2003=H15(S78),過年版・那珂湊天満宮御祭礼(那珂湊八朔祭り)
究極の夏祭り・競演集!!!!!!!!








新造の和田町屋台。
(地元・那珂湊の芸妓衆。
)



御神幸(お下がり。)行列。
明神町詰所を通過時。

祭礼三日目・御神幸(神幸祭。お下がり。お浜下り。)   2003=平成15年8月23日(土)

御神幸(お下がり。)行列、旧・二十二町の供奉順番表。
明神町掲示場。
屋台の勢揃い。夜の部の出発前。明神町詰所。
六町目・露払いの獅子(ささら。)。
雄獅子・雌獅子・子獅子
(下がり葉拍子。)。
国選択無形民俗文化財指定。
文化庁選択民俗芸能指定。
市指定無形民俗文化財。

享保年間より供奉・奉納。
                    
元町・弥勒(でぼみろく。)。
鹿島様・春日様・住吉様(
天の岩戸。)。
国選択無形民俗文化財指定。
文化庁選択民俗芸能指定。

市指定無形民俗文化財。

元禄年間より供奉・奉納。

屋台揃い。一斉に、四丁目〜おっしゃい。 小川町・屋台。子供会とお囃子の会。
釈迦町・屋台。磯節保存会。
殿山町・屋台。子供会とお囃子の会。
和田町の・新造屋台。地元・那珂湊の芸妓衆。
牛久保町・屋台。水戸・大工町の芸妓衆。 明神町・屋台。磯節道場&法濤会。
壱町目・屋台。竹文会。 田中町・屋台。芸者スタイルの民謡会(粋鼓連。)。
七町目・屋台。竹文会。 泉町・屋台。竹文会。
    今年の那珂湊八朔祭りは、長梅雨・台風・また長雨続きで、天候が心配されましたが、地元民ばかりではなく・全国のお祭り好きの願いが天に通じたかの如く、祭礼期間中だけは見事に晴天が続きました。やはり天神様のパワーの強さにはかないません。
   平成十五年の年番は、四町目で、湊で最古で名物の・貫禄十分の・古色蒼然とした・彫刻屋台が欠場だったのは、残念な限りですが、それを忘れさせてくれる程、他の町内の風流物が頑張りました。平成に入って間もなく抜群の新造をした釈迦町に対して、今年は和田町のお見事な新造屋台が御披露されました。
   来年は、明神町が年番(やはり名物の彫刻屋台を欠場。絶対に他町内には貸し出さず。)で、今年と同様か・それ以上の盛り上がりを見せると期待されますが、以後は小町内が続くので・四年間は本祭りは無しと予想されます(せいぜい、イベントとしての擬似祭り程度。)。
   H15とH16を見逃すと(聴き逃がすと。撮り逃すと。録り逃がすと。)、当分はあの情緒も活気も雰囲気も体感出来ません。

   湊の夏祭りの初日に、最初に出会った町内の風流物のお囃子で、必ず泣いてしまうのは、小学生の頃からの私の習性のようで(TVで皇室特集や・水戸黄門のクライマックスシーンを見ると必ず泣いてしまい、TVでもライブでもコーラスやブラスバンドのコンクールで成績発表のシーンになると必ず泣いてしまうのと同様に。)、今年も泣きっぱなしでしたから、来年も多分泣いてしまうのでしょう(いい歳して、四十を過ぎても。)。

   思えば、六町目の獅子と、元町の弥勒とが、国選択の無形民俗文化財に指定されたのがS55(1980年。)で、その後、文化庁選択民俗芸能にも指定されましたが、全国的な承認としては遅過ぎたような気がします。祭礼自体は、昔から市の無形民俗文化財には指定されて居ますが。もっともっと広く知られて・愛されて・親しまれて・感動されて・共感されて・評価される・伝統行事となりますように! ! ! !

