東亜先覚志士記伝 |
|
* 引用文中には、今日では差別語・不快語とされる言葉が散見さ
れる。以下では、原文通りに紹介・引用するという原則にもとづき、
一切改変を加えなかったことをお断りする。
|
|
本城安太郎 (玄洋社、東亜)
万延元年福岡藩士の家に生れ、年少の頃より越智彦四郎の愛撫を受け、夙に稜々たる気
骨を以て異彩を放つた。明治九年十七歳の弱冠にて越智彦四郎の旨を承け、東京に上つて
機密の任務に奔走したが、是れは越智等の一党が鹿児島私学校党に策応して事を挙げんと
する準備行動であつたので、後ち計画が暴露するに及び捕へられて獄に下つた。この獄中生
活は従来学問を軽んじて顧みなかつた彼に一転機を与へることゝなり、獄裡で同獄の古松簡
二等の手引きにより真に血となり肉となる学問をしたのである。出獄の後ち学問益々進み、日
本新聞の起るに際し入つて記者となり、三菱経営の高島炭坑の坑夫虐待問題等に活躍し、次
いで明治二十二年仏国に渡航した。巴里在留中も彼れ一流の気骨を発揮し、或日市中を散
歩中、手綱を放れた奔馬が街頭に現はれて往来の巴里ッ児を驚かし、老幼男女が右往左往
して逃げ惑ふて居るのを見掛けるや、彼は大手を拡げて往来に立塞がり、荒れ狂ふ馬の平頸
に抱き付いて見事に之を取鎮め、日本人の侠勇としてその名を仏京に轟かせた。滞仏中偶々
大隈外相が爆弾を投ぜられたとの報道に接するや『刺客は玄洋社の者だらう』といつたが、詳
報の達するに及び果して玄洋社の志士来島恒喜の所為なることが判明した。当時仏国公使で
あつた陸奥宗光は彼の予断の的中したのに驚き、その訳を質すと『国権伸張に最も意を注ぐ
者は玄洋社である。今度の条約改正の如きは玄洋社志士の断じて忍ぶ能はざる所であるか
ら、彼等がこの挙に出づることは予想するに難くない。能く彼等の情を知つてゐる僕の予言の
中つたのは当然である』と答へた。陸奥は『さうか』といつて爾来玄洋社をひどく怖れるやうにな
つたといふ。巴里滞在中社会党員と名乗る男と議論の上から大格闘を演じて負傷したが、彼
が日本から持参した日本刀を引抜いて立向つたので、その男は吃驚仰天して逃げ去つたとい
ふ逸話もある。帰朝の後ち川上操六大将の知遇を受け、明治二十五年その内命で支那の芝
罘方面に赴き特殊の任務に従ひて活躍し、日清開戦となるや陸軍通訳官として従軍、戦に臨
む毎に腰の一刀を引抜き頻りに敵を斬り捲つてその勇猛振りを謳はれ、続いて台湾討伐軍に
従ひ新領土に入り、其後北清事変の時にも通訳官として従軍したが、日清役の時とは打つて
変つて絶えず支那人保護の為めに努めた。それは北清事変では支那は敵国でなく、之を保護
する為めの戦ひであるといふ見地に基くためであつたといふ。日露役当時には山東省龍口の
築港工事の為めに努力して皇軍の活動に資し、第一革命の際にも芝罘方面で活躍する所あ
り、黒龍会同人として対支聯合会、国民外交同盟会等にはその組織に与つて奔走し、爾来両
会の評議員として対支問題の為めに尽力する所尠なくなかつた。其間屡々支那に往来して更
に大に為す所あらんとしたが、大正七年春福岡に帰つて滞在中病に罹り、同年七月四日遂に
逝去した。年五十九。越えて十月十一日亡後百ヶ日を機とし在京の有志発起となり芝青松寺
で盛大なる追弔会を催した。その席上に於ける発起人の代表寺尾亨博士の弔辞は最も能くそ
の生涯を尽してゐるから左に掲げて本伝の足らざるを補ふことゝする。
★ ★
惟れ大正六年十月十一日在京の同人相謀り、故本城安太郎君及故安雄君の為めに追悼の
典を設け、謹みて其霊を祭る。君、有為の姿を以て処士の操を高くし、行蔵炳然終始一貫す。
而して其志一として東亜の振興を図り、帝国の皇猷に貢献せんとするに非ざるは莫し。是を以
て東亜問題の起るや、君必ず天下に率先して国論を鼓舞し、征清征露の二役の如き、身を挺
して戎旅に従ひ櫛風沐雨、軍国の務に当るを辞せざりし也。其後有志の対支聯合会、国民外
交同盟会を組織するや、君亦其間に奔走し、廟議を動かすに務めたり。
尋で袁世凱の専横を逞し、帝位を僭せんとするや、慷慨措かず、熱誠の溢るゝ所、自ら封事
を上りて誠悃を天【門+昏*】に愬ふるに至る。欧洲大乱以来、君再三支那に遊び、将に大に
為す所あらんとし、其志未だ報ゆるに至らず溘然として逝き、続て令嗣安雄君其喪中に歿す。
天命と云ふと雖も、何ぞ哀惜に勝ゆ可けんや。
【* 補助漢字区点=7018 16進=6632 シフトJIS=E3B0 Unicode=95BD】
君、天資勁悳。朋友に交りて信、義を見て勇に、難に臨みて苟くも免るゝことを為さず。平昔
報効を以て自ら任じ、隠然として重きを我同人の間に為せり。而して今や、父子共に其簀を易
え、幽明相隔つるに至る。
嗚呼悲しい哉。茲に同人相集り、清梁を薦め、詞を【テヘン+慮*】べ以て其霊に告ぐ。尚くば
饗けよ。
【* 補助漢字区点=3322 16進=4136 シフトJIS=9155 Unicode=6504】
(遺族、東京市牛込区弁天町一四二、本城郁子)
|
|
藤勝顕 (玄洋社、閔妃事件、鮮)
号は夢庵。勝敬の三男として安政六年十二月六日福岡春吉瓦町口に生れ、幼名は規矩太
郎、後ち勝顕と改めた。幼少の時、博多矢倉門の阿部伝蔵の寺小屋に通ひ、後ち住吉人参畑
の女傑高場乱の塾に於て漢学を修め、書道は大宰府の宮小路康文、浩潮に就て研修した。
特に武術に秀で剣道は吉留道場に、柔道は双水執流舌間望多の門に学んで共に免許皆伝
の域に達し、就中柔道は舌間道場の第一人者として師範代に推された。資性沈毅磊落にして
高士の風があり、夙に扶桑最初の禅窟聖福僧堂に居して同山の愚渓和尚に就て参禅し、和
尚示寂の後は後住東瀛禅師に参し、悟道見性する所があつた。
明治十三年福岡県会が開かれるや、記録掛となつて令名あり。其能筆を大いに嘆賞された
が、内地に跼蹐たるを潔しとせず、夙に朝鮮問題に志を抱き、明治二十八年の春同志と共に
韓国に渡航した。
明治二十八年十月八日の閔妃事件には其の事に参画し、中村楯雄と共に最も重要な役割
を果したと云はれた。一時広島の獄に投ぜられ、無罪出獄の後ち郷里福岡に帰つたが、韓国
政府は彼と中村の首に賞金一万円を懸けて之を獲んことを謀り、二回も福岡に於て刺客に襲
はれたと云ふ。後ち難を避け、雲水となつて諸国を行脚し、悠々各地の禅刹を尋ねて飄泊した
が、晩年は又た郷里福岡に帰つた。其の修道に縁ある聖福寺山内節信院に荘厳なる子安観
音を鋳造安置したことは往年の遭難者を追福供養する発願に出でたるものであつた。又た博
多の産土神たる櫛田神社に忠吉の銘刀一振を奉納し、『之れ韓王妃を斬つて爾後埋木となつ
たものなり』との旨を記し、当年の詠歌一首を添へた。
朝鮮にて二十八年十月八日の夜
入闥の時
我愛でし太刀こそけふはうれしけれすめら御国のために尽しつ
藤 勝顕 九拝
叱正
棒鞘一振 目釘穴一
一、忠吉ノ太刀 長二尺三寸 全長三尺
目方 二百五匁
銘ニ肥前国住人忠吉作八字
鞘ニ一瞬電光刺二老狐一
夢 庵 謹 識
身を挺して国事に尽した後は正に武禅両道一味の境地に達し、有志の請に応じて柔道々場
を開いて後身に教へたこともあつた。大正五年十一月十二日病んで福岡大学病院に歿した。
年五十八。
黙笑庵勝翁義淵居士の法名は聖福寺東瀛老師の授くる所で、博多下祇園善照寺の先塋に
葬られた。崇福寺境内の玄洋社墓地にも亦墓碑が建てられてゐる。
面白やあちらこちらも花の春 夢庵 |
|
友枝英三郎 (黒龍会、鮮、支)
福岡の人。夙に玄洋社に在つて切磋する所あり。明治二十三年平岡浩太郎が上海に製靴
店を開いて志士養成の機関とした時、その主任として渡支、島田経一、関谷斧太郎等は何れ
も其の店員として支那研究に従つたのである。次で米国に渡り遊ぶこと多年、後ち帰りて朝鮮
に赴き、黒龍会同人として内田良平を援け、其の設立せる朝鮮通信社長を托せられて日韓合
邦運動に参画尽力し、日韓合邦及び満蒙問題には尠なからざる功労がある。大正四年六月
病んで歿す。年四十七、八。京城龍山瑞龍寺内国士台に葬り、其の名は東京明治神宮前日
韓合邦記念塔内に録せらる。 |
|
大内義映 (玄洋社、東亜)
旧福岡藩士の家に生れ、初め名を山崎源三郎と称したが、後ち大内氏を嗣ぎ義映と改名し
た。年少亀井塾に入つて漢籍を修め、長ずるに従ひその学大に進み、且つ書を善くするを以
て知られた。十年の西南役当時には福岡の挙兵に馳せ参じた一人で、夙に大陸雄飛の志を
抱き、その幹部として上海に渡航し、自らまた支那語を学び支那事情を研究し、後ち福岡に帰
り、大隈外相の条約改正案が問題となつた当時などはその反対運動に大に活躍した。日清役
には陸軍通訳として遼東の野に転戦し、次いで新領土台湾にも従軍し、日露の役にも亦陸軍
通訳として梅沢旅団に従つて満洲各地に転戦し、所謂『花の梅沢旅団』の活躍に貢献する所
が尠なくなかつた。状貌魁偉の快人物で、斗酒尚ほ辞せぬ酒量を有し、円転滑脱の弁と飄逸
の奇骨を以て異彩を放ち、奇行百出、従軍中にも幾多の逸話を残した。その筆跡は雄渾を極
め、現に掲げられてゐる福岡玄洋社の看板は彼の筆に成るものである。又た千代松原に建て
られてゐる来島恒喜の碑も彼が揮毫したものである。明治三十八年九月大石橋に於て歿し
た。齢四十九歳位。
(遺族、福岡市春吉七番町、川端永津常泰方、大内隆介) |
|
小野鴻之助 (玄洋社、満洲義軍)
明治七年七月十四日、福岡市荒戸町に生る。旧福岡藩士小野新路の二男。小学校卒業の
後福岡県立修猷館中学に入り、学業優秀を以て称せられしも、三年級の時、同級生一同の怨
嗟の的となれる数学教師某を教室内にて黒板拭きを以て殴打し、衆と共に喊声を揚げて鬱憤
を晴らすの活劇を演じ、校規に触れて遂に退学の止むなきに至り、爾来正規の勉強を断念し
て玄洋社に投じ、専ら国家の大事に任ずる修養を積み、傍ら私塾に於て漢籍を修めた。
資性剛直にして胆気に富み、體躯亦た逞くして胸囲の太さ力士を凌ぐものあり。柔道は最も
得意とする所にて玄洋社健児の中にても群を抜き、夙に相撲の名人と称せられ、秋季各所の
神社の祭礼の頃には両親や姉の引留むるを肯かず、近村近郊の宮角力に参加して非凡の力
倆を示した。少年時代より『小野の鴻ちやん』といへば衆童畏れ服し、おのづから餓鬼大将に
推し立てられ、その悪戯に関する逸話も多く残つてゐる程であつたといふ。しかも早く父を喪ふ
て母に事ふるに孝養到らざるなく、長ずるに従つて人格次第に円熟し、国士型の好漢として世
人の尊重を受け、後には安永東之助、太田大次郎と相並んで福岡の三傑と称せらるゝに至つ
た。
明治三十七年日露の戦端開かるゝや男児報国の秋到れりとなし、同志安永東之助等と謀つ
て篤志出征を志願し、願意容れられて勇躍征途に上つた。是れ則ち所謂満洲義軍なるものゝ
組織せらるゝ発端にして、以下義軍の総統花田仲之助中佐の手許に於て作成されし報告書を
引用すると、その活躍の状を次の如く記してある。
★ ★
『小野氏は明治三十七年五月十七日陸軍通訳を命ぜられ、大本営附として同日遼東特別任
務の為め花田少佐の指揮下に入り、一行と共に同月二十二日勇躍して東京出発、六月一日
安東県に上陸し、各員と共に靉陽辺門に進み、満洲義軍編成に参与、千辛万苦の結果漸く集
め得たる義軍は偶々レネンカンプ騎兵団襲来の煽りを食つて四散せるも、花田少佐以下苦心
奔走の結果左翼四隊約八十名を得、七月二十二日無謀に近き悲壮なる【土+咸*】廠攻撃奇
功を奏し、同地を占領してより義軍も逐日盛大を為したるが、八月六日【土+咸】廠防戦、八月
二十六日平頂山第二回総攻撃、九月三日第二回【土+咸】廠防戦、同月十九、二十日龍峪の
攻撃等悉く之に参加して勲功あり。十一月十七日左翼第二隊に附属し平頂山方面活動中、青
溝中に埋伏せる敵騎一中隊を掩撃して之を撃滅し、其の中隊旗を奪ひ、中隊長以下五名を捕
獲するに与れる功績偉大なり。十一月二十一日懐仁占領、十二月四日【登+オオザト**】廠、
十五日西北【イ+火***】洛の戦闘に参加したるが、二十四日葛把載の激戦にて足部に負
傷し、三十八年一月四日第二野戦病院に入院し、遂に左脚切断手術を受け、不具の身と為れ
るは惜みても余りあり』
【* 補助漢字区点=2412 16進=382C シフトJIS=8CAA Unicode=583F】
【** 補助漢字区点=6639 16進=6247 シフトJIS=E1C5 Unicode=9127】
【*** 補助漢字区点=1660 16進=305C シフトJIS=88DA Unicode=4F19】
★ ★
斯くして遂に内地に後送せらるゝに至つたが、戦後功に依り勲六等単光旭日章を授けられ
た。之より前、義軍参加中、実弟小野於莵彦、砲兵中尉として出征軍中にあり、鳳凰城内の砲
兵宿営に在陣の際、鴻之助は偶々之と邂逅し、物資乏しき陣中にて漸く一合の酒を手に入
れ、兄弟相対して生別の盃を酌み交はしたる後、『後を頼むぜ』と言ひ残して、幾たびか後を振
り返りつゝ義軍所在地へ、唯だ一人引返し行きし有様は如何にも悲壮で、剛胆斗の如きこの
偉丈夫が骨肉の愛に涙脆き一面を示し、その床しき風情は見る者をして覚えず涙を催さしめ
たといふ。
戦後福岡にあつて玄洋社内明道館の世話役となつて大に斡旋する所あり。素撲の服装にて
鬚髯頬を蔽ふ彼が、炯々たる眼光を輝しつゝ隻脚の身を以て斡旋出入する所、自づから青壮
年の士気を鼓舞するものあり、いたく衆の崇敬を受けた。玄洋社々長進藤喜平太は彼を愛撫
して措かず、その秘書として之を遇し終始渝らなかつたが、後ち進藤社長の推薦並に有志の
懇望黙だし難く、福岡市々会議員に立候補し、政派の競争激甚なる中に於て理想選挙に依り
最高点を以て易々と当選し、その徳望の高きことを示した。元より演壇の雄にはあらざりしも、
座談画策の人として能く大勢を指導し、その公論正義を以て市政に貢献したる所が多い。
大正九年三月二十五日流行性感冒に罹りて歿す。享年四十七。墓は福岡市千代町崇福寺
内に在る。
(遺族、福岡市鳥飼、小野龍)
|
|
岡喬 (玄洋社、東亜)
旧福岡藩士。安政四年福岡に生る。年少にして寺尾亨等と共に洋学を修めしも、後転じて専
ら漢籍を修め、明治十年福岡挙兵の際には征韓党に与みし剣を携へて起ち、事敗るゝに及び
捕へられて静岡の獄に送られ、在獄三年にして郷に帰つたが、其後自由民権論を唱へて各地
に周遊し、主として北陸地方に足を留め、越前の杉田定一の許を根拠に加賀、越前地方の遊
説に従つた。十五年福岡に帰つて以来は玄洋社の発展に粉骨砕身し、同社の経費を得る為
め裁判所の差紙配りを請負ひ、玄洋社の健児をしてその任に当らせ、自ら采配を揮つて財政
困難なる社費を支へ、福岡本町にあつた塾も経費の都合で引揚げて山の方へ引移るといふ
有様の中に於て、会計の藤崎と相談して僅かづゝの収入を蓄積し、やがてそれが相当の額に
達するを待ち、三百七十円で現存の玄洋社の建物の敷地となつて居る五百何十坪かの土地
を購入し、玄洋社発展の基礎を築いたのである。二十一年頃曽原炭坑を引受けて玄洋社の
資金に充てようとしたが経営意の如くならずして中止し、また平岡浩太郎の援助にて二、三の
炭坑を引受けたが、是れ亦失敗に帰して何等得る所がなかつた。彼は東洋問題に意を注ぎ、
其間上海に赴き、平岡浩太郎が志士養成の手段として開いてゐた製靴店の整理の傍ら支那
問題に尽さうとしたが、事意の如くならずして帰朝した。来島恒喜、的野半介とは交り殊に深
く、来島が条約改正問題で決意上京の際には、特に馬関まで見送つて之を激励する所があつ
た。当時来島が博多湾より汽船に搭じて船出した際には、明月大空に輝き金波銀波舷頭に砕
け夜色水の如く澄み渡つてゐたが、来島は盃を挙げ『風蕭々兮易水寒』と吟じて後句続かず、
涙数行潜として頬を伝ふて流れ、やがて見送りの的野半介、岡喬等に盃を薦めて袂別の意を
表した。その時盃に酌まれたのは酒にあらずして水であつたが、送る者も送らるゝ者も惨として
声なく、一場の光景甚だ悲壮を極めたといふ。
喬は後福岡市の住吉神社の祠官となり、神に仕へて悠々晩年を送り、大正十三年十二月病
を以て歿した。年六十七。玄洋社の志士岡保三郎は実にその弟である。
(遺族、東京市目黒区中目黒一ノ七三七、岡貞吉) |
|
渡辺素剛 (玄洋社、満)
旧福岡藩士。福岡市下警固に生る。十七歳の時玄洋社に入つて志士の群に伍した。容貌凡
ならず、赭髪長く垂れ棕梠毛の如き長髯を蓄へ、深沈寡黙にして時に諧謔を弄し人を抱腹せ
しむるを例とし、市中に於て九紋龍史進の称を与へられてゐた。明治四十一年満蒙開発に志
を抱き大連に航し、福昌公司に入りて専ら埠頭の監督に従ひつゝあつたが、遂に雄飛するに
至らずして大正五年九月十九日大連に客死した。年五十二。 |
河村武道 (玄洋社、日露役満洲義軍)
明治九年一月十日、福岡市大名町に生る。幼名は吉三郎、後ち武道と改む。父は通称五
郎、諱は武卿。福岡藩の祖黒田如水以来の名誉ある家柄で、その祖先五郎兵衛尉吉家は朝
鮮征伐の時武功を立てた勇士であつた。
武道幼にして小学校及びその補習科を卒へ、福岡人参畑の女傑高場乱に漢学を学び、又た
山田某、武田某に柔道を、吉留某に剣道を学び、後ち福岡東中洲共進館に於て支那人孫松
亭に就き支那語を修め、又た玄洋社文学部に於て、中尾捨吉、伊藤公甫、宮城某等から漢籍
及び法律等を学んだ。二十七年同志と謀つて猶興義会を創設し、二十九年玄洋社内に武術
道場明道館を創設してその幹事長となり、熱心に後進を指導した。柔道はその最も長ずる所
にして猪股正純より自剛天真流の皆伝を受けた。三十三年福岡柔道家聯合会を組織し、大日
本武徳会福岡支部委員、玄洋社中壮年会幹事及び評議員等として重きをなした。
明治三十七年、日露の風雲急を告ぐるや、尽忠報国の念已み難く、玄洋社を中心としたる同
志数名と共に上京して従軍を志願し、頭山満の斡旋により同年七月十五日満洲軍総司令部
附陸軍通訳を命ぜられ、同志横田虎之助、本田一郎等と共に出征の途に上り、八月四日安
東県に上陸し、同十四日【土+咸*】廠に占拠せる花田少佐の満洲義軍に投じ、翌日左翼第四
隊副長を命ぜられた。斯くて義軍が第二回平頂山攻撃を決行するや、光岡隊長を輔けて左翼
第五、第七、第八の諸隊と共に敵陣地の正面より強襲して遂に敵を撃退し、先づその初陣に
於て勇武を現はした。九月一日には第五隊と共に敵の前哨を撃退して堀米大尉の指揮する義
軍本隊の三龍峪攻撃を容易ならしめ、十月六日花田総統に直属し、光岡第四隊長を輔けてマ
ドリトフ支隊の歩騎千五百、砲四門を本道の左側第一線に支へ、午後一時より同八時まで長
時間に亘りその陣地を固守して殊死奮戦し、花田総統をしてその功を激賞せしめた。当時の
戦ひに於て右足膝関節を捻挫し、足痛の為め非常なる苦戦をなし、戦友安永東之助に扶けら
れ漸く四日目に本隊に合し、一時兵站病院に入院して加療した。傷癒ゆるや同年十二月廿四
日より翌三十八年二月二十八日までは平頂山の西北伏洛に在つて能く警戒勤務に奮励し、奉
天会戦中は奇襲第四隊副長として林統領の指揮に属し、諸隊と共に三月四日未明紅石拉子
に於て敵の電線数千米突を破壊し、興京の敵に脅威を与へてマドリトフを焦燥に陥らしめ、翌
五日同支隊が自軍の左側掩護の任務を棄てゝ義軍に向ひ猛襲し来るや、義軍は支へ得ずし
て東方に向つて敗走したのであつたが、此時も彼は沈着剛胆光岡隊長を輔佐して敗兵を収容
し、花田総統の保護に努め、六日機動第三隊と共に敵騎一百を奇襲してその生牛四十六頭を
分捕り、敗余の奇捷によつて味方の元気を恢復せしめたのである。花田総統も後年当時の事
を回想して『全く奇妙なる微笑ましき手柄といふべきものであつた』と賞揚してゐる。
【* 補助漢字区点=2412 16進=382C シフトJIS=8CAA Unicode=583F】
同月十二日又た興京を攻撃してマドリトフ大佐を焦燥煩悶せしめ、松田大尉の指揮下に入り
て十七日通化を占領するなど、行動機敏快男児の本色を発揮して壮快極まりなかつた。続い
て同年五月六日より七月一日に至る二ヶ月間の松花江上流地方遠征隊に参加して大功を建
て、八月三十一日、九月一日の通化附近の防戦を最後として彼の活動の幕は閉ぢられ、九月
十六日休戦となり十月十六日平和は茲に全く克復した。三十九年四月功に依り勲六等単光旭
日章並に金四百円を賜はつた。
凱旋後同志と共に満韓経営に就き種々講究する所あり、更に雄飛を期してゐたが、三十九
年十二月、玄洋社々長進藤喜平太の秘書として上京中、四十年一月十五日病に罹り、東京
病院に入院、頭山満、進藤喜平太等が親しく病床を見舞へるに感激しつゝ同月三十一日遂に
易簀した。享年三十二。福岡市松原崇福寺なる玄洋社墓地に葬つた。謚号を梅巌義香居士と
いふ。
為人磊落にして、諧謔口を衝いて出づる底の快男児であつたが、一面頗る真摯にして友情
に厚く、常に一身を邦家に捧ぐるを以て任とした。三十二年の生涯中未だ曾て女色を近づけ
ず、身を持すること甚だ厳であつた。その明道館幹事長たりし時代には文弱軽浮の風を排斥
して気節を振作するに努め、在京福岡青年の団體たる浩々居等と気脈を通じ、絶えず青年の
志気を鼓舞したるを以て、福岡青年の間には益々剛健の気風が盛んに興つたといふ。
(遺族、福岡市養巴町十四、河村駒三郎)
|
|
梶川光 (旧姓月成)(玄洋社、来島事件、閔妃事件)
旧福岡の家老月成久太夫の第四子で、元雄、麓、勲の弟である。資性沈毅にして義に富み
古武士の如き気象の人物であつた。来島恒喜が大隈外相に爆弾を投じた事件では、玄洋社
の同志として裏面にあつて大に援助し、早稲田附近に下宿して大隈の動静を窺ひ、来島が失
敗したらその後を受けて起たんと決心し、来島が爆弾を投じて後自刃するのを現場で見届けて
其処を去り、それから数日の後、兄勲と共に共謀の嫌疑を以て獄に投ぜられた。出獄後柴四
朗の知遇を得て専修学校に学んだが、明治二十五年頭山満が初めて芝桜川町に一家を持つ
た頃、書生兼会計として頭山の身辺一切の事を切廻し、衣類の世話から質屋通ひまで引受
け、全く献身的に仕へたものである。二十八年三浦公使が朝鮮に赴任する際幕僚として随行
し、閔妃事件に活躍し、その善後処置の必要上事件の責任者を出さなければならぬことゝなつ
た際、身を挺してその任に当らんことを申出たが、遂に三浦公使以下事件関係者は一斉に退
韓命令を受け、その事は行はれざることゝなり、彼も亦帰朝と同時に広島の獄に投ぜられたの
である。無罪出獄後は福岡県若松に於て谷口石炭店の支配人となり、日露戦争後は炭礦の
経営に従事し、その頃は梶川姓を名乗つてゐたが、四十三年二月福岡で病歿した。年四十
九。越えて三月二十七日在京の友人三浦梧楼、岡本柳之助、的野半介、葛生玄【日+卓*】、
