来島恒喜 《玄洋社員の面影》より
一 其抱負
来島恒喜に就ては、其半面を既に記述せり。今暫く其缺を補はん。恒喜は福
岡市薬院研堀【→薬研丁が正しい。『福岡藩分限帳集成』633頁】黒田藩士三
百五十石取、来島又右衛門の次男にして安政六年十二月三十日出生。其二十
歳の頃、的野茂太夫の養嗣子となり明治二十二年八月旧姓来島に復す。郷儒
金子善作、海妻甘蔵、柴田軍次郎に学び、後ち高場乱の空華堂に学ぶ。来島
は高場乱の薫陶、越智、武部、箱田、平岡、頭山の感化によつて大義に殉じ、
大節に死するの愛国的至誠を自得したるものと謂ふべし。来島は眉目秀麗性沈
毅にして寡言友に信厚く又父母に仕へて至孝、用意周到なるも義に勇み情に激
し易く常に「思慮も思案も国家の為めにや無分別にもなる男」と口誦す。明治十
年福岡の変に際しては、彼年十八。其父来島が日常気を負ひ、天下国家に志
あるを知るを以て、当時彼の軽挙を慮り、深く訓誡を加へて粕屋郡筵内村の知
友に彼を預けたりき。
十五年朝鮮兵乱のことあるや、平岡等同志を糾合して義勇兵に加はり、剱を
按じて難に赴かんとせしも、済物浦条約成るに及び同志多くは上京す。来島又
十六年四月、飄然として東都に遊び更に奥羽より北越に至り大橋一蔵を訪ふ。
大橋一蔵は、越後西蒲原郡弥彦村の人、家世々豪農の名あり。一蔵は愛国の
志厚く明治九年前原一誠に呼応せんとして捕へられ、遂に下獄せしが十四年特
赦によつて放免、帰郷後は心機一転して私塾『明訓黌』を興し、子弟を教養す。
大橋来島を迎へて、遇すること甚だ厚く、幾ならずして、来島帰京し、中江兆民
の『仏学塾』に入りて大に政治学を研究し、旁ら学資及び糊口の資を得るため、
同郷の知己的野半介、前田下学、重野久太夫、福永義三太、正田宇吉、伊地
知卯吉、藤木真次郎等と芝愛宕下町に一戸を借り八百屋を開きて昼は之れが
販売に従ひ、夜は馬場辰猪、河野主一郎、野村忍助等と時事を論ず。副島種臣
之を聞き、諸岡正順を遣りて一詩を送る。曰く、
朝売菜夕売菜 売菜取代日十千
可以肉父母遺體 五経且飽腹便々、
中原渠曾有菜色 仁義満面果炳焉。
又来島、某の日副島に道を問ふ。副島之に答へ且つ書示して曰く、
『堯曰、允執其中。子曰、一以貫之 一者何、即所謂中也』
と。副島、山岡鉄舟に語るに、来島の人となりを以てす。鉄舟、来島を、谷中全
生庵に招きて読書せしむ。来島大に喜び講書研鑽鉄舟に就て修禅する所あり。
来島又筑前学生の東都に在る者の為めに、金子、栗野等に謀つて寄宿舎を麹
町番町に建て自ら其の監督の任に当る。今の霊南坂筑前寄宿舎福陵閣は実に
此に芽生したるなり。
後ち芝公園丸山弁天の附近に住す。時に朝鮮十七年変乱後に際し、金玉均
等日本に亡命す。来島雄心勃々禁じ難きものあり。的野等同志と事を挙げんと
せしも頭山の止むる所となり、次で来島、的野、竹下と共に南洋探険を企て、小
笠原島に到る。時に明治十九年四月なり。当時に在りては南洋探険の事もとよ
り容易の事に非らず。彼等が小笠原に在る時、偶々金玉均政府より護送されて
此地に来る。来島、的野朝鮮問題につき金玉均と深く相約する所あり。之に於
て、南洋探険の志を飜すに至れり。二十年彼が内地に帰来せし時は、恰も井上
の改正条約案にて天下甚だ喧騒を極めたるの時なりき。来島が井上を狙ふて
果さざりしは已に之を説けり。彼が大隈を撃たんとして葛生に爆弾の入手奔走を
嘱せし当時葛生に語りて曰く、
『予は此の条約問題なかりせば、一意金玉均、朴泳孝を助けて、朝鮮改革の為
めに全力を尽し、彼等の素志を貫かせんと思居りしも、今我国に此大事あり。須
