1977=S52版・那珂湊天満宮御祭礼(那珂湊八朔祭り)と古い街並み


     私が、上京・進学した年の夏休みは、久々の大祭挙行で、東京で知り合った・全国からの学友四人を招待し、お祭りが始まる前の期間は、水戸・大洗・那珂湊・平磯・阿字ヶ浦などの観光案内をしながら、町内から流れて来る祭囃子のお稽古の音にそわそわして・落ち着きませんでした。
 
     この年の年番は、天満宮のお膝元である・元町で、年番に当たった年でも・和田町のまとい(火消し。)・六町目の獅子(ささら。)・元町の弥勒(でぼみろく。)だけは欠場を許されないので、小町内・少人数でも、元町は年番と風流物(みろく。)と両方頑張りました。
     但し、年番の宮参り行列や・御神幸(おさがり。)や・還御(おかえり。)には付き物の・少女達による手古舞は、例外的に無しとし、代わりに・初日の宮参り行列から・賑やかに弥勒屋台を曳き出して・旧市内を一巡し・お祭り気分を盛り上げました。

     このS52年の大祭(本祭り。出輿。)の後は、S53〜S55迄は・居祭り(社頭祭。)が続きましたが、祭り好きの町内(半分余り。)は・淋しい八月は我慢出来ず・娯楽として・勝手に屋台を曳き出して楽しみ、なるべく毎年本祭りを挙行すべきだとの意見が飛び交いました。

     次に本祭りが挙行されたのは、お腰掛け石(初めて御神体が海から上がったと言う伝承の地。)の地元・和田町が年番に当たった、S56年でした。


本祭りの準備を済ませた、再建の天満宮付近。
   郊外の坂の上の屋台蔵から曳き出して来て、町内で出番を待つ、飾り付け前の、四町目の彫刻屋台。
  大正12年造り直し(新造。)、以後の那珂湊風の廻り舞台式の屋台の模範例となる。

  ちなみに、この四町目の屋台を東西南北どの方向から見ても、必ず視界に瓦屋根の古民家が入る。
六町目の獅子(ささら。)。
元町の弥勒(みろく。)。
この年は、四町目と五町目とが合同運行。屋台は、四町目の物。水戸・谷中の芸妓衆。
二町目本通り・佐野屋本店前を通過する、四町目の屋台。祭典事務所に向けて、かどづけも。
                                                二町目の子供屋台を追い抜く、四町目の彫刻屋台。
組の事務所前に向けて、かどづけをする、明神町の屋台。子供囃子(磯節保存会が指導。)。
御神幸の夕刻、明神町詰所へ集合する、各町内の風流物。元町。明神町。辰之口町(子供囃子。)。四町目。その他。
泉町の屋台。かどづけ。地元・那珂湊の芸妓衆。
和田町の屋台(先代。借り物。)。大子の芸妓衆。
        七町目の屋台(先代。)。前回の大祭(S47。)迄は明神町の屋台に毎年乗り込んで居た、日立・旭町の芸妓衆。
一町目の屋台(先代。子供囃子。)。                                   二町目の屋台(子供囃子。)。
釈迦町の屋台(先代。)。笠間の芸妓衆。
殿山町の屋台(先代。借り物。出島の男囃子。)。                牛久保町の屋台(先代。水戸の海老三神楽。)。
一町目・御殿町、佐野屋支店付近を通過する、御神幸(おさがり。)行列。
マキの、高校の卒業文集、「真夏の夜の幻想曲」(散文詩)の末尾に添えた、反歌一首。

曳き別れ   名残り惜しやな   山車屋台
ゆらりゆらりと   散りゆく囃子

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