安達謙蔵等の発起で谷中全生庵に於て盛んなる追悼法要が営まれた。その日霊前には盟友
から左の如き追悼の詩其他の歌詞が供へられた。
【* 補助漢字区点=3433 16進=4241 シフトJIS=91BF Unicode=666B】
末永 鉄巌
喝成北筑健児歌。 【サンズイ+〔僚−イ〕*】倒生涯奈二汝何一。
韓山風雲玄洋月。 弔レ魄今日感更多。
【* 補助漢字 なし】
葛生玄【日+卓】
不レ仕二王侯一高尚レ志。 江湖落々互相憐。
桜田風雨霞関(注)月。感慨回レ頭二十年。
彼は国事に任ずるや自ら信ずること厚く、泰山の如き気魄を持つてゐたが、実業に従ふに当
つては小心翼々として頗る責任上のことを喜【→杞ヵ】憂し、全く別人の如き感があつた。是れ
実に彼が純誠の士であつたことを物語るものであらう。
(遺族、東京市豊島区西巣鴨二丁目二三五七、梶川重光)
(注) 「霞関」は外務省の意。明治四十三年は、外務省門前で来島恒喜が外相大隈重信に爆弾を投げて自殺し
た明治二十二年から二十一年目に当たっている。「桜田」は井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」を指すか。桜が
風雨に散り、霞が月を隠すという風景と事件とを掛けた表現であろう。
|
|
加治木常樹 (黒龍会、鮮)
加治木家は遠く漢高祖より出で、高祖より十五代後漢の孝霊帝の孫阿知王十四代の孫対馬守春実が始めて大蔵の姓を賜はり、後ち加治木を姓として二十九代目に常樹の父常徳の代になつたものであるといふ。常樹は常徳の二男にして、安政二年二月二十七日を以て生る。兄常政は明治維新の際京都にて戦死し、常樹は明治十年西南の役二十三歳にして西郷隆盛に従ひ田原、吉次の各地に転戦し、円台寺山の戦に傷きて鹿児島に帰り、次で薩、日、隅の間に転戦中、美々津に於て敵の重囲に陥り潜伏中、城山陥ると聞き、鹿児島に帰りて縛に就き懲役一年の刑に処せられた。後年西南挙兵の真相世に誤伝せられ居るを慨き、黒龍会に入りて『西南記伝』の編纂を助け、又た『西南【→薩南が正しい】血涙史』を著はして当年の同志の為めに冤を雪いだ。明治十五年朝鮮京城の変あるや、常樹は先輩の志を継ぎて大陸経営に着手するの機会となし、平岡浩太郎、野村忍助等と謀り、壮士を募つて自ら先鋒となり、同志菅新平と共に朝鮮に入つたが、乗船の航海遅延して計画齟齬し、且つ日韓の平和条約既に成れる為め遂に事を挙ぐるに至らなかつた。後ち福岡県警察部に勤務し、甘木警察署長、同県保安課長等に歴任し、晩年は一個の歌人として世に隠れ、『列朝歌物語』の著述に従ひ、之によりて皇道精神を発揚せんことを期してゐたといふが、未だ之を公にするに至らずして大正七年七月二十四日、東京赤坂桧町の自宅に於て歿した。年六十四。鹿児島市武の先塋に葬る。妻時子は来島恒喜の妹である。
(遺族、朝鮮釜山府草場町三丁目五九、加治木二郎)
【歌 略】 |
|
竹下篤次郎 (玄洋社、鮮、満)
慶応二年福岡藩士小幡家に生れ、後ち竹下家の養嗣子となつてその姓を冒した。年少の時
から豪放不覊、人の下風に立つを屑しとせぬ風があつた。十六歳にして玄洋社に入り、漢籍
及び武術を修めた。当時頭髪を剃つて丸坊主となり、自ら『無髪の太夫』と称し、坊主頭に頬
冠りといふ異様な風體で悠然街頭を闊歩逍遙したので、行逢ふ者はその奇装に驚き、噴き出
す笑ひを抑へつゝ立去つたといふ。
明治十九年四月、来島恒喜、的野半介と相携へて小笠原島に渡航し、開墾事業に従つた。
是れは彼が早くから抱いてゐた植民思想の実行を企てたもので、当時小笠原島に流寓してゐ
た朝鮮の亡命志士金玉均と交りを結び、朝鮮独立の計を論じて之と肝胆相照らす間柄となり、
往来頗る密なるものがあつた。しかし来島や的野は隔絶せる孤島にゐたのでは本国の状勢に
遠ざかる憾みがあるとて、間もなく内地に帰り、金玉均も亦た小笠原を去つたが、彼のみは母
島に若干の土地を得て二箇年余りも営々として開墾に従事した。斯くて幾らかの金を得たの
で、二十一年米国に渡航しカリホルニヤ地方に視察旅行を試みた。当時米国は日本人労働
者を歓迎し、且つ労銀も高かつたから、彼は日本人の移住を奨励する為め一応帰朝し、横浜
の蓬莱屋旅館に宿泊してゐた。その頃美和作次郎も来て滞在してゐると、其処へ来島恒喜が
来訪して久闊を叙して去つたが、その翌日突然霞ヶ関に大隈外相爆撃事件が起つたのであつ
た。来島は親友が遠く米国より帰つたとの報を得て、大事決行の前に暇乞ひ旁々訪れた訳で
あつたが、この為めに竹下は米国から爆弾を持つて来たとの嫌疑を受けるに至つたのであつ
た。来島事件後間もなく彼は美和作次郎、古川富太郎等を伴ふて再び米国に渡航し、カリホ
ルニヤ州で農園を経営し、同志が帰朝した後も唯だ一人踏留つて努力を続け、滞米八年の長
きに亘つた。米国での事業は規模を拡大し過ぎた為めに失敗を招くに至つたが、堅忍持久の
精神盛んなる彼の本領はこの時にも大に発揮されたのであつた。
帰朝後は玄洋社中の人となつて産業並に政治の方面に活動し、其間上海方面に渡航して支
那問題に力を注いだ。日露戦役には軍隊の酒保となつて満洲の戦地に赴き、戦後更に美和
作次郎と共に営口に赴いて一種の豪傑商賈を営んだが、後ち吉林に入つて農事経営を企て
た。しかしこゝでも支那官憲の圧迫に遭ふて志を得ず、去つて朝鮮に入り京城市外で鮮人と雑
居し、一見恰も朝鮮人の如き風體となつて日鮮関係につき尽瘁する所があつた。爾来朝鮮及
び満洲の地に多くを暮らし、大正九年金州東門外に居を卜し友人安永音吉と協力して農事経
営を企て、専ら附近の下層農民に親近して日満親善に務め、竹下大人の名声漸く隆々たるも
のあるに至つたが、偶々昭和五年四月二十二日病んで金州城外に歿した。年六十七。其期す
る所は満洲独立にあつて、平常附近の農民を集め、満洲の歴史を語るなど、彼が教化を以て
満洲の将来に備へんとする用意は頗る深きものあつたが、満洲建国に先ちて世を去つたのは
同志の甚だ惜む所であつた。彼れの心友美和作次郎は『竹下は卓越した素質と識見とを以て
奮闘を惜まぬ男であつたが、常に時運に際会せず、十の貫禄を一にしか世間に示さず、結局
その価値を認めらるゝことなくして終つた不遇の男であつた』と評してゐる。
(遺族、東京市渋谷区伊達二八、小幡虎太郎) |
|
津田喜太郎 (鮮、玄洋社)
福岡の人。青年時代福陵新報の記者として活躍し、次いで玄洋社に入つて同志の士と行動
を共にし、朝鮮問題に尽す所あつたが、一朝感ずる所あつて福岡の曹洞宗名刹崇福寺に入
り、写経三昧に耽ること数年、自然に禅に徹し、居士として仏学研究に従ひ、全く世外に超越
せる生活を送つた。資性真摯にして所謂律義の人物、玄洋社中の一異色であつた。大正十二
年十月歿す。年五十七。 |
|
月成勲 (玄洋社、鮮、満)
旧福岡黒田藩の家老月成元観の三男。万延元年十一月十四日福岡下警固に生る。月成家
は知行三千石を領し、家格の高い地位に在つたが、財政豊ならざる為め『貧乏月成』と呼ばれ
た程であつた。明治十二年頭山満、箱田六輔、進藤喜平太等が福岡に向陽義塾を創設する
や、勲はその塾生となり、来島恒喜、岡喬其他の士と相磨礪し、前記諸先輩の誘掖を受けて
国事に志し、福陵新報(現九州日報の前身)の創刊せらるゝに及び、入つてその社務に尽瘁
し、傍ら朝鮮に対する経綸を抱いて計画活躍する所あつた。日清戦役の結果台湾が我が領有
に帰するや、直に渡航して親しく産業、人情、風俗等を視察し、杉山茂丸、関善次郎等と謀り、
台湾に民営鉄道を敷設する計画を立て、東京に事務所を置いて奔走したが、政府が民営鉄道
を認可せざる方針を執つた為め、折角の計画も実現を見るに至らずして終つた。後ち熊本県
玉名郡に於て炭礦を経営し、三十二年頃之を他に譲つて博多米穀取引所を設立し理事長に
就任したが、三十六年その任を退き其間又た福岡市々会議員、博多商業会議所議員等の公
職にあつた。日露の役に際し、山東省芝罘に渡航し、当時の同地駐在武官守田利遠中佐の
許に留つて戦局の推移を観望し、次いで大連に渡航し、更に転じて朝鮮新義州に入り、その
位置が鮮支国境に在つて頗る重要の地位を占るに鑑み、此処に永住の決心を固めて事業の
計画に従ひ、屠牛場、魚市場、鴨緑江渡船、其他の経営に力を注ぎ、四十一年同地民団長に
推され、在任三年の間産業の開発に力を注ぎ、且つ新渡来者に対して庇護援助を与へ、在留
同胞からは慈父の如く敬慕せられた。その時代彼の庇護によつて同地に地歩を築くを得た者
も尠なくはない。又た其間朝鮮憲兵司令官明石元二郎少将の依嘱を受けて鮮満国境たる鴨
緑江奥地に屡々往来し、特殊の任務に力を尽した。蓋し明石将軍夫人は月成夫人の妹に当
る関係から彼は明石の義兄に当り、其間国策に就き深く黙契する所あつたものゝ如く、当時の
任務の性質に就ては一切口を緘して語らなかつた為め、何人もその行動に関して知る者がな
かつた。
晩年福岡に帰り、大正八年玄洋社相談役に就任し、爾来久しくその任に在つて重きを為し、
重望の帰する所、昭和九年五月推されて玄洋社々長となり、十年十一月之を辞し、同年十二
月十六日福岡市南薬院露切町の自宅で病歿した。年七十六。福岡市西町金龍寺に葬つた。
人と為り高雅にして眉目清秀、玄洋社型の武骨な同志中にあつて、杉山茂丸と並んで好男子
の両大関とせられ、少壮時代には或る方面で相当騒がれたこともある。斗酒を傾けて乱に至
らず、礼儀の甚だ正しかつたのは家老職の家に生れた伝統の然らしめた所にも由るが、兎に
角玄洋社幹部中の一異彩であつた。嗣子元気は三井物産小樽支店に、次男元次郎は大阪朝
日新聞に勤務してゐる。 |
|
中野徳次郎 (実業、支那革命家援助)
安政四年十二月十一日福岡県嘉穂郡二瀬町大字川津に生る。幼にして頴悟、年漸く十五に
して炭業の将来に着目し、自ら香月、天竺、小富士、立目其他の炭坑に入りて働き、後ち観
音、木浦、宝満坂、高雄、白旗、大城、赤池等諸坑の開坑工事を督し、炭坑事業に就て深く経
験知識を養ふ所あつた。斯くて独立して炭坑の経営に着手し、相田、亀山、熊田、松島の諸炭
坑、岐阜県天生金山、愛媛県伊予銅山等をその手に収め、拮据経営遂に斯界に雄飛するに
至つた。
夙に東亜の大局を憂ひ、同憂の志士と往来して時事を談じ、自ら資を投じてその活動を援助
せしこと尠なからず、支那革命の志士黄興等が我国に亡命せる際には、数千金を投じて之を
庇護したこと一再でなかつた。玄洋社志士との交遊最も密にして肝胆相照の関係を有し、直接
間接に東亜問題に寄与せる功は没すべからざるものがある。明治三十九年推されて衆議院
議員となつたが、議会解散後は再び起たず、専ら産業の方面に身を委ねた。炭、森林、電気、
鉄道、銀行等に関する諸会社の創立者、社長又は重役となり、九州産業界の重鎮として活動
し、大正七年六月十日福岡市大名町の邸に歿す。年六十二。墓は福岡市橋口町勝立寺に在
る。長男昇家を襲ぐ。
(遺族、福岡県嘉穂郡二瀬町川津五二、中野昇) |
|
中島翔 (玄洋社、東亜)
旧福岡藩士にして筑前秋月の儒家中島氏の一門である。安政四年福岡市下警固に生る。
一時野村姓を冒せしも後ち中島の本姓に復した。年少の時より膂力衆に優ぐれ、胆気また絶
倫、事に当りて常に死線を越えて活動する底の気象の人物であつた。明治十年西南の役起る
や年十七にして武部小四郎の軍に属し、福岡城奇襲の際には衆に先ちて城内に侵入したが、
守備の官軍が城壁の銃眼より雨霰の如く猛射を浴せ掛けた為め、遂に奪取の策成らず、全軍
二百余名と共に大林山【→大休山おおやすみやまが正しい】に集合して薩軍に投ずる途を講じた
のである。然かも福岡志士の一挙は蹉躓に帰し、同志の士或は斬に処せられ、或は獄に投ぜ
らるゝに至つたが、彼はこの一戦に於て先登の功名をなし、年少の勇者としての名を成すに至
つたのである。
明治十二年玄洋社の創立せらるゝに方り、その同志の一人となり、爾来中堅青年の牛耳を
執りて活動し、玄洋社の喧嘩大将として勇名を馳せ、その武勇譚は玄洋社中の語草として数
限りもなく残されてゐるが、福岡の侠客大野仁平の如きも、一度は中島から酷い目に遭はされ
て、始めて玄洋社の意気精神に同化するに至つたと伝へられて居り、福岡市中の遊人が威張
つてゐた頃、これにも制裁を加へて置く必要があるとて『明日三時にお台場へ来やい』と呼び
寄せ置き、同志二、三人と共に出掛けて行つて、強か者の連中を下駄で散々に殴り付け、相
手がアツケに取られてゐる処を徹底的に懲らし、以後全く屏息せしめたなどゝいふ強きを挫き
弱きを扶けた痛快談が沢山ある。箱田六輔が玄洋社の社長であつた頃、玄洋社の健児と福
岡医学校の生徒との間に衝突があつた時などは、箱田から『徹底的に喧嘩をして来い』と命ぜ
られ、薪雑棒を提げて健児の一隊を引連れ、医学校の門を打破つて闖入し、壮烈極まる大乱
闘を演じた。この時は警察側も鎮撫の策に窮して遂に時の福岡県知事安場保和が調停に乗
出し、頭山満と相談して漸く取鎮めた程であつた。西南戦争生き残りの人物だけに、東亜問題
に関しては常に心血を濺いだが、自ら起つて時局の為めに乗出すといふよりも、寧ろ留つて玄
洋社の為めに尽し、社中の同志をして専ら東亜問題のために有力に活動せしめたのである。
資性沈毅にして直情径行の人であつたが、晩年は一個の好々爺たる観あり、得意の座談によ
り諄々と微笑を含みつゝ物語る時は、そぞろに人をして時の移るを忘れしめる程であつた。
昭和二年十月鹿児島に於て大西郷の五十年祭の行はれた際、彼は玄洋社長喜多島淳の
代理として祭典に参列したが、西南役の際に於ける福岡征韓党の生き残りの一人として非常
なる歓待を受け、数万人に上る参列者中、玉串奉奠の時、奉賛会総裁東郷元帥代理に次い
で西郷家遺族一同の玉串奉奠の後、彼は参列者の第一位に玉串を捧げる順番を振り当てら
れて面目を施し、式後奉賛会長たる鹿児島県知事主催の招待の宴では、床次竹二郎、徳富
猪一郎、其他の名士雲の如き中に於て、一同から特に下にも置かぬ歓待振りを以て遇され、
その粗野なる服装といひ、質朴の態度といひ、一場の奇観を呈したが、当人は当世の交際振
りにも慣れぬことゝて非常に困惑し、自動車の送迎などゝは以ての外のことだと宿所も知らせ
ず、そこそこに隠れる如くに退席し、福岡に帰るのにも、三等汽車に乗るのが恥かしいとて逃
げるが如くに帰つたといふことである。昭和八年一月六日歿す。年七十六。福岡市東唐人町
善龍寺に葬る。 |
|
奈良崎八郎 (玄洋社、露清両役従軍)
奈良崎八郎、号は放南、慶応元年十月筑前福岡城下に生れた。幼にして頴悟、神童と称せ
られた。初め某に就て漢学を修め、傍ら撃剣を学び、次いで明治十八年福岡養鋭学校に入つ
て普通学を修めた。
明治二十一年上海に遊学して支那語を学び、同二十三年支那内地の旅行を試み、芝罘に
一年余も留つて支那事情の調査に従ひ、更に転じて朝鮮に赴き、仁川、京城の間を往来する
こと年余に及んだ。蓋し福岡の先輩平岡浩太郎等と相呼応して大陸経営の策を講ぜんとする
にあつた。二十六年朝鮮に東学党起るや、福岡の同志が予て抱持せる所謂『支那取り』の雄
図を行ふべき好機となし、一名の同志と共に全羅道方面に入つて画策する所があつたが、未
だ志を伸ばすに至らず、更に福陵新報記者として平壌に赴き、窃かに東学党の煽動を企て
た。やがて日清の戦端開かるゝや、福陵新報の戦地特派員として大島混成旅団に従ひ、成
歓、牙山、平壌の諸戦闘に参加し、得意の筆を揮つて戦況を詳報した。豪快なる彼は観戦中
時に髀肉の嘆に堪へ兼ね、携へた大刀を揮ふて敵中に突入し、縦横に斬捲くつて快哉を叫ぶ
やうなこともあつた。
之より前、彼が上海留学時代のこと、同志の尾本寿太郎、福原禄太郎等と同宿して互に切
磋琢磨してゐたが、一日三人は相携へて上海城門の辺に遊んだ。偶々飼犬のことから土人と
衝突し、喧嘩を始めたが、三人とも手に一物をも携へてゐなかつた為め、不幸にも多勢の土
人に乱打され、已むを得ず恨みを呑んで逃げ帰つた。しかし闘志満々たる気鋭の士のことゝ
て、其儘空しく過ごすことも出来ず、直に手に手に得物を携へて城門の辺に引返し、斬りまく
り、突きまくる大奮闘を演じ、遂に数人を殺傷する椿事を惹き起し、地方官に捕へられて獄に
投ぜられた。斯くて日本領事に引渡されてその取調べを受け、奈良崎は当時ステツキを携へ
てゐただけであつたことが判明し放免となつたが、尾本と福原は長崎監獄に送られ重罪犯人
として囚禁せらるゝ身の上となつた。然るに明治二十七年に至り、獄中へも日清戦争の起つた
ことが伝はつたので、尾本と福原は平昔の志たる支那取りの機会来るとて勇み立ち、遂に破
獄を企てゝ又た捕はれ、更に重刑に処せらるべきことゝなつた。二士は計画の挫折を恨み、憂
憤の余、食を絶ちて死を図るに至つたが、この事が平壌にあつた奈良崎に伝へらるゝや、驚
いて直に帰朝の途に上り、大本営所在地なる広島に帰つて檄を多数の同志に飛ばし、九十余
名の一致連署を得て特赦歎願書を作り、平岡浩太郎が之を携へて川上大将に面会し、熱心
に特赦の尽力を請ふ所があつた。大将も亦之を諒として時の長崎県知事大森鍾一に打電し、
両志士の死を思ひ止らしむるやう尽力を頼むと共に、一面司法大臣に交渉して上奏特赦の恩
命に浴せしむる手段を講じた。その結果、尾本、福原は特赦に遭ふて出獄することを得たので
ある。大森知事は出獄せる二人を招き、美酒佳肴を調へて多年在獄の苦を慰めんとしたが、
座に着いた二人はそれらの饗応に箸を触れず『奈良崎其他の同志の同情で充分である。今
日の吾等は斯の如き饗応を受けるに忍びず』とて固辞して受けなかつたと伝へられてゐる。
日清の役終るや奈良崎は台湾に赴き、高島中将の匪徒征討軍の通訳となつた。適々本城
安太郎も陸軍通訳として従軍中であつたが、一日本城は或る偵察隊に加はつて基隆瑞芳の
金山附近で匪徒の重囲に陥り、非常な危険に瀕してゐるとの情報が達した。これを聞くや奈良
崎は長野義虎等と共に日本刀を提げて救援に駆付け、重囲を突破して偵察隊の所在地点に
達し、本城の姿を見出すや『本城殺されずに生きてゐてくれたか』と手を握りて涙を流しつゝ狂
喜し、携へて来た切餅を取出し、敵前で雑煮を作つて本城に薦めたといふことである。彼の友
情に厚きことは以上の如き逸話によつても窺ふことが出来る。
日露の役には特別任務班に加はり、弁髪胡服、横川省三等の班に次いで敵地に入り、井戸
川大尉等と共に東清鉄道に沿ふて東蒙古方面に活躍し、馬賊を糾合して之を指揮し、公主嶺
に於て優勢なる敵に遭遇し、苦戦の後之を撃退したのを始めとし、遼陽戦の当時には法庫門
附近で敵の輜重大縦列に遭遇し、三百余輌の軍需品を鹵獲する等大なる功績を現はした。然
るに奉天大会戦の際、乗馬が氷に辷つて馬から落ち、肋骨を折つて肋膜炎となり、其後全快
して再び軍国の事に従つたが、偶々肺炎に罹つて重患に陥り、帰朝して東京芝白金の養生院
に入院治療したるも健康旧に復せず、明治四十年五月二十日遂に雄志を齎らして永眠した。
時に年四十三。嗣子発が家を襲いだ。
彼は文筆に長じ、その遺せる詩歌の類も多い。左に四、五を掲げてその詩藻を偲ぶ。(上巻
八〇一頁以下参照)
【詩歌 略】 |
|
牟田常儀 (露、玄洋社)
福岡県秋月の人。嘉永二年七月を以て生る。夙に憂国慨世の志を抱いて四方の志士と交
り、明治九年秋月の磯淳、宮崎車之助等が熊本の敬神党、萩の前原一誠等と呼応して兵を挙
げんとするや、之に参加して大に奔走する所あり。同年五月白根新太郎、平江近雄等と共に
長州萩に前原一誠を訪ふて密かに謀議を凝らし、同年九月愈々同志と共に義旗を秋月古処
山頭に飜へしたが、時非にして事敗れ、豊津を経て英彦山より小石原に出で、再び秋月に帰
つて潜伏し、薩摩に奔らんとして準備中捕はれて獄に投ぜられた。是れ常儀が二十六歳の時
である。後ち赦に遭ふて獄を出で福岡にて新聞を創刊し、大に大陸発展を鼓吹する所あつた
が、日清戦後三国干渉によりて遼東半島の還附せらるゝに至るや、悲憤慷慨の余、露国に報
ゆる所あらんとして、二十八年十一月単身浦潮斯徳に渡航し、露国の東方進出の情勢を調査
し、或は親しく露満国境の踏査に従ふ等、画策大に努むる所あり。浦港に留こと五年にして転
じて朝鮮に入り、半島の形勢を視察したる後ち帰朝して対露策を説き、日露開戦の止むべか
らざるを叫んだ。日露戦争中福岡に在つて病に罹り、三十七年十一月八日遂に戦局の終了を
見るに至らずして死した。享年五十四。遺骸は福岡市千代松原崇福寺内玄洋社同人の塋域
に葬つた。
常儀躯幹魁偉にして眼光炯々人を射り、一見古武士の如き風格を帯び、斗酒尚ほ辞せざる
酒豪にして、酒間耳熱し来れば憂国慨世の情を披瀝して慷慨淋漓たるを例とした。妻琴子との
間に二女を挙げたるも長女は夭折し、次女は同志水野疎梅の配となつた。
(遺族、福岡市小鳥【→烏が正しい】馬場十一、牟田こと) |
|
内海重男 (玄洋社、釜山署長)
安政六年十二月二十九日、福岡市地行東町一番丁に生る。夙に志を国事に注ぎ、明治十
年西南の役に際しては進藤喜平太等と共に薩軍に気脈を通じて奔走し、遂に捕へられて獄に
下り、懲役一年に処せられた。出獄の後ち頭山満の許に出入し、玄洋社の組織せらるゝやそ
の同志として国事に尽したが、明治十五年四月青森県師範学校教員兼監事となり、翌年青森
県看守長に転じ、爾来長崎県警部補、茨城県看守長、同警部、江戸崎警察署長等に歴任し、
二十五年外務省警部となり仁川領事館附を命ぜられ、翌年八月釜山領事館附に転じ、釜山
警察署長となつた。当時山座円次郎は釜山領事館の領事館補として在任し、同じ玄洋社関係
の間柄から共に志士浪人に好意を表し、釜山法律事務所の梁山泊に拠つて風雲の機を窺ふ
大崎正吉、武田範之等の一味の行動を陰に援助する所あり。天佑侠の後始末に就ては吉倉
汪聖の逮捕せられて来たのに対し、山座と力を併せて之れを庇護し、遂に事なきを得せしめた
が、其の苦心は非常なものであつた。
日清戦役中は釜山に在つて我が軍事行動に貢献し、戦後特に従軍記章を授けられた。二十
九年支那蘇州領事館附に転じ、其後芝罘、元山各領事館附に歴任し、日露戦役中は元山領
事館にあつて軍事並に居留民保護に力を尽し、三十九年本山理事庁の置かるゝに及び、同理
事庁附警部に任ぜられ、多年海外駐在の警察官として朝鮮問題、支那問題に意を注ぎ、その
精神に至つては一箇の志士たるに背かなかつた。明治四十三年七月十二日病んで歿す。年
五十二。福岡市地行東町一番丁伝照寺に葬つたが、後、東公園崇福寺玄洋社墓地内にも其
碑を建てられた。長男十楼家を嗣ぎ、外に一男二女がある。
(遺族、東京市杉並区堀之内二ノ一九七、内海十楼) |