臾も之を等閑に附すべからずして、遂に金、朴との約に背かんとするを憾む。抑
も我が国が東方の盟主として覇を東半球に樹つるに非らざれば、為めに東亜諸
国の独立難し。日本が之を為さんには先づ、朝鮮問題を日本人の手によつて解
決せざる可からず』
と。論じ意気当る可からざるものありきと云ふ。彼が胸中深く画きし抱負、以て
想思す可し。彼れ知友と共に撮影せし写真の後に題する所又彼の性格の一斑
を推知するに足るものあり。今之を茲に録す。
題二撮影後一 来島恒喜
前面に踞する者は的野薫氏なり。同左に踞する者は前田河嶽氏なり。其後に立
つて髯鬚蝟毛の如きものは村林氏なり。同左辺に泰然兀玄動かざること山の如
きものは、是れ則北筑の男子にて、其名未だ世人に多く知られずと雖も、隠然
天下の重を以て任ずるの名士なり。士、名は恒喜、性は的野、胸に孫呉の智を
蔵し、常に孟徳仲達の人の孤児寡婦を欺き天下を奪の拙なるを嗤ふ。嗚呼、是
れ世に所謂臥龍と謂ふべく、後世蓋棺の後炯然光輝を発するものある可し。
二 来島の墳墓
大隈は狙撃されたり。「大臣兇漢に刺さる」の飛報は全市民の熱血を湧かしめ
たり。全国志士の鼓動に波打たしめたり。世界の外交官をも驚畏せしめたり。
かくて外務省正門前に血に染りて倒れたる来島の死骸は、やがて警吏により
て検査を行はれ、其懐中ぽけつとより一葉の写真=来島自身の=発見され其撮
影所丸木写真館によつて来島の身許は直ちに判明せり。されば一方犯人連累
者検挙の手配りを為すと共に屍體を警視庁に搬入し、更に麹町区役所に送りて
十九日午前三時青山共同墓地に埋葬す。廿一日、岡保三郎、村山辰五郎等自
由党の援助のもとに来島の遺骸下渡を警視庁に乞ひ、其許さるゝや、縄田清太
郎、木原勇三郎、大原義剛等と共に、諸般の準備を整へ、青山南町二丁目龍
泉寺に於て弔祭を行ひ、狼谷にて火葬し、二十二日遺髪を谷中天王寺に葬る。
仏名を、
『浄心院節誉恒喜居士』と諡す。又遺骨は之を福岡に送り、十一月一日東公園
崇福寺境内玄洋社墓地に葬る。
頭山、平岡、進藤、香月等同志無慮五千余名葬儀に加はり、葬列一里に亘り
稀有の盛儀なりき。
葬儀当日崇福寺月松和尚の偈に曰く、
生滅元来都寂光 脚痕不動露堂々
玄洋一路漏春否 十円挿花発暗香
又末永純一郎長詩を賦して以て来島の霊を弔す。
爆裂断行
風蕭々兮【クサカンムリ+韲*】紛紛。 白虹貫レ日暗二妖氛一。 有レ客擲レ丸大臣
車。
【* 補助漢字区点=5822 16進=5A36 シフトJIS=9DB4 Unicode=8640】
外務省前血汾【サンズイ+云*】。 外務省隣桜田門。 余風尚懐当時迹。
【* 補助漢字 なし】
当時老相硬而姦。 酷似秦檜及安石。 外交由来尊二慎重一。
智巧擅弄縦横策。 既無二公明正大略一。 逐レ臭朋党悉巾幗。
弥縫苟安非二長計一。 邦家危殆日日迫。 社稷有レ臣誰儔侶。
水府十有七人客。 春風桜田門外路。 落下和レ雪血痕赤。
閲来三十年前事。 既往誰復説二是非一。 其迹同兮其志一。
聞レ之焉得レ不歔欷一。 客姓来島名恒喜。 隆準秀眉音吐爽。
少小生在二武士家一。 温良仕レ親極二孝養一。 功名有レ志未レ語レ人。
萍蹤南遊又東上。 機也未レ到徒辛苦一。 且帰郷里伍二郷党一。
郷党狂顛何所謀。 飄然君去欲二何往一。 只識外交如レ彼急。
廟議人心両揺蕩。 忽有二電激伝レ凶報一。 擲二爆裂弾一狙二大臣一。
大臣未レ殊客先死。 客是勤王第一人。 此報伝播市出レ虎。
紛紛何事囂二巷議一。 倉皇未レ遑レ詳二委曲一。 羅識余亦羅二繋累一。
君不レ見乎咸陽殿上寒二剣鋩。 博浪沙中冷二鉄槌一。
