2004=H16(S79),過年版・那珂湊天満宮御祭礼(那珂湊八朔祭り)
                                                           近年では最後の本祭り(大祭)
2004=平成16年8月28日(土)。
祭礼3日目・昼間の部。
全風流物が集合前の自由練行(自由巡行。町渡し。天満宮や、各町内の祭典事務所への挨拶廻りと、門付け<御祝儀集めの為のショータイム。>入り。)。

明治10年再建築(築130年近く。)の古い豪商宅(二町目本通り・佐野屋本店。)前を通過する、大正12年造り直し(再築後82年目。)の、四町目の彫刻屋台(廻り舞台式・手踊り屋台。)。
地元・那珂湊の芸妓衆。

元禄時代のままの町割りと道幅と旧町名、幕末から明治初期のままの古民家や土蔵には、大正時代の古い彫刻屋台と芸者囃子とが、こよなく・しっくり似合う。

これが、最も那珂湊の夏祭りらしい光景。郷愁の原点。
時代の流れ。
新造して2年目の・和田町屋台。
地元・那珂湊の芸妓衆。
昼間のお囃子は、「四丁目」「切四丁目」「おっしゃい」「とっぴき」。
前時代の模範例。
今なお風格漂う・四町目の屋台。
地元・那珂湊の芸妓衆。
昼間のお囃子は、始終、「四丁目」が伝統。                
今や総合的に一番屋台と称される・
最大級の釈迦町屋台。
磯節保存会。
昼間のお囃子は、初日は「しゃぎり」で曳き出して、「四丁目」「おっしゃい」「とっぴき」など。
御神幸(お下がり。)時は、「四丁目」で出発後、「おっしゃい」に転じる。
還御(お帰り。)時は、「鎌倉」で出発後、「おっしゃい」に転じる。
最終日に、自町内へ戻ると、お開き前は、「おっしゃい」から転じて「本町二丁目」になる。


今年新造(何代目?)、龍之口町の屋台。
磯節道場&法濤会。
お囃子のレパートリーと順序と芸風とは、磯節保存会と全く同じ形式である。
但し、門付け時は、踊り手が、屋台の舞台上ではなく、屋台の前の路上で輪になって踊るのが特色。
小川町屋台。子供会。 戦前の作品・泉町の屋台。竹文会。
牛久保町屋台。
水戸・大工町の芸妓衆。
昼間のお囃子は、「四丁目」「おっしゃい」「とっぴき」など。
殿山町屋台。磯節道場。
田中町屋台。芸者スタイルの民謡会。
後ろから、和田町屋台。
一町目屋台。後ろから和田町屋台。