六町目・獅子三匹の背後には、お姫様が二人立つ。
元町・弥勒、三神三体の人形。 明神町詰所へ練り込み時、とっぴき(通り囃子。)で・バックして入って来る、釈迦町の屋台。
磯節保存会・現会長(三代目。)、福田佑子先生。
釈迦町の屋台。
御神幸(お下がり。)のお供を終えて、夜祭りの自由練行をする、明神町・屋台。 磯節道場・谷井武会長(初代・谷井法童先生の長男。)の娘さん達(美帆・美香姉妹。)と、
法濤会・会主の、伊東律子先生。
笛師は、名人・長谷川潔先生。
明神町の屋台。
夜祭りの、小川町・屋台。 小川町・屋台の笛師は、水戸地方お囃子研究所主宰の・BUNTEN氏。
夜祭りの、釈迦町・屋台。
動く陽明門のような!!!!?彫刻屋台の競演。
夜祭りで、かどづけを終えた直後の、元町・弥勒。
夜祭りの、泉町・屋台。 夜祭りの、釈迦町・屋台。
夜祭りで、廻り舞台を向けて、かどづけをする、釈迦町の屋台。
祭礼四日目・還御(還幸祭。お帰り。)   2003=平成15年8月24日(日)
還御(おかえり。)行列、旧・二十二カ町の供奉順番表。
和田町掲示場。
御神幸(お下がり。お浜下り。)では先頭で露払いを務めた六町目の獅子が、還御(おかえり。)では御神輿の後ろに従う習わし。
二日間の町渡し(自由練行。挨拶廻り。かどづけ。)を終え、お帰りの行列(全町内一列でパレード。)に参加の為、和田町詰所に参集して、出発前の休憩時間中の、小川町の屋台(今年は、抽選で一番目。)。
和田町仲通りの詰所で出番を待つ、元町の弥勒(でぼみろく。)。 和田町仲通りの詰所へと、続々参集して来る、各町内の風流物。
いよいよ夏祭りも最終日、クライマックス前のスタンバイ状態の・各町内風流物。
祭礼三日目(お下がり。)では明神町詰所が屋台揃い、祭礼四日目(おかえり。)では和田町詰所が、屋台揃い(練り込み。)の指定場所。
平成十五年・年番、四町目。 年番・四町目、江戸趣味の、拍子木、手古舞。
年番・四町目、粋な手古舞姿に金棒引きの娘達。
天満宮の御神旗。
ここ数年は、神官も神主も乗馬せず、徒歩となり、風格が不足してしまったようで、残念。
那珂湊天満宮(第一鎮守は橿原神宮。天満宮は、第二鎮守。)の御神輿。
御神幸(お下がり。お浜下り。)では、先頭で露払いを務めた六町目の獅子(ささら。)が、還御(お帰り。)では、御神輿の後ろにつく。
和田町の火消し組(纏・まとい。)。
各町内の町印と、責任役人達。 元町の弥勒(でぼみろく。)。
小川町・屋台。 釈迦町・屋台。
殿山町・屋台。 和田町・屋台(新造。)。
牛久保町・屋台。
明神町・屋台。
壱町目・屋台。
田中町・屋台。
七町目・屋台。
泉町・屋台。

お帰りのお供の役目を終え、自町内へと向けて引き返して来る、牛久保町の屋台と、六町目の獅子。
お帰りのお供を全うし、自町内へと戻って来る、和田町の屋台。夜祭り・曳き別れ。
七町目・屋台。夜祭り・曳き別れ。 明神町・屋台。夜祭り・曳き別れ。
明神町・屋台。最終日、夜祭り・曳き別れ。自町内へ入ると、お囃子は、「おっしゃい」から転じて、「本町二丁目」に。
来年は年番に当たり、屋台を欠場となる、明神町の屋台の、名残り惜しい・夜祭り・曳き別れ。
  平成十五年の那珂湊八朔祭り、風流物は全十六台中・十二台(四分の三。75%。)のみの出場。
  年番の大役に当たった為、四町目が欠場。屋台の新造(造り直し。)の為、辰之口町も欠場。どういう理由からか、五町目も欠場。獅子を出すのが最優先の六町目は、屋台も所有して居るが・滅多に出さず。

