入門その頃のバス

シャーシメーカーの歴史

ボディ 動力や駆動系、走行系であるシャーシを製造しているのは、いわゆる自動車メーカーといわれるメーカーです。その中で、バスを製造しているのは、ディーゼル車を得意とする大型車メーカーで、戦後、いすゞ、日産ディーゼル、日野、三菱の4社にほぼ絞られた形で長く推移してきました。
そして、マイクロバス製造には、小型車メーカーのトヨタ、日産が加わるという図式です。
自動車メーカーのこの図式は、大正初期から昭和10年代までの間に、ほぼ出来上がっていました。そして、終戦後は、大きく変化せずに推移してきたのは、ボディメーカーとは大きな違いです。しかし、1990年代以降、外国メーカーの資本参加など経営的な変化が訪れ、さらにOEM生産や統合車種など、製品面でも大きな変化を迎えます。


主なバスシャーシメーカーの系譜

表4-7-1 主なバスシャーシメーカーの系譜
シャーシメーカーの系譜

シャーシメーカー発達の概要

日本に自動車が上陸したのは明治時代のことで、フォードやシボレー(GM)などのアメリカ車輸入から始まりました。
国産自動車の製造が始まったのは、昭和に入った1920年代終わりのことで、自動車の国産化を推進する省営バス(後の国鉄バス)用の車両がそれを推進しました。

戦前のシャーシメーカー
東京石川島造船所深川自動車工場(1916)
東京石川島造船所

いすゞ自動車パンフレット(1960)

省営バス以前の国産バスには、ダット自動車製造の「ダット」、東京石川島造船所がイギリス車の製造権を得た「ウーズレー」などがあったようです。
1930年代に入り、省営バスに採用されたのは、「TGE」(のち「ちよだ」と改名)の東京瓦斯電気工業、「スミダ」の石川島自動車製作所で、後の日野、いすゞの前身となる企業です。
つづいて、「ふそう」の三菱造船、「六甲」の川崎車輌などが加わります。
国策としてのメーカー統合
東京瓦斯電気工業 大森工場
東京瓦斯電気工業

絵葉書(1917〜23)

国産自動車の育成が急務と考えた商工省は、商工省標準形式車の製造を進め、石川島自動車製作所、東京瓦斯電気工業、ダット自動車製造などにより、1934年に「いすゞ」の生産が始まります。石川島と東京瓦斯の合併が進まない中、「いすゞ」の販売会社を先行して統一するために協同国産自動車が設立されますが、最終的に「いすゞ」は東京自動車工業に一本化されます。(注1)
この時点では、後に会社名となる「いすゞ」や「ふそう」は、自動車の車名でした。
ディーゼルエンジンの開発と大型車メーカー
三菱日本重工業(1958)
三菱ふそう

三菱ふそう自動車パンフレット(1958)

ディーゼルエンジンが作られるのは昭和10年代(1930年代後半)のことです。燃料効率のいいディーゼルエンジンの製造は、国の後押しもあったようで、この時期に急速に進みます。
「いすゞ」の自動車工業と「ふそう」の三菱重工業がいち早くディーゼル車を製造し、またディーゼル車普及のために日本デイゼル工業が設立されます。
「いすゞ」製造で一本化された東京自動車工業は、1941年に三菱重工業、川崎車輌、池貝自動車製造の出資によりヂーゼル自動車工業と改称します。さらに同社の日野製造所が1942年に独立して日野重工業が設立されます。(注2)
「六甲」を製造していた川崎車輌は、バス製造をヂーゼル自動車工業に移管します。
この時点で、戦後の大型車メーカーである、いすゞ、日産ディーゼル、日野、三菱の原形が出来上がりました。

終戦後のバスメーカー
民生デイゼル工業(1960)
民生デイゼル

民生デイゼル工業カタログ(1960)

民生デイゼル工業が日産ディーゼル工業に変わる直前のカタログ。バスの型式は4Rに変わっています。また、販売会社の社名は、日産民生ジーゼル販売です。

戦後、自動車メーカーは、急増する需要に応えるため、生産体制を整えます。大型車を製造するのは、戦時中にディーゼル車の製造体制を組んだ4社が中心で、各社とも社名変更や分社などを経ていすゞ自動車民生デイゼル工業日野自動車工業三菱重工業となります。
小型車を得意とするトヨタ自動車工業日産自動車もバスを製造していましたが、最終的には大型バス市場からは撤退します。その代わり、トヨタは日野を、日産は民生を傘下に収めます。
日産の傘下となった民生は、1960年に社名を日産ディーゼル工業に改称します。
この基本構造は、その後、2000年代まで半世紀にわたり、変わりませんでした。

