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劇場問題

 

 

 

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     演藝雜談

 

回は演藝雜談と題して專ら演劇及音樂の方面に關した事を述べませう。まだ歸朝以來何となくゾワ/\して居る爲め、一向に纏まつた事を取り合せる餘暇がないから暫時これで御免を蒙つて置きたいのです。

目下歐洲の文藝全體の範圍で尤も活動して居るのは演劇であらうと思ふ。其演劇が所謂オペラなぞに於て音樂と連絡して自から此二つの方面におもしろい事が集つて來る趣きがある。尤も音樂といつても純粹の音樂其者としては今新たに目覺しい氣運が動て來て居るとか、又は左樣いふ方面に特にもがき進みつゝあるとかいふのではないのですが、これがオペラの舞臺に上つて來ると其所に何か大なるものを出したいといふ機運が生じて來るのです。音樂は御承知の如く何といつても獨乙が中心であつて、英吉利の音樂は勿論其特色をたづねて無いといふのではないが、然しながら世界の國民音樂の中に持ち出して重要な地位を占め得るものとは言ひ難いのである。佛蘭西には歴然とした國民音樂がある。亦伊太利にもそれがある。露西亞にもそれがある、が要するに國民音樂の尤も特色あつて且尤も近世的であるのは獨乙である。佛蘭西の音樂は全體にいへば輕妙といふ點が特色であらう、伊太利音樂は色彩豐富といふ趣きでせうし露西亞の音樂は一方妙に感情的《センチメンタル》で亦一方那邊となく神秘的《ミステリアス》といふ氣味でせう。獨乙の音樂は深さ及大さに於て尤も特徴を示して居るが、若し英吉利の音樂に特徴を求めたならば、滑稽物であるとか亦は讚美歌的な物なぞは却て他國の眞似の出來ないものがありませう。英吉利に於ては一寸した料理屋の音樂であるとか、ホテルの客室でやる音樂であるとか、其外通俗的な場合の凡ての音樂が概して滑稽物か、然らずんば極めて卑近な流行物なぞといふ趣きであるが、然し獨乙に行けば一寸した場合の音樂にも却々氣取つたものをやる、ワグナー物であるとか、ベートーフヱ[#「ヱ」は小文字表記]ン物であるとかいふやうなものをざら[#「ざら」に傍点]にやる、然して多數の聽者が相應にこれを受け樂しんで居る。これらの點から見ても音樂的趣味は獨乙の方が一般に進んで居ると思ふ。

現時歐洲の音樂界でワグナーのオペラに於けるが如く、シンフォニー及び其の類の音樂に於て第一の音樂家と許されて居るのは勿論ベートーフヱ[#「ヱ」は小文字表記]ンである。如何なる音樂會にも此人の物の出ない事は先づないといつてもよろしい、例ば彼の第三第九のシンフォニーなぞいふものは必ず大なる音樂會の飾りとして出て來るものである。亦家庭などでもピアノの一つも置てある家には必ずベートーフヱ[#「ヱ」は小文字表記]ンの肖像位は懸けてあるといふ趣きである。オペラも此人は一生に唯一つ「フヰ[#「ヰ」は小文字表記]デリオ」といふものを作りましたが、これは珍しいものゝ一つとして伯林などでも屬次演ぜられる、然し到底オペラとしてはワグナーものなぞには盾を衝く勢力はないのである。彼の特色は到底オーケストラの純粹音樂に止まつて居るのである。

而して單に音樂者の立場からいへば、ベートーフヱ[#「ヱ」は小文字表記]ンとワグナーとの比較に付ては種々な議論があるやうです、例ば音樂といふものが其最大要件の一としてメロデヰ[#「ヰ」は小文字表記]ーを必ず具へて居るべきものとすれば、ベートーフヱ[#「ヱ」は小文字表記]ンは正に其圓熟を示したもので、ワグナーのは其破壞を示すといふ氣味がある。先づ今までの所音樂を音樂として成功の頂點に達したのはベートーフヱ[#「ヱ」は小文字表記]ンであつて、ワグナーは音樂から外へ一歩を〓[#「稻」の「禾」扁を「足」扁に]み出した氣味ではないか、更に言ひ換へれば音の形式的調和といふ事が、ワグナーに到つて思想の複雜といふことに破壞せられて了つて、思想が勝ち過ぎて音樂といふ形式が負けて了つた趣きがありませう。勿論一層大なる標準即ち文藝全體から打算しましたなら、ワグナーの方が或は一層高いもの知れんが、併し音樂といふ樣式からいひますれば、ベートーフヱ[#「ヱ」は小文字表記]ンの方が一層圓滿のものかも知れない。併し之は音樂者としての意見の一面を私が茲に掲げただけであるから、此際に對する私自身の議論ではないことゝ御承知を願ひたい、兎に角斯樣にして音樂界に於けるベートーフヱ[#「ヱ」は小文字表記]ンの勢力といふものは大したものである。現在の獨乙の音樂作者としてはリヒャード・ストラウスなどが尤も有名な人であつて、此人はオペラも作つたし、亦シンフォニー、オーバチューアなども作りましたが、其オペラは餘り流行つては居らぬ。確かシンフォニーの中でしたらう、かのニーチェの「ユーバーメンシュ」即ち「超人」の思想を其儘音樂に謠ひ試みた人である、か樣にストラウスの傾向は、寧ろ感情ではなく思想を音樂にして見せようといふ點にあるようです。併し思想を音樂にするといふ事は非常に至難しい、亦種々疑問のあることでせう。ワグナーは或る程度まで思想を音樂にした、然しながら其思想は劇化せられ、而してこれを通して感情化せられた思想であつて、ストラウスの考へる如く思想そのものを直に音楽化する事は、果たして成功すべき樣式であるか否かは頗る研究を要すべきものであらうと思ふ。