  来年・平成十六年は、年番の明神町が屋台を欠場となる以外は、なるべく全町内の風流物が出揃って欲しいものです。

  全十六台の勢揃いが実現するのは、何年後になってしまうのでしょうか!!!?  待ち遠しい限りです。
定刻の22時を過ぎても、まだ自町内の祭典事務所へ辿り着かず、だらだら曳き別れを惜しむ、泉町の屋台。
マキの、高校の卒業文集、「真夏の夜の幻想曲」(散文詩)の末尾に添えた、反歌一首。

曳き別れ   名残り惜しやな   山車屋台
ゆらりゆらりと   散りゆく囃子
   ちなみに、明神町と泉町の屋台の前面の大提灯は、昔日のように小さ目(黒漆塗りの・四方を金箔で囲んだ・細目の前柱を・すっきりとスマートに見せて、町名入りの提灯を・昔のように小さ目に飾り付けて・ぼんぼりより上方に収める。前柱にまで彫刻を施した屋台だけが豪華に見えるとは限らないので。)に戻した方が・遥かに屋台全体が品良く美しく垢抜けして粋に見えて効果的なのに、どうして野暮ったくバランス悪く見える大提灯にしてしまったのかが理解出来ず・残念です。別ページに度々出て来る・S44・S47・S52・S56当時の泉町や明神町の屋台の前景と、H15(Sなら78。)現在の・泉町や明神町の屋台の前景のバランスとセンスと気品と美しさの違いとを、よく見比べて見て下さい。
   
   那珂湊八朔祭りは、本来、毎年本祭りを挙行するのが正式で、その為には、大町内と小町内との格差が生じる・年番制度の廃止が・だいぶ以前から叫ばれて来ましたが、未だに改善されません。天満宮の氏子総代会と各町内の責任役員達による「天満宮祭礼実行委員会」を結成し、昔のように毎年本祭りを実行出来るようにすべきだと、昭和五十年代から提唱されて居ましたが。そうした方が、毎年大祭が挙行可能になるし、年番に当たった町内の屋台が欠場になる事もなくなり・全町内の風流物が勢揃い出来て盛大になるのですが。それらの不平不満の解消が、今後の課題でありましょう。

   ただ、現・ひたちなか市の人口16万人のうち、旧・那珂湊市の人口は3万5〜6千人のみで(郊外へ市街地が拡大した分を含めても、せいぜい4万人程度。)、そのうち旧・平磯地区(湊の屋台を小型にした屋台が5台と、小型の獅子が1台あり。)と、旧・磯崎地区(平磯地区より更に小型にした屋台が5台あり。)と、旧・阿字ヶ浦地区(借り物で屋台を2台出す事もあり。)とを抜いた、旧・那珂湊(水戸湊。)地区の実質の人口は、幕末〜明治期で1万2〜3千人(当時としては大都市だった。徳川御三家の城下町で・県庁所在地の・水戸市でさえ、当時、上市・下市の両地区を合わせても、人口2万5千人〜3万人程度だった。)で、現在でも2万5〜6千人程度の筈(お祭りを挙行する、旧・二十二町内だけだと。)なので、この長年の不景気と・市街地のドーナツ化現象が進む中、人手不足と予算の点で、よほどの覚悟をしないと、よほど情熱的なお祭り好きが多くないと、全盛期(風流物は18台〜20台も出たそう。私の子供の頃でも、必ず15台位は出た。)のようには行かないのでしょう。
   なにしろ、数々の郷土史資料にも、「那珂湊天満宮の祭礼の特徴は、浜下りの御神幸の格式もさることながら、この驚くべき華美と出費とにある。」とか、「明治時代末期になっても、那珂湊八朔祭りの華美とそれに伴う莫大な出費は、変わることはなかった。」とか、「湊の衰退の現状を考慮して、華美を廃せとの運動が起こったが、結局、変わらなかった。」とか、「敗戦の翌年・昭和21年は、平和が戻った喜びで、風流物の出場も特に多く、記録的な大祭となった。」とか、「昭和22年の大火からまだ2年なのに、昭和24年には早くも復興祭と称して本祭りを挙行した。」などと書かれて居るように、本祭りの実行には莫大な費用がかかるのは事実であります。
   年番に当たった町内では老若男女全員の着物(裃上下。天神様の梅鉢の御紋入りの羽織・袴。女の子達は手古舞姿一式。)の新調やら、各町内共に、風流物そのものの新調や維持・手直しや、揃いの着物(役員は天神様の梅鉢の御紋入りの羽織。若い衆は町名入りの揃いのハッピと浴衣と手拭い等。)の調達やら、大盤振る舞いの飲み食いや、他の全町内の風流物を自町内の祭典事務所や若連事務所に向けて「かどづけ」をされた際に出す御祝儀(この儀礼は、お互い様。)以外に、芸者衆(や笛師。)への玉代(ギャラ。)が最も高額であり(昔は、いや私が子供の頃でさえ、全部の町内が屋台には芸者衆を載せて居た。)、現在では後継者不足と不景気とで・県内各地の芸者衆の絶対数が減った為もあり、節約の為もあってか、芸者衆を屋台に載せる町内が減ったとは言え、まだまだ湊の人達は派手好きで浪費家が多いので、本祭り挙行をするからには・無理をしてでも見栄を張って・ドーンと寄付金を弾みます。
   今後も、人口僅か3万人未満の旧・那珂湊地区(天満宮の氏子会。元禄時代に定められた旧・二十二町内。)だけで、この夏祭りの規模と豪華さと優雅さと活気とを維持し続けられれば、たいしたものですが、将来はどうなって行くのでしょうか。
   少なくとも、来年・平成16年までは、盛大に催されることでしょうが(以後、4年間は、居祭り・社頭祭になってしまい、鎮守様のお祭りとしてではなく・娯楽イベントとして・有志の町内だけが屋台を曳き出して楽しむ程度になってしまうので。)。
   


