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ピネロ作「二度目のタンカレー夫人」

 

 

 

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     劇場問題

 

本の演劇もその中身即ち脚本であるとか、俳優であるとか、演藝の方法であるとかいふものゝ改良が目下の急務であると同時に、これと内外相呼應して是非とも變更せられなくてはならないのは、劇場の組織即ち演劇の外形的方面であらうと思はれる。此方面にして進歩しない限りは、中身の進歩が何程著しくても容易にそれが世の中に現はれて來る譯にはいかない。勿論近年川上などが卒先して種々觀客の便を計るとか、時間を短縮するとか、書割を寫眞的にするとかいふ如き事は大分に手を付けかけたが、まだ/\其の外に變更せれれなくてはならぬ欠點が幾多も潜んで居るだらうと思ふ。茲所には、他日これ等の劇場問題がやかましくなつて來る時の參考にもと思つて、西洋のそれ等の事に關したニ三の事實を述べて置く。

兩三年前の英吉利の劇壇で劇場問題の主なるもの――といつても、勿論彼の國ではそれ等の方面は比較的整頓して居るから日本の現状のやうな弊害が深く感ぜられて居るといふ譯ではなく、また弊害が認められて來れば傍から改良せられて行くのが彼の國事物の状態であるから、さして大なる問題もないのであるが、其主なる一ニを言つて見ると、まづ第一に開場時間の問題が一時喧しかつた。また席の附け込みの問題が喧しかつた。けれどこれ等は到底微々たる問題たるは言ふまでもない。

◯開場時間の問題  については、前にも其當時言つたと記憶するが、かの英國の脚本作者の第一流であるピネロが提議して、從來概して八時開場の十一時乃至十一時三十分閉場といふのを、種々の點から不便不都合と認めて、少くとも一時間繰り上げて開場し十時乃至十時三十分には必ず閉場する事を主張した。これが一時問題になつて、遂に或る劇場では世間の意見を募つて多數決にして見ようとした其結果が、六時から九時迄といふ説が八票、七時から十時といふのが六十二票、七時三十分から十時三十分といふのが百六十四票、八時から十一時迄といふのが三百三十三票、八時半から十一時三十分迄といふのが百〇六票、九時から十一時乃至十二時説が三十ニ票であつた。勿論これは晩の事で、西洋の劇は一週間一ニ度の晝興行の外は必ず夜興行で、時間は三時間乃至三時間半が精々のものである。然して結局此問題は在來の開閉時間に特殊の改正をば齎らさず其儘となつてしまつた。つまり八時開場十一時閉場といふのが多數の風でまた多數に便と認められて居るものらしい。

◯席の附け込みといふ問題  は、これは英吉利劇場の特殊の問題であつて、伯林邊りの劇場では如何なる席でも、殆んど凡て席の番號に由つて札を賣出す、從つて其札さへ持つて行けば何時でも席が空て居るが、英吉利では或る席以上でなければ――所謂レザーヴド、シーツ即ち番號の附いた席はないのであつて、日本の金圓にして一圓ニ三十錢以下の席は、凡て幕の開く三十分か一時間前から木戸を開けて到着順に觀客を入れる、從つて開場前木戸前に人牆を作つて良い席を得ようと立つて待つて居るといふ事になる。此不便を除て如何なる席でも盡く番號札に由つて買ふことにしようといふのが、改良案の動議であつた。これは新しい劇場で多少採用したのもあつたが、最近一ニ年には如何なつたか知らない。次は

◯國立劇場問題  である。これと前から英吉利で喧しい問題は演劇學校問題とで、これは前から英國でやかましい問題である。國立劇場は利弊相半ばすといふやうな反對説もあつて未決また演劇學校は例のツリーなどが率先して始めかけてゐた。是等と關係してかの有名な小説家ゼローム・ケー・ゼロームの提議にかゝる模範劇場といふ問題があつて、これまた捗々しい結果を持ち來たし得なかつたが、茲にゼロームの提案を言つて見ると、英國劇の振はない現状を救ふ爲には是非とも一つの大きな模範劇場を立てなくてはいけない、それは餘り繁華な通路ではない所に設けて費用を減する、そして其劇場は只二部に分かてば宜い、即ち一は舞臺部で、一は觀客席である。そして觀客席はまた從來の如く種々に煩瑣に區別するのを止めて、只一つの大きな觀客席であつて、其席料が場所に由つて等級が付いて居れば宜しい。それは凡て四通り位に分けて、一番廉い所は五十錢位で見られるやうにして置かなければならぬ。而して此劇場に出勤する俳優に拂ふ給料は、マネージャーが一週間二百圓、下ては一番廉い下廻りの俳優が一週間十五圓位までの所であつて、全體は一週間の費用を三千ニ百圓位で上げる。言ふまでもなく當時流行の道具書割で眼を驚かす事は一切此座ではやらない、極く簡短な背景を使つて、餘は觀客の想像に訴へて了ふ。此組織でいけば基本金が十萬圓もあれば澤山である、一萬圓宛出す金持ちが十人あれば成立つ、といふ趣意であつた。ゼロームの此の案が果して原案通りで實行の出來るものか否かは問題であるが、兎に角伯林に在るクライネステアター即ち小劇場といふ名の劇場などの如く、寧ろ小じんまりとした僅に五百か八百の觀客を容れて、而も其觀客が、願くは所謂セレクトフユー即ち少數識者のみであるといふ風にして、茲所で多數觀客には面白く感ぜられまいと思はれる文藝として高い價値があるといふものを演じて見る。また其作が多數の觀客に歡迎せられるか否かはまだ一向解らないとしても、單に新作であるが故に當るか當らないかを氣遣つて普通の興行者が手を出し得ないものを試演して見る。而して旨く行きさうであつたら他の劇演で演じさせるといふ意味で、模範劇場を立てたら極めて有益であらうと思ふのである。次は

