金産自工(路線バス)
金産自工は、石川県金沢市に本社を置くバスボディメーカーで、戦後に航空機製造の技術を生かしてバスボディの製造を開始しました。主に日野車のボディに架装しています。同じ日野車に架装する帝国自工とは、スタイルに徐々に歩み寄りが見られ、1967年以降のボディではほとんど共通になっています。もっとも細部が異なり若干垢抜けないところなどは、三菱ボディと呉羽自工との関係にもよく似ています。1975年に帝国自動車工業と合併し、日野車体工業となり、名実ともに日野自動車のボディメーカーとなりました。ここでは、日野車体になるまでのボディについて解説します。
1961−1967
前期形 1961−1964
サンデン交通 日野RB10
撮影:板橋不二男様(山口県 1974)
岩手県交通 日野RB10
撮影:一関市民様(一関市 2006.6.10)
1961年にリアアンダフロアエンジンの日野RB10の登場に合わせて、モデルチェンジが行われました。前面が連続窓になった点は、同時期の他メーカーのボディに準じています。後面は3枚窓のままですが、スタイルはそれまでと変わりました。センターアンダーフロアやキャブオーバーなどで後面に非常口がつく場合も同じスタイルです。
シャーシの組み合わせ・・・日野、日産デ、三菱
後期形 1964−1967
川崎鶴見臨港バス 日野RB120(1965年式)
撮影:川崎駅(1977.8.29)
広島電鉄 日野RB10(1966年式)
撮影:曙車庫(1980.8.17)
金産自工の丸型ボディの特徴は、水切りのないのっぺりした正面形状です。1964年のモデルチェンジで正面窓が下方へ拡大され、後面窓が連続窓になりました。
主に日野RBに架装されていたボディです。
金産自工では、ユーザーによっては早くからサッシ窓の車両も生産されていました。バス窓と同様に上段固定なので、桟の位置は若干上にあります。
シャーシの組み合わせ・・・日野、日産デ、三菱
伊那バス 日野RB10(1967年式)
撮影:ヒツジさん様(南箕輪村 2004.2.14)
1967−1975
岩手県交通 日野RE100(1970年式)
撮影:北上営業所(1984.6.11)
羽後交通 日野RE100(1971年式)
撮影:盛岡バスセンター(1984.11.2)
1967年の日野RE、RC系の登場と同時にモデルチェンジを行いました。同時にモデルチェンジを行った帝国自工と、共通のデザインになりました。ただし細部は異なり、折り戸の窓の大きさ、車掌台窓が雨樋まで接している点、側面最後部の三角窓のRが大きい点、非常口窓が2段窓である点などで帝国自工と区別できます。
広島電鉄 日野RE100(1972年式)
撮影:曙車庫(1980.8.7)
前モデルと同様、バス窓と並行してサッシ窓の車両も生産していました。やはり桟が上のほうにあるため、後の日野車体のサッシ窓車とは区別ができます。側面方向幕がサッシに内蔵されていますが、初期のサッシ窓では散見されます。
サッシ窓バージョンは、西日本で多く見られたように思います。
写真の車両は、折り戸の上側の窓が大きくなっていますが、前ドア車などに多く見られた仕様です。
シャーシの組み合わせ・・・日野、日産デ、三菱
日野車体への合併
1975年4月に、金産自工は帝国自工と合併し、日野車体工業になります。
これにより、旧金産自工(日野車体金沢工場)は中型バス、小型バスを専門に製造する工場に役割分担されました。これに対して、旧帝国自工(日野車体横浜工場)は大型バスに特化されます。(注1)
金産自工の系譜
- 1946(昭和21)年 金沢産業、バスボディ製造を開始
- 1964(昭和39)年 金産自動車工業と改称
- 1975(昭和50)年 帝国自動車工業と金産自動車工業が合併し、日野車体工業設立
- 2004(平成16)年 いすゞバス製造とともにジェイ・バスに合併
金産自工について詳しい本
金産自工について詳しく記載した書籍をご紹介します。バスラマエクスプレスのNo7として2002年に発行された「金沢ボデーのアルバム」で、1冊76ページの特集本にまとめられています。
終戦直後に航空機材料のジュラルミンを使用して製作したバスボディから、トレーラーバス、センターアンダーフロアエンジンバスなど日野車のボディ製作の歴史などに触れ、巻末には1946〜75年の間のバス生産リストを掲載しています。