|
浦上正孝 (鮮、支、玄洋社)
旧福岡藩の名門の出。その家は馬廻役を勤むる重臣の家柄であつた。西南の役福岡の志
士結束して薩軍に応ぜし際、正孝は十六歳の年少を以て其一味に加はり、戦後鹿児島に遊ん
で三州社に入り、砥礪を受くる所があつた。爾来年少気鋭の身を挺して国事に奔走し、明治二
十二年大隈外相の条約改正問題起るや、玄洋社志士の一人として之が中止運動に従ひ、来
島恒喜が大隈外相に爆弾を投じて壮烈なる自刃を遂ぐるに及び、之が連累者として捕はれ、
獄に在ること半歳の後、漸く無罪放免となつた。後ち朝鮮木浦に於て開墾事業を企て、山座円
次郎の援助を得てその経営に努力したが、日露の役起るや内地に帰りて報效の為めに奔走
し、玄洋社の志士が篤志従軍を志願するに及び、頭山満の意を體して当局に運動し、遂に多
数の志士の熱望を達成せしめ、所謂満洲義軍に唖の通訳として従軍することを得せしめたの
である。(上巻五十七項参照)支那の第一革命には頭山満に従つて渡支、革命軍の援助に力
を尽し、爾来支那問題に意を注ぎて老年に至るまで渝る所がなかつた。又た朝鮮で木浦の奥
で干潟地の埋立や荒蕪地の開拓に従事しつゝあつたが、未だ成功するに至らず、大正九年九
月病んで歿す。時に年五十九。
日露開戦前、時の首相桂太郎、及び枢密院議長にして内閣の指導者たる実権を有する伊藤
博文が兎角優柔不断の状を示し、容易に主戦論に同ずる色がなかつたので、当時玄洋社の
中年寄格であつた浦上は、身を挺して先づ伊藤を倒さんと決心し、唯だ頭山満の意向如何に
より之を決行せんとする様子であつたが、頭山が持重を諭してゐる裡に漸く政府も開戦の決意
を固めるに至りたる為め、事無くして止んだといふ。以てその決死果敢の士であつたことを知
るに足る。 |
|
来島恒喜 (玄洋社、大隈条約阻止犠牲)
福岡藩士来島又右衛門の二男。安政六年十二月三十日を以て福岡市薬院町に生る。夙に
金子善作、海妻甘蔵、柴田軍太郎等に就て学び、後ち高場乱の空華堂に入りその薫陶を受
け、又た越智彦四郎、武部小四郎、箱田六輔、平岡浩太郎、頭山満等に兄事してその感化を
被る所多かつた。
明治十五年の朝鮮事件に際し、平岡浩太郎等が同志を糾合して義勇兵を提げ、韓半島に入
らんとした時、その挙に加はつたが、済物浦条約成るに及び、同志の者は多く東京に上つた。
来島も亦其の後を追ふて十六年四月飄然東京に上り、次いで奥羽より北越地方に遊び、越後
の大橋一蔵の許に足を留むること暫時、また東京に帰つて中江兆民の仏学塾に入り政治学を
研究した。当時学資に乏しき為め、的野半介等と芝愛宕下に一家を借りて八百屋物の行商に
従ひ、その余暇を以て学に励む傍ら、馬場辰猪、河野主一郎、野村忍助、其他の有志と往来
して時事を談ずるを常とした。来島は眉目秀麗にして性沈毅寡黙、信義を重んじて友情に厚
く、日常国事を憂ひて止まず。一日副島種臣を訪ふて教を請ふ所ありしに、副島は筆を執りて
『堯曰允執二其中一。子曰一以貫レ之。一者何。即所レ謂中也』と書して与へ、その為人を異とし
て之を山岡鉄舟に紹介した。鉄舟は来島を谷中全生庵に招きて読書に従はしめ、講書研鑽の
傍ら禅を説いて之を導いた。明治十七年朝鮮事変起り、金玉均等が我国に亡命し来るや、来
島は深く朝鮮の事態を憂ひ、的野半介等と韓半島に事を挙げんとして策動する所あり。頭山
満の持重を説くに遭ふて志を飜すに至つたが、次いで南洋探検の計画を立て、的野半介、竹
下篤次郎と共に小笠原島に赴き、当時同島に在つた金玉均に会して深く謀る所あり、遂に南
方に対する志を抛つて内地に帰つた。時に明治十九年にして、恰も外相井上馨が条約改正を
行はんとして国論の反対に遭つてゐる頃であつたが、来島は井上の条約改正案を以て売国的
の案なりとし、猛然之が反対運動に参加して縦横に馳駆した。既にして井上外相辞職して条約
改正案は葬られしも、二十一年黒田内閣成りて井上馨が農商務大臣の任を拝するや、彼は前
に条約改正の責を負ふて辞職したものが、未だ一年ならずして再び内閣に列する如きは全く
国民を愚にするものであるとて、その厚顔無恥断じて許すべからずと憤慨し、之を攻撃非難し
て止まず、同年秋井上が九州に出張して福岡に入らんとした際には『奸臣を県下に入れて福
岡の土を汚さしむべからず』と匕首を懐にしてその来るを狙ふた。当時岡喬、的野半介等が之
を憂ひ、百方慰諭して纔かに事無きを得たといふ。
然るにこの内閣の外相大隈重信が新に条約改正を企て、その内容が世間に漏るゝや、忽ち
識者の反対に遭ひ、世論囂々として嵐の如くに起つた。国権派の総本山たる福岡玄洋社は反
対運動の急先鋒として起ち、同志の各団體を糾合して、九州大会、大阪大会と漸次に歩武を
進め、憂国熱誠の士相次いで中央に馳せ上つたが、来島は心中深く決する所あり、身を以て
この条約改正案を葬り去らんことを期し、二十二年八月十七日福岡を発して東上の途に就き、
同月二十二日東京に入つた。斯くて頭山満に請ひ大井憲太郎への紹介を得、大井に会して更
に高野麟三への紹介を得、高野より更に葛生玄【日+卓*】(東介)に紹介せられ、遂に葛生
玄【日+卓】及び淵岡駒吉の斡旋によつて森久保作蔵の所蔵せる爆弾を手に入れ、窃かに大
隈外相の身辺を狙ふた。
【* 補助漢字区点=3433 16進=4241 シフトJIS=91BF Unicode=666B】
同年十月十八日午後四時、大隈外相が閣議を終へて内閣を退出し、馬車を駆つて霞ヶ関外
務省に帰り来るを待ち受け、大隈の馬車が正門に入り来る一刹那、彼は携へたる爆弾を車體
に向つて投じ、轟然一発、白煙濛々たる中に大隈外相が車中に倒れたるを見済まし、歩を門
外に移して皇城を拝したる後、正門左方の石垣に倚つて携へたる短刀で頸を掻き切り、従容と
して其場に自殺を遂げた。時に年三十二であつた。越えて同月二十一日同志の士は警視庁よ
り遺骸の下渡しを受け、青山龍泉寺に於て弔祭を行ひたる上、狼谷にて火葬に附し、二十二
日遺髪を谷中天王寺に葬り、遺骨は福岡に送つて十一月一日福岡崇福寺境内の玄洋社墓地
に葬つた。会葬者五千余名。葬列一里に亘り、稀有の盛儀であつた。法号を浄心院節誉恒喜
居士といふ。生前娶らず、従つて子もなかつた。
彼が最後の決心を固めて爆弾を求める為めに苦心してゐた頃、爆弾入手に尽力した葛生玄
【日+卓】に向つて『予は条約改正問題がなければ一意金玉均、朴泳孝を助けて朝鮮改革に
全力を尽す考であつた。今我国に条約改正問題が起つて須臾も之を等閑に附すべからざる事
となり、遂に金、朴との約に背かねばならぬのは遺憾である。抑々我国が東方の盟主として東
半球に覇を樹つるにあらざれば、東亜の諸国は独立を保つことが出来ない。そして日本が之
を為すには先づ朝鮮問題を日本人の手で解決しなければならぬ』と語つたといふ。之によつて
も彼の精神が奈辺に存したかを知ることが出来る。又た彼が意を決して福岡を発する際、的
野半介に若干の金子を渡して、之を両親に渡してくれと頼んだ。其時的野は『君は今旅に立つ
のだから金がなくてはならぬだらう。その金は持つて行け。僕が君の代りに両親へは金を贈
る』といつたが、彼は『イヤイヤ、さうは行かぬ。父母ゐますに吾は遠く遊ばんとするのだ。これ
ばかりの僅かの金は元より何の用にもならぬのだが、父母に背いて出掛けて行く不幸【→孝
ヵ】の罪は何物を以ても償ふことが出来ぬので、せめてこれだけでも両親に贈つて自らの慰め
にしたいのだ』といつたので、的野もその意中を推し測つて強ひては遮らず、来島の出した金
子の半分だけ受取り、それに自分の所持金を加へて贈ることを約束した処、非常に喜んで出
発したといふ。愈々大事を決行せんとするに臨み、同志の月成功太郎が事を共にせんことを
望むのを制して『君は家に老母あり、妻子あり。一人の大隈を倒すに豈二人の力を要せんや』
とて、固く諫めて単独行動を執つたのである。彼が血あり涙ある思慮周密の人物であつた面影
を窺ふべきである。彼は平生『思慮も思案も国家の為めにや、無分別にもなる男』といふ歌を
好んで歌つた。彼れ自身の面目を伝へるに、恐らく是れ程適切な文句はないであらう。
来島が東京へ出発してから後、的野半介は若松の自宅で東京の模様如何にと頻りに来島の
消息を案じてゐたところ、一夜深更戸を叩く者があつて、その音が数回に及んだので、的野は
居合せた友人と共に『誰か』と問ひたるに、『おれだよ。今帰つて来た……』と答へるのが慥か
に来島の声であつたから、不思議に思ひ、急に起つて戸を開けて見たけれども戸外には誰も
ゐなかつたので、益々奇異の感に打たれつゝ寝に就いたが、間もなく再び起されて見れば、今
度は東京の同志からの電報で、其日来島が霞ヶ関で大隈外相に爆弾を投じて目的を達し、潔
く自刃を遂げた旨の報道であつた。的野は一は来島が目的を達成したのを喜ぶと同時に、数
刻前に於ける戸外の声を想ひ合はせて、益々不思議の感に打たれたといふことである。
(遺族、福岡市薬研町、来島金三郎)
|
|
葛生東介 (黒龍会、国防義会及海軍協会創立)
本名は玄【日+卓*】。文久二年十一月十一日、下総国相馬郡布佐に生る。その先は下野
国葛生に出で、後ち下総に移り、玄【日+卓】の父龍悦に至るまで八代の間、世々医を業とし
た。玄【日+卓】は則ち龍悦の長男にして、少時父母に従つて千葉県海上郡椎柴村大字野尻
に移り、幼時隣村小船木村東光寺の住職長峰某に就て学を受け、十四歳の時より十九歳まで
銚子町の儒者宮内君浦に従学して漢籍を修めた。先師長峰某は元水戸藩士たりし人物にし
て、君浦も亦水戸派の学風を奉ずる儒者なりし故、此間その感化を受くる所尠なくなかつた。
十九歳の時千葉県立医学校に入学したるも医を以て立つを好まず、半歳に満たずして退き、
幾くもなくして常陸国筑波神社の祠官青柳高鞆に就て国典を学んだ。高鞆は明治維新の前、
京都等持院に安置せる足利尊氏、同義詮、同義満の木像の首を斬りて三条磧に梟し、以て幕
府の当路者を諷したる慷慨家中の一士であつた。玄【日+卓】はその頃より真壁、下妻地方の
自由党志士と交り、次いで千葉県自由党の先覚者桜井静の創立せる総房共立新聞、及び東
海新聞の主筆となり、侃諤の筆を揮つて時事を痛論し、或は政論演説により当局の忌諱に触
れ、獄に投ぜらるゝこと数回に及んだ。明治二十年井上外務大臣の条約改正問題起るに及
で、東京に入つて専ら之が中止運動に奔走し、保安条例の発布に遭ひ、東都三里以外の地に
退去を命ぜられて郷里に帰り、同国佐原町に起りたる自由党員の結社同盟義会の一員とな
り、高野麟三、飯田喜太郎、高城啓次郎等と往来して政治を論議した。明治二十二年大隈外
務大臣の条約改正問題起るや、又た東京に入つて之が中止運動に参加し、大に活動する所
あり。福岡の志士来島恒喜が非常手段に訴へんとするに当りては、爆弾を入手する為めに斡
旋して、遂に霞ヶ関に震天動地の大活劇を演ぜしむるに至つた。之が為めに同年十月収監せ
られ、獄に在ること数月、翌二十三年四月証憑不充分の故を以て釈放せられ、爾来来島恒喜
の遺志を継ぎて朝鮮独立党の亡命客金玉均と親交を結び、一方頭山満、岡本柳之助等と交
つて専ら東亜問題に意を注ぎ、徐ろに風雲の機熟するを待つた。偶々二十七年三月二十八日
金玉均が上海に於て刺客の手に斃るゝや、之を哀悼して禁ずる所を知らず、深く事態を憤つて
対韓同志会なるものを組織し、同志を糾合して四方に奔走し、清韓に対する強硬なる主張を
提げ、以て日清開戦の促進に努力した。後ち鎌倉円覚寺に入りて禅を修め、三十二、三年将
来に於ける日露の戦に備へんことを期し、千葉県佐原町に於て奉公義団を組織し、学資に乏
しき有為の青年の、士官学校に入つて武官たらんとする志を遂げしむるに尽力した。三十五
年所謂教科書事件の起るに際して文教の腐敗を慨し、千葉県知事阿部浩以下同県々会議員
等の収賄の真相を摘発して、日本新聞に掲げたるに因り、官吏侮辱罪に問はれ、千葉監獄に
囚禁せらるゝこと三十日に及んだ。三十四年内田良平等と黒龍会を組織してその幹事となり、
同志と共に益々東亜経綸に努力し、三十七年岡本柳之助が軍事炊車を発明するに及び之を
軍隊の実用に供する為めに力を尽し、三十九年満洲の戦跡を視察し、大連に淹留すること数
月、適々同地に滞在せる大井憲太郎、桜井静等と旧交を温め、四十年東京に帰つて桜井徹
三、西本国之輔等と軍事の研究に従ひ、四十二年四月東洋日の出新聞に寄稿せる論文が軍
備の缺点を高調して軍機に触るゝ疑ひありとて起訴を受け、長崎裁判所に於て罰金刑を科せ
らるゝに至つた。四十二年内田良平等が日韓合邦を図るや、同年十二月檄を四方に飛ばして
国論の喚起に努め、遙かに在鮮の同志と声息を通じて大に尽力する所があつた。又たその当
時『軍備論』と題する論文を印刷して朝野の識者に贈り、大正三年川島清次郎と雑誌『大日
本』を創刊し、又た同志と大日本国防義会を創立して幹事となり、六年五月更に海軍協会を創
立してその幹事に就任し、又た福岡に赴き同地の有志と謀り『福岡海軍協会』を創立した。蓋
し熱心なる大陸発展論者にして、同時に民間に於ける海軍拡張論者として貢献尠なからざる
も
のがあつた。後ち茨城県鹿島郡荒波村今伝寺の松林中に一小廬を建て、隠栖して悠々病を
養つてゐたが、同十五年二月八日同地に歿した。年六十三。東京雑司ヶ谷墓地に葬る。尚ほ
分骨を福岡市千代の松原崇福寺内玄洋社同人の塋域に埋めて其の碑を建て、別に郷里の知
人は千葉県海上郡椎柴山の中腹に碑を建てゝ冥福を祈つた。終生娶らず、弟述吉が後を嗣
いだ。著述に『南洲翁と軍事』『金玉均』等があり、岡本柳之助伝編纂の志ありしも、遂に稿す
るに至らずして世を去つた。
【* 補助漢字区点=3433 16進=4241 シフトJIS=91BF Unicode=666B】
彼は一生の心血を国事に傾け、老に至つて尚ほ倦む所を知らざる概があつたが、世事意の
如くならず、殊にその性質が利害問題に頗る恬淡で、家に憺石の貯へなく、六十尚ほ家を成さ
ずに終つた。頭山満はその訃に接し嘆じて曰く。『彼こそ真に有志家の典型であつた。自分の
存在を人が知らうが知るまいが、そんなことは微塵も意に介せぬ珍らしい人物であつた』と。明
治二十二年大隈外相の条約改正問題で国論沸騰するや、屡々決死の勇を皷して奮躍中止運
動に奔走し、新富座に於ける大隈派の演説会を妨害すべく一隊の壮士を率ゐて殺到し、川上
参三郎などゝいふ慓悍の徒をして先づ会場の非常門を突破せしめ、雪崩を打つて場内に打入
り、彼れ自身も亦閂を打揮つて改正派壮士の度胆を抜いたなどゝ、武勇伝中の一齣を演じた
こともある。殊に玄洋社の志士来島恒喜の霞ヶ関一撃の挙について、来島の為めに爆弾の斡
旋をした際には、三多摩壮士の巨頭森久保作蔵が爆弾を所蔵してゐると聞き、大阪事件の志
士淵岡駒吉と共に森久保に交渉して、遂に手に入れて来島に与へたので、当時連累者の物
色甚だ急であつたが、彼は之を避けて一夜柳暗花明の巷に遊んだ。しかも遂に捕へらるゝに
及んで、その敵娼も拘引せられ、当夜の消息如何と訊問を受けたが、妓の曰く『あゝいふ恐ろ
しいお客は今まで見た事がありません。黙つて坐つたなり、近寄ることも出来ませんでした』と。
以て彼が当時に於ける木強振りを知るべきである。
来島事件で下獄して釈放された後、東京下谷西町に一家を借受けて住んだが、最初の間は
水滸伝の梁山泊の如く、毎日多数の壮士や、近くの榊原謙吉【→鍵吉が正しい。健吉また謙
吉とも書かれる。】の道場にゐた剣客などがやつて来て、忽ち米塩に事缺くのみか、裸體で人
に逢はねばならぬやうな窮迫に陥ることが屡々であつた。その頃着物が無いので暫らく外出せ
ずに居ると、東京ホテルに居た金玉均が彼の訪問せぬのを心配して、どうかしたかと使の者に
手紙を持たせて寄越したので、彼は病気で引籠つてゐるといふ返事をすると、金は驚いて腕
車を飛ばしてやつて来た。彼は真つ裸でそれを迎へて暫らく話して帰したが、後で坐蒲団を片
附ける時、金が紙幣を二十円坐蒲団の下に忍ばせて行つてゐるのを発見し、恰も大旱に快雨
の降つた思ひをなし、早速質屋から着物を受戻して来るやら、米を買ふやら、肴を買ふやら頓
に景気づいて来たといふやうな事もあつた。
獄中偶吟
乱れにし心の緒をば解くすべもなくなくかへす苧環の糸
五月雨の漏らぬひとやに漏りくるはたらちね思ふ涙なりけり
君を思ふ我が真心を九重の雲井にあげよ雁の玉章
偶感
花に啼く鶯ならで我はこれ青葉隠れの山ほとゝぎす
常陸の東端に近き今伝寺の松林に
病を養ひつゝありし時友の松露を
求むるに答へて
寒ければ春の恵みもまたおそし東風吹く風をまつの下露
同じ所にて或る青年に与へける歌
仇波の寄せもや来ると鹿島灘ゆめな忘れそ国の護りを
勅題 河水清
朝日さす利根の河瀬の水清く新たなる世の春は来にけり
○
歌ふべき言の葉草も忘れけり春の心を鳥にこそ問へ
憶二金玉均一
芝浦明月水城花。 回レ首曾遊跡自遐。
仙鶴不レ帰春還暮。 惆然飲レ涙望二天涯一。
偶成
誤為二憂世客一。 六十不レ成レ家。
疎蕩余二酔骨一。 東海臥二煙霞一。』
鹿灘濤声怒。 刀水望悠々。
万里窮途客。 長歌悲二白頭一。』
抱レ病在二江上一。 而無二車馬喧一。
嘆レ身還慨レ国。 宛似二楚屈原一。』
(遺族、群馬県館林町片町、葛生述吉)
|
|
山座円次郎 (日露戦時の政務局長、駐支公使)
慶応二年十月、筑前福岡に生る。父の名は省吾。円次郎、幼にして荒津学舎に入りて漢籍
を修め、次いで藤雲館に入りて英語を学び、才学儕輩を圧した。学稍々進むに及び、青雲の
志を抱いて東京に上り、大学予備門に入つたが、学資豊かならざるを以て、修学の余暇雑誌
に寄稿し、又は飜訳に従つて学資を得つゝ苦学し、遂に東京帝国大学に入り、明治二十五年
法科を卒業して外務省に入り、領事館補として朝鮮釜山領事館に赴任した。是れ彼が外交官
として第一歩を踏み出したる発端にして、天佑侠の前身たる釜山法律事務所同人等と最も密
接なる関係を保ち、当時より既に識量手腕おのづから他に異るものがあつた。次いで上海及
び釜山の領事となり、二十八年公使館三等書記官となり倫敦に赴任し、三十年二等書記官に
進みて朝鮮京城公使館に転勤を命ぜられ、三十四年外務省政務局長となり、外交の枢機に
参画して益々手腕を発揮し、日英同盟の締結に与つて力を尽した。その政務局長たりし時代
は則ち名外相小村寿太郎が、多難なる我が外交を担つて日夜心血を絞りつゝありし時にして、
小村外相と彼とは当時一心同體の如くになつて国事に尽瘁し、少壮気鋭の彼は有らん限りの
力量を発揮して小村を輔佐したのである。蓋し当時は露国の満洲撤兵問題、及び対清対韓の
外交施設等、外交上の非常重大なる案件が緊迫の状態を呈し、興国の大策一に外交上の活
動によつて左右せらるべき関係に在り、毫も逡巡踟【アシヘン+厨*】を許さなかつたのである
が、廟堂の大勢は動もすれば姑息消極に傾かんとする傾向を呈して居たので、外務当局の苦
心は実に名状すべからざるものがあつた。この間に在つて彼は夙に対露開戦の臍を固めて畢
生の努力を傾け、単に外務省の内部に在つて対露問題に心血を濺ぐのみならず、広く外部の
同志と提携して対露開戦の促進に努め、其熱心さは対露軟弱論の巨頭と目さるる伊藤公の態
度を憤つて、或る会合の席上『伊藤公を殺すにあらざれば、我が対露の大策は行はれぬ』と激
語し、為めに物議を生ずるまでに至つた程である。(上巻七三一頁以下参照)
【* 補助漢字区点=6428 16進=603C シフトJIS=E0BA Unicode=8E70】
三十八年外相小村寿太郎が講和全権大使として米国ポーツマス会議に臨むや、彼はまた之
に従つて米国に赴き、小村全権を輔けて折衝縦横、克く大局を収拾したるのみならず、その帰
朝するに及び、政府当局が米国鉄道王ハリマンとの間に予備協定案文の作成まで進め居た
る南満洲鉄道譲渡案に対し、小村外相と協力して一気に之を粉砕し、以て満洲の今日あるを
得せしめたるは、本書中巻第八項に述べた如くである。四十一年英国大使館参事官に転じ、
倫敦にあること数年、大正二年六月特命全権公使に進みて北京駐箚を命ぜられ、日支間の
交渉問題が紛糾を極めてゐた時に当り処理宜しきを得て適材適所と評せられ、深く識者より
その活躍を嘱望されたが、大正三年五月二十八日急に病を発して北京に客死した。享年四十
九。正三位勲一等に叙せられた。
その人と為り風【三をタテ棒が貫く*】雄偉にして豪放卓犖。心境の明朗、気宇の高邁、真に
我が外交界に於ける偉器と称せられ、外面は磊落なるも内に細心の用意を蔵し、才気に絶し
外交の手腕に富み、加ふるに情誼に厚くして能く衆を包容するの雅量あり。支那朝鮮に遊ぶ
志士浪人の、彼れが恩恵を蒙むるもの尠しとせず。特に君国に報ぜんとする志厚く、東亜の経
綸に邁進せんとする精神気魄に至つては、幾多の外交官中にあつて倫を絶し、真に高山大嶽
の雲表に聳ゆる概があつた。前途春秋に富める身を以て卒然として急逝したのに対し、世人
挙げて之を痛惜したが、特に東亜問題に馳駆奔走せる在野の志士浪人がその死を惜むこと
痛切なりしによつて見るも、その偉材たりしことを思ふに足る。平生酒を好み、一飲斗酒を辞
せざるの概あり。遂に之が因となつて急逝するに至つたと称せられてゐるが、彼の死後、その
死の余りに突発的なりし為め、一部の間にはその能を忌むの余り支那人が謀つて毒を投ぜし
ものならんと推断した程であつた。
【* 補助漢字区点=1613 16進=302D シフトJIS=88AB Unicode=4E30】
神鞭知常はその愛嬢賤香の為めに佳婿を物色するに当り、『洋服を着た陶淵明の如き人物
を得て配としたい』といつてゐたが、青年外交官山座円次郎の存在を知るに及び、深くその人
物に傾倒し、之を理想の佳婿として愛女を嫁せしむるに至つたのであつて、世間は知常が鑑
識を誤らざりしを称し、伝へて以て世の語り草となつた。嘗て小村寿太郎に向ひ、外交官として
その後継者たるに足る逸材は誰かと訊く者があつたのに対し、小村は言下に山座の名を挙げ
たといふことである。之に依つても材幹の尋常にあらずして、小村の信認を受くること厚かりし
ことが知られる。
彼が駐支公使として北京に乗込んだ時代に日支の交渉案件紛糾を呈してゐた時で、それだ
けに我が国に於ける対支問題に関する議論は囂々を極め、外務当局に対する非難攻撃も盛
んであつたが、当時彼は北京から同郷の友人たる浦上正孝に手書を寄せて自己の信念を述
べ、自分に対して国内の輿論が多々益々非難攻撃を加へられることを望む。是れ国内輿論
の
趨向を示すもので、我が国民の要望は之によつて明かにせられるのであるから、対支交渉に