台風接近の余波で、太平洋はやや荒れ模様。
でも、「お下がり」の土曜日は、どうにか降らずに済み、涼し目の曇天。

平磯海岸付近。

七町目屋台。竹文会。
那珂湊の格調高く豪華な祭礼を支えて来たのは、水戸藩御用達の特権的な豪商達の経済力と風流心と道楽心と気風の良さ。
天満宮御祭礼を、実に二百年間以上も見続けて来た、古い土蔵群。
三町目仲通り、木内家の土蔵群。
那珂湊が、かつては漁業は二次的な産業で、あくまで商業都市(水戸藩唯一の交易港として、海と川との河口港として。)だった頃の、遺産的な豪商宅や土蔵群も、昭和末期〜平成も十六年ともなると、急速に姿を消して行き、今や断片的にその面影を残すのみに。
百年の風雪に耐えて来た、夏祭りを百年以上も見守り続けて来た、明治・大正期の豪商宅も、現存するのは数えるほどの少なさに。
祭礼だけではなく、古い街並みも、きちんと保存し続けて欲しかったのに、今では散在するのみの残念無念さ。
街角の民家の前の御神灯。        四町目の祭典事務所。           天満宮の馬場先付近。
天満宮・大鳥居前。 1972(S47)の夏の大祭の後、秋の失火により、享保年間に建て直した拝殿と御神輿とを焼失し、1974(S49)に復興した・天満宮の拝殿と御神輿。
狛犬や石灯籠や鳥居は無事で、江戸時代のまま。
奇跡的に・奥の本殿(神殿。)と御神体は火災を免れて残った(江戸時代の物。)。
現在の、那珂湊天満宮。大鳥居付近。         大鳥居。中の鳥居。鉄筋コンクリート造りの、拝殿。
1972(S47)・8月の大祭後、10月に・不審火により、享保年間の拝殿と御神輿とを焼失。
1974(S49)に、鉄筋コンクリート造りで再建された、拝殿。
耐震耐火構造になったのは良い事だが、かつての威厳・風格・装飾性・高級感・情緒は消失してしまって、残念無念。
奇跡的に焼失を免れた、奥の・本殿(神殿。享保年間。)と・御神体(元禄8年春に、徳川光圀公=水戸黄門様が、作り直した物。)。
前面の拝殿も、焼失せずに・現存して居て欲しかった。
前面の拝殿と、背後の本殿(神殿。)との、このアンバランスさ。
前面の拝殿に隠れて、気付く人も少ない、本殿(神殿。御神体を安置。)。
素晴らしい素材、デザイン性、屋根の反り具合、装飾、彫刻。
まさに、神様の鎮守なさる、神聖な領域(聖域。)の威厳と風格。
前面の拝殿を焼失せずに済んで居れば、指定文化財となって居たことであろうと思うと、残念無念。
何処の町でもそうだが、鎮守様の拝殿や神殿の形式や装飾や彫刻などが、屋台のお手本になって居るようだ。
1972=S47秋に焼失前の、天満宮の・立派な拝殿。
左は、1946=S21・8月、和田町が年番時の、集合写真。
右は、1954=S29・8月、水門町が年番時の、集合写真。
左は、焼失前・最後の本祭りとなった、1972=S47・8月、二町目が年番時の、集合写真。
右は、天満宮(所在地は釈迦町。)のお膝元・門前町・宮元町である、元町の弥勒と・氏子会の、集合写真。
幕末〜明治期の豪商宅と、平成に新造した屋台との対比。不思議にマッチする。
1947(S22)の大火を免れた一角の街並みと、祭典事務所へ向けて門付けをする・四町目の芸者囃子(1923=T12の作。)。
古い街並みには、やっぱり古い屋台が良く似合う。
つい数年前迄は、片側十数軒位ずつ古民家が軒を連ねて居たのに、現在では空地だらけの歯抜け状態となってしまった、本一町目〜本二町目付近(旧市街地の衰退と、郊外型へ移行のドーナツ化現象による。)。
四町目の芸者屋台の笛師を務めるのは、水戸地方お囃子研究所HP主宰の・BUNTEN氏(水戸市下市地区の横笛の名手。)。
磯節保存会の現会長(三代目。)、
福田佑子大先生(日本民謡界の重鎮。)と、
そのお嬢様方。
釈迦町の屋台。
磯節保存会の幹部の面々。
向かって左から、Sinクン(HP。横笛名人。)、
千草嬢(唄・踊り・三味線。)、洋子先生(踊り・三味線・合の手。)。
釈迦町の屋台。
平成の傑作・釈迦町屋台の、昼間の門付け。
これも平成の二大傑作のひとつ、
和田町屋台の、昼間の門付け。
磯節道場(磯節保存会の前会長・谷井法童武師が、設立。)の皆さん。
御子息・法行クン(横笛。)、長女・美帆嬢(踊り・三味線・合の手。)。
殿山町屋台。
横笛の大名人・長谷川潔師(磯節道場。)。
龍之口町の新造屋台。
法濤会(磯節保存会の日立支部が独立。)会主・伊東律子先生(もう一人の磯節名人。)と、夫君・谷井宗之師(初代・谷井法童先生の末男。)。
龍之口町の屋台。
背後から、花のドすっぴんで、性別不明のお祭り気違い・マキちゃん。
祭礼三日目・土曜日の夕刻、続々と明神町詰所へと参集して来る、各氏子町内の屋台。
新旧の屋台の競演。 和田町の纏(まとい。火消し組。)も、登場。
祭礼三日目・御神幸(神幸祭。お下がり。お浜下り。)   2004=平成16年8月28日(土)
御神幸(神幸祭。お下がり。お浜下り。)行列、
旧・二十二町内の、供奉順番表。
明神町掲示場。
今年の年番町は、明神町。
年番の大役を果たす為、今年は明神町の豪華な屋台は欠場。
明神町詰所。
元町の弥勒(鹿島様、春日様、住吉様。でぼみろく。天の岩戸。)。
第二代水戸藩主・徳川光圀公(水戸黄門・義公。)の時代(元禄年間。)から供奉・奉納。

