玄洋社員の伝記集 V

石田秀人著
『在京福岡県人物誌』
我観社 1928年12月15日 九州日報に連載されたもの。全112名から玄洋社員11名のみを抽
出。
* 句読点を整え、誤字を正した。

以下は 玄洋社員の伝記集 T
『福岡県百科事典』
上下巻
西日本新聞社 1982年11月10日 石瀧が執筆した項目の内、玄洋社員に関するものを収録した。ただ
し、写真は略。
『西南記伝』
下巻二
原書房 1969年1月20日 1911年、黒龍会刊の復刻。「明治百年史叢書」に収める。「秋月事変
諸士伝」、「福岡党諸士伝」、及び「党薩諸団諸士伝」の内「越智武部
党諸士伝」から玄洋社員のみ収録。
* 句読点を整えた。
『玄洋社社史』
近代史料出版会 1977年7月20日 1917年、玄洋社々史編纂会刊の復刻。「玄洋社員の面影」、「剣光余
談」から玄洋社員のみ収録。
* 句読点を整えた。
『大日本人名辞書』
(一)〜(五)
講談社 1980年8月10日 1937年新訂第11版の縮刷・復刻版。講談社学術文庫。
* 句読点を整えた。

以下は 玄洋社員の伝記集 U
『東亜先覚志士記伝』
上巻・中巻・下巻
原書房 1966年6月20日 1933・35・36年、黒龍会刊の復刻。「明治百年史叢書」に収める。「列
伝」から玄洋社員のみ収録。
* 句読点を整えた。


 在京福岡県人物誌


イロハ順

    入江海平   原口初太郎  頭山満    緒方竹虎   和田三造

    中野正剛   内田良平   増永元也   坂井大輔   杉山茂丸

    末永節


スパルタ教育で鍛はれた 入江海平氏

 前の満鉄理事入江海平氏は、宗像郡鐘ヶ崎といふ玄界灘に面した一寒村の生れである。
『小学校は岬村で終へたのですが、当時高等小学といふものが郡内にタツタ一つで、三里を隔
てた東郷村まで通はねばならなかつたものです。何しろ高等小学へ這入る者一村僅か四、五
人と云ふ時代ですからなあ……そこで学校の寄宿舎に入れられ乍ら、一週間分の食糧米を四
升五合と、沢庵をドツサリ持つて行つて、毎日々々三食共沢庵で飯を食つたものです。尤も六
日の間で一度位は七厘か八厘を出して煮魚にありついたこともありましたが、毎日々々の沢
庵攻めには子供乍らも閉口したものですよ。その代はり土曜の午後から日曜日にかけては家
へ帰つて御馳走にもありつけたのですが、又次の月曜の朝には四升五合の米と沢庵五、六本
を背中にからつて、冬は赤毛布といふ姿で、朝夙くから起きて学校に出かけました。

 夏になると漬物が腐るといふので、胡麻塩や梅干だけだつたこともありますよ。』と。こんな事
を聞いてゐると、筆者等に取てはまるで昔の寺子屋時代の話でも聞いてゐるやうだ。そして一
年間の食物の大部分を米と沢庵ばかりで過ごして来たといふ氏の思ひ出話を聞き乍ら、如何
にも緊張し切つた、頑健さうな氏の體躯を見てゐると、最近流行の理化学研究所の栄養価値
にも、尠からず疑ひを挿さまずにはゐられない。『つまり食物よりも運動の方が大切といふ訳で
せうなあ』とは、筆者と氏とが期せずして合致した意見だつた。そして何も彼も文化づくめの現
代的モガ教育よりも、こんなスパルタ式の教育を少しばかり注入する処に、新時代の日本的精
神教育があるのではないかと思はれた。

 氏は明治十四年の生れで、修猷館中学を出て鹿児島高等学校に学び、次で東大の独法科
に入つて四十一年卒業した。其時郷党の大先輩故鶴原定吉氏と故穂積陳重博士の推挽に依
つて朝鮮統監府に身を奉じ、日韓合併後には総督府の理財課長として、新領土の財政経済
方面に大に献策する処があつた。『総督府時代で一番緊張して愉快だつたのは、やはり合併
当時でしたよ。何しろ併合直前の一、二ヶ月といふものは、極秘密裡に重立た者だけが夕方
から統監府の裏山へ行つて、総督府の樹立準備に朝の三時頃迄も不眠不休で、皆んな仕事
に緊張して全く寝食を忘れるといふ状態でした。そして故伊藤公から曽根伯爵、寺内総督の時
代迄は、内閣の官制より独立して全く其制肘を受けなかつたので、何れも国家を背負つて立
つといふ意気込でした。さうした緊張した気分でやつたので、あれ丈けの大仕事が出来たもの
でせう。殊に当時の明石憲兵司令官が警務総長を兼て、全道水も洩らさぬやうな警戒ぶりでし
たから、寺内伯の政治的武断主義と相俟つて、之が遂行出来たやうなものです。明石将軍は
同郷出身の人で、今少しく余命があつたら、今頃は立派な朝鮮総督でしたらう』と。

 氏は大正五年寺内内閣の成るに及んで、拓殖局長白仁武氏の下に拓殖局書記官となり、同
時に外務書記官及び国勢院の事務官を兼ね、朝鮮総督府及満鉄の要務に参画する処があ
つた。そして大正十二年満鉄の理事に抜擢されて在任四ヶ年、今は中央朝鮮協会に在つて、
氏の豊富なる満蒙朝鮮問題に関する実際的知識経験は、斯界に於て最も尊重せられつゝあ
るやうである。『満蒙問題に就ては、今日迄二十ヶ年の歴史を見れば、徒らに声のみ大にし
て、実際は我権益の放抛史といふの外はありません。満鉄の如きも、沿線に在留する我国民
の共喰ひ状態であつて、今の儘では之より一歩も踏み出る事が出来ない有様です。どうしても
満洲を支那から経済的に解放せしめ、居住権も営業権も日支平等にせしむる事が最大の緊
要事でありませう。そして満洲を中心基点として北満洲、内蒙古、支那本土に向つて我国の経
済的発展を謀ることが、既に確保してゐる権益を活かし、又それを拡大する所以であると信じ
てゐます』と。是等は氏が満蒙問題に対する抱負の一端である。尚ほ氏は最近塩水港製糖株
式会社長に就任された。


福岡陸軍の為に気を吐く 陸軍中将、原口初太郎氏

 長州に次で、曾て福岡の陸軍といはれた位、奥保鞏元帥を始め、明石、仁田原、立花、尾野
の各大将、内野、西川、白水、松浦、山田の各中将を有してゐた我が福岡県も、所謂長閥と
か薩閥といふやうな閥がなかつた関係か、それとも他に何か重大な原因があつた為か、いつ
しか凋落の態となつて、今では現役中将として唯一人の原口初太郎中将を有するのみとなつ
た。実に氏の存在は我が福岡陸軍の今後の勢力消長に至大の関係ありといふべきである。