資する上に於て自分は寧ろそれを歓迎するといふ意味のことを通じ、国家の為めに満幅の熱
情を傾けて職分に邁進せんとする凛々の精神を明かにした。この書面は彼の死後、追悼会の
席上に於て朗読せられ、参列者に深い感銘を与へたのであつた。(中巻三十一項参照)現首
相広田弘毅は彼れの遺鉢を受けた後進である。因に彼は筆跡秀抜にして、その手簡の如き
は暢達の文章と相待ち稀に見る立派なもので、彼が単に天分のみの人にあらずして、深き修
養の人であつたことは手簡によつても知られた。未亡人賤香は賢明にして貞淑、現に擢んでら
れて秩父宮御用取扱を命ぜられてゐる。
(遺族、東京市赤坂区青山高樹町三、山座賤香)
|
|
山崎羔三郎 (玄洋社、漢口楽善堂、日清役軍探殉難)
福岡県鞍手郡山口村の人。旧福岡藩士白水清八の第三子にして、元治元年を以て生る。幼
にして両親を喪ひ、祖母によりて保育せられ、出でゝ山崎氏を襲ぎ、鞍手学校、藤雲館、福岡
中学校等に学び、又た漢籍を海妻某、筒井某等に学んだ。人となり沈毅豪邁にして気宇闊
達、夙に四方の志を懐き、広く天下の士と交り、その福岡玄洋社に在るや青年三傑の一人とし
て推重せられた。
後ち東京に遊学し、外人ハツトソンに就て英語を学ぶの余暇、都下の名士論客を訪ひて時
事を論じ、朝野の政客が党争に耽つて敢て東方の大計を顧る者なきを慨歎しつゝありしが、
偶々荒尾精に邂逅して東方政策を論じ、深く荒尾の説に服して遂に渡清の志を決するに至つ
た。斯くて有為の青年を糾合して事を共にせんと図り、百方奔走して十余名の同志を得たる
も、之が経費を得るの途なく、屡々謀りて屡々敗れ、一時奈良県に赴きて英語塾を開き学生に
教授しつゝ時機の至るを待つたが、明治二十一年に至り同県の先輩平岡浩太郎が大陸経営
の志士を養成する為め、資を給して有為の青年を支那に派遣せんとするに方り、彼も亦た之
に加はりて、同年九月三十日同志数名と共に上海に渡航した。この一行には中野二郎が監督
として同行し、最初上海城内の馮相如に就いて南京官話を学ばしめたが、時に荒尾精は漢口
楽善堂に拠つて雄図を画しつゝありしを以て、山崎は去つて漢口に赴き荒尾の傘下に投じ、支
那語及び支那事情の研究に従つた。
既にして弁髪漸く長く、言語も亦た熟するに至れるを待ち、翌二十二年孤剣飄然内地探検の
途に上り、邦人の未だ曾て到りしことなき雲南、貴州の奥地を探り、名を常致誠、字を子羔と
称し、全く支那人の風を装ひ、或は売薬行商人となり医師となり、又は売卜者となり乞食となり
て、風餐露宿、有らゆる艱難を甞めつゝ探検の旅を続け、同年十二月末一旦漢口に帰り、翌
二十三年一月四日又もや南清地方探検の途に上りて、広東、広西方面の奥地を探り、同年六
月上海に帰着し、日清貿易研究所の設立せらるゝや、その庶務を担任して荒尾を輔佐した。
然るに研究所は創立早々より財政窮乏の為め経営困難を極め、荒尾所長以下幹部の苦心一
方ならざるものありしを以て、山崎は内地有力者に説いて之を援助せしめんが為め、二十四
年五月帰朝して九州及び京阪地方に奔走する所ありしも、容易に目的を遂ぐるに至らず、一
時郷里に帰りて著述に従ひ、徐ろに捲土重来を期した。されど荒尾より書を寄せて渡清を促が
すこと頻りなりしかば、二十六年六月再び起つて渡航の途に上り、漢口熊家巷に写真屋を開
き、一写真師の風を装ふて大に画策する所があつた。
越えて二十七年初夏の頃、稲垣満次郎が支那に遊び南清地方を視察せる際、之が東道とな
つて共に各地を旅行したが、偶々上海に着せる時朝鮮の変報に接するや、我れ国恩に報ゆる
秋到れりとて、支那政府が南清地方より朝鮮に派遣する軍隊を載せたる汽船の碇泊せるを奇
貨とし、単身その中に混入して朝鮮に赴き、上陸後我が当路者を訪ふて具さに方略を開陳し、
その容るゝ所となるや窃に牙山の敵営に紛れ入り、留ること七日、日々兵営内外の情形を偵
察し、防禦物の所在、附近河流の深浅、兵数の如何等を明かに探知し、遂に敵兵の怪しむ所
となつて拘禁せられんとするや、能く奇智を以て虎口を脱し、昼夜兼行にて京城に向ふ途中、
日本軍騎兵の偵察隊に邂逅し、その案内にて長岡参謀少佐(外史、後の中将)に会し、具さに
復命することを得た。牙山方面に於ける我軍の作戦計画は多く彼の探知した報告によつて定
められたといふことである。
七月二十三日、我軍が朝鮮京城に於て韓兵を駆逐し、大鳥公使が王城に入つた際には、彼
は大院君の邸宅守護として大に尽力し、成歓、牙山の戦には混成旅団司令部に属し、敵の銃
を奪ひて奮戦し、後ち龍山兵站部附となつて通訳の任に当り、平壌攻撃の前には病後の身を
以て或は偵察任務に当り、或は軍の嚮導となり、或は物品徴発、俘虜訊問に従ふ等、我が軍
の為めに多大の貢献をなした。
平壌陥落の後一旦広島に帰り、大本営に於て第二軍司令部附通訳官を命ぜられ、擢んでら
れて特別秘密偵察の重任を授けられた。斯くて広島滞在中、軍司令部の参謀会議に列席して
当局の諮問に応じたり、或は参謀総長有栖川宮熾仁親王から特に謁を賜うたりしたが、十月
十六日軍司令官大山大将以下幕僚と共に出征の途に上り、第二軍の兵員と共に運送船に乗
つて大同江に仮泊中、我が軍の上陸に先ち金州半島に上陸して普蘭店より遼陽方面の敵情
を偵察すべき命を受け、同月二十四日同志五名と共に支那人に変装して水雷艇に乗じ『この
行、奇功を建てずんば、生きて再び諸君に見えず』とて勇躍してその任に就いた。
其夜山崎等を載せた水雷艇は予定の上陸地点たる花園河口附近に達し、端艇を下して彼
等を乗せ、闇に乗じて海岸に漕ぎ寄せ、山崎等六名の志士は相次いで陸に上り、忽ちにして
その姿を没した。嗚呼風蕭々として易水寒しの感、水雷艇に乗つて彼等を送り来りし神尾光臣
少佐(後の大将)等は、之を見送つて惨然たらざるを得なかつたといふ。
十一月六日我軍金州城を占領するに及び、支那軍の遺留せる書類を検して、初めて山崎が
敵手に落ち、鐘崎三郎、藤崎秀と共に金州海防分府の獄に投ぜられたる事実を知りしも、其
後の消息全く不明にして、その運命の帰する所を知るに由なかつたが、翌二十八年二月初旬
に至り、支那人王某の言に依りて始めて惨殺せられし事実を確め、王某の案内によつて処刑
の現場を調査し、屍體の発見に努めたる結果遂にその所在を知り、之を発掘したるに、三屍
各々身首処を異にし、厳寒の為め凍結して惨状実に見るに忍びざるものあり、衆相顧みて熱
涙潜然たるを禁じ得なかつた。山崎の捕へられしは十月二十六日にして、碧流河の渡船場に
て支那巡邏兵の為めに発見されて縛に就き、次いで捕へられたる鐘崎、藤崎の二士と共に金
州の獄に繋がれ、日夜残刻なる拷問を受け、我が軍情を糺問せられしも、言語の通ぜざる状
を装ふて一語をも発せず、遂に免るべからざるを見るや『我は大日本帝国の臣民、福岡県士
族山崎羔三郎なり。速に我が頭を斬れ。我れ何ぞ死を畏れんや』と大声疾呼し、神色自若とし
て毫も平日と異ならず。獄吏も舌を巻きてその豪胆に驚いた。同月三十一日夜、鐘崎、藤崎両
士と共に金州西門外の刑場に送られ、斬に際して清国の法に従ひ、西南に向ひ皇帝を拝せん
ことを命ぜらるゝや、大に怒り罵つて曰く、『日出の国 聖天子のましますあり。何ぞ蛮主を拝
せんや』と東向して動かず。獄吏怒つて刀を以て山崎の面を乱打し、流血淋漓たるも毅然とし
て屈せず『吾輩死すとも魂魄は必ず祖国に帰る。何ぞ汝が輩の命に従はんや』とて遂に首を
刎ねられた。時に年三十一。
遺骸の発見せらるゝや、師団長山路元治中将深くその壮烈に感激し、忠死の二字を墓標に
書し、将士を会して之を祭り、遺骨を庁外の招魂社内に改葬し、一半は之を郷里に送つた。次
いで根津一はその忠烈を長へに伝ふる為め、碑を金州城北門前の山上に建て『大日本志士
山崎羔三郎君捨生取義之碑』と題し、鐘崎、藤崎両士の為めにも亦た同様の碑を建て、その
山の岸壁に朱桐油を以て三崎山の三字を大書し、三士の姓に斉しく崎の字あるに因みて之を
山名とした。後ち三国干渉によつて遼東半島還附せらるゝに至るや、捨レ生取レ義之碑は之を
内地に持帰り、東京高輪泉岳寺赤穂義士の碑に近き所に建てた。泉岳寺境内の一角に現に
存するものが即ち之れである。
殉難の後三十余年、昭和三年に至り山崎の功を追賞して贈従五位の御沙汰あり。嗚呼烈士
死して洵に余栄ありと謂ふべきである。 |
安永東之助 (玄洋社、日露役満洲義軍)
明治五年十一月、福岡市西方寺前町に生る。父祖は世々福岡黒田家に仕へる武士であつ
た。東之助は明治二十四年を以て福岡修猷館中学を卒へ、後ち東京美術学校に入つて絵画
を学ぶこと約二ヶ年、更に採炭測量製図術の研究に従つたが、資性闊達にして四方の志あ
り。内田良平等と深く交り、内田の慫慂により明治三十二年農商務省海外練習生となつて上
海に赴き、長江沿岸を中心として鉱業其他の実地研究に従ひ、兼ねて支那語を修め、且つ日
支両国の志士と往来して他日の飛躍に備ふる所があつた。三十四年帰朝して九州日の出新
聞社に入り、三十六年福岡九州日報に転じ、政治欄に拠つて健筆を揮つた。
三十七年日露の役起るや、男子報国の秋到れりと為し、玄洋社の同志柴田麟次郎、小野鴻
之助等と謀り、戦地の特別任務に服せんとするの志を起し、佐世保に赴きて萱野長知、福島
熊次郎、金子克己等の同志を得、共に相携へて東上し、頭山満、山座円次郎等に依つて当局
に従軍の志望を通じ、遂に陸軍通訳官の名目の下に出征の志願を達するに至つた。蓋し東之
助等の計画は当局の認可を得て満洲に赴き、草沢の豪傑を糾合して皇軍の為めに別働隊た
る活躍をなし、併せて東亜の大局に処すべき、日支両国の国民的提携の実を挙げんとするに
あつたが、当時当局に於ても遼西其他に行動せしむべき特別任務班を編成すべき計画熟し
居りしことゝて偶然その希望に合致し、陸軍歩兵少佐花田仲之助を抜擢して之を統轄指揮せ
しめることゝなつたのである。最初東之助が福島安正少将を訪ふて志望を述べし際、少将は
先づ問ふにその経歴を以てしたるに、東之助昂然として曰く。『余は閣下に語るに足る経歴を
有せず。然れども閣下若し余に問ふに国家の為めに死するかといはば、余は喜んで然りと答
ふることを得可し。余は斯く答へ得べき修養を玄洋社にて積みたり』と。後日少将語りて曰く。
『エライ豪傑がやつて来た』と、その壮烈の状を感歎して措かなかつたといふ。
彼が花田少佐の麾下に属して出征せし以後の行動に就ては、少佐の事歴報告に次の如く記
載され居るを以て、今その原文の儘を茲に引用する。
★ ★
『明治三十七年五月十七日、大川愛次郎、小野鴻之助、福住克己(後に金子と改姓)、真藤慎
太郎、福島熊次郎、柴田麟次郎、萱野長知の七氏と共に、遼東特別任務の為め陸軍通訳を
命じ、大本営附として歩兵少佐花田仲之助の指揮下に入り、国家の難に赴かんとして踴躍して
帝都を発し、六月一日安東に上陸、次で靉陽辺門に至り満洲義軍編成の事に参与せしが、六
月二十二日レネンカンプ騎兵団逆襲のあほりを喰つて一時四散し、間もなく一同集合、遂に七
月二十二日義軍四十名を率ゐる花田少佐総指揮の下に関工兵少尉に附属し、関騎兵少尉の
指揮する同じく四十名と共に総員唯だ八十名、新募寡弱の義兵を以て、同じ目的を以て賽馬
集より進出し来れる日本軍歩兵大隊の前衛中隊の嚮導となり、安永氏自ら尖兵の先頭に立ち
て、暗夜大雨中、路なき山間の絶壁を辿り、前衛中隊と連絡絶えしも義軍は独力【土+咸*】廠
に迫り、其の西南方約七百米の高地を占領し、折から出現せる敵の騎兵縦隊五百を急射せし
に、敵は一時潰乱せしも直に整頓して我が脚下に襲来し、義軍兵大に怖れ、且つスナイドル銃
の銃身熱して用ふる能はざらんとするに至れり。しかも予期せる日本軍は猶ほ進出し来らず、
花田少佐幹部を督して防戦大に努む。安永氏毅然として驚かず、銃砲弾雨注の間に屹立し、
自ら銃を執つて大に戦ふ。之が為めに各幹部以下百名足らずの劣勢を以て苦戦一時間に亘
り、日本軍漸く進み来れるによつて共に攻撃前進し、正午頃全く【土+咸】廠を占領せり。この無
謀に近き冒険成功せる結果、義軍の将来に一道の光明輝き、間もなく一千の義兵来り投ずる
に至れり。この一戦元より諸幹部の沈勇奮戦の結果なりと雖も、安永氏の剛胆堅忍、適当の
嚮導を為し、最有利なる陣地を占領せる賜に外ならず。安永氏の戦功は此一戦を以てして既
に充分なりと云ふべし。氏の戦功は之に止らず、一々之を記するに勝ふべからず。其戦闘に
参加すること三十余回に及び、松田大尉の指揮する松花江上流地方遠征隊に参加し、関掩
撃隊統領の指揮下に敦化県額木索を占領せるなど、その勇敢なる行動、之を聞くだに骨動き
肉躍らんとするの感あるものあり。氏行軍の間、常に画筆を携へ、松花江遠征隊に従ふや、
途上画き得る所を総統花田中佐に送る。総統之を畏き辺りに奉献せるが、福島将軍は一書を
総統に送つて曰く。「(前略)此度侍従武官伊藤中佐の帰便を以て 皇太子殿下へ松花江遠征
途上の画四枚(中略)を奉呈致し置き候。此に大兄並に貴部下諸君の御武運長久を祈る。明
治三十八年八月十七日。福島安正」と。また以て安永氏の光栄となすべく、且つ軍旅の間に於
ける氏の風懐を見るべし』
【* 補助漢字区点=2412 16進=382C シフトJIS=8CAA Unicode=583F】
★ ★
平和克復後、義軍の同志は多く凱旋したが、安永は大に期する所あつて独り満洲に留り、三
十八年十一月十六日資源調査の為め通化東方、鉄廠に旅行中、前に義軍の副官加藤大尉、
有馬少尉(当時奥田)の為めに露探の嫌疑を以て厳訊せられたことある海龍城巡捕隊長劉宝
書の為め狙撃され、前途有為の身を以て非業に殪れた。時に年三十四。墓は福岡玄洋社墓
地にある。戦後、従軍中の功に依り勲六等に叙し、旭日章を賜はつた。
(遺族、山口県麻里布町今津三四九、帝国人絹山ノ内社宅、安永亮之助)
|
|
的野半介 (玄洋社、代議士、東亜)
安政五年五月二十八日を以て、福岡城下なる谷村に生る。幼名広吉、次で薫と改め、後又
た半介と改めた。幼時より剛毅【イ+周*】儻にして頗る気骨あり。稍々長じて佐賀及び長崎に
遊び、学を修め、福岡に帰りて玄洋社に入り、益々天稟の侠骨を鍛へた。夙に文章と演説を
好み、弁舌流暢ならざるも訥々として熱誠を披瀝する所、却つて一種の雄弁を為し、深く人を
動かすものがあつた。既にして自由民権論の起るや、出でゝ四方の志士と交り、民権論を提げ
て天下に周遊し、その足跡東北より北越地方に及び、後ち足を東京に留め、芝青松寺内に一
屋を借りて来島恒喜等と同居し、此処を志士の梁山泊として国事に奔走し、米塩屡々尽くるも
敢て意とせず、辛酸備さに甞むる所あつた。やがて朝鮮独立党の志士金玉均が失脚して我が
国に亡命し来るや、之を追ふて来島恒喜と共に小笠原島に至り、玉均と肝胆相照らして朝鮮
扶植の計を策し、玄洋社の同志と共に韓山に事を挙げんとしたが、偶々大井憲太郎等の大阪
事件起つて、壮図空しく挫折するに至つた。しかも彼の東亜経綸に任ぜんとするの志は此頃よ
り益々盛んなるを加へた。
【* 補助漢字区点=1753 16進=3155 シフトJIS=8974 Unicode=501C】
後ち福岡に帰つて若松港に精米所を開き、之が経営に当つたが、当時既に自由民権論の
主張者として、将た又東亜経綸の志士としてその名を知られ居たるを以て、彼を訪ひ来る者漸
く多く、名は精米所なれども実は宛然たる梁山泊の観を呈し、鈴木天眼、南部重遠、関屋斧太
郎等を始め、志士浪人の類或は寄寓し或は去来し、出入頗る頻繁を極め、之が為めに精米
所の経営不如意となり、遂に没落の運命に陥るに至つた。此間郷党の間に侠名益々高きを加
へ、地方に難問題起りて紛糾を呈する毎に、彼れ出でゝ裁断すれば忽ち解決を得るといふ程
の声望を集め、地方公共の為めに貢献したること、挙げて数ふべからず。若松港の繁栄、八
幡製鉄所の招致等は彼が尽瘁の功与つて多きに居る。
明治二十七年、金玉均が上海に於て暗殺に遭ひ、朴泳孝が刺客の狙ふ所となつた当時、彼
は多年心血を濺げる朝鮮問題の為めに蹶起し、扶韓討清の意見を提げて東都福岡の間を往
来し、同志と共に輿論の喚起に努むる所あり、一日同志を代表して外相陸奥宗光を訪ひ、清
国膺懲の師を起さんことを熱心に説いた。陸奥は之を書生論なりとて排斥して肯かず。的野ま
た之を駁し、両々相持して譲らず。陸奥は遂に『戦争が出来るかどうか、川上参謀次長の所へ
行つて聞け』とて紹介状を与へて川上操六を訪はしめた。彼れ乃ち転じて川上次長を訪ひ、同
じく対支開戦の止むべからざるを説くや、川上はその所説を傾聴した後、徐ろに曰く。『貴下の
言ふ所は真に理を尽せるも、伊藤首相を以てしては開戦は思ひも寄らず。されど福岡玄洋社
は錚々たる遠征党の淵叢と聞き及んでゐるが、若し韓半島に渡つて火の手を揚げる者あら
ば、吾等は本務に従つて火消し役を引受くるに躊躇せず』と、頗る意味深長の言を以てした。
この一語を得て的野は直ちに同志と謀り、決死の志士を糾合して間もなく朝鮮に向はせたが、
此志士の一団こそ鈴木天眼、内田良平等十有余名の天佑侠と称する志士の仲間で、彼等の
朝鮮に於ける活動はやがて日清開戦の有力なる動因の一つとなつたのである。当時的野も朝
鮮に入るべき予定なりしも、政府の監視厳しかりしと、一は義兄平岡浩太郎が衆議院議員に
立候補せる為め、之を助くるに忙しく、遂に内地に留るの余儀なきに至つたといふ。
後ち福岡県より衆議院議員に選出せらるゝこと三回。議会に在つては常に対外硬の主張を
持し、国力を外に張らんことに努め、尋常代議士とおのづから選を異にする所があつた。日露
戦役前には開戦論を提げて国論の鼓吹に力を注ぎ、戦後満洲に遊びて暫らく足を留め、深く
経綸を期する所あり、又た日本移民協会の設立に参加し、その幹事となつて印度支那及び南
洋各地の視察に従ひ、或は長谷川芳之助等と太平洋協会を組織し、幹事として大に活動し
た。蓋し対外問題は最もその心血を濺ぎし所にして、愛国の至情常に鳴つて止まざるものがあ
つた。新聞界に在つては九州日報の前身たる福陵新報の社長として、之が発展を遂げしめ、
九州日報と改題するに至つたのもその社長時代のことであり、更に門司に関門新報を起して
侃諤の論陣を張つた。筑後三井郡に農民の騒擾事件勃発した際、その主動者等は平素の鬱
屈せる心事を天下に公表せんとしたが、何れの新聞社からも記事の掲載を拒まれ、結局之を
的野に訴ふるや、快く紙面を開放して小作人の為めに力を仮し、能くその鬱懐を伸ばさしめた
る如き、新聞経営者としても彼れ一流の侠骨を発揮した。
彼の議院生活中、特筆すべき一逸話は、復古功臣前功表彰に関する請願の斡旋で、当時こ
の請願に関してなした彼の演説は声涙倶に下り、満場の議員をして覚えず襟を正さしめた。之
が為めにその請願は満場一致を以て採択され、遂に江藤新平、島義勇、桐野利秋、前原一
誠、村田新八、篠原国幹、大山綱良等は旧勲を録し、其の位記を復するの恩典に浴するこ
とゝなつたのである。
平生国事に奔走して産を治むるの遑なく、時に金銭を得ることあるも、直ちに散じて惜まず。
之が為め家に余財なく、甞て財産差押へを受け、次いで破産宣告を受けたこともある。当時、
此の冬は貧乏の棒をかつぎ折りこしかた(腰肩)軽き年の暮かな
といふ狂歌一首を詠んで、何等憾む風もなかつたといふ。大正六年外遊の志を起し、未だそ
の途に上らざるに先ち病に罹り、同年十一月十九日歿した。享年六十。
雲井龍雄伝、北海道開富策、大陸策、長谷川芳之助伝、来島恒喜伝、江藤南白伝等の諸
著がある外、彼が地方繁栄の為めに尽力したる八幡製鉄所の創立史『嗚呼洞海湾』の著は病
中将に稿を了せんとして、其身忽ち歿するに至つたのである。
(遺族、八幡市黒崎町安川社宅、三藤はる子)
|
|
松井百太郎 (黒龍会、大日本武徳会範士、東亜)
号は宗忠。元治元年二月八日、福岡市薬院町に生る。父は黒田藩士松井嘉吉。百太郎は
その長男である。明治の初期武道全く衰へたる時に方り、伯父松井幸吉が箱田六輔の勧めに
よつて柔道々場を開くや、その門に入つて技を磨き、更に舌間宗綱(慎吾の養父)に就て蘊奥
を極め、後ち鎮西各地に武者修業の旅を重ね、傍ら剣道を真影流の有地義雄に、槍術を大
坪某に学び、技益々進み、十九歳の時所謂千本取に見事勝ち抜いて斯界の大立者となつた。
適齢にて小倉聯隊に入り銃槍教師に挙げられ、除隊の後明治二十一年東京に上り、爾来警
視庁其他の柔道師範となり、赤坂一条家邸内に道場を設けて門弟を養成した。後ち赤坂福吉
町に二百畳敷の大道場を設け、旧藩主黒田長成侯より尚武館の名称を与へられたが、その
規模の大なること本邦第一と称せられた。平常国事を憂ひ、黒龍会に投じて対外問題に力を
尽す所あつたが、昭和七年八月十六日、突然心臓病の為めに歿した。年七十。是れより前大
日本武徳会柔道範士に列し、武道の為めに尽瘁する所尠なからず、殊に全国柔道家の為め
に整復術開業の途を講じ、大正九年内務省令を以て試験制度に依る認可の途を開かしめた
る如きは、柔道普及上没すべからざる功労で、死に至るまで大日本柔道整復術会々長として
重きをなしてゐた。
(遺族、東京市赤坂区福吉町二、松井宗継) |
|
藤井種太郎 (玄洋社、満洲義軍)
明治三年六月十六日、福岡県筑紫郡住吉村字住吉に生る。明治十八年五月福岡玄洋社に
入り、漢籍及び数学を学び、又た銃剣道の指南を受け刻苦励精する所あり。十九年五月より
は人参畑の女傑高場乱の塾に入つて専ら漢籍を修めた。乱は原采蘋、野村望東と共に筑前
の三女傑と称せられし女丈夫、亀井南冥の学統を継ぎて古学を主とし、門下の諸生には印刻
の書を用ふることを禁じて皆之を手写せしめ、その書を講ずるや章句に泥まずして大綱を説く
に止め、細論は之を書生の討究に委する教育方針を執り、好んで三国志、史記、靖献遺言等
を講じ、以て子弟の気節を養ふに努めた。されば頭山満、進藤喜平太を始め玄洋社諸先覚は
概ね其の門下の出にしてその門下よりは慷慨気節の士を出すこと多く福岡に士道の神髄を體
得せる人物の多く輩出せるは一に高場乱の教化に負ふ所多しと称せらるゝ程である。種太郎
がその門下に在りし期間は必ずしも長からざれど彼の天稟を以てして得る所の甚だ多かりし
は察せらる。
明治二十年一月頭山満が福陵新報を発刊せんとするや、種太郎は直に之に入社し、機械運
転、庶務の雑事等一としてその労に任ぜざるはなく、昼夜身心を之に傾けて黽勉し、人をして
その献身的の努力に驚歎せしめた。頭山も亦深くその誠実を喜び、自ら指頭を刺し鮮血を盃
に受け以て義を盟ふに至つたといふ。後ち頭山の後援を得て東京に遊学し、二十三年慶応義
塾に入学し、同郷同級の友人塩田某と互ひに勉学を競ひ、徹宵【口+伊*】唔の声を絶たず、
