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新裝飾美術
前回の記事の中で日本の繪畫が概してデコレーチヴ即ち装飾的であるといふことを一言した。これは勿論内外人共に夙に認めてゐる明白な事實で、我が美術の特徴が尤も此方面にある事も同じく承認せられて居る。日本人の繪はすべて模樣になるといふ事は、西洋人の屡次言ふ所で、是れは一方から言へば貶した意味になり、一方からいへば其模樣的裝飾的の所に特色があるといふ意味にもなる。かの有名な美術史を書いた佛蘭西のリュブケは、日本の美術は自然主義のものでも一種の空想的自然主義になる。といふたと記臆するが、此點が即ち日本の裝飾的美術に異彩を與ふる所以である。例へば同じ燭臺の足を拵へるにも普通の西洋の型で行けば、無意味な一本の棒を立てゝ、それに種々な唐草模樣とか、今日でいへばアールヌーヴォーとか、其他曲線直線の美を絡ませた位の裝飾をするのが關の山である。然るに日本の意匠になると、直ちに燭臺の軸が鷺の立つてゐる形ちになり、蓮の葉の展た形ちになる。即ち裝飾的美術でありながら、一面寫實的美術の精神を取つて、それを或る存在物の形ちに寫し上げてしまふ。其所が即ち裝飾界に於ける一種の自然主義である。これも勿論今日は言ふに及ばず昔の西洋の器具類にでも絶へて無い型とはいへぬが、極めて乏しい、それが日本に於ては尤も多く見るべき裝飾美術の方式である。また啻にかやうな裝飾的自然主義の美術のみならず、其外に出でても日本の裝飾美術には確に一種の特色が發揮せられて居らう。即ち固有の色彩に於て其特色があるのは申すに及ばず、線に於て尤も特殊の點が現はれて來て居る。これは色々な理由もあらうが、一つは例の日本畫從來の特色であつた所の線畫の久しい熟練からして、美術家の所謂線のムーヴメントに一種獨特の造詣があるからであらうと思はれる。で、あるから將來繪畫彫刻などに併せて我工藝的美術、就中裝飾的美術の上には左程骨を折らずして尚十分の新活動を世界の舞臺に演ずる事の出來る理由があると信ずる。今でも隨分大きな店では行つて居るといふ事であるが、尚一歩進めて斯樣な意味での意匠錬磨を專門とする大きな團體の如きものでも組織したら有益であらうと思はれる。たゞ斯やうな場合には、彼の固陋な國粹保存や淺薄な西洋趣味迎合や、俗惡な東西折衷やの以上に立つて大局の上から將來を豫測するだけの見識を持つて仕事をするのが肝腎である。
それで此日本の裝飾的美術といふものが、西洋の装飾的美術に影響した今までの著しい現象の一つは、即ちかのラールヌーヴォー又はアールヌーヴォー即ち新藝術と通稱せられる一種の模樣法である。元來此十九世紀の後半に於る歐羅巴の裝飾美術界には、先づ二つの大きな新勢力があつたと言つて宜しい。其一つは即ち右のアールヌーヴォーで、他の一つは英吉利に於るウヰリヤム[#「ヰ」は小文字]・モーリスの裝飾美術である。で、普通には此アールヌーヴォーは、其名が示して居る如く、佛蘭西を本元にして世界に廣つた新藝術のやうに一寸思はれるが、然しこれには種々説を立てる人があつて、必ずしも然うとはいへない。一八九七年に佛蘭西で、ラール・ヌーヴォーと號して一つの展覽會樣のものが開かれて、デラヱルシュ。ダルペーラー。ダンムースなどいふ美術家等が、始めて室内裝飾器具などの新藝術の發表をしたといはれて居ますが、然し此時の新藝術の中から果して今日の所謂アール・ヌーヴォーの模樣裝飾が、始めて其端を發したのであるか如何かは解らない、私は寧ろ元とケンブリッヂに教授をしてゐたチャールス・ワルドスタイン氏が、三四年前に公にした説の方を確かなものであらうと信ずる。であるから、今左に其の説を參酌して大略を話して見やう。が、全體ならば其前にアール・ヌーヴォー其物の説明をして置くべきであらう。