玄洋社員の伝記集 T

『福岡県百科事典』
上下巻
西日本新聞社 1982年11月10日 石瀧が執筆した項目の内、玄洋社員に関するものを収録し
た。ただし、写真は略。
『西南記伝』
下巻二
原書房 1969年1月20日 1911年、黒龍会刊の復刻。「明治百年史叢書」に収める。「秋
月事変諸士伝」、「福岡党諸士伝」、及び「党薩諸団諸士伝」の
内「越智武部党諸士伝」から玄洋社員のみ収録。
* 句読点を整えた。
『玄洋社社史』
近代史料出版会 1977年7月20日 1917年、玄洋社々史編纂会刊の復刻。「玄洋社員の面影」、
「剣光余談」から玄洋社員のみ収録。
* 句読点を整えた。
『大日本人名辞書』
(一)〜(五)
講談社 1980年8月10日 1937年新訂第11版の縮刷・復刻版。講談社学術文庫。
* 句読点を整えた。

以下は 玄洋社員の伝記集 U
『東亜先覚志士記伝』
上巻・中巻・下巻
原書房 1966年6月20日 1933・35・36年、黒龍会刊の復刻。「明治百年史叢書」に収め
る。「列伝」から玄洋社員のみ収録。
* 句読点を整えた。

以下は 玄洋社員の伝記集 V
石田秀人著
『在京福岡県人物誌』
我観社 1928年12月15日 九州日報に連載されたもの。全112名から玄洋社員11名の
みを抽出。
* 句読点を整え、誤字を正した。



 福岡県百科事典

内田良平 うちだりょうへい 1874・2・11〜1937・7・26(明治7〜昭和12)
 黒竜会主幹。福岡市の生まれ。幼名良助、のち甲きのえ
1902年(明治35)良平と改名。号は硬石。旧福岡藩士内田良
五郎の3男。福岡に初めて講道館柔道を広めた。玄洋社三
傑の平岡浩太郎の甥おい。平岡に従い上京、講道館に入
門。また東邦語学校でロシア語を学んだ。1894年(明治27)
朝鮮に東学党の乱が起こると、朝鮮に渡り天佑侠てんゆうきょ
に参加した。日清戦争後、ロシア事情を研究にウラジオスト
クに居住、1897年から翌年にかけシベリアを横断旅行。1901
年対露主戦論を唱えて黒竜会を設立。1905年宮崎滔天とうて
らと孫文の中国革命同盟会結成に協力した。民間にあって
「日韓合邦」を推進し、韓国統監府嘱託となった。孫文の依
頼で、フィリピン独立運動、中国革命を援助、のち恵州挙兵
をめぐり孫文と意見を異にした。大正デモクラシーを排撃し、
普通選挙法案には純正普選運動で対抗した。1931年(昭和
6)大日本生産党を設立、総裁。早くから満蒙独立論者で満
州国承認と国際連盟脱退を主張、国体明徴運動に参加し
た。
(石瀧執筆)
香月恕経 かつきじょけい 1842・6・14〜1894・5・18(天保13〜明治27)
 集志社社長。字あざなは子貫、晦處かいしょ・晦洞と号す。香
月春庵の長男。夜須郡下浦村(甘木市)の生まれ。幕末期国
事に奔走し、1869年(明治2)秋月藩の手で捕われた。翌年
下士に列し藩学館訓導となる。医家を業としたが、1873年竹
槍一揆いっきに際し三瀦県に投獄され、1876年10月秋月の乱
でまた下獄した。1879年甘木に民権政社集志社を組織して
社長となり、筑前共愛会夜須郡部長を兼ねた。翌年11月国
会期成同盟の幹事に当選するなど自由民権運動に活躍。
1881年(明治14)甘木中学校長のかたわら雖無すいむ学舎を
開く。1884年校長を辞し、玄洋社で教育を担当し監督を兼
務。1887年福陵新報創刊と同時に主幹。1889年上京して『黒
田長溥ながひろ公伝』編纂へんさんに従事。翌年から衆議院議
員を2期つとめ、条約改正反対の論陣を張った。
(石瀧執筆)
来島恒喜 くるしまつねき 1859・12・30〜1889・10・18(安政6〜明治
22)
 玄洋社員。福岡藩士来島又左衛門の第2子。福岡薬院に
生まれる。少年時代、海妻甘蔵、高場乱に学ぶ。1875年(明
治8)福岡の政社堅志社に参加。西南戦争後は自由民権運
動に投じ、向陽社や玄洋社で活躍。1879年国会開設の全国
遊説に際し、壱岐、対馬、天草に赴く。1883年上京、中江兆
民に学び、傍ら馬場辰猪、副島種臣、山岡鉄舟らと交わる。
1886年4月小笠原島に渡航、金玉均を慰問。1887年外相井
上馨による条約改正に反対。翌年2月帰福し、岡喬らと箱田
六輔なきあとの玄洋社経営に当たる。1889年(明治22)外相
大隈重信による条約改正案反対運動に従事。8月上京、言
論による反対はおぼつかないとして、10月18日閣議を終えて
外務省表門にさしかかった大隈の馬車に爆裂弾を投じ、そ
の場に自刃した。大隈は負傷し、条約改正は中止となる。来
島の爆裂弾入手は頭山満から大井憲太郎にもちかけたもの
で、この事件には玄洋社の了解があった。
(石瀧執筆)
進藤喜平太 しんとうきへいた 1850・12・5〜1925・5・11(嘉永3〜大正
14)
 玄洋社社長。諱いみなは義幸。福岡藩士進藤栄助の子。福
岡市の生まれ。戊辰ぼしん戦争に従軍。藩校文武館に学ぶ。
1870年(明治3)就義隊結成に参加。廃藩後、高場乱おさむ
門に入る。1875年矯志社に加わり、翌年萩の乱に連座し投
獄される。西南戦争後は自由民権運動に身を投じ、向陽社、
玄洋社結成に中心的役割を演じる。玄洋社第2代社長、次
いで箱田六輔没後、1888年第5代社長に就任、37年間その
任にあった。常に言葉少なく誠実で、舞台裏の仕事に甘ん
じ、その気風は後進に多くの影響を与えたとされる。三州倶
楽部や筑前協会の設立に奔走。博多湾築港計画が起こる
と、福博の有志を説いて熱心に推進した。1905年(明治38)
福岡市長候補にあげられ、翌年、平岡浩太郎死去による衆
議院議員補欠選挙に憲政本党から出馬、旧自由党系の支
持も得て無投票で当選した(1期)。九州政界の重鎮として
「九州侍所さむらいどころ別当べっとう」と評された。
(石瀧執筆)
末永節 すえながみさお 1869・11・12〜1960・8・18(明治2〜昭和
35)
 政治家(いわゆる浪人)。福岡市春吉の生まれ。はじめ狼
嘯月ろうしょうげつ、晩年は無庵むあんと号した。福岡藩士末永
茂世しげよの子。新聞人末永純一郎はその兄。ガリバルジー
のイタリア建国に刺激され、海外雄飛を志して船員になった。
日清戦争には新聞『日本』記者として従軍。1901年(明治34)
玄洋社に入り、黒竜会結成に参加。1905年宮崎滔天とうてん
とともに孫文・黄興こうこうの会見をあっ旋し中国革命同盟会
結成に貢献した。機関誌『民報』の発行人。1911年中国武昌
に革命軍が決起すると、日本人として最初に革命軍に投じ、
弱体な軍の結束維持に努めた。山東都督府に狼嘯庵を構え
革命軍と行を共にした。1917年(大正6)支那処理案を発表し
「支那国土保全」の実行を主張。1922年東京に肇国会ちょうこ
くかい創立。満州・蒙古地方を含む一大自由帝国の建設を夢
みるなど、スケールの大きな自由人としての一面があり、天
下の浪人を自認した。
(石瀧執筆)
杉山茂丸 すぎやましげまる 1864・8・15〜1935・7・19(元治元〜昭和
10)
 政治家(いわゆる浪人)。福岡市出身。幼名平四郎、また
秀雄。其日庵そのひあんと号した。福岡藩士杉山三郎平の次
男。作家夢野久作はその子。ルソーの民約論に感化を受
け、1880年(明治13)上京、佐々友房らのすすめで頭山満を
知り、玄洋社にあって頭山を助け、その資金調達に功あった
という。安場保和やすかずが福岡県令となると、提携して九州
鉄道敷設、海軍予備炭山開放などを実現させた。日清戦争
後、単身渡米し、富豪モルガンを説いて外資借入に成功、日
本興業銀行設立のきっかけとなった。日露戦争後は内田良
平と「日韓合邦」運動を起こして日韓併合を民間から推進。ま
た南満州鉄道会社設立にも関係した。終始、政界の裏面に
あって桂太郎や後藤新平らと交わり「政界の人形遣い」との
評もある。1912年(大正元)末、博多築港計画を福博有力者
に説いて実現に奔走。関門トンネルを企画し、1917年許可申
請して却下されたが、その死後、政府は1936年(昭和11)工
事に着工、杉山の夢は実現した。
(石瀧執筆)
高場乱 たかばおさむ 1831・10・8〜1891・3・31(天保2〜明治24)
 女流眼科医。興志塾(人参畑塾にんじんばたけじゅく)主宰。諱
いみなは元陽、乱おさむは通称である。医師として正山と号し、
俳号に仙芝せんし、空華堂を用いた。博多瓦町かわらまちの生
まれ。福岡藩医岡正節の孫で、高場正山の子。高場流眼科
を継ぎ生涯を男装・帯刀した女傑として知られる。亀井暘洲
うしゅうに学び、亀門の四天王と称された。幕末期、筑前の勤
王家と交わったが、人材養成に向かい興志塾を興した。門下
からは武部小四郎など明治10年福岡の変の指導者や、箱田
六輔、平岡浩太郎、頭山満、来島恒喜ら自由民権運動、玄
洋社で活躍した人々が輩出。玄洋社の前身向陽社の社名を
めぐる争いを仲裁し、玄洋社誕生のきっかけをつくった。「人
参畑の婆ばばさん」と親しまれ、玄洋社の生みの親とも称され
る。福岡市博多区博多駅前4丁目(旧住吉村字人参畑)には
人参畑塾址碑がある。
(石瀧執筆)
頭山満 とうやまみつる 1855・4・12〜1944・10・5(安政2〜昭和19)
 玄洋社創始者。幼名乙次郎。のち満と改める。号は立雲。
筒井亀策の3男で、頭山家を継ぐ。福岡西新町の生まれ。初
め滝田紫城、亀井玄谷に学び、次いで高場乱おさむの人参畑
塾に入る。1875年(明治8)矯志社結成に加わり、翌年萩の
乱に連座して投獄された。出獄後は板垣退助と交わり、愛国
社再興に参加、九州各地を遊説した。箱田六輔、平岡浩太
郎らと向陽社・玄洋社を組織。1887年(明治20)玄洋社系の
福陵新報を創刊し社長となる。大隈重信の条約改正案に強
硬な反対を貫き、1889年玄洋社員来島恒喜による大隈外相
爆弾事件にかかわる。1892年玄洋社による選挙干渉を指導
したが、政府の背信行為に幻滅し国民協会への協力を拒
否。1894年天佑侠、1904年満州義軍結成を支援。1908年浪
人会を結成し大正デモクラシーの風潮と対決。1925年(大正
14)純正普選運動を展開し、また金玉均、孫文、ラス・ビハリ・
ボースら亡命政客を保護した。早くから古武士的風格と評さ
れたが、戦前右翼界の長老として晩年は半ば神格化され、
その言動は世間の注目を浴びることが多かった。
(石瀧執筆)
箱田六輔 はこだろくすけ 1850・5〜1888・1・19(嘉永3〜明治21)
 玄洋社社長。諱いみなは義門、六輔は通称。青木善平の子
で箱田仙蔵の後を継ぐ。福岡の生まれ。明治初年藩兵隊就
義隊に参加。一時姫島に流された。高場乱おさむの人参畑塾
に学ぶ。1876年(明治9)萩の乱に連携して反政府活動を企
て、頭山満らと山口の獄に投ぜられた。出獄後は自由民権
運動に参加、板垣退助の大関に次ぐ関脇との世評を得た。
筑前民権運動の指導者の1人で向陽社、玄洋社社長を歴
任、筑前共愛会会長を兼ねた。一方、愛国社、国会期成同
盟など民権運動の全国組織でも指導的役割を演じ、筑前民
権運動が土佐立志社に匹敵するまでに高揚する原動力とな
った。玄洋社の中で最も徹底した民権論者であったとみなさ
れる。性格は豪放で人望あつく、将来を期待されたが、国会
開設の前年、心臓発作で急死した。民権論をめぐる争いから
割腹自殺したとの説もあり、死に至る真相は論議を呼ぶ。
(石瀧執筆)
平岡浩太郎 ひらおかこうたろう 1851・6・23〜1906・10・24(嘉永4〜明
治39)
 玄洋社社長。玄洋と号す。平岡仁三郎の子、内田良五郎
の弟。内田良平はその甥おい。福岡地行の生まれ。初め民
権政社矯志社に参加。1876年(明治9)遠賀郡底井野村戸長
となる。翌年西南戦争に呼応する福岡の変に加わり、単身西
郷軍に合流、懲役一年の刑を受けた。出獄すると民権運動
に投じて向陽社・玄洋社社長を歴任。愛国社大会に参加。
1882年朝鮮の壬午じんご軍乱に際し、義勇軍計画を起こすな
ど早くからアジア問題に関心を示した。実業方面にも進出し、
赤池・豊国炭鉱などを経営して成功、その豊富な資産で玄洋
社の対外活動を支えたという。1894年(明治27)衆議院議員
当選。1898年の憲政党結成をあっ旋、隈板わいはん内閣樹立
に努めた。1903年対露同志会に参加、対露強硬論を唱え
た。1898年発足の九州日報資本主でもある。融通自在な性
格で政治、経済の多方面に活動した。
(石瀧執筆)



 西南記伝

阿部武三郎伝

 阿部武三郎は、筑前の人。嘉永六年十月、福岡に生る。世、黒田氏に仕ふ。初め藩黌文武舘に学び、高場乱の塾に入る。所謂北家組なる者の一人なり。明治八年、武部小四郎の矯志社を興すや、箱田六輔、頭山満、進藤喜平太、宮川太一郎と共に其中堅たり。九年十二月、声息を長州の前原一誠に通ずるの故を以て、同志中数名と共に縛に就き、獄に下り、西南の役終るに及びて始めて釈さる。

 武三郎、資性温良、而かも寡言沈黙、頗る長者の風あり。且つ思想緻密にして、其画策往往肯綮に中る。是を以て、同志間に於て、常に相談役の地位に在り。十年役後、獄を出づるや、深く時勢に感ずる所あり、全然意を政治に断ち、実業界に入り、敏腕を以て称せらる。現に筑前直方なる御館石炭山の経営に任ず。

内田良五郎伝

 内田良五郎、幼名は幸太郎。後、良之助と称し、更に良五郎と改む。筑前の人。平岡仁三郎の第一子。天保八年四月九日、福岡地行五番丁に生る。十三歳、出でゝ内田武三の嗣と為る。内田氏の先は、平康頼より出づ。中興の祖を南朝の忠臣清水勘七と為す。良五郎、黒田氏に仕へ、足軽たり。維新前、平野国臣に従て国事に奔走す。戊辰の役、東北の野に転戦して功あり、禄四人扶持十二石に加増し、士籍に編入せらる。維新の初め、藩政改革に際し、軍事係と為り、明治四年、陸軍少属に任ぜられ、七年佐賀の役、福岡鎮撫隊に加はり、筑肥の境に出征す。十年の役、越智彦四郎、武部小四郎等の薩軍に応ぜんとするや、彦四郎の嘱を受け、急行して兼松に赴き、田原陥落の報を齎らして還り、大野卯太郎と共に、其輜重係と為り、斡旋する所あり、事敗れて後、残島其他の各地に潜伏すること数年、僅に其縛を免るゝことを得たり。二十年以来、弟浩太郎を輔佐して、赤池、豊国等の炭坑経営に従ひ、拮据多年、其功最とも多きに居る。本年七十五。小田原に卜居して老を養ふ。

 良五郎、夙に尊王の志あり。平野国臣の門に出入し、其談論を聴くを楽とし、国事に奔走する所あり。而して国臣歿後、藩の忌む所と為り、国臣の二弟平山能忍、平野三郎、及、戸田六郎、日高小藤太、同四郎等と共に幽囚に処せらる。

 明治二年、良五郎の奥羽より凱旋するや、時に有司中、藩士をして、城外各地方に移住せしむるの議を建つる者あり。議略ぼ之に決せんとす。良五郎、之を聞き以為らく、『是れ、藩兵をして、訓練の途を缺き、愈よ柔弱に陥らしむるものなり』と。乃ち極力其不可を論じ、藩、終に其議を止む。

 此歳良五郎、又た主として藩の軍制改革を主張し、之を建議せり。当時、福岡藩の兵制は、十五歳以上六十歳以下を採用し、銃手二十人を一組とし、之に銃手頭一人を置き、四組八十人を一小隊とし、之に小隊長一人を置くの制なりしかば、老幼混同、節制其宜しきを得ず、統御上頗る困難を感じたりき。而して良五郎建議の要点は、(一)兵士の年齢は、十六歳以上四十歳以下とし、之を常備兵と為し、老者、及、幼者は藩内に在りて其守備に任ぜしむること。(二)組織は、一箇小隊に、小隊長、半隊長、分隊長、十長、伍長等を置き、之が指揮に任ずること。(三)糧餉は、一箇小隊毎に、一箇糧餉部隊を置き、其供給を敏活ならしむること是なり。是れ蓋し、奥羽戦役の実戦上より経験したる考案にして、殊に糧餉に関しては、其考案する所の畳釜を献じて之が参考に供し、以て其実行を逼りたり。当路者其議を容れ、乃ち良五郎を以て軍事掛書記に任じ、漸次其建議の主旨を行はしめんとせしが、未だ幾ならず、廃藩置県に際し、終に中止し、良五郎は、更に陸軍少属に任じ、武器掛(旧藩所有の武器保管)を命ぜられ、五年【→四年が正しい】、有栖川宮熾仁親王の福岡県知事として着任するに当り、随行員たる陸軍少将井田譲に対し、其保管に係る武器一切の引継を了し、而して後、其職を辞し、是より復仕へず。

 良五郎、奥羽凱旋の後、兵制改革の議を上り、輜重の敏活を図らんが為に、其考案に係る所の畳釜を藩主に献ずるや、藩主、良五郎の深く意を兵事に用ゆるを嘉みし、時服を賜ひ、其功を賞せられしと云ふ。

 明治六年、百姓一揆の筑前に蜂起するや、良五郎、中村用六等と共に、県庁の許可を得、義勇兵を募り、本営を勝立寺に置き、之が鎮撫に従事したり。時に良五郎、鎮撫の為め、福岡市外二里余なる長者原附近に赴きしに、会ま旧藩の兵一隊、一揆の包囲する所と為るを見て、身を此間に投じ、極力説諭し、之を退かしむるを得たり。良五郎、帰りて用六に説き、権大参事水野千波、小参事団尚静に請はしめて曰く『一揆をして、麕集、福岡市に乱入することあらしめば、其禍、測るべからざる者あらん。之を鎮圧するの策は、宜しく市外に於て、一揆の先鋒数名を斬り、以て藩庁の威力を示し、暴民をして畏服せしむべし』と。断然、暴民弾圧の議を主張せしも、容れられず。良五郎、又、一揆の博多方面に来襲せるを聞き、浅香茂徳、立花権一郎、立花半蔵等と共に、黒田清に従て崇福寺前に至り、之に説諭せしも、暴民熱狂、得て制すべからず。良五郎等、暫らく寺内に休憇して、其動静を窺ひつゝありしに、暴民躊躇して進まざるの状あるを見、将に福岡に帰らんとせしに、小野隆助等、兵を率ゐて来るに会す。良五郎、乃ち其来意を問ふ。隆助曰く『博多の一揆を鎮定せんと欲するのみ』。良五郎曰く『博多方面は、吾人既に之を処分せり。足下宜しく福岡方面に向ひ、禍乱を未然に制すべし』と。隆助、乃ち還て福岡方面に至る比、一揆既に福岡市中に入り、県庁を襲ひ、之れを火せんとするに至る。用六等、其兵を率ゐて県庁を護し、漸く之を鎮制することを得たるも、後、用六を始めとし、吉田主馬、時枝何七郎等、切腹して其失態を謝するに至る。世人、良五郎の策、容れられずして、用六等の如き人才を失ふに至りしを惜むと云ふ。

 十年の役、福岡旧藩主黒田長知、旧藩士鎮撫の為め、福岡に来り、浅香茂徳に命じ、越智彦四郎、武部小四郎等を召さしむ。然るに彦四郎、小四郎等避けて之に遇はず。茂徳、乃ち良五郎を訪ひ、嘱するに、彦四郎、小四郎等に諭すべきことを以てす。是に於て、良五郎、弟平岡浩太郎をして、彦四郎等同志の士を自邸に招かしめ、之に告て曰く『旧藩主の諸君に諭す所あらんとするは、其情察するに余あり。而して諸君の、之れを避くるは其礼に非ず。宜しく旧藩主に謁して、其礼を竭さざる可からず。若し夫れ国家の大事に至りては、別に之を議するも、未だ遅しとせざるなり』と。彦四郎等、之を然りとし、始めて長知に謁し、長知をして安んじて再び東京に帰ることを得せしめたりしと云ふ。是より同志の士、良五郎の邸を以て、密議の集会本部と為すに至る。

 十年の役、越智彦四郎、武部小四郎等の兵を挙て薩軍に応ぜんとするや、同志の士、常に良五郎の家に会して軍議を凝らしたり。一日、彦四郎、小四郎を始めとし、久光忍太郎、大畠太七郎、久世芳麿、加藤堅武、平岡浩太郎等、相会して福岡城襲撃の策を議す。時に良五郎、策を建てて曰く『福岡城を襲撃するは、宜しく四面より一斉に突入するを可とす。一は上橋門口より、一は下橋門口より、一は追廻橋門口より攻撃して、以て城兵を牽制し、而して後、潜に杉土手裏より大堀の浅処を渉り(此浅処は、砂寄にして水深殆ど腹に達せず、)潮見櫓の上手の角に上り、官軍主計官の庁舎(旧藩主の奥殿跡)を襲はば、城兵内外の守を失し、戦はずして潰ゆべく、又、主計官庁舎貯蓄の官軍軍用金(是より先き、一商人の報に依り、新に多数の軍資金を貯蓄しつゝあることを知る。)を獲て、我用に供すべし』と。是より先き、良五郎は、元と福岡城並に堀廻地面支配を掌り、城濠の浅深、要害の虚実を諳んじたるを以て、此策を建てしなり。当時、同志の士、皆之を可とせしも兵数寡少なるべきを慮かり、此策終に行はれざりしと云ふ。

 福岡党の軍敗るゝや、警吏、来りて良五郎の居宅を囲み、之を縛せんとせり。時に良五郎、同志の招きに由り、伊崎浦に赴き、佐藤力、石井惣三郎等十数名と会し、再挙を議しつゝありしを以て、家に在らず。警吏、乃ち良五郎の実弟平岡徳次郎、白石留吉を捕縛して去る。(徳次郎、留吉は、全く福岡事件に干繋なかりしを以て、一夜留置の末、放免せらる)良五郎、其報を聞き、同志に謂て曰く『今や物色の厳なる此の如し。此際用意周密を缺かば、徒に幽囚の辱を受けんのみ。故に吾人同志密に盟を結び、表面各其家業に勉励して、警吏の注視を避け、以て時機の到来を待つべし。余亦其身を潜め、他日諸君と再挙を策するあらんのみ』と。終に去て其跡を匿すに至りしと云ふ。

 良五郎、夙に武芸を修め、百般の武術、其蘊奥を究めざるは無し。剣術は、小野派一刀流幾岡平太郎の門に入り、其免許を得、中西忠太の皆伝を許され、柔術は、扱心流を藩の師範石川雄兵衛に、棒術天真正伝神道夢想流、及、捕手一角流は平野吉右衛門に、砲術は津田武右衛門に、学び、鎗術と共に、悉く其師の免許を受く。晩年に至り、自ら洋杖術を創案す。其術、最とも変化に富み、洋杖を以て対敵の用に供するに極めて効能ありと云ふ。蓋し其術は、棒術より会得したるものにして、棒術と共に、東京に於て、之を剣客中山資信に皆伝したりと云ふ。

 良五郎、武術を以て、其躰躯を錬磨し、精力絶倫、能く苦寒に耐ゆ。平素漁猟を嗜み、烈寒の候、凍氷を砕き、水中に在ること数時間にして、猶寒冷を感ぜずと云ふ。又旅行の際、数日の溜食に耐ゆ。壮年の時、弟浩太郎と共に寒中捕魚に従事するや、浩太郎の寒冷に戦慄するを見、叱して曰く『汝、武士の家に生れ、寒威に戦慄するの挙動あるは何ぞ』と。諸友、良五郎を評して曰く『良五郎の特長二あり。曰く、飯の溜食、曰く寒暑知らず、是なり』と。蓋し良五郎、體温三十八度を常温とすと云ふ。

 良五郎、身長五尺六寸余、骨格雄偉、膂力群に超ゆ。少壮、毎朝暁起、必ず四斗の米を搗き終り、而して後、武芸修錬に出づるを常とす。其杵を上下するの敏速自在なる、恰も軽槌を以て藁を打つに異ならず。一日、家普請に際し、倉庫の一隅に当り、濁酒の充満せる一大甕あり。之を他に移さんとするも、其量重く、且つ其場内狭隘にして、数名の人夫を容るべからず、人夫頗る之に困む。良五郎、之を見て、先づ人夫を去らしめ、両手に其甕を攫み、軽軽之を挙げ、他に移せり。観るもの、其力量の非凡なるに驚かざるは無し。良五郎又常に角觝を嗜み、年五十を過ぐるも、尚之を試む。其弟浩太郎を輔佐して炭坑経営に従ふや、時に或は坑内の工夫を拉して、角觝の戯を演ずるに、坑内数百の工夫中、一人の能く之に敵するものなかりしと云ふ。