背後から、六町目の獅子(ささら。雄獅子・雌獅子・子獅子。下がり葉拍子。)。
第五代水戸藩主(良公。)の時代(享保年間。)から供奉・奉納。

明治末期の電線の影響を受けずに済んだ、
江戸時代の姿のままの、
六町目の獅子と、元町の弥勒は共に、
国選択の無形民俗文化財(1980=S55。)、
文化庁選択民俗芸能、
市指定無形民俗文化財となって居る。
台風の被害防止の為に・国選択の無形民俗文化財・文化庁選択民俗芸能の獅子舞を・重武装でガードするにしても、せめて透明のビニールシートにして欲しかったのに、工事現場か露店のような・鉄パイプと原色青色シートで覆ってしまった・六町目の獅子(ささら。)。例年の威厳が半減。
明神町詰所の、名物・屋台の勢揃い(全風流物の練り込み。)。
今年・平成16年は、全16台中・13台が出場(供奉・奉納。)。
御神幸(お下がり。)行列は、全町内共に明神町詰所を「四丁目」で出発して、「おっしゃい」に転じる。
泉町・屋台。竹文会。 田中町・屋台。芸者スタイルの民謡会(粋鼓連。)。
七町目・屋台。竹文会。 龍之口町・新造屋台。磯節道場&法濤会。
小川町・屋台。子供会。 殿山町・屋台。磯節道場&子供会。
牛久保町・屋台。
水戸・大工町の芸妓衆。
釈迦町・屋台。磯節保存会・本部。
新造して二年目・和田町屋台。
元・那珂湊の芸妓衆。
古参・四町目屋台。地元・那珂湊の芸妓衆。
一町目・屋台。竹文会。
土曜日(お下がり。)はまだ雨は降らずに済んだのに、御神幸行列の先頭で露払いを務める六町目の獅子(ささら。)は、早くもこのような重武装。保護シートの色が、あまりにもアンバランスでミスマッチ。
年番・明神町の、
手古舞姿に金棒引きの娘達。
天満宮の御神旗。
古雅なひちりきを奏でる、
平安時代の絵巻物のような楽師たち。
御神輿の前後を護衛する神官と神主とが、神馬に乗馬せず・徒歩となってしまって何年も経つので、御神幸行列の威厳・風格・高級感は半減してしまい、残念な限り。
お下がり(御神幸。)と・お帰り(還御。)の大行列時には、烏帽子に白装束の若者達に無言で厳かに巡行される(御神輿のお通りを告げる奏楽は、荘厳な獅子の囃子と、古雅なひちりきの楽師たち。行列末尾には滑稽な弥勒の囃子も。)、高貴なイメージの御神輿も、海辺の御仮殿(お旅所。)で一夜を明かした後は、神職者や年番の警護から・お腰掛石(御神体が初めて海から上がって安置された場所。)の地元・和田町の若い衆達の手に引き継がれ、白一色のふんどし・さらし・足袋裸足姿の荒くれ男達によって、太平洋の怒涛の中へと担ぎ込まれ(海中渡御。お浜入り。)、ぐるぐる廻され、海中に沈められ、揉まれ、街へ猛スピードで駆け上がって、暴れ神輿に変身する(早朝5時頃から午前10時過ぎまで、神輿が町々を走り廻り、水や酒を浴びせられる。)。
そして、お帰り時は、このお下がり時と同様の厳粛な姿に戻って、天満宮へと戻って行く。
那珂湊の夏祭りの御神輿渡御は、極端な二面性を見せてくれる。
和田町の纏(まとい。火消し組。)。
拍子木と金棒引きが付く。
各氏子町内の町印と、責任役員たち。
御神輿行列の末尾を締めるのは、
ユーモラスな三体の神様・元町の弥勒。
屋台の賑やかな大行列は、あくまで御神輿行列の後ろに付いて、供奉・奉納をする。
今年新造の龍之口町の屋台。
前柱に提灯を飾り付けず、天満宮の御紋と町内名とをあしらった板を貼り付け、下方にぼんぼりを配したのは、斬新な発想・抜群のセンス。
夜祭りは、きわめてエスカレートした・ハイテンションなお囃子と、活気と興奮と陶酔のるつぼと化す。
昔は夜通し・不夜城だったそうだが、現在では規制により22時迄となる(少々はタイムオーバーする町内が殆んど。)。
御神輿のお供の役目を終え、夜の古い街並みを通過しつつ、自分の町内へと戻って行く、龍之口町の新造屋台。
自町内へ辿り着くと、ゆるやかに夜の部の門付けが始まる。
伊東律子師の美声に合わせて、屋台の前で、郷土民謡「網のし唄」を踊る、少女達。