一死所レ報即一耳。 使下二他懦夫一驚且悸上。
又不レ見乎匹夫殺レ身国是定。 爆裂弾裂動二天地一。
非常策施二非常時一。 只応レ貴レ不レ誤二大義一。 遺骨好向二故山一葬。
玄洋之南竈山西。 来弔聊欲レ払二墳墓一。 十里松林暮色迷。
* 返り点には不備があるが、原文通りにしている。
崇福寺は九州に於ける禅宗の巨刹、黒田氏宗廟の在る処、曾て亀井南冥の
弟曇栄が住持たりし処、巨刹の幽雅、永く英霊の眠に適ひ、亭々たる老松玄海
の風翠色に芳ばし。
三 犠牲的愛国心
此年八月来島博多湾頭より船出せんとするや、的野を顧み幾干かの金銭を嚢
中に採り之を其父母に捧げんことを托するや、的野曰く。
『兄は今旅中の人たらんとす。金なかる可からず、宜しく之を収めよ。我兄に代
つて兄の父母に贈る所あらん』と。来島聴かず。『父母在すに吾遠く遊ばんとす。
斯の如き少許の金、尤より何の用をなすものに非ず。されど吾父母に背の不
孝、何物を以てしても之に償ひ難し。只以て自ら慰むるのみ』
と。的野、来島の意中を推し其孝心に動かされ、強ひて之を拒まず、孝子の志
を空しくせざらんことを思ひ、即ち来島の出す所の半に加ふるに的野の所持する
幾干銭を添へ之を其父母に送らん事を諭す。来島大に喜び的野の厚誼を謝
す。此の孝心あり。其愛国的行動為に一層の光彩を放つを見る可し。
大隈の性傲放不羈なりと雖も、由来情に厚し。来島の葬儀あるを聞き、国士に
対するの礼なりとして部下を遣りて之に会葬せしめ、以後一週忌に至る間命日
毎に人を派して墓前に香華を供へしむ。
明治三十九年平岡浩太郎の追弔会を東京築地本願寺に挙行するや、大隈来
り会し弔壇に上りて条約改正当時を追想し語りて曰く、
『来島の挙は犠牲的愛国の発現なり』として之を賞揚し、又遭難当時の状を他
に語りて曰く、
『時は明治廿二年十月十八日、午後五時頃であつた。閣議に列して官邸へ帰
らうと馬車を駆つて一二間、外務省の門内に入つた処をやられたのである。何
様暮早い秋の事とて、薄ら寒い風に、吹き寄せらるゝ暮気が、宇宙を包んで、人
顔も微白く、街は朦朧と暮れかゝつてゐた。
暮気を衝く我輩の馬車が、轣轆として門内の石甃を徐行しつゝあると、突如とし
て、風體怪しき一人の書生が駈けて来たと見ると、手に蝙蝠傘を提げて居る。是
ぞ誰あらう、刺客来島恒喜である。彼は爛々たる目を輝して、馬車の硝子越に
車内を窺ふや否や、傘の内に隠し持てる爆裂弾をば、発矢と投げたのである。
天地に轟く大音響。四辺を包む濛々たる硝煙。車軸は天に舞ひ、車體は微塵に
飛んで、我輩は【テヘン+堂*】と地響打つて倒れた。倒れて人事不省となつた。
【* 補助漢字区点=3263 16進=405F シフトJIS=90DD Unicode=645A】
彼来島は我輩の倒るゝのを見て、目的を達したのと思つたのであらう。懐中深
く秘めて居た九寸五分の短刀を抜くより早く莞爾と打笑み、咽喉掻切つて自刃し
た。処で我輩は只脚一本を傷けられた丈けで、未だに恁うして生きて生【→居が
正しい】る。元来人を殺す奴は臆病者である。人を殺して自己も死ぬといふ様な
勇者は少い。彼来島は我輩の倒るゝのを見て、目的を達したと早合点し、止めも
刺さずに自刃したのは、多少急燥ふためいた所為もあらうが、兎に角現場で生
命を捨てたのは、日本男児の覚悟として、実に天晴な最後である。
目的を達して現場で死ぬ……何と武士として美はしい覚悟では無いか。来島
の最後は、彼赤穂義士の最後よりも秀れて居る。豪い。慥に豪い。赤穂義士が
