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オペラ雜感
私は英吉利と獨逸とでオペラを觀たのですが、それに付て思出したことを雜感として述べませう、英吉利で聞たのは第一がローヤル、オペラ座でありますが、英吉利本國のオペラといふものはまだあまり立派でありませんから、獨逸で夏のオペラのサイゾンの濟んだ頃にロンドンへ獨逸のオペラを呼んでやらせるのであります、勿論英吉利にもスタンフォード。サリワンなどの如き作者はありますがナショナル、オペラと誇るに足る者は先づ無いのであります、故に自然獨逸のオペラを招く外はないのです、英國には有名なオペラ、コムパニーが二つありまして其一をカールローザ、コンパニーと申しまして他の一をムーデヰ[#「ヰ」は小文字表記]ー、マンナー、コンパニーと申します、此二つのコムパニーとてもコンダクターは獨逸人が多いのでありまして、歌ふ人も手の足りない所から大陸の者を呼んで來るのである。
勿論一切英語で歌ふ、獨逸物佛蘭西物は皆英譯して歌ふのです、私が初めて英吉利でオペラを觀ましたのは前申した如くローヤル、オペラに於ける大陸オペラでありました、作は伊太利のヴエルヂーの「アイダ」であつてヴエルヂーは御承知の如く伊太利のオペラ作者中の大家でありますが、此作の筋を摘んで云ひまするとアイダと云ふエシオピア王の娘がエジプトに囚はれて居る内其の主人たる女公主アリネムスと二人ともラダメスといふ一人の勇士に戀慕して、さうして其男は寧ろアイダの方に心を寄せて居る、所がアイダはラダメスを誘ひ敵軍の内情を漏らさせる其爲めに愛人たる勇士が捕はれる、さうして有名なる幕は第三幕でありますが、上が寺で其床下に勇士が押込められて居る、アイダは父の爲めに男に裏切りはさせたが自分の愛したる男であり男の清き愛も貴しで共に床下の牢屋に這入つて懺悔して共に死ぬと云ふのでありまして、眞暗の床下には勇士が押込められて其入口にはアイダが立て煩悶して居る其上には莊巖なる讀經の聲が響くアムネリスの愁嘆の聲が聞える、さうして是れに伴ふべき悲恨の音樂があつて頗るアツフエクチーヴの幕であります、埃及を題目としたのでありますが、思想も東洋的でローマンチツクでミスチカルな神秘的なものであります、それを私が初めて聞きました、伊太利オペラでありますから言葉は分らなかつたが忘れられぬ一種の感を惹いた、其次に聞いたのはワグナーのツリスタン、ウント、イソルデでありました。其時に私はオペラは全然能であると云ふ感じを起しました、なぜさう云ふインプレツシヨンを得たかと云ふことを今考へて見ると、其主もなる理由は第一題目が東洋的でメヂーパル即ち中古的であつた爲めに直に日本の能と聯想したのであります、能も中古を代表するもので日本の中古と西洋の中古とは思想の上で似て居る點が多いと思ふ、而して能は宗教的で超人間的である、今また「アイダ」なども同じ趣味を以て居る、それでオペラは能と似て居ると考へたのでありませう、第二の理由は素人が西洋の音樂を聽くと晴れやかな、喜ばしい、艶のある所よりも寧ろ濁つた重い莊嚴な乃至は悲しい方面の音樂は慣れると分かり易くなる、そこで私が始めてオペラを聽いたときも其の方が耳に這入つて來て、解するにむつかしい方の調子が頭に餘り深く殘らなかつた爲めに能のやうだと考へたのかと思ふのであります、第三の理由はアイダの女主人を歌ふた女は良くなかつたので女聲部が負けて、勇士をやるテナーの方とかアイダの父をやるベースの方とかが良かつた爲めに、艶麗の方面を聽落したのでありませう、今番附を調べましてもアイダをやつた役者は佛蘭人でありますから、是は完全なコムパニーではなかつたかと思ひます。