 良五郎、資性澹泊、胸襟爽洒、事物に拘せず。老年に至り、時に或は和歌を詠じ、興を遣ることあり。四十四年一月、家婢の父某、年六十二に達し、祝事を営む。良五郎乃ち一首の歌を作り、之に贈りて曰く、
  六十二むそじまて陸奥山に鍬とりてまた百歳をすき返すらむ

進藤喜平太伝

 進藤喜平太は、筑前の人、進藤栄助の子。嘉永四年福岡に生る。世、黒田氏に仕へ、其の藩士たり。幼にして藩黌文武館に学び、後、箱田六輔等と共に、高場乱の門に入る。所謂『北家組』なるものゝ一人たり。明治八年、武部小四郎の矯志社を興すや、喜平太、実に箱田六輔、頭山満等と其羽翼たり。九年萩の変起るに方り、喜平太、同志と共に捕へられ、福岡、及、山口の獄に繋がれ、西南の乱平ぎて後、始めて釈放せらる。十二年四月、六輔等と向陽社を組織し、其幹事となる。後、向陽社を改めて、玄洋社と為すに方り、満、及、平岡浩太郎等と共に、其牛耳を執り、尋て其社長となる。三十九年、浩太郎に代て代議士と為り、任満て後又出でず。今、尚、玄洋社長たり。

 喜平太の玄洋社長として九州の一角に拠るや、始終自由主義を持し、其勢、反対党の為に、隠然一敵国たるの観あり。曾て九州進歩党の活動するに方り、其委員等、百方喜平太に説くに、心機一転、進歩党の為に力を尽さんことを以てす。喜平太、断乎として之を斥けて曰く『公等の事は、公等の事のみ。公等、改進党と結びて、如何に国民の多数を利すとも、吾党に於ては損益なし。天下を挙げて進歩党と為らんか、玄洋社は天下を相手として立たんのみ』と。時人喜平太を評して『九州侍所の別当』と称す。

 喜平太、人と為り、重厚にして謹直、言語寡なし。然れども、飲めば則ち善く談じ、善く罵る。九年の変、其獄中に在るや、論語を愛読す。人あり其義を問ふ。喜平太曰く『読書の要は、意会を尚ぶ。其字義は余の解する所に非ず』と。或人之に戯れて曰く『進藤の読書は所謂読書百遍義自ら通ぜざるなり』と。

 喜平太の獄中に在るや、獄中の制、入獄に際し、多額の金銭を携帯するを許さず。而も其拘留者は、苦心、獄吏の耳目を避けて之を携へ、然る後之を獄吏に預け置き、随時、食物其他購求の用に充つ。一日同囚各其密携する所の金を出し、喜平太をして、之を獄吏に預けしむ。盖し、同囚、喜平太の平生虚言を発する能はざる性質を知り、諧謔一番、之をして惶惑せしめんとするに出づ。既にして喜平太、獄吏を呼び、其金を出して之を托せんことを請ふ。獄吏怪て金の出所を問ふ。喜平太、忽ち惶惑し、答ふる所を知らず。獄吏之を詰る再三。喜平太、黙考之を久うし、低声答へて曰く『着衣の裏に在りし』と。獄吏重ねて衣中何れの処に在りしやを問ふ。喜平太、又吃吃として辞窮し、言ふこと能はざるものゝ如く、其着する所の古洋服の腕部を摘て曰く『此処なり』と。獄吏乃ち之を検するに、其服は単衣にして、且つ寸毫も破綻の痕を止めず、決して紙幣の伏蔵し得べき所に非ず。是に於て、獄吏唖然言ふ所を知らず。

 喜平太、時に歌を詠じて興を遣ることあり。曾て頭山満と相携へて東上の途に就くや、途に杉田定一を訪ふ。時に所懐を述べ、一首の歌を詠じて曰く、
  梓弓心のまゝに引きしめて放つ一矢の透らさらめや

頭山満伝

 頭山満は、筑前の人。筒井亀作の第三子。安政二年四月十二日福岡に生る。年十九、出でゝ父の外戚頭山氏を嗣ぐ。筒井氏并に頭山氏、世、黒田氏に仕へ、其藩士たり。満、少うして亀井昭陽の子暘洲の門に遊び、後、高場乱に学ぶ。明治八年、箱田六輔等と矯志社を組織し、九年十月、萩の変起るや、六輔、及、進藤喜平太等十余人と共に、福岡監獄に拘せられ、西南の乱起るに及び、一時長州に移され、尋て再び福岡の獄に送られ、乱平ぐの後、始めて釈さる。其獄を出づるや、同志と共に、向陽義塾を興し、専ら青年子弟を養成す。来島恒喜、大原義剛等、皆当時の塾生たり。十一年五月、島田一郎等、内務卿大久保利通を暗殺するの報至るや、満、蹶然起ちて土佐に赴き、板垣退助を訪ひ、還りて同志と共に玄洋社を組織す。爾来、自由民権の論、漸く天下を風靡せんとするや、満、以為らく『大事を成す、先づ人材を天下に求めざる可からず』と。単身漫遊の途に上り、山陽を経て石川に入り、越後を経て東北に至り、福島に河野広中と会し、会津に広沢安任と会して還る。二十二年、条約改正の議あるや、満、再び起て東京に入り、反対運動を試む。既にして帝国議会開設せられ、山県内閣を経て松方内閣の組織せらるゝや、之に応援する所あり。後、松方内閣の為す無きを知り、之に関せず。三十三年拳匪の変あり、尋て満洲問題の起るや、満、近衛篤麿を擁して、国民同盟会を組織し、支那保全主義を唱ふ。三十六年、満洲問題の再燃するに及び、満、亦同志と共に対外同志会を組織し、大に討露の議を主張す。日露戦役の起る、与りて力ありと云ふ。

 満、嘗て眼を患ひ、人参畑の高場乱子に就て、其治療を受け、乱子に請て其家塾に入る。初め満の高場塾に入らんとするや、乱子之を止めて曰く『我塾の書生は、皆是れ跌蕩不羈、縄墨の外に逸するもの、子能く之と伍するを得る乎』と。満、強て其入塾を乞ひ、始めて塾中の豪傑と伍し、終に沈黙を以て同儕を服す。乱子、満の傑出物たるを知り、之に謂て曰く『孺子教ゆべし』と。是より乱子の推重する所と為る。

 満の高場塾に在るや、蓬頭垢面、終日黙黙として一語を発せず。同窓の書生、皆之を侮りて鈍漢と為す。一日、同窓『ゲヂ』の戯あり。蓋し其戯は、数人環座し、一人をして頭を伏せしめ、其頂毛を以て『ゲヂゲヂ』虫に擬し、環視者交互錯雑して其毛を曳き、伏せる者をして、曳くものゝ名を言はしめ、之に適中すれば、其任を曳くものに譲るを法と為す。而も壮年活気の徒、其毛を曳くに換ふるに、拳固を以てす。蓋し伏せるものゝ苦痛、殆んど堪ゆべからざるなり。一日『ゲヂ』の戯正に酣なるや、満、時に柱に凭り、黙黙として之を見る。一人、満を顧みて之に加はらんことを勧む。蓋し、満を以て好『ゲヂゲヂ』に供せんとするにあり。満、声に応じて曰く『好し』と。咄嗟傍に在る火鉢を挙げ、力に任せて伏者の頂を一撃す。満座魄奪はれ胆破れ、唯、満の面貌を凝視するのみ。満、是より同窓書生の畏怖する所と為る。

 宮川太一郎、嘗て満を評して曰く『頭山の人参畑の塾在るや、其一挙一動、悉く吾人と其趨舎を異にす。就中、彼の読書法たる、又極めて奇にして、毫も章句に拘泥することなく、而も其会心の処に到れば、反覆誦読、晨に継ぐに夜を以てし、之を諳んずるに至らずんば息まず。其精力の絶大なる、優に儕輩に抽んぜり』と。蓋し、満は心読を以て、読書の法となせしものなるに似たり。

 満、弱冠、好みて名山大川の間に放浪し、或は三昼夜食を絶て山中の廃寺に坐禅し、或は郊外の空堂に眠りて、週日其家に帰らざることあり。以て心胆を練磨す。後、満、往事を回想し、人に語りて曰く『紅塵万丈の人寰を去て、十里渓山鳥一声の仙境に入り、終日悠悠として天地の自然に対す。又、一種言ふ可からざるの趣味を感ず』と。彼の筑前人士が、満を評して『綿糸一筋を以て、能く大山を引くの勇あり』との言あるに至りしもの、蓋し当年精神修養、心胆錬磨の致す所なりと云ふ。

 明治九年の秋、矯志社の同志等、兎狩と称して、日日郊外に運動を試む。福岡県庁、満等の挙動を疑ひ、警吏をして一日満の家宅を捜索せしむ。一日、満、家に帰るや、家人之に告て曰く『警吏数名、留守中、来りて家宅を捜索し、書類を収めて去る』と。満之を聞き、怫然として曰く『咄、主人の不在に乗じて、其家宅に侵入す。其無礼恕す可からず。好し、是より警吏を叱し来らん』と。時に松浦愚来り会し、之に賛して曰く『僕亦た従はん』と。二人相携へて警察署に赴く。刺を通ずれば、署長寺内正員、慇懃之を延き、徐ろに二人の言を聴き終り、容を改め、之に謂て曰く『警吏にして不法の所為あらば、僕代りて其責に任ぜん。但し、二君の行動に就ては、警察に於て、取調の要件あるを以て、是より留置を命ずべし』と。是に於て、二人忽ち拘留せらる。葢し当時、満の家宅捜索を受くるや、其書類中、大久保利通刺殺に関する文書の発見せられたるに由ると云ふ。

 十年乱後、満の獄を出づるや、鹿児島に遊び、西郷隆盛の邸を訪ひ、川口雪蓬に面す。雪蓬、悵然之に謂て曰く『十年役前の鹿児島は、有用の人材輩出せしも、今や、禿山と一般、人才一空、復言ふに忍びざるなり。樹を植ゆるは、百年の計なり。想ふに西郷の如き巨人は、百年又は千年にして一たび出づるもの。而して、斯人再び見る可からず』と。満乃ち雪蓬に就て、西郷遺愛の文藉を見んことを求めしに、雪蓬『洗心洞剳記』を出し、満に謂て曰く『是れ、西郷が南島謫居中愛読して措かざりし書なり』と。満披て之を読むに、書中往往隆盛の手記に係る註あり。満、垂涎措かず、雪蓬に請ひて之を借り、飄然去て之く所を知らず。後、雪蓬、其返却を逼ること甚だ急なり。居ること一年。満、再び鹿児島に遊び、雪蓬に見えて、其書を返しゝに、雪蓬大に喜び、更に『王陽明全集』を出して之に贈り、却て其軽忽を謝したりと云ふ。

 二十二年、大隈重信、外務大臣と為り、条約改正に従事し、其改正案の新聞紙上に発表せらるゝや、国論沸騰、断行論、及、中止論、一時に起る。時に満、福岡に在り、玄洋社を代表して、国権党の佐佐友房と共に出京し、天下に率先して条約改正中止の意見を発表し、或は之を当路の大臣に論じ、或は之を各地の志士に説き、大に輿論を喚起するに努む。而して玄洋社の烈士来島恒喜、条約調印の時期切迫すると聞き、爆裂弾を投じて、大隈重信を傷け、終に自刃するに至るあり。適ま、満、福岡に帰らんとし、大阪の客舎に投ず。警吏来りて満を拘引し、之を鞠問すれども、満、答へず。日夜放歌高吟するのみ。警吏乃ち満の携へたる鞄底を検すれば、何ぞ図らん、阿嬌の艶書に非ざれば、悉く是れ春宵秘戯の図ならんとは。警吏已むを得ず之を放てりと云ふ。

 荒尾精の日清貿易研究所を上海に設立するや、満、之が計画に参し、屡ば資を傾けて之を助く。二十三四年の交、精、上海より東京に来り、研究所経営に関する財源を求めんと欲し、百方運動、効を奏せず、之を満に謀る。時に満も亦、余資の以て之を助くべきなし。乃ち一計を案じ、之を鳥尾小弥太に請ふ所あらんとし、精と共に金主某を伴ひ、小弥太を熱海の別荘に訪ひ、精の研究所に対する前途の計画を語り、資源の急を愬へ、終に聯帯調印の為に金主某を伴ひ来れることを以てす。小弥太応ぜず。之を強ゆる再三に及び、乃ち満に謂て曰く『余、足下の為に之を他に謀らんと欲す。然れども、足下にして、出金者其人に反対するに於ては、事終に画餅に帰すべし。故に予じめ之を足下に告ぐ』と。因て出金者の井上馨たることを語る。満、曰く『何ぞ出金者の井上たると、穢多*るとを問はんや』と、退きて之を精に告ぐ。精、沈思するもの、之を久うして曰く『吾人貧と雖ども、井上輩の金を借ることを欲せず』と。三人乃ち轅を回して帰京せりと云ふ。

 廿四年、西郷従道、品川弥二郎等、国民協会を組織せんとするや、先づ満を羅致せんと欲す。一日従道、人をして之を招かしむ。満、偶ま酒楼に在り、諾と称して至らず。次日従道、又満を招く。満、又諾と称して趨かず。従道、乃ち人をして言はしめて曰く『我等公を待つこと久し。一顧の案を得ば幸甚也』と言、慇懃を極む。満曰く『三顧豈廬を出でざる可けんや』と。即ち従道の邸に至る。座に松方正義、樺山資紀、品川弥二郎皆在り。満、謝して曰く『世に、成さんと欲して成らざるものあり、成して成し得ざるものあり、成さずして成さざるものあり。成して成らざらんよりは、僕、寧ろ成さずして成さざるを取る。今や、公等国家の為に成さんと欲す。僕謹で其為す所を見んのみ』と。四人慙色あり、再び見ゆる能はず。後、従道人に語りて曰く『如今、我れ頭山に慙づ』と。

 満、平生、意を対外問題に留め、事あれば、則ち猛然蹶起し、全力を傾倒して之に任じ、事無ければ、則ち名利の外に超立し、功業、富貴、名誉、利益、権勢、一として関せざるものゝ如し。廿二三年の交、荒尾精の日清貿易研究所を設立するや、満、内に在りて、其計画に参し、之が資を助け、暗に其力を效せしが如き、廿七年の交、鈴木力、大崎正吉、大原義剛、内田良平等の天佑侠を組織して朝鮮に航し、東学党を煽起せんとするや、満、内に在りて其後援と為り、之が運動費を給したるが如き、三十四五年の交、国民同盟会の成立するや、満、近衛篤麿を輔けて其枢機を握り、同志の領袖と為りしが如き、三十六七年の交、対外同志会の組織せらるゝや、満、亦起て討露の議を唱へ、当局者を鞭撻したるが如き、一として国家の為に一身一家を忘るゝものに非ざるは無し。而も内治の得失、党派の消長に至りては、満殆ど之に関せざるなり。

 満、平生、沈黙寡言、恰も禅僧の如し。而も一たび言を発すれば、金石の如く人の心腸を貫く。読書大義に通じ、良知の学に得る所あり。其静修黙養、殆ど其極致に達す。詩歌は其能くする所に非ずと雖も、時に感に触れて興を遣る。嘗て歌あり。曰く、
今よりは暁まても尋ね見ん雲かくれにし月のありかを

 満、人と為り、温顔豊頬、身長五尺七寸、體量二十貫、天資寛弘、気宇宏闊、大人長者の風あり。平生同情に富み、故旧に厚く、人の急を救ふ、嚢を傾くるを辞せず。嘗て其所有せる北海道炭鑛を売却して八十万円を獲るや、先づ其負債を清償して故旧に及ぼし、後、其余贏を同志の知己に頒つ。九州の炭鑛王安川敬一郎之を聞き、嘆じて曰く『嗚呼是れ頭山の頭山たる所以歟』と。又往年臘日、満、旅亭信濃屋に在り、窮寒洗ふが如し。友人某其急を愬へて金を求む。満乃ち其着くる所の衣服を示して曰く『已む無くんば、唯是のみ』と。脱して之を与へ、布団の中に埋まること、数日に及びしことありと云ふ。


(注) 「穢多」という言葉が出てきたので注を加えておく。ここでは、荒尾精が必要とする資金を頭山が調達できず、金主某を連れて荒尾精と頭山が、鳥尾小弥太を訪ねたのである。鳥尾は頭山が金主某から借りる金の連帯保証人となるはずだったのであろう。
 ところが鳥尾は金主某から金を借りることに反対し、頭山に対し、「あなたのために一肌脱ぎましょう。井上馨に話して金を借り出すことにしよう。しかし、あなたは井上から借りることに反対しないでしょうな」と、打診した。実際、頭山が拒絶することを恐れていたか、もしくは、そうなってこの話は「画餅に帰す」ことをむしろ期待していたか(―深読みをすれば)、ということになる。
 この時の頭山の言葉が、「私は金さえ手にすればいいので、井上であろうと、穢多であろうと、出金者がどちらでもかまわない」である。
 このやりとりから考えると、同行していた金主某を穢多と呼んだのであろうか。あるいは一般的に井上との比較の意味で持ち出したのだろうか。江戸時代の被差別身分である「穢多」身分は、明治四年の「解放令」によって廃止されているので、この時代、穢多と呼ばれる人はどこにもいない。しかし、元「穢多」身分であった者に対し、他と区別してことさらに「穢多」と呼ぶことがあった。それが、近代的な部落差別であり、水平社をはじめとする部落解放運動の歴史は、その根絶を求めたのである。
 頭山は福岡で部落問題に多少の関わりがあったので(ここでは詳細に触れることができないが)、頭山自身が差別意識を持っていて「穢多」という言葉を使ったというより、鳥尾が金主某を「穢多」と呼び、その前提に立って頭山の言葉があったと見るべきかもしれない。
 ともかく、金さえ手に入ればいいという頭山の現実論に対し、荒尾は政敵から金を出してもらうことを潔しとしない潔癖さを持っていたということになる。荒尾は井上からは借りないと、鳥尾の提案を断ったのである。
 以上は『西南記伝』の記事に拠ったのだが、『玄洋社社史』ではこれをさらに敷衍した内容となり、鳥尾に会いに行ったのは、頭山、荒尾、金主某に今田を加えて四人としている。
(石瀧)

奈良原到伝

 奈良原到、本姓は宮川氏。筑前の人。宮川轍の子。安政四年、福岡唐人町山の上に生る。弱冠にして同藩士奈良原氏を嗣ぎ、其姓を冒す。夙に文武舘に学び、後、高場乱の塾に入る。明治八年、矯志社、強忍社等、民間結社の前後相踵て筑前に起るに及び、到、亦た青年有志の士と共に、堅忍社【→堅志社が正しい】を組織す。九年十二月、萩の乱後、箱田六輔等の縛せらるゝや、到、亦縛に就き、福岡、及、山口の獄に拘せられ、十年役後初めて赦さる。十二年『血痕集』の著あり。

箱田六輔伝

 箱田六輔、初め円三郎と称す。筑前の人。青木喜平の第二子。嘉永三年五月福岡に生る。出て箱田仙蔵の後を嗣ぎ、其姓を冒す。世、黒田氏に仕ふ。戊辰の役、奥羽に転戦して功あり。凱旋の後、同志と共に、就義隊を組織し、斥候器械方たり。明治三年、事を以て姫島に流せられ、幾くもなく赦に遭ひ、後、高場乱の門に入る。七年二月、佐賀の役、福岡臨時鎮撫隊の組織せらるゝや、青柳禾郎の隊に属して半隊長たり。八年、頭山満等と矯志社を組織す。九年萩の変、同志と共に為す所あらんとし、拘引せられ、尋て頭山満、進藤喜平太、松浦愚、宮川太一郎、奈良原到、大倉周之助、林斧介、阿部武三郎に及ぶ。後、山口の獄に移し、尋て又福岡に押送し、懲役一年の刑に処せらる。十年の役、武部小四郎、越智彦四郎等、難に死するの後、六輔、先輩の志を継ぎ、大に自由民権の主義を鼓吹し、十二年四月、同志と共に向陽社を組織し、傍ら義塾を設立し、青年子弟を養成す。此歳十二月、筑前共愛公衆会を代表して、南川正雄と共に、建言委員として上京し、国会開設、条約改正の建白を元老院に呈出す。十四年、向陽社を改めて玄洋社と称するや、六輔、之が社長と為り、爾来専ら国事に奔走せしが、十八年【→二十一年が正しい】、心臓破裂の為め、遽に歿す。年三十九。

 六輔、向陽社に長として、筑陽の健児を統率するや、予め議政と行政との区別を立て、己は其社長として、専ら実行の任に当り、別に郡利を議長に推して、会議を司らしめし等、其組織頗る立憲的たりしは、周く人の知る所なり。当時、板垣退助、六輔を評して曰く『箱田あれば西南の方面は安心なり』と。亦た以て、其声望の一端を窺ふに足るべきなり。

 六輔、同志と共に藩の就義隊を組織するや、明治二年、時事に感ずる所あり、同隊の士有田俊郎、渡辺某と共に、博多妙楽寺に会して、文武を講修し、以て士気を鼓舞す。当時、併心隊の宮川太一郎、亦同一の目的を以て、西川寅次郎と共に、一隊の青年を博多の承天寺に集合し、相拮抗す。一日、太一郎の部下牧某、六輔の同志より凌辱を蒙りて、一場の葛藤を生じ、其結果、両党激昂、決闘の準備中、忽ち藩の探知する所となり、両党の有志共に拘禁せらる。而して六輔は、其重きに問はれ、姫島に配せらるゝこと約八箇月に及ぶ。其釈されて福岡に帰るや、太一郎等と博多に再会し、酒を酌みて旧怨を一洗し、更に刎頸の交を訂するに至れり。

 六輔、夙に前原一誠の人と為りを慕ひ、明治九年の秋、頭山満、進藤喜平太等と共に萩に赴き、一誠を訪て其説を叩き、大に感奮する所ありて帰る。是より六輔等を始めとし、矯志社の一派、心を一誠に寄せ、之と提携して事を挙げんことを期す。適ま前原党蹶起の報あり。又、時に月成元雄、鹿児島より書を飛ばし、薩南の風雲漸く変調を呈し来れるを告ぐるあり、六輔、乃ち満、喜平太、及、宮川太一郎等と相会し密に前原党に応じて、権臣を要撃するの策を講じ、又奈良原到、松岡愚【→松浦が正しい】等と壮士百数十人を引率し、日日兎狩と称して、野外運動を試み、以て其武を練る。当時同志の士、意気軒昂、行動不羈、往往県庁の嫌疑に触るゝもの少なからず。警察署長寺内正員、警部巡査数十名をして、日夜各所を巡邏し、其行動を物色せしむ。而も弾圧手段を執るときは、却て之を挑撥し、其影響をして一層拡大せしむべきを慮かり、只管緩和の方針に出で、未だ手を下すに及ばざりき。又同志の間に在りては、太一郎の如きは、六輔等の放胆なる行動は、為に其大事を誤るに至らんことを恐れ、屡ば之に忠告する所ありしが、六輔、愚等と毫も之に耳を傾けず、益す其運動を継続せしかば、太一郎等、止むを得ず、矯志社員名簿より六輔の名を除くに至れり。一日、愚、兎狩の帰途、陸軍士官と衝突し、之を凌辱せしかば、忽ち福岡分営の怒を買ひ、分営より厳に県庁に交渉する所あり、県庁、為めに止むを得ずして、六輔等の捕縛に著手するに至りしなりと云ふ。

 六輔の縛せらるゝや、頭山満、進藤喜平太、松浦愚、宮川太一郎等同志十余人、陸続縛に就き、同時に、其陰謀書類押収せらるゝに至る。当時六輔、其累の同志に及ばんことを慮かり、独り自ら決する所あり、同志中、松浦愚の病歿せるを機とし、一切の計画は、悉く愚と共に之を為したるが如く装ひ、之を法廷に供述し、以て其責任を一身に負ひたりしより、結局処刑は、六輔一人に止まり、他は悉く無罪の宣告を受くるに至りしなりと云ふ。

 六輔歿するの時、郡利、輓詩を賦して曰く、
   絶絃知己少。 投箸惜英雄。 遭遇非容易。 無人識此衷

 六輔、学問の素養深からず。曾て玄洋社より書生二人を撰抜し、之をして東京に遊学せしむ。一人は法律に志し、一人は哲学に志すものなり。六輔、之を記録して曰く『哲学とは諸県の有志を歴訪する者なり』と。

 六輔、人と為り、満身是れ胆、気魄人を圧す。而も頗る統馭の才に富む。性快闊、酒を嗜み、痛飲淋漓宵に徹することあり。其齢未だ四十に達せずして病歿したるもの、蓋し、酒の為ならんと云ふ。