不倶戴天の仇たる、吉良の首級を挙ぐると直に、何故吉良邸で割腹しなかつた
か。首を提げて泉岳寺へ引揚げたのは、武士の原則からいふと間違つた話だ。
即ち其動機に於ては、赤穂義士と来島とは、天地霄壌の差違はあれ、其結果に
於ては、来島の方が天晴である。
大久保を殪した島田一郎の如き非凡の豪傑であつたさうだが、現場で腹を掻
き切らないで、縲絏の恥辱を受け、刑場の露と消えたのは、真の武士道に背馳
した見苦しい最後である。特に来島といふ奴は、目先の見えた怜悧な奴であつ
た。我輩を殺【→傷ヵ】つけるに、外務省の門内の狭い処を選んだ如き、馬鹿で
は到底這麼考は出ない。斯く狭い道を通る時には、勢ひ馬車を徐行させねばな
らぬ。此の徐行の場所に目をつけた彼は却々偉い。我輩は彼の為に片脚を奪
はれたが、併し彼は実に心持の可い面白い奴と思つて居る。』云々
大正三年秋大隈九州に下り、福岡に至るや、又来島の墓に人を遣りて、之を
展せしめたり。
来島生前未だ娶らず、声色を近づけず、興到れば中島橋畔の月に嘯きて朗々
高吟し、歓極れば玄海の波に対して悲韻を走す。清妙巧調、余韻嫋々たり。福
博の地今尚ほ『来島調』の吟咏法をなすと云ふ。
香月恕経、来島の勝海舟に贈る書翰の後に題して曰く、
題来島恒喜贈海舟書柬後。香月恕経
是故来島恒喜氏之手稿也。 【女+尾*】々数千言。 渾自二沛腑中一湧出
来。 氏為レ人深【サンズイ+ワカンムリ+几**】寡黙事二父母一孝謹与レ人不二苟合
一有三一決二于心一、則敢行不レ疑二毀誉成敗一遂無下足レ動二其心一者上。 其孤
憤慷慨慨出二於赤誠一。 如二是書一。 可レ覧矣。 抑現時国際条約之不レ利二
十我一天下所二斉概一也。 当局屡欲三改二正之一。而毎不レ得二其要一。
【* 補助漢字区点=2550 16進=3952 シフトJIS=8D71 Unicode=5A13】
【** 補助漢字区点=3876 16進=466C シフトJIS=93EA Unicode=6C89】
明治二十二年。 大隈伯為二外務大臣一。 亦従二事於斯一。 而其所謂改正
者大反二国人之所一レ望於レ是天下之志士翕然起非之氏為レ之致レ命。 実是年
十月十八日也大隈伯尋罷而其事遂中止。 斯書距二其致命之日纔一年也。
書中極下言井上伯入二内閣一之不可上。 蓋以下其嘗有上レ敗二予条約改正一也。
嗚呼条約改正者氏之命所二由以始終一也。 後之観二斯書一者。 庶幾有三内
省而悚然所二自警焉。 氏有故初冒二的野氏一後復二来島一。 是復姓以前之書
也。 故署曰二的野某一。 井原君雅与レ氏善。 一日訪レ之。 氏出二一稿一。
嘱レ君浄書。 君乞二其原稿一。而帰。 無レ幾有二霞ヶ岡之変一氏自殺。 君遂
装飾而蔵レ之云。頃者介二友人某一請二子題辞一。 予対レ之愴然者久之。
明治二十四年十月二十一日 書於春吉寓居
晦処逸士 香月恕経
* 返り点には不備があるが、原文通りにしている。
又来島の追悼会に当り櫻井熊太郎之を弔する一詩あり。録して茲に来島の伝
に筆を措く。
来島恒喜追悼会 櫻井熊太郎
無缺金甌忽欲レ摧。 舎レ身取レ義氣豪哉。
誰知赫赫邦威盛。 偏自二霞関一撃一来。
四 来島の剣と大隈の脚
明治四十一年の頃、東京大丸呉服店、日本服装展覧会を開く。中に大隈が霞
ヶ関遭難当時着用せる洋服を陳列す。跨服ずぼんの膝滅茶々々に破れ、而も
処々に血痕斑々、転た当時の惨状を忍ばしむるものあり。時に大隈招かれて席
に在り。編者亦当時読売新聞記者として招かれて会場を巡覧す。大隈が其遭難
当時の服の傍に歩を進むを見、之に近き問ふて曰く。今此に之の服を見る。閣
下の感懐果して如何と。大隈曰く左様……彼の時は……と答へて黙想無言。少