人をしてその絶倫なる努力の状を感歎せしめた。
【* 補助漢字区点=2124 16進=3538 シフトJIS=8B57 Unicode=54BF】
明治二十七年征清の役起るや、軍夫百人長となりて第一軍に従ひ、朝鮮及遼東の各地に行
役し、二十八年十二月帰朝して玄洋社の為めに尽瘁し、三十年十月よりは穂波炭坑運炭部長
となつて久しくその職に在つたが、三十七年日露の風雲急を告げ、安永東之助等が特志従軍
の運動を起すや、職を辞して之に参加した。斯くして彼の満洲に於ける活躍となつたのであ
る。義軍参加中の事蹟に関しては花田中佐の報告に左の如く録されてゐる。
★ ★
『明治三十七年七月十日陸軍通訳満洲軍総司令部附として遼東特別任務隊配属、十三日東
京発、八月二日在【土+咸*】廠満洲義軍本部着任。総統花田少佐の指揮に入り爾来各地に
転戦す。明治三十七年八月六日、敵の特別任務隊マドリトフ支隊が【土+咸】廠を包囲せんとす
るに当り、左翼第三隊長関騎兵少尉を輔け遼陽街道上泡子沿に来襲せる歩騎砲約六百の敵
に対し、友軍大隊と共に之を撃退し、八月二十六日平頂山総攻撃の際は新募未熟の第八隊
副長として広瀬隊長を輔佐し、諸隊と共に歩騎約八百の敵を撃退し、猶街壁に占拠する敵中
に突入して数敵を傷け、自ら乗馬二頭を分捕りたるを初功名とす。同九月露軍は遼陽奪回を
企図して南下の兆あり。花田総統は友軍三輪聯隊と策応して三龍峪方面の敵を脅威牽制せ
んとし、義軍主力を以て該方面に活躍す。十九日諸隊と共に馬圏子を占領し、翌二十日親衛
隊長奥田曹長を補佐して雨中大背嶺の絶険を攀登して、三輪聯隊の一撃を喫し大岑方面より
退却し来る敵騎三百及び三龍峪兵站部に向ひ猛烈なる瞰射を行ひ、多大の損害を与へたる
功尠からず。
【* 補助漢字区点=2412 16進=382C シフトJIS=8CAA Unicode=583F】
同年十月沙河会戦に際し、義軍は根拠地【土+咸】廠を空ふし全力を挙げて平頂山に進出
し、要地に散兵壕を築設し、日本軍右側を掩護せんとせしに、敵は之に反対せる目的を有して
南下を企て、十月六日従来に比し兵力、攻撃力とも頗る勢猛く、驀直に我が【登+オオザト*】廠
前哨部隊を蹴破して直に平頂山に殺到せり。その兵力正しく歩騎一千五百、砲四門なり。此時
藤井氏は親衛隊長として部下五十名を率ゐ、花田総統に直属して本街道を守備し、第四、第
五、第七隊と共に屡々敵の猛襲を抑へてその鋭鋒を挫き、午後一時より同九時までその陣地
を維持したるが、敵の主力は我が黄口山の本陣地を占領したる結果、諸隊との連絡を失し、
敵は夜暗に乗じて山間の小径より義軍左翼を迂回して遂にその退路を絶ち、花田総統、顧問
馬連瑞も亦親衛隊と共にその包囲中に在り。此時氏はその天性の剛胆を発揮し、自若として
恐れ惑ふ部下を激励して孤軍四敵に当り、深夜辛ふじて囲を脱し、以て総統及び顧問を九死
の裡より救ひ得たり。蓋し奇勲と称すべく、此の一戦は実に藤井氏一生の花と謂ふも可なら
ん。
【* 補助漢字区点=6639 16進=6247 シフトJIS=E1C5 Unicode=9127】
三十八年奉天会戦前、義軍の活動は特に目覚ましかりき。此時藤井氏は終始親衛隊を率
ゐ、白旗堡、東賛堡子、武夫甲、興京、東昌台、紅石拉子等の各戦闘悉く参加し、彼の肥満
の短躯を提げ、山河を跋渉して曾て疲倦の色を見ず、勇気凛々乎として渾身に充つるものあ
りたり。終りに三十八年九月十日部下親衛第一隊の五十名を以て、加藤大尉の指揮下に属
し、韓国境より北退する敵騎三百を頭洞に要撃して甚大なる損害を与へ、その四、五十騎が
機動第二隊を襲撃するに当り、直に応援して撃退したる功又大なり。
十月十六日平和克復して義軍活動の幕茲に閉づ矣。三十九年四月一日附戦功に依り勲六
等単光旭日章及年金八十円を賜はる』
★ ★
戦後大連の相生由太郎に招聘されて戦友樋口満と共に大連に赴いてゐたが、後ち帰国して
立憲同志会支部幹事、玄洋社幹事として政界其他に尽力し、支那の第一革命の際は頭山満
に随つて上海に赴き、一行中でも最も胆力、腕力に優ぐれた勇猛の士として日支両方面から
畏敬された。当時彼は袁世凱を殪すにあらざれば革命の業は成らぬといふ意見で、頻りに自
らその任に当らんことを願つてゐたのであるが、革命も遂に不徹底の状態で終りを告げ、また
その志を遂げる機会なく憤慨禁じ得ざるものがあつた。
大正三年十一月頭山満が福岡に帰省した際、同地東公園一方亭に於て官民合同の歓迎会
が開かれ、その時歓迎委員として斡旋大に力め、畏敬する先輩の帰省を喜ぶの極、平素余り
用ひざる酒盃の数を重ね、電話を掛けんとする際突然卒倒して遂に其儘不帰の客となつた。
時に十一月二十一日、享年四十五であつた。翌朝弔問した頭山は藤井の遺體の死顔に自分
の顔を推し当てゝ少時離れず、又黙祷を三十分間許りもして尚ほその側を去り兼ねたるには
並居る面々も如何に頭山が平素之れを愛することの深かりしかを想ふて感動措く能はなかつ
たといふ。
(遺族、東京市牛込区天神町六五、藤井誠一)
|
|
藤島勇三郎 (玄洋社、東亜)
福岡黒田藩の士族。慶応二年十一月福岡市春吉に生る。十四歳の時玄洋社の前身たる向
陽義塾に入りて陶冶を受け、次いで鹿児島及び長崎に遊学して英学を修め、十九歳の時京都
に赴き同志社に入学したが、当時同校の学風欧米崇拝に堕して学生の風紀柔弱なるを慨し、
之が革新に努力する所あり。體躯偉大、身長五尺八寸、柔道四段の猛者にして儕輩の間に異
彩を放ち、花和尚魯智深の再来と評せられた。後ち病に罹りて土佐、熱海等に遊び、一旦帰
国の後、明治二十年秋、山崎羔三郎、木本幹、浦敬一等と共に東京に上り、二十一年春、綱
紀の弛廃、外交の失敗を論じて政府に意見書を提出し、更に之を秘密文書に附して全国に頒
布したる廉に依り、星亨、加藤平四郎等と共に石川島監獄に投ぜられたが、二十二年憲法発
布の時特赦されて出獄した。二十四年早稲田大学の前身たる東京専門学校を卒業し、その頃
より朝鮮亡命の志士金玉均、朴泳孝等と往来、同年秋孤剣飄然朝鮮に遊び、暗中飛躍を試
むる所ありしも事志と違ひて帰朝し、翌二十五年露国の東侵に備ふる為め満蒙の地に入り露
清国境方面を探検せんとする志を起し、三浦梧楼、頭山満等の賛助を得て準備を進め、更に
参謀本部の大久保春野少将より秘密地図を得て愈々東京を発し、途中福岡に帰省したるに、
知友その行を壮として連日送別の宴を張り、痛飲回を累ねる裡、忽ち喀血し、旅装を枕にして
呻吟すること久しきに亘り、遂に不治の疾に変じ、二十七年二月十一日空しく壮図を齎らして
世を去つた。時に年三十。遺骸は福岡千代松原崇福寺境内の玄洋社墓地に葬つた。生前娶
らず、藤島長和その後を嗣いだ。
(遺族、福岡市万町一五、藤島長和) |
|
福島熊次郎 (東洋日出新聞、満洲義軍)
明治三年四月十九日、埼玉県田間宮村大字糖田に生る。須田太郎八の男。出でゝ福島氏を継ぎその姓を冒す。明治十八年四月糖田高等小学校を卒へ、同校の助教を勤むること二年、二十一年東京に出でゝ三島中洲の二松学舎に入り漢学を専攻すること数年、その学大に進んだ。この間講道館にて柔道を学び、その技二段に達した。明治三十年の頃、初めて天眼鈴木力に会し、意気大に投合して爾後操觚の業に従ひ、台湾日日新聞を創刊して之に筆を執り、三十五年には更に鈴木天眼と共に長崎に東洋日の出新聞を創刊してその経営に力を尽した。同紙は創刊の当初より多数の志士之に関係し、福岡玄洋社の有志も亦た之を支援して東亜問題に関する志士の淵叢たる観あり、鈴木天眼の異彩ある文章と相俟つて一躍鎮西の一角にその存在を明かにしたが、福島の献身的努力また与つて多きに居ると称せられる。
日露の役起るや福島は玄洋社の志士と相携へて篤志従軍を志願し、遂に許されて陸軍通訳となり、花田仲之助少佐の麾下に投じ、所謂満洲義軍の一幹部として縦横の活躍を演じた。その戦歴に関し花田中佐(戦時中に中佐に昇進)の手許に於て記録されたる報告を掲げると次の如く記されてゐる。
★ ★
『明治三十七年五月十七日、大本営附陸軍通訳。花田少佐の指揮下に入り、五月二十二日東京出発。二十八日宇品出帆。六月一日安東県上陸。六月二十二日靉陽辺門防戦。八河灘募兵。七月二十二日【土+咸*】廠占領に参与し、八月二十六日平頂山攻撃には左翼第一隊長水谷通訳を輔け親衛隊に跟随して小平頂山の高地より諸隊と連繋して敵の中堅に向つて猛襲し、激戦の後之を撃退せり。
【* 補助漢字区点=2412 16進=382C シフトJIS=8CAA Unicode=583F】
九月初旬義軍は花田総統之を指揮して、撫順、遼陽西街道方面に活動中、【土+咸】廠は日本軍後備歩兵一中隊と義軍兵約二百五十あるに過ぎず、マドリトフ支隊即ち此の虚に乗じ、月の三日【→九月三日ヵ】逆襲し来れり。此日福島通訳は水谷通訳と共に部下左翼第一隊を以て台溝より近迫せる敵を要撃して諸隊と共に之を撃退し、【土+咸】廠守備の任を全うし日本軍の右側背を掩護せる功大なり。
九月二十日、三龍峪攻撃に際しては水谷通訳を輔け、五百牛【碌−石*】方面を警戒し、夜間は戦闘前哨と為りて三龍峪方面の敵に対し、二十一日後衛に任じ、本隊をして事なく予定地点に到達せしめたり。
【* 補助漢字区点=2888 16進=3C78 シフトJIS=8EF6 Unicode=5F54】
同年十一月以後は第四隊副長に任じ、十七日平頂山攻撃に参加して敵騎一中隊を潰滅せしめ、十八日花尖子を攻撃占領、二十一日懐仁占領、十二月十六日第九隊長を命ぜられ、敵の歩騎四百を諸隊と共に平頂山に要撃して潰乱せしめし等武勲赫々たるものあり。
三十八年一月五日より掩護諸隊と共に友軍右翼警戒の為め葦子峪に位置して永陵、三龍峪方面に対して動作し、二十二日千合嶺を夜襲して之を占領し、清河城方面の敵を威嚇せり。同年三月二十四日義軍本部附を命ぜられ、副官加藤大尉、奥田少尉の指揮に従ひ、主として陣中日誌の記載を掌り、其他庶務会計を処理し、義軍の内務に貢献したること極めて多し』
★ ★
義軍に従軍中、彼は一日馬賊の頭目として有名なる楊二虎と相撲を取り、柔道の妙技を発揮して力自慢の楊二虎を手玉に取つて飜弄し、義軍の兵勇から鬼神の如くに畏敬されたといふ逸話もある。是れより前、出征の途に上るに際し、支給されたる手当の大部分を割いて旧師吉見起三に金百円を贈り、『此の行固より生還を期せず。この金聊か以て令息の学資の一端ともならば幸なり』とて、昔日の師恩に酬ゆるの意を表し、其後吉見起三が教育功労者として文部省より表彰せらるゝや、更に袴代として金三十円を送つて祝意を表した。報恩の念に厚かりしことこの一事に徴しても知らる。
自ら号して無徹と称し、平生総髪を蓄へて背に垂れ、山羊髯を蓄へたる風格は特異の印象を人に与へたが、出征の初め支那人は之を誤り認めて『高麗』と呼び、侮蔑の色を示せしにより、戦役中は支那式の弁髪となり、宛として生粋の支那人の如き風姿を呈した。されば凱旋の途中彼が有馬藤太(旧奥田芳紀)少尉と伴ひて撫順駐屯の日本軍営に宿泊せんとした際、歩哨は彼を支那人と認めて通過を許さず、有馬の説明によつて漸く入ることを得。更に汽車にて大連に向ふ途中、海城駅にて慰問の甘酒接待に預らんとして、又もや支那人と誤認されて拒絶を受け、その時も有馬少尉の救解によつて甘酒の犒ひに浴し、相顧みて哄笑したといふ奇談がある。
凱旋後、功に依り勲六等に叙し単光旭日章を賜はつたが、引続き長崎に在つて東洋日の出新聞の経営に当り、総髪を蓄へ無帽主義を以て終始し、奇行に富む快男子として知られた。大正十三年四月十五日病んで歿す。年五十六。終生娶らず、嗣も亦無し。
(遺族、埼玉県北足立郡田間宮村、須田進)
|
福本誠 (「日本」新聞、東亜)
号は日南、安政四年六月十四日福岡藩士福本泰風の長男として福岡に生る。幼名は巴、後ち誠と改めた。藩黌修猷館に於て和漢の学を修め、明治四年長崎に赴いて谷口仲秋に師事し、同七年東京に上つて岡千仭に従ひ専ら漢籍を修めた。九年司法省法学校に入り、後ち故あつて中途退学し、十三年の頃福岡の同志と北海道開拓を企て石狩に赴いたが、幾くもなくして志を飜へし東京に帰つた。十四年再び北海道に遊び、北門経営に就て講究する所あり。二十三年図南の志を抱き同志菅沼貞風と前後して麻尼拉に渡航し、比律賓の事情を調査し、往昔比律賓に在留した日本人の遺蹟等を研究した。是れより前、彼は小沢豁郎、白井新太郎等と謀つて『東邦協会』を起し、国民の注意を東洋の諸方面に向はせ、海外発展の機運を促進せんとしたのであつて、この比律賓視察も亦た南洋経綸に資せんとするにあつた。この行、同志の菅沼貞風が麻尼拉で病に斃れたので、その遺髪を携へて帰つた。(東邦協会に就ては上巻四一七頁以下参照)
二十七年朝鮮に東学党蜂起し、日清の関係険悪を呈せんとするや、対清開戦を促進する為め同志と共に活躍した。当時の活動につき彼れ自身の述べてゐる所を茲に引用すると、曰く。
★ ★
『当時対外の政策に最も慎重の注意を払ひつゝありし東邦協会は、委員を半島に特派してその実勢を目撃せしむるに決し、六月十一日の評議員会に於て、余は派遣委員に推選せられたり。此間に一の佳話あり。協会より愈々余を派遣することゝなりしも、経費の支出に就て評議員は何れも策の出づるなきに苦みしに、流石は副島伯なり、議を建てゝ曰く。「諸君は金がないと云ふけれど、協会には御下賜金があるではないか。協会に賜金を下されたのは、畢竟協会をして国家の用を為さしめやうと云ふ渥き御思召に出たであらう。左れば斯る場合に御下賜金を使ふのは至当の道に用ゆるのではないか」と。会頭の此英断は総ての評議員を感服せしめ、即時其内より旅費の支給を受け、同十三日東京出発のことゝなり、其前夜荒尾君(精)と神田の某所に会合して大に此局面に処するの方略を講じたり。斯くて同二十九日京城に入り実情の観測に従へり。此時清国の眼中既に日本なく、大兵既に京城を距る遠からざる牙山の地に屯し、我兵は龍山に在りて隠然対峙の勢を現はせり。時の駐屯軍中には年壮気鋭の参謀長岡外史の如きあり。大島旅団長と雖も亦温和の方針を固執する能はざるに至り、兵気昂騰抑ゆべからず。而して我大鳥公使は毎日本国より国交を断絶すべからざる旨の訓電に接し、左せんとすれば右より制せられ、右せんとすれば左より制せられ、進退維れ谷まるの窮境にあり。時に我同志として東京よりの同行者には、田中賢道あり、岡本柳之助あり、依て余は両君と協議を重ね、事態此の如くんば如何ともすべからず。清兵の目的、半島併呑にあるに拘はらず、形式に於ては韓国政府の依頼を受け、内乱鎮定の為め入韓せるものなるを以て、直に之に向ひ兵端を啓く可からず、左ればとて此侭に放擲せんか、此局面は総て清国の利益に解釈せらるゝに帰着すべし。此際に処するには韓の内政を改革し、韓政府をして清兵を謝絶し、我に依頼せしむるの外なし。然るに今の政府は閔泳駿等の事大党を以て組織せられ居るを以て、此の希望は到底此輩に望む可きに非らず。是に至りては最早大院君を起して摂政たらしめ、一切の内政を改革すると同時に、清国に対しては、貴国の好意に依り東学党の乱も既に鎮定せる以上は、貴国の大兵を我内地に駐屯せられるの必要なし。直に撤退を望むと請求せしむべし。事茲に出でなば清国如何すべきや。清国は決して其軍を撤せざるべし。是に於て始めて名分を生ず可し。即ち我が国の内乱既に鎮定せるに拘らず、貴国が撤兵を肯んぜざるは、是れ内乱に乗じ我存在を危くせんとするものなり。我れは日本と同盟して貴国の暴戻に当るの外なしとの最後の通牒を発せしむべし。則ち名正しく事順に、列強に対し毫も顧慮する所なし。斯くして時局を進転せしむることに相談一決せり。因て当時韓国の有志者と目せられたる金嘉鎮、兪吉濬、安【馬+冏*】寿等に説きて其同意を得、余は大鳥公使を説き、岡本は大院君を説きて、此意を以て両人を動かさんとせり。爾後幾回か岡本、田中と共に両人の間に往復して相談を進めたるも、扨て之を実行するの一段に至り困難を感ぜしは、前述の計策は日本人の仕事として之を為すを得ず。先づ韓人をして内政改革の序幕を演ぜしめざるべからず。然かも腰抜の韓人恃むに足らず。英邁と雖も大院君も亦韓人なり。容易に蹶起せんとせず。故に如何にしても政府に関係なき我在野の有志を以て、此快挙を成立せしめざるべからず。而して当時在留の日本人と云へば、少数の銀行会社員か又は小賈に過ぎず。到底此徒に対し命懸けの仕事を望むべきに非ず。内地より派遣せられたる新聞記者、其他有志を算ふるも、用を為すに足る者十人を出でず。かゝる少数にては何等の芝居をも演ずること難く、少なくとも一百、二百の同志を本国より呼び集むるの要あり。依つて余等三名協議の上、岡本は夙に京城に在りて大院君と相善く、其国情にも通ぜるを以て京城に駐め、余と田中の二人急帰同志を糾合し来ることゝなし、長崎を経て大阪に出づ。大阪には高橋健三在り。荒尾精も土佐堀国本に止宿し、佐々友房亦た下阪中なりしを以て、相共に協議し、大體の方針を決定せり。此結果何れも東京に於て熟議することゝなり、二十、二十一、二十二の三日間に何れも相前後して上京し、翌八月三日に至る約二週間に於て、其の同志をも加へて日々集会凝議し、渡韓の準備を為せり。此間に於て荒尾精は、若殿原の豪傑連を指揮して韓国に討入るには最も適当なりとの衆評にて、之を討入の総大将となし、余の如きは一小兵に過ぎざるが、先づ参謀長の役割なりき。斯くて或方面より三万余円の準備金を引出し、彼地に入らば大策を決行する筈にて、韓国々是大令案を作り、荒尾は之を懐にし、之れさへあれば着韓の翌日にても発表し得べしとて欣々然たり。斯くて当時亡命の朴泳孝をも党中に加へたるが、此等の謀議に列りたる人士を挙ぐれば、高橋健三、頭山満、佐々友房、陸実、古壮嘉門、田中賢道、柴四朗、国友重章等にして、東邦協会の関係より山田猪太郎、朴泳孝の関係より須永元、最後に長谷場純孝も之に加はり、将に東京を発せんとする機一髪に迫り、幸か不幸か京城に於ては形勢の切迫する所、臆病なる我当局も、用心深き大鳥公使も、到底平和の解決不能なるを悟り、同志の一人にて京城に残せし岡本柳之助をして大院君を引出さしめ、余等の目論見案の如く決行せしめたり。此報本国に伝はるや、最早日清両国の交戦状態成立し、政府は浪人の加勢を喜ばず、忽にして態度を一変し、或夜急に朴泳孝を抜きて警視庁に連込めり。警視庁にて保護を加へ、政府の手を以て半島に送り帰さんといふに在り。茲に至りて我等同志は無用の長物となれり。当局の眼より見れば厄介者となり、行くも止まるも勝手たるべしと云ふ有様なり。否寧ろ運動差止の方針を採れり。此に至りて万事休す。同志は何れも大不平なりしが、就中不平の極点に達したるは討入の総大将に擬せられたる荒尾なりし』云々と。
【* 補助漢字なし】
★ ★
斯くて彼は日本新聞の従軍記者として戦地に赴き、平和克復の後ち帰朝し、是れより後も東亜の問題に意を注ぎ、屡々同志と会して支那問題を論じたが、三十一年彼が渡欧するに際し、その送別会の席上で同志の間に一つの団體を組織する議が起り、陸実、三宅雄二郎、犬養毅、平岡浩太郎、池辺吉太郎、其他に依つて『東亜会』が設立され、次いでこの団體は同文会と合併して『東亜同文会』と称するに至つたのである。三十二年七月欧洲から帰つた彼は、孫文等の支那革命を援助する為め、宮崎寅蔵、末永節等と行動を共にし、三十三年の恵州事件の当時には、南清及び台湾方面に往来して画策に当つたが、恵州の挙事一蹶して志を遂ぐるに至らなかつた。三十七年九州日報社長兼主筆となり、福岡に在つて筆陣を張り、次いで四十一年福岡県より選出されて代議士となり、国民党に籍を置いて犬養毅を助けたが、四十五年の総選挙に敗れたのを機として政界を退き、爾来専ら文壇にあつて得意の史筆を揮つた。大正五年中央義士会を起し、その幹事長となり、赤穂義士の研究に没頭し、『元禄快挙録』の快著に依りて人心に大なる影響を与へ、其他相次いで発表する史伝の類は、何れも読書界に嘖々たる好評を博した。大正十年一月千葉県大多喜中学校の需めにより、同校講堂で講演中突然脳溢血を起して卒倒し、爾来静養に努めしも、同年九月二日遂に歿した。享年六十五。東京青山墓地に葬つた。著書に『海国政談』『今世海軍』『新建国』『日南子』『大阪陣』『現欧洲』『元禄快挙録』『元禄快挙真相録』『大阪城の七将星』『直江山城守』『日南集』『黒田如水』『国體の本義』『英雄論』『日南草廬集』『太閤とカイゼル』『大石内蔵之助』『大勢史眼』『栗山大膳』『清教徒神風連』『堀部安兵衛』等其他がある。和歌に巧みで秀逸の詠が多い。
北海道に遊びて(明治十四年)
見るたびに憂ぞまさる我ためにくもりてかくせ樺太の島
述懐
太刀把りて何時か眺めんもろこしの都の空にすめる月影
等はその青年時代の作である。末永節が日南の死を悼んだ左の一文は、能くその本領を明かにしてゐる。
★ ★
『嗚呼日南先生逝く。先生は筑前福岡の士なり。夙に卓犖不覊の資を負ひ、識見文章と共に独り別に一家の地歩を占む。其の学問は皇典古史に淵源し、其志望は皇祖皇宗の洪謨を恢弘せんと期するにあり。而して其の行事も亦落々として、自負矜持する所に向つて奇抜縦逸す。而して又常に謂ふ所の者流たるを屑とせず、血性横溢し、才華渙発す。故に昂々の意気を搾揮して時流と共に相俯仰する能はず。文士にして政客たり。政客にして学者たり。学者にして詩人たり。其全人格は寧ろ詩人に属す。之れを其の文章に見れば、精彩雋鋭にして鋒鋩自ら人に迫る。一篇必ず一点の主張ありて、之が帰趣を明快に指示す。其の字句を結構するや、簡錬にして琢成す。故に声調自ら腔を作す。恰も少陵の詩篇を誦するが如し。其小品、戯題に至りても亦一種の気格を具す。要するに詩人にして文章を賦するなり。和歌の諸什に至りては真戯共に溌剌の生気を帯び、風調清快にして諷誦に適す。之れを其行事に見れば、常に独創の気を負ひ、【風+炎*】拳の概あり。而して遂に久陰忍の意念なく、又紛糾を収拾し頽衰を振興するの煩労を抛つ。恰も彗星の出現するが如くにして尾遂に掉はず。其行く処も亦知る可からざるに同じ。故に政論家としては之を得たるも、政客としては到頭其の資格を缺く。諸種の政会にして先生の手に創設せらるゝもの、一として結果を其の手に収められたるはなし。之れ其全人格の詩人に属する所にして、一事一業に執着煩労するに堪へざる所以なり。其血性の横溢と才華の渙発は、相待つて益々詩懐を奔放縦逸せしむ。然れども其学問の皇典、古史に淵源するものあるを以つて、耿々たる一念は忠義の精神を一貫して始終の操節を渝ゆること莫し。先生に尚ぶ所は実に茲に在り。其の党派に出入して進退去就するの行動を以て、之れを是非するが如きは、未だ以て先生の心事と主張とに於て何等の傷くるあらず。先生の著篇を通読するものは、必ずや予が言に首肯する所あらん。