 六輔、高場乱子の門に入り、其薫陶に負ふ所少なしとせず。乱子、亀井派の学統を継ぎ、最も尚書、周易、左伝等に精しく、又、史記、三国志、水滸伝、靖献遺言等の書を講じ、其子弟に教ゆる、専ら忠孝節義を以て士気を鼓舞せしかば、其門に入るもの、往往、慷慨悲歌、戦国武士の概あり。乱子、年二十四五のとき、家塾を設けて子弟を養成す。明治六七年の交、子弟益す増加し、福岡の青年子弟は勿論、他県より、笈を負ひて其門に入るものあるに至る。十年福岡の変起るや、高場塾の子弟、挙げて之に与し、乱子、亦た県庁の嫌疑を蒙り、其拘引する所と、為る。時に法官、之を詰問して曰く『塾生の謀反は、畢竟、汝の煽動に外ならじ』と。乱子、声に応じて曰く『乱、不肖と雖も、苟も之が謀に参せんか豈彼が如き失敗を招かんや。彼等行動の迂闊緩漫なる、亦、以て乱が与り知る所にあらざるを知るに足らん』と。法官、又、曰く『汝仮令、自ら謀反に関せずと云ふと雖も、其子弟中、多数の謀反者を出したるは、是れ平生の指導宜きを得ざるの致す所にして、其罪決して免るべからざるにあらずや』と。乱子之を聞くや、儼然襟を正して曰く『乱の指導宜しきを得ず、其子弟をして今日の事あるに至らしめたるの罪を数へらるゝに於ては、乱甘んじて其罪を受けん。然りと雖も、乱にして門生の責を負はざるべからずんば、苟くも聖天子の命を奉じ、福岡県民統治の任に膺れる福岡県令渡辺清は、其管下人民中より、今回の謀反者を出さしめたるの責任、亦、決して乱の比にあらざるべし。宜しく速に渡辺県令の罪を正し、乱の白髪首と併せて之を梟木に懸け、以て法度を明にせよ』と。法官為に辞屈し、幾くもなくして之を放ちたりと云ふ。乱子、幼字は養命、母は坂牧右門の姉、家、世、眼医を業とす。十六歳の時、発憤志を立て、配某を離別し、爾来寡居し、父祖の業を継ぎ、眼医を営む。平生男装を為し、茶筌髷を結び、大小刀を帯び、患家を訪問するを常とせしが、当時、女史を見て、男性なりと信じたるもの多かりしと云ふ。高場塾は空華堂又は興志塾と称し、福岡市外半里許、住吉村字人参畑と呼べる田畑中の一茅舎にあり。故を以て、世人、人参畑の先生と呼ぶ。

花房庸夫伝

 花房庸夫は、筑前の人。嘉永二年、穂波郡障子村に生る。舌間慎吾、久世芳麿と友とし善し。世、黒田氏に仕へ、其藩士たり。明治七年、福岡県八等属と為る。十年の役、越智彦四郎、武部小四郎等の兵を福岡に挙ぐるや、職を抛ちて之に応ぜんとし、事成らず、平尾村に於て、小四郎と別れ、諸所に潜匿し、四月十三日、自宅に於て縛に就き、懲役十年の刑に処せらる。

 十年の役、庸夫、久世芳麿と密に約する所あり。三月下旬、県命を帯び、芦屋に出張し、途に越智、武部党の事を挙ぐるを聞き、急に帰りて芳麿に応ぜんとし、兵を谷村に募りしも、意の如くならず、四月二日、井尻村の同志淵辺保を訪ふ。会ま武部小四郎、潜伏此に在り、県庁を襲ひて、軍資を奪ふの策を議す。是より先き、庸夫、県庁に在り、其正金の貯蓄無きを知るを以て、別に策を建てゝ曰く『県庁を襲はば、宜しく巡査の兵器を奪ひ、而して後、為替方に至らば、軍資を得るの途、始めて其目的を達するを得ん』と。小四郎、之に賛し、議忽ち決す。而も同志の士少なきを以て、未だ事を発するに及ばず、四日、平尾村に至り、越智隊の秋月に敗れたるを聞き、大勢の利あらざるを知り、終に潜伏するに至る。

平岡浩太郎伝

 平岡浩太郎、幼名は銕太郎。静修、又、玄洋と号す。筑前の人。平岡仁三郎
の第二子。嘉永四年六月二十三日、福岡地行五番丁に生る。戊辰の役、親兵
に伍して東上し、奥羽の野に転戦して功あり。明治二年一月、藩兵に従て凱旋
し、尋て同志と共に就義隊を組織す。八年、同志と共に一到社を興し、代言事務
を弁じ、冤枉を伸べ、民権を主張す。九年、遠賀郡底井野村の戸長に任じ、翌
年に及ぶ。十年二月、越智彦四郎、武部小四郎等の兵を福岡に挙ぐるや、起て
之に応じ、事敗るゝに及び、身を以て免かれ、服を変じて道を豊後に取り、以て
薩軍に投じ、奇兵隊本営附と為り、豊日各地に転戦して利あらず、八月十七日、
薩軍に従て可愛嶽を突出するや、途上、薩軍と相失し、終に縛に就き、戦後、懲
役一年の刑に処せらる。十一年一月、特典に由て放免せられ、福岡に帰り、十
二年、箱田六輔、頭山満、進藤喜平太等の向陽社を設置するや、亦之が議に与
かり、尋て玄洋社の組織成るに及び、推されて之が社長と為る。十一月、同志と
共に筑前共愛会を興し、国会開設の議を主張す。十四年、玄洋社長の任を箱田
六輔に譲り、実業経営に志し、十六年、豊前吉原銅山を経営し、十八年、赤池
炭鑛の採掘を開始す。二十年、条約改正問題の起るや、之が反対運動を試み、
二十二年、又、条約改正問題の起るや、再び起て中止運動を試み、終に霞関爆
弾事件あり、一時之が為に嫌疑を被りて拘致せらる。二十三年、豊国糸田炭坑
を開始す。二十七年八月、選ばれて衆議院議員と為り、広島の戦時議会に出席
し、軍事費に協賛す。三十一年、憲政党の組織に斡旋し、尋て首相伊藤博文職
を辞し、大隈重信、板垣退助の聯合して内閣を組織するや、斡旋最とも努む。已
にして、憲政党分裂し、憲政本党の成るや、挙げられて其総務委員と為る。卅二
年、米国に遊び、将に欧洲に赴かんとし、豊国炭坑瓦斯爆発の報に接し、終に
帰朝す。三十四年、臼井哲夫と共に朝鮮に遊び、国王、及、太子に見えて帰り、
三十六年、対外同志会の成るや、主として討露の議を唱ふ。日露の役起るに及
び、三十八年四月、清国に航し、北京に留ること数月、清国巨公縉紳の間に往
来して東邦の形勢を説き、以て日本の外交に資する所あり。七月帰朝、三十九
年、心臓を病み、筑前戸畑の別荘に静養せしが、十一月、病革まるに及び、福
岡市博多対馬小路の本邸に帰りて歿す。年五十六。

 浩太郎、幼より傲岸不屈の気象あり。初め習字を岡崎四郎に、小銃を臼杵久
左衛門に、棒術を平野吉郎兵衛(平野国臣の父)に、剣術を幾岡五吉に学び、
句読を大西仁策に受く。而して浩太郎、幼より武健人に絶し、甚だ読書を嗜ま
ず。又、嬉戯、多くは縄墨の外に逸し、儕輩を圧し、長上を凌ぎ、嘗て師表の言
を顧みず。其初めて寺児屋に入るや、師は浩太郎の手を把て、七の字を書せし
めんとせしに、浩太郎は、最後の筆を右に屈すべきをば、左に曲げんとするに
ぞ、師は『宜しく之を右に廻すべし』と指し示しゝも、浩太郎頭を掉て曰く『師にして
右にせんと欲せば右せよ。我は断じて左せんのみ』と、左文字の『【七を裏返
す】』字を作り、竟に之を改めざりしと云ふ。

 戊辰の役、浩太郎の親兵に伍して東上するや、霞関黒田邸内に屯し、七月十
四日、同儕と共に小隊長県運の福岡に帰るを送りて営に帰る。適ま同儕白垣
昇、浩太郎の腰間に帯べる拳銃を指し、之を揶揄して曰く『汝の拳銃、果して用
ゆるに足るや否や』と。浩太郎も亦戯れに其拳銃を擬したるに、意外に発火し、
轟然たる銃声と共に、弾丸昇の胸腹を貫けり。浩太郎大に驚き、急に之を扶け、
同儕と共に医薬の手続を為しつゝありしに、兄良五郎、変を聞き、馳せ来りて之
を見るに会す。時に浩太郎、良五郎の来るに先ち、自刃して其過を謝せんと決し
居りしが、同儕の止むる所と為り、良五郎の来りて、更に昇を横浜に輿し、外医
の治療を請はしめんとするに逢ひ、営中に謹慎して、良五郎の命を待てり。然る
に昇は、横浜に輿するに至らず、其夜、終に歿せしかば、良五郎、私に隊長矢
野安雄の旨を請ひ、懇ろに浩太郎に諭して曰く『事既に此に至る。逝くものは、
復趁ふ可からず。汝、進みて君国の為に一身を犠牲に供し、其罪を償ふを期せ
よ。国家多難の際、汝の過失に依り、二人の戦士を喪ふ。其罪更に大なり』と。
因て小隊長尾上三兵衛に請ひ、浩太郎をして、北征の軍に従はしめたり。此役、
浩太郎、戦に臨む毎に、自ら進みて危地を択び、屡ば万死の間に出入して、功
を樹つること少なからず。而も身微傷だも負はずして凱旋せしかば、郷人皆『軍
神の庇護あり』と称するに至る。而して浩太郎の賞典を賜はるや、其資を挙て、
之を昇の父母に附し、謝意を表し、始終渝ることなく、墓を修め法を営み、之が
忌辰供養の事を懈らざりしと云ふ。

 十年の役、越智彦四郎、武部小四郎の兵を福岡に挙ぐるや、浩太郎、亦之に
応じ、其事敗るゝに及び、小四郎と相失し、尾形到、清原強助等と共に、道を福
間に取り、豊後方面の薩軍に投ぜんとせしが、途上、病に罹り、旬日の間、山野
の間に露臥し、漸くにして某金鑛坑夫某の家に投じ、其救ふ所と為り、病少しく癒
ゆるを待て、鞍手郡上堺村許斐鷹助(越智彦四郎の妹婿)を訪ひ、共に倶に微
服潜行して、豊後方面に向ひ、奇兵隊に投ずることを得たり。奇兵隊第四中隊
の押伍某、浩太郎の来るを見、之を怪み、兵士二名をして、之を中隊長鎌田雄
一郎の許に至らしめんとせしに、適ま荒巻重三郎の来るに会す。重三郎之を詰
問したる後、兵士に命じ、之れを護衛して、監軍石井貞興の許に至らしむ。時に
浩太郎、鷹助をして、福岡に帰りて後図を為さしめ、兵士に護送せられて、臼杵
の本営に至る。中隊長嶺崎半左衛門、浩太郎の絹衣を纏ひ、金時計を携へ、其
風采堂堂、浪人に類せざるを見て、深く之を疑ひ、兵士をして之を縛せしめ、鞠
問甚だ厳を極む。貞興之れを聞き、乃ち半左衛門に説き、浩太郎の人と為りを
明にし、漸く之が疑を解くことを得。是より薩軍、始めて浩太郎の福岡党領袖の
一人たるを知り、之をして本営附の賓客と為し、後、大隊長野村忍助の麾下に
在りて、弾薬製造等の要務を監せしめたり。而して浩太郎、最も力を弾薬、及、
糧食の輸送に竭し、頗る其効績を顕はしゝかば、忍助等、深く浩太郎の才幹伎
倆に信任するに至りしと云ふ。

 浩太郎の縛に就くや、宮崎の獄舎に在ること数旬、尋て長崎に送られ、臨時裁
判所に於て、処刑を受け、幾もなく、東京に護送せられ、佃島監獄に幽せられ、
後、市谷監獄に移さる。当時同囚の士は、古松簡二、大橋一蔵、三浦清風、柿
本務、尾本仁郎、野村忍助、和泉邦彦、有馬源内、堀善三郎、月田道春、高田
露、宗像政、古松簡二【→重記】、岡崎恭輔、荒巻重三郎等にして、皆有志なり。
浩太郎、平生、粗豪自ら許し、甚だ読書を好まざりしが、其一旦拘せられて獄に
入るや、読書修養の已むべからざるを悟り、道春に就て歴史を学び、又、簡二に
就て論孟、及、孫呉の講義を聴くに至れり。又、浩太郎は、堀善三郎と議論常に
相容れず、相会すれば、必ず口角沫を飛ばして相争ふに至る。而かも善三郎
は、心中、浩太郎の人物に服し、人に語て曰く『今や、憂国の志士、獄に繋が
るゝもの少なしとせず。然れども、他日、赤手を以て、驚天動地の事業を成すも
のは、必ず浩太郎ならん』と。

 十五年朝鮮京城の変、日本公使館、暴徒の襲撃する所と為り、全権公使花房
義質、身を脱して逃るゝや、浩太郎、時に福岡に在り、以為らく『先輩の志を紹
ぎ、朝鮮の罪を正うし、以て大陸経営の基礎を樹立するは、今日の機会に投ず
るに在り』と。因て野村忍助と謀り、義勇兵を組織し、菅新平、加治木常樹を以て
先鋒と為し、若干の兵を率ゐ、佯りて大阪行の此花丸に搭じ、玄海洋に出るを
待ち、船長を威嚇し、針路を転じて、直に対馬に至り、同地の同盟土井唯八郎を
乗せて釜山に上陸せしめ、浩太郎は、其後より精兵若干を率ゐて之に赴き、相
合して一挙京城を衝くの計画を立て、忍助は、密に之が準備の為め、外務卿井
上馨を神戸に擁して、外務省御用掛と為り、先発朝鮮に渡りたりき。然るに、此
花丸の入港遅延して、其策已に齟齬し、加ふるに、廟議苟安軟弱に傾き、平和
条約を締結し、又、九州諸港を監視すること、更に厳を加へしかば、浩太郎等の
計画は、終に画餅に帰するに至りしと云ふ。

 十七年の交、浩太郎の商用を帯て長崎に至るや、熊本人日下部正一来り、浩
太郎に謂て曰く『上海は東洋第一の要港なり。顧ふに、彼地に於て、学校を創設
し、大に青年子弟を養成し、之をして清国の国語国情に暁通せしむるは、他日
大陸経営の計を為すに於て、極めて喫緊の事に属す。同志山口五郎太なる者
あり、久しく清国に遊び、其語学習風に慣れ、革命党の志士と出入しつゝあるが
故に、之をして事に当らしめ、他日事あるの日に備ふる、蓋し吾人宿昔の志に酬
ゆる所以にあらずや』と。浩太郎、之を然りとし、帰りて同志の賛成を得、東洋学
館を創立するに決し、末広重恭を推して之が館長と為し、浩太郎は、宗像政、樽
井藤吉、中江篤介、杉田定一、日下部正一等と共に、上海に航し、之が組織経
営に着手せり。当時、浩太郎、上海に至り、清国の形勢を視察し、深く感ずる所
あり。戯に同志に語て曰く『清国政府の腐敗已に極れり。之を顛覆するは同志七
人にして足らんのみ』と。七人は、即ち当時同行の同志を謂ふ也。篤介、之に和
して曰く『英雄の士、一たび起たば、天下響の如く応ずるは、是れ清国民の本色
なり。清国は、真に英雄事を成すの地なり』と。而も東洋学館は、資力継がざる
が為に、一年有余にして、閉館の已むべからざるに至りしと雖も、或る点に於
て、確に日清貿易研究所、東邦協会、東亜同文会等の先駆を為せるものなりし
なり。

 東洋学館閉館の後、明治二十年の交、浩太郎、清国に遊び、洋靴店を上海に
開き、青年有志の士を派し、清国の国情を調査し、及、語学の研究に従事せし
めたり。当時、其寄宿所に寓せし人人は、奈良崎八郎、山崎羔三郎、豊村文
平、群島忠次郎【→郡島が正しい】、平岡常次郎、宮崎勝、島田経一、友枝英三
郎等十余名にして、其寄宿所閉鎖の後、山崎、島田等は、日清貿易研究所に入
り、奈良崎は、別に師を求めて研鑽する所あり。二十七年、日清戦争の起るや、
山崎、奈良崎等は、軍事上の特別任務を帯び、深く清国に入り、我軍の為めに
貢献する所少なからず。就中山崎の如きは、終に其身を敵中に犠牲に供するに
至る。

 日清戦争の其局を結ばんとするや、内田良平、朝鮮より帰り、満洲、西比利
亜、及、欧露を巡遊して、其国情を探究調査せんとするの志あり、之を浩太郎に
謀る。時に適ま三国干渉問題あるに会す。浩太郎、暫らく其行を止め、之に謂て
曰く『今日は、是れ我国民を挙て、国家に殉すべきの秋なり。宜しく干渉問題の
結果如何を俟て、而して後、其進退を決すべし』と。已にして、政府、三国の干渉
に屈し、遼東を還附するに至るや、浩太郎、浩歎するもの之を久うし、良平に謂
て曰く『満洲、及、朝鮮は、東方の禍源なり。而して其禍機を促すものは露国な
り。汝夫れ、其素志に従ひ、彼地に航して、彼の外交、軍事、及、其国情を精査
し、予じめ他日の計を講じて可なり』と。良平、乃ち旨を領し、西比利亜より欧露
に赴き、普ねく視察する所あり。後、梁山泊を西比利亜に置き、備に北方の事情
を精査し、三十一年帰朝し、浩太郎に告ぐるに、露国の東方経営、並に満洲蚕
食の企図、着着其歩を進め、満韓の形勢益す危急に瀕する所以、及、征露の已
むべからざる所以を以てす。浩太郎、深く悟る所あり、是より日露衝突の愈よ切
迫せるを看破し、朝野に向て極力征露論を唱道するに努めたり。

 日露戦役の起るや、浩太郎、深く満洲善後策に見る所あり。三十八年の春、東
京を発し、満洲の戦地を視察し、満洲経営策を草し、之を当局者、及、同志の士
に示せり。而して其北京に入るに及び、慶親王を初めとし、那桐、瞿鴻機、栄
慶、鐵良、張百煕、及、袁世凱等を歴訪し、又、別に恭親王、及、粛親王に伺候
し、対露政策に関して、敢言【言+黨】論、面折耳提、毫も仮借する所なく、其所
見、肯綮に中りしかば、彼我融和の端を啓き、将来、彼等をして其心腹を布かし
むるの素地を為すに至る。当時、浩太郎の慶親王を訪ひ、談、満洲問題に及ぶ
や、慶親王、弁疎甚だ力む。浩太郎、之を追窮して曰く『我国は、百万の兵を動
し、十万の将士を殺して、健闘苦戦、満洲を廓清せり。而して今日卒然として之
を無軍備の貴国に還附せん乎。明日は、又安ぞ、旋て露国の有たらざるなきを
保せんや。故に貴国にして、満洲保全の準備なき以上は、我国は、漫然として之
を貴国に還附すること能はず。若し貴国大臣の意見にして、徒に満洲還附を我
に求めんとするに在らば、余は帰朝の後、更に国論に訴ふる所あらんと欲す』
と。慶親王之を聞き、復、言ふこと能はずして止みしと云ふ。当時、浩太郎の為
に通訳の任に当りし高須太郎(当時北京駐箚日本公使館通訳官、現任長沙府
駐箚日本領事たり。)後、人に語て曰く『余は、日本名士の北京に游歴するもの
ある毎に、之が通訳の労を執ること少なしと為さざりしも、其問答、未だ浩太郎君
の如く、機鋒峻峭、其肺腑を衝き、意気人を圧するものを見ず。当時、浩太郎君
の慶親王と問答するや、慶親王は、平生の態度に似ず、戦慄措く能はず、冷汗
淋漓、語終りて暗涙に咽ぶもの之を久うせり』と。且つ曰く『余が浩太郎君の議論
を彼に伝ふる際には、自ら一種の権威を具するものゝ如く、無限の感慨に打た
れたりき』と。
 補助漢字 区点=6263 16進=5E5F シフトJIS=9FDD Unicode=8B9C】

 浩太郎、平生心血を東方問題に傾注し、就中韓国併合を以て、我政策の第一
義と為し、之を当局者、及、有志の士に説き、其実行を期したり。三十八年の
秋、高田三六、韓国に在り、伊藤博文渡韓の説を聞き、書を寄せて其意見を問
ふや、九月五日、浩太郎、書を以て之に答ふ。其書中に云へるあり。曰く、
 神鞭近来帰京、両三回面晤仕り候。併し韓国の事は結局取るより外に名策無
之候。先般伊藤の渡韓せんとせし時は、小生は極力相止め申候。元来清国なり
露国なりと、三千年の祖国を賭し戦争するものは、我国自衛上、止むを得ずして
奮発せるものなれば、今度は無論、朝鮮を取る丈けは、国民一般、期する所な
れば、伊藤渡韓、其国王を連れ来り、吾華族に為したる所が、伊藤の手柄には
全く不相成。若し之に反し、彼国の改善抔に着手する事あらば、国民は伊藤を
目して何と云ふ可き哉。必ず死を決して、戦死せる軍人の為め、又軍費を負担
せる国民の為めに、伊藤が首を打ち落す者の出づる、火を見るより明なる次第
なりと、彼れ腹心二三の者に面陳致置候。其後、彼れの渡韓は、断然止められ
たりと承り候。伊藤も此問題に就ては、余程考居候間、容易には動く筈無之候。

 日露戦役後、浩太郎の病を戸畑別荘に養ふや、書を的野半介に与へ、心事を
【テヘン+慮】ぶ、其中に云へるあり。曰く。
 補助漢字 区点=3322 16進=4136 シフトJIS=9155 Unicode=6504】

 小生も年来の目的たる征露の事を終り、朝鮮の処分も半以上決定したるを以
て、明治三年、手鎗を提げて、露国公使を赤羽橋畔に襲はむとして捕はれ、征
韓を賛成して同志の忠死に後れ、恥を忍で俗士等の悪罵に任せたるも、最早死
して亡友に面するも、左迄の不都合もなきものと信ぜられ候間、不遠、俗世を退
く積りなり。

 半介之れを評して曰く『此書は所謂一字一涙の文にして、真に是れ其自伝と謂
ふべし。而かも其『不遠俗世を退く』てふ一句、後日の讖と為りしもの、悲夫』と。

 浩太郎、人と為り、聡明にして豁達、機敏にして大胆、弁論滔滔、懸河の如く、
人を屈服せずんば止まず。自ら標榜すること甚だ高く、容易に人に許さず。唯、
漢土に於ては、呉の魯粛に私淑し、日本に於ては、明智左馬之助に私淑せりと
云ふ。嘗て曰く『経世の眼識は、吾之を魯粛に取り、国士の品藻は、吾之を明智
左馬之助に取る』と。平生閑あれば、書画を弄し、和歌、及、俳諧を賦し、雅懐を
風月に寄す。明治二十九年の春、浩太郎、内田良平等を随へ、京都に遊び、嵐
山の花を賞するや、歌を詠じて曰く、
  来る人も常はあらしの山桜咲ける春とて賑ひにけり

 三十九年、『新年川』の御題を詠じ、之を詠進したる歌に曰く、
   ひらけゆく御代そ嬉しき若水をこまもろこしの川瀬にそ汲む

 三十八年、浩太郎の満洲を経て北京に赴くや、途上黄沙漠漠の光景を目撃
し、俳句を詠じて曰く、
   沙の波うねり高しやをかの舟

宮川太一郎伝

 宮川太一郎、名は鍜キタウ。筑前の人。嘉永元年七月二十四日福岡に生る。世、黒田氏に仕へ、其の藩士たり。夙に文武館に入り、専ら武技を講修し、撃剣(一刀流)柔術(自得天心流)の奥技を究む。維新後藩の併心隊に入り、青年派の牛耳を執る。明治三年、事を以て就義隊の領袖箱田六輔等と争ひ、屏居を命ぜらる。後、節を折り、六輔、及、進藤喜平太等と共に、高場乱の門に入る。七年二月、佐賀の変、福岡臨時鎮撫隊の組織せらるゝや、太一郎、六輔と共に、其半隊長たり。八年、六輔、及、頭山満等と矯志社を起し、九年十二月、萩の事変に坐せられて、六輔等と共に獄に下り、十一年三月、始めて釈さる。後、開墾社を博多向浜に開き、爾来志を政治上に断ち、専ら実業に従事す。

 明治八年、薩人石塚清武なる者、自ら桐野利秋の使者と称して、太一郎を訪ひ、福岡の有志に面接せん事を求む。太一郎、之を引見せしに、身には薩摩絣の短袍を着し、腰に兵児帯を纏ひ、其言貌共に純然たる薩人なりしかば、太一郎之れを一室に延き、箱田六輔を招きて、酒宴を催うし、清武を款待す。清武曰く『僕は、曾て職を警視に奉ぜしも、一朝当路と其意見を異にし、故山に帰臥せる者。今次、桐野の意を承け、萩に至りて前原一誠を訪ひ、密盟を訂し、今や其帰途に在り。是れ余が諸君を訪ひて、肝胆を披き、事を挙ぐるの日、共に其聯絡を図り、意志貫徹の途を得んと欲する所以なり。』又た曰く『前原一誠、既に西郷隆盛等の意に賛し、緩急相応ぜんことを誓ひ、尚直接に其同意を表せんが為に、同志横山俊彦をして、余と共に鹿児島に同行せしめんとし、現に木屋瀬宿に於て、俊彦と袂を分ち、原田宿に於て待合すべきを約せり。諸君の意、果して如何。兵器弾薬の準備、果して如何』と、彼れ頗る弁口に長ずるもの、太一郎等、毫も其細作なるを疑はず、六輔と共に之に謂て曰く『当地の兵器弾薬は、往年多少の儲蓄なきに非らざりしも、明治四年藩中内訌の際、尽く兵部省の手に収められ、現に福岡分営の戎器庫に在り。然れども『エンピール』銃一挺位は、各自所蔵するを以て、緩急の場合には、之を把て起つべし。唯、吾人の自ら頼む所は、銃器に非らず、弾薬に非らず、一片耿耿の精神にあるのみ』と、清武、更に言に托して、福岡党の情勢を探る所あり。寛談刻を移して去る。蓋し、彼は政府の細作にして、太一郎等、其後之を知るに及び、唖然たるもの之を久うせりと云ふ。

 九年十二月、箱田六輔の捕へらるゝや、太一郎之を聞き、其翌日、阿部武三郎と、家を出でゝ其情を探る。其帰るや、隣家の老婆、之に告て曰く『先刻警吏数名、来りて足下の家を窺へり』と。時に又た平服巡査、其門前を徘徊す。太一郎之を見て急に重要書類を携へ、驀然少林寺を横りて、占部佐蔵の家に入り、其事情を老母に告げ、潜伏して日没を待ち、月成元雄を訪ひて其家に宿す。翌日、頭山満を平尾山中に訪ひ、語るに六輔除名の事を以てし、且つ曰く『聞説く、同志の士、僕を以て、箱田の危急を傍観する者となすと。故に是より、警察署に自訴して、僕の心事を明かにせんと欲す』と。満、之を慰して曰く『区区たる風評、何ぞ意に介するに足らん』と。太一郎、転じて越智彦四郎、久光忍太郎を訪ひ、告ぐるに此事を以てし、且つ嘱して曰く『諸君、早晩事を挙ぐるの際、必らず監獄を破り、余をして其挙に加はるを得せしめよ』と。是に於てか、出でゝ警察署に自訴す。時に一二疑義の取調ありたるに止まり、即座放免せられしが、越て一週間の後、再び縛せられ、終に縲絏の禍に罹るに至りしなりと云ふ。