祭礼四日目・還御(還幸祭。お帰り。)   2004=平成16年8月29日(日)   
超大型台風16号が日本海側を通過中の為、太平洋側の関東の海岸部までその余波の豪風雨に見舞われてしまった、最終日・クライマックス。
和田町掲示場・和田町詰所(風流物練り込み場所。)。
平成16年・年番は、明神町。
今年が近年では最後の本祭り(大祭。)なのに、日曜日の・御神輿の「お浜入り」や「還御(還幸祭。お帰り。)」は、この通りの悲惨さ。
それでも湊の氏子達は、天神様の夏祭りへの御奉仕を・ド根性で全うした、立派な義務感・責任感・気力・体力・情熱・郷土愛。
御神輿行列(お帰り。)も、屋台(風流物。)行列も、不本意な姿に(ビニールシート。雨ガッパ、帽子、傘。)。
強い風雨にさらされて、気の毒、可哀想、よく見えない、デジカメやビデオカメラが写らなくなった・・・・・・と言う声が、沿道からしきりに聞こえて来る。
実は我がデジカメも途中から撮影不可能となり、二日後に乾いたら直ったと言う始末。

那珂湊八朔祭りが、台風によって台無しにされたのは、昭和末期(今から18年前。)に・四町目が年番だった年に、台風直撃により・午後3時にて繰上げ早終了となった前例があり、それ以来初の災難とも言える。
湊の夏祭りは、好天に恵まれるのが通例で、もし降っても・パラツキ程度か・夏特有の夕立ち程度で、すぐにケロリ・カラリと上がり、非常時用のビニールシートは・折りたたんで・屋根上の片隅か・屋台下の物置に備えてある筈の物である。

還御(お帰り。)行列では、全町内共に「鎌倉」で和田町詰所を出発して、本通りへ出ると「おっしゃい」に転じる。
御神輿のお供を全うして後は、自由巡行(夜祭り。曳き分かれ。)となる。
更に、自町内へ戻ると、お開き前には、「おっしゃい」から転じて「本町二丁目」となる。
マキの、高校の卒業文集、「真夏の夜の幻想曲」(散文詩)の末尾に添えた、反歌一首。

曳き別れ   名残り惜しやな   山車屋台
ゆらりゆらりと   散りゆく囃子

2004=平成16年(S79)現在の、那珂湊天満宮御祭礼の、御神輿と風流物一覧
種類 所有者 制作年 価格 屋根・破風・本体・欄干・土台の色
御神輿 天満宮 1972(S47)、失火により、享保年間の拝殿と御神輿とを焼失、1974(S49)再興。
背後の御本殿(神殿。)と御神体とは、奇跡的に火災を免れた。

御神体は、元禄年間の物(第二代水戸藩主・徳川光圀=水戸黄門・義公が、和田町の漁師・金兵衛が発見して祀って居た御神体は・天神様の梅鉢御紋が入っては居ても・観音像だったのは間違いであるとして、東條常言に命じて・元禄8年春に・新たに作り直させた物。)。
御本殿(神殿。)は、享保年間の物(第五代水戸藩主が、石畳の馬場を直線からくの字に改め、拝殿と神殿とを場所と向きとを変えて造り直させた。御神体は元禄年間の物をそのまま移した。)。
狛犬(水門町氏子会が寄進。)や石灯籠(一町目&堀井町=五町目の氏子会が寄進。)も、天保年間や文化・文政年間の物。

享保年間の玄宝屋火事にも、天保年間の六四郎火事にも、幕末の天狗党の乱(おさわぎ。1864=元治元年。)にも、関東大震災(1923=T12。)にも、第二次世界大戦の空襲(1945=S20。)にも、那珂湊の大火(1947=S22。)にも、無傷で残った天満宮だったが、1972(S47。)の大祭後の秋に・失火により・惜しくも拝殿と御神輿とを焼失。
が、奇跡的に、奥の本殿(神殿。享保年間。)と御神体(元禄年間。)とは無事だった。
黒漆地に朱色漆に、金具。
同・
浜入り時のみ
和田町氏子会 御神体が初めて海から上がって・最初に安置されたと言う・伝承の地・お腰掛け石のある・和田町の、元禄年間以来の特権。

