入門その頃のバス

ボディメーカーの歴史

ボディ バスは、ボディとシャーシとを別のメーカーで製造して組み合わせるのが普通です。一般的に自動車メーカーとして知られるいすゞとか日野とか以外のメーカーが、バスの車体を作っています。
しかし、実際に我々の目に入りやすいのはボディです。そして、そのボディメーカーは、かつてはシャーシメーカーとの資本関係は薄く、様々なシャーシメーカーとの組み合わせでボディを製造していました。
1960年代ごろから、これらの統廃合が徐々に進み、次第にシャーシメーカーが特定のボディメーカーを系列化してゆきます。1970年代以降には、複数のシャーシメーカーに架装する独立資本のボディメーカーは、富士重工と西日本車体の2社のみになり、両社とも直系ボディメーカーをもたない日産ディーゼルとの関係を深めた結果、最終的にバスボディ製造から撤退しました。
こうして、現在、バスボディメーカーは、シャーシメーカー直系の2社に絞られる結果となったのです。


主なバスボディメーカーの系譜

表2-10-1 主なバスボディメーカーの系譜
ボディメーカーの系譜

ボディメーカー発達の概要

現在、日本のバスボディメーカーは、ジェイバス三菱ふそうバス製造の2社しかありません。
しかし、これは、統合や事業廃止を重ねてきた結果であり、かつては多数のメーカーが存在しました。
戦前のボディメーカー
東浦自動車工場
東浦自工

葉書(1937)

東浦自動車工場が1937年に作成した暑中見舞いはがきの写真。シボレーのシャーシに東浦で低床式ボディを架装しています。

第二次世界大戦前からバスボディを製造していたメーカーには、日本自動車、脇田自動車工業所(→帝国自動車工業)、梁瀬自動車、安全自動車、倉田製作所、東浦自動車工業などがあります。
これらの中には、昭和初期までの国産車がない時代に、外国車を輸入販売する傍ら、日本のユーザー向けにボディを架装することをきっかけに、この事業を始めた事業者もあります。

終戦後のボディメーカー
富士重工業の組み立てライン
富士重工

富士重工パンフレット(1970)

第二次世界大戦後、航空機メーカーから転身した企業を中心にして、バスのボディメーカーは急増します。
戦後に航空機から転身した企業には、金沢産業、富士産業、川崎航空機、三菱重工業などがあります。これら航空機製造を行っていた企業は、その技術を生かしたモノコックボディの製造で、バス製造の牽引役となります。

シャーシメーカーとの系列化が進む1950年代
刈谷車体の艤装作業
刈谷車体

刈谷車体パンフレット(1952)

トヨタの車体製造会社として設立されたトヨタ車体工業は、すぐに社名を刈谷車体と変えます。

シャーシとボディとを別々に作るといっても、シャーシメーカーにとっては商品イメージを左右するボディは重要な存在です。商品に合ったボディを作れるメーカーがあるに越したことはありませんし、シャーシメーカーの意向を採り入れてくれるメーカーが必要です。
そこで、戦後早くから、ボディメーカーの取り込みが始まります。
川崎航空機は、戦後早くから、いすゞ自動車の指定車体となっています。これは、子会社の川崎車輌がいすゞ自動車の前身であるヂーゼル自動車工業に出資したほか、川崎車輌の「六甲号」をヂーゼル自動車工業に製造移管するなど、いすゞと密接な関係があったためだと思われます
新日国工業は1951年に日産自動車と提携し、その後、日産車体に社名変更し、名実ともに日産車の車体メーカーとなります。
日野のセンターアンダー車のボディを担当した金産自工は1953年、帝国自工は1955年に日野自動車と提携します。
呉羽自工は1956年に三菱ふそう自動車(後の三菱自動車販売)と提携し、三菱のバスボディのシェアを高めます。

フレームレスへの移行などで淘汰が進む1960年代
東新自工のボディ
東新自工

北海道(2018.11.9)