 太一郎、身長約五尺七寸、骨格雄偉、加ふるに武道の奥義を究め、剛勇無比と称せらる。其獄に入るや、獄中所謂牢頭なるものあり。当時有名なる強盗犯にして、其猛獰、同囚を懾伏せしむ。一日傲然、太一郎を顧みて便所の掃除を命ず。太一郎大喝して曰く『余は天下の士なり。今誤て獄に入ると雖も、汝等の指揮を受くるものに非ず。汝何ぞ其の無礼なる』と。牢頭大に怒り、将に之を撲たんとす。太一郎、忽ち之を押へて曰く『汝無礼漢、牢内より之を放逐せざるべからず』と。其頭を攫み、牢格子の間より之を捻り出さんとす。牢頭悲鳴の声を揚げて哀を乞ひ、終に、同囚者の仲裁によりて事止む。是に於て、太一郎、即日推されて牢頭と為る。

牟田止戈雄伝

 牟田止戈雄は、筑前の人。秋月藩士清田兵右衛門の第三子。嘉永三年秋月城下に生れ、同藩士牟田藤作の嗣となる。維新後、藩の治民局属官となり、廃藩後、民間に下る。明治九年十月、秋月党の事を挙ぐるや、之に加はり、事敗れて後縛に就き、懲役の刑に処せられ、出獄の後、福岡に出で、国事に奔走し、明治三十四、五年の交、福岡に病歿す。

 止戈雄、資性活溌にして義を好む。平生白根信太郎と交り最も深し。維新の際、干城隊に入り、同郷の子弟を糾合して、驍勇隊(干城隊に属す)を組織し、之が領袖となり、斡旋最も力むる所ありしと云ふ。

森 寛忠伝

 森寛忠、初め岡本清太郎と称し、父の名を継ぎ、仙兵衛と称す。維新後、森氏と改む。筑前の人森権内の長子。安政二年、那珂郡春吉村に生る。世、黒田氏に仕へ、其藩士たり。明治十年西南の役、越智彦四郎、武部小四郎等の兵を福岡に挙げんとするや、之に応じ、舌間慎吾と謀り、予め久留米、柳川の同志を糾合せんと欲し、二月下旬、久留米に至り、久留米の士田中龍之助、柳川の士笠間広太等と会して、相約する所ありしが、三月二十二日、適ま、同志宗夢也、市川喜八郎等、福岡より来りて急を告ぐるに及び、乃ち相携へて福岡に還り、其軍に従ひて、専ら糧食、弾薬の蒐集、供給に斡旋す。四月二日、秋月に於て越智隊の参謀副と為りしが、適ま、官軍の攻撃する所と為り、大敗して退き、後図を期し、加藤堅武、丹羽哲郎と共に、江川村に遁れ、将に大分村に至らんとし、途上縛に就き、懲役十年の刑に処せらる。

 玄洋社社史
箱田六輔 《玄洋社員の面影》より

 箱田六輔は青木善平の第二子。嘉永三年五月生る。初め円三郎と称す。後ち
出でゝ箱田仙蔵の後を嗣ぐ。黒田藩士たりと雖も家格甚だ高からず、僅に足軽
鉄砲組たり。戊辰の役奥羽に転戦して功あり。当時福岡の兵制甚だ完からず。
明治二年箱田就義隊を編制し大に其改革に尽し自ら器械方たり。

 箱田、有田俊郎等と就義隊を組織せる当時宮川太一郎、西川寅次郎等と別に
併心隊を組織し、就義隊と相拮抗す。一日両隊士葛藤を生じ、遂に大事に及ば
んとす。早くも藩吏之を探知し、両隊士を拘禁し、且つ箱田を捕へて姫島に流
す。箱田孤島に配所の月を見る事八ヶ月、僅に釈されて福岡に帰り、宮川と相
和し酒を酌んで刎頸の交を誓ふ。旧怨一掃光風霽月の如く、是より両雄の締盟
甚だ堅きものあり。箱田資性高潔気魄あり、満身是れ胆。居常快闊頗る統御の
才に富むあり。明治七年佐賀鎮撫隊に加はり、帰来越智、武部、平岡、頭山、
宮川等と矯志、強忍、堅志社を組織し福岡青年の教養に努め、士気振策を図
り、又民権論を唱導する所あり。夙に前原一誠の人と為りを慕ひ、其萩に乱を為
すや頭山、進藤、松浦、宮川、奈良原等と共に之に呼応せんとす。事又成らずし
て捕へられ福岡の獄に投ぜらる。後ち、山口の獄に移され罪を一身に被りて懲
役一年に処せらる。其出でゝ向陽社々長たるや民権伸張の為に尽瘁奔走し、南
川政雄【→正雄が正しい】と共に筑前共愛公衆会を代表し、上京して国会開設、
条約改正の建白を元老院に呈出せる事曩に説けるが如し。平岡の後を受け玄
洋社々長たるや益民権伸張の為に尽し、板垣退助をして『西南箱田在り安じて
可なり』と。其民権論者としての箱田の声望を覗ふに足る。箱田又東方経営に就
て大志あり。惜むらくは内地事端多く未だ其志を伸ぶるに暇なくして民権伸張の
為に終始一貫し、二十一年三十九歳を以て病死す。天下をして福岡県と共に憲
政発祥の地たりと称せしむるに至りたるもの箱田の力に在り。箱田向陽社に社
長たる時其事務を議政、行政の二に区別し、専ら其実行に当り別に郡利を議長
に推して会議を司しめたり。其立憲的組織見る可し。箱田在世の日帝政党領袖
丸山作楽福岡市に来り中教院に於て帝政主義の政談を為さんとす。箱田大に
怒り『我が民権の地に来つて丸山輩帝政を説かんとす。何者の無礼漢ぞ。福博
の地一歩も彼等に踏ましむる勿れ』と。丸山密に之を聞きて恐をなし、遂に政談
を為し得ずして去りしと云ふ。

 箱田又常に育英に志を注ぎ、力行主義を以て青年を訓導す。彼平常酒を嗜
み、斗酒辞せず、其晩酌実に一升。若し夫れ箱田が晩酌の膳に向ふの時友の
訪ふあれば『どうも悪い時来たねえ』と挨拶し『まあ飲みやい』と、微笑の中に不
足を漏す。友之を受け一、二盃するものあれば大声其妻を呼び『某君来つて予
の定量を減ず。再び定量一升を持ち来れ』と命ずるを例とす。其山口の獄に在
るや密に獄吏に賄して酒を買はしめ常に酒気を絶たず。而も時に或は乱酔して
獄中放歌高吟し『室替へ』の制裁を受くる事数次。箱田又尺八を巧にす。微醺す
れば月明に其清調を弄ぶ。余韻嫋々たるものあり。彼をして王翰謡ふ処の『葡
萄美酒夜光杯。 欲飲琵琶馬上催。 酔臥沙場君莫笑。 古来征戦幾人
回』を聞かしめ、又聴かするに『酒泉太守能剣舞。 高堂置酒夜撃鼓。 胡笳
一曲断人腸。 坐客相看涙如雨』を以てせよ。彼必ず幽瞑地下微笑するも
のあらん。

 佐賀の役に当り大久保利通福岡に来り、二口屋(今の中島町松島屋旅館)に
投宿す。箱田鎮撫隊組織に反対し、大久保を刺さん事を企てたるも機を失して
果たさざりき。

 嗚呼箱田少壮気を負ふて、国奉【→国事ヵ】に奔走し、時に軍旅に従ひ或は政
府の忌憚に触れて獄に投ぜられしと雖も、民権論によりて遂に天下の志士と共
に其志を得たり。惜むらくは百尺竿頭一歩を進め、彼の抱蔵せる経綸を不爛の
舌頭に載せて、議政壇上に之を吐露せしめざりし事を。箱田逝くや郡利の輓詩
に曰く、
『絶絃知己少。 投箸惜英雄。 遭遇非容易。 無人識此衷。』

    箱田氏碑文【略。別途掲げる。】

平岡浩太郎 《玄洋社員の面影》より
* 『西南記伝』の「平岡浩太郎伝」に重なる点が多い。

 平岡浩太郎、父は平岡仁三郎、内田良五郎は其兄なり。良五郎出でゝ内田家
に嗣となるや、浩太郎平岡家を継ぐ。嘉永四年六月二十三日、福岡地行五番町
に生る。幼名は鐵太郎、静修又玄洋と号す。戊辰の役、親兵に伍して東上し、奥
羽の野に転戦して功あり。明治二年一月、藩兵に従て凱旋し、尋で箱田等の同
志と共に一到社を興し、代言事務を弁じ、冤枉を伸べ、民権を主張す。九年、遠
賀郡底井野村の戸長に任じ、十年西南呼応の福岡挙兵に加はる。浩太郎幼よ
り傲岸不屈、初め習字を岡崎四郎に、小銃を臼杵久左衛門に、棒術を平野吉
郎兵衛(平野国臣の父)に、剣術を幾岡五吉に学び、句読を大西仁策に受く。而
して浩太郎幼より武健人に絶し、嬉戯、多くは縄墨の外に逸するものあり。

 平岡藩兵として東京に出で、桜田門警衛の任に就く。一日偉躯雄貌巨眼豊頬
の士肥馬に鞭して門を過らんとす。平岡卒然馬前に進み其轡を控へ、「足下今
此門を過らんとす。果して誰ぞ」と、厳として其姓名を訊す。馬上の巨人微笑して
名を告げて曰く「予は西郷なり隆盛なり」と。乃ち平岡馬首を離れて一礼す。其夕
西郷千代田城退下に当り衛兵屯所を訪ひ、平岡を招き謂ふて曰く「歩哨の任素
より重し。軍務に在る者須く汝の心を以て心とす可く、汝亦予の馬首を控へたる
の心掛を永く忘る可らず。時に閑暇あれば予の邸に来り遊べ」と。平岡、西郷の
気宇大なるに感じ是より西郷を崇拝すること甚だし。明治元年七月十四日、平
岡の儕輩白垣昇、平岡の腰間に帯べる拳銃を指し「汝の拳銃果して用に備ふる
に足るや否や」と揶揄す。平岡答へて曰く大に用ふべし。君望むあらば弾丸を馳
走せんかと、戯れに其拳銃を擬す。計らざりき誤つて指頭引金にかゝり轟然たる
銃声と共に弾丸昇の胸腹を貫き昇為めに斃る。平岡大に驚き、急に之を扶け医
薬を施すも既に及ばず。平岡大に其粗忽を悔ひ、自刃して其過を謝せんとす。
時に兄良五郎変を聞いて来り、之を止め且つ諭して曰く「国家多難の際、汝の過
失に依り、徒に戦士を喪ふ。其罪軽からず。然れども逝くものは、復趁ふ可から
ず。汝進みて君国の為に一身を犠牲に供し、其罪を償ふを期せよ」と。平岡北
征の軍に従ふや、戦に臨む毎に常に進みて自ら危地を択び、功を樹つる事少な
からず。而も身微傷だも負はずして凱旋す。而も浩太郎の賞典を賜はるや、其
資を挙て之を昇の父母に附し謝意を表し、始終渝ることなく墓を修め法を営み、
之が忌辰供養の事を懈らざりき。後ち明治十年福岡挙兵の事あるや、平岡戸長
の職を棄てゝ之に応じ、事敗るゝに及び、身を以て免かれ、服を変じて道を豊後
に取り、以て薩軍に投じ奇兵隊本営附と為り、豊日各地に転戦して利あらず。八
月十七日、薩軍に従て日向可愛嶽を突出し、終に捕へられ、懲役一年の刑に処
せられしも、十一年一月特典に由て放免せらる。

 平岡福岡を落ちて薩軍に投ぜんとする日、筑、豊の堺に途を失ひ、山中に彷
徨すること数日、山野に露臥し、飢餓迫り、且つ病みて将に昏倒せんとす。偶々
一金山坑夫之を援け食を与ふ。平岡深く其恵みに感じ、坑夫の此の山中に在る
所以を問ふ。坑夫答へて金山探鑛の由を告げ、且つ其近江国より来れるを語
る。乃ち平岡一書を裁し、之を坑夫に与ふ。其文に曰く。
    感状之事
  我天下に志を得ば近江一国を与へ行ふもの也
と。平岡の一端想見し得べし。

 平岡縛に就くや、宮崎の獄舎に在ること数旬、更に長崎に送られて幾もなく東
京佃島監獄に護送せられ、後市谷監獄に移さる。当時同囚の士には、古松簡
二、大橋一蔵、三浦清風、柿本務、尾本仁郎、野村忍助、和泉邦彦、有馬源
内、堀善三郎、月田道春、高田露、宗像政、岡崎恭輔、荒巻重三郎等あり。平
岡平生粗豪自ら許し、甚だ読書を好まざりしが、其獄に在るや、読書修養の已
むべからざるを悟り、月田道春に就て歴史を学び、又古松簡二に就て論孟及び
孫呉の講義を聴く。赦されて福岡に帰り、箱田、頭山、進藤等の向陽社を設置
するに当り其議に与かる。平岡、箱田と善からず。頭山之を調停し、玄洋社成る
に及び之が社長を承る。十一月、同志と共に筑前共愛会を興し、国会開設の議
を主張す。十五年京城の変あるや、平岡以為らく「先輩の志を紹ぎ、以て大陸経
営を樹立するは、機会正に当れり」と。乃ち野村忍助と謀り、義勇兵を組織し、
菅新平、加治木常樹を以て先鋒と為し、若干の兵を率ゐ、佯りて大阪行の此花
丸に搭じ、玄海洋に出るを待ち、船長を威嚇し、針路を転じて、直に対馬に至
り、同地の同志土井唯八郎を乗せて釜山に上陸し、平岡は其後より精兵若干を
率ゐて之に赴き、相合して一挙京城を衝くの計画を立つ。野村は密に之が準備
の為め、外務卿井上馨を神戸に擁して、外務省御用掛と為り、先発朝鮮に渡り
たりき。然るに、此花丸の入港遅れ、計謀齟齬し、且つ朝鮮との平和条約成り、
平岡等の奔走画餅に帰す。後ち玄洋社長の任を箱田に譲り、実業に志し、十六
年豊前吉原銅山を経営し、十八年赤池炭礦の採掘を開始す。十七年の交浩太
郎商用を帯て、長崎に至る。偶熊本人日下部正一在り、平岡に謂て曰く「上海は
東洋第一の要港なり。彼地に於て学校を創設し、大に青年子弟を養成せば他日
大陸経営に便益尠からざる可し。予の同志に山口五郎太なる者あり。久しく清
国に遊び、革命志士と親交あり。之をして事に当らしめば、他日事あるの日必ず
吾人宿昔の志に酬ゆる所あるべし」と。平岡大に喜び福岡に帰りて同志の賛成
を得、東洋学館の創立に尽力する所あり。東洋学館は資力継かず【→続かず
ヵ】一年有余にして、閉館せしと雖も後の日清貿易研究所、東邦協会、東亜同文
会等の先駆を為せるものなり。明治二十年平岡清国に遊び、洋靴店を上海に開
き、青年有志の士を派し、清国の国情を調査し、語学の研究に従事せしむ。同
年条約改正問題の起るや、之が反対運動を試み、二十二年又条約改正問題の
起るや再び起て中止運動を試み、終に霞関爆弾事件あり、一時之が為に嫌疑
を被りて拘致せらる。二十三年豊国糸田炭坑を開始す。二十七年八月選ばれて
衆議院議員と為り、後ち憲政党の組織に当り、斡旋最とも努むる所あり。三十二
年米国に遊び、三十四年臼井哲夫と共に朝鮮に渡航し、国王及び太子に見えて
帰り、三十六年、対外同志会の成るや、主として対露の議を唱ふ。日露の役起
るに及び、三十八年四月清国に航し、北京に留ること数月、那桐、瞿鴻機、栄
慶、鐵良、張百煕及び袁世凱等を歴訪し、慶親王、恭親王、粛親王に会し、対
露政策に関して大に説き、日支親善の為に尽す所あり。当時、平岡の親王を訪
ひ、満洲問題に就て之に説いて曰く「我国が百万の兵を動かし健闘苦戦するも
の東洋平和の為めなり。聞く清国日露戦後満洲を還附せんことを希ふもの多し
と。清人の意固より然らん。然れども軍備薄弱の貴国に満洲を還附せんか、明
日又露国の有たらんのみ。故に我国は漫然として之を貴国に還附すること能は
ず。若し貴国大臣の意見にして徒に満洲還附を我に求めんとならば、余は、帰
朝の後ち更に国論に訴ふる所あらんと欲す。満洲還附の如きは貴国兵備成る
の後に在り。我れ強ひて之を還附せずといふに非らず。只東洋平和の為め之を
還さざるのみ」と。慶親王復言ふ能はざりきと。三十九年心臓を病み、筑前戸畑
の別荘に在り。十一月福岡市博多対馬小路の本邸に帰り、病革りて遂に歿す。
年五十六。清国粛親王平岡の訃を聞き、嘆じて曰く「平岡君の北京に在るや満
廷の諸王大臣皆其罵倒する所とならざるはなし。而して君独り我を罵らず。今や
其畏友を喪ふ惜むべきなり」と。又頭山曾て平岡を評して曰く。

 『彼は才子であるが、世の所謂才子とは型を異にして居る。何から何まで大き
く出来てる男で、直情径行、急湍奔流の如き性行であったから、随て失敗も多か
つたのだが、兎に角男らしい男、実に一世の快男子であつた。彼は万事にこせ
こせしなかつた。一體が無遠慮の男で我意が張て居るから、恁うと思つた事は
其前途に如何なる難関が横つて居らうが、やり通さねば置かぬといふ気風、為
に失敗を招き衆怨を買ふ様な事があつたにしても、一方成功の階梯に向ふのだ
から、此性行は彼の短処でもあり、又長処でもある。』

と。英雄の心は英雄にして始めて之を知り可得し。頭山の平岡評、誠に味ひあり
と謂つ可し。又柴四朗語りて曰く。

 『二十年、井上案条約改正の当時、余は、同志平岡浩太郎と共に痛く之に反
対し、土耳其の例を挙げて、「露土戦争の結果土耳其が屈辱的条約に調印すべ
く内閣会議を開いたとき、反対派の志士陸軍少佐某が突如として闥を排して来り
ピストルで、内閣大臣を射殺したことがあつた」と云ふ話をした処、平岡は掌を拍
て「是は妙計である。我々も国家安危の問題に関しては、此非常手段を執て残
骸を擲たねばならぬ時が来るかも知れぬ。好し君と共に内閣の模様を視察し置
かん」とて、翌日、赤坂御所の内閣まで、新衣高帽で二人曳の腕車を馳せて何
の苦もなく其門内に進入することを得たりしが、此の日は内閣会議の定日であら
ざりしを幸として、周囲の模様を一瞥した事がある。其時余は少しく遅刻して御
所の辺に至ると、平岡が御所の内より、二人曳で出で来るのに遇ふたが平岡は
「威風堂々と乗り込めば天下の事尚為すべし」と云つたが、当時の有志家は概し
て献身的精神を有したもので、来島が霞関の一撃に紳士の風采を具して居つた
のも亦決して偶然に在らず。平岡の言に負ふ所ありしを思はざる能はず』

と。来島の一撃素より平岡に関係するものありしや否や、既に来島死し、平岡世
に在らざるを以て之を明にするを得ずと雖も、又以て当時の事情を想像せしむ
るものなからずとせず。三十八年秋、高田三六、韓国に在り、伊藤博文渡韓の
説を聞き、書を平岡に寄せて其意見を問ふ。九月五日、平岡之に答ふるの書に
曰く、

 『神鞭近来帰京、両三回面晤仕り候。併し韓国の事は結局取るより外に名策
無之候。先般伊藤の渡韓せんとせし時は、小生は極力相止め申候。元来清国
なり露国なりと、三千年の祖国を賭し戦争するものは、我国自衛上、止むを得ず
して奮発せるものなれば、今度は無論朝鮮を取る丈けは、国民一般、期する所
なれば、伊藤渡韓、其国王を連れ来り、吾華族に為したる所が、伊藤の手柄に
は全く不相成。若し之に反し、彼国の改善抔に着手する事あらば、国民は伊藤
を目して何と云ふべき哉。必ず死を決して戦死せる軍人の為め、又軍費を負担
せる国民の為めに、伊藤が首を打ち落す者の出づる火を睹るより明なる次第な
りと、彼れ腹心二三の者に面陳致置候。其の後、彼の渡韓は断然止められたり
と承り候。伊藤も此問題に就ては、余程考居候間、容易には動く筈無之候』云々

 平岡戸畑に其病を養ふ。書を的野半介に与へて曰く。

 『小生も年来の目的たる征露の事を終り、朝鮮の処分も半以上決定したるを
以て、明治三年、手鎗を提げて露国公使を赤羽橋畔に襲はんとして捕はれ、征
韓を賛成して同志の忠死に後れ、恥を忍び俗士等の罵に任せたるも、最早死し
て亡友に面するも、左迄の不都合もなきものと信じられ候間、不遠、俗世を退く
積りなり』云々

と。「同志の忠死に後れ、恥を忍びて俗士の罵に任せ」と謂ひ「不遠俗世を退く
積りなり」と謂ふ。何ぞ其の言の悲しき。然れども「年来の目的たる征露の事を
終り、朝鮮処分も半以上決定したるを以て」「最早死して亡友に面するも左迄の
不都合もなきものと信じられ」と気を吐く所、正に平岡の面目躍如たるものあり。

 平岡の資性は既に之を説けり。彼れ豁達にして放胆、弁論滔々懸河の如く、
人を屈服せずんば止まず。自ら標榜すること甚だ高く、容易に人に許さず。唯漢
土に於ては呉の魯粛に私淑し、日本に於ては明智左馬之助に私淑す。平岡閑
あれば書画を弄し、和歌及び俳諧を賦す。曾て京都嵐山に遊び、
  来る人も常はあらしの山桜
    咲ける春とて賑ひにけり、

 又三十九年「新年川」の御題を詠じて曰く、
   ひらけゆく御代そ嬉しき若水を
     こまもろこしの川瀬にそ汲む、

と。高麗唐土に若水を汲まん事、又玄洋社員の抱負ならずんばあらず。風月に
雅懐を寄せて其理想を謂ふ。武人徒に武なれば猛虎狼豺の如し。文人徒に文
なれば優柔見るに堪へず。右手剣あり左手一笛を携ふ。亦優に美しからずや。
平岡の如き戦国に在らしめば「年を経し糸の乱の苦しさに」と謡ふの敵を許し遁
れしむるの高風あるものならんか。平岡又神谷宗湛の茶室を購ひて、其庭前に
移し、小早川隆景名島城の大手門を移して、其住宅の正門に代へ、又博多湾に
三百万円の資を投じて築港を築かんことを計画したる事あり。目下杉山茂丸博
多築港会社を起して工事中なり。平岡の起業的先見驚く可し。彼の一生は百花
繚乱の感あり。平岡福岡に在つて政敵と相対峙するの間、敵陣孤瑩悄然寂とし
て声なきの観あり。夫れ福岡市の政界平岡の死後寂寞を感ずるもの又所以なし
とせず。

頭山満 附・杉山茂丸 《玄洋社員の面影》より

 頭山満は筒井亀作の第三子。安政二年四月十二日福岡城外西新町大字中
東に生る。其地海に遠からず甚幽閑なり。年十九出でゝ外戚頭山和中の家を嗣
ぐ。筒井、頭山氏共に世々黒田氏に仕へ其藩士たり。満八歳の頃西新町上野
友五郎に習字及漢籍を学ぶ事一年余、更に亀井昭陽の子暘洲の門に遊び、後
高場乱に学ぶ。明治八年【→九年が正しい】箱田、進藤、宮川等十余人と共に
福岡監獄に拘せられ、西南の乱起るに及び、一時長州に移され、乱平ぐの後始
めて釈さる。其獄を出づるや、同志と共に向陽義塾を起し、専ら青年子弟を養
ふ。来島恒喜、大原義剛等皆当時の塾生たり。

 頭山年少時甚だ腕白を以て聞え、附近の群童多くは其幕下たり。頭山亦之等
群童を指揮する恰も親分乾分の関係の如く、時に饅頭菓子を振舞ひ群童之を
受けて嬉々たるを見て以て得意となす。其十一二歳に及ぶや十歳も年長なりし
其姉と衝突する屡次、母イソ子頭山を折檻して之を一打すれば返すに二打を以
て母に反抗したりき。然れども研学に熱心にして其十五六歳に及ぶや飜然とし
て悟る所あり。父母に仕ふること従順孝養至らざるなし。十七歳、眼を病み人参
畑の眼医高場乱に就て治療を乞はんとして其門に到る。【口+伊】唔の声あ
り。頭山高場に乞ふに塾生たらん事を以てす。乱之を止めて曰く「我塾の書生
は、皆是れ跌蕩不羈、縄墨の外に逸するもの、子能く之を伍するを得る乎」と。
満強て其入塾を乞ひ、始めて塾中の豪傑と伍す。
 補助漢字区点=2124 16進=3538 シフトJIS=8B57 Unicode=54BF】