祭礼最終日の早朝、神職者と年番役員達から、白ふんどし姿の和田町の若い衆達に御神輿が引き継がれ、太平洋の怒涛の中へと担ぎ込まれ、揉まれ、廻され、海中に沈められ、街へ猛烈なスピードで駆け上がって、暴れ神輿へと変身する(お浜入り。海中渡御。)。

和田町若連から、お腰掛け・御仮殿(お旅所。)へと返された御神輿は、前日の夕刻〜宵の口の「御神幸(お下がり。お浜降り。)。」時と同様、再び神聖で厳粛な姿に戻って(烏帽子に白装束の若者達に警護され。一大行列を成して。)、「還御(お帰り。)。」となって、天満宮へと帰還する。

(火消風廻)
和田町
氏子会
江戸時代から。
獅子
(ささら)
六町目
氏子会
江戸時代の・享保年間から。
第五代水戸藩主・良公の命令により、元禄年間の社殿を・享保年間に社殿の位置と向きを変えて建替え時、東照宮の祭礼に倣って、御神輿の露払いを務める為に、荘厳さを増す獅子と・その囃子とが、行列に加えられた。

戦前迄は、底抜け屋台。

江戸時代の古式のままの、貴重な風流物。

1947(S22)の湊の大火時、六町目の氏子達が、土蔵以外は丸焼けになってでも、真っ先に獅子一式を持って・平磯方向に避難させて守った話は有名である。
土台の枠組みは、大火後に新造。
黒漆地に、金具。
弥勒
(でぼみろく)
元町
氏子会
江戸時代の・元禄年間から。
第二代水戸藩主・徳川光圀公(義公。水戸黄門。)が、元来の社殿も御神体も徹底的に新造時、古来からの天満宮御祭礼を、東照宮の祭礼を模して、現在の形式に改めた時以来、元町の弥勒がずっと供奉・奉納。

明治時代に、美形の御所人形風の三体も新造されたが、弥勒さまは不細工でユーモラスに限ると反対され、とうとう一度も使用されず、現在でも元町の某家の土蔵内に保管されて居る。

戦前迄は、底抜け屋台。

江戸時代の古式ままの、貴重な風流物。

1947(S22)の大火では無事(被災を免れた地区。)。
土台の枠組みは、戦後に新造。

年番に当たった年・2010=H22に、弥勒人形3体の・お面を・新調。
黒漆地に、金具。
手古舞 当年の
年番町
江戸時代から。
町印 旧・二十二町内、
全氏子会
江戸時代から。
屋台 龍之口町
氏子会
2004(H16)。今年、新造。
那珂湊では最近流行の形式(三層屋根。屋根と土台だけは古式の黒漆塗り。本体・柱・欄間は白木造り。欄干は朱色漆塗り。)。
前柱に彫刻は施さず・すっきりと仕上げ、前面には提灯を飾らず、天満宮の御紋と町内名の入った白木の板を貼り付け・下方にぼんぼりを置いた、センスとバランスの良さ。
楽屋・格子戸付近にはまだ彫刻は入って居ない。
屋根・唐破風は黒漆塗り、
本体は白木、
欄干は朱色漆塗り、
土台は黒漆、
金具・彫刻を多用。
屋台 一町目
氏子会
2003(H15)、大改造。
古い屋台に、金具・彫刻などを大幅に追加。
楽屋・格子戸付近に彫刻はまだ入って居ない。

100年振りに新造中、2011=H23・3月に、東日本大震災の津波被害に遭うが、無事に完成させ、7月の「海の日」に、入魂式・お披露目を実行。
2012=H24の「本祭り」「復興祭」より、再出場。本体は白木造りにし、欄干も朱色漆塗りにした。
前柱にまで彫刻を施したのは、那珂湊の屋台では、5例目。
全体的に黒地、
金具・彫刻。

最新作は、唐破風屋根と土台のみは・黒漆塗りとし、金具・彫刻を多用し、本体は白木造りとし、欄干は朱色漆塗りとした。
前柱にまで彫刻。
屋台 四町目
氏子会
1923(T12)。
先代は、山車・風流物を(明治末期に電線が張られた為。)改造して使用して居たが、人をひいて死亡事故を起してしまった為、浜辺で焼き払ってしまい、三年間の自粛後に、新しいタイプの屋台の模範例として・1923(T12)に新造したと言う話は・古老達の間では有名な逸話である。

那珂湊では最古の、典型的な彫刻屋台。
彫刻の彫りの深さ・繊細さ・種類の多さでは、群を抜く存在。
前柱にまで彫刻を施したのは、湊の屋台では第一号。
古色蒼然、貫禄・風格・質・完成度は、文句無く模範例。
提灯は、古式の赤提灯を・継承。

