入門その頃のバス

小型バスのボディメーカー

ボディ 小型バスも大型バスと同様に、シャーシの上に載せる車体は車体製造会社によって製造されます。ただし、必ずしも大型バスの車体メーカーではない場合もあります。また、大型バスの場合、車体メーカーのオリジナリティが強く、シャーシメーカーが違っても、車体メーカーが同じだと外観がほとんど同じというケースがほとんどした。しかし、小型バスの場合、外観を商品力として強調する必要があるからか、外観のスタイルは車体メーカーに依存していないように見えます。
ここでは、小型バスの車体メーカーについてまとめてみます。
シャーシメーカー別の記載内容とは重複する場合があります。
(掲載は五十音順です)

荒川車体工業

荒川車体工業は、トヨタ車の内装などを手掛けるため1947年に荒川鈑金工業として設立された会社で、トヨタからの受注量の増加に伴い、1961年に荒川車体工業に改称されました。1962年の吉原工場の操業を機にトヨタ車の車体生産会社となります。1988年にアラコに改称。2004年に、車体部門はトヨタ車体に譲渡します。存続会社はトヨタ紡織です。なお、その後、トヨタ紡織から分割されたアラコは全くの別会社です。

トヨタ・ライトバス
トヨタライトバス

トヨタの“マイクロバス”は、1963年に発売開始の「トヨタ・ライトバス」から「コースター」に至るまで、荒川がボディを製造してきました。ちょうど吉原工場の操業と時期を同じくします。
事業の譲渡に伴い、2004年以降の「コースター」のボディはトヨタ車体の製造に変わります。


尾張車体工業

尾張車体工業は、1944年に設立された自動車車体製造会社で、検診車や車両運搬車などの特殊車の製造を手掛けています。

ダイハツ・ライトバス
ダイハツライトバス

一般のバス車体を製造することは少ない会社のようですが、「ダイハツ・ライトバス」に尾張車体での製造例があるようです。もともと初期の小型バスは、トラックシャーシに改造扱いでボディを架装するという面で、特装車と同じプロセスを経ることから、尾張車体が関与したのかもしれません。


川崎航空機 → 川重車体工業

川崎航空機は、主にいすゞのバスボディを製造する会社で、1969年に川崎重工業に合併、1974年に川重車体工業として独立しています。
1986年にいすゞ自動車との共同出資によりアイ・ケイ・コーチを設立し、完全にいすゞの系列になりました。1995年にいすゞバス製造と改称しています。

いすゞ「スーパーライトバス」
いすゞジャーニー

「マツダ・ライトバスA型」
マツダライトバス

ダイハツ「SV型ライトバス」
ダイハツライトバス

1960年代には、川崎ではいすゞだけでなく多くのシャーシメーカーに対してバスボディを製造していますが、これは小型バスの世界でも同じでした。ただし、ボディメーカーの特徴が前面に出る大型バスと異なり、小型バスではシャーシメーカーごとに特徴を出したボディデザインとなっています。
中でも「マツダ・ライトバスA型」は、大きな曲面ガラスと四角い断面が近未来のバスと言われ、人気を博したモデルです。同じ時期に並行生産されていたいすゞ「スーパーライトバス」は流線形の丸みのあるボディ、ダイハツ「SV型ライトバス」は単純な箱型ボディです。

北村製作所

北村製作所は、新潟県にあるボディメーカーで、バスボディの製造のほか、特殊車やトラックボディの製造などを行っていました。小型バスのボディは、いすゞの29人乗りサイズの大きめの小型バスから始まり、その後「ジャーニーQ」と名前のついたバスの製造を手がけました。1995年にバスの製造から撤退し、以降このクラスのいすゞ小型バスはいすゞバス製造に移りました。

いすゞジャーニーQ
いすゞジャーニーQ

北村製作所製ボディは、“マイクロバス”よりも中型・大型バス寄りのスタイルになっています。1976年からのこの写真のボディも、角張ったスタイルが斬新で、同じボディスタイルはいすゞ中型バスにも展開されています。
1986年には、大型バス「スーパークルーザー」と近いイメージの前ドア対応の小型バスにフルモデルチェンジをしています。