関西にあったらしい東新自工で製造したボディ。西日本車体との技術提携で作られたため、西日本車体と同じスタイルです。

1960年代に入ると、軽量化や大量生産に向けてフレームレスボディが主流になります。そのため、フレームレスに対応できない中小メーカーが、バス製造から離脱してゆきます。
これまでのフレーム付ボディだと、シャーシメーカーから持ち込まれたフレーム上にボディを組み立てていたものが、ボディ側にシャーシ部品を組み込んでいく手法に変わることなどから、中小メーカーでは対応できなくなったものと思われます。
フレームレスボディを製造するための大手メーカーとの技術提携が行われ、川崎からは安全車体、松本車体へ、西日本車体からは北村製作所、京成自工、東浦自工などへ、技術の提供が行われたようです。
この時期にバス製造を中止したメーカーには、中北車体工作所、梁瀬自動車、京成自動車工業、東浦自工、松本車体製作所などがあります。安全車体は川崎車体に事業を譲渡しています。また、日産車体は系列会社の小型バスや乗用車の製造にシフトしています。
シャーシメーカー主導の統合が進む1970〜90年代
日野スケルトン
日野スケルトン

北上市(1986.4.29)

日野車体工業になって、シャーシとボディの一体的な開発が実現し、誕生した日野スケルトン。
初代モデルのRSは他のボディメーカーの架装はありません。

複数のボディメーカーが競合しながら複数のシャーシメーカーに架装していた時代は、1970年代以降急速に整理されてゆきます。
まず1974年にいすゞ専門のボディメーカーとして川重車体工業が設立され、1986年にはいすゞ自動車との共同出資により設立されたアイ・ケイ・コーチに移行します。その後、いすゞバス製造に社名変更後、いすゞ自動車100%出資のいすゞバス製造(2代目)に移行します。
1975年には、日野自動車の傘下となっていた帝国自工金産自工が合併し、日野車体工業が成立します。日野車体工業は、日野自動車の直系のボディメーカーとして、スケルトンバスの開発などを進め、日野以外のシャーシとの組み合わせはなくなります。
三菱自動車工業は当初よりシャーシメーカーと同一企業のボディメーカーで、1982年にはシャーシ・ボディ共同開発のエアロバスを発表しています。
三菱は、直営ボディのほかに、呉羽自工とも関係がありましたが、1986年に資本参加により新呉羽自動車工業と改称し、以後、直営よりも新呉羽の比重を増しています。
シャーシとボディが完全系列化される2000年代
ブルーリボンU
ブルーリボンU

広島駅(2016.6.26)

いすゞとの統合車種になった日野「ブルーリボン」。両社の区別はつきません。

最終的にバスのボディメーカーはジェイバス三菱ふそうバス製造の2社に統一されるわけですが、そこに至る前にいくつかの過程があります。
まず、シャーシメーカーと資本関係のない北村製作所は、末期にはいすゞの小型バスボディを担当していましたが、1995年にバス製造を終了します。
続いて、やはり独立系の富士重工が、日産ディーゼルの指定ボディから外れたことをきっかけに、2003年にバスボディ製造から撤退します。
同じく独立系の西日本車体は、富士重工に代わって日産ディーゼルの指定ボディになったものの、日産ディーゼル自体がバス製造を中止したことで、2010年に事業を停止しました。
その一方で、いすゞと日野は、共同でジェイバスを設立し、2004年に対等合併することで、両シャーシメーカーのボディ製造を一本化しました。
三菱は、新呉羽自工三菱自動車バス製造と改称し、名実ともに自社グループのボディメーカーとした後、自社で製造していたバスボディを順次移管し、2003年には三菱ふそうバス製造となって現在に至ります。
マイクロバスの製造
日産シビリアン
日産シビリアン

千曲市(2016.1.17)

