千里川の歴史
箕面(みのお)の山々から小さな流れが集まって千里川となり、豊中市北の丘陵部(きゅうりょうぶ)から南の台地へゆるやかに流れ下って猪名川(いながわ)に注(そそ)いでいます。広大な千里丘陵(せんりきゅうりょう)を流れているところから「千里川」と呼ばれるようになったといわれています。
千里川のその歴史(れきし)は古く、約6000年前の縄文時代(じょうもんじだい)からあるといいます。
また、豊中には千里川のできたころの話が民話(みんわ)としてのこっています。
「摂津名所圖會」(せっつめいしょずかい)によると、もとは「ちさと川」と呼ばれ、六車(むくるま)川、箕輪(みのわ)川、田代(たしろ)川の呼び名もあったようです。
川の全長は10キロ。なだらかな起伏(きふく)の田畑を縫(ぬ)って流れる川の土手には、竹藪(たけやぶ)が覆(おお)い、川原には水草が繁(しげ)っていました。
今では、団地(だんち)や学校、住宅(じゅうたく)などが建(た)ちならんでいますが、私が子どもだった昭和(しょうわ)40年ごろは、緑ヶ丘(みどりがおか)や野畑はまだまだ竹藪とキクやケイトウの畑が続いていました。今でも千里川近くには、そのなごりの竹藪が見られますね。
私が生まれて40年近くになりますが、私の記憶(きおく)の中では千里川はいつもおだやかな顔を見せてくれています。しかし、自然(しぜん)の猛威(もうい)は千里川とて例外(れいがい)ではなく、昭和(しょうわ)42年の台風7号は千里川の表情(ひょうじょう)を一変(いっぺん)させ、多くの犠牲者(ぎせいしゃ)を出す水害(すいがい)を引きおこしました。
その後、改修工事(かいしゅうこうじ)がくりかえされ、最近(さいきん)では千里川があふれるような水害はおきていません。