り続きで稲の収穫が見込めない中、普通より遅く実る晩禾とよばれる稲や小麦とともに、栽培が推奨されたのが「蕎麦」でした。ソバは、日照りや冷涼な気候にも強く、また栽培する土地もさほど選ばないため、凶作の時も収穫が見込める救荒作物として位置づけらていたのです。
かつて、そばは麺ではなかった
今、「そば」といえば、だれもが色の少しついた長細い麺の食べものを思い浮かべます。しかし、少なくとも十六世紀頃までは「そば」に麺としての形を見出すことはできません。そばの歴史の中で、ソバは長いこと麺ではありませんでした。
 そば屋に入ると、そば粉を湯でこねて餅状にした「そばがき」や「そばもち」を食べることができる。このそば粉を練った食べ物こそ、そばの長い歴史の中では「そば」であり続けたのである。

 ということは、今やどこでも見られる麺の形をしたそばは“発明品”ということになる。麺状のそばには、包丁で切って作ることから「そば切り」という呼び方も付いているくらいだ。現代人の観点からしてそばがそばらしくなったのは、つまり、そば切りが誕生したのはいつ頃のことだろうか。

 江戸中期の俳人だった森川許六(1656〜1715)による1706年刊の俳文集『風俗文選』では、「そば切り」の発祥地が次のように伝えられている。

 「蕎麦切といっぱ、もと信濃国本山宿より出て、普く国々にもてはやされける」

 本山宿は中山道の宿場の1つで、今の長野県塩尻市内にある。1706年の時点では、すでに「普く国々に」広がっていたようだ。では「そば切り」の誕生はいつ頃、誰によってなされたのか。

 実はその起源は今も謎のままであり、どこまでさかのぼって「そば切り」の記述を見つけられるかは現代でも争点となっているのだ。
1992年には、長野県の郷土史家である関保男が、県南西部にある大桑村の定勝寺という寺で1574(天正2)年にしたためられた「定勝寺文書」の中で、「ソハキリ」(そば切り)の文字があるのを発表した。

 「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」「振舞ソハキリ 金永」

 これは、定勝寺の仏殿修理の落成祝いとして贈られた品物と贈答者の名前だ。徳利とそば袋を「千淡内」なる人物が贈った。そして、そば切りを「金永」なる人物が確かに振る舞っていたのである。

 関保男によるこの発見があるまで、書物における「そば切り」の登場は、近江の多賀大社の住職だった慈性(1593〜1663)が1614年(慶長19)年2月3日に「江戸の常明寺でソバキリを振る舞われた」と書いたのが最古とされていた。関の発見により40年も時代をさかのぼったことになる。

救荒食からハレの食品へ

 1574(天正2)年の「定勝寺文書」より以前の書物では、今のところ「そば切り」の記述は見出されていない。謎の部分もまだ多いが、そば切りは16世紀のいつ頃かに誕生したものと考えてよさそうだ。

 そば切り、つまり麺としてのそばが世に出てからというもの、そばに様々な変革の手が加えられていった。江戸時代に入り、17世紀から18世紀頃には、そば粉に“つなぎ”としての小麦粉を混ぜるそばの製法が打ち立てられたとされている。

 そば粉のみのそばは「十割」(とわり)、小麦粉2に対してそば粉8の比率のそばは「二八」(にはち)、同様に、「三七」「半々」も誕生した。さらに、そば粉10として小麦粉2の割合の「外二」なども誕生した。粉の混ぜ方が多種多様になったのは、それだけ人々がそばに興味を持つようになった証しと言えよう。

 今も続く「そば屋」が開店したのも江戸時代だ。江戸の麻布永坂町では、江戸暮らしをしていた信州の行商人の清右衛門が1789(寛政元)年、「信州更科蕎麦処」なる看板を掲げた。「更科そば」は、ソバの実の中心のみを挽いた白い上品なもの。信州からの直売を売り物にし、江戸中で受けたという。