◯書割の事である  が、これらは歐羅巴では目下寧ろ獨乙より英吉利の方がずつと寫實の方に突進して居るかと思はれる。尤も獨乙などでも進んで印象派の油畫式な物を其儘書割に使つて見るなどゝいふ事を行つて見るものなどもないではないが、概して英吉利の方が寫實的從つて眞物に近いて居る。そこで或る者は斯樣に書割の寫實的になつて行くのを批難して劇の感興を奪ふものとすらいふが、是非は容易に斷ぜられない、少なくとも尚、暫らくは寫實方面に進んで行くであらう。殊に日本に於いては在來の稚拙不體裁を脱するためのみでも尚多く此方面に進む必要があらう。先年英吉利畫界の耆宿であるアルマ・タデマなどが發起人となつて、主なる書割畫家の爲に會を開いた事がある。其主意とする所は、從來書割畫家は一種特殊な畫家と認められて居た、腕一つで世人が非常な樂みを舞臺の上に與へられて居るに關らず、やゝともすれば美術家たる地位を認められない、故に書割畫家も嚴然たる美術家たるを表彰せんが爲め此會を開くといふ趣意であつた。其時ジョセフ・ハーカーといふ有名な書割畫家の話の一節が一寸おもしろいから引て見ると、書割の進歩は一世紀以來特に著しい、最近に到りてはかのアーヴヰングの此方面に於ける非常な熱心が目覺しい進歩を喚び起した、また近時此書割を進歩せしむる重なる理由は、第一が電燈の發明である、此光は極めて物を細いところまで明瞭と見せる光であつて、其色が眞白で瓦斯の光などの如く赤い柔い所が少もなく、それが爲め少しも眞實に背いた事を書く譯にいかない、これが書割を寫實の方に進歩せしむる理由の一つである。次には畫家自からの間の競爭といふ事が激しくなつて來た、旅興行に出かける一座は近年は皆其書割を携帶して行く便利が出來て來て、これが爲め從來各座に於て座附の書割畫家を抱へて居たのが無用になつて來て、上手な人に頼んで描て貰つて何所へでも持つて行ける是が拙い書割畫家を無くする一の理由となつた。(これは言ふまでもなく西洋の書割はドロップスといつて上から下すやうに出來てゐて捲て仕舞ふ事の出來る大きな布に描くから携帶が自由になつてゐるのである。また昔は此布が高價であつたために、一つの布で其座に畫家を抱へて置て興行毎に塗消して書き更へたものであるが、それが今日では一度描いたものは其儘置て持廻つて利用する便利が開けたのである。)次は

◯俳優の化粧法の事  であるが、これも西洋では專門的科學的に研究工夫するのである。就中白粉の如きでも昔は矢張日本と同じく粉白粉を使つたが、それが近年になつてすつかり油白粉に變つた。これは極く簡短に而かも手際宜く顏の粧られるもであつて、確か下に一寸特殊な白粉下をかけて置ては其上にその油白粉を塗る、そして顏を粧り變へる時にはそれを一寸拭て取れば落ちて了ふ。で粧り變へるに手間がかゝらない。而して斯樣な油白粉が一つの函の中に幾種も色わけをして容れてあつて、恰も水彩畫家の繪具のやうな工合に色の原理に由つて分けて具へてある、殊に素人用などになると其色の配合法まで懇ろに説明してあつて、畫家が種々の色を出すやうに俳優も原理を心得てさへ來れば白粉で色を思ふやうに調合する事が出來る。勿論これは西洋の顏の作り方と日本の顏の作り方と違ふ所もあらうから、一概に今からすぐ日本の粉白粉を廢め西洋の油白粉を使へとは言へない場合もあらうが、西洋のが輕便で而も精妙であるといふ事は事實である。之を日本に應用する工風は一人や二人の專門家が出て研究してもらひたいものだ、それは或る程度以上は藝術であるから到底學んで到る事が出來ない美妙の點もあるとしても、其點に到るまでの所は段取りを付けて科學的に研究して行けば聰明な人ならば譯もなく解る、從つて顏のこしらへ方などいふこともたゞ年所の功を積んでのみ至られる難事業と思つてゐた今までの状態とは變つて來る。凡て日本の物事の行り方が昔のは此欠點を持つて居る、凡てを所謂ルール、オブ、サムでやつて滿足してゐる、知識的に或る程度までは譯もなく到達せられるものまでも、何だか秘傳でもあるかのやうにして、只漫然無秩序に行らなければならぬとするのは大きな間違ひで、踊、音樂などでも或る點までは新方法で容易に到達する事が出來よう、熟練は其以上にあるので、其手數は半分も省けて了ふ。序でにいふが右の油白粉は獨逸の發明であつて、今から二十年許り前頃から頗る行はれたものらしい。