 氏は明治九年粕屋郡青柳村に生れた。そして陸軍大学在学中、偶々日露戦争に際会して
従軍したゝめ、大学を出たのは戦争の終熄した翌年であつた。而も旅順攻囲戦では名誉の負
傷をした。其後、英国大使館附武官を命ぜられ、在外約四ヶ年にして、大正二年帰朝、中佐に
昇進して京都砲兵聯隊附となつた。間もなく日独戦争となつたので青島攻囲軍に参加し、大正
五年に帰還すると共に大佐に昇進した。次で大正七年、参謀本部欧米課長の要点に在り、
偶々シベリア出兵の事があつたので、福田参謀長に従つて二回迄シベリアに赴き、参謀本部
のシベリア主任として大いに画策する処があつた。

 其後少将に昇進して、彼のワシントン会議の随員となり、軍縮問題では氏自身言葉を藉りて
いへば『大いにあばれた』ものである。十五年三月、中将に栄進したが、ついこの夏の陸軍大
異動には砲工学校長から広島第五師団長に転任したのである。而して氏の如き順調なる経歴
を有する者は、所謂天保銭にも異数とせられ、従つて大に威張られる訳である。

 氏は一見如何にも武人らしい豁達精悍の気象が其顔貌に溢れてゐる。そして剛胆勁直にし
て胸襟磊落なる半面には、所謂『怒れば猛獣も怕れ、笑へば小児も懐づく』といふ柔かい感じ
で、軍人には珍らしい円満な常識の持主であり、又その如才ない態度と座談の雄者なる事は
人も知る通りである。氏は団扇も使はなければ、煙草も決して喫しない。しかも客を遇する為ワ
ザワザ砲工学校の応接室に迄之を用意してある処など、些細な事だが、軍人に珍らしい小気
の利いた社交的な人であることを思はしめる。そして昼飯時など食堂から定食? のうどんを
取り寄せ、訪客にも勧め、自らもチユツチユツと遠慮なくやつて退けるといふ磊落さである。下
僚の将校や教官などが部屋にやつて来ても、上官下官といつたやうな厳しい裃をつけての応
酬ではない。恰も友人や知己に対するが如き優しい態度である。下僚が氏に心服し、恭敬して
ゐる所以も自ら肯かれるであらう。

 氏は非常なる精力家であり、朝起党の人であつて、千葉県の野戦砲兵学校長時代には、朝
四時頃に起きて、毎日東京市外中野の自宅から往復六時間の行程を日通ひしたものだとい
ふ。そしてその間電車や汽車の乗替が片道五箇所もあるのに、約一年半の長い間、とうとう貫
き通したといふので、今も尚ほ氏の精力主義は陸軍部内の評判とされてゐる。而して又、氏は
陸軍中将にして自ら自動車を運転し、現に甲種運転手の免状を持つてゐることも頗る珍とされ
てゐる。


富貴権勢浮雲の如き 頭山満氏

 『青年が世の中の流行を気にするやうぢやつまらん。若い者は世の風潮に逆行する勇気が
必要ぢや。魚でも激流に逆らひ、怒濤と闘つたやつは骨が堅くて本当の味がする。世の中の
改革も、激流怒濤に鍛錬された骨つ節の硬か青年でなけりや、大事を断行することは出来
ん。俺は若い時力が強くて、薪割りをしても、米搗をやつても、二人前の仕事をしとつたから、
行く行くは米搗にでもなつて、喰つて行かふかと思つてゐた位だ。喰ふ事などは一向考へたこ
とがなかつた。これは俺ばかりではなかつた。其時分の若い奴は皆んなさうぢやつた。西郷南
洲翁の言つたことに「命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ人間は始末に困るが、この始末に
困る人間でなけりや、国家の大事は共に語れん」といふことがあるが、こんな考への奴が今頃
幾人あるぢやらうかね。南洲翁も死んでからもう五十年―世の中も変つたもんぢやね』

 頭山立雲翁は少年時代から普通の仲間と趣を異にし、最初は手におへぬ乱暴者だつたさう
だ。併し何に感じたか、十四、五歳の頃から俄に態度が変り、別して両親に仕へて孝養を尽さ
れたさうである。『俺は二十四歳の時、獄中にあつて母の死に逢ふた』と言ふ時には、何となく
シンミリする。それが鬼をもひしぐ頭山翁だけに、一入他を感動させるものがある。その翁の
生たちを見た福岡市西新町の屋敷の一隅に、今も猶二本の大楠の樹が聳えて居る。翁は少
年の時、自らこの若木を手植ゑ、生ける者に物言ふが如くに『汝楠よ、霊あらば聴け。若し我
が前途大いに為すあらば、汝も亦栄えよ。汝が大空に其枝を拡げ、大地に其根を張つて他日
大樹となるの日あらば、我が運命も亦汝と共に栄えん。我が為に汝の生命を愛護せよ』と。し
かもこの楠樹、今や六十年の風霜を閲し、大空に向つてその雄大なる幹を伸ばし、シンシンと
枝を繁茂せしめてゐる。而して翁の福岡に帰省するや、先づこの大樹の下に至つて感慨無
量、暫し老樹を愛撫した後、父母の墓を展するといふことだ。忠臣は孝子の門に出づると云ふ
が、家庭に於ける頭山翁は実に孝子である。翁の長兄筒井亀来翁は今も猶生存して居るが、
頭山翁の筒井氏に対する態度の慇懃にして親切なる、他の見る目も羨やましいと云ふことで
ある。頭山翁は蓋しその長兄に対する時、往年楠の木を手植ゑした当時の少年の心になるの
であらう。

 翁と、死んだ野田大塊翁とは、経路は全然異るものがあつたが、同郷の誼みを以て多年の
交情があつた。曾て両翁が東京に出づるや、当時一日相会ふて戯れに語つて曰く、『将来金
力と腕力とは何れが天下を取るか』と。大塊先づ一考して曰く、『金力の世の中ぢや』と。次で
立雲翁曰く、『否な、腕力の強か奴が勝ぢやね』と。互に相譲らず遂に他日を約す。此語亦以
て両者の片影を窺ふに足るものあらん乎。学識、技芸、才能、手腕、若しくは勲等、爵位、財
力、閥閲、そうしたものが現代に於ける人物測定の尺度である。

 然らば翁は其何れに依つて重きをなしてゐるかと云へば、その何でもない。純然たる天下の
浪人ではないか―而も此桁外れの翁が、一體何に依つて斯程迄に人心を惹き付けるのであ
らうか。譬へば無言の大樹、無心の巨石も、人の心を惹き付ける偉大なる力を有してゐるもの
である。翁に対する人心の働きは、或はそうした種類のものではなからうか。しかしそれだけで
は此の問題は解決されない。何故に大樹、巨石が人心を惹き付けるか。そして頭山翁の何処
にそうした偉大さがあるのか。そこ迄立入つて考へて見る必要がある。実に頭山翁の存在は、
余りに智巧に馳せる現代人に対する偉大なる謎であり、深刻なる諷刺であるが、筆者はその
謎を解くに、翁が名利を求めざる『一切無私の人』に帰したいのである。