 一方、雑司ヶ谷鬼子母神門前や本郷団子坂では「藪そば」が誕生した。こちらはソバの実の甘皮の色を入れた薄緑色のそばだ。

 更科そばや藪そばを供すそば屋の誕生以来、大江戸中にそば屋は広がっていき、1860(万延元)年には江戸府内のそば屋は3763店を数えたという。

 そばにとってのもう1つの重要な変革も、この時期に起きる。それは、飢饉をしのぐ「救荒食としてのそば」から、縁起のよい「ハレの食品としてのそば」への転換である。

 晦日に食べる「晦日そば」や、大晦日に食べる「年越しそば」の習慣が庶民に定着したのは江戸時代中期と言われる。もともと、金銀細工師が、飛び散った金粉・銀粉を、そば粉を使って集めていたことから、縁起をかついで掛け金の回収前にそばを食べるようになったという。そのげんかつぎが晦日や大晦日にそばを食べるという習慣として広まったという説がある。

 また、引っ越しの挨拶に「そばに参りました」の意味を込めてそばを贈る習慣も江戸時代に起きたとされる。

 麺となったそばは江戸の人びとに愛され、縁起物になっていったのである。

そばの“激動期”は今も続く

 9000年以上前の遺跡からソバの花粉が見つかったということからすれば、ここ400年ほどの麺としてのそばの歩みは、まだ新しい出来事と取ることもできそうだ。麺としてのそばの歴史は始まったばかりと言ったら大げさだろうか。

 だが、その450年の麺としてのそばの歩みの中には、小麦粉の使用や、そば屋の誕生、そしてハレの食品への転換といった、日本人とそばの関わりを考える上での大きな出来事が立て続けに起きてきたのである。

【 蕎 麦 の 歳 時 記 】


蕎麦は、歴史ある日本の食です。季節のいろいろな楽しみ方がありました


節句そば(雛そば)
三月三日の桃の節句(雛祭り)、またはその翌日、雛段に供えるそば。

この雛そばの風習がいつからはじまったものなのかは不明だが、江戸時代中期には、民間でかなり広まっていたと考えられる。江戸では、三日ではなく四日の雛納めの日にそばを供えてから雛檀を崩し、雛飾りの道具を元の箱に仕舞った。四日にそばを供える意味は、清めのそばを供えて、来年までのお別れを告げるため、あるいは、雛様の引越しだからの説がある。また文政13年(1830)の『嬉遊笑覧』巻六雛流しの条では、「今江戸の俗に、ひなを取りをさむる時、蕎麦を供ふ。何れの頃よりするに歟、いと近きことなるべし。こは長き物の延ぶるなど云うことを祝う心に取り足るなるべし。」と長く伸びる縁起からだと説明している。

三日に、草餅を供えることは平安朝時代からあり、白酒を供えることは室町時代からあった。これら節日(せちにち)の供え物を節供(せちく)といったが、この節供が後に節句となって節日と同じ意味の言葉に変わった。人形で身体を撫でて身のけがれや禍を人形に移してしまう祓(はらい)は古くから節日の行事のひとつであって、端午、七夕、八朔(八月一日)、重陽(九月九日)にも同じような祓(はらい)が行われていた。やがて、此人形に対する祓除の観念が段々薄れていって、更に人形が装飾的になり保存のきく永久的なものになるにつれて、そのつど捨ててしまうのをやめて、家に飾るようになった。これが雛祭りの風習の起源であり、江戸時代には五節供のひとつとして定められた。もともと、雛祭りには今日のような女の子の出産を祝うという意味はなかったのであるが、新興の町人が子孫の繁栄を願うため、今日のような意味を付け足したのである。

年越しそば(歳取りそば、大年そば、大晦日そば)
1)運そば説
鎌倉時代、博多の承天寺で年末を越せない町人に「世直しそば」と称して蕎麦餅を振舞った。すると、その翌年から町人たちに運が向いてきたので、以来、大晦日に「運そば」を食べる習慣になったという。「運気そば」あるいは「福そば」とも云う。 



2)三稜(三角)縁起説

 室町時代、関東三長者の一人であった増淵民部が、毎年の大晦日に無事息災を祝って「世の中にめでたいものは蕎麦の種 花咲きみのりみかどおさまる」と歌い、家人共々そばがきを食べたのがはじまりとする。蕎麦の実は三稜なので「帝」に通じる。また、三角は夫婦と子供の関係にたとえられ、縁起がよいとされてきた。


3)「細く長く」の形状説

 蕎麦切りは細く長くのびることから、家運を伸ばし、寿命を延ばし、身代をながつづきさせたいと縁起をかついだ。「寿命そば」(新潟県佐渡郡)、「のびそば」(越前)ともいう。