1947(S22。)の大火で・四町目は土蔵だけを残して丸焼けとなったが、屋台は郊外の坂の上(泉町の先の・大仏坂。)の屋台蔵に保管してあった為、難を逃れて・残った。
全体的に黒漆塗り、
金具・彫刻を多用。
前柱にまで彫刻を施したのは、湊では第一号。
屋台 五町目
氏子会
2001(H13)を最後に、欠場中の、古い屋台。
楽屋・格子戸付近に彫刻はまだ入って居ない。
2012=H24、「本祭り」「復興祭」に、久々の出場と期待されたが、見送られる。
全体的に黒漆塗り、
金具・彫刻。
屋台 六町目
氏子会
六町目は、獅子を出場させるのが最優先の義務なので、別に屋台も所有して居るが・滅多に参加しない。
かなり古い屋台で、鬼板・懸魚ともに湊では珍しい大虎の彫刻。
欄干(手すり。)を、黒漆塗りではなく・朱色(赤。)の漆塗りにした屋台としては・湊では第一号。
全体的に黒漆塗り、
欄干だけは朱色漆塗り。
金具・彫刻。
屋台 七町目
氏子会
1984(S59)。
楽屋横の格子戸の引き手にだけはまだ彫刻が入って居ない。
ほぼ彫刻屋台と言える。
今年(H16)、正面の唐破風に金具を追加した。
その後、2008(H20)、正面〜横の幕を、夏向きの木綿生地の物から、重厚な刺繍入りの・豪華な絹織物にした。
全体的に黒漆塗り、
金具・彫刻を多用。
屋台 和田町
氏子会
2003(H15)。
長年の不景気を吹き飛ばせとの心意気で、斬新なアイデアとセンスをも導入して、意表をつくデザイン性で、豪華絢爛に新造した彫刻屋台。
屋根上に箱棟を載せたのは・釈迦町に次いで二番目。
全体彫刻の前柱をカーブさせたのは、初めての例。
屋台下を、泥幕を張らずに・むき出しにして・彫刻と照明を入れたのも、初めての試み。
3000万円?俗説 屋根は黒漆塗り、
本体は白木、
欄干は朱色漆塗り、
土台は黒漆、
金具・彫刻を多用。
前柱にまで彫刻、
しかもカーブ入り。
屋台 牛久保町
氏子会
1992(H4)。
楽屋・格子戸周辺の彫刻はまだ入って居ない。
今年(H16)、正面の唐破風に金具を追加した。
全体的に黒漆塗り、
金具・彫刻。
屋台 殿山町
氏子会
他町内で不要になった屋台を買い取って、彫刻などを追加して・今日に至る。
楽屋・格子戸付近に彫刻はまだ入って居ない。
1993(H5)新造との説もある。
その後、2008(H20)、正面の唐破風に、金具と彫刻とを追加してふやし、全提灯を赤色から白色に交換した。
全体的に黒漆塗り、
金具・彫刻。
屋台 泉町
氏子会
昭和初期(戦前)。1928(S3)作らしい。
那珂湊の背の高い山車・風流物が、電線の下を通過出来るように・屋台に造り替えられて行った、古い彫刻屋台の第二号。

1947(S22。)の大火で・泉町も大半を焼失したが、屋台は・郊外の坂の上(大仏坂。)の屋台蔵(四町目の屋台蔵と並んで居る。)に保管してあったので・無事だった。

その後、2008(H20)、従来のデザイン性・イメージ・形式は・そのまま継承しつつ、80年振りに・思い切って新造した。その際、少々サイズアップし、本体だけは白木造りにイメチェンしたり、あまり見えない部分にまで彫刻を加えつつも、殆どの部分の彫刻は・先代の物を・アク抜きして・綺麗にして・再使用し、金具も少しふやし、唐破風屋根と・欄干は黒漆塗りを継承し、提灯も古式の赤色を継承し、正面の大提灯は・昔のように小型化した。

新造と言うよりは、「復元」と呼ぶべきか?
全体的に黒漆塗り、
金具・彫刻を多用。

復元作は、本体のみ・白木造りに変えた。
屋台 明神町
氏子会
1947(S22)焼失、1949(S24)再興。
1945(S20)の戦災を免れた代わりに、1947(S22)の大火で全焼し、復興時に、正統派の屋台として造り直された、湊のオーソドックスな形式の彫刻屋台の第三号。
彫刻まで完璧に今日の形式に完成したのは、1953(S28)。