先生の永眠に入るや、実に大正十年九月二日午後三時なり。時恰も東宮殿下が館山湾に御安着の日なり。先生の案上一葉の洋箋あり。鋼筆を揮つて和歌を書す。字體渋硬を極め、最後の一字稚態殊に妙。
【* 補助漢字区点=7231 16進=683F シフトJIS=E4BD Unicode=98B7】
山川も草木も共に打ち寄りて
呼ばふは君が万代の声
之を先生の絶筆となす。即ち末後【→末期が正しい】の一首なり』
(遺族、東京市小石川区武島町二一、福本栄)
|
|
寺尾亨 (法博、日露開戦主張七博士の一、東亜)
福岡藩士寺尾喜平太の次男。安政五年十二月十九日福岡に生る。長兄は理学博士寺尾寿、次弟は医学博士澄川徳、三弟は司法官小野隆太郎で兄弟揃つての俊才である。亨は明治十四年司法省法学校に入り、仏蘭西の学者ジヨルジユ・アツペル博士指導の下に法律学を修め、十七年同校を卒業して横浜裁判所の司法官に任用されたが、後ち東京帝国大学の法科助教授に転じ、明治二十五年ジユネーブに開かれた国際法会議に出席する金子堅太郎に随伴して仏国に留学し、在留四年の間専ら国際法の研究に従ひ、帰朝の後ち教授に進み、帝国大学に初めて国際公法及び国際私法の講座を開いて学生に教へた。是れ実に我国に於ける国際法専攻学者の先駆をなすものである。二十八年法学博士の学位を授けられ、二十九年外務省参事官兼任を命ぜられてその蘊蓄を傾倒し、枢要なる外交事務に参画した。三十二年白耳義ブラツセルに開かれた万国々際法会議に参列し、三十三年北清事変に乗じ露国が満洲に大兵を送つて之を占領せんとするや、之に対する我が当局の外交軟弱を慨し、富井、金井、松崎、戸水、中村の五博士と連名して強硬なる対露意見を発表し、近衛篤麿公等の組織せる国民同盟会の趣旨に賛し、大に国民の士気を振作すると共に政府当局を鞭撻する所あつた。三十五年には再び和蘭海牙に開かれた万国々際法会議に参列し、その序を以て欧米諸国を視察し、三十六年八月、露国の横暴益々加はれるを慨して近衛公等と対露同志会を組織し、同志の六博士と第二回の意見書を桂首相及び小村外相に提出して露国膺懲の必要を切論した。又た日露戦争の終結に際し河野広中等と聯合同志会を組織してポーツマス講和条約の反対運動に従ひ、三十八年九月二十一日同志の諸博士と共に同条約破棄の上奏文を闕下に奉呈した。
予て東洋平和の確立を期するには支那の武力涵養を必要とするとの意見を抱いてゐたが、三十八年この持論を実現する為め東京に東斌学堂を設立して支那の有為なる青年を収容し、軍事教育に力を尽した。
明治四十四年武漢に革命の烽火揚るや、帝大教授の職を抛つこと弊履の如く、頭山満等と共に直に南清に渡航し、孫文、黄興等を援けて革命の遂行に尽瘁し、次いで革命政府が南京に設けらるゝに及びその法律顧問となり、大正二年四月支那第一国会の開かるゝに当り法学博士副島義一と共に北京に赴き、国民党顧問として南方派の為め大に斡旋する所あつた。蓋し当初南京に革命政府が出来て以来、彼が最も力を尽したのは仮憲法の起草で、これにより革命後の支那を完全なる統一に導き、且つ支那の更生を遂げしめんことを期してゐたのであつて、この信条から袁世凱の大総統たるを喜ばず、憲法の条章により進んで国会が大総統袁世凱の専横を抑へるやう彼は裏面から国民党の議員を激励するに努めたのであつた。斯くて大正三年東京に政法学校を起し、支那人を収容して之に政治、経済、法律の諸学科を授けたのも亦た同一趣旨に出で、一に新支那をして完全なる法制の下に国政の運用宜しきを得せしむるやう法制に通ずる人材の養成に邁進した。同校は大正九年八月まで存続し、其間多数の新人材を出し、業を卒へて故国に帰つた学生は文武両方面に亘つて重要の地位に立ち政治の実際を担任するに至つた。
是れより前、大正二年には東邦協会の幹事長となつて東邦政策の研究に尽力し、同四年黄興の逝くや、日本有志を代表して上海に渡航しその葬儀に列し、同八年には支那南北両派の妥協を斡旋する為め日本有志の総代として上海に赴き、滞在四ヶ月、大に尽力を試むる所があつた。又た日仏協会、平和協会、上弦会等の為めに絶えず尽瘁し、大正九年内田良平等の首唱に依り内鮮融和を目的とする同光会の設立せらるゝや之が相談役となり、特に朝鮮に赴き大に力を尽す等、常に東亜の大局を憂ひ奔走尽力倦む所がなかつたが、大正十四年九月十五日病んで御殿場東山の別荘に逝去した。享年六十八。(中巻四七〇頁、同五三三頁参照)
頭山満は彼を追憶して『あんな呑気な淡白な、そして立派な者はなかつたらうね。寺尾は我が国體の道義を明かにして西洋の学問に通じ、自分の利害などは全然眼中に置かない真に純白忠誠の人物であつた。寺尾の病気は中風で、寝てゐたのは長い間であつたが、その気象は少しも変らなかつた。始めは酒と煙草を喫みたがつて、医者の制止も肯かばこそ「医者などに俺の病気が解かるか」と女どもを叱り飛ばしながら飲んでゐたが、細君が余り心配してよこすので、自分から電報を打つたり、直接行つて言ふて聴かせたりしたので漸く止めることになつた。寺尾はあの病症故、言葉も最初は乱れて殆んど聞取れなかつたが、漸次回復して後には半ば聞取れるやうになつてゐた。関東大震災の時、自分も御殿場にゐて家が潰れたので、脚部に怪我をしながら外へ出たら、寺尾は早や看護婦に抱へ出されてゐた。一処に畳を敷いて露宿しながら東京方面の事をも心配してゐたが、一両日過ぎた頃、例の鮮人騒ぎで、村の巡査が「多数の鮮人が此の方面に襲ふて来るから外へ出ぬ様に」と注意して来た。其時寺尾は病床を乗出して廻らぬ舌で「幾ら鮮人が来ても恐れるには及ばぬ。頭山は口不調法だから俺が出て言ひ聴かせる」と平気でいふてゐたには一同呆れさせられた。寺尾が死ぬ十日許り前に自分が何か喰ひ損なつて死ぬかも知れぬと皆に心配させたが、寺尾は之を聞いて「頭山に万一の事があると、後の事は俺が引受けねばならぬから聞いて置いてくれ」と伝言して来た。然るに自分が未だ全快せぬ内に寺尾は間もなく死んでしまつた。死ぬまで自己の死ぬる事は考へずに再び癒つて天下の事に当るを以て自ら任じ、又た飽くまで自分の事をも思ふてゐてくれたのであつた』といつてゐる。
(遺族、東京市赤坂区青山北町四ノ一〇五、寺尾進) |
|
寺田栄 (衆議院書記官長、東亜)
福岡県人寺田案山子の長男。安政六年十一月を以て生れ、明治十年分れて一家を創立した。同十五年明治法律学校を卒業し、司法官登用試験に合格して東京及横浜地方裁判所判事、京橋区裁判所監督判事、高崎区裁判所判事等に歴任し、明治三十年一月衆議院書記官に任ぜられ、議事課長、秘書課長、警務課長等を経て大正六年五月衆議院書記官長に進み、同十二年八月願に依り免官となると共に貴族院議員に勅選され、十四年六月営繕管財顧問を仰付けられた。東亜の諸問題に就ては民間有志と志を同じくし、直接間接に力を致す所があつた。大正十五年一月病んで歿す。年六十八。男孝家を嗣ぐ。鳩山一郎夫人薫子はその女である。
(遺族、東京市小石川区音羽七ノ一〇、鳩山薫子) |
|
相生由太郎 (実業、満蒙)
慶応三年四月二十八日、福岡市西町の魚商相生久治の長男として生る。幼時故あつて母と別れ、継母の手に保育せられて早くから労苦の間に人となり、小学校も完全に卒業せずして魚の担ぎ売に従つたが、十七歳の時奮然志を立てゝ正木昌陽の門に入り漢籍を学び、次いで修猷館中学に入学し、苦学力行、優秀の成績を以て卒業し、黒田侯爵家の貸費生に選抜されて東京高等商業学校に入つた。在学時代は牛込築土の筑前寄宿舎に於て山座円次郎、村山崎太郎と相砥礪し、学資の乏しい中に毅然として勉学を続け、鎌倉円覚寺の釈宗演に就て禅を修むる等修養怠りなかつた。その頃から一廉の見識を備へ、思慮の深い一面に英雄主義を好み、二十五年の選挙大干渉の際には福岡に帰つて頭山満等の玄洋社一派の為めに奔走し、反対党の演説会場へ単身乗込んで飛入演説を試み、演説会場を滅茶々々の大混乱に陥らせたことなどもあつた。
明治二十九年高等商業学校を卒業して日本郵船会社に入り、次いで同社を退き、兵庫県柏原中学校、東京の野沢商店、名古屋商業学校等に転輾として職を替へたが、是れは家庭の事情に依り収入の増加を図る必要からであつた。三十一年九月更に三井鉱山会社に入り勤続七年の後、三十七年五月三井物産会社門司支店に転じ、翌年七月勃発した石炭人夫の同盟罷業を解決して頓にその識見手腕を認められ、門司支店長犬塚信太郎の知遇を受けるに至つた。日露戦後南満洲鉄道会社が設立されて犬塚が同社理事に就任するに及び、彼も亦招かれて大連埠頭経営に任ずることゝなり、四十年渡満して鋭意埠頭統整の方法を研究し、幾くもなくして大連埠頭事務所長に就任し、埠頭の統一と荷役作業直営の目的を達した。大連埠頭に於ける一切の事項を満鉄の直営としたことは、今日から見れば極めて至当なことであるが、当時に於てこれだけの実行を期するは容易の業でなく、唯だ彼の決断と勇猛心があつて初めて敢行された次第で、その頃生命知らずの仲仕連が凶器を携へて彼を襲ふた如きも一再に止らなかつたといはれてゐる。当時はまだ埠頭の設備が不完全であつたから幾多の困厄が従つて発生したが、此間に処して従業員の福祉を増進する為め労資協調の見地に基き従業員の宿舎を建設し、救済組合、倶楽部、道場、図書館其他の設備に力を尽した。
四十二年十月満鉄を辞して福昌公司を設立し、大連埠頭の船舶貨車の貨物積卸、荷役請負を開始し、八千人の苦力を使役してその事業に従つたが、苦力を使役するに当つて先づ日支の温き繋がりを考慮し、彼等の衣食住を保証し賃銀の支払を確実にし、人類相愛の精神を以て之を抱擁した。明治四十四年肺ペストの発生した後は、特に苦力の収容所の設備に就て考慮し、遂に敷地三万八千三百余坪、建物総延数一万百余坪の碧山荘と称する苦力収容所を建設し、通風、排水、衛生、医療、慰安、娯楽、救済の設備を完全に整へ、山東人の風習を尊重して彼等が信仰する天后宮を祀り、疲弊の山東から来た労働者にとつて一つの楽園たらしめた。此処には現に冬の十二月から翌年五月にかけての繁忙期に一万六千人内外、六月から十一月にかけての閑散期に於ても約九千五百人内外の華工(苦力)が悠々と楽しく生活してゐるのである。
一方福昌公司に於ては土木建築請負、煉瓦製造販売、石材其他の採掘販売、貸家、倉庫、保険代理、貿易、農事経営等の諸方面に亘る事業を営み、欧洲大戦時代の好況期に於て満洲の事業界に一大飛躍をなし、創業後十年にして満洲財界に一つの王国を建設するに至つた。此間公人としては満鉄埠頭事務所長時代に満洲重要物産輸出組合(後に満洲重要物産同業組合と改称)の創立に力を尽し、大連神社建設委員としては財政方面を担当してその造営を完成し、大正三年大連取引所商議員を命ぜられ、同四年大連商業会議所(現大連商工会議所)評議員となり、翌五年から十四年までは同会頭として活躍し、満鉄及び関東庁に対し民間側を代表して尽瘁する所多く、又た個人としては満洲に於ける邦人の重鎮たる地位に在つて満洲に於ける財界を指導し、満洲に問題が起る毎にその中心となつて活動し、在満邦人の為には生命を賭して奔走するを辞しなかつた。又た大連市会官選議員に挙げられ、衛生、教育、財政等の諸問題に力を尽し、常に民人の幸福と国家の利害を中心として大所高所から天下に呼号し、その侠気は年と共に旺んなるものがあつた。然るに大正十五年一月中風症に罷【→罹ヵ】つて半身不随となり、爾来また当年の活躍を見ることは出来なかつたが、依然たる『大連の相生』としての存在を続け、昭和五年一月三日遂に六十五歳を以て歿した。是れより前、大正九年満洲に於ける実業上の功労に依り紺綬褒章を賜はり、同十三年特に正六位に叙せられ、昭和三年更に勲六等瑞宝章を授けられた。
生前自分が黒田家の貸費生として苦学を続けた当時を顧み、福昌公司の一事業として国家有用の材を養成する為め百余名に学資を給してその業を成さしめたのは感ずべき美挙であるが、更に『福昌公司』の名称の由来を訪ねるに、福は郷里福岡の『福』に因み、昌は彼が初めて漢学を学んだ旧師正木昌陽の『昌』に因んで師恩を忘れざる意を表したものである。その誠実の性は之によつても知らるべく彼が大を成すに至つたのは決して偶然でない。
日独戦争の際支那が局外中立を宣言した為め、山東に於て我が兵站部が人夫、車輌等の徴発難に陥らんとした際、彼は当局の依嘱を受けるや、直に大連から人夫や車輌を送つて皇軍の活動に遺憾なからしめた。又大正五年の満蒙第二次建国運動の際、彼が裏面に於て尽瘁する所大であつたことも亦特記すべきで、当時大連に狩り集めた馬賊隊などは非常な多数に上り、それが乱暴狼藉を極めるので取締上甚だ困難を呈したのであつたが、彼が進んで自己経営の苦力宿舎にこれらの者を収容し、一糸乱れざる統制を与へたのなどは未だ世に知られてゐない事実である。元々満蒙独立の志を抱いてゐたので、事あれば即ち出でゝ邦家の為めに尽さんとする壮志に燃え、種々の場合に自己の統率する苦力を提げて報效の道に邁進せんとしたのであつた。頭山満は彼を評して曰く。
★ ★
『相生はなかなか手八丁口八丁の余程働ける人間であつた。あれが日本道義による確乎たる精神を以て利用厚生の産業方面に活躍したことは甚だ面白い。彼は士魂商才の両面を兼ねた頗る有用の材であつた。玄洋社には片つ方の者が多かつたが、不思議にも相生は両面を兼ねて居つて東西孰れにも有用の材であつたと思ふ。而かも人間味の豊な男であつた。人間は金が出来ると性格が自然変るものぢやが、あれの精神はシツカリして居つた。士魂を有する者には金が無く、金を有する者は士魂を缺くといふ、これが普通ぢや。世間この両面を兼ね備ふる者は少く大抵は片輪ぢや。相生のやうな士魂商才を兼ね備へた実業家がもう少し多くならねばいかん』云々と。
★ ★
釈宗演は彼に『鉄牛』の号を与へた。色の黒い牛を闇から引出したやうなボーツとした男だから、鉄牛の号は最も妙だと友人から評せられた。禅機に富み、それが詩賦の上にも顕はれてゐる。
偶成
森羅万象本来空。 平等一如清浄躬。
生前死後住二斯境一。 休レ道人間独有レ限。
乙丑春日偶成
万象森羅本一元。 即身即仏即乾坤。
何為老漢弄二無字一。 日出明々日没昏。
の如き即ちそれである。尚ほ彼が中西正樹を哭した詩を左に録しておく。
夙憂二国家一不レ憂レ躬。 画策遙優百戦功。
東亜風雲猶未レ熄。 百年遺憾喪二斯翁一。
(遺族、大連市播磨町三、相生由太郎) |
|
阿部真言 (泰東日報社長、振東学社総理、満)
明治十七年一月二十七日、福岡県宗像郡津屋崎新宮司に生れ、福岡修猷館中学を経て早
稲田大学に学び、卒業後は中野正剛等と東方会を興し、『東方時論』を発行、経営し、常に背
後から中野を援助した。大正十一年三月、金子雪斎の招聘に応じて大連に渡り、雪斎の業を
助け、大正十四年八月、雪斎の歿するや、その遺託によつて泰東日報社長、振東学社総理と
なり、故人の精神主義を踏襲して大陸政策の根本を養ふに異常な努力を続けてゐたが、志業
半ばにして病に罹り、昭和十年二月十日、福岡大学病院で長逝した。彼はその名の如く真言
の士で、重厚沈毅、全く表裏相欺かざる真摯の人物であつた。嘗て中野正剛と或る人物を批
評してゐる処へ偶然その人物が来訪したが、中野が如才なく対応するに反し、彼は顔を横に
向けて一言も語を交へず、その者が辞去した後で中野を捉へ『今まであやつを何と批評し居つ
たか。今の応対は言語道断だ』と詰責して止まなかつたので、流石の中野も一言もなかつたと
いふ逸話がある。金子雪斎が信頼して後事一切を託したのも亦宜なりである。彼が生前不正
を排斥すること秋霜烈日の如きものあるを見て、頭山満は『真言、その名に悖らず』と称揚して
ゐた。 |
|
坂井大輔 (代議士、東亜)
明治二十年十月、福岡市鳥飼町六本松に生れ、福岡修猷館中学を卒へて早稲田大学の政治経済科を修めたが、その頃柔道の猛者として知られ、精悍にして胆略ある風骨は学生間に鳴つた。早大卒業後、渡米して柔道の指南をする傍ら、華盛頓大学に入り、政治学、社会問題等を研究し、次いで西北部の産業視察を試み、更に欧洲に赴き、巴里講和会議や欧洲列国の情勢を視察して帰朝した。爾来頭山満や野田卯太郎、内田良平等の知遇を得て国事に奔走し、大正十年の華盛頓会議には外務省嘱託として加藤全権一行に加はり渡米し、一面我が有志家の意図を體して画策尽力する所があつた。(中巻七八五頁以下参照)大正十三年一月、小倉市の衆議院議員補缺選挙に政友会から推されて立候補を宣し、その初陣に首尾克く当選して爾来累選せらるゝこと五回、其間政友会の本部幹事又は院内幹事に挙げられ、第五十二議会では得意の柔道で蛮勇を揮ひ、所謂暴行代議士としてその名を喧伝されたが、昭和三年逓信参与官に任ぜられ、次いで之を辞し、総裁犬養毅の秘書役となり、一見粗暴磊落の如き外貌を有しながら、細心周密の本質を発揮して大に重用せられ、その前途を嘱望せられてゐたが、不幸病を獲、昭和七年五月九日、四十六歳を以て歿した。東京瀧野川円勝寺に葬つた。柔道は五段の腕前を備へ、體格堂々として所謂闘士型の政客であつたが、屡々欧米及び支那に遊び、対外問題に関心すること深く、対外問題に就ては常に黒龍会一派の有志家と聯携して常に奔走尽力する所があつた。
(遺族、東京市杉並区大宮前六丁目四一六、坂井平八郎) |
|
結城虎五郎 (玄洋社、支)
号は松籟。安政六年一月十三日、結城武平太の二男として福岡市地行一番地に生る。父は黒田家の家臣にして傑物を以て聞え、其の稟質を受けて聡明雋敏、幼にして父を喪ひ辛苦備さに甞め嘉穂郡大隈村に住する頃、隣家が鍛冶職なるを以て自然に其業を覚へ、粕屋郡新宮に移居して一時鍛冶職に身を委ねて一家の生計を立てた。堅忍不抜にして母に事ふること厚く、粕屋郡新宮村にて鍛冶を営んだ頃は彼の打つ鎚の音を聞いて村の老人等は『あれは親孝行の音であるから能く聞いておけ』と孫や子供に教訓した程であり、又た其の英才は到る所に於て頭角を顕はし、二十歳を満たざるに推されて村の消防組合長を勤めたと云ふ。
かくて貧困と戦ひつゝ刻苦勉励し、当時福岡地行に在つて天下の風雲を窺ひつゝあつた頭山満の許に郷友大貝貞次郎と共に投じ、天下に志を伸ぶるには資金の必要なるを痛感し、爾来其方面を一手に引き受け玄洋社の活動をして後顧の憂ひなからしめ、杉山其日庵と共に頭山の両翼を以て呼ばるゝに至つた。明治十八、九年の交、土地の有力者矢野喜平次を説き山野炭鉱を得て玄洋社の財政を確立し、以て頭山の東京進出のために資した。福陵新報の創立さるゝや、入つて其の経営の重鎮となり、沈着寡黙の裡に創業の奇才を蔵し、初め福岡県下の海浜より樹脂を採取する計画を立てゝ官許を得ず、次いで麦稈真田の製造を考案して福岡地方の注目す可き産業たらしめた。明治二十五、六年の頃、我国将来の安危に係る外交問題は朝鮮より始まるべきにより、先づ朝鮮に対する計画を立てざるべからずと為し、武田範之と謀り朝鮮金鰲島の漁場開拓を企て、漁夫団を引連れて同島に渡り、曾て金玉均事件に関係し北海道に亡命し居たることありし同島の島守李周会と結び、雁島に根拠を置きて漁業を始めたが、漁獲量は甚だ豊富なりしも漁獲物を処理す可き運輸の設備なかりしため、徒らに朝鮮人に捨値にて売る外はなく、武田範之を遺して一旦帰朝、対策を講ぜしも是れ亦意の如くならず、遂に失敗に帰したと云ふ話もある。日清、日露の両戦役には軍役人夫の請負をなし数千の軍夫を戦地に送つて後方兵站部の活動に遺憾なからしめた。又た日露戦役中、大野亀三郎、本荘堅宏、阿部茂惣八等と謀つて樺太海馬島を占領し、軍事上最大の貢献をなした。戦役中彼の活動に関して杉山茂丸の記する所に依れば、軍夫供給の円滑を図つて満鮮の地に奔走した結果多大の負債を生じ、之が償却に苦心したる末、偶々北海道に於て埋立事業の権利を得ることゝなり、その権利を他に譲渡して得たる若干の金を以て炭坑借区を手に入るゝに至つたとのことである。
機を見るに明敏で、日清戦後には台湾に於て南洋商会を創立し、日露戦後には中国、四国の漁夫を引き具して南洋漁場を開拓し、躍進日本の尖端に立つて輝かしい奮闘を試みる等、常に時人に一歩先んずる所があつた。之がため却つて事業は失敗に終るもの尠からず、明治三十九年日本に於て最初の亜鉛鉱の発掘を試みたが遂に成功するに至らなかつた。南進、北進、孜々として倦む所を知らず、明治四十一年より北海道登川の炭鉱の発掘に従事して後三井に売却し、之に利を得て晩年は東京に居住し悠々自適老を養ひ、大正十年九月二十二日病んで歿した。時に年六十三。諡号は海岳院殿広済徹源居士、墓は青山墓地に在る。生前杉山茂丸と交り深く、杉山はその死を悲んで次の如き輓詩を捧げた。
人元如レ水水如レ人。 泡沫忽生還忽湮。
酔夢醒時秋已到。 梧桐葉落又天真。
頭山満は彼と杉山を対比して『結城は八分を知る男故安心ぢやが、杉山は十二分の男ぢやから困る』と評したが、功成るや忽然として事業界を勇退したる点など頭山の評は正に的中せりと云ふ可く、彼は寡黙沈重にして堅忍不抜の趣あり、頭脳の明敏なること一頭地を抜き、躯幹偉大、片言隻語おのづから人を圧するものがあつた。彼は綺語を以て其の身辺を飾ることを忌んだが故に、其の国事に尽瘁した功績の多く世間に顕はれざるものがあるが、来島事件に際しては其の裏面の立役者として縦横に活躍し、壮士十数名に衣服、旅費を供してそれぞれ其任に就かしめた。生前絶體秘密なものとして厚紙を以て厳重に封緘した木箱を其の妻糸子に託したのであるが、彼が死して十数年後、始めて開封されると来島の遺髪及び『明日は愈々決行する』旨を記した書翰及び其他の重要品が蔵せられてゐた。此の一事を以てしても往年の彼の活躍の跡が偲ばれるのである。彼は稜々たる気骨を以て然諾と信義とを最も重んじた。甞て北海道登川炭鉱経営のため平沼専蔵から其の資金の融通を受け非常な高利に苦んでゐたゝめ、後藤新平は他に借り換へを尽力しやうとしたが、彼は『事業の目鼻が附かず、且つ貧窮な私に多額の金を貸したのは、私個人を信用したからで寧ろ平沼を徳とす可きである』とて其の好意を謝し、敢て受けなかつた。後藤は此に対して『近来聞く洵に痛快な話だ』とて卓をたゝいて思はず快哉を叫んださうである。
彼の長女浅子は才貌一世に優れ、頭山満を仲介としてさる名家よりの嘱望切りであつたが、彼は『婿の家を訪ねるのに頭を下げるやうでは―』とて此を謝絶し、土佐の青年将校島本靖(当時中尉)の許に嫁せしめた。此の島本は後年柳条溝事件の勃発するや、第二守備隊長として北大営攻撃に勇名を轟かせ、目下第二師団参謀長として大佐の栄職にあるが、佳人薄命、浅子は大正十二年に惜しくも夭折した。
(遺族、東京市四谷区愛住町二四、結城平八郎) |
|
水野疎梅 (玄洋社、韓国政府顧問、鮮、支)