 先達て世田ヶ谷の国士館に催された翁の七十三回誕辰祝賀会には、朝野各方面の人士が
千人以上も集まつた。洵に驚くべきことゝいはなければならない。これは果して何が為めであら
うか? 翁が国事に奔走した真相を知つてゐる者は、その内果して何人あるか知れない。が、
多くの人々に取つては、翁は何がエライのかさへ判らないであらう。併し唯何となくエライといふ
漠然たる人気―崇拝心が翁の周囲をしてかくあらしめるのであらう。

 『群峰を威圧して立つとる富士山を見ると、外の山は子供ぢや。何といつてもあの山は日本
一の霊山ぢやね』と嘯く、その言葉の中にも、翁の人格と一種の教訓とが含まれてゐるやう
だ。立雲と云ふ雅号は雲の上に立つと云ふことださうだ。世の富貴権勢を浮雲の如くに考へ、
超然として其上に立つ所、是れ即ち立雲頭山翁の真面目である。


東朝王国を背負つて起つ 緒方竹虎氏

 福岡県出身のジヤーナリストは可なり多い。殊に大朝、東朝の両朝日新聞は如何なる因縁
か、本県出身者が殆んど其の枢要の地を占めてゐる。大朝の方には編輯局長の高原操氏が
在るが、東朝の方には先づ同じ編輯局長の緒方竹虎氏、営業局長の石井光次郎氏、支那部
長の大西斎氏、何れも我県が生める新聞界の花形役者である。其他直接間接新聞事業に関
係ある人々を列挙すれば、殆んど枚挙に遑がないであらう。其中に於ても最も勝れたる人格
識見を以て、帝都の論壇に押しも押されもせぬ地位を築き挙げてゐる人が、我が緒方竹虎氏
である。

 氏は眉目清秀にして、しかも温容閑雅、其の風采と態度とは、人をして不知不識の間に敬慕
の念を起さしむるものがある。如何にも円満な人で、会つた感じが柔かい。『接人以春風、待
己以秋霜』とは氏の如き人をいふのであらうか。当年四十一歳の年壮を以つて朝日王国を背
負つて立つには、氏の才幹に加ふるに此重厚味が必要であらう。

 中野正剛氏とは中学時代からの学友で、早稲田大学時代には僚友三、四人と共に、一軒家
を借り、自炊生活迄して、同じ釜の飯を喰ひ合つた仲である。中野氏に続いて朝日新聞に入
り、中野氏はあの勢ひで直に政界に飛び込んで了つたが、氏は新聞記者を以つて自己の天
職となし、其後欧米を漫遊し、大正十年ワシントン会議の際の如きは、其健筆を揮つて大いに
論評、報道し、朝日新聞の権威をして益々重からしめたものである。帰朝後、大阪の本社に在
ること数年、再び東京朝日新聞に戻つて政治部長より編輯局長に進み、更に今春挙げられて
取締役の重職にも就くこととなつた。

 前回の総選挙、即ち大正十三年の護憲運動当時には、朝日新聞は盛んに護憲三派―殊に
政友会に同情ある筆を執つて之を後援したものであつた。然るに田中内閣、それも今春の総
選挙前後頃から、朝日の論調並に紙面の記事は、挙げて反政府的色彩を濃厚ならしめたも
のである。それも故ある哉で、現内閣の横車的人事行政の拙劣、選挙干渉、怪文書の頻出、
非議会主義の暴露、反動的行動、等々々に憤激したからである。しかもそれは公平なる輿論
を代表したものであり、国民の言はんと欲する所を道ふものとして大に人心に投じ、各方面か
ら歓迎せられたものである。

 『選挙干渉に恐るゝな』とか、『政府の威力に屈するな』、『利欲に迷ふな』とかいふ初号活字
の赤刷を挿入して、盛んに民心を啓発し指導した所は、流石に朝日の権威を発揮したものと
いふべきであらう。政府が之れに恐れをなし、種々なる言論の圧迫を試みたにも拘らず、終始
輿論の高調に努めて、朝野両党の勢力をして、かくも接近せしめた力は、確かに朝日の筆の
力亦与つて大なるものがあつたといはねばならぬ。しかも朝日王国の権威をして、かくの如くな
らしめたもの、亦以て温厚なる風【三をタテ棒が貫く】の裡に厳乎として動かす可からざる緒方
氏の気概の然らしめた所である。
 補助漢字区点=1613 16進=302D シフトJIS=88AB Unicode=4E30】

 『私は元来からいふと政友会の方が好きである。又田中首相とも嘗て三浦観樹将軍の家な
どで会つて、よく知つてゐるので決して悪い人だとは思つてゐない。しかしこの内閣は何かやり
さうで殆んど何も為し得ない。又人事行政を始めとして、やる事なすこと総てが輿論を無視した
ことばかりである。一體政友会は何処にか強い処があつて頼もしい所がある。思ひ切つた離
れ業をするといふ面白味のある政党である。然るに組閣以来の事を見ると、どうも予想してゐ
た処とは全く違つた事ばかりである。殊に無産諸政党に対する無理解なる圧迫、言論に対す
る反動的抑圧など全然なつてゐないのである。政友会にも今少し人物が居さうなものですがね
エ』と穏かな調子ではあるが、現内閣の弱点をチクリチクリと指す。『民政党は理屈屋揃ひで腹
のしつかりした人物に乏しい。優諚問題といひ、治安維持法の緊急勅令問題といひ、あれが政
友会が在野党だつたら大運動でも起す処でせうが、どうも民政党は上品過ぎる嫌ひがある。
慎重審議だとか何だ彼だといつて大事を取り過ぎて立上り方が手ぬるい。しかも立上つても其
腰がフラフラしてゐて弱いのだから始末が悪い』と、民政党の急所をも一寸突つく。如何にも公
平なる観察だ。

 『私の家は大體は岡山から出たものである。祖父は大戸といつたのであるが、大阪に出でゝ
緒方洪庵と一緒になり、当時洪庵は佐伯といつてゐたのだが、共に改姓して緒方の姓を名乗
り、義兄弟の縁を結んだものです。そして大阪で高知の山内容堂侯に仕へて侍医となつてゐ
たが、父の代になつて明治政府に仕へ、山形県の書記官(今の内務部長といふ処でせう)とな
り、後福岡県の書記官となつて、遂に福岡に永住するやうになつたものです。緒方洪庵の門下
には御承知の如く、福沢諭吉先生や広沢兵助、大村益次郎、久坂玄瑞などいふ人材が集ま
つてゐたものであるが、当時の大阪は舶来思想や新しい文明が一番に這入つて来た関係か
ら、色々の人物が各国から集まつたものでせう。かの普選運動の魁が東京に起らずして大阪
に起つたなどいふことも、或は維新時代からのさうした事情が一つの原因ではなかつたでせう
かね』