四町目・泉町の屋台が大火を逃れたのを見習って、やはり郊外の坂の上(大仏坂。)に大火後は屋台蔵を置くようにした。
更に、区画整理により、平地の新市街地に、屋台蔵を移転した。
その後、2009(H21)、正面の大提灯(白地。)を・昔のように小型化して・すっきりさせた。
全体的には、古式の・赤提灯を継承。
全体的に黒漆塗り、
金具・彫刻を多用。
屋台 釈迦町
氏子会
1994(H6)。
隣接する勝田市との合併直前に、那珂湊市の心意気を投じて、釈迦町が、古参三台をも超え凌ぐ立派な彫刻屋台に新造。
屋根上に、彫刻・照明付きの箱棟(関東・江戸風の豪商宅に見られる特徴。)を載せた屋台としては、第一号。
古式の四町目屋台に比較すると・彫りは荒くて雑だが、彫物の箇所と量ではトップ。
前柱にまで、彫刻を施して居る。
現在、湊では最大級のサイズの屋台。
4000万円?
俗説
全体的に黒漆塗り、
金具・彫刻を多用。
前柱にまで彫刻。
屋台 小川町
氏子会
1981(S56)。
湊の屋台の新造ブームの第一号(走り。)。
本体を白木造りにしたのは、湊では第一号。
屋台前面の唐破風屋根を、三層式にしたのも、湊では第一号。
欄干を朱色漆塗りにしたのは、六町目に次いで二番目。
彫刻は、年を追って完璧に空間を埋めるまで徐々に追加して行った、努力の作。
前柱にまで、彫刻。
小型ながらも、完成した彫刻屋台。
屋根・唐破風は黒漆塗り、
本体は白木、
欄干は朱色漆塗り、
土台は黒漆、
金具・彫刻を多用。
前柱にまで彫刻。
屋台 田中町
氏子会
1999(H11)。
最近の秀作。
ひたちなか市となってからの作品。
欄間の上や・横に・狛犬を取り付けた、珍品。
前面の彫刻が見事で、大提灯のデザインと色遣いが・江戸風で・粋である。
楽屋・格子戸周辺の彫刻はまだ入って居ない。
屋根・唐破風は黒漆塗り、
本体は白木、
欄干は朱色漆塗り、
土台は黒漆塗り、
金具・彫刻を多用。

  那珂湊天満宮御祭礼の年番は、元禄時代に定められた旧・二十二町内のうち、郊外で農村部に掛かる十三奉行と、元来は武家屋敷街だった北水主町・南水主町とを除く、残り十九町内が交替で務めて居ました。
  そのうち、昭和四十年代になって、小町内の三町目と・水門町とが年番辞退をしたので、残り十七町内で交代制(17年に一度ずつ。)となりました。
  更に、現在では、多分、やはり小町内の二町目と・御殿町も年番辞退をして居ると想像しますと、年番制は・残る十五町内が廻す事になるのだと思われます(15年に一度ずつ。)。


  1996=H8, 年番・殿山町 (本祭り。)。
  1997=H9, 年番・牛久保町(本祭り。)。
  1998=H10,年番・和田町(本祭り。)。
  1999=H11,年番・七町目(本祭り。)。
  2000=H12,年番・六町目(居祭り。)。
  2001=H13,年番・泉町  (本祭り。)。
  2002=H14,年番・五町目(居祭り。)。
  2003=H15,年番・四町目(本祭り。)。
  2004=H16,年番・明神町(本祭り。)。
  2005=H17,年番・三町目(居祭り。)。
  2006=H18,年番・水門町(居祭り。)。
  2007=H19,年番・二町目(居祭り。)。
  2008=H20,年番・御殿町(居祭り。)。
  2009=H21,年番・一町目(本祭り?)。
  2010=H22,年番・龍之口町(本祭り。)。

  この順番の筈ですので、必ず小町内が続く4年間は本祭りは無いので(私が子供の頃から。)、一町目が年番を引き受けてくれれば・4年間の空白を打ち破って・5年振りの本祭りとなりますが、
もし一町目までもが年番を断れば・5年間もの空白が出来てしまい・龍之口町が年番を受けて・やっと6年振りの本祭り実行と言う事になってしまいます。