元治元年七月十三日、福岡に生る。家は旧福岡藩の臣にして幼名は廉吉、後ち元直と改む。疎梅はその号である。幼より好んで詩書を繙き書道を研究し、長ずるに及んで詩人を以て聞え書家として知られ、名声漸く嘖々たるに至つた。一面また憂国の情厚く、夙に玄洋社に入り、朝鮮に渡航して韓国政府に傭聘され、当路の大官要人と接触して日韓の親善に尽す所多かつたが、適々閔妃事件が起つて退去の已むを得ざるに至り、爾来帰朝して詩と書を以て全国漫遊を試みること数年、次いで明治四十三年上海に渡航し、南画を呉昌碩に学び、又た王一亭、楊守敬等と交遊して書道を研鑽し、傍ら要路の士と往来して日支の親善に力を尽した。資性清廉にして挙止亦温雅、白髪童顔、美髯長く垂れて長者の風を備へてゐたから、支那漫遊中も到る所に於て歓迎を受け、その一家の風格を以て両国の親善に貢献する所大であつた。爾来支那に往来すること前後五回に亘り、約十年間は上海を根拠として屡々南京、漢口、武昌等に遊び、或は遠く長江を遡つて重慶より陜西、山西の地を探検する等その足跡の及ぶ範囲広く、自己の経験と信念とを以て対支問題に寄与するべく精進しつゝあつたが、大正十年過労の結果上海に於て病を獲、帰朝後幾くもなくして同年十月六日福岡に歿した。享年五十八。博多承天寺に葬り、別に崇福寺玄洋社墓地にも墓碑を建てた。男克卿家を嗣ぐ。
『疎梅詩存』の遺編がある。嗣子克卿が故人の一周忌辰に当り之を上梓して故旧に頒つたものである。その巻首に載する自述は小伝に代るべきもので、能くその経歴と為人とを知るに足るを以て、他の詩と共に掲げる。
丙辰(大正五年)七月十三日自述
我生甲子秋七月。十有三日盂蘭盆。家祭二祖先一招二霊魄一。清酌庶羞薦二蘋【クサカンムリ+繁*】一。此時呱々忽発レ声。父兮母兮垂二慈恩一。褓襁滌濯母下レ手。乳レ之育レ之送二暑寒一。生後三旬丁二父喪一。未レ弁二東西一況悲歎。生而不レ知父面貌。人生至レ此極二悲酸一。阿母為レ寡児為レ孤。阿母爾来幾艱難。我已成童性愚昧。他人罵做白痴看。庭訓真非二断機比一。厳課二読書一鞭二駑頑一。我家本是列二騎士一。文武兼備要二忠肝一。嗚呼時運変遷廃二封建一。売レ剣買レ牛移二僻村一。抛二擲書剣一事二農桑一。一家生計復不レ安。維新之初掃二旧習一。西洋文物総尊崇。蟹行書又【夬+鳥**】舌語。諳レ之者被レ挺二高官一。世人蔑視孔孟教。悉走二其末一忘二其根一。発憤我講先聖道。忠孝節義立面門。我行二我道一独自立。富貴貧賤何足レ論。白髪五十有三年。阿母登化今不レ存。愚昧不レ顕父母名。蓼莪詩篇転断レ魂。江湖零落我已老。空余一片此心丹。我髪如レ蓬髯如レ雪。我骨如レ梅気如レ蘭。莫二再来阿羅漢看一。雲起観二水流一復不レ言。
【* 補助漢字区点=5816 16進=5A30 シフトJIS=9DAE Unicode=8629】
【** 補助漢字区点=7562 16進=6B5E シフトJIS=E67D Unicode=9D02】
詠松
高聳雲霽秀色深。 天壇明月起龍吟。
応レ嘆当日秦封爵。 飜喜親栽臨済心。
亦
亭々澗畔欝松喬。 多受二天風一寒翠濃。
只許枝頭栖二老鶴一。 高標二塵表一樹中宗。
亦
挺立乾坤不レ受レ塵。 風音雲色古今新。
当年伴菊陶潜宅。 独以二高標一贈二後人一。
|
|
宮川武行 (玄洋社、鮮)
旧福岡藩士。福岡市下警固に生る。幼より武術に精励してその堂に入り、容貌魁偉、威風凛々たる快丈夫であつた。明治十一、二年頃福岡に『平仮名新聞』を創刊し、福岡言論界の先駆をなしたが、僅に一年ならずして廃刊し、次いで警官となり、明治十七、八年の頃、福岡県警察界に馬乗警部として名声を博し、常に馬上裕かに颯爽たる風采を示しつゝ巡視するのが例であつた。後ち鳥取県に転任して例により馬乗警部の本色を示し、日清戦後台湾に赴任し、松村雄之進の後を襲ふて雲林支庁長となり、専ら撫民と開墾及び産業の開発に努力したが、三十年同地方に土匪蜂起して同支庁は重囲に陥り、悪戦苦闘月余に及び、台北の軍隊を総動員して討伐に当りしも将兵の多くは風土病に冒され甚しき苦戦を嘗めた。三十四年任を辞して福岡に帰り、九州日報社長に就任し、言論界に活躍を試むる所ありしが、三十九年伊藤統監時代に韓国警視として赴任し、警察部長として朝鮮問題に力を尽し、日韓融和に努力して名声があつた。後ち病を獲て福岡に帰り、四十三年頃同志と九州印刷株式会社の創立に奔走し、その将に成立せんとするに際し目的を変更して九州板紙株式会社を創立した。四十五年二月十五日歿す。年五十九。福岡市薬院出口香正寺に葬る。
(遺族、東京市杉並区阿佐ヶ谷三丁目五二五、宮川源) |
|
柴田駒次郎 (玄洋社、天佑侠、鮮)
福岡の人。少壮にして玄洋社に入り、夙に朝鮮問題に志して明治二十六年の頃渡韓し、京城、釜山の間を往来して朝鮮事情を研究し、東学党の蜂起した頃は大崎正吉等の根拠とせる釜山の梁山泊に投じて同志と画策に努め、二十七年六月、武田範之と共に東学党の実情を偵察する為め、密陽、大邱方面に赴き、炎暑に屈せず困苦を冒して活動した為め遂に途中で病に罹り、後ち釜山に帰着したが、病勢荏苒癒えず、同志の士が天佑侠を組織して深く奥地に入り、東学党の本拠を訪ふて事を挙げんとした際には、病苦を忍んで強て一行に加はらんとし、同志の士に諫止されて遂に憾みを呑みつゝ留つて病を養ふてゐたが、遂に翌二十八年二月、齢未だ三十に達せずして長逝した。斯くの如き事情で天佑侠に加はることを得なかつたが、その志に至つては天佑侠の諸士と同一で、当時病苦に悩みながら凛々たる意気を以て同志と行動を共にせんとした壮烈の情は、真に懦夫をして起たしむるの概があつた。彼は山座円次郎に有望の青年として愛されてゐたが、其の死の伝へらるゝや、山座は涙を流して之れを惜んだといふ。(上巻第十五章及第十六章参照) |
|
島田経一 (支那革命援助、鮮、支)
慶応二年十一月二十二日、福岡県博多川端町に生る。家は旅館を業としてゐたが、幼少の頃から異才があつて夙に博多三人男の一人として知られてゐた。少壮にして末永節等と交り、その感化を受くる所尠からず、末永に依つて平岡浩太郎の門下に投じ、明治二十年、平岡が上海に製靴店を開いて有為の青年を派遣するや、彼も亦た抜擢せられて上海に赴き、製靴店に寄寓して支那語を学び、支那事情の研究に従つた。朝鮮に東学党の蜂起する以前、韓半島に事を為さんと欲し、西村義三郎、関屋斧太郎等と共に上海より転じて朝鮮に入り画策する所あり。次いで日清の関係険悪の状を呈するに及び、内地に帰つて爆薬を求め、之を久留米から朝鮮に送らんとして発覚し、爆発物取締法に触れて一年の刑に処せられた。日清の役には陸軍通訳として活躍し、明治三十三年孫文が広東挙兵を企つるや、末永節に従つて之を助けた。後ち第一革命の起るに際し、頭山満と共に支那に渡つて革命派を助くる所尠くなかつた。かねて禅を学びて自得する所あつたが、剛直至誠なる一面には非常な癇癪持で、之が為めに失敗することが多く、頗る奇行逸聞に富んでゐた。昭和二年十二月十八日、病んで東京に歿した。享年六十二。
朝晴雪
あかねさす朝日に浮ぶ白妙の雪一すぢの海の中みち
(遺族、東京市下谷区入谷町一〇八、島田康) |
|
進藤喜平太 (玄洋社長、代議士、東亜)
旧福岡藩士進藤栄助の男。嘉永三年十二月福岡に生れ、幼にして藩黌文武館に学び、後箱田六輔等と共に高場乱の門に学んだ。明治八年、武部小四郎が矯志社を興すや、箱田六輔、頭山満等と共にその羽翼となり、九年萩の乱起るに方り同志と共に為す所あらんとして捕へられ、福岡及び山口の獄に繋がれ、西南の乱平ぎて後ち始めて釈放された。十二年四月、箱田六輔等と向陽社を組織し、その幹事となり、後ち向陽社を改めて玄洋社となすに及び、頭山満、平岡浩太郎等と共にその牛耳を執り、箱田六輔の歿後、玄洋社々長となり、謹直重厚の性格を以て社中の健児を率ゐ、稜々の気を九州の一角に吐き『九州侍所の別当』と称せられた。三十九年福岡市の補缺選挙で衆議院議員に選出せられ、次いで四十五年の総選挙には政友会の鶴原定吉に対し、国民党から強て擁立せられ、その激烈なる競争は天下の耳目を聳動させた。当時鶴原派が豊富なる軍資金を撒布するに対し、進藤派は半銭をも費さず、唯だ彼の徳望を以て之と戦ひ、結局百十票の差を以て敗れたが、鶴原の後援者であつた安川敬一郎をして『あれ程の金を費つて僅に百票の違ひとは甚だ心細い』と嗟嘆せしめた程で、福岡に於て何人と雖も彼の徳望に比肩する者なく、謹厳寡黙な古武士的の風格は接する者をして何ともいはれぬ床しさを感ぜしめた。此逐鹿戦を機会に政界を退いて爾後復た出でず、玄洋社の志士が出でゝ国の内外に活動する時に当り、彼は社中の長老とし独り郷関に留り、子弟の撫育に身を委ねて老の至るを忘れ、その為す所は華々しくなかつたが隠れたる功績は甚だ大なるものがあつた。人物養成につき『我々が玄洋社を創立した当時の考では、立派な人間を百人養成したい。さすればその余は烏合の衆でもよいといふ考であつたが、百人の立派な人間を造るといふことは却々六ヶ敷いことだ』と述懐してゐたが、彼の感化の及ぶ所、彬々として幾多の人材を出すに至つたのである。斯くて終生を玄洋社の為めに捧げ、時に民権伸張を呼号し、時に国権伸張を高調し、常に報国尽忠を期して終始一貫し、大正十四年五月十一日、七十六歳を以て世を去つた。高場塾以来肝胆相照し、共に国事に尽すこと五十余年、交情兄弟も啻ならざりし頭山満がその死を追悼して語つた所は『巨人頭山満翁』の中に、左の如く記されてゐる。その面目を尽すこと、之に過ぐるものはないから、茲に掲げる。
★ ★
『進藤と親しく交はること五十二年になるが、こんな立派な人物は何処を探しても決してあるものではない。福岡が生んだ真の国士とは正にこの人の事であつた。温良恭倹の徳と英断果決の胆と両道を兼備した玲瓏玉の如き性格は、誠に求めて得べからざる大人格。誠に富貴に淫せず、威武に屈せざる大丈夫であつた。七十六年の生涯に、何の奇もなく衒もなく、唯だ当り前の人物であつた。その当り前なるが故に進藤の生涯は尊いのである。当り前といふが、その当り前が万人の出来ぬ事ではないか。すべての人間が当り前でないから進藤の当り前が大きいのだ。泰山も長江もいつかは動くこともあり、形のあるものに動かぬものは絶えてないが、唯だ徹底した心魂こそは成敗、強弱、衆寡は勿論、鬼神も之を動かす事は出来ぬ。さう余り学問もなかつたが、進藤は真の学者であつた。さう余りもの数も言はなかつたが、進藤は真の雄弁家であつた。目に万巻の書を読んでも、口に懸河の弁を弄しても、道徳の真髄を知らねば何にもならぬ。進藤が話すことには、すべての人が寸毫も疑はなかつた。筆舌では教へぬが誠と実行とに依つて、立派に百世の師となる人であつた。常に水の如く己を空しうして、百年一日の如く忠恕を極めた其の生涯は、誠に男子の典型であつた。』
★ ★
平生時に和歌を詠じて興を遣ることがあつた。次ぎの一首の如きは最も能くその面目を窺ふべき作である。
梓弓心のまゝに引きしめて放つ一矢の透らざらめや
(遺族、福岡市西職人町五七、進藤龍馬) |
|
樋口満 (日露役満洲義軍、支那革命援助)
明治十三年四月八日、福岡市西新町に生る。西新小学校を卒へて中学修猷館に学び、在学三年の後退学し、陸軍幼年学校入学の志を懐いて東上せしも故あつて中止し、中学の課程を卒へて帰国し、明治専門学校の前身、赤池鉱山学校に入り、卒業後、嘉穂郡明治炭坑に勤務した。
資性放胆豪邁にして膂力人に超え、身長五尺九寸八分、真に堂々たる魁偉の丈夫で、東京在学中も市井の侠客者流は彼を神楽満と称し、道を避けて通る程畏怖したといふ。夙に支那大陸に志を馳せ、十八、九歳の頃から支那革命に意を注ぎ、我が民間の志士並に支那革命家と交遊し、特に支那革命家の為めに保護援助に努むる所尠くなかつた。明治三十三年孫文等と日本有志との間に南清挙兵の計画あるや、内田良平の部下に参して上海に渡航すべく、長崎で石炭運送船の船底に匿れて居つた処を、警官に発見されて目的を果さず、長崎東洋日の出新聞社々長鈴木天眼の宅に寄食して機を窺ふこと半歳に及んだ。
日露の役起るに際し、玄洋社の同志と共に従軍を志願し、三十七年八月十九日陸軍通訳を命ぜられ、踴躍して戦地に赴いた。その花田中佐の麾下に属して奮闘した活歴に関し、同中佐の報告書に記録せられた所を掲げると次の通りである。
★ ★
『明治三十七年八月十九日、陸軍通訳満洲軍総司令部附として満洲義軍総統花田少佐の指揮下に配属せられ、八月二十三日東京出発。九月二日安東県上陸。九月二十三日在【土+咸*】廠義軍本部に着任。二十六日左翼第六隊附を命ぜらる。爾来その参加せる戦闘の主なるものは十月七日より十日に至る草盆溝、【土+咸】廠附近防戦、十二月六日【登+オオザト**】廠、三十八年一月十四日花尖子、二月二十一日西北伏洛、三月五日東昌台、同十三日興京方面、六月二十九日湾口子溝、七月二十五日大黄溝、八月二十八日より九月一日に至る通化附近の各攻防戦なるが、就中記録すべきもの左の如し。
【* 補助漢字区点=2412 16進=382C シフトJIS=8CAA Unicode=583F】
【** 補助漢字区点=6639 16進=6247 シフトJIS=E1C5 Unicode=9127】
三十七年十二月六日、藤井親衛隊長(種太郎)を輔佐して掩撃奇襲の諸隊と共に敵騎二百を【登+オオザト】廠に掩撃して之を潰敗せしめ、三十八年三月四日、藤井隊長を輔けて親衛隊を率ゐ、花田総統に直属して懐仁より興京に移動する敵の輜重を襲撃して、弾薬其他軍用品を満載する支那馬車を鹵獲せる功績少からず。翌五日は諸隊と共に東賛堡子の敵前哨を撃攘して之を興京北方高地に追上げ圧迫し、我が鴨緑江軍の側背脅威の任務を有するマドリトフ支隊を逆に脅威し、彼をして狼狽撞着、却つて義軍の正面の敵として戦はざるを得ざらしめたる功績大なり。又た戦役も終りに近づける八月二十八日、敵マドリトフ支隊がその先頭約三百騎を以て四道溝に襲来せしを遊撃第三、第八隊は其側面を猛射し、その敗兆あるや、樋口氏は遊撃第一隊四十名を以て掩撃第一隊と共に敵の正面に向ひ、突撃して之を五道溝に撃退し、殊に熱水河子防戦の際、敵兵義軍の右翼を迂回せんとするや、頑強に抵抗して以て我が右翼を安全ならしめ、完全に諸隊の退却を掩護し、引いて通化防戦の成果を助けし勲功著大なるものあり。此の如くして十月十六日平和克復に至れり。三十九年四月一日、戦功に依り勲六等に叙し、単光旭日章及び金四百円を賞賜せられたり。』
★ ★
凱旋後間もなく大連満鉄埠頭事務所外務主任となり、四十二年二月相生由太郎の福昌公司の設立に与り之が経営に当つたが、四十三年十二月に至り、別に順華公司を創立し、満鉄及び大連民政署の土木建築、人夫請負等を営み、着々その地歩を築きしも、大正八年十月六日、肝臓癰にて大連で急逝した。享年四十。墓は福岡市地行四番町円徳寺にある。
生前大に酒を嗜み、斗酒尚ほ辞せず。連飲三日にして始めて酔ふといふ酒豪であつた。酔へば則ち刀を抜いて豪快の気を吐くを例とし、列座の者を慴伏せしめた。斯く豪快の人物であつたが鶏だけは自ら殺すは勿論、他人が殺すを見るさへ厭ふた。這は彼が東京遊学時代、休暇で帰省中、再び上京の途に上る日、自ら鶏舎に入りて鶏を屠らんとしたるに、数十羽の鶏が一斉に羽毛を逆立てゝ飛び掛り来つたが、之を払ひ除け払ひ除けつゝ一羽を捕へて緊め殺したる一刹那、家人が急ぎ来つて父の急病を報じたので、急いで家に駆け上りしに、既に魂魄空しく去つて臨終の間に合はなかつた。この哀切なる追憶は、遂に彼をして終生鶏を殺すに忍びざらしむるに至つたのであるといふ。以て彼の有情漢なりし、その一面を知るに足る。
|
|
平岡浩太郎 (玄洋社、代議士、東亜)
福岡藩士平岡仁三郎の二男。嘉永四年六月二十三日、福岡市地行五番町に生る。幼名は鉄太郎、静修又は玄洋と号した。幼より傲岸不屈、初め習字を岡崎四郎に、銃法を臼杵久左衛門に、棒術を平野吉郎兵衛(平野国臣の父)に、剣術を幾岡五吉に学び、句読を大西仁策に受け、武健夙に衆を圧した。
戊辰之役、親兵に伍して東上し、奥羽の野に転戦して功を立て、明治二年一月藩兵に従つて凱旋し、功に依つて賞典を賜はつた。次いで箱田六輔等と一到社を起し代言事務に従ひ民権伸張の為めに力を尽す所あり。九年遠賀郡底井野村戸長となつたが、西郷隆盛等の征韓論に共鳴し、十年西南の役起るや、之に呼応して起てる越智彦四郎等の挙兵に加はり、事敗るゝに及び逃れて豊後に入り、薩軍に投じて奇兵隊本営附となり、豊日の野に転戦した。可愛嶽突出の後、遂に官軍に捕はれ、懲役一年に処せられしも、十一年一月特典によつて放免せられた。その在獄中、同囚たる古松簡二、大橋一蔵、三浦清風、月田道春等に接して読書修養の忽せにすべからざるを悟り、歴史、論孟、孫呉等を研鑽する所あつた。
赦されて福岡に帰つた後、箱田六輔、頭山満、進藤喜平太等と向陽社を設立し、次いで玄洋社の成るに及びその社長となり、一方又た同志と共に筑前共愛会を組織して国会開設運動に従つた。明治十五年朝鮮京城の変あるや、先輩の志を継いで大陸経営の策を行ふべき機会来れりとなし、鹿児島の野村忍介等と謀り、義勇兵を組織してその先鋒を朝鮮に送りしも、日韓の談判意外に速に終了して壮図また行ふに由なかつた。既にして大に国事に努めんとするには先づ産を作るの必要あるを悟り、十六年より豊前吉原銅山を経営し、十八年更に赤池炭坑の採掘を開始し、着々功を収めた。しかも東亜経綸の志一日も止まず、明治十七年には末広重恭、中江篤介、杉田定一等と共に上海に渡航して東洋学館設立の挙に参し、之が開設に力を尽す所あり。二十年中野二郎と謀り、再び支那に航して上海に製靴店を開き、山崎羔三郎、奈良崎八郎、平岡常次郎、豊村文平等の如き有為の青年を派し、製靴店の利益を以て修学の途を得せしめた。
明治二十年の井上外相の条約改正案、同二十二年の大隈外相の条約改正案には、之が反対の急先鋒となつて中止運動に力を尽し、殊に後者に就ては来島恒喜の霞ヶ関爆弾事件が起つて、彼も之が為めに嫌疑を被り一時拘禁せらるゝに至つた。明治二十六、七年の頃、韓山の風雲急を告げ、次いで金玉均が上海に誘殺せらるゝや、清国膺懲を叫んで同志の士と活動に従ひ、参謀次長川上操六と東亜の経綸を談じて深く黙契し、頭山満、的野半助等と謀りて鈴木天眼、大崎正吉、内田良平等を援け、天佑侠を組織して韓国内地に活躍せしむる所あり。更に政界の活舞台に立つて国力発展の為めに尽さんことを期し、二十七年衆議院議員となり、爾来当選すること累次、遂に中央政界に重きをなすに至つた。初め進歩党に属したが、明治三十一年自由、進歩の両党が多年の確執を捨てゝ一団となり、新に憲政党を組織するに至つたのは彼の斡旋与つてその多きに居るといはる。三十二年米国に遊び、三十四年朝鮮に渡航して国王及び皇太子に謁見して帰り、其後露国の満洲侵略顕著となるや、対露問題の為めに寝食を忘れて奔走し、国民同盟会、対露同志会等に参加して強硬なる対露策を主張した。
日露戦争中、彼が民間外交の先駆者として支那に渡航したことは本書上巻(八六〇頁以下参照)に詳記した通りであるが、当時彼は北京滞在中、親露派の頭目と見られてゐる慶親王に見えて日支和親の必要を説き『近頃清廷内に在つて却つて日支の和親を妨げんとする者あると承るが、こんな者は何も御心配は要らぬ。手が足らなければドシドシ同志の者を呼び寄せて直ちに打殺させませう』といつて、先づ慶親王の胆を奪ひ、『殿下等は日本の事といへば何でも伊藤、山県等の意志によつて決するやうに思ふてゐられるやうだが、それは皮相の観察に過ぎぬ。今日日本の実行力となつてゐるのは所謂社稷の臣で、大事ある毎に至誠以つて国論の帰趨を定めるのである』と、滔々たる雄弁を揮ひ、流石の慶親王もその気力に圧せられて油汗を流すに至つたといふ。帰朝後彼は頭山満にこの顛末を物語つた時、頭山が『それは近来の上出来だ』と賞揚したるに、『イヤ余り過ぎたので伊藤が少々噎せよつたごとあるやねエ』といつて、カラカラと笑つた。
三十九年心臓病に罹り筑前戸畑の別荘で静養し、次いで福岡市博多対馬小路の本邸に帰り、同十月十四日遂に歿した。享年五十六。
資性豁達にして放胆。好んで士を養ひ、東亜問題に奔走する志士、浪人、及び学生等の資を給せらるゝ者屈指に遑あらず。一生の心血を東亜問題に注いだが、戸畑に病を養ふに及び、『年来の目的たる征露の事を終り、朝鮮の処分も半ば以上決定したから、最早死して亡友に面するも左まで不都合はないと思ふ』と称し、従容として命の終るを待つの状があつた。平生自ら標持すること甚だ高く、容易に人に下らなかつたが、支那に於ては呉の魯粛に私淑し、日本に於ては明智左馬之助に私淑し、閑あれば書画を弄し、和歌俳句を賦した。或る年京都嵐山に遊び、
来る人も常はあらしの山桜咲ける春とて賑ひにけり
と詠じ、三十九年新春『新年川』の勅題を詠じ、
ひらけ行く御代ぞ嬉しき若水をこまもろこしの川瀬にぞ汲む
と詠じた。頭山満は彼を評して曰く。『平岡は気色のいゝ男ぢやつた。からだはあの通りであるし、固より腕力は無かつたが負けじ魂の一徹に、若い時から会合の席上などで軽蔑でもされた模様が見えると、例の肩を聳やかして「知らず、天下の士たることを」と空嘯くのを常としてゐた。あれの北京行は最も善くあれの面目を発揮してゐる。従いて行つた通弁まで、彼と慶親王と応接の際は自然と豪傑になつたやうな気持ちがしたといつて居つた』と。進藤喜平太も亦『平岡はなかなかの仕事師で而かも仕事が大きく、活溌な威勢のよい男で、学問はあまりなかつたけれども雄弁家で、大隈伯などゝ気滔【→焔ヵ】を競べても遜色のない位に話したものである。頭から人を呑んでかゝる方で、支那に行つた時、張之洞とは大分吹き合つたさうだ。さういふ方には頗る意気の強い男であつた』と評してゐる。彼が自由、進歩両党の合同を策し憲政党を成立せしめて後ち福岡に帰つた時、或人が『憲政党内閣を作る時には陸海軍大臣に困るだらう』といふと、胸を叩いて『ナーニ、心配無用。頭山に海軍をやらせ、俺が陸軍をやれば纏まる』といつて相手を煙に捲いたさうである。
(遺族、福岡市天神町二五、平岡浩) |
|
平岡徳次郎 (玄洋社、東亜)
旧福岡藩士平岡仁三郎の四男にして内田良五郎及び平岡浩太郎の弟である。安政元年福岡市地行五番町に生れ、賢母文子及び兄良五郎、浩太郎の感化を受け、長ずるに及んで外柔内剛頗る長者の風あり。事に処する慎重にして父母に奉ずること篤く、幼時より家政不如意の間にあつて黽勉父兄を助くるに余年なく、その行状は世人の頻りに称揚する所となつた。
明治十年西南の役起るや、福岡の志士之に呼応して起ち、戦ひ利あらずして敗るゝに至つたが、長兄良五郎、次兄浩太郎共に之に参加して捕吏の探索する所となり、捕吏は家を包囲して長兄良五郎を捕へんとせしも、時に良五郎他に赴いて家に在らざりし為め、徳次郎は其の身代りとして捕縛を受け、遂に囹圄に投ぜらるゝに至つた。