4)「切れやすい」ことからの形状説

 そばは切れやすい。そこから、一年の苦労や厄災をきれいさっぱり切り捨てようと食べるという説。「縁切りそば」「年切りそば」ともいう。また、一年中の借金を絶ちきる意味で「借銭切り」(岡山県賀陽町)、「勘定そば」(福島県磐城)とも。どちらも残さずに食べきらないといけない。

5)そば効能説

 『本朝食鑑』にあるように、そばによって体内を清浄にして新年を迎えるという説。薬味の葱は、清めはらう神官の禰宜に通じる、との俗言もある。


6)土重来説

 そばは一晩風雨に晒されても、翌朝陽が射せばすぐに立ち直る。それにあやかって「来年こそは」と食べる。また過ぎ去った一年を回顧反省する「思案そば」(栃木県芳賀郡)もある。

7)金運説

 金箔を打つとき、打ち粉にそば粉を使うと金箔の裂け目を防げ、裂け目が出来ても一カ所に寄ってくっつく。また、金銀細工師は飛び散った金銀の粉をかき集めるときにもそば粉を使う。そこから、そばは金を集めるという縁起で食べるようになったとする。 
    
引越しそば
江戸時代中期から江戸を中心として行われるようになった。(天保年間にはすでにその風習はあった)大阪にはその習慣はないとされる。引越しそばは、隣近所へは二つずつ、大家、差配(管理人)には五つというのが決まりだった。「おそばに末永く」「細く長くお付き合いを宜しく」と言ったのは江戸つ子の洒落で、そばが一番手軽で安上がりだったことが本当の理由ではないだろうか。ちなみにそれ以前は小豆粥を重箱に入れて配ったり、小豆をそのまま配ったり煎り豆を用いたりもしたようだ。

吉行淳之介は次のように随筆「蕎麦」に書いている。「引越し蕎麦」の明確な意味を辞書で調べてみると「今度おそばにまいりました」ということで要するに語呂合わせのシャレを含んでいる。年越し蕎麦はどういう意味合いか。「細く長かれと祝って、大晦日の夜または節分の夜に食う蕎麦」と辞書に出ている。ただこの日本語には、いろいろ考えさせられるところがある。「細く長かれと祝って」という文章は、なにか落ち着かないが、それはともかく「細く長い」のは目出度いことだと最初から決めているところがある。この反対語は、「太く短く」であるが「太く長く」という考え方は無いのだろうか。外国では、どういう言い方があるか知りたいが、わが国では「太い」場合は、「短く」なくてはいけないらしい。「太く長く」などという考え方は、あまりにずうずうしく天も人もともに許さない、というわが国独特の貧しさが感じられる。

棟上そば
建前に蕎麦を振舞う

とちりそば
「間の悪い役者蕎麦屋の一壇那」の川柳も出来ているくらい芝居関係者の中では一般的に使われている風習。中村勘三郎研究者の関 容子さんの随筆にもとちりそばというのがあり、楽屋中に蕎麦を振舞う様子が書かれている。


新板もの祝いそば
地本問屋では新板ものが出ると、著者や画師などの関係者を招いてそばを振舞う。

新吉原敷初めそば
遊女が客より夜具を新調して贈られた(多くは無心した)時は、祝儀としてそばを振舞う。

「蕎麦の客将棋の駒で数をとり」

「百人の蕎麦食う音や大晦日」この敷初めの祝いをすることは、寛保年間京町三浦屋孫三郎抱えの格子女郎哥浪から始まったという。しかしこの祝いに、客との縁の永く続くことを願って蕎麦を配ることは、下って宝暦・明和の頃からであろう。余事ながらこの蕎麦の代金や敷初めに楼内に撒く祝儀に金も総て夜具の贈り主、すなわち客の負担となる。新調の夜具に唯一度の寝初めをするために百金を投ずる事となり、客としては大痛時、さればこそ川柳の好材料ともなるわけである。