時ありて哄笑一番し、他を語らずして他室に歩を移す。彼が隻脚を失ひたる時
は、乃ち此の跨服を穿ちてありたるなりき。彼は遂に難に遭ふて隻脚不具の人
となり畢んぬ。其隻脚今何処にか在る。『東京夕刊新報』其所在に就て記するあ
り。
大隈首相の隻脚は何処にあるか。
大隈首相がチンバである事は改めて記す迄もない事で、立派な人杖を突いて
不自由な歩行を運んでゐるが、扨て切断された隻脚が何処にあるかは知つてゐ
る人は些なからう。更に又何故に隻脚を失つたのかと云ふ事すら知らぬ人が些
くあるまい。本問題は隻脚探索の前に、掻い摘んで隻脚をもがれた顛末を記し
て置かう。
大隈侯が福岡玄洋社の刺客来島恒喜に襲はれたのは、明治廿二年十月十八
日の午後であつた。条約改正問題に関し宮中廉前に於て、山県はじめ反対の
諸公と論議退出の途中、外務省傍の外相官邸に入らうとする門前で、来島に爆
弾を叩きつけられて片脚を滅茶々々にされて了つたのである。来島はその場を
去らず皇城を拝して自刃した。その原因は大隈外相が主張した条約改正案なる
ものが非国民思想の反映であるとの非難から起つた事で、大隈侯は実際の隻
脚を失ふと同時に、爾来廟堂からも失脚して在野党の頭梁として数十年を経、
大正に及んだのである。扨て爆裂弾を叩きつけられた時大隈侯は官邸の者に
扶けられて階下の広い一室に担ぎ込まれて中央の安楽椅子の上に横臥した。
此大変を聞つけて内閣諸公は勿論矢野文雄、北畠治房男、医師としてベルツ、
池田謙斎、伊藤方義その他の名手が息を凝して周囲に居並んで居る処へ佐藤
博士(進、男爵)が駆つけて治療に取りかゝつた。
大隈首相が隻脚を切断せる光景! それは次の如くであつた。先づ疵口を検
べ様としたが、爆弾に焼かれた洋服のズボンが流血で固く、くつついてゐるので
「奥さん鋏を」と云ふと綾子夫人は早速鋏を持つて来て佐藤博士に渡した。博士
はヂヤキヂヤキと気味悪い音を立てながらズボンを切りとつて診察したが「速刻
右脚を切断しなければ三時間後には危篤に陥いります」との事で夫人が侯の耳
朶へ囁くと「ウム佐藤さんにやつて貰はう」と承知して、弥々血腥い荒療治が始ま
つた。
赤十字、慈恵両病院から取寄せた外科器械を消毒して居るうちに、英国公使
と共に来合せた、ベルツ博士は魔睡薬の用意をする。
「手術台」はと云ふた処で急の間には合はない。それを取寄せる余裕はない。
「ハテ困つたな」と当惑して居ると「盆栽台があるが」と云ふものがあつて「それが
良からう」と、早速盆栽台が運び込まれた。
盆栽台と云ふと如何にも小さく聞えるが、外務大臣の官邸に備へ付けてあるの
だから非常に大きなもので、二箇繋ぎ合せると六尺豊な大隈侯の巨躯が楽々と
仰向けに置かれた。魔睡薬を浸した白布が鼻辺におかれると高木医師はじめ
医界の大家は侯の頭や體を抑へた。
意識が五體を離脱すると、佐藤博士は大きな外科刀を執つて大腿部の三分の
一の箇所(上の三分の二を残し)から輪切りにして生肉を残して、瀧の如く流れ
る血潮に鋸を加へてゴリゴリと骨を截ち切つて了つた。その生々しく傷いた隻脚
は、北畠治房男が油紙に包んで室外に持ち去つた。暫くは繃帯の雪が展べられ
患部の手当を終るまで費した時間は五十二分間。大隈侯を安楽椅子に移してホ
ツと安堵の顔を見合せて一段落がついた。……其時使用した血染の盆栽台は
今も尚外務大臣官邸に保存してある筈である。剛気な隈侯は、魔睡が醒てから
も頗る元気で見舞に来た伊藤公に向つて「文明の利器は真にエライよ。スーツと