大型バスのボディ製造からは撤退して久しい日産車体ですが、マイクロバスのボディ製造は、2001年まで続けてきました。

マイクロバス(小型バス)のボディメーカーについては、別稿にまとめていますが、関連するので概略をここでも説明します。
マイクロバスは、基本的に乗用車の製造と同じメーカーで作られるため、大型バスとは異なる進化を辿ります。トヨタ自動車は系列の荒川車体工業(1988年にアラコに改称)で製造していましたが、2004年にバス製造をトヨタ車体に統合しています。
日産自動車は系列の日産車体で製造していましたが、2001年にバスボディ製造部門をオートワークス京都として分社しています。
三菱自動車工業は、大型バスボディを移管した後もマイクロバスについては自社で製造していましたが、2010年までに三菱ふそうバス製造に移管しています。

三菱のボディとシャーシの関係

上記において、バスボディ製造がシャーシメーカー系列に統合されてきた経過を説明しましたが、三菱に関しては、直営のいわゆる「三菱ボディ」と、別会社であった「呉羽ボディ」との関係が分かりにくいため、改めて説明します。
ちなみに、三菱ボディは三菱重工の名古屋自動車製作所のことです。

表2-10-2 三菱のバス製造の系譜
三菱の系譜
三菱グループにおける大型バス製造の役割分担
菱和ボデー
菱和ボデー

中日本重工業カタログ(1952)

大型車の「ふそう」に対し、小型車は「菱和」ブランドで販売しており、バスボディも「菱和ボデー」と通称されていました。
このカタログに「ニッサン」と書いてあるのは、日産のシャーシに架装するボディのカタログだからです。

戦前からバスを製造していた三菱重工業は、財閥解体を目的とした過度経済力集中排除法に従い、1950年に3社に分割されます。当初の社名は、本拠地の所在地により東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業となっていましたが、1952年に、それぞれが三菱日本重工業、新三菱重工業、三菱造船に改称されました、
この時、大型バスのシャーシを製造していたのが三菱日本重工業、乗用車及びバスボディを製造していたのが新三菱重工業でした。
これと組み合わせとなる販社が、大型バス(三菱日本重工業)は三菱ふそう自動車、乗用車(新三菱重工業)が菱和自動車販売でした。大型バスは「ふそう」ブランドで販売されていたことが分かります。
つまり、バスは「ふそう」でシャーシを作り、新三菱(菱和)でボディを作り、「ふそう」で販売していたことになります。
また、両社の間で競合も発生します。乗用車メーカーの新三菱重工業では、3〜4tトラックの「ジュピター」を製造し、これをベースにした小型バス「ローザ」の製造を1960年から開始しました。一方、大型車メーカーの三菱日本重工業では、2tトラックの「キャンター」を製造し、これをベースにした「ふそうライトバス」の製造を1963年から開始しました。
「ジュピター」と「ローザ」は、乗用車メーカーでの製造・販売なので、ふそうブランドではありませんでした。
旧三菱重工3社は1964年に再び合併により三菱重工業(2代目)になりますが、大型バスシャーシ製造のふそうブランドと、乗用車及びバスボディ製造の三菱自動車ブランドとは、区別されたままでした。従って、小型バスの「ローザ」は1986年のモデルチェンジまで、ふそうを名乗ることはできませんでした。

呉羽自工の存在
呉羽と三菱名古屋
呉羽ボディ

板橋不二男様(五所川原 1977.8.12)

地域による偏りもありますが、呉羽ボディと三菱ボディは両方を同時に導入していたバス会社も多数ありました。

三菱ふそうのバスには、1950年代から指定車体として新三菱重工呉羽自工の2社が並列していました。
中でも新三菱重工は1964年に三菱重工として同一会社になることで、早くもシャーシとボディの一体製造が実現していたと捉えることができます。それにもかかわらず、グループ外企業であった呉羽自工でも標準ボディを製造していたのはなぜなのでしょう。
表2-10-2でも分かる通り、呉羽自工は三菱重工が3社に分かれていた当時の1956年に、大型バスの販社である三菱ふそう自動車と提携しています。ふそうブランド側としては、ふそうブランドでない新三菱は内部競合の関係にあり、外部にボディメーカーのパートナーを求める必要があったのかも知れません。
実際に、1960年代に入ると、内部競合の小型バスにおいて、ふそうブランドでは呉羽自工がボディを製造する「ふそうライトバス」を製造しています。