雛そばと関連した古川柳樟脳を蕎麦の次手に買いにけり
蕎麦切りの一すじのこる雛の腕
樟脳に包んでおいて蕎麦を喰い
毛せんの上で二八を盛り分ける


【落語の中の蕎麦】

「そば清」 そばの羽織
そば好きの清さんがひょんなことから信州へ旅に出ました。信州はご存知の通りの蕎麦の本場ですな。あっちの峠の蕎麦が美味いと聞くと出掛けていく、こっちの茶屋の蕎麦がいい、と聞くとまた出掛けていく。どんなところだろうが、たったひとりでケモノ道をかき分けてでも出掛けていく。「好きこそものの...」と申しますが、その気迫たるや、凄まじいものがございますが、慣れない信州の山道ですから、清さんとうとう道に迷っちゃった。さて、困った。いつのまにやら右を見ても左を見ても木ばかりで道と名のつくものはケモノ道さえ無い。困り果てておりまして、ふと気がつくと木の上にうわばみがいる。

当時はいたんですな、このうわばみ、というやつ。今で言うところの大蛇、おろちですな。胴回りが一抱えもありそうな途方も無いヘビ。頭から首、胴と辿っていくと、しっぽに行き当たった頃にはそのツラが思い出せないというほどの大蛇でございます。これが木の上から鎌首をダラリと垂らしている。

ああ、もうだめだ、オレはこれで丸呑みにされて死ぬんだ...

と覚悟を決めた...んですが、どうもうわばみが襲ってくる様子が無い。不思議に思ってよく見るとうわばみがジッと睨んでいるのは清さんではなくて、脇の方にいるひとりの猟師。これが鉄砲でうわばみの眉間に狙いをつけている。一方のうわばみのほうも今にも襲いかかろうかという気合でございます。

猟師とうわばみと...いったいどっちが勝つんだろう...

と思って固唾を飲んで見ている。

やがてわうばみがシャーッと飛びつくのと猟師がダーンッと撃つのとがほんのわずかな違い。あっというまもなく猟師はからだをうわばみに巻かれ、頭を咥えられると「クワッ、クワッ、クワッ...」と...呑まれちゃった...

「あぁ、恐ろしい...うわばみってのがいるってことは聞いてたけど、本当に人ひとりを丸呑みにするなんて... 恐ろしいもんだねぇ...  ああ、さすがのうわばみも、おなかがあんなに膨れ上がって、苦しんでるよ」

いかなうわばみでも大の男を丸呑みにしたんですから、無事に済むはずもございません。腹が倍ほども膨らんで苦しんでいたうわばみが、そばに生えている赤い草をペロ、ペロ...と舐め始めた。すると舐めるにつれて膨らんでいた腹がスーッと元どおりにへこんで、そのまんまガサガサガサッとやぶの中へ...

しかし、うわばみってのは恐ろしいことを知っているもんだなぁ...あの赤い草を舐めるとあの猟師が溶けちゃった...あの草を舐めたために、人ひとり溶けちゃった...うわばみの腹薬だ

そうだ! あの草を持って帰って、江戸でもって蕎麦賭けをする。食えなくなったらあの草をペロペロッとやる、すると腹がスーッとしていくらでも食べられる! いくらでも稼げる!

清さん、その草をありったけ摘んで紙入れの中へ収めると喜び勇んで江戸へと帰って来るなりその脚で...

なんだよ、また来たよ! なつかしいね、あの調子はどうも...なんですか、清さん、信州へ旅をしたそうですね。向こうは本場だ。さぞかしいい蕎麦を食べて来たでしょうね

いや、それですがね、蕎麦はいいんですが、つゆがいけません。江戸のつゆであそこの蕎麦を食べたらさぞかし...

ああ、そんなことをよく聞きますね。腕を上げたでしょう

どうでしょう。蕎麦賭け、やりますか?

おっ? 帰って来て早々に? お前さんの方から? いいですよ、じゃ五十で五両...

六十で十両ってのはどうです?

六十で十両!? 十両!!? ちょ、ちょっと待って

皆さん、聞きましたか? 六十で十両だって。こうなっちゃあたしひとりじゃ手に負えない。皆さん、この話、乗りますか? 乗る? みんな、乗りますか、よごさんすね。そいじゃ、ね、向かいのご隠居呼んできて...いやいや、こういう話に声を掛けないと後でうるさいんだよ、「どうしてあたしに声を掛けない」なんてあとで小言を...ああ、ご隠居、聞きましたか、六十で十両の賭け...え? ご隠居が全部持つ? いやいや、全部ってのはいけない。みなで頭割りですよ。みなさんもよござんすね。

清さん、聞いての通りだ。みんな六十で十両、受けますよ。じゃ、これでやりましょう。親方ッ、蕎麦賭けだよ、六十だよ!