 某あり頭山を見て、
「珍竹来れり」と大呼す。珍竹とは蓋し頭山の生地西新町附近珍竹多し。故に西
新町に住める士族を侮蔑するの語なり。頭山之を聞くや、
「咄汝何者ぞ。士族輩の後方に在つて土下座する足軽に過ぎざるにあらずや」
と。乃ち頭山を見て珍竹来れりと大呼せし者足軽なりしを以て頭山声に応じ彼を
正面より罵倒し去りたるなりき。然れども頭山幼より凡物に非ず。直に顔を和げ
「夫れ汝は足軽なり。然れども身分の高下家格の差異我に於て何かあらん。要
は正義と正道にあり。以後理あるものを以て勝と定む可し」と、入塾第一日先づ
衆を驚かす。彼の高場塾に在るや、黙々として終日一語を発せざることあり。其
一挙一動他生と自ら其趨舎を異にし、読書章句に泥ず、而も其会心の文を読破
するに及んでは反覆夜に継ぐに晨を以てし、之を諳んずるに至らざれば息まざ
るものあり。彼の従妹有馬悦子頭山の幼時を語りて曰く、

『妾は満さんより九つ年下ですが、従兄妹の関係で母に連れられては飯塚の代
官所から西新町の家へ泊りに行つた事が屡々ありました。妾が四つ位の頃でし
たらう、半年ばかり満さんの家に泊りましたが、満さんは両親の命令で妾をおん
ぶしてくれましたけれど、遊びたい盛りなのでぶんぶん怒つて居る矢先きへ、妾
が弱虫で泣き立てますので、遂々満さんは疳癪を起して妾を途の真中へおろし
頭から小便を浴せかけ、その儘置いてけ放りにして何処かへ遊びに行つて了ひ
ました。何しろ満さんは幼さい【→小さい、もしくは幼いヵ】時は随分乱暴でした。
云々』

と。又頭山高場塾に在るや、蓬頭垢面少事に拘泥せず。又上級者の意を迎へ
ず。上長頭山の不遜を憤り幾度か之を布団巻にせんとす。頭山之を知り常に短
刀の鞘を払つて床中に隠す。而も床上に身を横ふれば睡魔直に襲ふて眠深し。
塾生頭山の室に至れば彼の鼾声を聞き、其大胆に恐れ常に其悪戯を中止せり
と。彼又当時好みて、名山大川の間を跋渉し、或は三昼夜食を断つて山中の廃
寺に坐禅し、或は郊外の空堂に眠りて週日其家に帰らざることあり。以て心胆を
錬磨す。

 頭山の居常斯の如し。高場之を見、大に彼を推重す。彼れ後ち当時を追想し
て曰く。
「人寰を去つて深く山渓の奥に入り悠々天地の自然と相対す。神伸び意悠々とし
て謂ふ可らざるの趣を感ず」

と。寡言黙々として恰も禅僧の如く大山崩るゝも動かざるが如きの修養、而も其
一度言を発すれば人の心腸を貫き、其一度起てば天下を震駭せしむるもの、当
年心胆錬磨の致す所ならずんばあらず。

 十年乱後頭山、山口の獄を出づるや、鹿児島に遊び、西郷隆盛の邸を訪ひ、
川口雪蓬に面し、西郷遺愛の文籍を見んことを求む。雪蓬「洗心洞剳記」を出
し、「是れ、西郷が南島謫居中愛読して措かざりし書なり」と。満披いて之を読む
に、書中往々隆盛手記の註あり。満垂涎措かず、雪蓬に請ひて之を借り福岡に
帰来す。後雪蓬其返却を逼ること甚だ急なり。一年の後頭山飄然再び鹿児島に
遊び、雪蓬に見えて、其書を返す。雪蓬大に喜び、更に「王陽明全集」を贈る。
頭山南海に板垣を訪ひて自由民権論を聞くや、大に之を賛し、帰来箱田、平岡
等と向陽社を興し、大に民権伸張の為に気を吐く。後ち東上、箱田、南川の国
会開設請願運動の別動隊となりて奔走する所あり。更に北陸東山を漫遊し、河
野広中と会し、広沢安任と会して還る。其福島に遊ぶや、当時福島の獄中に西
南役の反将河野主一郎のあるあり。一日河野と共に之と会す。蓋し当時の獄則
甚だ不完全にして、囚人一日労作の労金を償へば外出を許さるゝなりき。河野
広中、河野主一郎、頭山等旗亭に飲む。頭山、越智等と志を共にし政府転覆を
思ふや久し。而も同郷先輩多く乱に斃るゝに【シンニョウ+台】んで其念一層甚し
く、殊に薩南に南洲の墓を展してよりは、兵挙ぐ可し、旗鼓再び動かすべしと期
す。茲に、今西郷麾下の主将河野と会す。頭山黙々の中感慨なからざらんや。
乃ち頭山突として河野に問ふて曰く。
「君出獄の日幾万の兵を集め得るや」
 補助漢字区点=6536 16進=6144 シフトJIS=E163 Unicode=8FE8】

と。河野答へて曰く。
「二万の兵を得る容易ならん」

と。頭山、河野と黙契するあり。然れども時勢の推移は国民思想に転化を来し、
国内の秩序整頓は遂に如斯無謀の挙を許さず。花咲き花散る幾春秋、歳月空
しく流れて鶏林八道の風雲急なるあり。内に民論の起るあり。条約改正問題の
あるあり。天下騒然寧日なく、頭山亦玄洋社員と共に或は鶏林亡命の士の為に
尽し、或は条約改正案中止運動に奔走するものあり。

 是より先き、荒尾精の日清貿易研究所を上海に設立するや、頭山、平岡等又
其計画に参し、屡々資を送りて之を助く。荒尾は士官学校の出身にして、夙に川
上操六の知遇を受け、清国の軍事研究に没頭せるもの、荒尾又東洋の形勢を
観て大に心に期するあり。遂に日清貿易研究所を設立し、大に為すあらんとせ
り。二十三年荒尾上海より帰来し、研究の経営に関する財源を求めんとして、之
を頭山に謀る。頭山高利貸某を訪ふて之を弁ぜんとす。某曰く「鳥尾小弥太の
受判あらば、其望に応ぜん」と。乃ち頭山、今田、荒尾と金主某を伴ひ鳥尾の避
暑地熱海に到る。鳥尾偶々上京せんとして途に之に遇ふ。頭山金主某を途に待
たしめ、今田、荒尾と共に路傍の茶店に入りて、其来旨を告ぐ。鳥尾応ぜず。之
を強ゆる再三に及び、乃ち頭山に謂つて曰く。余足下の為に之を他に謀らん。
出金者は何人にても可なるや。予は井上馨に出金せしめんと欲す。君の意如
何」と。頭山曰く「何ぞ出金者の井上たると穢多*たるとを問はんや」と。荒尾只
苦笑するのみ。暫くありて荒尾、頭山に謂ふて曰く「吾人貧すると雖も、未だ井上
輩の恩を被るを欲せず」と。乃ち鳥尾と別れて帰る。窮困の境に在りて不浄の財
を忌む。荒尾の高潔正に掬す可し。後ち頭山、荒尾の為に三千金を調へたりと
云ふ。頭山当時の状を語り、且つ荒尾を称して曰く、

「荒尾は真正直だつたよ。其金がないでは研究所が何うもかうもやつて行けぬと
云ふのに、高利貸からなら借りても可いけど、井上のやうな男に鐚一文でも恩を
受けたり銅銭一枚たりとも借るのは嫌ぢやちうたよ。なかなか傑い男ぢやつた。
私も先達て荒尾の記念碑が建つたと云ふので、荒尾の郷里迄出掛けて行つて
祭文ども読んで来た。私は祭文を読んだのは生れて始めてだ。多分あれが一生
一度の事となるのだらうハヽヽヽヽヽ」(大正五年十二月二十日談)

 頭山の意を対外問題に留め、韓国亡命の士に尽し、日清貿易研究所に尽し、
天佑侠に尽し、国民同盟会に尽し、対外同志会に尽したるは、已に之を説けり。

 頭山、天資寛弘、気宇宏闊、大人長者の風あり。事あれば乃ち猛然蹶起渾身
の努力を之に捧げ、満腔の熱血を之に注ぐ。而も事無ければ乃ち名利権勢の
外に悠々たり。平生同情に富み、故旧に厚く、人の急を救ふ嚢を傾むくるを辞せ
ず。嘗て其所有せる北海道炭礦を売却して、八十万円を獲るや、先づ其の負債
を清償して故旧に及ぼし、後其余贏を同志の知己に頒ち、頭山の手に残る所は
乃ち今の霊南坂の一邸宅のみ。其恬淡驚く可し。九州の炭礦王安川敬一郎之
を聞き嘆じて曰く「嗚呼是れ頭山の頭山たる所以歟」と。雑誌『日本一』に頭山を
伝評して曰く、

「日本一怪物伝の主人公は謂ふまでもなく頭山満君である。彼は元亀天正年間
に生るべかりしを、誤つて明治大正の御代に生れ落ちたのだ。怪光閃々として
現代人の眼を射るものも無理はない。

 彼は大の無精者で、言ふ事も無精なれば、動く事も無精懐手の握睾丸で黙々
として天井を眺めて居る。それで居て、時の大臣宰相を萎縮せしめて居るから、
真に怪物の頭梁たるに愧ない。

 彼の、当路者に畏敬せらるゝ所以は、其乾児に、決死の青年を貯へて居るに
因るが、而も彼は、他の軽々たる小親分連の様に、乾児の養成に骨を折るやう
な事はせぬ。来るものは拒まず、去るもの追はず。例の物臭主義を発揮して居
るが、一度彼に親炙したものは、彼の為めに一命を鴻毛の軽きに比して馬前の
塵たるを辞せないから不思議である。

 彼の郷人は彼を、谷ワクドと呼んで居る(谷は頭山の養家先きの在る村名)。
ワクドとは、福岡辺の方言で蟇の事をいふのだ。ワクドとは、全く彼にふさはしい
異名である。彼が細い眼を半開に開いて、而も黙々として天地を睥睨して居る処
は薄暗い洞窟の中で、ワクド先生が氤【气+囚+皿】たる妖氣を吐いて居るの
に酷似して居る。
 補助漢字区点=3850 16進=4652 シフトJIS=93D0 Unicode=6C33】

 大隈の片足を奪取したのは来島恒喜であるが、恒喜をして霞ヶ関に活躍せし
めたのは例のワクドの妖氣だ。

 日比谷の焼打事件に、桂をして、才槌頭をかゝへて遁竄せしめたのも、矢張り
此ワクドの妖術であつた。過般も印度の志士なるものが、我当局に窘迫せられ
て彼の家に逃れたが、刑事が門前に張番して居る間に、彼の妖術によつてヒユ
ードロドロと消えて無くなつたなどは頗る痛快であつた。彼一度一脈の妖氣を吐
き来れば、天下の志士は、恰も傀儡の如く彼の掌上に活躍する。此処を以て、
堂々政権を掌握して居る大臣宰相も、市井の一布衣たる彼を畏怖する事は夥し
い云々。」

と。若し夫れ頭山の洗髪お妻との艶話に至つては、雲に衣裳を想ひ、花に容を
想ふの風流子をして垂涎せしむるもの、正に三丈ならずんばあらず。一枝の濃
艶露香を凝らす。断腸の花独り桃李のみならんや。娼家の美女鬱金香、痴蝶花
に戯れ、花蝶を弄ぶ。狭斜に入つて時に折花攀柳、頭山の遊行自ら異なるあ
り。彼酒を嗜まず。茶菓に興をやつて、浜の家に御前と成り済す。時に千金の宴
を張つて豪遊し、翠鸞夜に仙屈の春に酔ふ、落花狼籍たり。我曾て福岡に頭山
を訪ふ。時に頭山其生家筒井家に在り。筒井條之助は頭山の甥にして、且つ其
女トラキチ子の婿なり(曾て頭山旅行して家に在らず。偶々夫人峰尾女子を分娩
し、之を頭山に報じ、且つ命名を乞ふ。頭山乃ち「トラキチ」とせよと電命す。生
るゝ所は女子なるも、遂に之を以て名となす)條之助外縁の紙戸を開いて曰く、

『御覧下さい。此の庭先に大きな樟樹があるでしよう。あれは叔父が十歳の時小
さなのを植ゑたもので以来四十七年、今はあんなに根本は一丈もある位にな
り、従つて葉も繁つて居りますが、叔父はあれを植ゑた当時、無精の樟樹よ、若
し私が世の中に知られる様になる事が出来なければ一日も早く汝は枯死せよ。
然し若し私が傑い人物に為り得るならば、お前も早く大きくなれ、決して枯れるな
と、常にあの樟樹に向つて云つたさうです。其後樟は枯れずに段々と大きくな
る。頭山満と云ふ名も世に知られて来る様になりましたが、今でも叔父は時々あ
の樟樹の幹を抱いて見て、其の大きさを当つて楽しみさうに微笑して居ります。
御覧の通り私の家は草葺の軒も傾いて居る様な古い家ですけれど、これは叔父
が呱々の声を挙げた歴史ある家として、永久に改築などはせぬつもりです。』

と。床上の壁間、犬養木堂の「一以貫之」の横額を掲げ、床に加藤徳成の筆に
成る今様一首を懸く。長押に長槍長刀あり。古びても昔忍ばるゝ床しの家よと黙
想に耽ること少時、時に頭山他より帰来し座に入る。黒紋附を羽織りし白髯の巨
老人……劇中に見る「不如帰」の片岡中将の夫れの如くヌーボー式の老人これ
頭山なりき。吾人が頭山満の名によりて想像する所は、便々たる腹、蓬々たる
鬚髯、水滸伝中の人物を聯想せずんばあらず。而も見よ身長五尺七寸肥大な
らずと雖も素より疲身【→痩身ヵ】に非ず。五分刈にして白髪まじり、白髯長く垂
れて眼光炯々、時に人を射るものありと雖も、打見たる処好箇の老爺温容人に
接する態度、さも親しげの話し振り、かくてこそ、玄洋社の面々が此の人の為に
は水火も辞せずと心服せる所以ならんと解得せしむるものあり。

 頭山徐ろに語を起して曰く、
『……さう高場乱先生、あの人は人参畑に居た女眼医者ぢやつたが、実に無欲
で、淡白で、気節のある女丈夫ぢやつた。私も進藤も来島恒喜も門人ぢやつた
……実際ナカナカ豪いお婆さんぢやつたよ……』

と。語り終りて話頭一転、
『福岡も八年振りに帰つて見ると変つてゐるぢや。電車も出来て一寸故郷に帰つ
た気はせぬ……私の生れたのは此の家ぢやが、頭山に養子に行つたのぢや。
孫がもう四五人出来たが、孫は可愛いいもんぢやよ』と語りながら、條之助の長
男五つ許りになるのを抱き上げる。『お祖父ちやん「ぱつち」がなくなつた』、『ウ
ムぱつちが無いか。ヨシヨシお祖父ちやんが買つてやる。モツト善い奴を……東
京からも、私の一番末の男の児が来てるが、二人で私を奪ひ合つて俺のお父う
さんぢや、いや俺のお祖父さんぢやと云ふて毎日の喧嘩ですから何時も私が仲
裁してゐる様な次第ですよ……』

『何です、条約改正の時、私が陸奥から頼まれて、犬養の首を二万円で切る事
を約束した……と仰しやるのか。フム結局犬養木堂暗殺かネ……それは嘘だ。
何時ぢやつたか陸奥から頼まれたと云つて、岡本柳之助が私の宅へ遣つて来
た。そして南洋の方に少し人を出してくれぬか。二十五万両出すからと云ふ話ぢ
や。私は南洋行は嫌ぢやから、岡本に向つて頭山は嘘をつく事は嫌ひだ。南洋
には行かぬが其の二十五万円を只呉れぬかと、帰つて陸奥にさう云つて呉れと
話したら、岡本が左様なことを云はないで、南洋に行くからと曰つて二十五万円
取つて、五万円位俺に呉れゝばよいぢやないかと笑つて帰つた事がある。此の
話しから何か間違つて犬養暗殺説が湧いたのだらうハヽヽヽ、条約改正問題で
又玄洋社員が乱暴しては困る。私が居てはどんな事をするかも知れんと云ふの
で敬遠しようとしたんですよハヽヽヽ』(四十五年五月談)

 頭山は実に明治、大正に於ける怪傑なり。彼をして乱世に生れしめよ。或は小
早川隆景の如き夫れに似たらんか。頭山に二肱股あり。之を結城寅五郎、杉山
茂丸と為す。結城は頭山の炭坑経営に努め、頭山活躍の資財は乃ち炭坑経営
によりて生ぜるなり。頭山炭坑を手放し市井に深く隠るゝの後、結城又自ら炭坑
経営を為し富巨万を得と云ふ。

 杉山は頭山を背景として政治の裏面に活躍す。出没自在秘謀縦横時に世人
の其片影を捉へ得ざる事あり。杉山は元治元年八月十五日筥崎八幡放生会の
佳日を以て福岡城下因幡町大横丁に生る。三郎平の二男なり。幼名を秀雄と云
ひ、七歳の時殿中に奉仕して黒田長知の太刀持を勤む。長知杉山を愛し茂丸と
命名せしむ。幼より群童と交はるに異行多し。其腕白譚は杉山著はす所の「百
魔」「其日庵叢書」等に之を収む。其十二三の頃乃木希典福岡分営隊に隊長た
り。一日筥崎八幡宮神苑の樟蘭を採取せんとして面を仰げ口を開いて長竿を以
て切に樹上の樟蘭を剥落せしめんとす。時に盛夏なり。蝉虫「チウツ」と鳴き尿を
放ちて樹上より遁れ、其尿仰げたる乃木の面を汚し又口中に入る。乃木狼狽面
をふかんとす。杉山之を見て「大将が蝉に小便しかけられた。詰らぬ大将ぢや」
と罵る。乃木之を聞き、悠々杉山の傍に歩を移し、此児異貌ありと、微笑し其頭
上を撫して去りたりと云ふ。杉山の父三郎平灌園と号し、貝原派の系統を受けて
朱子学に通ず。藩校教授たり。当時貝原益軒の流を汲むもの多くは佐幕派なり
しも、灌園は夙に勤王の大義を奉じ、説講甚だ努む。明治三年帰農在住の藩命
を受け、城東蘆西浦【→蘆屋浦が正しい。遠賀郡の内】に移住し、家塾を開き近
村子女の教養に尽す。杉山又父の志を継ぎ、少壮郷を辞し東西に放浪歴遊し、
有志と交を締す。杉山と頭山とは素と同藩同郷なりと雖も、未だ相識らず。明治
十八年熊本県人八重野伴三郎【→範三郎が正しい】、佐々友房、杉山を頭山に
介し、芝口田中屋に相会す。一見旧知の如く、意気相投合するものあり。若し夫
れ人ありて『杉山を以て怪人物と為し』『杉山又怪人物を以て自ら任ず』と評する
ものあらば、そは未だ杉山を知らざるなり。『杉山を以て形影深く雲霧の裏に隠
れ輪廓鮮明ならざるが如し』と論ずるものあらば、又以て未だ杉山を知らざるも
のゝ言なり。倉辻白蛇、其日庵叢書中怪人の怪文を読むと題して杉山を評する
一節に曰く、

 其日庵先生は当代の怪人格也。居常其面を包み其手を袋にし、影を暗雲濃
霧の裡に没し、人をして進退挙止を端倪せしめず。天下若し大事あり。霹靂天
の一方に轟くに及んで、僅かに閃電の如く暗雲を破りて出で、怪光妖火を東西
に馳せてまた暗雲の裡に没し去る。茲に於て世人偶々其片鱗を見るも、未だ嘗
て全身全形を見ず。自ら想像して猿面となし、虎體となし、蛇尾となし、而して呼
ぶに聖代の怪物を以てす。魔乎、怪乎、龍乎、源三位の武威照魔明鏡を仮るに
非ざれば、暗裡の実體得て之を知る能はざるべしと雖も、唯だ形影深く神秘的
雲霧の裡に隠れて、首尾朦朧、人格の最も不可鮮【→解ヵ】なるは即ち疑ふべ
からざる事実なり。

と述べ更に筆を進めて、

 先生はこれ当代の達人也。世人若し先生を呼ぶに達人を以てするに異議あら
ば、単に達人に類すと云ふも不可なし。先生維新風雲の際に生れて、革命の大
気を呼吸し、少壮身を志士の群に投じて、東西に奔走すること多年、幾度か死
生を賭して国事を争ひ、半世の放浪数奇辛酸艱苦嘗めて之を尽さざるものな
し。既にして世態一変、国会開け、憲政施かるゝに及んで匕首を捨て牙籌を採
り、一時身を貨殖の巷に投ぜりと雖も、往年事を共にしたるものゝ或は鼎【金+
穫のツクリ】の苦を受けて肉を割き血を流し、或は志を抱いて早く幽冥の世界に
入り、骨を白沙青松の間に埋めて、春風秋雨徒らに限りなきの怨魂を弔ふを
見、黙視せんと欲して黙視する能はず。即ち出でゝ国家の経綸を策し、王侯の
間を縦横して以て故人親明の怨魂を慰めん事を期す。爾来面を包みて帝都の
中央に蟠居し、時に土蜘蛛の如く地下に潜み、時に土窟を出でゝ羅を八方に張
り、天下大事のある毎に常に舞台の背面に隠れて巧みに傀儡を操る。日清戦
役の前後に起りて、日露の大戦を経、韓国併合の実を挙ぐるに至りし最近二十
年の歴史に於て、世人は独り舞台の前面に活躍演舞する幾多の傀儡を見れど
も、恐らくは背後にありて動ける巨大の黒影を見ざるべし。是れ功名を眼中に置
かず、虚栄の桎梏より離れ、只管怨を呑んで九泉の下に眠れる其友を慰めんと
する其日庵主人の帰趣にして、また自在なる工夫の其裡に存する所也。
 補助漢字区点=6976 16進=656C シフトJIS=E38C Unicode=944A】

と。然れども杉山の人格と資性は明瞭なり。杉山の人格は平岡と同じく単式に非
らず、複式なり。彼の全人格の神髄は醇の醇なるもの。彼の眼中只皇室と国家
あるのみ。忠孝節義あるのみ。其数奇異怪なる日常の行動の如き、只世に処す
るの変通のみ。彼の第二人格のみ。敢て多くを謂ふの要あらんや。杉山其室に
大仏壇を設け中央に御歴代の皇霊を祭り、其左右前面約弐百の小位牌を配し
て、早晨礼拝、読経を缺くなし。二百個の小位牌は、之史上昭々たる忠孝節義
の士か、然らずんば彼が認めて、以て国家に直接間接功労ありし所の志士義人
の霊ならざるはなし。此一事以て彼の全人格を推想し得可きなり。杉山今台華
社に蹲居し、又博多築港会社を起し(此築港は三期計画にして資金二千五百万
円第一期資金参百万円なり)目下第一期工事中に在り。此築港にして完成せん
か、北九州の形勢に一変を来すと共に、日本貿易の主力は漸次九州方面に集
中せらるゝに至らん。杉山又九州日報に資を供し、大原義剛をして之を経営せし
む。九州日報は福陵新聞【→福陵新報が正しい】の後身なり。福岡日々、九州
日々新聞と共に北九州に鼎立して、常に堂々言論の陣を張る。九州日報は之
れ玄洋社の機関新聞なり。(杉山に就ては其渡米前後或は時々突発せる政変
等に関し記す可きもの尠からずと雖も之を他日に譲らむ)

 頭山、杉山共に書を能し、又興到れば時に詩歌に感懐を遣る。頭山の歌に曰
く、
   今よりは暁までも尋ね見ん
      雲かくれにし月のありかを

 頭山深く私利私欲を忌み常に楠公の和歌
   身の為に君を思ふも二心
      君の為にと身をは思はて

を誦し今の所謂大官有司に嫌焉たらざるの意を諷す。頭山は実に日本浪人の
頭梁たり。近者浪人の意気衰へ、気骨滅び、或は威武に屈し、或は利禄に趁る
もの多し。夫れ然り。而も此間に在りて節を撓げず、報国殉忠を説きて一に士道
の振作に努むる頭山の如き、真に日本浪人の為に万丈の気焔を吐くものと称す
可し。彼の一挙国家のために身を忘れざるなく、彼の一行善政を願ふて家を顧
みるなし。未だ以て其為政者の当否を云はず。政派の消長に関せず、偏に君国
の恩を懐ふて之に報いんとするや切なり。

 漢の時任侠第一を以て名ありし劇孟を銭起謡ふて曰く、
「燕趙悲歌士、相逢劇孟家、寸心言不尽、前路日将斜」と。夫れ悲歌か、夫れ悲
憤か。中原鹿を逐ふて得ざるも、慷慨の志猶存するあり。嗚呼人生意気に感
ず。功名誰か復之を論ぜんや。

現社長進藤喜平太 《玄洋社員の面影》より

 進藤喜平太は栄助の子。嘉永四年福岡に生る。世々黒田氏に仕へ其藩士た
り。文武館に学び後ち高場乱の門に入る。所謂「北家組」にして明治八年矯志社
を興す。九年萩の変起るに方り、進藤同志と共に捕へられ獄に投ぜらる。西南
の乱平ぎて後釈され、十二年四月、向陽社の組織成るや、其幹事たり。箱田の
死後玄洋社長を継ぐ。

 進藤資性謹直重厚、平常沈黙寡言を守る。然れども玉盃に満を引いて意気昂
るや、善く談じ、又善く論ず。其曾て高場塾に在るや、頭山と共に黙々、然れども
時に事を以て乱子、進藤を叱咤するも理に叶はざれば進藤以て之に服せず盛
に論議を戦はすものありしと云ふ。箱田就義隊を組織し、黒田藩の兵制に改革
を加ふるや、進藤亦之に加はる。進藤少壮血気横溢然諾を重んじて一歩も退く
なし。進藤玄洋社長として稜々の気を九州の一角に吐くや、其勢隠然一敵国た
るの観あり。曾て九州進歩党玄洋社を其圏内に誘はんと欲し、百方進藤を力説
す。進藤断乎として之を斥けて曰く「公等はこれ進歩党なり。公等既に改進党と
結ぶ以て国民の多数を利するを得可し。然れどもこれ吾党に一つの損益あるな
し。若し夫れ天下を挙げて進歩党と為らんか、玄洋社は天下を相手として立たん
のみ」と。意気昂然たるものあり。進藤三十九年平岡の補缺選挙に当り、福岡
市より選まれて代議士たり。次で四十五年政友会鶴原定吉を以て福岡市の代
議士候補者と為す。乃ち国民党進藤を擁して鶴原に対峙せんとす。進藤固辞し
て起たず。国民党福岡支部員進藤固辞するものあるに関せず、進藤を候補者と
して激烈の競争を為すに至り、天下の耳目を聳動せしむ。当時大阪朝日総選挙
前の地方政界中福岡県の部に記して曰く、