三菱ボディと呉羽ボディの役割分担
エアロクィーンK
エアロクィーンK

静岡駅(2014.10.26)

エアロキングをベースとする正面窓2分割のスーパーハイデッカーは、呉羽自工の担当でした。

三菱重工のバスボディ部門(三菱ボディ)と呉羽自工は、役割を分担するようになり、中型バスの製造は当初から呉羽自工が担当しています。また、低床試作車のB820Jや2階建てバスの「エアロキング」など、特殊なボディも呉羽自工が担当する傾向にありました。
一方、1960年代に一時的に競合していた小型バスの部門は、乗用車部門の「ローザ」に一本化されました。

新呉羽自工へのボディ製造集約
ニューエアロスター
ニューエアロスター

富山駅(2016.4.23)

1986年には、呉羽自工に三菱自動車の資本が入ることで社名を新呉羽自動車工業と改称、三菱のバスボディ製造を新呉羽へ移行を開始します。
1993年には新呉羽を三菱自動車バス製造に改称、名実ともに三菱グループのバスボディメーカーとしています。それまで三菱自工で製造していた大型バスボディも徐々にそちらにシフトさせ、1998年にすべての集約が完了しました。
その後、2003年に、バスシャーシメーカーは三菱ふそうトラックバスに分社されますが、時を同じくして、ボディメーカーは三菱ふそうバス製造に改称されました。

謎の多い過去のボディメーカー

前記の通り、戦前には多くのボディメーカーが存在していましたが、大戦をはさむ中で集約や廃業、事業内容の変更など様々な事情の中で、最終的にどうなったのかが分からない事例が多く存在します。
名古屋自動車製作所
名古屋市にあった「株式会社名古屋自動車製作所」は、1955年に「名自車体株式会社」に名前を変えて現在に至りますが、その途中経過には分からない点もあります。

表2-10-3 名古屋自動車製作所の系譜
名自の系譜
名古屋電車製作所として設立
名古屋電車製作所
名古屋電車製作所

絵葉書(1926)

名古屋電車製作所発行の絵葉書。シボレーのシャーシに低床バスボディを架装。所在地は名古屋市の西築港との記載があります。

名古屋電車製作所 1912(明治45)年に「合資会社名古屋電車製作所」が名古屋市千年に設立され、京阪電気鉄道100形や名古屋鉄道デホ650形などを製造しています。大正期には、乗合自動車の製造需要も増加しており、名古屋電車製作所でもバスボディの製造を始めていました。
同じように鉄道車両のほかバスボディ製造も手掛けていた日本車輌製造は、1927(昭和2)年にこれを系列化、「株式会社名古屋電車製作所」として再発足させました。日本車輌としては自動車をはじめとする内燃車両製造への足掛かりが欲しかったという事情もあるようです。(日本車輌製造(1977)「驀進 日本車輌80年のあゆみ」 P.105-106)
名古屋自動車製作所と改称
名古屋自動車製作所
名古屋自動車製作所