資本系列化と協業化

表4-7-2 シャーシメーカーの資本系列と協業化
シャーシメーカーの系譜

1990年代のバブル経済の崩壊以降、日本の自動車メーカーは、荒波にさらされます。特にバスの製造は、少量でかつ注文生産という厳しい条件下にあり、しかもエンドユーザー(乗客)の減少でバス事業者の経営悪化とともに車両需要も大きく減少しています。
大きな傾向としては、外国資本の導入と、企業間での協業が挙げられます。

資本系列化
終戦後から自動車メーカーの資本系列化は徐々に進み、トヨタは日野、ダイハツを、日産は民生(後日産ディーゼル)をそれぞれ系列化します。
外国資本が入り始めるのは1970年代以降で、最終的に日本の自動車メーカーで外国資本が入っていないのは、トヨタ系列とホンダのみになっています。いすゞは米国のGMと提携、日産はフランスのルノーと提携、三菱はドイツのダイムラークライスラーと提携して、それぞれ再建を図った経過があります。
大型車メーカーでは、三菱ふそうトラックバスはダイムラークライスラー(2007年以降ダイムラー)の子会社として2003年に独立、日産ディーゼル工業は2007年にスウェーデンのボルボの子会社となりました。
協業の推進
三菱エアロスターS
三菱エアロスターS

高槻市(2016.5.7)

日産デからのOEMによる三菱「エアロスターS」。すれ違う後ろ姿は同じ西日本車体ですが、日産デの「スペースランナー」。

メーカー間の協業も始まり、まず小型車メーカーが得意とするマイクロバスは、小型車メーカーが大型車メーカーにOEM供給する形態が進みます。1993年から日産自動車はいすゞに、1996年からトヨタは日野に供給します。当初、日野とトヨタは相互供給で、日野の「リエッセ」がトヨタの「コースターU」として販売されました。
大型バスでは、いすゞと日野、日産ディーゼルと三菱が協業関係に進みます。いすゞと日野は、共同出資のバスボディメーカーであるジェイバスを設立し、相互OEM生産を経て統合モデルの生産へと進みました。日産ディーゼルと三菱は、相互OEM生産を経て協業を進める計画でしたが、共同出資会社設立計画は中止となり、結果的に日産ディーゼルはUDトラックスとなった後、バス製造から撤退しました。
その結果、現在では、大型バスメーカーはいすゞ、日野、三菱の3社で、いすゞと日野が同一モデルを製造しているので、事実上2種類のモデルしか市場には存在しません。マイクロバスは、日産といすゞ、トヨタと日野がOEMによる同一モデルとなり、これに三菱が加わって、3種類のモデルが存在しているという状態です。
主な参考文献
  1. いすゞ自動車(1957)「いすゞ自動車史」
  2. 鈴木孝(2010)「日野自動車の100年」
参考にした自動車メーカーWebサイトの歴史系コンテンツ
黎明期の国産バス


ウーズレー(1924)
ウーズレー

いすゞパンフレット(1951)


スミダ(1932)
スミダ

東京モーターショー(2011)


TGE(1930)
TGE

鉄道博物館(2010)


ふそう(1932)
ふそう

三菱パンフレット(2007)


六甲号(1932)
六甲号

川崎車輌絵葉書(1932)


いすゞ(1939)
いすゞ

いすゞニュース(1955)


ニッサンバス(1939)
日産

日産自動車カタログ(1939)


(注1)
協同国産自動車は書籍によっては「共同国産自動車」と記載されている場合もありますが、残されている資料などから、正しくは「協同国産自動車」だと思われます。
国産自動車の製造を促進するために商工省標準形式自動車が制定され、石川島自動車製作所、ダット自動車製造、東京瓦斯電気工業の3社がその製造に当たります。同一規格の車両を製造するのに設備が3社に分かれているのは不合理であるため、商工省や鉄道省などから3社の合併が奨励されます。しかし、東京瓦斯電気工業が合併に消極的であったため、1933年に、まず石川島自動車製作所がダット自動車製造を合併し、自動車工業と改称します。また同年、販売だけでも先行して統合するため、自動車工業と東京瓦斯電気工業の共同出資で協同国産自動車が設立されます。
1937年に自動車工業と東京瓦斯電気工業が合併して東京自動車工業となった後、協同国産自動車は役目を終え、東京自動車工業に吸収合併されました。(いすゞ自動車1957による)
(注2)
ヂーゼル自動車工業から分離した日野重工業は、1937年の合併前の東京瓦斯電気工業の直系であると考えていいようです。東京瓦斯電気工業の大森工場は、ヂーゼル自動車工業の大森製造所となっていましたが、1941年にその設備を日野町に新設した日野製造所に移転します。元東京瓦斯電気工業の従業員も多くが日野に移住したそうです。この日野製造所は、国産自動車の育成を目的とした自動車製造事業法の適用から外れており、軍用自動車保護法の下にありました。そのため、監督官庁である商工省から、経営の分離を指示されており、1942年にヂーゼル自動車工業の100%子会社として分離独立したのです。(いすゞ自動車1957、及び鈴木孝2010による)
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80s岩手県のバス“その頃”