千里川の決壊
昭和(しょうわ)42年(1967)この年の7月は、梅雨(つゆ)の長雨(ながあめ)に続(つづ)いて台風7号が到来(とうらい)。8日、9日の2日間にわたって大雨が降(ふ)り続きました。千里川は玉井町(たまいちょう)付近(ふきん)で約500メートルにわたり決壊(けっかい)したほか、10か所で堤防(ていぼう)が削(けず)りとられ、蛍池南町(ほたるがいけみなみまち)や桜の町では墓地(ぼち)や家屋(かおく)が流失(りゅうしつ)。走井(はしりい)、箕輪(みのわ)、千里園(せんりえん)などでは、あふれた水が家屋の軒下(のきした)にまでたっしたそうです。11日になってようやく水が引きだしたのもつかの間、12日未明(みめい)に再び豪雨(ごうう)に見舞(みま)われたものの、懸命(けんめい)の堤防補強作業(ていぼうほきょうさぎょう)により再決壊の危機(きき)は回避(かいひ)されました。
この豪雨により市内では、家屋の全壊(ぜんかい)・流失25戸(こ)、半壊(はんかい)41戸、床上浸水(ゆかうえしんすい)4千308戸、床下浸水(ゆかしたしんすい)1万9千932戸。重軽傷者(じゅうけいしょうしゃ)は176人、と水害(すいがい)は大きなつめあとを残(のこ)しました。
その後、千里川上流部(じょうりゅうぶ)の野畑地区と下流部(かりゅうぶ)の勝部(かつべ)地区では、蛇行(だこう)部分を修正(しゅうせい)するショートカット工事(こうじ)がおこなわれました。また、下水道の整備(せいび)を進(すす)めるとともに、千里川の堤防(ていぼう)をかさ上げするなどの水害対策(すいがいたいさく)を強化(きょうか)しました。
この昭和42年の台風以降(いこう)、千里川が大きな被害(ひがい)を出すことはなくなりました。
当時の野畑周辺です。川は図のように蛇行していました。