佛蘭西のラ・フヰガロー[#「ヰ」は小文字]の一記者は、曾てこれを呼んで、「ヌーイーエとムートンの骨との美術」即ちうどん菓子と羊肉の骨とを繼ぎ合わせたやうな美術といつたと言ふが、然し今日は日本でも既に廣く行はれてアール・ヌーヴォーといへばあれかと人もうなづくやうになつて居るから略しませう、唯此の一種の裝飾法が、歐羅巴の到る處に瀰滿して居つて、大陸諸國は勿論、英吉利などでも近年特に盛んに行はれて來て居る。或る英吉利人が數年前に言つた事に、大陸に旅行するとホテルの壁も天井も階段の欄干もテーブルの上も床の敷物も盡くクル/\と渦を卷いたやうなアールヌーヴォーであるから目が廻るやうだといつて居ましたが、全く事實其通りである。最近時大陸では既に稍此式が飽かれんとしつゝあるとの説もあるが、それは未だ然し事實の上には現はれてゐないといつてよい。目下に於る裝飾界の最も大なる勢力は矢張これである。それでワルドスタインの曰ふには、歐羅巴就中英吉利の室内裝飾の意匠界に革命を起した所のモーリスの勢力は、矢張それに次で同じやうな革命を起した所のアールヌーヴォーにも及んで居る、アールヌーヴォーはモーリスの裝飾美術と日本の裝飾美術との結合である。と、いつて、そして尚、いはく何も此の美術の元祖を爭ふといふ譯ではないが、想ふにアールヌーヴォーは、本來亞米利加から來つたものらしい。それはかの一八七五年費府で博覽會のあつた時に、諸國の美術が同地に集つた、そこで從來亞米利加に於る陳腐な室内裝飾法に倦きて居た、渠亞米利加の美術家等は其新奇を求むるに熱心な眼をば、英吉利のモーリスの美術に注ぐと同時に、日本の同じい美術に注意して、茲に此二つのものゝ結合を企てゝ、そして出來上つたものが今日のアールヌーヴォーと呼ばれるものゝ萠芽である。そして就中此装飾法をば木彫物なぞに多く試みて見た。で、このアールヌーヴォーの萠芽は漸次發達して來て、かの畫家エリウ・ヴェッダーが有名なヱドワード・フヰツゼロールドの飜案した波斯の詩人オマール・ケーヤムの詩文の挿畫を描くに到つて尤も明らかに、斯樣な流派の起りつゝあつた端緒を示した。而してまた恰度同じ頃に發刊せられた、センチュリー・マガヂーンといふ雜誌の表紙の裝飾が尤も明らかに此式を示して居た。而してアール・ヌーヴォーの模樣法は實に專ら此雜誌の表紙などが媒〓[#「女」+「介」]になつて、歐羅巴大陸へ入り込んだものらしい。それが却て今日では佛蘭西を本家と思ひなされるやうな形勢となった。と、いふのが右のチャールス・ワルドスタインの考證である、然し果して其起元は、亞米利加であるか、將た佛蘭西であるか、これは別問題として、アールヌーヴォーの中に、日本の線のムーヴメントの入つて居る事は、爭ふべからざる事實であると思はれる。序でだから一言して置くが、モーリスといふ人は、知らるゝ通り英吉利の繪畫壇に一新派を立てた所のラファエル前派の鏘々たる一人でロゼッチ。バーンジョーンスなどと双び稱せられ、且詩に於てもロゼッチ等と同じく立派な地位を保つた人である。で本來が意匠專門家で、此人の意匠の脈は寧ろゴシック即ち歐羅巴に於る古來の美術の系統中で尤も男性的な剛健な所を特色とした樣式に屬するもので、此の人が新しい裝飾意匠を案出して、大きな會社を建ゝて、壁紙から窓畫器物の模樣などに到るまであらゆる室内裝飾に新しい趣味を開發しやうと力めた結果、英吉利の裝飾美術は大變化を惹起し、近世の英吉利乃至歐羅巴の室内裝飾の主もなる樣式は遂に此モーリス式に成り了つた。であるから先づ今日の所、就中英吉利の室内裝飾などは、モーリス式か然らずんば頗るハイカラ式になつて、アールヌーヴォーといふ趣きである。其外アールヌーヴォーと離れて、日本趣味といふやうなものも入つて來て居ないではないが、而しそれはまだ歐羅巴に於る裝飾的美術界の一派をなすといふ程の地位には達して居ないのである。將來願はくば其地位に達するの日あらんことをといふのが我等の希望である。(明治三十九年談話筆記)
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