   那珂湊天満宮御祭礼の年番は、元禄時代に定められた旧・二十二町内のうち、郊外で農村部に掛かる十三奉行と、元来は武家屋敷街だった北水主町・南水主町とを除く、残り十九町内が交替で務めて居ました。
   そのうち、昭和四十年代になって、小町内の三町目と・水門町とが年番辞退をしたので、残り十七町内で交代制(17年に一度ずつ。)となりました。
   更に、現在では、多分、やはり小町内の二町目と・御殿町も年番辞退をして居ると想像しますと、年番制は・残る十五町内が廻す事になるのだと思われます(15年に一度ずつ。)。

  1996=H8, 年番・殿山町 (本祭り。)。
  1997=H9, 年番・牛久保町(本祭り。)。
  1998=H10,年番・和田町(本祭り。)。
  1999=H11,年番・七町目(本祭り。)。
  2000=H12,年番・六町目(居祭り。)。
  2001=H13,年番・泉町  (本祭り。)。
  2002=H14,年番・五町目(居祭り。)。
  2003=H15,年番・四町目(本祭り。)。
  2004=H16,年番・明神町(本祭り。)。
  2005=H17,年番・三町目(居祭り。)。
  2006=H18,年番・水門町(居祭り。)。
  2007=H19,年番・二町目(居祭り。)。
  2008=H20,年番・御殿町(居祭り。)。
  2009=H21,年番・一町目(本祭り?)。
  2010=H22,年番・龍之口町(本祭り。)。

  この順番の筈ですので、必ず小町内が続く4年間は本祭りは無いので(私が子供の頃から。)、一町目が年番を引き受けてくれれば・4年間の空白を打ち破って・5年振りの本祭りとなりますが、
もし一町目までもが年番を断れば・5年間もの空白が出来てしまい・龍之口町が年番を受けて・やっと6年振りの本祭り実行と言う事になってしまいます。

  小町内が続く時期は、合同年番にしてまで・本祭りを実施するか、氏子総代会と・各町内の代表役員達が一致団結して、年番の役目を代行してまで、本祭り実施を・・・・・・・・との声が、昭和五十年代から・市民レベルでは叫ばれて来ましたが、未だに改善されません。まことに残念な事実と現象であります。