  小町内が続く時期は、合同年番にしてまで・本祭りを実施するか、氏子総代会と・各町内の代表役員達が一致団結して、年番の役目を代行してまで、本祭り実施を・・・・・・・・との声が、昭和五十年代から・市民レベルでは叫ばれて来ましたが、未だに改善されません。まことに残念な事実と現象であります。



   ちなみに、日本全国の小京都や小江戸に勝るとも劣らない立派な町並みや土蔵を多数残して居た・故郷の那珂湊は、郷土民謡や郷土芸能や祭礼などはしっかりと保存・継承して来たのに、古い町並み・豪商宅・土蔵・西洋館などの保存意識は殆ど無く、私が小・中学生だった昭和40年代の情緒深い町並みも土蔵群も西洋館も、今では大半が取り壊され・無個性な現代住宅や駐車場や道路にその姿を変えてしまい、例えば小江戸・川越の蔵造り商家の前を祭りの山車が通過する写真や、水郷・佐原の古い町並みを祭り山車が通過する写真や、小京都・飛騨高山の古い町並みを祭り屋台が通過する写真やらと同じような背景では、那珂湊の祭り屋台の写真やビデオを撮れなくなってしまった事は残念でなりません。
  那珂湊の、今は無き豪商宅や土蔵群や西洋館の写真を・子供の頃から撮り続けておいて本当に良かった(それらを背景にして撮ったお祭りの写真集も。)、今となっては貴重な記録映像と情緒・懐旧の源です。




 日本全国の、夏祭りや・秋祭りが、盛大に挙行され、TVや新聞やITで・華々しく報道される中、那珂湊の夏祭りは、一切話題に上がりません。
 小町内が続き・居祭りが四年間にも及び、代用・イベントとしての「みなとフェスタ」が一日だけ催されるだけなので、無理はありませんが。

 多分、三年後(2009=H21。)の八月には、五年振りの大祭挙行で、それはそれは盛大に、お見事に、実行される事でしょうが。
 その際、どうしても、お天気にだけは恵まれて欲しいものです。
 2004=H16の本祭りの最終日のように、肝心のクライマックスが・台風で台無しにされたのでは、たまったものではありません。

 前回の本祭り迄で、屋台の新造ブームも一段落したようですし、もし多少の手直しをする町内があっても、四年間の間には済んで居る事でしょう。

 ですから、今後・当面は、屋台の新造の為に・屋台を欠場させる町内は無い筈ですし、
 当番町が・年番の大役を果たす為に・屋台を欠場させる程度で済む事でしょう。

 それに、運良く、年番町が・大町内に当たれば、その町内は・年番と屋台(風流物。)出場と・両方共に果たせます。

 従って、久々の本祭り実行の白熱化と同時に、前回迄の大祭よりも、風流物の台数は当然多くなり、しかもグレード・アップが期待されます。

 前回迄は、特に古くて立派な屋台を所有する町内が、年番に当たった為、毎年交替で欠場してしまい、一方では新造屋台のお披露目が毎年のように相次ぎました。但し、それらを全部同時に見る事は叶いませんでした。

 待望の・今度の大祭では、これらの新旧の屋台が、殆ど勢揃いになって・一同に会すると予想され、記録的な大祭となる事でありましょう。
 次の本祭りが、戦後最大規模?位の盛大さと・華やかさと・グレードとで・挙行されれば、文句無しに・県下では一番の祭礼と認められる事でありましょう。

 今から待ち遠しくて、恋しくて、楽しみでならない想いで居るのは、私一人では無いと考えます。

 天下の水戸藩地方の繁栄と伝統とを代表する・那珂湊の夏祭りは、風流物が、12〜13台程度では少々物足りなく感じます。
 やはり、毎年、14〜15台(16台勢揃いは無理だとしても。)は出て来て欲しいと願います。

 あと、芸者さんを載せる町内が減ってしまったのは、時代の流れで仕方が無いとしても、
 神官と神主さんが乗馬しなくなってしまった(徒歩化。)のは、どうしても残念でならず、せめて人力車とか何かの方法で、格式を保って欲しいものですね。
 
 そして、門付け(ショータイム。)時以外の、普通に流して巡行して居る時のお囃子は、折角レパートリーが豊富で・独特の曲目尽くしなので、スピーカーの音量は・もう少しだけ落として・うるさくない程度の・賑やかさに抑えてくれると、その芸術性・音楽性・美しさ・優雅さ・情緒深さ・等が、本来の姿に再現されるのになァ、とも思います。

 [2006年10月31日 2時16分44秒]

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