それに次にローヤル、オペラ座で見ましたのがムーデヰ[#「ヰ」は小文字表記]ー、マンナーの組でありまして英語でやつたのであります、此時は佛のビゼーのカーメン。ワグナーのローエングリーン。タンホイザーまた佛のグノーのファウスト等を見ましたが此たびは更に前とは違つた第二のイムプッレションを得たのであります、即ちオペラは要するに動作の這入つた淨瑠璃ではないかと思つた、けれども獨逸に於て、それを飜つて考へて見ると、それも間違つて居た、今なぜ私が淨瑠璃と思つたかと云ふことを考へて見ますと、第一の理由は、先づ「カーメン」を聞きましたが、「カーメン」と云ふのは筋が近世的である、カーメンと云ふ感情の強い卷煙草屋の雇女に成つて居る女があつて、其女が朋輩を殺して捕はれた然るに番兵を色仕掛けにして欺いて遁がして貰ふ、其番兵は是が本で零落して妻子をも捨てゝカーメンと遁げた、併しカーメンの此番兵に對する戀は一時の事で、斯やうな感情好惡の強い女の常として直ぐ醒めて之を振りすてゝ、輕業師と逃げて了ふ其兵士は妻の貞實な愛の爲に救はれんとしたが、又カーメンを追驅け遂に之を殺して仕舞ふと云ふ筋であります、近世的な、新聞の三面記事的な所があつて今の小説芝居的の思想であります、それから第二の理由は外國のオペラを英語に譯して打つたのであるから音樂と英語の文句と調和しないやうな感じがしました、聲の樂と器樂とが離れ/″\に競爭して居るやうで、眞面目なるべき所が滑稽になつたりなどして何うもしッくりと行かず、それが爲めに音樂として魅せらるゝ力が薄くなつて寫實的の背景計りが目に附いて、近世々々して何所ともなく淨瑠璃を聞いて居るやうな感がしたのである、フアウストを見ても、惡魔の出て來る所とかメフヰ[#「ヰ」は小文字表記]ストヱレスの動作とかを見ると寫實的の方面のみ目に映じて、あのへヰ゛ーな莊嚴な所は感じが破れて聞えました、それで「オペラ」は謠曲よりは寧ろ淨瑠璃と云ふ考を漫然起したのであります。
それから伯林に參りましたが此處はオペラの本場でありますから大分研究的に觀ることが出來ました、生きて居る作者の物ではフンバヂンクの「ヘンゼル、ウント、グレーテル」と云ふお伽オペラを初に觀ました、それから伊太利のレオンカバローに獨逸の皇帝が頼んで作らせた「ローラント、フォン、ベルリン」と云ふのを觀ました、又ワグナー物はパーシファル。リエンヂを除いて凡て見て二三度に及んだのですが、外に參考として近世ローマンチックオペラの近祖ヴェーバーの「フライシユッツ」を觀ました、それから又たマエルベャーの「ヒユーゲノツテン」ロルチング「ウンヂーネ」ヴェルヂー「ツラバドア」等をも觀ました、而して是丈けの範圍で飜つて見ますると曩に能とか謠曲とか考へたのが間違ひである如く、淨瑠璃であると考へたのも間違ひであると云ふことに到着しました、結局オペラは其以外の物である、其理由を考へますると、第一ワグナー物でも、ヴェーバー物でも通じて其思想の上から言ふと、殆ど全體の流行として中世的で超人間的でローマンチツクであつて獨逸のザーゲ即ち傳説から採つた、あの思想がオペラの生命になつて居る、故に謠曲に似て居ると最初は考へたのであるが、併し題目は中世的であつても取扱ふ方法は十九世紀的であつたのであります、即ち寫實的若くは戯曲的に取扱つたのであります、茲に言ふ寫實的と申すのは、方法の寫實的なるを云ふのでありますから、サブゼクトはローマンチツクでも構はぬのでありまして、龍が物を言ふと云ふやうなことは世間で所謂寫實的ではありませぬが、龍と云ふ概念を龍らしくして觀せれば矢張寫實であります、成る可く其物に見えるやうにシンボリズム即ち標象的といふことに對する寫實的と云ふのでありますから、言ひ換へれば部分を其物らしく拵へると云ふ意味で寫實的と云ふのである