黒いものがとんで来たと思つたらドンとやられた」などと談笑してゐたが、或日佐
藤博士が往診すると枕頭に白髪の北畠男が居合せた。そこで博士が「あなたは
素人であり乍ら、先日切断した隻脚を始末なさいましたが、宜く気味が悪くありま
せんでしたネ」と訊ねると、治房男は白髯を撫しながら「俺は戦場で血の雨を浴
びた事があるので足の一本や二本は何でもない」と哄笑した。扨て大隈侯の足
の行衛は奈何に。
大隈侯は余り多く酒を飲まぬ。処が侯の分身たる隻脚が馬鹿馬鹿しい大酒を
呑むなぞは一寸珍だ。扨て外務大臣官邸で切断された隻脚が什麼なつたかと
云ふと、地へ埋める訳にも行かず、と云ふて別に何とも方法がない。型の如く消
毒した大きな甕ほどのガラスの瓶にアルコール漬として、お邸へ「閣下のお脚は
奈何取計らひませうか」と訊ねると「邸へ届けて下さい」と、命のまにまに早稲田
邸へ担ぎ込んだ。
侯の患部が癒つて義足までスツカリ出来る頃には、切断された隻脚はアルコ
ールに浸つて真白になつてしまつたが、この隻脚先生なかなかの贅沢屋で手数
のかゝる事夥しい。月々アルコールを取り替へたり、それをポンプで入れ替へた
りするにも素人にはうまくゆかず、止むなく月給幾干を出して「脚の御守り役」を
雇ひ入れたが、その脚の呑むアルコール代が一ヶ月約六七十円一ヶ年八九百
円に上るので流石に大名生活の会計さんも眼を丸くして「この分で百年も二百年
も飲み続けられては遣り切れない」と零し抜いた。
それか、あらぬか大隈家から佐藤博士に話しがあつて、飲だくれの隻脚【→原
文「脚」脱す】は赤十字社病院へ参考品として引取られ、爾来幾千日官費のアル
コールに酔ひつづけて居る訳である。その足の保管してある部屋は、院内で『開
けず』の室と呼ばれる薄暗い陰気な所で、人間の頭とか、首とか云ふ様な無気
味な品ばかり蔵つてある。侯の脚を入れてある大きな瓶は更に木製の箱に収
め、其蓋の上に「大隈重信卿之脚」と認めてあるが、嘗て独逸の某皇族殿下が
病院へならせられた時、此の室に入つて隈侯隻脚の由来を聞くと顔を反けて室
外に出られてからは、一切何人にも拝見を許さぬ事に極めてあるさうな。(東京
夕刊所載)
霞ヶ関に来島が大隈を狙撃せし当時着用したる朝礼服モーニングコートと洋傘と
其自刃に用ひし左文字の短剱とは、今収めて福岡市外東公園崇福寺に在り。
其短剱光芒失せずと雖も、鮮血膏ちぬる所既に錆あり。又短剱の切先に少しく刃
砕はこぼれあり。之れ其自刃に当り、切先其着する、襟飾ねくたいの金具に当りし
為めにして、金具は見事半截され居れり。其朝礼服モーニングコートは胸襟の当
り、一抹の血痕尚ほ腥し。携ふ所の洋傘の如き、絹張にして、当時に在りては上
流紳士のみ之を携へ得たる位の品なり。洋服傘等皆平岡浩太郎のものなりとの
説或は当らんか。然れども的野半介氏の説く所は、新調なりと言ふ。今直に孰
れを是とすべきやは明ならず。又当時来島のポケツトの中に廿銭銀貨一箇あ
り。又今尚ほ之を崇福寺に蔵す。
編者之を思ふに、大隈家に蔵する血染の衣服、赤十字病院に蔵する其の隻
脚崇福寺に蔵する来島の短剱及血染の衣服什器を歴史参考館例へば博物館
又は帝国大学史学科等に陳列せば、明治史の実物史料として、益する所甚だ
大なるべし。来島の一撃遂に大隈を斃すに至らざりしと雖も、滄海壮士を得て秦
を椎す博浪沙、韓に報じて成らずと雖も天地皆震動するものあり。来島の挙あ
つて屈辱の条約改正遂に中止さる。夫れ来島以て瞑す可きなり。
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