 それから又話題が飛んで新聞の事に移ると、『東京で資本の少い新聞が漸次没落して行くこ
とは洵に気の毒であるが、あれは大資本の新聞と同じ新聞を作らうとするのが間違ひではな
いかと思ひます。どうしても、資本の少い新聞社は特色ある、型の変つた新聞を作るといふ事
が、読者をつないで行く上に於て最も大切なことではないかと思ひます』と。

 氏は人格の人であり、徳望の人である。その道楽を強ひていへば、内外の書籍雑誌を読む
こと位で在るらしい。従つて氏の応接間には和漢洋の書物が金色燦然として輝いてゐる。撃剣
は以前には盛にやつたものださうな。今は運動といつても直ぐ近くの戸山ヶ原を散歩するくらい
の事だといふ。しかも大東朝を背負つて立てる氏には、日曜日とても殆んど訪客の絶え間がな
いやうだ。


洋画壇の麒麟児 和田三造氏

 天才がレオナルド・ダヴインチのやうに万能であるべきものとすれば、氏のやうな人こそ初め
て天才といひ得よう。その多方面に亘つての才分は人を驚かすものがある。そしてその才分
は正に天賦のものである。洋画家としての氏は日本画にも相当の腕を持つて居る。又美術以
外の事で更沙の製作など殆ど他の追随を許さぬものがある。一見書生然たる風采であり、洋
画壇の大家などとはどうしても受取れない―洒々落々たる態度である。そして奔放不羈な性格
と態度との裡に如何にも溌溂たる活動力が充満してゐて、とても四十四歳とは踏めない若々し
さだ。

 氏は福岡市船津町に生れ、中学を中途退学すると共に上京を思ひ立つたが、厳父が不同
意の為め遂に徒歩で東海道を上つたといふやうな奇行も残つてゐる。明治三十八年東京美術
学校を卒業すると同時に、その秋白馬会展覧会(其頃は今の帝展などはなかつた)に『晩帰』
を出して白馬会賞を得、二十一歳にして一躍画壇に其名を馳せた。処がその『晩帰』を恩師故
黒田清輝画伯の斡旋で松方正作氏に時価六百円のものを三百円で売つた処が、その真の買
主は松方家と姻戚関係のある天下の大豪商岩崎家だといふ事が分つた。その門閥利用の非
紳士的行為に内心をだやかならず思つてゐた折柄、岩崎家から『請求書を出してくれ』と云つ
て来たので、氏は内憤一時に勃発して、『何だお前の方で是非売つてくれと云ふので売つてや
つたのだ。それに請求書を出せとは何事だ。しかも画代を値切らんがため、天下の大富豪が
権門の名を利用するとは何事だ。かうなつては何十万の金を積まうと、売ることは出来ん』と啖
呵を切つたので、忽ち当時の新聞に其侠骨を謳はれたこともある。

 それだけの腕を有ち乍ら氏の製作は年に二枚か三枚。無暗に作品を売らないのが氏の信
条である。『東京だけでも此頃では年に一万から絵がハケるさうです。絵はまさか喰ひ物では
あるまいし、そんな乱暴なことをしてゐては、何処かに必ず無理が伴なはなければなりませ
ん。表装迄も自分でして売る奴があるさうですから呆れ返るではありませんか。下手な小説書
きよりも世に害毒を流すことはまだ少いかも知れんが、不生産的な絵かきを沢山拵へると、こ
んな不自然なことも起ります。それに芸術的良心からではなしに、単に暖衣飽食のための生産
過多ですから、私一人位は却て描かないでゐた方が世間の為にいゝだらうとも思つて……』と
は氏の偽はらざる告白である。しかし乍ら徒らに作品を売つて、生活の資に充つるといふ様な
邪道を踏まなかつたことが、却て氏をして今日の位置あらしめたものではあるまいか。

 『専門外の漢文、英語、仏語等も字引まであゝして備へて時々読んでゐますが、専門の絵の
方は少し口幅つたい様ですが、我れより祖をなすつもりで殆ど目を通したことがありません』と
いふ。以て氏の抱負を窺ふべきではないか。今回の御大典に際して、福岡県下の教育界から
献納した『元寇襲来』の絵は実に氏の筆に成つたものである。中野正剛氏からも既に八年前
に王陽明の画像を依頼されてゐるが、『伝習録』其他を大分研究して見たが、未だ王陽明の
全人格が頭の中にハツキリと浮んで来ぬので、玄洋社時代からの同氏の知己に感謝しつゝ
も、まだ筆を執ることが出来ないといつてゐる。又以て如何に氏が彩筆の上に於ける用意の
周到なるかを想察すべきであらう。

 氏は最近我国の色彩が混乱して不統一なることを慨嘆し、日本標準色協会なるものを創立
して、十万有余の色彩を精査厳選し、先づそれを系統的に五百色に還元した上、更に家庭用
としては二百五十色に要約して、染色芸術界の革命を招来すべく大いに努力しつゝある。


闘志満腹の九郎判官 中野正剛氏

 民政党に於ける弁論の雄であると共に、今では無くてならぬ幹部の重要な一人となつてしま
つた。安達氏の懐刀であるが、若槻内閣時代から党の宣言、報告書等は一切氏の手にならな
いものはないといはれてゐる。

 氏は玄海灘の浪、見るに胆を冷やし、又鉱山師の豪奢なる生活に依て活気づけられる、福
岡の街に育つただけあつて、女性的な処は薬にしたくもなく、飽迄も男性的な快男児だ。若し
氏をして古の人に其儔を求めたならば、或は九郎判官義経の如きは、蓋し其比喩に於て甚だ
しき間違ひがなからん乎。敏捷で活溌で、時に噛みつかんとするが如き風を示すことがある。
先年左足を手術して、とうとう一本足を失つて跛足になつたが、当年の元気は失せる処か却つ
て百倍。『中野は足一本位ゐで意気の挫けるやうな男ぢやない』と豪語し乍ら、当時病院から
飛び出したものであつた。

 氏は明治十九年二月生れで油の乗つた男盛り。修猷館中学を卒へて早稲田大学政治経済
科に学び、卒業後直に操觚界に入つて東京日日新聞、及び東京朝日新聞に筆を執つた。而し
て氏は学生時代から天才的の輝きを示して、夙に凡庸の器にあらざることを認められたが、朝
日新聞に入つた後支那に渡り、次で維新後の人物を論評して一時に文名を走せ、雪嶺三宅
博士の愛嬢を迎へて一世の羨望の的となつた。後朝日新聞を辞すると共に独力『東方時論』
を創刊し、縦横の筆を走せて、政治に外交に、経済に社会に、氏一流の天馬空を行くが如き
活気溌剌たる論策を試みて、新進評論界の第一者として正に花形役者の観があつた。