   ちなみに、日本全国の小京都や小江戸に勝るとも劣らない立派な町並みや土蔵を多数残して居た・故郷の那珂湊は、郷土民謡や郷土芸能や祭礼などはしっかりと保存・継承して来たのに、古い町並み・豪商宅・土蔵・西洋館などの保存意識は殆ど無く、私が小・中学生だった昭和40年代の情緒深い町並みも土蔵群も西洋館も、今では大半が取り壊され・無個性な現代住宅や駐車場や道路にその姿を変えてしまい、例えば小江戸・川越の蔵造り商家の前を祭りの山車が通過する写真や、水郷・佐原の古い町並みを祭り山車が通過する写真や、小京都・飛騨高山の古い町並みを祭り屋台が通過する写真やらと同じような背景では、那珂湊の祭り屋台の写真やビデオを撮れなくなってしまった事は残念でなりません。
  那珂湊の、今は無き豪商宅や土蔵群や西洋館の写真を・子供の頃から撮り続けておいて本当に良かった(それらを背景にして撮ったお祭りの写真集も。)、今となっては貴重な記録映像と情緒・懐旧の源です。




 日本全国の、夏祭りや・秋祭りが、盛大に挙行され、TVや新聞やITで・華々しく報道される中、那珂湊の夏祭りは、一切話題に上がりません。
 小町内が続き・居祭りが四年間にも及び、代用・イベントとしての「みなとフェスタ」が一日だけ催されるだけなので、無理はありませんが。

 多分、三年後(2009=H21。)の八月には、五年振りの大祭挙行で、それはそれは盛大に、お見事に、実行される事でしょうが。
 その際、どうしても、お天気にだけは恵まれて欲しいものです。
 2004=H16の本祭りの最終日のように、肝心のクライマックスが・台風で台無しにされたのでは、たまったものではありません。

 前回の本祭り迄で、屋台の新造ブームも一段落したようですし、もし多少の手直しをする町内があっても、四年間の間には済んで居る事でしょう。

 ですから、今後・当面は、屋台の新造の為に・屋台を欠場させる町内は無い筈ですし、
 当番町が・年番の大役を果たす為に・屋台を欠場させる程度で済む事でしょう。

 それに、運良く、年番町が・大町内に当たれば、その町内は・年番と屋台(風流物。)出場と・両方共に果たせます。

 従って、久々の本祭り実行の白熱化と同時に、前回迄の大祭よりも、風流物の台数は当然多くなり、しかもグレード・アップが期待されます。

 前回迄は、特に古くて立派な屋台を所有する町内が、年番に当たった為、毎年交替で欠場してしまい、一方では新造屋台のお披露目が毎年のように相次ぎました。但し、それらを全部同時に見る事は叶いませんでした。

 待望の・今度の大祭では、これらの新旧の屋台が、殆ど勢揃いになって・一同に会すると予想され、記録的な大祭となる事でありましょう。
 次の本祭りが、戦後最大規模?位の盛大さと・華やかさと・グレードとで・挙行されれば、文句無しに・県下では一番の祭礼と認められる事でありましょう。

 今から待ち遠しくて、恋しくて、楽しみでならない想いで居るのは、私一人では無いと考えます。

 天下の水戸藩地方の繁栄と伝統とを代表する・那珂湊の夏祭りは、風流物が、12〜13台程度では少々物足りなく感じます。
 やはり、毎年、14〜15台(16台勢揃いは無理だとしても。)は出て来て欲しいと願います。

 あと、芸者さんを載せる町内が減ってしまったのは、時代の流れで仕方が無いとしても、
 神官と神主さんが乗馬しなくなってしまった(徒歩化。)のは、どうしても残念でならず、せめて人力車とか何かの方法で、格式を保って欲しいものですね。
 
 そして、門付け(ショータイム。)時以外の、普通に流して巡行して居る時のお囃子は、折角レパートリーが豊富で・独特の曲目尽くしなので、スピーカーの音量は・もう少しだけ落として・うるさくない程度の・賑やかさに抑えてくれると、その芸術性・音楽性・美しさ・優雅さ・情緒深さ・等が、本来の姿に再現されるのになァ、とも思います。

 [2006年10月31日 2時16分44秒]


   
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