金産自動車工業 → 日野車体工業

金産自動車工業は、主に日野車のボディを製造する会社で、1964年に金沢産業から社名変更されています。1975年に帝国自動車工業と合併し、日野車体工業となり、名実ともに日野自動車工業の系列となりました。
2004年にはジェイ・バスに合併し、現在の同社小松工場の前身に当ります。

日野レインボー
日野レインボー

金産としての小型バス製造は、ビルマなどへの輸出用に日野BM型を製造したことに始まり、1966年から国内向けの同型車の製造を開始しています。日野車体工業への合併後、同社金沢工場は日野の中型・小型バスを中心に製造する工場となり、日野AMをはじめとした以後の小型バスの製造を担当しています。
また、同じトヨタ系列のダイハツの輸出用小型バスの生産もしていたそうです。(注1)


呉羽自動車工業

呉羽自動車工業は、主に三菱ふそうのバスボディを製造する会社で、1963年から製造された三菱の「ふそうライトバス」の車体を製造しています。しかし、「ふそうライトバス」は1966年までで生産は終了し、以降は三菱自工(名古屋)で一貫製造される「ローザ」に一本化されたため、小型バス製造の歴史は長くありませんでした。
その後、呉羽自工が三菱のバスボディメーカーとして一本化されることになり、2003年に三菱ふそうバス製造となった後、2010年までに小型バスの生産も一本化されています。

ふそうライトバス
ふそうライトバス

短期間の製造でしたが、1960年代のふそうブランドの小型バス。
三菱ボディの「ローザ」に比べると大人しい外観です。


帝国自動車工業

帝国自動車工業は、主に日野車のボディを製造する会社で、1975年に金産自動車工業と合併し、日野車体工業となり、名実ともに日野自動車工業の系列となりました。

日野レインボー
日野レインボー

帝国自工では、1960〜63年の間、小型バス「コンマース」のボディを製造したほか、1966年から、それまで金産自工のみで製造されていた日野BM型の製造に加わりました。帝国では、スケルトン構造を採り入れた角張ったボディスタイルを採用しています。
日野車体工業に合併後は、小型バスの製造は旧帝国自工の横浜工場では行わず、旧金産自工の金沢工場に集約されています。


トヨペット整備

トヨペット整備は1954年に設立された会社で、トヨタ車の開発、試作、及び特装車のボディ架装などを行っています。1964年にはトヨペットサービスセンターに社名を変更、1990年にはトヨタテクノクラフトに社名を変更しています。

トヨペット・マイクロバス
トヨペットマイクロバス

同社の公式サイトによると、1957年に「トヨペット・マイクロバス」を販売、「マイクロバス」の名前は商品名としてトヨタが最初に使ったとのことです。
その後、1963年まで「トヨペット・マイクロバス」の名前で製造を続け、最後はバスらしい大型化、箱型化されたボディスタイルになりますが、それ以降は荒川車体製の「トヨタ・ライトバス」にその座を譲ります。


西日本車体

西日本車体は福岡県にある西日本鉄道系の車体製造メーカーで、西鉄を始め西日本エリアのバスボディ製造を手掛けてきました。小型バスでは、特に東洋工業(マツダ)の「マツダ・ライトバスC型」「マツダ・パークウェイ」のボディを製造しています。
1997年に「マツダ・パークウェイ」の生産は終わりましたが、いすゞ「エルフ」のシャーシにバスボディを架装した「プレビス」(量産時は「ジャーニーE」)、いすゞ「UT」をベースにした「UTバス」などコミュニティバスに向いた低床タイプの小型バスなどにチャレンジしています。2010年に事業を終了しています。
なお、西日本車体での最初の小型バスは1962年のダイハツDV200Nだったそうです(注2)

マツダ「ライトバスC型」
マツダライトバス

西日本車体製の「マツダ・ライトバスC型」は、窓の大きい斬新なスタイル。川崎航空機製のA型とは競作のような位置関係にありますが、あちらが斬新すぎて、西工製の存在感は若干薄れてしまった感があります。


日産車体工機 → 日産車体

日産車体工機は1962年に新日国工業から社名変更した会社で、既に1951年には日産自動車と提携を開始していました。大型バスのボディも数多く製造していましたが、これは1965年頃までに終了しています。1971年には日産車体に社名を変更しています。
なお、日産車体京都工場は2001年に子会社オートワークス京都として分社され、マイクロバスボディ製造はこちらに移管されました。同年に宇治オートを合併しています。

