入門その頃のバス

新日国工業

ボディ 新日国工業は、かつて「ニッコクボデー」と呼ばれた主要なバスボディメーカーでしたが、1960年代に入り、路線バスボディからは撤退し、日産車体工機に名前を変えました。
会社名の由来は、戦前に航空機製造を行うために設立された日本国際航空工業から改称された日国工業です。戦後1949年にバスボディ製造を行うために新日国工業を設立、1951年に日産自動車と提携します。先進的スタイルのバスを作っていましたが、シャーシとボディの系列化の中で、日産車体工機と改称し、マイクロバスや乗用車製造に舵を切りました。


1950−1956

横浜市交通局 民生BR322
BR322

画像:所蔵写真(三浦半島 1953.5.31)

初期の新日国ボディは、方向幕を正面窓下に置いた流線形のスタイルでした。
民生デイゼルのリアエンジンバス「イーグル号」の指定ボディで、1956年までこの基本スタイルで作られました。

民生BR322
RS85

画像:所蔵写真(新日国工業公式)

1952年頃から、側窓がスタンディウィンドウ付のいわゆる「バス窓」に変りました。スタンディウィンドウの上部のRが大きい独特の形状が特徴。
前面窓上の日除けも標準仕様のようです。
民生「イーグル号」と日産「コロナ」がこのボディを採用しています。

日本国有鉄道 三菱R21(1952年)
R2

画像:三菱ふそう公式カタログ(1952)

三菱シャーシに架装した国鉄バス納入車の一例。このスタイルでは、最も車長の長い車両です。
雨樋がスタンディウィンドウの上部にある点が、民生、日産の車両と異なる点です。

1956−1965

日産自UR591(1958年)
UR591

画像:日産自動車公式カタログ(1958年)

1956年の民生「イーグル号」のマイナーチェンジと同時に、正面窓のピラーを細くし、連続窓とするモデルチェンジを実施しました。側面のスタンディウィンドウの大きいスタイルはそのままですが、雨樋は上部に移りました。。
同じく1956年発売開始の日産のキャブオーバーバス「キャブスター」や1958年からのリアエンジンバスURも、このボディが標準となっています。

三重交通 いすゞBA351
BA351

撮影:白井良和様(平生町 1964.12.13)

写真はいすゞのシャーシに架装した例。ヘッドライトの形状も特注です。

日産自UR690(1960年)
UR690

画像:日産自動車公式カタログ(1960年)

1959年頃からスタンディーウィンドウが小さくなっています。
1962年に日産車体となった後も、1965年まで製造実績はあるようです。
これら末期の日産自動車のシャーシはいずれもフレーム付ですが、初期「イーグル号」でフレームレスの製造実績もあるため、バスボディ製造から撤退した理由は、フレームレスに対応できなかったからではないと思われます。

日野ブルーリボン号 1952−1956頃

日野サンプル車 日野BD10
BD10

画像:所蔵写真(日野公式写真)

三重急行 日野BD10
BD10

画像:所蔵写真

新日国ボディは日野ブルーリボン号(センターアンダーフロアエンジン車)の指定車体となっていましたが、このボディは他の新日国ボディとは異なるスタイルでした。
前面は同じくブルーリボン号の指定車体である金産ボディと同じスタイルで、後面は非常口がつくため3枚窓になっています。ただし、側窓のスタインディウィンドウが、上辺のRが大きい新日国ボディ独特の形状となっており、区別がつきます。


新日国工業の系譜
  • 1937(昭和12)年 日本航空工業設立
  • 1941(昭和16)年 日本航空工業と国際工業が合併し、日本国際航空工業設立
  • 1946(昭和21)年 日本国際航空工業を日国工業と改称し、鉄道車両とバス車体製造を開始
  • 1949(昭和24)年 新日国工業設立。日国工業の鉄道・バス製造を継承
  • 1951(昭和26)年 日産自動車と提携
  • 1962(昭和37)年 日産車体工機と改称
  • 1962(昭和37)年 日国工業を吸収合併
  • 1971(昭和46)年 日産車体と改称
  • 2001(平成13)年 日産車体京都工場をマイクロバス製造会社として独立させ、オートワークス京都設立。
  • 2001(平成13)年 マイクロバス特装事業の宇治オートをオートワークス京都に合併
  • 2021(令和3)年 オートワークス京都での車両生産終了

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80s岩手県のバス“その頃”