 曾て政界への初陣には、財力と人望とを兼ね備へた松永安左衛門氏を相手として花々しく
決戦し、恰かも金沢市に於ける中橋対永井氏の如き好対照として、其一事は世人の注目を引
いたこと非常なるものがあつた。爾来衆議院議員に当選すること既に三回。最早氏の中央並
に地方に占め得た政治的地歩は何人も之を如何とも為し能はざる迄に鞏固なものとなつてゐ
る。現に先年の議会に於ける田中政友会総裁の機密費問題以来、政友会内閣では今春の総
選挙、又は其他機会ある毎に、氏の選挙区に種々なる画策を試みたが、却つて手を付くれば
付くる程、益々反撥されて不利を招くといふので、今では氏の為す処に委して、唯々袖手傍観
の外なきものとされてゐる。

 氏が若槻内閣の大蔵参与官に補せられた際、世間の一部では之を以て聊か畑違ひの感を
以て迎へたものもあつたやうだ。併し乍ら氏は外交問題、殊に支那問題の実際権威として知ら
れてゐるが、其反面には寧ろ財政経済問題を得意としてゐるやうで、氏が今日迄渉猟せる雑
誌書籍等の如きは、却つて外交問題のそれよりも、多数であるとさへいはれてゐるやうだ。之
に依て見るも氏が大蔵参与官たりし事は決して畑違ひでないのみならず、氏に取つては寧ろ
得意の壇場であつたかも知れない。兎に角、外交と財政問題とは由来政治家に取つて最も難
物視せられ、その一に通ずることすらも頗る困難とされてゐるが、此の中野氏が、政治家登龍
門とせらるゝ財政と外交とを兼ね備へて、現政界に馳駆することは正に鬼に金棒とでもいふべ
きであらう。

 中野氏はかねて頭山翁に私淑してゐるやうだが、翁の偉大性は尽忠報国の一念にある。名
聞利達の超越にある。それは学問や修業から来たのではなく、正に天の降せる国士中の代表
的人物であらう。然るに中野氏には学問もあり識見もある。そして天稟の閃きがある。その閃
きが動もすれば率直であり、大胆であるだけ、時に依つて図らざる敵をも作り、又謂はれなき
誤解をも招くこともあるやうだ。併し乍ら『喬木は風に当り易し』―即ち氏が政界入り後の躍進
振りは余りにも目覚ましきものがあつたのだ。故にこの比喩が、或は氏の善悪何れの批評に
対しても、総てを解答するものではなからうか。之と同時に敵に向つて強い者は、味方に取つ
ては頼もしい人物だ。故に此一語も当然氏を評する上に於て必要なる辞句でなければなるま
い。

 氏は知己天下に普く、独り政界といはず、浪人や志士仲間にも其交友の多きを以て知られ
てゐる。之れ又普通の政党人に比して氏が弾力の頗る強い所以であらう。

 現に民政党の幹部として政界に馳駆する外、九州日報社長として、北九州に新聞トラストの
網を張らんとしてゐる。

 才気縦横にして且つ野趣満々。敢て功を急がず、節制自重して堅実なる歩みを続けて貰ひ
たいものだ。


厳然たる国士の風格 内田良平氏

 黒龍会―内田良平―の名は一部の新しがり屋には大分誤解されてゐる様だが、滔々として
物質主義の文明に趨らんとする末世的世相に慨して一片耿々の志已み難く、飽迄も日本固有
の精神主義に立脚して世の毀誉褒貶と闘はんとする処に、氏及び氏一派の真骨頂があるで
はないか。明治七年二月十一日、即ち紀元節の佳辰を以て福岡大円寺町に生れた。而して其
処は旧藩時代浪人の巣窟といはれた浪人町の隣町で、氏が云ふ如く『どうも生れつき浪人生
活に縁故があつた』のである。当仁小学校を卒へた頃、鉱山業の失敗から一家一門挙げて破
産の悲境に遭遇したので、雑餉隈で郡役所の給仕となつた。

 氏は幼名を良助といひ、中頃甲と称し、後良平と改めたが、小さい時は『育つかどうか分らな
い』といはれた位虚弱だつたので、十五歳の時再び福岡へ引戻され、叔父平岡浩太郎氏の家
に養はるゝことゝなつた。そして儒者辛島並樹先生の門に入り、漢学を修め、傍ら玄洋社に入
つて武術を練つた。之が氏が表面の学歴の全部であると共に、将来武道の大家として、且つ
先憂後楽の国士として立つに至つた揺籃である。十六歳の時、天真館道場を起し、十七、八
歳にして叔父平岡氏と安川敬一郎氏の共同経営にかゝる田川郡赤池炭坑に入り、所謂『切つ
たり刻んだり』の荒くれ男の仲間に介在して、之を統御するの術を覚え、遂に一個の『男』とし
て認めらるゝことゝなつた。そして当時の環境や事業やが、実に氏が一生の性格を陶り上げ、
又それを支配することゝなつたのである。

 十九歳の時、平岡氏に伴なはれて初めて上京し、故副島種臣伯の東邦協会に入つて露語を
学び、且つ小石川の講道館に通つて更に武道に精進した。そして後年講道館流の武道を初め
て福岡へ輸入したのも実に氏の力に俟つのである。かくて明治二十七年春朝鮮に東学党の乱
が起るや、氏は僅かに二十一にして大原義剛氏其他の同志十五人と共に朝鮮に押渡り、天
佑侠なるものを組織して、内政改革に対する一揆の義挙を助けた。之が抑も後年氏が日韓合
併の主唱者となつた遠因なのである。三十四年アジア民族の振興を図る目的を以て黒龍会を
組織し、或は日露の開戦を主張し、或はポーツマス媾和条約に反対して国民大会を起し、又
伊藤公のハルビンに暗殺せらるゝや、直に政府を説いて日韓合邦の議を内決せしめ、之が合
邦に対して内面的の大功蹟を著はし、次では印度の志士ボース、グブタの両氏が英国政府よ
り圧迫されて日本より退去問題の起るや、之を庇護して安住せしめ、其他対支、対露、対米等
の諸問題が起る毎に率先奮起して国事に奔走しつゝあるのである。