絵葉書

名古屋自動車製作所発行の絵葉書。工場の俯瞰イラストで、工場棟は縦2列あり、その前にバスが2台描かれています。

1929(昭和4)年に名古屋電車製作所は増資と同時に名古屋自動車製作所に改称され、自動車並びにバスボディの量産に入ります。(同書 P.114)
ナゴヤ號 1935(昭和10)年には乗合自動車「キソコーチ号」を製造、1939(昭和14)年には電気自動車「ナゴヤ号」を開発・生産しています。ナゴヤ号は大戦に伴う石油統制下で好評を博し、かなり普及したとのことです。同年、販売部門を分離して名古屋電気自動車販売も設立しています。(同書 P.135-136)
しかし、1945(昭和20)年の空襲により名古屋自動車製作所は全壊し(同書 P.136)、それ以降の記述は同書内にはありません。
名自車体として復活
名自車体 名自車体の公式Webサイトによると、1955(昭和30)年に「名自車体株式会社」が発足し、特種車両、医療車、郵便車の製造を開始しました。同社は「株式会社名古屋自動車製作所」を改称したとのことです。
名自車体の前身と、日本車輌傘下にあった名古屋自動車製作所が同じものであることは、電気自動車「ナゴヤ号」の生産を行ったという記述などから証明できます。
ただし、1945年に工場が全壊した後の経過や、その後の日本車輌のかかわりなどの詳細は不明です。
名自車体は、1984年に本社・工場を名古屋市港区より弥富市に移設し、現在に至ります。

もう一つの混乱要素
バス製造関連で、もう一つの「名古屋自動車製作所」があります。それは、三菱重工業名古屋自動車製作所で、これは、いわゆる「三菱ボディ」という通称で呼ばれる三菱のバスボディを製造する事業所の名称です。
名自車体株式会社と同じ名古屋市港区にあったこと。三菱ボディで架装したバス車体に、名自車体が二次架装した特殊車両が存在したこと。三菱のバスボディの指定工場の一つである呉羽ボディに対し、三菱の名古屋自動車製作所を「名自」と呼ぶケースがあったこと。これらが原因で、「名古屋自動車製作所→名自車体」と「三菱重工業名古屋自動車製作所」を混同する向きもあったようですが、両者は別物です。
日本自動車工業
「日本自動車工業株式会社」は戦前においては名を知られたバスボディメーカーで、戦後も昭和20年代まではボンネットバスのボディを製造した実績がありますが、その後の足取りが不明です。
また、同じ日本自動車系列の同名会社が複数存在し、調査研究が混乱する元になっています。

表2-10-4 日本自動車の系譜
日本自動車の系譜
日本自動車の設立
JAC 日本自動車の母体となったのは、1909(明治42)に大倉財閥が設立した大日本自働車製造で、輸入車販売の傍らハイヤー事業も手掛けています。日本自動車合資会社を経て、1914(大正3)年に日本自動車株式会社となっています。(四宮正親(2017)「萌芽期の自動車販売 −日本自動車のケース−」)
1918(大正7)年には、中野工場で自動車ボディの製造を開始しました。JACという英略は、「JAC號」という乗用車の名称のほか、バスボディ製造のブランド名としても使われていたようです。
一方、蒔田鉄司が1917年に設立した秀工舎は、1928年に日本自動車に譲渡され、大森工場で三輪車「ニューエラー号」を製造します。


日本自動車工業の独立と消滅
日本自動車工業 四宮正親(2017)によると、1937(昭和12)年に日本自動車が中野工場を分離させて日本自動車工業(@)を設立しています。これは、日本自動車本体が日中戦争後の軍需に対応するための分社とのことです。
日本自動車工業は1943(昭和18)年にヂーゼル自動車工業(後のいすゞ自動車)傘下に入ったそうです。
終戦後にヂーゼル自動車工業がいすゞ自動車に改称した後も、いすゞとの関係は強く、1950年に神戸市で開催された日本貿易産業博覧会に出品されたBX95型デラックスバスは、日本自動車工業がボディを架装しています。「ニッポンコーチ」の略称をもち、この時期には川崎市が本拠地になっています。
しかしながら、その後の日本自動車工業についての記載は見つからず、1950年以降に、いすゞ系の企業への吸収等が行われたものと想像されます。

社名・・・日本自動車工業株式会社
所在地・・・川崎市大師河原町耕地4573
創業・・・1918(大正7)年
(1950年発行のカタログによる)(注1)