『征矢野氏は福岡県政友会に取つて大切な人であつた。総選挙前に当つて政友
会が征矢野氏を失つたのは、非常の打撃であると謂はねばならぬ。否単に政友
会のみではなく、福岡県政界の二人物として、今回国民党側の候補に至つた玄
洋社々長進藤喜平太氏と共に、味方からも敵からも推賞を受けて居たのであ
る。新候補者として福岡市の鶴原定吉氏に対し、国民党からは玄洋社々長たる
進藤喜平太氏が起つた。此の取組は福岡県下のみならず、全国に取つて興味
ある好取組と思はれる。一方は権謀家で一方は徳望家。彼れは洋学の人此れ
は漢学の人である。鶴原氏が政友会の勢力と金力とを以てするに対し、進藤氏
は誠実と徳望とを資本にしての果し合であるから面白い。』

と。惜む可し。進藤は僅かに百十票の差を以て鶴原に敗れたり。当時進藤派に
属するものは皆自費を以て其運動に当りたるに反し、鶴原の費す所実に三万金
なりしと云ふ。鶴原の軍資金供給者たりし安川等は「あれ程の金を費つて僅に
百票の違ひとは甚だ心細き感あり」と愚痴を漏せりと。夫れ之を思ふ。百万長者
にして堂々たる天下の経済学者を敵とし、半銭を費さずして之を後に瞠若たらし
め得たる、又快ならずとせんや。

 進藤旦に博多湾の静波に浴して身心を練り、夕に立花山上の暮雲に思を走
せ、興到れば大和歌に其所懐を述ぶ。詠ずる所の一に、
   梓弓心のまゝに引きしめて
      放つ一矢の透らざらめや

と。玄洋社組織されてより社長を迎ふるもの三。曰く平岡、曰く箱田、曰く進藤之
なり。初め平岡社長を退くに当り、阿部武三郎一時之を代理す。阿部は進藤等
と共に高場塾に学び、萩の乱に呼応せんとして、又頭山、進藤等と獄に下りし
人。資性温良沈黙にして頗る長者の風あり。常に同意【→同志ヵ】の推重を受け
たるも、後ち実業界に入りたりき。幾もなく箱田之に代りて社長と為り、箱田の死
後進藤其任に就く。進藤職に在る既に二十年。時に民権伸張を呼号し、時に国
権伸張を謂ふも、要は報国に在り、尽忠に在り。明月中天に懸り壮士惨として驕
らざるもの正に進藤の統裁其宜しきに基かずんばあらず。中野天門、進藤を評
して曰く「玄洋社に進藤を見る宛として戦国時代の勇将に対するの感あり」と。至
言と謂つ可し。

香月恕経 《玄洋社員の面影》より

 香月恕経は晦処逸士と号す。筑前朝倉郡下浦の人香城【→香月ヵ】忠達の
子。天保十二年生る。始め忠経と云ふ。家世医を業とす。幼より聡慧読書を好
み、佐野竹原に学ぶ。文久慶応年間四方の志士と交はり勤王を説き又子弟を
集めて教養す。明治初年秋月藩の教官となり、十四年甘木中学校長に任ぜら
れ、後ち福陵新報主幹たり。

 恕経人となり慷慨義を好む。博識強記文を善くす。大隈案条約中止運動に奔
走し、国論の鼓吹に努む。筑前協会より政府に建白せる条約改正案意見書(第
二十一、改正案と玄洋社参照)は実に恕経の起草に係る。第一第二帝国議会
に選ばれて衆議院議員たり。二十七年 月歿。年五十三なり。恕経の子弟教養
に関し、杉山茂丸著「百魔」中に記するあり。

 時は明治の初め、所は九州の片田舎。丁度夜の十時頃である。山影は寂寞
の間に四方を繞り、藪林は鬱蒼として前後を囲んで居る。其間に薄黒くニユーツ
と聳えたる茅葺の大きな古びた家がある。此は人里離れた山村のお寺である。
今宵何事の催しあるか分らぬが、本堂の中央に薄闇き灯を点し、其前に高き机
を一脚置き、其前後左右を取囲んで居る一団の壮士は、宵より堂の前に焚き棄
てたる篝火を背にして、或は足を投げ出し、或は横に臥たりして、グドグドと私語
き咄しをして何か物待顔で居る。須臾すると本堂の奥からニヨツコリ一人の先生
が現はれ出た。

 其先生の風采を見れば、頭は熊の毛のやうに乱れ、眼は猿の如く凹み顔は蓆
を攫み立てたやうに醜く、鬚も髪も火に燬くが如く赭く、身の丈け高き大兵肥満
の人である。下に白き衣物を着て、上に玄き道服を纏ひ、手に一巻の書物を携
へて居る。之を見たる一堂の壮士は遽かに倉皇しく居ずまいを正し、水を打つた
様に静まつた。此時彼先生は恰も破鐘を撞くが如き声を発して曰く、

先生『満堂の壮士、善く気を鎮め耳を抉りて予が説を聞け。今予が汝等に語らん
とする事柄は、当世至極の一大事である。既に汝等と共に憂国の志を提げ、血
を啜り指を割いて誓盟を祖霊に捧げたる所以のものは、明に天に代りて道を行
ひ、人に代りて世を浄うせんが為めである。

 夫、維新の鴻業一たび成つて、天下暫く泰平に似たれども、士心の腐爛既に
骨に透り、薩長鄙流の小輩私に功を衒ひ、利を耕して更に治国元本の理を思は
ず、早くも苟且偸安の術を弄して之を大計長策と称し、徒らに私党を廟廓の上に
構へて威権の掠奪を事とする有様である。

 抑も世界の列国を通じて其国家を統治するの権は、基礎甚だ紛混薄弱であつ
て、決して我日本帝国の如く尊厳優美にして且つ純良簡明なるものは無いので
ある。蓋し其君臨統治の大権を知し召す 天皇陛下聖徳の普及する処は敢て寸
壌尺土を余さず、其令を享け其の令を奉ずることの深甚忠実なることは、恰も彼
太陽の光射が下界の暗明を司どりて万象の之に嚮ふに斉きのである。此の如
き広大無辺の大権を奉じ我々蒼生億兆の祖先より、已に二千有余年の歴史を
閲みして、長へに忠良の道を貴んで来たのであるが、天地汚黷の気は時に凝り
て此の大権を蔽ふの雲霧となり、動もすれば類を集め党を植て其利心の横暴を
恣にせんとするのである。彼の源平の争の如き、北条、足利の掠奪の如き、豊
臣、徳川の搏撃の如き、尽く天子統治の大権を挙げて臣姓僭偸の玩弄具となし
たのである。然れども元来天に二日なく地に二王なき諺の如く、一時の変態は、
歴史的還元の妙機に支配せられて、著大さしも盛大を極めたる徳川の幕政も積
弊天下に充満し、惰気山川に張溢し、政治の柱礎将さに腐朽して三百年の雨露
に晒されたる封建最後の高厦大楼は、已に日没の傾斜をなして居るから、若し
一指を以て之を押すも忽ちに轟然として倒潰して仕舞ふのである。只纔かに井
伊、安藤等一二本の柱によりて【テヘン+掌】へられて居た処に、偶水戸浪士あ
りて、此二柱を斬り倒したるが為め、素より之を打捨置くも顛覆の悲運を見るは
当然であるが、時恰も好し薩長慓悍の壮士は、此二柱たる井伊、安藤を斬倒し
たるの一刹那、一斉協力破屋に雪崩掛つてドツと許りに押潰したのである。抑
人間の難事とするものは、破れんとするものを防ぎ倒れんとするものを押起すが
如きものを云ふのであるが、破れんとするものを益々破り倒れんとするものを
益々倒すには、力を用ふるの要もなく、智を用ふるの余地もないのである。ヤヨ
満堂の壮士よ、善く気を鎮め耳を抉りて今予が談ずる処を聞け。彼等薩長の壮
士は当時幕府の痼弊を慷慨して、其之を倒潰したるの功は予も亦之を多とする
のであるが、其功は破れんとするものを破り倒れんとするものを倒したるの功で
ある。故に汝等は決して此功を羨むべからず。此功を学ぶ可からず。汝等が予
に向つて真に男児の大功として誇るべきの事は、此東瀛の波瀾澎湃の間に沈
没せんとする我帝国の危急を救ひ、将さに傾廃せんとする人心の堕落を押起す
の大任を果したるの時を以て定まるのである。彼等薩長壮輩の功が端なくも多
年、天子の大権を蔽ふたる雲霧の障遮を払ふことになりたるがために、其身初
めて 陛下威烈の耀光に直射し、忽にして勲爵となり栄章となりて当世に誇るの
であるから、勲爵必ずしも智あるに非ず。栄章必ずしも才あるに非ず。予は已に
汝等に前言する如く即ち彼等は其の承恩威名の時を距る未だ数年ならざるに、
各党を廟廊の中に建てゝ功を衒ひ利を耕し、苟且偸安の外他に治国の長計あ
ることを思はぬの有様である。此故に汝等は、国家に向つて此の如き小功を争
ふことはならぬ。須らく大功を期すべし。何をか小功と云ふ。名を成すに急なる
が為めに死首を拾ふが如きを云ふのである。何をか大功と云ふ。士気を興奮し
国勢を宣揚するが如きを云ふのである。今の時は已に縉紳私功に耽溺し、黎民
窮途に流転す。士人の節義は年に消磨して徳風は将さに地を払はんとするので
ある。此時に当りて汝等は実に此頽勢を挽回し士人を興奮せしむるの重責があ
るのである。即ち此の如き国家の大功に向つて邁往せんには、毫末の私を挟む
ではならぬ。正さに明に天に代つて道を行ふの公心がなくてはならぬのである。
何をか公心と云ふ。私を去るの謂である。自から能く私を去ると同時に世の私心
団を撃破するのである。即ち閥団を討尽して完膚なからしむるのである。蓋し閥
は私心の集団である。汝等は第一に藩閥を討尽すべし。第二に党閥を討尽す
べし。第三に財閥を討尽すべし。第四に自ら己れの我閥を討尽すべし。蓋し其
討尽なるものは、其私心の集団が因縁結托を以て名利を弘充し、世を害し、民
を傷ふの事を討尽撃破するのであるから、其間決して秋毫の猜忌憎悪の心を挟
むではならぬのである。汝等果して斯心を以て四閥を討尽したならば、茲に奉公
の全心を挙げて改めて玄海の清波に洗ひ、敬んで其玲瓏無垢の公心を提げて
正さに我国の一威霊に奉事すべし。何をか一威霊と云ふ。金甌無缺の歴史によ
りて、尊厳世界に冠絶する汝等が祖宗二千年来の優恩を辱うしたる、我 大八
州統治の大権を掌握し給ふ 天皇陛下の威霊に奉事するのである。嗚呼満堂
の壮士よ。且つ其気を鎮め其耳を抉りて予が言を聞け。国民最大の幸福は平
和を以て基とす。平和の基は統一である。統一の基は威霊である。而して其威
霊の盛なるものは世界万国中敢て我 皇家の尊厳に比儔するものはないので
ある。今や我国朝野の間動もすれば朋党比周を以て維新の 大詔を無視し、衆
愚を集めて勢力と称し、徒らに 陛下統治の前面に踏反返りて権利呼ばりをな
し、私に来奔を擅にして国民平和の基礎を危ふせんとするのである。此故に汝
等は善く国運の汚隆を理解し、所有身世の欲念を抛つて国家の大事に勇往邁
進する事を忘れてはならぬのである。』
 補助漢字区点=3280 16進=4070 シフトJIS=90EE Unicode=6491】

と。之を聴く一堂の壮士等皆な慷慨踊躍感極まつて双手を挙げ一斉に声を発し
て曰く、

壮士『金玉の訓戒爽心一点の疑ひを遺さず。敢て先生の高教を奉ずべし』云々。

 篇中云ふ所の先生は実に香月恕経を指せるなり。恕経の碑東公園崇福寺玄
洋社墓地内に在り。碑文に曰く。

【碑文 略。別途掲げる。】

奈良原到 《玄洋社員の面影》より

 奈良原到、本姓は宮川氏、轍の子。安政四年、福岡唐人町山上に生る。弱冠
にして同藩士奈良原氏を嗣ぎ、其姓を冒す。夙に文武館に学び、後高場乱の塾
に入る。

 奈良原、明治八年箱田六輔、中島翔等と堅志社を興し、大に青年子弟の元気
涵養に努む。来島恒喜、月成功太郎、成井亀三郎、内海重雄、中山繁等皆社
中に在り。明治九年萩の乱に呼応せんと企て、箱田、頭山、進藤等と共に捕へ
られ獄に下る。西南の乱平ぎて後ち釈されて福岡に帰来するや、宮川、頭山、
進藤等と又開墾社を興す。彼の大久保暗殺の報到るに及び、頭山と共に南海
に板垣を訪ひ、大に議論を上下して其自由民権説に賛し、板垣愛国社再興の意
あるを聞き頭山と共に再び福岡に帰来し、大に民権伸張の為に奔走す。奈良原
又意を対外関係に用ゐ、平岡、頭山等と画策する所多し。明治十二年血痕集を
著し、後ち玄洋社史の著あり。今尚ほ玄洋社中に起臥し、進藤社長を扶け子弟
の教養に努むる尠からず。

来島恒喜 《玄洋社員の面影》より


    一 其抱負

 来島恒喜に就ては、其半面を既に記述せり。今暫く其缺を補はん。恒喜は福
岡市薬院研堀【→薬研丁が正しい。『福岡藩分限帳集成』633頁】黒田藩士三
百五十石取、来島又右衛門の次男にして安政六年十二月三十日出生。其二十
歳の頃、的野茂太夫の養嗣子となり明治二十二年八月旧姓来島に復す。郷儒
金子善作、海妻甘蔵、柴田軍次郎に学び、後ち高場乱の空華堂に学ぶ。来島
は高場乱の薫陶、越智、武部、箱田、平岡、頭山の感化によつて大義に殉じ、
大節に死するの愛国的至誠を自得したるものと謂ふべし。来島は眉目秀麗性沈
毅にして寡言友に信厚く又父母に仕へて至孝、用意周到なるも義に勇み情に激
し易く常に「思慮も思案も国家の為めにや無分別にもなる男」と口誦す。明治十
年福岡の変に際しては、彼年十八。其父来島が日常気を負ひ、天下国家に志
あるを知るを以て、当時彼の軽挙を慮り、深く訓誡を加へて粕屋郡筵内村の知
友に彼を預けたりき。

 十五年朝鮮兵乱のことあるや、平岡等同志を糾合して義勇兵に加はり、剱を
按じて難に赴かんとせしも、済物浦条約成るに及び同志多くは上京す。来島又
十六年四月、飄然として東都に遊び更に奥羽より北越に至り大橋一蔵を訪ふ。
大橋一蔵は、越後西蒲原郡弥彦村の人、家世々豪農の名あり。一蔵は愛国の
志厚く明治九年前原一誠に呼応せんとして捕へられ、遂に下獄せしが十四年特
赦によつて放免、帰郷後は心機一転して私塾『明訓黌』を興し、子弟を教養す。
大橋来島を迎へて、遇すること甚だ厚く、幾ならずして、来島帰京し、中江兆民
の『仏学塾』に入りて大に政治学を研究し、旁ら学資及び糊口の資を得るため、
同郷の知己的野半介、前田下学、重野久太夫、福永義三太、正田宇吉、伊地
知卯吉、藤木真次郎等と芝愛宕下町に一戸を借り八百屋を開きて昼は之れが
販売に従ひ、夜は馬場辰猪、河野主一郎、野村忍助等と時事を論ず。副島種臣
之を聞き、諸岡正順を遣りて一詩を送る。曰く、

   朝売菜夕売菜   売菜取代日十千
   可以肉父母遺體  五経且飽腹便々、
   中原渠曾有菜色  仁義満面果炳焉。

又来島、某の日副島に道を問ふ。副島之に答へ且つ書示して曰く、

  『堯曰、允執其中。子曰、一以貫之 一者何、即所謂中也』

と。副島、山岡鉄舟に語るに、来島の人となりを以てす。鉄舟、来島を、谷中全
生庵に招きて読書せしむ。来島大に喜び講書研鑽鉄舟に就て修禅する所あり。
来島又筑前学生の東都に在る者の為めに、金子、栗野等に謀つて寄宿舎を麹
町番町に建て自ら其の監督の任に当る。今の霊南坂筑前寄宿舎福陵閣は実に
此に芽生したるなり。

 後ち芝公園丸山弁天の附近に住す。時に朝鮮十七年変乱後に際し、金玉均
等日本に亡命す。来島雄心勃々禁じ難きものあり。的野等同志と事を挙げんと
せしも頭山の止むる所となり、次で来島、的野、竹下と共に南洋探険を企て、小
笠原島に到る。時に明治十九年四月なり。当時に在りては南洋探険の事もとよ
り容易の事に非らず。彼等が小笠原に在る時、偶々金玉均政府より護送されて
此地に来る。来島、的野朝鮮問題につき金玉均と深く相約する所あり。之に於
て、南洋探険の志を飜すに至れり。二十年彼が内地に帰来せし時は、恰も井上
の改正条約案にて天下甚だ喧騒を極めたるの時なりき。来島が井上を狙ふて
果さざりしは已に之を説けり。彼が大隈を撃たんとして葛生に爆弾の入手奔走を
嘱せし当時葛生に語りて曰く、

『予は此の条約問題なかりせば、一意金玉均、朴泳孝を助けて、朝鮮改革の為
めに全力を尽し、彼等の素志を貫かせんと思居りしも、今我国に此大事あり。須
臾も之を等閑に附すべからずして、遂に金、朴との約に背かんとするを憾む。抑
も我が国が東方の盟主として覇を東半球に樹つるに非らざれば、為めに東亜諸
国の独立難し。日本が之を為さんには先づ、朝鮮問題を日本人の手によつて解
決せざる可からず』

 と。論じ意気当る可からざるものありきと云ふ。彼が胸中深く画きし抱負、以て
想思す可し。彼れ知友と共に撮影せし写真の後に題する所又彼の性格の一斑
を推知するに足るものあり。今之を茲に録す。

    撮影後                 来島恒喜
前面に踞する者は的野薫氏なり。同左に踞する者は前田河嶽氏なり。其後に立
つて髯鬚蝟毛の如きものは村林氏なり。同左辺に泰然兀玄動かざること山の如
きものは、是れ則北筑の男子にて、其名未だ世人に多く知られずと雖も、隠然
天下の重を以て任ずるの名士なり。士、名は恒喜、性は的野、胸に孫呉の智を
蔵し、常に孟徳仲達の人の孤児寡婦を欺き天下を奪の拙なるを嗤ふ。嗚呼、是
れ世に所謂臥龍と謂ふべく、後世蓋棺の後炯然光輝を発するものある可し。


    二 来島の墳墓

 大隈は狙撃されたり。「大臣兇漢に刺さる」の飛報は全市民の熱血を湧かしめ
たり。全国志士の鼓動に波打たしめたり。世界の外交官をも驚畏せしめたり。

 かくて外務省正門前に血に染りて倒れたる来島の死骸は、やがて警吏により
て検査を行はれ、其懐中ぽけつとより一葉の写真=来島自身の=発見され其撮
影所丸木写真館によつて来島の身許は直ちに判明せり。されば一方犯人連累
者検挙の手配りを為すと共に屍體を警視庁に搬入し、更に麹町区役所に送りて
十九日午前三時青山共同墓地に埋葬す。廿一日、岡保三郎、村山辰五郎等自
由党の援助のもとに来島の遺骸下渡を警視庁に乞ひ、其許さるゝや、縄田清太
郎、木原勇三郎、大原義剛等と共に、諸般の準備を整へ、青山南町二丁目龍
泉寺に於て弔祭を行ひ、狼谷にて火葬し、二十二日遺髪を谷中天王寺に葬る。
仏名を、

『浄心院節誉恒喜居士』と諡す。又遺骨は之を福岡に送り、十一月一日東公園
崇福寺境内玄洋社墓地に葬る。

 頭山、平岡、進藤、香月等同志無慮五千余名葬儀に加はり、葬列一里に亘り
稀有の盛儀なりき。

 葬儀当日崇福寺月松和尚の偈に曰く、

   生滅元来都寂光  脚痕不動露堂々
   玄洋一路漏春否  十円挿花発暗香

 又末永純一郎長詩を賦して以て来島の霊を弔す。

      爆裂断行
 風蕭々兮【クサカンムリ+韲】紛紛。 白虹貫日暗妖氛。 有客擲丸大臣

 補助漢字区点=5822 16進=5A36 シフトJIS=9DB4 Unicode=8640】
 外務省前血汾【サンズイ+云】。 外務省隣桜田門。 余風尚懐当時迹。
 補助漢字 なし】
 当時老相硬而姦。 酷似秦檜及安石。 外交由来尊慎重
 智巧擅弄縦横策。 既無公明正大略。 逐臭朋党悉巾幗。
 弥縫苟安非長計。 邦家危殆日日迫。 社稷有臣誰儔侶。
 水府十有七人客。 春風桜田門外路。 落下和雪血痕赤。
 閲来三十年前事。 既往誰復説是非。 其迹同兮其志一。
 聞之焉得不歔欷。 客姓来島名恒喜。 隆準秀眉音吐爽。
 少小生在武士家。 温良仕親極孝養。 功名有志未人。
 萍蹤南遊又東上。 機也未到徒辛苦。 且帰郷里伍郷党
 郷党狂顛何所謀。 飄然君去欲何往。 只識外交如彼急。
 廟議人心両揺蕩。 忽有電激伝凶報。 擲爆裂弾大臣
 大臣未殊客先死。 客是勤王第一人。 此報伝播市出虎。
 紛紛何事囂巷議。 倉皇未委曲。 羅識余亦羅繋累
 君不見乎咸陽殿上寒剣鋩。 博浪沙中冷鉄槌
 一死所報即一耳。 使下二他懦夫驚且悸
 又不見乎匹夫殺身国是定。 爆裂弾裂動天地
 非常策施非常時。 只応大義。 遺骨好向故山葬。
 玄洋之南竈山西。 来弔聊欲墳墓。 十里松林暮色迷。
* 返り点には不備があるが、原文通りにしている。

 崇福寺は九州に於ける禅宗の巨刹、黒田氏宗廟の在る処、曾て亀井南冥の
弟曇栄が住持たりし処、巨刹の幽雅、永く英霊の眠に適ひ、亭々たる老松玄海
の風翠色に芳ばし。


    三 犠牲的愛国心

 此年八月来島博多湾頭より船出せんとするや、的野を顧み幾干かの金銭を嚢
中に採り之を其父母に捧げんことを托するや、的野曰く。

 『兄は今旅中の人たらんとす。金なかる可からず、宜しく之を収めよ。我兄に代
つて兄の父母に贈る所あらん』と。来島聴かず。『父母在すに吾遠く遊ばんとす。
斯の如き少許の金、尤より何の用をなすものに非ず。されど吾父母に背の不
孝、何物を以てしても之に償ひ難し。只以て自ら慰むるのみ』

 と。的野、来島の意中を推し其孝心に動かされ、強ひて之を拒まず、孝子の志
を空しくせざらんことを思ひ、即ち来島の出す所の半に加ふるに的野の所持する
幾干銭を添へ之を其父母に送らん事を諭す。来島大に喜び的野の厚誼を謝
す。此の孝心あり。其愛国的行動為に一層の光彩を放つを見る可し。

 大隈の性傲放不羈なりと雖も、由来情に厚し。来島の葬儀あるを聞き、国士に
対するの礼なりとして部下を遣りて之に会葬せしめ、以後一週忌に至る間命日
毎に人を派して墓前に香華を供へしむ。

 明治三十九年平岡浩太郎の追弔会を東京築地本願寺に挙行するや、大隈来
り会し弔壇に上りて条約改正当時を追想し語りて曰く、

 『来島の挙は犠牲的愛国の発現なり』として之を賞揚し、又遭難当時の状を他
に語りて曰く、

 『時は明治廿二年十月十八日、午後五時頃であつた。閣議に列して官邸へ帰
らうと馬車を駆つて一二間、外務省の門内に入つた処をやられたのである。何
様暮早い秋の事とて、薄ら寒い風に、吹き寄せらるゝ暮気が、宇宙を包んで、人
顔も微白く、街は朦朧と暮れかゝつてゐた。

 暮気を衝く我輩の馬車が、轣轆として門内の石甃を徐行しつゝあると、突如とし
て、風體怪しき一人の書生が駈けて来たと見ると、手に蝙蝠傘を提げて居る。是
ぞ誰あらう、刺客来島恒喜である。彼は爛々たる目を輝して、馬車の硝子越に
車内を窺ふや否や、傘の内に隠し持てる爆裂弾をば、発矢と投げたのである。
天地に轟く大音響。四辺を包む濛々たる硝煙。車軸は天に舞ひ、車體は微塵に
飛んで、我輩は【テヘン+堂】と地響打つて倒れた。倒れて人事不省となつた。
 補助漢字区点=3263 16進=405F シフトJIS=90DD Unicode=645A】

 彼来島は我輩の倒るゝのを見て、目的を達したのと思つたのであらう。懐中深
く秘めて居た九寸五分の短刀を抜くより早く莞爾と打笑み、咽喉掻切つて自刃し
た。処で我輩は只脚一本を傷けられた丈けで、未だに恁うして生きて生【→居が
正しい】る。元来人を殺す奴は臆病者である。人を殺して自己も死ぬといふ様な
勇者は少い。彼来島は我輩の倒るゝのを見て、目的を達したと早合点し、止めも
刺さずに自刃したのは、多少急燥ふためいた所為もあらうが、兎に角現場で生
命を捨てたのは、日本男児の覚悟として、実に天晴な最後である。