 而して此間実地踏査の結果著はした『露国東方経営部面全図』は縦横六尺五寸の大地図に
して、日露開戦に当つては、我が参謀本部の重要地図として顕著なる働きをなした物である。
尚ほ今日盛んに行はれてゐる西郷南洲の伝記等も、明治四十四年同会より発刊された『西南
記伝』全六巻が実にその濫觴をなしたものであつて、当時徳富蘇峰氏の如きは其内容の精密
豊富にして故大久保公の日記等迄も巨細に示されてゐるのに対して、歎賞禁じ得ざるものが
あつたといはれてゐる。『私共は政党には何等関係のない者である。況や政治は其位に在ら
ざれば紊りに之を論ずべきものではない。故に政治を彼是いふ訳ではないが、今日の政治や
世相やは黙つては見て居られん。まあ私共は和様でいへば心配屋、唐様でいへば憂国家とい
ふ訳ですタイ。それに日本の国は元来が徳主法従でなければならぬのに、此頃は一切合切法
主徳従になつてしまうとる。之では日本の建国の精神も全く亡びる一方ぢやから、之が為めに
は一生粉骨砕心を辞せん考へですタイ』と。

 氏には其名著『武道極意』の外、更に幾多の論策があるが、黒龍会を経営する傍ら、目下大
阪市外豊島村に養正義塾及び内田園芸場とを営んで居る。而して銀髪棗顔、国士の風格厳
然たる氏の気魄は時俗の上に毅然として納まつてゐるが、その半面家庭に於ける氏は、その
訪客や家人との応対等にも、『なアーなアー』の福岡弁丸出しで如何にも慈父の如き感があ
る。


鉄道の電化を双肩に荷ふ 増永元也氏

 鉄道省電気局長増永元也氏は明治十四年、八女郡福島町に生れた。修猷館を出で、五高
から東大工科へ入り電気工学科を卒業した。由来官界では法科万能であるが、氏は初めから
鉄道を志して自ら進んで工科を選んだのである。五高時代から有馬家の貸費生となつて大学
を出た。氏自身の告白によると、学生時代には家庭教師や商売をやつたこともあるといふ位
だから、親のスネを囓つて大学を出た連中とは自ら其径行を異にするものがある。そしてかう
した話を率直に物語る処に、氏が苦労人としてのゆかしさと淡白さとが見出されるではない
か。

 大学を出るや否や、鉄道省の作業局に入つて汽車部勤務を命ぜられ、月給五十円を給せら
れたのがその出発点である。爾来精励恪勤、氏自身の謙遜した言葉を借りていへば『鰻登り
でやつとこゝまで来た』のである。先達て鉄道省在職二十年の功賞を貰つたさうなが、今では
本省に於て無くてならぬ枢要の一人物となつてしまつた。大正三年の七月、恰度欧洲戦争の
始まつた際に鉄道事業研究のため米国及びドイツへ一ヶ年の留学を命ぜられた。氏が米国か
ら鹿島丸に投じてマルセーユに赴くや、ドイツ潜航艇が跋扈跳梁を極めたので、一時鹿島丸は
陥没を伝へられ氏も亦地中海の藻屑となつたと伝へられた程である。滞欧中にも飛行機や飛
行船の爆弾投下に出会ひ、生死の思ひの境を越えて来たのである。

 『凡そ人間がこの世の中に何の為に生を享けてゐるか分らなくて、無我夢中で暮してゐるの
は洵に無意義である。我々の體は細胞の有機的結合によつて支持されてゐる。人間の體に
於ける細胞の如くに、人間も亦国家に対しては一つの細胞であり、此理を拡大して国は世界
の細胞であり、世界は宇宙に対する細胞であるといはなければならぬ。而して人間が国家社
会の一細胞として、各其職分を忠実に果し得るに至る迄には、国家社会は勿論、天地宇宙の
自然より多大な恩恵に浴してゐるので、是等の恩恵に酬ゆることは当然の事である。人間は
義務が主體で、義務を主として権利を従として考ふべきであるといふことを私は信条としてゐま
す』とは、氏の処世観の一齣である。流石は苦労人だけあつて、その処世観も円満であり、頗
る常識的ではないか。

 氏は現に在京久留米同郷人の組織する『久友会』の幹事長として会務を斡旋し、又八女郡
郷友会の首脳者の一人として後進の為に大いに面倒を見てゐる。氏が将来代議士として政界
に打つて出るか否かは未だ疑問であるが、鉄道次官たるの日も何れ遠からぬものがあるの
で、仮令他の推す処となつても氏の円満なる人格は今暫く官場に在つてその驥足を暢ばすこ
とゝなるであらう。

 尚ほ鉄道の電気化計画は時代の要求であつて、今後此方面に於ける氏の手腕に待つもの
甚だ多きものがある。即ち目下鉄道省が電化の計画研究中のものを挙ぐれば熱海、沼津間
と、大津、明石間の東海道本線を始め、福島、米沢間、赤羽、大宮間及び山陰線の豊岡、鳥
取間、其他十数線があるさうだが、之が電化に就ては、氏の手腕と力量とに待つものが甚だ
多い訳である。我等は今日官場に於ける県出身有力者の頗る乏しき折柄、氏の大成を衷心
から祈る所以である。


體は太くても細心周到な人 坂井大輔氏

 衆議院議員の在職年限は、茲にいふ迄もなく議院法に依て、明かに満四ヶ年といふことがチ
ヤンと明記してある。であるにも拘はらず大正十三年一月補缺選挙に当選して以来未だ満五
年に満たざるに氏は既に当選三回に及んでゐる。普通の勘定からいへば十年近く(尠く共八ヶ
年有余)代議士を勤めてゐなければ三度び代議士に選ばるゝことは困難な訳であるが、氏は
大正十三年の補缺選挙に初めて当選して以来、同年春の総選挙に再度当選し、田中内閣の
解散総選挙に依て三度び当選の栄冠を荷つたのである。世には十年一日の如く選挙に立候
補し、而して其間やつと一回当選するか否かさへ頗る困難な者が多い中にあつて、氏の如き
は実に選挙界に於ける幸運児といはなければなるまい。

 明治二十年十月、福岡市鳥飼町六本松に生れた。修猷館中学を卒へた後、早稲田大学に
入り、政治経済学を修めたが、柔道の方は其時分から大いに認められたものである。早稲田
大学卒業後、米国に赴き、柔道の先生をする傍らワシントン大学に入り、政治、社会問題等を
も研めた。次で西北部の農事など視察した後渡欧して、巴里媾和会議や、欧洲諸国を遊歴視
察する処があつた。かくて帰朝後は更に頭山翁や故野田大塊翁の提嘶を受け乍ら各方面に
奔走しつゝあつたが、大正十年ワシントン会議の開かるゝや、加藤全権の一行に従つて再度
渡米し画策奔走する処が尠くなかつた。

 そして帰朝後は潜かに政界へ進出すべく其機会を窺つてゐたが、機は熟して大正十三年一
月鮎川盛貞氏辞職後の小倉市の補缺選挙に際して政友会より推されて出馬し、見事初陣に
当選して多年の目的たる政界入りの願望が叶つた。爾来、政友会の本部幹事又は院内幹事
たる事両三回、其間例の第五十二議会では所謂『暴行代議士』の名に依て一時に其名を喧伝
さるゝに至つたが、当時議会に於ける言論自由の美名に隠れたる似而非国士の横行に対して
は、所詮氏等の行動の強ち無理でなかつた事が恕せらるゝであらう。