蕎麦屋の親方も早打ちに自信が無けりゃこんな勝負は受けられません。タンタンッと打ってサッと出てくる。これを片っ端から・・・・・

これはどうも今までとは勢いが違いますよ、能書きも何も無しだよ、蕎麦が自分から口の中へ入って行くようだ...ちょっと誰かこの係り代わっておくれよ、この蒸篭の始末ってのがずいぶんと疲れるんだよ...いや、普通の食べ方なら疲れるなんて役回りじゃないんだけどね、こう立て続けに二十も三十も...


よくこれだけツーツーツーツーと口に入るね、ほんとに食べてんの?

ちょっと横からヨーッく見てみて。ひょっとして懐から着物の下に入れてない? え? 口に入ってる? ...ああ、そう? ...ヘェーッ!? ああ、入ってるよ..

いったいいくつ食べたんだい? ちょっと、そんな積み方じゃわからないじゃないか、ちゃんと十づつ積んでご覧よ...いくつ? 十の山が五つある!? 五十超してんの!? はぁ、清さん、だいぶ疲れて来たね... あたしも経験あるよ。やっぱ、人間、五十を超したらガクッとからだが.

清さん、あんた、もう謝んなさい。「ごめんなさい、参りました」って言って、楽におなんさな。  

ちょっと風にあたらせて...そしたら食べられる

え? 風に...皆さん、どうでしょうね、少しくらい休んでもいいでしょ。じゃ清さん、行ってらっしゃいな

自分では...動けない.担いで..次の間へ

..しょうがないね、どうも...じゃ、いくよ、よっ...動かないよ、ちょっとそっち側の脇を担いで、あたしゃこっちを...いいかい、腰を痛めないようにね、どっこいしょ! ...と、誰か、帯を持っとくれ! いいかい、わっしょい、わっしょい

御輿じゃないんだよ

清さん、ここでいいかい? じゃ、障子を開けるよ...へ? ひとりにしてくれ? そりゃいいけど、指突っ込んで吐いたりしちゃだめだよ。そんなことしたら、お前さんのまけだからね。

冗談言っちゃいけない.こっちにゃうわばみの腹薬があるんだ こ、これをなめりゃあと何枚だろうと..

なんかペロペロやってるよ。ははぁ、腹薬だ。だめだよ、もうあんなになっちゃ何を飲んだって効きゃしないよ。清さん、悪あがきはやめなさいよ...清さん...清さん? あれ? 返事が無い、音もしなくなったよ...どうしたんだろう。

清さん?

清さん、開けるよ...

みんなが障子を開けて次の間へ入ると、清さんはいなくて、蕎麦が着物を着て座っておりました


「 時 そ ば 」
夜鷹そばとも呼ばれた、屋台の二八そば屋。

冬の寒い夜、屋台に飛び込んできた男。
「おうッ、何ができる?  花巻にしっぽく? 
しっぽく。ひとつこしらいてくんねえ。 寒いなァ」

「今夜はたいへんお寒うございます。」

「どうでえ商売は?   いけねえか? 
まあ、商い(アキナイ)ってえぐらいだから飽きずにやんなきゃいけねえ」
と最初から調子がいい。待って食う間中、看板が当たり矢で縁起がいい。
あつらえが早い。 割り箸を使っていて清潔だ。
いい丼を使っている。 鰹節をおごっていてダシがいい。
そばは細くて腰があって、竹輪は厚く切ってあっていいねぇ・・・
歯の浮くような世辞をとうとうと並べ立てる。

食い終わると 
「実は脇でまずいそばを食っちまったんだ。
この蕎麦で口直しだ。 一杯で勘弁してくれねェ。いくらだい?」

「十六文で」

「小銭は間違えるといけねえ。手出しねえ。
  それ、一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ、今、何どきだい?」

「九ツで」

「とお、十一、十二……」 と、支払うとすーっと行ってしまった。

これを見ていた通りすがりの男。

「あんちきしょう、よくしゃべりやがったな。
はなからしまいまで世辞ィ使ってやがら。
てやんでえ。値段聞くことねえ。
十六文と決まってるんだから。
それにしても、変なところで時刻を聞きやがった、
あれじゃあ間違えちまう」
と、何回も指を折って「七つ、八つ、何刻だい、九ツで」
とやった挙げ句
「あ、少なく間違えやがった。
何刻だい、九ツで、ここで一文かすりゃあがった。
うーん、うめえことやったな」