 目的を達して現場で死ぬ……何と武士として美はしい覚悟では無いか。来島
の最後は、彼赤穂義士の最後よりも秀れて居る。豪い。慥に豪い。赤穂義士が
不倶戴天の仇たる、吉良の首級を挙ぐると直に、何故吉良邸で割腹しなかつた
か。首を提げて泉岳寺へ引揚げたのは、武士の原則からいふと間違つた話だ。
即ち其動機に於ては、赤穂義士と来島とは、天地霄壌の差違はあれ、其結果に
於ては、来島の方が天晴である。

 大久保を殪した島田一郎の如き非凡の豪傑であつたさうだが、現場で腹を掻
き切らないで、縲絏の恥辱を受け、刑場の露と消えたのは、真の武士道に背馳
した見苦しい最後である。特に来島といふ奴は、目先の見えた怜悧な奴であつ
た。我輩を殺【→傷ヵ】つけるに、外務省の門内の狭い処を選んだ如き、馬鹿で
は到底這麼考は出ない。斯く狭い道を通る時には、勢ひ馬車を徐行させねばな
らぬ。此の徐行の場所に目をつけた彼は却々偉い。我輩は彼の為に片脚を奪
はれたが、併し彼は実に心持の可い面白い奴と思つて居る。』云々

 大正三年秋大隈九州に下り、福岡に至るや、又来島の墓に人を遣りて、之を
展せしめたり。

 来島生前未だ娶らず、声色を近づけず、興到れば中島橋畔の月に嘯きて朗々
高吟し、歓極れば玄海の波に対して悲韻を走す。清妙巧調、余韻嫋々たり。福
博の地今尚ほ『来島調』の吟咏法をなすと云ふ。

 香月恕経、来島の勝海舟に贈る書翰の後に題して曰く、

   題来島恒喜贈海舟書柬後。香月恕経
 是故来島恒喜氏之手稿也。 【女+尾】々数千言。 渾自沛腑中湧出
来。 氏為人深【サンズイ+ワカンムリ+几**】寡黙事父母孝謹与人不苟合
一決于心、則敢行不毀誉成敗遂無其心。 其孤
憤慷慨慨出於赤誠。 如是書。 可覧矣。 抑現時国際条約之不
十我天下所斉概也。 当局屡欲正之。而毎不其要
 補助漢字区点=2550 16進=3952 シフトJIS=8D71 Unicode=5A13】
** 補助漢字区点=3876 16進=466C シフトJIS=93EA Unicode=6C89】

 明治二十二年。 大隈伯為外務大臣。 亦従事於斯。 而其所謂改正
者大反国人之所一レ望於是天下之志士翕然起非之氏為之致命。 実是年
十月十八日也大隈伯尋罷而其事遂中止。 斯書距其致命之日纔一年也。 
書中極言井上伯入内閣之不可。 蓋以其嘗有上レ予条約改正也。
 嗚呼条約改正者氏之命所由以始終也。 後之観斯書者。 庶幾有
省而悚然所自警焉。 氏有故初冒的野氏後復来島。 是復姓以前之書
也。 故署曰的野某。 井原君雅与氏善。 一日訪之。 氏出一稿。 
君浄書。 君乞其原稿。而帰。 無幾有霞ヶ岡之変氏自殺。 君遂
装飾而蔵之云。頃者介友人某子題辞。 予対之愴然者久之。
  明治二十四年十月二十一日 書於春吉寓居
                   晦処逸士 香月恕経
* 返り点には不備があるが、原文通りにしている。

 又来島の追悼会に当り櫻井熊太郎之を弔する一詩あり。録して茲に来島の伝
に筆を措く。

   来島恒喜追悼会           櫻井熊太郎
    無缺金甌忽欲摧。 舎身取義氣豪哉。
    誰知赫赫邦威盛。 偏自霞関一撃来。


    四 来島の剣と大隈の脚

 明治四十一年の頃、東京大丸呉服店、日本服装展覧会を開く。中に大隈が霞
ヶ関遭難当時着用せる洋服を陳列す。跨服ずぼんの膝滅茶々々に破れ、而も
処々に血痕斑々、転た当時の惨状を忍ばしむるものあり。時に大隈招かれて席
に在り。編者亦当時読売新聞記者として招かれて会場を巡覧す。大隈が其遭難
当時の服の傍に歩を進むを見、之に近き問ふて曰く。今此に之の服を見る。閣
下の感懐果して如何と。大隈曰く左様……彼の時は……と答へて黙想無言。少
時ありて哄笑一番し、他を語らずして他室に歩を移す。彼が隻脚を失ひたる時
は、乃ち此の跨服を穿ちてありたるなりき。彼は遂に難に遭ふて隻脚不具の人
となり畢んぬ。其隻脚今何処にか在る。『東京夕刊新報』其所在に就て記するあ
り。

    大隈首相の隻脚は何処にあるか。
 大隈首相がチンバである事は改めて記す迄もない事で、立派な人杖を突いて
不自由な歩行を運んでゐるが、扨て切断された隻脚が何処にあるかは知つてゐ
る人は些なからう。更に又何故に隻脚を失つたのかと云ふ事すら知らぬ人が些
くあるまい。本問題は隻脚探索の前に、掻い摘んで隻脚をもがれた顛末を記し
て置かう。

 大隈侯が福岡玄洋社の刺客来島恒喜に襲はれたのは、明治廿二年十月十八
日の午後であつた。条約改正問題に関し宮中廉前に於て、山県はじめ反対の
諸公と論議退出の途中、外務省傍の外相官邸に入らうとする門前で、来島に爆
弾を叩きつけられて片脚を滅茶々々にされて了つたのである。来島はその場を
去らず皇城を拝して自刃した。その原因は大隈外相が主張した条約改正案なる
ものが非国民思想の反映であるとの非難から起つた事で、大隈侯は実際の隻
脚を失ふと同時に、爾来廟堂からも失脚して在野党の頭梁として数十年を経、
大正に及んだのである。扨て爆裂弾を叩きつけられた時大隈侯は官邸の者に
扶けられて階下の広い一室に担ぎ込まれて中央の安楽椅子の上に横臥した。
此大変を聞つけて内閣諸公は勿論矢野文雄、北畠治房男、医師としてベルツ、
池田謙斎、伊藤方義その他の名手が息を凝して周囲に居並んで居る処へ佐藤
博士(進、男爵)が駆つけて治療に取りかゝつた。

 大隈首相が隻脚を切断せる光景! それは次の如くであつた。先づ疵口を検
べ様としたが、爆弾に焼かれた洋服のズボンが流血で固く、くつついてゐるので
「奥さん鋏を」と云ふと綾子夫人は早速鋏を持つて来て佐藤博士に渡した。博士
はヂヤキヂヤキと気味悪い音を立てながらズボンを切りとつて診察したが「速刻
右脚を切断しなければ三時間後には危篤に陥いります」との事で夫人が侯の耳
朶へ囁くと「ウム佐藤さんにやつて貰はう」と承知して、弥々血腥い荒療治が始ま
つた。

 赤十字、慈恵両病院から取寄せた外科器械を消毒して居るうちに、英国公使
と共に来合せた、ベルツ博士は魔睡薬の用意をする。

「手術台」はと云ふた処で急の間には合はない。それを取寄せる余裕はない。
「ハテ困つたな」と当惑して居ると「盆栽台があるが」と云ふものがあつて「それが
良からう」と、早速盆栽台が運び込まれた。

 盆栽台と云ふと如何にも小さく聞えるが、外務大臣の官邸に備へ付けてあるの
だから非常に大きなもので、二箇繋ぎ合せると六尺豊な大隈侯の巨躯が楽々と
仰向けに置かれた。魔睡薬を浸した白布が鼻辺におかれると高木医師はじめ
医界の大家は侯の頭や體を抑へた。

 意識が五體を離脱すると、佐藤博士は大きな外科刀を執つて大腿部の三分の
一の箇所(上の三分の二を残し)から輪切りにして生肉を残して、瀧の如く流れ
る血潮に鋸を加へてゴリゴリと骨を截ち切つて了つた。その生々しく傷いた隻脚
は、北畠治房男が油紙に包んで室外に持ち去つた。暫くは繃帯の雪が展べられ
患部の手当を終るまで費した時間は五十二分間。大隈侯を安楽椅子に移してホ
ツと安堵の顔を見合せて一段落がついた。……其時使用した血染の盆栽台は
今も尚外務大臣官邸に保存してある筈である。剛気な隈侯は、魔睡が醒てから
も頗る元気で見舞に来た伊藤公に向つて「文明の利器は真にエライよ。スーツと
黒いものがとんで来たと思つたらドンとやられた」などと談笑してゐたが、或日佐
藤博士が往診すると枕頭に白髪の北畠男が居合せた。そこで博士が「あなたは
素人であり乍ら、先日切断した隻脚を始末なさいましたが、宜く気味が悪くありま
せんでしたネ」と訊ねると、治房男は白髯を撫しながら「俺は戦場で血の雨を浴
びた事があるので足の一本や二本は何でもない」と哄笑した。扨て大隈侯の足
の行衛は奈何に。

 大隈侯は余り多く酒を飲まぬ。処が侯の分身たる隻脚が馬鹿馬鹿しい大酒を
呑むなぞは一寸珍だ。扨て外務大臣官邸で切断された隻脚が什麼なつたかと
云ふと、地へ埋める訳にも行かず、と云ふて別に何とも方法がない。型の如く消
毒した大きな甕ほどのガラスの瓶にアルコール漬として、お邸へ「閣下のお脚は
奈何取計らひませうか」と訊ねると「邸へ届けて下さい」と、命のまにまに早稲田
邸へ担ぎ込んだ。

 侯の患部が癒つて義足までスツカリ出来る頃には、切断された隻脚はアルコ
ールに浸つて真白になつてしまつたが、この隻脚先生なかなかの贅沢屋で手数
のかゝる事夥しい。月々アルコールを取り替へたり、それをポンプで入れ替へた
りするにも素人にはうまくゆかず、止むなく月給幾干を出して「脚の御守り役」を
雇ひ入れたが、その脚の呑むアルコール代が一ヶ月約六七十円一ヶ年八九百
円に上るので流石に大名生活の会計さんも眼を丸くして「この分で百年も二百年
も飲み続けられては遣り切れない」と零し抜いた。

 それか、あらぬか大隈家から佐藤博士に話しがあつて、飲だくれの隻脚【→原
文「脚」脱す】は赤十字社病院へ参考品として引取られ、爾来幾千日官費のアル
コールに酔ひつづけて居る訳である。その足の保管してある部屋は、院内で『開
けず』の室と呼ばれる薄暗い陰気な所で、人間の頭とか、首とか云ふ様な無気
味な品ばかり蔵つてある。侯の脚を入れてある大きな瓶は更に木製の箱に収
め、其蓋の上に「大隈重信卿之脚」と認めてあるが、嘗て独逸の某皇族殿下が
病院へならせられた時、此の室に入つて隈侯隻脚の由来を聞くと顔を反けて室
外に出られてからは、一切何人にも拝見を許さぬ事に極めてあるさうな。(東京
夕刊所載)

 霞ヶ関に来島が大隈を狙撃せし当時着用したる朝礼服モーニングコートと洋傘と
其自刃に用ひし左文字の短剱とは、今収めて福岡市外東公園崇福寺に在り。
其短剱光芒失せずと雖も、鮮血膏ちぬる所既に錆あり。又短剱の切先に少しく刃
はこぼれあり。之れ其自刃に当り、切先其着する、襟飾ねくたいの金具に当りし
為めにして、金具は見事半截され居れり。其朝礼服モーニングコートは胸襟の当
り、一抹の血痕尚ほ腥し。携ふ所の洋傘の如き、絹張にして、当時に在りては上
流紳士のみ之を携へ得たる位の品なり。洋服傘等皆平岡浩太郎のものなりとの
説或は当らんか。然れども的野半介氏の説く所は、新調なりと言ふ。今直に孰
れを是とすべきやは明ならず。又当時来島のポケツトの中に廿銭銀貨一箇あ
り。又今尚ほ之を崇福寺に蔵す。

 編者之を思ふに、大隈家に蔵する血染の衣服、赤十字病院に蔵する其の隻
脚崇福寺に蔵する来島の短剱及血染の衣服什器を歴史参考館例へば博物館
又は帝国大学史学科等に陳列せば、明治史の実物史料として、益する所甚だ
大なるべし。来島の一撃遂に大隈を斃すに至らざりしと雖も、滄海壮士を得て秦
を椎す博浪沙、韓に報じて成らずと雖も天地皆震動するものあり。来島の挙あ
つて屈辱の条約改正遂に中止さる。夫れ来島以て瞑す可きなり。

勇悍仁平 《玄洋社員の面影》より

頭山満 談  

 博徒の中には慥かに死ぬる奴がある。仲間の約束もなかなか面白い風儀が
ある。利に依て殺すも義に依て殺すも親分次第ぢや。只だ世の澆季と共に其親
分がだんだん下卑て来たやうぢや。己の国の大野仁平は立派な男ぢや。元は博
徒で玄洋社と喧嘩して其後却て同志になつたが、平岡の事業などでは大野の力
が与て多きに居る。確かに筆にすべき値のある男ぢや。勇悍仁平ウム其男の事
ぢや。名に負ふ気を負ふ血気の連中が維新の大革命に際したのだからヂツとし
ては居られぬ。勇悍隊なるものを組織して戦に出かけたのが、勇悍仁平の名の
起りぢや。其後野村翔と云ふ男が頭領となつて其一団を率ゐたが何でも強よさ
うな名がよからうと云ふので己が金剛党と命名した事があつた。玄洋社との喧嘩
か、ウム二三度もやつたらう。何分意気勢力共に福岡の天地を圧倒して居る処
に、玄洋社なる者が跡から起つたのだ。彼等の眼中には高が知れた木葉士族
の寄合ひだ。何を為し得るもの乎と思つて居るから、屡々挑戦に来たものだ。玄
洋社の若者も事あれかしと手ぐすね引いて待つて居る時だから堪まらない。或
年の紀元節博多のドンタクに金剛党の連中が玄洋社の前に来て無礼を働いた
が素で、大喧嘩を始めた末、社の者が散々彼等を擲き伏せた。爾来両者は
益々反目を重ねて居つたが、其後明治十六七年頃であつた。柴四朗が九州に
来た事がある。玄洋社は彼の為めに一夜の盛宴を水茶屋の常磐館に開いて居
ると、隣の一室に勇悍仁平の一連が車座で飲で居る。皿を叩く火鉢を叩く妨碍
の音が噪々しくて堪まらない。其頃平岡は早く仁平等と消息を通じて居つたか
ら、静かにさせろと言ふてやつたをキツカケに、仁平等の一隊は「お酌をしまツし
やう」と言ひ乍ら、此方の座敷に躍込んで来た。無論喧嘩仕掛であるから、亡状
無礼を極める。若手の血は煮えかへる。今しも来島恒喜が有合ふ燭台を持つが
早いか、ウンと一声仁平を擲つた。ト同時に常磐館の大酒宴場は鮮血淋漓たる
一大修羅場と化し去つた。今でも常磐館のおつね婆さんが涙ながらに来島と勇
悍仁平との喧嘩の一節を語るのは此時の事ぢや。其後己の宅へも襲撃した事
があるが、根が意気と力の較べ合ひで理屈も何にもない淡泊の喧嘩ぢや。互の
力量を知り合つて見れば、ソコは所謂侠客の男らしさ、一タビ和睦して以来玄洋
社と彼等の間は肝胆相照らす仲となつたのぢや。仁平の外には喧嘩勘兵衛、堀
和六など云ふ味な奴も居つたが、今の若松の井上留吉、博多の古賀壮兵衛な
ども皆な当時仁平の股肱ぢや。喧嘩勘兵衛が選挙競争に加勢して敵の大将永
江純一の足を斬つた為め捕縛された事がある。時の判事は勘兵衛の罪を宥る
してやらうと思つて、ピストルを打つたから、貴様が斬つたのだらうと問ふと「イヤ
打つたが早いか斬つたが早いか分らぬ」と答へたので、とうとう有罪になつた事
がある。理窟は知らぬが万事が此意気ぢやから面白いテ。
(日本及日本人)
* 『日本及日本人』から『玄洋社社史』に転載されたもの。
  『日本及日本人』549号(「四十四年元旦号」、明治44年1月1日発行)の特集「現代諸家の侠
的人物観」に寄せた1本。

内田良五郎と大野卯太郎 《剣光余談》より
* 『西南記伝』の「内田良五郎伝」に重なる点が多い。

 良五郎、黒田氏に仕へ足軽たり。夙に尊王の志あり。平野国臣の門に出入
し、其談論を聴くを楽とし、国事に奔走する所あり。而して国臣歿後、藩の忌む
所と為り、国臣の二弟平山能忍、平野三郎、及、戸田六郎、日高小藤太、同四
郎等と共に幽囚に処せらる。戊辰の役、東北の野に転戦して功あり。禄四人扶
持十二石に加増し、士籍に編入せられ、維新の初め、藩政改革に際し、軍事係
と為り、明治四年、陸軍少属に任ぜられ、七年佐賀の役、福岡鎮撫隊に加は
り、筑肥の境に出征す。十年の役、越智彦四郎、武部小四郎等の薩軍に応ぜん
とするや彦四郎の嘱を受け、急行して兼松に赴き、田原陥落の報を齎らして還
り、大野卯太郎と共に、其輜重係と為り、斡旋する所あり。二十年以来、弟浩太
郎を輔佐して、赤池、豊国等の炭坑経営に従ひ、拮据多年、其功最も多きに居
る。

 良五郎、幼名は幸太郎。後良之助と称し、更に良五郎と改む。平岡仁三郎の
第一子。天保八年四月九日、福岡地行五番町に生る。十三歳、出でゝ内田武三
の嗣となる。

 明治二年良五郎、藩の軍制改革を主張し、之を建議せり。当時、福岡藩の兵
制は、十五歳以上六十歳以下を採用し、銃手二十人を一組とし、之に銃手頭一
人を置き、四組八十人を一小隊とし、之に小隊長一人を置くの制なりしかば、老
幼混同、節制其宜しきを得ず、統御上頗る困難を感じたりき。而して良五郎建議
の要点は、

(一)兵士の年令は、十六歳以上四十歳以下とし、之を常備兵と為し、老者、及
び幼者は藩内に在りて其守備に任ぜしむること。(二)組織は一箇小隊に、小隊
長、半隊長、分隊長、士長【→十長が正しいヵ。『西南記伝』「内田良五郎伝」
照】、伍長等を置き、之が指揮に任ずること。(三)糧餉は、一箇小隊毎に、一箇
糧餉部隊を置き、其供給を敏活ならしむること是なり。是れ蓋し、奥羽戦役の実
戦上より経験したる考案にして、殊に糧餉に関しては、其考案する所の畳釜を
献じて之が参考に供し、以て其実行を逼りたり。当路者其議を容れ、乃ち良五
郎を以て軍事掛書記に任じ、漸次其建議の主旨を行はしめんとせしが、未だ幾
ならず、廃藩置県に際し、終に中止し、良五郎は、更に陸軍少属に任じ、武器
(旧藩所有の武器)保管を命ぜられ、五年【→四年が正しい】、有栖川宮熾仁親
王の福岡県知事として着任せらるゝに当り、随行員たる陸軍少将井田譲に対
し、其保管に係る武器一切の引継を了し、而して後其職を辞【→原文「辞」脱す】
し是より復仕へず。

 明治六年、百姓一揆筑前に蜂起するあり。良五郎、中村用六等と共に、県庁
の許可を得、義勇兵を募り、本営を勝立寺に置き、之が鎮撫に従事す。時に良
五郎、鎮撫の為め福岡市外二里余なる長者原に赴く。会ま、旧藩の兵一隊、一
揆の包囲する所と為るを見て、極力一揆を説諭し之を退かしむ。良五郎、帰来
又一揆の博多方面に来襲せるを聞き、浅香茂徳、立花権一郎、立花半蔵等と
共に、黒田清に従ひ崇福寺前に至り、之に説諭せしも、暴民熱狂、制すべから
ず。良五郎等暫く寺内に休憇して、其動静を窺ひつゝありしに、暴民躊躇して進
まざるの状あるを見、将に福岡に帰らんとせしに、小野隆助等兵を率ゐて来る
に会す。隆助曰く「博多の一揆を鎮定せんと欲して来る」と。良五郎曰く「博多方
面は吾人既に之を処分せり。足下宜しく福岡方面に向ひ、禍乱を未然に制すべ
し」と。隆助乃ち還て福岡方面に至る。一揆既に福岡市中に入り、県庁を襲ひ、
之に放火せんとするに至る。用六等其兵を率ゐて県庁を護り、漸く之を鎮制する
ことを得たるも、後用六を始めとし、吉田主馬、時枝何七郎等切腹して其失態を
謝するに至れり。

 十年の役、越智彦四郎、武部小四郎等の兵を挙て薩軍に応ぜんとするや、同
志の士、常に良五郎の家に会して軍議を凝らしたり。一日、越智、武部、久光、
大畠、久世、加藤、平岡等相会して福岡城襲撃の策を議す。時に良五郎曰く「福
岡城を襲撃するは宜しく四面より一斉に突入するを可とす。一は上橋門口より、
一は下橋門口より、一は追廻橋門口より攻撃して、以て城兵を牽制し、而して
後、潜に杉土平【→杉土手が正しい】裏より大堀を渉り、潮見櫓に上り、官軍主
計官の庁舎を襲はば、城兵内外の守を失し、戦はずして潰ゆべく、又主計官庁
舎貯蓄の官軍々用金を獲て我用に供するを得べし」と。同志皆之を可なりとす。
然れども兵寡少にして、終に行はれざりき。福岡党の軍敗るゝ後ち、良五郎同志
と共に伊崎浦に佐藤力、石井惣三郎等の十数名と相会し、再挙を議す。皆警吏
良五郎の宅を包囲して之を捕へんとす。良五郎家に在らざるを見て警吏乃ち良
五郎の実弟平岡徳次郎、白石留吉を捕縛して去る。良五郎之れを聞き、同志に
謂て曰く「今や物色甚だ厳なり。此際軽挙せば、徒に幽囚の辱を受けん。吾人同
志密に結び、表面其家業に勉励せば以て警吏の注視を避け得可く、以て時機
の到来を待つべし」と。残島其他に身を潜むること数年、遂に縛を免ると共に、
又時勢の推移は彼等再挙の事をも水泡に帰せしめたり。良五郎夙に武芸を修
め、又其蘊奥を究めざるは無し。剣術は小野派一刀流幾岡平太郎の門に入り、
其免許を得、中西忠太の皆伝を許され、柔術は扱心流を藩の師範石川雄兵衛
に、捧術【→棒術が正しい。杖術のこと】を天真正伝神道夢想流、及捕手一角流
を平野吉右衛門に、砲術を津田武右衛門に学び、鎗術と共に、悉く其師の免許
を受く。晩年に至り、自ら洋杖術を創案す。其術最も変化に富み洋杖を以て対
敵の用に供するに極めて効能あり。蓋し其術は、棒術より会得したるものにし
て、棒術と共に、東京に於て、之を剣客中山資信に皆伝せり。

 良五郎、資性爽洒事物に拘まず。身長五尺六寸余、骨格雄偉、膂力群に超
へ、精力絶倫、少壮毎朝暁起、必ず四斗の米を搗き終り、而して後、武芸修錬
に出づるを常とせり。良五郎又常に角觝を嗜み、年五十を過ぐるも、尚之を試
む。其弟浩太郎を輔佐して炭坑経営に従ふや、時に或は坑内の工夫を拉して、
角觝の戯をなす。数百の工夫中、一人の能く之に敵するものなかりしと云ふ。

 良五郎長者の風あり。越智、武部等又之を慕ふあり。今尚ほ矍鑠として在り。
天佑侠に其名を知られ露、満、韓等に我日東国の国技柔道の誇りを示し、或は
満蒙の地を探検して、日露戦前大に国事に尽す所あり。又黒龍会を組織して、
西南記伝を著し、或は満蒙問題の研究に従ひ居れる内田良平は、実に彼の第
二子なり。良五郎にして、此児ありと謂ふ可く、既に良平あり。良五郎正に安ん
ず可きなり。

 内田と共に福岡党の輜重係たりし大野夘太郎は、天保九年生にして黒田氏に
仕へ、銃手と為り或は京都守衛に任ぜられ、或は東征の軍に従ふて功あり。卯
太郎武を好み、撃剣、柔術、十手、棒等の技に長じ、又銃砲の事に精し。十年
福岡党の敗るゝや、捕へられて三年の刑に処せられたり。

宮川太一郎と松浦愚 《剣光余談》より

 宮川太一郎、名は鍛。嘉永元年七月二十四日、福岡に生る。世々黒田氏に仕
へ、夙に文武館に入り、専ら武技を講修し、一刀流の剣法、自得天心流の柔術
の奥技を究む。併心隊を組織し青年派の牛耳を執り、明治三年事を以て就義隊
の箱田等と争ひ、屏居を命ぜられ、後ち高場乱の門に入る。

 佐賀の変、福岡臨時鎮撫隊の組織せらるゝや、太一郎、六輔と共に之に加は
る。八年同志と共に矯志社を起し、九年十二月、萩の事変に坐して獄に下り、釈
されて後ち開墾社を博多向浜に開き、子弟の教養に努む。玄洋社の起る、其源
を尋ぬれば宮川の力与つて多しと云ふ可し。宮川後ち政治と意を断ち閑に就く。

 宮川身長五尺七寸。武道に達し、骨格甚だ頑強、剛勇無比と称せらる。曾て
其福岡の獄に投ぜらるゝや、獄中所謂牢頭なるものあり。傲然同囚を慴伏せし
む。一日宮川に便所の掃除を命ず。宮川大喝之を叱して曰く「余は天下の志士
なり。汝等如きに指揮を受くるものに非ず」と。牢頭大に憤り、宮川を撲たんと
す。宮川即ち身を翻し之を押へて曰く「汝無礼の奴、以後の懲しめ、宜しく牢内よ
り放逐すべし」と。其頭を攫み、牢格子の間より之を捩り出さんとす。牢頭悲鳴を
挙げ哀を乞ふ切なり。宮川之を許し、即日推されて牢頭と為りし事ありと云ふ。