家庭などで一寸ピアノにかけて多く彈かれる音樂は、極めて新しいものを除いてはモツアルト物、亦はベートーフヱ[#「ヱ」は小文字表記]ン物などの外、ピアノ音樂の名家たるショーパン物などが屡〓[#踊り字「二の字点」]彈かれる。此ショーパンのピアノ音樂は人に由つて好き嫌ひのある性質の音樂で、非常にセンチメンタルでリゝカルである、日本の音樂でいひましたなら長唄義太夫といふ方面より寧ろ新内または常盤津の方、亦聲で言つたら、バス。テノアよりもソプランの方に近いて居るといつたやうな特色でせう。私などは寧ろ好んで聽いた方であるが、女で少し氣性の勝ち過ぎたものなどにショーパンの話をしまするとツウ、スヰート即ち旨過ぎて困るといふことを能く言ひますが、併し兎に角ピアノ音樂ではベートーフヱ[#「ヱ」は小文字表記]ン、モツアルトなどの大なるものを除て、尤も多く彈かれる一とつはこれである。

ヴァイオリン音樂に關しては特に作者の秀でたるものを擧げるのは困難なやうですが、彈手に中々名人が出て來ます。最近英國で賣り出した若い女樂師のメーリー、ホールなどは著しいヴァイオリンの名人として、尤も有名な一人である。いふまでもなく西洋音樂の樂器の數ある中で中堅になるものは、ヴァイオリンであらう。誰にも容易に習はれて癖がなくて好いといふやうな意味から、素人間に廣く行はれて居るのは無論ピアノであるが、而し眞正に複雜な人間の感情を淋漓揮灑し來るものは、ヴァイオリンに如くは無いと思ふ。オーケストラ音樂では、ヴァイオリン乃至其他の絃器の外に、諸種の笛も重要な地位を占めて居りますが、而し矢張中堅はヴァイオリンにあると思はれます。

オーバチューアといひますと、例ばオペラの幕の始めに、其オペラ全體の思想を約めて奏するといつたやうな性質のもので、オーバチューアといふ名もそこらから來たものでせうが、而し勿論獨立してオーバチューアのみ作つたものもありますし、亦オペラに附屬したものでも音樂會などでは引離してやることが屡〓[#踊り字「二の字点」]あります。要するに獨立した一の音樂の樣式と申してよろしい。例へばワグナーオペラの「ローエングリーン」の始め幕の開く前に奏しますものゝ如きは、屡〓[#踊り字「二の字点」]音樂會でやる一つであつて、「ローエングリーン」の一番目貫きの場即ち男主人公が白鳥に船を曳かせて遙かの彼方から女主人公を救ひに出て來るといふ其趣きなぞを、音樂の調子一とつで見せて居る。即ち最初に先づ色でいつたら薄い青のぼかし[#「ぼかし」に傍点]といつたやうな低い靜な廣々とした音を聞かせて一面平坦の地盤を作つて、例へば長閑な蒼空とでもいふやうな考へを起させて、人心を靜めて置く。さて其寂とした處へ、始めて微に一道のポツリと出て來た白雲といつたやうな、際立つた麗はしい音を加へて來る、而して此一點の新しく出て來た音が次第々々に發展して來て、その指頭ほどなものが漸次に〓[#「卷」のカンムリ+「手」]ほどな大きさになりそれが亦頭程の大きさになるといつたやうな形容で、遂に一羽の大なる白鳥となり、其後には船に銀の鎧に一身を堅めた天の騎士ローエングリーンが現はれて來る、而して種々な複雜な出來事があつて、而して亦再び其騎士及び船は遠く/\小さくなつて去つて行く、そして遂に前の青空一碧の寂しさに歸つて來るといつたやうな意味を、一曲の音樂の中に現はして見せる。亦これは私は聞かなんだが、聞いた人からの話で露西亞のワグナーと呼ばるるチャイコフスキーのオーバチューアに「一八一ニ年」と題する有名なものがあつて、これは蓋し此年に於けるナポレオン一世が露西亞で敗北した、あの戰を音樂に仕た有名なもので中々におもしろいものださうです。始めに先づ佛蘭西の國民樂たる「マルセーユ」の調子を聞かせて、ナポレオン一世の露西亞に進軍する趣きを見せ、而してそれが順次に進んで行くと、自から露西亞の國民樂の調子になつて、而して最後に此二つの國民樂が非常な力を持つて相爭ふ趣きを見せる、かくて次第に露國の國民樂の調子が、佛國の國民樂の調子に打勝つて、前の目出度平和の態に歸るといふ組織である。