後年次兄浩太郎は福岡県赤池炭坑を開坑し、次いで豊国炭坑を拡張経営し、大に実業界に雄飛し、且つ中央政界に活躍して声名を馳するに至つたが、其間徳次郎は長兄良五郎と共に背後より之を輔佐し、経営資金の缺乏、水害及び炭坑爆発等の難関に遭遇する毎に鋭意難局に処して能く之を処理し、浩太郎をして自由に国事に奔走するを得せしめた。されば浩太郎は晩年に至り往事を回顧する毎に徳次郎の苦心と功労を追想して称賛と感謝を惜まなかつたといふことである。斯くの如く全く次兄の背後に在つて輔佐の任を尽すに専らなりし為め、事功の特に表面に現はるゝものなきも、その志や則ち国事に存し、浩太郎等が東亜経綸の為めに尽瘁したる功績の一部は正に徳次郎に帰すべきものがある。
夙に天真正伝神道夢想流の棒術を修めてその奥義に達し、併せて手裏剣を善くし、書は学ばざるも自ら一家を成し、余技として将棋をよくし田舎二段の腕前と称せられた。非常に真摯篤実の性格にて、長女菊子が弘岡好忠(陸軍中将)に嫁せし時、自ら嫁女心得なる教訓書を綴りて引出物としたといふことである。大正六年七月三日歿す。年六十四。福岡市千代松原崇福寺に葬る。
(遺族、神奈川県鎌倉町材木座上河原八二、平岡良一) |
|
平田知夫 (玄洋社、総領事、東亜)
福岡県宗像郡池野村の人、平田道見の長男。明治三十八年東京帝国大学法科を卒へて外務省に入り、印度カルカツタ領事を経て欧洲大戦勃発当時墺国大使館書記官としてウヰーンに駐在し、戦争中露国莫斯科総領事に転じ、南露及び高架索地方を視察中病を獲て帰朝し、大正七年三月十五日年三十九で歿した。大学に在学中から夙に東亜問題の研究に志し、明治三十六年には露領浦潮から単身徒歩して朝鮮に出で、三十七年には揚子江を遡つて漢口より北京に遊ぶ等、既にその期する所の遠大なるものがあつた。躯幹大ならざれど沈毅にして胆略に富み、玄洋社の先輩との関係も密で、現首相広田弘毅とは同郷の友で共に携えて東京に出で、其間莫逆も啻ならざるものあり、少壮外交官中の一異色として、大に前途を嘱望されて居たが志を伸ばすに至らずして早く世を去つたのは甚だ惜まるゝ所であつた。 |
|
関屋斧太郎 (盈進社、鮮、支)
慶応元年加賀金沢市に生れ、年少の頃より気を負ふて天下の重きに任じ、盈進社に於ける錚々たる青年志士であつた。後ち福岡に赴いて玄洋社に投じ磨礪する所があつたが、その関係から平岡浩太郎の知遇を得、平岡が経営する上海製靴店に赴き支那問題の研究に従つた。後ち志を朝鮮に転じ、上海で相知つた島田経一、田中侍郎と相携へて朝鮮に入り、仁川を経て釜山に赴き、当時大崎正吉、武田範之等が根城としてゐた梁山泊に投じた。偶々全【王+奉*】準が全州に於て東学党を率ゐて起つや、是れより先き朝鮮内地を旅行中であつた関屋は逸早く之を知つて同志に急報する為め韓人に扮して釜山に帰り、梁山泊の同志と対策を討議したが、田中侍郎と、関屋及び西村儀三郎との意見が対立し、田中は大邱焼打を決行して東学党に気勢を添ふべしとし、関屋、西村は直に全州に乗込んで東学党に東洋の大勢を説き直に連絡を取るを可とすると主張し、両々相持して譲らなかつた。唯だ沈黙して聞いてゐた武田範之は最後に至り『その両策を断行すればよからう』といつたので、一同はその意見に従ひ、関屋、島田、西村は予め通信電報の暗号を定めて急いで日本内地へ帰還した。是れは東学党に投ずるにはダイナマイトが必要だつたので、福岡へ帰つて内田忠光に相談すれば入手の方法があるといふ見込があつたからである。
【* 補助漢字区点=4415 16進=4C2F シフトJIS=96AD Unicode=742B】
然るに対馬を経て長崎に着くと、同地の鎮西日報には広島師団に動員令が下つたとの報を載せて居り、博多に着いた時には愈々我軍が出動したことが確実になつた。(これは明治二十七年六月五、六日のことである)この情勢の急変に鑑み更に対策の建直しを議し、一行三名は関屋の提言に従ひ、日支両国の出兵したのに乗じ、全州に乗込んで東学党と完全なる連絡を付け、大々的に兵を挙げさせて一挙に朝鮮政府を転覆するといふ方針の下に同志を募り、爆薬の入手等に奔走したのである。然るにこの事早くも官憲の感知する所となり、七月二十六日には門司、下関、博多の三地に潜伏してゐた同志十数名が一網打尽に捕へられてしまつたのである。
当時同志が検事局に於て取調べを受くるや、恰も病母を抱いて苦心してゐた西村儀三郎に対し、関屋は深く同情してその罪の総べてを一身に引受けんと決心し、西村の記載した暗号電報を関屋が自ら書いたものだと主張し、検事が筆蹟を調べて突込むにも拘はらず、筆蹟はどうであらうと、西村がどんな陳述をして居らうと、自分の書いたものを自分が斯うだといふのだから間違ひあるべき筈がないと飽くまでも主張し、西村をして其情誼の厚きに感激させたといふことである。こんなことで関屋、西村、島田等は獄裡の人となり、天佑侠の大活躍に参加する機会を奪はれたが、その志に於ては皆同一だつたのである。其後関屋は雄志を伸ばす遑なく明治三十三年病んで福岡病院に歿し、遺骸は玄洋社墓地に葬られた。享年三十六。
|
|
千賀環 (玄洋社、満、鮮)
旧福岡黒田藩士。安政六年福岡城下に生れ、青年時代は小学校教師となつてゐたが、後ち玄洋社に入つて国事に奔走し、勇猛果敢の士として知られた。品川内相の選挙干渉の時は反対党の暴漢と乱闘を演じ、相手を傷けると共に自身も腹部に負傷したことがある。常に国事を憂ひ、日露戦役には酒保として満洲に従軍し、戦後暫らく奉天或は京城等に住し画策に従つてゐた。晩年は福岡に帰り中野正剛の後援者としてその政治的活動を助けてゐたが、大正七年三月心臓麻痺で急逝した。享年六十。 |
|
杉山茂丸 (東亜)
元治元年筑前福岡に生る。父三郎平は藩の儒者で号を灌園と称し、水戸学派の頑固一徹の士。明治二十年頃まで丁髷を戴いてゐた程の人物である。茂丸はその長男で、幼名は秀雄。七歳の時黒田家の先代長溥公の近侍となり、名を茂丸と賜ひ、家に在つては父灌園から厳格な教育を受けた。稍々長じて父の家塾で漢学教授の業を助けたり、耕作や鍬の柄、下駄の製作等に従ひ、或は小学校の教師をも勤めたが、早くから自由民権の思想を奉じ、ルーソーの民約論に深き感化を受けて、明治十三年十七歳の時東京に上り、初めて政治運動に身を投じ四方の志士と交つた。当時彼が如何なる政治運動に従つたかは、自著『百魔』の中に『演説をせず、人寄せをせず、名前を売らず、恐喝を云はず、国を傷ひ民を惑はす者に丈け向つて、睨み打に直接に大義名分を説いてその改悛を迫り、先づ人間で出来るだけの親切と忠告の努力をした最終には、直に生首を掻払つてしまふ』ことを主義綱領とした『首浚ひ組の棟梁』を以て自ら任じてゐたとあるに依つて知られるが、その目指す目標が薩長藩閥の巨頭であつたのはいふまでもない。斯くの如き行動の為めに官憲の弾圧を受けて、同志は次ぎ次ぎに獄に下り、彼も名を林矩一と改め、東都に身を置く能はざる窮地に陥り、或は各所の天水桶に身を潜めたり、或は義人侠婦に庇護されたりして追究の手を遁れ、遂には新聞売子に身を窶して跼天蹐地の日を送つてゐた。偶々明治二十年元福岡県学務課長八重野範三郎、及び佐々友房の勧めに依り、当時東京芝口の田中屋旅館に滞在中であつた頭山満を訪問し、頭山が、
斯くまでにゆかしく咲きし山桜惜しや盛りを散らす春雨
の一首を引いて、『才は沈才たるべし、勇は沈勇たるべし、孝は至孝たるべし、忠は至忠たるべし。何事も気を負うて憤りを発し、出たとこ勝負に無念晴しをするは、その事が仮令忠孝の善事であつても、不善事に勝る悪結果となる。此故に平生無私の観念に心気を鍛練し、事に当つては沈断不退の行をなすを要とする。足下の考へはどうか知らぬが、お互ひに血気に逸つて事を過らぬだけは注意したい』と説いたのを聞いて、茲に飜然頓悟、爾来頭山と一心同體となつて国事に尽さんとする覚悟を定め、相携へて絶えて久しき郷里福岡に帰り、所謂更始一新の活動へと踏み出したのである。
その当時彼が活動の綱領とした五項目は、郷国割拠の風を打破すること、天下に気脈を通ずること、郷国独立の資源を開くこと、地方的開発の事業を起すこと、実社会の事物に接することゝいふにあつたが、その手始めとしての活動は、元老院議官であつた安場保和の人物手腕に着目し、之を福岡県々令に拉し来つて頭山と提携せしめたことで、安場が福岡県令となるに及び、道路の開鑿、鉄道の敷設、門司の築港、海軍所有炭山の開放等が着々と行はれて、九州の天地に産業勃興の機運頓に漲るに至つた。次いで来島恒喜が大隈外相に爆弾を投じて条約改正案を葬るに及び、彼はその連累者として博多で捕はれ一時獄に下つたが、無罪出獄の後は荒尾精と謀つて支那問題、朝鮮問題に力を注ぎ、屡々上海や香港に赴いて対支貿易の発展に志し、一方結城虎五郎を援けて、朝鮮経営の素地を造る為め釜山近海の金鰲島の漁場開拓を企てさせた。其間天稟の才気を発揮して伊藤博文等に親近し、玄洋社同人中にあつて、彼のみは特殊の軌道を辿つて政界の巨頭との関係を深め、之によつて国策遂行上偉大なる役割を演ずべき立場を造つて行つたのである。
爾来その行動は雲間に潜む蛟龍の如く、殆んど端倪を許さざるものがあつた。彼の長子夢野久作こと杉山泰道が父に就て、『彼は実際、目的の為に手段を選まなかつた。乾児らしい乾児を一も近づけないまゝ、万事唯だ一人の智恵と才覚でもつて着々として成功して来た。彼はいつも右のポケツトに二、三人の百万長者を忍ばせてゐた。さうして左のポケツトにはその時代時代の政界の大立物を二、三人か四、五人忍ばせつゝ彼一流の活躍を続けて来た。「俺の道楽は政治だ」と口癖のやうに彼は云ひ続けて来たのであるが、しかし彼が果してどんな政治を道楽にして来たか、知つてゐる者は一人もゐない。同時に彼の左右のポケツトに入れられてゐる財界、政界の巨頭連がどうして彼のポケツトに転がり込んで来たか、若くは転がり込ませられて来たか、知つてゐるものは一人もゐないやうである。さうして唯驚いて、感心して、彼の事を怪物怪物と評判して彼の為めにチンドン屋たるべく利用されてゐたやうである』といつてゐる通り、非常に親密な間柄な者でない限り、彼の行動は殆んど捕捉し難い、一種の謎のやうな裏面の行動であつた。
小美田隆義が越後の石油鉱区の権利を得て巨富を収めた頃は、之と提携して大に活躍し、日清戦後竹内綱、大江卓等が京釜鉄道敷設を計画しながら収支相償ふ計算の立たぬ為め、之を抛棄せんとするのを見て、対韓政策上之を坐視すべからずとなし、小美田の邸宅を担保に資金を調達することゝして復活の途を開いたのや、単身米国に渡航し一片の紹介状も持たずに富豪モルガンに面会して一億三千万ドルの外資借入の仮契約を結んで帰朝し、消極主義の政府当局を鞭撻すると共に、政党員を操縦して遂に日本興業銀行創立の端を作つたのなどは、彼の暗中飛躍の最も著しいものである。その頃の活動は最も痛烈辛辣を極めたもので、苟も国家の大局上是なりと信ずれば、その目的の遂行を妨げる反対派の議員をおびき出して罐詰にしたり、某貴族院議員を夜中に拉し来つて監禁したり、或は政府当路者を訪ふて膝詰談判を試み、論難駁撃、自己の主張を貫徹せずんば止まざるの熱誠を披瀝し、一処士の身を以て国家の重大政策を動かすに努めた。
次いで日露戦後朝鮮に統監政治が行はるゝに及び、内田良平が統監府幕僚として日韓合邦運動を起すや、彼は内地に在つて元老、重臣を動かすに努め、在鮮の内田と呼応して着々と合邦の機運を促進し、遂に明治四十三年之を実現するに至らしめたのであつて、内田を統監伊藤公に推薦した事情や、合邦実現に至るまでの苦心経営に関しては、本書中巻第二章乃至第六章に詳記した所であるから、茲には重複を避けて省略する。
桂太郎は彼を評して、『杉山といふ男は人跡絶えた谷間の一本杉といつたやうな男だ。天然の儘に蔓つたのだから枝ぶりが悪くて節だらけで、とても庭園には使へない。又眺める木にもならない。只だ悪木の節だらけでも、木の質が堅いから重荷だけは荷へる。それだから俺は彼に二階梁や根太梁など、削らないでも其儘使へるやうな風の仕事をして貰つてゐる』といつたさうであるが、波瀾起伏幾十年の間に亘り、全く政界の黒幕裡の人として縦横の奇才を揮ひ、伊藤、山県両元老、さては桂太郎、児玉源太郎、寺内正毅、田中義一、明石元二郎、後藤新平、床次竹二郎等と深く相許し、国家重大の事ある毎に必ず国策の動向に何等かの影響を与へねば措かなかつた。
下村海南博士は晩年の彼を評して、『伊藤、山県時代から見ると、人形も次第に小型になり、新しくなる。使ひなれた大型な人形はいつの間にか亡くなる。人形使も一年づゝ年をとつてゆく。摂津大椽や越路太夫去つて後の、老いたる吉田文五郎を見るの感は、独り文楽座ばかりでなかつた。しかし政界の文五郎はつぎつぎから新しい人形を物色し、使ひこなしてゐた。しかし人間の命には限りがある。とうとう政界の文五郎は此世をおさらばした』といひ、『さうした人形の方からいはすと、杉山をつかつたといふかも知らぬ。又庵主(杉山)にいはすと野人芻堯の言を述べ、微力をいたしたに過ぎないといふかも知れぬ。これは知る人の見方にまかして、僕の知れる頃は、政界の黒衣の人形使ひ文五郎が、寺内正毅、後藤新平、田中義一、明石元二郎、そうした将星だちの黒幕として動いてゐた時分である』といつてゐる。
若し夫れ玄洋社に於ける彼の立場を顧ると、結城虎五郎と共に頭山の両腕と称せられ、最初頭山に炭坑事業をするやうに献策したのも彼であつた。頭山は彼の献策を聞いてジロリと鋭い眼光を彼に浴せ『それでは俺に山師になれと云ふのか』と不快の色を泛べたが、彼が快弁を以て滔々と説付け、『玄洋社の維持は同志の国家的努力の先決問題である。天下蒼生を救ふを以て己が任となし、その任を達成するに就ては意気が何よりの資本であるとはいふものゝ、其処には相当の金力を要する所以』を論じ、遂に頭山をして『それもさうぢや、遣らう』といはしむるに至つたのである。そして炭坑獲得の為めに邁進し、井上馨が大阪の藤田組を助けて海軍予備炭礦を手に入れしめんとした時の如きは、彼が直接井上に会見して蘇秦張儀の雄弁を揮ひ、遂に玄洋社の頭山の手に収めしめるに至つたのであつて、斯くして玄洋社活躍の資金調達に多大の功績を残したのである。爾来彼は蔭にあつて頭山の活動を助け共に国事に尽したのであるが、昭和十年秋頭山、杉山両巨頭が断金の交りを続けること五十年に及んだのを機とし、内田良平、星一、真藤慎太郎の首唱により、両巨頭交友五十年を記念する為め『金菊の祝』を催し、朝野の名士が多数出席して盛大なる祝賀会を開き、記念品を贈つて祝福の意を表したのであつた。此年北鉄譲渡問題が解決を告ぐるや、平素懐抱する東亜問題に関する政策が一段落を告げたものとなし、それまでは畏れ多くて参拝出来ぬといつて一度も参拝しなかつた明治神宮へ初めて参拝し、明治天皇の英霊に報告祈願したが、同年七月十七日麹町区三年町の自宅で脳溢血で倒れ、同十九日遂に長逝した。享年七十二。生前『俺が死んだら死體を解剖して我国の学問に幾分でも役立つやう、切り刻んで十分研究してくれ』といひ残してゐたので、遺體は東京帝国大学医学部病理学教室で、小金井良精博士等の立会の下に、緒方知三郎博士の執刀に依り解剖に付され、二十二日芝増上寺本堂で葬儀が厳かに営まれ、会葬者は朝野の名士二千五百余名に達し、非常な盛葬であつた。法号は頭山の撰により『其日庵隠忠大観居士』とつけられ、遺髪を郷里福岡市の菩提寺一行寺に葬つた。著書に『百魔』、『続百魔』、『其日庵叢書』、『盲目の飜訳』、『児玉大将伝』、『明石大将伝』等がある。
一代の逸話は殆ど無尽蔵である。次に生前の知己たる二、三氏の談を掲げてその面影を偲ぶ料とする。堀内文次郎中将は曰く。『児玉源太郎伯と杉山茂丸翁とは大の仲善しであつた。杉山翁は後藤新平伯との関係深く参謀長格でもあつたが、児玉将軍との親交も格別であつて、なかなかよい相談相手であつた。児玉将軍が台湾総督時代にも、満洲軍総参謀長時代にも、色々と献策されたものである。砲煙漸く止んだ満洲に民政を布いて住民を安んじさせ、満洲百年の大計を樹立する卓越な処置を献策したのも杉山翁であつた。杉山翁は戦争当時市井の一野人でありながら、福島、松石、井口、尾野、田中等の幕僚のみしか出入出来ない満洲軍総司令部の奥の一室に出入を許され、児玉大将の寝室に将軍と枕を並べて起臥したこともあつたが、こんなことは恐らく世人が殆ど知らないであらう。杉山翁の人物が如何に卓越せるかは、この一事を見ても窺ひ知られるであらうが、杉山翁の如き偉才をよく用ひた将軍もなかなか偉いと思ふ。杉山翁と児玉将軍とにからまるこんなエピソードがある。日露開戦の時、児玉将軍の満洲出征に際し、新橋駅で杉山翁は「戦ひ勝つて凱旋の時には何かお祝ひするぞ、しつかり働いてくれ」と約束して見送られた。そして満洲で露軍を破り凱旋せる将軍は杉山翁に「お祝ひを早くよこせ」と催促されたものである。そこで杉山翁は真夜中に大釜二つを車に積んで児玉邸に持込んだ。何しろ直径二尺六寸、深さ三尺五寸といふ大の代物であつたから、門前に据えられると人の出入に邪魔になる有様で、翌朝起きて見た流石の将軍もこの大釜には驚いた。その始末に困つて一計を案じ、当時首相であつた桂公に売込まうとしたが見事失敗し、困り抜いた結果とうとう築地本願寺に寄進することゝなり、今でも本願寺に記念碑がある。銘に『凱旋釜』と題して、
満洲軍総参謀長、陸軍大将、子爵児玉源太郎御寄進
明治三十九年七月十七日 後進杉山茂丸
と記してある。両雄既に故人となられ、杉山翁地下で将軍と巡り合つたら大釜の思ひ出話も出来ることであらう』と。
頭山満曰く。『わしが東京へ出て来たのは三十一の年であつたが、杉山は其の時にもう東京に出て盛んに国事のため活動して居た。熊本の佐々友房の紹介で初めてわしのところへ来たものぢや。其時杉山は「福岡には自分が会ふやうな人物は一人もゐない」といふてなかなか気が進まなかつたと云ふが、それでも佐々の強つての勧めでわしの所へ訪ねて来た。ところが一度会つてからと云ふものは毎日缺かさずやつて来る。わしが外出するにも内に居るにも、必ず一緒であると云ふ熱心さであつた。智恵のある者は薄情な奴が多いが、杉山は智恵が多くて情が深く、双方備へて居た。それになかなか勇が盛んで智仁勇を兼備してゐた。わし等が病気でもすると必ず飛んで来て親切に介抱して呉れたものぢや。
杉山の座談のうまさは大したものであつたが、智恵は泉のやうに湧いて出るし、座談の弁舌は滔々と、さわやかであるし、男ぶりはよし、あれでなかなか女にはもてたものぢや。杉山はよく親切に人の世話をした。あれの世話焼き振りは徹底して居た。人よりも何によらず四倍も五倍も考へて、何かと大きな計画を樹てゝいふものぢやから、とうとう人は杉山を法螺丸と呼びよつたが、杉山も法螺丸ですましてゐたやうぢや。明治、大正、昭和にかけて杉山が国事に活躍した功績はたいしたものだ。殊に日露戦争当時に於ける杉山の働きは特筆すべきであろうが、伊藤、桂、山県、児玉など、杉山とは非常に親しくして居たやうだ。杉山は死ぬきわまで国家のことを考えて居た。あゝいふ人物はまたと得られない。
杉山のお通夜があつた時、芝の増上寺の大僧正がわしに「杉山さん程の大人物の戒名をつけるのに私し丈けではいかぬからどうか御相談にのつていただきたい」といふて、「勇誉通達居士」と書いたものを出された。そこでわしは考へて「杉山は表面に出ることをきらひ常に蔭にゐて人の世話を焼き、国事に奔走し、徳を積まれた稀世の大人物であるから、隠忠大観居士としてはどうか」といふたら、その時突然星が飛び出して来て「杉山先生は名誉や地位やそんなものをほしがつた方ではない。頭山先生のいはれるやうに、蔭にゐて国事に尽され大徳を積まれた大人物である。頭山先生の隠忠大観居士が賛成だ」といつたので、星の行司でわしの方へ軍配が揚つたわけである。杉山は名誉や地位等には超然として常に陰然大徳を積まれた人物で、定命とはいへ惜い友達をなくした』と。
又内田良平の談に曰く。『杉山氏は青年時代から極めて早熟な人であつた。そして早くから天下の名士と交はられた。安達謙蔵氏の如きは、杉山氏とは同齢であるが、杉山氏は安達氏の大先輩たる佐々友房氏と早くから親交があつたので、安達氏は杉山氏を遙に年上の先輩であると思ひ込み、杉山氏も矢張り安達氏を年下の如く考へて交際して来たのであるが、近年に至りお互に年を繰り合わせて見ると、二人共同年齢であることが判り、安達氏は杉山氏の早熟であつたのに驚かれたと云はれてゐる。又杉山氏と後藤象二郎伯との交際も極く若い時からのことである。その息猛太郎氏は一つ二つ年上で、杉山氏は猛太郎氏の面倒を尠からず見て居たのであるが、猛太郎氏は杉山氏から「君の親父があの時はどうであつた」とか、「其時こうであつた」とか想ひ出話を聞かされ、杉山は自分よりずつと年上であると思つてゐた所が、是又其後お互に年を知つて驚いたといふ滑稽談もあつた。とにかく杉山氏は早熟の人であつたが、其の識見高邁、機略縦横で、しかも世間の所謂智恵者に伴ふ臆病者ではなく、才智と大胆とを兼ね備へられてゐた。氏は又非常に親に孝行、友誼に厚く、後輩に親切で、故旧などは大抵のことがあつても容易に捨てない美徳があつた。杉山氏は事を行ふに当つて常に国家のためと云ふ眼目以外、自己の栄達、利害等は決して顧みられなかつた。茲に偉大なる氏の実行力が加はつたのであつた。その一例を挙げると、今の興業銀行は杉山氏の主唱に依り、且つ其の尽力によつて出来上つたものである。故に伊藤、井上、松方氏等は杉山氏の功を充分に認めて興業銀行総裁に勧めたのであるが、杉山氏は「国家の為に必要を認めたからこそ自分はその創立に力を致したのであつて、自己の地位や利益を得る為に尽力したのではない」と云つて、断じて之を受けなかつた。此の氏の立派な態度には伊藤、松方氏等は非常に感心されたものである。一事が万事であつて、氏が常に国家の為に大策を勧めてその貢献を致したに就ても、常に隠れた儘でその名を表はさず、其の功に報いられる事を好まなかつたが、児玉大将の如きは此の杉山氏の意気に対して信用され、その親交は非常に深かつた。それが延いて後藤新平との交りとなり、後藤伯をしてあれだけの事をさせた其の背後には、杉山氏が影となつて仕事を扶けた偉大な力があるのである。更に日韓併合の大問題に際しても、李容九、宋秉【田+〔俊−イ〕*】等があれ程奮闘したその背面には杉山氏の如き蔭で仕事をする天稟の才能を備へた大人物があつたからである。』
【* 補助漢字区点=4527 16進=4D3B シフトJIS=975A Unicode=756F】
|
|
|