 氏は柔道三段の腕前で體格も頗る堂々。曾て横田千之助氏の在世中、熱海に於ける内田
信也氏の別荘にて両氏浴槽を共にするや、其際横田氏は氏の體格の偉大なのを羨望して『坂
井君、君の體の半分だけ自分にあれば、天下をグラグラさせてやるんだがなア』といつて歎声
を発せしめたほどであつた。氏は左様いふ體格の持主であるだけに、一部の人からは一見頗
る粗暴の如くにも思はれてゐるやうだが、氏の性格は體格のそれとは反比例して、一部から
は却つて細心周密の人であるともいはれてゐるやうだ。従つてあの図體の大きいのに似ず、
党の幹部や各方面を絶えず奔走して、なかなか如才のない処をも発揮してゐるやうである。曾
て氏自ら語つた処に依れば、『生じつか学問なんかせん方が宜かつた』といつてゐたが、曾て
列国議会同盟会議にも参列した外、米、支両国には屡々遊んだだけあつて、海外の事情にも
可なり精通し、政友会では得難き闘士として可なり其将来を嘱望されてゐるやうである。


閑野に長嘯して雄心勃々たる 杉山茂丸氏

 杉山茂丸翁―といふよりも其日庵主人、といつた方が一部には通りがいゝ位、其日庵の雅
号は世に知られてゐる。『其日庵の由て来る処は如何』と問へば、『明日の事を考へず朝暾暮
照の内、人間は其日々々の事を立派にやつて行けば宜い―といふ考へから付けた名前だ』と
ある。中渋谷は頭山翁の邸に程近き処、門扉や玄関あたりの様子から見ると、如何にも隠士
のさゝやかな茅屋のやうに思へるが、中に這入つて見ると、裏庭に面した翁の居間まで通るに
は、廊下を七曲り位してやつと着く程広々とした家だ。大震災の際は築地に邸があつて、翁の
珍蔵品は全部一炬に付せられてしまつたが、其後或る奇篤家の厚意に依て無家賃同様で此
家に住まつてゐるといふことである。裏山の立樹が鬱蒼として自然の儘なるのもなかなかに風
情があつていゝ。

 往年国事に奔走して政界の裏面に活躍し、殊に日清日露の二大戦役の前後に際しては、要
路の大官の帷幄に参して奇策縦横、遂に偉功を収めたことは尚ほ人の知る処であらう。『私は
早熟だつたので、若い時は活動したがもう今日では油が切れかゝつて駄目ぢやよ』とは翁の虚
心坦懐なる告白である。しかも翁は今や閑野に長嘯して衣を千仞の岡に振ふとはいへ、未だ
昔日の壮覇心は全く失せずして、天下一たび事あらんか、慨然起つて国事に奔走せんとする
の意気は老来尚ほ掩ふべからざるものがあるやうだ。

 『智者は愚者を教へ、富者は貧者を賑はし、強者は弱者を扶ける、これが人間の道である。
然るに今の世の中は其反対で、智者は愚者を惑はし、富者は貧者を虐げ、強者は弱者を鞭う
つといふ有様である。之では犬や猫などの動物の世界とは全く異る処がない。動物は考へると
いふことを知らない。従つて信念とか愛情とかいふものは全然零だ。此意味からすれば或は
動物は科学の極致であるかも知れないが、しかしそれでは人間の人間たる価値がないではな
いか』とボツボツと、言葉の調子は穏かではあるが翁一流の気焔が揚がる。

 『平等思想のやうなものも、人間の本性を無視したものであつて、人間は誰でも平等といふ
のなら進歩もなければ向上もない。生れつきの性質が第一違つて居り能不能に優劣があるの
だから、平等思想は出発点に於て根本に間違つてるといはなければならぬ。現に平等思想を
鼓吹してゐる連中だとて、金持になりたい、出世がしたいと思はない奴は一人だつてないのが
何よりの証拠であらう。即ち他人は平等であつても自分一人は不平等を希望して居るではない
か。ロシヤのレニンは「目的は手段を正化せしむる」といつたが、彼等のやつてゐることも大間
違ひで、人間の本性にさからつた不自然なる平等を実行せんがため、有史以来曾て見なかつ
た虐政を施してゐる。これが学問の理窟に合つてゐると信じてゐるから恰で問題にもならん。

 彼等は世界一国主義の下に世界国の建設を思ひ立つたが、人間は動物とは違ふ。動物に
は国籍がないが、人間には夫々固有の民族性、信念、愛国心等があつて、到底一つに纏まる
べきものではない。物事といふものは総て程度の問題であつて、世界国の建設などとは夢にも
及ばない事だ。左様いふ突飛なことを主張する彼等はどうだ。やはりソヴイエツトロシアといふ
国をチヤンと打ち建てゝ、行ふことは言ふことゝ全く矛盾した事をやつて居るではないか』と。

 流石は明治大正年間の蘇晋張儀といはれた人だけあつて、快弁流るゝが如しである。翁が
世に座談の雄と称せらるゝのも故ある哉だ。話頭は更に一転する。『今の政党屋の連中がや
る事は、真面目には見て居れん。国家本位よりも党本位、党本位よりも人本位、利害本位とな
つてゐるのだから鼻持ちがならない。田中(首相)とは古い友達だから大いに助けたいと思つ
てゐたが、あの男にも殆んど愛憎が尽きた。対支問題にしても何にしても、あれの顔を見て居
ると、何を考へてゐるのかサツパリ判らない。頭がカラツポだ。やることなすこと危くて見ては
ゐられないのだ。此間もあれに対つて「もう政友会も一つ思ひ切つて解党して出直したらどう
だ。政友会といふ政党は、之を木に譬ふれば最早花が咲いて、実が成つて、腐れかゝつたの
も同様だ。政界の大掃除をするため此際思ひ切つて、解党して新しく出直して来い」といつて置
いたが、どうも彼にはやり切れそうもないやうだ。』

 『共産党狩りのやうなものも、隅田川の水をバケツで汲み上げるやうなことをして全く沙汰の
限りぢやよ』といつて、寧ろ信実味の多い、浜口総裁の人物を推賞する処があつた。翁は田中
総理とは同年の六十五歳ださうなが老来の意気は尚当るべからずだ。博多湾築港問題も、例
の杉山案では福岡市をして英国のリバプールの如く、一大工業都市とせんとする百年の大計
より成つてゐるのだが、福岡市案の方では、単に商港として福岡市相当の事をやらうといふの
だから、長年に亘つて解決が付かなかつたやうだが、それも此間両者の妥協案が出来て遂に
解決を見た。