 宮川今は専ら実業に志すと雖も、尚ほ玄洋社の為に尽すところ尠からず。

 松浦愚は嘉永六年那珂郡高宮村に生る。世々、黒田氏の藩士たり。就義隊に
入り、尋で箱田大輔【→六輔が正しい】等と共に高場乱の塾に学ぶ。明治八年
同志と矯志社を組織し、九年萩の乱起るや宮川等と共に竊に企画する所あり。
後ち縛に就き、翌年病を以て保釈を許され、六月二十五日歿す。年二十六。

 松浦姓【→性ヵ】、不覊卓落、侠気あり。信国鍛なる所の三尺三寸の朱鞘の太
刀を腰に横へ常に「以て天下を横行するに足る」と傲語せりと云ふ。




 大日本人名辞書

アヒオヒ ヨシタラウ 相生由太郎

 実業家。福岡県人相生久治の長男。慶応三年四月二十八日生る。明治【→原文「明治」脱す】十七年正木昌陽の漢学塾に入り、次いで福岡県立修猷館中学を卒業。旧黒田藩主より貸費生として明治二十九年東京高等商業学校を卒業、直ちに日本郵船に入社す。薄給の為生計立たず幾許もなく退き、兵庫県立相原【→柏原が正しい】尋常中学校、名古屋市立商業学校等に教鞭を執り、三十一年三井鉱山に入社す。三十七年日露開戦間際三井物産に転じ大に手腕を振ふ。南満洲鉄道株式会社に入り、大連埠頭事務所長を勤め、大連埠頭の一切を満鉄直管とするに成功。同四十二年満鉄を辞し福昌公司を創立し、積卸荷役請負の事業に従ひしも、後経営難より満鉄に移管するに至る。大正二年大連商工会議所議員となり、その他大連油脂工業、満洲工業、大連機械製作所、東亜土木企業等大小十数会社の重役を勤め、大連財界に活躍す。昭和五年一月三日歿。年六十四。

ヲノ リュウスケ 小野隆助

 勤王家、筑前福岡藩士。天保十四年四月太宰府に生る。少なくして父氏伸及び叔父直木【→真木が正しい】保臣の薫陶を受け、和漢の学を修め、夙に尊王の大義を弁知す。文久年間父と共に馬関に渡り、また三田尻に至つて三条実美に謁し国事に尽す所あり。慶応元年九月父氏伸、繋圄三年の久しきに亘り、明治維新後赦免せらるるや、隆助藩命を帯びて東上し、江戸、駿府、京都の間に往復し、尋いで奥羽征討軍の参謀となりて、明治元年四月舟橋、五月上野、七月浪江、八月駒峰、九月笹野、玉江附近の戦闘に功あり。同年十月征討総督を護衛して仙台城に入る。此の間また使命を奉じ江戸及び中村、仙台の間を往復し、翌二年正月隊兵を率ゐて福岡に凱旋す。当時福岡藩が新政府の不首尾を挽回したるは、主として奥羽征討の結果にして、隆助の功また多きに居れり。同年七月藩庁其の功を賞し新知百石を下賜し、特に新たに馬廻役に列す。爾後隆助藩の兵制改革に参画し、其の大隊長となり、尋いで福岡藩大属また太宰府神社祠官と為り、六年県下に暴民蜂起せし際には、防禦大隊長に挙げられ、其の機宜の措置に依つて福岡市街の火難を免がれしめたり。佐賀の乱鎮撫隊大隊長心得としてまた功あり。共に賞賜を被る。後再び福岡県官、那珂、御笠、席田及び粕屋、宗像等の郡長、筑紫中学校長等に歴任し、郡治及び教育上に功あり。其の間民権の拡張、自治の経営発達に力を尽し、有為青年の養成に努め、筑前共愛会の会長に推薦せられ、二十三年一月衆議院議員に挙げられ、爾来三回当選を重ねたり。三十一年香川県知事に任ぜられ、十二月官を辞す。爾来野に在つて幾多公共事業に尽せしが、大正某年全身不随の難病に罹り、兼ねて明を失ひ、十二年九月八十四歳を以て卒す。隆助人と為り、廉潔剛直、細事に拘はらず。其の隊長と為り、官吏と為り、代議士と為る、至る所赤心を以て人に接し、誠実誠意公事の為めに力を愛まざりしこと、十年一日の如し。隆助晩年嗣子を喪ひ、幽臥落寞、特に同情禁じざるものあり。旧知相協り、隆助が生前国家に貢献せる功勲を追懐し、太宰府肯当の地を選みて其の銅像を建設せんとしつつあり。(武谷水城氏稿)

カハシマ ジュンカン 川島純幹
* 氏名の読みは「かわしま すみもと」が正しい。

 官吏、福岡藩士。文久三年十一月福岡に生る。幼名英太郎と云ひ後純幹と改む。福岡県立師範学校を卒業し、東京帝国大学に法律を学び、後鹿児島高等中学校教授となり、佐賀、奈良各県師範学校、滋賀県立滋賀中学校、奈良県立奈良高等女学校等の教諭、校長を歴任し、後滋賀県参事官に転じ、三重、佐賀、大分、千葉、鳥取、和歌山の各県書記官を歴て滋賀県知事に進み、後鳥取県知事より福井県知事となりしが、大正八年休職。九年十月二十五日東京原宿に逝く。年五十八。特旨を以て正四位に叙せらる。性剛直にして磊落。漢学、英学に通じ識見高かりき。(福井県庁稿)

クルシマ ツネキ 来島恒喜

 志士、大隈重信の刺客。福岡県の人。夙に玄洋社に入り国権論を主唱して奔走する所あり。明治二十二年外務大臣伯爵大隈重信、外国条約改正の全権を帯び外国使臣と東京に開議す。譲歩甚しとて大に世論の反対を招き、中止及断行の論交々起りて紛囂を極めたり。十月八日恒喜、重信の退閣を外務省の門前に要し、爆裂弾を投じて重傷を負はしめ、即時短刀を以て自剄して死す。時に年三十二。

コホリ ホソウ 郡葆淙
* 氏名の読みは「こおり やすむね」が正しい。

 勤王家、福岡藩士。幼名乃、後家名伍兵衛を継ぎ水穂麿と改め直澄と称し、尋で利と改む。諱は保宗、後字を改めて葆淙を号とす。弘化四年四月二日を以て福岡極楽寺町に生る。祖父利貫、剛直狷介、文武兼備の士。父利精、諸職に歴任し早く隠退し身を終ふ。葆淙は其長子なり。文久元年十五歳にして家を継ぎ、同三年長藩英米仏蘭四国の艦隊と馬関に於て戦端を開くや、葆淙藩命を受け一部隊を率ゐ国境黒崎の警備に任ず。此の歳始めて青柳種信の著書を読み、皇典の講ぜざるべからざるを知り、爾来国書の研究に志す。慶応元年冬福岡藩勤王党倒れて佐幕党要路に当りしが、明治元年伏見、鳥羽の変あるや、佐幕党斥けられ、勤王党多く途に当り藩政一新す。葆淙亦銃手頭に擢んでられ、尋で納戸役となりて藩主長溥に近侍す。已にして藩主の旨を奉じ出でて関東の戦場を視察し、回つて京師に入る。期する処あり、京師留学の命を受け京にありしが故ありて帰藩し、後再び上京留学を請ひしも許されず、顕勇隊中隊司令士を命ぜらる。偶々隊士暴行の事あり、葆淙の措置宜しきを得ざるを責め謹慎屏居を命ぜられ、後減禄遠慮に処せらる。之より先き葆淙深く国学を尊重し、特に平田派の説を信ずること深く、廿一歳遂に福本泰平を介し刺を平田鐵胤に致し入門の礼をとる。葆淙専ら皇典及び漢学研究を旨とし、上京後権田直助の門に入る。此時葆淙既に断髪せしを以て権田等その断髪廃刀を喜ばず、説て復旧せしめんとす。葆淙抗弁従はず遂に辞せり。蓋し彼深く国学に帰依すと雖も、亦宇内の大勢に鑑み洋学を修するの必要を認め、終に土取忠良の門に入らんとせしが、偶々二豎の犯す処となりて果さず。明治四年七月廃藩置県の事あり。終に学を廃して帰県す。後出でて筥崎宮の祠官となり、爾後数年間京師白峰神社、伊勢神宮、吉田神社等の禰宜、権宮司等に歴任し、七年神職を罷めて帰郷するや、偶々佐賀の乱将に起らんとし人心動揺す。葆淙同志と謀り、旧藩士を糺合し不虞に備ふる処あらんとす。葆淙、大庭弘と共に同志より選ばれて佐賀に至り江藤新平を訪ふ。時に乱已に発し大庭は事情を報ぜんため急遽帰郷せしも、彼は猶ほ独り留まりて形勢を窺ひしに、江藤の徒政府の間諜と誤認し、拘へて獄に投ぜり。葆淙従容として縛を受け徐ろに弁ずる所あり。彼等終にその間諜に非ざるを知り、礼を以て之れを待ち以て難を免る。後再び伊勢神宮、吉田神社等の神職となり権大講義を兼ぬ。後転じて福岡区長たり。明治十二年冬条約改正の論起り、国会開催の議漸く盛なり。葆淙檄を飛ばして各郡の有志を博多に会し、終に筑前全国の大会を開き元老院に建議する処あり。翌年官を辞し県会議員に選ばれ、又福岡日日新聞社長兼主筆となる。此の歳冬全国の志士東京に会し、国会期成同盟会の組織せらるるや、河野広中会長となり葆淙その副会長たり。偶々薦むる人あり、出でて内務省准奏任御用係となり後参事院に転ず。参事院廃せらるるや帰郷し、廿五年二月衆議院議員に挙げられ、爾来帝国議会に列すること三次、二十八年推されて市参事会員、嘉穂郡長となり、三十四年職を罷む。爾来家居してまた世に出でず、専ら力を史書の研究に致せり。大正七年三月廿七日病歿す。年七十二。(筑紫史談)

サカヰ ダイスケ 坂井大輔

 政治家、柔術家。福岡県人坂井雄次郎の男。明治二十年十月生れ。大正九年分れて一家を創立す。二年早稲田大学政治経済科を卒業し、翌三年米国に航し華盛頃【→頓が正しい】大学に学ぶ。次で大戦後欧洲各国を歴遊し、十二年華府会議の際外務省嘱託として米国に出張を命ぜられ、又万国議会同盟会議に参列す。大正三年以来福岡県より衆議院議員に当選すること五回、昭和六年逓信参与官に任ぜらる。柔道五段の武道家にして欧洲歴遊中我国柔道の紹介につとめたり。昭和七年五月九日歿。年四十六。

シンドウ キヘイダ 進藤喜平太
* 氏名の読みは「しんとう きへいた」が正しい。

 前玄洋社社長。福岡県の人。嘉永三年十二月福岡藩士進藤栄助の長男に生る。少壮血気横溢し頭山満と共に高場乱の薫陶を受け、明治十年の役頭山、平岡等と西郷隆盛に投ずる計画を立てたりしが、事発覚して一同獄に投ぜらる。自由民権の説起るに及び、頭山、箱田等と共に玄洋社を創立して天下に同志を募ると共に郷党の子弟を養成せり。其後条約改正に反対して輿論を喚起する処あり。為めに社員来島恒喜は爆弾を投じて大隈重信を負傷せしむ。又朝鮮事変には部下の健児を送つて東学党に投ぜしめ、以て日清戦役を勃発せしむる動機を作り、又対露同志会に加盟して日露戦争の導火線をなし、戦時中は玄洋社健児を以て満洲義軍を組織して特別任務に従事せしむる等、頗る国事に尽瘁せり。箱田の後を襲ひて玄洋社社長となり、後辞して郷里福岡に帰り閑居せしが、大正十四年五月十三日逝去。年七十六。曾て郷里より推されて代議士となりしことあり。(九州名士列伝)

テラダ サカエ 寺田栄

 貴族院議員。福岡県人寺田安山子【→案山子が正しい】の長男。安政六年十一月十九日生る。明治十年国事犯に問はれ、除籍せられ一家を断つ。後東京、横浜、高崎等の裁判所判事を経て、三十年衆議院書記官となり、長く林田書記官長の下にありて輔佐し、大正六年五月書記官長となる。十三年貴族院議員に勅選せらる。大正十五年一月十三日歿。年六十八。

ナラザキ ハチラウ 奈良崎八郎

 日清日露役の殊勲者。放南と号す。慶応元年十月を以て福岡城下に生る。天資頴悟、詞藻に富み書を善くす。夙に同郷頭山満の感化を受けて図南の志を起す。明治二十一年上海に航し爾来清韓の地を往来して寧処なく、二十六年東学党の変起るや同志を率ゐ韓国全羅道に上陸し、附近の要地を占領せり。幾くもなく博多に帰り、福陵新報の通信記者として平壌に赴き、東学党の首領を煽動して其の対清行動を益々激烈ならしめたり。翌年日清戦役起るや、同紙の戦地特派員となりて大島混成旅団に従ひて戦況を通信す。同戦役後台湾に渡り、陸軍通訳の名を以て高島将軍の匪徒討伐軍に従ひ其の職務に精励したり。卅七年日露戦役起るや横川、沖の志士と共に特別任務班に入りて、横川班と前後して北京を出で、爾来東清鉄道に沿へる東蒙古の各地に在り、満蒙の馬賊を糾合して中立地帯に於ける敵の行動を監視し、得利寺の会戦、遼陽の大戦に於て毎に敵を撃攘して殊功を奏せり。然るに三十八年三月奉天大会戦の央に於て馬上某地点を視察しつつありしに、偶々其の乗馬氷上に足を失したる為め馬上より墜落し、為めに病を発し一旦癒えて再び軍務に鞅掌せしも、身心過労の為め遂に肺患に変じ、三十九年六月帰朝し東京に在りて療養せしも其の効なく、四十年五月二十日逝く。年四十三。逝去の前約一月志士論功賞の事あり。八郎を以て勲六等に叙し、単光旭日章並に金四百円を下賜せらる。

ハコダ ロクスケ 箱田六輔

 民権家。福岡藩士青木喜平の第二子。嘉永三年五月生る。出でて箱田氏を嗣ぐ。明治元年戊辰の役奥羽に転戦して功あり。帰藩の後同志と共に就義隊を組織し、其の斥候器械方と為る。明治三年法を犯して姫島に流され、幾くもなく赦に遇ひ、後高場乱の門に入り経史を学ぶ。八年頭山満等と矯志社を組織す。九年萩の変、同志と共に為す所あらんとして拘引せられ刑に処せらる。十二年同志の徒と向陽社を組織し自由民権の説を鼓吹し、傍ら義塾を設立して青年子弟を養成す。同年国会開設、条約改正の建白を元老院に提出す。十四年向陽社を改めて玄洋社と称し其の社長と為り、爾来国事に奔走せり。十八年【→二十一年が正しい】遽かに病んで死す。年二十九【→三十九が正しい】。六輔闊達豪放にして気焔人を圧倒す。頗る駕馭の才有り。強悍の健児能く其の指揮を受く。板垣退助嘗て六輔を評して曰く。箱田あれば西南の方面は安全なりと。性甚だ酒を嗜み遂に酒の為め短折す。(西南記伝

ヒラヲカ カウタラウ 平岡浩太郎

 玄洋社創立者。福岡の人。夙に藩立修猷館に学び、西南の役賊軍に与して獄に投ぜらる。後東京に上りて国会開設期成同盟会を起し大に政界に為すあらんとす。既にして産を作るの必要なるを感じ、明治十二年断然京地を去りて福岡に還り、直ちに赤池炭坑に投じて坑夫と相伍する、年あり。爾来専心鉱山業に従事して頗る財を得たり。是に於て再び政界に出で、頭山満等と共に福岡に玄洋社を起し其の社長となる。二十七年衆議院議員に当選し、其の後毎に郷里の代議士たり。二十九年対外硬六派団體が合して進歩党を造り、三十一年自由、進歩の両党多年の確執を捨てて一団となり憲政党を組織するや、孰れも浩太郎の斡旋其の多に居ると云ふ。また深く東洋問題に心を労し、国民同盟会、対露同志会等に尽瘁する所少からず。常に籍を進歩派に置き憲政本党員として九州の重鎮たりき。また好んで書生を養ひ後進の誘掖に努め、之によりて名を成したるもの尠なからず。三十九年十月二十四日、病を以て郷里福岡に逝く。年五十六。

マトノ ハンスケ 的野半介

 代議士、旧福岡藩士。国事に志あり、夙に玄洋社員となり自由党に入る。代議士候補者となること二回、明治四十一年三回にして当選す。大正六年十一月十九日歿す。年六十。

ヤスカハ ケイイチラウ 安川敬一郎

 男爵、実業家。旧福岡藩士徳永省易の四男。嘉永二年四月生れ。後先代安川岡右衛門の養子となり家督を相続し、大正七年之れを三男清三郎に譲りて隠退し、九年新たに一家を創立す。夙に苦楚辛酸の裡に長じ、初め旧藩執政局に出仕し藩費遊学を命ぜられ、明治二年京都の加藤有隣につき学び、三年十月静岡の望月剛猛の私塾に入り、後藩校に英語を修む。四年十月上京、勝海舟、山岡鉄舟につき学び、後勝海舟の勧めに従ひ慶応義塾に入りしも、事情の許さざるものありて中途退学す。爾来放浪生活一ヶ年、七年二月幾島徳佐賀の乱に戦死の報に接し急遽帰県、松本潜と共に遺業の小炭坑整理に従事せしも、一年を出ずして一敗地に塗れ、再び起つ能はざるの窮地に陥る。偶々当時の債権者の一人にして兄の懇親者たる堺惣平の仁侠により其後援を得、翌年遂に頽勢を挽回して侠商の知遇を完うす。十年遠賀郡蘆屋町に店舗を設け石炭販売業を創む。十九年若松に営業所を移し、同時に嘉穂郡頴田村に新炭坑(現在の明治炭坑)の権利を獲得す。此間発展して門司、神戸、大阪の各地に支店を設置し、二十二年赤池炭坑を経営す。二十四年筑豊鉄道株式会社の創業に関与して監査役に就任し、後同社の九州鉄道株式会社に合併するや、其取締役となる。二十六年七月若松築港株式会社の創立に与り後其会長に就任。三十九年堺市に大阪織物会社を起して之が重役となり、同年豊国炭坑を譲り受け之が経営に当る。四十一年明治鉱業株式会社を創立して社長に任じ、同年戸畑に明治紡績合資会社を起し、息健次郎、清三郎等をして之を経営せしむ。大正六年九月日支親善の目的を以て合弁事業を計画し、九州製鋼株式会社を創設し之が取締役会長に就任す。然るに同社工場設備の完了する頃より実際操業の不可能なる事情発生し、昭和三年十一月八幡製鉄所の委任経営に之を移管し、自らは巨額の損害を敢てして、尚社会に対し慚愧に堪へずとし、断然隠棲を決行して名も撫松と改め、只管安静の日を送るに至る。先是明治二十九年以来筑豊鉱業組合、若松石炭商組合、門司石炭商組合等の組合長として斯業の向上発展に尽瘁し、又育英の道に力を致し、三十四年赤池炭坑内に私立鉱山学校を創め、更に四十年七月高等技術者養成の目的を以て戸畑に私立明治専門学校を創立せしも、後基本金建築費を添へ国家に献納す。功を以て勲三等に敍し瑞宝章を賜はり、大正九年一月十三日男爵を授けらる。其他大正三年には衆議院議員に選ばれ、十三年貴族院議員に互選せらる。昭和九年十一月三十日歿、従四位勲三等、年八十六。

ヤスナガ トウノスケ 安永東之助

 新聞記者、また陸軍通訳。筑前福岡の人。中学修猷館に学び、後玄洋社に入る。二十一歳の時、代議士選挙に於て反対派の壮士と闘ひ之を倒し、為めに四ヶ月の刑に処せられ、明治二十六年出獄の後上京して東京美術学校に入りしも、学資給せずして帰国し、柔術道場の監督となる。二十七八年の交、渡韓を企てしも果さず。三十一年農商務省の実業練習生として上海南清地方を歴遊す。其の後帰国して九州日報の記者となりしが、三十六年末日露の風雲急を告ぐるや、筆を投じて上京し、百方奔走して開戦の暁陸軍通訳として従軍し、深く敵地に侵入して情勢を探究せり。平和克復の後農商務省派遣の満洲利源調査委員の為めに嚮導の任に膺り、通化より漸く内地に入りて其の任務を果し、三十八年十一月下旬帰途に就きしが、通化に於て海龍城の巡捕長劉宝書の率ゐる一隊の為めに射殺せらる。

ヤマザ エンジラウ 山座円次郎

 外交家。筑前福岡の人。慶応二年十月を以て生る。父を省吾と云ふ。円次郎、幼にして荒津学舎に入りて漢学を修め、尋で藤雲館に入りて英語を学び、才学儕輩を圧す。既にして上京、大学予備門に入り、研究の余暇、雑誌に寄稿し、また飜訳に依りて学資を得、遂に東京帝国大学に入り、廿五年法科を卒業の後、外務省に入り、釜山領事館に奉職す。尋で上海及び釜山に領事たり。廿八年公使館三等書記官に任じ倫敦に在勤す。三十年二等書記官に進み韓国に転勤す。三十四年外務省政務局長と為り外交の枢機に参し、日英同盟に与つて力あり。三十八年大使小村寿太郎の米国に赴きポーツマスに於て露国全権と講和を議するや、円次郎之に従ひ、寿太郎を輔けて苦辛、折衝至らざる所なし。四十一年英国大使館参事官と為り、居ること数年、大正二年六月特命全権公使に進み、北京に駐箚し、日清間の交渉問題紛糾を極むるに当り、処理宜しきを得て適材適所の評あり。人其の前途に望を属す。円次郎、外豪放にして、内細心。才気人に絶し、外交の手腕に富む。性甚だ酒を嗜み一飲斗酒を辞せず。外交の苦辛と相俟つて祟りを為し、遂に病を獲たり。大正三年五月二十八日俄かに病んで薨ず。享年四十九。正三位勲一等に累叙す。

ヤマサキ カウザブラウ 山崎羔三郎

 軍事探偵。本姓は泉、出でて山崎氏を継ぐ。元福岡藩士泉清八の第三子。人となり沈毅豪邁、気宇曠達、細節に拘らず。夙に四方の志を懐き、身を邦家に致さんことを誓ふ。後普く志士豪傑を訪ひ、荒尾精と相逢ふに及んで意気全く投じ、大に東亜の為めに為す所あらんとし、明治二十一年同志の士と共に清国に航す。清国に入るや弁髪を蓄へ、薬商と偽り、売卜者に装ひ、辛酸苦楚具さに嘗めざるは無く、四百余州其の足跡を印せざるの地を余さざらんとせり。中頃一度帰朝せしも、二十六年六月再び清国に入り、漢鎮に写真舗を開き、名を山致誠と偽り子羔と号す。明治二十七年六月鶏林事起るや、偶々上海に在り。報を聞いて蹶然時機至れりとなし、直ちに朝鮮に航し、牙山の敵営に在る十日。敵の捕ふる所となるも、詭計を以て僅かに免るるを得たり。爾来京城に中和に平壌に我軍を利すること甚だ多く、十月四日大本営に帰り、第二軍の軍司令部付通訳官を命ぜられ、特に大本営に召され参謀会議に列し、参謀総長熾仁親王より親しく特別秘密の重任を授けらる。発するに臨み、家兄に言つて曰く、此行もとより生還を期せずと。軍事探偵の為めに虎穴に入る事幾旬、十月廿六日終に支那兵の為めに捕へられ、十月卅一日金州海防分府西門外に斬らる。斬に処せらるるに方り、【會+リットウ】手清国の律に従つて西南に面せしむ。羔三郎東面励声して曰く。我が天子東方に在り、即ち陛下を拝して死せんのみと、神色並び烈し。【會+リットウ】手大に怒り共【→其ヵ】の頭を断つ。時に年三十一。金州陥るの後、我が軍此の事を聞き、遺骸を求め、金州城東門外陸軍招魂社に改葬す。式に与かれる浮屠某の偈に曰く、「同心投虎穴、三士就犠牲、生死二無二、英名万古轟」と。三士とは羔三郎と鐘崎、猪田の両士を云ふなり。
 補助漢字区点=1948 16進=3350 シフトJIS=8A6F Unicode=528A】

ヨシヲカ トモナル 吉岡友愛

 軍人。旧筑前福岡藩士にして、幼にして父を喪ひ、且つ家貧にして学事意の如くならず。明治十六年東京に出で、知人の家に寄寓して学を励み、遂に士官候補生となり、士官学校卒業後累進して中佐に至る。三十七年日露戦役起るに及び旅順攻囲軍に加はり、同要塞陥落後第三師団歩兵第三十三聯隊長として北進し、三十八年一月黒溝台附近の会戦に際し沈旦堡附近の戦闘に参与し、殊勲を奏し、為めに該聯隊は満洲軍総司令官より感状を授けらる。尋で三月奉天附近の会戦に於て第三師団の左翼隊に属し、南部李官堡の南方三軒屋附近の敵を攻撃するや、自ら先頭に立ちて敵陣に突入し、激烈なる格闘の後敵の指揮官を斬り、また其の数名を殪し、頑強なる敵を駆逐して、後之を占領せり。然るに同月七日敵兵約二個師団、李官堡及び其の附近に対し猛烈なる逆襲をなし、加ふるに数中隊の敵砲兵は我を斜射或は背射して、聯隊の戦闘員殆んど皆な死傷し、剰す所極めて僅少なるも、中佐は断乎として現地位を死守し、敵に莫大の損害を被らしめ、我全軍の作戦に大なる利益を与へたるが、遂に敵弾に中りて戦死す。奥第二軍司令官は其の功を偉大なりとし、全軍に中佐の武勲を布告したり。戦功に依り大佐に昇任し、勲三等功四級に叙せらる。

玄洋社員・名簿



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