、此意味に於ての寫實でオペラを十九世紀的に取扱つたものである、其例として擧げると背景は非常に進歩して居る、故に背景が寫實的になつて居る、それからワグナー前後の「オペラ」は人間の感情の動き方を寫實せんが爲めに音樂のメロヂーを犠牲に供した形がある、ライト、モーチーブを使ふとか、人の性格の違ふ丈け音樂に區別を附けて往くとかした爲めに音樂に無理がありはしないかと思はれる程になつて來たワグナーといふ力の強い人が來て一方に音樂又一方には戯曲又は人間の行動といふ強い鐵の棒があつて本來は容易にあざなふ事の出來ないものを力任せに強引に引寄せて一緒に綯ひ交ぜたやうな形があると思ふのである、即ち吾々の感情を中心として音樂を取扱ふと同時に、中古の思想を近世の方式で取扱つた一種の不思議なものである、故にオペラは能とは違つて居る、能は中世の思想を中世的に扱つて居る、是がオペラの能でない所以であります。
ワグナーは寫實的でありながら而も寫實的にならないといふ一種の妙味を解して居ると感じたのであります、能の動作は既に意味の動作であらうと思ひますがオペラの動作は尚未だ十分なる意味を顯すの動作でなくして、吾々が強い感情を持つと其感情が色々の態度を要求して來る、悲しいときは俯し、又大きな事を考へるときは手を廣げる、それを角立たぬやうに眼に立たぬやうにやるのがオペラの重なる動作であるかと思はれます、芝居的の動作をすると音樂を離れて、圓いゼネラルな婉曲な優美な形が無くなつて壯士芝居的の〓[#「こと」合略仮名]になるのですが、ワグナーには之れが少ない、例へばワグナーの「リング」の初め「ラインゴールド」の中で神々の間に色々いきさつがあつて大な斧や棒で以て立廻りをする、其場でさへも立廻りには成らない、又芝居にもなつて居ない、一種の振事といツてよいやうなものである、其處抔も注意したものだらうと思ふ、兎に角ワグナーは極端なる寫實になる弊を防いで居る方面がある。
然るに外の人の作を見ると之はむつかしいと見えて其調和が破れて往く、寫實ならズツと寫實になる又音樂的になれば、ズツと音樂的に成る、伊太利オペラに返へる、ドラマタイズした傾向が跡戻りをするのであります、ドラマが音樂の爲めに犠牲に供せらるゝのであります、それで寫實的で思想が複雜になつて來たり滑稽も這入り艶も這入ると扱ふことがむつかしくなるのでありますから、ワグナーにして初めてやつたのですが、腕の弱い作者になるとワグナー式では出來ない、或は寫實的に陷るか或は音樂的になるか或はどちらともつかぬ不調和なものに成る、併しながらワグナーでも不調和な所が動もすると出る、例へば「リング」の「ジーグフリート」の中で主人公が龍を斬るときに怪龍が岩の中で物を言ふ邉以下になると、自然以外ではあるが動々もすると自然以下に落ちるため、音樂の魔力を離れゝば同時に感興を覚ますやうな傾があります、ワグナーですら斯う云ふ所もあるのである然らば將來はワグナーがなした中古思想を近世的に扱ふこと又音樂と戯曲とを調和せしむるといふことも、今のオペラの状態では破れて往きはしないか、ワグナー風のオペラは亡んで仕舞やしないかと云ふと、其れは必しもさう言へないワグナーのやうな人が出れば又出來るかも知れぬ、只注意すべきは、近時純粹の芝居は筋の大きな物は持切れないやうな傾向があるのであるから、之を補はんが爲に、芝居が或はオペラに赴きはしますまいか、而してオペラの方にも何か不足な物があるのではないか、斯くして上からと下からとの會合點に或新い物が出來やしないかといふ疑問は提出せられます。
是で此話は止めようと思ふのであります。(明治三十八年談話筆記)
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