◯終りに  これは私の往つた所ではないが、亞米利加の劇場の事を一ニ「スクリブナーズ、マガ」から引て見ると、紐育で入りのある劇場は一季節ニ三ヶ月位に達する。元來此所の劇場にはストックハウス即ち定劇場とコンビネーションハウス即ち寄合劇場とでもいふべきがあつて、定劇場は一季一座で打通し、寄合劇場は幾組かの俳優が入り代つて打つのである。亞米利加では人も知る如く倫敦巴里邊から盛んに一座を買ひ込んで行くのであるし、從つて歐羅巴の作者及び俳優は亞米利加を一の常得意として、如何なる名優名作者も皆亞米利加に其作や藝を出さないものはない。佛蘭西第一流の作者サルドゥウの如きは自身の事務所を此地に設けて自分の作を演じたいと思ふ者には其所で直接談判をさせる。けれども多數の作者は作の興行権を座主に賣渡し、または委托して置て自分では其衝に當らない。それでこれら亞米利加に於ける作者の所得は中々澤山になるのもあるが、時には甚だ少ない場合もある。普通には凡そ一週間の總上り高百分の五位を作者が得る。飜案劇の場合には興行權料は別に支拂はないのが例である、それで飜案者には幾分かを出すは勿論ではあるが、併し其収入は些細である、これらが飜案劇に碌なものゝない一つの理由であるかも知れない、で稀に一晩五十圓位になる斯種の作者は先づ上等の部と見なければならぬ。かのオペレッテ即ち滑稽オペラなどの作者には却て非常な所得ある場合がある。有名なギルバート、エンド、サリヴァン合名の滑稽オペラ作者の如きはニ萬圓の總報酬といふ申込を斥けて却つて版權料として二萬四千圓を算し得たといふ事である。さて劇を打たんとする場合には座頭が先づ其劇に要する書割、道具、衣裳、音樂及び舞臺幹事の指圖の下に稽古等の次第書を拵らへて、それに依て一々行ふ、書割は、座付きの畫家が居る場合には、皆非常に大きな專門の畫室を具へて居つて其費用も大したもので、有名なものになると一寸したもので二百圓位はかゝるし、五百圓位に及ぶ場合がある、而してこれに種々なものが加つてどうしても一芝居の書割が、少し手の込んだものになると一萬圓内外はかゝる、其外に道具の費用は別である。樂器はそれを作る店の名を大きく打つて其樂器の良い所を廣告する爲めに無代で貸して呉れるものが幾らもある。衣裳は俳優持ちと座持ちとあつて一定して居ない、而し近年オペラグラスの進歩と共に瞞しが利かなくなつて、中には非常な金をかけるものがある。或る滑稽オペラで二十人許りのコーラスの女が悉皆二百圓内外の上衣を着たといふ話もある、また或るコーラスの女には盡く一足十圓程の白の革靴を履かせたといふ話もある。かやうにして衣裳ばかりにニ萬は直ぐにかゝる、勿論寫實劇になると極く粗末な衣裳で濟む場合もある。またステージ、マネージャー即ち舞臺幹事は定劇場では大抵座附に抱へてあるけれども、時としては特別な舞臺幹事が要る場合もある。かやうな時には一週間百五六十圓位づゝの給料を出して一ニヶ月の間稽古の濟むまで抱へて置く。かやうにして良い劇を舞臺に上すまでの費用がニ萬圓か三萬圓位はかゝる。また一座の總頭たるマネージャーの下には、ビジネス、マネージャー即ち事務幹事とステージ、マネージャーたる舞臺幹事とがある。事務幹事は芝居道に所謂フロント即ち幕外の一切の事務を掌り、舞臺幹事はバック即ち一切の事を取扱ふ、而して此兩幹事の下に俳優、事務員、道具方、樂手、電氣係、書割係などいふ種々の機關が附屬するのであるが、普通には興味がない事と思ふから茲所では省略して置かう。(明治三十九年談話筆記)


 

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