オペラは目下先づ獨逸の專有物であるといふ形ちで、英吉利が盛んに國民的オペラを作りたいと〓[#「足」+「宛」]いて居るが、何うも出來ない。佛蘭西のオペラも、伊太利のオペラも到底獨逸の全盛には敵することが出來ない状態である。英吉利ではコミックオペラ(滑稽樂劇)に屬したものは却々盛んに出て居ますが、眞面目なものでこれが國民的と誇るに足るべきものは先づ無いといつてもよかろう。此コミックオペラの名人ではアーサー・サリバンなどが尤も知られた人であります。獨逸ではフンパーディンクなどが眞面目なものゝ名家で、最近の新作が一とつあつて評判であつた。また伊太利の音樂者レオンカバロといふ人が獨逸皇帝の依頼で作つた「ローランド、フォン、ベルリン」といふのが伯林に於ける新作オペラの中では尤も評判のあつた一つであります。これは筋に付ての細かい事は別に話すが、つまり獨逸的の材料をレオンカバロー式即ち伊太利音樂者的に作つたもので、其缺點は茲に在つたようです、言ひ換へれば獨逸的の材料は矢張ワグナー的に深さを以て優るオペラにするのが一番容易い成功の道であるのでせうが、伊太利音樂者の手にかゝると矢張それが伊太利的になつてしまうのです、即ち音樂的に光彩はあるが、戯曲的深さがなくなつて了ふ。

これと好一對の話と思はれるのは、かの佛蘭西の有名な音樂作家グノーが作つた、「ファウスト」です。是れは第一に主題が主題であるためか、獨逸などでも、ワグナー物を除いては、最も重要視せられ、また最も多く演ぜられるオペラの一つですが、材料が獨逸的で而して之れを取り扱つた人が佛蘭西人であるため、前の「ローランド、フォン、ベルリン」と同じく、海のものとも、山のものとも附かないといふ缺點が、矢張りあるようです。

歐洲のオペラの世界でワグナー物の外に普通に屡〓[#踊り字「二の字点」]演ぜられるオペラといふと、右に言つたグノーの「ファウスト」であるとか、獨逸のヴェーバーの「フライシュッツ」であるとか、伊太利のヴェルデヰ[#「ヰ」は小文字表記]ーの「アイダ」、亦は「ツロバドア」であるとか、獨逸のモツアルトの「ドンイワン」「フヰ[#「ヰ」は小文字表記]ガロス、ホゝツアイト」、佛蘭西のビゼーの「カーメン」とかいふやうな、斯樣な種類のものであります。而し何といつても人氣の立つて居るのはワグナー物で、ワグナーは歐洲の文藝世界に於て尤も人の注意を引いて居る一とつであらう。またワグナーの人氣は恐らく今が頂點ではあるまいか。ワグナーオペラに付ての事は亦別にお話しする機會があらうと思ひます。

終りに臨んで一言附け加へて置きたいのは、音樂と歴史との關係です。精しく言へば、音樂は最も密に人間の感情を調ずるものである。而も其の感情は殆んど裸體のまゝで音樂に出て來る。是れが音樂の特色の一つでありませう。而して感情といふものは思想に比べて、さう容易く變動するものでない。また從つて、尤も個性的の特徴を多く帶びるものも感情の方面です。されば斯くの如く殆んど感情のみの藝術と言つてもよい所の音樂が、個人若しくは國民間の種々な性質の相違を如何なる程度まで統一し得るか、個人の上では、成程概般的の方面を見出だして統一し、誰れに聽かせても略同一の感銘を與ふるといふ程度に達することが出來るかも知れぬが、國といふ相違、若くは今一層廣い、東西洋の相違といふやうな範圍になると、果して音樂は全然東西相通ずるものとなり得るか、過去の長い歴史で養はれた東洋特殊の感情が遺憾なく現在の西洋のメロデヰ[#「ヰ」は小文字表記]ーで調べられるであらうか。想ふに我が音樂界目下の最大問題の一は是れでありませう。是等の問題を解決せんとする勇氣を振り起こして、他の繪畫界、詩歌界に劣らざるやう、目ざましい活動を企てられんことを、殊に新進氣鋭の音樂家諸君に希望の至りに堪へません。(明治三十九年談話筆記)


 

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