自分もやってみたくなって、翌日早い時刻にそば屋を捕まえる。

「寒いねえ」
「へえ、今夜はだいぶ暖かで」
「ああ、そうだ。寒いのはゆんべだ。どうでえ商売は?」 
「おかげさまで」
「逆らうね。的に矢が・・・当たってねえ」
「どうでもいいけど、そばが遅いねえまあ、オレは気が長えからいいや」
「おっ、感心に割り箸・・・割ってあるね」
「いい丼だ・・・まんべんなく欠けてるよ。鋸に使えらぁ」
「鰹節をおごって・・・うあっ、塩っぺぃ。 湯をうめてくれ」
「そばは細く・・・いゃ太いね。ウドンかい、これ」
「まあ、食いでがあっていいや」
「ずいぶんグチャグチャしてるね。こなれがよくっていいか」
「竹輪は厚くって……おめえんとこ、竹輪使ってあるの」 
「使ってます?」 
「ありゃ、薄いね、これは。丼にひっついていてわからなかったよ」
「月が透けて見えらあ。 もういいやぁ。いくらだい?」

「十六文で」

「小銭は間違えるといけねえ。手を出しねえ。
それ、一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ、
今、何どきだい?」

「四ツで」

「五つ六つ七つ八つ……」

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 時そば解説  
■ 夜鷹そば
夜鷹そば夜鷹は、本所吉田町や柳原土手を縄張りにした、「野天営業」の街娼ですが、その夜鷹がよく食べたことからこの名がつきました。ですから、本来は夜鷹の営業区域に屋台を出す夜泣きそば屋だけに限った名称だったはずなのです。
■ 一杯十六文
夜泣きそば(夜鷹)は一杯十六文と相場が決まっていて、異名の二八そばは二八の十六からきたとも、そば粉とつなぎの割合からとも諸説あります。
■ 夜鷹そば・その2
種物が充実して、夜鷹そばが盛んになったのは文化年間(1804-18)から。ちなみに、夜鷹の料金は一回24文で、それより8文安かったわけですが、幕末には20文に、さらに24文に値が上がりました。明治になると、新興の「夜泣きうどん屋」に客を奪われ、すっかり衰退しました。
■ 何どきだい?
冬の夜九ツ刻(ここのつどき)はおよそ子の刻、午前0時〜2時。
江戸時代の時刻は明け六ツから、およそ2時間ごとに五四九八七、六五四九八七とくり返します。 後の間抜け男が現れたのは四ツですから、夜の10時〜0時。あわてて2時間早く来すぎたばっかりに、都合8文もぼられたわけです。
■ ひょっとこそば
この噺を得意にしていた三代目桂三木助は、マクラに「ひょっとこそば」の小ばなしを振っています。客が食べてみるとえらく熱いので、思わずフーフー吹く、「あァたのそのお顔が、ひょっとこでござんす」これは六代目三遊亭円生もやりました。
■ 蛇足
それまでそばの代金の数え方を「ひいふうみい」とする演者が多かったのを、時刻との整合から、「一つ、二つ」と改めたのは三代目三木助でした。なるほど、こうでなければそば屋はごまかされません。今ではほとんど三木助通りです。たしか、先代・春風亭柳橋だったと記憶しますが、  「何どきだい?」  「へい九ツで」  のところで、お囃子のように、二人が間を置かず、「なんどきだーいここのつでー」とやっていたのが、たまらないおかしさでした。  これだと、そば屋も承知でいっしょに遊んでいるようで、本当は変なのですが。
■ もっとも古い原話
享保11年(1726)、京都で刊行された、笑話本「軽口初笑」中の「他人は喰より」がもっとも古い形です。それによると、主人公は中間(ちゅうげん=武家屋敷の奉公人)、そば(そばきり)の値段は六文で、「四ツ、五ツ、六ツ・・・・」と失敗します。享保のころは、まだ物価が安かったということでしょう。なお、この噺は夜鷹そばの屋台が登場するため、生粋の江戸の噺と思われがちですが、実は上方落語の「時うどん」を、明治中期に三代目柳家小さんが東京に移したものです


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