日本自動車(本体)のその後
日本自動車 東京経済大学Webサイトによると、日本自動車工業を分離した後の日本自動車は、1943年に中央兵器に改称しています。自動車製造を分離し、軍需対応に舵を切ったものと思われます。
しかし、戦後の財閥解体後、社名を再度日本自動車に戻し(注2)、自動車販売代理店業などに活路を見出していたようです。日本軽自動車が軽自動車「NJ号」→「ニッケイタロー」を製造していた1955〜57年の間、日本自動車がその販売会社となっています。
1968年に倒産したとのことです。
(左の画像は、「新潟県年鑑(昭和27年版)」P217掲載の広告。提供:片倉穂乃花様)


社名・・・日本自動車株式会社
所在地・・・東京都港区赤坂溜池30番地

もう一つの日本自動車工業
日本自動車工業 紛らわしい例として、日本自動車をベースとする会社に、二つ目の日本自動車工業という名前の会社があります。
日本自動車工業(A)は自動車の重整備をする一級整備工場で、朝鮮戦争後に京急向けバスボディやオオタ自動車の乗用車ボディ製造を始めているとのこと。1953年からボルボとサーブの輸入販売、及び軽自動車「NJ号」の製造販売を開始しました。「NJ号」は会社の頭文字を取った命名です。
本社所在地、社紋、「NIPPON MOTORS」という略称などが、バスを製造していた日本自動車工業@とは異なるため、別会社だと思われます。(注3)
1954年に倒産してしまい、NJ号の製造は埼玉県川口市に設立された日本軽自動車が、販売は旧大倉財閥の日本自動車が引き継ぎます。
この経過から、日本自動車工業Aも、日本自動車との関係はあったものと思われます。

社名・・・日本自動車工業株式会社
所在地・・・横浜市井土ヶ谷仲町158番地
(1953年発行のカタログによる)

三つ目の日本自動車工業
日本自動車工業 さらに紛らわしいのですが、日本自動車をベースとする会社に、三つ目の日本自動車工業という名前の会社があります。
その会社の起源となるのは、日本自動車から1932(昭和7)年に分離された日本内燃機です。同社は、オート三輪「くろがね」や四輪駆動乗用車「くろがね四起」などを製造します。
日産工機のWebサイトによると、戦後1949年に日本内燃機製造に改称するも、経営は悪化し、1955(昭和30)年に東急の傘下に入り、1957(昭和32)年にオオタ自動車と合併し日本自動車工業(B)と改称します。1959(昭和34)年には東急くろがね工業となりますが、東急が自動車製造からの撤退を表明する中、1964年に破産します。
これを受けて、日産自動車が再建に協力し、1964年に新会社東急機関工業を設立、1971年に日産工機に改称して現在に至ります。

社名・・・日本自動車工業株式会社
所在地・・・東京都港区赤坂溜池町30番地
設立・・・1928(昭和3)年
(注4)

主な参考文献
  1. 和田由貴夫(1985)「バスボデーづくり40年呉羽コーチヒストリー」(日本のバス1986 108-129)
  2. 安全自動車(1989)「交通報国 安全自動車70年のあゆみ」
参考にしたバス車体メーカーWebサイトの歴史系コンテンツ
(注1)
日本自動車工業@の創業の1918年は、日本自動車が中野工場でボディ製造を開始した年。
また、このカタログ発行時の社長は、篠原了氏となっている。
(注2)
広瀬清一(2000)「私の知っているバス達」(バスラマVol.60)によると、金沢産業では1948年に「バスボデーメーカーの老舗「日本自動車(株)」と技術提携して」鉄骨構造ボデーへの切り替えを始めたとのことなので、1948年時点では日本自動車という社名に戻っていた可能性がある。
(注3)
碇義朗(2002)「NJとニッケイタローの誕生から撤退までの歴史」(Nostalgic Hero Vol.94)によると、日本自動車工業Aは遅くとも1948年には存在していることから、日本自動車工業@と同じ時期に存在していたことになる。
(注4)
日本自動車工業Bの設立の1928年は、秀工舎が日本自動車と合併し、大森工場で自動車製造を開始した年。
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