日産シビリアン
日産シビリアン

1960年に日産「キャブオール・マイクロバス」の生産を開始し、その後「エコー」、「シビリアン」と名称を変えた日産の“マイクロバス”の車体をすべて手掛けています。


新三菱重工業 → 三菱自動車工業

新三菱重工業は三菱系列の中で普通乗用車の生産とバス車体の生産を手掛けていた会社で、1960年の三菱「ローザ」の生産から、シャーシ・ボディの一貫生産を開始しました。1965年に合併により三菱重工業となり、1970年に三菱自動車工業として独立しています。

三菱ローザ
三菱ローザ

「だるまローザ」との通称を持つ初代ローザ。他に類を見ない独特のスタイルは、メルセデスベンツの小型バスに範をとったと言われています。


目黒車体

目黒車体は東京都目黒区にあった会社。「自動車ガイドブック」巻末の日本自動車車体工業会の会員名簿によると、1957年版では目黒車体の社名で、1958〜60年版には新目黒車体の社名で掲載がありますが、1961年版からは消えています。

プリンスライトコーチ
プリンスライトコーチ

新目黒車体となった後の1959年に、プリンス「ライトコーチ」と日産「ジュニアバス」に、ほぼ同形の背の高いボディを架装しています。
1960年からが量産スタイルと思われ、前面窓の上辺が曲線的になり、後面窓が連続窓に変りました。プリンス「ライトコーチ」のほか、日産「ジュニアバス」、いすゞ「ライトバス」にもほぼ同形のボディを架装しているようです。


梁瀬自動車

梁瀬自動車は輸入自動車の販売をする傍ら、1950年代には大型バスのボディも製造していました。1960年代に入り、大型バスがフレームレスに移行する中で、バスボディ製造から撤退し、特装車の製造に特化しています。1969年にヤナセに改称しました。
小型バスの製造実績についてはよく分かりませんが、1960年代にダイハツの「ライトバス」のボディを手掛けているようです。(注3)

日産 S680
日産レントゲン車

写真は日産自動車の特装車で、日産キャブスターをベースに小型化したと思われる車両。純粋な小型バスではありませんが、梁瀬自動車製ボディの一例です。
(自動車工業振興会(1964)「自動車ガイドブックVol.11」)


渡辺自動車工業

渡辺自動車工業は福岡県の航空機メーカー九州飛行機を1953年に改称したもので、1958年に西日本車体の傘下に入っています。
小型バスの製造実績についてはよく分かりませんが、1960年代にいすゞのBL171型のボディを手掛けているようです。(注4)

いすゞライトバス
いすゞライトバス

「いすゞニュース(1965年4月号)」に掲載された写真の中の1枚です。
福岡県の原鶴温泉の各旅館の“マイクロバス”が紹介されていますが、いずれも渡辺ボディのようで、地元ボディメーカーの架装による車両を集中的に販売したようです。


(注1)
金産自動車工業の項目は、広瀬清一(2002)「私の知っているバス達」(金沢ボデーのアルバム)を参考にしています。
(注2)
ポルト出版(2010)「西工の軌跡」によると、1962年にダイハツDV200N型ライトバスの試作を行ったほか、小型トラック「マツダ・クラフト」をベースにしたバスを試作したそうです。前者の画像はありませんが、後者と思われるセミキャブ型の小型バスの画像が同書のP.85に掲載されています。
(注3)
1959年以降の梁瀬製ボディにつけられるプレートは丸形にYをデザインしたものになっていますが、車史研(1987)「1960年代のバス」に掲載されているダイハツDV30N型ライトバス(1966年式)にこれがついています。
(注4)
村上龍雄(1996)「私の知っているバス達≪いすゞ自動車≫」P.25に、渡辺自動車製のBL171の写真が掲載されています。また、ポルト出版(2010)「西工の軌跡」によると、1960年に西工が試作・設計した「エルフ・マイクロバス」が渡辺自動車で完成したそうです。川崎製と併売された後、リベットレスへの移行に渡辺車体が対応できずに生産終了したとのことです。
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