 同じく大浪人であつても、頭山翁が静的なのに反して其日庵主人は動的である。そして種々
なる画策の閑余には自らペンを執つて『百魔』其他の著書も数種ある程だ。しかも斗酒猶ほ辞
せざるが如き面相をして、生来一滴もやらないといふことは、頭山翁のそれと相俟つて洵に奇
とするに足るであらう。


奇人の名ある、肇国会の頭目 末永節氏

 夫は二昔前の事―支那革命に敗れた大立物孫逸仙と黄興が壮図空しく我国に亡命した事
がある。この孫、興二人と早くより交友を訂し、支那革命の壮挙に参画して両者を提携握手さ
せ、遂に今日の中華民国の樹立に与つて力あつた者が即ち我が高麗山人末永節翁であつ
た。明治三十五、六年の頃である。福岡西中洲の天真館道場に長髪炯眼の壮士がゴロゴロし
てゐた事がある。

 支那革命の旗挙に敗れて亡命した孫中山、狼嘯月(末永節)、滔天(故宮崎寅蔵、今の宮崎
龍介の父)其他、乾坤一擲の覇業を抱いて空しく帰つた支那革命の志士の一味であつた。事
志と違ひ陋巷に蟄伏する燕趙悲歌の士の姿は、今尚ほ福岡人士の間に鮮やかなるものがあ
るであらう。しかも孫文が当時書いた『白虹貫日紫気滔天』の語は尊い記念として今尚天真館
に遺されてゐるが、爾来星移り物変つて春秋茲に二十余年、孫文逝き、黄興倒れ、滔天又世
を去つて、狼嘯月独り高麗王国の建設を高唱して、青山原宿の陋居に気を吐いてゐるのであ
る。

 翁は旧黒田藩士として明治二年十一月、福岡春吉町に生れた。晴好小学校を卒へると共に
正木昌陽先生の塾に約一年半余り漢学を修め、次で福岡中学に通つたが、僅か一年半の間
に三度び落第したので『到底成業の見込なし』との理由で放校されて了つた。それより浜野道
場に於て柔道、撃剣等を修練してゐる内、夙くも東亜の経略を思ひ立ち、先づ之を遂行するに
は支那、朝鮮等の事情を探るに如かずとして船乗りを志願し月給八円の水夫になつた。之が
『後にも前にもタツタ一度月給を貰つた経験だ』といふ。そして日清戦争後にはシヤムへ押し
渡り、其間孫文等と相識り、爾来翁が尋常の尺木を脱した覇気と奇才とを以て奔走馳駆し、遂
に支那革命を遂行すると共に更に南北満洲、内外蒙古及西伯利を打つて一丸とする高麗一
大自由国の肇造に其後半生を挺身してゐるのである。

 『私の事なんか書いても一向詰らん。それよりか筑前の自慢話でもしよう』とて其余技とする
篆刻の手を休め乍らお国自慢に気焔を吐く。『筑前の人情気風等は黒田から始まつたもので
はなくて、ズツと昔の昔から自然に伝つたもので、黒田は却つて昔からの遺風に風化されたも
のである。日本の歴史を書くには何としても筑前を逸する訳には行かんが、宗教史も文明史も
経済史も皆んな博多から始まつて居る。之が博多といふ語源の出処だ。遣唐使が出入したの
も一切博多からだつたし、朝鮮支那の文物は一切太宰府で宰領した上、中央政府へ持つて行
つたものだ。住吉神社の縁起は日本一の古いもので、同神社は文教淵源の神様であり、天皇
擁護、外難防禦、安産、浄化、武運、船乗等一切の神様である。元寇来襲の時、伊勢の神風
が吹いて来たといふが、二百里も離れた処からどうして遽かに暴風が吹いて来るものか。あれ
も実は住吉神社の神風なのだ。応神天皇は世界唯一の胎中天皇で、神功皇后の胎内に在ら
れた時から天皇の御位に即かれたのであるが、僅か何百噸位の船で皇后が三韓を征伐にな
つたのも、住吉神社の御告によるもので、然も安産されたのが天皇擁護の神様たる所以だ(と
て、一々文教淵源其他の神様たる理由を一々詳細に説明した後(日露戦争の時、バルチツク
艦隊が全滅したのも住吉神社と真一直線に当る海上であつて、此お宮を有する筑前は皇国の
存亡を握つてゐたのも同じ事だ。』

 『それから漢字を通俗化して日本文にしたのは貝原益軒で、伊勢の畝傍御陵の方位を決め
たのも益軒先生だ。足利尊氏が敗走して九州に下つて来た際も、宗像大宮司を説きつけて味
方にしたのが再興の始まりで、いはば日本一の大忠臣楠正成を拵へたのも筑前人だ。日本一
の大忠臣と大逆臣とを作つて、それを「自娯集」に書いて楠氏の忠烈を真先に顕彰したのも即
ち益軒先生だ。左伝の中の「晋文斉桓率諸侯朝於君子」の文句から徳川幕府は覇者の親玉
であるとなし、率先して盛んに勤王論を皷吹したのが亀井南冥先生で、頼山陽や高山彦九郎
等は其弟子の弟子だ。

 それから今日鉱山業の始まりをなした金銀の吹き分けを輸入したのも博多の神屋宗湛の祖
父である。又日露戦争の際、国民輿論の総元締をしたのが頭山満で、其時当面のロシヤ大使
を勤めてゐたのが栗野慎一郎。時の外務省を切廻してゐたのが当時豪傑で通つてゐた政務
局長の山座円次郎で、アメリカを円め込みに行つたのが金子堅太郎だ。それから実業家方面
で羽振りを利かして、「戦争に要る金や石炭ならいくらでも叩き出す」と豪語してゐたのが平岡
浩太郎だつた。そこで前に話したバルチツク艦隊の全滅といひ之といひ、日露戦争は筑前人
がおつ始めて最後の始末をも付けたやうなもんだ。しかし筑前人の右のやうな事業や活動も、
後ろに筑後といふ大宝庫を備へてゐるからのことで、筑後には昔からなかなか底知れぬ力が
残つてゐるやうだ。之も調べて見たら却々面白い事が埋まつてると思ふよ』―と、やつとの事
で一先づ話に鳧がついた。

 翁は資性飄逸にして奇才縦横、而も武芸百般に通じ詩を賦し書を能くする。殊に篆刻の妙に
至つては優に玄人の域を摩し、家内のあらゆる器具で翁の彫刀を受けないものはない位、初
めて翁を見る者は篆刻が本業かと思ふ程である。実に翁の如きは所謂『士遊於芸』といふも
のであらう。而も陋巷に蟠踞して支那浪人等と縦横の論議をなし、壮心猶失せざる処、真に国
士の面目躍如たるものがある。而して翁は最近頻りに福岡離宮設置論を各方面に提唱しつゝ
あるが、其詳細の事は他日に譲ることゝしよう。





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